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1408 名子崎=敦賀市名子(福井県)ここらへんから海水浴場や釣りレジャーで賑わうところで… [岬めぐり]

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 弁天崎にすぐ続いてある名子崎は、地形は弁天崎よりも岬らしく出っ張っているが、弁天様も何もないので、こっちのほうがより何の変哲もない。バスは、大きくカーブしてこの岬を越える。
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 岬らしいところは往路ではほとんど見えないので、復路の車窓からその姿をみる。例によっていいかげんなテキトウな写真ばかりだが、常連さんは“あいかわらずだな”で済むが、やはりたまには断っておかなければなるまい。
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 でんでんむしは、写真はメモ代わりというつもりで割り切っている。座席に座ったきりでは、フレームワークなどやりようがないので、トリミングもしなければ使えない。少々ボケているくらいブレているくらい平気でOKなんです…。だって、走っているバスの車窓から撮るんだから、ブレていないほうがおかしい。
 開き直ってます。設定ももっぱらデジカメのオートで撮るだけで、写真の質にはこだわりがないのである。
 要は、その場所の雰囲気を伝え、少しでも文を補完してくれればよい、というきわめて覚めた割り切りをしているわけなんですね。
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 名子(なご)という集落の名をもらった岬は、北の小崎と呼応して、縄間(のうま)、常宮、沓といった集落が連続する変形弓なりの海岸線を抱え込んでいる。
 大きく開けたこの変形弓なりの海岸は、敦賀湾の西岸、敦賀半島で言うと東海岸では、めずらしく平地が少しだけあるところなのだ。名子崎の対岸、向いに位置する発電所や田結崎のある鞠山周辺とともに、湾岸では比較的古くから開けてきた土地であったのだろう。
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 平地があるので耕作ができたという以外に、交通の要衝としての役割もあったのではないか。カメのような岬は、北側でこの平地を抱え込んでいる次の岬である。
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 敦賀半島は長い。先端の立石岬から半島の付け根を横断する国道27号線までは14.5キロもあり、幅も結構ある。前項は「1407 弁天崎」だったが、そこから西へまっすぐ線を引くと、半島を横断した向こう側にも偶然(あれっ? 偶然ではなく意図したものなのだろうか?)同じ名前の「弁天崎」がある。その間の水平距離は6.65キロだが、この間に標高521メートルの三内山などが挟まっている。
 半島を横断する必要がある場合、これを越えるのは大変だった。しかし、人間の活動はやはり山があればそれをなんとか乗り越えようとする。その必要は必ず生じてくる。
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 そこで、名子や縄間に舟を寄せて、山のできるだけ低いところを探して、そこに道をつけ、峠を越えることになる。縄間から西に山に入り、右へ左へと尾根に沿ってできるだけ省エネで登ることができるルートを探し、150メートルといちばん低く山が切れたところで峠越え。ここからは、谷筋にそって下って行けば、半島の西側、丹生の浦に出る。
 その峠の名前は“馬背峠(まじょうとうげ)”という。150メートルの峠道も馬にはきつかったのだろう。
 …と書いているうちに気がついたのだけれども、これは「馬を背負う」のではなくて、「馬の背を分ける」のほうだろうね。やっぱり。(それにしては、ちょっと峠はすっきり馬の背のようにはなっていないのだが。)
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 付け根部分を除くと、半島を横断できる道は、ここだけなのだ。現在は“馬背峠トンネル”で難なく越えられる。その付近は、名子の道から正面に見える。
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 ヨットハーバーもある名子の海岸からは、ちょんちょんと飛び出た堤防のような構築物が、沖の防波ブロックとともに地図にも描かれている。これは、同様のものが弁天崎の二村にも、縄間にもたくさんある。
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 現在の名子は、海水浴場があるのと、釣りのためのいかだなどを出して、海のレジャー客にアピールしているようだ。海岸の構築物も、そうしたレジャーのための桟橋なのか、それとも砂の流出を避けるためのものなのか、よくわからない。しかし、砂の流出で困るほど波や海流が激しいとは思えないので、ここはレジャー用ということでいちおう決定。(当たってるのかな?)
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 砂浜というのは、泳ぐ覚悟、水に濡れるつもりがない者にとっては、ボートなどに乗り移るにも結構不便であるから、釣り客などのためにつくったものだろうか。
 それにしても、予算だってそれなりにかかりそうなんだけど…。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度40分32.38秒 136度2分8.93秒
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タグ:福井県

1407 弁天崎=敦賀市二村(福井県)気比神宮から芭蕉には無視された松原を経て敦賀半島の西海岸へ向かう [岬めぐり]

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 前項でふれた、杉原千畝関連の本などが盛んに出始めたのは、1994年のスピルバーグの『シンドラーのリスト』公開以降のような気がするのは、例によって個人的な印象と感想によるもので、とくに調べたわけではない。弁天崎とは関係がないのだが、ふと思い出したのでついでに…。
 敦賀港の南に続く市街地は、枝分かれして支流を広げた二本の川が湾に流れ込むことで、運ばれてきた砂州の上に広がっていったと思われる。三方を山に囲まれたその奥行は深く、湾最南部の岸壁から、その名も“山”という山際の地域まで5.8キロもある。古墳群もこの山が描くUの字の線に沿って点在していると思われる。
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 敦賀港から敦賀駅までは1.8キロと接近していて、その間に気比神宮がある。敦賀から若狭路へ向かうJR小浜線は、北陸本線と並走しながらひたすら南へ走る。西敦賀の駅を過ぎてからおもむろに西へ向かい、粟野駅まで大きく南側へ回りこんでいる。
 これも想像だが、こういう場合は地盤が確かなところを選んで線路を敷設したので、砂州でできた軟弱地盤のところを避けたからではないか。市街地の北の海岸線も、松原を含めて、もっと南だったのではないか。おそらく、気比神宮の北あたりがもう海岸だったのではなかろうか。
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 松尾芭蕉が「奥の細道」の旅でやってきたルートは、「湯尾峠を越ゆれば、燧が城・帰山に初雁を聞きて、十四日の夕暮れ、敦賀の津に宿を求む。」とあるので、福井から南下して今庄からの峠越えで敦賀に入ったようだ。その頃にはもう“敦賀の津”として、湊で栄える町の性格を明確にしていたわけだ。
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 その日の夜に「気比の明神に夜参す。仲哀天皇の御廟なり。社頭神さびて、松の木の間に月の漏り入りたる、御前の白砂、霜を敷けるが如し。」として、宿の亭主からは、大願発起して道普請をし、神前に真砂を敷いた遊行二世の上人の話を聞いている。
 つまり、参詣道も非常な悪路で、「草を刈り土石を荷ひ」する必要があったわけだ。また、その夜は「月殊に晴れたり。『明日の夜もかくあるべきにや』と言へば、『越路の習ひ、なほ明夜の陰晴はかりがたし』」と亭主は言う。翌日は「亭主の詞にたがはず雨降る。」というわけで、二句を残している。

     月清し遊行のもてる砂の上
     名月や北国日和定めなき

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 芭蕉が「気比の明神」というように、応神天皇ほか6柱もの祭神をもつが、その建立は飛鳥時代とされるほど古い由緒をもつ。「1405 田結崎」の項で述べたような渡来人の来着などに、その起源があることは確かなことなのだろうと、門扉の菊の紋章をみながら思ったものだ。
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 2016年のNHK大河ドラマは、三谷幸喜創作の
真田丸』。なんとなく三谷劇場につきあうのがめんどくさくなってしまったので、最近はごぶさただが、これに大谷吉継が石田三成の朋輩としてほぼ出ずっぱりに出ていた。敦賀は、このこのドラマの主人公の義父になる、大谷吉継の城があったところだ。
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 駅前には吉継の幟などもはためいていたが、彼の敦賀城は後に一国一城令で取り壊されてしまうので、遺構などは何も残っていない。三成を諌め押し留めるのには失敗しても、三成への心情がついには病をおしてまで関ヶ原で命運を共にするところまでいってしまう。さほど地元と吉継の関係が長く深いとも言えないのだが、ひとつ気になったことがある。
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 大谷吉継は敦賀城主としてある間に、大工事をして城を海城につくり変えたといわれているのだが、その場所は気比神宮の並びで、830メートル西へ寄った敦賀西小学校のある付近ではないかとされる。
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 バスはその西小学校の横を過ぎ、松原の南を回って湾の西岸を北上する。この道も前に来たときに通っているが、浜からこの道まで430メートルある。公園となっている松林を含めると分厚い松原なのだが、芭蕉の眼にはとまらなかったのだろうか。松原のことにはまったく触れぬまま、舟で色ヶ浜へ向かっている。
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 あるいは、昔はもっと海が迫っていたなら、松原も薄く印象も薄かったのかもしれない。
 以上、気比神宮・吉継の海城・松原の三点をつなぐと、昔の敦賀の海岸線が浮かんでくるのだが…。
 敦賀湾西岸の最初の岬は、弁天崎である。西岸は立石へ行くバスに乗って往復したので、行きにはうまく見られなかった岬も、帰りで再確認するということができる。
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 弁天崎は何の変哲もない岩が残した出っ張りで、二村という集落のはずれにある。その名からすると、地図には記号はないが弁天社でもあるのだろう。車窓からはよくわからなかったが、帰りには朱塗りの欄干も見えたし、ふたつの岩島を結んで縄も貼ってあったので、確かに弁天さんはあるのだろう。
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 火力発電所やセメント工場や、金ヶ崎や鴎ヶ崎や、敦賀の港や街や松原の海岸が、その向こうに見えている。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度40分13.65秒 136度2分29.68秒
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タグ:歴史 福井県

1406 鴎ヶ崎=敦賀市金ヶ崎町(福井県)杉原千畝や信長とともに名だけは周囲をすっかり埋め立てられてもかろうじて… [岬めぐり]

