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1523 破崎=横須賀市走水二丁目(神奈川県)水走る水源地と突堤と海にいちばん近い学校と… [岬めぐり]

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 東京湾で対岸との距離がいちばん狭くなっているところとしては、観音崎と千葉の海岸といういいかげんな情報もあるようだが、観音崎から最短の千葉は磯根崎で、その間9.4キロある。観音崎より北西寄りの走水港にある旗山崎と千葉の細長くとんがっている富津岬との間は7キロほどで、ここが東京湾がいちばん狭くなっているところだ。
 054 観音崎=横須賀市鴨居(神奈川県)あの頃キミは若かった
 073 富津岬=富津市富津(千葉県)死んだ筈だよお富さん
 074 磯根崎=富津市小久保(千葉県)色即是空あると思えばない東京湾観音
 この狭い海域を、たくさんのいろいろな船舶が往来する。その数は1日におよそ約600隻といわれる。見ているとなかなかおもしろいのだが、通り過ぎるまで時間がかかるので、よほど暇をもてあましていないと楽しめない。また、それを楽しむ場所としては、はやり航路がより近い観音崎のほうが適している。
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 富津岬の西には、第一海堡・第二海堡という明治期に東京湾要塞計画でつくられた人工島の砲台跡があり、神奈川寄りには同じく要塞化が進められた猿島がある。hazaki-4.jpg
 破崎の西には伊勢町と呼ばれる漁業集落があり、そこから長い突堤が築かれて、船溜まりを沖に囲むようになっている。破崎は、そこから眺めるのがいちばんよさそうだ。
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 ここまでやってくるには、まず京浜急行本線の馬堀海岸駅で電車を降りた。馬堀海岸駅の次は、終点の浦賀駅である。あれっ? それじゃ浦賀へ行くのは、各駅停車しか走らない浦賀線で、それは本線じゃないのでは…? 本線は久里浜・三崎口のほうへ行くのではないか?
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 そう思ってしまうが、これが本線で、堀ノ内駅から分かれた久里浜・三崎口へ向かう線は、久里浜線ということになっている。
 これも浦賀が造船所などで栄えていた頃の名残りで、各停が走るこちらがもともと本線であったことに間違いないのだろう。特急・快速が走る久里浜線は、ずっと後から三浦半島に住宅がどんどん増え始めてからできた線なのだ。
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 馬堀海岸駅の周辺は、比較的新しく住宅地が開けた地域で、これもおそらくは埋め立てでできた整然とした住宅地が広がる。ヤシの並木があるところなど、いささかの主張があるのだろう。その東の丘の上が防衛大学校のあるところで、その丘が急斜面で北の海岸に落ちたところが破崎と突堤のある走水一丁目になる。
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 岬に隠れるようにしている建物は、「日本で一番海に近い学校」を謳う横須賀市立走水小学校の校舎の一部だろう。
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 破崎の東にある走水港の東西を扼する旗山崎と伊勢山崎については、
 072 旗山崎・伊勢山崎=横須賀市走水二丁目(神奈川県)さがむのおぬに
としてかなり早い段階で取りあげていた。そこでは、「“走り水”というからには、その海流も早瀬を巻いて流れているのだろう。」と書いていたのだが、そうやらそれは違っていたらしいことが、破崎を訪ねてわかった。
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  伊勢町の海岸には、横須賀市の水源地があり、今も湧き水が豊富に湧出している。その水を横浜製鉄所まで水道を敷設して引いたのも、ヴェルニーさんの功績で、湧き水にもその名がつけられている。だが、ここの湧き水はそれ以前から有名で、船に積み込んで売りに行っていたとも言う。となると、「走水」の名は海流の速さではなく、ほとばしる湧き水のことだったのだろうか。
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 日本武尊と弟橘姫の伝説もあるこの走水の岬には、御所ケ崎という名をうたうこともあるが、その名は地理院地図にはない。伝説については072項で触れたが、読み返してみるともうひとつ重要な証言がそこではなされていた。

 「岬」というものは、都会にはないものらしい。旗山崎から先は、横須賀・横浜・川崎・東京・千葉と東京湾岸をぐるりと360度回ってみても、そこ走水の前に見えている富津岬まで次に連なる岬はないのである。

 と、そこで書いていたのだ。それを書いたのは2007年だが、破崎とその前の大地ノ鼻、大山崎は、その時点では地理院地図にはなかったことが、これで確かに証明される。また、

 真鶴岬からここまで、神奈川県の岬はこの再訪シリーズですべて収録してある。いちおう地元なので、せめてここくらいは地図にある岬と名のつく(「崎」「鼻」を含む)ところはすべて網羅しておこうと考えた。もっとも、これから先も海岸線をもつ全県について、それを実行するのは無理な相談というものであろうが…。2007/01/13再訪)

 とも書いているので、この後にやっとつまみ食いではなく全岬・崎・鼻をめぐるという基本方針が定まったと言える。
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 ハナから無理な相談と弱気だが、確かに生きて元気なうちに全部終えるのはむずかしいかもしれない。ここまできてもなかなか道は半ば。近畿から以東の東日本はだいたい終わったが、まだ西日本が歯抜け状態で残っている。
 ここらで一休みしながら、いつどこで行き倒れるかもしれないので、これまでのデータ整理にも取り組むことにしようか。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度15分55.13秒 139度43分41.59秒
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タグ:神奈川県
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1522 大地ノ鼻=横須賀市箱崎町(神奈川県)米海軍基地になる前までは横須賀鎮守府が置かれた帝国海軍の拠点だった [岬めぐり]

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 長浦湾を挟んで、大山崎の東530メートルのところにあるのが、大地ノ鼻。長浦湾の奥は主に海上自衛隊の基地になっているが、大山崎の出っ張りと、大地ノ鼻のある島はすべて米海軍の基地となる。この島が、長浦湾と東の横須賀本港の間を仕切っていて、本港の東の大きな出っ張りのほとんど全部が米海軍基地である。
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 横須賀本港の奥は、海上自衛隊、JR横須賀駅やそこから東へ続くヴェルニー公園やショッピングセンターなどがあるので、そこを歩けば目の前に米軍基地のドックが並んでいて、潜水艦や艦船が係留されているのが間近に見える。
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 だが、見えるのはそこまでで、その先の広大な基地には入ることも見ることもできない。(特定の開放日という例外はあるが)
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 大地ノ鼻のある四角くでこぼこした島は、地図で見る限り補給基地か何かのようで、基地の中心は本港東の出っ張りにある。地理院地図では、そのどちらにも「米軍施設」という表記があるだけで、日本の町の名前が明記されていない。
 だが、経度緯度を探ってみれば住所表示も出てくる。それによると、島のほうは横須賀市箱崎町、その3倍も大きな出っ張りのほうは横須賀市泊町であるという。なるほど、箱崎町か。その箱のような島の先が大地ノ鼻なのだが、その北側でも埋め立てが進んだようなので、この岬も先端ではなく横っ腹にくっついているようにみえる。
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 しかし、地理院地図が米軍施設と表示する一方で、町名をいっさい表記しないのはどうしてだろうか。日米地位協定など諸々の事柄を忖度した結果なのだろうか。
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 この基地では、米海軍の軍人、軍属、またはそれらの家族などを合わせると常時2万人近い人々が、基地内とその周辺で暮らしている。基地内は各種店舗、学校、病院はもちろん、娯楽施設など生活に必要なありとあらゆるものが整備されているという。
 基地内だけでは手狭だろうと、逗子市にあった旧海軍の池子弾薬庫の森を切り開いて米軍家族住宅にするというので、大もめにモメたこともあったが、今では思いやり予算で京浜急行逗子線神武寺駅には特別に、住宅敷地内から直接ホームに出られる専用の改札口も設けられ、電車には家族づれの姿が多く見られるようになっている。毎日、家族住宅のゲートからは、黄色い大型のスクールバスが出入りし、基地との間を往復している。
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 考えてみると、本国から遠く離れたこの地まで、黄色いスクールバスにいたるまではるばる運んでくるという彼らの情熱というか執念に、改めて驚かされる。だって、バスなんか日本にだってたくさんあるんだから…。
 横須賀は、米海軍にとってハワイより西で最も重要な基地なのだ。その維持のためには、細大漏らさずアメリカ本国と変わらない生活をするつもりなのだ。
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 そもそも横須賀に最初に眼をつけたのは、幕府の勘定奉行小栗上野介忠順とフランス公使のレオン・ロッシュであったとされる。1864(元治元)年に製鉄所建設の適地を求めて横須賀にやってきた二人は、横須賀湾の地形立地が気に入った。当時、幕府はフランスの後ろ盾を当てにしていたので、ロッシュの主導によりフランス海軍の技術師であったヴェルニーを任命して、製鉄所の建設に乗り出すことになる。
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 基地の南部のドックを見渡す(ただし空母のドックは見えない)、バラの花咲くヴェルニー公園は、その彼の名を冠しているが、公園の片隅には、ヴェルニーと並んで、幕末の激動のなかで非業の最期をとげた小栗上野介の銅像もある。(横須賀鎮守府に所属していた軍艦長門碑や、反対側の駅の近くには戦艦武蔵の大砲もある)
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 横須賀製鉄所は、完成後に明治新政府に引き継がれ、横須賀造船所、海軍造船所、横須賀海軍工廠と名称を変えつつ、横須賀鎮守府が置かれて海軍の重要拠点化が急速に進む。1889(明治22)年には、もっぱら軍港のために東海道線から分岐して横須賀線も開通している。
 戦争中は、よく知られていた軍港だけに、何度も米空軍の爆撃を受けている。敗戦直後の1945年9月そうそうに占領軍の米海軍によって接収されて、そのまま現在に至る、という考えてみればまことに不思議な命運を辿っている。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度18分14.49秒 139度38分52.38秒
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dendenmushi.gif関東地方(2017/11/03 訪問)
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タグ:神奈川県
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1521 大山崎=横須賀市浦郷町一丁目(神奈川県)この付近一帯はかつては津々浦々を凝縮したような地域だったのか [岬めぐり]

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 神奈川県横須賀市は、三浦半島の北東部にその中心部がある。市域は半島の東側を占め、北西側は逗子市と葉山町に隣接し、南端部は三浦市に譲っているが、その中間部では半島西海岸にまで及んでいる。この横須賀市の岬めぐりも全部終わったはずと思っていたら、地理院地図には確かにそれまでなかったはずの岬が、3つほど追加されているのを発見した。
 これはちゃんとフォローしておかないといけないと、さっそく出かけてきた。
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 もともと軍港の街としての長い歴史をもつ横須賀では、市の北東部の海岸線には、自然地形はまったく残っていない。日露戦争のときの日本海海戦で旗艦をつとめた戦艦「三笠」も、岸壁に固定されたままでいる横須賀新港も東にあるが、そこから北東にかけての一帯はすべて米海軍の広大な基地になっている。
 また、それに続いては、海上自衛隊の港湾施設があり、わずかに残された基地以外の岸壁の内側には、工場地帯がある。横須賀市の北の端に当たる直線の岸壁で囲まれた出っ張りの一帯は夏島町と呼ばれ、そこには日産自動車の追浜工場が広い面積を占めている。
 貝塚遺跡もある夏島というこの町の名前も、実際にかつてはここが名実ともに島であったことを示すものだろう。日産の北西には平潟湾につながる水路があって、この水路の岸が横須賀市と北隣りの横浜市との境界線になっている。通常市境などは水路の場合はその中央で線引されるものだが、日産工場敷地では横須賀側の岸が境界になっている。それは日産か横須賀市が欲どおしく、境界線いっぱいまで埋め立てを進めたからではないかという想像もできる。
 野島、八景島という島も横浜市側にあるが、埋め立てや護岸工事が進んで、多くは島と島や島と陸地がつながったり、水路と海水面はだんだん狭くなっていったものだろう。
 この付近には、そうした痕跡がたくさん残されている。汐入、長浦、田浦、深浦、浦郷、追浜、六浦、平潟、福浦といった地名を拾うだけでも、海水面が広く広がり、陸地の間に複雑に入り込んでいた姿を想像することができる。
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 京浜急行電鉄本線の追浜駅で電車を降り、いかにも地方の商店街といった風情のアーケードの通りを東へ歩いて行く。
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 アーケードはやがて切れるが、駅から1キロちょっと歩くと左手に日産自動車の工場や研究所などの施設に行き当たる。そこから右折して、今度は浦郷町の工場地帯を南に進むと、岸壁に出る。
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 そこは深浦湾という細長い入江で、周囲はぐるりと浦郷町。湾の北側は工場地帯で、南側は住宅が丘を上っている。
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 船舶修理の船台などがズラリと並んでいる入江の、出入口にあたる端の湾の南口にあるのが大山崎だ。
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 60メートルほどの小山から南東に向けて張り出した尾根の先がそうなのだが、そこへは行くことができない。この尾根の周辺がすべて米軍施設となっているからだ。したがって、浦郷町の工場地帯の南端岸壁が、大山崎をいちばん近くで見ることができる場所になる。
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 大山崎の米軍施設の西には、海上自衛隊自衛艦隊司令部という厳めしい表記が地理院地図には続き、その先が船越町という住宅が建て込む町になっている。
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 船越町を西に詰めていくと、標高50メートルくらいの峠があり、トンネルを西へ抜けると横須賀市から逗子市に入る。
 「船越」という地名は、全国各地に多い。だいたいそういう場所には低い峠があって、かつてはそこを船(舟)で越した(一部は船を曳いたり担いだりしなければならない)、ということから付いた名前であると思われる。
 船越にはもうひとつ意味がありそうで、船が峠を越すのではなく、島や陸を隔てる水路を船で越す、ということも考えられる。
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 横須賀市の船越町は、京急田浦駅から西へ、谷間を詰めて峠を越え、逗子の沼間の水路につなげるという意味の「船越」だったのではなかろうかと、でんでんむしは勝手に思い込んでいるが、実際のところはどうなのだろう。
 そう考える理由は、もしここを船が越えることができれば、今でいう東京湾から相模湾へ最短距離で抜けることが可能で、それは三浦半島をぐるりと遠回りするよりは経済的メリットがあったと思われるからだ。
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 この地域では、低い山の尾根筋に延びる谷間のことを谷戸(やと)と呼ぶ。ひだのように複雑な凸凹は浦々をつくり、その谷戸の奥のほうまで水路が広がっていた時代もあっただろう。それを考えると船越から沼間(これもいかにもの名前だが、もとは「沼浜」だったとされる)へ抜けることは、現在考えるよりは容易で現実的だったのではなかろうか。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度18分15.62秒 139度38分31.21秒
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1520 十和田湖の岬まとめ=十和田市・小坂町(青森県・秋田県)ふたつの画像とリストで… [岬めぐり]

