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1421 道南の岬をめざしたものの=奥尻島・渡島半島・松前半島(北海道)震災の島とふたつの半島の落穂ひろいと… [岬めぐり]

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 JR東日本とJR北海道が提携して期間限定のフリーきっぷが、今年は北海道新幹線開業記念として、6月と9月に二度売り出された。6月はもたもたしているうちにいっぱいで買えず、9月の分で道南に行くことにした。
 北海道と東日本の路線が、5日間乗り降り自由で26,000円というのは、単独で切符を買って行くよりは安いとは言えそうだが、より安さを実感するには、乗りっぱなしでなければならない。だが、列車に乗っているだけでは、でんでんむしの目的は達せられないし、JR北海道の路線ダイヤは、決してうまくはつながらず便利とは言えない。
 新幹線で函館北斗まで行っても、そこからまた函館本線に乗り換えなければならない。長万部から函館本線はニセコ・余市・小樽経由で札幌に行くルートと、室蘭本線と千歳線で苫小牧経由で札幌に行くルートのふたつしかない。だが、函館本線は本数も少なく、千歳を経由する特急北斗(違いはわからないが、“スーパー”とつくのもある)が走るルートのほうがメインになる。
 北海道の乗り放題は、函館本線と室蘭本線・千歳線の関門を抜けてさらにどこまでできるかわからない。が、5日ではかなり限られる。といっても、前にはこの切符で旭川を経由して遠軽・網走までは行っている。
 今回は、道南の岬めぐりで残っているところと奥尻島がメインで計画を組んだ。函館北斗からスパー北斗(とにかく乗れる列車はこれしかない)長万部まで行き、そこからバスで渡島半島を横断して西海岸の瀬棚へ出る。そこから南北の沿岸に残っている岬を訪問して、瀬棚からフェリーで奥尻島へ渡る。
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 奥尻島の岬をめぐって、またフェリーで瀬棚に戻り、きたコースで木古内まで行く。木古内からは福島と知内の残っている岬を回って木古内から新幹線で帰る、という計画だった。
 この計画では、乗り放題と言っても、北海道内は木古内から長万部を往復するだけなので、あまり北海道フリーきっぷのお得感はない。それでも、とにかく道南で切れ切れに残ってしまった岬を片付けることを第一の目的として、東京駅までやってきたところで、思わぬ事態に遭遇する。新幹線乗り場の電光掲示板が、スーパー北斗の運休を告げていたのだ。
 ええっ! そういえば台風が通りすぎた北海道各地で被害が出ていたのは知っていたが、まさかスーパー北斗が止まっているとは…。
 念のため駅の人に聞いてみても、特急だけでなく各停も含めて全線運休で復旧見通しも立っていないという。
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 さて、どうするか。とりあえず函館北斗まで行く列車のなかで考えよう。混んでいる「はやぶさ」は、通路側の席しか取れなかったが、これだとまるで車窓の景色も見えない。新幹線もコンセントはついたが、WiFiまではないので、手持ちの地図と時刻表で考える。
 A案 函館北斗から代替バスが出ているだろうからそれで長万部・瀬棚を目指す。
 B案 次の台風も接近しているので、奥尻島計画を破棄して青森に引き返し、夏泊や下北の漏れているところを埋める。
 C案 木古内に引き返して江差に向かい、翌日の朝の便で奥尻島に渡り、また江差・木古内に戻る。
 検討の結果、いちばん計画を大幅にいじらなくてすむC案を採用することに決定した。近づく次の台風は、もう天に任せるよりしかたがない。
 この案だと、最初の泊まりの瀬棚をキャンセルして、江差でどこか泊まるところを探せばよい。船の時刻と島内の移動計画は修正しなければならないが、それもバスの時刻表でなんとか対応できると確認した。
 それにしても、これだとほとんど北海道フリーきっぷの効用は発揮されないことになる。
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 だいたいこのフリーきっぷは、乗客の少ない閑散期を狙ってしか発売されない。夏の場合は、夏休みが終わった直後に設定されるが、これは二百十日の台風シーズンのただなかである。平穏にすむほうが少ないと思ったほうがいいくらいだ。同様にこの切符で北海道までやってきた人たちも大勢いたはずだが、みんなどうしたんだろうね。まあ、被災した人のことを思えば、これしきのことで騒ぐわけにはいかない。
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 今回の計画のでメインは奥尻島だが、渡島半島西岸で残ったところをめぐりたかった。瀬棚からバスで大成富磯方面と、北上して三本杉から茂津多岬までの間の岬を回る計画を立てていたが、これが全部おじゃんになってしまった。そのほかにも、半島北部の島牧の岬も残っているが、これが非常な難物で、何度も試みたがなかなかうまく計画に入らない。今回もまた見送りになっていた。
 もうひとつ、木古内から松前半島東岸にも、小谷石と福島周辺に残っている岬がある。これまで、なんどか計画からこぼれ落ちてしまったところなので、これもなんとか片付けたい。
 心配なのは、奥尻島から帰りのフェリーまで、なんとか台風が待ってくれるかどうかだが、江差のホテルで天気予報を確認すると、スピードがずいぶん遅いらしい。これならなんとか台風の影響が出る前に、計画を終えることができるだろう。
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▼国土地理院 「地理院地図」
42度8分31.28秒 139度28分39.42秒
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dendenmushi.gif北海道地方(2016/09/02〜06 訪問)

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タグ:北海道
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1420 獅子ヶ崎=小浜市田烏(福井県)長さ600メートル幅100〜メートルの崖でできた岬は小浜市の最東端 [岬めぐり]

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 常神半島の付け根は、いささか微妙ではあるものの、東は日向、西は塩坂越(しゃくし)とみて、まず不都合はあるまい。西海岸を走ってきた県道216号線も、ここから塩坂越トンネルを越えて三方五湖のほうへ出るからだ。このトンネルから南へは大きな道路はなく、ちょっと隔絶した感じで世久見、食見という集落があり、そこから北へ伸びる大きな出っ張りが固まっている。隔絶したといっても、世久見には世久見トンネルがあり、それで三方湖岸の国道162号線で常神からきた線と合流している。
 塩坂越トンネルに入って三方五湖へ出る前に、チェックしておかなければならない岬が、このシリーズの最後にもうひとつ残っている。
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 それは、小浜市の獅子ヶ崎。
 常神半島の南西にもこもこと突き出た半島の北端に、低く細長く飛び出た岬である。高さは50メートルくらいで、100〜150メートルくらいの幅しかないが、長さは600メートル近くある。
 この半島も周囲は断崖、とくに先端部分は全面急な崖で、この硬い崖のために侵食や崩落を免れた部分だけが、海中に突き出るようにして残ってこの岬になったと考えられる。この付近を通るときには、行きも帰りも雨だった。薄暗いなかにほとんど影のようにしか見えない。
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 この半島もほとんど集落らしい集落はなさそうで、見えているその半分弱までが若狭町。岬のある先端部分は小浜市の領域となる。
 小浜市に入る前に、若狭町について気になったこと。若狭町は「三方上中郡若狭町」だが、東隣りは「三方郡美浜町」であった。そして、おかしなことにどちらの郡もほかの町や村はなく、一郡一町なのだ。
 どうして、こういうことになったのか。やはり、昔は「三方郡」のなかに美浜町と三方町があったのだが、三方町が遠敷郡上中町と合併して「若狭町」となったときに「三方上中郡」を名乗ったという。しかし、なんで「三方郡若狭町」にならなかったのか。いったい、どういう不都合があったのだろうか。町のサイトをみても、さっぱりわからない。もしかして、「上中」という文字を残す必要があったからか。だが、それだけなら、どこでもあるように「若狭上中町」とかするのが普通だろうに。shishigasaki-11.jpg
 獅子ヶ崎が東に抱え込む湾には、地理院地図では記名がないのだが、Mapion に倣って世久見湾と呼んでおこう。この世久見湾の真ん中に、でんとあるのが鳥辺ならぬ烏辺(うべ)島。この島もその向こうも若狭町。これも、晴れた日だときれいに見える、海の美しさを楽しむことができるだろう。だが、こういう小雨霧雨のような風情もまた、墨絵を見ているようで味わいがある。
 おもしろいのは、こうした無人島でも、釣り情報だけはぞろぞろでてくるのだが、烏辺島に限ってはそれが見当たらず、スイミングとダイビングのスポットとしての情報があるきりだった。
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 烏辺島と獅子ヶ崎はほぼ東西に横並びなのだが、こちらは常神半島のほうから見ているので、バックは岬ではなく半島になる。
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 実はこの岬は、神子トンネルを越えて南に下った付近から見えていたのだが、そのときには岬の先端には隣にある黒崎もアタマを出していた。
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 このため、岬の先に岩島のように隆起した部分があるように見えていた。が、黒崎がかぶらない獅子ヶ崎の姿は、もっと南からみたこの姿になる。
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 小浜市の領域では、いちばん東の端になるのがこの獅子ヶ崎だが、そこから1キロ南西側にある黒崎は、小浜の岬めぐりで「579 黒崎=小浜市田烏」の項として書いていた。そこでも千島のことにふれていたが、沖の石は…。
 このときは、犬熊の海岸から矢代湾越しに見ていたのだが、バックには常神半島が見えていて、「あそこまで行くのは大変そうだなあ」という感想をもったことを記憶している。
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 また、常神半島から西へは、獅子ヶ崎よりもっと遠く薄く、長い半島のように見えていたのは、小浜市の最北端になる蘇洞門の断崖と久須夜ヶ岳であった。そこも、「569 長崎=小浜市宇久」「575 七蛇鼻=小浜市宇久」の項にあるが、ちょっとモヤが晴れた一瞬には、長崎の白っぽい崖がなんとなくわかるような気もした。
(このあたりの項目ではきた!みた!印は4とか8くらいで、常連さんを含めて近頃訪問くださる方々は皆無だったので、いちおうリンクを…。(お天気がいいときの若狭湾の景色もどうぞ)
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 というわけで、これでどうにか越前・敦賀・美浜・若狭・小浜へとつながった。そして、誤算続きのこのシリーズも終える。
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 バスは、遊子・塩坂越とふたつのトンネルをくぐり抜け、JR三方駅に戻ってきた。この駅で失くしたというか忘れてきた帽子のことを、木ノ本駅に問い合わせてもらったことから、無事に戻ってくることになった、記念すべき駅になる。また、ここへ来て待合室の掲示ではじめて、予定していた日曜運行のバスがなくなっていることを知った。
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 三方駅のホームには、若狭町の「ラムサール条約登録湿地 名勝 三方五湖」などの観光看板。
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 これで、本州の日本海側は、竜飛崎から丹後半島最北端の経ヶ岬までつながったことになり、この次、西へは犬ヶ岬(京都府京丹後市丹後町)からとなるが、さて、それはいつ…。

▼国土地理院 「地理院地図」
35度34分34.39秒 135度48分41.12秒shishigasakiM-1.jpgshishigasakiM-2.jpg
dendenmushi.gif北越地方(2016/07/18 訪問)

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タグ:福井県
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1419 神子崎=三方上中郡若狭町神子(福井県)神功皇后の影を残す半島の陸の孤島だった浜辺の集落と岬の名は“みこ” [岬めぐり]

