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番外:火山体験遊歩道=三宅村阿古(東京都)1983(昭和58)年10月の噴火で島の中心だった旧阿古集落は呑み込まれた [番外]

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 このあたりはもういちいち地図を見ないで、頭のなかの地図だけを頼りにふらふらと歩き回ったので、行動が計画的でなくなってしまった。夕景浜からの始発バスの時間に遅れては大変だ。早朝ぶらぶら散歩のつもりが、時間配分を誤って、遊歩道のなかをすべて回り切ることはできなかった。
 赤い黒い溶岩が冷えて固まるまでのように、時間が多くのものを変えていく。おそろしくつらいかなしい経験の跡に、“遊歩”という文字を当てはめても、誰もさほどに違和感を覚えないのだろう。
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 1983(昭和58)年10月3日の2時頃から、測候所の地震計に前駆的微動が記録され始め、15時23分頃に雄山南西山腹二男山付近に生じた割れ目から噴火が始まった。
 この割れ目噴火で噴出した溶岩流が、南西側に流れ出した先には、当時の島の中心であった阿古地区には、520世帯1300の人々とその家が固まっていた。そこは観光と漁業の中心地でもあり、温泉も湧いていた。そのため、阿古温泉郷とまで言われて繁栄していた。
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 溶岩流は、その集落を襲い、町並みをすべて飲み込んでしまったが、このときは、日本で初めてという流れる溶岩流に放水して冷却させる試みも行なわれ、海に落ちる寸前で流れは止まったようだ。人的被害はなかったが、噴火が昼間だったこと、ちょうどその1か月ちょっと前に防災訓練を実施したばかりだったこともあって、住民関係者が沈着冷静な行動をとれたため、と言われている。
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 溶岩流や火山灰等の噴出物総量は、国土地理院の測定では計2000万トンに達し、噴火前後に発生した101回の有感地震のなかで最大のものは、3日のマグニチュード6.2、震度5であった。
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 火山体験遊歩道は、その溶岩流の西側の一部の上に設けられている。
 その案内板によれば、阿古地区の人々が避難する最終バスが出た10分後に、溶岩流が集落を呑み込んでいったという。その後も残っていた消防団や警察や医療関係者は、道路が遮断されたため、漁船で避難した。
 噴火後の3か月後でも、溶岩は熱を持ち続け、その上を歩くと靴底のゴムが溶けた。
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 火山体験遊歩道ができたのがいつか、はっきりとした記録が三宅村の情報にも見つからないのだが、2000年の全島避難が解除になって、帰島がかなった後で、島の復興再生を図る事業の一環として、溶岩流の上に木道を設けるなど整備されたものらしい。
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 遊歩道の西の端に、溶岩と草に埋もれるようにして、コンクリートの四角い建物が二棟ある。これが阿古小学校と阿古中学校の跡である。その間には溶岩樹型も残されているらしいが、そこまでは行っていない。急いで行けば充分行けたのだけど、なんかねどうでもよくなってしまって…。(これも老化現象でしょうか)
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 この遊歩道の東、夕景浜から一周道路へ出たところ付近は鉄砲場と呼ばれているが、ここにも溶岩流に埋まった自動車などがあるらしい。
 遊歩道の南には、三宅村役場があり、そこから道路を挟んで海寄りに下りたところに、阿古温泉郷の名残りであろうか、“ふるさとの湯”という村営の温泉施設(地熱で海水が温められた天然かけ流し)もあった。ここは、観光施設というより、どちらかといえば島の銭湯のような感じで、実際島民の人はそういう使い方をしているらしい。
 もちろん、入浴してきましたが、それはこの早朝の遊歩道とは別の行程でね。
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▼国土地理院 「地理院地図」
34度4分46.46秒 139度28分49.38秒
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1383 大鼻=三宅村伊ヶ谷(東京都)“人形岩”もある夕景浜から眺める岬は50メートルの崖でその向こうには伊豆岬も [岬めぐり]

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 2000年の噴火以前には、雄山は直径約1.8キロの八丁平カルデラを中心として、その外側に直径約4キロの桑木平カルデラを含む二重カルデラになっていた。それが2000年の噴火で内側の八丁平カルデラが消えるほどの大陥没が起きて、このため雄山の最高点の高さも820メートルから775メートルに変わり、噴火口は全体的に南へ移動している。
 地理院地図で見ると、700メートルの外輪山西側から800メートル下ったところに479メートルの表記があり、そこからまた西へ1.2キロ下ると300メートルの表記がある。この標高300メートルのラインの内側は傾斜も緩くなっていて、桑木平カルデラを示している。
 三宅島全体が直径で8キロとちょっとくらいしかないので、桑木平カルデラだけで島の半分占めていたことになる。これも三宅島が思った以上に扁平な理由だったのかもしれない。
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 大鼻はこの301メートル地点から西へ1.5キロで、50メートルの断崖となって海に落ちる岩礁の出っ張りである。地理院地図では、大鼻の出っ張り岩礁の北側に、温泉マークがある。あるいは、自然噴気やお湯の湧出でもあるのだろうか。だが、そこに温泉があるなどとは三宅島の情報ではまったくない。そこは伊ヶ谷港から夕景浜まで続く断崖地帯の南で、そこへ行く道などなにもない。 
 2000年の噴火時には、この大鼻沖の海底で海底火山の噴火が多数起こり、変色海域が広がった。 
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 大鼻も、南の夕景浜から見るしかない。大鼻も大崎と同類項だが、でんでんむしの勝手な想像では、“崎”と“鼻”を比較すれば、どちらかというと“鼻”のほうが少し小さいような印象がある。大崎ほど多くはないが、大鼻もまた鼻と呼ばれる岬の大きいのにつく名前だ。
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 ここの大鼻は、切り立った高い崖になっているので、古い時代の溶岩流が海食崖によって削られたとみてよいのであろう。
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 ちょうど大鼻の奥には、なだらかな溶岩流の姿を示す伊豆岬が横たわり、対照の妙をみせる風景をつくっている。
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 夕景浜の集落は、浜側の数戸と道路上の数戸に分かれているようだが、廃屋のような建物もある。夕景浜のバス停はその中間の道路脇にあるが、その向いにあるコンクリートの建物も、廃墟で草に埋もれている。
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 その前に、三宅村が立てた看板がある。“人形岩”と題したその文言は、この手の看板にはめずらしく、なかなかに文学的でもある。
 「噴火の繰り返されるこの地で、自然が織り成す美しい造形は、有史以来の形をとどめ、巡りくる時の移ろいと島人の永遠の幸せをいつまでも見守り続けてくれるでしょう。」と結ばれているが、はて、その人形岩なるものはどこにあるんだろう。辺りを見回しても、草の陰を覗いてみてもそれらしいものはどこにもない。
 へんなの、と思いながら小さな浜のほうに降りて行くと、お寺と墓地が崖に張り付いている。そこでふと振り返ってみると、ありました。人形岩! 今ならさしずめ“人面岩”というところだろうが、いつの頃かはわからない昔には、やはり“人形”だったのだろう
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 道路から見たときは、ちょうど逆光で朝日が眼を指していたので、わからなかったのか。
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 「いつとはなく、この岩は島人のこの世の幸せと、来世を願う火の神の化身として崇められ、親しまれている。」とも言うのだが、観光協会のマップやガイドなどにも、人形岩のことはどこにもまったくふれられていない。度重なる噴火被害で、もう島民も火の神の化身など、崇めなくなってしまったのか。
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▼国土地理院 「地理院地図」
34度5分11.66秒 139度28分53.40秒
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dendenmushi.gif関東地方(2016/05/19 訪問)

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1382 伊豆岬=三宅村伊豆(東京都)伊ヶ谷の坂から眺めるだけで終わってしまった島北西端の岬には灯台もあったけど [岬めぐり]

