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番外:毛無山の南で久遠と大成そして富磯=久遠郡せたな町大成区富磯(北海道)5年前に続いて二度目の綱渡りで大成訪問 [番外]

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 須築から帰ってきたマイクロバスを三本杉で降り、北檜山を経由する長万部行きバスが上三本杉から来るのを待っていると、ムクドリかなにかの群れが、薄暗くなりかけた空に乱舞する。(それを撮ったつもりだったが、今回はデジタル記録の設定を失敗して解像度を少し荒くしていたのに気がつかなかった)もう夕暮だが、これから北檜山16:26発の第二富磯行きに乗らなければならない。
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 旧大成町の中心部であったところまで行くには、北檜山のバスターミナルから函館バスが運行する若松・久遠線に乗る。このターミナルは、とうの昔に廃線になった旧駅の跡地を使っているので、広々としている。
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 合併でせたな町をつくった3つの町のひとつは、旧瀬棚町、旧北檜山町とはひと山越えた南に位置する旧大成町であった。合併のいきさつについては「1462 稲荷岬」の項で述べた。つい「くおん」と読みたくなってしまう久遠(くどお)というのは、元々は旧大成町がもっていた郡名で、これが合併後のせたな町に引き継がれた。だから、大成区には湾や漁港や神社や字地名などに久遠の名がいくつか残っている。
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 では、若松というのはどこなのだろう。バスは北檜山から国道229号線を南に辿ると、まず後志利別川を渡ると、100メートルほどの低い峠を越えて、盆地に入る。若松はこの複雑に入り組んだ盆地の南一帯の地名なのだ。
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 ここだけ海岸線をなぞらない国道229号線(と276号線のはずだが、めんどうなので省略するね)は若松からさらに道は谷間の奥深く入って南下し、今度は標高200メートルの太櫓越峠を檜山トンネルで抜けて、大成区に入ると海岸の宮野まで降りていく。
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 北檜山と宮野の間は、海岸から離れた内陸の山の間をぬって走る。国道と海岸の間、11.5キロの間には、816メートルの毛無山の山塊がドンとあるのでこれを迂回するが、合わせて若松のような山間の盆地に暮らす人の便にもなっているのだ。
 この道を切り開いたのが商人たちだったという話は、前に「863 小歌岬」の項でふれていた。
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 国道は宮野で久遠湾の海岸に出ると、南東側に一路江差方面に向かっていくのだが、若松・久遠線のバスは、宮野の三叉路から西に向かって道道740号線に入って大成学校前というバス停まで行く。
 日に北檜山を出る下りが4便、上りは3便しかない。所要時間は40分ほど。ロカール路線バスではこれもよくあるのだが、上りの最終便は、折り返して戻ってこない。バスの車両とドライバーがそこに泊まるのか、それとも回送して翌朝の始発便はまた回送で行くのか。回送するくらいなら1便増やしたほうがてんというのはシロウト考えなのだろう。ここではどうなのか知らないが、それにもバス会社と路線によっていろいろな理由とケースがあるのだろう。
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 実は2012年にやってきたときには、南の乙部町から八雲町の西海岸線を北上してきた。ポンモシリ岬を過ぎたところからせたな町に入り、親子熊岩を経てツラツラ岬を過ぎ、その日は貝取澗のあわび山荘に泊まった。
 翌朝、朝食もとらずに宿の車で宮野まで送ってもらって、なんとか宮野発05:58発の大成学校前行きに間に合った。
 なぜにそのような綱渡りをしたかといえば、この路線はこの始発便の一本が折り返して北檜山行きになって戻って行くと、その次の便は午後の12:54までないからである。この状況は、5年後の2017年でも変わっていない。
 とにかく、このときは宮野から大成学校前までこのバスに乗り、久遠湾の外横澗岬、横澗岬、湯ノ尻岬、稲穂岬、そして小歌岬をそれぞれ項目にアップしている。kudo-2.jpg
 だが、小歌岬の西にも、日昼岬、添泊岬があり、その先の富磯集落の奥には帆越岬がデンとして控えている。ところが、この路線は富磯まで行くのは日に1便1往復しかない。それで前回は小歌岬で終わっていたので、今回はその残りをクリアしたいというわけなのだ。
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 しかし、今考えてみれば、このときに朝食もゆっくりとって、朝のバスで宮野まで行きそこからは、歩く距離は長くなるが4時間かけて富磯までゆっくり行って、余裕を持って午後の便で北檜山に行くという計画にしたほうがよかったのかもしれない。そうすれば、一度の大成訪問でこの地域の岬めぐりは終了できたのだ。
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 これも前後の計画のたて方にもよるので、その後のルートとダイヤの関係もあり、採用できるプランはどれかひとつに絞られ、いちがいにどっちがよいとか、ましてどれが正しいということもない。つまり、でんでんむしの岬めぐりはこういうことの積み重ねで成り立っている。
 それでも、海岸線をバス路線がぐるっとめぐっているところでは、こうした混乱はないのだが、ここのように国道が海岸から離れているとか、路線がつながらないで細切れになっているところが問題だ。
 終点のバス停は第二富磯というところで、そこまで行けば、帆越岬には接近することができる。しかし、尾花岬は影に入って望めない。それでも、行けるとこまで行くという方針にしたがって、この夕方だけ1日に1便1往復のバスに乗ってまたやってきた。

▼国土地理院 「地理院地図」
42度14分43.97秒 139度48分12.34秒
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dendenmushi.gif北海道地方(2017/06/30 訪問)

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1465 茂津多岬3(中茂津多岬・冷水茂津多岬)=せたな町瀬棚区北島歌・島牧村-(北海道)渡島半島の北を区切る狩場山が下るところ [岬めぐり]

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 茂津多岬については、これまですでに二度ばかり項目としてあげていた。ひとつは2012年の訪問ではせたなの水垂岬付近から北を遠望した。直線距離でおよそ29キロ離れていた。

 870 茂津多岬=久遠郡せたな町瀬棚区北島歌(北海道)とりあえずここは遠望で確認しておくだけです

 それからふたつ目、2016年には台風で長万部にも行くことができず、計画を大幅修正して江差から奥尻島へ渡ったときに、46キロ離れた島の最北端稲穂岬からの遠望として、茂津多岬2を項目としていた。

