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番外:東長崎=矢上は長崎街道の宿場(長崎県)なんとなくもやっとしていたこのあたりを鳥瞰してみると… [番外]

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 Macintoshの新OSであるOS X Mavericksのマップについては、「1035 崎野ノ鼻」の項 では、ボロカスに書いていたのだけど、これには3Dボタンがついていて、これを使えば、ただ真上からの地図的表現だけでなく、鳥瞰図のような斜め上からの俯瞰ができる。鳥になって空を飛びながら、地上を眺めることができるわけだ。
 いまいち画像は気に入らないが、一部は色調補正も試しつつ、東長崎の付近を中心にみてみょう。この辺りについては、まったく予備知識がなかったので、どういうところかを改めて概観しておきたいのと、それから長崎の岬めぐりに入ったとは言いながら、大村湾南部や橘湾の、誰も知らないようなマイナーなところばかりが続いているので、ちゃんと整理してまとめておく必要もあろう。
 そんな意味で、番外として長崎シリーズの入り口部分のまとめを兼ねて。
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 東長崎といえば、東京の人なら椎名町の次でしょと思うだろうし、日藝の人は江古田のいっこ袋寄りだろというが、ここは長崎県の長崎市。その東だから東長崎なのだが、その呼称が一般に広く定着しているかといえば、さほどでもないようだ。
 確かに、東の端っこには違いない。戸石の東側も北側も諫早市と境を接する山で囲まれている。しかし、長崎バスの路線図では、空白状態となっているこの場所も、れっきとした長崎市内である。この矢上・古賀・かき道・戸石・牧島などという地名を中心として、橘湾に面した地域この一帯は、1963(昭和38)年に長崎市に編入される前は、西彼杵郡東長崎町と呼ばれていた地域である。
 もうちょっと遡れば、西彼杵郡矢上村・北高来郡戸石村・北高来郡古賀村の3村が合併して、西彼杵郡東長崎町が発足したのは、1955(昭和30)年のことであった。
 意外に思うのは、ここまでもが時津や長与と同じ「西彼杵郡」だったということと、この町が旧郡をまたいでできていたことだ。その郡を分けていたのは、どうやら八郎川のようだ。郡を異にするという意味は、今の人間が思うほどには、簡単でどうでもいいことではなかったはずだ。
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 東長崎町が西彼杵郡と北高来郡と二つの異なる郡を越えてできたことで、結果として現在長崎市の領域は東へぐっと広がったわけだが…。その前はというと、どうも八郎川から東部は佐賀藩の領域であったようだ。
 先には、「1033 小崎鼻・二見瀬鼻」 の項 では、多良見について「なんとなく鍋島領かと思っていたので、意外な展開である。といっても、それは単にでんでんむしの早とちりで、多良見が諫早になったのが近年のことで、このあたりは全部大村藩だった」と書いていた。
 また、前項でも無意識のうちに「江戸時代にはここ(牧島)に諫早藩が馬放牧場を設けていた」と書いていた。鍋島領はともかく「諫早藩」はやはり間違いであったといわなければなるまい。
 佐賀藩はもともと、戦国時代からの支配者であった龍造寺氏で、それからその家臣であった鍋島氏へ支配が移るのに、かなりの年月を要している。その長年の経緯には、鍋島の化け猫騒動を生むお家騒動的なこともあった。その結果、佐賀藩(鍋島藩)は龍造寺の勢力もかかえたままで、その分家のひとつが諫早を収めていた諫早家であった。
 諫早は、あくまでも佐賀藩の一部で、御親類同格として領主から一目も二目も置かれていて、かなりの自治権まであったという。
 その諫早氏は、長崎に一番近いことから長崎警備を分担したうえ、長崎街道を往来する奉行などの公用旅行者のサービスまでする任務を負っていた。
 簡単に整理すると、長崎は直轄領で奉行が置かれていた。その北と東では大村藩と境を接していた。当時は多良見までが大村藩で、その東は佐賀藩であった。だいたいそう考えてもよかろう。
 その佐賀藩諫早領の宿役屋敷が、矢上にも置かれていた。矢上の番所は、長崎代官支配地と佐賀鍋島藩の諌早氏の治める地との境界にある重要ポイントだった。番所橋が架かっている川は八郎川ではなく、西から流れてきて合流する中尾川である。
 つまり、この矢上という場所は八郎川の右岸にもかかわらず、長崎と諫早の綱引きが常にあった場所と考えられるわけで、こうなると長崎奉行支配地と諫早領と大村藩の関係は、なんとなくもやもやとなる。
 八郎川河口の東望というところが、昔はきれいな白砂青松の海岸で、県下有数の海水浴場だったという。現在では、東望という地名もなくなっていて、公園やバス停にその痕跡が残るのみ。
 既に「1030 梅崎」の項「1037 神崎」の項 で、二度のお勤めを果たしているケンペル『日本誌』(1727)に収録されている元禄頃の長崎街道の古絵地図に、もう一度登場してもらおう。(大活躍! 彼杵から時津の間の航路がちゃんと点線で示されているこの図は、見れば見るほど想像が広がる。あ、気がつきましたか? 上掲のOS X Mavericksのマップの3Dは、この古絵地図にできるだけ対応させるように俯瞰角度を設定してみました。)
nagasakikaidoM.jpg
 牧島はないが大村湾の二つの島が目立つ。ひとつは臼島とするともうひとつの島は? これが長崎空港…でしょうね。
 長崎=小倉間で25の宿場があった長崎街道では、長崎から数えるとまず最初の宿場が日見だが、それが“Fimi”と記されている。その次の“Jagami”が矢上であろう。“Koga”の上にある“Kamo Jaki”が、鴨崎という岬も地名もないしどうもよくわからないが、多良見の喜々津付近のようだ。
 ほほう、現在では橘湾と称しているが、これは“Aba”、網場湾だったのか。そして、矢上から古賀への道が、広い河口を渡っている。これは八郎川で、現在もその河口付近では川幅180メートル近くある。だが、埋立が行なわれていなかった当時の河口は、この絵図のとおりもっと広かった。
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 ここを船で渡ることもあったのかもしれないが、長崎街道の本線は、日見峠を下ると切通から東望道を北に進み、番所橋から矢上を過ぎ、上流の川幅が狭くなったところから八郎川を東に渡って古賀に向かったと思われる。
 宿町の網場道バス停の南は、かつては日見の山から流れる川の河口の湿地帯だったようにみえる。そこには今は長崎総合科学大学人間環境学部という長ったらしい名の学校や、長崎ペンギン水族館などがあるが、その南側はもう日見で、地理院地図ではそこには「界」という表記がある。
 その名は、長崎天領と佐賀領との境界を意味していたのではないか。
 番所橋のバス停には、長崎バスと長崎県営バスのふたつの標識と時刻表があり、それを見ると長崎バスは本数がほとんどなく、赤い長崎県営バスのほうがメインだった。この東長崎から諫早にかけては、長崎バスではなく長崎県営バスの領分らしい。
 かと思うと、最近の情報では長崎県営バスが矢上ローカル線を廃止して、長崎バスがそのあとに進出するのではないかともいわれているようだ。
 なんとなく、複雑でわかりにくく、一筋縄でいかないバスの路線にも、この地のさまざまな歴史が投影されているような気がしてきた。

▼国土地理院 「地理院地図」
32.766386, 129.948209
higashinagasakiM.jpg
dendenmushi.gif九州地方(2013/11/02訪問)

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