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1406 鴎ヶ崎=敦賀市金ヶ崎町(福井県)杉原千畝や信長とともに名だけは周囲をすっかり埋め立てられてもかろうじて… [岬めぐり]

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 敦賀港は湾奥の東にあり、そこは天筒山の山塊が171メートルと標高は低い割に、大きな存在感を持って敦賀市外の東を仕切っている。天筒山から西に小さく張り出した尾根が金ヶ崎の山で、その尾根の南に金ヶ崎宮や北に金ヶ崎城の城跡などがある。鴎ヶ崎は、この金ヶ崎の山の西に端に、ちょっと膨らんでいるところである。
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 けなげにも、今も岬の名は残っているが、実情は周囲がすべて埋め立てられ、敦賀港の北岸壁からさらに西に広い造成地が続いていて、もはや岬としての実態もイメージもすっかり失なわれている。海からは遠くなってしまった小山の尾根の先っちょで、今もその名が消えることなく保存されている理由はわからない。
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 だが、かつてはこの岬が、敦賀港のシンボルのようになっていたはずだ。
 今はもうないのだが、敦賀駅から北陸本線と分かれて北へ伸びる線路があった。その線路が天筒山の西麓に沿うようにして金ヶ崎に伸びていき、鴎ヶ崎の下で何本もの引き込み線レールが分かれていた。
 そこに着いた貨車や列車に、すぐ南の敦賀港の岸壁に横付けした船から荷物や人が激しく行き交っていたときもあったのだ。
 それは、現在の地理院地図上には残っている(前から気にはなっていたけれどもwebの地理院地図はかなりデータが古い?)が、現実にはもうそんなものはない。だが、それを消し去るときには、どうも鴎ヶ崎の名もついでに消されてしまいそうな予感がする。
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 ここに貨物列車が入ってこなくなったのは、2009(平成21)年のことである。それからは“敦賀港オフレールステーション”と名前だけはかっこつけたが、トラックで運ぶコンテナ便を扱うだけだ。
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 第二次大戦中、リトアニア領事代理だった杉原千畝が発給した「命のビザ」の話は、ずいぶん昔になにかの本で読んでいたが、ここ近年になって本はバタバタとたくさん出るわ、デレビではドキュメンタリからドラマ化までして、“日本のシンドラー”はちょっとしたブームをつくっていた。
 それは、大戦中のできごとで日本人が胸を張ることができる、数少ない事例のひとつ(ほかになにがあったっけ? すぐに思いつかない)だったからだろう。
 だが、それにしても、それまではほとんど無視に近い状態だったのが、ここへきて急に盛り上がっている感じがするのはなぜだろう。
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 杉原千畝がいたリトアニアのカナウスからペテルブルグまでは、約550キロ。彼のお陰でビザを手にし、シベリア鉄道に揺られてはるばる極東のウラジオストクまでやってきて、そこから船で日本海を縦断し、ついに“東洋の波止場”敦賀へ上陸したユダヤ人難民の数は、1940年から1941年にかけて約6000人だったという。
 鴎ヶ崎の手前、コンテナヤードの手前、公園の一角には三角屋根の建物がある。そこはそれを記念した、“人道の港 敦賀ムゼウム”(ムゼウムはポーランド語で資料館や博物館の意)である。このムゼウムが開館したのも2008年だから、歴史的にはつい最近といってもいいことなのだ。
 この日はやたら暑い日で、とても炎天下をウロウロする気にもなれなかったので、これも遠望のみ。
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 田結崎から鴎ヶ崎は、1.7キロ南に下ったところになるが、その間には火力発電所のほかに敦賀セメントの工場もある。天筒山の北側は、石灰岩の山である。その下を国道8号線は上り下りに分かれて4つのトンネルで通り抜けている。
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 琵琶湖のところでふれたのは、撤退ルートについてだけだったが、1570(元亀元)年の金ヶ崎の戦いでは、信長の軍勢は、朝倉勢の金ヶ崎城を攻め、その城攻め自体にはほぼ成功していたにもかかわらず、ここから撤退を余儀なくされることになる。単なる撤退ではなく、後に“金ヶ崎の退き口”とか、“金ヶ崎崩れ”とも呼ばれるように、敵方を追撃をかわしながらの命からがらの撤退となったのは、北から朝倉、南から浅井の挟み撃ちにあう危難にさらされることになったからだ。
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 信長の戦でも少ない負け戦的要素が多分にあったため、とくに語られるフシもあるが、信長自身これが相当悔しかったらしいことは、幾多のドラマなどで取り上げられてきたその後に続く挿話によっても想像がつく。
