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1455 お仙ヶ鼻=横須賀市長井六丁目(神奈川県)尾を引いているモノもちがいい横須賀市の説明看板と“お仙”って誰? [岬めぐり]

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 この横須賀市の案内板の説明文で、「黒くて硬い凝灰岩と、白くて軟らかい砂岩・泥岩」というのはわかりやすくてよい説明だ。そのふたつの層が洗濯板のようにでこぼこしているのは、侵食作用だけではないと踏み込んだ説明、「水分を吸収して膨張収縮しやすい砂岩・泥岩層が、水分を吸いにくい凝灰岩層との間で長い年月をかけて変化してきたためと考えられています。」というのもよい。たいていの人は、これでなるほどとうなづけることだろう。
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 だが、残念ながらそれだけでは、肝心のプレートの移動で海底の堆積物が削り取られてきたという説明が抜けてしまう。確かに堆積ではあるのだが、三浦半島が海にあった頃に堆積したというわけではない。やさしく説明するというのは、むずかしいものだ。
 また、堆積したというだけでは、この付近の海岸の岩の層が陸に向かって斜めに傾きながら飛び出しているのをみれば、なかなかすんなりとは腑に落ちないであろう。
 堆積するときは上下に順に堆積していたはずだが、その堆積層がプレートに押し出され押し付けられて、陸地側に乗り上げるように重なっていった…そう考えるとなんとなく「そうかあ」という気にもなるのだが…。ところが、たいていの本の付加体の説明図では、陸側が沈み海側が持ち上がるように描かれ、これと逆向きの傾斜で示されている。その矛盾を説明した本はない。
 とにかく、それだけではなく、もっと激しく複雑な力がさまざまに交錯していたことだろう。想像もつかないようなエネルギーが働いて、変成し変形した。そのことはこの岬の地層にもうかがえる。
 幾重にも折り重なる砂岩と泥岩の互層を眺めていると、想像はとうてい及ばないながら、不思議な気持ちになる。
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 …あれっ。ちょっと待てよ。横須賀市がこれを建てたのは…昭和52年?
 1977年だなあ。プレートテクトニクス理論が発表されてから10年近く経っている頃だけど、まだそれが広く浸透していたとは言い難いから…。これが書かれたとき、どの程度それを踏まえたのか踏まえてないのか、よくわからない微妙なところだ。というのは、日本の学会がプレートテクトニクスの受容でまとまるまでには、10年以上の歳月を必要としたからだ。
 首都圏から至近距離にあり、各大学の地質学研究室の実地研修なども盛んに行なわれている場所を抱えながら、とにかく40年前の説明をそのまま使っている横須賀市は、実におおらかでのんびりしているというか鈍いというか。
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 荒崎の弁天島をさらに東へ行くと、小さな浜と急にびっくりして飛び出たような小さな岬がある。ここがお仙ヶ鼻なのだが、その名は地理院地図には載っていない。載っていないが、ネット情報では釣り情報などたくさんの項目が拾い出されるくらい、よく知られている岬らしいので、項目を追加することにした。
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 お仙ヶ鼻は植生に覆われていて、三崎層の崖の周囲は歩けないので、これを石段で乗り越えなければならない。小さな岬と書いたのは、地図を見ての印象で、実際にそばに寄ってみるとなかなか大きい。ちょうど先端部の岩棚に立っていた釣り人を見てそれが実感できる。
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 その東に出ると栗谷浜(くればま)漁港があり、特養老人ホームのでかい建物が目立っているが、この上がソレイユの丘で、その下の先が佃嵐崎(つくたらしざき)となる。
 このあたり、項目の順序は、地図上の順にはなっていないで、行ったり来たりしている。実際の行動も、北から順に南へとか、きれいに計画的に動けなかった。何日かに分けて、あっちへ行ったりこっちへ来たりしているのは、近場だからとぶらり散歩のつもりで飛び出して、バスの都合その他で細切れになったからである。
 また、歩いているうちにおやこんな岬もあった…。じゃせっかくだから、ついでに入れておこうと、ずいぶんラフで無計画な出たとこ勝負になっている。
 お仙ヶ鼻もそんななかで“発見”してしまった岬なのだが、この名前の由来もあまりはっきりしない。“お仙”さんという女性にまつわるな何らかの話があるのだろうとは想像できるが、その確かな情報がどこにもないらしい。
