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番外:じいちゃんがこどもだった頃=孫たちに語る70(〜65)年前のことなどを(その3) [番外DB]

 「人間一生のうちにこんなに変わるんだなぁ」と思うことがある。70年前に戦争が終わったときには、じいちゃんはまだ小学校へ行く前で、その翌年から一年生になった…。前からの続きだけど今回でいちおうおしまいです。
 
・ラジオと新聞
 じいちゃんがこどもの頃には、テレビなどというものはなかった。もちろん、ゲーム機もコンピュータもインターネットもない。(テレビは中学生の頃くらいからかな。コンピュータ関係のは、ここ20〜30年くらいの間に進歩したものだ。)
 ラジオと新聞はいちばんの情報源だった。ラジオは真空管式の箱型で、一家に一台。一人一台ではないから、聞きたい人はみんなラジオの前に集まってくる。NHKが第1と第2、それに進駐軍の放送しかない。
 夕方の連続放送劇など、こども向けの番組は逃さず聞いていた。外で遊んでいても、放送が始まる前には家に帰ってラジオの前に座っていた。
 新聞はとっていたけど、朝刊だけ。難しい字が多くて読めなかったけど、大きな見出しと4こまマンガは見ていた。
 それとね、新聞が役に立つのは書かれているニュースや情報だけではない。新聞紙という紙としての使い道が非常に広く、役立ちが大きかった。とにかく、店で買い物をしても、なんでも新聞紙でくるむ包む。(便所の落とし紙にもなった!)
 紙が貴重で、たとえば学校で習字の時間(書道)があっても、清書に使える半紙は一枚しかない。それで、練習用には新聞紙に書くんだ。
 
・本や雑誌
 戦争に負けた後の日本は、なにもかも物資が不足していて、紙も始めのうちは配給制になっていたりしたから、本や雑誌もほんの少しだけで、今のようにたくさんはなかった。
 一年生になったときには教科書もまだなくて、大きな紙を先生のいうとおりに折ってたたんで切ったのが教科書代わりだった。
 本も点数は非常に少なく、本屋もあまりなかったので、せいぜい年に二回、盆と正月におこずかいをもらって、こども向けの雑誌を買うのが楽しみだった。
 雑誌の付録が目あてだったりしてね。今でもこども雑誌の付録はパンパンにふくらむほどだけど、昔から付録は人気だったんだ。カメラに現像液や定着液なんかがセットになったのまであったなあ。ま、これは小学校も終わり頃だろうけど…。
 
・電話郵便
 原爆で焼けた家には電話もあったけど、畑の家には電話なんかなかった。ずっと後になって、国道のたばこ屋さんに赤い公衆電話が登場したくらいで、どこにも電話がある家なんてなかったんだ。
 じゃあ連絡なんかはどうしていたかというと、まずたいていは郵便で、よほど急ぐときには電報。電報だって電話がないんだから、電報局まで行かないと打つことができない。
 誰かがどこかに用事あって行くときでも、あらかじめ電話で予定を聞いて約束を取り付けるということはできないから、たいていはいきなり行って突然現れるというのが普通だった。ましてや、今のこどものように遊びの予約までしなければならないようなことはなかったね。
 
・商店行商
 家があった場所は、町から少し離れていたので、いちばん近くの町らしいとこ、青崎まで行かなければ店らしい店がなかった。もちろん、今君たちがお母さんの車に乗ってスーパーやショッピングセンターに行くようなことはできなかった。第一、車なんてどこにもない。
 商品の種類や数も、比べものにならないほどわずかしかなかったんだろうけど、みんなそれで暮らしていた。
 多かったのは、行商というもので、これは自転車やリヤカーに積んだ商品を売り歩く。豆腐屋さんなんか定期的に来ていた。移動スーパーのようなものもまだなくて、たいていは魚とか、鰹節削り(はながつお)のような乾物とか果物とかだったけどね。
 夏には、ところてん売りやわらび餅を売りに来るおじさんもいた。
 食べ物ではないけど、金魚屋さんもよく来てたなあ。
 こういう行商は、みんなそれぞれ売り声があったり、注意を引くために鐘やラッパを吹いたりしてね…。
 
・自家製
 じいちゃんのじいちゃんが器用で、いろんなことをやっていたせいもあるけど、たいていのことは自分の家のなかで間にあうように、自家製のものも多かった。コウジを発酵させてミソなんかも自分チでつくっていたし、一枚だけだったけど田んぼで収穫した籾も、自分とこの臼でつくんだ。
 百姓をやっていたので家には、足踏みの大きな臼があって、これを踏むのをよくやったし、精米はまた一升瓶に入れた米を棒で突くのを繰り返す…。そんなこともやっていた。

