So-net無料ブログ作成
検索選択
前の5件 | -

1453 佃荒崎=横須賀市長井四丁目(神奈川県)和田義盛の地盤だった和田の里から長浜海岸へ出て北へ [岬めぐり]

thukudaarasaki-13.jpg
 佃荒崎を「つくたらしさき」と読むらしい。「だ」「ざ」と濁ることもあるようだが、「つくだあらさき」がつづまったものだろう。またその北側にある小さな漁港は、栗谷浜と書いて「くればま」と読むということも、なずなさんのサイトで知った。
 こういうのは地元に密着している人でないとなかなかわからない。この人の「花の家(神奈川県三浦半島の自然)」サイトは、三浦半島を隅々まで歩き尽くして、その風景の写真動画だけでなく、コースマップの自作からダイヤモンド富士そして半島の花々などなど、まことに内容が充実していて、まったく見上げたものである。個人の制作するサイトで、広告やポイント稼ぎが目的ではないもので、このようにすばらしいものがあるのは、とてもうれしいことだ。敬意を表して紹介させてもらった。
 でんでんむしも昔はサイトを自作していたが、めんどくさくなってより手間の少ないブログに転向してしまった。だが、自作のサイトにはやはりブログではできない魅力もある。
 前に荒崎に来たときに、どうしてここも項目にあげていなかったのだろうと、記憶を辿ってみると、どうもそのときはソレイユの丘から直接海岸に降りようとして降りられなかったので、そのままになっていたのかもしれない。
thukudaarasaki-1.jpg
 今回は、長井の南にある初声町和田でバスを降りて、そこから佃荒崎の南側をみることにした。和田の北で横須賀市は終わり、赤羽根付近からは三浦市になる、
thukudaarasaki-2.jpg
 三浦半島で和田といえば、和田義盛である。三浦大介義明の孫にあたる義盛は、この和田に居を構えて治めていたのでその土地の名を姓として名乗っていたわけで、バス停和田から海側に向かって道路を入るとすぐに鳥居がある。その神社の境内に“和田義盛旧里碑”なる大きな石碑が建っている。また、そこからさらに海に近く寄ったところには、和田氏の拠点であった館城の跡を示す碑が、民家の庭先を削るようにして建っていた。いや、削ったのは民家のほうであろう。
thukudaarasaki-3.jpg
 1213(建暦3)年の和田合戦は、北条義時の専横と挑発に不満をもつ御家人と兵を挙げ立ち上がる。和田勢はよく奮戦し、義時邸、大倉御所、大江広元邸を襲撃し、源実朝も避難しなければならなかった。だが、起請文を反古にした三浦義村の裏切りもあって、由比ヶ浜に敗れる。江ノ電の和田塚は、このときの敗軍の死者を埋葬した地とされている。
thukudaarasaki-4.jpg
 海岸に出たところは、和田長浜海岸という。地元の人は「なはま海岸」と呼んでいると、これもなずなさんのサイトにはあった。長浜の意味だろうが、長さは逗子海岸よりも短い。そのかわり逗子海岸のように、浜のすぐ上を道路が通るようなこともないし、砂浜の幅はこちらのほうがずっと広い。道路から離れているうえに、海岸線は北からも南からもアプローチできないので、人もあまり多くなく穴場であるという。
thukudaarasaki-6.jpg
 長浜の北が佃荒崎、南は「058 黒崎の鼻」である。黒崎の鼻は逆光になって文字通りの黒崎だが、ここも最近ではガイドマップのコースに入っていて、みんなに知られるようになった。
thukudaarasaki-9.jpg
 長浜の北の砂浜で横須賀市と三浦市の境界線を越えるので、三浦市の和田から、佃荒崎へはまた横須賀市に戻る。
 佃荒崎の上はソレイユの丘になっているが、地理院地図の表記は「長井海の手公園」となっていた。“海の手”とは新造語であろうか。
thukudaarasaki-10.jpg
 三浦半島は大きな山も川もあまりない。半島最高点の大楠山が241メートルで、武山200メートル、南部の岩堂山が82メートルと目立つくらいで、あとは凸凹はむろんあるものの、全体的に見れば標高50メートル足らずの台地状になっている。それは、遠くをみた写真でもわかるように、遠目にはテーブル状といってもいいくらいだ。
thukudaarasaki-11.jpg
 その分、海岸からは崖状に立ち上がるところも多く、台地から道が海に降りるところは限られる。海岸線も海のそばを道が通るところは少ない。
thukudaarasaki-15.jpg
 この佃荒崎から荒崎にかけての海岸線は、半島のなかでも貴重ななぎさを歩けるコースなのだ。
 ところが運悪く、このときには佃荒崎を越える道の部分が工事中であった。これではおもしろくないので、予定は変更してなぎさを歩くのはやめた。
thukudaarasaki-12.jpg

