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847 鳥ヶ崎=松江市玉湯町林(島根県)宍道湖畔まできたがちょっと山陰自動車道を戻ってみると神庭荒神谷遺跡があり… [岬めぐり]

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 鳥ヶ崎は、宍道湖の南岸でちょこっと飛び出しているところで、玉造の湯町鼻から西に2キロの場所にある。もう出雲市ではなく、松江市なのだが、山陰自動車道からは1.7キロも離れているので、どうやらこれがそうらしい、というような写真しか撮れなかった。
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 松江市に入って宍道湖の岬まできてしまったが、通り過ぎてきた出雲市には、まだ気になることと場所がある。だから、山陰自動車道が斐伊川を渡るところまで、少しバスを戻してみたい。
 まずは、前項の出雲神話に関連して、「オオクニヌシ神話はわが播磨にも広まって」いるとおっしゃる、だいだらぼっち さんから「梅原説では、もともと大和にはオオクニヌシ王朝があったというのですが、はたしてどんなものでしょう。」というコメントをもらった。それで、そうそうそうだったと思い出したことがある。
 梅原猛は、『神々の流竄』(1985(昭和60)年 集英社文庫)のなかで、「『出雲国風土記』においてオオクニヌシは『播磨国風土記』においてより、はるかに印象がうすいのである。そしてオオクニヌシの最大の仕事である国譲りについては、『出雲国風土記』において、先の暗示的な言葉以外に何一つ語られていない。」と書いている。「先の暗示的な言葉」というのは、『出雲国風土記』冒頭の数行を指し、「この言葉には、出雲国を流竄の国、追い詰められた最後の里と考えているような響きがある。」という。そこで、出雲族こそ大和の先住民で、ヤマタノオロチは三輪山の象徴ではないか、大胆な仮説を展開しているのである。
 その内容まで細かく首を突っ込むことはできないが、それに関連してまたしても思いは飛んでいく…。
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 梅原猛は歴史学者ではない。哲学者である。ところが、この本から始まって、ほかにも聖徳太子の研究では『隠された十字架』で、『水底の歌』では柿本人麿論でも独自の視点を展開していた。
 実証主義のベールに逃げ込んでしまう考古学や、仮説と推論におくびょうな歴史学などが取りこぼしているところを、専門の考古学者や歴史学者ではない分野の人が健筆をふるい、それが広い読者の支持を得る、ということがこの分野ではよくある。
 梅原猛のほかにも、松本清張の『古代史疑』などいくつかの作品や、古田武彦の『「邪馬台国」はなかった』に始まる一連の『邪馬壹国』ものなどは、その代表例といえるのではないか。そういう人々こそ、一般に考古学や歴史学のおもしろさを伝え広めた功労者、といってよいであろう。
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 さてさて、山陰自動車道を行くバスが斐伊川を渡るとすぐ、仏経山(神奈備)トンネルに入るが、そこを抜けたところに斐川ICがあり、すぐにまた神庭荒神山トンネルがある。そのトンネルの北に続く、標高50メートルに満たない小さな尾根の中に、4列に並んだ同じ形の銅剣358本が埋納されているのが発見されたのは、1983(昭和58)年のことであった。
 この地域は、出雲平野を見はるかす西谷の墳墓群があることでも知られていたが、銅剣の発見は大ニュースとして、新聞もトップで扱った。その10年くらい前には、飛鳥の高松塚から極彩色の壁画が発見され、まだそのブームの余韻が充分残っていた時代である。
 極彩色の飛鳥美人の壁画(それをまた、文化庁の管理不行き届きでカビだらけに劣化させ、台無しにしてしまおうとは、この頃まだ誰も予想していなかった)に比べれば、銅剣というのはいかにも地味だが、その意味は小さくなかった。続いて、銅剣発見場所からほんの数メートル離れた場所から、今度は銅鐸6個と銅矛16本が発見された。
 この発見が注目された理由には、若干の解説が必要だろう。話をごく単純化すると、第一はその埋納方法が、いかにもていねいにきちんと整理したうえ並べてあったということ、第二はその数の多さで、それまでに日本全国で発見されていた銅剣の総本数(300本)をはるかに上回る数が一度に見つかったこと、第三は銅剣と銅鐸が同じ場所から出た、ということである。