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 敦賀港は湾奥の東にあり、そこは天筒山の山塊が171メートルと標高は低い割に、大きな存在感を持って敦賀市外の東を仕切っている。天筒山から西に小さく張り出した尾根が金ヶ崎の山で、その尾根の南に金ヶ崎宮や北に金ヶ崎城の城跡などがある。鴎ヶ崎は、この金ヶ崎の山の西に端に、ちょっと膨らんでいるところである。
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 けなげにも、今も岬の名は残っているが、実情は周囲がすべて埋め立てられ、敦賀港の北岸壁からさらに西に広い造成地が続いていて、もはや岬としての実態もイメージもすっかり失なわれている。海からは遠くなってしまった小山の尾根の先っちょで、今もその名が消えることなく保存されている理由はわからない。
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 だが、かつてはこの岬が、敦賀港のシンボルのようになっていたはずだ。
 今はもうないのだが、敦賀駅から北陸本線と分かれて北へ伸びる線路があった。その線路が天筒山の西麓に沿うようにして金ヶ崎に伸びていき、鴎ヶ崎の下で何本もの引き込み線レールが分かれていた。
 そこに着いた貨車や列車に、すぐ南の敦賀港の岸壁に横付けした船から荷物や人が激しく行き交っていたときもあったのだ。
 それは、現在の地理院地図上には残っている(前から気にはなっていたけれどもwebの地理院地図はかなりデータが古い?)が、現実にはもうそんなものはない。だが、それを消し去るときには、どうも鴎ヶ崎の名もついでに消されてしまいそうな予感がする。
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 ここに貨物列車が入ってこなくなったのは、2009(平成21)年のことである。それからは“敦賀港オフレールステーション”と名前だけはかっこつけたが、トラックで運ぶコンテナ便を扱うだけだ。
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 第二次大戦中、リトアニア領事代理だった杉原千畝が発給した「命のビザ」の話は、ずいぶん昔になにかの本で読んでいたが、ここ近年になって本はバタバタとたくさん出るわ、デレビではドキュメンタリからドラマ化までして、“日本のシンドラー”はちょっとしたブームをつくっていた。
 それは、大戦中のできごとで日本人が胸を張ることができる、数少ない事例のひとつ(ほかになにがあったっけ? すぐに思いつかない)だったからだろう。
 だが、それにしても、それまではほとんど無視に近い状態だったのが、ここへきて急に盛り上がっている感じがするのはなぜだろう。
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 杉原千畝がいたリトアニアのカナウスからペテルブルグまでは、約550キロ。彼のお陰でビザを手にし、シベリア鉄道に揺られてはるばる極東のウラジオストクまでやってきて、そこから船で日本海を縦断し、ついに“東洋の波止場”敦賀へ上陸したユダヤ人難民の数は、1940年から1941年にかけて約6000人だったという。
 鴎ヶ崎の手前、コンテナヤードの手前、公園の一角には三角屋根の建物がある。そこはそれを記念した、“人道の港 敦賀ムゼウム”(ムゼウムはポーランド語で資料館や博物館の意)である。このムゼウムが開館したのも2008年だから、歴史的にはつい最近といってもいいことなのだ。
 この日はやたら暑い日で、とても炎天下をウロウロする気にもなれなかったので、これも遠望のみ。
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 田結崎から鴎ヶ崎は、1.7キロ南に下ったところになるが、その間には火力発電所のほかに敦賀セメントの工場もある。天筒山の北側は、石灰岩の山である。その下を国道8号線は上り下りに分かれて4つのトンネルで通り抜けている。
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 琵琶湖のところでふれたのは、撤退ルートについてだけだったが、1570(元亀元)年の金ヶ崎の戦いでは、信長の軍勢は、朝倉勢の金ヶ崎城を攻め、その城攻め自体にはほぼ成功していたにもかかわらず、ここから撤退を余儀なくされることになる。単なる撤退ではなく、後に“金ヶ崎の退き口”とか、“金ヶ崎崩れ”とも呼ばれるように、敵方を追撃をかわしながらの命からがらの撤退となったのは、北から朝倉、南から浅井の挟み撃ちにあう危難にさらされることになったからだ。
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 信長の戦でも少ない負け戦的要素が多分にあったため、とくに語られるフシもあるが、信長自身これが相当悔しかったらしいことは、幾多のドラマなどで取り上げられてきたその後に続く挿話によっても想像がつく。
 このとき、挟み撃ちの危難を豆を小さな袋に詰めるという暗号(なぞかけ)でいち早く信長に知らせたのは、浅井長政に嫁いでいた妹のお市の方だという話も、ドラマでは好んで使われるが、この情報源(史料)は朝倉側にしか伝わっていないのだという。とすると、朝倉側が惜しい勝利をのがしたのは自分たちのせいではなく、情報漏れにあったからだと弁護するためのつくり話とも考えられる。
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 琵琶湖のところでも、この撤退戦の殿軍(しんがり)を、このときはまだ木下藤吉郎だった秀吉と家康が務めたと書いていたのだが、どうも家康にそんな危険なむずかしい任務を与えるだろうか、という疑問は大きい。務めたとしてもそれは名目で、追撃の表面にたって殿軍の損でむずかしい役はやはり秀吉だったのだろう。
 しかしまあ、いろいろありますが、とにかく(なにがとにかくじゃ)敦賀といえば、気比神社と気比の松原ですよね。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度39分51.81秒 136度4分23.08秒
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タグ:歴史 福井県

1405 田結崎=敦賀市鞠山(福井県)そもそもの敦賀と『大敦賀行進曲』が歌われた時代の敦賀港に思いをはせてみる [岬めぐり]

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 江良の南の赤崎は、字地名で岬はないので、その南の田結(たい)から西にぽこぽこと連続する尾根の先、鞠山というところに小山がふたつある。鞠のように丸い山という意味だろうか。
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 西の小山の先に、田結崎という名が付いているが、この岬の西側と南側がしっかり埋め立てられている。その南側は敦賀火力発電所の広大な敷地になっていて、田結崎から西へはまっすぐな長い防波堤が、その内側にフェリー発着所を囲っている。
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 ここから出るフェリーは、どこへ行くのだろうか。現在は、新日本海フェリーの、舞鶴・敦賀から新潟・北海道を結ぶ航路が発着している。taizaki-5.jpg
 日本海側でこれだけの地理的条件に恵まれた港があれば、それは当然北前船の往来発着も盛んであっただろう。もっと言えば、海は外へ開かれた通路であり、港は出入口であるから、日本海側で京阪にも近い敦賀が、古から幾多の変遷を経ながらも、常に半島や大陸との船による往来が続いてきたことは、動かしがたい事実である。
 そもそも、「敦賀・つるが」という名前からして、もとは角鹿(つぬか)というこの地域の古名からきていたというのは、昔は広く認識されていた。
     ふるき名の 角鹿や恋し 秋の月    芭蕉
 「日本書紀」にはツヌガアラシト(都怒我阿羅斯等)という人物が海を渡ってこの地にきたとされ、「古事記」にも“意富加羅国”の王子である都怒我阿羅斯等が“笥飯(けひ)浦”に来着したが、その額に角があったのでこの地を角鹿と称した、というような記述があるという。これらは応神天皇と結びつき、気比神社の祭神ともされている。
 そして、律令体制に組み込まれたときに、“畿内七道の諸国郡郷の名は好字をつけるようにせよ”ということになり、そこで初めて「敦賀郡」が登場した。
 この地が古代日本史のなかで、ことさら脚光を浴びることは少ないが、敦賀湾の東西両岸と市街地が山に行き当たる南部東部の山には、数多くの古墳群があることからも、一大勢力がここにあったことを示している。
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 “東洋の波止場”も、大元から質せば、渡来人にも行き着くわけだが、もっとずっと近いところに戻してみると、北前船の後でやってきた明治という新しい時代の到来とともに、近代の芽生えが胎動し始め、敦賀は港を中心に活発な活動を始めることになる。その経緯を、前出の「敦賀の歴史」サイトなどを参考に、キモだけあらあら抽出して理解してみよう。
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 まずは、巨大な山塊によって隔てられている福井県内の嶺北と嶺南を結ぶというニーズが先行して、敦賀=三国航路が開設(明8)され、続いて北前船と同じく北海道航路が定期便として運航(明9)され、長浜から敦賀までの鉄道の敷設(明17)によって、敦賀は船から鉄道へ、鉄道から船への積み替え集積地として大いに発展する。
 やはり船による物資の輸送というのは、一時に大量に安く運べるという点で、昔も今もそのメリットに変わりはなく、敦賀の海運事業も、その地の利を活かして近海航路も拡充されていく。
 ところが、鉄道がトンネルとスイッチバックで峠を越え、福井へ金沢へと延伸されることになると、たいそうな港湾施設がいらなくて小回りのきく貨車輸送のほうがより便利ということになる。そうなると、北陸線からは盲腸のように引き込み線を通って敦賀港まで行く必要がなくなり、敦賀は通過して流れていくことになってしまう。
 各地で歓迎される鉄道は容赦なくどんどん伸びていき、北陸線が富山まで開通(明32)すると、日本海側の北海道を含む新潟以北からの荷物は、富山の伏木港まで船できても、そこからは貨車に積み替えられて運ばれるということになり、ついに北前船の伝統とメリットも諦めなければならなくなる。
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 そして、いよいよ敦賀の海運が衰退する道がはっきりして、敦賀港が選んだのは、“国際港”としての可能性に活路を見出そうとするものだった。
 つまり、“東洋の波止場”、“異国の星の下”、“国際列車”、“青い眸”といったことばを詰め込んだ『大敦賀行進曲』の歌詞は、それに合わせたものだったわけである。
 日露戦争後は、敦賀=ウラジオストック間に定期航路が開設(明40)されて、シベリア鉄道を経て欧州へもつながる国際貿易港となる。
 そして、さらにこの欧州へのルートは敦賀から東京へ伸び、東京=敦賀=ウラジオストック=ペテルブルグというルートで、船と連絡列車で日本海を渡り、大陸縦断して欧州と結ぶ、日本では初めてのボート・トレインの長大なラインが完成(明45)するのである。だから、“花の東京へ一走り”で、『大敦賀行進曲』の歌詞は終わるわけだ。
 でね、その頃の敦賀港の岸壁は、次の岬のあるところで、ここじゃないんですね。このもっと奥。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度40分45.53秒 136度4分34.20秒
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1404 松ヶ崎=敦賀市江良(福井県)ここから南が“西へ行こうか東へ行こうか港敦賀は東洋の波止場…”の敦賀港 [岬めぐり]