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 「十和田湖」の語源も、実は「トーワタラ」というアイヌ語であるという。その意味は「絶壁だらけの湖」なんだって。なるほど、地図で見るとその通りではあるね。
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 展望台などから見ると、もっとはっきり実感できるのだろうか。湖の周囲はぐるりと山に囲まれている。しかも、その山が切り立っていて、まるで屏風をめぐらせたかのような景観を示している…はずなのだが。湖岸で眺める景色では、山もそう高く切り上がっているようには見えない。それよりも、地図でみてその周辺の見えない部分も含めて想像するほうが、その実態はつかみやすいかな、と考えていた。
 するとたまたま、Batholithさんという人がスペースシャトルの地形データを使用してカシミールでレンダリングした図をパブリックドメインとして公開しているのを見つけた。さっそくそれを使わせてもらおう。(表記の文字はでんでんむしが加えた。)
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 これで、十和田湖全体が大きな火口湖である様子がよくわかる。では、その火口をつくった火山爆発というのは、いつ頃のことだったのか、もういちどおさらいしてみると、約2万5,000年前(大不動噴火)の噴火と約1万3,000年前(八戸噴火)の陥没によると考えられているという。
 そこでまず、十和田湖の原型となる外縁がつくられ、第一カルデラを形成する。そしてその後、約1万年前にその大一カルデラの東南部で大噴火が起こる。カルデラ内部に別の新しい五色岩火山が形成された。爆発的噴火が多発しそれが火口を拡大し大きな山体を成長させていった。
 そして、約6,200年前の噴火でカルデラ内部に第二のカルデラをつくるが、火口壁が崩壊して第一カルデラの湖水が火口に流入した。これにより第一カルデラと第二カルデラがひとつになり、中湖ができた…ということになるのか。
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 「1513 鴨ヶ崎」の項では「最初のカルデラ湖ができたのは5万5,000年~1万5,000年前」で、「中湖ができたのは約4,000年前頃」と書いていたのだが、参考にする資料が異なると数字まで変わってしまう。それくらい、はっきりとはわからない、ということだ。
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 また、同じ項目で中湖については「1,100年前という説もあり」とも書いていたが、これは少し事情が違うようだ。915年(延喜15)年の大噴火というのがあったらしい。その噴火は、日本国内で過去2000年間に起きた最大規模の噴火であった、というのだ。それが御倉山溶岩ドームをつくったのだが、その記録がどうやら現地情報としてはっきり残っていないらしい。
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 カシミールの3D地形図は、カルデラ壁を想像するのに役立つが、湖の中はわからない。「1515 千鶴崎」の項では、湖底にも眼を向けて断面図を描いてみようとしてめんどうだからやめた、と書いていた。そんなことはしなくても、十和田ビジターセンターで、ちゃんとその立体模型がメインで展示されていた。この写真を使えばいいのだ。湖水面の下から湖底まで「絶壁だらけの湖」だったことがよくわかる。
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 これで、両々相俟って、十和田湖の全容を想像し、認識することができるだろう。
 「1512 日暮崎」から「1519 寺子ノ岬」まで、8つの岬のまとめを兼ねて、湖の全体像を俯瞰しておきたい。
 1512 日暮崎=十和田市奥瀬(青森県)御倉半島西側の岬は一日の終りに幕を引く岬なのか
 1513 鴨ヶ崎=十和田市奥瀬(青森県)この岬の下から千丈幕は湖の中にも何段か階段をつくっているような…
 1514 猿子崎=十和田市奥瀬(青森県)屏風のような崖と山で囲まれている十和田湖は巨大な雨水桶なのか
 1515 千鶴崎=十和田市奥瀬(青森県)湖底に目を向けて見えないところも想像してみると…
 1516 中山崎=十和田市奥瀬(青森県)中湖と西湖を分けるここで青森県の岬はおしまいに
 1517 猿鼻岬=鹿角郡小坂町十和田湖(秋田県)廃藩置県以来137年目にしてやっと確定した十和田湖の境界線は6:4で線引
 1518 よどの岬=鹿角郡小坂町十和田湖(秋田県)鉛沢と鉛山と鉛山峠を越えた向こうにあるもの
 1519 寺子ノ岬=鹿角郡小坂町十和田湖(秋田県)その昔教科書で初めて知った十和田湖のこと

 これで十和田湖の岬めぐりは終了。towadako-6.jpg
 帰りは、休屋からJRバス東北のバスで焼山まで降りて、そこからまたバスで三沢まで戻った。
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 三沢からは青い森鉄道で八戸まで行き、IGRいわて銀河鉄道に乗り換えて、岩手山を見ながら盛岡へ出た。青い森鉄道もいわて銀河鉄道も、元JR東北本線の在来線の一部を、第三セクター方式で引き継いだもので、相互に乗り入れもしている。そのお互いの境界駅が目時になっているのは、青森県と岩手県の県境のためでもある。
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 いつも、新幹線で長いトンネルで走り抜けるところなので、こういう機会にのんびりと別の風景を楽しむのもいい。
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▼国土地理院 「地理院地図」
40度26分26.11秒 140度51分40.92秒
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1519 寺子ノ岬=鹿角郡小坂町十和田湖(秋田県)その昔教科書で初めて知った十和田湖のこと [岬めぐり]

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 でんでんむしが十和田湖のことを初めて知ったのは、こどもの頃に学校で習った教科書でであった。それは、和井内貞行という人が、その山の上の湖でヒメマスの養殖にひたすら苦心するという話だった。
 以来、何十年経っても十和田湖もヒメマスも見ることもなく、まったく縁がなかった。そこへやっとやってきて、和井内貞行の養魚場などがあったと思しき辺りを遠くぼんやり眺めている。
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 しかし、見渡す限り山と湖面が続くばかりで、なにがどこにあるのか、さっぱりわからない。
 大川岱という大川沢の裾が大きく丸く広がる平地があり、十和田湖プリンスホテルもそのへんにあるらしいが、それもはっきりわからない。寺子ノ岬もその北に位置するが、これまたほんの少し湖岸が膨らんでいるだけだから、どこがそうだかわからない。わからないだらけだが、十和田湖プリンスホテルに泊まるとかしなければ、その岬に近づいて確かめることもできない。
 地図ではホテルと岬の中間に「和井内神社」という表記がある。すると、その付近が和井内貞行夫妻の活動の中心地であったのだろう。
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 休屋には十和田ビジターセンターという、環境庁か何かの立派な施設があって、そこには十和田湖のさまざまが展示紹介されている。もちろん和井内貞行についてもちゃんとコーナーがあって、そこにある写真が養魚場で、遠景に写っているのが寺子ノ岬であるような感じもするが、それも確かではない。というのも養魚場は何か所か時期によって移動しているからだ。
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 寺子ノ岬の北側には銀山沢と銀山という字地名もあり、そこで旅館「観湖楼」を営業し、人工孵化場もつくったとされている。彼は、養殖だけでなく、十和田湖観光の基礎づくりにも努力したという、もう一面もある。
 彼は生まれたのは、小坂鉱山(前項参照)の南にあたる毛馬内村(現・鹿角市)で、南部藩毛馬内陣屋城代の筆頭家老職を務めていた家であった。ちょうど、井伊直弼が不平等条約である日米修好通商条約を結んだ1858(安政5)年で、成長する間に世の中は大きく変わる。
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 教科書には出てこなかった、その時代を生きた彼の姿を追ってみると、まず毛馬内時代には、戊辰戦争で南部と秋田の戦争があった。もめた末に奥羽列藩同盟に残った南部盛岡藩は、奥羽越列藩同盟を離脱して新政府軍に参加した久保田藩(秋田)と戦争するハメになったうえ、盛岡藩が負けるという混乱に直面したはずだ。その敗戦のために南部盛岡藩領だった十和田湖西部一帯も秋田のテリトリーに入ってしまう。
 維新後、助教員を経て24歳のときに工部省小坂鉱山の十輪田鉱山に勤務するようになる。それからしばらくして、鉱山は藤田組に払い下げられ、吏員から社員に身分が代わる27歳頃から、貞行は養殖漁業に強い関心を示し行動を起こすようになる。その直接的な動機については、はっきりふれたものが見当たらないが、当初は鉱山で働く人々のため食糧調達を図る目的で始まったようだ。
 当時の十和田湖は、長年にわたって魚が一匹もいなかった。いまどきのように、車でやってきて外来種を捨てていく不心得者もいなかったので、ずっと生命のない湖だったわけだ。湖の神様が魚を嫌ったからだと信じている者も多かったらしいが、奥入瀬渓谷銚子の滝の落差が、魚類の遡上を許さなかったから、というのが原因だろう。
 目の前に十和田湖があるのだから、ここで魚が穫れるようになれば、と考えるのは自然だったのだろう。それでは、というので魚類の放流を始めたのは貞行が最初ではなく、何人かの人が試みていた。当初は、鉱山のための食糧調達という大義名分があったためか、上司の許可と支援も得て、漁業権の設定を行ない、コイの稚魚を放流することから始めた。ところが、貞行のいた十輪田鉱山のほうが休止に追い込まれ、小坂への転属が言い渡されるに及んで、藤田組を依願退社して養殖漁業に専念することを決心する。
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 1900(明治33)年、43歳の頃、サクラマスやビワマスの卵を買い入れ、それを孵化させた稚魚を放流するようになるが、成果は上がらず借金だけが膨らむ。そのうちたまたま、アイヌ語でカバチェッポという支笏湖の回帰性のマスの情報を得るが、これこそが後にヒメマスと呼ばれるようになる魚だった。苦しい生活のなかで、なんとか資金を調達し、青森水産試験場の支援を受けて、50,000粒の卵を買い入れ、その孵化に成功して稚魚30,000尾を放流したのが1903(明治36)年で、このときに自分の名を放流したヒメマスにつけた。
 しかし、それが成功したかどうかは、成魚となったヒメマスが放流地点の桟橋付近まで回帰したことが、確認できて初めてわかる。貞行の養魚事業にかける思いが尋常でなかったのは、回帰を待つ不安な日々のなかでもへこたれず、ただ待つだけでなく日露戦争勝利を記念して新しい孵化場の建築を始めていることでもわかる。その場所は、休屋に近い生出の湖岸であった。
 ヒメマスの群れが戻ってきたのは、1905(明治38)年の秋であったという。
 教科書ではそのあたりのことを感動的に書いていたのだろうが、細かいことまではもう覚えていない。
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▼国土地理院 「地理院地図」
40度28分3.66秒 140度50分7.57秒
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タグ:歴史 秋田県
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1518 よどの岬=鹿角郡小坂町十和田湖(秋田県)鉛沢と鉛山と鉛山峠を越えた向こうにあるもの [岬めぐり]

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 前述の2009年の「広報とわだ」の記事には、青森県と秋田県の十和田湖上の境界線の設定が図で示されている。線一本だってそう簡単ではない。なかなかお役所のやることは細かくて念が入っているが、こと自分たちの縄張りを決める境界線となれば、なおのことだろう。
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 なにしろ自治体の面積は、交付金の額などにも直接影響してくるらしい。
 湖の水面上の境界線は直線で示されているが、神田川の河口から北西にまっすぐ伸びた線は、よどの岬の沖合で、急に向きを北北東に変え、そのまま今度は湖の北の御鼻部山を目指している。
 その転回点が、ちょうど南の猿鼻岬と北のよどの岬を結ぶ正三角形の頂点に当たっているように見えた。厳密には三辺の距離は均等ではないので、正三角形ではないがほぼそれに近い。
 猿鼻岬とよどの岬は、境界線の位置決めのときには、なんらか役割を果たしたのかもしれない。
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 十和田湖西岸の岬へは、国道454号線を北へ辿れば、それぞれ行くことはできるのだが、なにせ交通手段がない。西岸にある十和田ホテルとか、十和田プリンスホテルに泊まることにすれば、ホテルの送迎車で運んでもらうことができる。それも考えてはみたのだが、結局今回の計画ではそううまくいかなかった。したがって、以下もすべて船または休屋方面からの遠望のみになる。
 それらのホテルも営業は11月半ばまでで、春は4月も終わる頃でないと再開しない。冬季は長い休業期間に入っている。バスも遊覧船も止まっている今時分は、湖岸も雪にうめつくされ白い世界になっているのだろう。
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 よどの岬の南側、緑の山の中に赤い屋根がみえるところがある。これが十和田ホテルであろう。その後ろには、山腹に崖が巻いているちょっと凸凹した山容が存在感を示している、標高900メートルほどの鉛山がある。
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 ホテルの奥には、谷と沢が続いているはずだが、遠目ではさっぱりわからない。その鉛沢という沢を詰めて行くと鉛山峠を越えて、十和田湖の西側の盆地に広がる秋田県鹿角(かづの)郡小坂町(こさかまち)の中心に出ることができる。その山道は、昔の主要なルートであったが、現在ではもっと南の発荷峠から分岐する樹海ラインという自動車道が通っている。十和田湖と小坂の街への往来は、そのルートだけのようだ。
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 十和田湖畔に鉛山や鉛沢があるのも、この一帯には広く鉱床が分布していた小坂鉱山の一部だった時期があり、残された山や峠や谷や沢の地名はそのことをわれわれに伝えようとしているのだろう。Googleマップによると十和田ホテルの近くには、現役で営業中の鉛山鉱業という会社もあるようだ。
 小坂は、江戸時代から南部盛岡藩が鉱山を経営していたくらいで、40年くらい前までは小坂鉱山といえば結構羽振りがよかったらしい。なにしろ、明治末期から大正初期にかけては、日本最大規模の鉱山だったというのだ。ここを「銅山」としている情報もあるようだが、ことはそう単純簡単ではない。
 緑色凝灰岩(グリーンタフ)については、前にもふれているが、この地帯に産する鉱床に黒鉱(くろこう)がある。黒鉱は銅や鉛、亜鉛、金、銀などの多くの有用金属が含まれている黒い鉱石で、高品質のうえ採算性にもすぐれていて、日本では非常に貴重な鉱床とされてきた。黒鉱は日本独自のものとされていた時期もあったようで、kurokoは世界で通用する用語だという。
 一説には、日本の銅、鉛、亜鉛の約半分が黒鉱鉱床から生産されたといわれるほどだが、その三大黒鉱鉱床が、大館など秋田県北部の十和田湖南西側に集まっている。小坂鉱山は、そのひとつだったのだ。
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 しかし、それも昔の話、1994(平成6)年を最後に国内の黒鉱鉱床はすべて閉山してしまっている。小坂鉱山がまだ活動していた1980(昭和55)年には、黒鉱鉱床から産出した銅の生産量は3万4000トンで、国内総生産のうちの67%を占めていた。同様に鉛は3万トンで50%を占めていたから、銅と鉛については半分が黒鉱からというのは事実である。その頃、一度閉山した後で新鉱床が発見された小坂鉱山では、1980年の粗鉱採掘量は約68万トンあって、従事者も約1300人を数えたという。今は重要文化財として残るその鉱山の関連施設の建物などにかつての面影をみるくらいだろうが、精錬所やリサイクル事業は現在も続いているらしい。
 黒鉱と小坂鉱山の関係、久原房之助と製錬技術のことなど、もっともっと書くべきことはありそうだが、岬めぐりではあまり深入りしないで、適当なところで切り上げておくのがコツ…。
 なにしろ、山を眺めてその向こうを想像しているだけなんだから。

▼国土地理院 「地理院地図」
40度26分34.78秒 140度50分42.17秒
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1517 猿鼻岬=鹿角郡小坂町十和田湖(秋田県)廃藩置県以来137年目にしてやっと確定した十和田湖の境界線は6:4で線引 [岬めぐり]

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 何本も枝分かれした長い支流を持つ宇樽部川は、十和田湖に水を流し込んでいる最大の河川だが、休屋港を中心とする休屋の集落の南側を流れている神田川は、それに次ぐものと言ってよいのだろうか。この神田川が、青森県と秋田県の県境を流れている。この川の名は東京の神田川とは関係なくて、流域に神田という字地名があるからだろう。
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 港の桟橋で遊覧船を降り、400メートルも歩くと、この川に行きあたる。川とは言っても、水量はわずかしかないし、幅も広くなく、ほんの溝のような川だが、なにしろ県境の川だ。ちゃんとそれを示す標識看板も立っている。
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 青森県側の神田川右岸は、ビジターセンターやバスのりばもある広い園地になっていて、秋田県側の左岸は、数軒のホテルや旅館のような建物が集まっている。園地に架かる橋には、両国橋という名が付けられている。
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 陸奥国と出羽国のふたつの国にまたがるという、大きな名をもった小さな橋というつもりなのか…。
 いやいや、この両国橋の名は近年になって青森と秋田の境だからと、洒落センスで付けられたものだろう。道が遊歩道であること、橋の大きさやその佇まいからみても、昔からの道路ではない。もし、そうでなければ、後世の人間の思い込みによるもので、ずっと昔からはこの場所でそういうふたつの国という認識はなかっただろう。その点で、武蔵国と下総国を結ぶ橋だったところからついた隅田川の両国橋とは、大きさだけでなくかなり違うのではないかと思われる。

