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1037 神崎=西彼杵郡時津町西時津郷(長崎県)ここが日本二十六聖人らの上陸をも見守った岬であればなにかいわれでも… [岬めぐり]

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 長崎空港から乗った連絡船が、時津港に着くと、その桟橋の真正面に小高い丘が工場の間に浮かび上がってくる。この先っちょに神崎という名が付いている。そこはまだ西時津郷だが、すぐにある小さな掘割の南は浜田郷。白い大きな建屋が目立つのは、三菱電機の工場である。
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 この付近には公園や遊歩道などの整備がされていたようだが、もう完成したのだろうか。
 で神崎はどうやら普通に「かんざき」と読むらしく、なにかの神様ともキリスト教とも関連がないようだ。少なくとも、そういう匂いを示す情報には行き当たらない。
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 キリスト教を思い浮かべたのは、いうまでもなく長崎が歴史な布教の最前線であり、多くの信者といろいろなできごとを刻んできた土地柄だからである。
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 現に、時津の桟橋を出たところには、「日本二十六聖人上陸の地」という記念碑が建っている。あいにくとその証拠写真がないのは、ちょうど船で着いたときには、その碑の前にぺったりへばりついてなかなか離れようとしない二人連れのご婦人があったからだ。
 その人達を入れずに写真をとることができずに、あきらめてバスのりばを探しに行ってしまうことになったのだ。
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 日本二十六聖人ってなに? まあ、信者ではないたいていの日本人はそんな程度であろう。でんでんむしもその一人であった。
 日本のキリスト教布教の歴史も、なかなかの紆余曲折があって簡単に理解することができず悩ましいところだが、この殉教に至る一連のできごとも、きわめてわかりにくい。
 ザビエルが来日して、キリスト教を伝えたのは1549年、その後はキリシタン大名も現れるようなって、長崎が開港したのが1570年である。信長も秀吉もキリスト教は容認していたが、1587年に秀吉が出したバテレン追放令は、ひとつの転機となった。 
 国民統合の柱を崩す元としてキリスト教の布教を禁じ神父を追放したが、南蛮貿易の利益を温存するため商人などの活動は制限されなかったし、信仰の自由を徹底的に禁止したものではない。また、これが文禄の役で筑前箱崎に出向いていた時期であることは、留意しておくべきであろう。
 1593年になると、フランシスコ会の宣教師ペドロ・バプチスタがフィリピン総督の使節として来日する。彼こそが、問題の二十六聖人の筆頭になるのだが、このときは肥前名護屋(こんどは九州征伐)で豊臣秀吉に謁見し、その後京都に教会を建てたりして活動している。
 バテレン追放令はどうなったの? といいたいわけであるが、ここらへんにイエスズ会とフランシスコ会の確執と情報の不足と誤判断などが、双方にあったかもしれない。日本の施政者の行動をある程度理解していたと思われるイエスズ会は、とくに都周辺での活動を抑制して目立たぬようにしていた。
 殉教事件の直接原因としてサン・フェリペ号事件(遭難して土佐に漂着したスペインのガレオン船の積み荷などをめぐるゴタゴタ)が挙げられていることも多いが、これもいろいろな行き違いの結果生まれた背景の一つであろう。ただ、これが契機になって禁教令が出され、フランシスコ会を中心とする宣教師らと日本人20名の信者の逮捕、そして彼らを長崎に送って処刑という大事件になっていく。ここらあたりが、いまひとつよくわからないところではあるのだが…。
 それに加えて、文禄の役に続いてちょうど慶長の役が始まるところで、秀吉の晩年の愚行奇行につながる精神状態と、統治機構もうまく働かなくなっていて、スペインに対しても明確な対外政策もなかった。秀吉は捕らえた者の鼻と耳を削げと命じたが、石田三成はこれには全面的には従わず片耳だけにし、イエスズ会の3人だけでもなんとか助けようとしたが、それさえもうまくいかなかった。
 その当時のさまざまな要素のめぐり合わせで起きてしまった、不幸な事件というしかないような気もする。さらに言えば、この事件がスペインはじめヨーロッパの教会と信者に衝撃を持って広く伝えられ、大きな反響を起こした(それで「聖人」に列せられる)ことさえ、日本側の意識のなかになかったことも問題だったろう。
 26人(元は24人だったが途中で2人増える)を、わざわざ長崎まで送って処刑するというのも、なにかイヤなものを感じて仕方がないが、彼らもまた彼杵から船で時津に上陸したのである。唐丸籠に入れられ、沿道のものみだかい群衆からは石を投げ付けられてきた彼らには、彼杵から時津までの短い船の旅路は、道中初めてのいっときの平安であったろう。
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 この航路が、長崎街道と並んで長崎への道であったことは、先の絵図でも明確に示されているので、再録しておこう。つまり、時津は長崎の出入口、主要な街道の町でもあった。
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▼国土地理院 「地理院地図」
32.835523, 129.849661
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dendenmushi.gif九州地方(2013/11/02訪問)

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タグ:長崎 歴史
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