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883 大崎=福岡市東区勝馬(福岡県)島の岬はふたつだけでその二番目が「休暇村志賀島」のエリアにある島最西端の岬 [岬めぐり]

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 金印塚を過ぎ、蒙古塚を過ぎ、弘の集落を過ぎると見えてくるのが大崎である。志賀島を周回する道路は、なべて高度差もなく海が見える海岸のそばを走っているのだが、唯一の例外がこの大崎のところで、ここだけ高さ50メートルくらいの峠で岬を越えていく。そこだけは、道路から海が見えなくなる。
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 休暇村がいいのは、その立地条件が他の民間の温泉地やリゾート施設と違って、国有地を活用しているため、周辺にたっぷりと自然のエリアが確保されていることである。同じ迎えのバスに乗ってきた人たちも、温泉とそのゆったりとした環境に遊ぶつもりなのであろう。
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 バスが進む前方に、大崎が見えてきた。ここはこんもりとした小山が海辺に飛び出たところで、志賀島の最西端にあたる。この岬を峠で越えて下ったところは、もう「休暇村志賀島」のエリアになっている。
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 広い敷地内園地の目の前の松林の下が、下馬ヶ浜という少し赤みがかった砂が広がる砂浜になっている。下馬ヶ浜の南西の端が大崎で、北西の端には沖津島という小島を伴った出っ張りがあり、この内側に勝馬小学校と神社がある。
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 サーファーが懸命に小さな波を相手にトレーニングしているほかは、人影もない静かな砂浜の向こうには、玄界島が浮かんでいる。ここから右手、島の北側は、もう玄界灘ですよ、という意味なのだろう。玄界島には、岬はない。
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 玄界島に続いて左手にある小島は、大机島・小机島という無人島が連なるクタベ瀬という岩礁地帯で、そのさらに左の南側に顔を出してくるのは、糸島半島の最北端、西浦崎である。
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 西浦崎を押し出している山は、158メートルの蒙古山。さすがに“蒙古襲来の地”だけのことはある。あちこちにさまざまな痕跡を、現代にまで伝えている。
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 休暇村の部屋から、西浦崎に沈む夕日を眺めながら、700年も前にこの海に押し寄せた異国の軍船を思い浮かべてみる。
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 “蒙古来たる”の「元寇」は、文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)の二度にわたる。その二度の国難にさいして博多湾に“神風が吹いて神国日本を助けた”というのが通説として広まったが、実際には“神風”といわれた台風によって元の侵攻軍が壊滅的被害を被ったのは、二度目の弘安の役のことである。
 文永の役では、対馬・壱岐を侵略した元(高麗・漢・女真との連合)軍は、博多湾から太宰府への侵攻をめざした。このときは、肥前平戸から能古島にいたる松浦党の根拠地が襲われ、博多湾の今津に上陸し、早良郡姪浜などから筥崎付近まで攻め込まれ、守勢の日本軍は水城まで引かざるを得なかった。
 戦況は明らかに兵器・戦術ともに勝る元軍優位であったが、侵略軍の常として補給と戦線が整わず、また有力な将の負傷などにより、元軍は撤退する。元側の記録でも、その原因ははっきりと書いていなくて、ただ、対馬や壱岐の侵略を大きな成果としている。
 この夜間撤退の途上でなんらかの気象変化があったようだが、台風ではなかったらしい。このとき座礁する元船もいく艘かあったが、その一艘が座礁して動けなくなったのが、志賀島の西海岸付近で、ここにも蒙古塚がある。志賀島の大崎の南にある蒙古塚は、そこで捕らえられ処刑された蒙古軍兵士の供養慰霊のために、後年できたものらしい。
 志賀島は文永の役ではそれくらいのかかわりですんだので、直接戦闘に左右されることはなかったが、弘安の役ではそうはいかず、全島が蒙古軍に占領されるという事態になっている。
 この蒙古軍の戦争では、略奪は当然で、勝ったほうが負けたほうを大勢捕虜にして連れ帰って使役などに使うのが普通で、日本側は大きな損害と痛手を被った。
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 休暇村の温泉“金印の湯”は、温泉棟の玄関が別に設けられていて、立ち寄りもOKだが、午後3時以降は宿泊客専用にしてある。その温泉棟玄関の前に、志賀島資料館という目立たない小さな建物がある。
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 そのなかにはかなり古びて、昔ながらのアナログ掲示がいろいろ並んでいて、その間に交じって、元軍の鉄兜というのが、赤錆になってガラスケースに収まっていた。
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 金印と同じくらい有名な『蒙古襲来絵詞』の複製も、掲示されてはいたものの、絵もすっかり色が落ち消えかかっているのではないかというようなものだった。
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 この史料は、日本側ではほとんど唯一と言ってもいいくらい貴重で詳細、しかもイラストによる戦の記録だが、これはふたつの合戦に参加した肥後の御家人竹崎季長が、自分の手柄を奏上して報償を得る目的で描かせたものだ。が、掲示してあるその場面は、志賀島とは関係がない。志賀島では弘安の役では、竹崎も参戦した占領された島を海から攻める日本軍船などの場面も『蒙古襲来絵詞』にあるので、そっちのほうのコピーと入れ替えたほうがいい。
 竹崎さんについては、前にも熊本の岬めぐりで書いた記憶がある。そう思って調べてみたら、「271 魂崎の鼻=宇城市・松橋(熊本県)お金もそうだけど記録も大事だよ〜♪」 という項目であった。

▼国土地理院 電子国土ポータル(Web.NEXT)
33.679421, 130.287225
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dendenmushi.gif九州地方(2012/10/28〜29訪問)

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タグ:歴史 福岡県
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