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1449 矢越岬=知内町字小谷石・福島町字岩部(北海道)郡と町との境界線にある岬の周辺はちょっとした秘境のようだが… [岬めぐり]

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 矢越岬はなかなかの景観といってよい。小谷石からクルーズ船も出ているらしいし、最近ではテレビでも何度か取り上げられているようだ。なので、船で行けばもっとそのそばから、形のよい岩の岬の上に神社の鳥居や灯台がのっかっているのが見えるのだろう。
 こちらは、小谷石の無名岬からの遠望のみである。そのクルーズ船から見た写真などは、たくさんネットにあるので、そちらを参照してくだされ。
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 木古内を出るお昼すぎにはまだ晴れていたお天気も、バスで南に下るうちにどんどん雲が出て広がり、小谷石ではすっかり薄暗くなるほど怪しくなってきた。
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 怪しいといえば、古い昔の記録もかなり怪しい。「知内町史」の年表は『大野土佐日記』のほかにも『北海道巡回紀行』や『松前落穂集』などいくつかの記述を抽出して併記してあるのだが、それぞれの史料でずいぶん違いがある。
 たとえば、荒木大学の没年は、前項では『大野土佐日記』によって1260(文応元)年の蝦夷蜂起によるとしていた。ところが、年表では“建長年間(文応より前です)”の蝦夷蜂起で「荒木大学頭及ヒ官吏等皆殺サレ」という『北海道巡回紀行』の記述や、1428(正長元)年の蝦夷蜂起のため「荒木大学が討ち死にした」という『松前落穂集』の記録が並べられている。
 つまり、この「知内町史」の年表のうえでは、荒木さんは都合3回死んでいることになるのだ。
 古い怪しい資料の見方・扱い方はなかなかね、悩ましくむつかしいところです。
 それに負けず劣らず怪しいのが、もちろんネット情報ですね。
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 “矢越”という名前からはまあだいたい想像できる状況はあるのだが、念のために探ってみると、「コトバンク」の「矢越岬」の項には、“日本大百科全書(ニッポニカ)の解説”として、“江戸時代に幕臣荒木大学が武運長久を祈って放った矢が大岩に突き刺さり、そこを矢越と名づけたという伝説がある”と、堂々と書いている。
 ヤヤヤ!?…ですよね、これは。あるいは同名異人がいたのかもしれないけど、ここでいう荒木大学は鎌倉時代の話で、江戸時代じゃないし幕臣でもない。いろんな情報がこんがらがっているのを、適当につなぎ合わせた結果そんな解説ができてしまったようだ。「コトバンク」も「日本大百科全書」もあまり信用ならんということですかね。
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 伝説と言えば、ここにも義経伝説はある。伝説は伝説という見本のように話はいろいろで、ひとつは“東北から逃れてきた義経が、この岬にいた妖怪に矢を放って追い払った”というもので、またひとつは“この岬周辺で大荒れの天候に見舞われ、岬に向けて矢を放ったところ、岬を越えて矢が飛んでいき、天候が回復した”というもの。
 まあ、どちらでもお好きなほうを…。
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 ほかに矢越について知内町史の年表に出てくるのは、1655(明暦元)年に“松前藩の家老蛎崎広林が矢越八幡宮を建立し弓矢を奉納。[祭神記・社掌大野重教]”とある。
 知内町のサイトでもこれを補足して、“松前家老蛎崎光林が、蝦夷蜂起による出征の際、武運長久を祈願して建立し、弓矢を奉納したと伝えられている神社で、ここより南西に見える矢越岬におかれています。”としている。ここでいう「ここ」とは、でんでんむしが矢越岬を眺めている小谷石の無名岬と同じ場所のよう(集落からは見えないので)である。
 音が同じなのでどこかで違ったのだろうが、“広”か“光”か、どっちが正しいんでしょうね。古い資料には写し間違い書き間違いも多いので、まあどうでもいいんだけど。
 知内町史の年表には、もうひとつ矢越について別の記述がある。
