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1458 赤羽根崎=三浦市三崎町城ヶ島(神奈川県)洞門がぽっかり空いた馬の背の岩尾根が南に延びる城ヶ島中央 [岬めぐり]

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 赤羽根崎も馬の背洞門も、地理院地図にもMapionにもまったく表記がないが、これも三崎口駅に置いてあるパンフレットには記載されている。城ヶ島のほぼ中央で南の相模湾に向かって、三角に飛び出ている岬の付近には、「赤羽根」という字名がもともとあったらしい。その痕跡は、Mapionに岬の東側の湾内に「赤羽根ビーチ」として記載があるので知れるが、そうするとこの岬に赤羽根崎と名があってもおかしくない。
 このように、地理院地図などには表記がなくても、地元の案内板やパンフレットなどにはちゃんと名前が記されていることは結構ある。当岬めぐりではいちおうの指針が必要なので、地理院地図に記名があるものを拾うことを原則にしているが、地元情報でその名が確認できるものは、極力それも項目にあげるようにしている。
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 馬の背洞門というのは、赤羽根崎の先端部の岩場で、馬の背のように痩せた尾根に大きな穴が開いているところだ。崖もとんがって張り出しているが、その下で洞門をもつ岩尾根が、南の海に向かって伸びている。この赤羽根崎の崖も絶え間なく押し寄せる波浪が、島を削ってできた海食崖であろう。
 崖だけでなく、海岸に広がる平らな岩場も、同じ作用が働いて、岩が均されたようになっている、海食台と呼ばれる場所だ。三浦半島の南端は、まさしく海と台地の攻防、いや攻めているのは海ばかりで台地のほうは守勢一方だから“攻防”は適当ではないのだろう。荒波の侵食をなんとかここで食い止めようと頑張っている最前線の特徴が、如実に表れている場所のひとつなのだ。形勢不利な陸側は、波浪の攻撃に土手っ腹に穴まで空けられてしまう。こういうのを、海食洞穴という。崖に台に穴。海食3セットが揃っている。
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 その最上部はほんの人一人がやっと渡れるというくらいの幅で、かろうじて橋のように残っているが、今にも崩れ落ちるのではないかと心配するほどに危うい。
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 当然、そこには入るな渡るなという標識があって柵もしてある。
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 なかなかの奇観でもあるので、島の名所のひとつになっている。この洞門は島めぐりのコース案内では重要ポイントになっていて、標識や道案内がつくられている。だが、そういう標識や案内板の類では、馬の背洞門はあっても赤羽根崎は存在しないかのようだ。まあ、同じ場所にふたつも名前はいらないということだろうし、見せ物としても岬よりは洞門のほうが印象に残るだろう。
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 今回のコースは、灘ヶ崎から長津呂崎を経て、海岸の岩と砂の間をぬって東へ進み、馬の背洞門の赤羽根崎までやってきた。ここに三浦市が建てた看板には、「明治の文豪、大町桂月…」とあるのだが、文豪とはいえんだろう。どうひいき目に見ても…。今でいう、エッセイストのようなもので、酒と旅を愛して全国各地を訪れては歌を詠み詩を書くという結構なご身分である。美文家と当時は呼ばれたようだが、文豪らしい作品はなにひとつないかわり、たくさんの碑石を日本各地に残している。
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 “馬の背”とは、「馬の背のように両側が深い谷となって落ち込んでいる山の尾根伝いの道(大辞林)」ということだが、“馬の背を分ける(越す)”ということばもすぐ連想で浮かんでくる。分水嶺のようなイメージで理解していたら、これがどうも違うらしい。おなじく大辞林の解説では「馬の背の片方に雨が降り、もう片方には降らないの意で、夕立などがごく近い地域で降る降らないの差ができる状態をいう。」というのだ。まるでフェーン現象だな、こりゃ。しかし、馬の背の左右でお天気が変わるというということがあるわけもないので、これはちょっと疑問だが…。今はちょっとそれに突っ込んでいる余裕がない。
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 赤羽根崎のそばの海には、小舟が一艘浮いている。誰もいない? いますよ。船尾のモーターの横で身体を海面にくっつけるように屈みこんでいる。これは、三浦半島のあちこちで見られる“みづき漁”だろう。後ろに長く細く伸びた竿を使って、海中メガネで海を覗きながら、獲物を突く漁法なのだ。
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 ここからは岬の上に階段と手すりが付けられている道を登って、道なりに北東方向へ進む。すると、県指定天然記念物ウミウやヒメウ、それにクロサギの生息地となっている断崖が見える展望台がある。 
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 半月形に湾曲した小湾を、ぐるりと断崖が囲んでいる。これもまたみごとな海食崖の見本のようだ。
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 Mapionの「赤羽根ビーチ」表記には、遊泳マークまでついているのだが、これはいささか問題であろう。確かにわずかに浜といえばそれらしきものもあるにはあるが、そこへ行くには道はなく、船で行くしか方法はないように思われる。あるいは地図にも案内板にもない秘密の通路があるのかもしれないが、そこは自然保護区域のはずだから、むやみに入って泳いでいいというものではないと思われる。
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 この辺りまでくると、道はきれいに整備された広い遊歩道で、道の縁にはスイセンの株がズラリと並んでいる。
 この道を抜けると、広い自動車道に出て、右に行けば城ヶ島公園、左に行って坂を下れば、城ヶ島大橋への登り口でもある白秋碑前のバス停と広い駐車場に出る。

▼国土地理院 「地理院地図」
35度7分51.44秒 139度37分5.02秒
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タグ:神奈川県
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1457 灘ヶ崎=三浦市三崎町城ヶ島(神奈川県)前にはなかった岬名がいつからかちゃんと明記されるようになった岬 [岬めぐり]

