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捨て石とマラリアと強制移住は八重山の歴史を知るうえで重要なキーワードになっている(30) [石垣島だより]

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 オヤケアカハチとその勢力を殺いだ琉球王朝の第3代尚真王は、その後を宮古島の仲宗根に委ね、先島諸島の経営を始めるが、2年後には王府の直接統治へと移行する。琉球王朝の黄金期といわれる時代を迎え、奄美諸島から先島諸島までを支配下に治める。
 先島のスクの時代からの貿易によるメリットもそっくり手にして、東南アジア貿易の中継地としての繁栄もしばらくは続く。中国から持ち込まれた藩薯芋(後にこれが薩摩藩を経て本土に伝わり、サツマイモと呼ばれる)のおかげで、食糧事情は好転し、飢饉餓死者も減少した。
 しかし、宮古を含む先島は、琉球にしてみれば遠く離れた占領地に過ぎなかった。琉球化とその支配はどんどん強化され、その圧力は苛烈な人頭税の実施につながっていく。先島の人頭税は米納と上布代納で、15歳から50歳までの住民に対し、その担税能力には関係なく一律に負担を強要するものであった。
 その重税が産んだ悲劇は、数多くの歌や伝説になって伝えられているが、琉球がこうした強引な政策をとらざるを得なかったのは、1500年代末期頃から琉球を通じて明と貿易することを画策する薩摩藩が琉球になにかと介入を始め圧力を強めたためだ、とする説もある。
 だから、それが許されるというようなものではなかったこの税制は、居住の自由をも奪っていた。人口の少し多い島から、未開拓の島へ住民の移植を行なう強制移住によって新しく村を開かせる開拓政策を伴っていた。また、米で納税することを強制され、稲作ができる地を求めて未開地へ移住することもあった。ところが、そうした村のほとんどは、マラリアによって全滅するという悲惨なことになった。
 薩摩の圧力は、朝鮮出兵から江戸時代を通じて琉球を介した明との間接貿易を有利に進めるために永く続き、ついには幕府が薩摩の琉球侵攻を容認する事態になっていく。
 1609年、琉球に攻め込んだ歴戦強兵の薩摩軍は、たちまちにして首里城を陥れる。その後は琉球王は江戸へ連れて行かれ、江戸幕府の将軍に使節を派遣する義務を負うかたちで従属させられ、また琉球と清との朝貢貿易の実権は薩摩藩が握り、琉球はいわばその隠れみのに使われるようになる。
 明治新政府になっても、いわゆる琉球処分によって、強権的に琉球は日本の一部に位置づけられる。廃藩置県によって、約500年間続いた琉球王国は滅びる。
 この間、明和の大津波被災のうえに重税だけは続くという八重山の過酷な状態は、誰からも省みられることはなく、放ったらかしにされたままであった。驚いたことに、人頭税が廃止されるのは、1903(明治36)年になってからであった。 
 石垣島の南西の端にあたる富崎には、「唐人墓」というものがある。西回り周回道路の側なので、観光バスも立ち寄るポイントだが、ここはこの島が世界史の端っこに関わった、ある事件を記録するものである。
 1852(嘉永5)年に、中国人のクーリー(労働者だが、ほとんど奴隷に近いと思われる)400人を西海岸へ運ぶ途中のアメリカ船で、船員の非道な扱いに決起した中国人が、船長らを殺害した後に石垣島沖で座礁、中国人のほとんどが島に上陸するという事件が起こる。
 琉球王朝と島の人々は、これを人道的見地から小屋を建て、食料や水を供給したが、米英の海軍が三回にわたって来島、砲撃のうえ上陸して島に逃げ込んだ中国人を捜索し、そのほとんどは殺された。自殺者や病没者も続出したので、半数にも満たない生き残った者は中国に送還することになったが、このときの犠牲者を祀ったのが唐人墓なのだ。
 そうかと思うと、1880(明治13)年には、日本政府が清国との交渉の過程で、宮古・八重山の先島諸島を清国へ割譲するという提案をし、条約の仮調印までしていたという事実もあった。
 これも驚くべき話なのだが、この当時の日本人、政府のこの地域への関心の低さを物語る以外のなにものでもない。やはり、琉球にとって八重山は搾取の対象でしかなく、代わって支配した日本にとっても八重山は捨て石に過ぎなかった。日本の琉球処分に反発した清国との間で、日清修好条規に最恵国待遇条項を追加させる見返りに提案したと思われるが、幸いにも李鴻章の反対によって正式妥結にはいたらないまま、日清戦争になだれ込んでいく。
 日清戦争に勝った日本は、清国から台湾を割譲させ、同時に改めて琉球に対する日本の主権を認めさせた。この時点で、中国側の尖閣諸島を含む琉球諸島は日本領として正式に承認し認識することになり、両国間では領土問題には一応の決着がついていた。
 太平洋戦争では、飛び石作戦のアメリカ軍も、戦略的に重要でないとみた先島諸島を素通りして、沖縄本島を取り囲む。そのため、八重山では直接アメリカ軍との間での戦闘はなかったが、駐屯した日本軍の命で西表島などに強制避難させられた住民の多くが、マラリアによって死亡した。その犠牲者は、戦没者よりもはるかに多かったという。
 こうして大急ぎの駆け足で眺めみると、八重山の歴史は、ほとんど忘れさられた捨て石、それにマラリアと強制移住(開拓)が、大きなキーワードになっているようにも思える。
 「なんくるないさー」と島の老人たちがいうとき、それがこうした歴史を生き抜いてきた先祖をもつ子孫のことばだと思うと、また別の重みが感じられるのである。
 「石垣島だより」(シーズン1)は、これにて一段落とし、また通常ペースに戻ります。
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dendenmushi.gif沖縄地方(2012/01/31 記)

