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1460 芝崎=三浦郡葉山町一色(神奈川県)もう古い話になったが御用邸をも恐れず憚らぬ埋立地はいかにしてできたか [岬めぐり]

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 でんでんむしが初めて“葉山”という地名を意識したのは、いつなんでだったか、そのことは前に書いたような気がして、長者ヶ崎でSo-netブログの検索欄から探してみても、出てこない。あれ、おかしいなと思ったら、“長者ケ崎”として項目をあげていたからだった。気が利かない検索だ。それを書いた当時の表記が「ケ」だったのでそうしたはずだが、今見ると地理院地図も「ヶ」になっているので、修正しておいた。これで検索でも出てくるようになったはずだ。
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 長者ヶ崎は、南の秋谷方面から順光で眺めるのが、いちばんきれいに見え、しかも堂々とした岬であることがわかる。森戸神社も葉山マリーナのところも岬ではないし、北の逗子市との境界にある鐙摺(あぶずり)も岬ではなくなっているので、葉山の岬は横須賀市との境界になる長者ヶ崎しかないと、そのときにも判断していたのだが、実はもうひとつあった。
 それが芝崎なのだが、以前は単なる埋立地だと思っていたところに、ちゃんと“芝崎”と斜体の岬名表記で明示されている。そこで、遅ればせながら葉山のふたつめの岬としてカウントすることにした。
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 今回は、立石海岸を通ってきたバスを葉山で降り、ここで海岸周りの別のバス路線に乗り換える。停留所は御用邸の門を挟んで離れているので、警備の人が立つ御用邸の門の前を通り過ぎる。すると、そこに立っていた警備の人から、思いがけず「こんにちは」と挨拶をされた。ちょっと驚きつつ、こちらも挨拶を返す。海岸回り線のバス停に置かれた、葉山ロータリークラブが寄贈したベンチに座って、あれはあの警備の人だけの個性なのだろうか、それともマニュアルなのだろうか、と考えた。
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 葉山の海岸は、南の長者ヶ崎から北の鐙摺まで直線で3.5キロしかないが、その間には葉山御用邸をはじめとして、一色海岸、県立近代美術館、森戸神社、森戸海岸、葉山マリーナといくつかのポイントが並ぶ。そのなかにあっては、芝崎はやはり単なる埋立地以外のなにものでもなく、コンクリート護岸に囲まれた住宅団地に過ぎない。その北側の一角は、飲食店なども並んでいるが、大半は高級住宅地である。
 高級住宅地というものは、持たない者からみればひがみの対象にしか過ぎず、こんなところへ家など建てた日にゃ塩害でたちまち困ったことになるのが関の山だなどと、しきりに陰口をいわれてしまう。
 実際、それへの対策から、徐々に個人住宅は減り、高い壁をめぐらしたマンションが、ここでは幅をきかせるようになっている。
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 埋め立ての前には、ここに広い海食台か岩礁地帯が広がっていたに違いない。それこそが芝崎だったはずだ。真名瀬のあたりは、大峰山の西麓の細い海と海と山の間に家が並んでいたが、その家の人達は目の前が埋め立てられてさぞがっかりしたことだろう。六角形をつくろうとして失敗したような形の埋立地がいつできたのか、でんでんむしにはまったく覚えがないのも道理で、まだ関東にやって来る前の1964(昭和39)年にはもうできていた。
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 そもそも、公有財産であるはずの海面を埋め立てて誰かの私有物にする権利というのは、いったいどういうものなのか、なかなか納得がいかない。漁業補償をしたといっても、海や海岸は漁師だけのものではない。当然ここでも、そのときには埋立反対運動も起こったらしい。このとき、おかしなことに町の教育委員会は、海岸を“保護指定から除外するよう”申請を出していたという。