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 城ヶ島も何度か行っているので、この道もあの景色も見覚えのあるものばかりだ。ここ前にも通ったよねとか思いながら、京浜急行の三崎口駅前2番乗り場から乗ったバスの終点から、家の裏の間の細道を抜けて行く灘ヶ崎も初めてではない。
 それなのに、これまでの三浦半島の岬めぐりでここを項目にあげていなかったのは、当時の地理院地図にはその名の記載がなかったからだ。今では、地理院地図もMapionなど他の地図でもちゃんと載せている。そこで、こりゃちゃんと補足しなければ…と改めてやってきた。
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 灘ヶ崎はほぼ東西に横長の城ヶ島では、北東の端にあたる。北側はすぐマグロの水揚げで有名な三崎漁港で、その西の入口を守る長い防波堤が、岬の端から伸びている。遠目に見るとほとんど両者はつながっているようにも見えるが、灘ヶ崎の先端でいったん切れ、その先から防波堤が始まっている。
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 大きな岩が尾根のようになって、西の富士山に向かって伸びていく。この日は、前日は雪が薄く積もったが、もうすでに溶けて、めずらしいくらいの秋晴れのお天気になった。
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 楫(かじ)の三郎山という、いかにもなにかありそうな(三浦市の建てた説明板を読んでも不得要領)小山が、バス停終点の先にあるが、この山の北側には道がない。南側をすり抜けていくと小山の上に祠があり、そこから眺める灘ヶ崎が最高だ。
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 この城ヶ島の西端では、ここから南の長津呂崎にかけて、またここから東の城ヶ島一帯では、同じような何十枚もの板を重ねたものを斜めに傾けたような岩の層が、一帯に連続している。大小さまざまな、板棒きれを並べ突き出したような景観が続いている。
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 ここらではそれが崖ではなく、低い岩のでこぼこになって、海に向かって広がっている。これが三崎層で、城ヶ島付近ではその露頭が目立っているのだ。
 三崎層は1200万年前から400万年くらい前までの間に、大洋の海底に堆積した岩で、火山由来の噴出物である灰や岩滓が、積もり重なり固まった岩の互層になっている。
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 おおまかに言えば、白と黒が互い違いになっているが、白いのが火山灰が泥(シルト・粘土)となって固まった岩石で、黒いのが火山噴出の岩滓(スコリア)を含む凝灰岩の層になっている。それがかなり広範囲な露頭として大規模に展開している。三崎層は、三浦半島でも東は雨崎と剣崎の間から、西は油壺の南の浜諸磯を結ぶ線から以南と荒崎と佐島の一部に限られる。ほとんど半島南端を中心として分布している。
 互層になっているということは、1200万年前から400万年前という期間には、交互に違う噴出物を吐き出す大規模噴火が、間を置きながら何度も何度も繰り返されてきた、ということになるのだろうか。
 それも想像してみると、かなり不思議なことのように思え、いったいどのようにしてそういう現象が起こったのか疑問に思える。しかし、専門家はそういうことにはあまり疑問を感じないらしく、どのようにすればこういう互層になるのか、そのことについてあまり明快には教えてくれない。
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 あるサイトのページには「プレートの沈み込みに伴う付加体に特徴的な逆断層によって、同じ地層が繰り返し出現しています」という三崎層に関する説明があったのだが、悲しいかななぜ“逆断層が特徴になるのか、それによって同じ地層が繰り返し出現”することになるのかがわからない。
 まったく、ドがつくシロウトはどうしょうもなく困ったものだし、説明の下手な専門家にも困ったものだ。もちろん、専門家の仕事のメインがシロウトのご機嫌をとりむすぶことにはないことも充分に理解しているつもりだ。が、それは両者の意識と知識と疑問のもちかたに、大きな断層があるからなのであって…。
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 それでも、地質学の研修フィールドにもなっているらしいこの半島の地質については、それぞれ専門の方々によるいろいろなサイトやページがあり、教わることが多くておおいに感謝しています。
 そんな情報のなかには、見慣れない用語がたくさん出てくるので、シロウトはその意味から調べて理解しなければならない。
 灘ヶ崎の南すぐ、城ヶ島灯台の下には、城ヶ島京急ホテルがある。その横の崖には、黒いスコリア質凝灰岩の層が、まことに奇妙な形にねじ曲がり、のた打ち回ったような跡がそのまま固まってしまったようにして固まっている。
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 それはスランプ構造というものらしい。海底に堆積したものがまだ固まらないうちに斜面を滑り落ちる(海底地すべり)などして、このような形になったのだという。なるほどねえ。それはなんとなく想像ができます。ただ、ここの写真があまりうまくなかったので、それはまた後で…。
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 そして、その大洋の海底が、1年に数センチずつ西へ西へと動き、それを日本列島のプレートの端まで運んできて、その下に潜り込んでいくときにその一部がこすり付いた。
 城ヶ島で見ている三崎層は、そういうものだったと知ると、なんか楽しくなってくる。ねえ、そう思いませんか。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度8分13.84秒 139度36分38.43秒
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1456 長井松ヶ崎=横須賀市長井三丁目(神奈川県)岡崎の岬が松ヶ崎とはこれいかに火山豆石もわからんとはこれいかに [岬めぐり]

