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1005 釧路埼(知人岬)=釧路市米町2丁目・知人町(北海道)日本で唯一残った営業採炭を続ける炭坑と地図にない岬 [岬めぐり]

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 原則として、国土地理院の電子国土ポータル地図にある岬表記を訪ねて行くのが、この岬めぐりの基本方針だが、襟裳岬から石炭岬まで150キロと、白糠町の石炭岬から釧路の市街地を挟んで厚岸町の尻羽岬まで60キロの間では、その表記がまったくない。岬不毛地帯は、石炭岬からさらに東へも延々続いていたのだ。
 それもあまりにさびしいなあと思っていたら、釧路の町に釧路埼灯台というのがあることがわかった。また、その付近は釧路港の南埠頭の近くで、地元では知人(しりと)岬と表記しているマップもあることもわかった。
 ほほう。ならば行かねばなるまい。釧路にひとつも岬がないのはあまりにさびしいから…。
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 今夜の宿である釧路プリンスホテルにチェックインすると、日暮れまでにはまだ少し時間があるとみて、ホテル前のバス停から、またくしろバスに乗る。路線名も“たくぼく線”というそのバスは、釧路川を幣舞橋で渡ると、南大通りを米町へ向かう。釧路埼灯台のバス停で降りたところは、大きなお寺が大屋根を連ねる間の住宅地で、寺の坂を上って抜けると、なるほど釧路埼灯台があった。
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 周りの土地には厳重な柵が巡らしてあり、競売の告知かなにかのような看板があったが、よく確かめずに過ぎた。
 電柱とか、電線というものは、どこでもいかにも我が物顔である。電気のない暮らしは考えられないから、これまではそれもいたしかたない、当然と思い込んできた。だが、福島の東電のありさまを伝え聞くうちに、どうしてもこのままでよいとは思えなくなってくる。
 つい先日、鎌倉の小町通りを歩いていて、おや感じが違う、と思った。それは、電線と電柱が地中化されていたからだった。
 灯光会の看板もあるので、れっきとした灯台には違いなさそうなのだが、その姿はいつも見慣れた灯台とは、ずいぶん趣が異なる。
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 どこやらの漫画家のマコトちゃんハウスにも似た赤白だんだらの建物は、灯台というよりビルである。なんだかやたら痛め付けられたような跡が残る灯光会の看板の、読みにくい文字を読んでみると、“霧の町釧路”に出入りする船舶の安全のためここに灯台が設けられたのは、1899(明治32)年のことで、釧路港開港の8年前に点灯されたという。港のできる前に灯台があるのは…と、一瞬考えたが、さほどおかしなことではないのだろう。
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 2001(平成13)年に船舶通航信号所と合同することになって、現在のような建物になったらしい。釧路埼灯台があれば、ここに釧路﨑があってもよさそうなものだが、釧路﨑も知人岬も、現在の地図では表記がない。
 そのかわり、灯台の南沖には広い岩礁地帯が示されていて、そこには知人礁という名がついている。これを見ると、いかにもここには灯台が入り用だが、石炭岬と同じく海面には格別な変化はなかった。
 国土地理院の地図でも、知人礁の海岸には「知人駅」として3本の引き込み線が描かれていた。
 灯台の下に広がる風景が飛び込んでくると、ハッと息を吞む。
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 そこには、大きな野積みの黒い石炭の山と貨車が入ってくる高架線路が、異様な迫力をもって、でーんと岬の下に構えていた。
 これは、太平洋炭礦の積出集積港であった。貨車でこの製炭貯炭工場に運ばれた石炭は、専用船で日本各地に運ばれている。
 その名前で思い出されるのは、昔のガス爆発事故である。1954(昭和29)年8月に起きたこの事故では、39名の犠牲者が出た。
 なんとなく、この当時の新聞紙面まで浮かんでくるような気がするのはなぜだろう。
 因みに、1954年という年には、初の集団就職列車が上野駅に着き、ビキニ水爆実験で第五福竜丸が被災し、ソ連で世界初の原子力発電所が稼働し、洞爺丸事故が起こり、「ゴジラ」が現れた。
 当時、悲惨な炭鉱事故は全国各地で続発していて、とくに北海道では多かったような記憶がある。
 ただ、前身の安田炭礦が1897(明治30)年に採掘を始めて以来、2002(平成14)年の閉山に至るまでの間、太平洋炭礦での事故は、この昭和29年のときだけであった。
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 世界遺産候補に名乗りを上げる軍艦島もそうだったが、いくつかの炭鉱では、坑道をどんどん広げて、海底の下まで掘り進んでいたが、この炭鉱も知人礁の下とその沖にかけて、広く坑道が張り巡らされていた。釧路埼灯台の東側の興津・益浦には、国土地理院の地図では炭鉱マークと共に「釧路炭鉱」と明記してある。この付近が太平洋炭礦の本拠らしいが、その周辺はすっかり住宅団地に取り囲まれているようだ。
 だけど、すでに閉山しているのに、なんでこんな石炭山が港に残っているの?
 それなんですがね、現在は釧路コールマイン株式会社という地元出資の会社が事業規模を縮小して引き継ぎ、年間約55万(別の資料では70万とも)トンもの営業採炭を継続中なのです。
 閉山した炭鉱のものをどうすれば使えるのか、その実態はよくわからないが、設備などはすべて旧太平洋炭礦のものを使って、“もたざる経営を鉱山で実施し”ているのだという。
 石炭岬とならんで、幕末に始まった北海道初のオソツナイ(獺津内=現在の釧路市益浦付近)での採炭は、いまや日本で唯一の営業採炭を続ける炭坑となっている。

▼国土地理院 電子国土ポータル(Web.NEXT)
42.967796, 144.374571
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dendenmushi.gif北海道地方(2013/09/03訪問)

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タグ:北海道
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