 このとき、挟み撃ちの危難を豆を小さな袋に詰めるという暗号(なぞかけ)でいち早く信長に知らせたのは、浅井長政に嫁いでいた妹のお市の方だという話も、ドラマでは好んで使われるが、この情報源(史料)は朝倉側にしか伝わっていないのだという。とすると、朝倉側が惜しい勝利をのがしたのは自分たちのせいではなく、情報漏れにあったからだと弁護するためのつくり話とも考えられる。
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 琵琶湖のところでも、この撤退戦の殿軍(しんがり)を、このときはまだ木下藤吉郎だった秀吉と家康が務めたと書いていたのだが、どうも家康にそんな危険なむずかしい任務を与えるだろうか、という疑問は大きい。務めたとしてもそれは名目で、追撃の表面にたって殿軍の損でむずかしい役はやはり秀吉だったのだろう。
 しかしまあ、いろいろありますが、とにかく(なにがとにかくじゃ)敦賀といえば、気比神社と気比の松原ですよね。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度39分51.81秒 136度4分23.08秒
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1405 田結崎=敦賀市鞠山(福井県)そもそもの敦賀と『大敦賀行進曲』が歌われた時代の敦賀港に思いをはせてみる [岬めぐり]

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 江良の南の赤崎は、字地名で岬はないので、その南の田結(たい)から西にぽこぽこと連続する尾根の先、鞠山というところに小山がふたつある。鞠のように丸い山という意味だろうか。
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 西の小山の先に、田結崎という名が付いているが、この岬の西側と南側がしっかり埋め立てられている。その南側は敦賀火力発電所の広大な敷地になっていて、田結崎から西へはまっすぐな長い防波堤が、その内側にフェリー発着所を囲っている。
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 ここから出るフェリーは、どこへ行くのだろうか。現在は、新日本海フェリーの、舞鶴・敦賀から新潟・北海道を結ぶ航路が発着している。taizaki-5.jpg
 日本海側でこれだけの地理的条件に恵まれた港があれば、それは当然北前船の往来発着も盛んであっただろう。もっと言えば、海は外へ開かれた通路であり、港は出入口であるから、日本海側で京阪にも近い敦賀が、古から幾多の変遷を経ながらも、常に半島や大陸との船による往来が続いてきたことは、動かしがたい事実である。
 そもそも、「敦賀・つるが」という名前からして、もとは角鹿(つぬか)というこの地域の古名からきていたというのは、昔は広く認識されていた。
     ふるき名の 角鹿や恋し 秋の月    芭蕉
 「日本書紀」にはツヌガアラシト(都怒我阿羅斯等)という人物が海を渡ってこの地にきたとされ、「古事記」にも“意富加羅国”の王子である都怒我阿羅斯等が“笥飯(けひ)浦”に来着したが、その額に角があったのでこの地を角鹿と称した、というような記述があるという。これらは応神天皇と結びつき、気比神社の祭神ともされている。
 そして、律令体制に組み込まれたときに、“畿内七道の諸国郡郷の名は好字をつけるようにせよ”ということになり、そこで初めて「敦賀郡」が登場した。
 この地が古代日本史のなかで、ことさら脚光を浴びることは少ないが、敦賀湾の東西両岸と市街地が山に行き当たる南部東部の山には、数多くの古墳群があることからも、一大勢力がここにあったことを示している。
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 “東洋の波止場”も、大元から質せば、渡来人にも行き着くわけだが、もっとずっと近いところに戻してみると、北前船の後でやってきた明治という新しい時代の到来とともに、近代の芽生えが胎動し始め、敦賀は港を中心に活発な活動を始めることになる。その経緯を、前出の「敦賀の歴史」サイトなどを参考に、キモだけあらあら抽出して理解してみよう。
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 まずは、巨大な山塊によって隔てられている福井県内の嶺北と嶺南を結ぶというニーズが先行して、敦賀=三国航路が開設(明8)され、続いて北前船と同じく北海道航路が定期便として運航(明9)され、長浜から敦賀までの鉄道の敷設(明17)によって、敦賀は船から鉄道へ、鉄道から船への積み替え集積地として大いに発展する。
 やはり船による物資の輸送というのは、一時に大量に安く運べるという点で、昔も今もそのメリットに変わりはなく、敦賀の海運事業も、その地の利を活かして近海航路も拡充されていく。