 このテでよくあるのは、その女性がこの場所で不慮(あるいは覚悟の)の死を遂げた…という話だから、ここももしあるとすればそんなところだろう。が、そういう話の多くは事実に基づくものというより、誰かが思いつきで喋ったのが、だんだん尾ひれハヒレが付いて、もっともらしくなっていってしまう。…というのもある。
 地図には載っていない名前が、ネット情報などではどんどん広がって膨らんでいくというのも、なにかおもしろいのを通り越して、ちょっと気味が悪く思えたりする。
 そんなん感じもしながらお仙ヶ鼻のネット情報をみていると、釣り情報などに混じっていた、「nagainokaze」という人が書いているページに目が止まった。その人は、このお仙伝説は、房総の“おせんころがし”の話を伝え聞いた、ただその「背景は移植されないまま」の連想から生まれたのではないか、というのだ。
 なるほど。それはあり得る。案外、そんなところが正解だったりして…。
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 この岬の西には、昔の“火サス”に出てきそうな白亜の豪邸(いかにもいわくありげな)とその敷地が広がっている。その敷地とお仙ヶ鼻の境にあるツワブキか何かの黄色い花も咲く細い階段を登って…。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度11分38.57秒 139度36分29.62秒
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1454 荒崎2=横須賀市長井六丁目(神奈川県)栗谷浜ルートになぜか失敗10年ぶりの荒崎で「付加体」の意味を考える [岬めぐり]

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 10年ぶりの荒崎は、長井からソレイユの丘経由のバスに乗り、ソレイユの丘で降りて栗谷浜に出るつもりだった。ちょうど長井のバス停ダイヤにもその便が明記されていたからだ。ところが、時間通りにやってきたバスは、ソレイユの丘に行かず、まっすぐ荒崎まできてしまった。運転手さんに聞くとこれは行かない、ひとつ戻って漆山のバス停のとこから上って行けという。じゃああの時刻表はいったい何なんだよ、ちゃんと星印がついてソレイユの丘経由とあるじゃないかと、問い詰めたいところだがそれも虚しい。それに第一、近頃どこでもなにかと文句を言ってくってかかるオヤジが多いので、あれと同じようにはなりたくない。
 ぐっと呑み込んで、まあこっちは余裕でどっちでもいいんだからね。それじゃあ、と一般ルートで荒崎公園に向かうことに。
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 荒崎は三浦半島のなかでも、観音崎、城ヶ島、油壺…と数えあげても、何番目かに有名な場所と言えるだろう。潮が満ちたり干いたりする岩とその間に小さな砂浜が挟まっていて、海岸に続くでこぼこした岩場には潮だまりもある。そんな海岸を多くの人が歩いてすり減った踏跡を辿りながら岩を乗り越え、ときには潮が満ちても渡れるようにコンクリートで補強された細い道をつたって歩くことができる。
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 家族連れなど大勢の人が、海の香りを楽しみにやってくる。磯伝いの道は東西に向かい、北側は30メートルくらいの崖が続くので、冷たい風も遮られ、南に開ける海の向こうには伊豆大島が見える日も多い。そしてもちろん、西にはお約束の富士山が…見えるときもあれば、見えないときもある。
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 尖った岩の角にさえ気をつければ、こどもを遊ばせるのにもいい場所だが、決して大人が眼を離してはいけない。ただ、こども目線で考えれば、ここはやはり人が常に多く出入りすることもあってか、小さな魚介類や海藻など磯の生物相が乏しくさびしい。
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 周囲に緑も花も少ないけれど、そこに変わらずにある岩の様子をみると、いくらかおもしろいこともあるのだ。
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 三崎層という地層が縞になっている崖の下は、斜めになった板状の岩が重なっているような風景を見せている。
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 なにしろその風景こそは、遠い遠い昔、ここが日本列島に最後に付け加わった陸地だという証拠なのだから…。
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 三浦半島の地層は、ちょうど半島を東西の線でいくつかに切り分けたように池子層・逗子層・葉山層群・初声層などと北から南へ重なりながら並べたようになっている。いまからおよそ1200万年から400万年くらい前にかけてできたとされる三崎層は、半島の南端部と荒崎、佐島の一部、つまり三浦半島の南部を構成している地層なのだ。