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ブーゲンビリアにハイビスカスにミニサンダンカなどが冬でも咲いているがこの春デイゴの花は咲くか(29) [石垣島だより]

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 本土の人間が沖縄を訪れたとき、最初に「南国へやって来た!」と感じるのは、那覇空港に降りて、季節を問わず通路にずらり並んだ色とりどりのランの花々が出迎えてくれるときであろう。
 石垣島でも、冬でも咲く花が多いので道を歩いていても、道路際や並木の植え込みや、民家の庭や門口に、華やかな色彩が溢れている。もちろん、本土と同じ花もあるけれど、やはりいかにも沖縄らしいブーゲンビリアやハイビスカスやミニサンダンカやトックリキワダの花、それに並木のヤシにたわわに実った実が赤く色づいているさまは、冬でも20度の温度をさらに上げているようでもある。
 島では「アカバナ」と称されているハイビスカスは、なかでももっとも代表的なもので、どこの家の庭にも垣根にも、よく見かける。元来のアカバナはその名の通りまっ赤な花で、葉まで赤みを帯びている。
 同じような形をしている花でも、色違いのものがいろいろたくさんあって、それらは栽培種なのか、葉も別種のように異なっている。
 街路のフラワースペースなどでよく見かけるノボタンは、本土でも園芸品種として人気があるが、ここではこれが在来種だという。
 石垣屋へ行ったとき、中庭に大きな木があって、花をつけていた。これがトックリキワダで、ここでは開店のときに移植したのだが、12周年の今年になって、初めて花をつけたのだそうである。それくらい、気むずかしい花らしいので、市では港周辺の公園や街路に植えているが、そうどこにもあるというものでもない。
 これが初夏や夏や秋には、どうなるのだろうか。多くは変わらず、年中咲いているのだろうが、実は夏の石垣島にはまだ来たことがないので、実感としては未体験。
 今回は、ちょっとシーズンにはまだ早かったのだが、本土のサクラに相当するのがデイゴといわれている。沖縄県の県の花であり、琉球大学の合格電報の文面が「デイゴ咲く」だとか、一時期大流行したTHE BOOMの「島唄」の歌詞で「デイゴの花が咲き〜」というのがあるので、見たことがない人でも知っている人は多い。
 実際は、サクラとはまったく違う風情のまっ赤で大きくて華やかな花だが、これがまたトックリキワダに似て毎年花が咲くという保証はないらしい。それでも、ここ数年の石垣島ではデイゴの花がほとんど咲かないという事態は、普通ではない。異常な春が続いている。
 主にデイゴヒメコバチというムシが広める病虫害被害によるもので、デイゴの葉や幹にこのハチが産卵しムシこぶをつくって木を弱らせてしまい、枯らしてしまうこともあるという。台湾方面から飛来してきたムシらしいのだが、島では対策プロジェクトを進めるNPOなどの活動を支援するなどしてきた。が、それも今年度でその当初の計画期限が到来する。
 しかし、まだデイゴの完全復活には遠いようである。島では、引き続き対策を進める必要があるという声が強いが、海を越えて飛んできてデイゴを咲かなくしてしまう外敵に、これを防御駆除する決定的な方策も、まだみつかっていないようだ。 果たして、この春はデイゴの花は咲くことができるのだろうか。
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dendenmushi.gif沖縄地方(2012/01/30 記)