 ところが、鉄道がトンネルとスイッチバックで峠を越え、福井へ金沢へと延伸されることになると、たいそうな港湾施設がいらなくて小回りのきく貨車輸送のほうがより便利ということになる。そうなると、北陸線からは盲腸のように引き込み線を通って敦賀港まで行く必要がなくなり、敦賀は通過して流れていくことになってしまう。
 各地で歓迎される鉄道は容赦なくどんどん伸びていき、北陸線が富山まで開通(明32)すると、日本海側の北海道を含む新潟以北からの荷物は、富山の伏木港まで船できても、そこからは貨車に積み替えられて運ばれるということになり、ついに北前船の伝統とメリットも諦めなければならなくなる。
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 そして、いよいよ敦賀の海運が衰退する道がはっきりして、敦賀港が選んだのは、“国際港”としての可能性に活路を見出そうとするものだった。
 つまり、“東洋の波止場”、“異国の星の下”、“国際列車”、“青い眸”といったことばを詰め込んだ『大敦賀行進曲』の歌詞は、それに合わせたものだったわけである。
 日露戦争後は、敦賀=ウラジオストック間に定期航路が開設(明40)されて、シベリア鉄道を経て欧州へもつながる国際貿易港となる。
 そして、さらにこの欧州へのルートは敦賀から東京へ伸び、東京=敦賀=ウラジオストック=ペテルブルグというルートで、船と連絡列車で日本海を渡り、大陸縦断して欧州と結ぶ、日本では初めてのボート・トレインの長大なラインが完成(明45)するのである。だから、“花の東京へ一走り”で、『大敦賀行進曲』の歌詞は終わるわけだ。
 でね、その頃の敦賀港の岸壁は、次の岬のあるところで、ここじゃないんですね。このもっと奥。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度40分45.53秒 136度4分34.20秒
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1404 松ヶ崎=敦賀市江良(福井県)ここから南が“西へ行こうか東へ行こうか港敦賀は東洋の波止場…”の敦賀港 [岬めぐり]

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 国道8号線を南下するバスは、敦賀半島と敦賀湾を西にして、東浦をつなぎながら敦賀市街へ近づいて行く。杉津PAから見えるのは、日本海というより敦賀湾の湾口に過ぎないと水を差していたが、ここらでその地理的関係をおさらいしておく必要もあるだろう。
 敦賀湾というのは、もっと視点を高くしてみると、若狭湾という日本海に大きく開かれた湾の、東の端で狹いが深く凹んでいるところだ。つまり、大きな若狭湾の中の小さな湾のひとつ、というわけである。こういう状態を指す専門用語で“支湾”という言い方もあるらしい。地理院地図の表記では、若狭湾の文字よりも支湾の敦賀湾の文字のほうが大きく太いが、これは別に意図的なものではあるまい。
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 そのメインの若狭湾は、東の越前岬から西の経ヶ岬まで、70.5キロの湾口をもつ大きな湾である。このなかでは、東から立石岬、常神岬、獅子ヶ崎、鋸崎、成生岬、博変岬…などなど、たくさんの岬もある小さな出っ張りが、ちょこちょこと刻まれていて、多くの入江や港もつくっている。
 その港のうちでは、漁港を別にすれば、この東の敦賀湾の敦賀港と、西の舞鶴湾の舞鶴港が、日本海側の重要港に数えあげられる。
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 敦賀湾は、元比田から敦賀半島先端部の立石岬まで7.4キロ、湾の奥行き南北の距離は12キロと深い湾で、この松ヶ崎と対岸の敦賀半島鷲崎の間は3.15キロと狭まっている。
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 松ヶ崎そのものは、湾岸のCカーブでちょっと岩礁が出張っているところで、名前から想像すればかつては松の木が何本か茂っていたのかもしれない。それをホーフツとさせるように岩礁の上には立木が枯れているが、これは松なのだろうか、よくわからない。
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 めんどくさいことをあえて言えば、湾の中に港はあるわけで、湾=港ではない。この縦に長く深く入り込んだ敦賀湾のなかで、敦賀港の範囲はちゃんと厳密に定められているようだ。
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 敦賀港は、敦賀半島の明神崎(これが立石岬ではないところが、なんともいえないお役所流の加減というものか)から、斜めに線引して松ヶ崎とを結んだ直線を引き、その線よりも南西側を、その範囲としている。(もっと古い時代にはこの線引きはもう少し南で斜めではなく、松ヶ崎の1.7キロ南の赤崎の対岸にあたる小崎の間に横線で引かれていたようだ。)
 松ヶ崎は、敦賀港の東で港内と港外を分ける目印だったのだ。