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 なぜならば、江戸時代の藩幕体制下では十和田湖の一帯全部が南部(盛岡)藩の所領となっていたのだから…(とは言えその境界区分も明確ではなかったはず)。1871(明治4)年の廃藩置県のときに、南部藩の一部が津軽藩とともに青森県になったことは、前にもふれたところだが、このときに十和田湖の東側は青森県で西側は秋田県という大雑把な線引がされ、湖水面の境界についてはちゃんと決めていなかったらしい。
 それが2008(平成20)年に青森県と秋田県、青森県十和田市と秋田県小坂町の間で、湖面の線引が行なわれて正式に確定している。なんと廃藩置県以来、137年目にして、やっとはっきりしたというわけだ。
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 現在の地図で、明確に直っすぐな線で引かれた境界線は、かつて青森県十和田湖町と秋田県小坂町の間で行なわれていた交渉の経緯も引き継いで、中山半島は十和田市とし、双方が主張する境界の中間線をとることで決着することになったその結果であるようだ。そのため、全湖面の面積比では青森6、秋田4の割合になった。
 …と書いてみたのは、そのほう(線引の結果湖面の割合が決まるというほう)が一見合理的と思われたからだったが、よく調べてみるとどうやらそうではなかったらしい。
 2009(平成21)年の「広報とわだ」によると、6:4というお互いの領有比率のほうが先にあって、それに合わせて線引をしたというのが真相らしい。(このあたりがネット情報にある新聞記事などでは、曖昧な書き方がしてあるので、ついそう誤解してしまった。)
 2003(平成15)年の十和田町と小坂町の議会による「十和田湖境界に関する特別委員会」の合意内容に「湖面部分は、青森県(十和田湖町)6割、秋田県(小坂町)4割の比率で分割する」という文言が入っていたので、それを踏襲したようなのだ。
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 6:4の理由はふれていないのでよくわからないが、十和田町側には宇樽部や休屋といった街もあり、十和田観光の出入りルートと拠点があるのに対し、小坂町の中心は湖の近くにはなく、秋田県側の湖畔は、どこも山が取り巻いていて、集落もあまりない。
 神田川を通る県境は、細い流れを湖に注いでいるが、河口の先、対岸が猿鼻岬になる。この岬の所在地は、秋田県鹿角郡小坂町となる。
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▼国土地理院 「地理院地図」
40度25分55.98秒 140度51分6.12秒
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1516 中山崎=十和田市奥瀬(青森県)中湖と西湖を分けるここで青森県の岬はおしまいに [岬めぐり]

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 潮の干満がないこと、極端な波浪の影響を受けにくいことなどから、海岸線の岬とはずいぶんその趣を異にしているのが湖の岬だろう。水面と岬の接線がほとんどくっついていて、水の上にすぐ木々がかぶさっていて、水鏡はそのさまを写しとっている。そんな風景が見られるのは湖ならではで、それがまた独特の美しさを醸し出しているようだ。
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 とくに中山崎のように、単独でしっかりと長く飛び出している岬は、いっそうその感が強く、さらに言えば高く大きな山がないことも、一幅の絵のようにフレームの中に適当にハマりやすい。
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 中山半島もこの中山崎で終わり、同時に中湖の深い穴も、この岬の東で終わり、断崖が湖底をせり上がっている。中山崎の先端を回り込むと、そこは水深60〜70メートルしかない西湖に入る。
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 船が南へ下って行く半島の西岸ではほかに岬はないが、錦ヶ浦、九重浦、御前ヶ浜と続くなかに、大小いくつかの島が点在する。その南東側奥が休屋。西の対岸は、青森県ではなく秋田県。
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 遊覧船が発着する休屋港もある休屋の街の北にある御前ヶ浜までは、徒歩遊歩コースになっているらしい。観光地十和田湖の中心は、東湖の宇樽部ではなく、また湖岸のアプローチがない中湖でもなく、西湖の休屋地区が中心になっているようだ。
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 観光地十和田湖のシンボルになってもいる「乙女の像」も、御前ヶ浜にある。像といえば日本最深度の田沢湖では「たつこ像」がシンボル、では二番目に深い支笏湖にはあるのか? 乙女の像やたつこ像のようなものはないが、そこでは毎冬の氷濤まつりでつくられる氷像がある。
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 どうやら、観光地というものは、自然の風景だけでは成り立たないもので、なにかしらポイントやイベントが必要になるらしい。
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 あ、それとお土産物屋さんに食べ物屋さんは必須ね。岬は決して必須アイテムでも何でもない。
 では田沢湖と支笏湖にも、十和田湖のように岬はあるのか。
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 実は、それがあったんですね。当初に調べていたところでも、田沢湖と支笏湖には地理院地図でも岬名表記はあったはずだが、どうやらこれまで忘れていたというか、計画に入ってこなかった。最近、データ整理のため、全項目の洗いなおしをやっていて、発見したのだが、これまではなかった岬名が新たに追加されているケースもあるようだ。
 あったものがなくなっているというのは、いまのところまだ明確に確認できていないが、追加はぽつぽつとあるようだ。どうやら、地理院地図も洗いなおしをやっている可能性もある。でんでんむしお膝元の小さな三浦半島でも、同様に横須賀付近で以前にはなかった岬名の追加が3件確認されている。これは、行くのは大変ではないので、すぐに行ってきた。
 こうなると、全岬総数も増えるので、またカウントし直し修正しなければならない。覚悟を決めて、今年の仕事にするか。
 田沢湖では大森鼻、支笏湖ではオコタン崎と大崎という岬が、リストにあるので、またこれらの落ち穂拾いもしなければならない。田沢湖も支笏湖も、これまでにすでに訪れていたのだが、そのときには岬の心配をしていなかった。そのためにまた、わざわざ出かけて行くというのも大変だなあ。

▼国土地理院 「地理院地図」
40度27分25.28秒 140度54分11.82秒
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タグ:青森県
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1515 千鶴崎=十和田市奥瀬(青森県)湖底に目を向けて見えないところも想像してみると… [岬めぐり]

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 「番外:奥入瀬川」の項以降、これまでの各項の所在地は「十和田市奥瀬」と表記してきた。実はこれは地理院地図での表記ではなく、Mapionの表記に寄っている。国土地理院準拠の原則を崩してまで、あえて地理院地図での表記を採用していなかったのは、それだと「十和田市-」とすることになるからだった。
 「十和田市-」の「-」とは何かがわからないので、そのまま表記するのがなんとなくためらわれた。「-」は「一(いち)」ではなく、横棒であるから、どうやらここは字地名地番もないよという意味にもとれる。
 青森県十和田市の「-」は、奥入瀬川流域から山に入ってずっと続き、湖の周辺に及んでいる。ただし、焼山、子ノ口や宇樽部、休屋などのように平地で人家がある開けた場所は「-」ではない。
 地理院地図では、それらの地域の住所表示は「十和田市大字奥瀬」となっているのだ。その範囲はやたら広く、同様に「-」も広大な地域を占めている。
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 十和田湖の東湖と中湖を分けているのは、前方後円墳のような、あるいは鍵穴のような形(もうこんな鍵穴は古い南京錠くらいしかないか)をした御倉半島だったが、中湖と西湖を区切るのは中山半島という。
 最も広く幅のあるところでも800メートルに満たず、狭く細い凸凹に富んだ痩せた半島の名は、その北端にある中山崎によるのだろう。いやいや、半島の名のほうが先で、その先端だから中山崎になったのか、卵と鶏でどっちがどうだかわからない。
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 細くて凸凹の半島は、上のほうも凸凹していて、標高500メートル前後の山がいくつもぽこぽことある。しかし、湖水面自体が標高400メートルなのだから、われわれが風景として見ているぶんには、100メートル前後の凸凹が並んだ半島ということになる。
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 この半島の先端に近い、中湖の西岸にとんがって突き出しているのが千鶴崎で、その周辺にも業平岩、小町岩、蝋燭岩などの表記が、地理院地図ではある。業平に小町とくれば、これはもういかにもなにかストーリーがありそうな命名だが…。
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 植生に覆われているが、千鶴崎も崖のようなところもあり、その尖っている形状からも、半島のぽこぽこした山とともに、カルデラをつくることになった火山活動の影響を示したものだろう。それは水面下の湖底にもずっと続いていて、千鶴崎が向いている北の方向へは、急激な断崖が300メートルの深さまで一気に落ち込んでいる。
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 そして、千鶴崎の先端から東北東490メートルの地点で垂直に湖底に降りたところが、十和田湖の最深部「・327」ポイントなのだ。
 東湖の東岸から、御倉半島の鴨ヶ崎へ、そして中山半島の千鶴崎へ、さらに西湖の西岸の猿鼻岬まで、まっすぐ引いた線を断面図として作図をしてみようかと手を付けかけたのだが、縮尺をできるだけ正確に表現しようとすると、結構めんどくさくなってやめた。断面図はなくとも、せいぜい想像してみたい。
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 湖面上に出ている千鶴崎だけを眺めていると、確かに紅葉のシーズンにはきれいだろうなと、なにやら平和でのんびりとした感じしかしないが、湖水の中に隠れている急崖を想像すると、この地形と風景をつくるに至った、荒々しい巨大なエネルギーにも思いが及ぶ。
 金子みすゞさんの詩のように、「見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ」ということになろうか。
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 千鶴崎を回ると、その先には千鳥ヶ浦に続く中山崎が大きくなる。

▼国土地理院 「地理院地図」
40度26分46.66秒 140度53分5.55秒
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タグ:青森県
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1514 猿子崎=十和田市奥瀬(青森県)屏風のような崖と山で囲まれている十和田湖は巨大な雨水桶なのか [岬めぐり]

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 よく例えられている話では、十和田湖の大きさは山手線の内側にほぼ近く、その深さは東京タワーがすっぽり収まるほど、というのがある。その最深部の深さは、日本の湖では三番目に深い。
 では、一番深いのはどこかというと、田沢湖で最大水深は423.4メートル。二番目に深い湖は、支笏湖で最大水深は360.1メートルとなっている。田沢湖も支笏湖も、平均深度では270〜280メートルくらいなので、これらと比べても平均深度が71メートルしかない十和田湖の特徴が際立ってくる。(ところで、「平均深度」だが、いったいどのようにして測定するのだろう?というシロウトの疑問はある。自分で調べればわかるのだろうけど、そこまでする必要もないような…。)
 ついでに、十和田湖に続くのは鹿児島は指宿の池田湖(233メートル)、霧の摩周湖(211メートル)などで、これらの深い湖はすべてカルデラ湖である。やはり深い穴ができるのは火山の爆発、それも火口のようなところの跡でないと、そんな穴はできないだろう。その火山には不自由していない日本では、関東では榛名湖や芦ノ湖もそうで、全国に数はけっこうあるようだが、二重になっているというのはやっぱりここと青ヶ島くらいらしい。
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 鴨ヶ崎からさらに中湖の岸を時計回りにめぐっていくと、南東の奥に猿子崎がある。ところが、この湖はほんのわずかに湖岸が膨らんでいる程度なので、なかなか特定がしにくい。横からではなく正面から見ているので、よけいわかりにくい。おまけに写真も前方は窓越しになって、そのガラスが汚れているし、逆光でうまく取れていない。しかたがないので、まあこの辺かなとごまかしておく。
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 猿子崎の上は150メートルもある急傾斜の岸になっていて、千丈幕からの続きの崖ではないかと思われる崖もあるが、それも遠目でしかも正面からではよくわからない。
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 乗っている遊覧船は子ノ口から休屋へ行く航路で、中湖もくるっと回ってはいるが、そんなに奥深く岸近くに寄っていくわけでもない。だが、もうひとつ別の十和田湖遊覧コースもあって、これは西湖の休屋から出て、中山半島を回り込み、中湖を一周してまた休屋へ帰るという航路である。ちょうど、湖岸寄りを走ってきた別の遊覧船とすれ違ったが、これがそうだろうか。
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 地理院地図で見ると、鴨ヶ崎から南へは、五色岩、烏帽子岩、屏風岩、剣岩、千本松といった表記が、猿子崎までの間に並んでいる。
 休屋からの遊覧コースでは、これらがそれぞれ岩と紅葉のポイントとなるのかもしれない。
 四方をぐるりと屏風のような山々で取り囲まれている十和田湖では、周囲から流れ込んでくる河川は、宇樽部川くらい。あと休屋に流れる神田川のほかは、ほとんど秋田県側の沢から流れ出る細流で数もそう多くない。奥入瀬川の水源として水を供給する一方だが、湖底から湧き水が沸きあがっているわけでもなさそうだ。なので、十和田湖の水は、そのほとんどが雨水が溜まったものと考えてよいのだろう。
 「番外:奥入瀬川」の項で、思っていたよりも水が白濁しているような印象があったことを書いていたが、十和田湖が巨大な雨水の水溜りだとすると、唯一の水はけ口である奥入瀬川の流れに、勝手な「清流」のイメージを当てはめるのは、いささか間違っているような気もしてきた。
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 またしても、シロウトっぽい感想だが、そうなると雨が降らない晴天の日が続くと、奥入瀬川の流水量はすぐ減ってしまい、もっとすると水が流れなくなってしまうのでは…と心配してしまう。だが、これまで一度もそういうことが問題になったことはなさそうだ。
 そうなると、水質も気になってくるが、昭和初期には透明度が20メートルもあったといわれていたのが、一時期かなり悪化していた。そこで、青森県と秋田県は共同で水質と生態系を守る取り組みを行なってきた。その結果、2015年度には透明度が12.1メートルとなり、1985年度以来なんと30年ぶりに目標値の12メートルをクリアしたという。
 水質の基準ではCOD(化学的酸素要求量)という指標もある。CODの数値が高いほど、その水域には有機物量が多い、つまり汚れていることになるのだが、こちらのほうは定められた環境基準値にはまだ届いていないという。(いずれも青森県のサイトによる)
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▼国土地理院 「地理院地図」
40度27分25.28秒 140度54分11.82秒
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タグ:青森県
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1513 鴨ヶ崎=十和田市奥瀬(青森県)この岬の下から千丈幕は湖の中にも何段か階段をつくっているような… [岬めぐり]