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サンゴ礁の島はサンゴの岩石と琉球石灰岩でできていて貴重な建材となってきた(28) [石垣島だより]

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 今さらだが、沖縄や先島の島々は、サンゴ礁にぐるりを取り囲まれている。というより、専門的にはともかく、素人的にはサンゴ礁が隆起してできた島々と考えてもいいのだろう。
 八重山の島々は、1億7400万年前に隆起と沈降を何度も繰り返しながら、徐々に石灰岩の低くて平らな島ができあがり、それが大陸からは切り離されて残ったものと考えられている。
 島の浜辺には、サンゴの破片や塊などがごろごろしており、砂は少ない。一見砂のようにみえるものも、やはりサンゴが小さく砕かれたものだったり、一部では“星砂”と呼ばれるプランクトンの死骸だったりする。
 石垣島のサンゴ礁は白保だけではなく、島全体を取り巻いているのだが、風や波の当たり具合が成育に影響するので、とくに東海岸で発達しているといわれている。
 今から14〜15年くらい前だったと思うが、サンゴの白化が問題となったことがある。サンゴが大量に死滅し、その死骸は白くなってしまう。ちょうど、その頃だったのだろう。川平のグラスボートに乗ってみたときには、サンゴ礁には白いものが目立っていた。
 淡水が混じると、サンゴの成長が阻害されるので、川の流れ込むところなどには切れ目ができる。そこが舟の通路になる。大浜や宮良には切れ目があるが、白保にはなかった。だから溝を掘る必要があったのだろう。
 真栄里から延びるサンゴ礁は、石垣港の南側を大きく迂回して竹富島につながっている。石垣港付近はサンゴ礁はなく(取り除かれて)、竹富東港へ入る船はサンゴ礁の切れ目を示す標識の間を通っていく。
 水深が深いところでは、サンゴ礁も問題にはならない。小浜島とその周辺の小島は、ひとつのサンゴ礁で囲まれており、西表島はまた別のサンゴ環が取り巻いていて、そのサンゴ礁とサンゴ礁の間が、マンタの通るヨナラ水道である。
 このように、この地域では、地図でもサンゴ礁の表記は欠かせないはずなのだが、もちろんZENRINソースのネット地図では、まったくこれも無視している。
 島の基盤は、いわゆる琉球石灰岩と呼ばれるサンゴ礁がつくりだした岩盤でできていて、それが露出した道もある。岩盤の上にかぶさっている薄い表土は、大陸から分かれるときくっついてもってきた古い地層とみられる。
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 こういう島だから、少し掘れば、岩や石がごろごろ出てくる。それらを取り除いて重ねていくと、石垣は自然にできてしまう。その名も“石垣島”という名は、この島の様子を端的に示す表現であったのだろう。
 また、鍬が入る土の下には、岩盤に行き当たる。それを切り出した石材は、島では貴重な建材になり、歩道の敷石や壁など、広く活用されている。
 この琉球石灰岩は、古いサンゴ礁が隆起してできたもので、有孔虫や小さな貝類などさまざまな生物の化石とその隙間を泥や砂が埋めて固まった岩である。見たところ、本土の岩に比べれば、比較的加工はしやすい石材のように思われる。八重山の島々の海岸では、裾が大きくえぐり取られた、壷を逆さにしたような岩や小島を見ることが多いが、これは波の作用で岩が削られたものであろう。
 こういう本土から遠く離れた島へ、石などをわざわざ運んでくることは、滅多にあるまい。琉球石灰岩やサンゴ礁の岩塊は、“地産地消”の代表のようなものではないか。
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dendenmushi.gif沖縄地方(2012/01/29 記)

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白保のサンゴ礁は有名だが見つからない柳田国男の歌碑も海上の道に没したのか(27) [石垣島だより]