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 といっても、現実の問題として、港の内か外かを問わなければならないようなことで、どんなことが予想されるのか、それは陸の上からではあまり具体的に思いつかない。
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 だが、いろいろ想像をめぐらしながら情報をたぐっていくと、舞鶴港とはまた別の違う道を歩んできた敦賀港の姿も、だんだんと見えてくるのだ。
 そんな情報のなかで、「敦賀の歴史」というサイトにめぐりあった。これは燻製作り・魚干物作りなどを趣味とする敦賀市在住の管理人氏個人の制作ながら、なかなかよくまとめられていて、しかも手の込んだ中身も濃いサイトであった。
 そのなかの「戦前 敦賀港」というページの冒頭には、1936((昭和11)年の伊藤久男の歌で、作詞:高橋掬太郎、作曲:古関祐而による『大敦賀行進曲』の歌詞の一部が掲げられていた。
 当時の一流どころをスタッフに揃えてつくられたこの歌は、全国的に流行ったというわけでもなく、なにかの記念イベントの一環として、予算をかけたいわゆるご当地ソングの大きな仕掛けによるものだと推察できる。

1 西へ行こうか 東へ行こうか
  港敦賀は 東洋の波止場
  名残り惜しめば テープもぬれて
  明日は異国の 星の下
  
5 誰と乗りましょ 国際列車
  遠い波路を はるばる着いて
  青い眸の あこがれ乗せて
  花の東京へ 一走り
            (1936年 『大敦賀行進曲』詞 高橋掬太郎)
 
 そのサイトでもここだけ抜粋されていたが、その1番と5番の歌詞は、こんな具合である。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度42分15.87秒 136度4分46.71秒
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dendenmushi.gif北越地方(2016/07/18 訪問)

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1403 黒崎=敦賀市阿曽(福井県)大きな黒い石というより岩がつくる岬はトンネルと洞門で通り抜ける [岬めぐり]

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 「青の洞門」ではないが、古い時代のトンネルは当然ながらみな手掘りであったから、石壁が掘り跡をそのままに残り、入口の部分だけが石積みであった。明治の頃に鉄道が日本全国に伸び始めたときにも、そうして多くのトンネルが掘られてきた。岡崎や黒崎の東に連綿として凸凹と続く山地は、そうしたトンネルと線路が難工事の末にたくさん掘られ敷かれてきたので、現在もその一部が廃線廃道になったまま残っているようだ。
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 廃線ブームは、鉄オタのなかではいまや堂々たる一カテゴリを成しているらしくて、最近ポット出で流行りの廃墟ブームなどと一緒にされては心外だと、マニアからは苦情がありそうだが、この付近のそうした廃線・廃墟・廃トンネルを探索して、ブログなどを書いている人がいっぱいいるのには驚く。
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 こちらはそういう趣味ではないので、さらりと通り過ぎたいところだが、前項で北陸自動車道の尼御前岬SAについてふれていたので、それつながりで岡崎の東、扇状地の上にある杉津PAについてもちょっとだけ。
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 ここらは上り車線と下り車線がそれぞれ別の道路になっていて、それも旧北陸線の跡を踏襲したからであろう。ここは日本海(実際は湾口)の眺めが良いとかで人気らしく、もういいかげんにしてもらいたい例の“恋人たちの聖地”とやらの触れ込みで、仕掛け屋のものまねの思惑にヤスヤスと動かされるバカップル(とかいっちゃあいけないかね)がつけた鍵がぶら下がっている場所もあるという。(この岬めぐりでも「111 鴎ヶ鼻(恋人岬)=柏崎市大字青海川」と、「114 恋人岬=伊豆市小下田」があった。)
 この杉津PAも、昔の北陸線の駅があった場所だという。その北が北陸自動車道の敦賀トンネルで、南には葉原トンネルがやはり上りと下りと別々に二本通っている。地理院地図でみるとその間にもう一本のトンネルが破線で示され、葉原隧道という名も付してある。どうやら、これが今に残る旧北陸線の遺跡の一部であるらしい。
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 葉原トンネルの山からちょっとはみ出た237メートルで無名の山が、黒崎のある山である。同じ黒崎でも、黒い礫岩の「1399 黒崎」とは違い、ここのは黒い大きな塊の岩で岬が、いやこの山全体ができている。山の西の端ではとくに岩の塊が海に飛び出て残り、これに黒崎と名がついたものだろう。