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 なぜ常神で3時間も時間を潰さねばならなくなったかといえば、ひとつには常神岬が見えるところまで登ることができなかったので、時間が余ったというだけではなく、計画で予定していたバスの時刻が変更でなくなっていて、夕方の最終便まで待たなけばならなかったからだ。
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 すでにこのシリーズ冒頭から告白しているように、誤算続きの連続だったなかでは、“ネット上に流れているバス時刻表が変わっていた”、という要因によるものが多い。とくにこの半島を往復するにあたっては、4月からダイヤ改正があったというが、6月に調べた時点では古い時刻表しか流れていなかった。おかげで、わざわざ休日にのみ運転されるという10時のバスに乗り、15時のバスで帰ろうという日程にして計画してきたのが、まるで無意味になってしまった。このため往路で2時間、復路で3時間とロスタイムを生じてしまったわけだ。
 まあ、この日は1日かけて常神半島を往復するつもりだったので、2時間や3時間待っても…。(まけおしみ。でもそれくらい余裕をみた計画だったから、狂いが生じてもなんとか後に影響しなくてよかったよ、ほんとに。)
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 “神”の字があちこちに散らばるこの付近は、神功皇后が三韓征伐遠征の途中で風待ちをしたという言い伝えによるものだろうが、縄文遺跡もあり、常神のひとつ南の入江の奥にある常神社の祭神も神功皇后である。この神社も御神島(おんがみじま)にあったものが当地に移されたとされている。
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 戦前戦中には実在の歴代天皇に数えられていた神功皇后も、現在では神話とする考え方が主流のようだが、彼女が応神天皇の母であるという点は重要である。なぜなら、応神天皇こそは、実在が確かめられる最初の天皇(井上光貞などによる)というからだ。在位41年でその後の天皇家の系譜を確かなものにした応神の母本人が、“巫女”だったのではないかとの説もあり、さらにそれが“卑弥呼”で、いやそうではなくその後の“台与”だ…とか。
 このへんになると新羅人渡来説なども出てきて、想像の幅はどんどん膨らむ。想像は必要だが、確かなことがわからないので、門外漢のシロウトとしてはあまり深入りはできない。
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 常神の南にある集落は、神子(みこ)、小川、遊子、塩坂越(しゃくし)と点々と半島西海岸に並ぶが、その間隔は開いていて、山々に遮られている。若狭町営バスの三方線が走る道路は、その山の尾根に沿って迂回したり、トンネルで抜けたりする。
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 神子の集落へ出るには、北からだと神子崎の高いところの尾根を巻いて下り、南からだと920メートルの神子トンネルを抜ける。トンネルを抜けたところにあるその名も「岬小学校」は、常神半島唯一の学校らしい。
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 神子崎は、神子集落の北西側に張り出した岬である。道路はその上70メートルくらいのところをくねくねと巻いている。
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 神子の海岸も、砂浜にはあまり恵まれてはいないように見受けられるが、それでも民宿の看板が目立ち、海岸道路の下には、色とりどりの三角の小旗を数珠つなぎにしたロープが張られている。どうやらこれは、地元新聞社などが提携した海水浴場を意味しているようだ。
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 1972(昭和47)年に県道216号線の拡幅工事が終わって、ほぼ現在に近いような形で全通するようになるまでは、まったくの陸の孤島であったこの付近の浜辺の集落は、大きな意味と役割を持っていたことは留意しておくべきだろう。その意味も役割も、道路が通ってからは急速に薄れていくことになったのではないだろうか。
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 神子桜と呼ばれるヤマザクラが覆う入江を囲む山の下には、この地で古くから続く刀祢(律令制の官人)の大音(おおと)家で、先祖代々守り伝えられてきた『大音文書』という、県の有形文化財になっている史料があるという。それは、800年におよぶ期間の文書334点、冊子110点からなり、桐でできた背負い櫃(ひつ)に収められているという。
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 神子も海水浴ばかりでなく、釣り客が多いので、民宿もたくさんあるのだろう。その釣り人の間では、ちょっと有名らしい岩島が、神子の南西4.8キロの海上に浮かぶ千島である。
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 釣り人たちは、この無人島の岩島を“千島群礁”と呼んでいる。
 常神半島の岬は、これより南にはもうない。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度37分28.37秒 135度49分28.86秒
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dendenmushi.gif北越地方(2016/07/17 訪問)

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タグ:歴史 福井県
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1418 常神岬=美浜町日向・若狭町常神(福井県)“ノドからアタマまで”は結局行けず3時間も常神集落で時間をつぶすことに [岬めぐり]

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 結論から言えば、美浜町と若狭町の境界線上に位置する常神岬は、結局、美浜町敦賀半島西岸側からの遠望のみ、ということになってしまった。
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 気山のレイクヒルズからバスに揺られ続けて、三方湖、水月湖の湖畔を通り、塩坂越のトンネルを抜けると、なんとかドラゴンのように細身ででこぼこした常神半島の西海岸に出る。そこをまた延々走って、1時間かけて辿りついたバスの終点が常神(つねかみ)である。そこはドラゴンというよりは水飲み鳥の頭のように下に向いてかしいでおり、常神の集落はその鳥のノドのところにあるが、常神岬はそこからまた一山越えた水飲み鳥の頭頂部のところにある。
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 地理院地図には、岬へ行く道はなく、標高約240メートルの山の上に灯台があり、そこまで行く道は描かれている。140メートルの峠があるので、灯台まで行かなくても、峠の上から常神岬の先端が見えるのではないか、当初の計画ではそう考えていた。ところが、それがそう簡単にはいかなかったわけですね。バスをめぐる誤算はここでもいくつかあったのだが、それはとりあえずおいて…。
 この日は、予定通り朝から雨で、それは覚悟のうえで敦賀駅前のコンビニでビニールのカッパまで買ってきた。山ひだの谷とその前にわずかに開けたところに集落が密集している。密集ということばが、ここでは実に適切である。細い路地の両側いっぱいに民家が軒を連ねている。地図ではそこに“常神のソテツ”と∴ 記号で示されている。ははあん、また例の古い時代に指定された天然記念物だな、と思ったがまずはそれを探して行ってみよう。
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 めったに人には出合わないので、たまにあった人をつかまえて聞いてみる。ソテツもだが、問題はこの集落の奥から灯台に続く鞍部への道の情報を確認することだ。
 民宿の案内図よりも実際はもっともっと細かく込み入っている集落の間を入ると、家からちょうど出てきたちょっと若目のおじさんに出合った。さっそくつかまえて峠への道を聞くと、「いやー、その道はムリだね、今は通れないから、やめたほうがいい」という。なんでも、いつも道の草木を刈ったりしていちおう整備はしているのだが、ここしばらくはそれをやっていないのでどうなっているかわからないのだという。
 そっかあ、それじゃムリだな。ダメを押すように雨も強くなってきた。それではソテツだけでもと路地を探すが、なかなかわからない。
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 通りかがったおばあさんに聞くと「そりゃなかなかわからんわ」と案内してくれた。民宿の軒下のようなところを通って、その民宿の庭に、そのソテツはあった。
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 細い谷間の傾斜を覆い尽くすようにして建っている民家の、多くが民宿をやっているらしい。その間を上へ上へと辿って行くと、道とも言えないような家の裏に出る。この家がこの谷では最奥だから、道があるとしたらここからだろうなと、なおも未練がましく覗いてみると、踏み跡も流されて消えかかっているがどうやらこれが道らしい。かつて標識だったものらしい木が倒れているのでそれとわかる。
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 確かに、このお天気でこの道を登るのはムリだわい。それにムリして登ったとしても、木が茂ったままだと鞍部から岬を見下ろすということもできないだろう。そう納得して、民宿の間を降りる。
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 集落からさらに西に道があるので、行けるところまで行ってみる。港の終わった先には公園があって、処理場のような建物があるところで岸壁も道も終わっている。
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 常神岬から南に続く断崖が南端に達するのがここで、この向こう西側には御神島という長細い無人島があるが、それは常神にくる途中の峠道からのほうがよくわかる。
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 “神”という字が多く使われているのは、この地が神功皇后伝説の地でもあるからだろうか。
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 今では海水浴というよりも釣りやボート遊びなどと、民宿の魚料理が人を集めるのか、夏休み前というのに日曜日のこの日は、しばらくすると雨もやんで、結構大勢の人が海岸近くには寄ってきていた。海岸に魚料理の看板を掲げた店があったので、入っていくと迷惑そうな顔をした店の人に、今日は予約でいっぱいだと断られた。ほかに、カフェの看板もあったかなあと、また路地を探すと、どのくらい前までかはわからないが元カフェだったらしいところはあった。
 その以外には、まったく中に入って座る場所がどこにも、なにひとつない常神であった。集落の東のはずれにお寺があって、その前にわずかにある貧弱な浜で、家族連れが水遊びをしていた。
 地理院地図では、その上の出っ張りにお寺の記号が付してあるが、実際にあるお寺の位置とは違う。出っ張りの上に登ってみると、そこにはかつては建物があったが崖とともに崩落してしまったような痕跡が認められる。
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 下の新しいお寺も、外来者を迎え入れるようでもないので、仏の慈悲にすがることもできない。帰りのバスの時間まで、とにかくここ常神でうろうろと時間をつぶさなければならない。3時間。これはつらいですね。バスがきてやれやれ。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度38分30.27秒 135度48分54.48秒
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dendenmushi.gif北越地方(2016/07/17 訪問)

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タグ:福井県
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1417 黒崎=三方郡美浜町坂尻(福井県)道もなく人家もない岬その向こう常神半島の美浜町側もまた道も人家も岬もない [岬めぐり]