 1205(元久2)年の項に、“七月廿三日海上安全にして當國矢越迄無着於此處為武運長久の矢二筋さし上る…」[大野土佐日記]”とあるのだが、主語が欠落しているのでピンとこない。年号から見ると荒木大学が上陸したときのことらしいが、このときとするとその前には“舟漂流に及び、日久しくやらで、舟中の水相切らし…”という記述があるので、とても海上安全どころではなく、どうもわからない。
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 和人の感覚で矢越の漢字を当てはめたのは、後からのことであろう。別の情報によると、“矢越”は、アイヌ語で「ヤクシイ(内陸を通るところ)」が語源だという。矢とも弓とも関係がない。その音で「ヤクシイ」が「ヤコシ」に聞こえたとしてもおかしくはない。どうやらヤクシイに矢越という字と読みを当てたことから、矢に関した話が創造されたとみて間違いあるまい。
 では、アイヌ語の意味がわかれば納得かというと、多くの場合これがまた簡単にそうはいかないのでヤヤコシイ。
 ただ、この場合の(内陸を通るところ)というのは、海岸を通ることができないから…という意味なのだろうか。そうであれば、確かにそのとおりでわかりやすいし、納得もできるのだが…。
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 確かに、道路も新幹線もここを避けるようにして内陸を通っている。上磯郡知内町と松前郡福島町の境界線となる尾根が下る大きな山塊が、人を寄せつけない。断崖絶壁が連続している海からもまた、人が入り込むのは容易ではない。
 だがまた、そういうところへ入り込んで、八幡宮を建てようとした人も、この岬の上に灯台をつくろうとする人間の努力も、まことにたいしたご苦労なことである。
 1845(弘化2)年に矢越岬を踏査した松浦武四郎という人は、幕末から明治にかけて蝦夷地調査に活躍した。われわれがなにげに使っている「北海道」の名は、実はこの人が考え名付けたもので、自らの号も「北海道人」と称していた。
 1957年に点灯した矢越岬灯台は、小谷石の側からでは見えないが、反対側の南からだと遠望でも白くはっきりと見える。しかしまあ、すごいところに建てましたねえ、この灯台。
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▼国土地理院 「地理院地図」
41度31分2.17秒 140度24分31.85秒 41度31分0.73秒 140度24分29.61秒
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1448 小谷石の無名岬=知内町字小谷石(北海道)砂金の魔力が人を動かしこの地域にも人が入り込み蝦夷との抗争も… [岬めぐり]

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 小谷石のバスの終点は集落の南にあるが、ひとつ手前の滝ノ澗で降りて少し引き返す。そこには無名だが、なんとなく記録しておきたいような出っ張りがあるからだ。道路がカーブして小谷石の集落と港を抱える入江の北側で、立石と岩島のあるところは、岩礁が埋め立てられて護岸ができ、駐車場やトイレがあるスペースになっている。これができたのは、1999(平成11)年で、その名も「イカリカイ駐車公園」というのだそうだ。
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 この無名岬にそういう整備工事がわざわざ行なわれたのには、当然理由があるだろう。それは、矢越岬の展望スポットが必要という理由ではないか。
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 入江は浅い凹み程度で、深く湾曲しているわけではない。しかし、ほんのわずかの角度のズレでも、視界は大きく制限されてしまう。その奥にある集落のなかに入ってしまうと、矢越岬はもう見えなくなってしまうのだ。
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 小谷石の漁港の南側にも、ちょっと大きく張り出した岩峰があるので、集落からはその陰になる矢越岬は見えない。だから、その展望を楽しむには、集落の手前のここで足を止めなくてはならない。
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 もちろん、さらに歩を進めてその出っ張りを回りこんで行けば、もっと矢越岬には接近することができる。地図を見ると、回りこんで少し先までは建物もあり道らしきものもある。
