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882 南ノ浦岬=福岡市東区志賀島(福岡県)想像していたのとはかなり違っていた「志賀島の金印」出土の地 [岬めぐり]

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 おそらく、「志賀島の金印」を知らないという日本人は、かなり少ないのではなかろうか。中学生になって、わくわくするような期待とともに開いた教科書の、始めのほうにそれは出てくる。
 なんだかよくわからないけれど、およそ2000年くらい前に、大陸の王から日本のどこかの王へ贈られた金でできたハンコだってさ、という程度の理解しかできなかったとしても、その時代に実際にあったできごとの一断面を示してくれる“現物”があるということは、やはり相当なインパクトがあったのだろう。
 前々から、その金のハンコが発見されたという場所に興味があったのだが、これまで機会がなく、今回が初めての訪問となる志賀島は、海の中道からまた西に延びる砂州と橋でつながっている。島の北側にある「休暇村志賀島」に2泊して、そこを拠点にして周辺の岬をめぐることにした。
 休暇村のバスが、西戸崎駅前まで迎えに来てくれるので、それに乗れば島の西海岸にある金印出土地のそばの南ノ浦岬を通る。この日は日曜日だったので、宿泊客は少ないのかと思えば、迎えに来たバスは大型のバスで、車内はほぼ満席に近い。中高年の女性がほとんどで、なんと男性客はでんでんむしのほかにもう一人いたかどうか、というくらい。一人できている人もはかにはいない。
 そのほとんどは、バイキングの割安温泉旅行を気軽に楽しもうというだけで、別に金印に興味があってここを目指すわけではなさそうだ。それでも、その温泉の名が“金印の湯”というのであれば、なんらかの感想はあるだろうと思いたい。
 「金印公園」がある南ノ浦岬のすぐ先には、「蒙古塚」というのもあるのだが、バスはどちらも素知らぬ顔をして通り過ぎてしまう。そこで、翌日の朝、細々と走っている路線バスの朝一番の便に乗って、「金印塚」のバス停で降りてみた。
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 金印が出土した場所というのは、百姓が畑を耕していて偶然発見されたという場所だから、なんとなく島の平地の畑を想像していたのだが、これがなんと来てみるとまったくそれとはイメージが違っている。
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 海岸際道路のバス停から、いきなり石段が始まっていて、それを登るとさらに何段かの段差をもつわずかなスペースが、木立の間にある。そこが「金印公園」として整備されていて、さまざまの碑や説明板のほか遊歩道や東屋などがある。
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 江戸時代、金印発見者の秀治(次)さんや喜平さん(届け出たのは甚兵衛と記録にはある)というお百姓さんたちが、農作業に勤しんでいた頃、ここらはほんとうに畑だったのだろうか。島の、海から屹立する山の斜面には、うっそうと茂る樹木に覆われていて、畑作の適地とは思えないのである。ただ、当時はこうした樹木はなかったと考えるのにはムリがない。だが、たとえ樹木がなく、段々畑にするにしても、水はどうしたのだろうか。
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 ところが、甚兵衛さんの届け出た書面(志賀島資料館にあった)によると、以下のように書いている。

 「私抱田地叶の崎と申所田境之中溝水行悪敷御座候二付先月二十三日右之溝形を仕直し可申迚岸を切落居申候処小き石段々出候内二人持程の石有之かな手子にて掘り除け申候処石の間に光り候物有之二付取上水にてすすき候上見申候処金の印刻の様物に而御座候…(以下略)」