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 日暮崎に続いて、すぐ南東にちょこんと、小さく飛び出ているのが鴨ヶ崎で、その上には千丈幕がまだまだ長々と続いている。
 十和田湖は、三本指の恐竜かなにかの足跡のような形になっている。下(南)を向いている三本指は、それぞれ東側から東湖(ひがしのうみ)、中湖(なかのうみ)、西湖(にしのうみ)という名がついている。東湖の側には、どういうわけかひとつの岬もないので、御倉山を回り込んだ日暮崎・鴨ヶ崎は、真ん中の指の跡、中湖の東岸にあたる。
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 地理院地図では、薄青く表示された湖面の上に水深の等深線も示されている。パッと見てすぐわかるのは、十和田湖全体のうちでも中湖がいちばん深いということだ。それも、かなり極端にこの卵型の中湖だけが深くなっている。
 鴨ヶ崎からその岬の延長線上に沿って、湖の底深く入っていく。すると、50メートルの間隔をおきながら、階段状にストンストンと湖底が落ちていく。この等深線から読み取れるのは、湖の中にも千丈幕のような断崖が何段かできているのではないかと想像できることだ。
 そして、300メートルの深さまで達するとそこからは落ち込みは緩くなり、深目の皿を湖底に沈めこんだような感じになる。
 ちょうど、鴨ヶ崎の対岸にあたる千鶴崎の中間付近には湖底の小山のようになっているらしく円が描かれている。そこから380メートル千鶴崎のほうに寄っていったところに「・327」と最深部が表記されていた。この等深線からはなかなか想像しにくいのだが、320メートルより深い湖底が、中湖の中央に広くあって、そのなかにさらに2メートルほど深く凹んだ場所があるということだろう。
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 十和田湖全体でみると、平均水深は71メートルしかない。東湖も西湖も20〜60メートルの深さしかない。広い北側の部分が60〜100メートルなので、そういう結果になっているのだろう。
 そもそもこの場所にこんな湖ができたのは、いったいどうしてなのだろう。その答えは、今は湖になっているこの場所は、昔々の大昔には活発な噴火を繰り返していた火山だったからで、その爆発で生じた穴というか、凹みに水が溜まったのが十和田湖だというのだ。
 こういう凹みをカルデラといい、そこに水が溜まってできたのをカルデラ湖という。
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 十和田湖はまぎれもないカルデラ湖なのだが、この湖底をもう少し念入りに想像してみると、三本指の足跡全体でいうと平均水深前後の深さのところが広がっており、いわばこれが最初にできたカルデラ湖になる。そして、その中でも中指の中湖だけが極端に深く、300メートルを越える深さまで穴が開いているわけで、これはその後に新たにできた火山爆発によって陥没した噴火口の跡ではないかと想像できる。つまり、十和田湖のカルデラは、二重になっていることになる。これは、日本ではここだけとしている情報も多い。だが、実は他に青ヶ島があるのだが、あまり例を見ないことは確かのようだ。
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 十和田湖の一体が大きな火山だった時期は、八甲田火山の活動が始まった後に続く約20万年前頃といわれ、最初のカルデラ湖ができたのは5万5,000年~1万5,000年前(幅ありすぎやろとツッコミたくなるところだが、もっと何十万年何百万年単位で幅がある地質関連ではこれくらいごく幅が少ないほう)で、中湖ができたのは約4,000年前頃(これも1,100年前という説もあり、どこの時点を最終的なカルデラの形成ととるかで異なる)とされている。
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 たとえば1,100年前ということにすると、それは平安時代ということになり、地質史的にはついこの間、ごくごく最近ついこの間の出来事なのだ。
 鴨ヶ崎の上にそびえる御倉山と千丈幕は、中湖をつくる一連の火山活動に伴って噴出した溶岩ドームだった。
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▼国土地理院 「地理院地図」
40度27分18.64秒 140度54分24.65秒
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1512 日暮崎=十和田市奥瀬(青森県)御倉半島西側の岬は一日の終りに幕を引く岬なのか [岬めぐり]

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 奥入瀬の銚子大滝を過ぎて、なおも遡って行くと、約1.6キロほどで湖岸に出る。湖の水が奥入瀬川となって流れ出していくところを渡ると子ノ口で、そこでJRバスを降りる。
 宇樽部や休屋など十和田湖の南側へ行く人を車内に残して、何人かの乗客がそこで降りたが、そのうちで遊覧船ののりばに向かったのは、でんでんむしただひとりだけだった。だあれもほかに人がいない、広い大きな遊覧船にひとりぼっちで、あのとき一緒にバスを降りた人たちは、いったいどこへ行ったのだろう、と考えた。子ノ口まで登ってきたバスを降りたということは、船に乗るほかにどういうルートがあるのか気になった。
 ひとつ考えられるのは、バスで上ってきた奥入瀬川をここから歩いて下って行く、という渓谷歩きを目的とするケースだ。子ノ口の標高は400メートルほどで、焼山付近では160メートルになる。これをずっと川沿いに歩いて下るのもいいだろう。
 岬めぐりが目的の当方は、ひたすら湖の中に岬を探していく。
 十和田湖の中で、名前がある岬は、8つ。「だけしかない」というか、「もある」というか、いささか微妙なところではある。
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 そのまず第一が、湖の南東側に飛び出ている御倉半島の日暮崎となる。
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 子ノ口から、休屋まで行く十和田観光電鉄株式会社の遊覧船は双胴の3階建てで、多くの座席があるが、そのすべてを独り占め。だからといって、な〜んにもいいことはないのだが。
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 所要時間はおよそ50分、料金は1,400円也。運航は4月半ばから11月始めまでで冬季は運行休止中。(船で1,400円のところをバスに乗って行けばいくらになるのか、確かめようとしてみたら、冬季運行休止はJRバスも同じで、サイトも運行データが見えなくなっていた。)子ノ口から休屋までの移動交通手段としては高くつくが、湖上遊覧が目的だから当然といえば当然なのだろう。
 そんなくだらないことを考えながら、がらんとした船室内を見渡し、この中が乗客でいっぱいになって走るシーズンのことを想像してみる。
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 子ノ口の船着場を後にして、遊覧船が真っ直ぐ向かうその正面に、御倉山という690メートルの山が見えている。湖面から数えると300メートル足らずのこの出っ張りは、前方後円墳のような半島になって湖に突き出していて、御倉山は後円部にあたる。
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 日暮崎はこの御倉山を、くるりと西へ回り込んだ裏側にある。
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 東側から眺めていたときには、緑に覆われた平べったく丸い山か島のように見えていたが、西側に回りこんでみると、その山容が一変する。
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 険しく切り立った断崖絶壁が、500〜600メートルくらいのところを帯のようになって巻いていた。
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 地理院地図では、御倉山の西半分を巻くこの絶壁に千丈幕という名をつけている。なるほどね。山の中腹で横に長く続く崖は、まことに幕のようでもある。
 この崖の周囲が錦繍の緞帳になる景色は、この船に乗らなければ見ることはできないわけだ。
 ふと、日暮崎の名はこの幕に照っていた夕日が、だんだんフェイド・アウトしていく情景からついたのではないかと、またしても勝手な憶測を…。

▼国土地理院 「地理院地図」
40度27分25.28秒 140度54分11.82秒
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タグ:青森県
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1511 芦崎=むつ市大字城ヶ沢(青森県)小指を曲げたような砂嘴がつくる大湊の港は海自の基地なので [岬めぐり]

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 陸奥湾の北東の角で凹んだ大湊湾は、いわゆる天然の良港というヤツであろう。これに明治期の海軍が眼を付けたのは当然とも言え、現在に至るも港付近で多くの面積を海上自衛隊の基地が占めている。また、一時期は原子力船「むつ」の母港になっていたこともある、その大湊港の主要な部分をつくっているのが、湾の西端で南から北へ向いて細長く飛び出した芦崎なのだ。
 芦崎は、砂嘴(さし)という地形で、大量の土砂を運んでくる川はないが、主に沿岸の海流によって砂が運ばれて堆積がつくられ、袋状の海域ができる。ここも宇曽利川の河口の堆積も少しはあっただろうが、典型的な砂嘴といえる。砂の堆積によるものだから、高度はない。
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 北に伸びる砂嘴は、途中から急に細くなり、わずか80メートルほどの幅出、内側に浅瀬を伴いながら先っちょのほうでは小指を曲げたようになっている。地図で見ると、この先端まで細い道が描かれているので、できれば歩いてそこまで行ってみたいと思うところだが、それは許されない。
 岬のまるごと全体が、小さいながら飛行場もあって、ヘリを主力にもつ航空隊もあるらしい海上自衛隊大湊基地になっているので、立ち入りはできないからだ。したがって、この岬もバスの車窓からの眺めだけになってしまう。おそらくは芦も生い茂っているのだろうが、遠目にはそれもよくわかるまい。
 バスが走る国道338号線は、基地の施設と一般住宅地の上の少し高いところを通っている。だから、屋根の間から海自の艦艇も停泊している大湊港が見え、その向こうに長々と横たわる芦崎も見えている。
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 川守町に差し掛かった付近で、ちょっと家並みが途切れたところに、うまい具合に芦崎の曲がった先端部分も見えた。
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 大湊駅に着いて、少しの時間を利用して、海岸まで出てみた。北から丸まった岬の先端を眺めると、曲がっている部分もバックと重なってしまい、暗くて何のへんてつもないただの横に突き出した平らな陸地にしか見えなかった。
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 JR東日本大湊線の大湊駅は、ここから先へはレールはないので、「本州最北端の駅」…と言いたいところだろうが、厳密に緯度の数値を比較してみると、大湊駅(41度16分49.19秒)に対し、お隣の下北駅(41度16分58.30秒)のほうが9.11秒ほど緯度は高くなっている。これは、大湊線の線路が、終点の大湊駅で北へ延びないで逆に南下している「へ」の字型になっているからだ。
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 大湊駅も少し高いところにあるので、薄暗く暮れゆくホームの向こうに、大湊湾が広がる。
 下北駅からは、かつては大畑線という支線も分岐していた。この線も下北交通になった後に廃線になっている。その大畑線に、田名部という駅はあった。
 「本州最北端の駅」という称号にどれほどの効用があるのかは不明だが、実はツアー観光客などは、ほとんどが大湊駅ではなく下北駅を経由するらしい。恐山など下北観光には、そのほうがメインルートになっているようだ。実際、大湊駅よりも下北駅で乗り込んでくる人のほうがずっと多いという現象は、わりと昔から変わらない。終点の大湊まで、わざにやってくるという必要は、もうあまりないからだろう。
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 大湊駅からは、18:11発の「快速しもきた」八戸行きに乗る。乗り鉄らしい若者などがばらばらといた車内も、これもやはり下北駅からどやどやと乗り込んできた何組もの中高年グループで、たった1両しかない列車はたちまち満員になってしまった。
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 ほとんどの乗客は、野辺地で青森方面へ行く青い森鉄道に乗り換えて行く。それが普通の流れで、むしろ大湊からこのまま八戸へ向かう快速だけが特殊で貴重な一本なのだ。
 大湊線はJR。野辺地で乗り換えるのは青い森鉄道。つまり、JR大湊線はJR線に接続していない、JRひとりぼっち路線になってしまった。乗り鉄ではないので、詳しくは知らないが、全国でもこういう路線はめずらしいのではないか。これも新幹線開通のあおりで、旧東北本線の一部が青い森鉄道に移管されたからだ。
 大湊線の沿線、57キロの陸奥湾東岸には、岬はひとつもない。もうすっかり暗くなって、車窓にはなにも見えないこの「快速しもきた」は、野辺地で乗り換えなくても、このまま青い森鉄道の線を八戸まで行く。でんでんむしはその手前の三沢で降りるつもりだが…。

▼国土地理院 「地理院地図」
41度15分41.75秒 141度9分29.84秒
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1510 黒崎=むつ市川内町(青森県)運賃は整理券方式で田名部行きのJRバスが大きな膨らみをよぎって行く [岬めぐり]

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 殿崎の4.7キロ東には、殿崎の4倍もの規模がありそうな膨らみが出張っていて、蛎崎から長浜、宿野部と進むうちに、横長の立派な岬のように迫ってくる。ところが、そこには岬の名はつけられてはいない。
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 そこを過ぎて、川内町桧川にさしかかると、またいっそう大きく長い岬が現れる。ここも殿崎型をもっとずっと大きくしたようで、高い山も崖もなにもない、平べったいせんべいのような岬で、ここが黒崎になる。
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 黒崎はいちばん多い岬の名だが、だいたいは「黒々と大きく見える」ところからつけられることが多かったのではないかと推察される。しかし、この黒崎はあまりそういうイメージとは合わない、なにかそういう重々しさとは違うような気もする。
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 小沢の停留所から乗った、田名部行きのJRバスの窓は大きく、明るい車内にほかに乗客がいなかったが、座席その他いかにもフツーのバスである。田名部(たなぶ)は、むつ市の中心部の古い地名で、かつては鉄道の駅の名にもなっていた。だが、今では一部しか示さない。学校や会社の名前に残っていて、その名を姓に持つ人も、この地域ではまだ多いのだろう。
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 車窓から見えている部分は、田野沢、袰川、そして黒崎の先端へと、南東方向に下りながら続く長い海岸線を、西から眺めているところになる。
 川内町(かわうちまち)の中心部は、脇野沢から大湊のちょうど中間くらいに当たる。その間は約38キロで、一台のバスで走り抜ける距離は路線バスとしては長いほうだろう。バスなんか滅多に乗らないという人も、近頃では多いのだろうから、念のためにいうとだいたい1時間の所要時間(ここはバス停の数がそう多くない路線なので)で、料金は1600円くらい。
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 バスなんか乗ったことがないという人(案外多いかもしれない)のために、さらにつけ加えると、近頃ではバス料金の支払いは、交通ICカードは都会中心の限られた地域だけなので、全国では整理券方式が広く採用されるようになっている。乗車時に番号の印字された整理券をとると、前方のモニターに、降車バス停までの運賃が順次表示されるしくみになっている。降りるときに、それをみてその番号の示す金額の料金と整理券を投入箱に入れて降りる。(東京都営バスのように、どの路線も均一料金の場合は、乗車時にカードタッチまたは料金支払い方式の別システム)
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 両替方式なので、お釣りが必要な場合は、自分で両替機にコインを投入してくずしたうえで、きっかり料金分を入れなければならない。
 コンピュータでモニター表示されるようになる前は、ワンマンの運転手さんも大変だったが、乗客のほうも自分が降りたいバス停まであとどのくらいかもわからず、聞き取りにくいアナウンスに耳を傾けて注意していないといけないし、料金はいくら払えばよいかわからず、緊張を強いられていたものだった。
 それを思うと、今は降りたいバス停が近づくとあといくつ先とわかるし、ずいぶんシステムが向上して、運転手さんも乗客も楽になっている。
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 半島ではめずらしい水をたっぷり湛えた川内川の河口に開けた町から、しばらく東へ走ると、殿崎の十数倍も規模の大きな膨らみ、黒崎が大きくなる。
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 袰川のバス停は、おっぱい型黒崎の、西の付け根になるので、国道は海岸線から離れて、黒崎の膨らみのいちばん内側を横切って行く。
 そのため、車窓からはもう岬は見えなくなる。国道は1.7キロにわたって丸い膨らみを横断するが、道路から海岸まで遠いところで600メートルを超える。地図では、灯台もあると表記されている。1時間後に後続のバスがやってくるのであれば、迷わず黒崎のバス停でピンポンを鳴らして降り、灯台まで歩いて行くところだ。
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 残念ながら、3時間以上も待ったこのバスは、もう最終便。降りるわけにはいかない。公共交通機関で岬めぐりをするということは、こういうことだと割り切るしかない。
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 と、運転手さんの向こうの窓の端に、チラッと灯台が見えた。慌ててシャッターを切ったが…。こういうとき、デジカメのシャッターは反応が遅く感じられる。物理的なシャッターと違ってガシャ!という確かに押した感が乏しいが、これもしかたがない。

▼国土地理院 「地理院地図」
41度10分58.97秒 141度3分19.66秒
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1509 殿崎=むつ市川内町蛎崎(青森県)JRバスが走る国道を松林がきれいに茂る岬を眺めつつ [岬めぐり]