 そこまで行ってみたいとも思ったのだが、バスの終点からそこまで歩いてまた引き返してくるには、時間が不足している。折り返しのバスが出るまでわずかしか時間がないのだ。
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 なにしろ、小谷石まで往復できる便はこれだけだから、逃すわけにはいかない。ま、そういうわけで、手前のここで降りて、折り返しのバスを捕まえることにした。そのほうが若干時間にも余裕ができる。
 道の脇から、展望台へ登る鉄製の階段ができていたが、そこまで登るほどの時間はない。小谷石には数軒の民宿もあるので、泊まることも考えてはいた。だが、矢越岬以西の行程を考えると、そういうわけにもいかない。
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 「知内町史」には、「小谷石に初めて定住したのは万右衛門・市助・惣重郎という者で入居は宝暦以前、延享・寛延の頃」という記述がある。
 延享・寛延年間といえば、1744〜1750年頃のことで、町史の年表にもたびたび出てくる『大野土佐日記』という史料が書かれたのは、その後すぐの1751(宝暦元)〜1829(文政12)年の間くらいだろうとされている。
 これがまた、“北海道最古の古文書”とかいうスゴイものらしいが、史料としてはいささかその信ぴょう性に難もあるらしい。
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 「1445 狐越岬」の項では、「金山には当たらなかったけど温泉は出た…」と書いていたが、この金に関する記述もこの史料によって「知内町史」が年表に収録されていた。実は、それによると金もまったく出なかったわけではなく、砂金などの記録がいくつかあったようだ。
 そして前述の幕府の調査で結論が出たかと思いきや、1874(明治7)年になってもお雇外国人のアメリカ人、H・S・モンローが道南から道東にかけての地質調査を行なっている。その際にも砂金の埋蔵量調査のため知内に来る、という記録も残っているから、金に対する人間の欲望はどこまでも計り知れないものがある。
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 小谷石に人が定住を始める500年以上も前から、この付近に人が入り込んでいたのも、もともとは金を探し求めてやってきたのだった。
 将軍源頼家の命によってこの地に派遣されたのが、甲斐国いはら郡領主荒木大学であったというのはなるほど甲斐の国かあ、と納得させる。だが、その荒木らの一行が、まず最初に人の近寄りがたい矢越岬を目指したというのは、どういうわけだったのだろうか。彼らは、“矢越岬から渚づたいに涌元へ行って上陸”したと『大野土佐日記』は書いているが、それは1205(元久2)年のことであったという。
 しかし、1260(文応元)年の蝦夷蜂起により、“荒木大学ほか掘り子全員が土に帰”ったと、その史料は記している。また、1457(長禄元)年には、南條季継の脇本(涌元)館が、コシャマインとの戦いで落城している。
 “蝦夷征伐”というのが、この当時北を目指した和人のキーワードであったし、それからも長くアイヌとの抗争は続くことになる。
 そして、1789(寛政元)年に道東で起こった“クナシリ・メナシの戦い”の終結をもって、和人の蝦夷支配体制が固まっていく。
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▼国土地理院 「地理院地図」
41度32分7.29秒 140度25分43.84秒
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1447 ナマコ岬=知内町字小谷石(北海道)この岬について書いている記事もほかにないだろうけど書けることもないので… [岬めぐり]

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 涌元から小谷石の間には、人家がまったくないと書いていた。したがって、涌元築港前のバス停から小谷石集落の東、滝の澗バス停の間3.8キロには、バス停がひとつしかない。ひとつでもあるのが不思議なようなものだが、そのバス停の名は“亥の子キャンプ場”。
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 ナマコ岬はそのバス停の南で、“逆くの字”型にちょっと膨らんだところである。キャンプ場がどこなのかよくわからないし地図にも記載がないが、海岸の道路脇のところか、あるいはちょうどバス停付近から一本だけ山にはいる細道があるので、それを登っていくのかもしれない。
