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1394 雄松崎=大津市南小松(滋賀県)近江舞子には昔泳ぎにきたことがあるしもっと古い昔の琵琶湖での忘れ得ぬことなど [岬めぐり]

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 柳ヶ崎から北へは、唐松の松、堅田(かたた)の浮御堂といった昔の近江八景の名勝があるが、現在はどちらもすっかり住宅に囲まれてしまっているようだ。
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 湖西線の堅田駅付近には、琵琶湖大橋が架かっている。ここが琵琶湖南部で対岸との距離が1.35キロといちばん狭まっているところだ。そうだ。浮御堂までは大昔に来たことがあったのだ。それは、中学の修学旅行で京都奈良へ行った時のことで、比叡山から坂本へケーブルで降りた。詳しいコースはもう忘れたが、忘れられないことがひとつある。瀬田の唐橋・石山寺へ向かって琵琶湖を走る船の上で、昼食の薄い折詰弁当がみんなに配られた。そこで、食べ終わった弁当のヘギ折の箱をどうするかというときに、船長だかガイドだかどちらかが弁当の殻は湖へ投げてくれ、と言ったのだ。
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 昭和20年代の終りごろには、まだカンキョウのカの字もなかったので、そういう指示に疑問をもつこともなく、みんなでエイヤッと琵琶湖に投げ込んだ。でんでんむしもその指示にしたがってそうしたが、たくさんの弁当の殻と包み紙が琵琶湖の湖面に浮かんで、船はそれを置き去りにして南へ進んで行くのを見送りながら、あれは琵琶湖に沈んで腐ってなくなるのだろうな、と漠然と思った。
 救いは、今のようにビニールやプラスチックが普及する前だから、木と紙ばかりで、とうに腐って琵琶湖の底で分解されているに違いない。ときどきそれを思い出してしまう。
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 北へ比良山系とおぼしき山なみに向かって走る、湖西線の車窓から湖は遠く、和邇、志賀、比良を経て近江舞子に着いた。
 大阪にいたときは、門真市で1年、柏原市で6年を過ごしたが、海水浴には遠かった。淀川も大和川も川遊びもできないが、さりとて扇町プールまで行く気にもならない。
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 そんな頃、近江舞子まで泳ぎに行ったことがある。それまで、瀬戸内海で泳いでいたので、淡水の湖で泳ぐのも初めてだったが、かなり泳ぎ難いという印象はあった。だが、その記憶も前後のいきさつも霞んでしまった。だから、二度目とはいえ近江舞子の駅は高架になってすっかり変わっているし、海水浴場も初めて来て見るようなものだった。高架工事以前からそこにあったのではないかというような、年季の入った観光看板も、歓迎の左の一字がとれたままで、“迎”だけが残っている。
 リュックの女子二人組は、でんでんむしと同じく泳ぎにきたわけではないようだが、案内看板で確認しているその目的地は?
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 琵琶湖には川の河口の堆積が、大小の岬の出っ張りをつくっていると、前にも書いたが、そのほとんどには名前がついていない。申し合わせたように、それらはさほど大きくない河口の左右両岸の砂州を伸ばしたようになっていて、そこだけポコンと膨らんでいるのだ。おそらく、外海の海岸と違って、大きな波浪の影響を受けないためにできる地形なのだろう。
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 和邇川の河口の出っ張りは、比較的大きいほうだが、そこにも名前はない。
 近江舞子の白砂青松の海(湖?)水浴場で、丸く飛び出している雄松崎は、そうした琵琶湖固有の岬の変形種なのであろう。南には比良川が流れていて、その河口にも小さな丸い出っ張りができている。雄松崎はそれとは別の要因が加わって、できた岬のようだ。
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 大きく高くできた砂浜の丘が、長い堤防のようになって回りこみ、その内側には内湖という水面を抱え込んでいる。そこには比良川とは別の細流が何本も流れ込み、その流域は広い田んぼになっている。
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 どういう自然の力と偶然が生み出したものか、白い砂の輝きの中に松の青さが木陰をつくる、そんな湖岸が逆“く”の字の形に続いている。
 梅雨明け前の連休初日、この地方は汗ばむ快晴であったが、まだ泳ぎにやってくる人はそう多くはないようだ。ただ、この頃の若い人たちは、泳ぐことそのものが目的ではなく、岸にテントを張ってバーベキューをし、ビールなどを飲むためにやってくるようだ。
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 雄松崎から東を見ると、対岸は近江八幡市と東近江市付近である。手前に見える島は近江八幡市に属する沖島。琵琶湖の島は竹生島だけではないのだ。
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 近江舞子の北、北小松までで大津市は終わり、高島市となる。次の船木崎も北東1.5キロ先に平たく細く見えている。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度13分42.78秒 135度57分46.80秒
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1393 柳ヶ崎=大津市柳が崎(滋賀県)JR湖西線の“大津京”という駅名は妥当か否かの歴史論争も [岬めぐり]

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 東海道新幹線を降りた京都では、すぐに湖西線に乗り換え、大津京駅までやってきた。京都駅が始発の、この路線に乗るのもひさしぶり。記憶ではかつてはさびれた支線の一つに過ぎなかったが、敦賀までの直通快速もあるらしいし、今では湖西線の存在感は大きいものがあるようだ。敦賀方面に出るには、距離的には米原を回るより多少短縮される。
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 昔から、数少ない京阪のスキー場として、比良やマキノがあったが、なんといっても湖西線を変えたのは琵琶湖西岸で進んだ宅地開発で、完全に京阪への通勤圏になっているのだ。
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 大津へは何度かきているが、大津京(以前は西大津)で降りたのは初めてである。いつもは京阪の浜大津や石山寺、東海道線の大津駅のほうばかりだったから。
 湖畔でひときわ高層で目立っているびわ湖大津プリンスホテルに泊まったこともあるが、あれはにおの浜にある芭蕉ゆかりの義仲寺を訪ねたときだったか。
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 そうそう、もうひとつの問題ね。それは、このJR湖西線の“大津京”という駅名をめぐる問題である。
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 実際に遷都して天智天皇として政務を行なっていたのだから、そこには「宮」と呼ばれる場所があったことは確かなのだろう。それが“大津の宮”である。その場所は、京阪近江神宮前駅の北西すぐにある大津宮錦織遺跡とされている。周辺一帯はぎっしりと民家が立ち並ぶ住宅街である。ということは、これ以上は、周辺に発掘調査を広げることができない、ということである。
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 JR西日本が湖西線の西大津駅の名称を“大津京”に変更したのは2008年だったが、これは地元の強い要望によるもののはずであった。が、逆に今度は「存在しない歴史的な名前を使うことは、観光・文化行政の信頼を失墜させる」として改称に反対する運動が起こった。
 つまり、“大津の宮”はあったが、“大津京”があったという確証はなにもみつかっていないというのだ。「京」というのは、宮殿を中心に碁盤目状に区画された律令制に基づいた都市全体のことを言うわけだが、ここ大津ではそういう本格的な都市遺構は発見されていない。これ以降発見される可能性も低い。(周りの住宅を全部立ち退かせて発掘調査でもすれば別だが…)
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 したがって、わが国初の“京”は、694年の藤原京とするのが今も“業界”では定説となっているらしい。では、西大津を“大津京”へ改称しようとする、歴史的な根拠はなんだったのだろうか。
 錦織遺跡を発掘した研究者らは、日本書紀に「近江京」の名前がある、というのだ。また、藤原京以前の記述にも「倭京」「京内」の文字を使っているので、本格的な都市でなくても当時は「京」という言葉を使っていた、と主張していたようだ。
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 一方、別な研究者は、“京”というのはあくまでも中国の唐を手本にした律令国家の完成以前にはあり得ないので、“大津京”と名乗るのはこれまでの歴史研究を無視したものだ、とこれに反論している。日本書紀の“京”という記述については単に都を意味するもので、律令政治のもとで造営された“京”と混同してはならない、という。
 歴史論争には、これという決め手が出てこないと、いつまでもずるずると尾をひくものだが、前者の立場をとる市は、一度決めたものはもう変えないと監査請求も退け、異論には柳に風でいくつもりであるらしい。むしろ、積極的に大津京の存在をアピールするかのようだ。
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 錦織遺跡の東1.3キロのところで出っ張っているのが、柳ヶ崎である。ここには川はない。だが、かつてはあったのが埋め立てられたようにも見える。岬と園周辺には競輪場、浄水場、滋賀県琵琶湖環境技術研究センター、ヨットハーバー、びわ湖大津館、柳が崎湖畔公園と県や市の施設などが集まっているので、広い官地だったものだろう。
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 だが、その一角には広大な敷地をフェンスで囲った宗教法人の豪壮な施設もあったりして…。まあ、はるやまもあればMEGAドンキもあるのだから…。
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 湖畔公園に入らないと柳ヶ崎へは行けないのかと300円也の切符を買ったが、切符がなくても回り込む道を行けばよかったのだ。
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 丸い出っ張りの先端も、ぐるっと遊歩道があり、道のすぐそばが湖面である。こういう岬は湖ならではであろう。
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 茶ヶ崎から見ると、柳ヶ崎はこんなふうに見えるが、逆に柳ヶ崎から茶ヶ崎のほうを見ると、ほとんどわからない。マンションを目印にして、あそこかとやっとわかる程度だ。
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 冒頭の写真は、柳ヶ崎にある柿本人麻呂の歌碑である。万葉集の266首目、「淡海の海夕波千鳥汝が鳴けば情もしのに古思ほゆ」が漢文で彫り込まれていたが、こういう「おうみのみゆうなみちどりながなけば…」というような有名なフレーズは、なぜかしっかりと意識と記憶のなかに定着している。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度1分35.59秒 135度52分11.08秒
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1392 茶ヶ崎=大津市茶が崎(滋賀県)皇子山や皇子が丘の“皇子”とはいったい誰のことなのか [岬めぐり]