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 現在では「JRバス」は路線も少なくなっていて、「ええっ? JRはバスもやっているの?」という人さえあるのかもしれない。でんでんむしなどは、ボンネットバスが走っていた「国鉄バス」時代から、ずいぶんお世話になっていた。鉄道は山陽本線と山間部へ入る芸備線・可部線しかなく、平地の狭い広島では、公共交通機関といえば市電とバスで、バス会社は何社もあり路線は縦横に走っていた。当然国鉄バスも山陽本線に並んで呉線分岐の海田市まであり、車体に描かれた丸にツバメのマークも懐かしい。今のマークは丸のない横に細長いスマートなツバメが描かれているのが多くなっているようだ。
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 ヤクルト球団がなんで「スワローズ・つば九郎」なのかといえば、この球団の初代は「国鉄スワローズ」であったから(当時の花形特急が「つばめ」だったから)で、セリーグの草創期においては、広島カープといつもブービー争いをしていた。
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 ここではジェイアールバス東北株式会社という別会社になって、田名部と脇野沢の間を下北線としてバス運行しているものの、上り早朝を除けば日に3便しかなく、それぞれの便の間には4時間近くもの間隔が開いている。
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 そもそも国鉄がバスを走らせるようになった背景には、当初はいずれ鉄道路線を通すまでの代わりとしてという鉄道の先行・代行という考え方があった。現在では、その色合いはとうに消えていて、高速道路網が広がったことにより、鉄道の補完路線として高速バスを走らせるケースのほうが目立っている。
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 この下北線が、かつては脇野沢からさらに北西に伸びていて九艘泊まで走っていたのが、脇野沢で打ち切られ短縮されたためむつ市が廃止代替路線として九艘泊線をなんとか維持していることは、前にふれた通りだ。大湊までは鉄道が来ていた(大湊線)ことを踏まえてそのルートを考えると、下北線というバス路線は、当初はさらに大湊から先に延びるかもしれない鉄道の先行または代行の意味があったのかもしれない。
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 そう考えると、半島一円に交通網をもっている赤いラインの下北交通ではなく、ここだけ青いラインのJRバスが走っている理由がなんとなく見えてくるような気もするのだが…。
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 松ヶ崎からは東北東に4キロ弱離れているが、殿崎は浅い湾をつくるように緩く南に向いて飛び出しているので、国道からはずっとそれを眺めながら歩いて行く。
 歩いているところは、この先の小沢まではむつ市脇野沢だが、殿崎のあるところは同じむつ市でも川内町蛎崎となる。合併するときに村だった脇野沢と町だった川内町の差が、ここでつけられている(のか?)。
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 殿崎には高い山もなければ、長い尾根もないし、断崖も岩場もなさそうだ。傘松という地名もあるので、それらしい松もあるのだろう。広い松林がこんもりと海岸にせり出している。南西側から眺めていると、細長く出っ張った岬のように見えるが、幅のあるふたこぶからなっているのが殿崎なのだ。
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 深石のバス停が近づいて、いよいよ小沢の集落に入ろうかというところで、前方の国道をなにやら小さな塊が転がるようによぎっていく。
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 急いでカメラを構えたが、その茶色の塊が青い網で囲った柵をよじ登ろうとしているところだけやっと捉えた。すぐに、民家の垣根をなんなく越えて姿を消していった。
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 サルの消えた先の殿崎の向こう遠くに見えているのは、下北半島のまさかりの柄にあたる部分で、いちばん殿崎寄りのところではその幅は東西9キロしかない。
 小沢は街道沿いに細長く広がった集落で、旧道の両側には民家が固まっていて狭いので、バスは海岸側にできたバイパスを通るようになっている。まだ次の停留所まで歩いてもいいが、あまりメリットもなさそうなので、小沢のバス停で脇野沢フェリー前16:38発の最終バスがやってくるのを待つことにする。
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 そのバスに乗ると、大湊駅に着くのが17:39で、この訪問時夏の終わりでももう薄暗くなりかけの時刻になるが、まだそこでは一日の行程は終わりにならない。三沢から十和田市へ、そして翌日は十和田湖へ向かうためにまたJRバスに乗らなければならない。
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▼国土地理院 「地理院地図」
41度9分48.96秒 140度53分24.24秒
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1508 松ヶ崎=むつ市脇野沢(青森県)石神様を祀った松の岬の台地はこの付近では小さいながら目立っている [岬めぐり]

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 国道を北東に歩いて行くと、緩い上りになって道と海が高く離れ、その間に松が何本も並んでいる、そんな景色がつぎつぎと展開する。
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 さてはもはや松ヶ崎かと思えば、それはまだ先。道が10数メートルの高みで松が切れたところでは展望スペースもある。
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 西には鯛島が見え、蟹田からむつ湾フェリーがやってくる。
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 松ヶ崎は、そこから北向きに若干下ったところにある。尾根からはぐれてひとりだけゴロンと海岸に転がり出たかのような小山の岩体が、そこだけ海に突き出して松を茂らせている。国道はその付け根をよぎって行く。
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 道の脇に小さな赤い鳥居があり、「松ヶ崎石神邨社」と書かれた標柱が立っている。「邨社」というのは「村社」と同義で、神社の社格のうえではそう高いほうではなく、まあいわば「村の鎮守の神様」のような位置づけだと思っても間違いはあるまい。
 だが、ここは脇野沢港のある本村からは東北東に2キロちょっと離れた場所で、村の鎮守としてはいさかか人里からは離れすぎていて、不便な位置という見方もできる。したがって、ここに神社ができたのは、もっぱらこの松ヶ崎のこの付近では明らかに目立っている岬のロケーションが先にあって、そのロケーション優先で神様が配置された、というのが真相ではないだろうか。
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 ここに神様を誘致するには、それなりの由来が必要だ。ここには、それをちゃんと記した立派な説明板が建てられている。それを建てたのは「本村能舞講中」と末尾にある。本村というのは港のある脇野沢集落の中心地で、古い港町には能舞が伝わっており、それを守ってきた講中がこれを建て、神社も祀ってきたということなのだろうか。
 では、きれいな文字で記された、その由来を読んでみよう。
 
 慶長年間、能登出身の漁師喜右衛門がナマコ漁操業中、笊網に一〇貫目の石が掛かり、幾度投げ捨てても掛かることが数日続いたので、不思議を感じ、この松ヶ崎の磯に揚げたところ、白髪の修験者が現われ「その石は神石である。岬の台地に神として祀れ」と言って姿を消した。
 喜右衛門は早速、岬の台地である現在地に「揚神石」として小祠を建て祀ったところ、漁運に恵まれ好漁するようになった。さらに参拝の都度、この石が成長していることに気づき、「成長する神石」として村の旦那衆と相談し、堂宇を建て、邨社石神様として祀るようになった。以来、この石が大きくなり、屋根を破るたびに堂宇を建替えてきたものだと言われている。
 この石神様は縁結びの神様であり、石のイボに恋の願いを書いて結ぶと思いが叶うという。又、石神様の右脇に一体の観音様が祀られている。この観音様に米を入れた袋を二袋供え、一袋を持ち帰り、粥に炊いて食すると産婦の乳の出が良くなると言われている。

 
 この由来でも「岬の台地」というロケーションが強調されている。
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 そして、ここの神様は、よくある単なる弁天様や明神様ではなく、「石」をご神体とした石神様という点で特異なのだ。
 だたし、石がご神体で、その石が成長するという、似たような来歴を持つ神様は、ここだけではない。全国各地にけっこうあるようだし、同じ青森県内でもほかに二か所はある。
 ここでは「能登出身の漁師」というのも、ちょっと気にかかる。なぜ能登なのだろう。なぜ一漁師の出自がわざわざ明記されるのだろう。だが、それについては語らない。
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 漁師の網にかかって…というのも、浅草の観音様を筆頭によくあるパターンのひとつで、豊漁を願うというのが、いわば最初からのメインで、縁結びや乳の出の話は後からくっつけたものだろう。こういう場合、ほかの神社の縁起や由来が伝えられて活用流用するということもあり得たことだろう。ほかの石神様には女性の守り神という色合いもあるようだし…。
 ナマコ漁というのがおもしろいが、そんなに需要があったのだろうか。タラでは網に石は掛からないし、ホタテはずっと後のことだからここはナマコになったのだろうか。
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 松ヶ崎の南側には、国道338号線の標識と並んで「赤坂海岸」と記された標柱も建てられている。こういうのがまた悩ましい。「赤坂」という地名や字名など、地図上で見る限りはどこを探してもないし…。
 …と首をかしげて標識を眺めていると、バスが通りすぎて行った。これが脇野沢に行って、また次の便で折り返してくるJRバスになるので、どこかでそれに乗らなければならない。
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 この松ヶ崎、こうして逆光でみると岬の上半分は、松の枝の隙間から光が漏れている。なるほど。こうしてみると、確かに由来が言う「岬の台地」の意味がよくわかる。

▼国土地理院 「地理院地図」
41度9分20.58秒 140度50分48.12秒
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1507 サガレ石崎=むつ市脇野沢(青森県)脇野沢港から下北半島陸奥湾岸国道338号線を東へ進むと… [岬めぐり]

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 脇野沢港の岸壁に降り立ち、そこから北東に向かって歩いて行く道は、国道338号線。この道は半島北の大間から西海岸を下り、その南部では海岸から遠く高い山の中を通って、脇野沢でまた海岸まで降りてきた道である。
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 この国道は、陸奥湾岸を東へ進むと、大湊から太平洋側へ出て、陸奥小川原、三沢を経て奥入瀬川付近まで続く。もうひとつの下北半島の主要国道は、野辺地から陸奥湾岸を北上し、むつ市中心部を抜けて太平洋岸の風間浦村を経由して大間の高磯崎まで達している279号線。
 半島の最北端は大間崎だが、そこまでは国道は届いていないのだ。大間崎と大間の街は2.7キロも離れており、338号線も大間崎からではなく、根田内崎の東600メートルにある大間町大間の279号線との交差点から始まっている。
 この下北半島を巻いている二本の国道は、いずれもバスに乗って通ったり、バスを降りて歩いたりしてきたのだが、今回は脇野沢港から同じ脇野沢の小沢集落まで歩いた。この間で、めぐる岬は3つ。
 そのまず最初は、岸壁からは500メートルのところにあるサガレ石崎。
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 ここもどういう命名由来か不明だが、岬の形状からすると、脇野沢の北にある山から東に延びる小さな尾根の先端が、ちょんと海に突き出たところにあたる。その南側では国道338号線が崖下の海岸線沿いに走っている。
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 南では港の防波堤と牛ノ首岬、それの沖合には鯛島が浮かぶ。蟹田からのフェリーらしい姿もある。
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 サガレ石崎で折れ曲がった国道は、北へ向かっては山側を少しえぐるようになっており、その国道と海の間は直線の護岸とテトラポットで仕切られている。おそらくは埋め立てがあったのだろうが、この工事以前は、国道の描くラインがそのまま海岸線であったと想像できる。その想像のうえで、やっとどうにか岬だった姿が浮かび上がってくる。
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 現在の護岸の内側には、水産会社の建物と水槽のようなものが並んでいる。その端の護岸の先がサガレ石崎になるわけで、はなはだ見栄えはしない岬で、この分ではいずれ地理院地図からもその名が消えてしまいそうな心配まで感じさせる。
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 実際に、護岸や築港で消えていった岬は多い。岬の名前が地図から消える基準がなにかあるのかどうかもよくわからないが、岬が岬でなくなるときにはそれもやむを得ない。だが、国土地理院にはできるだけ名前を残す方向で考えてもらいたい。
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 ただでさえ、岬の名前の由来など、ほとんどわからなくなっているのだから、せめてそういう名がついていたという記憶と記録だけでも、どこかに留めておく必要があるのではないだろうか。
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 ここから北東方向には、松ヶ崎があり、殿崎があり、そのまた向こうには大湊の西に屹立する釜臥山とさらに西につながる恐山山地を望む。むつ市中心部から南へは、山はぐっと低くなりつつ、陸奥湾はぐっと南の野辺地湾まで広がる。野辺地湾の西に突き出た大崎には、前に述べたような事情で結局行くことができず、今回の岬めぐりから漏れてしまった。
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 その付近は遠く、ほとんどなにも見えない。野辺地湾の最奥までは40キロあるのだから、陸奥湾も広い。そこから西には、夏泊半島が色濃く突き出てきて八甲田の峰も見える。
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 そんな風景を楽しみながら、なおも国道338号線を東へ進む。

▼国土地理院 「地理院地図」
41度8分52.02秒 140度49分50.34秒
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1506 トドメキ崎=むつ市脇野沢(青森県)10年ちょっと前までは「村」だった脇野沢は半島の南西部でひっそり [岬めぐり]

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 牛ノ首岬を回り込むと、平舘海峡から陸奥湾岸に入る。ここからの岬めぐりの進路は、南ではなく東へと変わる。下北半島の南西側では、佐井村との境界を過ぎて「1500 大崎」の項以来、「むつ市脇野沢」という所在地表記がずっと続いてきた。この先も、むつ市川内町になる殿崎の手前まで、この表記は変わらない。
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 むつ市内では「大字城ヶ沢」とか「大字大湊」とか大字表記の住所はいくつかあるが、脇野沢にだけ「大字」も「町」もつかないのは、この地域がかつては独立した「村」であったからだろうか。
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 西を平舘海峡に南を陸奥湾に面した脇野沢村は、1889(明治22)年に西隣りにあった小沢村と合併したとあるが、それ以前から続く古い村であったのだろう。むつ市の一部になったのは、2005(平成17)年のことで、隣接する川内町、太平洋側の大畑町とともに編入されている。
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 人の暮らしている場所は、九艘泊、芋田、蛸田、寄浪、新井田、瀬野といった海岸に点在し小さいながらそれぞれに港を有する集落と、フェリーとシイラインが発着するターミナル岸壁と脇野沢漁港がある本村を中心とした脇野沢川流域だけにまとまっている。
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 トドメキ崎は、その港の南南西1.4キロのところで、小さくだがこんもりと飛び出た岬で、ニホンザルは牛ノ首岬からこの辺りにかけてまで出没するらしい。
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 江戸時代には幕府へも献上されていたタラをはじめとする海産物が、各集落の生活を支えてきたのだろうが、近年はこれに加えて観光も主要な産業にあげられている。ニホンザルも観光資源のひとつだが、市が力を入れている(?)鯛島上陸コースやイルカウオッチング、それに仏ヶ浦遊覧船の「夢の平成号」は、なんでもふるさと創生資金でできたという。夏中心のシーズンだけの運航だが、仏ヶ浦はお昼前と午後遅目の夕方にかけて、日に2便。果たして、どのくらいの利用者があるのだろうか。
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 観光船でその目の前にあっても、誰も目もトドメることもなく、その存在に胸トドメく?わけでもない。トキメクでもドヨメクでもない、意味がちょっとわからないこの地名は、北海道や秋田、新潟にもあるらしいので、なにかあるには違いないのだが…。
 そう思っていたが、どうやら古語にこの言葉があるようだ。意味は「わいわいがやがやと騒ぐ」というようなことらしい。この岬がどうしてわいわいがやがやなのか、その由来はやはりわからない。
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 トドメキ崎と脇野沢の港の間には、もうひとつ似たような出っ張りがあるが、ここには名前がついていない。愛宕山という公園と神社がある。すると、神社も愛宕神社の末社なのか。その公園の向かい側に脇野沢ユースホステルがある。脇野沢で泊まることになれば、そこくらいしかないのかなと思っていたが、いろいろ検討していくうちに泊まる計画はなくなった。
 脇野沢に着岸したポーラスターから、下船したのはでんでんむし一人だけ。牛滝から乗ってきた往路のときにも見かけたような人たちは、このまま青森港まで帰るようだ。
 脇野沢交通の九艘泊線に乗らなかったわけは、前にも書いたとおりで、行ってもすぐ引き返してこなければならないので、北海岬や貝崎をゆっくり眺めることはできない。だから、船からの眺めで大体用が足りたことにして、その時間を使って、脇野沢からさらに東へ、行けるところまで歩いてみることにした。

▼国土地理院 「地理院地図」
41度8分5.77秒 140度49分3.37秒
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1505 牛ノ首岬2=むつ市脇野沢(青森県)下北半島西海岸の南半分を下ってきてついに最南端部に到達 [岬めぐり]