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 大崎の西に広がる大久保浜が終わると、その先の台地にはヘリポートなどの避難施設や、三宅島でここだけの小・中学校が並んである。ここから地名は神着から伊豆に変わるが、その名はおそらくは伊豆の島々(あるいは半島も?)が望めるということか。
 神津島や式根島や新島は、おそそ32キロ北西である。
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 大久保浜と大船戸湾の間、約4キロの海岸線は、丸く大きく張り出していて、傾斜は緩い。その地形からすると記録が残る以前の古い時代の噴火によってできたものだろう。一周道路は山麓寄りを通り、その途中に伊豆の中心集落があるが、この辺りは少なくとも記録がある範囲では、大きな噴火による災害は受けていないように見受けられる。小・中学校や避難施設があるのも、あるいはそうしたことも背景にあるのかもしれない。
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 その丸い大きな、そしてなだらかな扇を開いたような台地の西の端に、伊豆岬はある。白い灯台は、岬めぐりは意識しない一般観光客向けのスポットでもあるらしく、メジャーな情報、パンフレット類などにもたくさんその写真が載っている。なので、マイナーなこのブログであえて取りあげるまでもない…というわけにはいかないんだよね「岬めぐり」としては。
 この伊豆岬の丸い海岸線は、ぜひ歩いてみようと思っていたが、どうにも村営バスの時刻表と相性がよくなくて、なかなかうまく計画ができない。
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 結局、右回り左回りで何度か伊豆岬入口のバス停を通過したうえで、最後に帰りの「橘丸」の出航前にやっとそこで降りた。この日、その前には早朝からしんみょう池跡や大路池を歩いていた。その頃からちょっと足がおかしいな、という感じがあったのだが、バス停で降りた途端に足にきた。がくっとなって、まともに歩けなくなってしまった。
 やれやれ。やっとなんとか立って、片足を引きずりながら入口の道にはきてみたが、これでは伊豆岬まで往復して、とてもバスの時間に間に合うように戻ることはできない。
 岬までは1キロ弱だが、傾斜がかなりある。行きは下りだが帰りは60メートルを登ってこなければならない。これはどう考えてもムリだ。
 しかたがないので、伊豆岬はあきらめた。写真は、南の伊ヶ谷からの下り道でみたのがあるから、それで間に合わせることにしよう。
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 伊豆岬入口には、ジオスポットではなく普通の観光案内板が立っていて、その横にはカフェの看板もある。港へ行くバスがここを通る時間がくるまで、ここで食事をして一休みしよう。それしか、選択の道はない。
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 Gallery Cafe  Canon という看板が指し示すのは、砂利を敷いた広い駐車スペースの奥にある普通構えの家である。玄関に上がるところで、靴を脱いで入るようになっている。
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 ギャラリーというだけあって、室内の壁は一面写真が占めている。と思ったのは間違いで、一見写真のように見える絵であった。描かれているのはさっき歩いてきたばかりの大路池など、三宅島の自然をモチーフにした絵が中心である。
 それらの絵の作者は、三宅島ではさまざまな活動もしている穴原甲一郎という画家で、三宅島の中学校で30年間美術教師をしていた人だ。その娘さんが中学1年のときに噴火があり、すぐ帰れるだろうと手に持てる荷物だけで避難したという。
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 Gallery Cafe  Canon は、穴原さんが退職後に開いたもので、島に帰ってきた娘さんが、自家製パンを焼くなどもして経営しているようだ。
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 船の中でいただこうと、パンを買い、また伊豆岬入口バス停で、左回りのバスを待つ。この時刻は左回りも右回りも、錆ヶ谷港の前まで寄ってくれることになっている。
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 てな次第で、最後の予定に組んでいた伊豆岬が訪問できず、バスがその南の伊ヶ谷の坂を大船戸湾に向かって降りるところからの、車窓写真だけになってしまった。
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▼国土地理院 「地理院地図」
34度6分45.82秒 139度29分22.60秒izumisakiM-1.jpg
dendenmushi.gif関東地方(2016/05/20 訪問)

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タグ:東京都
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1381 大崎=三宅村神着(東京都)1874(明治7)年の雄山噴火で火口北側に火口列ができ溶岩流が流れ下ったところが焼場 [岬めぐり]

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 「大崎」というのはよくある岬の名前なのだが、これは文字通り岬の大きさというか、その周辺における存在感でつけられている場合が多い。
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 いやー、三宅島のほぼ最北端の岬、大崎。湯舟グラウンド前バス停から、坂道を下り、診療所を横目に下って行くと、道を回ったところで正面に見えてくる。
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 まことに堂々たる大きさと風格ですよ。崖の高さは40メートルを超えそうで、手前の前ノ浜から西へ大きく回り込む岬の崖は山向こうの大久保浜まで500メートル以上に渡って丸く孤を描きながら続いている。
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 名前に恥じない、大きなスケールの岬と言ってよい。
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 大崎の東には、湯ノ浜の漁港がある。三池港などもそのようだが、三宅島の漁港は、海岸に押し出た溶岩を開削してつくったものが多い。といっても、島の周囲が全部溶岩なのだから、当然そうなるわけだが…。osaki-2.jpg
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 湯ノ浜まで下りきってしまうと、かえって大崎が見えなくなりそうなので、20メートルくらいのところで道を降りるのをやめ、引き返す。バスの時間もあるしね。
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 その道の途中から大崎を眺めたときに、道端に小さな祠の屋根が写っていた。大きな道から回り込む道が付けられていて、それがかわいらしい鳥居と社殿の前に出るようになっている。
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 神社を祀るにはいささかヘンテコな立地だなあと思いながら、正面に回って扁額を見ると、なんとこれが「飯王子神社・酒王子神社」とある。
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 思わず笑ってしまうが、この神様はどういう人…いや神様なんだろう。
 神様の世界もなかなか複雑にしてまたしばしば怪奇であり、興味本位でちょっと覗いたくらいではなにもわからないのだが、わかったこともいくつかある。
 まず、この二神は三宅島は神着に坐します御笏神社の末社である。御笏神社の祭神は佐伎多麻比咩命(さきたまひめのみこと)で、彼女は事代主命(ことしろぬしのみこと)の妻となって、椎取神社で6人(あれ8人だったかな)の王子を産んでいる(はずだったが、要調査→三宅村の公式記録では八人)。ただし、飯王子・酒王子がそのうちの二人かどうかは未調査で不明。
 島の南の富賀神社も事代主命とその妻子が祀られているはずなので、三宅島の神様は同じファミリーらしい。事代主命は三島神社の祭神でもあり、三島神社にも飯王子、酒王子の末社がある。
 御笏神社があるのは、ちょうど大崎からまっすぐ溶岩流でできた斜面を駆け上って都道を越えたところである。そこまでは行けなかったが、この神社のお祭りで、男女が面をかぶって舞う神事が、また古式を伝える興味深いものであるらしい。
 御笏神社は元からそこにあったわけではなく、東郷というところにあったものを、1516(永正13)年に神託があって、当時は島役所などもあったらしい現在地へ遷座したのだという。
 その神託から358年後…。1874(明治7)年の7月、三宅島雄山が噴火し、溶岩流が北斜面を流れ下り、御笏神社の旧社地であった東郷の集落45戸は、溶岩に埋没し全滅した…。(このときの死者は1名で、それが流人であったという記録もある。三宅島も流人の島だった。)
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 東郷の地名は現在の地図にはないが、「ジオスポット」の焼場(やけば)の記述で、それが現在の焼場地区その場所だとわかる。その案内板にある説明によると、このときの噴火では、雄山火口の北の端からいくつもの火口列が北へ下りそこから溶岩流がまっすぐに北へ流れたという。
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 そして、大崎の東で海に向かって5000平方メートルもの新しい陸地をつくった。現在、飯王子神社・酒王子神社、湯舟グラウンド、中央診療所、湯ノ浜港の東西を含む海岸一帯には、その跡がいまもたくさん残っているらしい。
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 話は戻りますが、飯王子神社・酒王子神社の位置はどうみても不自然なのだが、神社は北に向くように建てられる必要があったので、道路工事の結果こういう形になったとか…?
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▼国土地理院 「地理院地図」
34度7分28.99秒 139度31分20.21秒
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1380 下根崎=三宅村神着(東京都)このためにだけ道がある?岬の上はなんか不思議な場所だった [岬めぐり]

