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1441 勝澗岬・ナカハマ岬=奥尻郡奥尻町字湯浜(北海道)見えない岬もひとまとめにして島一周の輪を閉じる [岬めぐり]

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 このあたりのことは、奥尻島の岬めぐりの最初で、「1425 北国岬の項」にも書いている。島の北から逆時計回りと考えるとすれば、そこに着目しておかなければならなかったからだ。
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 これで島をひとめぐりして、時計で言うとここ11時付近につながったわけだ。だが、ここから最初の岬としてあげた北国岬との間には、西へ、そして南へといくつもの岬がある。そして、それらは全部道もなく、行けない岬なのだ。すでに書いたことと一部ダブリ気味にはなるが、ここで一周の輪を閉じておかなければならない。
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 稲穂岬より西の岬には、まず前項の滝ノ澗岬があり、そこから西南方向に4.7キロ直線を引いたところにあるのが勝澗岬となる。道はないし、バスも行かないので、そこは野名前(海栗前)から眺めるだけだ。
 ガロ川のほかに大岩生川という島では大きな流れが注ぐ海岸には、遠目に見てもわかるほど、白っぽい石の塊がゴロゴロと、まるで並べ敷き詰めたようにある。
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 滝ノ澗岬と勝澗岬の間は、50〜100メートルくらいの段丘が続き、地図で見ると3つくらいの緩い膨らみが数えられるが、それらは無名で、その先にある勝澗岬の大きな膨らみと、その周辺の岩礁地帯で突出している岩島が並んで沖に向かって伸びているのが肉眼でもしっかりと確認できる。
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 勝澗岬の南の山塊のなかで、ひときわ高く飛び出ているのが、標高427メートルの勝澗山であろう。
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 地図では勝澗岬の1.5キロ西に続くのが湯ノ岬という岩の出っ張りだが、これは海栗前の港からは勝澗岬の陰になって見えない。稲穂岬からだと見えている可能性もあるが、ちょっと遠すぎて、こういう内側にある出っ張りは確認できない。
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 湯ノ岬から西北側に650メートルのところには、ナカハマ岬がある。
 これは、40〜50メートルの立岩の大岩壁が、柱を立てたように見えている。この岬の先にも岩島が連なっていて、遠目にもわかる。
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 ここもなかなかの奇景で、アクセスさえよければ、立派な観光ポイントになるようなところである。残念ながら、そこには船でも寄せる以外に近くに行く方法がない。
 ところが、このナカハマ岬の向こう側、西側の入江に面した海岸には、地理院地図では一軒だけ四角い建物の記号が記されている。そして、その入江には先の「勝ノ澗」に続いて、「美ノ歌」という使われなくなった小字名が表記されている。
 この付近は現在の字名では奥尻町字湯浜になっており、この湯ノ浜と東の稲穂との境は、大岩生川を境界線として分かれている。
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 ナカハマ岬の大岩柱の向こう側には岩島のように、小山のように見える出っ張りがあるのだが、これがナカハマ岬の西南西1.15キロにある磯谷岬の一部なのか、それともそれはまだナカハマ岬の一部なのか、遠望では判断がつきかなねる。
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 磯谷岬から南南西に730メートル下ったところが、蚊柱(わしら)岬である。これも、幌内からも見えなかった。
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 これで、勝澗岬・ナカハマ岬以外の、見えない岬は、湯ノ岬、磯谷岬、蚊柱岬の3つを数える。
 そして、北国岬から始まった島の一周の輪は、これで連結ということにしておこう。
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▼国土地理院 「地理院地図」
42度13分18.58秒 139度28分28.21秒 42度13分3.48秒 139度26分56.91秒
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1440 滝ノ澗岬=奥尻郡奥尻町字稲穂(北海道)“海栗前”では読めんじゃろと北回り町有バスの終点は“野名前”と変換 [岬めぐり]

