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1348 乃生岬=坂出市王越町乃生(香川県)坂出市街はほとんど海だったと考えられ松山の津は雌山雄山の東あたり [岬めぐり]

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 王越のこどもたちが、松山小学校までどのようにして通学しているのかは知らない。あるいはスクールバスでもあるのかもしれないが、弓弦羽=王越は日祝日運休となる琴参バス王越線で通学するとすれば、時間がいささか早くなってしまう。仮に路線バスで通うとすると、王越から役場前を回って西脇に出て、そこから乃生湾を右に見ながら乃生岬を反時計回りにくるりと回る。このときに、右手の車窓には瀬戸大橋が長々と島伝いに岡山に向かって伸びていくのが見える。
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 乃生岬(この名も神功皇后がらみらしい)から岬の西岸を南に向かい、大屋冨から須賀、高屋を経て松山小学校前まで、ほぼ真っすぐくだっていくことになる。バスに乗っている間は20分ほどだが、本数が少ないのでやはりバス通学は大変そうだ。
 王越線のバスで乃生岬から南に下る車窓からの風景を見ながら、松山の津と坂出について考えてみよう。
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 坂出港近くには、雌山(164.5メートル)と雄山(139.9メートル)というふたつの山がぽこぽこと並んでいる。そこから東には東山(168メートル)があり、その間に松山小学校はある。「松山の津」というのは、どうやらこのあたりであったらしい。「津」は「湊」の意味だから、ここらまで船が入っていたことになる。matsuyamaM-1.jpg
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 塩田で沖へ展開して、また近年では埋め立てで広がっていった坂出の大部分は、現在の中心市街地を含め、かつては一面海だったのだろう。五色台の北峰と白峰山の間で青海川の流れる谷は、奥深い入江になっていたのだろう。入江の口は北の土岳と南の雌山の間が港の入口になっていたのだろうか。
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 雄山から南東側にかけては、芦が茂る綾川の広い河川敷となっていたのではないか。
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 崇徳院の名は、こどもの頃から百人一首の有名な歌で知っていたが、「われても末にあはむとぞ思ふ」というのは、落語でも有名なように一般に解釈されている恋の歌のふりをして、実は中央政界への返り咲きの願望を込めたのではないか、という説がある。
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 “院”と呼ばれることになったこの頃は、鳥羽天皇に退位を迫られて不本意ながら幼い弟である近衛天皇に天皇の位を譲った(1141=永治元)後である。その近衛天皇が若くして亡くなると、その子がなかったため鳥羽天皇は崇徳院の復活の期待に反して後白河天皇を立てる。これが伏線となって鳥羽天皇の死後に、し烈な後継争いが起こる。宮廷政治ではありがちなことだが、公家の抗争がからむ。これに待賢門院派と美福門院派の勢力争いや、平家と源氏が対立する以前の武士が加わって、まさしく乱となる。
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 陰謀やらなんやらいろいろあって、結局1156(保元元)年、負けた崇徳院は讃岐に流されて松山の津に上陸し、その後3年は林田の仮御所(雲井御所)で過ごしている。現在も坂出市林田町があり、雲井橋・新雲井橋があり、上流のほうの橋の近くに雲井御所の石碑がある。
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 それから綾川のもっと上流の、府中の鼓岡の木ノ丸殿に移る。そこは現在鼓岡神社になっているところだという。そこでの讃岐院(流されてからはそう呼ばれた)は、毎日写経に勤しみ、五部の大乗経の経文を完成させる。それに「浜千鳥 跡は都へ通えども 身は松山に 音をのみぞなく」と歌を添えて八幡山か高野山に収めてほしいと都に送るのだが、朝廷は受け取らず送り返してしまう。
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 それで狂わんばかりに怒り、舌を噛み経巻の奥に誓言を血書し、竜宮へ納め給えと槌戸の海に沈めたという伝説は、そこから生まれる。これがさらに髪もひげも剃らず爪も切らずボロをまとい悪念三昧で都を呪う大魔王といったイメージに膨らんでいく。悲運の末の怨霊化という筋書きがここにもできあがるのだが、実際はそんなことはなく、怒りや恨みを乗り越えておだやかに過ごしたのではないかという話もあるので、真実はよくわからない。
 1164(長寛2)年に鼓岡で亡くなってから、12年後に崇徳の諡号を贈られている。御陵は白峰山にある。
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 さて、乃生岬が最後で坂出市の岬めぐりは終わる。これより西にかけては坂出市も宇多津町も、丸亀市も多度津町も岬がない海岸線が続く。工場地帯が進出して海が埋め立てられたことも大きいし、その前から塩浜をつくる製塩業が盛んだったこともあるかもしれない。
 この付近の塩田は、赤穂から移住してきた製塩技術をもつ者などが住み着くようになって開けたと言われている。浅野家が赤穂に入るのは1645(正保2)年のことで、それ以前は岡山藩主池田家の五男政綱が分知により起こした藩を弟の輝興がついでいたが、これがどうしょうもない藩主で、領民が他国へ朝散するという事態になっていたようだ。この時代、果たして住民に移住の自由があったのかどうか疑問もあるが、事実としてそのようなことがあったのだろう。
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 彼らは津の山麓辺りに仮住いをすると、遠浅の海に築提して塩浜をつくりはじめたが、これに福江村の人々も加わって、塩田集落をつくった。そして、坂出の語源については、「それを見た宇足津(宇多津)の人が,「坂(田尾坂)を出るといつの間にか所々に家が建ち,寄洲を埋め立てて村が出来ている」と驚き伝えた。それから“坂出”というようになったと古文書に書かれている。」と坂出市のサイトにはあった。
 田尾坂がどこかはよくわからなかったが、笠山の麓に福江町がある。そして、ちょうど瀬戸大橋から瀬戸中央自動車道が降りてくる宇多津と坂出市の境界に「角山=つのやま」があり、その北に坂下という地名があり、新浜町の付近が最初に塩田ができはじめたところらしい。
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▼国土地理院 「地理院地図」
34度22分57.48秒 133度53分44.68秒
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dendenmushi.gif四国地方(2015/10/31 訪問)

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タグ:香川県 歴史
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