 ナマコ岬という名も、なにも根拠なしにつくような名前ではなく、いかにも何かありそうだが、単純にナマコが獲れるところから…というようなことでいいのだろうか。
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 大方の地球上の生物に共通して言えることでもあるが、ナマコもなんでこんな生き物がいるのだろうかと不思議に思う。西洋ではカキについて同じような話が有名だが、夏目漱石は『吾輩は猫である』で、ナマコについて似たようなことを書いている。もっとも、それは名無しの猫が語る本文ではなく、「珍野苦沙彌先生虎皮下」として「在巣鴨 天道公平」なる得体のしれない人物から届いた意味不明の手紙のなかでであり、しかもフグとの合わせ技で出てくるだけだ。そこでは、「…始めて海鼠を食い出せる人は其膽力に於て敬すべく、始めて河豚を喫せる漢は其勇気に於て重んずべし。」としている。苦沙彌先生はともかく、漱石先生自身ははっきり西洋では有名な話を念頭に置いてのことだろう。
 しかし、でんでんむし的にはフグはともかくナマコはカキとともに比較的馴染みがあって、これを食べることにさほどの胆力は必要としなかった。昔からよく酢の物や大根おろしと合わせてコリコリと食べていた。たいして栄養にもなりそうでもないが、その食感や珍味を愛する食文化もおもしろいものだ。歴史的にみても、『延喜式』に載っているくらい古くからの食材であったようだ。食べていたのと同種かどうかは不明だが、潮が引いたあとの広島湾の海岸には、ネズミ色のナマコはそこらじゅうにごろごろしていた。
 それにしても、ナマコに“海鼠”という字を当てるほうにも、相当な胆力がいるのではないか。なにしろ、ネズミですからね。当て字の天才だった漱石先生も脱帽だろう。 
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 瀬戸内海の海岸では、わりとそこらにいたものだから、暖地性の生物かと思えば、北海道や青森でもよく獲られていて、乾物として利用する香港に輸出されているという。
 とりあえず、北海道にナマコ岬があってもおかしくないことはわかったが、それ以上のことはわからない。
 このナマコ岬付近の道は、岬から南は少し西に振れながらも南北に走っているが、ナマコ岬からはちょうど津軽海峡を挟んで、真東に正対して40キロ先が、下北半島の最北端、大間崎の弁天島にあたる。
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 また、南側の遠くにもうっすらと陸地の影があるが、こちらは南南西33キロ先の津軽半島の最北端、龍飛崎付近ということになる。
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 津軽海峡は国際海峡なので、ロシアや中国の船が通ってもOKなのだ。日露戦争のときには、バルチック艦隊がウラジオストクに入る航路として、津軽海峡ルートも真剣にその可能性が検討されていた。また、またもっと前に遡ると、開国以前からこの海域でのロシア船の往来がいくつもの歴史的事件事実として記録されている。当初は道東がその舞台だったが、だんだんと海峡を経て当時の行政の中心地であった松前に事件の現場は移ってくる。
 1786(寛政6)年のロシア商船による津軽海峡通過、1793(寛政5)年の大黒屋光太夫ら漂流者6名を連れてのラクスマン来航などを経て、1799(寛政11)年には幕府は松前藩の知内川以東浦河までを幕府の直轄にした。
 1811年(文化8)年にはディアナ号の艦長ゴローニンが捕縛され松前に移され監禁、続いて高田屋嘉兵衛船の拿捕などがあった。
 日米和親条約締結後、アメリカのペリー艦隊が箱館へやってくるのは、ゴローニン事件から43年後の1854(嘉永7・安政元)年である。
 はるか沖合を、大きなタンカーのような長い船が航行していた。それはどこの船だったのだろうか。
 ナマコ岬の南南西800メートルのところには、低いながら峠を越える出っ張りもあるが、そこには岬の名はついていない。その代わり、海岸の岩島には影泊島という名がつけられている。
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▼国土地理院 「地理院地図」
41度32分53.26秒 140度26分11.69秒