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 荒崎も公園からのコース順路に従えば、だいたいはどんどんびきという狭い入江を右に見て、佃荒崎のほうに進むことになるのだが、その北西側にも大きく岩場と丘が張り出している。その丘は城山とも呼ばれていて、実際に城塞のようなものがあったらしい。海に出っ張っているとはいっても、さほど戦略的に重要なポイントになっていたわけでもなさそうだ。この荒崎城には、三浦介義明の次男である三浦義澄が居城として住まいしていたという。
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 和田義盛の居城もその点では同じことだが、三浦にしろ和田にしろ、この時代の鎌倉武士は、土着の勢力圏、あるいは自分で切りとった勢力圏に住まうという、土着の武士団を形成していたので、最初から戦略的な眼で居城を選定していたわけではなかろう。
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 幕末には、彦根藩が荒崎の西に台場を築いたとされるが、彦根藩も幕命にしたがってここでその任についただけで、三浦や和田の時代とは武士もまったく性格をことにしていたわけだ。
 荒崎も何度か行っていて、昔は今よりももっとバスの便が悪かったような気がする。そこで、長井から荒崎まで延々歩いたことも記憶にある。そのときには小田和湾に沿って海岸線を歩こうと決めていて、道のないところはコンクリート護岸の上を歩いてぐるりと荒崎まで回った。途中、港のそばの護岸いっぱいに建物が建っているところもあって、結局海岸線を全部回り切ることは、無理だとわかった。
 そのコースの途中には、仮屋ヶ崎というバス停もあるのだが、そこには全然岬らしいものはなかった。また岡崎というところも同じだが、その先端まで行ったので、ここも前に来ている。しかし、ここも地図にはない岬なので、そのときには岬という意識がまったくないまま歩いて通りすぎていた。
 井上成美旧邸跡から下ってくる道と合流する付近には、熊野神社や住吉神社があり、それぞれ古い昔の漁村を守ってきた。そこからさらに北へくねくねする海岸を2.5キロも歩くと、長井漁港の北に張り出た岡崎に着く。
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 長井岡崎公園から西には、結構大きな団地がある。県営らしいが、棟と棟の間もせせこましくなく広く開いている。その間を抜けると、目の前に岩礁地帯が現れる。そこが長井松ヶ崎。
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 ただ、字地名は岡崎なのに、岬名は松ヶ崎だからねえ。地図にもないとなればこれはわからなかった。たまたま三浦半島の地質情報を集めたサイトでその名を知ったので、めでたく一項目追加。
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 そのサイトとは、トップページに海外町のスランプ構造をあしらった「三浦半島の地層・地質」というもので、いろいろ教えてもらい参考にさせていただいた。
 長井松ヶ崎として、この地質サイトが取りあげていたのは、ここには火山豆石があるからのようだった。“火山豆石”というのも、あまり聞き慣れない名前だ。
 その説明によると、「火山灰でできた丸い変わりアメ玉のようなもので、中心部は火山砂や小さな礫でできていて、大きさは直径数mm〜数cmの小さな丸い石」ということらしい。
 どうしてこのようなものができるかというと、火山が水蒸気爆発を起こしたとき、噴出物の粒子が核になって水分が細かい火山灰を引き寄せてくっつけ、空中を飛んでいる間にどんどん灰が固まって膨らんでいき、このような火山豆石となるのだという。
 へえー、ですね。まったく自然の現象とは…。
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 けれども、その自然現象がどこにあるのか、松ヶ崎の岩礁を歩いてみても、これか?というようなものになかなか出くわさない。シロウトの悲しさか、岩の上に小さな点々がたくさんあるので最初はそれかと思ったが、単なる貝だった。やっぱりなにか案内があるといいのだが…。
 そういう自然現象は、まだ人類が知らない太古に起こったものばかりとはいえない。三浦半島では、1923(大正12)年の関東大地震によって、陸地が1.5メートル近く隆起したのだというのだから…。
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 1.5メートルというと、この長井松ヶ崎の岩場も、荒崎や城ヶ島の海食台も、三浦半島の岩場はみんな関東大震災によって初めて陸上に出てきた…ということになりますねえ。
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 自販機を並べた横に、“駄菓子・文房具・ゲーセン”とこども三題噺のような小さな看板を出している家が、岡崎のバス停前にあって、なんかおかしかった。

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▼国土地理院 「地理院地図」
35度12分33.45秒 139度36分35.09秒
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dendenmushi.gif関東地方(2016/11/29 訪問)

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1455 お仙ヶ鼻=横須賀市長井六丁目(神奈川県)尾を引いているモノもちがいい横須賀市の説明看板と“お仙”って誰? [岬めぐり]