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 東を望めば帆越岬や尾花岬、北を望めばせたな町と島牧村の境界にあたる茂津多岬が眺められる最北端稲穂岬。そこから、西を見るとどうなるだろうかといえば、島の北辺を描くそこからの海岸線は、西から少し南に下りながら、およそ12キロ以上にわたって伸びている。
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 バスが走るのは、さいの河原から稲穂の集落を経て終点の野名前までの間で、その海岸線のうちの手前2.5キロだけであるし、道路も野名前から先は山のなかに入っていくので、海岸線は無人地帯が延々と続くことになる。
 その海岸でいちばん東に位置するのが滝ノ澗岬である。
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 実はこの岬名には、ちょっと困った。ここでは北海道全域でほかにも多く岬名にでてくる“澗”の字にしてあるが、地理院地図では“潤”という字になっているからだ。“うるう”というのも意味的にはあり得るのだが、さてどうしたものだろう。お上に従う従順な日本国民のひとりとしては、国土地理院に逆らうのもいささか心苦しいのだが、これまでの流れとして、取り巻く空気として、ここはやはり“澗”でいくことにした。
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 同じような名前に、余市に“滝ノ澗ノ岬”があり、“滝ノ澗トンネル”というのもあるし、その他“澗”の岬や地名は多いことは、前にもふれた。だが、“潤”というのは、ほかでも記憶がなく、すぐに思い浮かばない。
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 北回りのバスの終点は、野名前というところで、道路脇に建物が並ぶ静かな集落がそこで終わる。この読みはそのまんま“のなまえ”なのだが、地理院地図の字表記は“海栗前”としている。これが、元々の正しい名前なのであろう。バス停は読みやすいように、という配慮で変換されたものだろう。
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 “海栗”とは、ウニのことであることは明白だが、これを念のため“さくらばな”のおばさんに確認してみると、その通りだと言って、勘太浜や東風泊など次々に島の地名をあげながら、地名にはみんなちゃんと意味があるんだから…と熱を込めて話してくれた。
 さくらばな(これがおばさんの名前)さんによると、海栗前の海岸にはかつてはウニがごろごろとあったのだという。事実、今でも堤防を歩いていると、そこここにウニの殻が転がっている。カラスに食べられてしまった残骸であろうか。
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 滝ノ澗岬は、海栗前の港から西へ850メートルのところに飛び出ている岩と岩礁の岬である。
 崖は20メートルもないくらいの低さで、先端の部分以外はみんな緑で覆われている。だが、その海岸線には港の岸壁からすぐに始まる岩だらけの磯が、ずっとこの先見える範囲のすべてにわたって続いているようだ。
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 その岩の磯は、水がきれいで、透き通って見える。これならウニも見つけやすいかも…。
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 海栗前からは滝ノ澗岬の陰になって見えないのだが、岬を回り込んだところには地理院地図では名前のついていない、島では比較的長い川が岩の間に流れ込んでおり、その西にはガロ川というそれよりは少し短い川がある。その中間の海岸にはポロ島という岩の出っ張りがあり、その上の斜面には“滝ノ澗”という字名が残っている。
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 稲穂から西へは無人地帯と書いたが、地図をよくよく見ると、滝ノ澗岬の手前から山に入っていく道の脇には、ちらほらと建物の四角い表示があった。山の中の球浦開拓を別にしても、まったくの無人地帯ではないらしい。
 岬の名や字地名に“滝”の字を残しているのだから、きっとどこかに滝もあるのだろう。
 そう思って、二本の川を地図で辿っては見たが、滝を示す記号は見当たらない。だが、西側で岬の東裾付近で海に流れ込んでいる無名の川の河口付近では、斜面がえぐられた岩崖があり、その上流にそれらしい黒い線もあるが、滝の記号にはなっていない。だが、きっとこれは滝なのだろう。
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 この川の右岸にあたる山の斜面には、海まで続く破線の道が描かれている。ほんとうのことを言えば、「でんでんむしの岬めぐり」も、こういうところまで歩いてみたい。そうすれば、おそらく滝も発見できるだろう。そして岩がゴロゴロとあるような丸い記号で埋め尽くされた海岸に降りて、滝ノ澗岬も西側から眺めてみたい。
 そんなことも考えてはみるが、やはりそこまでは徹底できない。
 そこでまあ、こんなところでテキトウにお茶を濁しているわけなんですが…。
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 海栗前から北東の方向を眺めると、稲穂岬の賽の河原が横から眺められる。
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 実際の行動は、集落のはずれまで行って一休みして時間調整した折り返しのバスに乗って、さいの河原まで戻り、そこで次のバスが来るまでを過ごして引き返した。

▼国土地理院 「地理院地図」
42度14分0.97秒 139度31分39.79秒
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1439 稲穂岬=奥尻郡奥尻町字稲穂(北海道)島の最北端の岬は“霊場賽の河原”で崩れた石積みが一面を覆っている [岬めぐり]

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 バス停では勘太浜の次の停留所が“さいの河原”で、バス停の上には稲穂岬灯台があり、道路から下って低く刃物かなにかのように突出した先が稲穂岬である。ここが島の最北端にあたるのだが、最南端の青苗岬も、似たような地形だった。
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 その大きさは、灯台から岬の先端までの距離でいうと、青苗岬で475メートルだったが、稲穂岬では620メートルあり、灯台部分の横幅も370とこちらのほうが青苗より100メートル長い。
 青苗岬の沖には室津島があったが、稲穂岬の周辺は岩礁が取り巻いていて、ところどころでその頭を海面上に出している。
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 青苗の灯台は赤白のダンダラで、稲穂の灯台は黒白のダンダラ。どちらも本体は四角い。青苗灯台は震災で倒れたが、稲穂灯台はそういう情報はない。燈光会も北の離島までは手が回らないのか、ここにも看板はなかった。
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 灯台というのは、もともと観光用ではないから、やってくる外来者にサービスする義務はないのだが、だいたいにおいて、石垣で厳重に囲ってフェンスをめぐらし、敷地内への立ち入りを拒否している。そのため、展望を求めて灯台に登ってくる人も、いくつかの例外はあるもののたいていは期待はずれに終わる。稲穂岬灯台も、ここから岬を一望に見下ろすというようには配慮されていないので、ここから岬を見ることはできない。
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 稲穂岬灯台では、なにやら樋のような構築物が灯台と後方の鉄塔とを結んでいるが、なんにためのものか見当もつかない。ただの配線ケーブルにしては大げさだし…。
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 バス道路がこの先の稲穂に向かってヘアピンカーブを曲がるところには、食堂の看板と幟が立っていて、そこから稲穂岬に降りていく。
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 稲穂岬というバス停名はなく、“さいの河原”となっているが、下りの道でもまず案内されるのは、大きな垂木に彫り込まれた“霊場賽の河原”の文字である。
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 この岬先端には、広い石積みが広がっているが、そのほとんどは崩れるか崩れかかっている。ここは海難犠牲者や水難事故幼少死亡者を“懇霊”する地なのだ。例の武田信広の一行が嵐に遭遇して奥尻島に避難し、三平汁を馳走されたときに、「偶然その所在を知って懇ろに法要された」(案内板)というから、500年以上も前から、ここはそういう霊場であったわけだ。
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 明治の半ば頃になって、島の人がここに地蔵堂を建て、以来例年定例的に法要が営まれて、霊場の地の歴史を刻んできたわけだ。
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 それもあってか、この海に突出した平地には堂宇のほかにも数軒の人家が集まっていたが、それらはことごとく津波に押し流された。この点も青苗と同じである。
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 地蔵堂の手前に、コンクリートの四角い建物があるが、これはその震災に襲われる直前に完成した公衆トイレで、津波が引いた跡に残ったのはこのトイレだけだった。
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 そう語ってくれたのは、地蔵堂から少し離れてぽつんと一軒だけ建っている土産物屋兼食堂のおばさんである。お揃いのエプロンをした数人の女性のなかで仕切っているが、そのおばさんで、主人は漁師なので自分はこの“北の岬さくらばな”という店をやっている。
 海鮮バーベキュウなどのようなものもあるらしいし、でんでんむしが着いたときには観光バスが1台停まっていたが、立地からみると観光客以外はまずやってこないだろう。
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 ウニ丼をいただいた後で、帰りのバスを待つ間、しばらく展望台のうえから岬を見下ろし観察していたが、それでも入れ替わり立ち代り、車でやってきてはまた帰っていく。赤いオープンカーはてっきりカップルかと思えば、それがおじさん一人。
 その店の前はバックネットが張られた野球場(ソフトボール)になっていて、その向こうには屋根を付けた相撲の土俵もあった。
 震災後は、町がそういう施設を設けているのだろう。
 奥尻島には奥尻三大祭と呼ばれる祭り行事がある。島の最南端青苗岬沖合にある「室津島」にちなんで航海の安全と大漁を祈願する「室津祭」。町のシンボル「なべつる岩」にちなんだ観光祭と産業祭を兼ねる島内最大のイベント「なべつる祭」。そして、道南五霊場のひとつである島の北端稲穂岬の慰霊の地「賽の河原」での法要や供養のため行事「賽の河原祭」で、このときには歌謡ショーに子供相撲やソフトボール大会などが催される。
 それらが、6・7・8の夏の間に集中してあるのだ。北の岬が賑わうのは、毎年6月の一度だけなのだろう。
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 稲穂岬から東を見ると、檜山の山並みが大きく高く波打っている。ここでせたなへ向かうフェリーを見送っていたわけだが、赤いオープンカーの右手から“アヴローラおくしり”がやってくる。その向こう岸はせたな町大成区の帆越岬の付近であろう。
 そして、中央付近に大岩壁が続いているが、これがせたな町北檜山区の太田トンネルが抜けている尾花岬のあたりになる。雲に隠れていたがその後ろで最高峰は毛無山。
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▼国土地理院 「地理院地図」
42度15分8.56秒 139度33分29.63秒
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1438 崖ノ岬=奥尻郡奥尻町字宮津(北海道)遠くからも白く見えていた崖はのり面がブロックで覆われていた [岬めぐり]