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1446 狐越岬=知内町字小谷石(北海道)金山には当たらなかったけど温泉は出た知内町にはふたつのトンネルがある [岬めぐり]

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 海岸からは離れた山寄りの知内町内を走り抜ける新幹線のトンネルは、都合6つもあるのだが、道路トンネルはふたつしかなく、そのふたつとも涌元から小谷石へ行く道の間にある。
 長磯岬と孤越岬の間を抜ける“しおさいトンネル”は、330メートルくらいの長さしかない。涌元漁港のところにあった“いさりびトンネル”(こちらのほうは地理院地図にも記名がない)はその半分もなかったが、どちらもトンネルの名前としてはくだけている(くだけたるトンネル名はまったく例がないわけではない。三浦半島の佐島にも同名のしおさいトンネルがある)。だいたいは地名や地域名がつけられることが多いので、決まり切った名になるのだが、このふたつのトンネルについてはちょっと違う。それは、公募で命名したからだろう。
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 “道道小谷石渡島知内停車場線トンネル名公募”は、1995(平成7)年に行なわれている。そして、“しおさいトンネル”のほうは1997(平成9)年に完成しているのだが、“いさりびトンネル”については町史の年表にその記述がない。
 トンネル名公募とトンネル完成の間には、豊浜トンネルの崩落事故(1996(平成8)年)が起こっている。これはかなり衝撃的な事故だった。この岬めぐりでもその現場を通ったことがある。また、定点観測でもアクセスが多い岬としてあげていたのが、この岬だった。
 とくに同じような断崖絶壁を掘り抜いたトンネルが多い北海道内では、他所事ではなかった。その年には、工事中の“しおさいトンネル”の前で安全祈願祭が行なわれている。この事故以降、道内のトンネルの付け替えが各所で進んでいる。
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 前述したように、涌元以南小谷石までの道路は、1964(昭和39)年の開通であるから、このトンネルはそれからおよそ30年ほどしてから開通している。ということは、それ以前には別のトンネルないし旧道があったわけだ。
 長磯岬側は見えなかったが、孤越岬側には岬を迂回する旧道があったことが、車窓からも壊れかけたガードレールなどが見える。それで、そこに道があったことを伺い知ることができる。
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 旧道は岬の尾根を回り、その先にある岩島との間をすり抜けて走っていたらしい。この旧道もすでに、地理院地図からはその痕跡もみえない。
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 孤越岬の岩島(と書いているがこれは島ではない。だが、岩山というよりは岩島のほうがなんとなくぴったりするので)の岩肌は、黄色や赤く見える崖が露出している。
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 見るからに、マグマが噴出したときに水と接触して水蒸気爆発が起こり、それが冷却されて破砕されたような形跡であるが、知内町には温泉も湯ノ里の知内温泉やこもれび温泉がある。発電所の西側山裾にあるこもれび温泉は、同名の温泉が蔵王にもあるが、知内町のはプールなども備えた健康保養センターという公営の立ち寄り湯である。そこはバスでその前に立ち寄っただけだし、湯ノ里の知内温泉のほうも福島への往復で通過しただけ。
 このふたつの温泉は東西に1キロ弱の距離があるが、町の境界線の山から海まで伸びる断層の上に並んでいるようにみえる。
 いつできたのかはよくわからない(年表から探せなかった)がこもれびのほうは比較的新しい温泉なのに対し、知内温泉のほうは古い。なにしろ、“北海道最古の歴史を持つ温泉地”というのだから…。
 その開湯は、1247年とされている。宝治元年のこの年は、北条時頼が三浦泰村を討ち果たし、三浦氏が滅亡するという宝治合戦があった年である。
 アイヌの間では知られていたのだろうが、和人で最初にこれを発見したのは、源頼家の家臣荒木某という伝承も残っているらしいが、その人物はもともとは金山を探すためにこの地の探索に入り偶然に温泉にあたってしまったということのようだ。