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 国道8号線を南下するバスは、敦賀半島と敦賀湾を西にして、東浦をつなぎながら敦賀市街へ近づいて行く。杉津PAから見えるのは、日本海というより敦賀湾の湾口に過ぎないと水を差していたが、ここらでその地理的関係をおさらいしておく必要もあるだろう。
 敦賀湾というのは、もっと視点を高くしてみると、若狭湾という日本海に大きく開かれた湾の、東の端で狹いが深く凹んでいるところだ。つまり、大きな若狭湾の中の小さな湾のひとつ、というわけである。こういう状態を指す専門用語で“支湾”という言い方もあるらしい。地理院地図の表記では、若狭湾の文字よりも支湾の敦賀湾の文字のほうが大きく太いが、これは別に意図的なものではあるまい。
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 そのメインの若狭湾は、東の越前岬から西の経ヶ岬まで、70.5キロの湾口をもつ大きな湾である。このなかでは、東から立石岬、常神岬、獅子ヶ崎、鋸崎、成生岬、博変岬…などなど、たくさんの岬もある小さな出っ張りが、ちょこちょこと刻まれていて、多くの入江や港もつくっている。
 その港のうちでは、漁港を別にすれば、この東の敦賀湾の敦賀港と、西の舞鶴湾の舞鶴港が、日本海側の重要港に数えあげられる。
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 敦賀湾は、元比田から敦賀半島先端部の立石岬まで7.4キロ、湾の奥行き南北の距離は12キロと深い湾で、この松ヶ崎と対岸の敦賀半島鷲崎の間は3.15キロと狭まっている。
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 松ヶ崎そのものは、湾岸のCカーブでちょっと岩礁が出張っているところで、名前から想像すればかつては松の木が何本か茂っていたのかもしれない。それをホーフツとさせるように岩礁の上には立木が枯れているが、これは松なのだろうか、よくわからない。
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 めんどくさいことをあえて言えば、湾の中に港はあるわけで、湾=港ではない。この縦に長く深く入り込んだ敦賀湾のなかで、敦賀港の範囲はちゃんと厳密に定められているようだ。
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 敦賀港は、敦賀半島の明神崎(これが立石岬ではないところが、なんともいえないお役所流の加減というものか)から、斜めに線引して松ヶ崎とを結んだ直線を引き、その線よりも南西側を、その範囲としている。(もっと古い時代にはこの線引きはもう少し南で斜めではなく、松ヶ崎の1.7キロ南の赤崎の対岸にあたる小崎の間に横線で引かれていたようだ。)
 松ヶ崎は、敦賀港の東で港内と港外を分ける目印だったのだ。
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 といっても、現実の問題として、港の内か外かを問わなければならないようなことで、どんなことが予想されるのか、それは陸の上からではあまり具体的に思いつかない。
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 だが、いろいろ想像をめぐらしながら情報をたぐっていくと、舞鶴港とはまた別の違う道を歩んできた敦賀港の姿も、だんだんと見えてくるのだ。
 そんな情報のなかで、「敦賀の歴史」というサイトにめぐりあった。これは燻製作り・魚干物作りなどを趣味とする敦賀市在住の管理人氏個人の制作ながら、なかなかよくまとめられていて、しかも手の込んだ中身も濃いサイトであった。
 そのなかの「戦前 敦賀港」というページの冒頭には、1936(昭和11)年の伊藤久男の歌で、作詞:高橋掬太郎、作曲:古関祐而による『大敦賀行進曲』の歌詞の一部が掲げられていた。
 当時の一流どころをスタッフに揃えてつくられたこの歌は、全国的に流行ったというわけでもなく、なにかの記念イベントの一環として、予算をかけたいわゆるご当地ソングの大きな仕掛けによるものだと推察できる。

1 西へ行こうか 東へ行こうか
  港敦賀は 東洋の波止場
  名残り惜しめば テープもぬれて
  明日は異国の 星の下
  
5 誰と乗りましょ 国際列車
  遠い波路を はるばる着いて
  青い眸の あこがれ乗せて
  花の東京へ 一走り
            (1936年 『大敦賀行進曲』詞 高橋掬太郎)
 
 そのサイトでもここだけ抜粋されていたが、その1番と5番の歌詞は、こんな具合である。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度42分15.87秒 136度4分46.71秒
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dendenmushi.gif北越地方(2016/07/18 訪問)

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1403 黒崎=敦賀市阿曽(福井県)大きな黒い石というより岩がつくる岬はトンネルと洞門で通り抜ける [岬めぐり]

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 「青の洞門」ではないが、古い時代のトンネルは当然ながらみな手掘りであったから、石壁が掘り跡をそのままに残り、入口の部分だけが石積みであった。明治の頃に鉄道が日本全国に伸び始めたときにも、そうして多くのトンネルが掘られてきた。岡崎や黒崎の東に連綿として凸凹と続く山地は、そうしたトンネルと線路が難工事の末にたくさん掘られ敷かれてきたので、現在もその一部が廃線廃道になったまま残っているようだ。
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 廃線ブームは、鉄オタのなかではいまや堂々たる一カテゴリを成しているらしくて、最近ポット出で流行りの廃墟ブームなどと一緒にされては心外だと、マニアからは苦情がありそうだが、この付近のそうした廃線・廃墟・廃トンネルを探索して、ブログなどを書いている人がいっぱいいるのには驚く。
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 こちらはそういう趣味ではないので、さらりと通り過ぎたいところだが、前項で北陸自動車道の尼御前岬SAについてふれていたので、それつながりで岡崎の東、扇状地の上にある杉津PAについてもちょっとだけ。
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 ここらは上り車線と下り車線がそれぞれ別の道路になっていて、それも旧北陸線の跡を踏襲したからであろう。ここは日本海(実際は湾口)の眺めが良いとかで人気らしく、もういいかげんにしてもらいたい例の“恋人たちの聖地”とやらの触れ込みで、仕掛け屋のものまねの思惑にヤスヤスと動かされるバカップル(とかいっちゃあいけないかね)がつけた鍵がぶら下がっている場所もあるという。(この岬めぐりでも「111 鴎ヶ鼻(恋人岬)=柏崎市大字青海川」と、「114 恋人岬=伊豆市小下田」があった。)
 この杉津PAも、昔の北陸線の駅があった場所だという。その北が北陸自動車道の敦賀トンネルで、南には葉原トンネルがやはり上りと下りと別々に二本通っている。地理院地図でみるとその間にもう一本のトンネルが破線で示され、葉原隧道という名も付してある。どうやら、これが今に残る旧北陸線の遺跡の一部であるらしい。
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 葉原トンネルの山からちょっとはみ出た237メートルで無名の山が、黒崎のある山である。同じ黒崎でも、黒い礫岩の「1399 黒崎」とは違い、ここのは黒い大きな塊の岩で岬が、いやこの山全体ができている。山の西の端ではとくに岩の塊が海に飛び出て残り、これに黒崎と名がついたものだろう。
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 当然に黒崎も、国道8号線はトンネルで越えなければならない。そうそう、国道8号線はね、杉津の北付近でしおかぜラインと合流しているのです。だから、この先敦賀までは国8の一本道なのです。
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 明治の初めにできた黒崎トンネルの長さは、112メートルしかないのだが、その前後、北と南に続いている洞門(覆道)を勘定に入れると、トンネルの長さは690メートルに伸びる。
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 いにしえの北陸道は、山中峠ルートで敦賀へ至るルートをとっていたので、黒崎の北側にある、杉津(すいつ)や阿曽(あぞ)、南側に続く拳野(あげの)五幡(いつはた)江良(えら)といった集落は、古い昔からの長くきつい北陸道の旅のなかで、ほっとできるような場所だったのではないか。今も海水浴場がいくつもつながっていて、なかには砂浜まで車を乗り入れできるところもあるようだ。
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 あれっ! そうすると、その昔の北陸道では、黒崎はどのようにして越えていたんでしょうね? (大疑問発生膨張中。困ったな、ヘンなことに気がついてしまったが、答えの詮索はとりあえず保留。)
 平安時代になると、もっと内陸の木ノ芽峠越えのルートが開かれ、それが現在の国道476号線に引き継がれている。
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 いっぽう、鉄道のほうは、1962(昭和37)年に北陸トンネルが開通するまでは、今の北陸自動車道のルートで、トンネルがなんと12、スイッチバックも4つもあるという難所だった。北陸トンネルの開通時には、記念切手が出たのでよく覚えている。この記念切手、間違いだらけだというので、鉄オタからは厳しい指摘があった。
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 黒崎の東南東、5.10キロのところで、北東向きに山の中を通り抜けている総延長13,870メートルの北陸トンネルは、開通から10年間、山陽新幹線で六甲トンネルができるまでは日本最長だった。
 越前のことを「越の国=こしのくに」というのは、あるいは都から敦賀を経て北東へ進もうとするときには、厳しい山地を越えなければならなかったから…なのだろうか。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度42分59.40秒 136度5分30.13秒
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dendenmushi.gif北越地方(2016/07/18 訪問)

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タグ:歴史 福井県

1402 岡崎=敦賀市杉津(福井県)3本の道路が接近して通る元比田が立石岬と敦賀湾の湾口を形成しその南の陸継島がここ [岬めぐり]