▼国土地理院 「地理院地図」
35度11分29.73秒 139度36分31.94秒
thukudaarasakiM-1.jpg
dendenmushi.gif関東地方(2016/11/20 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ
きた!みた!印(40)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:地域

1452 観音鼻=横須賀市佐島一丁目(神奈川県)三浦半島の落穂ひろいと半島南部を主に占める三崎層はここ佐島から始まる [岬めぐり]

kannonhana-1.jpg
 三浦半島はいわば地元なので、岬めぐりを本格的に全国展開する決心をしたときに、まず足元からと始めた経緯がある。その手始めいや足始めが「054 観音崎」(2006/12/01 再訪)だった。しかし、それから数えてももう10年を経過している。
 先日、地質関係でひさしぶりに三浦半島の地理院地図をつぶさに辿ってみていたら、前には項目にあげていなかったところが数か所あることがわかった。前に見落としていたという可能性は低いので、その後地理院地図に岬名が加えられたのだろう。
 加えて、地理院地図にはないが、そう呼ばれているという名前が判明したものもあったので、それらをまとめて、“三浦半島の岬・落穂ひろい”に出かけることにした。
 「観音崎」から始めた第一期についで、第二期三浦半島は「観音鼻」から。この間、およそ10年間で1450項の岬をめぐってきた勘定になる。
kannonhana-4.jpg
 JR横須賀線の逗子駅前の2番のバス停からは、三浦半島西海岸のうち北部へ行く京浜急行のバス路線が数本ある。そのなかに「湘南佐島なぎさの丘」行きの直行便というのがあるので、それに乗って終点まで行く。
 三浦半島は、赤い電車とバスも京浜急行(正式社名は「京浜急行電鉄株式会社」で略称は「京急電鉄」と称しているが、一般には「京浜急行」のほうが通りがいい)の縄張りで、毎度お世話になっている乗客の一人だが、小さくて狭いこの半島エリアでも、バス路線は生活路線のみの視点で線が引かれているらしい。逗子駅から南へ、半島の西海岸を行くバスは、最長でもその半分の位置にある長井までしか行かない。
 ついでのことに電車京浜急行線の三崎口駅まで行けばいいのにと思うが、そうはなっていない。それにも理由はあるのだろう。
 佐島はその長井のもっと逗子寄りの手前で、国道134号線から南西に少しはみ出している出っ張りの一帯を指す地名である。その丘の上に京浜急行が開発して売り出した住宅地の真ん中がその直行バスの終点で、これも京急が自分で開発した住宅団地だから、ムリにでも維持しなければならない路線なのだろう。
 佐島へ行く路線は、ほかにも佐島マリーナ前まで行くのがあるが、それは国道134号線を通るルートで、直行便は途中湘南国際村を経由する独自のルートを走る。混雑する国道は、逗子市内と秋谷と芦名くらいしか通らないが、それでも30分はかかる。
 今回新たに“発見”した観音鼻は、この丘の下で小田和湾に南面している。地名がやたら出てきても、他地域の人にはわかりづらいので、京急電鉄の現地案内所のサイトを紹介してみると、こんな感じ。
keikyuCS-1.jpg
 空撮写真の中央下がなぎさの丘で、その上から海岸線を辿って北へ行くと、芦名、秋谷、そして葉山に入って長者ヶ崎、芝崎、森戸と続き、逗子湾の大崎、鎌倉の稲村ヶ崎、江ノ島、湘南海岸から大磯の高麗山へと富士山の眺めが展開している。
 観音鼻は、なぎさの丘から左へ、漁港の脇でちょこんと緑の小島がくっついたようになっているとこがそうだ。その左上に長く突き出しているのは天神島。それに囲まれた湾内が佐島マリーナの係留地になっている。
kannonhana-6.jpg
 天神島は横須賀市の臨海自然教育園となっていて、ハマユウが自生する北限地となっている。昔ここにきたときにはまだ自然という名が多少は残っていたが、いまでは建物が増え東側は護岸、西側にわずかに自然の海岸が残っている。
 分譲地自体は、いまではもっと家が建っているが、それでも予定通りとはいかないらしく、最近では他のデベロッパーの名前で建売住宅などを売り出しているようだ。
kannonhana-3.jpg
 分譲住宅地から丘を下ったところは、昔から続く古い漁師町の佇まいも感じられ、魚屋さんが朝早くから店を開け、買い出しに来ている人が集まっているといった風景も見られる。
kannonhana-2.jpg
 観音鼻というのは当然ここに観音堂があるからで、その入口には十一面観音があるという看板が立っていた。だが、簡単に拝観できるような雰囲気ではなさそうだ。
kannonhana-5.jpg
 この観音さんの小山いや小島も、海岸線の住宅地の拡大によって、当然のように陸地と一体化していったものとみえる。
kannonhana-7.jpg
 三浦半島の地質は三浦層群と呼ばれ、主に北部は逗子層・池子層で、南部が三崎層と初声層などからなる。素人目には逗子層と三崎層の区別がなかなかつきにくいので困るが、佐島の付近は三崎層の泥岩と砂礫岩が互いに重なりあう地帯の北限だ。
kannonhana-11.jpg

