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番外:国指定天然記念物「諸磯の隆起海岸」=三浦市三崎町諸磯(神奈川県)研究の出発点となった記念物 [番外]

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 地理院地図では天然記念物や史跡などに「 ∴ 」記号付きで表記されているが、必ずしもその全部が記号付きで表示されているわけではないようだ。その基準はよくわからないが、やはり、地図の載せるのに適当なものと、それにはあまりふさわしくないものがあるからだろう。この「∴ 諸磯の隆起海岸」というのは、前々から地図でみていたので、気にはなっていた。
  “隆起海岸”といっても、ここは半島の海岸からはいささか離れた場所のようだし…。
 三浦半島の岬落ち穂拾いのついでに、そこにも初めて行ってみることにした。
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 京急バスの天神町というバス停で降り、住宅街の間を西へ進むと、道が急な下りになって右に別れる角に、“諸磯遺跡”という文字が彫られた古い石碑が立っている。
 さては、これか?と思ったが、“遺跡”ともちょっと違う。後でわかったのだが、これは別にある縄文時代の標識土器や住居跡などがあった遺跡のことだった。それは、この台地の上や北側の斜面から発見されたらしい。
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 そこから北へ折れ、谷に下っていくと、いくつもの老人施設の看板が並び、谷に降りきったところに“諸磯隆起海岸”の案内看板があった。どうやら板に書かれたそれを立てた人の名からすると、そのそばに建つ大きなホテイさん(いや、ダイコクさんだったかな?)の像がある家の人が立てたようだ。
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 例によって勝手な想像だが、あるいはよくその場所の在処を尋ねられるので、いちいち面倒だというのでこれを立てた…?
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 そこからほど遠からぬ谷戸の山際に、遠くからも目立つ黄色っぽい大きな説明看板がある。その前の崖の露頭が、一部では有名な「諸磯の隆起海岸」なのだ。諸磯崎という岬名は表記していない地理院地図も、それは「 ∴ 」記号付きで示されている。
 なにしろ国の天然記念物としては古い部類で、1928(昭和3)年に指定されている。この崖には、ポコポコと空いた小さな穴の列が6列くらいあり(というのだが、見た目にはそんなに多くない)、その穿孔貝が開けた巣穴の跡が、過去に起きた地震の間隔やそれによって陸地が隆起した程度などを推し測ることができるという。
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 三崎では“ミズガイ”と呼んでいる貝は波打ち際に巣穴を掘る。その巣穴の列が汀線を示しているわけで、古い時代には大根畑のこの谷も入江だったという証拠で、それが今ここにあるということは、陸地が隆起したことの証にほかならない。
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 シロウトにはそれと大地震との関連がいまいちよくわからないのだが、こうした研究の出発点になったのが、この露頭からだったということらしい。だから、この天然記念物には、二重の意味の重要性や記念すべき点がある、というわけなのだろう。
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 ネットにもいくつかこれを紹介しているページもあるが、その写真を見るとホテイ(orダイコク)さんの立てた案内板も、現地に立っている三浦市教育委員会の説明板も、どうも古いものばかりのようだ。で、現在のはそれを取り替えて新しくしたものらしい。
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 露頭の写真を見ると、古い写真のほうがその特徴をはっきり示していて、現在は草木などが茂るためか、下の列以外はあまり明確でない。
 三浦市教育委員会が1996(平成8)年に建て直した看板は、ニスのようなものが塗られ板に彫られた文字もなかなか味わいがある。
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 国指定天然記念物 諸磯の隆起海岸
       昭和三年二月二十四日 文部省指定
 この崖の表面にみられる小穴の列は、穿孔貝の巣穴の跡で、堆積時期を異にするシルト(砂泥)岩質の地質の側面に、小規模のものを含めて六列ぐらい数えられる。
