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□21:山陽本線と国道2号線が青崎小学校への通学路…=広島市南区青崎1-2丁目(広島県) [ある編集者の記憶遺産]

 国鉄の幹線のなかでも、複々線はそう多くないのだと、機関区か何かの見学に行って知って、なにやら誇らしく思えたものだったが、広島〜海田市間は、山陽本線と呉線が合流し並行する区間なのだ。
 その線路もまた、小学校と家を往復する通学路の一部だった。今から思うと、のんきな時代であった。線路に柵などなく、誰でもどこからでも自由に歩いたり横断したりした。
 上りの汽車が、向洋駅を出発すると、次の駅である海田市まで、大きく二か所のカーブがあり、その間の線路のレールの上を、落ちないようにバランスをとりながら、どこまで長く歩けるか、それが毎日の挑戦課題だった。
 レールの間の枕木上を歩くこともあったが、この間隔が微妙で、こどもの足でも、一つずつでは狭過ぎる、二つ飛びにすると広過ぎる。それに、よくちり紙と一緒に落とし物も落ちていたので、注意が必要だった。
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 汽車の本数も、そう多くはなかったのだろうが、それでも幹線で複々線である。旅客列車のほかに、貨物列車も走る。日本が戦後の復興路線を走り始める、まさにその助走から勢いをつけはじめた6年間、この線路を歩いていたことになるので、だんだんと本数も増え、貨物列車の長さもだんだん長くなっていった。
 ワムとか、トラとか、トキとか書かれた、貨車の記号を読んだり、車両の数を数えたり、汽車もまた遊びのネタになる。格好つけたがる汽車通学の生徒たちは、客室内には入らないで、デッキから身を乗り出すようにしてぶら下がっていた。
 が、なんといっても、あのダイナミックな蒸気機関車の動きには、魅了された。黒い煙と白い蒸気を吐きながら、大きな音を響かせて走る姿は、まさに命あるもののように見え、いつも汽車が来ると、それが過ぎるまで見送っていた。
 動輪が三つのものと四つのものがあることはわかったし、正面のライトのところに枕のようなタンクをつけたD51とそれがないC62の違いはわかったが、それ以上に興味も知識も発展しなかったのは、やはりぼんやりした小学生だったのだ。
 そんなぼんやりした小学生にも、はっきりした忘れ得ぬ記憶がある。
 あれは、小学校に入って二年目くらいのことだったろうか。当時は貴重だった、白い紙が一人に一枚配られた。それにクレヨンで赤い丸を塗りつぶし、端にご飯粒を塗って笹竹に巻き付ける。それを手に手にもって、全校生徒が行列してでかけたことがある。
 行った先は、自分の通学路である線路脇の土手だった。そこに整列して、待つうちに金ぴかの縁取りと日の丸をぶっちがいにつけ(ていたと思う)た機関車が、いつもよりおごそかにやってきた。
 そう思えたのは、それまでの先生たちの緊張ぶりが、こどもにも伝わっていたからだったのだろう。居並ぶこどもたちが手製の旗を振る前を、菊の紋章のついた窓に並んだ二つの影を乗せたお召し列車が、いつものような音をたてて、通り過ぎていった。
 終戦の翌年、東京・神奈川から始まった天皇巡幸は、昭和22年の秋の終わりには、被爆地広島を巡っている。
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 断るまでもないが、国道2号線は大阪から下関まで続く。ここでいうのはそのごく一部、広島〜海田市間だけのことである。
 これも当たり前だが、昔は結構広い大きな道だと思っていたが、二車線しかなく歩道の余地もないほどで、大きなバスやトラックが行き交えば、それだけで圧迫感がある。シャッターが降りたままの沿道の家や店も、いやがうえにも侘びしさを増す。
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 青崎と呼ばれるこの辺りには、小学校へ通い始めた頃は、まだほとんど店らしい店も数軒しかなかった。小学校を卒業する頃には、倍以上に店も増え、電気屋、散髪屋、魚屋、八百屋、クリーニング屋、自転車屋、薬屋などがここに軒を連ねていたと思う。
 この一角を過ぎる辺りには、かき打ち場(水揚げしたかきの殻を取る作業場)が、二三軒並んでいた。それからさらに東へ行くと、人家もまれになり、寄り添うように続いてくる山陽本線と並行している。
