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788 田の崎=東牟婁郡串本町田並(和歌山県)世にふる道をふみたがへみたがへまどひつたよふ [岬めぐり]

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 和歌山県牟婁郡も、すさみ町までが西牟婁郡で串本町からは東牟婁郡になる。すさみ町も里野までで、和深からは串本町。あれっ、また和深!? 和深が串本町にもあることは、すさみ町の和深崎の項で述べた通りだ。和深崎の和深村については、たまたま、2012/05/05に、お父さんが和深の生まれでお祖母さんが村長だったという「防大58期」さんからコメントがあった。人間誰でも故郷があり、父祖の地、ルーツの縁地があることは、なんとうれしいことだろうか。
 ここは串本の和深だが、串本の和深集落の東南、田子に近いところに和深山という山があるらしい。“らしい”というのは、現在の地図ではその山の表記がないうえ、実際にはこの付近にはいくつもの峰があって、どれがそうなのかが特定できない。
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 この山を歌った古歌があると、『紀伊続風土記』にもいう。

  わぶか山世にふる道をふみたがへみたがへ まどひつたよふ身をいかにせん (俊頼朝臣)

  身のうさをおもふ涙はわぶか山 なげきにかゝる時雨なりけり(無名)


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 つまり、和深から田子・江田・田並・有田と続くこの道が、熊野詣での大辺地ルートであり、多くの人がここを行き交ったという証しのひとつなのかも知れない。
 京の貴族の間で熊野詣が盛んになるのは、1090(寛治4)年に白河上皇の熊野行幸あたりからと言われているが、後白河上皇などは33回も行っているというくらいで、ブーム的様相を呈していたらしい。
 当然、旅で詠まれた歌は数知れずあって、こんなところの、今では地図にも名がないような山まで、歌の対象になっていたわけだ。
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 田の崎がある小さい半島の西には、その付け根に漁港をもつ。その港越しに田の崎を眺めると、先端に突堤のような堤防のような石組みのようなものが、長々と突き出している。地図では、突堤でも堤防でもなく、かといって自然の砂洲でもないような、奇妙な堤のようなものがあると示されている。半島には道もあるようなので、こういう場所には、また改めて行きたいものだ。
 
 和深浦の東三十一町にある。田子川が三前郷の南谷村との界の山から流れ出て坤(※西南※)に走る。村はその河口より谷奥十七〜十八町ばかりの間に散在する。田子の意味は詳らかでない。これ以降の江田・田並・有田の諸村がみな田をもって村名とするのは、だいたい田地の形によって呼名とするのであろうが、その意味はみな考えることができない。(KEY SPOT『紀伊続風土記』現代語訳 牟婁郡潮埼荘田子浦)
 
 地形を見ても、山と海が岩磯の海岸を挟んでせめぎ合っているようなこの付近では、平地も谷筋にわずかにある程度だ。
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 でんでんむしも、このあたりなんで“田”のつく地名が多いのだろうと、疑問だったのだが、『紀伊続風土記』の筆者も同様に疑問を呈している。しかし、この時点(文化年間=1800年代初頭)では、既にその意味もわからなくなっていて、疑問を疑問として記すことしかできなかったのだ。
 田の崎…そう、岬の名まで“田”なのだ。
 これは、なんらかの理由や背景があってのことで、単なる偶然などではないはずなのだが…。
 田の崎は江須崎と同じように、付け根の部分が細く、島か半島かというような形で海に延びている。田並の集落は、岬の奥の狭い海岸に固まっており、JRの線路と田並駅は、そのさらに奥まったところにある 。
 そこから海は望めず、手前の小山とその向うに頭を出している田の崎のわずかな隙間に入江がある。ここには、漁港はなく、漁業者は田の崎の西にある漁港まで“通勤”しているのだろうか。tanosaki06.jpg

▼国土地理院 「地理院地図」
33度28分44.95秒 135度42分31.72秒
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dendenmushi.gif近畿地方(2011/10/06 訪問)

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タグ:和歌山県
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コメント 2

のぉてんき

はじめまして、ネット漂流していて偶然貴殿のサイトを拝見させて頂きました。センセイに聞いたのですが有田に田波に田子、田の崎等の「田」表記が多いのは、このへんが極端に田が少なく、耕作に不適な荒地が多かったからではないかと思います。串本町はちょっと前まで西牟婁郡だったのですが、町村合併で東牟婁郡になっています。この西牟婁郡地方では江戸時代もほとんど田んぼが無く、戦後まで田辺より南は鉄道はおろか道路すら無い地方でした。江戸時代もこのへんの地主はほとんど年貢米が納められず、何度も投獄された記録があります。そういった背景から田がある事への憧れがもたらした地名ではないかと・・・
by のぉてんき (2014-09-23 12:11) 

dendenmushi

@のぉてんき さんのurlはたどることができませんでしたが、コメントありがとうございました。
なるほど。そのセンセイの言われるとおりなのかも知れませんね。
中学の? それとも高校の? そのセンセイもきっとこの地域のことを愛しておられたのでしょう。
「田」への憧れ…よくわかります。
佐渡をめぐっていたでんでんむしも、そんな気持ちになりました。
by dendenmushi (2014-09-24 06:12) 

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