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 でんでんむしは、地質学を正規に学んだことはない。まったくのシロウトなのだが、昔からその関係の本をいくらか読んできた。その興味は浅く広い。だが、そうした一般の幅広い興味に応える書物は、昔はまったくなく専門書ばかりであった。
 その昔の専門書では「地向斜」というのが幅をきかせていたが、どれを読んでもそれがどういうことなのか、なかなか自分でイメージを得るように理解できなくて困った記憶がある。学者の書くものは、どうしてこんなにもわかりにくいのだろう…その思いをいっそう増幅させる一因ともなった。
 今では学会的には「地向斜」はどこかへきれいに片付けてしまわれたようで、いつのまにかすっかり影をひそめてしまったが、それにかわってよく出てくるようになった用語が「付加体」。でんでんむしが最初に接したそのことばは、確かに「付加帯」とされていたので、てっきりそうだと思い込んでいた。
 2010年のはじめに高知県の岬めぐりに出かけたとき、四万十帯についていくつか書いてきた。これが付加体に改めてちゃんと眼を向けてみた最初だったのだろうか。
 その後、専門を一般向けにくだいた地球科学関連の本もいろいろ出るようになったし、最近ではネットにもそういう情報がたくさん公開されるようになって、より詳しく知ることもできありがたいことだ。
 おかげで「付加体」については、どうやら自分なりのイメージを膨らませることができる。でんでんむしは勝手に、これを説明するにはごはんつぶがついたしゃもじを想像するのがよい、と考えている。
 そのごはんつぶのついたしゃもじを、茶碗や皿の縁に当てて、ゆっくり動かしていくと、ごはんつぶがその縁に重なってたまっていくだろう。そこで、ひょいとしゃもじと茶碗や皿をいっしょにひっくり返す。
 その状態で、こそぎとられ縁にくっついているごはんつぶが「付加体」なのだ。そう考えるとわかりやすい。(珍説?新説!)
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 で、荒崎にみられる三崎層は、日本列島で最後に(今のところ)くっついたごはんつぶなのだ。そして、三崎層は三浦層群に含まれ、それはさらに大きくみると房総半島や丹沢とともに四万十帯の東の端っこを構成している。
 土佐清水の竜串に行ったときには、実は思いもしなかったのだが、そこにも三崎層が存在していた。四国の西南端と三浦半島はつながっていたのだ。
 しかし、やはり「付加体」などという生硬な専門用語は、なかなか一般には浸透しにくいとみえて、自治体の立て看板の説明文などではこれを省いている。横須賀市が荒崎に建てている案内看板では、「数千万年前、まだ三浦半島が海底であった頃に堆積した黒くて硬い凝灰岩と、白くて軟らかい砂岩・泥岩の層により形成され」たなどという表現をとっているのだが…。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度11分38.82秒 139度36分1.08秒
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1453 佃荒崎=横須賀市長井四丁目(神奈川県)和田義盛の地盤だった和田の里から長浜海岸へ出て北へ [岬めぐり]

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 佃荒崎を「つくたらしさき」と読むらしい。「だ」「ざ」と濁ることもあるようだが、「つくだあらさき」がつづまったものだろう。またその北側にある小さな漁港は、栗谷浜と書いて「くればま」と読むということも、なずなさんのサイトで知った。
 こういうのは地元に密着している人でないとなかなかわからない。この人の「花の家(神奈川県三浦半島の自然)」サイトは、三浦半島を隅々まで歩き尽くして、その風景の写真動画だけでなく、コースマップの自作からダイヤモンド富士そして半島の花々などなど、まことに内容が充実していて、まったく見上げたものである。個人の制作するサイトで、広告やポイント稼ぎが目的ではないもので、このようにすばらしいものがあるのは、とてもうれしいことだ。敬意を表して紹介させてもらった。
 でんでんむしも昔はサイトを自作していたが、めんどくさくなってより手間の少ないブログに転向してしまった。だが、自作のサイトにはやはりブログではできない魅力もある。
 前に荒崎に来たときに、どうしてここも項目にあげていなかったのだろうと、記憶を辿ってみると、どうもそのときはソレイユの丘から直接海岸に降りようとして降りられなかったので、そのままになっていたのかもしれない。
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 今回は、長井の南にある初声町和田でバスを降りて、そこから佃荒崎の南側をみることにした。和田の北で横須賀市は終わり、赤羽根付近からは三浦市になる、