▼国土地理院 「地理院地図」
35度13分20.94秒 139度36分39.66秒
kannonhanaM-1.jpg
dendenmushi.gif関東地方(2016/11/20 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ
きた!みた!印(43)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:地域

1451 ツバクラ岬・女郎ヶ岬=福島町字岩部(北海道)大雨に見舞われて行けなくなってしまった岬 [岬めぐり]

tsubakuram-1.jpg
 小谷石ではなく福島町で泊る計画にしていたのは、福島町が地元のタクシー会社と契約してデマンドバスを運行しているからだった。通常のコミュニティバスとは違い、予約が必要らしい。これが吉岡から岩部までの海岸線を中心に、日に5往復していることがわかったので、宮歌のペンションという名前の民宿へ泊まり、翌朝いちばんの便で岩部まで行くつもりだった。
 それで岩部まで行けば、ツバクラ岬は目の前にあるし、海岸を走るところからマツクラノ岬も見えるだろうという心づもりだった。
matsukuranom-8.jpg
 国道228号線の海側が少し膨らんで、そこには広い砂利を敷き詰めたコンブ干場をもつ家が並んでいて、民宿はその間にある。部屋からは津軽海峡が目の前に広がる。
 この民宿から数百メートル西側の地下を、青函トンネルが通り抜けているはずだ。吉岡は北海道側のトンネル工事の拠点になっていたところで、海峡線と称していた頃には、吉岡海底駅という駅もあったが、通常の旅客の扱いはせず、もっぱら工事用だったと記憶している。これに対して本州側には竜飛海底駅があった。
tsubakuram-2.jpg
 民宿のおばさんに、トンネル工事の頃には宿も大繁盛だったのでは、と水を向けてみると、その頃にはまだ開業していなかったという。民宿ではどこでもありがちなことだが、ここもお仕事で長期滞在するおじさんたちのグループがいた。
 翌朝の朝食時になると雨はほとんど豪雨状態で、道は川になるようなありさまだった。
 やはり岩部までは行ってみたかった、というのは本心だが、この雨ではどうしようもない。いくらか覚悟はしていたとはいえ、かなりの降り方なので、この日の岩部まで行くという予定は変更して、朝のバスを待って木古内へ戻り、早めに東京へ引き上げることにした。幸い、小谷石も前日に終了しているので、もう心残りはない。
 今回の道南と奥尻の岬めぐりは、出だしから函館本線の不通でつまづいて、ずっと計画の変更を重ねてここまできたが、最後もまた大幅な修正である。考えてみれば、JR北海道とJR東日本の乗り放題フリーパスの恩恵は、ほとんど受けてなかったわけだ。
matsukuranom-1.jpg
 頭から雨合羽をかぶり傘をさしてバスを待つ間も、ザンザン降りだったので、写真どころではなかったが、どっちにしても岬などはさっぱり見えなかった。それでも、まだ早朝の雨足がゆるやかだった頃に、宿の窓から撮ってみた。矢越海岸の断崖は、よく見ればぼんやりと影があるかないかという程度だった。
 少し言い訳をしておくと、「でんでんむしの岬めぐり」は、全国の岬をできるだけ網羅したいとは思っているが、決して“制覇”や“踏破”を目的としていない。そのときの状況次第で、行けなかった岬も行けた岬も、それぞれがその岬との縁であったわけで、それを大切にしたいと考えている。
 そんなわけで、ツバクラ岬も、その手前の女郎ヶ岬も、前日の夕方の晴れ間に見た遠望だけでよしとすることになった。
tsubakuram-6.jpg
 ツバクラ岬の西にある岩部の小さな集落は、岩部川の流れる谷間の河口で、少し奥まっているので、斜めに遠くから見たのでは、ほとんどそれは見えない。その手前にトンネルがあるが、漁港はこのトンネルのこちらにあるようだ。
tsubakuram-4.jpg
 女郎ヶ岬も小さなトンネルで抜けているようだが、その場所の特定もむずかしいが、岩場があるあたりだろうか。その左手に三角の岩島が目立っているが、これは日出の白糸の滝付近で、このあたりの海岸には覆道がいくつも連なっている。それらも、翌日は雨のなかでなにも見えなくなっていた。
tsubakuram-8.jpg
 宮歌の氏子沢のバス停から、松前と函館を結ぶバスに乗り込んで、カッパを脱いでリュックにしまい傘を畳んで、やれやれと一息つく。木古内までは55分もかかる。この松前半島の先をめぐっている国道228号線を走るバス路線は、旧松前線の代替でもあったが、線路がなくなったのは1988(昭和63)年。だからもう全線廃止からも久しいので、かつては鉄道が通っていたことも遠い昔で、今ではもう誰も代替などという意識もあるまい。
 ともかく、いちおうこれで今回も積み残しになった檜山・島牧地区の一部を除いて、曲りなりにも道南の岬めぐりは終わる。
tsubakuramM-2.jpg