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 自分ではまったく運動もしないし、ジョギングはおろかラジオ体操もしないのに、なぜか他人が走るのを見ているのは好きなので、“びわ湖毎日マラソン”も毎年3月の声を聞くと春を感じさせる琵琶湖の風景を見るのが楽しみでもある。このマラソンコースは、ほとんど瀬田川マラソンの趣を呈しているが、そのスタート・ゴール地点が、皇子山総合運動公園である。
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 茶ヶ崎は、この運動公園の北、皇子山野球場から、東へ600メートルのところにある。確かに岬の名はあると言っても、コンクリートに固められた尾花川という小さな川の河口である。この河口の左岸はマンションが建っていて、右岸はその南に続く競艇場の敷地の一部かなにかのように囲ってある。
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 川はめずらしくきれいに清掃されていて、自転車の残骸やビニールゴミがひっかかっているようなことはない。平らな川底で、水もそれほど汚れてはいないようだ。男の子が二人、リモコンカーを川の中に走らせて遊んでいた。茶色の砂が目立つが、きれいに平らなのは、その下の川底もコンクリートにしてあるからなのだろうか。川の砂が茶色いので、地域の名“茶が崎”も、岬の名“茶ヶ崎”も、そこからついたのだろうか。
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 現在の地形をみると、なんでここが岬なの?というような感もあるが、ここはやはり尾花川が比叡山から運んできた茶色い堆積が積もって、大きく砂州が飛び出していたのではなかろうか。そういう地形は、琵琶湖沿岸には多いのだ。
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 茶ヶ崎の場合は、市街地ということで、どんどん周辺での埋立てが進み、岬らしい出っ張りもわからなくなってしまった…。
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 この河口右岸と左岸の湖岸が茶が崎という地名だが、そこに建っているマンションの名には茶が崎ではなく“ルネ大津皇子が丘”という名が(ほんとうはその下にさらに“ロイヤルビュー”という気恥ずかしくなるようなのも)ついていた。河口正面に見えるのは、次の岬である柳ヶ崎。
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 ここはまだ茶が崎で、皇子が丘という地域は、茶が崎の西、JR湖西線の大津京駅や京阪石山坂本線の皇子山駅の周辺一帯で、その北部の錦織には“近江大津宮錦織遺跡”もある。
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 さて、ここで問題発生。この地域でやたら使われている「皇子(おうじ)」とは、いったい誰のことでありましょうや。
 地元ではもうそんな詮索をする人間もいないとみえて、あらゆる皇子山、皇子が丘の名を冠した施設などの情報では、まったくなにもふれていない。
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 実はでんでんむしは、最初は近江に遷都したという「中大兄皇子」のことではないかと思っていた。だが、調べてみるとそうではなく、その子である大友皇子のことであるという。
 言われてみれば確かに、近江遷都のときは皇子ではあったが、遷都後すぐに天智天皇となっているのであるから、わざわざ“皇子”とその前の肩書で呼んで地名にするのは不自然であるな。
 その点、大友皇子は古代日本最大の内乱といわれる672年の壬申の乱によって、叔父に当たる大海人皇子に敗れ、皇子山の付近で首をくくって自害したというのだから、そのほうが正しいのだろう。
 このあたりの歴史的な経緯は、古代史のなかでも?が多い。そもそも、なぜ天智天皇は、近江への遷都を断行しなければならなかったのか。白村江の戦いで敗れたため、その後の混乱を精算するためだったというのは、おそらくそうだろう。それにしては、なかなかリスキーな選択であった。が、近江のこの地域には、古くからの豪族がいて、彼らが中大兄皇子を支えたから、というのは当たっているのだろう。
 京阪の近江神宮前駅の西400メートルの丘の上には、皇子山古墳というのもあるが、その前方後方墳の存在も、古代近江のそうした存在を暗示している。
 百済に肩入れした中大兄皇子は、唐・新羅連合軍との戦争に敗れてしまう。国内の不満も抑えながら、百済からの遺民を迎え入れ、対外的な守りの体制を固める必要があった。
 幸い一度も分断占領という悲劇的なことにならなかったが、日本が外国勢力によって支配される危機は、三度あったという説がある。この白村江の後と元寇のときと、昭和20年の敗戦だというのである。昭和20年には実質的にアメリカ軍の占領下に入ったわけだから、危機どころか現実にそうなってしまっている。だから、“三度の危機”にそれを数えるのは、ちょっとおかしいが。
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 とにかく、それに匹敵するくらいの国家存亡の危機であったには違いない。その危機感が、対馬の防備を固め、北部九州の大宰府に水城(みずき)という巨大な土塁防壁を築き、九州沿岸には防人(さきもり)を配備させた。さらに、瀬戸内海沿いには古代山城の砦を百済帰化人の協力によってつくったり(鬼ヶ城などという名になったり)もしている。
 その延長に、瀬戸内に近い難波から内陸の近江へ都を移した、ということなのだろう。琵琶湖は、海上交通の道でもあったから、近江からは東の各地へ道は通じた。が、やはり遷都への抵抗は大きかったようだ。そうした抵抗勢力のしがらみのない地を選んだというのもあるだろう。
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 近江令という法令群によって、史上初めて律令体制の整備にも手を付けたとされるが、その存在は原本が残っていないため定かではない。律令制の確立は天武天皇の事績とされているので、そのきっかけになった可能性はあるが、そのためことさら近江令の存在そのものが無視されるようにもなってきただろう。
 667年に遷都してから4年後の671年には、天智天皇が崩御して、大友皇子が後を継ぐが、その翌年には壬申の乱になだれ込んでしまうので、大津の宮は5年で廃都となる。
 大海人皇子は近江を出ていったん吉野に拠り、東へ向って美濃の今でいう関が原付近(地政学的にみても常にそうなる場所)を拠点に軍勢を整え、近江朝廷軍を破って、後継者争いに勝利する。勝った大海人皇子は、飛鳥に帰って浄御原宮を造営し、即位して天武天皇となる。そうなると、もう大津の宮は誰からも顧みられなくなる。
 さてさて、実はですね、大津の宮をめぐってはもうひとつ問題が…。

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35度1分16.86秒 135度51分47.59秒
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番外:やっぱりこっちのほうは鬼門だった(滋賀県・福井県)琵琶湖・越前海岸・敦賀・三方の岬めぐりはパプニングだらけ [番外]

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 ひさしぶりの東海道新幹線である。通常は「のぞみ」に乗るときは、横須賀線で品川まで行ってそこで新幹線に乗り換えるのがいちばん便利なのだが、今回は「ひかり」なのでこの場合は東海道線で小田原まで行き、そこから新幹線に乗り換える。
 ウエザーマップの予報を眺めながら、出発日を選んでいたが、計画を決めて予約をとったとたんにまた予報が変化して、傘のマークが大きくなった。
 梅雨の合間をぬっての計画だから、しょうがない。今回は途中敦賀付近では雨の中に突っ込んでいくことも、覚悟して出かけることになった。おまけに「海の日」を含む三連休の只中。当然、いつもはこんなときは避けて計画するのだが、今回は“日曜祝日のみ運行”というバスに乗るためもあり、また片やでは“平日のみ運行”というバスにもうまくからめた計画にする必要があった。また、世間が夏休みモードに入る前に、済ませておきたかった。
 おかげで、JRのみどりの窓口に並んだときには、連休初日の下り東海道新幹線「ひかり」の指定席は満席。窓口のおねえさんがグリーン車なら空いているというのでそれにした。後へずらすことは計画上できないから、やむを得ない。横須賀線のグリーン車には今でもたまに乗るが、新幹線のグリーン車は会社の金で東京=新大阪間を往復していたとき以来、これもひさしぶりである。
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 新幹線のことについては、以前にも書いていたことがある。
 また、窓の位置など車内設計についてもどこかで書いたような記憶があるが、どこで書いたか探し出せない。(So-netブログの“検索”はほとんど役に立たない。というのは言い過ぎか。たまには役に立つことも)ま、そんなことはどうでもよいか。
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 今回の計画は、琵琶湖と越前から敦賀・三方にかけての岬めぐりである。実際の行動は、京都→大津京→近江塩津→木ノ本→敦賀→三方→敦賀→武生→越前町→鯖江→織田→越前町→武生→米原→小田原というふうになる。
 が、ブログ掲載順はまず湖西線の岬めぐりから始め(これは実際行動順通り)越前海岸を下って敦賀湾岸をめぐり、続いて美浜湾、そして三方の常神半島の先端までという順序で項目は並べることにする。
 琵琶湖は、これも不思議だが、岬と名のある出っ張りは、西岸と北岸にしかない。以前もついでに湖北の岬を…と思ってみごとに失敗した経験がある。越前海岸は、越前岬(「005 越前岬=丹生郡越前町血ヶ平(福井県)生きる勇気が湧いてくる?ような屹立する岸壁が…」)までは済んでいるが、ここは再訪してみたい。
 若狭路の岬めぐりは、「579 黒崎=小浜市田烏(福井県)常神半島をバックにここにはあのう〜トンネルの物語もあったんですよ」まではアップ済みなので、このときには見えなかった獅子ヶ崎を常神半島側からおさえておけば、日本海沿岸は龍飛から京都府の経ヶ岬までつながることになる。
 それが、このミッションの使命である。…とカッコつけてはみたが、この岬めぐりでは、なかなか計画通りにいかないでカッコよくないハプニング(というより誤算?)が続出した。それを実際行動順にあげてみるとたとえば…。
 ① 近江塩津から木ノ本へ行くはずの湖国バスが、途中で打ち切りになっていて、道の駅で次の便まで1時間以上待たされることになった。
 ② そのうえ、このバスが肝心の藤ヶ崎を回らず、藤ヶ崎トンネルを抜けるルートを通ってしまった。
 ③ おかげで、予定より遅く木ノ本駅から敦賀行きの電車を待っているときに、ホームのベンチに帽子を置き忘れてきてしまった。
 ④ 三方から常神へ行く若狭町営バスの“日曜祝日運行”の便が、行ってみるとなくなっている。(4月からダイヤ改正しているという)これでまた3時間以上の待ちに。雨だけは予報通り。
 ⑤ 雨と悪路で常神岬が見える峠まで行けず。おまけに常神から帰りのバスが、事前の調査した時刻と違っていて、またここで雨の中なんと3時間20分待ち。
 ⑥ ハプニングにはよいこともあって、敦賀コミュニティバスの常宮線が夏季臨時増便になっていたので、立石岬まで行く余裕ができた。
 ⑦ …と思ったら、立石岬までの道は崖崩れで通行止めになっていて、結局行けなかった。
 ⑧ 最終日織田から越前岬へ行く、越前地区巡回ルートのバスに、あろうことか乗りそこねてしまい、「越前岬2」は計画倒れになってしまった。
 …といった具合に盛りだくさんで、これ以外に計画したとおりに車窓からはうまく岬が見えないというのもあったりして、さんざんの結果となった。
 ①と④⑤は、6月の計画時点でネット情報により確認した運行ダイヤが、いずれも4月から改変されていたらしく、ネット情報の修正がうまく機能していないという現実を明らかにしてくれた。つまりネットの時刻表などは改正があっても修正や置換えをせず、まったく平気で古い時刻表を放置したままなので、信用してはならないということ。これはこれまでも何度か体験したことがあったが、いよいよもってこの体験を教訓にし、計画のデータを見直さなければならない。
 最後はなんとか、計画通り「しらさぎ60」(下の写真は金沢へ行く「サンダーバード」)で武生から米原まで出て、米原からまた「ひかり」で帰ってきたが、やっぱりこっちの方角は(京阪からみると東北)鬼門であったか。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度25分13.41秒 136度0分33.73秒
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番外:東海汽船「橘丸」=三宅島から竹芝桟橋へ(東京都)三代目の柳原良平カラーリングは正直言ってちょっと?だが… [番外]