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 このシリーズだけでこれが3つ目になる黒崎は、美浜湾南岸のほぼ中央付近で北へ突き出た小山の先が、ちょっと東へ向いてしゃくれたところである。中央にあっても、美浜湾西側には行かない。したがって、この岬は菅浜や佐田のほうからしか見えない。
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 標高330メートルの天王山の塊から、北へ下りながら伸びていく岬の東西両側には、道もなく人家もない。天王山は、わずかに南東端の椿峠で県境の山々に接続しているが、ほとんど島のようで、その半分は湾に突き出ているが、残り半分は田畑や集落が広がる陸地に埋まっている。
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 美浜町の役場がある中心地は、この天王山の西側に開けた耳川の河川敷が陸地化したような平野にあるが、平野の際から山がいきなりぽこっと盛り上がって囲んでいる。
 こういう地形は、讃岐平野に似ているが、ここらはさほど広くはないので平野とは言わないのだろう。ただ、この若狭湾沿岸一帯に共通しているこういう地形は、やはりリアス式のフィヨルドの名残りのようでもあり、その浅い部分が堆積によって陸地化していったものとみてもよいのだろう。
 そして、陸地化せず海水が入り込んだまま周囲に山だけが残ってできたのが三方五湖、ということになるのではないだろうか。
 美浜町の役場やJR小浜線の美浜駅がある平野の西端から始まる三方五湖は、久々子(くぐし)湖、日向(ひるが)湖、水月湖、菅湖、三方湖と続いている。
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 美浜町と若狭町の境界線は、気山付近からジグザグに複雑な線を描きながら、久々子湖の東北部と日向湖をまるまる美浜町側に取り込んでいる。
 そして、レインボーラインの一部をなぞりながら北へ伸び、常神半島の背を若狭町と半分に分けながら、半島の北西常神岬で海に落ちている。この境界線の北東部分が全部美浜町なのだが、集落があり人がいるのは日向までで、その先は無人地帯である。
 常神半島の西側、若狭町には海岸を道路が走り、集落も点在して先端まで至っているのに、東側の美浜町側には、なぜ人が住み着かなかったのだろうか。
 それはとにかく、この半島の地形のためだろう。半島東側は断崖が続いていて平地がまったくと言っていいほどない。日向の先に3か所くらいは断崖が切れて小さな浜がある場所があるのだが、そこには西海岸にあるように小さくてもいいから川があればいいのだが、それがない。水がないから人は住めない。
 人がいないから、岬もない。
 岬がないから、でんでんむしもこの黒崎から北西の海岸へは行かなくてよい。黒崎も人も住まず道もないので、県道33号線を走るバスからの眺めのみとなった。そういうわけで美浜町の中心部は通り過ぎる。
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 次の岬は常神半島先端の常神岬となるのだが、そこへは若狭町営バスの三方線という路線バスに乗らなければならない。その始発バス停がどこにあるかというと、ふたつの町の境界線が走る気山付近の“レイクヒルズ”となっている。
 近年、全国各地で同様のことが起こっている。それまでのバス会社が運行する路線が、どこも不採算部門となって撤退を余儀なくされ、住民の足がなくなり、通学も困難になる。それでは困るというので、自治体が補助金を出して赤字の補填をする条件で路線を存続させたり、コミュニティバスの運行という形で自治体自身がバス路線の運営に関わるようになった。
 いまや、地方のバス路線といえば、コミュニティのほうが多いくらいであろう。
 コミュニティバスにも大きくふたつあって、自治体が積極的に運営にタッチする場合と、地元のバス会社やタクシー会社と提携して委託する場合がある。
 前者の例では「1350 箱崎=三豊市詫間町箱(香川県)まことに見上げた三豊市コミュニティバスが行くこの“箱”はあの「箱」のことなのだった」」の項で紹介した三豊市のように、市営バスとして徹底して本格的にかかわるのもあるが、多くは後者のような形で、この若狭町の三方線も町営バスではあるが、実際の運行はレインボー観光自動車が行なっている。
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 気山というのは、平日の昼間で1時間に1本走っているJR小浜線でいうと、美浜駅と三方駅の間にある駅名であり、久々子湖の南で舞鶴若狭自動車道でいうと若狭三方ICのある付近で、気山という山もある。その所在は、三方上中郡若狭町となる。
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 “レイクヒルズ”とは、新興の住宅団地かなにかかと思ってやってきたら、なんとそこは“レイクヒルズ美浜病院”という病院でありました。その下には福井県立美浜高校があって、境界線はその高校の校庭を縦断して、病院はまるまる若狭町域となっている。
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 そして、若狭町内である久々子湖の南西にあるふたつの丘には、美浜町の飛び地があるのだ。
 ココらへんの境界線の複雑さといい、これはおもしろそうで、なにかあるはずだが…。なにもわからん。
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 バスはレイクヒルズから三方駅を経由して、三方湖と水月湖のほとりを北上していく。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度38分1.55秒 135度57分15.70秒
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dendenmushi.gif北越地方(2016/07/18 訪問)

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1416 城ヶ崎=三方郡美浜町菅浜(福井県)この海岸線が「美浜・五木ひろしマラソン」の折り返しコースです [岬めぐり]

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 名前からすると、ここも城があった山なのかもしれないが、そういう情報はない(ようだ)。敦賀半島ではいちばん大きな集落ではないかと思われる菅浜の中心から、西の海に向かって飛び出たふたつのコブ。80メートルに足りないふたつのピークの間に平場があるので、城を置くには適してはいる。
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 その先っちょが城ヶ崎で、その周辺には小さな岩がたくさん散らばっている。だが、県道はその内側を通っている。南側には、菅浜漁港の堤防と岸壁がせり出していて、写真にはうまく撮れていない。
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 南からは、どれも同じような写真ばかりで、北側からは(帰路では)座席を後部に変えたので、窓の汚れは少し減ったが、カメラ位置としてはうまく撮れていなかった。
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 県道33号線は、佐田竹波敦賀線と標識が出ていたが、海岸線をもう少し南に下ると、菅浜から北田・佐田と続く。ここらが敦賀半島の西の付け根にあたる。佐田で国道27号線と合流して、帰路のバスは東に向きを変え、敦賀駅に向かうわけだ。
 この佐田のけやき台は、「美浜・五木ひろしマラソン」の折り返し点で、スタートとゴールは関電の原発があった丹生。その往復20キロというマラソン大会は、2016年で実に28回を数えるほどの実績がある。
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 歌手・五木ひろしは、美浜町出身で名誉町民だという。2010年に小浜の岬めぐりで、当時やっていたNHKの朝ドラ「ちりとてちん」にかこつけて、「571 青井崎=小浜市青井(福井県)もし…たら…れば…それは限りなく大きく重い」の項でちょっとふれた。このドラマでは、本人も出演したうえに、その持ち歌の「ふるさと」が大きなテーマになっていた。
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 で、その「ふるさと」については、まったく関係ない場所である北海道で、2011年に「678 親子岩・ローソク岩=様似郡様似町字鵜苫(北海道)あ〜ぁ 誰にも 故郷がある 故郷があ〜る」の項でも書いていたので、繰り返さない。
 前者の項目(571)では、この頃は「きた!みた!印」もほったらかしでロクに応接もしていなかったが、翌年の後者の項目(678)でみると、現在もなお引き続いて“きてみて”いただいている常連(半常連を含む)の方々が8名もおられた。いつもありがとうございます。
 ということは、でんでんむしが、ながいこと無視していて、遅ればせながら世に言う「nice!」を、いただいた返礼訪問だけに限定してつけはじめてからはもう5年になるのだ。
 こんなことを書くのも、自分自身では古い昔の項目を引っ張りだして見ることなどしないものだから、こういう機会についでにチェックを入れておこうというわけですね。
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 平尾昌晃・山口洋子コンビによる「ふるさと」の歌碑とかも、当然あるんだろうな。この頃の歌碑は、美空ひばりの“塩屋崎”のが最初かどうかは知らないけど、あれと同じように前に立つと曲が流れてくる式のも流行っているようだ。ここのはどこにあるんだろう。マラソンコースの沿道にはなかったようだが…。
 と思って調べてみると、やっぱりちゃんとあるんですね、これが。
 ところがね、これがある場所は美浜町ではなくて、隣の若狭町なんですよ。どうなっているのか知らないが、そこは三方五湖を望むレインボーラインの山頂公園内にある“五木の園”なのだそうだ。その“園”とやらと歌手とがどういう関係なのかもわからないが、岬めぐりではそこまで行く予定はない。例によって“恋人の聖地”やら“誓の鐘”などが目白押しになっているらしいレインボーラインへは、幸いにも岬とは関係がないので、行かずにすんだわけだ。
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 敦賀半島西岸、美浜湾東岸のコースはこれで終わりになるが、ちょうど城ヶ崎からほぼ西に線を引くと、13.6キロ先のそこには常神岬がある。見えているそこまでが全部美浜町である。
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 そして、もっと手前側にも黒々とはっきりした塗りの岬が見えてくる。これが黒崎で次項の岬なのだが…。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度39分24.01秒 135度57分49.96秒
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dendenmushi.gif北越地方(2016/07/18 訪問)

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1415 弁天崎=三方郡美浜町竹波・菅浜(福井県)水洗い跡で汚れたままのバス車窓から美しい海岸を眺めつつ… [岬めぐり]

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 でんでんむしも、岬めぐりの計画をたてるときにはインターネットでバスや電車の時刻表と地図をチェックするが、それ以外の地域情報は、岬の項目を書くときに裏付けなどのために関連情報を確認する。ネット情報は活用はしているが、決して鵜呑みにはしない。
 そうして見る情報のなかには、旅行先や観光地の情報をライターから集めているサイトもあって、そういうのはなにがしかの報酬も書き手に支払われるしくみになっているらしい。水晶浜について書いていたページもそうらしく、きれいだ楽園だとやたら持ち上げているので、かえって気持ちが(気色が)悪い。
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 そこで水晶浜としてあげてある写真の何枚かは、実は弁天崎のもので、細かいことを言えばこれは水晶浜ではなく、しいて言えばダイヤ浜のほうに近いが、それも浜ではなかったりする。
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 だが、多くのこうした観光情報は、細かいことは気にしない方針らしく、弁天崎の写真を水晶浜としているのは多い(なかには弁天崎の南の菅浜の砂浜を水晶浜と称しているものまである)ようだ。目的のためには手段を選ばないというか、ネット情報のいい加減さを示す一材料としては役立ってくれる。
 逆に、“日本の水浴場88選”(いろんなのがあるんだねぇ)に選定されていて、有名になった水晶浜にあやかったほうが得だという判断もあるのか、竹波から菅浜までを全部水晶浜だとひっくるめてしまえ、という傾向もなきにしもあらず…なのか。まあ、好きにやってくだされ。
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 この西海岸に海水浴場が並び、それぞれ人気を集めるようになったのは、原発ができて道が整備された1971年以降だというが、バスでくる客より自家用車でくる人のほうが圧倒的に多いので、そういう人々は馬背峠(「1408 名子崎」の項参照)の下をトンネルで抜けてくるのだ。確かに、これは敦賀からは最短ルートで、トンネルを下って、まっすぐ海に出たところ、ちょうどそこがとにかく有名な海水浴場である水晶浜になるのだ。
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 どうも、この美しい海岸を走る福鉄バスは、運悪くやたら窓が汚い車両で、ガラスには水洗いした水滴の跡が、ガラス一面にてんてんと残っている。こういうところにも、バス会社の姿勢も伺われるのだが、いい加減な車体清掃のまま乾かして、客を乗せて走っている。外側だから拭くこともできない。
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 そこで、車窓写真でいい加減に撮っている当方としても、なるべく選んではいるがそのまま載せるしかない。(ひどいもんだけど、これがいい加減な現実だ。)きれいなのも混じっているが、それはフロントガラス越しで撮ったものだから。
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 弁天崎は水晶浜やダイヤ浜のある竹波地区と南の菅浜地区の境界線上にあって、小さな尾根の先に岩島が大きいのから順にぽこぽこと並んで海に消えていくという地形になっている。もちろん、その名はここに弁天社があるからで、バスの車窓からは南から岬を見たときに、赤い鳥居が見える。
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 ここには地理院地図では、“松淵”と斜体フォントで並記されている。あるいは松が生え渚に陰を落とし、幽邃な景観を醸しだしていた時期があったのかもしれない。道路脇に残った松も目立たなくなるほど減り、弁天崎を北から南から囲んでいる岩なども、昔の景色からみるとひとまわりも小さくなってしまったのではなかろうか。
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 広く開けた美浜湾では、外海からの影響も受けやすい。沿岸流の働きで、徐々にこうした景観も、砂浜もやせ細っていく傾向は、どこにも多くみられる。白いきれいな砂浜をつくっているのは敦賀半島の花崗岩で、これが風化し水に運ばれて海岸に蓄積した。水晶浜とかダイヤ浜とかいう名前も、白亜紀に形成された花崗岩と変成岩の岩脈から、結晶が割り出されてきたからなのだろう。
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 美浜町の名は、耳川が流れる役場付近の旧村にちなんで弥美(みみ)の「美」と砂浜の「浜」を合成したとされているが、そんなややこしいことを言わなくても、“美しい浜がたくさんある町”で、充分通用する。
 同名の町が、もうひとつ愛知県は知多半島にある。(確か、海岸際に灯台があるところで、前に書いたつもりだった…とSo-net検索をしても出てこない。愛知県の項目を見てもない。あれれ? 野間埼灯台も行ったはずなのに、どうして項目がないのだろう…。)
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度40分26.37秒 135度57分59.37秒
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dendenmushi.gif北越地方(2016/07/18 訪問)