▼国土地理院 「地理院地図」
41度30分24.40秒 140度20分47.33秒
tsubakuramM-1.jpg
dendenmushi.gif北海道地方(2016/09/05〜06 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ
タグ:北海道
きた!みた!印(37)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:地域

1450 マツクラノ岬=松前郡福島町字岩部(北海道)小谷石から岩部までおよそ10キロ弱くらい断崖の無人の海岸線 [岬めぐり]

matsukuranom-7.jpg
 前項の矢越岬は、北東側の小谷石からの眺め、つまり知内町の領域だけだったが、南西側の福島町からの遠望も最後につけていた。
 矢越の白い灯台が見えるのはこれだけだ。といっても、それは写真を拡大してみてはじめてわかるのであって、なにしろ15キロも離れているのだから、よーく見ると白いものが…という程度だから、見えないというわけではないものの、肉眼でも見えると言い張るにはちょっと苦しい。
matsukuranom-5.jpg
 矢越岬灯台の点灯は1957(昭和32)年で、海面からは96メートルのところにある。ここに灯台を建てるために、小谷石から山の中を電柱を立てケーブルを引いた。あれっ! そういえば、地理院地図には矢越岬灯台のマークが付いていませんね。この付近では白神岬灯台に次ぐ、重要灯台のように思えるのだが…。
 この灯台とマツクラノ岬の写真は、その日のうちに小谷石から知内出張所のバス停に引き返し、そこから松前に行くバスに乗り換えて、福島の海岸に降りたときに撮ったものだ。このときには、小谷石で今にも降り出しそうだった天気が、ほんの少しの間だけ晴れ、沈む夕日が照らす矢越海岸を浮かび上がらせていた。これはまさに奇跡的であった。
matsukuranom-4.jpg
 というのも、その宵の口から雨が降り出し、翌日は豪雨のようになってしまい、二度とこの景色も見えなかったからだ。
 福島町は、本州の地名を冠した町のひとつで、福島出身者が多く移り住んだからだろう。こういう例は北海道にはいくつもある。札幌と千歳の間にある北広島などはそういう町のうちでは大きいほうだろう。その町には「◯◯カープ」と付く名前の少年野球チームが8つもあるという。
matsukuranom-6.jpg
 福島町には、横綱千代の山・千代の富士記念館があるし、青函トンネル記念館がある。いずれも町立。予定を変更したので、時間調節のために降りて見学しようと思ったら、どちらも休館日であった。
 ついていないときはしかたがないもので、マツクラノ岬へも翌日にコミュニティバスのようなもので岩部まで行くつもりだった。その道中の海岸線からは、もう少し近くからマツクラノ岬を望むことができるはずであった。
matsukuranom-3.jpg
 それがダメになったので、マツクラノ岬もこの次のツバクラ岬も、このほんの僅かな間だけ弱い夕日に薄ぼんやりと浮かびあがった遠望だけになってしまった。
 したがって、だいたいのところしかわからないが、まあいたしかたない。
matsukuranom-4.jpg
 矢越岬の西2.6キロのところにあるマツクラノ岬は、南西寄りから眺めると少し左寄りという位置にあたる。
 山むこうの知内町との境界になる尾根が、左手に高く伸びていく。その下の海岸線は断崖がむき出しになっているのがわかるが、どこが沢なのかまではわからない。
 地理院地図では、矢越岬の西にはツヅラ沢川と船隠の川、タタミの川が記されている。このうち船隠の川が流れ下るところに船隠島があり、その河口左岸の端がマツクラノ岬となっている。
 船隠の川は狭い谷を流れているようで平地はないが、矢越岬寄りのツヅラ沢川の河口付近はほんのちょっとだけ開けている。そこは船着場用に四角く掘られたような形跡もあるのだが、ここには戦後の一時期には樺太からの引揚者の集落があったのだという。
 なんでこんなところに…と思いをめぐらせていくと、引き揚げてきた人をすぐに受け入れるような態勢は、その当時に整っているはずもなく、仮設住宅もなかっただろう。
 引き揚げてきても、そこは見知らぬ土地。しかたなく、誰も見向きもしないような場所を見つけて住もうとしたと考えると、哀しくて胸が詰まる。千島列島の国後島からの引揚者が、奥尻島でいちばん辺鄙な神威脇に移住したというのと合わせて…。
 (誰ですか、お先マックラ…なんてダジャレでまとめようというのは…。でもね、そうでもしないとなんか気分も晴れませんしね。)
matsukuranom-2.jpg