 1442 茂津多岬2=久遠郡せたな町瀬棚区北島歌(北海道)巨大な山塊が落ちる海岸を4つの長いトンネルで抜けるところ

 遠望ばかりでふたつも項目をあげたいきさつや心づもりについても、そこでふれているが、今回はついに茂津多岬3である。いやはや。
 今回も、その岬の上に立ったというわけではない。なかなかの難所なので、やっとどうにか須築の港から1.6キロまで接近した、ということでOKにしたい。
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 茂津多岬のある山地は、国道は海岸から1.3キロもの内陸側を、全長1.9キロもある茂津多トンネルで通り抜けている。このため、道路や陸側からは眺めることができず、北側ではもっとトンネルが断続的に続くので、せいぜい南からのいちばん接近した眺めがこの程度ということになってしまう。
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 もう少し西寄りに位置を変えてみれば、もっとはっきりとこれが茂津多岬だと言えるのだが、バスの都合でそれはできない。
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 だが、ここ須築の旅館に一泊して、翌朝歩いて山登りをするつもりがあれば、岬の上に立つことも可能なのだ。その場合は、旅館の前から国道を須築橋まで進み、トンネルの入口手前から元へ戻るように南向きに斜面を登って行く。150メートルも高さを稼いだところからまた北向きにゆっくりと広い台地上の上を進んだところが茂津多岬の上になる。茂津多岬のコブから250メートル北にもコブがあって、そこは中茂津多岬という名もついている。このラインがせたな町と島牧村の境界線になる。
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 境界線を越えたところに灯台が立っていて、これが茂津多岬灯台。地図では標高270メートルくらいのところにその表記があるが、実はここの灯台は日本一標高の高い灯台なのだという。平均水面上から灯台の先端までは標高290メートルなのだそうだ。灯台の北400メートルのところで海に突き出ているコブには、冷水茂津多岬という名がついている。
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 この台地の上に登れば、つごう3つもの岬が並んでいるわけで、岬めぐりとしては、本来ならどうしても登ってみたいところだ。
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 まあ、10年前ならその気にもなっただろうが、この頃ではもうムリはできないし、おまけにここはクマがよく出る場所としても知られている。
 そういうわけで、ここはとりあえず図上演習で、そこへ行ったつもりになっておこう。まあ、登ったからといって、実は、岬は岬の上に立ってもさっぱりなんだかわからないというのも多いしね。
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 …と、また負け惜しみを言っているが、地形的にはこの台地はなかなかの景観も予想できる。植生もきっとすばらしいのではないか。須築橋からの林道は、車も入ることができる道らしいので、車ならなんなく上まで行けそうだ。それでもクマ承知で観光ポイントとして売り出すには、まだまだなのだろう。
 なぜか見づらいせたな町のサイトでは、「せたな町観光ガイド」2015を紹介しているが、そこには日本一標高が高い茂津多岬灯台の小さな写真が一枚あるきりだ。だが、残念ながら灯台のあるところは島牧村でせたな町ではないし…。
 しかし、その写真の下では「せたな町の観どころはその雄大な自然。総延長72kmの海岸線を彩る芸術的な奇岩の数々は圧巻です。」としている。
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 確かに、せたな町のポイントは、三本杉や親子熊岩(858 長磯岬・親子熊岩=久遠郡せたな町大成区長磯(北海道)しみじみと親子の情愛を感じさせてくれる岩)が代表する海岸線であろう。渡島半島の北で巨大な山塊を従える茂津多の岬だけではなく、北海道最西端の岬(奥尻島を除くと)となる尾花岬もあるし…。大きな地図で一見すると、茂津多の岬と尾花岬は並んでいるように見えるが、尾花岬のほうが5キロも西へ飛び出ている。
 問題は、道はあってもトンネルばかりだったりバスも走っていないということなのだ。
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▼国土地理院 「地理院地図」
42度36分34.32秒 139度49分21.17秒
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dendenmushi.gif北海道地方(2017/06/30 訪問)
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1464 弁天岬=せたな町瀬棚区北島歌(北海道)お隣さんの集落は南へ5キロ北へは10キロも先にありますここは須築(すっき) [岬めぐり]

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 須築トンネルを出るとすぐ、またトンネルが続く。これは藻岩トンネルで71メートルの短いトンネルだが、おや?
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 藻岩岬のある580メートルのトンネルが須築トンネルで、須築に近いほうの短いのが藻岩トンネルだという。逆のように思えるが、どういう事情でこういう名前になったのだろう。
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 それにしても、ホントどーでもいいことばかり気にしている。まー、それがこのブログの真骨頂と自負するところでもあるわけなんだけど…。
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 美谷の北付近から、ずっと建物も何もない海岸線が続き、しばらく行くとまたもうひとつの短いトンネルと、台座のような岩の横を通り抜け、カーブを回ると、前方にぽこぽこした小山が見えてくる。これが弁天岬だ。
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 この国道229号線を走る間じゅう、人っ子ひとり見かけることはなかったが、弁天岬の手前で道路工事をやっていて、そこの信号機の横に立っていたおじさんがいた。この人が往復の間で見かけた唯一の人間だった。
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 弁天岬では、この北と南に防波堤が延びる港があり、須築の集落が固まっている。
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 このバスの終点である須築にやってきた。長いこと、懸案にはなりつつも、なかなか来ることができなかったこの路線。三本杉からここまでおよそ25分。運賃は480円也。
 終点のひとつ手前の漁港で降りたのだが、終点の須築もすぐその先で、バスが道の向こうに見えている。
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 このバスが、数分後には折り返してまたきた道を戻っていくわけで、これを逃すと1時間40分後の最終便になってしまい、それだとこの後の岬めぐりの計画がまったく成り立たなくなってしまう。
 せめてもう少し、折り返し時間に余裕があるといいのだが…。バスのほうにしてみれば、ここで何十分も時間を待つ理由はなにひとつないのだ。
 これも、公共交通機関でめぐる岬めぐりではよくあることで、いたしかたない。
 弁天岬という名で、小山の中腹にはちゃんと神社マークがあるので、弁天さんがここにも祀られている。そこまで行けば、あるいは北の茂津多岬も、もうちょっと姿を見せてくれたかもしれない。
 とにかくそんなわけで、須築の滞在時間はわずか3分。その時間ではどこへ行くこともできないので、弁天岬の弁天さんも見えずじまいに終わった。弁天岬という同名の岬は、全国各地にあるが、このせたなの町内にもうひとつあった。それは、太櫓・鵜泊線に乗って行くと途中の海岸の岩礁の上にあったもので、2012年にやってきたときには、そこは車窓から眺めて、項目にあげていた。

   866 弁天岬=久遠郡せたな町北檜山区太櫓(北海道)岬の赤い弁天社に託す人々の願いはなんだろうか

 ふたつの港の間にあって、それを守るようにしてある須築の弁天さんは、せたなの最北端の奥まった集落にとって、決して小さな存在ではないのだろう。同じ町内とはいえ、南の集落である美谷までは5キロ弱も離れていて、北隣となる島牧村のいちばん近い集落である栄浜までは10キロ以上も離れている。
 そんな周囲からは隔絶した集落が須築で、戸数もあまり大きはなさそうだが、結構立派な旅館もある。おそらく、この国道沿いでは、重要な宿泊施設になっているのだろう。
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 地図上の弁天岬の表記は、弁天さんのある小山から西の海に大きく張り出した岩礁と南の港の防波堤の先につけられている。
 北を回りこんできた須築川が、茂津多の台地の下で海に流れ込むところに、自分たちの居を定めようとしたのは、どんな人たちだったのだろうか。
 河口に港をつくり、その港口の小山に弁天社を祀り、その出っ張りを弁天岬と呼んで港の目印としたのだろう。
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▼国土地理院 「地理院地図」
42度35分38.19秒 139度49分27.27秒
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1463 藻岩岬=せたな町瀬棚区北島歌(北海道)この付近では国道229号と国道276号が同じところを走っている? [岬めぐり]