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1414 針岩=三方郡美浜町丹生(福井県)ここも原発があるので素通りはできないから岬じゃないけど一項目に [岬めぐり]

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 白木のトンネルから南は、敦賀市ではなく美浜町になるが、トンネルから下って小湾に出たところが丹生の集落である。ここの丹生は「にゅう」と読むらしいが、「にう」と呼ぶところもある。全国には、丹生という地名は多い。
 全部ではないにしても、そのほとんどはかつて水銀を採掘できたことに由来するものだろうが、ここがそうかどうかは確かな情報がないのでわからない。水銀から原発へというのも、有害物質と人間がどうかかわるかという点では共通点もある。
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 小さな湾は、島のようになっている出っ張りが、海面を区切るように囲っていて、その奥まったところに奥ノ浦の集落があり、そのバス停には美浜町のコミュニティバスが停まっていた。だが、それには乗る機会がない。福鉄バスは、そこに寄ってから県道33号線に戻ると、海岸を南下して行く。
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 このとき、小湾の湾口にある丹生大橋を渡ったところに、関西電力の美浜原子力発電所がある。なんと、敦賀半島でこれで3つ目の原発である。さすがは名にし負う“原発銀座”であるが、これだけでは終わらないところがまたすごい。
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 福井県のうち、美浜町以西は北陸電力ではなく関西電力のサービスエリアになっているからなのか、1962(昭和37)年に原子力発電から譲り受け建設することを公表し、1970(昭和45)年に美浜1号機の営業運転を開始している。この頃は、まだ原発のマイナスイメージは小さく、山向こうの敦賀原発とともに、大阪吹田で開かれた日本万国博覧会会場へ送電していたことが誇らしげに喧伝された。
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 橋の袂には、関電が設けた原発のPRセンターがある。各原発では、ほとんどのところでこうした一般向け・対外的なPR施設を設けている。
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 往路のバスはこの橋を渡って、ゲートの前まで行ったのだが、復路は橋は渡らずに過ぎて行く。通勤の人や発電所に所用の人が乗ることを想定しているからだろう。
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 針岩というのは、この美浜原発を隠すように南西側にある、小山の南海岸にある立岩である。門ヶ崎もその尾根も、白っぽい花崗岩質の岩が露出していたが、半島北部は同じようで、針岩も花崗岩の立岩らしい。
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 岬という名ではないのだが、ここも岬名表示と同じ斜体フォントで地理院地図では表記しているので、あえて一項目とすることにした。地理院地図には同じ書体で、その上には「文(あ)ご魚越」という表記もあるのだが、これはよくわからないのでムシ。ただし、原発がある島と門ヶ崎から流れてくる尾根をつなぐジョイント部分なので、ここもやはり陸継島であったのだろう。“アゴ”とはトビウオのことをいうところもあるので、ここもトビウオが飛び越えられるくらい細くつながっていた、ということを伝えているのではなかろうか。
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 針岩のほうは、文字通りの針にしてはいささか太めだが、立岩の形状からついた呼び名だろう。が、花崗岩で鋭い鋭角の立岩になることはめずらしい。風化しやすいので、なかなか針のようにはならないのだ。それでも、ここにその名が残ったということは、もっと昔にはもっと尖っていたのかもしれん。
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 針岩は、原発の橋からも見えず、海岸を少し南にいかないと角度的に車窓には映ってこないので、少し遠くからしか見えない。この道中の西に続く丹生の浦には砂浜がいくつもあって、丹生海水浴場、竹波海水浴場、水晶浜海水浴場、ダイヤ浜海水浴場と、それぞれが海水浴場として賑わっている。その砂も、白っぽい花崗岩質の砂だ。
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 この付近で西に見えてくるのは、常神半島。美浜町は、門ヶ崎の南から常神岬までの16.7キロを結ぶラインの内側で、美浜湾の湾岸をすっぽりと包み込んだ町である。美浜湾も敦賀湾と同じく、若狭湾の支湾のひとつであるが、奥深い敦賀湾とは対照的に、口を広く大きく開けた湾である。
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 南は一本の谷に沿って町域を山の中に進め、滋賀県高島市と県境を接している。
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 1954(昭和29)年に三方郡北西郷村・南西郷村・耳村・山東村が合併して発足しているから、もうずいぶん古い町の部類に入る。2016(平成28)年8月1日現在の町の人口は、3,738世帯・9,916人。そんな美浜町の岬をこれからめぐっていくことになるが、残念なことに湾の東側に限られていて、その数も多くはないのである。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度42分0.03秒 135度57分39.77秒
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dendenmushi.gif北越地方(2016/07/18 訪問)

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1413 門ヶ崎=敦賀市白木一丁目(福井県)三人寄っても何人寄ってもなんの知恵も解決策も出ないままの「もんじゅ」の隣の岬 [岬めぐり]

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 前日の悪天候をもたらした前線が抜けて快晴となった日の早朝、敦賀駅前から朝一番の白木行きのバスに乗る。200円均一の敦賀のコミュニティバスは、福井鉄道のバスが請け負って代替しているようだが、なぜかこの路線だけはコミュニティではなく、福鉄バスの路線なのだ。だから、料金は均一にはならない。
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 バスは敦賀の平地を抜けると、半島の尾根を関峠で越え、敦賀半島の西海岸、美浜湾の岸に出る。この湾岸を北上すると、関西電力の美浜原子力発電所を経て、白木トンネルを出た海岸に白木の集落がある。ここがバスの終点で、門ヶ崎はその小さな漁港の堤防の端にある。
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 その前の竹波付近で海水浴客がどっと降りるときに、料金は800円を越えていたかと思う。それが白木トンネルを出ると200に表示が変わった。桁が足りなくなって1200円と表示できないのかと思って、降りるとき千円札を料金箱に入れようとしたら、運転手さんが200円でいいのだという。ええっ、そうなんですか? なんか得したような気分である。だって、海水浴に来てその前に降りた人たちはみんな800円とか900円払っていたはずだから…。
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 これも、前項で述べていた敦賀市域の境界線の線引きによるのであって、白木は敦賀市、敦賀駅前から敦賀市内までだから、ここは200円なのだ。だが、海水浴場のところはすべて三方郡美浜町。なるほど、この路線だけがコミュニティでない理由が、やっとわかった。
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 門ヶ崎のある白木は、敦賀半島西岸では最後の集落で、この先北東側に海岸は続くがそこにはもう人家もない。あるのは「もんじゅ」だけ。
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 200円から急にお金が大きくなるが、日本原子力研究開発機構が、このなにも働いていない原発の維持のために使っている予算は、1日5500万円なのだそうだ。その組織は文科省の管轄らしいが、どんな組織なのかはよく知らない。もちろん、高速増殖炉についても「発電しながら同時に消費した燃料以上の燃料を生産することができることから原子力発電の燃料であるウラン資源の利用効率を飛躍的に高めることができ」るという、機構の宣伝以上のことは知らない。
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 度重なる事故や隠蔽などから、世界にひとつだけの高速増殖炉はながいこと結果も出ないまま、運転を停止したままである。原子力規制委員会は“日本原子力研究開発機構による運営では安全性が確保できない”として、新たな運営主体の具体的な特定を文科省に求めていることは、新聞で読んで知っている。
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 何も知らない素人が考えても、機構の当事者能力は大いに疑われるが、世界にひとつだけしかない(他の国ではとうに撤退しているから)のに、別に運営主体を求めることなどできっこなかろう。
 これはもう、やめるしかない。だが、やめないで懸命に延命だけをはかっている。誰がどこでどうしているからかは知らないが、これがやめられないことにこそ、現在のわが国の原子力政策の虚構と欺瞞と破綻と矛盾など、すべてが集約されている、と言っても過言ではないのだろう。
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 1960年代に生まれた“使用済み核燃料リサイクル”という構想は、90年代に動き出し、その構想を担うべきここの高速増殖炉も六ヶ所村の再処理工場もずっと失敗続きでうまくいっていない。
 ずっとうまくいく見通しもつかないのに、金だけはどんどんつぎ込んでいる。なぜ早くやめないのか。それは、これをやめることは核燃料リサイクルの破綻を意味し、それが原発をやめることにつながるからだろう。幸い、いくら金をつぎ込んでも自分の懐が痛むわけではない。
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 したがって、性懲りなく自民党政権は原発稼働をどんどん進め、出てくる核のゴミは処理する方法がないので、どんどん「使用済み燃料プール」を各地に拡大して貯めこんでおくしかない。日本が抱えこんでいるプルトニュウムの量は、核兵器転用につながるから、外国の目も厳しくなる。
 「もんじゅ」だけでも1兆円を超え、六ヶ所村にいたってはその数倍といわれるお金(これ税金ですよね)をつぎ込んでなおかつ先が見えない半世紀以上前の構想にしばられているなんて…。
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 いったい誰が責任者なのだろうか。とにかく役人は責任を取ったためしがないし名前さえも表に出ることがなく、役所の機構そのものがある意味無責任体制に守られている。そのうえに民間の電力会社の利権がからんで、身動きならない状況になってしまっている。(一説によると、このサイクル計画の破綻を認めてしまうと、いつか使えるからととっておいて使用済み核燃料を資産計上していた電力会社がたちまち経営悪化してしまうからだ、という。)
 「もんじゅ」にしろ「ふげん」にしろ、まったくこんなところに名前が使われていて、さぞ嘆いていることだろう。この菩薩の名を使って命名したのには、永平寺の高僧がからんでいたという話もあるが、永平寺はそれを否定している。
 三人寄っても知恵も出なかった「もんじゅ」のために(なるのか?)も、東京電力から電気を買うのをやめて切り替えようかと、真剣に検討中。(切り替えました。東京電力さようならです)

※ついに廃炉へ!(最新情報です)2016/09/13

もんじゅ廃炉で政府が最終調整 核燃料サイクル政策見直し必至
 福井新聞ONLINE 9月13日(火)7時55分配信

 政府は12日、原子力規制委員会が運営主体の変更を求めている日本原子力研究開発機構の高速増殖炉もんじゅ(福井県敦賀市)を廃炉にする方向で最終調整に入った。政府関係者が明らかにした。再稼働には数千億円の追加費用が必要となり、国民の理解が得られないとの判断に傾いた。核燃料サイクル政策の枠組みの見直しは必至で、関係省庁で対応を急ぐ。

 所管の文部科学省は、規制委から運営主体の変更勧告を受け、原子力機構からもんじゅ関連部門を分離し、新法人を設置して存続させる案を今月に入り、内閣官房に伝えた。しかし、電力会社やプラントメーカーは協力に難色を示しており、新たな受け皿の設立は困難な情勢。政府内では、通常の原発の再稼働を優先すべきだとの考えから経済産業省を中心に廃炉論が強まっていた。 

 政府は、もんじゅ廃炉後も高速炉の研究開発は継続する方向。実験炉の常陽(茨城県)の活用やフランスとの共同研究などの案が浮上している。

 原子力機構は2012年、もんじゅを廃炉にする場合、原子炉の解体など30年間で約3千億円の費用がかかるとの試算をまとめている。もんじゅは核燃料の冷却にナトリウムを利用する特殊な原子炉のため、一般の原発の廃炉費用より割高となる。 