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 東京生まれ東京育ちの友人が、昔学校の修学旅行か何かで大島へ行ったときに乗った船の名が「橘丸」であったという。船の名も襲名されることもある(漁船などは“第八十三なんとか丸”のように番号だけ変えるのが多い)ようで、この現在の「橘丸」は三代目にあたるらしい。
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 東海汽船の前身である東京湾汽船が、大正時代に建造して運航していた小型貨客船を一代目として、その友人が修学旅行か何かで乗ったのは二代目の「橘丸」で、戦後に徴用を解かれて東京湾に戻ってきて、大島航路に復帰していた頃のことらしい。
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 三代目は、2014年6月就航を開始、総トン数は5,700トン、先年亡くなった柳原良平(当時東海汽船名誉船長)の選定で「橘丸」と命名され、船体のカラーリング(黄土色とオリーブ色と公式にはいう)も柳原が手がけたといわれている。
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 それまでの東海汽船のフラグシップであった「かめりあ丸」(3,715トン)などに代替するものだった。「かめりあ丸」は伊豆諸島の神津島や新島などへ行ったときに乗っているが、白を基調とした船体はもうかなり老朽化していた。(この時の写真と、柳原良平のことなどについてはこちら↓に書いている。
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 しかし、最初にこの船(三代目「橘丸」)の写真を東海汽船のサイトで見たときには、ヘンな色だなあ、それに斜めのラインが大型船にはどうもうまくマッチしていない。ほんとに柳原良平がこれに決めたのか?と思ったくらいだった。
 ヘンなカラーリングだと思う人は、やっぱりでんでんむしのほかにもいて、なぜかと質問をしたりしているが、単に先代のを踏襲したという情報は、個人からのものであったし、先代のがどうだったかもよくわからない。なぜか東海汽船もこの問題については、どうもすっきりした答えを用意してはいないようで、積極的な説明はない。tachibanamaru-6.jpg
 電気推進船(スーパーエコシップ=SES)」の新造船の名を、三代目となる「橘丸」とすることについても、反対の声があったようだ。それは、戦争中の“橘丸事件”の悪いイメージを引っ張りだすまでもないという理由からだった。確かに、命名もそれまでの「かめりあ丸」「さるびあ丸」「かとれあ丸」「ふりいじあ丸「すとれちあ丸」などと続いてきた花の名前路線から、大きく変更した復古調である。tachibanamaru-7.jpg
 これも柳原指示なのか? そうだとすれば、二代目の因縁を承知であえてその名を三代目に襲名させた理由は、いったいどの辺にあったのだろう。
 二代目は、当時の船舶が等しく辿った悲しい有為転変を経ていた。軍に徴用されて輸送船になったり、病院船になったりしていたが、事件は1945(昭和20)年それも8月3日のことである。モルッカ諸島周辺で南方戦線からの兵員の後退輸送にあたって、陸軍が病院船「橘丸」に偽名を付し、“1,562名の将兵たちが白衣を着て患者を装い、軍服や各種武器等は赤十字社の標章を付して梱包し”(wikipediaによる)て偽装して部隊・武器を輸送を計画し実行する。だが、それは国際法違反であり、出港後すぐに偵察機に捉えられて米軍の臨検にあい、拿捕されてしまう。陸軍史上最多の捕虜を出した、と記録されることになった、というのが“橘丸事件”だ。
 それでも、「橘丸」そのものは、パラオからウェーク島に回航、ウェーク島からは復員兵の第一陣700名を乗せて10月20日に浦賀に帰投したという。そして、戦後は大島航路の花形にもなり、1962(昭和37)年8月24日の三宅島噴火には避難民輸送に従事するが、後輩の新造船「かとれあ丸」や「さるびあ丸(初代)」の就航とともに、押しだされるようにして第一線から退き引退した。
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  まったく理解不能だが、三代目に採用されているSESという推進システムは、“ディーゼル主機関直結のプロペラと電気駆動のポッド推進器を組み合わせたタンデムハイブリッド方式”、なのだそうだ。その全長は118メートル、旅客定員は約1,000名であるという。貨客船であることは他の僚船と同じで、これは主に伊豆諸島の航路に従事するということの特殊性から、自ずから決まってしまう。貨物と旅客の両方を同時にのせていくのだが、いわゆるフェリーではない。だから自家用車は載せられない。じゃぁ、貨物で運ぶのかねぇ。ま、でんでんむしには関係がないので深く追求しない。
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 貨客船の特徴は、前方部にクレーンを備え付けていることで、各島々の岸壁に寄港すると、早業でコンテナを降ろしまた積んでいく。
 その間に、左舷のドアが開き、タラップが付けられ、乗客が降りていきまた乗ってくる。乗船するとそれぞれの選んだ船室に散っていくが、今回は昼間の長い航海になるので、特1等12,920円也(シルバー割・夏料金はもっと割高になる)をはりこんだ。受付でなぜか部屋番号を515番から517番に変更された。
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 特1等というのは、二段ベッドが左右にあり、その奥の窓に向かってテーブルに座椅子、一方の壁にはテレビが取り付けられていて、その反対側はロッカーと冷蔵庫(ミネラルウオーターが2本入っていたので1本いただいた)、給茶セットなどがある。ビジネスホテルみたいなもんだが、見知らぬ他人と4人(あるいは2人でも)でこの部屋を長時間に渡って共有するというのは、(相手によることはもちろん)はたしてどんなもんだろうね。
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 幸い、でんでんむしの部屋は相客はおらず、三宅島から竹芝桟橋に着くまでの6時間、ずっと一人だけの時間を独房で過ごしてサイコーだった。部屋の番号を変えたのは、余裕があるので相部屋にしないようにするためだったのかも…。
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 えらく時間がかかるのは、東京湾に入るところからは徐行運転のようにスピードを落とすからで、三浦半島が見えてからアクアラインの吸排気塔を回りこんでレインボウブリッジをくぐるまでの2時間以上が、ものすごく長いように感じる。
 東海汽船の八丈島・御蔵島・三宅島を結ぶ航路は、通常の帰路は三宅島から竹芝桟橋まで直行するが、夏の間は特別に大島に寄港することになっている。しかも、大島からは東京行きの高速ジェット船に乗換えが可能らしい。
 うーん、この長さを考えると、きっと乗り換えたくなるだろうね。
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1391 クラマ根・三池港=三宅村坪田(東京都)三宅島一周の輪を閉じるここから雄山山頂までは真西に4キロくらい… [岬めぐり]

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 「1377 サタドー岬」から始まった、三宅島の岬めぐりも、やっと逆時計回りで一周の輪を閉じる。この項目も、その輪を閉じるためにむりやりつくったことになるのかもしれない。
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 ここはクラマ根という表記はあるが岬ではない。しかしこの根はここだけ大きく長く東海岸で飛び出ていて、しかもその岩根をフル活用してつくられたのが、三池港であるらしい。
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 ここは結局実際に足を踏み入れることができなかったので、写真もサタドー岬からの遠望のみになる。(ベンケ根岬からは、見えるところまで歩いて行かなかった。この見えている崖も、自然のままなのか、何かの工事が施されているのか、よくわからない。)
 したがって、厳密には輪を完全に閉じてはいないことになるのだが、だからこの項目が必要なのである。
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 ここまで行けなかったのを他人のせいにすると、ひとえにそれは三宅島村営バスの運行ダイヤのせいで、なぜかバスはこの三池付近で切れてしまい、右回りも左回りもうまく乗り継いで行くことができない。わざと意地悪をしているかのように、この間の連絡は悪いというかできないようになっている。このことは三宅島シリーズの最初でもふれたが、村営バスとしてはそもそもぐるっと周回することの意義を認めていないようで、それには錆ヶ谷港発の「橘丸」への連絡のこと、以前は三池に車庫があったこと、サタドー岬から釜尻までの間がほとんど住民のいない地帯であることなどの理由もあるのだろう。
 そして、なによりも三池港がもうずっと長い間、実質的に使われていないという現状がそうさせているのかもしれない。島の東側にある三池港は、西風の影響を受けないために、2000年噴火まではメインの玄関口であった。帰島第一陣の船も、実は三池港に着いていたくらいだ(ということは、噴火で壊滅したというわけでもなさそうなのだ)。このため、三池周辺にはさまざまな施設も寄り集まっていたのだが、それらもみんな廃墟状態になりつつあるのでは、と想像される。火山ガスの影響が尾を引いて、それが影響したようにもみえる三池港閉鎖後は、メインの玄関は錆ヶ浜港に移っているようだ。
 ただ、三池港が公式に廃港または閉鎖になったというのは、どうやら明確ではないらしく、東海汽船などはずっと、「どちらかに寄港」という玉虫色の態度を変えていないようだし、国土地理院も、地図上の航路表記は三池港にしたままで変える気配はない。
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 う〜ん、こう考えてくると、ここもなんか不思議な場所だ。地図でみるとクラマ根という根は300メートル以上も突き出た幅のある岩根で、船が着くはずの岸壁は、その北側に飛び出している。そのなかに池と島のように岩礁の一部を残したまま、ぐるりを岸壁と道路で囲んでいる。これも不思議な形だ。
 三池港の西にあるのは沖ヶ平という字を持つ集落で、そのさらに西には雄山の東麓にこれも出来損ないのマールのような斜面が続き、そこから雄山の噴火口の南端につながっていく。
 三池港から雄山南の噴火口729メートルのピークまで、真西へ3.7キロ。
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 現在の地図では、雄山噴火口の多くはこの火口南の端に集中している。雄山の噴火口については「1383 大鼻」の項でふれたが、大きくて古い桑木平カルデラと、それよりはぐっと小さく新しい八丁平カルデラの、いわば時代の大きく離れた二重カルデラになっている。現在の山頂噴火口のカルデラは後者のほうで、それも2000年噴火で大陥没を起こした火口が南に移動するなど、大変動している。
 立入禁止が続いている山頂付近には、誰も入れないので、現在の詳しい様子はわからない。
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 ちなみに、これまたZENRINソースに依存しているGoogle Earth(左)では、雲でさっぱりわからないが、地理院地図の航空写真では噴煙が上がっている位置もよくわかり、火口の内部もきれいに写っている(右)。きれいすぎて、なんか内臓の写真でも見ているような気がしてくる。
 が、航空写真などをみても、真上からでは深さまではよくわからないのだ。観測をしている地理院地図では、火口のいちばん低い底のところで260メートル。カルデラの縁のいちばん高いところが北の775メートルとしているから、実に515メートルもの深い穴になっているわけだ。
 考えてもご覧よ。“直径150メートルもあって、500メートルもの深い穴”って、通常は目にし想像できる風景ではない。
 その風景が、雄山に登山してくる一般人の目にふれて、みんながそれを眺めて驚くような日は、いつかやってくるのだろうか。
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▼国土地理院 「地理院地図」
34度4分47.61秒 139度33分59.76秒
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dendenmushi.gif関東地方(2016/05/19 訪問)