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 三浦半島で和田といえば、和田義盛である。三浦大介義明の孫にあたる義盛は、この和田に居を構えて治めていたのでその土地の名を姓として名乗っていたわけで、バス停和田から海側に向かって道路を入るとすぐに鳥居がある。その神社の境内に“和田義盛旧里碑”なる大きな石碑が建っている。また、そこからさらに海に近く寄ったところには、和田氏の拠点であった館城の跡を示す碑が、民家の庭先を削るようにして建っていた。いや、削ったのは民家のほうであろう。
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 1213(建暦3)年の和田合戦は、北条義時の専横と挑発に不満をもつ御家人と兵を挙げ立ち上がる。和田勢はよく奮戦し、義時邸、大倉御所、大江広元邸を襲撃し、源実朝も避難しなければならなかった。だが、起請文を反古にした三浦義村の裏切りもあって、由比ヶ浜に敗れる。江ノ電の和田塚は、このときの敗軍の死者を埋葬した地とされている。
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 海岸に出たところは、和田長浜海岸という。地元の人は「なはま海岸」と呼んでいると、これもなずなさんのサイトにはあった。長浜の意味だろうが、長さは逗子海岸よりも短い。そのかわり逗子海岸のように、浜のすぐ上を道路が通るようなこともないし、砂浜の幅はこちらのほうがずっと広い。道路から離れているうえに、海岸線は北からも南からもアプローチできないので、人もあまり多くなく穴場であるという。
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 長浜の北が佃荒崎、南は「058 黒崎の鼻」である。黒崎の鼻は逆光になって文字通りの黒崎だが、ここも最近ではガイドマップのコースに入っていて、みんなに知られるようになった。
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 長浜の北の砂浜で横須賀市と三浦市の境界線を越えるので、三浦市の和田から、佃荒崎へはまた横須賀市に戻る。
 佃荒崎の上はソレイユの丘になっているが、地理院地図の表記は「長井海の手公園」となっていた。“海の手”とは新造語であろうか。
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 三浦半島は大きな山も川もあまりない。半島最高点の大楠山が241メートルで、武山200メートル、南部の岩堂山が82メートルと目立つくらいで、あとは凸凹はむろんあるものの、全体的に見れば標高50メートル足らずの台地状になっている。それは、遠くをみた写真でもわかるように、遠目にはテーブル状といってもいいくらいだ。
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 その分、海岸からは崖状に立ち上がるところも多く、台地から道が海に降りるところは限られる。海岸線も海のそばを道が通るところは少ない。
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 この佃荒崎から荒崎にかけての海岸線は、半島のなかでも貴重ななぎさを歩けるコースなのだ。
 ところが運悪く、このときには佃荒崎を越える道の部分が工事中であった。これではおもしろくないので、予定は変更してなぎさを歩くのはやめた。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度11分29.73秒 139度36分31.94秒
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1452 観音鼻=横須賀市佐島一丁目(神奈川県)三浦半島の落穂ひろいと半島南部を主に占める三崎層はここ佐島から始まる [岬めぐり]

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 三浦半島はいわば地元なので、岬めぐりを本格的に全国展開する決心をしたときに、まず足元からと始めた経緯がある。その手始めいや足始めが「054 観音崎」(2006/12/01 再訪)だった。しかし、それから数えてももう10年を経過している。
 先日、地質関係でひさしぶりに三浦半島の地理院地図をつぶさに辿ってみていたら、前には項目にあげていなかったところが数か所あることがわかった。前に見落としていたという可能性は低いので、その後地理院地図に岬名が加えられたのだろう。
 加えて、地理院地図にはないが、そう呼ばれているという名前が判明したものもあったので、それらをまとめて、“三浦半島の岬・落穂ひろい”に出かけることにした。
 「観音崎」から始めた第一期についで、第二期三浦半島は「観音鼻」から。この間、およそ10年間で1450項の岬をめぐってきた勘定になる。