 東京オリンピックを口実にしつつ、船舶振興会に笹川サンや児玉サンといった毎度おなじみのフレーズや名前が交錯し、森戸神社の宮司だった町長の辞職にまつわる奇妙なウワサなどからみつつ、町の大ボス小ボスにフィクサーとゼネコン、お決まりの構造のなか、既得権益層お得意の手法で、“粛々と”埋め立ては運んでいったようだ。はじめは児玉サンの豪邸もここに建ったらしいが、今は大きなマンションが建っている。
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 “葉山”といえば、御用邸のおかげもあって、全国的にもなんとなく高級そうな良いイメージ、おしゃれな感じが先行しているが、町の内実はこの真名瀬の埋め立てに象徴されているように、古い田舎町の一面が支配していた。今はどうなっているのだろう。
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 埋め立て後の現在でも、埋立地の南西部には岩礁が残り、鮫島という岩島群が潮の満ち引きによって現れたり沈んだりしている。その残った岩礁の部分を、葉山町ではこれも遅ればせながら町の天然記念物に指定して保護しているようだ。荒崎などでは生物相が乏しいと書いていたが、葉山の磯ではいろいろな生物が見られる。
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 でんでんむしも、以前この西海岸ではウミウシだかアメフラシだか、そんなのが浅瀬の岩の間にたくさんいるのを見たことがある。そういえば、昭和天皇も御用邸滞在中にはよく磯を歩かれていて、新種のウミウシだかなんだかを発見されたというのを、新聞で見たような記憶もある。
 それらの生物の採集や、この場所での釣りも禁じられているようだ。
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 そうしたルールを守ることを条件に、シュノーケリングなどの磯遊びはできるようだが、駐車場やトイレなどの設備はなにもなさそうだ。ここで磯遊びをするにはそれなりの覚悟と準備も必要なのだということは、この人たちをみればわかる。
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 芝崎から富士山のほうを見れば、菜島と裕次郎灯台が右手に浮かぶ。この灯台ができる前には、でんでんむしもこの辺りの海をボートで漕ぎ回り、五目釣りを楽しんでいた時期もあったが、それも遠い昔のことだ。
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 では、森戸の青い屋根の「デニーズ」にでも寄って、お昼をいただいて帰るとしようか。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度15分59.42秒 139度34分5.32秒
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dendenmushi.gif関東地方(2016/11/29 訪問)
          ■
 さて、10年前から改めて全国の岬をめぐることにしてリスタートしたときに、まずは足元からと三浦半島の岬をめぐるところからやりなおし、So-netブログへの掲載を開始した。
 それから10年を経過したところで、また三浦半島の落穂ひろいを何回かに分けて訪問してきたが、それもこの芝崎で終わる。東海岸は付け加えるべき漏れている岬、以前はなかったのに岬名が加わったというのがないので、西海岸ばかりになった。 
          ■
 2016年の終わりから、 ずっとほぞぼそと引き延ばし作戦で続けてきたが、いよいよ在庫整理も底をついて終わりになった。
 だが、仕事はまだまだ終わらないし、次の岬めぐりはまだ残っている靑森のむつ湾と十和田湖で計画する心づもりはあるものの、いつ出かけられるかもわからない。
 したがって、これからしばらくは新規項目のアップはできない。ちょうどいい機会なので、このままナニもせずにほっておくとどうなるのかも確かめてみたい。
 やっと、地域ブログのわけのわからないランキングからもはずれることができるだろう。 (2017/04/12 記)