 巣穴の多くは風化され、形はさまざまであるが、一般に下部の列のものほど、よく保存されている。
 穿孔貝(ほとんどがイシマテガイで、別名この貝をヒミズガイ」ともいう。三崎ではこれを「ミズガイ」と呼んでいる。)は、波打ちきわで岩をほり、巣穴をつくってその中で生活する。したがって、古い巣穴の跡があれば、これから過去の汀線の位置や高度を知ることができ、また、これによって、歴史上の大地震の間隔や隆起量などが推定される
 この崖の巣穴の跡は、この種の推定を試みるにあたって、その出発点となったもので、それぞれの列は、いずれも、ある時代に汀線だったことを示している。そして列の数や巣穴の保存状態から、この場所が、過去なん回かにわたって隆起したことを物語っており、歴史上の大地震を知る上で貴重な資料といえる。
    平成八年七月一日


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▼国土地理院 「地理院地図」
35度9分4.43秒 139度37分22.42秒
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番外:通り矢のはな=三浦市晴海町(神奈川県)こどもの頃から口ずさんでいたこの歌は「城ヶ島の雨」だけど… [番外]

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 何度も書くようだが、歌というのはほんとうに不思議なものだ。こどもの頃からラジオで聞き、鼻歌にいいかげんに口の端にのせていた歌がたくさんあって、いまも忘れない。若いミュージシャンやシンガーソングライターもおらず、流行歌手もまだこれといっていない時代からつくられ、歌われてきた歌の数々の一部は、現在では「抒情歌」とかいうくくりで中高年に人気のようだ。
 それは、やはりでんでんむしと同じように、昔の子供時代、若かりし頃に流れていた時間とシンクロするからであろう。
 「城ケ島の雨」も、そうしたあまたの歌のひとつ。北原白秋の作詞で、作曲は梁田貞、1913(大正2)年につくられたこの歌は、YouTubeにはなんと数十もの動画がのっかっている。歌い手は美空ひばりから無名の人までさまざまだが、五木ひろしや倍賞千恵子、キム・ヨンジャや田川寿美などなど有名な歌手のものもたくさんある。そのひとつの鮫島有美子の動画には「YouTube以外のウエブサイトでの再生はできない」との注意書きがでるが、それ以外は全部フリーのような顔をして並んでいる。しかし、そのうち権利関係をクリアにしたうえでアップされた動画は、厳密にみれば極めて少ないのではないか。
 その頃の歌詞はなかなか高尚なものばかりで、その詞の意味などわからないものも多かった。“利休”も知らず、“ねずみの雨”とはなんじゃろかと、わけもわからずに歌っていたその歌は、華々しく詩壇デビューした北原白秋が、隣家の夫人との不倫関係によってスキャンダルを起こし(当時は姦通罪があったので実際に投獄もされたらしい)、その相手と結婚して(その後離婚)この三崎に移り住んでいたときに書かれた詞だったことなど、ずーっと後になって知ったものだ。
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 白秋が住んでいたのは、城ヶ島を対岸にみる向ヶ崎で、もちろんその当時は城ヶ島大橋などないから、通り矢とその向こうの島の遊ヶ崎付近を眺めて暮らしていたのだろう。その日常の風景から生まれた詞は、芸術座の音楽会のために依頼されたもので、大幅に遅れてきた詞に作曲家は開演前のわずか数日で仕上げ、自らのテノールで初披露されたという。
 この詩人のその後の活躍ぶりはいうまでもないが、詞のイメージとは違って、実生活は離婚と結婚と転居を繰り返すなど平穏ではなかったようだ。作曲の梁田貞は「どんぐりころころ」の作曲でも知られるが、それはだいぶ後年のことになる。
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 「城ケ島の雨」の歌碑については、三浦市のサイトで、“昭和24年の建碑除幕”とあり、“昭和35年4月17日、城ヶ島大橋架橋により現在地に移転”されたとあるのだが、架橋以前の歌碑がどこにあったのかがわからない。
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 それまでは渡船で往来していた城ヶ島に橋が架けられたのは、1960(昭和35)年のことで、城ヶ島の住人と徒歩・自転車は無料だが、今も渡り賃がいる有料の橋なのだ。全長は575メートルで、下の水路は遠洋漁業の船が出入りするので海面からは23メートルと高い。当時の架橋橋梁技術を結集して完成したのも、高度成長期の入口に差し掛かった時代の心意気を感じさせるものとも言える。