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 虻羅トンネルを出たところの海中には、亀岩、窓岩があり、さらに北の美谷トンネルのところには獅子岩がある。藻岩岬は、その先の横滝トンネルを出ると、前方に見えてくる。
 そこはもう、須築トンネルの山が南西に落ちるところだ。
 虻羅トンネルの北から藻岩岬までの海岸線は、およそ7.5キロほど。
 この間に集落は白岩、島歌、長浜、美谷、北島歌と続き、港も大小3か所ある。トンネルと覆道もふたつあり、5本の川が谷をつくって海岸に達し、滝もふたつ表記されている。
 こういった海岸線は、日本中どこでもだいたい似たような様相を呈しているとも言えるが、北海道の場合には、崖が急峻で、海岸に岩礁や立岩が多く、人家が集まる集落も飛び飛びで少ないということが言えそうだ。それに看板の類もほとんどないので、風景がきれいに見える。moiwamisaki-4.jpg
 こんな看板はあるけれど。(バックミラーに注目。この後ろにまだ続いている。)
 窓岩も亀岩も獅子岩も、それぞれ奇観として人の目を意識してつけられた命名だろうが、それを楽しみに見にわざわざやって来る人は少ない。
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 獅子岩がある美谷トンネルの北側から見ると、その背後に巨大な一枚岩が縦に落ちてきて海岸に突き刺さったように見えるところがあった。実際の生成の過程は、陥没か隆起かによって硬い一枚岩が残ってあらわになった、というものだろうが…。
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 一見ゴジラ岩のような獅子岩を過ぎると、美谷の集落を通過する。海際には国道の標識があって、229と番号がついている。
 美谷付近の地図を拡大してみると、北に神社があって、南のはずれに郵便局がある。考えてみると、郵便局というのは偉大なものだ。小泉郵政改革によってごちゃごちゃにされかけたが、どっこいそのネットワークは日本全国こんな隅々まで、特定郵便局はちゃんとがんばっているぞ。
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 美谷川が流れる海岸道路には、青い逆おにぎり型の国道マークふたつあって、それには229と276と記されている。あれっ、標識は229ひとつしかないのだけど…。
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 車の運転をしない(できない)でんでんむしは、国道のお約束もよく知らないのだが、ひとつの国道がふたつの国道を兼務することは、よくあるらしい。
 国道229号線は小樽市と檜山郡江差町を結ぶもので、国道276号線は苫小牧市と江差町の間の国道であるという。ならば276号線は、どこかで東に向かわなければならないが、いったいどこで分岐しているのだろう。そんな興味が湧いてきてその名を辿っていくと、翌日の岬めぐりを計画している島牧村と寿都から岩内の海岸を進み、倶知安から支笏湖南岸に出て、苫小牧市に達している。
 しかし、国道のシロウトとしては、江差と岩内の間で、わざわざ国道276号と国道229号をダブらせなければならない理由がよくわからない。ついでに江差を見ると、厚沢部川の河口付近の柳崎橋から北へは、229と276だけでなく、途中で熊石から八雲に分かれていく国道277号というのまであり、ひとつの同じ道路に都合三本の国道の名がついていた。
 松前から始まり、松前半島と渡島半島の西岸を北上していく道路には、追分ソーランラインという別の名前もついていた。それもこの先の茂津多岬を境とするせたな町で終わり、その北の島牧村からは雷電国道という呼び名になって小樽までつながっていく。
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 横滝のトンネルを出ると、目の前に現れるのが藻岩岬。
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 藻岩川の北で、須築トンネルがくぐり抜けている尾根が、西に張り出して海に落ちている。この周辺の海岸線では崖が多い。この藻岩岬の南でも北でも崖になっている。
 ところが、ちょうど岬のところだけ、240メートルのピークから、ほぼ等間隔で等高線がきれいに下っている。そのため、この岬は、なだらかな傾斜を描く岬になっている。
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▼国土地理院 「地理院地図」
42度34分35.52秒 139度49分47.05秒
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1462 稲荷岬=せたな町瀬棚区元浦(北海道)お稲荷さんは見当たらず虻羅の崖のほうにひきつけられてしまうが… [岬めぐり]

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 前項の番外で、北檜山地域の輪郭はなぞってみたが、海側のせたな町が久遠郡で、長万部寄りの今金町が瀬棚郡となっていた。素朴に考えて、「せたな町」が「瀬棚郡」でないのはおかしい。なんでだろ?と思った。
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 せたな町は、2005(平成17)年に瀬棚郡瀬棚町と瀬棚郡北檜山町と久遠郡大成町が合併してできた。こういう合併の場合、どうしてもそのなかでいちばん大きい町などが中心となって、それに引きずられることが多いのだが、ここでは3町の間の力関係が均衡していたのだろう。
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 合併に際しては、3町のそれぞれの顔を均等に立てるように配慮された。その結果、町役場は瀬棚郡北檜山町に置き、町の名は漢字ではなく「かな」にしたうえで瀬棚郡瀬棚町からとり、郡名は他の二町とは異なる久遠郡大成町から引き継ぐということになった。
 大岡裁きのようなまとめかただが、これがわかると、この地域の状況がだいたいよく納得がいく。
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 長万部から乗ってきた函館バスは、北檜山ではなく上三本杉が終点となっているが、そのひとつ手前の三本杉で降りる。バスの運転手さんに聞くと須築への乗り換えは、終点の上三本杉よりも瀬棚市街の北、三本杉のほうがいいだろうというので、そのアドバイスに従った。確かに、ここでは北行きのバス停に二本のバス停標識が立っているが、後で通りがかりにみたら、上三本杉には北行きにはそれがなかった。
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 計画通り2分の待ち合わせで、東ハイヤーのマイクロバスがやってきた。例によって乗客はでんでんむし一人だけ。
 瀬棚須築線と呼んでいるこのバス路線は、函館バスの足が伸ばせないというところなのだろう。町では「運行は(有)東ハイヤーが行い、バス運行に係る経費は運賃収入等、町と北海道からの補助金によって運行されています」とサイトで書いている。どうも実際は町営というより(サイト上のダイヤも別扱い)、せたな町瀬棚区の区営バスというような位置づけらしい。
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 この路線の維持に努力が払われているのは、主に老人などの交通弱者と通学生徒のためであろう。日に4〜5本のダイヤは、瀬棚方面に行く南行きは早朝に、須築へ行く北行きは夕刻に組まれており、日中に使えるのは2本しかない。この路線に乗りその後の若松・久遠線に続いて乗るために、土日ダイヤを避けほかとの日程調整にずいぶん苦労した。
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 旧瀬棚町の地域は、瀬棚区として海岸沿いに広がり、風力発電の風車と三本杉と日に1便だけ奥尻島との間をフェリーが発着する港がある。その北に位置する三本杉からさらに北へ、毎度おなじみの風景が展開する海岸沿いの道を5.5キロほど進むと、この区間最初の岬となる稲荷岬がある。
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 三本杉の北では、梅花都、中歌、元浦、嗣内、虻羅といった集落が点在していて、これらがみんな瀬棚区元浦という地域。岩礁や立岩が続く海岸の先に、岬らしい巨大な岩の飛び出しが見えてくる。
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 これが稲荷岬だ、と言いたいところだが、国土地理院地図の岬名表記は、この岩の間を通り抜けた先、道路がゆるく膨らんで弧を描いているところにつけられている。バスの通りすがりにはお稲荷さんは見当たらず、地図にも神社記号はない。(落合道人ブログのコメントで、これは「トウカ」の原日本語に漢字を当てたのでは、と教えてもらった。なるほど、稲荷社のない稲荷岬もあるわけだ。)
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 漁師の店を看板にした店など数軒の建物があるその付近は、虻羅の集落と港のすぐ手前で、海には岩礁地帯があり、山側にはふたつの小さな尾根と崖が張り出している。
 稲荷岬は、現在はこの丸い出っ張りになっているが、あるいは元はもっと尾根と連動したちゃんとした岬だったのかもしれない。
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 目の前のバスのフロントガラスに、巨大な崖が現れる。このほうがずっと岬らしいが、ここは岬の名はなく、また実態も岬ではなく「クズレ」という記名は崖につけられている名だ。1.2キロに渡って続くこの崖の中を、虻羅トンネルで道路は抜ける。
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▼国土地理院 「地理院地図」
42度29分56.96秒 139度50分36.49秒
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dendenmushi.gif北海道地方(2017/06/30 訪問)
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番外:長万部と渡島半島=山越郡長万部町字長万部(北海道)台風による函館本線不通で変更した2016年未達プランに再挑戦 [番外]