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 この横須賀市の案内板の説明文で、「黒くて硬い凝灰岩と、白くて軟らかい砂岩・泥岩」というのはわかりやすくてよい説明だ。そのふたつの層が洗濯板のようにでこぼこしているのは、侵食作用だけではないと踏み込んだ説明、「水分を吸収して膨張収縮しやすい砂岩・泥岩層が、水分を吸いにくい凝灰岩層との間で長い年月をかけて変化してきたためと考えられています。」というのもよい。たいていの人は、これでなるほどとうなづけることだろう。
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 だが、残念ながらそれだけでは、肝心のプレートの移動で海底の堆積物が削り取られてきたという説明が抜けてしまう。確かに堆積ではあるのだが、三浦半島が海にあった頃に堆積したというわけではない。やさしく説明するというのは、むずかしいものだ。
 また、堆積したというだけでは、この付近の海岸の岩の層が陸に向かって斜めに傾きながら飛び出しているのをみれば、なかなかすんなりとは腑に落ちないであろう。
 堆積するときは上下に順に堆積していたはずだが、その堆積層がプレートに押し出され押し付けられて、陸地側に乗り上げるように重なっていった…そう考えるとなんとなく「そうかあ」という気にもなるのだが…。ところが、たいていの本の付加体の説明図では、陸側が沈み海側が持ち上がるように描かれ、これと逆向きの傾斜で示されている。その矛盾を説明した本はない。
 とにかく、それだけではなく、もっと激しく複雑な力がさまざまに交錯していたことだろう。想像もつかないようなエネルギーが働いて、変成し変形した。そのことはこの岬の地層にもうかがえる。
 幾重にも折り重なる砂岩と泥岩の互層を眺めていると、想像はとうてい及ばないながら、不思議な気持ちになる。
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 …あれっ。ちょっと待てよ。横須賀市がこれを建てたのは…昭和52年?
 1977年だなあ。プレートテクトニクス理論が発表されてから10年近く経っている頃だけど、まだそれが広く浸透していたとは言い難いから…。これが書かれたとき、どの程度それを踏まえたのか踏まえてないのか、よくわからない微妙なところだ。というのは、日本の学会がプレートテクトニクスの受容でまとまるまでには、10年以上の歳月を必要としたからだ。
 首都圏から至近距離にあり、各大学の地質学研究室の実地研修なども盛んに行なわれている場所を抱えながら、とにかく40年前の説明をそのまま使っている横須賀市は、実におおらかでのんびりしているというか鈍いというか。
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 荒崎の弁天島をさらに東へ行くと、小さな浜と急にびっくりして飛び出たような小さな岬がある。ここがお仙ヶ鼻なのだが、その名は地理院地図には載っていない。載っていないが、ネット情報では釣り情報などたくさんの項目が拾い出されるくらい、よく知られている岬らしいので、項目を追加することにした。
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 お仙ヶ鼻は植生に覆われていて、三崎層の崖の周囲は歩けないので、これを石段で乗り越えなければならない。小さな岬と書いたのは、地図を見ての印象で、実際にそばに寄ってみるとなかなか大きい。ちょうど先端部の岩棚に立っていた釣り人を見てそれが実感できる。
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 その東に出ると栗谷浜(くればま)漁港があり、特養老人ホームのでかい建物が目立っているが、この上がソレイユの丘で、その下の先が佃嵐崎(つくたらしざき)となる。
 このあたり、項目の順序は、地図上の順にはなっていないで、行ったり来たりしている。実際の行動も、北から順に南へとか、きれいに計画的に動けなかった。何日かに分けて、あっちへ行ったりこっちへ来たりしているのは、近場だからとぶらり散歩のつもりで飛び出して、バスの都合その他で細切れになったからである。
 また、歩いているうちにおやこんな岬もあった…。じゃせっかくだから、ついでに入れておこうと、ずいぶんラフで無計画な出たとこ勝負になっている。
 お仙ヶ鼻もそんななかで“発見”してしまった岬なのだが、この名前の由来もあまりはっきりしない。“お仙”さんという女性にまつわるな何らかの話があるのだろうとは想像できるが、その確かな情報がどこにもないらしい。
 このテでよくあるのは、その女性がこの場所で不慮(あるいは覚悟の)の死を遂げた…という話だから、ここももしあるとすればそんなところだろう。が、そういう話の多くは事実に基づくものというより、誰かが思いつきで喋ったのが、だんだん尾ひれハヒレが付いて、もっともらしくなっていってしまう。…というのもある。
 地図には載っていない名前が、ネット情報などではどんどん広がって膨らんでいくというのも、なにかおもしろいのを通り越して、ちょっと気味が悪く思えたりする。
 そんなん感じもしながらお仙ヶ鼻のネット情報をみていると、釣り情報などに混じっていた、「nagainokaze」という人が書いているページに目が止まった。その人は、このお仙伝説は、房総の“おせんころがし”の話を伝え聞いた、ただその「背景は移植されないまま」の連想から生まれたのではないか、というのだ。
 なるほど。それはあり得る。案外、そんなところが正解だったりして…。
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 この岬の西には、昔の“火サス”に出てきそうな白亜の豪邸(いかにもいわくありげな)とその敷地が広がっている。その敷地とお仙ヶ鼻の境にあるツワブキか何かの黄色い花も咲く細い階段を登って…。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度11分38.57秒 139度36分29.62秒
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1454 荒崎2=横須賀市長井六丁目(神奈川県)栗谷浜ルートになぜか失敗10年ぶりの荒崎で「付加体」の意味を考える [岬めぐり]