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 古い字名で今は消えてしまったもので、場所がよくわからなかったのに「茶津」というのがあったが、それは弁天岬の北、二本の短い川が注ぐ宮津漁港の辺りを指す地名であった。川のひとつの名は茶津川というらしい。
 古い資料を渉猟しているうちに、それがわかったのだが、茶津層という凝灰岩砂岩(砂と粘土が固結し火山砕屑質の岩屑を多く含む)および頁岩(けつがん=薄く割れやすい泥板岩で本の頁をめくるような剥離性あり)、凝塊角礫岩(直径32ミリ以上の火山岩塊と火山灰からなる)などからなる中新世の地層が広がっている。
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 遠く南の赤石岬からも見えていた白く切り立った崖ノ岬も、その茶津層のなかにある。
 白く見えていたのは、岩ではなくて、崩落防止のために崖の全域にわたって四角いブロックを貼り付けていて、それが白く見えていたのだ。
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 崖ノ岬というのは、岬が主ではなく、崖が主人公である。岬の海岸には岩礁と岩場も少しあるが、ごくゆるーく道がカーブしている。崖のほうは50メートルくらいの高さがあり、垂直とはいえないものの、かなり急角度に立ち上がっている。
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 コンクリートブロックで覆われてしまったので、今は見ることができないが、古い資料によると火山の砕屑物が堆積し固結してできた火砕岩のなかに、黒っぽい玄武岩の岩脈が筋をつくって貫入していたという。
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 今、その火山がどこなのかを考えるのは、おそらく愚というものなのだろうが、こうした火山の痕跡は地形・地質となって北海道南西部にもたくさんある。比較的近い時代の火山活動として知られているのは、奥尻島から南南西80キロにある渡島大島(松前町)になるのだろう。だが、それ以前からも、比較的浅い海の海底火山の爆発がたくさんあったのではないかと想像される。
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 海底の地形をみると、対岸のせたな付近から奥尻島を取り込むようにして棚が張り出しているらしい。本島とは海の底で地続きだったと考えてよい。奥尻島から先、西の海底は深く切れ込んで落ちていく。
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 急な崖の下を走る道路で、落石や崩落の危険性があるところでは、トンネルを掘るほどの山もない場合、覆道が設けられる。これは、半分トンネルのようなものだが、崖ノ岬の北にも、宮津1号覆道・宮津2号覆道という名があるふたつの覆道が続いてある。
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 崖ノ岬から覆道を抜けて、勘太浜南にある港付近まで、およそ1キロ弱くらいの間続く急崖の上は、海岸段丘というべき緩傾斜地が広がっていて、それは勘太浜の集落から稲穂へと続いている。
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 勘太浜は、三平汁の発祥に絡んでなにかあったように記憶していたが、確認のため調べてみても、どうもそういう証拠が出てこない。あれは、なにかと混戦した思い違いだったのか。
 でんでんむしのような西日本の人間にとっては、あまり馴染みのない食べ物ではあるが、名前だけは全国的によく知られている。北海道も主に渡島・檜山地方に伝わる郷土料理だが、奥尻町ではこの島こそが三平汁の元祖だとして、かなり本気で「奥尻島元祖『三平汁』研究会」なるものを発足させている。
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 もちろん、島の名物として定着させ、観光振興や地産地消にも役立てようとしうことだろうが、なにしろ、“「三平汁」に関するさまざまな説や言い伝え、関係資料、はては噂話などを整理、調査、研究し、「三平汁発祥の地が奥尻島」、「奥尻島の三平汁が元祖」であることを立証していく”というのだから熱がこもっている。
 なにごとによらず、ものの起源だとか由来だという話になると、諸説紛々として収拾がつかないことも多いのだが、実はこの「三平汁の由来」も、その見本のようなものだ。
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 いちばん基本的なところは「斉藤三平」という人がその創始者だということになっているのだが、その人はというと、南部藩家臣であったりいや松前藩であったり、いやいやそれは島の漁師だったという説まである。漁師が「斉藤三平」という名前を持っているというところからしてすでに怪しいが、その時代というのが、1454(享徳3)年で、松前藩の始祖・武田信広が蝦夷地に向かう途中で嵐にあい奥尻島に漂着した、とする。このときに武田さんに塩蔵ニシンと貯蔵野菜の煮込み汁を作ってあげたのが三平さんだったという。
 ところが、そもそもその人物がいた江戸期以前から、この地方では食されていたという説も出てきて、これまで蔓延していた斉藤三平説は、いささか旗色が怪しくなってきた。
 そんなわけだから、奥尻町には「最初に結論ありき」ではなくて、“研究”を推し進めてもらいたい、と思うわけであります。
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▼国土地理院 「地理院地図」
42度13分37.17秒 139度33分35.35秒
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1437 弁天岬=奥尻郡奥尻町字宮津(北海道)“バスセンター”から稲穂方面行き町有バスに乗って北へ向かうと… [岬めぐり]