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 「舟は行く行く 通り矢のはなを」という歌の一節にある通り矢も、現在はその姿が大幅に変化しているようで、当時の姿を想像するのがむずかしいほどではないかと思われる。
 その名は、頼朝がここで通し矢をしたのが由来とする説もあるが、陸地と岩礁の間の海流の早いところ(矢のように流れる)を指すのだろう。しかし、今では晴海町一帯の埋め立てが進んで、その早瀬のような場所がなくなっている。
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 岩礁が一部残りそこは釣り人に人気のスポットではあるらしいが、白秋が歌に詠んだ風情はもうない。
 「通り矢のはな」とは鼻であり岬であったのだろう。そういえば、白秋が住んでいたのは向ヶ崎、対岸は遊ヶ崎、そしてこの付近一帯は三崎で渡し船が出ていたところは仲崎。地名も“みさき”だらけなんですよ。
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 けれど、三崎と名が付く地名は、城ヶ島大橋の西側だけ。それも小網代まで。一部には「三浦市より三崎のほうが有名」という声もあるが、三崎は油壺から三崎の漁港までの間で、三浦市のほんの一部。
 京浜急行の言う「三崎口」も「口」ではあるかもしれないけれど、三崎ではない。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度8分16.36秒 139度37分39.96秒
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dendenmushi.gif関東地方(2016/11/25 訪問)

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タグ:神奈川県
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1458 赤羽根崎=三浦市三崎町城ヶ島(神奈川県)洞門がぽっかり空いた馬の背の岩尾根が南に延びる城ヶ島中央 [岬めぐり]

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 赤羽根崎も馬の背洞門も、地理院地図にもMapionにもまったく表記がないが、これも三崎口駅に置いてあるパンフレットには記載されている。城ヶ島のほぼ中央で南の相模湾に向かって、三角に飛び出ている岬の付近には、「赤羽根」という字名がもともとあったらしい。その痕跡は、Mapionに岬の東側の湾内に「赤羽根ビーチ」として記載があるので知れるが、そうするとこの岬に赤羽根崎と名があってもおかしくない。
 このように、地理院地図などには表記がなくても、地元の案内板やパンフレットなどにはちゃんと名前が記されていることは結構ある。当岬めぐりではいちおうの指針が必要なので、地理院地図に記名があるものを拾うことを原則にしているが、地元情報でその名が確認できるものは、極力それも項目にあげるようにしている。
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 馬の背洞門というのは、赤羽根崎の先端部の岩場で、馬の背のように痩せた尾根に大きな穴が開いているところだ。崖もとんがって張り出しているが、その下で洞門をもつ岩尾根が、南の海に向かって伸びている。この赤羽根崎の崖も絶え間なく押し寄せる波浪が、島を削ってできた海食崖であろう。
 崖だけでなく、海岸に広がる平らな岩場も、同じ作用が働いて、岩が均されたようになっている、海食台と呼ばれる場所だ。三浦半島の南端は、まさしく海と台地の攻防、いや攻めているのは海ばかりで台地のほうは守勢一方だから“攻防”は適当ではないのだろう。荒波の侵食をなんとかここで食い止めようと頑張っている最前線の特徴が、如実に表れている場所のひとつなのだ。形勢不利な陸側は、波浪の攻撃に土手っ腹に穴まで空けられてしまう。こういうのを、海食洞穴という。崖に台に穴。海食3セットが揃っている。
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 その最上部はほんの人一人がやっと渡れるというくらいの幅で、かろうじて橋のように残っているが、今にも崩れ落ちるのではないかと心配するほどに危うい。
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 当然、そこには入るな渡るなという標識があって柵もしてある。