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 10年ぶりの荒崎は、長井からソレイユの丘経由のバスに乗り、ソレイユの丘で降りて栗谷浜に出るつもりだった。ちょうど長井のバス停ダイヤにもその便が明記されていたからだ。ところが、時間通りにやってきたバスは、ソレイユの丘に行かず、まっすぐ荒崎まできてしまった。運転手さんに聞くとこれは行かない、ひとつ戻って漆山のバス停のとこから上って行けという。じゃああの時刻表はいったい何なんだよ、ちゃんと星印がついてソレイユの丘経由とあるじゃないかと、問い詰めたいところだがそれも虚しい。それに第一、近頃どこでもなにかと文句を言ってくってかかるオヤジが多いので、あれと同じようにはなりたくない。
 ぐっと呑み込んで、まあこっちは余裕でどっちでもいいんだからね。それじゃあ、と一般ルートで荒崎公園に向かうことに。
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 荒崎は三浦半島のなかでも、観音崎、城ヶ島、油壺…と数えあげても、何番目かに有名な場所と言えるだろう。潮が満ちたり干いたりする岩とその間に小さな砂浜が挟まっていて、海岸に続くでこぼこした岩場には潮だまりもある。そんな海岸を多くの人が歩いてすり減った踏跡を辿りながら岩を乗り越え、ときには潮が満ちても渡れるようにコンクリートで補強された細い道をつたって歩くことができる。
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 家族連れなど大勢の人が、海の香りを楽しみにやってくる。磯伝いの道は東西に向かい、北側は30メートルくらいの崖が続くので、冷たい風も遮られ、南に開ける海の向こうには伊豆大島が見える日も多い。そしてもちろん、西にはお約束の富士山が…見えるときもあれば、見えないときもある。
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 尖った岩の角にさえ気をつければ、こどもを遊ばせるのにもいい場所だが、決して大人が眼を離してはいけない。ただ、こども目線で考えれば、ここはやはり人が常に多く出入りすることもあってか、小さな魚介類や海藻など磯の生物相が乏しくさびしい。
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 周囲に緑も花も少ないけれど、そこに変わらずにある岩の様子をみると、いくらかおもしろいこともあるのだ。
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 三崎層という地層が縞になっている崖の下は、斜めになった板状の岩が重なっているような風景を見せている。
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 なにしろその風景こそは、遠い遠い昔、ここが日本列島に最後に付け加わった陸地だという証拠なのだから…。
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 三浦半島の地層は、ちょうど半島を東西の線でいくつかに切り分けたように池子層・逗子層・葉山層群・初声層などと北から南へ重なりながら並べたようになっている。いまからおよそ1200万年から400万年くらい前にかけてできたとされる三崎層は、半島の南端部と荒崎、佐島の一部、つまり三浦半島の南部を構成している地層なのだ。
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 でんでんむしは、地質学を正規に学んだことはない。まったくのシロウトなのだが、昔からその関係の本をいくらか読んできた。その興味は浅く広い。だが、そうした一般の幅広い興味に応える書物は、昔はまったくなく専門書ばかりであった。
 その昔の専門書では「地向斜」というのが幅をきかせていたが、どれを読んでもそれがどういうことなのか、なかなか自分でイメージを得るように理解できなくて困った記憶がある。学者の書くものは、どうしてこんなにもわかりにくいのだろう…その思いをいっそう増幅させる一因ともなった。
 今では学会的には「地向斜」はどこかへきれいに片付けてしまわれたようで、いつのまにかすっかり影をひそめてしまったが、それにかわってよく出てくるようになった用語が「付加体」。でんでんむしが最初に接したそのことばは、確かに「付加帯」とされていたので、てっきりそうだと思い込んでいた。
 2010年のはじめに高知県の岬めぐりに出かけたとき、四万十帯についていくつか書いてきた。これが付加体に改めてちゃんと眼を向けてみた最初だったのだろうか。
 その後、専門を一般向けにくだいた地球科学関連の本もいろいろ出るようになったし、最近ではネットにもそういう情報がたくさん公開されるようになって、より詳しく知ることもできありがたいことだ。
 おかげで「付加体」については、どうやら自分なりのイメージを膨らませることができる。でんでんむしは勝手に、これを説明するにはごはんつぶがついたしゃもじを想像するのがよい、と考えている。
 そのごはんつぶのついたしゃもじを、茶碗や皿の縁に当てて、ゆっくり動かしていくと、ごはんつぶがその縁に重なってたまっていくだろう。そこで、ひょいとしゃもじと茶碗や皿をいっしょにひっくり返す。
 その状態で、こそぎとられ縁にくっついているごはんつぶが「付加体」なのだ。そう考えるとわかりやすい。(珍説?新説!)
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 で、荒崎にみられる三崎層は、日本列島で最後に(今のところ)くっついたごはんつぶなのだ。そして、三崎層は三浦層群に含まれ、それはさらに大きくみると房総半島や丹沢とともに四万十帯の東の端っこを構成している。
 土佐清水の竜串に行ったときには、実は思いもしなかったのだが、そこにも三崎層が存在していた。四国の西南端と三浦半島はつながっていたのだ。
 しかし、やはり「付加体」などという生硬な専門用語は、なかなか一般には浸透しにくいとみえて、自治体の立て看板の説明文などではこれを省いている。横須賀市が荒崎に建てている案内看板では、「数千万年前、まだ三浦半島が海底であった頃に堆積した黒くて硬い凝灰岩と、白くて軟らかい砂岩・泥岩の層により形成され」たなどという表現をとっているのだが…。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度11分38.82秒 139度36分1.08秒
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dendenmushi.gif関東地方(2016/11/29 訪問)

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1453 佃荒崎=横須賀市長井四丁目(神奈川県)和田義盛の地盤だった和田の里から長浜海岸へ出て北へ [岬めぐり]

