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1022 ノッカマップ岬=根室市牧の内(北海道)このアイヌゆかり地で小さな白黒灯台は35号線から遠く眺めながら [岬めぐり]

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 ほらね、この北西の端っこも牧の内なんですよ。根室半島の東側はほとんどが牧の内といってもいいくらい…。ノッカマップの目印は、なんといっても小さな灯台よりはるかに目立つこの二基の風車である。
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 ノッカマップ岬は、丸い弧を描く低い台地であるが、灯台があるのがここらの他の岬とは違うところだ。黒と白に塗り分けられた灯台は、北海道と東北の一部で見たくらいである。霧のなかでも目立つように、という想像はシロウトでもできるし、それならば黒よりも花咲岬や湯沸岬のように赤のほうがいいようにも思う。
 当然、海上保安庁ではこういう白赤横帯塗色については規定を設けていて、「防波堤灯台等で左舷(塗色:白、灯色:緑)又は右舷(塗色:赤、灯色:赤)を明示する灯台以外は、原則として塗色:白、灯色:白」としている。灯台の色は塗色も灯色も「白」が原則なのだ。
 しかし、“原則には例外あり”という原則どおり、「背景又は地理的な条件等により、白色では視認が困難である場合においては、白色と赤色又は白色と黒色をそれぞれ交互に帯状に塗色することができる」となっている。
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 その塗り分けの幅なども、そこはお役所らしくきっちり決められていて、「構造物の頂部までの高さをほぼ奇数等分した値」でなければならない。したがって、背の低い灯台では、せいぜい3等分くらいにしかならないのだ。
 だが、白色と赤色か、あるいは白色と黒色の使い分けについては、どうも基準はないようだ。
 「おいら岬の〜」の総天然色映画『喜びも悲しみも幾歳月』(昭和32)の映画と歌は、岬めぐりにもおおいに関係があるのだが、当時は歌詞冒頭の「おいら(俺ら)」と主演の佐田啓二(中井貴一さんのお父さんです)のイメージが合わないのがどうも気になっていた。三浦半島の観音埼灯台からスタートする映画は、全国各地の灯台でロケが行なわれていた。一説によると、その撮影当時、石狩灯台で冬の場面を撮影するとき、雪の中でも目立つように白赤に塗り替えられた、という。それを契機にして、他の積雪地の灯台でも視認性がよい赤帯を採用するようになった、とは海上保安部のページにもある情報なのだが、そもそも映画のために白赤に塗り替えるようなゆるいことがあったのか、それがどこでどういういきさつによるのかは、よくわからない。
 灯台の塗装については、前にもどこかで書いたかなあと、ここまで書いて思ったが…。それに、ここで白黒灯台をいうには、ちょっと遠いのでそれも小さくしかわからないが、ま、いいか。
 いずれにしろ、ここに灯台が必要と思われたのは、根室半島がここから西へはだんだんと南に下っていくからだろう。それも、国後島などとの往来を考えると、きわめて重要だったはずである。
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 ノッカマップ岬の手前には、北方原生花園というところがある。「のさっぷ号」がわざわざ根室半島北海岸のルートをとっているのは、実はひとえにこれを売り物にしたいからなのだろう。降りて歩くわけではなく、車窓からだけだが、それでもシーズンには充分なのだろうか。だが、今はオフシーズンでガイドの説明も「ある」というだけで過ぎてしまう。ノッカマップ川とそれが注ぐ小さな湾も、岬からは2キロ近く離れている。
 まだ、アイヌが蝦夷地や国後島などの主であった頃は、この広い出っ張りの一帯が、主要な拠点であったものと想像できる。それは、松前藩が進める道東への経略のなかで、当初は根室場所(物資の集まる集積交易場所のことで相撲の興行ではない)で、をここに置いていたことからもわかる。
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 1778(安永7)年とその翌年、通商を求めるロシア人シェパーリンは、国後島のアイヌ首長に案内させて、根室半島のここノッカマップに来航し、松前藩と交渉していた。そのことも、頭に入れておくと、この岬の位置の意味も理解できる。
 今、道道35号線は、素知らぬ顔で灯台から750メートルも離れたところを通り過ぎて行く。遊覧バスのガイド説明にもないので、誰も気がつかないうちに流れ過ぎてしまう。折りたたまれた雪囲いが続く道路脇の向こうに広がる景色のなかから、どうにかそれが岬であることを証明する灯台を探し出す。
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 そして、納沙布岬にあった石碑のこと、さらには バラサン岬の国泰寺にあったアイヌのための慰霊碑 のことを思い出す。
 「帰せ北方領土 納沙布岬」の大きな木柱が立つところから流れてくる観光客も、ちょっと足を止めるが、ほとんどたいした意識もなく通り過ぎて、北方館や土産物屋に行ってしまう。
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 その「横死七十一人之墓」と掘られた“寛政の蜂起和人殉難墓碑”も、けっこう大きなものだが、隣の案内板には「寛政元(1789)年五月、国後島とメナシ(現在の標津町付近)のアイヌの人々が、当時この地域の場所請負人であった飛騨屋久兵衛の支配人らに脅されて、僅かな報酬で労働を強いられ、やむなく蜂起し和人七十一人を殺害した。」とこの事件の原因から述べている。
 そこには、これを立てた根室市の配慮も伺えるが、“横死”を強調する墓碑そのものは、“にっくきアイヌに殺されてしまった”という、被害者からの片面しかない。松前藩は、蜂起の指導者37人をノッカマップで処刑しているのだが、その墓はどこにあるのだろうか。
 事件で死亡した和人のため1812(文化9)年につくられたこの墓碑には、誰がどこでつくったのかわからずナゾも多い。発見されたのが、ちょうどそれから100年後の1912(明治45)年で、その発見場所も珸瑶瑁の港であったというのも、因縁話めいている。珸瑶瑁の墓地にあったのを、納沙布岬にcされたのは1968(昭和43)年であるという。それもナゾだが、なぜ処刑地のノッカマップではなく納沙布に移したのかのナゾは、容易に解けそうだ。ノッカマップに置いても、誰も見る人はいないのだ。
 “寛政クナシリ・メシナ アイヌ蜂起”と、歴史に刻まれたこの事件は、ほとんどの歴史好き日本人も知らない。だが、「北海道の高校の副読本に、クナシリ・メナシアイヌの一斉蜂起を扱ったものがある」とChinchikoPapa さんから教えてもらった。それは、「番外:根室半島=日本最東端」の項で、根室市のホームページにその概略があることを参考までに紹介したときのことだったが、そのときはリンクをつけていなかったので、改めてリンクを付けて再紹介することにした。なお、この根室市の「歴史について」の「クナシリ・メナシの戦い」の項は、根室歴史研究会発行『クナシリ・メナシの戦い』を要約したものであるという。
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▼国土地理院 電子国土ポータル(Web.NEXT)
43.391377, 145.652871
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dendenmushi.gif北海道地方(2013/09/06訪問)

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