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 「下根崎」は“しもねざき”ではなくて、「あこんざき」と読む。地理院地図にもルビがふってあるが、土佐のバス停から少し戻ったところにある道標もローマ字読みがふってある。
 どういう意味なのか、そうしてそういう読みになるのか、それは聞かないでね。でも、伊豆諸島一般に小さな岩礁の出っ張りを“根”と呼ぶことは共通しているので、漢字の意味のとおりに解釈しても可なのかもしれない。
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 その下の“2km”の標識は三宅村が設けた距離掲示だが、八丈島に習ったものだろう。だが、こちらのほうは三宅支所からの距離ということなので、支所がどこにあるのかがわからない旅人にとっては、ほとんど意味を成さない。マイルストーンとしても、わかりにくい。
 標高70メートルくらいのところを巻いて走る、三宅島を一周する都道から、標識にしたがって下る道には、途中で分かれ道になるところにも下根崎への案内がある。そこからまた、約550メートルもゆるやかな下りの道を進むと、まもなく岬の上に出た。
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 そこは30メートルくらいの崖の上で、下のほうに下根崎の岩根が白い波を食んでいる。
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 しかし、そこでふと気がつく。確かにここが下根崎なのか?
 道中あれだけ親切に標識をつけてきたのに、その目的地にはなんの案内も標識もないからだ。標識が欲しいわけではないが、あれっ?なんでだろ?と思う。地図で確かめるが、この場所に間違いない。
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 一周道路から降りてきた道は、とにかく一本道である。間違いようもない。岬の上で右折している道は、それも150メートルもいかないうちに行き止まりになってしまう。
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 その辺りには、人家もなにもなんにもない。ただ、岩の磯に白波が砕けて、ガードレールは赤錆び、崖の上の草木が風に揺れる。海も青く空も青い。
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 行き止まりの道から下には、コンクリートの階段がついていて、海岸に降りられるようになっている。
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 おそらく、釣り人たちがやってきて、竿を出すところなのだろう。
 それにしても…。
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 なにか、不思議な感じのする場所、岬である。
 それとも、かつてはこの場所になにか意味があるとき、意味があることがあったのだろうか。
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 “下根崎”で検索してみると、まずいちばんに出てきたのは、NHKの「とうちゃこ!」(にっぽん縦断 こころ旅)ページで、同様の項目がたくさんあった。2016年の3月、火野正平さんとそのスタッフ一行と自転車たちは、三宅島を走り、3か所で手紙を読んでいる。
 そのひとつがここ下根崎で、昔女の子が2人この磯で泳ぎ、磯から外海に出てスリルを楽しんでいたが、ゴーゴーいう波の音がだんだんと怖くなったと、投稿者は手紙に書いた。
 やっとの思いで岸に戻ったときには、抱き合って泣き、その日のことは2人の秘密にしてきた…、という。
 抱き合って泣きヒミツにしてきた、というのがいかにも女の子らしいが、これ、わかりますね。似たような経験がありますから。
 あとそれ以外で下根崎に関するもは、予想通り磯釣りの記事くらいで、ほかにはなんの情報もない。やっぱり釣り場として以外には意味はないのか。
 すると、この行き止まりの道も、釣りに来る人のためにここまで引っ張ってきた、ということ?
 やっぱり、なんか不思議な場所だ。
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▼国土地理院 「地理院地図」
34度7分25.22秒 139度32分22.27秒akonzakiM-1.jpg
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タグ:東京都
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1379 砲台=三宅村神着(東京都)発射したタマはどこへ飛んでいく?これも立派な岬なので一項目に [岬めぐり]

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 下馬野尾から島下にかけての海岸は、釜の尻海岸という名がついていて、観光看板まで集落のところでポケットになった道路に面して立っている。
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 家の間から降りる道を探して行くと、その海岸に出るが、そのすぐ左手に突き出しているのが、砲台という出っ張りである。
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 岬でも崎でも鼻でもないのだが、ここはなんとなく見過ごしていくわけにはいかないような気がして、項目に入れることにした。事実、誰がみても岬に見える砲台は、釣り情報などでは「砲台という岬」などと表現されている。
 海岸の右手、南西側に見えるアノウ崎に比べても、小振りながら岬らしい格好をしている。地理院地図の名も岬表記に準ずる斜体文字で表記(その点では、この先にある「ミノワ」も同様なのだが)されている。。
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 しかし、「砲台」とは? これがよくわからないのだが、やはりある時期ここが戦術的な砲台として機能していたということがあったとみるのが普通であろう(ChinchikoPapa さんからのコメントは、「あるいは、サイパンからのB29や硫黄島かせ飛来するP51を迎撃する、高射砲陣地でもあったのでしょうか」といただいた)。この上にはやはりポケットになった道路が地図には描かれていて、そこから破線の短い道がある。そこを辿っていけばなんらかその跡のようなものがあるのだろう。いずれにしても、ここにどんな砲台があったにせよ、たいして実戦の役には立たなかったのではないだろうか。
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 岬の周りも、釜の尻海岸の大半も、岩礁が隠れているようだ。そのため、釣り場としても、またテングサなどの海藻類の採れるところとしても知られているらしい。
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 海岸の石は黒く、これは八丈島と同じ玄武岩質溶岩が流れ下ってきてアノウ崎や砲台の出っ張りをつくり、それが細かく割れて波に洗われながらだんだん丸みを帯びていくところだろう。
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 ここの「ジオスポット」案内板の説明によると、ここではやや緑がかった褐色のカンラン石がみられるという。こういう鉱物は、ここの場合では溶岩が波で細かく砕かれて中に閉じ込められていた結晶が現れるもののようだが、これまでの経験でいうと、だいたいどこでも、この手の看板があっても実際にそれらの貴石などを見つけることはまず困難だ。
 そのほか、釜の尻海岸の案内板では、火山灰とアオウミガメの写真を並べている。
 やはり2000年噴火時には、島の北東側で大量の火山灰が降り積もり、テングサの漁場でもあった釜の尻海岸の海底に厚く積もって壊滅的な影響を及ぼしたという。「現在では、その火山灰も洗い流され、以前の姿に戻りつつあります」と結んでいる。
 アオウミガメのほうは「釜の尻に多いアオウミガメ」として写真があるだけだが、そういえば八丈島のダイビングスポットでもアオウミガメがウリだった。だが、八丈島の場合も三宅島のここにも、砂浜はない。太平洋各地の海岸でもウミガメの産卵場所というのがいくつかあるが、産卵には広くて深い砂浜が必要だろう。釜尻海岸は一見すると砂浜のようだが、砂というよりここは石である。産卵には向いていないように思われるが、別にアオウミガメも産卵にくるわけではないようだ。
 石の浜で砂浜ではない釜の尻で、最初はアレっと思ったのだが、考えてみるとこれはウミガメの種類が違うのだ。
 よく聞くウミガメの産卵というのはアカウミガメで、八丈島や三宅島にやってくるのはアオウミガメ。では、彼らはどこで産卵しているのか。主に小笠原ではないかと…。そこから回遊してくるのだろう。
 結局、サタドー岬から、ここ釜の尻まで、3.7キロほど歩いてきた。途中には、三七山、赤場暁、椎取神社前、そして釜の尻と4つバス停があった。釜の尻からは次のバスを待って、4つ先のバス停土佐まで行くことにする。
 どういうわけなのか、バス停の標識の隣に置かれている大きなゴミ回収箱には、なんとハングル文字で表記が…。
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 これまでも、ずっと気になってきたのだけれど、三宅島村営バスのバス停標識は、どうもいただけない。つくるのには安あがりなのだろうが、バス停名と時刻表の部分だけを取り替えればあとは共通。標識のスタイルが共通なのは当然だが、三宅村村営バスの停留所標識は、シンボルの鳥と“バードアイランド”ばかりは目立っているが、肝心の点で抜けている。バス停標識のいちばんの目的と役目は、停留所名がはっきり、少し遠目(たとえばバス車内から)でも見えることである。
 それなのに、タイムテーブル・プレートを差し替えるだけの停留所名は、小さく非常に見にくくこれまでみたどこのもわかりにくかった。本来なら、鳥の絵があるところにバス停名を大きく書くべきなのであろうが…。
 砲台から撃ったタマは、とんでもないところに飛んで行った…。が、やっぱり不発になる…んですかねえ村長さん?
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▼国土地理院 「地理院地図」
34度6分53.50秒 139度33分13.57秒
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1378 アノウ崎=三宅村神着(東京都)下馬野尾の岬の上は開拓集落のようだが2000年の雄山噴火のときは… [岬めぐり]

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 前項で書いたように、都道はずいぶん立派に整備されているが、この道のひょうたん山あたりまでは三宅村坪田で、坪田の中心は三宅島空港と三宅高校の間付近である。赤場暁(あかばっきょう)から北にかけてが広く神着(かみつき)という地名になる。
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 この神着が椎取神社とともに三宅島の神話伝説の地ともなるわけだが、神社を後になおも北へ歩いて行くと、幅の広いなだらかな尾根が北東の海に向かって流れ出している。
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 この尾根の上は、地図で見る道路の付け方などから察するに、どうやら開拓の集落ではないか。あるいは、1940年の噴火で家を失った赤場暁の人たちが、移り住んだ可能性もあるとも考えられるこの付近には、下馬野尾(げばのお)という字名もある。
 下馬野尾の広い尾根がゆっくり海に落ちるところには、アノウ崎という名がついている。
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 都道が尾根の端をぶち切るように通っているが、この付近の歩道脇には花が咲く分離帯スペースも設けられ、なにやら復興事業のちょっとした余裕を垣間見るような感じがした。この付近の都道は、嵩上げとは関係がないのだろう。
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 下馬野尾とその先の島下の一帯は、2000年のときにも、避難指示が何度も出され何度も解除されるといったことが続いていたようだ。この神着付近では、近年では直接溶岩流の被害はなかったようなので、島全体から見ると比較的落ち着いていた地域のはずだ。
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 だが、雄山の火口から北東側で、ちょうど風向きから噴煙が流れてくる方向にあたるはずだ。そのこともあってか、この周辺では火山灰による被害も深刻の度を深めたと思われる。
 もちろん降灰・泥流の被害も、全島に及んでいて、下馬野尾付近に限ったことではない。
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 内閣府の防災情報のページから、「2000年(平成12年)三宅島噴火災害」の経過リストのうち、この付近に関すること主に拾ってみるとこうなる。
 