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 越前町の米ノから南東に、南越前町の糠、甲楽城、今泉、河野、大谷と続く断崖の海岸線は、シロウト目にも大断層っぽくうつるが、こういう険峻な地形は、当然人を寄せつけない。集落も小さくまばらで、平地もない。その海岸線を走る道路は“越前河野しおかぜライン”という名もあるらしい。
 南から眺める遠くの山の右で、岡崎と重なるくらいのところがアマゴゼ山(400メートル)であろうが、写真で山の名と位置を特定するのもなかなかむずかしい。右端の高く見える山は山中峠付近の495メートルのピークではないだろうか。アマゴゼ山の南で、海岸を走る道路と分かれた国道8号線は、北東に向いて山の中に入っていく。
 アマゴゼ山という名も、義経の奥州への逃避行の伝説によるものだろうが、ここでどういう謂れがあるのか、これがさっぱりわからない。加賀の尼御前岬についての項目を書いたのは、2011年の秋だった。その頃にはわずかしかなかったこの岬に関する項目も、今ではゴマンと検索で出てくるようになっているが、内容に乏しい事実は変わらない。そこでは、その岬名も“あまごぜんみさき”ではなくて、“あまごぜみさき”というべきだろうと、例によって余計な感想を書いていたが、ここへ来てこの山の名でその言い分にも裏付けができたようだ。
 その南へ向かう道路が大谷を過ぎると、南越前町と敦賀市の境界を越える。そして、敦賀に入ったところが元比田で、バスの終点であるここまでやってきたのは、大きく出っ張っていて道路からは少し遠い岡崎を、車窓から南北両方から眺めるためであった。
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 敦賀駅前から元比田に向かって北上するバスの前方に、岡崎が姿を現す。それは、ほとんど島のように見える。やはり、陸継島のようで、杉津(すいづ)の集落のところが砂州になり、東の尾根とつながって、その北側にある扇状地から西に広く平地をつくり抱え込んだ。
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 そうしてできた岡(陸)の先が、岡崎なのだろう。岬の先端には、冠岩という岩礁が頭を出している。
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 その岡崎と冠岩の向こうに、大きな山塊が横たわっているが、その西(左)の先端が、前項の干飯崎である。干飯崎から岡崎までは、直線距離で18.55キロ。
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 この長くて凸凹のほとんどない海岸線を下る国道305号線は、南越前町大谷で終わっていて、そこから南にしおかぜラインとの関係が微妙な県道204号線が並び、さらにその内側を国道8号線が走る。元比田付近はこの3本の道路が異常接近していて、狹いところではなんと250メートル足らずの幅の間を、この3つの道路が通っている。
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 5つものトンネルが連続している国道8号線の南越前町大谷付近と敦賀市北部の付近は、標高こそそう高くはないものの、山また山の難所なのだ。元比田の東の山の中を北陸自動車道とJR北陸本線が、それぞれ敦賀トンネル、北陸トンネルで突き抜けている。
 トンネルを掘る技術がなかった時代の道である北国街道は、現在の国道365号線とほぼ同じルートで、これは栃ノ木峠(550メートル)を越えて行かなければならない。
 この北で、国道8号線は標高150メートル付近から敦賀トンネルに入っていくが、そのトンネルへ向かう国道の横線が、岡崎を南から見たときの写真に背景として写っていた。その部分だけを拡大してみよう。okazaki-15.jpg
 敦賀市内のバスも、敦賀コミュニティバス(福鉄バスに委託)が主で、一部路線を福鉄バス単独でも走っているが、敦賀駅前から元比田行きの東浦線に乗って、ここまでやってきた。これがバスの終点というのもまた、不思議なところなのである。
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 終点の元比田は、大比田の北に続く集落だが、バスはその集落を通り過ぎると、脇道のような道に入って坂を登る。そして集落から離れた、斜面の途中の空き地が終点なのだ。
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 周囲の斜面には普通の民家が建っているが、ヤシの木があったりして、なんとなく別荘地なのか?という雰囲気も…。なかには三角屋根の家もある。そう思ったのは、帰ってきてから“元比田”で検索しても、例の役に立たない場所ふさぎの項目がズラリと並ぶそのなかで、唯一情報らしいのが数件の不動産情報だけだったからだが。
 とにかく、バスが通っているのはここまで。
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 斜面だから、西に向いた見晴らしはよい。敦賀湾の北で、西に大きく伸びる半島と、その先端の立石岬が、西日に映えている。だが、この停留所の場所が、具体的にどの位置にあったのかは、帰ってきて調べてみてもわからなかった。
 ときどきふれているが、テレビ東京の番組で昔やったのをBSジャパンが再放送している「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」は、たまに見ている(放送もたまにしかやらない。テレ東で見たのもあるが、コースを自分ならどうすると考えながら見ているので2回目でもおもしろい)。その第19弾は、マドンナにマルシアを迎えて大阪府大阪城から、石川県金沢市の兼六園まで、3泊4日で到達できるか否か、というものであったが、そのコースが美浜から敦賀を経て、ここ元比田から国道8号線で武生に出ようとしていた。
 そこでも、この元比田のバス終点がちょっと写って、そのあと一行は坂を登り、国道8号線に入っていた。そこはトンネルがいくつもある。とても徒歩ではムリじゃろ、それより海岸線で河野を目指したほうがいいのだけど、マルシアの状況を考えると歩きが長くなるのでこれもだめだ。どうやらリーダーは8号線の道の駅に活路を求めたらしい。だが、やはりトンネルを歩くのはムリで、ロケバスで運んでもらっていた。
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 折り返しのバスに乗って、南に向かう車窓からの岡崎は、道路のコースからいって期待できないだろうと予想していたが、やはりあまりうまく見えなかった。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度44分22.62秒 136度5分25.72秒
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dendenmushi.gif北越地方(2016/07/18 訪問)

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タグ:福井県

1401 干飯(かれい)崎=越前町米ノ(福井県)越前海岸を南下するときにはいちばん最後になる岬からは敦賀半島が… [岬めぐり]

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 バスの行き先や停留所名は“かれい崎”となっているが、地理院地図ではその岬の名は“干飯崎”である。これをかれい崎とはなかなか読めないので、かな表記にしたのだろうが、これだとまず魚のカレイを思い浮かべる。“米ノ(こめの)”も不思議な表記だが、“干飯(ほしいい)”と連動しているのだろう。
 “ほしいい”とは、お米を炊いたものを乾燥させた昔の保存・携帯食だが、“かれいい”ともいうので、それがつまって岬の名前になったのではないか。そういう推理はできるが、なぜここに“米ノ”や“干飯”という地名があるのかは、さっぱり想像もできないしわからない。
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 野島崎を過ぎると、国道の沿道の家並みも途切れがちになり、干飯崎のバス停では露天風呂を看板にした建物と数軒の家があるだけになる。だが、米ノの集落の中心は、この岬を南へ回り込んだ先にある。
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 あれ、じゃどうしてバスはもっと先の集落まで行かないのだろう。とにかく、終点がここなのは間違いないらしい。ところが、帰ってきてMapionを見ると、かれい崎のところは新屋敷というバス停になっていて、この先に米ノ浦、美濃浦とバス停が続き、その先にかれい崎のバス停があるように表示されている。
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 まったく、バスダイヤのでたらめさといい、こういうのをネットでしょっちゅう見ているでんでんむしは、なにが情報社会だよとひとりで笑ってしまうしかないのでありますよ。
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 仮に、岬めぐりに“三大がっかり”をむりやりにでもつくるとしたら、ここはそのベスト3に入るかどうかはわからない。だが、その候補には充分ノミネートされそうだ。
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 そのがっかり候補の推薦理由は、露天風呂が岬の付け根を占拠していて、“進入禁止”の看板と囲いが、岬への接近を阻んでいるからだ。
 土地の私有制の根拠というのは、どういう正当性があるのだろうか、という大疑問があちこちを歩いていてもときどきアタマをもたげてくるのだが、ここでもそれを思ってしまう。ここの場合も、防波堤の上に柵をめぐらせているので、防波堤の部分も私有しているわけだ。もっとも、露天風呂にするには、防波堤の上をみんなが行き来すると風呂に入るほう入らせるほうにとって具合悪いことは確かだ。
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 干飯崎はその露天風呂の敷地なども含めて、コンクリートとテトラポットで囲い込んだ造成地で、もともとの岬の大半はその下敷きになっているような感じだ。その南は漁港になっているようで、わずかに先に残っている岩島が、干飯崎の面影を伝えているのだろう。
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 漁港の側に足を伸ばせば、灯台もあったのだろうが、折り返しのバスがやってくるまで、さほど時間もない。それにこの暑さ。とても短い時間で周辺を走り回るようなことはできない。
 ここは、越前岬以南ではいちばん出っ張っているところになる。干飯崎の露天風呂と岩島の間に見えている山はどこの山だろう。
 まさか丹後半島ではないよね。それならもっと遠くで霞んでいるだろうし、第一遠すぎてこんなには見えないはずだから。
 そうすると、方向はほぼ南南東だから、これは間違いなく敦賀半島である。
 前にもどこか書いたが、半島の名前というのはなかなか公式・非公式の区別がつけにくいので困る。これは国土地理院の地理院地図が、半島の名称についてはっきりさせていないからではないかと思っている。敦賀半島も、地図ではっきりそう記しているわけではないが、こういうところに名前がないのは困るので、敦賀半島と呼ぶことにする。
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 見えている最高点は、764メートルの西方が岳であろう。そこまでは20キロはある。
 干飯崎以南の海岸線は、ぐっと東南寄りにほぼまっすぐ食い込んでいる。米ノの先は牛房ヶ平という山地が海のそばに屹立し、屏風のような山がずっと続いていく。牛房ヶ平までが越前町で、その先の杉山からは南越前町になるが、この海岸線も集落はまばらである。
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 したがって…と言えるのかどうか、岬もまったくないのだ。次の岬は、敦賀市の北にある岡崎ということになる。そこまでもだいたい20キロ。この途中の河野というところまでは、かれい崎行きと同じように山を越えて一本のバス路線が通っているのだが、海岸には岬がないのでそれには乗らない。
 この海岸沿いの国道305号線は、南越前町の南、敦賀市との境界線の手前で終わっている。その内側の山のなかを、国道8号線の敦賀街道や北陸道、JR北陸本線が走っているが、トンネルもたくさん。
 こう書いてくると、やはり干飯崎以南の海岸線の写真もほしかったなあ。
 やっぱり、炎天下、ひとっ走りすべきだったのか…。
 まあ、そのかわり敦賀湾・敦賀半島側からはいくらでも眺められるから。(タイトルに使っているのもそのひとつです。)