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 奥尻のフェリー発着場は、奥尻市街よりも北に外れていて、そこには岸壁にフェリー関連の建物がひとつあるだけで、“バスセンター”と町有バスの時刻表にあるところは、岸壁の端にある駐車場の隅っこのことだった。
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 そこには、中小二台の町有バスが停まって、発車時刻を待っている。中型のほうのバスが青苗から神威脇まで行く便で、小型バスのほうが稲穂方面、野名前まで行く便である。それぞれ折り返し便で、またここに戻ってくることになっている。
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 町有だから運転手さんも、町の職員なのか。中型のほうは女性、小型のほうは男性だったが、当然、観光客以外の島の人とはみんな顔見知りで、毎日乗る中学生や高校生など、どこで降りるかも何も言わなくても意思が通じている。ピンポンと鳴らないのにバスが停まったなと思うと、のそのそと後ろのほうから降りてくる。男の子は黙ったまま降りていくのが多いが、なかには挨拶をしていく子もいる。
 これが島のおばさんとなると、なにやら会話もあるが、聞いていても半分もわからない。津軽弁が入ってきていると知って納得した。津軽弁は、なにしゃべっているのか、まったくわからない。
 南回りを運転していた女性運転手さんによると、この日は休日だったが、それでもこんなに島外のお客さんが多いのはめずらしい、という。確かに島以外からの観光客らしいのは、でんでんむし以外にも数人いたけど…。
 奥尻島には、小学校と中学校が、青苗と奥尻にそれぞれ2校ずつあるが、このうち中学校のほうは統合されて、赤石岬の上にある奥尻高校の隣に移る計画らしい。その高校も、“町立高校”になるようで、それらは28年度中のことらしい。
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 泉谷しげるのサインが車体横中央に大きく描かれた小型バスは、運転手さんの話だとスクールバスにも使われているという。なぜ泉谷しげるなのか。
 それは、彼の支援活動による募金で、このバスを購入したからなのではなかろうか。あるいは、その支援に感謝する町の意思表示なのかもしれない。 
 北海道出身の泉谷が、1993年に東京で始めた奥尻島救済キャンペーン「一人フォーク・ゲリラ」と題した路上チャリティーライブは、大きなインパクトを与え、他のアーチストなどをも刺激したが、本人自身がこれを契機として以後、雲仙普賢岳噴火災害、阪神・淡路大震災救済、宮崎口蹄疫被害復興支援、東日本大震災支援チャリティー、福島県各地の避難所めぐり、そして日本全国の地域活性イベントへと、その活動を続けることになるのだ。
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 そういう記念すべきバスに、町が自称する“バスセンター”から乗り込んで、今度は北へ向かう。こちらの路線は乗客はでんでんむし一人だけ。バスは、仏沢、球浦、東風泊(やませどまり)を過ぎると、大きな坂道を登る。その坂を登ったところに奥尻小学校と、その日の宿があるのだが、すぐにはそこで降りない。
 この日の行程は、バスダイヤの都合を考えて、まずフェリー待合室のロッカーに荷物をおいて、北回り路線の終点の野名前まで行く。そこから折り返してさいの河原で降り、ここで次の便でバスセンターに戻り、またの折り返し便で奥尻小学校前の民宿に泊まる。そういう計画になった。
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 これも、当初考えていたせたな港から奥尻へ往復する計画での行程とは異なるわけだ。もう、函館本線・室蘭本線は復旧したのだろうか。だが、それもせたなルートを放棄した今となっては関係がない。
 奥尻小学校は、東海岸の北寄り、奥尻中心街からは少し遠い宮津にある。島の北から通う子と青苗小学校の位置関係から、かつての宮津小学校を統合して奥尻小学校にしたらしい。
 なぜそう思ったかというと、バスの時刻表では“奥尻小学校”とバス停名はなっているが、乗って走っているバスの車内に流れるアナウンスは“宮津小学校”となっていたからである。運転手さんに確認すると「ああ、テープまで直せないんですよ」と言う。
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 小学校を過ぎると、坂は下りに向かい、その先に赤い屋根の建物が見えてくる。これが宮津弁天宮。ここが弁天岬なのだ。その海の先には、瀬棚の山と岬が見えてくる。
 弁天宮を載っけた小山には、バスの走る道路からも階段を降りて行けそうな感じもするが、どうやらここは深く切れこんだ鞍部になっていて、弁天宮に行くには港からの別の道から登るのがメインのようだ。
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 岬はこの小さな丸い小山の下で、それは帰りに北から南に向かって走るバスの車窓からでないと見えない。下に鳥居があるのがわかるが、ここから急斜面を164段の階段で登ると弁天さん。
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 ここに弁天さんを祭ったのは、江戸時代の大漁祈願からというが、もともとからアイヌのチャシ(砦)があった。宮津という地域名も、弁天宮がある湊だからだろうと思っていたら、“ミヤツ”というのはアイヌ語の「チャシ・コツ(砦の跡)」からきている、とある情報にはいう。ええっ、そうなの?
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 いつもこういう語源情報を見るたびに思うのだが、なんで“チャシ・コツ”が“ミヤツ”になるのか、そこんところを説明してくれる情報はないんだよね。
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▼国土地理院 「地理院地図」
42度12分36.76秒 139度33分0.67秒
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1436 鍋釣岩=奥尻郡奥尻町字奥尻(北海道)ナベのツルの岩の北には北海道に多い?“十字街”がここにも [岬めぐり]