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タグ:神奈川県
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番外:立石海岸=横須賀市秋谷三丁目(神奈川県)子産石は今や絶滅寸前のようだが立石は周辺が公園に整備されて… [番外]

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 あまり地図を見る習慣がない人のなかには、横須賀市が三浦半島の西海岸にもあると知って意外に思う人もいるかもしれない。横須賀といえば軍港であり、戦艦三笠であり、海軍カレーであり、米軍基地であり、ドブ板横丁であって、どうしてもJR横須賀線が走り横須賀駅がある東海岸、東京湾側のイメージが強い。港のヨーコがいたヨコスカをはじめ、歌に歌われる舞台もみな東海岸だ。
 だが、小さな三浦半島では東へも西へも、横断するのにさほどの苦労はいらないので、西海岸も南は三浦市との境界である和田の海岸から、北は葉山町との境界である長者ヶ崎まで、北北西に直線距離で7.8キロの間は横須賀市の領域となっている。
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 秋谷はその市領域の北の端に位置している。その南部、芦名と境を接する秋谷と井戸石(久留和)のふたつの漁港の間、砂浜と岩礁が続く海岸に、岬状にこんもりと突き出た立石が目立っている。
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 ここらを立石海岸と呼んでいるのは、もっと昔はそれなりに風光明媚な海岸線と鄙びた漁村の面影が残っていたからだろう。でんでんむしがはじめてここを訪れた数十年前には、まだいくらかその雰囲気はあった。
 今では海岸の道路脇にはぎっしりと家が並び、ずいぶんと賑やかな海岸線になった。この海岸から北東にトンネルで山に登る広い道がつき、葉山町と半分ずつを分け合う山の上には、神奈川県と三井不動産が結託して開いた湘南国際村ができた。
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 なんだかよくわからない“国際村”だが、国際会議が開かれるわけでもなく、その稼働率を支えもっぱら役割を主張しているのは、どうやら各企業の研修施設としてであるようだ。年中、逗子駅前は、黒っぽいスーツに身を包み、コロコロのついたスーツケースを引きずったオネエサンやオニイサンが、貸し切りの京急バスや国際村行きの路線バスに乗ったり降りたりしている。
 その南の山のなかにあって、かつては秘境とか隠れ里とかいわれていた子安の里も、国際村開発余波のおかげで脚光を浴び、たくさんの看板が海岸にも立つようになった。その国際村から南に降りてきたところが立石海岸。
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 立石のあるところは小さな公園として保存されているが、かつてそこには石碑がひとつ立っていた。実にひさしぶりに寄ってみると、それがどこにいったのかわからない。それは確か、明治だか大正だか、天皇がここに立って景色を眺めたというようなものだったはずだ。
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 三浦から逗子へ出る国道134号線も、一見半島の西海岸線を走っているようなふりをしていて、実際にそういう標識も立っているが、そこを走りながら海が眺められる区間は、実はこの秋谷の立石海岸と、この北の子産石から長者ヶ崎にかけての間だけに限られている。
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 北海道などではそこらじゅうにあって、でんでんむしがこういうのが首都圏にあれば立派な観光ポイントになるのに…と書いているのは、ここに立っている立石のことを思っていたからでもある。このような立石は、三浦半島でもほかにはあまりないので、名前もつくというものだ。
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 久留和漁港のすぐ北、井戸石の岩礁がある付近に、子産石というバス停がある。子産石という名は、安産や多産を願ったもののようだが、その象徴がこのあたりの海岸にゴロゴロしていた丸い石だった。
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 久留和では海の石が、まるでこどもを生むように年々丸石が打ち寄せられてきた。そこで、この石をなでると子宝に恵まれ、妊婦がなでると安産がかなうといわれてきた。
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 かつては、ここらを通れば民家の門柱や玄関や庭先に、そのまん丸い石が鎮座していたものだが、最近ではそれもほとんど見かけなくなった。今ではバス停そばの、横須賀市が指定した表札の付いた台座に鎮座した大きい子産石とどこかの門柱の上にあるのがその存在を主張しているくらい…。
 道の脇の庭先に丸い石をおいていれば、誰か不心得者が車で通りすがりに持っていかないとも限らない。
 そんな事情もあって、車窓から見る程度ではほとんど目につかないほどに減ってしまったのではないだろうか。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度14分26.69秒 139度35分48.06秒
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dendenmushi.gif関東地方(2016/11/29 訪問)

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タグ:神奈川県
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1459 諸磯崎=三浦市三崎町諸磯(神奈川県)地図にない岬を探し訪ねてやってきたのは油壺の南ここは浜諸磯 [岬めぐり]