 一方、再稼働するには、長期の運転停止中に変質した燃料を新しいものに交換する必要がある。 

 もんじゅ本体の施設の維持管理に年間約200億円かかり、茨城県東海村にある燃料製造工場を新規制基準に対応させる工事費も大幅に必要となる。もんじゅ本体の新基準対応費も含めると、再稼働させるためには数千億円の追加負担が見込まれる。 

 規制委は昨年11月、原子力機構に代わる組織を特定するか、できなければ施設の在り方を抜本的に見直すよう求め、半年をめどに回答するよう馳浩文科相(当時)に勧告していた。 

 敦賀市の渕上隆信市長は今月8日、松野博一文部科学相と面談し、「一定の成果が上げられないまま撤退という判断になれば、30年の協力は何だったということになりかねない。地元の期待を裏切らないでほしい」と存続を強く求めた。
 
 Yahoo! ニュース 2016/09/13 AM10:40 より

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<参考> 毎日新聞 2015年12月10日 東京朝刊から

 原子力規制委員会から運営主体の交代を求められ、存廃の岐路に立つ高速増殖原型炉「もんじゅ」(福井県敦賀市)。発電しながら使った以上の燃料を生み出す「夢の原子炉」と呼ばれる。どういう仕組みなのか。実現の可能性はあるのか。改めて探った。【酒造唯】

 自然界にあるウランのうち通常の原発(軽水炉)の燃料になるウラン235は0・7%に過ぎない。99・3%を占めるウラン238は核分裂しにくいため、そのままではゴミになる。もんじゅはこれを利用しようと考え出された。

 もんじゅの燃料のプルトニウム239は、核分裂するとスピードの速い中性子が3個飛び出す。これがウラン238に当たるとプルトニウム239に変わる。中性子1個を次のプルトニウム239の核分裂、残り2個をウラン238の変換に使うと、消費したより多いプルトニウム239ができる。「高速」中性子を使って燃料を「増殖」するのが、高速増殖炉の意味だ。

 もんじゅの炉心は、ウラン・プルトニウム混合酸化物(MOX)燃料を、ウラン238だけでできた燃料(ブランケット燃料)が覆う構成。ブランケット燃料に生まれるプルトニウムの97%以上はプルトニウム239だ。核燃料に再利用するには十分高い濃度で、核兵器にも転用できる。

 軽水炉では燃料を冷やすのに水を使うが中性子は水の中では速度が遅くなる。遅い中性子は核分裂を効率よく起こす半面、ウランをプルトニウムに変えられないため増殖に使えない。もんじゅは原子炉の冷却にナトリウムを使う。

 ナトリウムは効率よく熱を奪う利点があるが、強い放射能を帯び、水や空気と触れると火災や爆発を起こす。原子炉を冷やしたナトリウム(1次系)で直接水を温めるのは非常に危険だ。もんじゅはいったんナトリウム同士で熱交換し、放射能を持たないナトリウム(2次系)で蒸気をつくって発電する。このため軽水炉に比べて設備が非常に複雑になる。もんじゅの出力は28万キロワットと原発では小型だが、設備の大きさは100万キロワット級の原発に匹敵する。

 他にも、暴走しやすく原子炉の制御が難しい▽ナトリウムは不透明で原子炉内の点検が困難−−など多くの欠点がある。高速増殖炉は軽水炉よりも早く1951年に米国で世界初の原子力発電に成功したが、実用化した国はまだない。仮にもんじゅが成功したとしても、経済性を検証する実証炉、商業的に使う実用炉、高速増殖炉専用の再処理工場などさまざまな施設を造らなくてはならず、増殖の実現はまさに「夢」の世界だ。

 もんじゅの構造に詳しい元京都大原子炉実験所講師の小林圭二さんは「高速増殖炉は増殖を主眼にするためさまざまな無理がある。電源としては失格だ」と話す。

▼国土地理院 「地理院地図」
35度44分4.62秒 135度58分29.67秒
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dendenmushi.gif北越地方(2016/07/18 訪問)

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祝! 広島カープ25年ぶり、7回目のセ界制覇! 待ちに待ったその日がついにやってきた! [番外]

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 最も優勝から遠ざかっていたチーム、と言われ続けてきた。やっと25年ぶりのVである。スポーツ新聞ではない一般紙にも「苦節25年」の見出しが踊る。2016年の戦いぶりは、勝ち星の半分以上が逆転勝ちで、6月から終始独走状態を堅持する、実にみごとなものだった。なにかと不自然だった監督采配も、今年は様変わりになったような印象がある。みんな大喜びであろう。広島の街も、さぞかし盛り上がっていることだろう。
 でんでんむしのようにその前の第一期「苦節25年」を経験してきた“球団創設以来のファン”は、だんだんと減っているだろうが、ちょうど球団結成から初優勝までも25年だった。そのときには、「一度でいいから優勝してくれ!」と願っていたものだ。それが、80年代の赤ヘル黄金時代を築き、都合6回もリーグ優勝して、そのうち3回は日本シリーズを制覇しているのだから、もう言うことはないくらいの大満足であった。
 以来、勝ち負けだけでなく、ゲームを冷静に楽しむ術もマスターして、長く続いていた低迷期も、いちいちカリカリしないで、余裕でカープの試合を見てきた。
 だが、その黄金時代を知らない若い人たちにとっては、ちょうどわれわれが初優勝を待ち望んでいたときと同じ年月だけ、この日を夢見て待っていたのだ。
 よかったね! うれしいね! バンザイだね!

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★ (↑字が小さい? 拡大してみてね!)
 広島人にとって、カープは特別な存在なのだと言ってもよい。関東にいても、ケーブルテレビでカープの試合はほとんどの試合を見ているが、マツダスタジアムでもビジターユニで真っ赤に染まったスタンドと、そこを埋め尽くした人々の顔を眺めていると、いいようのない感動と連帯感を覚える。
 ほかのチームでも、ファンの思いは同じといえばそうかもしれない。だが、カープの場合は、そこらへんがちょっと違うのである。
 神宮球場も横浜スタジアムも、関東で遠征があるときにごくたまに出かけることもあったが、いつもビジターの応援のほうがホームを圧倒していた。いまさらのようにレフト三塁側の応援がすごいと解説者やアナウンサーがいうけれど、そんなことは昨日今日に始まったことではないのだ。
 思えば41年前の初優勝の時も後楽園球場で、そのときのスタンドの大歓声は中央総武線の線路を越えた。2016/09/10の東京ドームも、ビジター席だけではなく、3塁側の上も真っ赤で、内野も赤くなりかけていた。広島からやってきたファンも多かったろうが、優勝決定戦にプライベートで、県知事と市長が東京まで飛んできて並んで応援するようなチームはカープだけだろう。
 広島出身者ではないけどカープファン、という人も増えているので、皆が皆同郷意識で寄り集まっているわけではないだろうから、実際どうなのかは球場で出口調査でもしてみないとわからない。
 だが、広島カープの存在は、広島という一地方の一地域を基盤として、初めて成り立っている。第一、チーム名に地域名を冠した球団は、今でこそ無理やり「東京なんとか」とかつけたりしている(現在はフランチャイズ制を標榜し、原則地域名を冠することになっている)が、長い間ずっと広島カープだけだったのだ。

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 それは、広島に球団をつくろうとして奔走した先人たちの思いのなかに、原爆で一瞬のうちになくなってしまった広島の街と、ともすれば先も見えない不安で荒廃していく人々の心をひとつにまとめ、郷土の復興への力になるという期待があり、それが見事に結実した象徴が、広島カープだったからだろう。
 ローカルなことにかけては、12球団のうち随一であったが、12球団随一の貧乏球団であったこともまぎれもない事実であった。とにかく、その創設時から、監督の第一の仕事が選手を集めることと、それに払う給料の資金集めだったくらいであった。“樽募金”として語られるエピソードは、役員会で浮かび上がった解散合併の動きに対応して起こった。
 今でもそうだが、プロ球団は親会社が(広義の)宣伝のために資金を出すことで成り立っている。だが、カープにはそれがない。そのため、初代監督である石本が考えだしたのが、広く市民を集める後援会組織で、これが後々にまで続く、熱狂的な応援を支える軸にもなり、「市民球団」と言われるもとでもあった。
 もちろん、地元の広島電鉄、中国新聞社、東洋工業など地元の十数社の企業も、積極的に支援はしたが、彼らのどこか一社で丸抱えできるような体力のある企業はなかったので、自然寄り合い所帯。
 だが、現実は厳しいことに変わりはなく、連盟からは8つあったチームを整理するためマークされ、邪魔者扱いされた時期もある。“セ・リーグのお荷物”といわれる所以はそこにあったが、なんとか危機を乗り越え、合併案も回避してきた。
 1963(昭和38)年に東洋工業社長の松田恒次がカープの経営に乗り出す。このときから、正式名称が「広島東洋カープ」となるのだが、東洋工業は一部資本参加したものの経営権をもっていたわけではなく、有力なスポンサーのひとつにとどまる。
 カープだってマツダが親会社だろうという誤解は、今でも多いようだし、いっぽう市民球団であるという思い込みも多い。しかし、それはどちらも違うのである。
 一般市民が幅広く株を持っているわけではないから、その意味での市民球団ではない。実態は、恒治→耕平→元と松田家三代がオーナーを引き継いできた“同族経営の個人商店”のようなものである。東洋工業の経営危機で、外資との提携やなにかで、松田家が自動車から手を引くと同時に、松田家はカープ一筋になって今日に至る。マツダが引き続き有力な支援者サポーターであることも、昔から変わらない。
 もっとも、松田家は当初は松田家支配は当面のことで、ゆくゆくは球団の運営形態自体をも考える、と言っていたはずだが、その動きはない。四代目ぶくみのオーナー代行にはオーナーの甥が就任した。オイオイ〜。