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 JR横須賀線の逗子駅前の2番のバス停からは、三浦半島西海岸のうち北部へ行く京浜急行のバス路線が数本ある。そのなかに「湘南佐島なぎさの丘」行きの直行便というのがあるので、それに乗って終点まで行く。
 三浦半島は、赤い電車とバスも京浜急行(正式社名は「京浜急行電鉄株式会社」で略称は「京急電鉄」と称しているが、一般には「京浜急行」のほうが通りがいい)の縄張りで、毎度お世話になっている乗客の一人だが、小さくて狭いこの半島エリアでも、バス路線は生活路線のみの視点で線が引かれているらしい。逗子駅から南へ、半島の西海岸を行くバスは、最長でもその半分の位置にある長井までしか行かない。
 ついでのことに電車京浜急行線の三崎口駅まで行けばいいのにと思うが、そうはなっていない。それにも理由はあるのだろう。
 佐島はその長井のもっと逗子寄りの手前で、国道134号線から南西に少しはみ出している出っ張りの一帯を指す地名である。その丘の上に京浜急行が開発して売り出した住宅地の真ん中がその直行バスの終点で、これも京急が自分で開発した住宅団地だから、ムリにでも維持しなければならない路線なのだろう。
 佐島へ行く路線は、ほかにも佐島マリーナ前まで行くのがあるが、それは国道134号線を通るルートで、直行便は途中湘南国際村を経由する独自のルートを走る。混雑する国道は、逗子市内と秋谷と芦名くらいしか通らないが、それでも30分はかかる。
 今回新たに“発見”した観音鼻は、この丘の下で小田和湾に南面している。地名がやたら出てきても、他地域の人にはわかりづらいので、京急電鉄の現地案内所のサイトを紹介してみると、こんな感じ。
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 空撮写真の中央下がなぎさの丘で、その上から海岸線を辿って北へ行くと、芦名、秋谷、そして葉山に入って長者ヶ崎、芝崎、森戸と続き、逗子湾の大崎、鎌倉の稲村ヶ崎、江ノ島、湘南海岸から大磯の高麗山へと富士山の眺めが展開している。
 観音鼻は、なぎさの丘から左へ、漁港の脇でちょこんと緑の小島がくっついたようになっているとこがそうだ。その左上に長く突き出しているのは天神島。それに囲まれた湾内が佐島マリーナの係留地になっている。
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 天神島は横須賀市の臨海自然教育園となっていて、ハマユウが自生する北限地となっている。昔ここにきたときにはまだ自然という名が多少は残っていたが、いまでは建物が増え東側は護岸、西側にわずかに自然の海岸が残っている。
 分譲地自体は、いまではもっと家が建っているが、それでも予定通りとはいかないらしく、最近では他のデベロッパーの名前で建売住宅などを売り出しているようだ。
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 分譲住宅地から丘を下ったところは、昔から続く古い漁師町の佇まいも感じられ、魚屋さんが朝早くから店を開け、買い出しに来ている人が集まっているといった風景も見られる。
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 観音鼻というのは当然ここに観音堂があるからで、その入口には十一面観音があるという看板が立っていた。だが、簡単に拝観できるような雰囲気ではなさそうだ。
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 この観音さんの小山いや小島も、海岸線の住宅地の拡大によって、当然のように陸地と一体化していったものとみえる。
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 三浦半島の地質は三浦層群と呼ばれ、主に北部は逗子層・池子層で、南部が三崎層と初声層などからなる。素人目には逗子層と三崎層の区別がなかなかつきにくいので困るが、佐島の付近は三崎層の泥岩と砂礫岩が互いに重なりあう地帯の北限だ。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度13分20.94秒 139度36分39.66秒
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1451 ツバクラ岬・女郎ヶ岬=福島町字岩部(北海道)大雨に見舞われて行けなくなってしまった岬 [岬めぐり]

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 小谷石ではなく福島町で泊る計画にしていたのは、福島町が地元のタクシー会社と契約してデマンドバスを運行しているからだった。通常のコミュニティバスとは違い、予約が必要らしい。これが吉岡から岩部までの海岸線を中心に、日に5往復していることがわかったので、宮歌のペンションという名前の民宿へ泊まり、翌朝いちばんの便で岩部まで行くつもりだった。
