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番外:引田は「ひきた」でなく白鳥は「しらとり」でなく大内は「おおうち」にあらず=東かがわ市引田(香川県)この海辺の町が栄えた頃 [番外]

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 海なし県は別にして、また島嶼部も別にすると、香川県の海岸線はそう長くない。ざっと見でも富山県や京都府や佐賀県よりはちょっと長いか、という程度である。瀬戸内海に北面して、お椀を伏せたようなその海岸線では、その東のお椀の縁にあるのが東かがわ市であるが、香川県の東端のこの市には残念ながら岬がひとつもない。
 引田港の北には半島状に突き出た小山があり、灯台まであるのだが、どういうわけか岬の名はないのだ。かといって、このまま素通りするのも、もったいないので番外。今回の讃岐の岬めぐりは、 前項の徳島遠望からこの東かがわ市の番外を経て、さぬき市、高松市、坂出市、丸亀市、多度津町、三豊市、観音寺市と海岸線を東から西へ辿る。今回も実際の行動は前後するが、項目は地図の東から西への順である。
 まずはそのいちばん東側、東かがわ市というのは、2003(平成15)年に香川県大川郡引田町(ひけたちょう)、白鳥町(しろとりちょう)、大内町(おおちちょう)が合併と同時に市制を施行してできた、比較的新しい市である。「ひけた」だけでなく、「しろとり」も「おおち」も、誰もが読むであろう普通の読み方ではないところがおもしろいが、それはともかく…。
 一字違いでややこしいが、大川郡は明治期に敷かれた郡制でその範囲は現在の東かがわ市と西隣りのさぬき市を合わせた地域のことである。そして、その東半分の東かがわ市の市域は、明治期まで讃岐で1000年以上の永い間にわたって続いてきた、「大内郡」と呼ばれてきた地域と重なっている。
 例によって、でんでんむしの岬めぐりは、その訪問地について事前の下調べをいっさいしない方針なので、初めての駅に降り立ち、初めての町を地図だけを頼りにふらふらと歩いて行く。いつもそのようにして、前から知っていたこととは別にそこで初めて見聞きしたものを、“ほ~”とか“ヘー”とか新鮮な感動とともに受け止める。
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 この雨の降る讃岐の古い町の“ほ~”は、なかなかにレトロな印象であった。空襲にも震災にも大火にもあわない幸運に恵まれた、大きな高い建物もない町並みは、全体に黒っぽい。2階が低く虫籠窓と呼ばれる小さな窓が申し訳のようについているのが特徴。古い商店街もあると街角の案内板が示す辺りは、ちょうど道路工事中で入れない。
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 結構激しい雨の中を、とても“らんらんらん”という気分ではないが、ちゃぷちゃぷ港に向かって歩いていると、いかにも古そうな家々が並び、そのいくつかには歴史的建物として保存されているものらしい。
 そうした建物のなかのひとつ「讃州井筒屋敷」は、東かがわ市が保存のため所有し改修して公開しているもの。雨宿りを兼ねて飛び込んだ。
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 各地方の素封家には、酒造や醸造などを業として財をなしたものが多いが、引田御三家といわれたひとつ佐野家も、元禄時代からの醤油づくりで全国的に引田醤油(“ヒゲタしょうゆ”とは音が似ているが、それは銚子発祥なのでこれとは関係がない)の名を広めたといわれる。
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 この家の住居や蔵などを公開していて、イベント等にも使われているようで、ちょうどこの日は結婚式前の写真撮りかなにかが行なわれていたので、座敷や離れのほうには入るのを遠慮した。写真左上の白無垢が花嫁さんである。
 受付で昆布茶をごちそうになって、陳列を見ていてわかったのは、なんと引田は和三盆の発祥の地であるという。“ヘー”である。
 あの暴れん坊将軍吉宗の時代に、高松藩がサトウキビの栽培を始め、それまで黒糖中心だったが、“盆のうえで三度研いで白くする”和三盆の製法を編み出したものという。ここでは和三盆を固めて型抜きする干菓子づくりなどの体験ができるらしい。隣の阿波にも和三盆はある。
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 引田付近の古絵地図が展示してあったが、山が西北からの風を防ぐ地形に囲まれた丸い港は、瀬戸内海航路の重要な港のひとつであったことがよくわかる。なぜなら、ここは大坂にいちばん近い讃岐である。渦潮の合間をぬって鳴門海峡を通ってもいいが、淡路島の西岸に沿って北上し岩屋を回れば大坂はすぐだ。
 そして、内海航路は、陸上交通が発達して車のまま四国へ往来することができる現代では、想像もできないほどに重要であった。
 その引田港に出入りする船の船舵職人の子に生まれた久米通賢(1780〜1841)は、日本で初めて実測地図をつくった人で、それは伊能忠敬よりも早かったという。もっとも、その地図の範囲は讃岐にとどまりごく狭かったが、その2年後に伊能測量隊がやってきたときにはついて協力したという。外国船が日本沿海に出没する時期、この人は測量のほか洋学への関心からか海防に熱を入れるようになり、高松藩で銃器や軍艦の設計をするかと思えば、坂出の塩田開発をしたり、農業用揚水機やマッチなどいくつもの発明品も残したりして、“讃岐のエジソン”として地元では偉人のひとりに数えられている。
 地理院地図を見ると、引田港に流れ込む小海川の北に海に突き出た城山の内側に「引田」という地名がある。そのほかにも松原とか大池・安戸池といった汽水湖のような地形もあり、西へ山を越えると白鳥や三本松の町がある。
 この城山の内側を見ていると、直線で区切られた広い田圃があるので、またしても勝手な憶測では、ここにある「引田」こそが、“田を引く=干拓”からきたこの地名の起こりではなかったかと思える。
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 引田駅に戻る頃には雨もようやく小降りになり、高徳線で津田まで引き返す電車を待つ間にほぼ止んだ。花が飾られた駅の陸橋に上がってみたが、城山の下の海は見えない。
 そうそう、笠置シズ子はこの町の生まれだった。(七尾市のところで、七尾伶子のことを書くのを忘れていたので、ここは忘れずに…。どっちも知らん? 昭和も遠くなりにけりじゃのう。)
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▼国土地理院 「地理院地図」
34度13分28.10秒 134度24分7.73秒
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dendenmushi.gif四国地方(2015/11/02 訪問)

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タグ:香川県
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