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 佃荒崎を「つくたらしさき」と読むらしい。「だ」「ざ」と濁ることもあるようだが、「つくだあらさき」がつづまったものだろう。またその北側にある小さな漁港は、栗谷浜と書いて「くればま」と読むということも、なずなさんのサイトで知った。
 こういうのは地元に密着している人でないとなかなかわからない。この人の「花の家(神奈川県三浦半島の自然)」サイトは、三浦半島を隅々まで歩き尽くして、その風景の写真動画だけでなく、コースマップの自作からダイヤモンド富士そして半島の花々などなど、まことに内容が充実していて、まったく見上げたものである。個人の制作するサイトで、広告やポイント稼ぎが目的ではないもので、このようにすばらしいものがあるのは、とてもうれしいことだ。敬意を表して紹介させてもらった。
 でんでんむしも昔はサイトを自作していたが、めんどくさくなってより手間の少ないブログに転向してしまった。だが、自作のサイトにはやはりブログではできない魅力もある。
 前に荒崎に来たときに、どうしてここも項目にあげていなかったのだろうと、記憶を辿ってみると、どうもそのときはソレイユの丘から直接海岸に降りようとして降りられなかったので、そのままになっていたのかもしれない。
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 今回は、長井の南にある初声町和田でバスを降りて、そこから佃荒崎の南側をみることにした。和田の北で横須賀市は終わり、赤羽根付近からは三浦市になる、
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 三浦半島で和田といえば、和田義盛である。三浦大介義明の孫にあたる義盛は、この和田に居を構えて治めていたのでその土地の名を姓として名乗っていたわけで、バス停和田から海側に向かって道路を入るとすぐに鳥居がある。その神社の境内に“和田義盛旧里碑”なる大きな石碑が建っている。また、そこからさらに海に近く寄ったところには、和田氏の拠点であった館城の跡を示す碑が、民家の庭先を削るようにして建っていた。いや、削ったのは民家のほうであろう。
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 1213(建暦3)年の和田合戦は、北条義時の専横と挑発に不満をもつ御家人と兵を挙げ立ち上がる。和田勢はよく奮戦し、義時邸、大倉御所、大江広元邸を襲撃し、源実朝も避難しなければならなかった。だが、起請文を反古にした三浦義村の裏切りもあって、由比ヶ浜に敗れる。江ノ電の和田塚は、このときの敗軍の死者を埋葬した地とされている。
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 海岸に出たところは、和田長浜海岸という。地元の人は「なはま海岸」と呼んでいると、これもなずなさんのサイトにはあった。長浜の意味だろうが、長さは逗子海岸よりも短い。そのかわり逗子海岸のように、浜のすぐ上を道路が通るようなこともないし、砂浜の幅はこちらのほうがずっと広い。道路から離れているうえに、海岸線は北からも南からもアプローチできないので、人もあまり多くなく穴場であるという。
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 長浜の北が佃荒崎、南は「058 黒崎の鼻」である。黒崎の鼻は逆光になって文字通りの黒崎だが、ここも最近ではガイドマップのコースに入っていて、みんなに知られるようになった。
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 長浜の北の砂浜で横須賀市と三浦市の境界線を越えるので、三浦市の和田から、佃荒崎へはまた横須賀市に戻る。
 佃荒崎の上はソレイユの丘になっているが、地理院地図の表記は「長井海の手公園」となっていた。“海の手”とは新造語であろうか。
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 三浦半島は大きな山も川もあまりない。半島最高点の大楠山が241メートルで、武山200メートル、南部の岩堂山が82メートルと目立つくらいで、あとは凸凹はむろんあるものの、全体的に見れば標高50メートル足らずの台地状になっている。それは、遠くをみた写真でもわかるように、遠目にはテーブル状といってもいいくらいだ。
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 その分、海岸からは崖状に立ち上がるところも多く、台地から道が海に降りるところは限られる。海岸線も海のそばを道が通るところは少ない。
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 この佃荒崎から荒崎にかけての海岸線は、半島のなかでも貴重ななぎさを歩けるコースなのだ。
 ところが運悪く、このときには佃荒崎を越える道の部分が工事中であった。これではおもしろくないので、予定は変更してなぎさを歩くのはやめた。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度11分29.73秒 139度36分31.94秒
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1452 観音鼻=横須賀市佐島一丁目(神奈川県)三浦半島の落穂ひろいと半島南部を主に占める三崎層はここ佐島から始まる [岬めぐり]

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 三浦半島はいわば地元なので、岬めぐりを本格的に全国展開する決心をしたときに、まず足元からと始めた経緯がある。その手始めいや足始めが「054 観音崎」(2006/12/01 再訪)だった。しかし、それから数えてももう10年を経過している。
 先日、地質関係でひさしぶりに三浦半島の地理院地図をつぶさに辿ってみていたら、前には項目にあげていなかったところが数か所あることがわかった。前に見落としていたという可能性は低いので、その後地理院地図に岬名が加えられたのだろう。
 加えて、地理院地図にはないが、そう呼ばれているという名前が判明したものもあったので、それらをまとめて、“三浦半島の岬・落穂ひろい”に出かけることにした。
 「観音崎」から始めた第一期についで、第二期三浦半島は「観音鼻」から。この間、およそ10年間で1450項の岬をめぐってきた勘定になる。
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 JR横須賀線の逗子駅前の2番のバス停からは、三浦半島西海岸のうち北部へ行く京浜急行のバス路線が数本ある。そのなかに「湘南佐島なぎさの丘」行きの直行便というのがあるので、それに乗って終点まで行く。
 三浦半島は、赤い電車とバスも京浜急行(正式社名は「京浜急行電鉄株式会社」で略称は「京急電鉄」と称しているが、一般には「京浜急行」のほうが通りがいい)の縄張りで、毎度お世話になっている乗客の一人だが、小さくて狭いこの半島エリアでも、バス路線は生活路線のみの視点で線が引かれているらしい。逗子駅から南へ、半島の西海岸を行くバスは、最長でもその半分の位置にある長井までしか行かない。
 ついでのことに電車京浜急行線の三崎口駅まで行けばいいのにと思うが、そうはなっていない。それにも理由はあるのだろう。
 佐島はその長井のもっと逗子寄りの手前で、国道134号線から南西に少しはみ出している出っ張りの一帯を指す地名である。その丘の上に京浜急行が開発して売り出した住宅地の真ん中がその直行バスの終点で、これも京急が自分で開発した住宅団地だから、ムリにでも維持しなければならない路線なのだろう。
 佐島へ行く路線は、ほかにも佐島マリーナ前まで行くのがあるが、それは国道134号線を通るルートで、直行便は途中湘南国際村を経由する独自のルートを走る。混雑する国道は、逗子市内と秋谷と芦名くらいしか通らないが、それでも30分はかかる。
 今回新たに“発見”した観音鼻は、この丘の下で小田和湾に南面している。地名がやたら出てきても、他地域の人にはわかりづらいので、京急電鉄の現地案内所のサイトを紹介してみると、こんな感じ。
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 空撮写真の中央下がなぎさの丘で、その上から海岸線を辿って北へ行くと、芦名、秋谷、そして葉山に入って長者ヶ崎、芝崎、森戸と続き、逗子湾の大崎、鎌倉の稲村ヶ崎、江ノ島、湘南海岸から大磯の高麗山へと富士山の眺めが展開している。
 観音鼻は、なぎさの丘から左へ、漁港の脇でちょこんと緑の小島がくっついたようになっているとこがそうだ。その左上に長く突き出しているのは天神島。それに囲まれた湾内が佐島マリーナの係留地になっている。
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 天神島は横須賀市の臨海自然教育園となっていて、ハマユウが自生する北限地となっている。昔ここにきたときにはまだ自然という名が多少は残っていたが、いまでは建物が増え東側は護岸、西側にわずかに自然の海岸が残っている。
 分譲地自体は、いまではもっと家が建っているが、それでも予定通りとはいかないらしく、最近では他のデベロッパーの名前で建売住宅などを売り出しているようだ。
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 分譲住宅地から丘を下ったところは、昔から続く古い漁師町の佇まいも感じられ、魚屋さんが朝早くから店を開け、買い出しに来ている人が集まっているといった風景も見られる。
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 観音鼻というのは当然ここに観音堂があるからで、その入口には十一面観音があるという看板が立っていた。だが、簡単に拝観できるような雰囲気ではなさそうだ。
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 この観音さんの小山いや小島も、海岸線の住宅地の拡大によって、当然のように陸地と一体化していったものとみえる。
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 三浦半島の地質は三浦層群と呼ばれ、主に北部は逗子層・池子層で、南部が三崎層と初声層などからなる。素人目には逗子層と三崎層の区別がなかなかつきにくいので困るが、佐島の付近は三崎層の泥岩と砂礫岩が互いに重なりあう地帯の北限だ。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度13分20.94秒 139度36分39.66秒
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1451 ツバクラ岬・女郎ヶ岬=福島町字岩部(北海道)大雨に見舞われて行けなくなってしまった岬 [岬めぐり]

