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□22:青崎小学校と貸本屋と東洋工業と…=広島市南区青崎1丁目(広島県) [ある編集者の記憶遺産]

 広島市の東のはずれ、といっても今のではない。合併に次ぐ合併で、現在の市域は拡大しているが、昔は太田川のいちばん東の支流である猿猴川(えんこう(カッパ)がわ)の東岸は、青崎というちょっと広くて大きい岬のような地形をなしていた一部を除いて、すぐ安芸郡府中町になる。広島市立青崎小学校は、猿猴川の下流左岸にあった。当時は、広島市でいちばん東の端っこになる。
 府中町の小学校は、南部にはまだなかったので、われわれ府中町南部のこどもは、市境を越えて学区外から通学していたことになる。学校の白い四角い敷地は、昔のままで変わらないように地図でみえているが、それを囲んでいた猿候川に通じる堀割の水路はなくなっている。
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 青崎小学校の図書室は前にも書いたように名ばかりの開かずの間だったので、小学校時代の本との縁は、高学年になった頃に、校門前の家が始めた貸本屋が主であった。
 大人のための貸本もあったのだろうが、こちらは棚にぎっしり並んでいるマンガしか目に入らない。『ゲゲゲの女房』でよく知られることになったが、この頃はマンガ作家も貸本向けに描いていたのだ。そんななかでも、とくに気に入っていたのが「虫」のマークがついた手塚治虫の本で、片っ端から借りた。といっても、わずかな小遣いのなかで許す範囲という限度があった。
 手塚治虫は、この少し前に『新宝島』というマンガで、鮮烈な印象を残していた。それまでの『のらくろ』や『タンクタンクロー』といったマンガにない魅力があった。映画的なシーンのつくりかたをした、いまや伝説となっているこの本は、苦労して苦労して借りてきた。借りてきたときはもうぼろぼろになっていた。
 この頃、貸すといっても誰もただで貸してはくれない。物物交換である。だから、相手が読んでいない本や雑誌を、こちらも提供しなければ借りられない。そういうルールが、いつのまにかなんとなくできあがっていた。
 そのかわり、親友でなくても顔を知っていれば誰とでも取引は成立したのである。だから、口コミでもれてくる情報をつてに、遠くの方まで自転車を飛ばして借りに出かけるということもめずらしくなかった。
 その後、光文社の雑誌『少年』で『アトム大使』が始まったのは、小学校も6年生になった1951(昭和26)年のことだった。
 小学校の門前には、よく露天の店が出ていた。こども相手に針金細工のゴム鉄砲を売るおじさんから、畑の作物を並べるおばさんまで、さまざまだった。いま思えば、日々の暮らしの糧を得るのに、大人たちはみんな大変な苦労をしていたのだ。
 そんななか、学区の親たちで比較的恵まれていたのが、勤め人と呼ばれていた東洋工業や日本製鋼所の工場勤めをする人々だったろう。こどもの間でも、「うちはトーヨーじゃけん」というのは、自慢にできた。エリートという言葉もサラリーマンという言葉もまだなかったが、青崎小学校のすぐ近くの隣から、もう東洋工業の工場だった。
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 東洋工業(現:マツダ)は、国道2号線と猿猴川に挟まれた、ウナギの寝床のような南北に長い土地に、会社とその工場があったのだ。現在は、昔はなかった何本もの橋が、猿猴川の下流域に架かっているので、その橋を渡って眺めると、工場のバックには府中町の北東の外境界にもなっている呉婆々宇の山塊が連なっている。
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 工場の大半は広島市に属しているが、たまたま本社の建物があるところは、広島市ではなく府中町なので、この小さな町の税収にも貢献している。そのため、合併ばやりの今でも、周りがぐるりと広島市になった今でも、府中町だけは安芸郡府中町のままである。
 朝と夕暮れの向洋駅は、列車で通勤する大勢の人であふれていた。マイカー通勤など、誰にも想像できない時代のことである。
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dendenmushi.gif(2013/02/01 記)

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タグ:広島県
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