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 なかなかの奇観でもあるので、島の名所のひとつになっている。この洞門は島めぐりのコース案内では重要ポイントになっていて、標識や道案内がつくられている。だが、そういう標識や案内板の類では、馬の背洞門はあっても赤羽根崎は存在しないかのようだ。まあ、同じ場所にふたつも名前はいらないということだろうし、見せ物としても岬よりは洞門のほうが印象に残るだろう。
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 今回のコースは、灘ヶ崎から長津呂崎を経て、海岸の岩と砂の間をぬって東へ進み、馬の背洞門の赤羽根崎までやってきた。ここに三浦市が建てた看板には、「明治の文豪、大町桂月…」とあるのだが、文豪とはいえんだろう。どうひいき目に見ても…。今でいう、エッセイストのようなもので、酒と旅を愛して全国各地を訪れては歌を詠み詩を書くという結構なご身分である。美文家と当時は呼ばれたようだが、文豪らしい作品はなにひとつないかわり、たくさんの碑石を日本各地に残している。
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 “馬の背”とは、「馬の背のように両側が深い谷となって落ち込んでいる山の尾根伝いの道(大辞林)」ということだが、“馬の背を分ける(越す)”ということばもすぐ連想で浮かんでくる。分水嶺のようなイメージで理解していたら、これがどうも違うらしい。おなじく大辞林の解説では「馬の背の片方に雨が降り、もう片方には降らないの意で、夕立などがごく近い地域で降る降らないの差ができる状態をいう。」というのだ。まるでフェーン現象だな、こりゃ。しかし、馬の背の左右でお天気が変わるというということがあるわけもないので、これはちょっと疑問だが…。今はちょっとそれに突っ込んでいる余裕がない。
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 赤羽根崎のそばの海には、小舟が一艘浮いている。誰もいない? いますよ。船尾のモーターの横で身体を海面にくっつけるように屈みこんでいる。これは、三浦半島のあちこちで見られる“みづき漁”だろう。後ろに長く細く伸びた竿を使って、海中メガネで海を覗きながら、獲物を突く漁法なのだ。
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 ここからは岬の上に階段と手すりが付けられている道を登って、道なりに北東方向へ進む。すると、県指定天然記念物ウミウやヒメウ、それにクロサギの生息地となっている断崖が見える展望台がある。 
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 半月形に湾曲した小湾を、ぐるりと断崖が囲んでいる。これもまたみごとな海食崖の見本のようだ。
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 Mapionの「赤羽根ビーチ」表記には、遊泳マークまでついているのだが、これはいささか問題であろう。確かにわずかに浜といえばそれらしきものもあるにはあるが、そこへ行くには道はなく、船で行くしか方法はないように思われる。あるいは地図にも案内板にもない秘密の通路があるのかもしれないが、そこは自然保護区域のはずだから、むやみに入って泳いでいいというものではないと思われる。
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 この辺りまでくると、道はきれいに整備された広い遊歩道で、道の縁にはスイセンの株がズラリと並んでいる。
 この道を抜けると、広い自動車道に出て、右に行けば城ヶ島公園、左に行って坂を下れば、城ヶ島大橋への登り口でもある白秋碑前のバス停と広い駐車場に出る。

▼国土地理院 「地理院地図」
35度7分51.44秒 139度37分5.02秒
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dendenmushi.gif関東地方(2016/11/25 訪問)

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タグ:神奈川県
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1457 灘ヶ崎=三浦市三崎町城ヶ島(神奈川県)前にはなかった岬名がいつからかちゃんと明記されるようになった岬 [岬めぐり]

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 城ヶ島も何度か行っているので、この道もあの景色も見覚えのあるものばかりだ。ここ前にも通ったよねとか思いながら、京浜急行の三崎口駅前2番乗り場から乗ったバスの終点から、家の裏の間の細道を抜けて行く灘ヶ崎も初めてではない。