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 北端の大間崎から、南端の牛ノ首岬までの下北半島西海岸。この間、ごく大雑把にみて55キロに及ぶ海岸線の半分が、道もない断崖絶壁の海岸だった。今回は佐井の下ノ崎から、順に南下しながら岬をめぐってきたが、西海岸はいよいよここで終わりになる。
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 イボ崎を過ぎ、白岩にかかると、牛ノ首岬はもう近い。白岩は岬ではないが地理院地図では斜体表記のあるところで、近くで見ると一面が崖崩れ防止の四角いブロックで網の目状に覆われている。その間に露出している岩も確かに白い。
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 牛ノ首岬の西側には寄浪(きなみ)の集落と漁港があるが、そこから県道は100メートル足らずの小山を迂回して脇野沢に向かっていくので、牛ノ首岬には道はない。東側が崖になっているので、北からずっと続いてきた断崖の趣が小さいながらも残っている。
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 岬の向こう遠くに見えてくるのは、大湊湾に面した半島のくびれ部分の恐山周辺の山々であろう。
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 小さな尾根が、「つ」の字のように飛び出ているが、西から見ると尾根の部分が少し高く盛り上がっている。それが、東側の海から見たところでは、低くて丸っこい台形状の岬になる。岬とその背景の小山の東にある集落は新井田。
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 牛ノ首がどこのなにを示しているのかは定かではないが、「首」または「頸」は岬の形容に通じるものがあるようで、全国各地で同様の命名にはときどき出くわす。
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 牛ノ首岬から南南東850メートルの海中に浮かんでいるのが、鯛島。弁天社があるので、別名弁天島とも呼ばれているらしいこの岩島は、脇野沢港の沖で目立っているので、その灯台を載せたクジラのような形とともに観光客受けするが、こちらは岬のある左舷のほうばかり見ていたので、反対側右舷にあるこの島は写真を撮っていなかった。
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 と言うか、ここを船で通るのも、往路を含めるともう4度目なので…。
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 と言っても、牛ノ首岬の項で、クジラのような鯛島の写真が一枚もないのでは、ちょっとイメージが沸かず格好もつかんだろうというので、前の写真を引っ張りだして改めて紹介しておくことにした。
 そう。この岬については2006年に、

 032 牛ノ首岬=むつ市脇野沢(青森県)岬と鯛島というよりむしろ鯨島というべきかも…の島の間を通るフェリーから

としてこのブログ開始のかなり早い段階で、すでに項目にとりあげていたのだ。しかし、その項目ではお天気の関係もあって岬はいまいちはっきりせず、むしろ鯛島のほうが主役になってしまっていた感があった。したがって、今回は「牛ノ首岬2」として、岬のほうに改めて眼を向けてみた。
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 脇野沢に降りるのも3度目となるが、最初はまだ岬めぐりの方針が固まっていなかったときで、龍飛崎(竜飛岬)や尻屋崎といった有名ドコロをつまみ食いする旅だった。2度目は半島めぐりと銘打ったツアーに参加してのことだった。
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 したがって、全岬をもれなくチェックするという大方針を立ててみると、やたらに落ち漏れが多い。ほとんどやり直し、行き直しが必要になった。
 そこで、2009年には下北半島の東海岸から大間崎を回るコースで岬を拾い、今回2017年で西海岸を回って完結させようと目論んでいる。

▼国土地理院 「地理院地図」
41度7分40.40秒 140度48分39.89秒
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タグ:青森県
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1504 下ノ崎・イボ崎=むつ市脇野沢(青森県)脇野沢交通の九艘泊線のバスに乗れば、ここの道路を通ったのだが… [岬めぐり]

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 北海岬を過ぎて南東を眺めると、浅い湾の奥に引っ込んだ下ノ崎と、フェリーが結ぶ下北半島と津軽半島の間の海峡に向かって飛び出すイボ崎が2ショットで見られ、遠くには鯛島が見えてくる。
 下ノ崎という名の岬は、佐井村福浦港の北の岬と同名で、この下北半島シリーズもそこから始まり、西海岸をずっと南下してきた。その名に意味や由来を求めても詮ないことのようだが、ここむつ市脇野沢の下ノ崎は、脇野沢と九艘泊を結ぶ道路がほんの少し膨らんでいるだけの岬になっている。
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 むりやりこじつければ、ここの場合はすぐ北にある貝崎と北海岬に対して、その「下ノ」岬であるということは言えそうだ。
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 九艘泊の港からは500メートルしか離れていなくて、東に隣接する芋田の集落からは300メートルちょっと北海岬寄りという位置にある。
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 芋田は九艘泊に比べるとずっと小さな集落で、西に向けて開けた入江をもち港がある。おそらく、芋田は九艘泊と一体となって、その補完的な役割を担ってきたのではないかと思われる。
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 もっとも、廻船の基地としての役割を九艘泊が失うのは早かったので、その後はもっぱら漁労を生業としてきた地域のはずである。現在では、この地域の名物はタラ(真鱈)なのだ。また、サルの生息地が人間のそれと近接しているところでもある。
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 下ノ崎から道路を脇野沢方面に南東方向に進むと、1.4キロほど先にはイボ崎がある。ここも下ノ崎と同様、道路が少し膨らんでいるだけの岬で、東へ800メートルも行けば、蛸田野集落がある。ただ、こちらのほうが下ノ崎のように控えめに内湾奥に引っ込んではいなくて、牛ノ首岬と並んで海峡に張り出している。
 イボ崎は50メートルを超える断崖も目立っているが、その名はどこからきたのだろう。アイヌ関連でなければ、誰でもが知っているあの「イボ」以外に思いつかないのだが…。
 やっぱりあった。イボ。
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 断崖の上で、少し青みがかった露頭(むきだしになった岩の出っ張り)がある。そのイボはひとつではなく、二つに見えたり四つに見えたりしている。
 ちょうど、イボの下の道路を走って通り過ぎている大型のダンプカーと比較してみれば、そのイボもかなり大きなものだとわかる。
 ダンプカーが走る県道175号線は、脇野沢と九艘泊を結んでいる海岸の道だが、ここをバスも走っている。
 有限会社脇野沢交通が運行する九艘泊線は、廃止代替路線である。元は今は脇野沢までとなっているJRバス東北のバスが、九艘泊まで乗り入れていたが、それが廃止になった。そこでむつ市は脇野沢交通に委託して、路線をなんとか維持しようとしている。
 日に3便しかないので、なかなか外来者には使いづらいが、ポーラスターが脇野沢に着いたら、このバスで九艘泊まで行くことも、当初の計画にはあった。脇野沢から出るむつ市大湊方面に行くバスの時刻が夕方までないので、その間にこれで往復してくることも可能だった。
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 結局、そのバスに乗らなかったのは、ひとつにはせっかく九艘泊まで行ったとしても、そこでうろうろする時間がまったくないからだ。バスは九艘泊に着くとすぐに折り返して脇野沢に帰ってくる。これでは北海岬を間近でゆっくり眺めることもできないし、この線にわざわざ乗る意味があまりない。下ノ崎もイボ崎も、バスで通ればまた別の視点もあったかもしれないが、だいたいは船からの眺めで用が足りたからだ。
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 それよりも、次の大湊方面のバスの時刻まで、歩きながら次の岬を求めていったほうがよいのではないか。そういう判断に傾いた。イボ崎の東にはこれまた急な白岩と名付けられた崖が見え、その向こうに牛ノ首岬が現われてくる。
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▼国土地理院 「地理院地図」
41度8分20.20秒 140度46分34.67秒 41度7分53.44秒 140度47分0.47秒
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タグ:青森県
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1503 北海岬=むつ市脇野沢(青森県)その名の雄大さに比しては小ぶりにまとまった岬は九艘泊の集落と港を守ってきた [岬めぐり]

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 その名はなかなか景の大きな、なんとなく雄大なイメージがありそうだが、実際の北海岬はさほどではない。貝崎よりは幅が広く、大きく飛び出していて、先端部には岩峰というより岩の塔のようなものがある。北から下ってくる船の上からは、貝崎の端にまずそれが見え始めてくる。
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 岬をぐるりと遊歩道が巻いており、先端から400メートルのところには九艘泊の港と集落があるので、人里離れた場所に孤立しているわけでもない。岬をつくっている尾根の高さは50メートルほどしかない。
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 そんな北海岬だからか、それに関する情報もほとんどなくて、どういうわけか神威岬や積丹半島がすぐに出てきたりする。その薄い検索項目のひとつに、でんでんむしブログから、

   635 北海岬ほか=むつ市脇野沢(青森県)津軽半島と下北半島の間で…平館から脇野沢の岬を

が拾われて出てきてしまう。この項目は対岸の津軽半島の平舘から下北を眺めた遠望に過ぎないもので、備忘的に入れた項目だった。おそらく、北海岬で検索して、それをご覧になった方々には不満があったことだろう。ここで、その埋め合わせをしておかなければならない。
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 北海岬の尾根を北へ辿ると、東北自然歩道の山道があり、ふたつの峰をもつ標高300メートルのガンケ山に至る。ガンケ山付近は林道も通っていて、これを下ると九艘泊川に沿って九艘泊の集落に降りてくる。
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 九艘泊(くそうどまり)という名からは、九艘もの船が停泊したという風景がすぐに想像できる。実際、義経伝説つながりでそういう話も伝わっているようだが、それは後世のこじつけだろう。また、由来の一説にはここを通る船のうち十艘中九艘は停泊するから、というのもあるという。下北半島南部ではいちばん奥の港であるから、そういう避難港的な意味合いもあったのかもしれないが、この北海岬東のそう大きくない入江に港が開けたのは、かなり古くからのことらしい。
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 江戸時代の初め頃に、南部盛岡藩が開いた田名部五ヶ湊のひとつとして、廻船が集い重きをなしたというのだ。だが、その繁栄はそう長続きはしなかったようで、その後はその役回りを脇野沢にとって代わられてしまう。
 後背地が開けた脇野沢と山間の九艘泊の地形を比較してみると、それは自然の成り行きでもあったとも言えるのだろう。
 では、なぜ最初から脇野沢ではなく、九艘泊からだったのだろうか。そういう別の疑問も湧いてくる。それも地形から想像できるところは、自然の入江を備えた九艘泊のほうが船溜まりとして使いやすかったが、脇野沢のほうは築港までに多少の手間を要した…そんな事情も考えられる。
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 前項では、貝崎まで32キロの間、海岸線を辿る道がなかった、と書いていたが、集落も牛滝以来20キロぶりとなるのがこの九艘泊なのだ。商業港としての役目が失われた後は、もっぱら漁村として存在してきた集落とその港を、強い北風から守ってきたのが北海岬であった。
 この名は北海道にあるのがふさわしくも思えるが、北海道には同名の岬はない。ここだけである。
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 すると、検索で出てくる「冠二郎の北海岬」というのも、ここの岬を歌っていることになるが、あまりヒットしなかったのか、あの歌かという記憶はない。そう、北海岬は検索でも歌でもあまりヒットしない岬なのか。
 実在の岬名を題名にした歌は、結構あるようなのだが調べたことはない。実は、調べようとして結局やらなかったのは、すぐ行き詰まってしまいそうだから…。
 だってね、まず♪北の街ではもう悲しみを暖炉で…の襟裳岬でしょ、それに♪北の岬に咲く浜茄子の…の立待岬、♪聞こえるはずない汽笛を聞いて…の越前岬でしょ、それから♪流氷溶けて春風吹いて…の宗谷岬…。そのほかにも、ご当地ソングばやりのご時世、神威岬・納沙布岬から辺戸岬・残波岬まで、日本全国いろいろあるにはあるらしいが、どれもほとんど聞いたことがない歌ばかりなのだ。それらを集めてみても、どうってことはないと思ったわけですがね。

▼国土地理院 「地理院地図」
41度8分27.41秒 140度46分9.84秒
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1502 貝崎=むつ市脇野沢(青森県)32キロぶりに復活した下北西海岸の道は遊歩道だった [岬めぐり]

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 しばらく崖の中の岬が続いてきたが、平舘海峡も貝崎まで南下してくると、やっと普通の岬っぽくなってくる。穴間山の西の端で南に延びる細い尾根の先っちょが貝崎で、その東側は貝崎沢という谷が切れ込んでいる。貝崎の先端では、低くなってき尾根が岩礁になって海に落ちる。出っ張り自体はさほど大きくないので、うっかりすると知らずに通り過ぎてしまいそうだ。
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 それに加えて、そのさらに南500メートルのところにある北海岬と、どうかするとくっついてしまいそうで、とくに北側から眺めると、見えるのは北海岬ばかりで、貝崎はその横にくっついて見える。
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 そんなわけだから、ここは貝崎と北海岬を一項目にまとめたほうがいいのかなとも考えたが、やはり別項目にすることにしよう。
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 そうした理由は、下北半島西海岸を下ってくるなかで、佐井からずっとしばらくなかった海岸線の道が、この貝崎から復活するからだ。佐井の磯谷集落まではなんとか続いていた海岸線の道は、そこからこの貝崎まで南北32キロ(ごく大雑把な凸凹を含む)に渡って、まったく途絶していた。
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 復活した破線の道は、貝崎の先端にあるわけではないが、水はなさそうな貝崎沢の奥まで伸びていて、沢の入口にあたる小さな入江の海岸近くには、地図にもある数棟の建物も見えている。
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 ここが九艘泊西の外れの集落なのかと思っていたが、どうやらそれは違うらしい。
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 地図の道は貝崎から海岸沿いに南下して、北海岬をぐるりと回りこんで九艘泊集落に達しているが、その間ずっと破線のままである。つまり、この道は自動車は通ることができないのだろう。海岸の遊歩道のようなものなのだろうが、それではこの水もなさそうな貝崎の沢では生活はできないだろうから、集落の外れではない。
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 では、ここの建物はなんなのか。気になったので調べてみると、例によって貝崎という岬の情報はまったくと言っていいほどないが、「貝崎園地」という情報が数件あった。
 その中の、移住・交流推進グループ・青森県企画政策部地域活力振興課という長ったらしい名前の「あおもり暮らし」サイトのあるページには、次のような記述があった。
 
 貝崎園地  観光情報 概要
脇野沢港から西へ車で約15分。車道が終わり、海岸沿いの遊歩道を行くと貝崎園地があります。
北海岬展望台や海峡展望台からは陸奥湾、津軽海峡が一望できます。
ときおりカモシカやサルも顔を出すこともある、大自然の公園です。
炊事場やトイレを完備したキャンプ場、バンガローもあります。
 
 同じサイトでは「夏季はヤマセによる影響にて冷涼、冬季には降雪が多く150cm近く積もる」という青森県でも、移住促進をはかっているらしい。寒い北国にもそれなりの良さが充分にあるのだろうから、移住のメリットを求めてくる人もあるのだろう。だが、人一倍寒がり屋のでんでんむしにはムリだな。
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 なるほど、見えていた建物は短い夏のためのキャンプ場の施設だったのだ。それで納得。
 しかし、数少ない中の別の情報に、2014年に公開されたYouTubeの「貝崎園地キャンプ場跡」という投稿動画もあった。それは、荒れ果てた廃墟動画で…。遊歩道も、何箇所も割れ落ちり大きな石が塞いだままになっていた。
 ということは、ほんの数年前までは一度は廃棄された状態になっていたものを再び改修して復活させた、ということになる。となると、復活のドラマもおもしろそうで興味をひかれるのにね。
 (と、書いていちおう締めくくってはみたのだが、どうもこの貝崎園地、現在本当に復活しているのかどうか、だんだん怪しいようにも思えてきた。ひょっとしたら、逆に県のサイトのほうが情報の更新がされず、古いままなのかも?…と。)