 それで岩部まで行けば、ツバクラ岬は目の前にあるし、海岸を走るところからマツクラノ岬も見えるだろうという心づもりだった。
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 国道228号線の海側が少し膨らんで、そこには広い砂利を敷き詰めたコンブ干場をもつ家が並んでいて、民宿はその間にある。部屋からは津軽海峡が目の前に広がる。
 この民宿から数百メートル西側の地下を、青函トンネルが通り抜けているはずだ。吉岡は北海道側のトンネル工事の拠点になっていたところで、海峡線と称していた頃には、吉岡海底駅という駅もあったが、通常の旅客の扱いはせず、もっぱら工事用だったと記憶している。これに対して本州側には竜飛海底駅があった。
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 民宿のおばさんに、トンネル工事の頃には宿も大繁盛だったのでは、と水を向けてみると、その頃にはまだ開業していなかったという。民宿ではどこでもありがちなことだが、ここもお仕事で長期滞在するおじさんたちのグループがいた。
 翌朝の朝食時になると雨はほとんど豪雨状態で、道は川になるようなありさまだった。
 やはり岩部までは行ってみたかった、というのは本心だが、この雨ではどうしようもない。いくらか覚悟はしていたとはいえ、かなりの降り方なので、この日の岩部まで行くという予定は変更して、朝のバスを待って木古内へ戻り、早めに東京へ引き上げることにした。幸い、小谷石も前日に終了しているので、もう心残りはない。
 今回の道南と奥尻の岬めぐりは、出だしから函館本線の不通でつまづいて、ずっと計画の変更を重ねてここまできたが、最後もまた大幅な修正である。考えてみれば、JR北海道とJR東日本の乗り放題フリーパスの恩恵は、ほとんど受けてなかったわけだ。
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 頭から雨合羽をかぶり傘をさしてバスを待つ間も、ザンザン降りだったので、写真どころではなかったが、どっちにしても岬などはさっぱり見えなかった。それでも、まだ早朝の雨足がゆるやかだった頃に、宿の窓から撮ってみた。矢越海岸の断崖は、よく見ればぼんやりと影があるかないかという程度だった。
 少し言い訳をしておくと、「でんでんむしの岬めぐり」は、全国の岬をできるだけ網羅したいとは思っているが、決して“制覇”や“踏破”を目的としていない。そのときの状況次第で、行けなかった岬も行けた岬も、それぞれがその岬との縁であったわけで、それを大切にしたいと考えている。
 そんなわけで、ツバクラ岬も、その手前の女郎ヶ岬も、前日の夕方の晴れ間に見た遠望だけでよしとすることになった。
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 ツバクラ岬の西にある岩部の小さな集落は、岩部川の流れる谷間の河口で、少し奥まっているので、斜めに遠くから見たのでは、ほとんどそれは見えない。その手前にトンネルがあるが、漁港はこのトンネルのこちらにあるようだ。
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 女郎ヶ岬も小さなトンネルで抜けているようだが、その場所の特定もむずかしいが、岩場があるあたりだろうか。その左手に三角の岩島が目立っているが、これは日出の白糸の滝付近で、このあたりの海岸には覆道がいくつも連なっている。それらも、翌日は雨のなかでなにも見えなくなっていた。
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 宮歌の氏子沢のバス停から、松前と函館を結ぶバスに乗り込んで、カッパを脱いでリュックにしまい傘を畳んで、やれやれと一息つく。木古内までは55分もかかる。この松前半島の先をめぐっている国道228号線を走るバス路線は、旧松前線の代替でもあったが、線路がなくなったのは1988(昭和63)年。だからもう全線廃止からも久しいので、かつては鉄道が通っていたことも遠い昔で、今ではもう誰も代替などという意識もあるまい。
 ともかく、いちおうこれで今回も積み残しになった檜山・島牧地区の一部を除いて、曲りなりにも道南の岬めぐりは終わる。
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▼国土地理院 「地理院地図」
41度30分24.40秒 140度20分47.33秒
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dendenmushi.gif北海道地方(2016/09/05〜06 訪問)

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1450 マツクラノ岬=松前郡福島町字岩部(北海道)小谷石から岩部までおよそ10キロ弱くらい断崖の無人の海岸線 [岬めぐり]