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 小谷石ではなく福島町で泊る計画にしていたのは、福島町が地元のタクシー会社と契約してデマンドバスを運行しているからだった。通常のコミュニティバスとは違い、予約が必要らしい。これが吉岡から岩部までの海岸線を中心に、日に5往復していることがわかったので、宮歌のペンションという名前の民宿へ泊まり、翌朝いちばんの便で岩部まで行くつもりだった。
 それで岩部まで行けば、ツバクラ岬は目の前にあるし、海岸を走るところからマツクラノ岬も見えるだろうという心づもりだった。
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 国道228号線の海側が少し膨らんで、そこには広い砂利を敷き詰めたコンブ干場をもつ家が並んでいて、民宿はその間にある。部屋からは津軽海峡が目の前に広がる。
 この民宿から数百メートル西側の地下を、青函トンネルが通り抜けているはずだ。吉岡は北海道側のトンネル工事の拠点になっていたところで、海峡線と称していた頃には、吉岡海底駅という駅もあったが、通常の旅客の扱いはせず、もっぱら工事用だったと記憶している。これに対して本州側には竜飛海底駅があった。
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 民宿のおばさんに、トンネル工事の頃には宿も大繁盛だったのでは、と水を向けてみると、その頃にはまだ開業していなかったという。民宿ではどこでもありがちなことだが、ここもお仕事で長期滞在するおじさんたちのグループがいた。
 翌朝の朝食時になると雨はほとんど豪雨状態で、道は川になるようなありさまだった。
 やはり岩部までは行ってみたかった、というのは本心だが、この雨ではどうしようもない。いくらか覚悟はしていたとはいえ、かなりの降り方なので、この日の岩部まで行くという予定は変更して、朝のバスを待って木古内へ戻り、早めに東京へ引き上げることにした。幸い、小谷石も前日に終了しているので、もう心残りはない。
 今回の道南と奥尻の岬めぐりは、出だしから函館本線の不通でつまづいて、ずっと計画の変更を重ねてここまできたが、最後もまた大幅な修正である。考えてみれば、JR北海道とJR東日本の乗り放題フリーパスの恩恵は、ほとんど受けてなかったわけだ。
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 頭から雨合羽をかぶり傘をさしてバスを待つ間も、ザンザン降りだったので、写真どころではなかったが、どっちにしても岬などはさっぱり見えなかった。それでも、まだ早朝の雨足がゆるやかだった頃に、宿の窓から撮ってみた。矢越海岸の断崖は、よく見ればぼんやりと影があるかないかという程度だった。
 少し言い訳をしておくと、「でんでんむしの岬めぐり」は、全国の岬をできるだけ網羅したいとは思っているが、決して“制覇”や“踏破”を目的としていない。そのときの状況次第で、行けなかった岬も行けた岬も、それぞれがその岬との縁であったわけで、それを大切にしたいと考えている。
 そんなわけで、ツバクラ岬も、その手前の女郎ヶ岬も、前日の夕方の晴れ間に見た遠望だけでよしとすることになった。
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 ツバクラ岬の西にある岩部の小さな集落は、岩部川の流れる谷間の河口で、少し奥まっているので、斜めに遠くから見たのでは、ほとんどそれは見えない。その手前にトンネルがあるが、漁港はこのトンネルのこちらにあるようだ。
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 女郎ヶ岬も小さなトンネルで抜けているようだが、その場所の特定もむずかしいが、岩場があるあたりだろうか。その左手に三角の岩島が目立っているが、これは日出の白糸の滝付近で、このあたりの海岸には覆道がいくつも連なっている。それらも、翌日は雨のなかでなにも見えなくなっていた。
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 宮歌の氏子沢のバス停から、松前と函館を結ぶバスに乗り込んで、カッパを脱いでリュックにしまい傘を畳んで、やれやれと一息つく。木古内までは55分もかかる。この松前半島の先をめぐっている国道228号線を走るバス路線は、旧松前線の代替でもあったが、線路がなくなったのは1988(昭和63)年。だからもう全線廃止からも久しいので、かつては鉄道が通っていたことも遠い昔で、今ではもう誰も代替などという意識もあるまい。
 ともかく、いちおうこれで今回も積み残しになった檜山・島牧地区の一部を除いて、曲りなりにも道南の岬めぐりは終わる。
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▼国土地理院 「地理院地図」
41度30分24.40秒 140度20分47.33秒
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dendenmushi.gif北海道地方(2016/09/05〜06 訪問)