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 長万部へは2011年と2012年にやってきていた。2016年09月にも、ここを目指して開通してまださほど間もない北海道新幹線に乗って新函館北斗まではやってきたものの、そこから先の道内のJR線が台風の影響で不通になっていて、急きょ計画を変更せざるを得なかった。しかたがないので函館北斗から木古内まで戻って、江差経由で奥尻島へ渡り、また帰ってきたので、そのときはJR北海道は函館北斗と新青森の間しか乗らず、まったく北海道全線フリーの意味がなかった。
 
 1421 道南の岬をめざしたものの=奥尻島・渡島半島・松前半島(北海道)震災の島とふたつの半島の落穂ひろいと…
 
 今回は留萌までJRに乗る計画にして、同じく「大人の休日倶楽部パス」、JR東日本全線とJR北海道全線5日間乗り放題のフリー切符を利用した。この切符も人気が高く、とくに北海道へ向かう東京駅06:32発の「はやぶさ1号」の座席指定券は、すぐに満席になってしまう。ようやく利用期間ぎりぎりの出発最終日に「一席だけ空いています」という指定をどうにかとって、4時間20分かけて新函館北斗までやってきた。
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 前にも書いたことだが、この新幹線の設計は感心せん。当然、窓際の席がとれないと、それ以外の席では車窓の景色などはほとんど望めない。窓側でも目の前にあるのは柱のような壁であって窓ではない。景色を見るために首を45〜90度に曲げなければならないのは不自然で、座席を倒せば…と設計者は言うのだろうが、顔の向き斜め前に展望は開けてほしいものだ。それが自然だろう。これじゃ長時間の乗車はしんどい。やっぱり北海道は飛行機のほうが…。
 それはともかく、まずはそのときに計画していて行けなかった渡島(おしま)半島西海岸の岬で残っているところをめぐる。その拠点というわけではないが、公共交通機関で回るでんでんむしの岬めぐりでは、どうしても長万部を通らなければならないことになる。
 新函館北斗から道内北部に入って行くには、まずなにはともあれ噴火湾の西岸を走る函館本線に乗り換えなければならない。新函館北斗の駅では、北へさらに向かう人と、南の函館へ向かう人と、観光客の流れはごったがえしつつ徐々に二分されていく。
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 駒ヶ岳を眺めながら大沼公園を過ぎ、森から噴火湾(内浦湾)岸を北西に進むとあの木彫のクマを生み出した八雲、そこからは北北東に進路を変えて長万部に着く。この間、スーパー北斗だと所要時間は1時間と10分。ここからは、函館本線は北西に向かって山の中に入っていき、室蘭本線は北東の湾岸沿いに伸びていく。
 ダイヤは、圧倒的に千歳を経由する室蘭本線が中心で、倶知安、小樽を経由する函館本線は、「本線」も名ばかりで完全に支線である。もっとも、小樽や札幌から旭川へ行くのも函館本線だから、このルートも一部ではまだかろうじて「本線」の命脈を保っているのだろう。
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 せたなと島牧に2日に日を分けて行く行程なので、初めて長万部に1泊しなければならないことになったが、宿も駅前にビジネスホテルがあるというような町ではなく、この温泉郷に泊まるしかない。駅を出るとそば屋が一軒あるだけ。このそば屋にも2回くらいは行っているが、それもほかに選択肢がなにもないからだ。最近では、スーパー北斗の車内販売商品もこの店が提供しているらしい。
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 少し歩いて跨線橋を越えたところにある長万部温泉のいちばん近い四国屋(左の白い建物)に宿をとったが、歩いてもうら寂しいさびれたという印象が強い町で、温泉の立派な金文字石碑とアンバランスである。
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 細くて高い跨線橋が、函館本線と室蘭本線の何本もの線路を跨いでいる。引き込み線や今はあまり使われていないような線路も何本かあるので、跨線橋の長さは140メートルもある。
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 これが駅前と温泉地区を結ぶ近道とされているが、歩行者専用(自転車は押して渡ることができる)、車は通れないのでぐるっと大回りをしなければならない。この事情は、駅の南側でも同じようで、要するに駅と線路が町を東西に分断しているのだ。
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 それも、かつては何本もの線路が、それぞれに重要な役割を果たしていた時期があったわけで、鉄路のさびれが町のさびれにもつながったのであろうか。東京理科大学を誘致したのも、再び町に活気を呼ぶ若い力をという考えからだろうが、その効果はどうなのだろう。
 長万部からは、函館バスのせたな線に乗り、国道5号線を南に国縫(くんぬい)まで進んで行く。
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 函館本線と国道5号線が並走する噴火湾岸は、道南の大動脈というか、要するに唯一の幹線といってよい。大沼国道とも呼ばれるその道路脇には、長万部と国縫の間で、いささか奇妙な光景が見られる。国道沿いにいくつものドライブインのような大型の建物が並んでいるが、そのどれもが廃墟化が進行しつつあるその途中、という有様なのだ。なかでは、名物の「いかめし」の看板を掲げた建物だけが、今も稼働中のようだったが、ほかはすべて夢の跡だ。
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 さびれているのは長万部の駅前周辺だけではないらしいが、問題はかつては競ってこの道路脇に大きな建物を建てるというビジネスプランが成立したのに、それがどうしてこんな状態になってしまうのか、ということだろう。
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 国縫からは国道230号線で今金町、そしてせたな町に向かって渡島半島を横断する。標高150メートルほどの美利河(ぴりか)峠を越えると、ダムから先は後志利別(しりべしとしべつ)川沿いにゆるやかに下っていく。
 この道も、かつては鉄道が走っていた。約50キロ足らずの瀬棚線は1987(昭和62)年に廃止されていて、その代替としてこの函館バスが走っているわけだ。
 北檜山というのは、その廃止された終着始発駅の名前で、その名はせたなの一地域の名として、駅跡地はバスターミナルとして残っている。
 渡島半島のこの付近では、山越郡長万部町、瀬棚郡今金町、久遠郡せたな町と行政区域は分けられ、今金町からせたな町に入ったあたりに位置する檜山北高校が、「北檜山高校」ではないのは、こうしたいくつかの町を広く学区にしているからだろう。
 さて、でんでんむしがせたなへやってきたのは二度目で、前回の2012年の行程では、木古内から松前へ行き、松前からは追分ソーランラインという道道229・227号線を北上してやってきた。
 そのときにも、久遠や太櫓の岬と、三本杉までは行ったのだが、富磯と須築地区にバスの便の都合がうまく合わなくて行けないまま残っていた岬があった。2016年の計画ではそれをめぐって、せたなから船で奥尻島へ行くつもりだったが、それが函館本線不通で果たせなかったので、まずそれから片付けよう、という計画である。
 せたな町のバスルートは、メインの長万部=上三本杉路線のほかに、瀬棚の港があるせたな市街からさらに南の鵜泊へ行く太櫓・鵜泊線があるが、そこの岬めぐりはもう済んでいる。バスの終点から水垂岬までは歩いて行ったが、そのさらに先の日中戸岬は、遠くから見た、または奥尻島から眺めたということで、お茶を濁している。
 そして、その先も南へ行く道はあるのだが、バスが通っていない。南は、北桧山から大成や富磯へ行く若松・久遠線というバス路線がいちおうある。
 前には、大成も小歌岬までは行ったつもりだったが、その北に連なる帆越岬も、フェリーから見たということにしていたが、そこまでの間にもいくつか岬が残っていたので、これも片付けなければならない。
 どうしてこういうややこしいことになっているかと言えば、816メートルの毛無山の山塊が、海岸にどーんと張り出しているからだ。
 同様に、せたな市街から北側でも、狩場山1520メートルの巨大山塊が、せたな町と島牧村の境界線をつくっている。その西端に飛び出ているのが茂津多岬で、そこも長いトンネルがいくつもあって、道路は通っているがバスは走っていない。
 茂津多岬の南部では、せたな町瀬棚区北島歌の須築(すっき)という港がある集落まで、瀬棚須築線という路線がある。この路線は函館バスの採算にのる路線ではないらしく、町では地元の東ハイヤーに委託して運行している。
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 前振りが長くなってしまったが、どこにそうある岬か道をどう走っているのかを理解するためには、こういった概念図をあらかじめ頭に置いておく必要もある。
 では、三本杉から北の岬を確認しながら、茂津多岬の南、終点の須築まで行くルートから出発!
 ちなみに「三本杉ってナニ?」という人は、こちらのリンクを辿ってみて、また戻ってきてね。
 