・平成12年(2000年)
・6月26日 18:00頃 地震が多発。気象庁が緊急火山情報を発表。
・6月29日 有感地震 都は、災害対策本部を廃止。村も災害対策本部を廃止。
・6月30日 山頂で噴火が発生、少量の火山灰が放出。
・7月4日 山頂の新カルデラから最初の噴火
・7月14日 9:00 三宅村災害対策本部を設置。
      16:40 神着地区の一部(島下、下馬野尾)に避難勧告
・7月15日 9:00 神着地区の避難勧告を解除
・7月17日 8:30 島下、下馬野尾、沖ケ平の一部に避難勧告
・7月28日 16:00 避難勧告を全解除
・8月2日 6:30頃 噴火。噴煙の高さ3,000m
・8月10日 8:43 神着間川橋から坪田三宅島空港入口までの聞に避難勧告 
      16:00 下馬野尾・御子敷を除き、避難勧告を解除
・8月11日 8:00 門の原地区から三宅島空港入口までの間に避難勧告
・8月14日 16:00 避難勧告を全解除 
      17:00 最大規模の噴火。
・8月18日 火砕流の発生。神着地区、続いて坪田地区に噴煙柱が崩れて流れ下った。低温火砕流と呼ばれる。人的被害なし。
・9月2日 7:00 全島避難指示(2~4日で避難実施)
・9月〜 山頂火口からの大量の火山ガス放出
    (4年半に及ぶ全島避難)
・平成17年(2005年)1月5日 三宅村村長、平成17年2月1日をもって避難指示を解除する旨を発表

 あのう…こんなことで軽口をたたくのは不謹慎の誹りも免れないかもしれない。が、まったくの部外者がいくらかでも当時の様子を知りたい、自分の足で歩き、目で見た風景と、それを重ねあわせてみたい、というだけのことだ。お許しを願う。対策本部を廃止した後に、すぐ噴火。避難勧告を全解除すると、すぐ噴火。また避難勧告。また全解除した途端に、大噴火。
 天が怒り地が狂うとき、人間はその間で、ただ右往左往するしかないのだろう。
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▼国土地理院 「地理院地図」
34度6分40.32秒 139度33分30.79秒
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番外:三七山・ひょうたん山・赤ばっきょう・椎取神社=三宅村坪田・神着(東京都)「ジオスポット」が連続する無人地帯を歩く [番外]

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 三宅島は有史以来の噴火活動を続けてきている火山島だが、気象庁のサイトによると、20世紀になってから以降の噴火だけでも、1940(昭和15)年、1962(昭和37)年、1983(昭和58)年、2000(平成12)年と4回の噴火が記録されている。
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 このうち、1940(昭和15)年は、「7月12日北東山腹より噴火、溶岩流出。14日から山頂噴火。多量の火山灰、火山弾放出。死者11名、負傷20名、牛の被害35頭、全壊・焼失家屋24棟、その他被害大」とある。
 北東山腹からの溶岩流が流れ下ったのが、サタドー岬とアノウ崎の間で、この辺りの地形や様相は、一変したのであろう。現在は、この間の溶岩流の上を島を一周する都道212号線が通り抜ける、広い大きな道路が走っているが、その沿道付近はすべて無人地帯で人家の一軒もない。
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 この無人地帯をサタドー岬から北へ向かって歩いて行くと、三七山→ひょうたん山→赤ばっきょう→椎取神社と、「ジオスポット」が続いてある。
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 三宅島の火山活動がつくりだした風景のなかを歩いて行くと、まず三七山というスコリア丘が現れるが、これは1962(昭和37)年の噴火活動によるものである。ガスの抜けた穴がたくさんある黒い軽石が火口付近に降り積もってできた噴火でできた丘のことを、スコリア丘という。案内板にもそう書いてあるのだが、でんでんむしにはなぜスコリアを暗黒色と限るのか、赤いのもあると思うのだが、それはスコリアではないのか、それがまだいまのところよくわからない。
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 1962(昭和37)年となると記憶も新しく、「山頂から海岸付近まで火柱が並びました。(火のカーテン)」など、なかなかリアルな噴火状況が記されている。20もの噴火口が30時間も噴火を繰り返し、2000万トンもの噴出物を辺りに吐き出した。このときは、地震も1か月にわたって続き、学童の島外避難が実施されている。
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 無人地帯を貫く都道はずいぶん立派になっているが、これは噴火溶岩流出も、雨のたびに火山灰の泥流や土石流で埋まったりしたために、道路の嵩上げ工事が行なわれているからだろう。
 三七山の水準点が、車道と歩道の間の柵の下に埋もれるようになっていた。すいぶんひどい扱いじゃないかとそのとき思ってシャッターを押していたが、後から考えてみれば、これも嵩上げのときに引っ張りあげてなんとか元に位置に置いたということなのだろう。あれっ! でもそうすると高さが変わってしまうよね?(現在の地理院地図では、サタドー岬の南から椎取神社の北までの間には、水準点の表記はない。)
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 続くひょうたん山は、1940(昭和15)年に、海の中から噴火が起こって盛り上がった山だという。火山弾がそこらじゅうに散らばるひょうたん山は、なぜそう呼ぶのかもちゃんと説明があって、それによるともとは噴火口がふたつ並んでいたのだそうだ。
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 それが、海側で海食が進み、削られて海食崖になり、ひょうたんの片方が海に呑み込まれてしまい、その北側にあった集落が壊滅した。
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 案内板には赤ばっきょう(赤場暁)の絵が掲げられているが、昭和10年に描かれたその絵は崖に囲まれた入江の風景である。それが5年後の噴火で、すべて埋め尽くされてしまった。赤い崖がその名の起こりらしいが、人が駆け下りるものと同じくらい速さで谷を流れ下る溶岩流で入江も、当時は島で唯一の天然の良港も完全に埋められてしまう。
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 現在、わずかに旧入江だったというところの崖は、案内板によってなんとかわかるが、残念ながら見えるところは赤くはなくて黒い。
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 1962(昭和37)年の噴火活動でもこの付近の溶岩流は続き、都道も土石流から守るため全面的な嵩上げをしている。
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 溶岩流が流れた谷筋は、溶岩の誘導路として再整備されたらしい。そこを橋で越えると、椎取神社のバス停がある。
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 最初に神様が降ったのが、この椎取神社付近で、島の北側の地名に残る神着の言い伝えもここから始まったとみてもよいのだろうか。付近の樹叢はタブ、スダジイなどの典型的な照葉樹林帯で、神の森にふさわしいところだった。
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 だが、度重なる溶岩の流出と火山灰の土石流、さらには火山ガスで立ち枯れるなど、壊滅的な影響を受けた。その後は、樹叢の再生変化が少しずつ進んでいる、というのが現在の状況らしい。
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 ジオスポットの案内板には、神社の鳥居周辺の2000年から3年間の変化が写真で伝えられているが、その向こうに、地面から鳥居の一番上だけが、まるで丸太をそこにゴロンとおいたような姿で残っていた。
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▼国土地理院 「地理院地図」
34度5分49.86秒 139度33分37.24秒〜34度6分27.72秒 139度33分29.29秒
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1377 サタドー岬=三宅村坪田(東京都)まずは直径8キロの丸い火山島・三宅島ではいちばん東の端にあたる岬から… [岬めぐり]