▼国土地理院 「地理院地図」
35度29分57.56秒 136度10分32.09秒
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dendenmushi.gif北越地方(2016/07/19 訪問)

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タグ:福井県

1400 野島崎=越前町高佐(福井県)“越前かに”か“越前がに”か海岸線でここだけ集落がつながっているのはカニカニ… [岬めぐり]

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 前の越前岬の訪問時には、ちゃんと越前ガニのコースを民宿でいただいたものだった。その民宿では、カニが売りだったのだが、今回は季節はずれなのでカニとも縁がなかった。
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 これはもう充分に知られていることだけれども、“越前ガニ”というのはいわばブランド名で、そういう名前や種類のカニがいるわけではない。越前の海で獲れる雄のズワイガニを指すもので、大きさの異なる雌はセイコガニと呼んで区別しているという。
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 北海道から山陰まで、広く日本海沿岸で漁獲されるが、その場所場所で松葉ガニ(山陰に行ったときには、松葉ガニもちゃんと食べてきた。)になったり、間人(たいざ)ガニになったりする。
 そして、この黒崎の北と南につながって、梅浦、城ヶ谷、大樟などと並んでいる大小の漁港は、総称して越前漁港ともいわれる。福井県にはほかにも三国漁港などがあるが、これらが越前ガニの有力な水揚げ港なのだ。
 通常の読みにしたがうと、“越前ガニ”と書いてしまうが、地元でのブランド名としては、もともと正しい名称としては“越前かに”と称していた。だけど、下関の“ふく”と一緒で、実際問題として言いにくい。それに気がついたのか、最近のサイト情報などでは“越前がに”と表記しているものも多い。
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 黒崎から野島崎までの国道305号線7キロの沿線は、山と海の間の狹い土地にぎっしり家が並んでいて、道路の街路灯にはカニがデザインされ、港の防波堤にももれなく港の名前とカニが描かれている。カニを売りにした、たくさんの料理店や民宿などが軒を連ねている。その中心が厨(くりや)という地域で、シーズンにはカニだらけになり、都会からはシャトルバスが出るというくらいで、カニ目当てにやってくる人々で賑わうのだろう。
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 しかし、みんなカニ好きだよねぇ。恐るべきはカニ・パワー。それは昔から…というより、昔のほうがもっとすごかったのかもしれないね。かつての越前海岸の人気は、相当なものだったに違いないと思われるからだ。
 資金難その他で途中の織田までで止まってしまい、結局のところそれも今はもうなくなってしまった鉄道も、もとの計画では厨付近の海岸にまで伸ばしたかったようだ。それはなにを意味しているのか。
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 今は僻地のようになっている海岸地域が、カニのおかげだけではないのだろうが、大いに栄えた時代があった、ということである。それが、北陸道から大きく外れた西の海岸線が、盆地を過ぎ山を越えて、なお多くの人々を吸引しようという動きにエネルギーを供給していたのだ。
 昔も今も、越前のカニが有名なのは、“美味しい”からであり、なぜ“美味しい”のかという説明が、福井県のサイトにあった。
 その「ふくい食の風景」では、11月初めの解禁日にあわせて、越前町大樟(おこのぎ)漁港を訪問したレポートを載せていた。それによると、水深290〜350メートル付近に生息するズワイガニは、脱皮を重ねて大きくなるが、特に冬の寒さが海水に最も影響する海域が、カニにとって最良の生息環境なのだという。
 そして、越前海岸とその海の地形がカニにとって最適によいのでおいしいカニに育つのだそうだ。あいにく地理院地図では水深表記がないのだが、越前沖の海底は、ほかではあまりみられないものだという。100メートル、150メートル、200メートルと、ちょうど段々畑のように棚ができた地形になっていて、それが魚やカニが快適に過ごすことができる、というのだ。
 つまり、カニさんたちが快適に機嫌よく育っているので、“美味しい”のだ、という理屈らしい。
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 黒崎とこの野島崎。言われてみると確かに段になっているよね。カニさんたちが機嫌よく育つのは、こういうところなのか? (それが隆起したところが岬に残っている?)
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 道の駅カニミュージアムを過ぎるとほどなく高佐(たかさ)で、その白浜というところには入日ヶ滝と滝の表示が、地理院地図にはある。それはどこかと目を凝らしていたが、バスはあっという間に通過してしまう。道が狭く山が接近しているため、ほんの一瞬に見えた滝があるらしい流れは、観光旅館にしっかり取り込まれているような感じだった。
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 高佐の港の南で、突き出ている野島崎は、小さなトンネルと祠と、四角い灯台がある。
 そのトンネルを抜けると、そこはもう越前町米ノ(こめの)で、バスの終点かれい崎はもうすぐ…。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度53分39.92秒 135度59分40.27秒
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dendenmushi.gif北越地方(2016/07/19 訪問)

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タグ:福井県

1399 黒崎=越前町小樟(福井県)越前海岸ではここらだけが例外的に海岸線に集落が集まりつながっていてそれはひとえに… [岬めぐり]

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 そういうわけで、越前岬へは行くことができず、「越前岬2」は幻となってしまった。前の越前岬の項は、福井のほうから来てまた戻ったのだが、そのときにもずいぶんバスの便が悪くてこれも苦労した覚えがある。
 福井市の領域は岬のずっと北の手前で終わっていて、左右(そう)から南は越前町。越前岬周辺はまるまる越前町なのだから、もっと公共交通機関は考えてもいいように思うけど、やはり近頃の観光客で路線バスでやってこようというのは、滅多にいないのだろう。だから、コミュニティバスももっぱら越前海岸に点在する集落の老人を織田の病院に運ぶのをメインとして考えておけば、滅多に来ない観光客のことなど考えなくても用は足りるということなのだろう。
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 越前岬から南の越前海岸は、平地はほとんどないといっていい。ところどころに開けた川筋があったり、漁港があったりするところに集落は固まっていて、越前岬の次の岬になるのは越前町小樟(ここのぎ)の黒崎である。
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 織田の盆地を出て西の山の中に入って行き、トンネルで峠を越え、谷の水流に沿って下る365・417というふたつの番号をもつ国道が、海岸に出たところが梅浦。そこから南へ宿、新保と漁港に沿って1.5キロほど行くと、トンネルがある。
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 そのトンネルの尾根の西の先端が、黒崎という岬なのだ。黒崎の北側と南側には、それぞれ梅浦・城ヶ谷、横島・大樟と比較的大きな漁港が連続して並んでいる。
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 長い長い越前海岸のなかでは、この梅浦から南のかれい崎の米ノまでの海岸線だけが独特で、例外的に切れ目なく集落がぎっしりつながっているのだ。
 この間約10キロ、その全部が越前町で、住民の数もそれなりにあるので、武生=かれい崎間(織田経由)の路線バスは、日に6往復(これは多いほうだ)も走っている。
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 実は、かれい崎までは前日に、そのバスに乗って往復していた。
 ところが、家々の建てこんだ細い道を走るバスの車窓からは、この黒崎はうまく捉えられないでいた。
 織田でフレンドリーでないフレンドリーバスに乗りそこねてどうしたか。どうしようかといっても、選択肢がほかにあるわけもない。幸い、武生からのかれい崎行きが15分後にやってきたので、それに乗って越前岬の代わりに黒崎までやってきた、というわけだ。
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 これで黒崎も、ちゃんと記録できることになった。
 もし乗りそこねなかったら、梅浦付近にある温泉施設にでも入って、帰りのバスを待つところだったのだが、もう折り返しのバスが戻ってくる便の時間まではそんな余裕はない。
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 黒崎は全国の岬の名前でいちばん多い名前だが、ここのは明らかに露出している岬の岩が黒いからであろう。こういうのは、わかりやすくてよいのだが、わかりにくいのもある。
 この付近で特徴的な地形地質に、波食台(ベンチ)と波食窪(ノッチ)というのがあるらしいのだが、しろうとが防波堤をちょっと覗いたくらいでは、それはなかなかわからない。また、一般にそんなことに興味を示す人はいないらしいので、どこにもそんなガイドもない。
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 それに、港湾と防波堤工事にテトラポットが積み上げられ、あったとしてもそれが確認できる場所は限られているようだ。
 波の浸食作用によって削られていく崖の下につくられる岩の平坦部や、凹みは、潮の下に隠れているが、この付近では水面上でもそれがわかるというのだったが…。
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 あるいは、城ヶ谷のほうではなく、トンネルを越えて黒崎の南側に出たほうがよかったのかもしれない。帰ってきてからちょっと調べてみると、やはり黒崎の南側、小樟港北側で、海面から3段にわたってノッチ、ベンチが連続して存在するという。このことは、かつては海面下であったところが浮き上がっているわけで、この地域の隆起を物語ってもいる。
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 また、黒崎の黒い礫岩層は、波浪による運動によって破砕物などが激しく動かされ運ばれ、違う場所で再び積み重なっていく再堆積作用が著しい海岸に堆積したものといえる。(このへんのこと、興味なくてもちょっと頭の隅においといてね。次の項に関係してきます。)
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度56分39.34秒 135度59分11.38秒
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dendenmushi.gif北越地方(2016/07/19〜20 訪問)