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 二度目の白保行きは、7キロくらいはゆうに歩くことになってしまった。明和大津波慰霊碑を探して歩き、その足で宮良の集落に降りたが、バスの便とうまく合わず、結局白保まで歩いてしまったのだ。それだけでなく、白保では今度は柳田国男の歌碑を探し回って、またよけいに歩いてしまった。
 白保は、石垣島の地名のなかでも、川平に並ぶくらい有名なのかもしれない。一時期は、ここのサンゴ礁を埋め立てて飛行場をつくるというプランが持ち上がり、地元だけでなく全国から反対の声があがったこともある。また、いつだったかはどこぞの新聞社のカメラマンが、テーブルサンゴだかなにかにナイフで自分のイニシャルを刻み込んだというので、スキャンダルになったりした。
 サンゴは“動物”であるから、いってみれば石垣牛の背中にナイフを入れるようなものだが、こういうことをする人間の心理というのは計りがたい。
 そんな事件で有名になったという側面もあるかどうか、白保のサンゴ礁はとにかく有名である。石垣島には何度か来ているでんでんむしも、白保はいつも390号線を通り過ぎるだけで、海岸まで行ったことがなかったので、今回はぜひ行ってみなければ、話にならない。
 それにまた、島の中心で人が集まって暮らしている場所の、東の端に位置するのが白保である。東運輸のバス路線も、白保線が30分に一本走っている島のメインルートの終点。
 実際に来てみると白保は古くて静かな集落である。ここまで来ると、やっと昔の八重山の民家の風情が感じられる。赤瓦の屋根に、サンゴ石の石垣、屋敷林としては定番のフクギが巡らされている。
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 サンゴ礁に潜りたい観光客向けの施設や店なども、ほとんどないといってもいいくらい。白保のマリンレジャー基地としての意味合いと役割は、もともとあまりなかったのか、今ではもうほとんど薄れてしまったのか…。
 サンゴ礁の海岸は、港ができない。そこで、小舟の係留場所を、海岸の岩を動かして並べて船着き場をつくっている。海岸に建つ「舟溝開碎記念の塔」が意味するものは、固いサンゴの地盤を掘り抜いて、舟を入れる苦労をしたという証しなのだろう。だから「碎」なのだが、その溝もよくわからない。北へだいぶ離れた岸辺には、観光用のグラスボートが一隻、所在なげに浮かんでいる。このへんが溝なのか。
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 ゆるい弧を描いて広がる、白保の海岸は静かで、人っ子ひとりいない。
 遠く、横一筋に白い波の線が、海に潜むリーフ(八重山では「ピー」という)の存在を示している。
 そこに砕ける波の音が、海鳴りのように風に乗って絶え間なく押し寄せてくる。そこにしばらく佇んで、柳田国男の歌碑は、どうして見つからないのだろうと思うが、もちろん一人で考えても真相がわかるわけでもない。
 確かに、白保に二三か所にある案内看板には、海岸の北のはずれにあると表示してある。ところが、二度もかなり歩いて探したのに、見つからない。見落としたということも考えにくい。
 そこに刻まれているはずの歌は、わかっているから、別に見つからなくてもかまわないのだが、凡人はこういうところも見てみないと気が収まらないだけで、なぜ見つからないのか、というほうがより大きな問題として気になってしまう。
   あらはまのまさごにまじるたから貝
      むなしき名さえなお うもれつつ

 幼少の頃から非凡な記憶力を持ち、旧家の膨大な蔵書を読破したという柳田国男が沖縄八重山を訪れたのは、1920(大正9)年、45歳のときの一度きりであった。
 そして、『海上の道』を出版するのは、87歳で亡くなる前年の1962(昭和37)年のことで、40年以上も経ってからであった。
 柳田は養子に入った家の名で、実家の姓が「松岡」なのだが、それと関係あるのかどうか(凡人はまたそういうところが気になったりする)、同じ姓を名乗る松岡正剛は、その非凡な読書録である『松岡正剛の千夜千冊』の最後に、この本を取りあげているのだ。
 そして、「日本人はどこから来て、どこへ行くのか。それが柳田の最後に語ろうとしたことだった。」という松岡は、その“第千百四十四夜【1144】2006年5月22日”の稿の最後を、こう締めくくっている
 けれども、柳田はこれを書いた一年後に没した。まさに海上の道に没したのである。ぼくもそのように終りたいものだ。
 う〜ん、やっぱりなにか関係ありそうだな。 凡人には、そんなことしか書けない。
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dendenmushi.gif沖縄地方(2012/01/28 記)