・ニワトリとウサギ
 家で飼っていたのは、ネコもいたけどこれはあまり役に立たない。役に立つのはニワトリ。大きな鶏小屋に何羽もニワトリを飼っていて、その餌やりや卵の取り入れなどの世話もこどもの仕事だった。産みたての卵はまだほかほかであったかくて…。
 どんな役に立っていたのかわがらないけど、あるときにはウサギも飼っていた。ウサギにやる草は、あまり水っぽいのはダメで、少し乾かしてからやっていた。

・ハエとカとゴキブリとホタル
 ハエやカは、そこらじゅうにたくさんいたし、ゴキブリもごく普通にそこらを這い回っていたね。しばらくして、DDTという害虫駆除用の薬品も普及し始めるけれども、彼らは少々のことではこたえない。
 ハエは生ものを売る商店ではやはり気にしていたから、ハエを捕るガラスの容器やハエ叩きやハエ取り紙、ハエ取りリボンなどというものが盛んに出て、家でも使われていた。
 座敷に寝っ転がっていると、周りにぶんぶんハエが止まるので、それをハエ叩きで叩くのは、ゲームみたいなおもしろさもあった。
 家は開けっ放しが普通だったから、夜は蚊帳(かや)という薄いアミのような布でできた四角いテントのようなものを部屋の中に吊って、その中に布団を敷いて寝る。蚊遣りとか蚊取り線香なども、必需品だった。
 DDTがそこらに撒かれるようになる前には、ホタルがたくさん飛び回っていた。家の中に入ってくることもよくあったよ。
 まだ扇風機も普及はしておらず、夏の暑いときでも、ウチワであおいで風を送るとか、行水に打ち水、木陰で涼むくらいしかなかった。
 
・火鉢とコタツ
 夏の暑さはまだしのげるけど、冬の寒さが木造の家ではこたえる。これも江戸時代と大して変わらないのだろうけど、暖房はもっぱら火鉢とコタツ。
 炭をおこして灰の中に埋めて、それで暖をとるしかない。あとは、綿入れなんかをしっかり着込んで…。
 
・洗濯アイロンがけ洗い張り
 つまり、今はどの家にもある家電製品というものが、まったくなかった存在していなかったわけだ。
 冷暖房装置エアコンはもちろんのこと、洗濯機も掃除機もアイロンも炊飯器も冷蔵庫もなかった。けど、そのうちではアイロンは比較的早く登場したのかも知れないね。
 昔のお母さんは、とっても大変だったよ。洗濯はタライに水を入れて洗濯板というでこぼこの刻みをつけた板の上で石鹸を付けてこするようにして洗う。掃除は箒(ほうき)とハタキとぞうきんで…。アイロンがけはね、赤く焼けた炭を入れる鉄の火熨斗(ひのし)が使われていたと思う。
 女の人の着るものも、まだ洋服というのが一般に広まる前で、普通に着物を着ていたね。
 着物というのは、実はすごいものでね。一枚の布から着物に裁つて、成長に合わせて丈を調節したり、染め直しをしたり、洗い張りといって一度解いた生地を洗い直して、また仕立て直すというようなことを、どこの家でもお母さんは普通にやっていたんだよ。

 こうして書いてみると、もっともっといろいろなことを書かなければならないような気がしてきて、終わらなくなってしまいそうだ。
 家の田んぼや畑のことも、書けばたくさんありそうな気もする。学校でのことなんかも、そうだ。
 だけど、今回はこの辺でいちおう終わりということにしておきましょう。
 わからないことなんかあったら、また質問してね。
 
 以上、「じいちゃんがこどもだった頃」のお話でした。

関連リンク:
□20:ふるさとはと問われればそれはやはり「青崎」か?…=安芸郡府中町青崎東(広島県) [ある編集者の記憶遺産]
□21:山陽本線と国道2号線が青崎小学校への通学路…=広島市南区青崎1-2丁目(広島県) [ある編集者の記憶遺産]
□22:青崎小学校と貸本屋と東洋工業と…=広島市南区青崎1丁目(広島県) [ある編集者の記憶遺産]

dendenmushi.gif2015/07/03 記

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タグ:歴史
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コメント 2

dairo

新聞とラジオではどちらのほうが役に立つか? それは新聞。ラジオでは弁当箱が包めない。などという冗談が流行ってましたね。

by dairo (2015-07-03 06:38) 

dendenmushi

@最近はネットでもニュースが読めるとかいって、新聞の定期購読しない人も増えているようですが、そういう場合「新聞紙」がなくて不便してるんでしょうね。
by dendenmushi (2015-07-04 13:47) 

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