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 遠征にもいつも選手とともに帯同していた先代と比べて、三代目オーナーはカープ愛が足りないような印象をもっていて、暗黒時代を招いた責任はオーナーにあると批判していた。また、代行就任当初、高橋慶彦を怒らせて彼がカープを離れることになったこともあって、いい印象がなかった。だが、近年の黒田の復帰を実現させたこと、新井を呼び戻して快く迎え入れたこと、マエケンの願いを聞き届けたこと、そして先代に倣って選手とともに歩む姿勢を続け、コミュニケーション努力もしているらしいなど、でんでんむしも少しは見直している。
 マエケンの移籍金の一部を地元に還元するという方針を、いち早く示したのもよかった。(その後、具体的にどうしたのかは知らないけれど…)(2016/11広島東洋カープは、広島市に5億円を感謝のしるしに還元すると発表した。日南と沖縄のキャンプ地にも1億円ずつ。)
 それらに加えて、最近の球団経営には、そもそもはマツダから出向してきた鈴木球団本部長の手腕によるところもあるのだろう。
 カープは、球界ではめずらしいはずの独立採算制である。一見当たり前のようだが、ほとんどの球団では、親会社とどんぶりだからその内容はわからない。赤字でも親会社が補填するだけだからである。親会社を持たないカープは、近年はずっと黒字経営である。いつだったか、オーナーが500万円の黒字だったと喜んで言ったというのを聞いて、なんだ情けないと思ったこともあるが、長い間貧乏は貧乏なりにコウラに似せて穴を掘ってきたのだ。
 そのため、ずっとFAでは選手をとらないで、可能な限り若手の有望な選手を獲得して育てていく方針でやってきた。だから、相対的に平均年俸も他球団に比べて低い。だが、優秀なスカウトやアメリカの筋の良いコネもあって、有望選手の発掘や優良外国人選手の獲得では、他球団に一歩先んじている。カープがとった外国人選手で、その後パ・リーグで活躍している者も多い。また、有力選手に育って、他球団へという者も多かった。
 新しい本拠地球場ができて以来、カープの商売上手は他球団の追随を許さない、独走態勢である。もちろん、熱いファンの支えがあってのことだが、入場者数も、グッズの売上も好調そのもの。経営状態はずいぶんよくなったことであろう。
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 スタンド全体が赤くなるほどに強烈になったのは、ファンがグッズとして売られている選手ごとのネームと背番号の入ったユニフォームや、赤いキャップなどを買ってそれを身につけてくる(あるいは球場で着替える)からである。とくに近年の傾向としては、ビジター用の赤いユニフォームが人気で、ビジター球場だけでなくホーム球場のスタンでも大半を占めるほどに目立っている。
 この頃では、他球団でも日を決めてその日の入場者にカラーのシャツやタオルなど応援グッズを無料で配るところもあるが、カープはそんなことはしない。欲しいと思う応援グッズは、すべてファンが自前で買う。その売り上げは球団の収入になるから、樽募金が形を変えて続いているようなものだ。(樽募金といえば、新スタジアム建設のときに復活したらしいが、でんでんむしは遠くにいて知らなかった。)
 球団もこれには味をしめているので、ブラウン監督の頃から、目立って新グッズの開発には熱心で、ことあるごとに限定記念Tシャツなどを売り出している。新井の2000本や黒田の200勝は、そのひとつである。これには、選手自身のアイデアも採用されているなど、ひと味ちがう。
 そのほか、カープ坊やの手人形などグッズにはさまざまあるが、他球団の応援グッズに便乗したものもある。もちろん、相手球団に何がしかの挨拶をしたうえでのことだろうが、中日ドアラの耳を赤にしたのや、ヤクルトの傘を小さな赤い傘にして…といった例がある。また、スタンドで目立つのは、ファンが自分で思い思いにつくったボードや文字パネルであるが、これはカープが初めてというわけではなかろう。これも、昔は手書きがほとんどだったが、この頃はコンピュータを駆使してきれいにつくっているものも多い。
 カープ坊やというのは、初優勝のとき以来球団のシンボルのようになっているキャラクターで、ユニフォーム姿の男の子がバットを構えて前を向いている、2次元で丸いシールなどになっていた。球団マスコットとしても、最古参となる坊やである。新球場には3次元の大きな風船でできた坊やもいる。でんでんむしは、日本シリーズには必ず観に行くことにしていて、その都度これを売店で買ってきて貼ってあるので、ユニや色使いなどが微妙に異なる6人のカープ坊やが並んでいる。
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 初優勝のときに買ってきた大きい丸いシールは、本棚の横板に貼り付けていたが、日焼けして赤も色落ちしている。このときは、ルーツ監督の指示でチームカラーも赤に統一するよう指示があったが、ユニホームまでは間に合わず、帽子とヘルメットだけ赤にしたのだ。だから、このときは胸のCARPの文字も赤ではない。
 ゆるキャラが流行るずっと前からこれはあるのだが、もともと名前はなかったはずだ。いつからか、“カープ坊や”という名が広まってはいるが、そもそもの原案は確かに一見してこどもとわかるが、この顔の絵↑はどうも“坊や”という感じではないように思えてしかたがない。
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 グランドで試合の合間や試合終了後に愛嬌を振りまくキャラは、カープ坊やではなく、スライリーというほとんど意味不明の着ぐるみである。
 セサミストリートのマペット人形をつくっている会社が製作したというのだが、これはどうみても依頼の事前打ち合せの段階で齟齬があったとしか思えない。それは、このスライリーの性格付けその他コンセプトについて、明快な説明をしない(できない?)からである。
 
 身びいきといえばそれまでだが、広島カープがいちばん最初に始めて、それが他球団にも波及したというものは、たくさんある。
 でんでんむしもそれを全部チェックしているわけではないので、思いつくままに順不同で並べてみるが、落ち漏れも承知のうえ、裏取りなしということで。
 資金不足に悩む初代石本監督が始めた後援会というのも、おそらくそうだったのではないかと思われるが、創成期の苦難を球団と共にしてきたという勝手な思い込みが強かったファンが、その熱意の表われとして始めた、さまざまな応援スタイルは、昔から現在までユニークな伝統をきずいてきた。だから、これは維持していきたい。応援スタイルはやはり他のチームの応援のマネ(たとえば、タオルをグルグル回すとか)は、やめてほしい。あくまでオリジナルでいきましょう。
 ヤジがきびしいのもそうだったが、かなり昔から“ラッパのおじさん”というのが現れていた。軍隊ラッパで突撃ラッパなどを吹き鳴らす。いわゆる鳴り物応援は、ここから始まったとしてよいのだろう。そして、これが次世代に受け継がれつつ、トランペットによる、コンバットマーチに発展していく。
 ベンチ上に陣取ったおじさんが、相手チームがアウトになると、仏壇から持ってきたチンを、絶妙なタイミングで鳴らしていた。これが、やがて応援団全体での鳴り物テーマになる。アウトになる毎に囃し立てられるわけで、かなりイラッとくるのではないかと、その効果に思ったのは、他球団の応援でもそれをやるようになってからだ。
 それまではやはり、ファンの多くはおじさんばかりで、カープが勝った日には流川の飲み屋が繁盛するといわれた。なかには、敗け試合に怒るファンがスタンドで酔っ払って、ウイスキーの空き瓶をグランドに放り込み、線審がケガをするという事件まで起こった。
 それが、少しずつ変わり始めるのが、“コージコール”がスタンドを包むようになった頃からだろう。“コージコール”は、スター選手だけでなく、各選手個人ごとの応援歌につながっていく。また、カープが得点するたびに歌われる「宮島さん」(宮島さんの神主が、おみくじ引いて申すには…)は、昔の唱歌「花咲か爺さん」(裏の畑でポチが鳴く、正直爺さん掘ったれば…)の替え歌である。だが、この替え歌はカープの応援のためにできたわけではなく、広島では戦前から広商の応援などに使われてきたものなのだ。
 球団の公式応援歌としては、初優勝前に「それ行けカープ」が制定されて、現在もラッキーセブンに演奏され歌われる。
 カープファンのなかには、東京で『酒』というPR雑誌の編集長として有名人にも知人の多かった佐々木久子(一度神宮球場のスタンドでお見かけしました)などもいて、彼女を中心として「広島カープを優勝させる会」も生まれ、これ以降有名人でカープファンを名乗る人も増えていく。
 応援歌の作詞・作曲者も、その縁でできたと記憶する。(初優勝の年のことは、
「1975☆『思い出の索引』★でんでんむし@アーカイブス☆わたしたちが生きてきた時代とは…」に書いていた。
 宮島のシャモジをカチカチ打ち鳴らすスタイルは、広島の応援の伝統的なものではあったが、プロ野球では初優勝がかかった試合など特殊な場合に限られる(初優勝を決めた後楽園球場でもあったというが、でんでんむしはちょどそのときはヨーロッパに行っていて見ていない)。その伝統は二本のミニバットを打ち合せ振る応援に、引き継がれている。
 近年の応援では、スクワットとカープ女子とジェット風船も象徴的だ。カープ女子に負けじと、他の球団でも織り姫とか、…あとなんだっけ?
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 体力もいるスクワットは若い人ならではで、スタンドに女性が増えたことも特筆に値する。おじさん中心の野球応援が、明らかに変わっている。それには大リーグの球場を参考にしたというマツダズームズームスタジアム(日本の球場では左右非対称形なのはここだけ)が、ボールパーク的な色彩を打ち出してきたこととも関連するだろう。外野の入場券で入っても、バックネット裏の上まで含めてぐるりを一周できるほか、さまざまな特色のあるシートも用意されている。女性でも家族連れでも楽しめるような雰囲気づくりには、ある程度成功している。
 ジェット風船は甲子園で始まったとされるが、実はそれは阪神ファンではなくカープファンが始めたのだという。最初の頃は、風船は黄色や白や色とりどりとはいえ色彩は地味目だった。でんでんむしがRCCの掲示板に「カープのは赤い風船に統一したほうがよい」と投稿したのはその頃で、その翌年からはマツダスタジアムのジェット風船は赤一色になって、ラッキーセブンに一斉にそれが舞い上がるのはなかなか感動的で壮観だ。
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 カープのことは、これまでもところどころでふれてきたが、ひさしぶりの優勝なのでちょっとリキ入れてみた。とりとめのない感想もいい加減に締めくくらないといけないが、重要なことを忘れているような気もする。
 あ、そうそうカープが最初に初めて他球団が追随したというのには、背番号ゼロというのもあった。それから、選手の用具一式を遠征地まで運ぶ、専用のカープトラックを設けたこともある。長年、その運転手を務めてきた人が、今年定年になるそうだが、優勝で花道を飾ることができてなによりだった。
 2年位前から、カープの選手が打席に立つときかぶる赤ヘルが、メタリックのきれいな光沢になった。これは、マツダの自動車の塗装からのヒントでできたらしいが、これも経営主体が変わって研究熱心な横浜が広島を視察し、いろいろ参考にしていて、さっそく追随している。
 いわゆる関連本“カープ本”の多さも、群を抜いているように思うが、今年は「赤ヘル1975」(重松 清 講談社文庫)を買ってきた。
   そうそう、ドミニカに開いたカープアカデミー、これを忘れていた。こういうのもカープが初めて。
 わが家の息子たちは、まったく野球に興味がない。いまどきどこの球団のファンか云々というのは昭和の時代だなどと吐かしている。もちろん、親の因果を子に押し付ける気もないからほおってきたが、娘たちがその分をフォローしてくれている。
 テレビからも押し付けがましかった日テレ系の読売の試合中継がなくなって、確かに昭和も遠くなったが、これが正常な状態でもあろう。
 二度目の苦節25年が終わり、これから二度目の赤ヘル黄金時代をつくってくれるのは、平成の選手とファンである。よろしくね!
 カープバカの雑文、失礼しました。他球団のファンの皆々さま、これからもよろしくお願いいたします!
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dendenmushi.gif (2016/09/10 記)

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番外:立石岬灯台と原発=敦賀市立石・明神町(福井県)国策による灯台と原発がならんでいる半島の北から見える島は… [番外]