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 ベンケ根岬とサタドー岬が、バスでつながらないので、それならばとまずは北寄りのサタドー岬を起点にして左回りでいこうと、夕景浜から始発のバスに乗った。島の西から東にかけて大きく北側を回りこんで、下りたバス停留所は御子敷。夕景浜からは、50分のバス旅である。
 実際は、すぐバスに乗ったわけではなく、夕景浜07:14発の始発がやってくるまでの時間、錆ヶ浜港から今崎〜夕景浜とふたつの岬を見ながら早朝散歩で歩いてきた。
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 バス停からサタドー岬までは一本道が通じているが、もちろん途中に廃屋のような建物があるだけでなにもない。
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 ここは直径8キロほどのほぼ円形島の東海岸で、岬から真西には平面距離で測ると雄山の最高点(775メートル)まで3.68キロの位置になる。
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 写真ではよくわからないのだが、この雄山東斜面は、三宅島のなかではいちばん等高線が詰まっている、つまり傾斜が急なところなのだ。これいがいのところは、いずれももっと緩傾斜地の山麓が流れている。
 八丈富士と違って、三宅島雄山に登ることはできない。この斜面の途中からは、現在でも立入禁止区域になっているのだ。
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 広くて深い噴火口の南側(左手)に噴出口がいくつもあるはずだが、現在はすでに噴煙も出していないので、この一見優しげな山容からは、ふとそれを忘れてしまいそうになる。
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 サタドー岬も、黒い溶岩が流れ下った先で、その先端では大きな岩がごろごろ状態である。ここも下は30メートルもの断崖になっているのだが、上からでは見えない。そのかわり、すぐ南に同様な断崖絶壁がある。
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 燈光会の看板もここまではまだ立て替えが及んでいなくて、縦書の古い看板(“モーターボート競争公益資金”や“船舶振興会”の補助金で設置と付記してある)のみだが、それによると、このサタドー岬灯台は、1954(昭和29)年の点灯当初は、海上保安庁が開発した風力発電装置によっていたという。時代を考えると、恐ろしく先進的な措置でお役所にはあるまじきことであった。しかし、その画期的な試みが成功して、今も活きていればよかったのだろうが…。
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 今思えば、その風力発電装置は、岬の先っちょの岩の上なんかではなくて、丘の上のほうに置くべきでしたね。
 燈光会の看板には、この灯台は「ヒンズー語の“地獄”に由来するといわれる岬にあって」ともある。ヒンズー語が出てくるとは思わなかったが、“サタドー”は“地獄”の意なのか。好天の穏やかな海の風景にある岬からは、地獄は遠いような気がするが、溶岩流が流れ下るときには…。
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 燈光会の看板のほかに、三宅村が立てた「ジオスポット」の大きな立派な案内板がある。三宅島では、このような案内板が要所要所に計15か所もあり、火山島三宅島の火山・地質の名所を紹介している。説明も簡にして要を得ており、観光客などもこれをちゃんと拾って読んでいけば参考になり勉強できそうだ。
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 岬の名前についてもヒンズー語説のほかに、見通しのよい岬なので、「便りや知らせ」の「沙汰」という言葉からきているという説も紹介している。
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 実は、でんでんむしもまだ地図を見て計画を立てているときから、サタドーの“サタ”は語感から“沙汰”かなぁと、例によって勝手な連想をしていたので、この案内板を見てすばらしい!と思った。
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 気象庁が火山活動度ランクAに指定している活火山の雄山を頂点として、その独立した火山島は、水深300〜400メートルの海底から立ち上がっている。
 八丈島の東山より少し古く、約1万〜15万年前(第四紀更新世の後期)の海底噴火に始まって島となった火山は、八丈島と同じ玄武岩質の成層火山である。
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▼国土地理院 「地理院地図」
34度5分36.23秒 139度33分57.79秒
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1376 仕切りなおしの三宅島の岬めぐり=東京都三宅村(東京都)今度は竹芝桟橋から船で…三宅島の岬は都合11+α [岬めぐり]

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 だんだんわかってきたのだが、そもそも八丈島と三宅島をひとつの計画で納めようとしたところに、ムリがあったのかもしれない。当初から、ムダは承知で別々に計画したほうが、ややこしくなかったのかもね。
 調布飛行場からの飛行機は、滑走路からすぐ住宅に突っ込んだのとは違う飛行機だとは思うが、調布まで行くのが、また一苦労だ。三宅島に行くには、結局「橘丸」しかない。夜の10時30分に竹芝桟橋を出て、早朝の5時に三宅島に着く。
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 竹芝桟橋は、でんでんむしにとっては、岬めぐりの起源にもかかわる航海で、初めてここで客船でもないタンカーに乗り降りしたときには、ただの岸壁でターミナルもなにもまったくなかったが、今ではゆりかもめの駅から見えるマストが目印で、浜松町からは真っ直ぐ歩いてもすぐだ。ここは三宅島にかぎらず、伊豆七島の各島々への定期船がたくさん出入りする。島の中学生などのグループも多い。
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 でんでんむしはしばらく月島にいたので懐かしいかちどきや晴海付近、そしてレインボーブリッジで、狭く感じる東京湾の東京港から、「橘丸」は出港する。ここから東海汽船の伊豆諸島航路の船に乗るのは、初めて。
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 別に船がいやだとか、船酔するからということはない。結構もっと長く船に乗っていたことはいくらもあるから、それはどうということはないのだが、やはり時間がかかり過ぎる。できることなら、船で一晩寝るというのを避けたかったのだが、こうなってはしかたがない。
 それなら寝てるだけだから特2等(9,110円シルバー割前)でよかろう。これは蚕棚の二段ベッドが両並びで二列、都合4つのベッドが一区画に並ぶタイプである。同区画には、三宅島に帰るらしい老夫婦がいる。年寄りは年寄りで集めようという魂胆か。大部屋で寝るのはどうも気乗りしないが、ここだとカーテンを引いてしまえば…。
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 昔、広島から上京するときにいつも乗っていた寝台急行「安芸」号を思い出させてくれるが、「橘丸」の特2等寝台には、金庫とロッカーの中間のような100玉リターン方式の鍵がかかる物入れがついている。それと電源のコンセントもあるが、もうなにもしないでさっさと寝るに限る。
 ぼつぼつ夜明けの薄暗さもとれたが、まだ晴れるのか曇るのかよくわからないような早朝、「橘丸」は三宅島錆ヶ浜港の岸壁に着く。
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 地理院地図では、航路を示す線と寄港の場所を、島の反対側、東側の三池港として表示しているが、実際はもっぱら島の西側の錆ヶ浜港である。
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 どういう意味なのか、伊豆七島では港に船が着くと、岸壁には必ずパトカーがお出迎えしてくれる。が、それに乗れるわけではない。100人か200人?かなりの人が降りたが、大半の人はぞろぞろと集落の上のほうに登っていく。家が近いとか、置いてある車でもあるのだろう。
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 二方向に二台の三宅島村営バスも、待っている。あれ、やっぱりあるのか。この「橘丸」到着に合わせた早朝便が、三宅島バスダイヤにも載っていないし、他のどのページにも書かれていないのだ。
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 でんでんむしは、それがないものとして計画を立ててきたので、ここで慌ててそれに乗ってしまうと、またしても計画がめちゃめちゃになってしまう。ここは、それが出て行くのを余裕で見送り、計画通り旅客ターミナルの中に入ると荷物を整理してロッカーに預け、身軽になって港から北へ歩き出した。
 しかし、このブログの掲載順は、いつものように実際の行動順と同じにはしない。そうすると、読むほうが大いに混乱するばかりだろうからである。
 ここも八丈島と同じように、北の端から逆時計回りにいこうと思う。
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 三宅島は、ほぼ丸い島で、中央に噴火口は直径1.7キロもある雄山(おやま)があり、そこから四方八方に流れ広がる裾野が島のすべてである。海岸に比較的近いところも多い一周道路がめぐり、集落はそのところどころにある港や入江の付近に点在している。村役場は西側の阿古にあり、小・中学校は北側の伊豆に、高校が南側の坪田にある。
 この三宅島の岬を地理院地図で、港から時計回りで拾い上げていくと、
▲今崎 ▲大鼻 ▲伊豆岬 ▲大崎 ▲下根崎 ▲アノウ崎 ▲サタドー岬▲ペンケ根岬 ▲ツル根岬 ▲新鼻 ▲間鼻
 と都合11の岬がある。ここでも「根」も多いが、それは入れない。その代わり、どうみても明らかな岬なのに、岬とは言わないで別の名前がついている「▲砲台」と、もうひとつ一夜にして新しくできた岬のような「▲新鼻新山」などを加えて岬として紹介していくことにしよう。
 島の移動は、もっぱら三宅島村営バスに頼る。左回りと右回りでそれぞれ日に5便(早朝便は含まないで)が運行している。この運行ダイヤが、どうも三宅島独特らしい。通常は、左回り右回りがそれぞれ循環して、ぐるぐる回っているのかと思うが、ここではそれが島の東側で切れている。しかもその切れる場所が三池だったり高校前だったり一定ではなく、おまけに連絡もしていない。
 要するに左から回っても右から回っても、島の東ではうまく接続していないのだ。島の東には北のサタドー岬と南のペンケ根岬があるが、この両者をうまくつないで走るということができない。午後の便が15時頃の便と夕方17時18時の2便しかないので、非常に回りにくい。
 あとから考えたところでは、どうやらそれも左回りも右回りも昼ごろに出る竹芝桟橋行きの「橘丸」に合わせるのを優先しているのと、島でひとつしかない都立三宅高校の生徒のためでもあるのだろう。
 で、このヘンなダイヤをあれこれ知恵を絞って考えながら乗り継ぎ、岬を回らなければならない。ここでも三宅村役場観光産業課が発行する観光客向けの2日有効のフリーパス1000円があるので、これを利用する。
 その結果、三宅島の岬めぐりのスタートは、北ではなく東のサタドー岬から始め、逆時計回りで最後をペンケ根岬で締めくくるのがよかろう、ということになった。
 八丈島でも、最初の赤崎と最後の大サリヶ鼻の間は歩くことがなかったが、おもしろいことに、三宅島でもサタドー岬とペンケ根岬の間は、バスでも通らなかった(通れなかった)ことになるのだ。
 島をめぐるにあたって、改めて思い起こしておくべきだと思うが、三宅島雄山が噴火して大規模な溶岩流の流出と火山ガスの噴出があり、住民の全島避難があったのは、2000(平成12)年9月のことであった。そして、それが解除されたのは、4年半後の2005(平成17)年2月であった。
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▼国土地理院 「地理院地図」
34度5分9.36秒 139度31分34.61秒
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dendenmushi.gif関東地方(2016/05/19〜20 訪問)