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1390 ベンケ根岬=三宅村坪田(東京都)三宅島空港の東に張り出した広い溶岩台地…という表現は順序逆だけどね [岬めぐり]

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 ツル根岬や大路池に行ったのは「橘丸」に乗って芝浦桟橋に帰る日の早朝であり、ベンケ根岬へ行ったのは「橘丸」で錆ヶ谷港に着いた日の午後になった。
 したがって、実際に歩いて行ったり来たりした順序とはこれも逆になるのだが、ここでは逆時計回りに三宅島の岬を繋いでいる。実際には大路池からは、次のバスでまた引き返して、伊豆岬入口まで行ったのだが、そのてん末は「1382 伊豆岬」の項で述べたようなこととなった。
 この帰りのバスでおもしろいことがあったので、ついでに前項の続きとして書いておきたい。ほんとうであれば、その子ともっと話をして友達になればよかった。いろいろ話をして、ブログの名刺(つくってはあるんです。めったに使うことはないけど)も渡しておけば、その子に興味があれば見てくれるようになるかもしれなかった…のだが。
 結局、挨拶はかわしたが話はせず、その子とは一緒のバスで大路池までやってきて、同じバスでまた帰ってきたというだけの話で、そんな話のいったいなにがおもしろいのか。
 ずっと観察していた結果、どうやらこの日は三宅島小学校の社会訪問学習の日(のようなもの)だったのではないか、というのがでんでんむしの導き出した答だ。
 大路池でバスを降りたとき、こちらが池への道へ入ろうかというとき見ると、ジャージ姿がバスできた方へひょこひょこ都道を戻って行くところだった。いったいどこへ行くんだろうと思ったものの、そのまま忘れていた。
 帰りのバスに乗ろうと大路池バス停で待っているところへ、その子がまた現れた。ちゃんした挨拶ができる、かしこそうな子だ。どこへ行ってたのとか、家はどのへんなのか(この島ではこれ重要)とかも聞きたかったが、どうも近頃の事件や世の風潮を考えると、そういう行為さえも躊躇して引いてしまう。そういう自分が情けない。
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 少し疲れたのかな。帰りのバスが阿古の集落に近づくにつれ、だんだんと仲間が乗り合わせてくる。みんなてんでんに行く場所が違っているようで、にぎやかになる。ははーん、なるほど。
 …と、ここらで答えが出てくるのだが、すると、その子が学校からいちばん遠いところまで行ってきたわけだ。島の北側にある三宅小学校から島をほぼ半等分するように線を引くと、南の端が大路池。そこで降りると、行く場所は「アカコッコ館」か例の火山ガスを計測する会社しかない。「アカコッコ館」にはでんでんむしもいたわけだが、その子の姿を見た覚えはない。
 さて、この推理、答えは当たっていたのでしょうか。(そんなことのどこがおもしろいのかって? おもしろくないですか?)
 こどもたちの日常の足でもある村営バスは、本数も少ない。自然、どこへ行っても同じバスに乗り合わせざるを得ない。しかも島を左回り右回りに回っているだけ。それを使って島のいろんな職場を訪問させる。そのアイデアもおもしろいと思ったし…。
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 さて、本件に戻って先へ進まないとね。坪田港の上に立つと、こんな看板があった。どこを探してもその岩は見つからなかったが、まあそれはいい。伊ヶ谷の生島も、バスを降りなかったのでパスして、東への道を探すが、やはりここでも繋がっていない。
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 遠回りしてやっと港の東海岸に出たかと思ったら、そこはなんと小規模な別荘地のプライベートビーチの行き止まりであった。
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 また迂回して次に出た海岸は、「ジオスポット」案内板によると“沖原海岸”であるという。その名前は、地図にも載っていない。三宅島観光協会のマップにも載っていない。こういうのってちょっと困るが、この付近の海岸の溶岩も2500年よりも前の古い溶岩で、流れてきてここでたわみをつくっているというのだが、それがどうもよくわからなかった。
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 地層のほうは、下のほうに溶岩の“しぶき”ともいうべきスコリア層があり、その上に何層かの火山灰が降り積もっているさまはよくわかる。また、この上には黒土層があり、そこから弥生時代中期の大黒東遺跡がみつかっているという。
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 東屋の付近にあるというみさきカフェも休業とかで、ランチを食いっぱぐれたが、そのまま東に続くのは釜方海岸。釜方というのは、三宅島空港の滑走路の南端にくっつくようにしてある集落の名である。高く造成された滑走路の東を回りこんで北へ進むと、ベンケ根岬が大きく広く突き出ている。
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 岬の上は溶岩ばかりで、草は多少生えているが木の一本もない。
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 ジオ的にはここはネタがないのか、地質的にもおもしろいこともないのか、釣場案内の案内板はあっても、ジオスポットにはなっていないようだ。
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 その釣場の案内図では、空港の滑走路東に飛び出たこの岬は、「ベンケイ根」と名をふっている。「ベンケネ」は「ベンケイネ」だったのか。
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 三宅島空港ができたのは1966年だから、1983、2000と二度の閉鎖を経験している。帰島がかなって後に全日本空輸(ANA)が羽田と結ぶ定期便を飛ばしていた時期もあるが、やがてそれも廃止され、その後を調布飛行場を基点に主翼が上についたドルニエ機を飛ばして、1日3往復6便を運航しているのが新中央航空である。今回は、縁がなかったけど…。
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▼国土地理院 「地理院地図」
34度4分9.09秒 139度33分44.31秒
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dendenmushi.gif関東地方(2016/05/19〜20 訪問)

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1389 ツル根岬=三宅村坪田(東京都)アカコッコ館からツル根岬を目指したもののこれが藪の中に突っ込んで道が消え… [岬めぐり]

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 大路池からツル根岬にかけての一帯も、もちろん溶岩の流れた大地なのだろうが、それは2500年前の大路池ができた噴火活動の時期かそれよりももっと前のことであろう。その後は大きな溶岩流はこの付近を襲っておらず、照葉樹林帯が一面を覆っている。
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 都道からみてもそこにあるはずのマールはさっぱりわからないが、その先端のツル根岬へは、地図でみると二本のルートがある。大路池から少し都道沿いに東に進んでから南に入る道と、「アカコッコ館」入口の前から南に入る道である。
 さて、どちらがいいのか。アクセスの容易さと、ツル根岬の先端の崖により近いところまで破線の道が続いているという理由から、後者の道を選ぶ。
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 三宅村村営バスのバス停の標識にいちゃもんをつけていたのは、いちばんめだつ中央上を占めていたのが、バス停名ではなく大きな鳥の絵だったからだ。鳥だけではなくそのバックには三宅島全島の地図と、その上には「バードアイランド三宅島」の文字が周りを囲んでいた。
 つまり、それくらい村が重視しているらしいキャラのこの鳥の名は“アカコッコ”。昔からニワトリのことを“コッコ”と呼ぶ幼児言葉があったが、どうやら幼児だけではなかったようで、その名からすると体も赤いのだろう。これだけ三宅村が肩入れしているこの鳥とは…?
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 鳥の分類も花や樹と同様よくわらないが、“スズメ目ツグミ科ツグミ属”の鳥で、“島赤腹”という名もあるように伊豆諸島の鳥である。1975年に国の天然記念物に指定されているが、雄山の噴火以降生息数が減少している三宅島では、村立の自然観察施設「三宅島自然ふれあいセンター・アカコッコ館」を設立した。
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 大路池にほど近いそこには、日本野鳥の会のレンジャーらが常駐して活動をしている。入館料は200円だが、65歳以上は無料。なかなか立派な施設で、校外学習のための視聴覚設備なども備えているが、なぜかこれも中高年のおじさんやおばさんが多いバード・ウオッチャーのための観察室を眺めながら一休み、どうも足の具合がヘンなのだ。
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 しかしなんだね、バス停のイラストが“アカコッコ”を描いたつもりなら、あれはえらい誇大表示だね。都道沿いに少し離れてある「アカコッコ館」の看板とバス停の標識はこんな違うんだもんね。実物は羽根は黒っぽいのにもかかわらず、バス停標識のイラストだけはアタマとしっぽ以外全部“赤い”ように描かれているからだ。
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 実物がそう簡単に目の前に現れるわけはないので、念のためネットの写真と比べてみると、“赤い”部分の大きさがまるで違うのだ。なるほど、赤いのは腹だけで、漢字和名の“島赤腹”のほうが正鵠を射た命名だったのだ。
 大路池の森は、確かに多くの野鳥がいるようで、いろんな鳴き声は降ってくるがこれもシロウト目にはなかなか捉えにくい。大路池の照葉樹林帯は、新澪池や粟辺・薄木まで広がっていたが、その西側の大半は、新鼻一帯で繰り返されてきた水蒸気爆発によって壊滅した。だが、自然による破壊とは比べものにならない影響を及ぼしているのが人間の経済活動である。
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 大路池の付近はもとは神社の森だったという。神様が自然を守ってくれたそれにも象徴される自然信仰が、経済優先の活動にどんどんおされてきた結果、地球規模の破壊がとめどなく続いていて、グローバル化が輪をかけるそれには歯止めがない。
 アル・ゴアの『不都合な真実』や、11月11日生まれのレオナルド・ディカプリオが制作した環境ドキュメンタリー映画『The 11th hour』をCS放送で見て、改めてそのことを思った。『The 11th hour』にぞろぞろ出てくるような人々に、思いを共にするような政治家や指導者は、どこからも出てこないのだろうか。
 地球規模で、新しい価値観を共有しなければならない時代になっている。そのなかで、従来の資本主義と経済活動の原理やしくみが、当然問われてくる。ほとんど経済の知識がないので、このところはもっぱら、同じSo-netブログの「本」のカテゴリで中身の濃い書評と紹介を続けておられるだいだらぼっちさんの記事で、『資本論』や商品経済のことを興味深く拝読している。
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 都道から入る道の角には、四角い新しい建物があり、丸いランプを屋根に載せた自動車などが停まっている。看板を見ると、どうやらここは2000年噴火の後に発生した火山ガスを測定する会社らしい。なるほど、噴火後の新ビジネスなのだ。
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 その前からどんどん南に行くと、自動車も入れる道が突然終わってしまった。なんの前触れもなく、なんの標識や、細道への連絡もなく、ムリに行こうとしてそのまま視界のまったくきかないヤブに突っ込んで、にっちもさっちも行かなくなってしまった。まったく展望はきかない。
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 やっぱり、東の道だったのかねぇ。しかたがないので、ツル根岬は東の坪田港からと、西の新鼻からの遠望で間に合わせておくことに…。
 もう長いこと溶岩流出がないツル根岬の周りは、海食崖が発達しており、30メートルくらいの垂直な断崖が続いているようだ。
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▼国土地理院 「地理院地図」
34度2分50.12秒 139度31分52.61秒
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番外:大路池=三宅村坪田(東京都)なかなか簡単にはま〜るく収まらないま〜るいマールのことなど… [番外]