 それなのに、これまでの三浦半島の岬めぐりでここを項目にあげていなかったのは、当時の地理院地図にはその名の記載がなかったからだ。今では、地理院地図もMapionなど他の地図でもちゃんと載せている。そこで、こりゃちゃんと補足しなければ…と改めてやってきた。
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 灘ヶ崎はほぼ東西に横長の城ヶ島では、北東の端にあたる。北側はすぐマグロの水揚げで有名な三崎漁港で、その西の入口を守る長い防波堤が、岬の端から伸びている。遠目に見るとほとんど両者はつながっているようにも見えるが、灘ヶ崎の先端でいったん切れ、その先から防波堤が始まっている。
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 大きな岩が尾根のようになって、西の富士山に向かって伸びていく。この日は、前日は雪が薄く積もったが、もうすでに溶けて、めずらしいくらいの秋晴れのお天気になった。
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 楫(かじ)の三郎山という、いかにもなにかありそうな(三浦市の建てた説明板を読んでも不得要領)小山が、バス停終点の先にあるが、この山の北側には道がない。南側をすり抜けていくと小山の上に祠があり、そこから眺める灘ヶ崎が最高だ。
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 この城ヶ島の西端では、ここから南の長津呂崎にかけて、またここから東の城ヶ島一帯では、同じような何十枚もの板を重ねたものを斜めに傾けたような岩の層が、一帯に連続している。大小さまざまな、板棒きれを並べ突き出したような景観が続いている。
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 ここらではそれが崖ではなく、低い岩のでこぼこになって、海に向かって広がっている。これが三崎層で、城ヶ島付近ではその露頭が目立っているのだ。
 三崎層は1200万年前から400万年くらい前までの間に、大洋の海底に堆積した岩で、火山由来の噴出物である灰や岩滓が、積もり重なり固まった岩の互層になっている。
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 おおまかに言えば、白と黒が互い違いになっているが、白いのが火山灰が泥(シルト・粘土)となって固まった岩石で、黒いのが火山噴出の岩滓(スコリア)を含む凝灰岩の層になっている。それがかなり広範囲な露頭として大規模に展開している。三崎層は、三浦半島でも東は雨崎と剣崎の間から、西は油壺の南の浜諸磯を結ぶ線から以南と荒崎と佐島の一部に限られる。ほとんど半島南端を中心として分布している。
 互層になっているということは、1200万年前から400万年前という期間には、交互に違う噴出物を吐き出す大規模噴火が、間を置きながら何度も何度も繰り返されてきた、ということになるのだろうか。
 それも想像してみると、かなり不思議なことのように思え、いったいどのようにしてそういう現象が起こったのか疑問に思える。しかし、専門家はそういうことにはあまり疑問を感じないらしく、どのようにすればこういう互層になるのか、そのことについてあまり明快には教えてくれない。
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 あるサイトのページには「プレートの沈み込みに伴う付加体に特徴的な逆断層によって、同じ地層が繰り返し出現しています」という三崎層に関する説明があったのだが、悲しいかななぜ“逆断層が特徴になるのか、それによって同じ地層が繰り返し出現”することになるのかがわからない。
 まったく、ドがつくシロウトはどうしょうもなく困ったものだし、説明の下手な専門家にも困ったものだ。もちろん、専門家の仕事のメインがシロウトのご機嫌をとりむすぶことにはないことも充分に理解しているつもりだ。が、それは両者の意識と知識と疑問のもちかたに、大きな断層があるからなのであって…。
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 それでも、地質学の研修フィールドにもなっているらしいこの半島の地質については、それぞれ専門の方々によるいろいろなサイトやページがあり、教わることが多くておおいに感謝しています。
 そんな情報のなかには、見慣れない用語がたくさん出てくるので、シロウトはその意味から調べて理解しなければならない。