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 当然に黒崎も、国道8号線はトンネルで越えなければならない。そうそう、国道8号線はね、杉津の北付近でしおかぜラインと合流しているのです。だから、この先敦賀までは国8の一本道なのです。
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 明治の初めにできた黒崎トンネルの長さは、112メートルしかないのだが、その前後、北と南に続いている洞門(覆道)を勘定に入れると、トンネルの長さは690メートルに伸びる。
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 いにしえの北陸道は、山中峠ルートで敦賀へ至るルートをとっていたので、黒崎の北側にある、杉津(すいつ)や阿曽(あぞ)、南側に続く拳野(あげの)五幡(いつはた)江良(えら)といった集落は、古い昔からの長くきつい北陸道の旅のなかで、ほっとできるような場所だったのではないか。今も海水浴場がいくつもつながっていて、なかには砂浜まで車を乗り入れできるところもあるようだ。
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 あれっ! そうすると、その昔の北陸道では、黒崎はどのようにして越えていたんでしょうね? (大疑問発生膨張中。困ったな、ヘンなことに気がついてしまったが、答えの詮索はとりあえず保留。)
 平安時代になると、もっと内陸の木ノ芽峠越えのルートが開かれ、それが現在の国道476号線に引き継がれている。
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 いっぽう、鉄道のほうは、1962(昭和37)年に北陸トンネルが開通するまでは、今の北陸自動車道のルートで、トンネルがなんと12、スイッチバックも4つもあるという難所だった。北陸トンネルの開通時には、記念切手が出たのでよく覚えている。この記念切手、間違いだらけだというので、鉄オタからは厳しい指摘があった。
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 黒崎の東南東、5.10キロのところで、北東向きに山の中を通り抜けている総延長13,870メートルの北陸トンネルは、開通から10年間、山陽新幹線で六甲トンネルができるまでは日本最長だった。
 越前のことを「越の国=こしのくに」というのは、あるいは都から敦賀を経て北東へ進もうとするときには、厳しい山地を越えなければならなかったから…なのだろうか。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度42分59.40秒 136度5分30.13秒
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1402 岡崎=敦賀市杉津(福井県)3本の道路が接近して通る元比田が立石岬と敦賀湾の湾口を形成しその南の陸継島がここ [岬めぐり]

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 越前町の米ノから南東に、南越前町の糠、甲楽城、今泉、河野、大谷と続く断崖の海岸線は、シロウト目にも大断層っぽくうつるが、こういう険峻な地形は、当然人を寄せつけない。集落も小さくまばらで、平地もない。その海岸線を走る道路は“越前河野しおかぜライン”という名もあるらしい。
 南から眺める遠くの山の右で、岡崎と重なるくらいのところがアマゴゼ山(400メートル)であろうが、写真で山の名と位置を特定するのもなかなかむずかしい。右端の高く見える山は山中峠付近の495メートルのピークではないだろうか。アマゴゼ山の南で、海岸を走る道路と分かれた国道8号線は、北東に向いて山の中に入っていく。
 アマゴゼ山という名も、義経の奥州への逃避行の伝説によるものだろうが、ここでどういう謂れがあるのか、これがさっぱりわからない。加賀の尼御前岬についての項目を書いたのは、2011年の秋だった。その頃にはわずかしかなかったこの岬に関する項目も、今ではゴマンと検索で出てくるようになっているが、内容に乏しい事実は変わらない。そこでは、その岬名も“あまごぜんみさき”ではなくて、“あまごぜみさき”というべきだろうと、例によって余計な感想を書いていたが、ここへ来てこの山の名でその言い分にも裏付けができたようだ。
 その南へ向かう道路が大谷を過ぎると、南越前町と敦賀市の境界を越える。そして、敦賀に入ったところが元比田で、バスの終点であるここまでやってきたのは、大きく出っ張っていて道路からは少し遠い岡崎を、車窓から南北両方から眺めるためであった。
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 敦賀駅前から元比田に向かって北上するバスの前方に、岡崎が姿を現す。それは、ほとんど島のように見える。やはり、陸継島のようで、杉津(すいづ)の集落のところが砂州になり、東の尾根とつながって、その北側にある扇状地から西に広く平地をつくり抱え込んだ。
