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665 ナサ崎=尾鷲市九鬼町(三重県)いまからおよそ660年くらい前の壮途の船出を見送ったのは [岬めぐり]

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 九木の港と集落がある入江は、九木崎とナサ崎のふたつの岬に挟まれている。だが、北の九木崎は死角にあるうえいささか距離もあって見ることができない。南のナサ崎のほうは、入江の場所と角度を選べば、よく見える。
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 ナサ崎へも通じる道はないので、ここも少し離れたところから眺めるしかない。ただ、岬の斜面の植生がパッチワークのようになっているのは、部分的に植林も行なわれているからだろう。とすれば、林道も途中まではあるだろう。自然のままのこの出っ張りは、外海からは隠れて見えない港への入口を示す目印としての役目をもっていたのだろうと思われる。
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 九鬼氏を海賊呼ばわりしていたことに、不快感をもった人もあるいはあったかもしれない。なにしろ、九鬼氏は陸にあがった海賊とは言いながら、江戸時代を大名として生き抜き、明治維新後には子爵に連なっているので、その子孫も多数あろう。
 だが、海賊呼ばわりは、格別九鬼氏をおとしめるものではあるまい。日本の中世における有力者の勢力争いのなかでは、暴力装置をいかに有効に機能させることができるか否かにかかっていた。
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 要するにケンカの強いやつ、うまいやつがのしあがっていっただけのことで、これにいくばくかの正当性を与えたのが、守護地頭制度であったともいえる。
 どこの大名も殿様も、一皮むけば元は山賊や海賊や川賊だったりするのである。前述の通り、九鬼氏のそもそもの出自にも不明なことが多く、熊野別当説、熊野水軍説、藤原氏説などが入り乱れていて、よくわからない。
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 ここへきて九鬼氏を名乗ったのか、九鬼氏がここへきたのか、いずれにしても、その初代のあとを継いだ息子は、先代が熊野の小さな入江に開いた地盤に安住することを望まなかった。船を操るという得意技を活かした集団“水軍”を養って一派をなすと、わずかな手勢(30人ばかりという記録もある)を率いて、大王崎や鳥羽方面に進出していき、やがては海賊業界をまとめて重きを成すことになる。
 その波乱に満ちた物語の最初となる、九鬼一族の壮途の船出を、発祥の地から見送ったのはこの岬だったのである。
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 狭くて奥が深い九木港の入江は、まっすぐではなく若干折れているので、駅や集落のほうから沖を眺めても出入り口は見えない。当然、海から見てもその集落はまったく見えない。入江の波は穏やかで、長く熊野灘を行き交う船の風待ちの港であり、退避港ともなっていたのだろう。
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 現在では、入江ではマダイの養殖がメインの事業として盛んらしい。九木神社の下まで行って、バスは折り返し、また駅まで戻ると、この入江の南側の道を登って、早田(はいた)へ向かう。
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 山中の道はやがてすぐ早田町になるが、人っ子ひとりいなくても、ナサ崎まではまだ九鬼町である。国境として行政区画の境界として使われることの多い岬は、それがつくる入江の輪郭とは、一体で不可分なのだ。通常、境界線になる岬は、その中心から半分に切り分けられることが多いが、ナサ崎は全体まるまる九鬼町で、それはこの半島状の出っ張りには、早田町側にもうひとつ別の無名の岬があるからだろう。
 最初の日には、ふれあいバス八鬼山線で、一気に三木里まで行ったので、ここでは降りなかった。最後の日に、改めてJR紀勢本線で大迫駅から九鬼駅までやってきた。ナサ崎は、バスからは見えず、沓埼燈台の岬に立ったときしかその写真は撮れなかった。
 あえて細かいことをいえば、沓崎からの眺望では、角度的にはナサ崎のおなかを横から見ているようなもので、ちょこんと出っ張った岬のさまは、船でも繰り出して沖に向かわないと見えないようなので、そこは地図で想像するしかない。

▼国土地理院 「地理院地図」
34度0分17.43秒 136度16分17.62秒
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dendenmushi.gif東海地方(2011/04/12〜14 訪問)

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タグ:三重県
きた!みた!印(36)  コメント(6)  トラックバック(1) 

きた!みた!印 36

コメント 6

☆はな

ながーくご無沙汰いたしました<(_ _)>ペコリン
ご訪問ありがとうございました

このあたりは一昨年 熊野古道伊勢路で歩いた
ところと 大接近。。  なつかしい。。
by ☆はな (2011-06-25 09:32) 

ナツパパ

地図で見ると素敵な形の湾ですね。
これだけ深ければ、風待ち港として格好でしたでしょう。
紀伊半島を出たら、次は駿河の江尻まで一直線かな。
江戸の船でしたら、天気を待つ港は大切でしょうね。
by ナツパパ (2011-06-25 22:41) 

ぱぱくま

こんばんは。
今年は岬めぐりも本格復帰になりそうですね。
dendenmushiさんにとって岬めぐりの醍醐味とはなんでしょう?
岬の先に立つと文句なしに気持ち良いですよね。
by ぱぱくま (2011-06-26 00:04) 

dendenmushi

@☆はなさん、おひさしぶりです。また復帰されて元気に高尾山など行かれているようで、なによりです。
 熊野古道伊勢路も歩かれたとは…。でんでんむしは熊野路が目的ではないものの、このあたりでは、ほんと接近していますね。
 もう山越えの体力はないので、できるだけ楽して歩いています。
by dendenmushi (2011-06-28 06:23) 

dendenmushi

@ナツパパさん、江戸時代の弁財船などの航路では、むしろ一気に越えるのは紀伊半島の迂回航路で、そのためにその前も後も、重要な寄港地は志摩の安乗崎だったようです。
 でんでんむしとしては、読んだモノの本(時代小説ですけどね)から、そう理解しておりました。
 だから、よけいに避難港としての役割も大きくなっていた、とも考えられますね。
by dendenmushi (2011-06-28 06:33) 

dendenmushi

@ぱぱくまさんのお尋ねを意識せずに、今日の項目では岬めぐりの計画の醍醐味を書いてしまいました。
 でもまあ、これはすべての旅行と同じといえばそうですが、ひとつ言えるのは、交通機関も不便な過疎地をめぐるのは、計画も大変だということです。
 まあ、それは付随的なことで、「なぜ岬めぐりなのか」でも書いていますが、海と陸のせめぎ合う接点、ここに地終わるという“最果て感”とでもいいますか…。
by dendenmushi (2011-06-28 06:39) 

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