 868 蝋燭岩・三本杉岩=久遠郡せたな町瀬棚区本町・三本杉(北海道)見事な立岩にひかれていて気がついてみたら…


▼国土地理院 「地理院地図」
42度30分58.23秒 140度22分30.68秒
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dendenmushi.gif北海道地方(2017/06/30〜07/01 訪問)
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タグ:北海道
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1461 泊崎(はつざき)=つくば市泊崎(茨城県)かつての地形を想像して特別に岬と認定して一項目に [岬めぐり]

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 干拓地と市境の不思議は、西谷田川のずっと南にもつながっている。二本の谷田川に挟まれた台地は、先細りになってその先端を丸く沼の水面に突き出しているのだが、その先端部の南側の田んぼ一帯が、やはり龍ヶ崎市の領域になっている。
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 前に、牛久沼の水面は全部龍ヶ崎市に属している、と書いていた。ということは、龍ヶ崎市とその沼周辺の他の隣接自治体との境界線は、だいたいにおいて沼の岸で引かれている。それが原則のようなのだが、水面だけでなく、一部では干拓地も取り込まれているところもあるのだ。
 それにも、それぞれなんらかの理由があるに相違ないのだが…。
 つくば市の市域では、最南端部にあたる台地の先端である泊崎の南には、台地の裾に数軒の民家がある。その敷地はつくば市だが、その前の広い水田になっている干拓地と、その先の水面は龍ヶ崎市である。水田の持ち主の家かどうかはわからないが、家の門柱の上には、大きなカエルの石像が乗っかって、沼を眺めていた。こういう台の上に乗っかっているのは、狐とか犬とか、獅子とか、あるいはたまに牛とか、沖縄ではシーサーとか、だいたい相場が決まっている。カエルというのは見たことがない。おそらく、日本中探してみてもここだけなのでは?(筑波山麓にはあるのかエ?)
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   カメからの連想だろうか、背中に小さいのが乗っかっている。こんなことはありえないのだろうが、いかにもありそうに思えるのがおかしい。おんぶカエルはたくさん見てるが、あれはさる行為中のカップルであって、親子ではないし。
 どういう不運がその稀なるカエルを直撃したのか不明だが、左の門柱のカエルの顔はかわいそうに半分かけ落ちているようにもみえたが、よくわからない。
 それにしても、りっぱなカエルだ。こんなでかいカエルの石像を門柱に掲げることにした理由も知りたくなってしまう。残念ながら「ごめんください。通りすがりの者ですが、このカエルは…?」と尋ねて戸を叩くほどの勇気もない。そこらに人影でもあれば、きっと声をかけただろうが…。
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 もちろん、沼とカエルはすぐに結びつく。現に終点でバスを降りて、沼に向かうとすぐにウシガエルの独特の鳴き声が聞こえてきた。が、だからといって門柱の石像には結びつかないし、この付近にそういう慣習があるというわけでもなさそうだ。
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 茎崎から乗り換えたつくバスは、いちおうつくば市の最南端の台地の上に開けた自由ヶ丘を経由して富士見台という住宅団地までやってくる。ここが終点でまた折り返すバスの運転手も、ここで交代するようで、交代の運転手は小型車を運転してバス停で待っている。バスが来ると、バスと小型車の運転を交代して、小型車はどこかへ行ってしまった。どこへ行くのだろう。
 こういう交代は、どこか別のところでもなんどか見たような気がするが、すぐに思い出せない。あれは、富山の氷見でもあったかな。
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 富士見台の住宅地から、ゆるい上りの道を行くと、関東ではめずらしいといっていよい竹林があった。なんとなく城跡っぽい雰囲気はある。
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 …と、竹林のはずれに、なんと「↑岬」という小さな看板があるではないか。
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 おおっ! やっぱりここはれっきとした岬なのだ。
 なおも行くと、なんとこれが「岬食堂」という川魚料理店の案内標識だったのだが、やはりこの台地の出っ張りが確かに「岬」であるという認識の証拠にはなる。
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(これ、「つなぎ」ではなくて「うなぎ」です ↑ 。そんなこたあわかってる? はいそうですよね。)
 つくば市の領域である台地の先端には、地図ではお寺のマークがあり、龍ヶ崎の市域になっている沼岸の平坦部には神社のマークがついている。
 まずは、下の神社から訪ねてみよう。
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 泊崎の平坦部の先端は、大きな樹木も茂っておらず、ただろくに整地もされていない空き地が、沼に面している。いささか異様にも思える光景が、そこには展開している。神社の祠がふたつあるのだが、並んでいるとはいえない。それぞれが近くだけれどもお互い関係ないよね、とでも言い合っているような風情である。
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 しかも、そのひとつのほうは、道路から細い参道があるのだが、それと神社の周囲がぐるりとフェンスで囲まれている。当然、向こう側で抜けられるものだと思ってずんずん入っていったが、祠を取り囲むフェンスは厳重で、出られない。結局元の道路まで戻らないと、抜け出せないしくみになっていた。回りに樹木はないので、隣の祠と鳥居もすぐそこに見えるのだが…。
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 フェンスで仕切られた神社は空き地の南寄りにあったが、隣の祠は空き地の真ん中に鎮座している。この鳥居の扁額には「七浦辨財天」とあり、フェンス囲みのほうは「泊崎弁財天」という名前である。同じ弁天さまを祀っているのにもかかわらず、明らかに互いに別々の神様を祭る別々の神社であることをことさらのように強調している。どうしてこんなことに…?