▼国土地理院 「地理院地図」
41度30分54.25秒 140度22分36.48秒
matsukuranomM-3.jpg
dendenmushi.gif北海道地方(2016/09/05〜06 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ
タグ:北海道
きた!みた!印(39)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:地域

1449 矢越岬=知内町字小谷石・福島町字岩部(北海道)郡と町との境界線にある岬の周辺はちょっとした秘境のようだが… [岬めぐり]

yagosimisaki-1.jpg
 矢越岬はなかなかの景観といってよい。小谷石からクルーズ船も出ているらしいし、最近ではテレビでも何度か取り上げられているようだ。なので、船で行けばもっとそのそばから、形のよい岩の岬の上に神社の鳥居や灯台がのっかっているのが見えるのだろう。
 こちらは、小谷石の無名岬からの遠望のみである。そのクルーズ船から見た写真などは、たくさんネットにあるので、そちらを参照してくだされ。
ikarikaijimaM-2.jpg
 木古内を出るお昼すぎにはまだ晴れていたお天気も、バスで南に下るうちにどんどん雲が出て広がり、小谷石ではすっかり薄暗くなるほど怪しくなってきた。
yagosimisaki-2.jpg
 怪しいといえば、古い昔の記録もかなり怪しい。「知内町史」の年表は『大野土佐日記』のほかにも『北海道巡回紀行』や『松前落穂集』などいくつかの記述を抽出して併記してあるのだが、それぞれの史料でずいぶん違いがある。
 たとえば、荒木大学の没年は、前項では『大野土佐日記』によって1260(文応元)年の蝦夷蜂起によるとしていた。ところが、年表では“建長年間(文応より前です)”の蝦夷蜂起で「荒木大学頭及ヒ官吏等皆殺サレ」という『北海道巡回紀行』の記述や、1428(正長元)年の蝦夷蜂起のため「荒木大学が討ち死にした」という『松前落穂集』の記録が並べられている。
 つまり、この「知内町史」の年表のうえでは、荒木さんは都合3回死んでいることになるのだ。
 古い怪しい資料の見方・扱い方はなかなかね、悩ましくむつかしいところです。
 それに負けず劣らず怪しいのが、もちろんネット情報ですね。
yagosimisaki-3.jpg
 “矢越”という名前からはまあだいたい想像できる状況はあるのだが、念のために探ってみると、「コトバンク」の「矢越岬」の項には、“日本大百科全書(ニッポニカ)の解説”として、“江戸時代に幕臣荒木大学が武運長久を祈って放った矢が大岩に突き刺さり、そこを矢越と名づけたという伝説がある”と、堂々と書いている。
 ヤヤヤ!?…ですよね、これは。あるいは同名異人がいたのかもしれないけど、ここでいう荒木大学は鎌倉時代の話で、江戸時代じゃないし幕臣でもない。いろんな情報がこんがらがっているのを、適当につなぎ合わせた結果そんな解説ができてしまったようだ。「コトバンク」も「日本大百科全書」もあまり信用ならんということですかね。
yagosimisaki-4.jpg
 伝説と言えば、ここにも義経伝説はある。伝説は伝説という見本のように話はいろいろで、ひとつは“東北から逃れてきた義経が、この岬にいた妖怪に矢を放って追い払った”というもので、またひとつは“この岬周辺で大荒れの天候に見舞われ、岬に向けて矢を放ったところ、岬を越えて矢が飛んでいき、天候が回復した”というもの。
 まあ、どちらでもお好きなほうを…。
yagosimisaki-5.jpg