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 古い時代、最初に人が住み着いたのは島の南部、青苗の砂丘の上に続く台地だった。が、時代が下ると、北海道本島が目の前に見える東海岸に、島の中心部は移っている。本島との往来が、あたりまえのことながら、島の生活にとってなによりも重要になっていくからであろう。
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 しかし、東海岸にも青苗のような海に面して開けた場所はない。そこで、川の流れる谷間の、狭い平地で海岸から奥へと集落は発達していく。
 それが、現在島の中心部となっている、奥尻・谷地・仏沢ということになる。役場をはじめとする官公署郵便局に学校に病院などが集まる塩釜川の流域に広がった中心街は、川筋にそって細く長く谷の奥まで続く。
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 この奥尻地区の地名が、昔は「釣懸」と言ったことは前項でふれたとおりで、この字面が島のシンボルとなっている「鍋釣岩」を表わしていたと想像できる。
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 奥尻十字街のバス停と谷地にある次のバス停である奥尻中前の、ちょうど中間の海岸に近い海の中に、このナベの取っ手(ツル)のような形をした岩はある。
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 岩と言っても高さは20メートル近いし、なによりもただの立岩ではなく、岩の中央部が大きく空いている。なかなかの奇形である。だいたいにおいて、人間の習性は珍奇希少なものを尊重したがる。当初これが島の中心部の名前を示し、現在もなお町のシンボルになっているというのは、まったく当然のことだったろう。
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 夜にはわざわざライトアップまでするほどの熱の入れようだが、この岩は当初は海岸から陸続きであったらしい。
 それが、1993年の北海道南西沖地震の震災で、海岸が沈下して海の中に立つことになってしまった。それは、厳島神社の鳥居よろしく、景観的にはずっと見栄えがするシチュエーションになったと言えるが、いいことばかりではない。震災でツルの片方の一部が崩落してしまった。
 現在、ツルの海側のほうが陸側のほうと比べると、少し細く痩せている。これもその影響であるらしい。町では、崩落部分の補強工事をしたという。
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 「鍋釣岩」というのは「ツル」が「ツリ」に変化してしまった結果としての名称のようだが、これは岬ではない。あるいは、陸続きであったときには、いくらか岬的形状を残していたかもしれないが、もともと岬ではない。岬ではないがこういうのは、無視して通過するわけにもいかない。
 それに、東海岸ではちょうどこの付近は岬欠乏地帯なので、一項目で岬扱いとする。
 それにしても、自然の造形に驚かされることは多いが、これもなかなかの傑作である。この傑作は,いったいどのようにしてできたのだろうか。それを推理してみよう。
 地底のマグマの活動は、火山で噴火するだけではなく、地中にある岩体に割れ目や隙間があるところに入り込んだりする。これを“貫入(かんにゅう)”という。そのまま、冷えて固まるので深成岩ということになる。
 マグマ由来の岩石は、その組成によって安山岩・玄武岩それに流紋岩があるが、この鍋釣岩は安山岩である。隙間や岩の弱い部分に入り込んで、そここで固まって岩脈をつくるが、貫入された岩と接した部分には、冷えて固まったときに細か目の節理を生じている。
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 それが、地殻変動で地表近くにまで運ばれてきて、さらに風化や侵食などの作用で軟らか目の周囲が取り除かれる。さらに、なんらかの理由で中央の部分が取り除かれ(この部分は安山岩ではなかった可能性もあるだろう。だから残らなかった)て、ナベのツルのような形になった…。
 節理の岩の弱い部分には、シダの仲間のようなものなど植物も生えている。
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 海岸には、展望台もあるらしいのだが、こちらは横着をしてそばまでは行かず、これはバスの車窓からと、フェリー岸壁付近からの眺めでご勘弁。
 鍋釣岩を過ぎると、奥尻十字街のバス停から奥尻の市街地を少し奥にある病院をぐるっと回ってフェリー乗り場に着く。ここが南回り路線の終点である。
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 うにまるくんも、船が着くたびに岸壁に出迎えてくれるが、その後ろにはちゃんともうひとつの島のシンボルが見えている。
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 ところで、ふと気になったのだが、“十字街”というバス停の名前。普通、“十字路”ならわかるし、全国ほかにもたくさんあるだろうが、“街”だからね。それは路(みち)ではなく、街(まち)を中心にした名称ということなのか。
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 奥尻の十字街は、あまり十字にもなっていないし街でもないと思ったが、それはバス停付近のことで、その奥にある市街地は確かに道で格子状に区切られた街だ。スナックとかの古ぼけた看板も見えたので、ここが繁華街なのだろう。
 実は、北海道には“十字街”と呼ばれる場所は、少なからずあるらしい。でんでんむしが行ったところでは、函館には十字街という市電の停留所がある。小樽には、入船十字街と奥沢十字街というこれは交差点の名前だ。余市にも、余市駅前十字街というバス停がある。
 まだ行ってはいないけどこれからいつか行くことになる留萌は、近頃鉄道の廃線が伝えられた。そこには、本町十字街というバス停がある。
 そうか! 札幌のような碁盤目の大都会にはないだろうけど、このぶんでいけば地方のちょっとした街にはもっとあちこちに“十字街”がありそうだ。といっても、ちょっとみた釧路、網走、紋別、旭川、稚内、さらには苫小牧、室蘭、千歳、帯広には見当たらなかったので…。
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1435 赤石岬=奥尻郡奥尻町字赤石(北海道)島の東海岸の真ん中へんにやってきたのでここらで島の字地名を整理 [岬めぐり]

