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番外:せたな町から島牧村へ=黒松内町字熱郛(北海道)再び長万部へ戻って今度は黒松内・寿都経由で島牧の海岸線を行く [番外]

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 第二富磯から折り返すバスに乗って、北檜山まで戻り、そこで長万部行きの函館バスに乗り換える。きた道を引き返すわけだが、18:40発のそのバスが最終バスとなる。
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 このバスには、檜山北高校からたくさんの生徒が乗ってきて、バスは満員状態になった。金曜日の放課後の部活を終えて帰る生徒たちを、学校の構内に設けられているバス停まで、先生が3人も見送りに出ていた。それでも「さよなら」の挨拶もなく、黙ってバスに乗り込んでいくのも今風なのだろう。それとも、個々に挨拶を交わすのはめんどくさいというので、バスが来る前にまとめて挨拶は済ませているのだろうか。
 多くは今金で降りるが、もうあたりがすっかり暗くなる国縫で降りた子がひとり、最後の長万部駅前まで降りない野球部の子もひとりいた。これを毎日通うのは大変だろう。
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 ひととおり懸案だった毛無山沿岸と、三本杉から茂津多岬にかけての間は、なんとかこれで終了。
 長万部で温泉に浸かって、翌朝また早朝の長万部駅まで。毛ガニと東京理科大がセットになった柱が立つ駅前は、いっそう静かでまだタクシーもきていない。その脇に置いたような白い箱は、この北海道あちこちで見かけたキャンピングカー。いかにも、団塊世代とおぼしき夫婦が、駅前のトイレに用があって停めているらしい。
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 前日はこの駅前で、温泉街へ行くのに、長万部町と長万部観光協会が立てたこの案内看板のおかげで、ちょっと混乱した。出入り口がひとつしかない長万部駅の正面は南東方向に向いていて、出て正面が海に向かっている。ところが、駅前にこれひとつしかない案内板は、海が下のほうに描かれている。地図は北が上という原則論は、こういう観光案内図の類で振り回す必要はないと思うのだが、この図だと、駅の方を向いて広場を背にして見るのが適当で、設置場所を間違えている。
 せめて、看板を見ながら立っている人の、視線に合わせるくらいの配慮はしてほしいものだ。こういうことは、看板を描くつくる人も描かせつくらせる人もまったく、その目的を理解していないようなもので、こういうことが平気でまかり通るのも、まだまだ世の中に意外に多いものだが、町と観光協会がこのありさまではね。
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 函館本線の始発で長万部からまず黒松内まで行く。始発電車は06:00発の小樽行きなので、宿で朝食をとる時間もない。なにしろ、この次の便ときたら13:18発の倶知安行きまでないのだから、しかたがない。こういうダイヤだから、函館「本線」なんてのは明らかに名前負けしている。
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  長万部からは直接、黒松内・寿都へ行くバスも、あることはあるのだが、午前と午後の日に2本しかない。だが、黒松内まで行けば、そこから出る寿都行きが 朝・昼・夕と3本あり、寿都へ行くにはこれに乗るしかないのだ。そして、島牧村へ入るには、まず寿都まで行かなければならない。今度は、もう函館バスではなくて、ニセコバスになる。
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 長万部から黒松内までは、一両のワンマンカーで30分もかからない。途中なかなか深い森を抜けるのだが、黒松内はブナの北限としても知られている。その北限が北へ移動しているということも、前に書いたような気がする。前回もこの駅にはやってきていて、駅前を突き当たったところにある小間旅館に泊まった。
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 その時にもそして今回も、なんとかそのブナ林のそばくらいまで行けないかと、あれこれ努力はしてみたのだが、結局車の利用者以外は来るな、と言われているようで果たせない。
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 このルートは、渡島半島の付け根あたりを南北に縦断するもので、ここにも昔には鉄道があった。
 わが国でも、国鉄が全国を制覇する前には、各地で民営の鉄道が多く走っていたもので、多くは乗合馬車が走っていたところが、鉄道に変わった。函館本線の黒松内駅から寿都町の寿都駅まで、16.5キロの営業路線があった寿都鉄道もそのひとつであった。
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 北檜山と国縫の間の線路は、国鉄からJRへの移行と同時期に廃線になっていたが、ここを走っていた寿都(すっつ)鉄道は民営の鉄道で、瀬棚線に先立つこと10年余前に廃線になっている。開通したのは、寿都鉄道のほうが9年ほど早いから、どちらの線路も10年ずれながらほぼ同じ長さの期間だけ、境界線を描く狩場山山塊を挟んで北と南でそれぞれ走っていたことになる。
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 なぜ、ここに(こんなところに…と言っては失礼だが)鉄道があったのだろうか。
 それは、寿都には最初には金銀も採掘した銅や亜鉛などを産出した鉱山が、1893(明治26)年から1962(昭和37)年まで稼働していたことと、ニシン景気に沸いた町でもあったからだろう。
 そして、同様に鉱山とニシン景気で栄えていた鉄道が、もう1本寿都鉄道の北で半島を15キロの線路を敷いて、やはり函館本線に接続していた。それが岩内と共和町小沢の間を、1912(大正元)年から1985(昭和60)年まで走っていた国鉄の岩内線である。寿都鉄道もなんとかこのなかでは先輩格の岩内線に接続連絡することで存続を夢見ていたようだが、それは果たせず、1968年朱太川の氾濫で線路が流され、ついに運行休止に追い込まれた。
 瀬棚線、寿都鉄道、岩内線と、渡島半島北部で同じように函館本線から西の日本海と結ぼうという鉄道が3本もあり、南の江差線と合わせて計4路線も走っていたわけだ。
 そのうちでは、いちばん長く、いちばん遅くまで走っていたのが1913年開業の江差線で、民営化後の2014年に廃止され、とうとう半島を東西に結ぶ鉄道はまったくなくなってしまった。思えば、江差線だけは廃止のだいぶ前、2007年に乗っていたのでこれも貴重な体験となった。

 156 相泊岬=檜山郡江差町字柏町(北海道)あれからニシンはどこへいったやら〜
 
 岩内線と寿都鉄道の後を受け継いだのが、ニセコバスなのだ。こうして、鉄道の夢の跡を辿るニセコバスは、一路黒松内から北の寿都へ向かって走り、寿都のバスターミナルからは、島牧線に乗り換えて島牧村の海岸線を西へ進んで行く予定だ。
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▼国土地理院 「地理院地図」
42度41分15.85秒 140度18分16.85秒
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dendenmushi.gif北海道地方(2017/06/30 訪問)

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タグ:北海道
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