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 専門家の説明がシロウトにわかりにくい原因のひとつは、専門用語をいとも気軽に振り回し、それですべてが済んだかのような終わり方をするからである。専門家同士ならそれでもかまわないのだろう。また、同時にいろんな専門用語表現を使い分けるのかどうか知らないが、あっちの説明とこっちの説明で違う用語を平気で使ってフォローしないということがよくある。これがシロウトを惑わせる。
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 たとえば、大路池についても「約2500年前に出来た火口湖」という説明があり、また「マグマ水蒸気爆発で生じた円形の火口の周囲に少量の火砕サージ堆積物の低い環状の丘を形成したマール」という説明もがあるかと思えば、「爆裂火口」であるともいう。こうなると、火口とマールと爆裂火口は同じなんですかい違うんですかいと聞きたくなるが、そういうことは非常に多い。
 まず、「火口」とは「火口はマグマや熱泥や温泉水が、地下深部から上昇してきて地表を突き破ることで形成される」そうなので、水蒸気爆発でできるものも火口と言ってもいいらしい。したがって、大路池を火口湖と言うのには差し支えがないわけだ。
 次に「爆裂火口」とはなにか。火山の爆発でできる火口だが火砕丘をもたず、地面がえぐれたような凹みになるというので、そうすると火砕丘があるマールはそうではないことになるが、別の説明ではマールもその一種だという。こうなるとわけがわからん。しかも、火砕丘があるかないも、けっこう微妙だし…。
 しかもマールの説明の中で「火砕サージ」といわれると、それがまたわからない。雲仙普賢岳以降一般用語化した「火砕流」とはちょっと異なっていて、火山ガスの比率が高く、高速でなぎ払うように移動する現象だそうだ。その動きが水蒸気爆発火口の周辺をなぎ払うことで、周囲に円形の縁ができる、ということなのか。
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 この三宅島南部にはいくつものマールがあると書いていたのだが、マールには水がある場合もない場合もある。大路池には、その丸い凹みの南側に偏っていはいるが、水を湛えている。そのすぐ下の都道北側にも地理院地図でははっきりと水のないマールが描かれており、大路池の北東、坪田集落よりには大路池に匹敵するくらいの大きさのマール地形がある。そこも池ではないが、輪の中には小さな池と水流があり、道があり畑があり、都道に接するところには都立三宅高校がある。
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 おやおや、ここにきてwikipediaの“三宅島”の項には、こんな記述があるのを発見した。
 
 「…海岸付近ではマグマが海水と接して発生するマグマ水蒸気爆発による爆裂火口地形(マール)がいくつも見られる。大路(たいろ)池がある古澪(ふるみお)、新澪(しんみお)池跡、三宅高校のある八重間などもマールの例である。新しい溶岩が海岸に達しなかった場所は切り立った海食崖が続いている。
 
 なるほど、三宅高校のところは、八重間という名があるんだ。おおっ、それに「1388 新鼻」の項で、古澪について問題提起していたが、「古澪」もやっぱりちゃんとあったんじゃないか!
 しかも、その場所を「大路(たいろ)池がある古澪(ふるみお)」と特定している。この記述によると、古澪の上や隣に新澪ができたんじゃなくて、古澪からはまったく離れた別の場所であるところ(ここからは東に2キロ以上離れている)に新澪はできた、ということになるわけだ。
 さらにうろうろしていると、どうやらこの wikipediaの元ネタになっている(逆ってことはないよね)らしい「日本の活火山」サイトのなかにある「三宅島火山地質図」の解説にも、「海岸近くのマグマ水蒸気爆発で開いたマール (爆裂火口)を数多く見ることができる.大路[たいろ]池のある古澪[ふるみお],1763年に形成された新澪[しんみお]池(跡)などはこのようなマールの例である.」との記述があるのを確認した。
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 しかし、それは具体的にどこだ、ここだよとはっきり書いてくれないもんかねえ。案外、大路池と都道の間にある小さなマールがそれなのかも…?
 いやいや、まてよ。もう一度説明を読んでみよう。ここではwikipediaもその元ネタも「大路(たいろ)池が(の)ある古澪(ふるみお)」をひとつのマールと勘定しているわけだから、ということは、「大路池=(or ≒ )古澪」ってことになるんですか?
 これは大発見だ。しかし、まてまて、もうしばし…。
 そうであるならば、古澪の存在やそれが大路池という名になる経緯など、もう少しれっきとした由来説明があってもよさそうなものだが…。どこにもないんだね、これが。だから、なかなかすっきりとまあるく収まらない。
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 バス停を降りて、広い道を上りながら深い森のなかに入っていくと、道はまた急な下りの階段上になる。つまり火砕サージでできた縁の内側に入ったわけだ。
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 桟橋に立って正面をみると、丸くはなく左奥が少し奥深くなったような水面が左右に広がる。この水面は、マールの南半分にも満たない。北は緩い斜面になって、サージの縁に達し、そのまま真北にある雄山火口へと続いていく。
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 ああ、そういえば、マールのことを最初に書いたのは、男鹿半島だった。ここでもいろいろ書いているので、参照してくだされ。
 ま、いずれにしても、知りたがり屋シロウトの駄文に過ぎませんがね。
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▼国土地理院 「地理院地図」
34度3分15.72秒 139度31分33.45秒
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dendenmushi.gif関東地方(2016/05/20 訪問)

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1388 新鼻=三宅村阿古(東京都)この“新しい鼻”がいつ頃そう呼ばれるようになったのかは誰も知らないのか!知りたくないのか? [岬めぐり]

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 新鼻(にっぱな)という名は、当然に“新しくできた鼻”をさした命名であろう。とすると、この名はいつ頃につけられたものなのだろうか。
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 三宅島では最南端にあたるこの出っ張りは、付近全体では大きく南に張り出してはいるが、新鼻と名付けられた岬は、ほんの少しそこから飛び出す形で岩棚が海に突き出ている。その先には、新鼻ハナレという細長い岩島がある。見方によっては半円の弧を描くラインの一部のようにも思える。さては、これは新鼻新山の火口の一部なのか?  いやいやそんなことはないはずだよね。
   この付近一帯も、釣り人の間では有名なポイントであるらしく、まだ陽も昇らぬ早朝であるにもかかわらず、すでに岩の上に陣取って竿を出している人たちがいる。
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 確かに、降り積もった火山灰を乗せた溶岩が海に落ちではいるが、さほど高い断崖というわけでもなく、浜の岩場も歩きやすくはなさそうだが、広く開けているので比較的足場もよいのだろう。
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 こども時代の遊びからおとなになってからの五目釣り以外、こういう本格的な釣りや釣り船による釣行などはほとんどしたことがないが、釣りのおもしろさは多少知っている。それにしても…、と全国津々浦々どこへ行っても、どんな辺鄙な岬に行ってみても、必ず釣り人だけはちゃんとそこにいるか、いたかの形跡を残しているのは、驚くべきことだとこれもいつも思うことだ。
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 やはり、日本人の半分くらいは海彦の子孫なのだろう。新鼻の遠く水平線には、御蔵島の影もぼんやりと見える。海彦の子孫たちもまた、こうした島々を舟を作り帆をあげ櫂を漕いで往来してきた。
 この岬の名をつけた民宿は、阿古ではなく東隣りの坪田にあるがそれも釣宿で、ネット情報も釣り関連の情報ばかりしかなく、それ以外の新鼻について知ろうにも、まったくといっていいほど情報がない。
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 これまでの項目で見てきたように、薄木から粟辺、新鼻新山、新澪池跡にかけては、1983年の噴火で大変動があった地域である。新鼻もこのときにできたのかというと、そうではない。このときの記録では、場所の特定手段としてすでに既知の名として、「新鼻海岸付近」などとされているからだ。それに「新鼻新山」という新しくできた山の名に使われたのも、それ以前から新鼻があったことを示している。
 噴火記録を辿ってみても、いつの噴火で流れ下った溶岩流が新鼻というあたらしい鼻をつくったのかは、定かではない。前出の『地質ニュース』に掲載の図でみると、どうやらこの新鼻の付近は、“歴史時代の溶岩”の上に、1760年宝暦年代の爆発角礫岩(火山が爆発したその場所で形成された角張った岩片で母岩や貫入した火成岩物質の砕けたもの)と、1983年のスコリアなどが厚く降り積もったものとみられる。
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 つまり、いつから「新鼻」と呼ばれるようになったか、あるいはそういう地形的特徴を生じる現象がいつ頃にあったのかは、でんでんむしのようなシロウトが粗雑なネット情報調査をしたくらいではとうていわからない、深く多重に折り重なる地層に完全に埋もれていて、表面には出てこないのである。
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 考えてみれば、それも不思議なことだが、そんなことは前項のしんみょう池の水がいつ抜けたのかと同じで、どーでもいいとみんなが思っているからなのだろうか。
 あ、そうそう。そう言えばね。ほら“新澪池”も“新しい澪池”ですよね。とするとこれも、“古い澪池”がどこかにあったはずなんだがねぇ。でも、この場合は古い池のそばで爆発が起きて、新しいのが古いのを吸収合併した、ということは考えられる。しかし、もしそうだとするならば、“新澪池は1763年の噴火”で形成されたのではなくて「古澪池」が噴火したのだということになりはしないか?
 頭の悪いでんでんむしは、だんだんわからなくなってしまうのだが、それはそれとしても、新鼻付近で長年にわたって繰り返されてきた数々の地殻変動的爆発の結果であることだけは確かなのだ。(とりあえずいいかげんにまとめる→この答えはあとの項でね)
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 新鼻の北側、バス停と都道の間には、なにかを栽培している園地のように道が四角に区切られたようなつくりになっていて、柵とネットで囲まれているが、黒いネットはもうだいぶ以前からボロボロにちぎれているし、なにを植えているのかもよくわからない。
 どうやら、東京都管轄の防風林かその培養園地のような感じだが、三宅支庁のページをみてもまったく取り付くシマがないので、詳細は不明である。だが、どうもお役所仕事特有の“やりっぱな感”の印象が強く漂っているような…。
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▼国土地理院 「地理院地図」
34度2分46.53秒 139度30分5.70秒
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番外:新澪池跡=三宅村阿古(東京都)池が池でなくなったときそれが問題だと思うのはでんでんむしくらいのものなのか [番外]