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 その名からして、フェンス内の弁天さんは「泊崎」を名乗っている。これは沼の水面ではなく、岬のように突き出た台地の突端(つくば市)である。一方の広い空き地の真ん中にぽつんと立つ祠には「七浦」という名がついている。これは明らかに沼の水面(龍ヶ崎市)のあちこちの岸を総称したものと言える。
 それが示していることは、フェンスの弁天さんはつくば市で、空き地の真ん中にある弁天さんは龍ヶ崎市、行政区分境界は弁天さんをも二分しているということなのだろう。
 「七浦辨財天」に氏子や管理をする人がいるとすれば、この付近で龍ヶ崎の市域には人家は一軒もないので、その人たちは龍ヶ崎から船に乗ってやってくるか、茎崎橋などを大迂回し遠回りしてやってこなければならないことになる。
 行政区画とその線引きというのは、おもしろいものだが、いろんなところに大小さまざまな影響を及ぼす。その線引きはどのようにしてできるのだろうか。
 ごく大雑把に言えば、その昔の勢力争い・武力闘争の帰結としての棲み分けが、長年に渡って基本的に継承されてきているから、ということがある。それも、誰が親分か、誰が支配していたかは時代によってどんどん変化するので、一筋縄ではつかまえられないが、最終的には明治の廃藩置県とその中の町村もその線引きを引きずりながら大筋が定まっていた。そのうえに、近年の市町村合併でまた塗り替えられてきた。
 町村単位の線引きは、やはり戦国時代の各地方豪族の支配と、その闘争の拠点となる城と支配地が、大きく影響しているはずであろう。
 龍ヶ崎市にも牛久市にもつくば市にも城があったが、それらはみな当然、周囲からはちょっと小高くなった台地で、戦略的に重要と思われる地を選んで築城されていた。
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 沼の上に張り出した泊崎などは、見るからに城があってもよさそうな場所であった。そして、実際にちゃんとこの台地の上には泊崎城という城があったのだ。
 泊崎城を築城したのは、多賀谷重経という天正年間の地方豪族で、群雄が割拠する1587(天正15)年のことだとされているが、彼がこの地を選んで築城したのは、牛久城と足高(あだか)城でこの周辺の支配を固めようとしていた岡見氏の勢力圏にくさびを打ち込んで分断する、という意図があったとされている。
 牛久城は、現在の牛久市城中町、根古屋と呼ばれる台地付近にあった。そこは泊崎からは東北東に1.2キロほどのところである。また、足高城というのは、泊崎から西へ2.5ほどのところつくばみらい市城中で、やはり当時は沼に突き出た台地の上にあったらしい。現在は台地は水田に囲まれているが城中や足高という字地名は残っている。
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 泊崎にも城跡などの痕跡は既にないが、先端部にあったお寺のマークは太子堂であった。弘法大師の遺徳を偲んで建てられたものだろうが、ここから正面1.3キロ先に見えるのが、龍ヶ崎市の庄兵衛新田町付近になる。北には筑波山も遠く見える。
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 南の展望はあまりきかないが、泊崎の南はつくばみらい市(これもなんだかなあという名前だが)なので、飛び出している泊崎の細長い出っ張りだけがつくば市なのだ。
 まあ、そんなこんなでここは国土地理院が認める岬ではないけれども、諸事情を総合勘案して、岬の一項目に加えることにした。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度56分53.53秒 140度7分16.84秒
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(これをみると、泊崎が龍ケ崎市のように見えますが、突き出た台地の部分は全部つくば市です。それももう何度も聞いたからわかってるって? そうでしたねスミマセン。)
dendenmushi.gif関東地方(2017/06/14 訪問)

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番外:茎崎=つくば市森の里・小茎・下岩崎・茎崎・旧稲敷郡茎崎町(茨城県)住宅団地が点在するここらは稲敷郡茎崎町だった [番外]

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 幾筋もの複雑な切れ込みを抱えた台地と、その間を埋める沖積(ちゅうせき=流水が運んだ土砂などが堆積すること)低地がつくる関東平野のこの付近では、貝塚やそれを含む遺跡も多いという。小貝川という名も、小さな貝殻がたくさんあるというところから、この字が使われるようになったものだろう。
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 台地の上は古くから人が住み着き、その下の海からは豊富な海の幸に恵まれていたのだろう。現代では、その丘の上を選んで住宅団地がいくつもできているようだ。牛久駅前のバス停からは、森の里団地・梅ケ丘団地・緑が丘団地・刈谷団地・桜ケ丘団地・つつじが丘といった行く先表示がある。
 このうちの緑が丘団地行きの関東鉄道バスに乗れば、牛久沼の北部を横断する茎崎橋を渡って、茎崎に行くことができ、そこから乗り換えて泊崎(はつざき)の手前になる終点の富士見台まで行けそうだ。そう思って乗ったバスの運転手さんに確認してみると、それなら橋を渡る手前の茎崎窓口センターで降りて「つくバス」に乗り換えたほうが料金が安いという。茎崎からはつくば市になるので、やはりバス会社の路線網は、市町村境界を厳格に守っているらしい。これには、昨今のコミュニティバスが増えたこともあってその傾向に拍車がかかる。
 教えてもらったとおり、「茎崎窓口センター」では、少し離れたところにあるつくバスのバス停乗り場からすぐに乗り換えができたが、なんかヘンな名前のバス停だなあ。
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 牛久駅を出て、国道9号線を北上し、田宮(たぐう)から左折して西へ向かうところから、もう牛久市を離れてつくば市に入っていた。1960年代から開発が進んだ筑波研究学園都市の周辺では、どこも急激に人口が増加したが、稲敷郡茎崎町(くきざきまち)も当時全国一の人口増加率を記録して1983年に単独町制を敷いたが、2002年つくば市に編入されている。窓口センターというのは、合併後の茎崎地区の住民サービスのために、旧町役場のあとにつくば市が設けた行政窓口(支所)のようなものなのだろう。その周辺、橋の東側は小茎という字地名がついていて、その北西側の沼岸に森の里という名の大住宅団地が広がっている。
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 茎崎の名は、牛久沼の細長い水面を挟んで、その東西に渡っているのだが、こういう平らなところでは、どのようにして縄張りができるのだろう。Wikipedia からその経緯を探ってみると、このようになっていた。
  