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 「三浦市」よりも「三崎」のほうが名が通っているように思われると、前に書いたが、それは京浜急行の「三崎口行き」の特急や快速が、都心の地下を南北に通り抜けているからで、それを見ている知っている人は東京には多いはずだ。
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 なにしろ明治からの構想を引き継いでいるという都営1号線と呼ばれたその地下鉄路線は、結構複雑な歴史をもっているようだ。その線に京急が乗り入れを開始したのは、1968(昭和43)年頃だったと思われる。(違う鉄道会社の相互乗り入れでは、1962(昭和37)年の日比谷線と東武伊勢崎線のほうがだいぶ早かったが、もっと早いのあるのかな)
 それ以降は、相互乗り入れは盛んに当たり前のようになり、この都営浅草線などは京急線のほかにも京成線や北総線も乗り入れているので、なかなか電車の種類も多くてにぎやかだし、今でもその実態は複雑なのだ。
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 京急の線路自体は北は本線が泉岳寺までで、東は羽田空港まで、西は新逗子まで、南は浦賀と支線があり、本線は三崎口まで(久里浜線という言い方も残っているのか? 鉄オタではないので細部に突っ込まないで)となっている。だが、三崎口駅は終始発駅としてのバックヤードのようなものをもたないので、それは京急久里浜駅がカバーしているのだろう。
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 京急電鉄が経営するマリンパークもある油壺は、いちおう観光地であるが、別荘地でもあった。でんでんむしはそういうものとは縁がないが、ここに別荘をもって、マリーナにヨットが置いてあれば、それは大変なステータスということになるのであろう。
 京浜急行としては、かなり早い段階から、この油壷まで線路を引き電車を走らせるつもりであったが、結局それは断念せざるを得なかったようだ。1975(昭和50)年開業の三崎口駅で線路が終わっているのは、その機を逃した残念さの象徴のようなものだ。それは、三崎口駅の駅前に立ってみればそこはかとなく感じられるはずである。
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 「諸磯崎」という岬は地理院地図やMapionにも載っていないうえに、三崎口駅の観光パンフからももれている。にも関わらず、ここで一項目を立てた理由にはふたつある。ひとつは三浦半島で有名な油壷に岬が全然ないので淋しいこと、もうひとつは地質学がらみでは歴史的にも有名な無視できない場所が近くにあったからだ。
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 北から小網代湾、油壷湾、諸磯湾と深く切れ込んだ入江が連続する一帯は、いわゆるリアス海岸でもあり、湾があるということは岬もそれぞれにあるのだが、なぜかこの付近の地理院地図には、岬の表記が見当たらない。
 諸磯でも“油壺”を名乗る施設や建物が多く、それには別荘ではなく老人施設が多いのがわかる。まあ、老人施設もある意味別荘のようなもんだが…。
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 さらに西へ歩いて行くと、ダイコン畑やキャベツ畑も広がる三浦半島らしい風景が続き、それが終わって海岸へ出たところが浜諸磯。
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 諸磯崎は神社の横を進んでから細い横道を抜けたところに、海食台が開けたところで、白いスタイリッシュな灯台が立っている。この岬の北側が、油壺湾と諸磯湾への入口になっている。
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 ここまでは、三崎層の特徴を示す互層になった岩があるが、油壺から北へは砂岩と礫岩からなる初声(はつせ)層に変わる。
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 諸磯崎のすぐそばまで別荘らしい建物が、わが物顔に迫っている。
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 岬の南側に回ると、高く崖が切り立っている。
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 浜諸磯からは南に三崎港を回って三崎口へ行くバスがあるので、それに乗ると海外町の漁港を通る。このとき、道路を切り開いた切り通しの崖が露出しているが、ここは神奈川県の天然記念物に指定されている地層がある。
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 地層が大きく波打った曲線を描いて、うねっているような模様があるが、これも城ヶ島の灘ヶ崎の項でふれたスランプ構造なのだ。
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 この付近には、ほかにももっと地質学上の見本になる露頭がたくさんあるらしいのだが、まあシロウトの知ったかぶりもいいかげん適当にしておかないとイカンしね。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度9分19.97秒 139度36分27.65秒
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dendenmushi.gif関東地方(2016/11/25 訪問)

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番外:国指定天然記念物「諸磯の隆起海岸」=三浦市三崎町諸磯(神奈川県)研究の出発点となった記念物 [番外]