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 新澪(しんみょう)池跡には、バス停のほか休憩スペースやトイレ、それに駐車場があるので、おそらく薄木から坪田までの間を走る車にとっては、重要なポイントになるのだろう。駐車している車も1台、また後から1台増えたが、どうやらいずれも釣り人の車らしい。
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 ここでは、新澪(しんみょう)池跡の“跡”もポイントである。つまり、かつては池だったものが、今はそうではなくなっているということだ。
 まず、このあたりで池といえば、火口に水が溜まってできる火口湖であると考えられるが、それはいつできたのだろう。気象庁の「三宅島噴火の歴史」では、
 1763年 宝暦13年 雄山山頂噴火、阿古村薄木でも噴火。約6年間
 と一行記されているだけだが、地質調査総合センターと産業技術総合研究所のサイト「日本の活火山」によると、宝暦の噴火についても詳しく書かれている。
 
 1763年8月17日(宝暦十三年七月九日)夜より鳴動が頻繁にあり,雄山の山頂から赤熱の岩片が稲妻のように飛んだ.翌日から鳴動,地震が頻発する中,薄木からも噴火が始まった.阿古,坪田両村にはスコリアや火山灰が多量に降り,伊豆,神着にも降灰があった.薄木には深い火口が形成され,水が湧いて池となった.この火口が新澪池であると伝えられている.噴火は1769年(明和六年)まで続いた.噴火をもたらした割れ目火口列は3条の割れ目の中央にあたる.スコリアは南東山麓にかけて厚く降下した.薄木周辺ではこれを覆って爆発角礫岩が堆積した.また,新澪池北方の小火口からは薄木へ溶岩が流れ下った.この噴火を期に阿古住民は東山から再び現在の地へ移村したという.
 
 ここでのポイントは、次の三点。
 ・この火口が新澪池であると「伝えられている」こと。(つまり伝聞である)
 ・このときの噴火は1769年(明和六年)まで「6年間も続いた」こと。(それだけ長い間にはいろいろあるだろうから、池くらいできてもおかしくない)
 ・阿古住民は東山から「再び移村した」こと。(その前1643年の噴火で東山に移ったばかりだ)
 現在の国土地理院の地理院地図でも、阿古の表示範囲が広い。当然、薄木も粟辺も、まだ阿古なので、東の坪田との境界線はどこになるのだろうと、実は疑問に思って探っていた。すると、ここから東に1.1キロ先の、カール状の谷(割れ目噴火? ではないな整然とし過ぎているから)が海岸にまで続いているところまでが阿古だった。
 現在の阿古の中心は港の北だが、そこからこの辺まで、何度か阿古の集落が移村を繰り返していたために阿古の領域ができたとも考えられる。
 新澪池は、なかなかきれいな池だったらしく、それを伝える記述は、さまざまにあるようだ。
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 が、問題はこの池が池でなくなったことである。1983年の噴火で水がなくなったと言われているが、それも経過を見たものはいないらしい。前項であげた新山の記録でも、新澪池爆発とはあるだけで、いつ水がなくなったのか、はっきり明記したものは見当たらなかった。
 爆発と同時に抜けたのか、それからしばらくしてだんだんに減っていったのか、何日かして行ってみたら水がなくなっていたということなのか、それもわからないのだ。(そんなこたあどーでもええんじゃ! とにかく水はヌケたんじゃ!) 
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 それにしても宝暦年間とは時代が違う昭和なんだからもうちょっと…と思っていたら、「ジオスポット」の説明には、「新澪池は一瞬にして干上がり…」とあった。そうなのか!?
 “一瞬にして干上が”るって?…。その状況が、どうもうまく想像できないのだ。
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 前出(前項参照)の『地質ニュース』では、噴火翌日の調査レポートとして、次のように書いていた。
 
 新澪池は地形図のそれとは様相を一変させていました。以前からあった池の隣りに径200mほどの窪地が生じ、その北に火砕丘が生じています。火砕丘の中の割れ目からは、白煙がモウモウと立ち上がり、周囲には白色から黄白色の昇華物が付着しています。(写真8)
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 その「写真8」というのが、右の写真(左の白いのが火口と,写真下の説明が言う)である。
 だが、この写真の下のほうには、明らかに枯れ木の向こうに池の水面とおぼしき平滑な面が広く写っている。つまり、噴火の翌日にはまだこのような状態だったことがわかる。となると、「ジオスポット」の説明が言う“一瞬”とは、いったいいつのことなのだろうか。
 新澪池の爆発火口は、現在の火口跡の北西側にできた。その跡は凹みになっているのがわかる。また、南側は高い崖になっていてなかなか深い池だったようだ。これが湧き水でできていた。
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 ここの爆発も新鼻新山の爆発も、同じ水蒸気爆発によるものであったが、池だったところの中の地形は複雑で、爆発も単純ではなかったようだ。マグマが水と接触して起こる同じ水蒸気爆発でも、そのときのマグマと水の状況によって、さまざまな結果を地形に残すものらしい。
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 池の跡を眺めていると、カラスが近くまでよってきた。さっき新鼻新山にいたカラスがついてきたのだろうか。
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 県道脇の看板は、火山ガスの注意をうながすものや、新鼻新山のロッククライミングを禁止する、打ち込んだハーケンなどを取り除くようにという警告であったりする。そういえば、新鼻新山でロッククライミングをしたと、えらく得意気に書いているブログもあったなあ。
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▼国土地理院 「地理院地図」
34度3分6.89秒 139度30分7.71秒
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1387 新鼻新山=三宅村阿古(東京都)“火柱”のメモから想像してみる新鼻の“一夜山”ができたときのこと… [岬めぐり]

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 1983年の噴火の記録はそれなりにあるが、やはり誰かがそれをずっと観測していたというようなものはないようだ。誰かがカメラをずっと回し続けていたりすれば、その様子も明らかとなるが、こういう場合、まずそれは望めない。今なら、スマホで撮った動画をすぐアップする人がいるだろうけど。
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 新鼻(にっぱな)付近の様子も断片的な目撃情報などをつなぎあわせながら理解しようとするしかないのだが、その材料はたとえば、翌日から現地調査に入った東大の地震研究所のスタッフが、その調査報告書に、三島高校や御蔵島中学の先生?の遠望観察記録などを加えたこんな感じである。
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「三宅島火山 1983年10月3日の噴火」『地質ニュース』352号所載 曽屋龍典・宇都浩三・須藤 茂の報告から
▲徳田安伸(三島高校)メモ・東大荒牧班プラス藤田治夫(御蔵島中学)の遠望記録による1983年噴火の経緯から新鼻新山にかかわるものを抽出

 ・1983/10/03  13:59 地震始まる
 ・16:40 新澪池爆発
 ・17:22 粟辺(新澪池西?)で火柱
 ・17:30 粟辺の火柱 海寄りに移る
 ・18:49 震度3。
 ・19:00 粟辺集落に溶岩
 ・20:34 震度3
 ・21;26 爆発(薄木?)
 ・21:40 激しい爆発(新鼻からタツネ)
 ・22:33 震度5 M6.1
 ・22:36〜 粟辺付近の2か所で火柱
 ・〜23:10 新鼻付近 海底爆発
 ・10/03 01:45 新鼻付近 時おり激しい噴火
 ・03:00 噴火小康状態