・1972年(昭和47年) - 境界変更により稲敷郡茎崎村が龍ケ崎市佐貫町の一部を編入。稲敷郡茎崎村佐貫町となる。
・1978年(昭和53年)
 7月24日 - 佐貫町を森の里に改称、同時に村内の他の大字の一部を編入。稲敷郡茎崎村森の里となる。
 10月23日 - 9月1日に龍ケ崎市から再編入した佐貫町を森の里に編入。
1983年(昭和58年)
 1月1日 - 茎崎村の町制施行により稲敷郡茎崎町森の里となる。
・2002年(平成14年)
 11月1日 - 茎崎町がつくば市に編入され、つくば市森の里となる。
 
 これによると、近年でも境界線の変更が行なわれていること、元々龍ケ崎市の市域だったところを編入していることなどが伺えるが、再編入の実態はよくわからない。牛久沼の水面はほとんど全部龍ヶ崎市佐貫町に属しているが、沼岸の一部には葭ヨシが繁茂して半分陸地化しつつあるところもあろう。つくば市側で住宅地開発が行なわれるときに、造成工事のときについでに取り込んだほうがいいという事態があったのだろう。
 もうひとつ、「森の里」というのは開発された当初の住宅団地の名前であろうが、それがそのまま「つくば市森の里」という地名になっている。
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 この付近では、大小さまざまな住宅団地があちこちに点在しているが、森の里は大規模なほうであろう。地図をみてもその存在感が独特で、真っ直ぐな直線によって仕切られた沼岸からすぐに区画された住宅地が広がっている。
 それもこれも、筑波研究学園都市の周辺開発によるものだ。1970年代になにもない田園地帯に、大学や各種研究機関を集めて計画的な大規模な街づくりをしようというのは、なかなかの発想だったとも言えるが、そういうものが集まれば、周辺にたくさんの住宅が必要にもなる。
 森の里は、そうした住宅団地のひとつだった。
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 かつての旧町の名残から、小学校や中学校、高校、運動公園、老人福祉施設、公民館、病院…といったものにはことごとく茎崎の名を冠している。それらは茎崎橋の東西両側に点在している。
 茎崎という地名に惹かれてきたのも、牛久沼の東側、茎崎橋付近にそれらしい出っ張り地形が明確にあるのかどうかを確かめるためだった。だが、茎崎橋の周辺では、沼の岸には葭(あしよし)の類いが緑の島をつくってはいるが、地形的な岬といえるほどのものではない。
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 茎崎の名が、沼の岸に生える植生に由来するものだろうという推測はできるが、確かめるすべもない。
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 橋の付近は、牛久沼の東側が北に深く延びているところにあたるが、ここらは沼も細長くまるで川そのもののようになっている。実際、地理院地図でも茎崎橋から北側の水面には、谷田川と記載している。ならば、川が牛久沼になるのは、どこからなのだろうか。
 これも明確にはわからないのだが、推測できるひとつには茎崎橋から南側が牛久沼、という見方はできそうだ。
 それというのも、橋はそもそも両岸の地盤が固いところにしか架けられないし、橋から南の両岸には後年の埋立干拓でできた水田や畑の低地が続いているので、そこらも昔は水面であったと想像できるからだ。
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 その一部沼の東には「弘化新田」という名も残る。弘化というのは、江戸時代後期、1844年から1847年までの期間(天保の後、嘉永の前)だから、その頃に進んだ干拓による新田だったわけだ。
 谷田川に比べると、西谷田川はずっと細く短く、茎崎運動公園の西の上岩崎付近では干拓地の間を流れる水路となって、途中細見橋の北側で少し膨らんでまた水路になって沼につながっている。
 その水路の北部に架かる上岩崎橋の付近では、西側干拓地の一部が、きれいに定規で線を引いたように長方形を描くように直線で仕切られ、そこに龍ヶ崎市の市域が食い込んでいる。
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 これまた、どういう理由によるものかわからない。憶測をたくましゅうしてみると、地理院地図には上岩崎橋の西に発電所の地図記号があるのと、なんらか関係があるのかもしれない。しかしねえ、発電所って近代のものだし、しかも干拓地の真ん中の発電所というのもヘンだし…。発電所というより揚水場のようなものなのか?
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 ほんとに、おもしろいことはどこにでもいっぱいある。もっともそれを「おもしろい」と思えるかどうか…のハナシだけど。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度59分11.83秒 140度6分18.75秒
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dendenmushi.gif関東地方(2017/06/14 訪問)

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番外:牛久沼=龍ケ崎市佐貫町・取手市・つくばみらい市・つくば市・牛久市(茨城県)関東平野と川とそして沼 [番外]