 早い話が、ここでは明らかに畑ではなく「田」といっており、その畦のようなところの水の流れが悪いのでこれを直す作業していたといっている。水もすぐすすいでいるくらいだからあった。しかも、場所も「叶の崎」というので、ここより北の叶の浜であれば、山の斜面はゆるやかになり、田くらいは充分できそうなのだ。
 天明四年三月十六日付けのこの書面は、このあと届け出が三週間も遅れたわけだが、その言いわけめいたことまで書いている。だが、せっかくのこの史料も、記録としてきわめて不完全で、出土状況の証明には至らない。“小き石段々出候内二人持程の石有之かな手子にて掘り除け”のところがとくに問題なので、長くさまざまな護論を呼んできた。
 江戸時代も中期、1782(天明2)年から1788(天明8)年にかけては、歴史に名高いことがもうひとつあって、それが“天明の大飢饉”である。岩木山や浅間山は噴火するし、悪天候が続き冷害が襲った。被害は東日本が中心ではあったが、その影響は全国的に及んでいたはずで、大坂でも打ち壊しが起こっている。ここ博多湾沿岸地域でも、食料不足に喘いでいたと思われる。
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 志賀島で金印が見つかったと記録にあるのは、天明4年であるから、ちょうどこの災厄の真っただ中でのできごと、ということになる。不思議なのは、金印の発見とこうした時代背景を、結びつけて考えることがまったくないらしいことだ。
 新田の開墾が、当面の飢饉に効果的な対策であるかどうかは別にしても、秀治さんや喜平さんたちが、わざわざこんな島の斜面を耕していたのは、そういう時代であったから、という推定は成り立たないのだろうか。
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 でんでんむし的へそまがり解釈では、掘り出したものが金だということがわかった時点で、これが金目のものだとわかる。それでも、それを私することなく役所に届けているのは、キンで腹は膨れず換金ルートもなくて飢餓の助けにはならなかったのか、それとも根が善良な人々でそんなことは毛頭思わなかったのか…。案外、届け出が三週間も遅れたのは、庄屋の添え書きにあるとおり「風説」をおそれたに相違なく、そこにはきわめて人間的なあれこれがあったと想像される。
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 この金印発見の記録というのが、秀治(次)さんや喜平さんの二人というのと、甚兵衛さん一人と、発見者の名からして二説ある。秀治(次)さんや喜平さんが発見したのを、甚兵衛さんが那珂郡奉行に提出したという説もある。その時期も2月なのか4月なのか確定していなかったり、発見の場所もここより北に寄った蒙古塚付近の叶の浜という説(これも前記書面によればうなづけるが)もあったりして、はなはだ頼りない記録なのだ。 
 「一巨石の下に三石周囲して匣(はこ)の形をした中に存した」という説もあるのだが、それを証するものもなく、出土状況は“不明”ということになっているのだ。
 実は、“確かな史料”として認められるのは、発掘された地層の確かな位置が特定できる、関連する遺物などが周辺にあるかどうかなど、なかなかきびしい条件がある。それからすると、この金印の史料としてのあやふやさが際立ってしまう。そんなことから、“偽造説”まであったらしいのだが、現在ではもちろんれっきとした「国宝」(福岡市博物館:所蔵)である。
 それは、なんといっても『後漢書』の「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」の「倭奴國」、「倭國」に「光武賜以印綬」の記述があるからなのだ。
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 南ノ浦岬は、現在金印公園がある斜面と、叶の浜の間に突き出た尾根が、能古島が浮かぶ博多湾に落ちるところである。バス停標識の先に、道路で岬をちょん切った跡のようなこぶがあるのが、わずかに岬らしさを残している。意外に近く見えるのは、壱岐の島影であろう。
 岬の海の上を、鳥の群れが舞う…。が、なにか大きな鳥に追われているようでもあり、そんな優雅なシーンではなかったのかもしれない。
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▼国土地理院 電子国土ポータル(Web.NEXT)
33.660463, 130.298918
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dendenmushi.gif九州地方(2012/10/28〜29訪問)

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タグ:歴史 福岡県
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コメント 4

ハマコウ

社会科で必ず扱われる「金印」
ぜひ行きたいところです
by ハマコウ (2012-12-01 08:27) 

ぱぱくま

ご無沙汰していたら北海道から九州になってましたね(・∀・)♪
金印思い出しましたよ!
習いましたよね。普段全く意識しないこともブログの記事で再認識する、思い出す、これブログならではですよね(笑)
by ぱぱくま (2012-12-02 09:38) 

dendenmushi

@あれは中学ではなく、このごろでは小学校からもう教えているのでしょうか? ハマコウさんが「社会科」といわれるので、ふとそんな気がして…。
by dendenmushi (2012-12-03 06:39) 

dendenmushi

@ぱぱくま さん、当でんでんむしの』岬めぐりは、みなさんが普段意識もしないようなことや、さして関心もないことがらや、辺鄙なところなことばかり書いているんだなあ、と改めて気がつきました。
by dendenmushi (2012-12-03 06:46) 

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