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898 浜崎・白鳥崎(能古島)=福岡市西区能古(福岡県)蒙古襲来の海に浮かぶ島の南岸を眺めつつ古を想う [岬めぐり]

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 妙見岬の北に向かい合っているのは、能古島(のこのしま)の南端にあたる浜崎である。北の志賀島と並んで、博多湾を守るように湾中央でサツマイモのような形をして南北に長いこの島は、南北3.5キロ、東西2キロ、周囲12キロ。最高点が195メートル。博多湾岸の近代的な風景のすぐ目の前にある、自然豊かな島である。約200世帯、約700人ほどの住民が住んでいるが、交通手段は、妙見岬の東側愛宕浜と、島の南端浜崎の北隣の船着場の間を結ぶ市営渡船のみ。
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 全般に険しい傾斜ではないためもあって、昔から人が住み着いてきたようで、石器や弥生土器や古墳などもあるらしい。生の松原から眺める能古島は、でこぼこが小さく続くほぼ平たい形に見える。島の南の海岸に向かって右端が浜崎で、左の端が白鳥崎にあたる。
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 島の東、浜崎と妙見岬の間は、1.5キロほどしかなく、その水道を生の松原から斜めに見るとその間隔はさらに縮まって、そのわずかな隙間の向こうには、海の中道の大岳が見えたりする。
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 一方、島の西側は、白鳥崎とその対岸の今津は毘沙門山の間に2キロ幅の水道が開き、その真ん中の沖遠くには玄界島の島影が浮かんでいる。そこからずっと左に視線を水平移動させていくと、今山、今宿、そして長垂山が出っ張ってくる。この山の先には“長垂の含紅雲母ペグマタイト岩脈”として∴史跡マーク付き表記があるので、生の松原の元寇防塁には、ここから切り出した花崗岩も使われたのだろう。
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 この能古島を中心とする海こそが、蒙古襲来の海だったわけだが、そもそも元寇とはなんだったのだろう。改めて資料をなぞってみる。
 朝鮮半島の高麗に侵攻してこれを恭順させたモンゴル帝国のクビライ・ハーンは(チンギス・ハーンの孫)、雲南やベトナムにも手を伸ばし支配下においていたが、その懸案となっていたのは、揚子江南部の豊かな穀倉地帯をもつ南宋を手に入れることだった。
 その彼の野望を拡大させて、日本までも視野に入れさせたのは、一人の高麗人からの情報であった。それによって、異常なまでの日本への関心をもつことになった彼は、高麗に軍船1000隻をつくらせるよう命じる一方、日本を見下して我に従えと文書を使者に届けさせた。
 これを受け取った北条時宗の鎌倉幕府は、あらかじめモンゴルの意図を察知して、無礼な文書は無視し、徹底抗戦を決めると九州の御家人に警護を命じる。
 当時の太宰府は、白村江の戦い後に築かれた水城によって防衛線が敷かれていた。使者から太宰府の防衛体制について情報を聞いたクビライは、2、3万の兵を送れば征服ができると考えたらしい。その後どうするか、京都や鎌倉まで意識されていたかどうかはわからない。ただ、征服王朝の経験が、そういう判断を促したのだろう。
 その命によって、蒙漢と高麗からなる元の日本侵攻軍は、現在の釜山の西、合浦を基地として出航した艦隊900隻で対馬に向かう。
 後に“文永の役”と呼ばれることになる、第一次元寇は、1274(文永11)年の10月5日、元軍の対馬侵攻によって始まる。対馬を治めていた宗助国の騎兵は数十に過ぎず、対馬西岸の佐須浦に上陸した1000の元軍の敵ではなく全滅し、元軍はここで7日間にわたって島内を略奪し、島民を殺害または捕らえた。
 続いて壱岐を襲撃して、城を攻め落とすと、平戸や松浦党が守る鷹島(最近、元軍船がまるまる沈んでいるのが発見された)を攻め、能古島まで侵攻する。そのとき、この付近の海は元の軍船で埋め尽くされていたいたのだろう。
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 10月20日、今津や生の松原、博多の海岸に上陸した元軍と、守備する御家人たちとの戦闘は、確かに「てつはう」などの火薬兵器などもあり、兵力とともに元軍が勝っていたが、決して一方的にやられまくったというわけではなさそうだ。百道原から赤坂を経て太宰府を目指そうとした元軍を、日本の騎馬がおおいに破って、それ以上の侵入を防いでいる。
 元軍の被害も少なくなかった証拠には、その夜のうちに、軍船は博多湾を引きあげてしまう。長い船上での戦は兵を疲弊させ、これ以上の戦いが困難と判断したらしい。
 帰途の海上の天候状態もあって、さらに痛手を受けた元軍の3分の1は帰還できなかった。
 これに懲りないクビライは、1281(弘安4)年に再び大幅に規模を拡大した遠征軍を起こし、同じように対馬、壱岐を経て博多湾へ押し寄せた。第二次元寇 “弘安の役”であるが、このときの元軍の構成と戦跡は、前回とはいささか異なっていた。

▼国土地理院 電子国土ポータル(Web.NEXT)
33度36分32.04秒 130度18分27.95秒 33度36分46.58秒 130度17分43.15秒
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dendenmushi.gif九州地方(2012/10/30訪問)

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タグ:歴史 福岡県
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コメント 2

あや

フビライハーンじゃないの?
by あや (2017-08-06 09:35) 

dendenmushi

@「Qubilai」なので、ここでは「クビライ」としました。「フビライ」ともいいます。
by dendenmushi (2017-08-06 09:52) 

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