 灘ヶ崎の南すぐ、城ヶ島灯台の下には、城ヶ島京急ホテルがある。その横の崖には、黒いスコリア質凝灰岩の層が、まことに奇妙な形にねじ曲がり、のた打ち回ったような跡がそのまま固まってしまったようにして固まっている。
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 それはスランプ構造というものらしい。海底に堆積したものがまだ固まらないうちに斜面を滑り落ちる(海底地すべり)などして、このような形になったのだという。なるほどねえ。それはなんとなく想像ができます。ただ、ここの写真があまりうまくなかったので、それはまた後で…。
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 そして、その大洋の海底が、1年に数センチずつ西へ西へと動き、それを日本列島のプレートの端まで運んできて、その下に潜り込んでいくときにその一部がこすり付いた。
 城ヶ島で見ている三崎層は、そういうものだったと知ると、なんか楽しくなってくる。ねえ、そう思いませんか。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度8分13.84秒 139度36分38.43秒
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1456 長井松ヶ崎=横須賀市長井三丁目(神奈川県)岡崎の岬が松ヶ崎とはこれいかに火山豆石もわからんとはこれいかに [岬めぐり]

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 荒崎も公園からのコース順路に従えば、だいたいはどんどんびきという狭い入江を右に見て、佃荒崎のほうに進むことになるのだが、その北西側にも大きく岩場と丘が張り出している。その丘は城山とも呼ばれていて、実際に城塞のようなものがあったらしい。海に出っ張っているとはいっても、さほど戦略的に重要なポイントになっていたわけでもなさそうだ。この荒崎城には、三浦介義明の次男である三浦義澄が居城として住まいしていたという。
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 和田義盛の居城もその点では同じことだが、三浦にしろ和田にしろ、この時代の鎌倉武士は、土着の勢力圏、あるいは自分で切りとった勢力圏に住まうという、土着の武士団を形成していたので、最初から戦略的な眼で居城を選定していたわけではなかろう。
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 幕末には、彦根藩が荒崎の西に台場を築いたとされるが、彦根藩も幕命にしたがってここでその任についただけで、三浦や和田の時代とは武士もまったく性格をことにしていたわけだ。
 荒崎も何度か行っていて、昔は今よりももっとバスの便が悪かったような気がする。そこで、長井から荒崎まで延々歩いたことも記憶にある。そのときには小田和湾に沿って海岸線を歩こうと決めていて、道のないところはコンクリート護岸の上を歩いてぐるりと荒崎まで回った。途中、港のそばの護岸いっぱいに建物が建っているところもあって、結局海岸線を全部回り切ることは、無理だとわかった。
 そのコースの途中には、仮屋ヶ崎というバス停もあるのだが、そこには全然岬らしいものはなかった。また岡崎というところも同じだが、その先端まで行ったので、ここも前に来ている。しかし、ここも地図にはない岬なので、そのときには岬という意識がまったくないまま歩いて通りすぎていた。
 井上成美旧邸跡から下ってくる道と合流する付近には、熊野神社や住吉神社があり、それぞれ古い昔の漁村を守ってきた。そこからさらに北へくねくねする海岸を2.5キロも歩くと、長井漁港の北に張り出た岡崎に着く。
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 長井岡崎公園から西には、結構大きな団地がある。県営らしいが、棟と棟の間もせせこましくなく広く開いている。その間を抜けると、目の前に岩礁地帯が現れる。そこが長井松ヶ崎。
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 ただ、字地名は岡崎なのに、岬名は松ヶ崎だからねえ。地図にもないとなればこれはわからなかった。たまたま三浦半島の地質情報を集めたサイトでその名を知ったので、めでたく一項目追加。
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 そのサイトとは、トップページに海外町のスランプ構造をあしらった「三浦半島の地層・地質」というもので、いろいろ教えてもらい参考にさせていただいた。
 長井松ヶ崎として、この地質サイトが取りあげていたのは、ここには火山豆石があるからのようだった。“火山豆石”というのも、あまり聞き慣れない名前だ。