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やっと探し当てた明和大津波遭難者慰霊碑はもう記録からも記憶からも遠くなって(26) [石垣島だより]

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 八重山の古記録大波之時各村之形行書によれば 乾隆三十六年(日本年号明和八年)三月十日(一七七一年四月二四日)午前八時ごろ大地震があり それが止むと石垣島の東方に雷鳴のような音がとどろき 間もなく外の瀬まで潮が干き 東北東南海上に大波が黒雲のようにひるがえり立ちたちまち島島村村を襲った 波は三度もくりかえした 史上有名な八重山の明和大津波である
 津波は石垣島の東岸と南岸で激甚をきわめ 全半壊あわせて一三村 ほかに黒島 新城二村が半壊し 遭難死亡者は九三一三人に達した 
 こうして群島の政治 経済 文化の中心地石垣島は壊滅的打撃をうけ 加えてその後の凶作飢餓 伝染病などによる餓死者 病死者も続出して 人口は年年減少の一途をたどり 人頭税制下の八重山社会の歩みを一層困難なものとしその影響はまことに計り難いものがあった
 この天災から二一二年 狂瀾怒濤のなかで落命した人人のことを思うとき いまなお断腸の念を禁ずることができない このたび有志相謀り 群島全遭難志望者のみたまを合祀してその冥福を祈り あわせてこの未曾有の災害の歴史が永く後世に語りつがれていくことを念願し 島内外各面の浄財と 石垣市 竹富町 与那国町並びに諸機関 団体の御協力を仰いで ここにこの塔を建立した
 一九八三年(昭和五八)四月二四日
     明和大津波遭難者慰霊碑建立期成会

     
 今から241年前におきた、この地震の規模は、マグニチュード7.4で震源地は石垣島の白保崎南南東40キロメートル。津波は、“潮揚高貮拾八丈”(84.8メートル)で、沖の石は陸へ寄せ揚げ、陸の石ならびに大木は根こそぎ引き流されたと、古記録に伝えられている。
 全潰した村は、石垣島の真栄里、大浜、宮良、白保、仲与銘、伊原間、安良、屋良部の計8村、半潰した村は、石垣島の大川、石垣、新川、登野城、平得、離島の黒島、新城の計7村であった。
 ネット地図では国土地理院のも含めてすべてなにも表記がないが、宮良川左岸の海岸からはだいぶ奥まった場所に、明和大津波遭難者の慰霊碑があると、ひとつだけとある観光ガイドの地図には記してあった。
 そこで、それを訪ねて宮良橋から探しながら歩いてみたのだが、どこにもそれらしいものが見あたらない。老人ホームのような施設の敷地で、草刈りをしている人に聞いてみてもわからない。なおも歩いていくと、サトウキビの畑の向うになんとなく丘のように見えるところがある。
 建てるとすれば、だいたいそういうところが選ばれるはずだと、その丘を目指して畑の泥んこ道を行くが、なかなか丘へ道がつながらない。サトウキビ畑の手入れをしていた人がいたので、声をかけて尋ねると、この裏手がそうだという。看板もないからわかりにくいけどと教えてもらったように道を回り込んでいくと、看板はないのではなく草むらに転がっていた。
 大きな人の背丈に倍する岩がいくつか立っている。こちらは転がっているというより明らかに立っている。これはもしかして「津波石」なのか?
 それにしても、まさか標高60数メートルもあるここまでは…?
 いやいや、84メートルの津波ならば、もっと高いところまででも…?
 この岩を背にするようにして、慰霊碑はあった。冒頭に掲げた文はこの碑文の文字を写した。
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 草木のあいだに埋もれるようにしてある慰霊碑に手を合わせて、前の奥を見ると、高いところにあるのは石棺のようなつくりのものであった。
 この場所と背景の岩と津波との直接的な関係性については、碑文はなにも語っていない。慰霊碑がある場所からは、海と宮良湾ははるかに遠く下のほうだった。
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 来た側とは反対の東側に出ると、やはり看板が、いや元は看板だったものの名残りが…。 それでも、宮良小学校の高学年のこどもたちは、ここにお参りすることもあるという。
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dendenmushi.gif沖縄地方(2012/01/27 記)

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