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 そうしてできた岡(陸)の先が、岡崎なのだろう。岬の先端には、冠岩という岩礁が頭を出している。
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 その岡崎と冠岩の向こうに、大きな山塊が横たわっているが、その西(左)の先端が、前項の干飯崎である。干飯崎から岡崎までは、直線距離で18.55キロ。
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 この長くて凸凹のほとんどない海岸線を下る国道305号線は、南越前町大谷で終わっていて、そこから南にしおかぜラインとの関係が微妙な県道204号線が並び、さらにその内側を国道8号線が走る。元比田付近はこの3本の道路が異常接近していて、狹いところではなんと250メートル足らずの幅の間を、この3つの道路が通っている。
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 5つものトンネルが連続している国道8号線の南越前町大谷付近と敦賀市北部の付近は、標高こそそう高くはないものの、山また山の難所なのだ。元比田の東の山の中を北陸自動車道とJR北陸本線が、それぞれ敦賀トンネル、北陸トンネルで突き抜けている。
 トンネルを掘る技術がなかった時代の道である北国街道は、現在の国道365号線とほぼ同じルートで、これは栃ノ木峠(550メートル)を越えて行かなければならない。
 この北で、国道8号線は標高150メートル付近から敦賀トンネルに入っていくが、そのトンネルへ向かう国道の横線が、岡崎を南から見たときの写真に背景として写っていた。その部分だけを拡大してみよう。okazaki-15.jpg
 敦賀市内のバスも、敦賀コミュニティバス(福鉄バスに委託)が主で、一部路線を福鉄バス単独でも走っているが、敦賀駅前から元比田行きの東浦線に乗って、ここまでやってきた。これがバスの終点というのもまた、不思議なところなのである。
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 終点の元比田は、大比田の北に続く集落だが、バスはその集落を通り過ぎると、脇道のような道に入って坂を登る。そして集落から離れた、斜面の途中の空き地が終点なのだ。
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 周囲の斜面には普通の民家が建っているが、ヤシの木があったりして、なんとなく別荘地なのか?という雰囲気も…。なかには三角屋根の家もある。そう思ったのは、帰ってきてから“元比田”で検索しても、例の役に立たない場所ふさぎの項目がズラリと並ぶそのなかで、唯一情報らしいのが数件の不動産情報だけだったからだが。
 とにかく、バスが通っているのはここまで。
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 斜面だから、西に向いた見晴らしはよい。敦賀湾の北で、西に大きく伸びる半島と、その先端の立石岬が、西日に映えている。だが、この停留所の場所が、具体的にどの位置にあったのかは、帰ってきて調べてみてもわからなかった。
 ときどきふれているが、テレビ東京の番組で昔やったのをBSジャパンが再放送している「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」は、たまに見ている(放送もたまにしかやらない。テレ東で見たのもあるが、コースを自分ならどうすると考えながら見ているので2回目でもおもしろい)。その第19弾は、マドンナにマルシアを迎えて大阪府大阪城から、石川県金沢市の兼六園まで、3泊4日で到達できるか否か、というものであったが、そのコースが美浜から敦賀を経て、ここ元比田から国道8号線で武生に出ようとしていた。
 そこでも、この元比田のバス終点がちょっと写って、そのあと一行は坂を登り、国道8号線に入っていた。そこはトンネルがいくつもある。とても徒歩ではムリじゃろ、それより海岸線で河野を目指したほうがいいのだけど、マルシアの状況を考えると歩きが長くなるのでこれもだめだ。どうやらリーダーは8号線の道の駅に活路を求めたらしい。だが、やはりトンネルを歩くのはムリで、ロケバスで運んでもらっていた。
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 折り返しのバスに乗って、南に向かう車窓からの岡崎は、道路のコースからいって期待できないだろうと予想していたが、やはりあまりうまく見えなかった。
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▼国土地理院 「地理院地図」
335度44分22.62秒 136度5分25.72秒
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dendenmushi.gif北越地方(2016/07/18 訪問)

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