 その説明によると、「火山灰でできた丸い変わりアメ玉のようなもので、中心部は火山砂や小さな礫でできていて、大きさは直径数mm〜数cmの小さな丸い石」ということらしい。
 どうしてこのようなものができるかというと、火山が水蒸気爆発を起こしたとき、噴出物の粒子が核になって水分が細かい火山灰を引き寄せてくっつけ、空中を飛んでいる間にどんどん灰が固まって膨らんでいき、このような火山豆石となるのだという。
 へえー、ですね。まったく自然の現象とは…。
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 けれども、その自然現象がどこにあるのか、松ヶ崎の岩礁を歩いてみても、これか?というようなものになかなか出くわさない。シロウトの悲しさか、岩の上に小さな点々がたくさんあるので最初はそれかと思ったが、単なる貝だった。やっぱりなにか案内があるといいのだが…。
 そういう自然現象は、まだ人類が知らない太古に起こったものばかりとはいえない。三浦半島では、1923(大正12)年の関東大地震によって、陸地が1.5メートル近く隆起したのだというのだから…。
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 1.5メートルというと、この長井松ヶ崎の岩場も、荒崎や城ヶ島の海食台も、三浦半島の岩場はみんな関東大震災によって初めて陸上に出てきた…ということになりますねえ。
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 自販機を並べた横に、“駄菓子・文房具・ゲーセン”とこども三題噺のような小さな看板を出している家が、岡崎のバス停前にあって、なんかおかしかった。

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▼国土地理院 「地理院地図」
35度12分33.45秒 139度36分35.09秒
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dendenmushi.gif関東地方(2016/11/29 訪問)

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番外:井上茂美旧邸跡=横須賀市長井六丁目(神奈川県)わざわざ探して行かなかったその場所に今度は行ってみた [番外]

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 環境省と神奈川県が建てた荒崎の案内看板には、城山からの眺めは「眼下に松の青と砕ける波の白さが調和し、遠く相模・伊豆の連山や富士の容姿がすばらしい」と形容している。
 絵葉書的な説明はともかく、“調和している”という点では、三浦半島自体がある種の調和を保っているような気がするのは、単なる身びいきであろう。けれども、高くて大きな山も長い川もない半島では、どこまでも似たような台地がでこぼこと続き、崖も浜もある海岸線は、だいたいぐるりと周回することができる。そのため人が暮らす集落も海に近く、視界は常に広く開けている。
 こういうところに住むのもいいなあと思う人も多く、ちゃんとそれを実現している人も何人か知っている。が、ちょっと都会から世間から離れて、それでいてあまり隔絶された感じはないところは、通勤マイホームというよりは、半分隠居のような理想の隠遁生活に向いているような気がしていた。
 それに憧れる気持ちも強かったが、東京へ通勤するという現実が切り離せなかったでんでんむしは、中途半端に半島の付け根にかれこれ数十年も居を置いてきた。そこへやってきたときには、まだ京浜急行も三崎口まで延伸していなかったのだが、そんなときに見た地方版の小さな新聞記事で、井上茂美(しげよし 1975(昭和50)年に没)の消息を知った。
 そのことは、2007年初めのブログで、
として書いていた。
 それから数えて10年も経つので、今回また再再訪し、中途半端だった荒崎についても「荒崎2」を加え、まだ探さないままになっていた井上茂美の家があった場所も確かめておきたいと、これを書いている。
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 でんでんむしがこの人に興味をもつ理由は、“最後の海軍大将”であったからでもなく、海軍内でも少ない開戦反対派だったからでもない。
 ただ、元高位の海軍軍人としての敗戦後の日本における身の処し方、という点においてのみ。
 旧軍幹部や戦争指導の関係者が続々と自衛隊などに復帰し、大企業からの誘いに応じて戦後社会にうってでるのを、苦々しく思っていたらしい井上自身は、いっさいの誘いを断り、近所の子供に英語を教えて過ごし、この海を望む台地の上からあまり出なかったといわれる。