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 つまり、その後の結果と重ねあわせて想像してみると、噴火が始まった午後の夕方になって新澪池で爆発が起こり、池の北側に火口ができる。この影響で池の水が抜けてしまうのだが、とりあえずそれはおいて、続いて粟辺で火柱が立ち、海寄りに移動する。夜になって薄木から新鼻付近で激しい爆発が起こる。このときに、海岸付近でマグマが海水とふれて水蒸気爆発が発生して、大きな岩石(噴石)を周辺に落下させている。
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 その爆発で、スコリアなど噴出物を積み重ねて環状火砕丘ができた。これが新鼻新山になるのだが、これもできた当時は海に半分突き出るようにして、丸い縁のある火口をともなっていたようだ。(↓上記の『地質ニュース』から)
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 噴火でスコリア(ガスの抜けた軽石など)が積み重なって小山をつくるのは、1940年噴火でできたひょうたん山も、1962年噴火でできた三七山も同じである。ここでは、丸く高く盛り上がっていた山を形成していた大部分が吹き飛ばされ、裾の端の一部だけが残っているように見える。
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 新鼻では、当時吹いていた風の影響で噴出物が東に流れ、一方西には火口からの流出もあったらしい。そのため東側に広い砂漠状の地形になっている。しかし、新山の形はその後でやってきた台風の影響をもろに受けてそのほとんどが崩れてしまったのだ。その後も、崖の海食が進み、だんだんと現在のような形になっていった…。
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 丘が崩れて断面が露出しているが、噴火物が堆積するときに圧力がかかって溶結作用が起こると下の海岸の石のように青黒くなり、溶結が進まず空隙が残ると高温で酸化しこの壁のように赤くなるのだという。
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 おおむねこのようにして、一夜にしてできた山(実は山というほどの高度があるわけでもない)がこの新鼻新山なのだが、地理院地図にもまだその名は記されていないし、その地形が地図でわかるほど、明確に表示されているわけではない。しかし、名前が記される前にさらに崩落が進みそうな気配もあるので、国土地理院も様子を見ているのかもしれない。
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 NHKの「とうちゃこ!」番組で、自転車で回る三宅島では3か所で手紙が読まれていたことは、「1380 下根崎」の項でふれたが、この新鼻新山にもやってきていて、「みたことねえや、こんな景色」と火野正平さんも驚いた、と番組ページにあった。
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 カラスはどうだか知らないけど、でんでんむしもホントそう思いましたね!
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 見たことないよこんな景色!
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▼国土地理院 「地理院地図」
34度2分50.76秒 139度29分56.59秒
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1386 薄木・粟辺の無名岬=三宅村阿古(東京都)溶岩流が海に達してできた“吾輩も岬である。名前はまだない” [岬めぐり]

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 まだ2000年噴火のずっと以前に、三宅島の2万5000分の1の地図を買ってきて眺めていたことがある。どういうわけか、火山島に行ってみたかったのだ。そのときは、結局地図を眺めるだけで終わったのだが、島の南部の地形に引きつけられた。大小のマール(水蒸気爆発によってできる縁のある円形火口)がいくつもあるし、北から南の海に向かう溶岩流の形跡がいくつもあった。
 その地図は、1983(昭和58)年の噴火後の修正を施したものであった。
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 1983年の10月3日、雄山の南西山腹の二男山付近に生じた割れ目から噴火した。いわゆる割れ目噴火という形で、地割れが上下に成長しながら火口となって噴火する。気象庁の記録ではこの噴火に(溶岩噴泉)とかっこ書きしているので、溶岩流が特徴的であったものだろう。
 溶岩流は、火口から主に3方向に流れている。北西方向に流れ出たものは阿古地区の民家を埋没し焼きつくし、火山体験遊歩道を今に残している。南西方向に流れたものは、谷の途中で止まり、阿古漁港に被害はなかった。そして、尾根のピークに当ってそこから南に向きを変えた流れが、薄木の東をかすめ、ほぼ粟辺の集落と県道を乗り越えて、とうとう海にまで達している。
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 粟辺の県道から北側には、黒い溶岩原が広がる。その上のピーク付近が、1983年噴火の火口が開いたところだろう。
 そこから南西に斜面(写真では尾根の向こう側)を下り、272ピークのところで南に流れを変えたため、粟辺からみると、山を越えて突然流れ出てきているように、はっきりとその黒い流れが固まったままだ。
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 その溶岩の様子は、現在でも植生に覆われることなく、ほぼそのままのようである。
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 そして、県道と集落を越えて、島の南海岸にまで流れ込んだ溶岩流の先端が、平らな岬となって終わっている。
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 現在の地図では、その岬には名前はついていないが、何本かの出っ張りとともに、東寄りに少し大きな溶岩の塊が認められる。それが1983年の噴火によるものかどうか、確認しようと古い地図との比較もしてみたのだが、どうもはっきりわからない。この無名岬にいずれ名前がつくことになるかどうかもわからない。
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 このときの噴火では、割れ目噴火とともに海岸でも、新たな噴火口も開いて、大規模なマグマ水蒸気爆発を起こしていた。
 粟辺の集落をも押し包んだであろう溶岩原と海中に流れる先端の岬が望める風景の中央に、ひときわ目立っている三角形がある。これが、そのときに新たにできた火口の名残りらしいが、それはまた後でね。
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 記録では、1983年噴火での死者はゼロだったとある。全体に、何度も大噴火を繰り返している割に、三宅島では人的被害は少ない。人口密集地でないことと、昔からの学習効果もあろう。それと、溶岩の流れは多少の避難のための時間もつくってくれる。
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 県道の歩道脇に、これも道路工事で移したかのような、石を立てた墓石のようなものがあり、花が供えてある。名前の文字を写真に撮るのは遠慮したが、姓の異なる複数の名が記されていた。そのときは、粟辺の犠牲者の家があったところなのだろうと思ったが、死者がゼロだという1983年でも2000年でもないとすると…。
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 このとき海岸付近で続発した水蒸気爆発は、意外な特徴で大きな被害を生じたらしい。それは、火山弾というのとはまた少し違うようだが、多量の大きな岩塊が周辺に落下したというのだ。
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 県道の脇には旧歩道がそのとき落ちてきた石とともに保存されていた。最初、その石を見たときにはきれいに並んでいたので、道路工事のときに並べて置いたものかと思ったが、東京都三宅支所が立てた擬木の大きな標識案内板で、そうではないとわかった。空から降ってきた大きな石はそのまま“噴火災害保存箇所”として保存されたのだが、この案内板は1983年以降2000年噴火以前に立てられたものだろう。
 この付近ではもっと古くは、1712(正徳元)年と1763(宝暦13)年にも雄山や薄木の噴火が記録されていて、山の斜面には溶岩流か火砕流がつくったとおぼしきカール(氷河ではないのでそうは呼ばないのだろうが、地形的にはほぼ同じような凹地の谷)が刻まれている。
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▼国土地理院 「地理院地図」
34度2分55.88秒 139度29分34.18秒
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1385 間鼻=三宅村阿古(東京都)大国主の息子さんご一家が祭神の富賀神社こそが恐れ多くも伊豆七島の総鎮守なのだ [岬めぐり]

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 この島の神様である事代主命(ことしろぬしのみこと)と伊古奈比姫命のことについては、「1381 大崎=三宅村神着」の項や椎取神社のところで書いていたのでもう解決したと思っていたら、とんでもない。解決しておりませんでした。
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 三宅島だけでなく、だいたいにおいて伊豆諸島の神様は、三島神社の祭神である事代主命とそのファミリーで統一されているようなのだが、御笏神社の祭神のうち事代主命の妃を佐伎多麻比咩命(さきたまひめのみこと)としていた。
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 ところが、富賀(とが)神社に来てみると、ここでの祭神は同じく事代主命の妃として伊古奈比咩命(いこなひめのみこと)の名をあげて祀っているのだ。
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 まあ、ギリシャ神話ほどデタラメでもないが、よくある話でこの頃の神様の世界は一夫多妻で通用したから、妃といっても一人とは限らない。佐伎多麻比咩命は二の妃(あれっ、三だったかな?)というわけで、少々違っていてもいちいち騒ぎ立ててはいけない。
 椎取神社のところでは、その他大勢と一緒の項目だったので、詳しく書けなかったが、改めて椎取神社の縁起(説明板)をみると、そこは「事代主命が上陸の第一歩を記したところで、その第四妃佐伎多麻比咩命の第八王子の志理太宣命が祀られている」という。
 三宅村が立てている説明板だから、いちおうこれを公式記録とすると、御笏神社の祭神も「四妃」(ネット情報によくある「二」とか「三」ではない)である佐伎多麻比咩命となる。佐伎多麻比咩命が何番目の妃かという問題はこれで決着して、さてここは富賀神社である。
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 ここの祭神として祀られている妃は、それとは違う伊古奈比姫命。彼女こそは「正妃」なのだ。そして、その子の阿米都和気命 (あめつわけのみこと)も祀られている。ここから北西85キロにある静岡県の下田市には、伊古奈比咩命神社もあることでも、この一家の勢力圏が想像される。
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 そもそも、事代主命はその父である大国主命に連れられて、出雲の国を出て紀伊の国に渡り、さらに三宅島に上陸して、付近の島々に漁業や農業を伝え、諸島の基盤をつくったという。だから、富賀神社こそが伊豆七島の総鎮守であり、本土の三島神社の発祥の地ともされている。
 おそらくはそのためであろう。境内から古墳時代から平安時代に至る遺跡が発掘されたときにも、ここが事代主命の墓所だったのではないかという説も飛び出してきたのも…。
 それにしても、どういうわけでか天孫に比較的あっさりと国譲りをしてしまった大国主の命とその子らが、東国のしかもこんな離島へ流れ出ることになったのは、逆にみればこの地が正統な神様を欲していたという受け入れ態勢があったからにほかなるまい。
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 錆ヶ浜に「橘丸」が着く時間に合わせて、三宅島村営バスもダイヤには載っていない臨時早朝便が出ることがわかったので、翌日は早起きしてそれに乗り、富賀神社前で降りて、一本道を神社までやってきた。神社までは電柱も電線もあるが、ここから先にはそれもない。天と海と地あるのみ。神様の世界のようである。
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 と、そこへ突如として天地(あめつち)をも恐れぬ人間の所業が…。
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 間鼻という名も由来は不明だが、当て字くさい。そこでは園地の整備工事が行なわれていて、これから立てるジオスポットの案内板も置いてある。
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 それによると、間鼻の崖をつくっているのは、この海岸で起きたマグマ水蒸気爆発の噴火で放出された岩塊(爆発角礫岩)なのだそうだ。
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 間鼻をつくる溶岩流は、886(仁和2)年の新島向山噴火の前にできていて、その上に新島噴火の白い軽石も飛んできて地質学上で言う“鍵層”をつくった。つまり、地層の年代を測定するうえでの目安になる特徴的な層なのだが、研究者によっては838年に神津島天上山が噴火したことは間違いないが、886年に新島向山噴火が起こったという確証はない、という説をとる人もある。
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 ただ、886年には安房国降灰記録(三代実録)などもあり、それらも伊豆大島や新島阿土山の噴火の可能性があるという。それが正しいとすると、この案内板を始め、886年新島向山噴火の通説によった部分は、書きなおさなければならなくなる。
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▼国土地理院 「地理院地図」
34度3分7.85秒 139度28分56.95秒
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dendenmushi.gif関東地方(2016/05/20 訪問)