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 前項の矢越岬は、北東側の小谷石からの眺め、つまり知内町の領域だけだったが、南西側の福島町からの遠望も最後につけていた。
 矢越の白い灯台が見えるのはこれだけだ。といっても、それは写真を拡大してみてはじめてわかるのであって、なにしろ15キロも離れているのだから、よーく見ると白いものが…という程度だから、見えないというわけではないものの、肉眼でも見えると言い張るにはちょっと苦しい。
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 矢越岬灯台の点灯は1957(昭和32)年で、海面からは96メートルのところにある。ここに灯台を建てるために、小谷石から山の中を電柱を立てケーブルを引いた。あれっ! そういえば、地理院地図には矢越岬灯台のマークが付いていませんね。この付近では白神岬灯台に次ぐ、重要灯台のように思えるのだが…。
 この灯台とマツクラノ岬の写真は、その日のうちに小谷石から知内出張所のバス停に引き返し、そこから松前に行くバスに乗り換えて、福島の海岸に降りたときに撮ったものだ。このときには、小谷石で今にも降り出しそうだった天気が、ほんの少しの間だけ晴れ、沈む夕日が照らす矢越海岸を浮かび上がらせていた。これはまさに奇跡的であった。
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 というのも、その宵の口から雨が降り出し、翌日は豪雨のようになってしまい、二度とこの景色も見えなかったからだ。
 福島町は、本州の地名を冠した町のひとつで、福島出身者が多く移り住んだからだろう。こういう例は北海道にはいくつもある。札幌と千歳の間にある北広島などはそういう町のうちでは大きいほうだろう。その町には「◯◯カープ」と付く名前の少年野球チームが8つもあるという。
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 福島町には、横綱千代の山・千代の富士記念館があるし、青函トンネル記念館がある。いずれも町立。予定を変更したので、時間調節のために降りて見学しようと思ったら、どちらも休館日であった。
 ついていないときはしかたがないもので、マツクラノ岬へも翌日にコミュニティバスのようなもので岩部まで行くつもりだった。その道中の海岸線からは、もう少し近くからマツクラノ岬を望むことができるはずであった。
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 それがダメになったので、マツクラノ岬もこの次のツバクラ岬も、このほんの僅かな間だけ弱い夕日に薄ぼんやりと浮かびあがった遠望だけになってしまった。
 したがって、だいたいのところしかわからないが、まあいたしかたない。
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 矢越岬の西2.6キロのところにあるマツクラノ岬は、南西寄りから眺めると少し左寄りという位置にあたる。
 山むこうの知内町との境界になる尾根が、左手に高く伸びていく。その下の海岸線は断崖がむき出しになっているのがわかるが、どこが沢なのかまではわからない。
 地理院地図では、矢越岬の西にはツヅラ沢川と船隠の川、タタミの川が記されている。このうち船隠の川が流れ下るところに船隠島があり、その河口左岸の端がマツクラノ岬となっている。
 船隠の川は狭い谷を流れているようで平地はないが、矢越岬寄りのツヅラ沢川の河口付近はほんのちょっとだけ開けている。そこは船着場用に四角く掘られたような形跡もあるのだが、ここには戦後の一時期には樺太からの引揚者の集落があったのだという。
 なんでこんなところに…と思いをめぐらせていくと、引き揚げてきた人をすぐに受け入れるような態勢は、その当時に整っているはずもなく、仮設住宅もなかっただろう。
 引き揚げてきても、そこは見知らぬ土地。しかたなく、誰も見向きもしないような場所を見つけて住もうとしたと考えると、哀しくて胸が詰まる。千島列島の国後島からの引揚者が、奥尻島でいちばん辺鄙な神威脇に移住したというのと合わせて…。
 (誰ですか、お先マックラ…なんてダジャレでまとめようというのは…。でもね、そうでもしないとなんか気分も晴れませんしね。)
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▼国土地理院 「地理院地図」
41度30分54.25秒 140度22分36.48秒
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dendenmushi.gif北海道地方(2016/09/05〜06 訪問)

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