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番外:八丈島から三宅島へ=八丈町・三宅村(東京都)東京都亜熱帯区から100キロ北へ戻って… [番外]

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 八丈島のリゾート売り出し作戦は、ハワイ並みにはいかなかったが、それでも東京都にこんな島と自然があるのは貴重なことだろう。何度か紹介してきた八丈島観光協会のガイドマップなどは、「東京都亜熱帯区」を謳っている。
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 実際、島を歩いていると、道端にさりげなく茂っている植物が、いつもわれわれが日頃見慣れているものとはちょっと違う。ひょっとすると花卉園芸店の店先ならあるかもしれないが、それらが道端にあることはない。
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 先に「番外:リゾートホテルの廃墟があちこちに」の項では、「緯度的には、八丈島は九州の大分・熊本・佐賀・長崎と横並びでほとんど変わらない。黒潮の影響があるとはいえ、“東洋のハワイ”にはもともとちょっとムリがあったのだろう」と書いていた。それはそれでその通りだったろうが、やはり黒潮の影響は大きく、それこそが、同じ緯度に並ぶ本土の各地とも一線を画するものであったのかもしれない。
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 さて、これで八丈島は逆時計回りに回る輪を閉じる。と言っても、大サリヶ鼻と赤崎の間は、実際に歩いていないので、厳密には輪を閉じたとは言えないのだろう。そこのところは、飛行機からみたということで…。
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 とにかく八丈島は終わったが、計画通りに三宅島へ渡ることができなかった。そこで、また改めて三宅島の計画を立てなければならないことになった。それも、あまり間をおかないうちに…。
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 風向きの関係であろう。八丈島空港からいったん西へ向けて飛び立ったANA機は、すぐに反転して八丈富士、八丈小島を眺めながら、北東に進路をとる。
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 しばらく飛ぶと、岬のない御蔵島が見えてきて、その先にぼんやりと浮かんでくる島影が三宅島である。飛行機は、そのまま北東方向へ進み房総半島の東から回りこむので、大島やその他の伊豆諸島は見えないのだ。
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 だが、三宅島、御蔵島に比べると思ったより扁平ですね。一番高い雄山から東の海岸へは三宅島のなかでもいちばん傾斜が急なところなのだが、そこでも八丈島の西山の傾斜よりは緩いのだ。これにも理由があって、古くに火山活動を停止している御蔵島は、新たな噴火がない時代が続き、その間に海食崖が発達した。このため、島の沿岸は波浪に削り取られた断崖になっている。これに対して三宅島は、現在に至るまで活動を続けている火山島で、溶岩流の流出を繰り返し海に落ちているため、なだらかな沿岸部を形成している。
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 というわけで、いちおうこれで三宅島にバトンタッチしたことにして…。

 1か月後、梅雨に入る前にと思って、行ってきました。今度は、竹芝桟橋から「橘丸」で船中泊、島に一泊してまた「橘丸」で竹芝に戻るという計画です。
 それでね、三宅島へ行って島を歩いて思ったんだけど、やはり八丈島とは植生がまったく違っていて、三宅島のほうはほとんど本土並みなんですね。フツーにいつも見ているような草木ばかり…。
 やっぱり、黒潮の影響は大きいし、その黒瀬川を越えて北へ100キロも戻るということは、完全に「亜熱帯区」からは圏外になる、ということでもあるようです。
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▼国土地理院 「地理院地図」
33度7分0.66秒 139度47分24.14秒 34度5分12.43秒 139度30分55.37秒
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dendenmushi.gif関東地方(2016/04/19・05/19 訪問)

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タグ:東京都
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1375 大サリヶ鼻=八丈町三根(東京都)黒い玄武岩質溶岩もなまなましい?ここで八丈島の岬めぐりはおしまい [岬めぐり]

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 イデサリヶ鼻からは北西に650メートルしか離れていない大サリヶ鼻だが、八丈島ではどこでも共通のように、海岸の横歩きはまずできない。周回道路から離れて海岸に向かって下り降りることは、場所によっては道があるので可能だが、そこから海岸伝いに進む道がほとんどの場合ないからである。
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 ここもいったん周回道路に戻って、また北西に歩いて別の道から海岸に向かわなくてはならない。
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 溶岩台地の上に植生が茂る点ではイデサリヶ鼻とまったく同じだが、植生の様相がなんとなく少なく背丈が低くなり、代わりにだんだんと目立ってくる黒い溶岩のほうが主人公になっていく。
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 それも、たった今吹き出されて流れてきました、その途中で固まってしまいました…とでもいいそうな玄武岩質溶岩ばかりが辺りを覆っている。
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 今ごろの人には“牛のうんち”といっても、かえってわからないのかもしれないが、まさしくこれはウシさんのウンチ型なのだ。
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 この八丈島シリーズの最初の項目だった「赤崎」は、大サリヶ鼻から北西に2キロ。これで八丈島の岬めぐりの輪っかも接続しておしまいです。
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 う〜ん、これだったら、電動自転車ならなんとか一周できたかもしれないねえ。
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 東山(三原山)も西山(八丈富士)も、何度も同じ火口から噴火を繰り返してできた成層火山だが、東山がカルデラ(火山の爆発などによってできた大きな凹地)跡をいくつも重ねたような複式火山で地形も複雑になっているのに対し、西山は典型的な円錐形の成層火山である。
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 それでも、いうほど火山活動は単純ではない。東京都の防災資料によれば、八丈富士は、「中腹に陥没したカルデラが存在し、カルデラ内の中央火口丘が単一の円錐型火山に見えるまで成長した構造を持ち、南東へ比較的広い裾野を展開している」というが、それはどこのことだろうか。前項の地図をもう一度みてみよう。
 改めて地理院地図をみると、イデサリヶ鼻と大サリヶ鼻の南西側の山麓斜面が、確かに凹んでいるのがわかった。 
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 これかな?      ↑このへん。  
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 山頂への登山道の北側に259メートルの肩からスロープが緩やかになり、前項でふれた神止山から北へ伸びる尾根との間が、広く開いている。実際には凹んでいるというより、西山の斜面と神止山の尾根によって囲まれ、イデサリヶ鼻と大サリヶ鼻側のほうが二段スロープになって開口しているだけのようだが…。
 要するに、一見典型的な円錐形成層火山に見える西山も、大きなカルデラがあったが、噴火が繰り返される過程でどんどん層を重ねていくうちに、やがてそのカルデラをも飲み込むように成長していった…ということだろう(か?)。
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 西山の噴火はおよそ1万年前から4000年前くらいの間に繰り返されたらしく、その終わり頃では東山の活動は収束に向かい西山だけの活動になっていく。噴火によって流れ下る溶岩と、それが海中に没する際には水蒸気爆発も繰り返していたのかもしれない。なんとなく、そんな景色も思い浮かぶ、大サリヶ鼻の上であった。
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 でんでんむしが、きわめて非日常的なそういう噴火とか溶岩とかいうものを、はじめて具体的にイメージできたのはいつ頃のことだったろう。
 記憶を辿っていくと、それは小学生か中学生の頃の早朝映画鑑賞で、「紀元前1万年」とかなんとかそんな題名の映画を見てからではないかと思う。記憶が曖昧なので調べてみようとすると、2008年公開のローランド・エメリッヒ監督の映画に関するものばかりしか出てこない。
 どうやら題名は違うらしい。なおも掻き分けていくと、1940年の「紀元前百万年」が映画史上初の“原始人映画”であったという記事(「Cinemanc」FC2ブログ)に到達した。これかあ、これだったのだ!
 火山が噴火し、流出する溶岩に人も木もなにもかも巻き込まれ飲み込まれていく…。白黒のスタンダード画面で、CGなどないから着ぐるみ恐竜の特撮映画だったが、これが妙に印象に残っている。だから、火山噴火や溶岩流の最初の接点もここにあった。
 1966年にはリメイク版「恐竜100万年」も出て、これも見ているがこっちのほうはラクウェル・ウェルチさんの“肉体美”(当時はこう称していた)しか記憶に残っていない。
 以来、長い間、噴火や溶岩とは山を歩いてその地形や岩などの露頭から想像するだけだった。
 ところが…!!
 …ですよね。それはみなさんも同じだと思います。近年の日本の噴火活動(噴煙だけ入れない)は、
  口永良部島 2015(平成27)年 
  木曽御嶽山 2014(平成26)年
  小笠原・西ノ島 2013(平成25)年 
  霧島山・新燃岳 2011(平成23)年
  三宅島 2000(平成12)年 全島避難
  北海道・有珠山 2000(平成12)年 
  長崎・雲仙普賢岳 1991(平成3)年 火砕流 溶岩ドーム
  伊豆大島 1986(昭和61)年
などとあり、それらの多くをテレビの映像で、また近くで実際に目撃したりしてるんだから…。つまり、これからも含めて、ひょっとするとわれわれはえらい時代に生きている生きていくことになるのかもしれん…。
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▼国土地理院 「地理院地図」
33度8分41.06秒 139度47分24.84秒
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1374 イデサリヶ鼻=八丈町三根(東京都)名前の意味はわからんがここもダイビングスポットで有名なことがわかった [岬めぐり]

