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番外:想い出すのは想い出すのは北上河原の…という歌があった(宮城県石巻市) [番外]

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 石巻は、石ノ森章太郎(1938〜1998)の“萬画”を街のシンボルとして担いでいる。石ノ森自身は、現在の宮城県登米市中田町石森の生まれで、石巻出身というわけではない。
 それなのに、市内を流れる旧北上川の中の島には、卵形のようなUFOのような「石ノ森萬画館」があり、JR石巻駅をはじめ、町中“石ノ森萬画”のキャラクターが溢れている。
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 記念館自体は、すでに前年に登米市にできているのに、2001年に重ねて石巻に萬画館をつくったのは、どういうわけだろう。
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 その辺りの、真意は測りかねるが、彼自身の郷土愛と、地元の理解と熱意の融合が生んだと、好意的に解釈すべきなのだろう。
 その出生の町の名がペンネームの由来ではあるが、当初は“石森章太郎”と称していた名を、途中から“石ノ森章太郎”とわざわざ一字を加えたのは、どういう心境によるものだろう。30周年を記念して、心機一転をはかったのか、その後に発表した『ホテル』や『マンガ日本経済入門』は、確かに新境地を開いたといえる。
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 『サイボーグ009』や『佐武と市捕物控』も、実は作者とさほどには年が離れていないでんでんむしには、もう漫画であれ萬画であれ、読者世代を過ぎていたが、それでもちゃんといくらかは読んで知っている。
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 『おくのほそ道』の石巻の段には、

  人跡稀に雉兎蒭蕘の往かふ道そこともわかず、終に路ふみたがえて、石の巻といふ湊に出。

と、いかにも僻地・奥地に来たかのような印象を残している。この後に、「646 東ノ崎=石巻市鮎川浜(宮城県)「こがね花咲」とよみて..」の項で触れた一節が続き、その後で石巻の町を描写している。
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  数百の廻船入江につどひ、人家地をあらそひて、竈の煙立つゞけたり。

 当時から、北上川の水運と石巻湾の海運が盛んだったさまが、これからもわかるが、同時に、


  思ひがけず斯る所にも来れる哉と、宿からんとすれど、更宿かす人なし。


と、詠嘆のさまを重ねて記したかと思えば、

  漸まどしき小家に一夜をあかして、明れば又しらぬ道まよひ行。

と、漂泊の旅らしさを強調している。

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 芭蕉という人は、こうみえてなかなかのクセモノで、紀行とは言いつつ、虚実ないまぜのフィクションで、曽良の「随行日記」と読み合わせてみないと事実がよくわからないことが多い。
 芭蕉の記述だと、石巻に来たのは、平泉に向かう途中「思いがけず」(半分道に迷いつつ)やってきたかのようであるが、そんなことはあるまい。また、実際は、矢本付近で、水を求めようとしたがどこでも断られて果たせなかった、というようなことが曽良の筆によって記されている。しかし、プライドの高い芭蕉には、そのことはそのまま書く気がしなかったのではないだろうか。
 そのできごとに影響されて、その時には親切な侍に助けられて、石巻の宿まで紹介されているのに、「宿からんとすれど、更宿かす人なし」といい、「まどしき小家に」としか書けなかった心理が、でんでんむしにはわかるような気がする…というのは言い過ぎだろうか。
 「更宿かす人なし」は、宿を断られたりした次の登米でのことなのだろう。
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 日和山から帰り道には、一行は北上川に面した住吉の大島神社付近に立ち寄っているはずである。ここには“石巻”の語源となった、川中の巻き石もあるのだが、それにはふれず、翌日の行程として、

 袖のわたり・尾ぶちの牧・まのゝ萱はらなどよそめにみて、遥なる堤を行。

と書いている。これらはいずれも歌枕の地を対岸付近に眺めつつ、という描写なのだが、金華山“袖のわたり”があったとされるのは、ちょうどこの住吉公園の辺りなのである。
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 今回、でんでんむしが石巻の岬めぐりの宿に選んだのは、その住吉公園のそばのこちら「FUTABA INN」。ここは、石巻総鎮守の大島神社のすぐ横。社殿の裏山の下にある。ここは、石ノ森の定宿であったと、どこかで読んだのだが、確認するのを忘れてきた。ishinomaki05.jpg
 西に数百メーートル行けば、芭蕉一行が泊った地があって、そこにはなんと、石巻グランドホテルが建っていた。なんとなく、そこよりもこっちのほうがいいような気がした。
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 二夜の宿となった二階角の部屋の窓から、手を伸ばせば届きそうな社殿の裏山に上ってみた。芭蕉の上った日和山の左手には、昔に殷賑を極めた北上川の河口が広がる。
 たまたまだが、これを書いているときに、高橋英吉という若くしてガダルカナル島で戦死した彫刻家のことを知った。その人が1911(明治44)年に生まれたのが、この北上川河口左岸であった。一般に知る人は少ないだろうが、あるいは石巻の人や、石巻高校の人々には知られているのだろうか。その作品の一部が、彼の母校である高校(当時は石巻中学)や石巻文化センターに保存されている。また、ガダルカナル島には、鎮魂の意味を込めたブロンズ像の大作がたてられているという。高橋英吉の長女で、神奈川県逗子市の木版画家・高橋幸子さんと、家人が近しくしていただいているので、そんな縁でここに記す。
 それにしても…と、また想うのは、人の縁の不思議さである。遠洋航海の船に乗り込んだ英吉は、三浦半島の三崎である女性と知り合い、二度の招集のわずかな合間に家庭をつくり、一子を残すが南の島へ行ったきり帰らぬ人となる。その子は、母と共に三浦半島の付け根逗子で暮し、父の残したデッサンを見て学び、木版画家となる。
 まこと、人の邂逅や人生を川の流れのようにいうことは多いが、川の流れの数倍に増して、とても単純ではない。
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 北を望むと、川はまた東に西にと蛇行しつつ、遡っている。“旧北上川”と、これまで何度も書いてきたが、これは登米市の津山町柳津付近で新北上川が分流されてから、そう呼ばれるようになった呼び名である。その放水路の付け替えは、明治の終わりから昭和の初めにかけて23年におよぶ大工事となった。
 洪水防止のため開削された新北上川は、芭蕉も歩いた一関街道に沿って南流して、石巻市相野谷付近で今度は大きく東へ向きを変え、石巻市北上町十三浜付近で追波湾に注ぐ。
 一方の旧北上川は、気仙沼線と石巻線に沿うようにして、東北第一の大河で、日本で四番目に長いという川は、昔と変わらず流れきて、この河口で流路延長249キロの生涯を終える。
 治山治水は、いつの時代も治政の大きな課題であった。伊達政宗の貞山堀も、北東端はここから始まっている。
 北上川を見たこともない時代から、この川の名前だけは知っていて、勝手なイメージを持っていたのは、『北上夜曲』という歌が流行ったせいだろう。初めて、北上川を間近に見たときには、コンクリートもなにもない、自然なままの岸辺と、急ぐことなくゆったりと流れる、水量の豊かな流れだった。

▼国土地理院 「地理院地図」
38度25分55.36秒 141度18分44.24秒
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dendenmushi.gif東北地方(2010/09/19~21 訪問)

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タグ:宮城県
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