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番外:帽子のこと織田のこと=丹生郡越前町織田(福井県)コレに比べれば帽子のチョンボなどはかわいい…ついでに武生も鯖江も [番外]

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 “鎌倉帽子屋”のタグは、木ノ本駅に電話したとき、こちらが失くした本人であることの確認にも役立ったようだ。そのメッシュの黒いキャップは、さほど高価なものではないはずだが、わざわざ探して買ってきてもらったものなので、そう簡単に「失くしちゃったのよ」で済ますわけにもいかなかった。これまでも、岬めぐりの道中で紛失したものは、手袋やマフラーやウインドヤッケや帽子(これとは別にほかの)やハンカチやタオルや…いろいろある。
 老化現象というよりも、旅先の移動中の行動で、ともすると注意力が散漫になる瞬間があるらしい。そのことは自覚も意識もしているのだが、どうもいけない。今回にしても、木ノ本駅のベンチに座っていて、帽子を脱いで汗を拭ったことまでは覚えているのだが、電車に乗って座席に座ってしばらくしてから帽子がないことに気がついた。
 昔の映画に出てくるような、男がみんなかっこよく帽子をかぶっていた時代とは違って、今は帽子はかぶらないほうが普通である。けれども、頭の天辺が涼しくなってくると、冬は寒さよけに夏は日よけにどうしても帽子は欠かせなくなる。
 年寄りの帽子は、なかなかむずかしい。ベレー帽やハンチングはまったく似合わない。毛沢東や林彪がかぶっていたスタイルをアレンジしたのもこの頃ときどき見かけるが、あれもだめ。仕事がらみで外に出るときにはつばのある帽子をかぶることにして、それ以外はもっぱらキャップ(野球帽)ですませてきた。
 しかし、でんでんむしとしては、なかなか気に入ったというか、かぶる気になれるのがない。だいたい、あんなどこの会社だか商品だか知らないが、わけもわからん縁もゆかりもないアルファベットのロゴやマークなんぞを、でかでかつけて歩く気にはならない。もっとも、プロゴルファーのようにそれで大金が入ってくるとか、小金でよければ払うとでも言うなら話は別なので、相談に応じる用意はあるが…。
 それと、中国製はできるだけ敬遠。日本製でロゴなどが入っていないもの。となると、でんでんむしが買ってもいいキャップは、実際そこいらの百貨店でも大型店でもまずないのだ。
 世の中一般にも、おじさんの帽子といえばキャップというのは多いようで、みんななんの抵抗もないらしい。ロゴマークつきのキャップは、おじさんスタイルでは定番なのである。また、おばさんの帽子も、この頃ずいぶん増えているようだ。これも、少し前までは主流とは言えなかったはずだが…。
 それで、前々から非常に気になっていることがある。テレビでたまに公開録画などの映像で客席が映ることがあるが、このときに帽子をかぶったままで座っている中高年のおじさんおばさんが、やたら多いのだ。
 だいたい常識としては、帽子は戸外でかぶるもので、室内ではぬぐものである。少なくとも、でんでんむしの常識ではそうだ。近頃の狭小住宅に慣れている人にはわからないだろうが、かつての家や部屋では、入ったとこに“帽子掛け”というものがあったくらいだ。(西洋のエチケットでは、婦人の帽子はこの例外が認められているものがある、というようなこともうろ覚えだが。)
 たまたま、数日前の新聞の投書欄に、でんでんむしと同じ常識を持ち合わせている人からの投書が載っていた。趣旨はまったく同じ。投書者は、なぜ主催者は館内放送で事前に帽子は脱ぐように言わないだろうのか、と指摘していたが、同感である。
 ひと昔かふた昔の映像でちょっと見たところでは、館内座席で帽子をかぶっている人はほとんどいなかったはずだ。どうして、こういう常識はずれのバカな中高年おじさんやおばさんが増殖してしまったのかねえ。ほんとに嘆かわしいことだ。(2016/11補足:中高年に人気のさるBSの歌番組の公開コンサートの放映があった。それをみると、これまでとは客席の様子が一変して、帽子をかぶっている人がひとりもいない。これまではたくさんいたのだ。やはり、あの投書のおかげで、やっと気がついた主催者側が、ちゃんと注意をしたものと思える。)
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 最初にお断りしたように、実際の行動順とは異なり、ブログの掲載順は琵琶湖から北陸線で北上し、越前海岸を南下しつつ岬を拾っていく。
 実際の行動では行程の終わりの2日になるが、武生まで行ってそこからかれい崎まで往復し、武生から鯖江に向かった。
 岩崎ちひろが生まれた街という武生は、蔵の並んだ一角を保存していて、ほー昔の武生の街はこんなだったんだ、と感激する。いっぽう、市役所の近所ではこんなものも…。確かに、こういう時代もあったよね。
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 いわさきちひろとその絵を知ったのは、1960年の「わたしは赤ちゃん」(松田道雄・岩波新書)を読んだときだった。その少し前から、彼女は福音館の「こどものとも」で作品を発表していたが、その頃はまだその読者ではなかったのだ。
 JRの武生駅と福井鉄道の越前武生駅は、微妙な距離を残して離れていて、その間にまるまる平和堂というスーパーとその駐車場を長細く挟んでいる。takefusabae-2.jpg
 福井鉄道に乗って鯖江まで行き、そこで西鯖江の駅のそばのホテルに一泊したのは、最終日早朝に福井鉄道で神明駅まで行き、そこからバスで織田に行く必要があったからで、できるだけ神明まで近寄っておきたかった。
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 やってきた鯖江は、メガネの街という触れ込みが有名で、そのことだけは知っていた。なるほど、大きなメガネの会社も見かけたし、中心街のアーケードにもそれをデザインしている。また、つつじもシンボルになっているようだ。
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 この鯖江の通り、車が片側だけに駐車している。日を決めて、駐車できる側をどちらか一方に決めているからだ。なるほどね。
 政治にもバランスが必要だが、かねてから右翼の御用メディアの常連で、日本会議にも関わり彼ら右派の代弁をし、靖国参拝を盛り上げ率先してリードしてきたメガネのおばさんは、どうやらこのへんが地盤らしい。波長が合うらしいアベ内閣改造で右大臣になったが、メガネを常用しているのは地元産業のPRを兼ねたダテメガネなのだと、新聞の新大臣紹介にはあった。
 大きなお寺も多く、その前の駐車場に停めてあった車にはびっくり! こんなんがあったんだ。クルマには縁がないから知らなかったよ。(でも、この岬めぐりから帰って数日して、近くの町で色も同じこのメガネクルマを見かけた。)
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 武生も鯖江も、だいぶ内陸の盆地(福井平野)に開けた町である。北陸本線の武生駅からかれい崎までは西南西に16キロ離れている。同様に、福井鉄道の神明駅から真西には、直線で21キロの距離があるのだ。
 そして、この南北二本の線の間にあるのが、福井県丹生郡越前町で、その中心は標高100メートルほどにある小さな盆地、そこが織田(おた)なのだ。
 ここらも、バスの便は非常に悪い。神明から織田の便も少ないので、早起きして電車に乗るが、織田までやってきても、そこで2時間も待たされる。
 が、ほかに交通機関はないので、とにかくバス。
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 国道365号線にある織田バスターミナルと織田病院を結んで、結構複雑に路線が入り交じっているらしいが、ほかは無視して、とにかく平日しか運行しなくて本数も少ない越前地区巡回ルートの左右(そう)行きのコミュニティバスを待つ間、町の中心にある劔神社へ。神社への通りには“駅前通り”とあったが、ということは、ここにも昔は鉄道があった?
 やっぱりね。大正12年開業の鯖浦線(せいほうせん・さばうらせん)が、鯖江から織田を結んで、1973(昭和48)年の全線廃止まで走っていたのだ。このバスターミナルもその名残りというわけだ。そして、ターミナル前の大道りは“信長通り”。
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 ほかにすることもないのでゆっくり参拝もし、いつもは無視するおみくじまで引いてしまった。100円を入れて丸い穴に手を入れて勝手に取れというタイプだが、ここのおみくじには少々がっかり。吉か凶かの内容(それもなかったが)にではなく、おみくじそのものがどこかで印刷して全国の神社に売り込んでいるかのようなもので、劔神社ならでは感や、そこはかとないありがたみがどこにもない。
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 実は織田家の発祥の地がこの織田で、 劔神社も神官などをしていたその勢力によって守られてきたらしい。バスターミナルの角には、信長の銅像も立っていたが、ご本人はあまりこことも直接縁はなかったはずだろう。
 ところで、おみくじやお賽銭の一部は、やっぱり日本会議の活動費に回るんでしょうかね。
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 越前岬へ行く越前地区巡回ルートのバスに乗りそこねた件は、どうしたかって? よく覚えていましたねぇ。
 そうそう、そのバスはね、越前岬の北の左右(そう)行きのコミュニティバスのことなんだけど、なんかばかばかしくて恥ずかしくて、詳しく書く気にもなれない。
 だが、コミュニティバスもいろいろあって、いろいろなところで乗っているが、ちょっとしたサービスや気遣いや、乗る人のためを思うという点で、ここ越前町のコミュニティバスはフレンドリーどころかまるでなっていない、最低だということだけは書いておこう。
 行き先表示も「織田病院行き」になっているから、旅行者はまさかそのバスだとは思わない。しかも「織田病院行き」が何台もほぼ同時にターミナルに並ぶ。運転手はそこに立っている客に一声かけるでもなく、降りてタバコを吸いながら携帯でなにやらトラックを借りる相談をすると、空車のまま行ってしまった。その後には、もういくら待っても左右行きはやってこなかった…。
 2時間待ったあげくが、コレだよ! シンジラレナイ  (`ヘ´))?
 これは、でんでんむしの岬めぐり史上、最低最悪の大チョンボ!として記録と記憶に残るだろう。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度29分57.56秒 136度10分32.09秒
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dendenmushi.gif北越地方(2016/07/19〜20 訪問)