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 「橘丸」の船上から見ればいいやと考えていたのが、その「橘丸」がやってこないことになって、まるまる2日八丈島で延長して過ごすことになった。最初の日は雨風の日であったが、2日目はやはり船は来ないものの青空も戻ってきたので、イデサリヶ鼻と大サリヶ鼻へも歩いて行くことにした。
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 そこど荘からイデサリヶ鼻までは、4.1キロほど歩くことになる。
 そこど荘の前からは、長い斜路の道を東畑まで上り、そこから北に折れて赤倉でまた西に折れ、空港へ行く道を小噴火口の外輪山が東でピークをつくっている神止(かんど)山のところでまた北に進む。すると、神止山の裾崖下から、真っ直ぐな道が北端の出っ張りを貫く峠に伸びていく。この峠も神止山から北へ流れる尾根の先を、道路が開削したもの。
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 この道で、東の神湊の漁港と垂戸湾を横目に過ぎ、峠を越えてまた道端に茶色い小さな生き物がチョロチョロする道をなおも北へ行くと、イデサリヶ鼻の釣り場標識がある。
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 そこから脇道に入り、海岸に向かうと、丈の低いトベラなどが花をつけるなど植生に覆われた溶岩台地の上にでた。
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 イデサリヶ鼻も、溶岩が流れ出て、海に落ち込んだところである。岬としてそんなに目立っているわけではないが、やはり何本かの岩根が出ている。
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 北寄りには目立つ岩根もあって、地理院地図では立根、長根といった名が記されている。
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 長根の上には、リゾートホテルがあり、さらに次の大サリヶ鼻の上には、また別のリゾートホテルがある。こちらはどちらも廃墟ではない。
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 この「イデサリ」「大サリ」という名前には、いったいどんな意味があるのだろう。そう思ってはみても、岬の名前など結局なにもわからないということのほうが圧倒的に多い。これもどうしたことか、いささか不思議なことのように思える。だから、この頃ではいちいち気にしないで、わかるときにだけ触れるようになってしまった。
 だが、「イデサリ」で検索してみると、あるわでてくるわ…たくさんのページが…。そのどこにも意味などはまったく書いてないのだが、そのほとんどがダイビング!
 ダイビングの名所については、ちょうどこの八丈富士を挟んだ反対側の岬のどこかで、実はそこが名所らしいと書いていた。溶岩が海に流れ込んでいる海岸がほぼぐるりを取り巻いている八丈島では、ダイビングスポットにも不自由しないものらしい。
 なかでも「イデサリ」は、ダイビング雑誌の表紙になるくらい有名な場所で、それは大きな岩のアーチが海中に2か所もあること、ウミガメもやってくるらしいことなどなど…。そんな情報であふれていた。
 が、縁なき衆生は度し難しである。
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 それを知って、そうかここらのリゾートホテルには、ダイビング客もくるという意味もあったのかと思ったが、ダイビングとリゾートホテルは果たして結びつくんかね。
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 イデサリヶ鼻から見上げる西山(八丈富士)は、一気に854メートルの高みまでスロープを伝って伸びていく。
 スロープの距離を勘定に入れず、平面距離でいうと、イデサリヶ鼻から頂上外輪山の神社マーク付近まで、2.9キロ真西になる。
 八丈富士も何度かの噴火を経ているので、外輪山のなかにはまたもっとちいさな火口跡もあるのが、地図ではわかる。
 “登らぬバカ二度登るバカ”ともいわれる本家富士山には、でんでんむしも若い頃一度だけ登ったことがある。八丈富士は規模は本家の4分の1くらいでしかないが、こうして斜面を見上げていると、富士登山のしんどかったことを思い出してしまう。
 八丈富士は登山道があって、お中道もお鉢めぐりもできるようになっているらしいが、地理院地図では頂上へ至る破線の道は、東側に一本しか描かれていない。が、おそらくほかにもあるのだろう(?)。
 帰りの飛行機からの写真。八丈富士の上は笠雲だったが、下のほうにホテルが森を茶色くしている付近の東が、イデサリヶ鼻、大サリヶ鼻の岬と岩根がよく見えていた。この付近だけが、例外的に一周道路が海岸近くまで降りてきているところで、斜面もゆるやかになって海が近くなっているところなのだ。その意味では、ホテルの立地としてはいいのかもしれないが…。
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▼国土地理院 「地理院地図」
33度8分28.90秒 139度47分45.23秒ohsarikehanaM-2.jpg
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dendenmushi.gif関東地方(2016/04/18 訪問)

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番外:“抜舟の場”から神湊へ=八丈町三根(東京都)“流人の島八丈島”が定着するのは江戸期からのことだが… [番外]