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 南端の青苗岬から赤石岬までは直線距離で約13キロほどで、ここまでで島の東側海岸の半分強。フェリーの発着している港にも近づいてきた。
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 山ヶ岬から北の海岸線を見通すと、島北部の弁天岬や崖ノ岬まで、はっきりとわかるようになる。
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 赤石岬は、コブのようになった崖の出っ張りを道路がよぎって、よっこらしょとばかりに上ってまた下るところであるが、その背景に高さ30メートルほどの丸い小山が控えている。
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 この小山の上が公園になっていて、その名も“うにまる公園”。奥尻町の名産品であるウニを模したゆるキャラの名である。
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 道路を走っているだけではわからないが、フェリーから見ると、公園には、ウニをイメージした塔のようなものがあるのがわかる。
 奥尻島の漁業は、主にウニやコンブなどの沿岸の岩場を漁場とした磯根漁業と、イカなどの漁船によるものである。かつてはあったカニ漁も、今ではそれをやる漁師がいなくなったという。また、イカやホッケも一時期は盛んだったが、機械化など外的な変動との波間に沈んでしまう。アワビは、種アワビの供給くらいで、生産地の勢いはない。
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 その公園からさらに丘を上ったところには、奥尻高校があると、道路際の標識が教えてくれる。20数人程度だという高校の卒業生は、その全員が卒業と同時に島を出て行く。島に残っても仕事がないからだ。
 高齢化は進み、限界集落も課題になる。義援金なども多く寄せられて、被災者の多くが借金なしで家を建てたと言われるが、町の財政は借金にあえいでいる。漁船などの保障も手厚く行なわれ、港湾公共事業で一時的には潤うが、将来的な展望は開けず、“水産土木栄えて水産業滅ぶ”とも言われてきた。観光客も被災前の水準には戻らない。復興は、なかなか「できた」とは言えないような、厳しい現実もあるはずだ。
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 だが、それらは町のサイトからは片鱗も見えない。
 きれいごとばかりで覆ってしまうのが、行政の広報だとは思えないのだが…。
 2016年8月現在で、男性 1,458人、女性 1,352人、合計 2,810人、世帯 1,575世帯という奥尻町は、いかにも小さい。小さいからまたできることもあるのではないか。(というのもまた、きれいごとにすぎないのだろうか。)
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 公園の下、北側を流れている烏頭(ぶし)川から北は、字地名も赤石から奥尻に変わる。
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 1872(明治2)年に島全体が奥尻郡となり、「釣懸」「赤石」「薬師」「青苗」の4つの村が置かれた。釣懸というのは、町のシンボルにもなっている“なべつる岩”にかかわる名であろうが、これが後に奥尻になっている。赤石と青苗は今もそのままだが、“薬師”というのがわからない。
 それはいったい、どこらへんのことなのだろう。
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  ( ↑ Mapionの全島図のうえにでんでんむしにおいて字地名をマッピングした。)
 1941(昭和16)年には島の字地名が改称されている。それによると、
 青苗(旧名通り) 米岡(千畳) 富里(青苗沢) 松江(薬師・初松前) 赤石(恩顧歌・赤石・富士川) 奥尻(釣懸・谷地) 宮津(茶津・東風泊) 球浦(球島) 湯浜(幌内・神威脇) 稲穂(のなまえ・菰澗・勘太浜)
 というように整理されているのだが、ここで“薬師”は弥右衛門岬のある初松前付近にあったものが、松江に統合されたことがわかる。
 つまり、最初の4つの村は、すべて島の東海岸の南部にだけ集中していた。それが、70年後には北の稲穂から南の青苗まで、島のぐるりに集落が広がっているのだ。(球浦開拓という集落だけは、例外的に山の中)
 1906(明治39)年に奥尻村として村制が敷かれ、町になったのは、1966(昭和41)年からだ。そして、現在の住居表示では奥尻町は、奥尻の北から逆時計回りで回ると、
  球浦 宮津 稲穂 湯浜 米岡 青苗 富里 松江 赤石
と9つの字になっている。
 1941年にあった字で、現在の地理院地図(旧字名を一部残して表記している唯一の地図)からも、その名が消えているのは、薬師のほか、茶津、菰澗、富士川があり、釣懸と青苗沢は川の名になっている。
 また、新たに加わっている小字名として、仏沢、滝ノ澗、藻内、砥石が拾い出される。
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1434 山ヶ岬=奥尻郡奥尻町字赤石(北海道)通りすがりに奥尻島の遺跡を町のサイトからちょっと拾ってみる… [岬めぐり]

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 大昔の移動手段で、比較的手軽でいちばん効率的で威力を発揮したのは、舟であったろう。したがって、数千年も前から奥尻島がオホーツク文化圏の西と南の端であり、かつまた本州の文化圏との交流があったというのは、決して突飛なことでもありえないことでもない。
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 そういう交流の場では、各種のことばが入り混じって使われ、人々はわりと自由に行き来をしていたのだろう。島のことばには、島の人が「むかい」という道南西部沿岸のことばが主になっていて、それに津軽弁が多く混在してくるのだという。
 それは、奥尻町のサイトの観光ページではなく、“文化・教育”のページから知ったのだが、そこにはほかにもいろいろ興味深いことが書かれていた。
 そんななかから、いくつかを拾いだしてみよう。
 まず、「青苗貝塚」について。
 
 そもそも「貝塚」って何でしょうか?
 「貝塚」とは、昔の人が食べた貝をはじめとする様々な食べかすを捨てた「ゴミ捨て場」だと、一般的に多くの方に思われています。
 でも、「青苗貝塚」は、青苗市街地ならばどこからでも望むことができる 台地(高台)に位置しています。
 本当に「ゴミ捨て場」なら、どこからでも望めるそんなに高い場所に、しかもそんな目立つ場所に設置するでしょうか。
 本当に「貝塚」=「ゴミ捨て場」なのか疑問です。
 実は「貝塚」は「ゴミ捨て場」ではなく、昔の人が食べ終えたもの、道具なら使い終えたものをほおむる「墓地」のような場所だったのです。
 昔の人たちは、貝をはじめとする生き物や道具でさえ、人間と同じように「こころ」を持つと考えられ、信じられていました。
 そうした生き物や道具をほおむり、とむらうのが「貝塚」だったのです。
 「貝塚」を「貝捨て場」と言わずに、「貝塚」と言っているのは、こうした意味があるからなのです。

