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991 神明崎2=気仙沼市(宮城県)たくさんの船が流され陸に置き去りにされたが最後まで残った“第十八共徳丸”も… [岬めぐり]

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 神明崎の五十鈴神社になる前は、丸森にあった村社だったらしいと、前項で書いたが、この丸森というのは気仙沼駅の西北西数百メートルのところ、現在の地名では“古町”という名に変えられ、くくられている場所である。そこらには、マンションやアパートの名前に“丸森”がたくさん残っているのだが、その名も“古墳”を想像させる。
 この付近は、南北を山に挟まれた谷間のような地形で、川のない谷間が港まで続き、それと港周辺が気仙沼市の市街地の中心である。JRの気仙沼線も谷間の南の山を避けるように大迂回して気仙沼駅まできて、ここからは北と西へは大船渡線に接続している。
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 単なる想像だが、この気仙沼駅から市役所を経て湾までは、その大昔には海水が入り込んでいたのではないか。そんなことを思わせる地形で、狭い平地からすぐに傾斜地が始まっている、その港近くの斜面に上に建物に載せた体育館のようなのがひときわ目立っているのは、気仙沼女子高である。
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 フェリーが着くエースポートがあったところは魚町といい、岸壁のそばには公園があったようだ。その一角には無残な姿になった『港町ブルース』(深津武志作詞・猪侯公章作曲)の歌碑があった。これも、山のほうではなく海のほうに傾いているところをみると、引き波の力を強く受けたことによるものだろう。
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 この歌には、確かに13もの港(港町)が出てくるが、その二番で「港 宮古 釜石 気仙沼」と三陸の港町を歌い込んでいる。
 被災からまだ間もない頃、避難所慰問にやって来た森進一は、気仙沼市の体育館で、この歌を歌った。
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 魚町から神明崎を越えて東へ行くと、気仙沼湾の北の奥は、造船所などが集まっている地域になる。そこらは魚浜町、浜町、本浜町、新浜町と、一文字しりとりのように続くが、その一帯は水が残る低地として国土地理院の電子国土ポータルの地図では表されているのも、ちょっと不思議だったが…。
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 写真に切り替えてみると、黒い筋のように見えるところがあるが、これが水路なのだろうか。狭まった湾から盛り上がった津波が、高台もないこの地域に押し寄せたとき、すべての家が流されたが、造船所や港にあったくさんあった船も流された。
 写真の左上が、大船渡線の鹿折唐桑駅があったところで、その右下付近に、黒い舟形が斜めにあるのがわかるだろう。
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 ここは、唐桑半島からの帰りのバスから撮った写真のほうを…。
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 これが、330トンの巻き網漁船“第十八共徳丸”で、気仙沼湾から800メートルも内陸に運ばれて置き去りにされた。もちろん、流されて陸に打ち上げられた船はほかにも数知れずあったわけだが、この船だけが残されてきたのは、遺構として残したいと考えていた市が、船主から借り受けていたからだ。kesennuma10.jpg
 その貸借期限が切れたのを機に、「晒し者になっていて、傷んできているのでこのままほおって置けないし、被災者に辛い思いをさせるに忍びない」との主旨で船主は解体を選んたと、つい先頃もニュースで報じられたばかりだ。
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 その前に、保存をあきらめられない市は、全世帯を対象に船の保存の賛否を問うアンケートを実施したが、「保存の必要はない」との回答が68.3%を占めたという。
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 すっかり有名になったこの陸にあげられた船は、2013年夏の終わり頃には、もう姿を消しているはずである。
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 休日などには、車でこれを見にやってきて、写真を撮って帰る人も多いらしい。この日も、団体で視察に来たらしいおじさんたちの一団が周辺にはいた。とにかく、船もさることながら、鹿折唐桑駅から港にかけての広い一帯が、まったくなんにもない。あるのは、復興商店街らしき一角のほかは草に埋もれたかつての建物の跡ばかりである。
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 被災直後にテレビで流された映像のなかで、気仙沼のそれは火災が記憶に残っている。湾内のあちこちで石油タンクが流され、流失した油が燃えて、広範囲に火災を起こしていた。
 気仙沼湾の景色として、それは当分忘れることはできないだろう。
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 あの菅江真澄もちゃんとやってきているようなので、昔からある程度は知られていたのだろう。だが、江戸時代に東北の各地をくまなく歩き回っていた菅江真澄は、かなり特殊な存在で、神明崎が気仙沼のシンボルのようにして、広く観光名所に名乗りをあげたのは、どうやら1927(昭和2)年からではないかとみられる。
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 五十鈴神社の境内には、高い石柱が立っていた。これが、その年に発表された東京日日新聞等主催の「日本百景」選定記念碑であったからだ。3年後に建てられた碑の大きさからも、当時このイベントの意義と影響がわかる。
 
 これやこの ひがし日本の海のなか海 くろしほはくる 親しほはくる
 
 そこに刻まれている地元出身の熊谷武雄の歌は、なんとなく知っていた。
 1900(明治33)年には、旧制盛岡中学の生徒だった石川啄木は、気仙沼にやってきて生まれて初めて海を見て、ここ“神明崎から大島を眺望し”三陸海岸を北上した、という記録もあるらしいが、神明崎から大島を眺めるというのは…?
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▼国土地理院 電子国土ポータル(Web.NEXT)
38.906401, 141.579001
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dendenmushi.gif東北地方(2013/07/04訪問)

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きた!みた!印 29

コメント 2

ハマコウ

再開発する前の遺跡の発掘
なかなか大変なようです
by ハマコウ (2013-08-20 10:35) 

dendenmushi

@過去の遺跡の発掘調査も、未来へ残す遺構の保存も、それぞれいろんな課題がありそうですね。
by dendenmushi (2013-08-22 06:17) 

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