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番外:じいちゃんがこどもだった頃=孫たちに語る70(〜65)年前のことなどを(その2) [番外DB]

 「人間一生のうちにこんなに変わるんだなぁ」と思うことがある。70年前に戦争が終わったときには、じいちゃんはまだ小学校へ行く前だった…。前の続きだよ。

・きものはきもの
 この頃はまだ写真機(カメラのことね)を持っている家はなく、したがって写真というものが小学校の卒業アルバム以外はまったくないので、どんなものを着ていたのか履いていたのか、実はあまり記憶もないしよくわからないんだ。
 学校へもみんな好き勝手な服装で行っていたと思うが、学生服というのも後にはでてきたし、靴もズック靴だったろうね。けどね、まだ小学校も始めの頃にはゲタやゾウリで通う子もたくさんいたね。
 長靴も普通ではなかったから、雨の日も雪の日もゲタを履いて通ったこともある。ゲタで雪の道をあるくとね、歯の間に雪の塊がはさまって、ときどき脱いで、一本足で立ったままたたき落とさないといけなかった。
 
・食べもの
 これがまた、よくおぼえていなくてわからない。いったい毎日どんなものを食べていたんだろうね。この頃は外食という習慣も店もなかったから、三度三度の食事って大変だったろうと思う。こどもは、用意されたもの出されたものを食べるだけだったし、じいちゃんの家には田んぼも畑もあったから、まあ恵まれていたほうなんだろう。都会の人は、この戦争の後には食べることではみんなとても苦労をしたんだよ。
 まあ、粗食(そしょく:そまつな食事)だったには違いない。お米だけのごはんは「銀飯(ぎんめし)」といって、特別なときにしか食べられなくて、普通はお米と押し麦を混ぜた「麦飯(むぎめし)」だった。
 お魚はあったけれど、お肉はめったに食べなかったかなあ。近所にもお肉屋さんがなかったから…。
 
・家電気水道
 戦争が終わった後に住んでいた家は、畑の中に建つ木造の平屋建て。玄関と二畳の間に、八畳の座敷と六畳の部屋に台所の土間が続いていた。
 電気はあったけど、ガスも水道もない。そういう暮らし、想像できるかな。
 電気はもっぱら夜の電灯とラジオだけね。そのほかの電気器具というものは、まったくなかったんだ。だから、家の中にもコンセントというものもなくてね。天井からブラ下がっている白い傘を付けた電灯もせいぜい60ワットくらいの電球でほの暗い感じ。
 松下さんが発明した二股ソケットからコードを垂らして、白熱灯電球をこたつの熱源にしていたけど、あれはわが家のじいちゃん(じいちゃんのじいちゃん)の発明だったのかなあ。
 水道がないから、家々で井戸を掘って、それから手押しポンプで水をくみ上げて使っていた。
 台所には流しと水瓶(みずがめ)と柄杓(ひしゃく)があって、土でできたかまどがあったから、これだけみると江戸時代とまったく同じだね。
 
・炊事かまど
 かまどで煮炊きして調理するのも大変だよね。まず、火を起こすところから始めなければならないけど、これだって最初は燃えやすい小さくて細い木ぎれや紙などで火を起こし、それから薪が燃えるようにしなければならない。江戸時代にもあった付け木もまだあったけど、点火するのはマッチだったね。
 火が燃えるには空気が必要だから、火吹き竹というもので、フーフーと息を送り込んだりする。煙がでるから煙突も必要だ。
 かまどとは別に、やはり土でできた七輪というコンロもあって、こっちでは炭で火をおこし、やかんやなべなどをかける。

・風呂便所
 お風呂は五右衛門風呂といって、鉄の大きな釜の下で火を燃やして湯を沸かしてその中に入る形ね。鉄が熱くなるから、底に板などを沈めてその上に入るんだ。
 風呂も沸かすのがひと仕事だ。火を絶やさないように燃やさなければならないからね。じいちゃんも、よく風呂焚きをやったなあ。薪も燃やしたけど、不要品の焼却というのも兼ねていたんだ。
 この頃はトイレなんて言葉はなかったから、便所というのが普通の呼び方だった。水洗もないから、みんな和式の汲み取り式。
 どの家でもだいたい、北側の端っこにあって、手水という手洗いの水を入れた容器と手ぬぐいがぶら下がっていて、なぜがヤツデの木なんかが植えられていたり、ちょっとしゃれたところではつくばいなんかも置いてあった。

・部屋
 部屋はとうぜんながら全部タタミを敷いた部屋で、部屋と部屋の仕切りは襖(ふすま)。縁側との仕切りは障子(しょうじ)。ほんとに日本の古い家って紙と木でできていたようなもんだね。ガラスの窓もあったけどね。
 壁は、竹でつくった編み目に土を練って塗り込む塗り壁が普通。
 タタミの部屋は、いろんな目的に使えるという点では便利だった。個室というような考え方は、この頃にはまだどこにもなかったね。
 だから、小学校の終わり頃に、玄関脇の2畳の部屋をじいちゃんの勉強部屋ということにしてもらったときにはうれしかったのを覚えている。

関連リンク:
□20:ふるさとはと問われればそれはやはり「青崎」か?…=安芸郡府中町青崎東(広島県) [ある編集者の記憶遺産]
□21:山陽本線と国道2号線が青崎小学校への通学路…=広島市南区青崎1-2丁目(広島県) [ある編集者の記憶遺産]
□22:青崎小学校と貸本屋と東洋工業と…=広島市南区青崎1丁目(広島県) [ある編集者の記憶遺産]

dendenmushi.gif2015/07/01 記

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コメント 2

dairo

私の田舎(福岡県農村部)の50〜60年前とほとんど同じですな。運動会は裸足で走ってましたね。風呂敷に教科書を包んでいました。
by dairo (2015-07-01 06:47) 

dendenmushi

@Dario さん、そうでしたね。風呂敷もね、教科書とノートを包んで、腰にまいたりして…。でもそれは少し後のほうかな。
体操の時間も裸足だった。
だから、足洗い場というのもあったりしました。
by dendenmushi (2015-07-02 19:45) 

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