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タグ:福井県

1398 藤ヶ崎=長浜市木之本町飯浦(滋賀県)“僕のあの帽子どうしたでしょうね”実は木ノ本駅ホームのベンチに置き忘れて… [岬めぐり]

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 藤ヶ崎は琵琶湖最北端の入江をつくる木ノ本のちょこんと南に飛び出た岬で、300メートルのピークをもつ小山の南端である。そのピークから東に尾根を辿ると、標高421メートルの賤ヶ岳(しずがたけ)で、その北側が余呉湖になる。
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 地図からは、一部を除きほとんどが消滅している刀ぶっ違いの古戦場マークは、ここでももうない。だが、賤ヶ岳は歴史にも名高い古戦場で、1583(天正11)年に羽柴秀吉と柴田勝家の両軍が衝突し、勝者秀吉がポスト織田体制の継承と豊臣政権に向けて大きく踏み出したポイントになるものだった。このときに“七本槍”などといわれて戦功をあげた若者たちが、その後の豊臣体制を支える有力者になっていく。
 賤ヶ岳のすぐ西麓の集落は飯浦(はんのうら)といい、ここから藤ヶ崎は見えるはずである。
 そして、飯浦へは近江塩津駅から湖国バスに乗って行けば、この岬をぐるっと回ってくれる…はずであった。ところが、誤算シリーズの誤算は海津大崎が見えないところからもう始まっていて、いよいよ佳境に入りかけている。
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 近江塩津駅は狹い谷間の狹い小さな駅で、ホームも狹い。湖西線と北陸本線は水のしたたる洞窟のような通路を通って、別ホームに移動しなければならない。駅を出たところが塩津街道、国道8号線で、しばらく待ってバスがやってきたのはいいが、木ノ本駅まで行くはずのバスが途中の道の駅までしか行かないという。
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 ネットで流布している時刻表は古いもので、どうもすでに変わっていたらしい。おかげで、「道の駅あぢかまの里」で、菅浦から来る別路線のバスを長いこと待たなければならなかった。海津大崎の項で書いていたのはこのことで、こんなことだとわかっていれば、マキノか中庄で降りてちゃんと大崎の見えるところまで歩いていけたはずなのだ。
 “あぢかま”というのはなんだろうと思っていたら、これは琵琶湖の水辺で冬を越すカモのことで、塩津地域を示す枕言葉なのだという。
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 もう店じまいを始めている道の駅では、鮒寿司も食べられなかったが、ツバメが軒の巣に出入りするのを眺めながら、時間つぶしをしていると、誰もやってこないだろうという裏手の奥のほうにこんなものがあった。
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 北陸と京大坂を結ぶ琵琶湖の、湖上交通運搬の主役として活躍した丸子船である。二つ割りの丸太を舷側に取り付けた、全長17メートル・幅2.85メートルの木造船は、米俵220俵を積み込むことができた。
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 江戸亨保年間の記録では、西浅井ではこの丸木舟が89隻登録所有されていて、その数はいちばん多くあったと、その説明看板にあった。やはり、琵琶湖最北の、藤ヶ崎の入江は、北陸路への出入口として、琵琶湖交通の要衝であったということがよくわかる。水上の航路も道も、最短ルートをまず目指すのが当然で、自然にそういう道ができていくのであろう。
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 やっときたバスは、入江に出る手前で左折するとトンネルに入っていく。
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 あれれ、湖岸の道は通らないのか? 人家もない湖岸は通りません。考えてみれば、バイパスのトンネルを通るのは当然であった。そのトンネルの名も藤ヶ崎トンネルで、これを抜けたところが飯浦で、そこで藤ヶ崎は右手に見えてくる。
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 夕暮れの湖岸を走るバスの車窓からの写真は、もちろん気のせいというか思い込みだろうが、いかにも湖北の寂しさを表わしている。
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 塩津街道は賤ヶ岳の下もトンネルで抜けると、木ノ本駅まで一直線。この途中にある木ノ本黒田という地域が、黒田官兵衛の黒田氏の本貫・近江国伊香郡である。
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 計画よりはだいぶ遅くなって、木ノ本からは北陸本線に乗って、敦賀まで行くのがこの日の最終行程。
 ところが、このとき、ホームに帽子を忘れてきた。電車に乗って、あれっ? ない。帽子どこへいったんだろう? またやってしまったか…。
 この始末は、結局いろいろな経緯を経て、翌日また木ノ本駅までとりに戻ることになる。これも、まことに微妙な紙一重の綱渡りで、危うく紛失してしまうところを戻ってきたのだが…。
 この帽子にちょっとこだわりというか経緯があったので、このままなくしてしまうのはちょっと具合が悪い。三方の駅の人に頼んで木ノ本駅に問い合わせてもらった。だが、いったんは“ない”という返事が返ってきた。やっぱりないか。
 それが三方の駅でなかなかこない電車を待っている長い間に、再び木ノ本駅から連絡が入った…。どうも、届け物忘れ物には記録はないと返事したあとで、木ノ本駅ではホームまで探しに行ってくれたらしい。そして、一晩ホームのベンチに置き去りになっていた帽子を発見したので、三方駅に連絡してくれた…。
 そんなところだったのだろう。が、三方駅で長いこと電車を待っている時間がなかったら、せっかくの連絡も届かなかったし、人が大勢行き来する大きな駅で問い合わせたのでは、駅員さんが待合室まで木ノ本駅の電話番号を書いたメモを届けてくれることもできなかっただろう。
 そもそもは、「またなくしたか」ともう半分諦めかけていて、敦賀の駅では問い合わせることにも思いつかず、やってきた三方の駅では時間がありあまっていたから、思い直して駅の人に聞いてみたのだ…。
 偶然というか、たまたまというか、いいほうにいいほうに綱渡りが続いて、“鎌倉帽子屋”のメッシュのキャップは、でんでんむしのアタマに戻ってきたのでありました。どんな帽子? 別にたいしたものじゃありません。それはね、もうすでにこのブログで写真に写ってました。いや、そんな昔じゃなく最近の島で…。

▼国土地理院 「地理院地図」
35度29分57.56秒 136度10分32.09秒
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dendenmushi.gif近畿地方(2016/07/16 訪問)

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タグ:歴史 滋賀県

1397 葛籠尾崎=長浜市西浅井町菅浦(滋賀県)北近江の秘境であるかもしれぬ岬は秘境であるがゆえに遠望 [岬めぐり]

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 葛籠尾(つづらお)崎は、海津大崎と並んで湖北の湖面に突き出ているが、東の葛籠尾崎のほうが南に向かってより張り出している。
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 市境のトンネルを出ると、湖西線の永原駅がある。長浜市の西浅井地域は、その駅がある大浦川の流域にできた西の地域と、大川が流れる近江塩津駅を中心とした東の地域、それにその中間にある小さな盆地に点在する集落で、主に構成されている。
 真ん中の盆地から南に続く尾根と、その凸凹がつくりだす、たくさんの無名の岬や入江がある半島の先端が葛籠尾崎なのだ。
 尾根の上では、菅浦の上までは奥琵琶湖パークウエイという観光道路(無料)が走っているが、それがUターンするところからさらに南に1キロ以上も下ったところが葛籠尾崎。周辺には道路も人家もないから、船で近寄ることしかできない秘境である。でも、見えているような場所は秘境とは言わないのかしら。
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 遠望では、西の高島市側からは海津大崎と並んで伊吹山をバックに一応見えていたし、東は長浜市湖北町あたりから見えるはずだろう。
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 当初は、西浅井地域バス路線を運行している湖国バスで菅浦まで行くことも考えたのだが、菅浦まで行っても葛籠尾崎は見えない。
 2010(平成22)年に長浜市に編入されたこの西浅井(旧西浅井町)は、戦国史上では有名な小谷の浅井長政の領地であったためにそういう名になっているのだろう。しかし、実際には東も北も南も、ほかに浅井がつく地域はこの近辺ではない。
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 昔は普通に“あさい”と言っていたはずだが、最近の大河ドラマなどは、ほとんどが“あざい”と言わせている。この「浅井」を“あさい”と清音で読むのか、“あざい”と濁音で読むのかについては、実は二説が分かれている。
 「西浅井」は確かに地元でも“あざい”と呼んでいるようだ。そのこともあって、“あざいながまさ”の優位は当分揺るぎそうにない。
 近江浅井氏は長浜の西、小谷城を拠点としていた。これも信長がらみ秀吉がらお市の方がらみ茶々と三姉妹がらみでさんざんに取り上げられてきたので、歴史などに興味のない人の間でもある程度は知られているくらい有名であろう。その場所は葛籠尾崎から琵琶湖北端、山本山、北陸本線の河毛駅の北を挟みながら、東北東に15キロ直線を伸ばしていった標高330メートルの山の上にある。
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 浅井氏はもともと北近江の守護大名であった京極氏に仕えていたが、乱世に乗じてこれを追い落として、自ら戦国大名となったわけだ。この頃おおいに流行していた、いわゆる「下克上」を地でいった家である。その意味では、後に義兄となる信長と同じであった。その後、一時南近江の守護であった六角氏に臣従せざるを得なくなるが、機をうかがってその支配下を脱することに成功する。この頃から越前の朝倉氏との交流が深まっていたが、結局最後には織田と朝倉との三角関係がその運命を決める。
 後には、信長側で言う金ヶ崎崩れと朽木越えにつながっていくのだが、浅井氏がいちばん輝いていたのは、1568(永禄11)年に将軍義昭を守護して、その上洛を掩護した頃ではなかったか。
 浅井氏の領地は、湖北地方と呼ばれる北近江(愛知川以北の六郡)であったが、それに加えて、犬上・愛智(今で言う彦根以南)・高島の三郡にまで拡大したのも、ちょうどこの頃だった。つまり、琵琶湖の北半分以上を支配下に置いたことになる。
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 浅井の名を残す唯一の西浅井地域の、その南端にある葛籠尾崎は、やはり現在でも容易に行けないという点で、充分秘境であると言ってよい。
 なんてことを言いながら、だからそれらしく見える写真は、ほとんど木之本町は飯浦からの遠望だけなのだという言い訳をしている。その遠望の葛籠尾崎の先に見える島が竹生島。縦に見ているので小島に見えるし、斜めから見ているので、葛籠尾崎と竹生島の距離がぐっと近く見えるが、その間は2キロ離れている。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度26分32.84秒 136度8分52.13秒
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dendenmushi.gif近畿地方(2016/07/16 訪問)