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 敦賀半島の先端は、大きな山の北端ではなく、北西から南東に伸びる161メートルが最高点の、長さも200メートルに満たない小さな尾根の先である。その北端の100メートルくらいのところに立っている立石岬灯台は、通せんぼのところからいきなりの急坂を登って行ったところにある。
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 驚いたのは、この急坂を登って灯台を訪ねてくる人が、意外に多いことだった。休日とはいえこの暑さのなか、なんでだろうと不思議に思うのは、もちろん自分のことは棚に上げてのこと。登るときにすれ違った中年の夫婦に「クマは出ましたか」というと「クマは出ません」との返事。灯台の日陰でゆっくりおにぎりなどを頬張りつつひと休みしている間にも、3組ぐらいが登ってきてまた降りて行った。
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 滞留時間がみんな短いのは、せっかく灯台まで登ってきたのに、周囲はヤブで、敷地内の隅にベンチがあるだけで、海は見えるとはいえ見どころにはいささかもの足りないからであろう。いわゆる“展望台”的な要素にはちょっと乏しいのだ。
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 それでも、ここからは干飯(かれい)と越前岬が重なりあっている北の海が美しく見える。おや!? 遠くにはぼんやりとだが島影も見えるではないか。若狭湾の北の海に、島なんてあったっけか?
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 まさか竹島ではないから、どうやらこれは西北西250キロほど遠くの隠岐の島ではなかろうか。西の島前はさらに遠いうえに標高が高くないのでわからないが、東の島後が見えているのだろう。こういうのって、なかなか自信を持ってそう言えるまで、時間がかかる。
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 そして、さらに西のほうには丹後半島の経ヶ岬も…。おおっ、これで自信をもって言えるな。隠岐の島です。それ以外には考えられないけど、意外に近くに見えるものだ。
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 帰りの降りでも登ってくる2組くらいがあって、「灯台はまだですか?」と聞くので、「まだまだですよ。あと半分がんばって。」と返す。
 この人たちはバスで来たのではないから、車でやってきたわけだが、別に灯台めぐりの趣味があってのことではなさそうだ。道が通せんぼになっていたので、しかたなく坂道に誘導されてきたものだろうか。
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 この灯台ができたのは1881(明治14)年のことで、ちょうど敦賀港と長浜の間に鉄道が敷かれたのと同じ時期である。いろいろ変なこともやったけれど、明治の指導者には近代国家の建設に向けて、巨視的なプランももっていた。敦賀に目をつけたのは、日本海と太平洋を結ぶ最短ルートであるからで、後にはこのルートで伊勢湾まで運河を通すという計画まであってしばらくはくすぶり続けた。
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 明治になってから、お雇い外国人の手になる洋式灯台が、各地で次々に建てられた。しかし、それらは半分は外圧によるもので、外国の貿易船の都合で立地が決められていた。が、この立石岬灯台は日本人の考えで、その計画と設計により日本人技術者によってつくられた、初めての灯台だったのだ。その意味では、歴史的な灯台だと言える。つまり、当時の国策によってつくられた灯台第1号なのだ。
 シベリア鉄道と結ぶ航路ができ、当時の4大貿易港に発展した敦賀の行く手を示すシンボルとして、現在の敦賀市の市章にもこの灯台が示されている。
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 現在の敦賀市のシンボルというには、3.11以降あまりにもマイナスイメージが強烈で大きくなってしまった原発も、国策といえば国策なのか。灯台のある尾根と南に続く半島主尾根の間に、隠れるようにしてある日本原子力発電の敦賀発電所は、その1号機が、日本最初の商用炉として発電を開始した東海村に続くものであり、原発銀座福井県(といっても県西部のみに集中)の最初の原発でもあった。
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 国策にしたがって、敦賀市議会が原子力発電所の誘致決議をしたのは、1962(昭和37)年のことである。
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 別に詳しいことが知りたいというわけでもないが、なぜかここには日本原子力研究開発機構の新型転換炉「ふげん」が隣接している。これは平成15年までは動いていたが、すでにもう廃炉になっている。そのためか、地図などでは表記されていないが、名称も原子炉廃止措置研究開発センター(略称:ふげん)というらしい。
 大量の水を必要とする原発は、海岸でなければならない。人里からもできるだけ遠くはなれているほうが望ましい。ふたつの尾根に挟まれ、猪ヶ池を抱え南側の明神崎を先端とする長い岬に囲まれた入江の奥の谷間は、いちばんに適地とみなされたのだろう。
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 この原発の所在地は、敦賀市明神町である。“町”がつく地名は敦賀市街地では当然普通に多いが、半島で“町”がつくのはここだけである。
 半島でほかにはない“町”が、ここにだけにあるのは、どういうことだろうか。まさか、この谷間には町があったのを立ち退かせたということはないだろうし…。(そんなところは最初から選ばないはずだから)
 立石岬を西に回りこんで行く破線の道も、地図には描かれているが、おそらく崖崩れがなっかたとしても、この道は歩くことはできなかっただろう。
 というのも、西海岸も大きく原発エリアで、敦賀原発の西に広く白いままの埋立地が広がっているのも、原発用地らしい。
 そして、その南には、かの有名な高速増殖炉もんじゅ発電所が控えている。「もんじゅ」のあるところは敦賀市白木で、ここも“町”ではない。敦賀半島の先端は、隣の美浜町と半分コではない。685メートルの蠑螺(さざえ)が岳まで半島を分けてきた境界線は、そこから急に西に向きを変え、半島西海岸の門ヶ崎南の崖まで降りているからだ。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度45分43.24秒 136度1分7.10秒 35度45分9.14秒 136度1分5.86秒
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dendenmushi.gif北越地方(2016/07/18 訪問)

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1412 立石岬2=敦賀市立石(福井県)きれいになった敦賀駅前から常宮線のバスに乗ってやってきたが先端へはまたしても… [岬めぐり]

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 敦賀半島の突端は立石岬で、実はここは昔にもバスでやってきたことがある。それは2001/10のことで、古い写真データを引っ張りだして、「039 立石岬」として項目にもあげていたが、このときはバスで行ってそのまま折り返して帰ってきていた。ということは、西浦のほかの岬も通っているわけだが、この頃はまだ岬めぐりの方針が定まっていない時期で、目立つ主な岬だけでいいや、くらいに考えていたから、ほかの岬はムシされていた。
 ひさしぶりにその昔の39番目の項目を開いてみると、「一泊4000円のすんごいホテル(という名前はついていた)に泊まって…」と書いている。
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 そうだ。そんなことがあった。そのとき初めて来た敦賀の駅とその周辺は小さくごみごみしていたような記憶があるが、今回来てみると敦賀駅は新しくきれいになっており、駅前も広々と整理されている。2015年の太川・蛭子コンビにマルシアがマドンナで加わった「路線バス乗り継ぎの旅」で、一行がここを訪れたときにはまだ古いままの駅だったから、新しくなって間もないのだ。
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 駅前商店街のかかりにあったその“すんごいホテル”も、その隣の似たようなホテルとともに健在のようである。だが、今回は新しく駅前にできているビジネスホテルのひとつに3泊する計画になった。
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 初めて来たときには、バスで立石を往復したあと、敦賀半島の西海岸にある「もんじゅ」のところまでも行きたいと、駅にくっついていた観光案内所に寄ったのだが、バスの便がうまくなく断念していた。
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 敦賀駅前のバスのりばは、駅の設計にあわせてきれいにかっこよくおさまっているが、外来者にはどこ行きのバスがどの乗り場から出るのか、ちょっとわかりにくい。ここでバスを待っていると、次々に自家用車がやってきてはバス乗り場に停車していて、おやっ敦賀ではバスのりばはバス専用ではないらしい。まあ、バスもたまにしかこないし…。
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 今回は、立石岬も「もんじゅ」のほうも、ちゃんと時間をとって、バスの終点からさらに岬の先端まで歩いてみるつもりでやってきた。そのため、何度も計画をあれこれ考えていたのだが、なにしろ朝と昼と夕方にしかバスがないので、朝のに乗れば昼まで、昼のに乗れば夕方まで何時間も待たなければならない。かといって、折り返し便では時間がなさすぎるので、岬の先端まで行ってくるのはとうてい無理だ。
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 それがネックで、計画には苦労していた。何時間でもバスの時間を待つのはいいとしても、それは待つ場所による。なにもないことにかけては襟裳の比ではないここ立石で、4時間も5時間も待つのはちょっと…困る。
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 ところが、夏季の臨時便が出ていることがわかって、これなら待ち時間も気になるほどではなく、先端にも行って灯台にも登ってくることができる。そう考えて、急きょ計画を組み替えたというわけ。
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 常宮線の終点は、立石の漁港の脇にあるが、ここで一人バスを降りて、北へ向かう。敦賀のバス停標識はメーテルです(駅前の通りにもたくさんの銅像などが並んでいるが、この作者と敦賀は何の関係もない)。
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 すぐに道は岸壁で終わり、そこからは民家の前を通り抜けて細道を進む。岸壁のそばの家は、15年前に来たときとほぼ同じ姿で立っていたが、その前に立石岬灯台の標識などが新しく加わっていた。おっ、クマも出るのか。
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 岬ではよくありがちなことだが、防波堤が切れるところを回りこむと、とたんに風が強くなる。いちばん強烈だったのは竜飛崎で、これはもう堤防から頭を出せないほどだったが、これは西風の影響が少し弱まるところに防波堤ができ、その内側に集落ができる(順序は逆だけどね)からではないか。
 ここではこのときは、防波堤と民家の間の通路には、心地よい風が吹き抜けていて、帰路ではここでしばらく涼んでいた。
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 敦賀湾の湾口を眺めながら、北へ進む。対岸はもう東浦の範囲を越えていて、バスも通わぬ途絶地帯の険しい山並みである。右手奥にはふたつの岬が見える。手前の濃いほうが干飯崎、向こうの薄いほうが越前岬であろう。
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 どれがどれだかはっきりさせるのはむずかしいが、南越前町と越前町の境界線が通る473メートルの矢良巣岳や、737メートルのホノケ山(これがいちばん高く見えるところか)などが雲に届く。
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 いい調子で歩いていたのはわずかの時間で、いきなり目の前に通せんぼの大きな看板が現れて、行く手を塞ぐ。あんれまっ!
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 崖崩れだという。“通行禁止”の文字がでかく威圧する。おまけに元気者が横をすり抜けないように、厳重な柵が横に飛び出るようにしてある。注意するだけでなく実際に誰も通らせないぞという、強い意志を示すこの看板、敦賀市ではなく敦賀海上本部というのがなにかありそうだ。
 やれやれ、せっかく再挑戦しようとやってきたのに、またしても…立石岬の先端へは行きそこねてしまったか。縁がないとはこういうことなのだろう。
 しかたがないので、ここは東浦から見たときの写真で代用することにして、看板の脇から登りになる灯台まで行ってみることにしよう。
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追記:
前出の「手」という集落について、物知りのChinchikoPapaさんからまたコメントをもらっていたので、ここで追記しておくことにする。

原日本語だと、「テ」ときに「タ」は「地域・エリア」の意味になりますね。「山手」は山のある地域(エリア)、「岩手」岩のある地域(エリア)という具合ですが、ただの「テ(タ)」の場合はその前に付いていた名詞がとれてしまったケースが多いようです。

なるほどね。そういうことですか。そうなると、その取れてしまった前の名詞がナニカ気になったりしますね。

▼国土地理院 「地理院地図」
35度45分48.82秒 136度1分4.32秒
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dendenmushi.gif北越地方(2016/07/18 訪問)

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1411 明神崎=敦賀市明神町(福井県)潮染むるますほの小貝拾ふとて…色ヶ浜には大勢の人がやってくる [岬めぐり]