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 地理院地図では天然記念物や史跡などに「 ∴ 」記号付きで表記されているが、必ずしもその全部が記号付きで表示されているわけではないようだ。その基準はよくわからないが、やはり、地図の載せるのに適当なものと、それにはあまりふさわしくないものがあるからだろう。この「∴ 諸磯の隆起海岸」というのは、前々から地図でみていたので、気にはなっていた。
  “隆起海岸”といっても、ここは半島の海岸からはいささか離れた場所のようだし…。
 三浦半島の岬落ち穂拾いのついでに、そこにも初めて行ってみることにした。
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 京急バスの天神町というバス停で降り、住宅街の間を西へ進むと、道が急な下りになって右に別れる角に、“諸磯遺跡”という文字が彫られた古い石碑が立っている。
 さては、これか?と思ったが、“遺跡”ともちょっと違う。後でわかったのだが、これは別にある縄文時代の標識土器や住居跡などがあった遺跡のことだった。それは、この台地の上や北側の斜面から発見されたらしい。
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 そこから北へ折れ、谷に下っていくと、いくつもの老人施設の看板が並び、谷に降りきったところに“諸磯隆起海岸”の案内看板があった。どうやら板に書かれたそれを立てた人の名からすると、そのそばに建つ大きなホテイさん(いや、ダイコクさんだったかな?)の像がある家の人が立てたようだ。
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 例によって勝手な想像だが、あるいはよくその場所の在処を尋ねられるので、いちいち面倒だというのでこれを立てた…?
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 そこからほど遠からぬ谷戸の山際に、遠くからも目立つ黄色っぽい大きな説明看板がある。その前の崖の露頭が、一部では有名な「諸磯の隆起海岸」なのだ。諸磯崎という岬名は表記していない地理院地図も、それは「 ∴ 」記号付きで示されている。
 なにしろ国の天然記念物としては古い部類で、1928(昭和3)年に指定されている。この崖には、ポコポコと空いた小さな穴の列が6列くらいあり(というのだが、見た目にはそんなに多くない)、その穿孔貝が開けた巣穴の跡が、過去に起きた地震の間隔やそれによって陸地が隆起した程度などを推し測ることができるという。
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 三崎では“ミズガイ”と呼んでいる貝は波打ち際に巣穴を掘る。その巣穴の列が汀線を示しているわけで、古い時代には大根畑のこの谷も入江だったという証拠で、それが今ここにあるということは、陸地が隆起したことの証にほかならない。
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 シロウトにはそれと大地震との関連がいまいちよくわからないのだが、こうした研究の出発点になったのが、この露頭からだったということらしい。だから、この天然記念物には、二重の意味の重要性や記念すべき点がある、というわけなのだろう。
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 ネットにもいくつかこれを紹介しているページもあるが、その写真を見るとホテイ(orダイコク)さんの立てた案内板も、現地に立っている三浦市教育委員会の説明板も、どうも古いものばかりのようだ。で、現在のはそれを取り替えて新しくしたものらしい。
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 露頭の写真を見ると、古い写真のほうがその特徴をはっきり示していて、現在は草木などが茂るためか、下の列以外はあまり明確でない。
 三浦市教育委員会が1996(平成8)年に建て直した看板は、ニスのようなものが塗られ板に彫られた文字もなかなか味わいがある。
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 国指定天然記念物 諸磯の隆起海岸
       昭和三年二月二十四日 文部省指定
 この崖の表面にみられる小穴の列は、穿孔貝の巣穴の跡で、堆積時期を異にするシルト(砂泥)岩質の地質の側面に、小規模のものを含めて六列ぐらい数えられる。
 巣穴の多くは風化され、形はさまざまであるが、一般に下部の列のものほど、よく保存されている。
 穿孔貝(ほとんどがイシマテガイで、別名この貝をヒミズガイ」ともいう。三崎ではこれを「ミズガイ」と呼んでいる。)は、波打ちきわで岩をほり、巣穴をつくってその中で生活する。したがって、古い巣穴の跡があれば、これから過去の汀線の位置や高度を知ることができ、また、これによって、歴史上の大地震の間隔や隆起量などが推定される
 この崖の巣穴の跡は、この種の推定を試みるにあたって、その出発点となったもので、それぞれの列は、いずれも、ある時代に汀線だったことを示している。そして列の数や巣穴の保存状態から、この場所が、過去なん回かにわたって隆起したことを物語っており、歴史上の大地震を知る上で貴重な資料といえる。
    平成八年七月一日


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▼国土地理院 「地理院地図」
35度9分4.43秒 139度37分22.42秒
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dendenmushi.gif関東地方(2016/11/25 訪問)

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番外:通り矢のはな=三浦市晴海町(神奈川県)こどもの頃から口ずさんでいたこの歌は「城ヶ島の雨」だけど… [番外]