 ほかに矢越について知内町史の年表に出てくるのは、1655(明暦元)年に“松前藩の家老蛎崎広林が矢越八幡宮を建立し弓矢を奉納。[祭神記・社掌大野重教]”とある。
 知内町のサイトでもこれを補足して、“松前家老蛎崎光林が、蝦夷蜂起による出征の際、武運長久を祈願して建立し、弓矢を奉納したと伝えられている神社で、ここより南西に見える矢越岬におかれています。”としている。ここでいう「ここ」とは、でんでんむしが矢越岬を眺めている小谷石の無名岬と同じ場所のよう(集落からは見えないので)である。
 音が同じなのでどこかで違ったのだろうが、“広”か“光”か、どっちが正しいんでしょうね。古い資料には写し間違い書き間違いも多いので、まあどうでもいいんだけど。
 知内町史の年表には、もうひとつ矢越について別の記述がある。
 1205(元久2)年の項に、“七月廿三日海上安全にして當國矢越迄無着於此處為武運長久の矢二筋さし上る…」[大野土佐日記]”とあるのだが、主語が欠落しているのでピンとこない。年号から見ると荒木大学が上陸したときのことらしいが、このときとするとその前には“舟漂流に及び、日久しくやらで、舟中の水相切らし…”という記述があるので、とても海上安全どころではなく、どうもわからない。
yagosimisaki-6.jpg
 和人の感覚で矢越の漢字を当てはめたのは、後からのことであろう。別の情報によると、“矢越”は、アイヌ語で「ヤクシイ(内陸を通るところ)」が語源だという。矢とも弓とも関係がない。その音で「ヤクシイ」が「ヤコシ」に聞こえたとしてもおかしくはない。どうやらヤクシイに矢越という字と読みを当てたことから、矢に関した話が創造されたとみて間違いあるまい。
 では、アイヌ語の意味がわかれば納得かというと、多くの場合これがまた簡単にそうはいかないのでヤヤコシイ。
 ただ、この場合の(内陸を通るところ)というのは、海岸を通ることができないから…という意味なのだろうか。そうであれば、確かにそのとおりでわかりやすいし、納得もできるのだが…。
nagaisomisakiM-10.jpg
 確かに、道路も新幹線もここを避けるようにして内陸を通っている。上磯郡知内町と松前郡福島町の境界線となる尾根が下る大きな山塊が、人を寄せつけない。断崖絶壁が連続している海からもまた、人が入り込むのは容易ではない。
 だがまた、そういうところへ入り込んで、八幡宮を建てようとした人も、この岬の上に灯台をつくろうとする人間の努力も、まことにたいしたご苦労なことである。
 1845(弘化2)年に矢越岬を踏査した松浦武四郎という人は、幕末から明治にかけて蝦夷地調査に活躍した。われわれがなにげに使っている「北海道」の名は、実はこの人が考え名付けたもので、自らの号も「北海道人」と称していた。
 1957年に点灯した矢越岬灯台は、小谷石の側からでは見えないが、反対側の南からだと遠望でも白くはっきりと見える。しかしまあ、すごいところに建てましたねえ、この灯台。
yagosimisaki-7.jpg

▼国土地理院 「地理院地図」
41度31分2.17秒 140度24分31.85秒 41度31分0.73秒 140度24分29.61秒
yagosimisakiM-1.jpg
dendenmushi.gif北海道地方(2016/09/05 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ
きた!みた!印(42)  コメント(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:地域
前の5件 | -