▼国土地理院 「地理院地図」
41度8分39.92秒 140度45分56.43秒
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タグ:青森県
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1501 アモ十太岬=むつ市脇野沢(青森県)名前からするとなにやら曰くありげなのになんにも情報がないので [岬めぐり]

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 「断層海岸」については、「1499 焼山崎」の項以来ずっとしつこく追いかけてきたのだが、その用語の使い方に偏りがある原因は、どうやらひとつの学説としてはあるものの、定説として学会に定着していなからではないのだろうか。(ただ、断層の存在自体は一部最新の探査技術を使った調査の結果でも、明らかにはなっているらしいし…。)
 大間原発にからむ地質調査などの結果が、断片的にネットで検索でき、それをシロウト目線で拾い読みしてみると、そんな印象も受ける。
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 こういった事例は結構多くて、ある学者の著書に書いてあって、へーそうなのかと感心していると、ほかの学者はまったくそれを評価していない。学説が定説になり一般人の常識になるには、何万年単位の地質年代ほどではないにしても、相当の時間が必要なのだろう。
 これまで、下北ジオパークの説明に書かれている「断層海岸とも呼ばれ」「断層海岸といわれる」というほかではあまり使われていない表現の背景を、僭越は承知でシロウトがいろいろ勘ぐってみたが、果たしてどの程度あたっているのだろうか。もし、まるっきりの間違い見当違いというのであれば、情報提示のしかたにも問題があるということになろう。
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 専門家の提供する情報が、一般人の知りたいこと、普通のシロウトにも理解できるような状況にないことは、この分野に限らずどこでも共通してある。そんなことは専門家や研究者の仕事ではない、という主張も一部あるのかもしれないが、それは考え違いだろう。ジオパークそのものの趣旨がそうであるように、一般への知識の普及活動は、専門家や研究者の重要な仕事、義務と言ってもいいことのひとつではないのか。
 常々そんなことを思っているでんでんむしは、ジオパークについてもその想いをところどころで書いてきた。

 番外:地層切断面=大島町野増(東京都)ジオパークは日本列島の断面をどう切り取って魅せることができるか

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 とはいえ、何百万年何千万年前になにがどうしたか、そんなことが簡単にわかるわけもないし、言えるわけもない。この分野のむずかしいことは、充分に理解できるが、それでもこれまでに多くの専門家研究者のおかげで、いろんなことがだんだんにわかってきている。その一部でいいから、あるいは基本のところだけでも、普通の人々の関心にフィットするように伝えることはできるはずなのだが…。
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 仏ヶ浦・新山崎・焼山崎・大崎と続いてきた断層海岸と海蝕崖は、まだまだ南へつながっていく。大崎の南1キロちょっとのところには、面木(おもぎ)という表記のある崖が続き、その上では山が切れて鞍部になっている。そこまで脇野沢に通じる面木沢に沿って林道があり、破線の山道が鞍部を越えて崖を降りている。
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 面木からまた1キロ南には、青石という表記が付けられた崖がある。また、材木岩とか穴間というのもあって、そこにも林道が延びてきている。300メートルの穴間山の南西がアモ十太岬と名付けられた50メートルの断崖で、この辺りまでくると等高線の間隔も少し広がって、崖の傾斜はゆるやかになってくる。
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 アモ十太岬というのも、なにやら曰くありげな名前なのだが、それについての情報はまるで得られない。アモ十太岬で出てくるのはただ地名を並べただけの場所取りサイトと、わずかな釣行記録のみである。脇野沢付近ではいわゆる遊漁船や渡船はないので、ここまでやってくる釣り人は、漁師さんに頼んで漁船を出してもらう、とあった。
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 見た目よりはアモ十太岬付近の足場はいいようだが、それにしてもよくこんなところまでと、日本中どこへ行っても、釣り人のあくなき執念には毎度感心させられる。けれども、アモ十太岬まで船を出してもらってやってくる釣り人も、そこらの岩や崖がなんでどうしてできたのか、そんなことには興味がないのだろうか。おそらくないのだろう。一般人の興味と言っても、それを平準化するのもむずかしい。
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 アモ十太岬から南へは、屏風岩を挟んで遠くに貝崎が見えてくる。この岬を回り込むと、もう脇野沢港も近い。
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▼国土地理院 「地理院地図」
41度9分38.03秒 140度46分2.31秒
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1500 大崎=むつ市脇野沢(青森県)「断層海岸」と言われるマサカリの刃はこうして研がれていったのか [岬めぐり]

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 大崎という名のつく岬は、黒崎についで二番目に多い。どれもその付近では最も存在感を発揮しているような岬に、この名はつけられることが多いようだが、ここの大崎もそうで、まぎれもない大崎である。
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 見た目はそんなに大きく飛び出しているという感じでもないのだが、やはり地図で検証してみると、大崎と呼ぶにふさわしい。
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 国道からは2.6キロ離れているだけだが、佐井村とむつ市の境界線がある武士泊から穴間の凹みまで、大崎を頂点とする5.6キロもの長い折れ線(細長い三角形の二辺)が引ける。それがほぼ丸々大崎の出っ張りだとも言える。
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 したがって、福浦崎から南の海岸線ではどこからでも、いとばん遠くの端に見えていたのがこの大崎なのだ。
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 ほんのりと丸く膨らんだ大崎から、対岸の平舘灯台までは10.5キロで、ここが下北半島と津軽半島の間の平舘海峡がいちばん狭くなっているところ。
 大崎の上の山は300メートルと、そんなに高い山ではない。しかし、その山頂の下標高200メートルの地点から大崎の先端までは垂直の幅で180メートルしかない。180メートルの幅の距離で200メートルもの落差がある。つまり等高線が、ぐっと狭く詰まっているわけで、それは急傾斜であることを示している。そして、おそらくはその断崖は海の中まで続いていることだろう。
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 これが、下北ジオパークその他青森県関係のサイトでも繰り返し強調している「急峻な断崖」そのものなのだ。
 似たような状況の断崖は、新山崎でも焼山崎でも同様にあったが、落差の激しさ(急傾斜度)では、大崎がいちばん。
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 この断崖が、下北ジオパークが「断層海岸といわれる」という断層でできた海岸とすると、その断層はいつ頃に起きたものだろうか。まず想像できるのは、グリーンタフ変動の時期(約2,300万年前から約500万年前までくらいの中新世)だが、それと同時期と考えていいのだろうか。いやいや、それは岩石が形成された時期なので、その頃から日本列島の形ができていたとは考えられない。したがって、現在の地形に近い形をつくり始めたのは、もっとずっと新しい時代の地殻変動による断層なのだろう。
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 海蝕崖というのは、崖または山ができたその後で、長い時間の間にそれが海に削られて崩れてできた急傾斜の崖ということになるはずなので、この両者の間にはかなり大きな時間的なズレが生じることになる。
 つまり、「断層海岸」と「海食崖」は、その断層と海食のそれぞれ作用した時期が大きくずれているはずで、強いて言えばまったく別の時期の別の状況を示していると思われるが…そういう解釈でいいのだろうか。
 そうだとすると、新山崎から南に向かって連なる焼山崎そして大崎の3つの岬の崖は、断層でできた海岸が、さらに海食によって削り取られて急峻な崖をうんだ、そういうことになる。
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 地図で大崎の表記がある東には300メートルのピークがあるが、ここを東西の断面でみると「ヘ」の字型になっている。西側は急な崖だが、海岸に近いピークから東へは、谷がゆるやかな傾斜をつくる面木沢から、脇野沢川の上流に合流し南に下っている。
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 大崎の崖は、深い大きな山の端にあるのではなく、海岸だけで盛り上がって急に落ち込んだようになっているわけだ。このことからみても、この崖が大きな地盤の変動によって生じた断層で生じた、マサカリの刃は断層によって研ぎすまされたという想像はできる。
 さらにシロウトの想像を膨らませれば、屏風を立てたような崖と山は、南の八甲田山や岩手山とつながる奥羽脊梁山脈の一部だったのだろう。
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 大崎の北にある焼山崎(前項)については、アイヌ語源関連もあった。いつもの「落合道人」ブログのコメント欄では、次のような指摘もいただいた。
北海道にも多い地名ですが、アイヌ語でya・ke(ヤケ)は削られた岸辺=断崖絶壁の意味になりますね。by ChinchikoPapa (2017-11-05 12:08)
 なるほどそうでした。そうすると、アイヌの命名者も、特異な岩肌の色については完全スルーしていることになるので、ナゾはいっそう深まる。

▼国土地理院 「地理院地図」
41度11分40.36秒 140度45分53.27秒
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1499 焼山崎=下北郡佐井村大字長後(青森県)ここの岬はなぜ「焼け」たのか誰も教えてくれないのも不思議ですが… [岬めぐり]

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 下北半島のサルとその生息地が、なぜ「∴ 」つきで特筆されるのかといえば、それは世界的にみてもヒトを除く霊長類ではここのニホンザルが最も北に生息しており、その場所としてはこの下北が世界でいちばん北に位置しているからだ。
 彼らは山の中に孤立しているわけではなく、生息地の南部、脇野沢に近いところではしばしば人間の世界に降りてきて農作物を荒らすなどの食害も起こっていて、保護と対策が問題になったりしている。
 山の中では、自然林の伐採などによって広葉樹林帯が縮小され、食料確保がむずかしくなるという事情もあったのだろう。そのため、下北のサルは道路もなく人もいない海岸に降りてきて、海藻貝類など海性の食料をじっくり調達するという芸当も身につけた。ポーラスターから海岸を眺めていても、サルらしい姿は発見できなかったが、これも世界的にめずらしく、ここだけでみられる現象だという。
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 地理院地図では、焼山崎のすぐそばに記された「∴ 下北半島のサル…」表記から大荒川を越えて少し東にずれた山のところにも、もうひとつ別の「∴ 」がある。それは「縫道石の特殊植物群落」というもの。世の中には、普通には知らない知らずにすんでいることがいっぱいあるものだ。これはいったいなんだろう。
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 縫道石山(ぬいどういしやま)というのは、仏ヶ浦の東3.6キロのところにある標高526メートルの岩峰ドームの山で、その岩に生えているオオウラヒダイワタケの群生が天然記念物に指定されており、それの群生が縫道石山から離れた焼山崎の東(縫道石)にもあるらしい。なんでも、その地衣類は氷河期をも生き残ったものなのだという。そしてまた、世界では北米東部のアパラチア山脈と日本にしかないのだという。そうきけば、それもまたありがたく思えてくる。
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 ポーラスターの船内放送で観光ガイドが流れるのはたまにしかないようだが、それによると焼山崎はこの海岸で屈指の見どころだという。確かに、赤茶けた岩肌が広く大きく露出しているのは、なかなかない景観であろう。
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 焼山という火山性の山の名もあちこちにあるが、ここは日本列島形成時のことはさておけば、その後の火山噴火によるものではないようなので、「焼山」ではなく、「焼けた」山崎なのだろう。また、焼山崎という名の岬もいくつかある(下北半島の太平洋側にもひとつある)が、それらの多くは、なぜ「焼」なのかよくわからないところも多い。
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 ここは一目見ただけで「焼」のつく意味がよくわかるが、不思議なことにどうしてこの海岸の岩肌が、こんな色になっているのか知りたいと思って調べようとしても、なかなかまともに答えてくれる情報が見当たらない。
 下北ジオパークのサイトを見ても、「下北の南西部海岸は断層海岸とも呼ばれ、落差100mを越える断崖が連続しており、新山崎、焼山崎等では落差300~500mの急峻な断崖」と断崖は強調されているが、なぜこのような岩肌なのかの説明はない。その下北ジオパーク推進協議会の焼山崎ジオサイトの説明は、こう言う。

 断層海岸といわれる西海岸は、落差100mを越える断崖が連続しており、新山崎、焼山崎等では落差300~500mの急峻な断崖となっています。断崖を形成している岩体の下部は前期~中期中新統金八沢層の玄武岩、上部は中期中新統檜川層の流紋岩質凝灰岩より構成されます。赤褐色に変色した岩肌が特徴的で津軽海峡を横断するフェリーからも確認できます。


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 これまた岩肌には触れながらも、その理由や原因は無視している。ジオパークやジオサイトの説明が、「かっかそうよう(隔靴掻痒)」であるということについては、前にも佐渡ヶ島かどこかで書いた記憶があるが、せっかくみんなに広く興味を持ってもらいたいというその趣旨には充分に届いていなくて、まだまだ工夫も努力も足りない。
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 もうひとつそこで気になったのが、「断層海岸」という用語で、あまり聞き慣れないないなあと調べてみようとすると、確かにそういう用語はあるらしくネット辞書の用語解説はぞろぞろ出てくる。要するに断層でできた海岸という文字通りなのだが、しかし、それについて記述した情報は、ほとんどといっていいほどない。この用語を使っているのは、下北ジオパークくらいしか出てこないのだ。それもまた不思議というかおもしろいなあと…。
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 では、国土地理院はどう言っているのだろう。
 「日本の典型的地形に関する調査」の結果をまとめた、地形を成因別に 194 の地形項目に分け、それぞれの代表的な地形項目を示している国土地理院のサイトがある。それによると、「海の作用による地形」のうち「海食崖(波食崖ともいう。海に面した山地や台地の前面で主に波食作用によってできた崖)」に該当する青森県の地形として、仏ヶ浦と焼山崎をあげているが、断層海岸という用語はどこにもない。
 焼山崎の岩肌が赤茶けているのは、どうやら、玄武岩に含まれている鉄分が風化によって変化したから、ということらしいのだが…。それで合っていますかね。
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▼国土地理院 「地理院地図」
41度15分11.99秒 140度46分49.47秒
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1498 新山崎=下北郡佐井村大字長後(青森県)国道338号線は海岸から遠く離れていくので… [岬めぐり]

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 仏ヶ浦観光の遊覧船の拠点である牛滝港を出た船から南の海岸を見ると、3つの比較的大きな岬が並んでいるのがわかる。手前から(北から)、新山崎・焼山崎・大崎の順になる。
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 牛滝からいちばん遠くに見えている大崎までは、約11.5キロある。いちばん手前の新山崎までは2.3キロ、そこから次の大崎までは2.5キロと、ほぼ等間隔に並んでいる。
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 新山崎の名は、「新」しい「山崎」という意味ではなく、「新山」という山から伸びてきた尾根の「崎」を示している。482メートルだからそんなに高山というわけではないが、小荒川という谷筋で区切られて新山から北に延びる尾根が海に落ちるところの西の張り出しに、その名がついている。
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 先端部は何本かの突き出た岩が、複雑なでこぼこをつくっている。このように、この付近の海岸は岩が連なる崖で覆われ、水流のある谷筋で切れ目ができる以外は、ずっと同じような海岸線が続いている。
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 道はない。徒歩で歩けるような山道すらどこにもない。崖の下はすぐに海となっている。道を探し求めるなら、新山崎から東に4キロ以上も山の中に登って入って行かなければならない。そこには下北半島の東沿岸を走る国道338号線が通っているのだが、佐井村とむつ市の境界線も走るその付近は、標高250メートルもある。
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 大間町からつながってきた338号線は、大間の原発建設工事中のところで内陸に迂回する以外は、佐井村の磯谷集落まで18キロほどは、ほぼ海岸線に近いところを通っている。山に上った仏ヶ浦付近でも、道路脇の展望台から海岸が見降ろせるくらい近かった国道は、牛滝ではいったん牛滝川と並行して走るほど下まで降りてきて、そこからまた南東に向かって山の中に入っている。
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 牛滝以南には人家も集落もなく、高くはないが深い山が続くこの新山崎・焼山崎・大崎という3つの岬の山側は、なべてこのように道も海岸から遠く離れた山の中で、人の世界からは遠くなっている。
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 少し前の地理院地図では、下北半島のこの一帯が野生のサル生息の北限という表示が大きく目立っていたが、最近の地図では拡大してやっと小さくその文字が出てくる。曰く「∴ 下北半島のサルおよびサル生息北限地」。その意味は、天然記念物に指定(1970(昭和45)年)されたということであろう。
 専門家のおっしゃることに間違いはないのだろうが、よく考えてみるとこの表現はいささか要領を得ない。つまり「および」という並列表現がついているので、この「∴ 」はふたつのことを指しているらしい。ひとつは「下北半島のサル」であり、いまひとつは「サル生息北限地」ということになる。わざわざ別々にする意味が、よくわからないのだが…。ま、なにか理由があるのだろう。
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 その表記は、新山の南、焼山崎のところと、佐井村の南端付近に当たる湯ノ沢山のところと、むつ市に入って東北自然歩道の通る穴間山のあたりの3か所につけられている。これによると、「北限地」とは新山付近くらいとなりそうだが、佐井村よりさらに北の大間町の山でもサルは確認されているという情報もあるらしいので、あまり厳密に考える必要はないのだろう。
 いよいよこの新山崎から南にかけては、人間の世界ではなく名実ともにおサルさんの世界になっていくのか。
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▼国土地理院 「地理院地図」
41度19分19.93秒 140度47分59.10秒
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タグ:青森県
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1497 福浦崎2=下北郡佐井村大字長後(青森県)白い崖を眺めて思う2000万年前からできはじめた列島のことなど [岬めぐり]