 ここ半年も岬めぐりに出かけられずにいた。ブログの新規アップ更新も、4月の半ばいらい3か月もストップしていて、まったくほったらかしになっていた。これだけサボっていれば、ランキングとやらからも静かに消えていくことができるとだろうと思っていたのだが、あにはからんやなかなか消えない。
 消えるまで待つことにもさほど意味がないので、ぼつぼつそっと(密かに?)復活してみることにしよう。
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 ずっと関東も南のほうに暮らしてきたので、北のほうはなにかと不案内でなじみがない。やたらだだっ広くて、山もない平野では、夏場のこの時期だとかなり早くからアサーッ!とばかり、朝日が照りつける。
 見えるところに山がないと、なんとなく背筋が寒くて落ち着かないのは、でんでんむしがどこでもいつでも山がすぐ後ろにある、西日本の育ちだからだろう。(もっとも、日本では広い平野のほうが少ないのだから、なにも西日本に限ることではない。)
 常磐線に乗ろうとやってきた上野駅では、「常磐線」と表記したホームが何本もあって、ちょっと迷い考えさせられる。上野東京ラインという線もできて常磐線が品川まで行くようになったこともあるのだろう。長い横須賀線と同じ15両編成の電車が、利根川を渡り、取手の街を過ぎると、やっと緑のポコポコした丘や田畑が現れる。このあたりは関東平野のほぼ中央付近にあたる。
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 この関東平野は、いったいいつどのようにしてできたのだろうか。もちろん、専門的にはそう簡単に言えないのだろうが、専門家でないでんでんむしは、勝手に簡単に言ってしまえる。
 現在のような日本列島の形ができたのは、1650万年前に起こった日本海の拡大をともなう一連の地殻変動によるが、この頃に後に関東平野となる付近では列島の元になる地塊が二つに折れ曲がる。地殻が割れ沈降が起こる。その後、その上には何度かの海進や、大規模な火山噴火による降灰、さらに分厚い堆積を繰り返す。台地とその間のV字谷ができ、さらにその谷が数知れぬ水流が運んでくる堆積物で埋められていく…。
 約1万年~5,500年くらい前、歴史的には縄文時代と呼んでいる頃には、大規模な海進が起こり、谷も低い丘も海に没し平野の奥までリアス海岸になってしまう。それから海が再び退くと、低地は土砂が堆積して埋められ、干潟や湿地が広く拡大していく。そうした時代がこの前後約1万年も続く。やがて、沖積層も乾燥して干上がり、どこまでも連続する低地のなかに、川が流れ、大きな水溜まりが残る。また、雨のたびに氾濫して流れを変える何本もの大きな河川は、ところどころに三日月湖や池を残していく…。霞ヶ浦や印旛沼・手賀沼や牛久沼なども、そのようにしてできた。
 藤代だか佐貫だかの駅のホームには、カエルの歌のメロディが流れていて、なんとなくホッとする。でんでんむしやカエルは、昔からの古いなじみなのだ。
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 藤代の駅は取手市で、小貝川の鉄橋を渡る佐貫の駅は龍ヶ崎市で、そのつぎの駅が牛久駅だ。牛久にはちょっと所用があってやってきた。その所用とは関係ないが、牛久と言えば牛久沼であり、小川芋銭であり、住井すえであろう。いずれも名前だけは知っているという程度だ。
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 芋銭にあやかってかカッパのタイルもはめ込まれた橋上駅の牛久駅を降りたところから、関東バスに乗って茎崎へ向かう。どうやら、牛久から牛久沼へ向かうには、丘の上に広がっている住宅団地へ行くそれが唯一のバスルートらしい。
 牛久駅から牛久沼までは、西へ直進して2キロちょっとのところで、その北が茎崎だし、牛久市南部の龍ヶ崎市との境界付近で、湖岸を分け合っている。
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 ところが、おもしろいことに牛久沼の水面は、牛久市の市域ではないのだ。牛久市だけではない。その周辺で並んで沼を取り巻いているつくば市もつくばみらい市も、沼の南端に接する取手市も、同様に牛久沼を市域にしていない。どの市もみんな市域は湖岸までで、沼の水面は取り込めていない。
 では、牛久沼の水面部分は、どこの市域に所属しているのかといえば、それは龍ヶ崎市である。牛久沼の水域部はずべて龍ヶ崎市佐貫町になっている。
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 こういうケースはめずらしい。このような内陸水域に境界線を引くときは、そのほとんどの場合、水域の中央付近で境界線が引かれることが多いものだが、ここでは違う。
 常磐線に龍ヶ崎という駅はなく、市の中心部は、JR常磐線の佐貫駅から南東に延びる関東鉄道竜ヶ崎線で東に入ったところになる。そこは、庄兵衛新田町という牛久沼岸からは6キロも離れている。では、なぜ牛久沼は龍ヶ崎市なのだろうか。
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 龍ヶ崎市もそのことについてはなぜかサイトでも口をつぐんでいるが、一説によると江戸時代に沼の干拓事業に失敗した桜井庄兵衛の借財を、龍ヶ崎の農民たちがかぶってきたからだという。
 沼岸に細長く残る庄兵衛新田町は、庄兵衛の干拓が成功していれば、付近の島も取り込んだ広い干拓地になったのだろうか。干拓には失敗したが、この付近は、近年うな丼の発祥地として売り出し中である。
 牛久沼は水深1~2メートルというから、ほとんど浅い水溜まりのようだが、これはもともと川だったところが膨らんで沼になったからだろうか。牛久沼は竜の角かヒゲのように二本に分かれた細長い水域が北北西に向かって伸びている。それそれ谷田川と西谷田川という二本の川で北に延びているが、沼で合流した流れは南の端で八間堀と呼ばれる水路によって小貝川につながっていく。
 牛久沼は、いうなればその小貝川の支流のひとつが、ちょっと堰き止められて膨らんだ…というようなものだろう。
 その小貝川は、北部で渡良瀬川や鬼怒川の流れを取り込んできた利根川と、取手市の東南部で合流している。小貝川も鬼怒川も、今でも洪水のニュースに出てくる名前だ。谷田川はせいぜいつくば市の北部、加速器研究機構のある台地付近までで終わっているが、小貝川と鬼怒川は近寄れども合流することはなく、競うようにそれぞれ支流を広げ、関東平野の北部のヒダに沿って深く入り込んでいる。
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 関東平野は、無数に入り組んでいる水流の筋を合わせて理解し、把握しておく必要がある。小貝川も鬼怒川も利根川も、基本的に北から南へ流れているが、利根川はまるで渡良瀬川や鬼怒川と小貝川の流れを遮り、それを受け止めるようにして東へ流れていく。平野の西を流れる荒川もそうだし、だいたいにおいて、古東京湾からの道筋を伝えてきた関東平野の川は、南の湾に向かって流れているが、利根川だけが東の太平洋の海岸へ向かって流れている、と見ることもできる。
 これは広く知られているように江戸時代に行なわれた、利根東遷という大土木工事によって流れを東に誘導したからだ。そして、それにともなって江戸川という流れができたのだが、それ以前の利根川は江戸川のさらに西側を流れていた。
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 その昔、平野を流れ下る川は、大雨が降るたびに大水を出し、流れを自由自在気ままに変えながら下る暴れ川だった。そこで、平野に暮らすためにはこれをコントロールする治水対策こそが、施政者の大きな課題となったわけだ。そして、現在でもそれは変わらない。
 だが、もうひとつの側面も忘れてはならない。川は交通流通手段としても重要な役割を果たしていた。川と川を結びつなぎ、平野に張り巡らされた水路は、道でもあったから、たとえば、伊能忠敬の時代、佐原から江戸まで船で往来できたというくらいだから…。
関東平野-3.jpg
 話が膨らんで、流れが変わってしまった。
 この沼には、岬はないのだろうか。霞ヶ浦にはいくつもの岬があったが、小さな牛久沼にははっきりした岬はない。茎崎とか岩崎とか、泊崎(はつざき)といった地名はあるものの、国土地理院が認める岬ではない。
 崎のつく地名は無数にあって、そのなかにはいかにもかつては岬だったとわかるものもあるが、名だけで岬とはまったく繋がりそうにない場所も多い。だが、そのうちでも泊崎だけは、少しばかり違っていて、これは地形的にもかなり明らかな岬の形状をしているので、ついでにそこまで行ってみることにした。


▼国土地理院 「地理院地図」
35度56分46.15秒 140度7分46.51秒
牛久沼M-1.jpg
dendenmushi.gif関東地方(2017/06/14 訪問)

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