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 “一億総懺悔”などというお題目にごまかされて、戦争責任をあいまいなままにしてきた結果、戦前の思想や体制が復古するがごとき現象がちらちらとそこかしこに目につき、それを公然と主張する勢力や団体が政権を支援し動かしているような光景がだんだん増え、いや大手を振ってまかり通っている。そんな現在を、井上は想像していただろうか。
 そのすばらしい教育方針に感銘を受け夫もそうだという首相夫人が、名誉校長を引き受けた(疑惑が発覚してから辞任)という、幼いこどもに教育勅語を暗唱させる私学の要求に応じて、政治家や官庁と役人がせっせと便宜をはかるようになってしまっている。結局、この騒動も「適切に処理」されて、うやむやなあなあでごまかして逃げ切り可能にしてしまう。この政権になってから続く、もろもろのことにも、大多数は怒ることもなく、暗黙のうちに了解させられている。そうしていく先に、われわれは何を失っていくのだろうか。
 少なくとも、あるべき国のかたちをどう考えるかについては、われわれは戦後からずっと調和を欠いたままの混沌のなかでもがいていて、その答えをみつけられずにいる。そうこうしているうちに、いつの間にか過去の亡霊がゾンビのように蘇って、すでに政権に影響を与えている、いや政権を支えている、いやいやそれらが政権をつくっているというべきだ。「日本をとりもどそう」というのは、そういう意味だったのだ。それでも、世論調査では半数前後の支持率を維持しているというのも、実に不思議なことだ。
 話がそれた。もっとも、井上は自身の生き方や考え方について、自分で語ることはなかったらしいので、その戦後の去就についても、他の情報の断片から伺うだけ。かなり上っ面だけの、数十年前と同じ個人的な感想の範囲に留まり続けていて、進歩も発展もない。(それでも、その間にずいぶん昔仕事で新宿御苑前の雑居ビルを訪れたとき、その一室に井上の伝記刊行会かなにか、そんな表札を掲げてあったのをみたという偶然もあった。)
 したがって、書くこともあまりないのだが、前にはなんとなくそっとしておいてあげたほうがいいのではないかと、わざわざ探して行くことをしなかった。その後、この場所にも変化があったらしい。
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 縁者があとをついで、一度は“井上茂美記念館”もオープンしたともいうが、今は閉館状態になったままのようだ。もともとの住居だった建物は、もう取り壊されてないようだが、わずかに古い門柱がその跡を示すものとして残っているだけだ。
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 勝手に入ってきてうろうろする人間も多いらしい。そこで、“私有地立入禁止”と“記念館は閉館”の張り紙がぶら下がることになったのだろう。個人の記念館など、維持するのも大変だろうと想像はつくが、なにかこのままでも気の毒なような気も…。(阿川さん印税の一部でも…^_~。) 
 そう思いながらも、荒崎の上の台地から海を眺めてみる。
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 この海が、広く太平洋へと続いている。千島、ミッドウエイ、ハワイ、硫黄島、サイパン、グアム、フィリピン、ニューギニア、パラオ、そしてでんでんむしの父親も眠るソロモンとガダルカナルの海へも。
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 毎日、それを海軍の拠点であった横須賀のここから眺め暮らしながら、なにを思っていただろうか。
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 もし、彼がここに立っていれば、いまどきの芸も能もないお馬鹿なインタビュアーなら、マイクを向けて「今のお気持ちは…?」と空疎な決まり文句を言いそうなところだが、でんでんむしにはそんなことを聞くのは無用で失礼だろうと思える。
 それは戦後の伝え聞くその生き方を知れば、それだけで充分、それがすべてなように思えるからだ。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度11分44.15秒 139度36分24.78秒
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dendenmushi.gif関東地方(2016/11/29 訪問)

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