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 色ヶ浜にバスが着くと、ほかの乗客はみんな降りてしまう。道路の周辺は駐車場もいっぱいで、もうたくさんの人がやってきている。色ヶ浜の海岸にも多少の砂浜はあるのだが、ここの海水浴のみんなのネライは、湾と入江の関係で海流が砂を集めて、沖に頼りなげに浮かんでいる水島である。そこまで、渡船で運んでもらうのだ。
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 明神崎は水島にではなく、その北から伸びてきた細く長い岬の端についた名であろう。が、灯台は水島の南端の方についているらしい。
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 水島の白い砂の上には、たくさんの海水浴客がいる。海岸の道路からは900メートルくらい離れているが、もうぎっしり近く人が乗っかっているようだ。地図でみると、島の周囲には浅い砂浜というか浅瀬が広くあるようで、これではあんまり本来の「泳ぐ」には向いてなさそうだ。逆に見れば、ポチャポチャするだけの水浴びには、かえって都合がいい。
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 これだけ人が大勢いると、“無人島感覚”はちょっと望めないだろうが、ほかの海岸にはない一興はあるので、それが集客力になっているのだろう。
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 色ヶ浜も古くから集落があったものか、あるいは自然の景観だけがあったものか、西行が「潮染むる ますほの小貝拾ふとて 色の浜とは いふにやあるらん」と詠んだ地がここなのだという。
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 松尾芭蕉が『奥の細道』の旅で敦賀を訪れたとき、わざわざここへやってきているのだ。ご苦労なことにここまで歩いてくるとは…と一瞬思ったが、歩くわけないよね。西行がどのようにしてきたかは知らないが、そりゃそうだね。舟ですよ舟。奥深い敦賀湾は波も静かなので、船ではなく、舟で充分だったろう。
 芭蕉の旅の目的は、古来からの歌枕の地を訪ねることでもあったので、敦賀にくれば西行にならって色ヶ浜まで足を伸ばす…舟を出すことは当然なのであった。
 それは、1689(元禄2)年の旧暦8月というから、現在の暦では9月も終わり頃である。

 十六日、空霽たれば、ますほの小貝ひろはんと種の浜に舟を走す。海上七里あり。天屋何某といふもの、破籠・小竹筒などこまやかにしたためさせ、しもべあまた舟にとりのせて、追風時のまに吹き着きぬ。浜はわづかなる海士の小家にて、侘しき法花寺あり。ここに茶を飲、酒をあたためて、夕ぐれのさびしさ感に堪たり。
   さびしさや 須磨にかちたる 浜の秋
   波の間や 小貝にまじる 萩の塵
 その日のあらまし、等栽に筆をとらせて寺に残す。

 色ヶ浜は“種の浜”とい呼ばれていたのか。芭蕉の筆はいかにも“上から目線”でそっけないが、“天屋何某といふもの”が、これだけいたれりつくせりのサービスに務めたのは、もちろん豪商の余裕とプライドがそうさせたのだろうが、先行していた曽良が事前に手を回していたからだろう。
 秋の夕暮れのさびしさを、『源氏物語』の「須磨」をもってきたのは、今の世にもなるほどと思わせるが、“ますほの小貝”はもう今ではほとんど取れないようだ。これは、単に萩色のような赤い貝、つまりサクラガイのようなものだったのであろう。“侘しき法花寺”は、今では本隆寺という名である。
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 水島と明神崎の向こう岸をみると、海岸に緑が大きな塊になって盛り上がっている。そこが岡崎である。
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 色ヶ浜を過ぎ、かつては西浦小学校があったところを過ぎると、浦底という集落がある。ここからは明神崎が長く突き出て深い静かな入江をつくっている。
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 入江の奥に向かって走るバスの先には山が切れる谷間があり、そこには建物や構築物が建て込んでいる。そこが日本原子力発電(日本原電)の敦賀発電所である。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度44分20.55秒 136度2分14.31秒
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1410 鷲崎=敦賀市手(福井県)原電のお金でできたトンネルとバイパスから北東に飛び出た細い小さな尾根が伸びる先に [岬めぐり]

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 鷲崎トンネルの銘板の文字は、それぞれ南と北のトンネルにいちばん近い小学校のこどもたちが書いたのだそうだ。南の沓側が常宮小学校、北の手側は西浦小学校の児童の手になる文字を使っているという銘板の部分を拡大してみようかと思ったが、北側からトンネルに入るところでの写真が、ちょっとうまくなかったのでそれはできず。
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 鷲崎は、北側からの写真だけになる。
 それは、断崖の上を走っていた旧道ではなく、日本原電が出したお金でつくったトンネルとバイパスは、その旧道の内側を通り抜けているので、トンネルを出るともう鷲崎は後ろに消えてしまう。旧道を通ればちゃんと南からも見えていたが、トンネルでは見えないからだ。
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 高さは60メートルほどの細い岬は、ケータイ用のものと思われるアンテナ塔を載せ、トンネルの山から北東に向けて突き出ている。
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 ここで断崖は終わり、砂浜がちょっとだけ広がり、その向こうには集落が見えてくる。
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 ここが手の集落である。“て”ってぇのもおもしろい地名だが、誰も知らない何もわからないということなのか、やっぱりなんの情報もない。
 ただ、さすがに“て”っ言うだけじゃ言いにくいしわかりにくかろうというので、地元の知恵者がここは“手の浦”と称することにしようと…。
 かどうかはわからないが、とにかくここはバス停の名は“手の浦”、海水浴場の名も“手の浦海水浴場”となっております。
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 予備知識を事前に仕入れることをまったくしないでうろうろしているものだから、うろうろしているうちにだんだんとわかってくることがある。
 元比田へ行くときに乗った敦賀コミュニティバスには、“東浦線”という路線名がついていたが、これは別に東浦というところがあるわけではなく、敦賀湾の東岸を総称して東浦と言っていたかららしい。
 では、敦賀湾の半島側は西浦なのだから、ここを走るバス路線は“西浦線”かといえばそうではない。古い神社と集落のひとつから“常宮線”となっていた。このことからも、半島東岸の西浦一帯で、常宮が重きをなしていたことが想像できる。
 トンネルの銘板の文字を書いたこどもたちの小学校は、常宮と西浦というわけですねえ。ところが、この両校とも平成27年度いっぱいで休校になっている。西浦中学校というのもあったのだが、これは小学校よりも1年早く休校になった。
 西浦のこどもたちは、常宮線のバスでなのかスクールバスでなのか、半島付け根付近の学校まで通っているのだろう。ここにもまた、全国の町から遠く外れた岬を訪ねて行くと、あちこちで展開されていることと同じことがあった。
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 西浦から西にかけては、若狭湾国定公園が始まる。景色の美しい海岸線にある海水浴場は、シーズンにはたくさんの人がやってくる。手の浦海水浴場もそれなりではあろうが、やはり色ヶ浜の人の多さにはかなわない。
 同じバスでも、数組の若い人たちが、色ヶ浜に行くために乗り合わせていた。どうして行き先がわかるのか? だって、敦賀駅ののりばでごちゃごちゃ言ってたり、運転手に聞きにきたりしてるから…。
 そうそう、この乗ったバスは、そうした海水浴客のために増発された、夏季だけの臨時便だった。
 手の浦の海から、ずっと奥のほうに見える島は色ヶ浜(色浜)の水島。
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 鷲崎の北で並んでいる手も色ヶ浜も小さな集落で、西浦海岸ではとくに港に適しているとも言えない。だが、そこだけが山が開け、平坦とは言えないまでも、傾斜が緩くなったスロープを控えている。それがここにそれぞれ集落ができた理由だろう。
 しかし、どちらも川はないので、天水に頼っていたのだろうか。
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 鷲崎から西へ、半島の脊梁となっている尾根には、敦賀半島最高峰の西方が岳(764メートル)がある。背後の山が蓄えた水は、どこかで清水や井戸になって、集落の人々の暮らしを支えてきたのだろう。
 鷲崎や手の浦からまたずっと東のほうに湾を横断してみると、東浦の松ヶ崎や黒崎がそこにはある。よほどの水飢饉ともなれば、東浦の川から汲んだ水を舟で運んだりしたこともあったかもしれない。
 こういう半島の暮らしは、そういうものだったろう。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度42分19.38秒 136度2分36.86秒
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dendenmushi.gif北越地方(2016/07/18 訪問)

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タグ:福井県
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1409 小崎=敦賀市沓(福井県)気比神宮と一対の常宮神社もある海岸線を走りながら眺める沓の先に飛び出た小崎 [岬めぐり]

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 縄間(のうま)まで走ってきた県道33号線は、西へ折れて馬背峠トンネルへ行ってしまうので、ここから先、敦賀半島東岸を北上する道は、県道141号線となる。
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 常宮(じょうぐう)に入ると、海岸のそばにこんもりとした森が道路にかぶさってくる。ここが常宮神社。この神社は、実は昔は気比神宮と一対で遇されていたこともあり、本宮・摂社、上社・下社の親子関係でなかなかの由緒があるらしい。
 伝説によると、仲哀天皇と神功皇后が気比に詣でて三韓征伐にいくときに、皇后だけはなおこの常宮に留まって外征の計画を練ったという。集落と神社の名になっている「常宮」の読み方だが、“つねみや”ではなくて音読みである。古くは訓で“つねみや”と読んでいたらしいが、それも神功皇后の神託(つねに宮居し…)にちなんでの命名だった。それが、後世に音読みに変わったらしい。
 この神社が安産の神としても信仰されているのは、神功皇后がこの常宮で腹帯を付け、遠征中の筑紫で応神天皇を出産したからだという。こうした伝説がここに残るのは、先にもちょこちょこ記してきた、敦賀湾沿岸の古墳群とも無関係であるとは思えない。そして、この神社の奥にも、古墳時代後期の横穴群があるという。
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 気比神宮が海に近いのも、理由があってもことだろう。その前の海は敦賀の津であったし、常宮神社の前の入江も船を寄せ錨を下ろすところだったのだろう。
 この神社へも、それからずっと長い間、海岸伝いにというよりも、船を寄せてくるという形でのアクセスのほうが、陸路よりもはるかに多かったのではないか。
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 縄間や常宮の海岸にある桟橋状の構築物は、名子のとは違って、ずっと本格的である。これは海水浴客のため、とは言えそうにない。
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 海からやってくる人が多いのに、この付近の海岸はずっと砂浜で、港もない。そのために、たくさんの桟橋がつくられるようになったので、名子とはいささか様子が違うのも、そう考えれば納得がいく。
 例によって、自分勝手な御託を並べております。「そりゃアンタちがうんだよ」といったことをご存じの方があれば、ご教示いただければありがたい。
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 常宮の北が沓という集落で、ここもなんでこんな名前なのか知りたくなるが、よくわからない。
 小崎のある小山が、半島からぽこんと飛び出た形になっており、上から見れば沓(くつ)のように見えるから…というのはどうだろう。ただ、上から見る方法は、神様ならもっていただろうが…。
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 128メートルのピークをもつ小島を、むりやり半島にくっつけたようになっているが、この周囲はこの北の鷲崎までずっと断崖に囲まれていて、人家も何もない地域が続く。
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 小崎の出っ張りのところだけ、またもっと小さな小山がくっついているように見える。
 長い海岸線を弓なりに走ると、景色も小崎の形もちょっとずつ変わっていく。だが、変わらないのは、対岸で目立っている火力発電所の建物である。その左が田結崎で、セメント工場を挟んで右側に鴎ヶ崎が位置するわけだが、なんとなくわかる。
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 沓の集落を過ぎると、道はバイパスのような最近開かれたような道路に入り、その先にはこれもまたまだ白さを残すトンネルが現れる。
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 鷲崎トンネル。このトンネルとバイパスは2015年に開通したが、原子力防災道路(身も蓋もなく言えば、原発に事故が起こったというときに、避難するための道路)としてその建設費は、全額日本原電の寄付によるものらしい。
 原電? そう、原発です。なにしろ、ここは福井県も西の端。いよいよ、日本有数の原発銀座に入ろうとしているところですよ。
 そしてそして、“沓”の向こうにあるのは“手”です。

▼国土地理院 「地理院地図」
35度41分29.45秒 136度2分37.56秒
kosakiM-1.jpg
dendenmushi.gif北越地方(2016/07/18 訪問)

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