 金山の話は当時かなり知られていたらしく、その後も長い間さまざまな動きもあったようだが、1766(明和3)年に至って幕府が派遣した目付の点検によって、金山の利益は期待できないとの報告があり、それで決着したということになったらしい。

▼国土地理院 「地理院地図」
41度33分12.33秒 140度26分19.03秒
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1445 長磯岬=知内町字小谷石(北海道)小谷石で行き止まりになる道道531号線の涌元以南は半世紀前に開通 [岬めぐり]

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 蛇ノ鼻岬の次に現れるのは長磯岬だが、その前にちょっと追加しておくと、前項の蛇ノ鼻は涌元のほうから眺めたもので、いさりびトンネルというトンネルに入る前のことで書いていた。
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 しかし、国土地理院の地理院地図の岬名表記は、トンネルを出て東へ港を離れ、道路が90度にまた南へ向いてカーブする先の岩場につけられている。だが、この岩場は道路よりだいぶ低くて、目立つところではない。やはり岬が岬として認識されたのは、この岩場ではなくてその上に張り出した岩の崖と尾根を指してついたものであろう。
 このように、港の岸壁のすぐ隣に岬があるという例は、非常に多いが、それもまた船の出入りの目印でもあったからだろう。
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 長磯岬は、蛇ノ鼻岬のカーブを回るとすぐに見えてくる。
 細いが長い岩が突き出ているのが、その名の所以だろうか。
 そして、その長磯岬の向こう側には、もうひとつ別の岬も頭を出してくる。これは狐越岬で、このふたつの岬は、しおさいトンネルという350メートルのトンネルの北と南にある。つまり、トンネルの北側から見れば長磯岬で、南側から見れば狐越岬、ということになる。狐越岬のほうが長磯岬より大きく長いので北からは両方が見える。
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 知内町の年表によると、この涌元から南、小谷石までの道路ができたのは、1964(昭和39)年のことで、それから小谷石まで初めて路線バスが走った、とある。道道531号線が、行き止まりになる小谷石まで伸びてからは、半世紀ほどしか経っていないことになる。
 現在の住所表記では、蛇ノ鼻岬からが字小谷石になっているが、涌元から南の海岸線には人家はなく、道が終わる次の集落がバスの終点、小谷石である。
 では、道路が開通するまではどうしていたのだろうか。ムリに細い海岸伝いの道を通ったということもあるだろう。また、大方は船で往来していたのだろう。
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 知内町の西隣りにあるのは福島町だが、このふたつの町と郡を分ける境界線の南部では、岩部山から丸山と700〜800メートルの山塊が居座っていて、その尾根の南端が矢越岬となっている。
 小谷石からも矢越岬は越えられず、道もそこで行き止まりになっている。ここらが、道南の秘境たるゆえんであろう。
 海岸線が周回できないので、知内と福島を結ぶ国道228号線も、海峡を潜ってきた新幹線も、この山塊の北側で知内川が流れて尾根が切れるところを選んで通り抜けている。
 知内も涌元までは海岸に沿って平地が開けていたが、蛇ノ鼻岬からは山地にぶち当たるので、国道は知内川を渡ったところから西へ向きを変えて、知内温泉のある峠道を目指して、山を迂回している。
 そういう地理的な概念を、改めて確認しておくために、地理院地図で俯瞰してみよう。
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 この1キロ縮尺図と500メートル縮尺図では、蛇ノ鼻岬の位置表記が間違っている。この図で蛇ノ鼻岬とあるところは長磯岬であって、実際の蛇ノ鼻岬はその北側のカーブのところになる。
 町の年表では「知内町史」に、
 
「寛政2年正月2日いのこ泊り蛇の鼻の間に赤石と申処へ寄鯨」があったため、検分の役人・足軽武川七右衛門は両村の村役人の立ち会いのもとに蛇の鼻以西は福島の支配地と申し渡した…
 
との記録があるとしている。寛政2年というのは1790年で、伊能忠敬の測量隊がやってきて知内に泊まる10年前のできごとである。