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 福浦崎については、2006年に仏ヶ浦を訪れたときに、そこから見た岬を項目にしていたが、実はその内容はほとんど仏ヶ浦の写真ばかりで、とりあえずあげておいたという感じでお茶を濁していた。

 031 福浦崎=下北郡佐井村大字長後(青森県)仏ケ浦は有名でもその北に大きくある岬を意識する人はいない

 そこで、今回は「福浦崎2」となる。…といって、格別たくさん書くことがあるわけもないが、前回はひとつだけしかなかった福浦崎の写真を、福浦港からぐるりと回りこんでみた眺めも補足しておきたい。
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 福浦の港からは、左手に長い岸壁の先にあるのが福浦崎で、北側の下ノ崎よりも港からは遠く離れている。45度に角度のついた岬の上は、八柄間山という313メートルのピークがあり、写真では丸くその頂きが岬のスロープと共に映り込む。
 このピークの70メートルくらい下のところを、国道338号線が巻いている。その南側は、恐れ多くも仏の磯をその遥か上から見下ろすことができるという、まことにバチあたりな展望台になっているようだ。
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 福浦崎の先端は、港から延びる岩の崖が丸くなっているが、その岩が変化に富んでいて、複雑な岩の節理がいろいろな造形を見せている。岩棚の上では鬼の洗濯板状態になる節理が、崖の縁では細かいギザギザの鋸の刃のようになっている。
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 港から見る福浦崎の遠くに見えているのは津軽半島で、ちょうど今別から北へ新幹線のトンネルが海峡に向かって下り、あるいは海峡から上がってくる傾斜になって通るところにあたる。
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 船で岬の北側と南側を見比べてみると、光線の加減もあるかもしれないが、南側の崖は白さが一段と際立って見える。あるいは南と北では岬をつくっている岩石の種類が異なるのかもしれない。
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 福浦崎南面の崖は、はっきりと白い。どうかすると薄い緑がかかっているようにも見える。
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 これはこの南に続く、仏ヶ浦の構成岩石と同じ、緑色凝灰岩(グリーンタフ)なのであろう。
 緑色凝灰岩というのは、実はその生成過程がわれわれの日本列島の成立と深く関わっている岩石のひとつで、現在の日本で北海道東部から東北日本海側にかけて、広く縦長い帯状に分布している。
 日本列島が今のような形に落ち着くまでには、地殻大変動を伴う長い長い時間が必要だったが、ざっくり言えばおよそ2000万~1500万年前に、ユーラシア大陸の東の端っこにあった地塊が、活発な火山活動と陥没によって離れ、間に縁海(日本海)をつくり、それがさらに大陸と列島を引き離していく。このとき、列島は真ん中付近からふたつに折れ曲がるような動きをしている。グリーンタフの分布は、まさしく日本海の拡大で押し出された列島の、ふたつに折れた北側の縁の部分を描いているようでもある。
 この日本海ができる過程で、海底火山の活発な活動が続き、大量の火山灰が海底に堆積し、マグマの熱や地中の圧力によって緑色凝灰岩という火山岩の巨大な帯となっていく、というわけだ。
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 今見ている福浦崎の白い崖も、そんなことを思いながら眺めると、また一段と味わい深い、と思うのですがいかがでしょうかね。

▼国土地理院 「地理院地図」
41度19分19.93秒 140度47分59.10秒
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1496 下ノ崎=下北郡佐井村大字長後(青森県)前には素通りしていたので今回は福浦港に降りてみた [岬めぐり]

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 下北半島のマサカリの刃に当たる部分は、仏ヶ浦に代表されるような断崖の海岸線が大間崎から北海岬まで南北47キロに渡って続くが、厳密に言うとその切れ味の鋭そうなところは南半分、福浦の下ノ崎から北海岬までの22キロくらいと言ってよいだろう。
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 西の津軽海峡に向いた刃の、ちょうど中間にある福浦港で、ポーラスターを下船したのもそのためだ。が、前述のとおり同乗の他の客はみんなその一つ前の牛滝港で降りていて、それは仏ヶ浦観光の遊覧船に乗り換えるためだった。
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 みなさんが用のない福浦までやってきたのは、下ノ崎と福浦崎チェックのためで、当方は前に行ったことがある仏ヶ浦には今回は用がないので、ポーラスターで往復通り過ぎる。
 下ノ崎から北には、佐井村と大間町の境界にある津鼻崎まで岬がなく、その間北北東に17キロもある。
shimonosaki-2.jpg 下ノ崎と福浦崎に挟まれた狭い入江の奥にある福浦港には、ほんのわずかな隙間を縫うようにして、船は岸壁に着く。操船技術もかなりの慣れが必要だろうと素人にもわかるくらいだ。船を迎えに出ていた係の人に聞くと、少し風や波があると、福浦港には寄らずに行ってしまうことも多いという。
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 でんでんむしが降りたので、誰も乗客がいなくなったポーラスターは、また狭い水路を抜けて佐井港へ向かっていった。その船が次の便で折り返してくるまで、この福浦で待つことになるが、自転車で港までやってきていた係の人にくっついて、民宿兼シーラインの切符売り場まで行き、帰りの乗船券を買っておく。
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 谷間の小さな集落は、付近の隣接集落とも遠く隔てられていて、国道338号線がかろうじて陸のルートを維持しているが、それも冬場には通れなくなることも多いという。だから、いちおう小中学校はあるが、郵便局は北へ5キロ以上離れた長後集落まで行かないとない。
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 そんな福浦の港の北にあるのが下ノ崎で、イカやコンブが少しばかり干してある港の北の端までは少し歩けばすぐ着く。
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 岬の付け根部分の斜面に、小さな赤い鳥居と祠があるのがなにやら微笑ましく思えるのも、この好天気のせいかもしれない。空も海も青く澄んでいて、これといってなにひとつ見せ場のない港を明るく映えさせてくれる。
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 下ノ崎の先端の向こう、遠くに霞んで見えるのは、津軽半島北部の高野崎龍飛崎。そして津軽海峡を挟んで右手に薄く見えるのは北海道の南端部で、その先端は白神岬となる。
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 この間の海の下は、深いところでは水深140メートルあり、その海底からさらに100メートル下の地中を青函トンネルが通っているわけだ。ここからいちばん近いところで39キロ先の海面下にあるトンネルの全長は約54キロ近くあるが、そのうち海の下になるのは23キロちょっと。そんな海の底なんかにトンネルを掘ったりしたら、底が割れて海水が浸入してくるのではないかという素人の心配も、あながち杞憂ではない。海底から100メートル下というのは、そういうリスクも計算されたうえでの深さであるらしい。その海底トンネルを、現在では北海道新幹線が1日に13往復していることになる。
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 でんでんむしも何度かそこを通り抜けたが、そんなときに東40キロにある海岸のことなど、まったく思いも浮かばない。見えないということは、そういうことなのだ。
 下ノ崎から遠く見える海の下を想像してみるが、これひとつとってみても人間のやることには限りない驚異を覚える。その割には、その同じ人間がつくる国の政治や社会などでは、何度選挙をやってみてもまったく進歩もなく、相変わらずのように思える。
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▼国土地理院 「地理院地図」
41度19分42.78秒 140度48分8.07秒
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タグ:青森県
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1495 夏泊崎2=東津軽郡平内町大字東田沢(青森県)見えてはいるけれどもなかなか遠い夏泊崎は今回もまた遠望止まりに [岬めぐり]

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 2009年の平内町訪問では、東海岸の「496 鼻繰崎」までしかバスが行かなかったので、夏泊崎の手前止まりになっていた。
 2010年にはむつ湾フェリーからの遠望で、「636 夏泊崎ほか」として備忘的な項目を設けていた。なかなか行けない、遠い夏泊崎だったが、現在では、町民バスの東田沢線は大島まで行くようになってはいるようだ。大島というのは、夏泊崎の先にある島のことだが、大島のバス停が島まで行っているわけではなさそうだ。
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 しかし、それで行ってもすぐに折り返しになってバスは帰ってしまうので、岬まで行こうとすると3時間後の次の便を待たなければならない。やはり、夏泊崎へ行くのはそれだけで午後いっぱいが必要な半日仕事であるらしい。
 今回は、西海岸から稲生へ行き、10分の間に油目崎の切れ目を越えるところまで行けば、比較的近くからの夏泊崎を眺めることができるだろう…とそういう目論見だった。
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 その目論見が外れてしまったので、今回もまた海を渡る船の上からの遠望になってしまった。だが、前よりはずっと近くで、岬の先端と大島もはきりと見える。
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 夏泊崎という岬名表記は、半島の先端細い出っ張りについていて、そこからは橋のような線で道が大島の山越え一本道になって伸びている。細い橋は50メートルちょっとくらいしかなく、それが半島と島をつないでいるのだが、それぞれ橋に至るアプローチも低く長いので、遠目に見ていると、半島と島の間はずいぶん離れているように見える。
 この間の道の両側には、岩礁がつながっているように地理院地図では描かれているので、大島も陸継島に限りなく近づいているその過程の途上にあるのだろうか。
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 大島の先端には、地図では灯台があることになっているのだが、やはりそれがわからないくらいには充分遠い。
 そのあるはずの大島の灯台から北北西に進路を取ると、下北半島最南端の牛ノ首岬までは13.5キロほど。ポーラスターは牛ノ首岬の東奥の脇野沢港を目指していくので、船の進路は北北東になる。
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 脇野沢で降りる人もあるだろうから、窓の少しはきれいな前の座席に移動できるだろう。岬チェックのためには、この航路では行きは進行方向右手に席を取らなければならない。そう思っていたら、脇野沢ではほとんど誰も降りないで、逆に乗ってくる人もいた。
 結局、途中で日差しを気にした女性客が左手の席に移動してくれたので、その後へ座ることができたが、ほとんどの乗客は脇野沢の次の寄港地である牛滝で降りて行った。
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 そう、ポーラスターに乗る人が目指していたのは、仏ヶ浦だったのだ。牛滝からは、仏ヶ浦観光の遊覧船が出ているので、みんなそれに乗り換えるのだ。
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 でんでんむしはひとり、さらに次の寄港地である福浦まで乗って行き、下ノ崎から順に南下しながら、下北半島西海岸の岬めぐりを続けようと思う。

▼国土地理院 「地理院地図」
41度0分46.57秒 140度52分25.45秒
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タグ:青森県
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1494 観音崎・油目崎=東津軽郡平内町大字茂浦・大字稲生(青森県)町民バスに乗りそこねた結果船からの遠望になってしまった [岬めぐり]

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 夏泊半島の岬めぐりは、東海岸は前に2009年に行っているので、今回は残っている西海岸を行くつもりで計画していた。平内町の町民バスも、東と西で路線が分かれており、西は稲生線が稲生まで行っているが、先端の夏泊崎までは届いていない。
 それと、町民バスのダイヤが、東西ほぼ同時間帯に動いているので、東を済ませてから西へ乗り換えるということができない。つまり1日に乗れるのは、東西のどちらかひとつということになるのだ。
 町民のためのバスだから、なかなかよそ者の旅行者向けにはできていない不便なバスだが、それでもこの地域ただひとつのバスなので、これに頼るしかないのだが、その町民バスに浅虫温泉で乗り換えるのに間に合わなかった、という話は前にしたとおりだ。
 本来ならば、そのバスに乗れていれば、平内中野で稲生線に乗り継いで、茂浦から夏泊ほたて海道トンネルを抜けて観音崎を過ぎ、浦田から海岸線を走るバスから油目崎を眺めながら稲生まで行くはずだった。
 それがダメになってしまったわけだが、翌日の便でまたというわけにはいかないので、これは青森湾内を航行するポーラスターの上から見るしかない。
 ところが、うまくいかないときはどうしようもないもので、窓が汚いときた。そこで出入口のドアの窓や汚れがさほどでないらしい前方の座席越しに眺めるという、はなはだ不本意な結果となった。
 それに、これも何度か書いているが、岬をその沖の海上から正面向きに見ても、あまりぱっとしないのだ。凸凹感が非常に薄れてしまい、のっぺりと平板になってちっとも岬らしく見えない。見栄えしないことおびただしい。
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 それをいちおう念頭においたうえで、まずはバッコノ崎から板ノ崎付近の、船上からの眺めはこんな具合になる。
 茂浦島も、半島に溶け込んであまり判然としないが、茂浦の北、進行方向左手に大きく見えてくる出っ張りがある。これが、夏泊ほたて海道トンネルがその付け根を貫通している小さな無名の半島で、その先端にもどういうわけか命名がされていない。
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 実は、観音崎はこの無名岬の陰に隠れていて見えない。そこは、漁港の出入口を扼するほんの小さな飛び出しなので、見えたとしてもこの遠さではさっぱりわからない。
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 小さな観音崎を完全に隠している出っ張りは、もう小さな半島と言ってもいいくらいの規模なのだが無名だ。これは断崖と岩に囲まれたもう立派な岬で、ふたつに分かれた北側の先端には双子島という岩島がある。
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 このほうがずっと岬らしいが、油目崎はこれよりも六回りも小ぶりで、その左手(北北東)4.2キロのところで目立たぬようにちょこんと飛び出している。
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 陸継島のような地形で、小山も90メートルと控え目だが、油目といういかにもなにか曰くのありそうな名がついている。
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 無名の双子島のある岬と、好対照なのだが、大きくていかにも岬らしいほうに名前がなくて、油目崎のほうにちゃんと名がついているそのわけはわからない。おそらくは、稲生の集落の人々にとって、その港と集落を、北風から遮る岬は、その規模以上に重要だったのだろう。
aburamefutagoM-3.jpg 町民バスに乗りそこねた影響は、もうひとつあって、稲生から帰ると、こんどはまたバスを乗り換えて、青い森鉄道の清水川駅と狩場沢駅の間にある大崎という岬にも行けなかった。大崎というのもまた名が体を表していないのだが、その付近が小湊のハクチョウ渡来地とされているところだ。
 ここも計画のたびにこぼれてしまう公共交通機関で行こうとすると、いわくつきのやっかいな岬で、今回もまたこぼれてしまった。
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▼国土地理院 「地理院地図」
40度57分31.11秒 140度51分44.05秒 40度59分4.31秒 140度51分53.94秒
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