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 何度も書くようだが、歌というのはほんとうに不思議なものだ。こどもの頃からラジオで聞き、鼻歌にいいかげんに口の端にのせていた歌がたくさんあって、いまも忘れない。若いミュージシャンやシンガーソングライターもおらず、流行歌手もまだこれといっていない時代からつくられ、歌われてきた歌の数々の一部は、現在では「抒情歌」とかいうくくりで中高年に人気のようだ。
 それは、やはりでんでんむしと同じように、昔の子供時代、若かりし頃に流れていた時間とシンクロするからであろう。
 「城ケ島の雨」も、そうしたあまたの歌のひとつ。北原白秋の作詞で、作曲は梁田貞、1913(大正2)年につくられたこの歌は、YouTubeにはなんと数十もの動画がのっかっている。歌い手は美空ひばりから無名の人までさまざまだが、五木ひろしや倍賞千恵子、キム・ヨンジャや田川寿美などなど有名な歌手のものもたくさんある。そのひとつの鮫島有美子の動画には「YouTube以外のウエブサイトでの再生はできない」との注意書きがでるが、それ以外は全部フリーのような顔をして並んでいる。しかし、そのうち権利関係をクリアにしたうえでアップされた動画は、厳密にみれば極めて少ないのではないか。
 その頃の歌詞はなかなか高尚なものばかりで、その詞の意味などわからないものも多かった。“利休”も知らず、“ねずみの雨”とはなんじゃろかと、わけもわからずに歌っていたその歌は、華々しく詩壇デビューした北原白秋が、隣家の夫人との不倫関係によってスキャンダルを起こし(当時は姦通罪があったので実際に投獄もされたらしい)、その相手と結婚して(その後離婚)この三崎に移り住んでいたときに書かれた詞だったことなど、ずーっと後になって知ったものだ。
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 白秋が住んでいたのは、城ヶ島を対岸にみる向ヶ崎で、もちろんその当時は城ヶ島大橋などないから、通り矢とその向こうの島の遊ヶ崎付近を眺めて暮らしていたのだろう。その日常の風景から生まれた詞は、芸術座の音楽会のために依頼されたもので、大幅に遅れてきた詞に作曲家は開演前のわずか数日で仕上げ、自らのテノールで初披露されたという。
 この詩人のその後の活躍ぶりはいうまでもないが、詞のイメージとは違って、実生活は離婚と結婚と転居を繰り返すなど平穏ではなかったようだ。作曲の梁田貞は「どんぐりころころ」の作曲でも知られるが、それはだいぶ後年のことになる。
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 「城ケ島の雨」の歌碑については、三浦市のサイトで、“昭和24年の建碑除幕”とあり、“昭和35年4月17日、城ヶ島大橋架橋により現在地に移転”されたとあるのだが、架橋以前の歌碑がどこにあったのかがわからない。
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 それまでは渡船で往来していた城ヶ島に橋が架けられたのは、1960(昭和35)年のことで、城ヶ島の住人と徒歩・自転車は無料だが、今も渡り賃がいる有料の橋なのだ。全長は575メートルで、下の水路は遠洋漁業の船が出入りするので海面からは23メートルと高い。当時の架橋橋梁技術を結集して完成したのも、高度成長期の入口に差し掛かった時代の心意気を感じさせるものとも言える。
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 「舟は行く行く 通り矢のはなを」という歌の一節にある通り矢も、現在はその姿が大幅に変化しているようで、当時の姿を想像するのがむずかしいほどではないかと思われる。
 その名は、頼朝がここで通し矢をしたのが由来とする説もあるが、陸地と岩礁の間の海流の早いところ(矢のように流れる)を指すのだろう。しかし、今では晴海町一帯の埋め立てが進んで、その早瀬のような場所がなくなっている。
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 岩礁が一部残りそこは釣り人に人気のスポットではあるらしいが、白秋が歌に詠んだ風情はもうない。
 「通り矢のはな」とは鼻であり岬であったのだろう。そういえば、白秋が住んでいたのは向ヶ崎、対岸は遊ヶ崎、そしてこの付近一帯は三崎で渡し船が出ていたところは仲崎。地名も“みさき”だらけなんですよ。
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 けれど、三崎と名が付く地名は、城ヶ島大橋の西側だけ。それも小網代まで。一部には「三浦市より三崎のほうが有名」という声もあるが、三崎は油壺から三崎の漁港までの間で、三浦市のほんの一部。
 京浜急行の言う「三崎口」も「口」ではあるかもしれないけれど、三崎ではない。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度8分16.36秒 139度37分39.96秒
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dendenmushi.gif関東地方(2016/11/25 訪問)

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