 だがこの記録には、いささか不明な点、不審な点がある。
 まず、“いのこ泊り”と“赤石”の場所が、現代の地図からは探せない。赤石トンネルというのが白神岬の北東にあるが、これは離れすぎているので関係ないだろう。
 “寄鯨”というのは文字通りだろうが、それと“蛇の鼻以西は福島の支配地”となることの因果関係がわからない。なぜにそうなるのだろうか。
 それに、“以西”というよりも、“以南”というべきようにも思えるのだが…。
 この前後の記録がないのでその後どうなったのかは不明だが、このクジラがきた(あるいは漂着した?)ときには、知内と福島の境界が矢越岬から蛇ノ鼻へ大きく動いたことになってしまう。
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▼国土地理院 「地理院地図」
41度33分19.79秒 140度26分15.36秒
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番外:2017年初頭の定点観測 So-net「地域」ブログランキングと当ブログのPV比較推移と項目別「訪問者数」 [番外DB]

★恒例の定点観測(2017)
 
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 定点観測を始めてから7年になるが、So-netブログが公表している「地域」ブログ上位?(このランキングの計算式が公表されていない。なにをもってのランキングかは不明なので?つき)25のランキングも、上のほうはほとんどメンツが固定したようだ。観測を始めて以来続いているブログは8件で、でんでんむしのもこのなかに含まれる。
 今年去年新たに登場したものが5件あり、そのなかには多くの記事数をもってランキングに上がってきたものが4件もある。それらは、それまでどこか別のところ(共通テーマ)にいた(投稿更新していた)のが、「地域」に移設参入してきたものとみてよいだろうか。順番の下のほうは激戦で、入れ替わりも激しいようだし、この季節だけここにあがってくるものもある。
 データをブログ上に表示していないものも3件あるが、それ以外は「nice!」「記事数」「up」(2016/12のアップ数)の数値を、それぞれのブログから拾ってある。公開されている情報は、それくらいしかない。
 So-net で重要視されていて、ランキングの主要な要素にもなるらしい「nice!」は、その数が10万を超えるものが、リストの約半分を占める。
 「n÷記」というのは、一記事あたりの平均「nice!」数で、これが100前後からの(依存度が高い)ものは9件に及んでいる。「up」は前月2016年12月の投稿記事数。
 また、「地域」欄の◎印は、実際に「地域ブログ」の、「新着記事」と「アクセス記事」「nice!記事」の各「最新」「デイリー」のなかに登場しているものである。これも七不思議のひとつだが、◎印がないものは、記事の投稿は「地域」以外のどこか別のところであるのに、ランキングだけは「地域」になっているものを意味している。でんでんむしが秘かに“不在地主”と呼んでいるその件数も、若干の出入りはあるが数ではあまり変わらないで推移しているが、上位25件のうち地域ブログに書いていないのが15件を占める「地域ブログランキング」って、いったいなんなんだというのだろう。どうにもわからんのであります。

★「岬めぐり」ブログの季節変動?
スクリーンショット 2016-12-26 06.48.09.jpg 
 前項でも書いたが、2016年秋からは、更新回数を徐々に減らしてきているので、それによるアクセス数の落ち込みは当然あるはずでそれも明らかだ。
 けれども、それがなくてもこの「岬めぐり」ブログでは毎年夏の時期には高揚するが、それが秋風が吹くととたんにしゅんと下がってしまうという傾向があった。近年5年間のデータで、それを確認してみよう。(上のグラフ)
 「アクセス解析」の「日別 & ランキング」から、過去5年の月別の「訪問者(数)」を拾い出したグラフを見れば、例年のように9月から下り始め、2月が底をうつと、そこからまたじわじわと夏場のピークに向かって登り始める。2014年だけが5月ピークになっているが、これは例外的である。
 その原因もはっきりしていて、2014年3月後半から5月にかけては、先島諸島の岬めぐりの間に、「でんでんむし@アーカイブス★むかしの人は言いました」などの短期連載を挟み込んで、毎日更新を続けていたからだ。(2013年8月のピークは通常の隔日更新)