 どちらが先でいつできたのかは知らないが、山陽道も中国縦貫道もまだできる前、この二本のバイパスができるまでは、とにかくこの旧国道2号線しか、広島と東側を結ぶ道はなかった。現在は、国道2号線は青崎小学校の南側にできたバイパスにその名もとられてしまったので、いささか寂れた感じがする通りになってしまったが、当時はこれが唯一の大動脈で、この道が東へ向かう道、東から広島に入る道だったのである。
 小学校へ通うときから、この道をてくてくと、歩き始めた。当時は国道2号線も、車などはめったに通らない。信号機もひとつもない。その馬力の元が排泄物を盛大に撒き散らしながら、荷馬車はのんびりとパカパカと往来していた。
 ときどきは、この荷馬車の荷台に飛び乗って、通学した道である。こののどかな、白い道にもまた、通り過ぎたいくつものシーンがある。
 平野というものがなく、関東や関西のように、郊外電車が発達しなかった広島では、山間を縫うようにしてバスが走る。だから、今でも市街の真ん中にバスセンターがある。
 確か、小学校の社会科見学で調べた記憶によると、営業用の路線バスが、日本でいちばん最初に走ったのは広島なのだ。
 国道2号線は、俗に青バスと呼ぶ広電バス、赤バスの広島バス、ツバメマークの国鉄バス、芸陽バスに呉市営バスといったバス会社のバスが走る一大幹線道路だった。
 最初は、背中にストーブのようなものをくっつけたガタガタの木炭自動車で、それからガソリンのにおいと木の床にしみ込んだ油のにおいが懐かしいボンネットバスが走った。さらにリアエンジンになって前が平べったくなってシートがふかふかになったバスで…。
 そうだ、トレーラーという運転席と客席が分離したダックスフンドのようなバスが走っていた時期もある。
 高校時代には、これらのバスと抜きつ抜かれつの競争しながら、自転車で通学していた時期もあったが、いったい、何度この道を往復したものだろうか。
 これもまた数年前に、久しぶりに従兄弟の運転する車で、この道を走った。沿道のたたずまいが、記憶する昔の景色を浮かび上がらせ、そして戸惑わせる。
 バイパスのほうを通る車が多いので、交通量は減り、渋滞は緩和されたらしいが、すっかり寂れたとしか形容のしようがない景色に、複雑な想いだけが走っていく…。
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 いま思えば、当時の山や川の風景を撮った写真も、小学校時代の写真も卒業アルバム以外には1枚もない。それは、まだ普通の家では「写真機」を持っているところが、まったくなかったからだ。それは、青崎小学校へ通う6年間を通じていえることであった。なにしろ、小学校では校庭に並ばされて、頭から噴霧器でDDTをかけられていた、そういう時代だったのだから…。
 山陽本線の線路と国道2号線を通る通学路は、いま計ってみると1.5キロほどしかないのだが、当時はこれがかなり遠く長い道のりに思えた。もちろん、いまのように通学路が指定されているわけでもなく、毎日勝手気ままに経路を変えたりしながら、道草も適当にくいながらの通学だから、6年間も通えたのかも知れない。
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dendenmushi.gif(2013/01/29 記)

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タグ:広島県
きた!みた!印(30)  コメント(2)  トラックバック(3) 
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コメント 2

johncomeback

確かに昔は線路際にチリ紙が落ちていましたねぇ。
by johncomeback (2013-01-30 10:22) 

dendenmushi

@あの頃は、まだ誰もそれが当然、しかたないことだと受け止めていましたからね。進歩するということは、偉大なものですね。
by dendenmushi (2013-01-31 20:51) 

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