 普通“貝塚”といえば大森貝塚などをすぐ連想してしまうのだが、この貝塚はずっと新しく、飛鳥時代から鎌倉時代にかけて北海道で栄えた、1000年くらい前の擦文文化のものだという。同時代、平安時代の記録によると、北の海の特産品として干しアワビとアシカの毛皮が挙げられているというが、まさしくこの貝塚からはアワビの貝殻が多く、また発掘された動物の骨のうちではアシカの骨が約9割以上に達するという。
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 そんな特徴のある貝塚の場所は、やはり青苗砂丘遺跡のなかではないかと思われるのだが、どこをみてもその遺跡も貝塚も場所を明確に示した説明がないので、結局わからないままで終わった。
 奥尻の北海道先史時代を彩る擦文文化の担い手は、縄文人の子孫であるとともに、アイヌ民族の祖先であった。そう考えても、差し支えないのだろうか。
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 また、青苗遺跡の東側の墓地からは、ガラス玉、水晶玉、水晶製切子玉、石製玉などとともに、大きな勾玉も発見されている。頭部に刻文が刻まれた丁字頭勾玉は緑色のヒスイで、その原石は新潟県糸魚川産であることがわかっている。おそらくは、古墳時代に近畿地方で使用された遺物が、古墳時代後期以降にここまで流れてきたものではないか。
 
・ChinchikoPapa さんからのコメント:
古墳時代の初期に栄えた、ヌナカワ女王のいた「越国」独自のヒスイ勾玉ですね。ヌナカワ女王は、出土物から「出雲」と親和性が高かったようで(神話のメタファーからすると同盟関係?)、近畿のヤマト政権が成立する以前か、あるいは成立後であっても関係が希薄か、あるいは出雲との関係から侵入勢力に対しては敵対していると思います。 
 
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 奥尻空港の滑走路拡幅工事にともなって発見された砥石遺跡では、4,500年くらい前の北海道最古と思われる集団墓地(600基を超える)も発見されている。このことからも、本州の人間が本州の感覚で想像するより、はるかに高度で複雑な社会生活を営む集団が、この島にも住んでいたことがわかる。
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 さてさて、山ヶ岬もどうということのない緩い道路のカーブで、海側には若干の岩場が突き出ている。長い長浜海岸の北寄りに位置するが、長浜という字名はなく、小カカリ石付近から北は全部、赤石という字名になっている。
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 バス停名は「山ヶ崎」となっている。そういえば、前項の「弥右衛門岬」も、明治の修学旅行の記録では「崎」になっていた。「岬」を「さき」と読み、その読みに「崎」の字を当てるようになったのだろうか。
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 それとも、北海道では「崎」より「岬」のほうが多いので、同調圧力が働いて、「崎」が「岬」になったのだろうか。
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1433 弥右衛門岬=奥尻郡奥尻町字松江(北海道)約8,000年前から人が暮らしていた砂丘の面影もなく弥右衛門さんも不明 [岬めぐり]

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 また人の名前の岬である。清次郎さんは書くことも出てきてなんとかなったが、弥右衛門さんについてはまったくなにもわからず、完全にお手上げ。
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 で、その前に…。
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 奥尻島の岬は、北から逆時計回りに回っているが、実際には島についてからバスで神威脇まで行き、青苗までまた引き返してそこで一泊した。青苗岬付近の集落は津波で全滅し、移転を余儀なくされているので、現在の青苗集落は南北に伸びる港の周辺と少し高くなっている港の西側になる。
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 新しくできたような家々が並ぶ町並みのなかにある、素泊まり専門の宿に泊まり、翌日の早朝に町を歩いて群来岬や青苗岬へ行った。津波館は開館までに時間がありすぎ、バスの時間と合わないので、見学はできず。
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 漁港には、避難設備のつもりかなにかのような大きなテラスが設けられているが、工事中とかで入ることができない。そこから港越しに見ると弥右衛門岬の端もちょっとだけ見える。港の北の端には、地図でみると砂浜も残っているが、青苗の北部は昔から砂丘が発達していた場所らしい。“青苗砂丘遺跡”というのもあるようだし、その証言記録が見つかった。
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 奥尻町教育委員会が発行している「ふるさと奥尻通信」(平成28年2月29日)によると、1901(明治34)年に奥尻島の対岸、の久遠小学校(せたな町大成区)の奥尻島修学旅行を紹介している。
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 なんと、明治のこの小学校の修学旅行はすごい。久遠小学校は奥尻島を徒歩で全周するという計画を立て、実行している。それはまず、久遠港から汽船で昼過ぎに釣懸(現奥尻)に到着、上陸後青苗へ向けて島の東海岸を徒歩で南下している。その記録の一部はこう言う。
 
 赤石、長浜海岸を通過して、薬師(現松江)へ。今のような道路もなく、原始林を抜ける様は、あたかもジャングルを行軍するかのようだったでしょう。途中、大かかり石(海上に顔を出した岩)の前で休憩、弥右衛門崎を越えて初松前の集落に至ります。ここから南端の青苗までは砂丘が続き、歩きにくい中ようやく青苗小に到着して厨川校長以下、村民らの盛大な歓迎を受けました。初日の行程は大変過酷であり、就寝した頃には夜明け前の3時になっていたのでした。(北海道教育雑誌第102号所収)

 ここでは“弥右衛門崎”と言っており、初松前というのが、弥右衛門岬の南西に位置する集落で、港から見える海岸線がそこである。「ここから南端の青苗までは砂丘が続き、歩きにくい中…」というのだから道もなく広い砂丘が広がっていたことがわかる。
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 なるほど、砂丘かあ。南に鳥のくちばしのように飛び出たところとその北に続く丘が、全部砂丘だったのは、そう大昔のことでもないらしい。
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 だが、ずっとずっと大昔から、この砂丘の端の上に、住居を構えてきた人間がいた。
 「文化財オンライン」の「青苗砂丘遺跡」の項は、以下のように記している。
 