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 ついつい余計なことに手を出して、後で後悔することはよくある。忙しいときに限ってまた、そういう余計なことを始めてしまったりするのはなんでだろう。
 AdobeのLightroomのデータが重くなったので、過去のデータを整理していたら、どうやらまだこれからアップする予定のファイルまで消してしまったらしい。
 もともと写真はろくでもないのばかりだし、おまけにその日は船が欠航になったので足止めをくらった雨と風の日だったのだが、訪問した八丈島歴史民俗資料館の写真がHDのどこを探してもなくなっている。このテーマで当然番外として締めくくりをやらなければならなかったのだが、このミスを言い訳にそれはヤメることに…。
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 廃墟のリゾートホテルがリゾートホテルとして機能していた頃の神湊東の海岸は、いったいどんなんだったのだろう。それが疑問に思えるほど、現在のこの付近の海岸はなにやら殺伐としている。お天気の印象もあるのだろうが…。
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 ホテルの廃墟から神湊のほうへ行くと、浜には“抜舟の場”という石碑や“流人の碑”が立っている。そうだ、歴史民俗資料館は割愛するとしても、流人のことだけは少しでも書いておかなければならないだろう。
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 宇喜多秀家のことは、「1367 船戸鼻」の項で書いたが、鳥も通わぬ八丈島が流罪の場所として使われ始めたのは、為朝の伝説があるとはいえ、歴史的にいうと比較的新しい。1606(慶長11)年の秀家がその第1号でその後1600人が流されたと、歴史民俗資料館のパンフには書いてあるが、そうだとすると八丈島の流人は、江戸期に入ってからのことだ。
 流罪=島流しという刑罰は、律令制が導入される以前の古代からあった。その意味は、神の怒りにふれた者を島に捨て殺しにするというもので、その精神は律令制のなかでも受け継がれていった。
 死罪につぐ重刑ではあるが、多くの天皇や皇子、宗教者などが流された中世では、権力側にとって不都合で目障りな人物の勢力を削ぐ、という目的で多用された。要するに、殺すまでの理由もないが目障りで都から遠くへ追放し、邪魔されないようにという政治的な意味で実行されるケースも多かった。場所は島である必要はないし、配流地での生活もある程度自由ということもあったようだ。(崇徳院の讃岐については「1348 乃生岬」の項で、順徳帝については「1123 塩屋崎」の項で、日蓮については「1104 鴻ノ瀬鼻2」の項でそれぞれ書いていた。)
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 その罪が重いほど遠くへ流されたが、後醍醐天皇や尊良親王のように配流先の隠岐や土佐から脱出してまた勢力を盛り返すという例もあった。だから俊寛の場合は鬼界ヶ島(「540 足摺岬」の項)のように遠くの孤島などが選ばれるようになった、ということもあったのではないか。
 そういう距離的な意味では、八丈島は適当に遠い。しかも、江戸からは舟で一直線である。江戸期からの配流は、伊豆諸島、なかでも八丈島の役割がだんだん大きくなっていく。戦国の終わりを告げる秀家配流以来、実に数多くの人が流されてきた。当初は政治犯や思想犯などが多かったとされるが、時代が下るとだんだんに単なる重犯罪人も多くなる。なかには、根っからの極悪人も当然いただろうが、そうではない人も、それぞれ特殊技能をもった人も大勢いたわけで、そういう人が島に住み着いて島に貢献したという一面もある。
 なかにはうまく島に溶け込んでいけた者もいただろうし、島の女性と仲良くなるという者もあっただろう。だが、“渡世勝手次第”というのは行政管理の側の都合のいい責任放棄で、島で生きていくのは容易ではない。
 禁を破ってでもなんとか島抜けをしようと思う者は、跡を絶たなかったのだろう。だが、思うのと実際に実行するのとは大いに違う。
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 誰が建てたのかわからない石碑と、立て看板には“抜舟の場”とある。資料館の数字とは少し違うが、秀家以来明治4年までの間に流されたのは1917人であり、抜舟と呼ばれた島からの脱出を図った事例も11回、成功したのは1回のみと記してある。
 地理的には北の江戸へ向いたこの浜は、当時の八丈島から舟を盗んで逃げ出すには、まず考えられる格好の場所だったのだろう。
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 その横には、“流人の碑”という、なにか両手を天に差し出しているような八の字のようなモチーフの大きな碑が建っていたが、それを建てた人たちの立場がおもしろい。そばにある黒い石碑は、それを建てたのが、日本橋・浜町・柳橋・堀留・人形町・京橋のいわば流人を送り出す側、それにそれを受け入れる側の八丈島の各ライオンズクラブだというのだ。
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 神湊は、その当時から舟を寄せるのに適していた、古くからの湊だったのであろう。今では大きな漁港になっていて、かなり高い堤防が深いふところに多くの船を包み込んでいる。
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 ここも二日間にわたって二度三度訪れているので、天気のいいとき悪いときが入り混じるが、すぐ左手には神止山の小噴火口があり、その向こうに八丈富士が望める。ここから北にはもうしばらく集落はない。
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 “関係者意以外立入禁止”の漁港の中を突っ切って(遵法精神も時と場合による)北へ出ると、次の岬であるイデサリケ鼻も見えてくる。
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 この先は、実は歩いて行く時間がなく、計画では底土港から出た「橘丸」の船上から眺めるだけでいいか、と考えていた。
 だが、でんでんむしも、八丈島からの島抜け脱出にはみごとに失敗してしまったので…。
 そうそう、忘れるとこだったが、八丈島への流刑が正式に法律的な手続きで廃止になったのは、1881(明治14)年のことである。
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▼国土地理院 「地理院地図」
33度7分47.24秒 139度48分30.73秒
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dendenmushi.gif関東地方(2016/04/17〜19 訪問)

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番外:リゾートホテルの廃墟があちこちに=八丈町三根(東京都)なかでもこの神湊東の廃墟はスゴイぞ〜 [番外]

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 底土港からは北西に1.5キロほどのところに、神湊の集落と漁港がある。バスに乗るためには、そこまで歩いて行かなければならない。この付近はやはり溶岩の流出でできた緩斜面の終わりで、緑の植生の間にペンションのような建物もある。
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 と、道の左手になにやら怪しげな建物が見えてきた。思わずぎょっとするほど、巨大だ! (辺りに何もないせいもあるが…。)
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 寄ってみると、なんとこれが廃墟だというわけで、ますます怪しい。
 草ぼうぼうの敷地内にはひときわ大きな、議事堂のように中央に塔を備え左右両翼に広がる建物があるが、もう何年も荒れたままのようで、さりとて朽ち果てるでもなく永らえている。白いカーテンが八の字状にぶら下がったままになっているのも不気味っぽい。
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 入口の一対になった白い塔のように高い台座の上には、なにが乗っかっていたのだろう。その右手遠くには人の立像が立っている。歴史的な人物は思い浮かばないので、おそらくはその建物を建てた人の像とかなのだろう。
 草の陰に隠れた看板の文字は、「Hachijo Oriental Resort」と読める。このホテル跡の廃墟は、近頃一部で盛り上がっているという廃墟ブーム・廃墟マニアの間では、わりとよく知られた有名な物件らしい。なんでも、仲間由紀恵と阿部寛が出るあの映画のロケにも使われたという。
 これを取り上げて、荒れ放題の内部の写真までたくさん載せたブログやサイトがいっぱいあるので、そっちに興味のある方は検索してみるとよかろう。
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 もうひとつ検索してみてわかったのが、銅像の人物である。やはりオーナーだった安田某という人だということはわかったし、その人が空手家でも有名な人物だという情報もあったが、銅像の人物と有名な空手家が、同一人物であるかどうかは、どうも確かな結びつきの証が得られない。
 しかも、在日だというこの人物、その夫人がらみでなにやら北朝鮮、総連、金剛山、統一教会などなど、さまざまにやばそうな名前がゾロゾロでてきて恐ろしい。これはなかなか近寄れんということであろうか、空手家の情報を載せたWikipediaも、朴某という本名では沈黙している。
 廃墟も、最初から廃墟として建てたわけではなかろう。安田某氏が“八丈ロイヤルホテル”という名ではじめて1968(昭和43)年この地に建てたホテルは、88室もあって収容人員も450もあったというから、そんな大規模ホテルがやっていけるだけの繁栄時代があったわけだ。
 しかし、その後は名前も“プリシアリゾート”に代わり、また“オリエンタルリゾート”に変わっているので、経営上はいろいろあったようだが、永く八丈島最大の巨大ホテルであった。
 このホテルができた当時は、まだ西から東京にやってきたばかりだったでんでんむしには、八丈島は遠い異国でしかなかったが、どうやら八丈島が“東洋のハワイ”みたいなノリで宣伝され売り出されるような時代があったらしい。新婚旅行でこのホテルに泊まったという人も、たくさんいたのかもしれないのだ。
 だから、八丈島の大規模リゾートホテル開発は、ここだけではなく、大賀郷の“八丈島国際観光ホテル”や樫立の“八丈島温泉ホテル”もそうだった。しかし、どのホテルも2004〜5年頃までに閉鎖に追い込まれて、今は廃墟になっている点も同じである。
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 “八丈島国際観光ホテル”のほうは、船戸鼻や長崎へ行くときに見ていたが、病院のような茶色い大きな建物があるなあと思って見ていた。だが、島民のための病院であれば、こんなでかい建物は必要ないのだった。こちらも廃墟サイトにはいろいろ取り上げられているようだ。
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 “八丈島温泉ホテル”は、奈古ノ鼻や素石ヶ鼻を眺めていた乙千代ヶ浜のすぐ東側にあったのだが、温泉掘削工事の途中で二度も縄文遺跡が見つかったりした。その後温泉が枯れて廃業に追い込まれたという。こちらは所有者の管理が厳重なようで、写真もほとんどないようだ。
 それにしても、一時期はそれだけ観光地・リゾート地としても人もたくさん集まって、巨大なホテルの重要があったものが、どうして2005年までに一斉に閉鎖し、廃墟への道を歩まなければならなくなってしまったのだろうか。
 緯度的には、八丈島は九州の大分・熊本・佐賀・長崎と横並びでほとんど変わらない。黒潮の影響があるとはいえ、“東洋のハワイ”にはもともとちょっとムリがあったのだろうが、それよりも直接的に影響する大きな原因があったはず、とこれは容易に推察できる。
 それが、沖縄である。
 これは沖縄北部のどこかでちょっと書いたような気もするが、1970年代の沖縄海洋博は、まだまだ本土の沖縄ブームに火をつけるには至らなかったが、日焼けしたモデルがヤシの木陰、白いビーチで躍動するといった航空会社のCMがテレビに登場し、そういったイメージが溢れるようになる1990年代のリゾートホテール建設推進で爆発する。
 その陰で、わずかに命脈を保っていた八丈島のリゾート・メリットが、急速に色あせていくのはやむを得ないことだったのだろうと、これはあわせて考えれば納得がいく。
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▼国土地理院 「地理院地図」
33度7分38.93秒 139度48分34.24秒
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dendenmushi.gif関東地方(2016/04/15〜19 訪問)

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