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 1965(昭和40)年2月は、中央公論社(“あの中公”、硬派の総合誌も出していた老舗出版社だが、いまでは“あの読売新聞”に買われてしまうというハメになってしまった)から『日本の歴史』全26巻(ほかに別巻)の配本が始まったときであった。このとき第1回配本の「1神話から歴史へ」(井上光貞 著)を手にして、胸が高鳴るほどうれしかったことを覚えている。“価450円”で、B6判で手に馴染みやすく、全集ものの雰囲気を漂わせるしっかりした上製本箱入り、図版も豊富で、一人の歴史家がひとつの時代を書ききるという、読みやすさもうまく活かしていた。
 今の出版界の状況からは、とっくに過ぎ去った“古き良き昔”のことでしかないが、この頃は各出版社がこうした華やかな大型企画を、競って連発していた時代だったのである。
 この本を読んだときにも、それは強く印象に残っていたのだが、北九州を中心とする銅剣文化圏と、畿内を中心とする銅鐸文化圏に分かれていたという、出土遺物からの解説を示した図があった。謎が多すぎてなにかとすっきりしないこの時代に、なるほどとひとつのわかりやすい話ができたと、いたく感じ入った図だったのだが、これはこの時代から以後、長い間学会の定説にまでなっていたらしい。教科書で見た覚えがある、という人も多いのではないか。
 ところが、荒神谷遺跡として知られることになったこの遺跡の発見は、そうした従来からの定説に大きな疑問を投げかけ、また否定してしまうことになったわけである。
 その後、1996(平成8)年には、神庭荒神谷から南東に3.6キロほど離れた山の中で工事中の重機ががらがらと掘り返した土の中から、39個もの大量の銅鐸が見つかることになる。これが加茂岩倉遺跡。
 ここの銅鐸も、入れ子状に埋納されているのもあったので、これらは通常の遺跡の出土状況(つまり、意図した結果でではなく、なんらかの不測の事態によって、やむを得ず土中に埋められてしまったという)とは異なり、何らかの理由があって、わざわざまとめてきれいに埋めた、ということになる。それで「埋納」という表現を使っている。
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 荒神谷遺跡は、国宝に指定されていて、名称もいちおうそれで統一されたが、神庭(かんば)荒神谷遺跡または神庭遺跡と呼ぶべきだという説もある。その所在地は出雲市斐川町神庭で、荒神谷というのは場所を取り違えているというのだ。たしかに、「神庭」という地名は、簡単に捨てられない。
 加茂岩倉遺跡の所在地は、雲南市加茂町岩倉である。うん? 加茂町? もしかしてあの加茂かも?
 でんでんむしが、ここでそう思ったのは、あの“景初三年の三角縁神獣鏡”が出土したのも、加茂町だったのでは…という記憶が刺激されたからなのだが…。

▼国土地理院 「地理院地図」
35度25分53.25秒 132度59分10.08秒
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dendenmushi.gif中国地方(2012/05/30 訪問)

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タグ:歴史 島根県
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コメント 2

☆はな

『隠された十字架』や『水底の歌』 若いころ 夢中で読んだ
記憶があります 
by ☆はな (2012-09-20 00:41) 

dendenmushi

@ ☆はな さんも、やっぱりそうでしたか。梅原サンの文章と展開にはちょっとクセもあったけど、ミステリアスでなかなかおもしろかったですよね。
毎日出版文化賞と大佛次郎賞を、それぞれ受けています。今も、新潮社は文庫に入れているので、若い人にもお勧めしたいですね。
by dendenmushi (2012-09-21 07:01) 

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