   

追記:本文とは関係ないが、ここでまたおもしろいことがあったので、備忘のために残しておく。
 So-netブログの「地域ブログランキング」の各ページのトップページの画像は、かなり気まぐれ要素が多く不定期だが、ときどき最新のものに変わる。これは、当初からずっとそうなっていた。
 ところが、2016年の元日恒例「定点観測」でもとりあげていたように、どういうわけかでんでんむしのトップページ画面だけは、ずっと変わらない。
 2015年の春、“年表”のシリーズを連載していたときの最終「1990年」のページ画像のままであった。
 15か月もの間、ほったらかしにされていたわけだ。ほかの人のは知らないが、やはりずっと変わらなかったようなページもあるにはあったようだが、それらも徐々に更新されていき、ずっとでんでんむしのだけが古いキャプチャのまま残っていたのだ。
 さては、曽根風呂にはときどき辛口批評で文句ばかりつけているので、睨まれたかな? ま、どっちにしても別にたいしたことじゃなんだけどね。

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 それが、2016/07/03(おととい)の朝見たら、なんと変わってるじゃありませんか! おお、やっと変わったか! しまった、変わる前の画面を証拠に撮っておけばよかったなあ。
 すると、2016/07/04(きのう)の朝のページでは、またもとへ戻っている! いやいや、これはキャッシュが残っていただけなんだ。そうだ、それならこれをとっておけばいい。
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 …というようなわけで、15か月ぶりの「でんでんむしの岬めぐり」「地域ブログランキング」の画像更新であります。

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番外:鯖ヶ浜と鯖ヶ浜港=三宅村阿古(東京都)赤い今崎海岸に続くニビイロのサビガハマは「橘丸」の寄港地 [番外]

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 東京芝浦の竹芝桟橋を出た船や、運よく欠航にならずにやってきた八丈島・御蔵島からの船が出入りするここは、錆ヶ浜港(さびがはまこう)。
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 全島避難が解除になって以来、三宅島の玄関口の役目を果たしてきている、島の西側にあるこの港は、もともとはサブの扱いで、東側の三池港が使えないときに西のここに接岸するだけであったようだ。
 どういう影響があったのか、説明が見当たらないので、詳しい理由は不明ながら、2000年噴火以降、東の三池港は使えなくなっている。だから、「橘丸」ももっぱらこっちへ着く。もうひとつ、伊豆岬と今崎の間に、伊ヶ谷港(いがやこう)という港もあるが、これが今のサブになっている。
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 しかし、ここはなぜ“サビ”なのだろう。魚偏なら“サバ”かとも思ったが、沿岸から遠い伊豆諸島ではサバもあまり聞かないし、金偏の“鉄のサビ”が浜の名につく理由も思いつかない。
 伊豆大島などでよく食べられている白身魚に、“サビ”(クロシビカマス)という魚があるので、その名からきた名前なのか。いずれにしても“サバ”ではないらしいし、第一魚偏ではない。港の北に続く黒っぽい浜の名も錆ヶ浜。ここは港よりも、浜の名のほうが先にあったと考えるべきだろう。
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 鯖ヶ浜港は、阿古漁港の北側に突き出た岸壁のことで、東海汽船の大型の貨客船「橘丸」が、毎日早朝に東京からやってきて、お昼すぎには八丈島・御蔵島からの折り返し便が着き、また人と荷物を積んで、そそくさと出て行く。今のところは、それだけのために存在する港である。こういう大型船の接岸する岸壁には、かなりの幅も長さも必要になるので、小型船のように港の防波堤と灯台をくぐって港内に入るというようなことはない。
 外海に面した防波堤のような岸壁が、船が接岸するところなのだ。 
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 こういう場合は、入港する船はアタマから入ってきて岸壁の前で反転し、船首を海に向けて接岸するのが決まりである。
 でんでんむしが帰るときに乗った便は、八丈島から出たものの、御蔵島への寄港はできなかった。そんなアナウンスが、広い待合所の建物のなかに響いていた。が、どんな客がそれで影響を受けることになったのだろう。
 そんな埒もないことを思うのも、自分が八丈島で三宅島へ向かうはずの「橘丸」を2日間も待たされ待ちぼうけをくったばかりだからだ。
 寄港できなかった御蔵島から乗るつもりだった乗客は、乗れなくて乗っていないわけだから、八丈島から乗って御蔵島で降りるつもりの乗客が、三宅島まで連れて来られた、というケースは考えられる。
 さーて、そういう人がいたとして、どうするんだろうね。
 天候次第で、船はなかなか計画通りにはいかない。それは離島の場合は大前提で、だから東海汽船も、乗船券に予定通りに運行しないことがあるという意味の印字をして手渡したりしているわけだが…。
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 港の岸壁の北側を見ると、まず目に飛び込んでくるのは、赤いテーブル状の今崎海岸である。その手前からは、対照的にくすんだ灰色の海岸が伸びてきて岸壁までつながっている。
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 小説家などだと、空や海の表現に「にび色(鈍色)」などと気どって表現するのを好む傾向があるが、こういう錆ヶ浜がまさしくそのにび色なのであろう。空や海ならいいけど、浜にはふさわしくないのかな。“サビ”と“ニビ”…。
 そのときに流れてきた溶岩の性質によって、赤くもなったり黒くもなったりするが、錆ヶ浜に切断面を晒している部分的に礫の層も含む地層もにび色であった。sabigahama-1.jpg
 今崎海岸の項がいっぱいになってしまったので、書き切れずに残っていたのは三本岩。大野原島(三本嶽)と地理院地図で表記されている岩島は、錆ヶ浜からは西南西に9.2キロの距離にある。ここも、海底火山の噴火で生じた島だろうが、もちろん無人島。
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 だが、遠くの海にはかなげに蜃気楼のように浮かんでいるこの岩島は、今の三宅島、とくに阿古地区の漁師さんなどにとっては、その存在感ははっきりとしていて、生活と密接に結びつくほど重要である。
 阿古の民宿に電話したときにも、いちばんに「釣りですか?」と聞かれたくらいで、外来の観光客のうちに占める遊漁客の比率がどのくらいかはわからないが、相当なものではないか。民宿の多くは、そういう客を相手にしており、自前で、あるいは提携で、遊漁船を用意して待っている。
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 そして、その船が向かう漁場の主だったところが三本岩。大きいのは確かに三本だが、そのほかに十指に数えられるほどの小さな岩島が集まっている。釣はしなくても、そういうところに行ってみるのもおもしろそうだ。けどね、ここには岬はないから行かなくてもいいんだ。
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▼国土地理院 「地理院地図」
34度4分10.11秒 139度28分50.31秒
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1384 今崎=三宅村阿古(東京都)1643年(寛永20)年の噴火でできた溶岩扇状地の海岸はたくさんの“鼻”が集まって… [岬めぐり]

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 今崎は、錆ヶ浜港の南に見えている、平たくて大きく丸い岬である。西へ張り出したその先端部は、三宅島の最西端でもある。夕景浜から錆ヶ浜まで、1.5キロにわたって続く断崖の海岸は、今崎海岸として括られ称されることが多く、今崎という岬をひとつ特定して取り上げることはあまりなさそうである。
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 三宅村の釣場案内によると、地理院地図が「今崎」ひとつの表記で済ませているところを、いちばん北の崩鼻から、ダイザブロウ、ハツリ鼻、潮の鼻、ワシ鼻、高鼻、平鼻、中鼻、オヨギド、メガネ岩と、さまざまな命名が記してある。
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 今崎海岸の出っ張りは、1643年(寛永20)年の記録に残るなかでは古い噴火によるもので、阿古の後ろのコシキ火口から大量の溶岩を押し出して、この海岸をつくった。
 寛永といえば、でんでんむしのようなこども時代に浪曲や講談や落語をラジオで聞いて育った人間には、寛永三馬術(有名な曲垣平九郎の愛宕山の話はつくり話)などという連想がすぐに浮かんでくるが、春日局がぼつぼつ引退、徳川家光やその異母弟にあたる保科正之が出てきて、狩野探幽が活躍し、市井では幡随院長兵衛や由井正雪が出てきた、この海岸に溶岩が流れ下ったのは、そういう時代のことである。
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 コシキ火口は海岸に比較的近いスコリア丘で、地図でもよく目立っている。右手の少し小さい塔のようなものが立っているところもそうだろうが、この付近に現在の阿古の中心集落や役場などがある。
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 この火口から噴き出した溶岩は一面に広がり、溶岩扇状地の景観をつくりだしたと、ジオスポットの説明は言う。
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 この少し赤みがかった溶岩と、黒い溶岩流の溶岩の違いと関連は、ここまでまだわからないのだが、今崎海岸の溶岩は、全体的に赤みが勝っている。なかに白い骨のようなものが見えるが、恐竜の骨などではなくて立ち木が仮死した枯れ木なのだが…。
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 道路が一本通るばかりの広い溶岩台地の上は、370年以上経つ今でも植生も繁茂することなく、溶岩がつくった扇状地をそのまま残している。すると、この枯れ木も370年以上前のもの?…とは思えないので、これは2000年噴火時の阿古地区のものだろう(か)。taikenyuuhodou-3.jpg
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 それ以来の溶岩流はないままなので、海岸の波打ち際は波浪の絶え間ない活動によって削り取られ、海食崖をつくっている。
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 メガネ岩は、その海食崖の一部に洞窟ができる海食洞である。うまいぐあいに海蝕洞のできた部分が、海に取り残されるような形になっていたため、陸地側から見ると、ちょうどメガネのようにふたつの穴が崖に開いていたのだろう。
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 いま、メガネは左側片方しかない。右側は伊勢湾台風(1959)で、上の岩橋が崩れ落ち、現在のような形になってしまった。この崖をよくみると、ここも柱状節理になっている。洞窟などでみられるように、あるいは東尋坊のように大きくはっきりしたものではないが、三宅島の溶岩海岸の海食崖は、だいたいそのようである。
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 これは、溶岩がゆっくり冷えるときに収縮するので、そのときに縦に亀裂が走り柱状になるのだと言われている。
 今崎海岸の南南西寄りの沖合に、ぼんやりとだが島影が見える。それもひとつではない。
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▼国土地理院 「地理院地図」
34度4分36.60秒 139度28分25.43秒
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dendenmushi.gif関東地方(2016/05/19 訪問)

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