 2012年と2013年は秋から暮れにかけての落ち込みが抑えられているが、だいたいにおいて、秋から落ち込むという実感は、データでも証明されているわけだ。とくに2014年以降は、その傾向は顕著で、2016年は更新間隔を開けたことでこれにいっそう輪をかけて底を更新する勢いで落ち込んでいる。
 さて、そこで問題はなぜこうした季節変動があるのか、この背景にはなにがあるのか、ということだ。だが、“いまはもう秋 誰もいない海”といった単純な季節変動ではないのだろうと、でんでんむしは想像している。
 それともうひとつ、データを拾いながら考えたのは、このブログの場合、過去の蓄積の効果が現れていない、ということだ。普通、データを蓄積していけば、その分だんだんと上積みされていくと思うが、当ブログではそれがほとんど見えない。
 2012・2013年とは明らかに積み重ね効果が出ているようにも思われるが、2014年後半からは2015・2016年と毎年御破算で願いましては…とチャラになっているようにも読み取れる。仮にこれは、毎年の秋からのダウンと合わせて“賽の河原疑惑”とでも呼んでおくことにするか。
 この問題も含めて、So-netブログはなかなか奥が深く、解けないナゾだらけである。

「岬めぐり」ブログの項目別の「閲覧数」
 10年経過時点でのまとめの意味で、「記事管理」のなかから、項目ごとの「閲覧数」というものの数字を抜き出して、多い順に並べてみた。(数字は2017/12/26現在)
1〜50
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51〜100
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 今回もまたトップは変わらなかったし、NHKが2016年末にはこれまでのまとめと2017年初のお正月時代劇では「居眠り磐音シリーズ」の完結編(これがまた、どうでもいいようなとってつけたようなものであったが)を放送するというので、ここへきてまたこのページを見る人が増えている。だが、どういうところ(リンク?)からやってきたのかは不明。(検索ではS0-netブログなどは拾われていない。)
 ここには「閲覧数」でくくってみた。ちなみに、「アクセス解析」の「ページ別」「時間別」をみると「訪問者数」「ページビュー」というのもある。足算をして確認してみると、「閲覧数」は「訪問者数」の合計と一致する。「閲覧数」というのは「訪問者数」のことなのか?  しかし、一般的な国語の知識で判断すれば、「閲覧数」と「訪問者数」というのは、別のことだと考えるのが自然であるが、So-net の常識はちょっと違うものであるらしい。
 これも七不思議で書いているように、考えれば考えるほど、これら「訪問者数」「ページビュー」の数字の背景にある見る側の閲覧行動とカウントの意味はナゾで、頭の悪いでんでんむしにはいまだにわからない。
 で、わからないままに数字を拾って並べてみたのが、上の1〜50、51〜100のリストである。
 「岬めぐり」ブログなのに、上位はみんな本編の岬の項目以外の番外などの項目である。いちばんになっている岬は、実在の岬ではないし、岬が目的で見にきた人はいない(はず)。これは、裏を返せば、「岬」またはその「めぐり」などというもの自体が、そんなに広い一般人の関心対象ではない、ということであろう。
 実在する岬のいちばんは8番目の「716 チャラツナイ岬・蛸穴ノ岬」の項で、これは大事故があった北海道の豊浜トンネルのところである。これはまだ一時期世間の耳目を集め、注目されたという場所には違いないが、その次に多い10番目の「070 雨崎(神奈川三浦」に至っては、なぜここがそんなに多くの訪問者があるのか、まったくわからない。(このことは前にも書いた。)
 以下、上位50項目の中で、みんなが知っていそうな岬を探しても、やっと31番目に足摺岬が出てくるくらいで、ほとんど誰も知っていそうにない岬ばかりだ。
 ならばと、今回もう少し掘り下げて、100まで広げてみても状況はたいして変わらず、宗谷岬も襟裳岬も竜飛崎も伊良湖岬も室戸岬もいっこうに出てこない。
 そもそも、岬なんてほとんど一般人の興味の対象ではない、マイナーということなのだ。(それをいっちゃぁおしまいよと…)
 でも、そこがまたこの「岬めぐり」のおもしろいとこなんだけど…。
 まあ、自分がそう思ってりゃあ、それでいいのかナ…。

dendenmushi.gif(2017/01/02 記)

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