 青苗砂丘遺跡は、発掘調査によりオホーツク文化期の住居跡や墓が確認されたことから、これまで、主にサハリン島南部や道北・道東沿岸部に分布するとされていたオホーツク文化が日本海を南下して奥尻島まで及んでいたことを示す貴重な遺跡です。また、土師器や碧玉製管玉など本州から運ばれた遺物も出土していることから、この遺跡において北方と南方の文化が交流していたこともわかります。

 時代は約8,000年前(縄文時代初期)の遺跡だが、本州本土でいう縄文時代とはちょっと異なり、オホーツク文化圏の南限・西限にあたる。
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 土器や石器はもちろん、他に類を見ない石を組んだ炉の跡が発見されている。氷河期が終わって、やっと人間の活動も盛んなになり始めようかという時代、砂丘の住居に炉をつくり、火をおこしてそれを絶やさずに、営みを続けけてきた人々が偲ばれるが、その遺跡の位置は、記録からも地図からも特定できなかった。
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 ただ、道路がカーブするだけの弥右衛門岬から、北に向かって次の山ヶ岬までは6.5キロの長い海岸線が続く。その名も長浜というこの一帯は、御影石(花崗岩)がごろごろとしていて、みかげ石海岸とも呼ばれてきた。
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 そのうちの大きなのが海中から飛び出ていて、カカリ石という名もついて、地図にも明記されている。
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1432 青苗岬=奥尻郡奥尻町字青苗(北海道)島最南端の岬は広い慰霊と祈りと記念の空間になっていた [岬めぐり]

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 北海道南西沖地震は奥尻地震とも呼ばれるほど、島の被害は大きかったが、なかでもこの海に突き出た低地の青苗地区は壊滅的打撃を受けている。
 島の犠牲者の半数は青苗の人々で、津波で何度か流されたうえに火災まで起こって、流されなかった家は燃えた。
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 1993(平成5)年7月12日の夜に起こったマグニチュード7.8の地震と、藻内西方沖約15キロの海底で発生した地すべりによる津波のリアルタイム記録は、ほとんど残されていない。震度は6の烈震だったと“推定”されているのは、島には地震計がなかったためであるが、日本海側で発生した地震としては、近代で最大規模だったとされる。
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 「時空翔」の中央にある黒御影石のモニュメントは、中央上部にくぼみがある。7月12日の夕刻に海の震源地側に向かって立てば、このくぼみの中に沈んでいく夕日を見ることができるのだという。この慰霊の場には、天皇陛下の御製や奥尻島生まれの詩人 麻生直子の詩が刻まれた碑があり、それを半分囲むように犠牲者の名を記した曲面の壁が取り巻いている。
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 ひたすら国民の安寧を祈ることをもって本分としている天皇皇后両陛下は、ことあるごとに積極的に機会をつくっては被災地を訪問して人々を慰め励まし、また(戦争を含む)犠牲者の慰霊の旅を続けている。祈りそして歌を詠むという、古来の天皇の役割に徹しようとする意志も感じられるが、ここで石に刻まれていたのはこういう歌だった。

  壊れたる 建物の散る 島の浜 物焼く煙 立ちて悲しき
 
 御製の碑とモニュメントを挟んで反対側にある、麻生直子「憶えていてください」という詩碑の一節には、こうあった。
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  最初の人が板切れとともにこの磯に立ち
  銀色の魚を釣り
  野菜や穀物を育て
  ひと組の男女が結ばれ
  父となり母となり
  ながい寒さから幼な子まもり
  働くことをいとわずに築いてきた村や町
  くらしの糧をわけあってきた
  海辺の家族の
  その歳月を置き捨てずにいてください
  
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 被災直後の写真では、北の丘の端で折れて倒れていた赤白だんだらの四角い青苗岬灯台は、ちゃんと立ち直っていたが、そこから南一帯の低地にあった青苗集落は、全面的に移転し、今では「時空翔」の慰霊施設と、震災から8年後の2001年にオープンした奥尻島津波館と、広い空間をもつ公園になっている。
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 青苗岬は、その広い空間のさらに南で、低い陸地が細くすぼんで終わる全体を指しているともとれるが、厳密にはその南端であろう。
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 そこには、一本の高い白い柱が建っている。その高さは16.7メートルあるという。“徳洋記念碑”という名のそれは、1931(昭和6)年に建立され、その後の起こった二度の大震災にも耐えて残った。「洋々美徳」と記されたこの記念碑は、岬めぐりではときどき遭遇する海難救助に関するものだった。
 その海難事故があったのは1880(明治13)年だから、これもずいぶんたってから半世紀後に建てられている。青苗沖で座礁したイギリスの中国艦隊旗艦であったアイアン・デューク号の事故では、訓練のため乗艦していた有栖川宮威仁親王が青苗に上陸、島民や他国軍艦と協力して救助活動にあたった。
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 “有栖川宮威仁親王の遺徳と国境を越えた救助活動の美徳を讃えるものです”、と説明板はいうのだが、昭和6年といえば満州事変が起こり国際社会で日本は孤立を深め、北海道などでは大凶作で娘の身売りが急増していた。なぜ、そんなときにこの碑は建てられたのだろうか、という疑問が湧いてくる。
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 その青苗沖の英軍艦座礁の場所は、いったいどこだろうか。
 青苗岬の南方4キロ付近の海上には、室津島・森磯島と沖ノハッピという岩礁が地理院地図にはある。その周辺には多数の岩礁が描かれているが、それ以外にも軍艦が座礁しそうな暗礁が隠れているのだろうか。
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 室津島は、元清次郎の僧侶が断食座禅を組んだと伝説がいう岩島だが、ズームで見ると左手の島に灯台と祠があるのがわかる。
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