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タグ:歴史 滋賀県

1396 海津大崎=高島市マキノ町海津(滋賀県)湖西線から眺めるという計画はやっぱ失敗だったな [岬めぐり]

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 高島市の領域は広い。湖岸は南西から北東にかけて25キロはあり、したがって琵琶湖の湖面の多くを占めている。その北の端が、海津大崎の丸い大きな出っ張りを取り込んだところまで。
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 北西側の山の中の境界のほうは、南は大津市から始まって、京都府になって京都市、南丹市、福井県に入っておおい町、小浜市、若狭町、美浜町、敦賀市、また滋賀県に戻って長浜市と、それぞれ9市町と境を接している。
 こうみただけでも、高島市はたいへんな市なのである。
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 海津大崎は、北陸トンネルから南へ続く山地のうち、北陸本線の深坂トンネルから南へ15キロにわたって続く長いまっすぐな尾根の南端にあたる。尾根の先が丸く琵琶湖に突き出している。595メートルの東山から、だんだんと湖面まで落ちてくる。岬のある出っ張りには、湖岸をぐるっとひと回りする道はあるが、集落は1、2を数えるくらいなのでバスも走っていない。
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 そこで、湖西線がいちばん湖に近いところを走る近江中庄付近で降りるか、車窓にするかしかない。車窓からでもなんとかなるだろうと甘い観測をしたのがいけなかった。湖西線は意外に湖から遠く、車窓からの遠望は、ほとんどダメだった。
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 琵琶湖を湖西線から眺めるのは、非常にむずかしいことらしい。やはり、近江中庄駅かマキノ駅で降りて、湖岸まで歩くしか、海津大崎をこの目でしっかりと捉えることはできなかった。西浅井のバスの便を考えて、降りなかったのだが、後からの結果がわかっていれば、降りたほうがよかったのだ。
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 春のサクラの季節になると、この海津大崎をめぐる一本道は、自家用車でやってくる人たちでいっぱいになるらしい。
 1936(昭和11)年に海津村が植樹をしたのが公式記録の始まりではあるが、その5年前から地方事務所に勤め道路補修をしていた人が私費で苗木を買い集めては植えてきたのだという。
 ここにも、“木を植えた男”がいたわけだ。そのおかげで、いまや海津大崎のサクラの名声は広く知れ渡り、たくさんの人が車でわんさと押しかけることになっているようだ。奥琵琶湖の有名観光スポットになった海津大崎の4キロにわたるサクラのトンネルと湖と竹生島の景色は、さぞかしみごとなものであろう。と、こちらは想像を逞しゅうするしか芸がない。
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 車窓からはほとんど湖面が見えず、はなはだ残念な結果になってしまったが、これも公共交通機関で行くという基本ポリシーによるものなので、こういう場合もある、ということで、ひとまず収まりをつけておくしかない。
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 マキノ町海津から湖西線は峰山トンネルに入る。このトンネルで市境を越え、高島市から長浜市西浅井に入るのだが、尾根の上を通る市境は途中で東に折れ曲がっているので、岬の境界線ではよくある半分コ分けではなく、海津大崎の出っ張りはまるまる高島市になっている。
 そして、湖西線はもうひとつの長い城山トンネルを抜ける。城山というのだからそのトンネルの上には、城があったのだろう。そして、北陸本線と合流する狹い谷あいの近江塩津の駅に着く。
 “塩津”という名前は、これまたいかにもという地名だが、北国街道が高島方面と長浜方面に分かれる要衝の地は、古来からの塩の道であったことを示している。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度26分58.01秒 136度5分17.07秒
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dendenmushi.gif近畿地方(2016/07/16 訪問)

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1395 船木崎=高島市安曇川町北船木(滋賀県)琵琶湖畔でいちばんでっかい出っ張りのその先っちょがここ [岬めぐり]

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 おそらく、高島市と聞いてすぐにこの場所の位置がピンとくる人は少なかろう。もっとも、この頃では合併でやたらめったら市が増えているので、それはここだけに限ったことでもないのだが、でんでんむしも、安曇川(あどがわ)やマキノや今津や朽木は知っていても、それらがひっくるめて高島市になっているとは意識になかった。
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 船木崎のあるところは、“びわ湖こどもの国”という大型施設の中にあるので、入場券を買って中に入るつもりでやってきたら、入場はフリーでゲートもなにもない。駐車場からいけいけで誰でも入れるここは、滋賀県立の児童館と公園なのだ。
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 園内には乗り物や遊具などもあるが、そこは県立の児童館(児童福祉法による児童厚生施設)だから、そこらのなんとかランドとは一線を画している。虹の家という中央の円形の建物が児童館本体で、その中でもいろいろなイベントが企画されているようだが、季節柄水泳場とそのそばに開かれたテントの森が人気のようだった。
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 ただし、ここの水泳場は砂浜が広がっているというわけでもなく、湖畔の一部をそれにあてたということだろう。船木崎はその水泳場の北側の芦の茂るちょっとした出っ張りで、地理院地図ではその向こうにも水流を描いていて水門のようなゲートもあるらしいのだが、そこは水処理施設かなにかのように囲まれていて、近づくことはできない。
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 船木崎とこどもの国があるところは、南北ふたつに分かれて流れる安曇川に挟まれた大きな中州で、湖西線の安曇川駅は西に5.3キロも離れている。また、その安曇川がつくりだしたと思われる堆積地は、北の新旭町饗庭から南の高島まで、10キロに及ぶ。
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 いうなれば、川の堆積が琵琶湖に突き出た岬をつくるという、この地域の特色にここもそのまま当てはまるわけで、その規模は琵琶湖沿岸随一の大きな出っ張りとなっているのだ。それにしては、岬はちょっとこじんまりしていて目立たな過ぎだが、それも安曇川の河口自体が広くいくつにも分散してしまったからではないか…。安曇川南流の橋の上から、琵琶湖を眺めていると、そう思わずにはいられない。
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 安曇川駅とこどもの国を結ぶのは、江若交通が運行する安曇川町循環バスで、広い水田の間にぽこぽこと固まって点在する集落を拾いながら走っている。“江若”の意味は、近江と若狭ということだろう。近江もこの辺りまでくると、北に山一つ越えた若狭との関係(鯖街道など)が色濃くなる。
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 新幹線中心にものごとを認識しがち(そーいえば、北陸新幹線の延伸をこっち側にするとかいう話もあったね)な現代では、ともすると忘れそうになり、また実際に忘れているが、昔から琵琶湖の北西ルートの重要性は大なるものがあった。それは、戦国時代のエピソーなどによっても、知ることができる。朝倉攻めの織田軍が、浅井氏の裏切りによって挟み撃ちの危機にあい、そのときのこの撤退ルートで家康と秀吉が殿軍を務めたことはとくに有名である。
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 朽木氏(くつきし)はその時の朽木越え支援の功を最大限活用してのしあがり、関ヶ原では当初西軍についたものの東軍に内応している。そのため江戸幕府成立後も大名の立場を維持して、後もその子孫は明治維新まで小大名として永らえた。
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 これに対して、近江源氏佐々木氏の流れをくみ一帯の有力者であった高島氏は、六角氏、京極氏などに分かれたひとつであった。朽木氏も古くは高島からの分かれであったが、高島氏は朽木氏ほど世渡りがうまくなかったのか、六角氏の滅亡とともに次第に没落していく道をたどっている。
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 2005(平成17)年に、高島郡マキノ町、今津町、新旭町、安曇川町、高島町の5町と高島郡朽木村の5町1村が合併して市制施行、高島市は誕生した。このときの当初合併協議会が用意した新市名は“西近江市”というものだったが、住民アンケートの結果を尊重して高島市に改めたという経緯がある。(2016年の高校野球滋賀大会の決勝は、雨で1日伸びたが「近江VS高島」の琵琶湖対決(もっとも滋賀県ではどこでもそうなる)で行なわれ、対岸側彦根の近江高校が優勝している。)
 そのほかにも、百貨店「高島屋」の屋号は、創業者である飯田新七が義父の出身地である近江国高島郡からとった、なんてトリビアもある。
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 安曇川駅前のバスのりばの脇には、こんなものが…。また政治家の銅像かよと思ったが、確かに政治家には違いないものの、この安原仁兵衛という人は、湖西の鉄道建設に尽力した人で、その銅像は高架になった湖西線と安曇川駅南のほうを向いている。1920(大正9)年に江若鉄道株式会社を設立し、1931(昭和6)年に線路は浜大津から今津まで開通したが、その年に雄琴駅付近で機関車に接触し急逝した。
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 ええっ、“藤樹先生”ってもしかして中江藤樹のこと? ここへくるまで、中江藤樹とこことはまったく結びついていなかった。反対側駅の東口には中江藤樹の銅像もあったんだけど、銅像めぐりではないんでどうぞ許して。
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 帰りのバスが通る“藤樹書院”は出版社でも書店でもなく、中江藤樹の記念館らしかった。
 今回もいくつかの計画案があって、そのなかには若狭から近江今津へ福井・滋賀の県境を越えるというのもあったのだが、諸般の事情からこのまま西湖岸を北東へ進むことに。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度19分16.76秒 136度4分40.92秒
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dendenmushi.gif近畿地方(2016/07/16 訪問)

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