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1450 マツクラノ岬=松前郡福島町字岩部(北海道)小谷石から岩部までおよそ10キロ弱くらい断崖の無人の海岸線 [岬めぐり]

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 前項の矢越岬は、北東側の小谷石からの眺め、つまり知内町の領域だけだったが、南西側の福島町からの遠望も最後につけていた。
 矢越の白い灯台が見えるのはこれだけだ。といっても、それは写真を拡大してみてはじめてわかるのであって、なにしろ15キロも離れているのだから、よーく見ると白いものが…という程度だから、見えないというわけではないものの、肉眼でも見えると言い張るにはちょっと苦しい。
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 矢越岬灯台の点灯は1957(昭和32)年で、海面からは96メートルのところにある。ここに灯台を建てるために、小谷石から山の中を電柱を立てケーブルを引いた。あれっ! そういえば、地理院地図には矢越岬灯台のマークが付いていませんね。この付近では白神岬灯台に次ぐ、重要灯台のように思えるのだが…。
 この灯台とマツクラノ岬の写真は、その日のうちに小谷石から知内出張所のバス停に引き返し、そこから松前に行くバスに乗り換えて、福島の海岸に降りたときに撮ったものだ。このときには、小谷石で今にも降り出しそうだった天気が、ほんの少しの間だけ晴れ、沈む夕日が照らす矢越海岸を浮かび上がらせていた。これはまさに奇跡的であった。
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 というのも、その宵の口から雨が降り出し、翌日は豪雨のようになってしまい、二度とこの景色も見えなかったからだ。
 福島町は、本州の地名を冠した町のひとつで、福島出身者が多く移り住んだからだろう。こういう例は北海道にはいくつもある。札幌と千歳の間にある北広島などはそういう町のうちでは大きいほうだろう。その町には「◯◯カープ」と付く名前の少年野球チームが8つもあるという。
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 福島町には、横綱千代の山・千代の富士記念館があるし、青函トンネル記念館がある。いずれも町立。予定を変更したので、時間調節のために降りて見学しようと思ったら、どちらも休館日であった。
 ついていないときはしかたがないもので、マツクラノ岬へも翌日にコミュニティバスのようなもので岩部まで行くつもりだった。その道中の海岸線からは、もう少し近くからマツクラノ岬を望むことができるはずであった。
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 それがダメになったので、マツクラノ岬もこの次のツバクラ岬も、このほんの僅かな間だけ弱い夕日に薄ぼんやりと浮かびあがった遠望だけになってしまった。
 したがって、だいたいのところしかわからないが、まあいたしかたない。
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 矢越岬の西2.6キロのところにあるマツクラノ岬は、南西寄りから眺めると少し左寄りという位置にあたる。
 山むこうの知内町との境界になる尾根が、左手に高く伸びていく。その下の海岸線は断崖がむき出しになっているのがわかるが、どこが沢なのかまではわからない。
 地理院地図では、矢越岬の西にはツヅラ沢川と船隠の川、タタミの川が記されている。このうち船隠の川が流れ下るところに船隠島があり、その河口左岸の端がマツクラノ岬となっている。
 船隠の川は狭い谷を流れているようで平地はないが、矢越岬寄りのツヅラ沢川の河口付近はほんのちょっとだけ開けている。そこは船着場用に四角く掘られたような形跡もあるのだが、ここには戦後の一時期には樺太からの引揚者の集落があったのだという。
 なんでこんなところに…と思いをめぐらせていくと、引き揚げてきた人をすぐに受け入れるような態勢は、その当時に整っているはずもなく、仮設住宅もなかっただろう。
 引き揚げてきても、そこは見知らぬ土地。しかたなく、誰も見向きもしないような場所を見つけて住もうとしたと考えると、哀しくて胸が詰まる。千島列島の国後島からの引揚者が、奥尻島でいちばん辺鄙な神威脇に移住したというのと合わせて…。
 (誰ですか、お先マックラ…なんてダジャレでまとめようというのは…。でもね、そうでもしないとなんか気分も晴れませんしね。)
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▼国土地理院 「地理院地図」
41度30分54.25秒 140度22分36.48秒
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dendenmushi.gif北海道地方(2016/09/05〜06 訪問)

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1449 矢越岬=知内町字小谷石・福島町字岩部(北海道)郡と町との境界線にある岬の周辺はちょっとした秘境のようだが… [岬めぐり]

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 矢越岬はなかなかの景観といってよい。小谷石からクルーズ船も出ているらしいし、最近ではテレビでも何度か取り上げられているようだ。なので、船で行けばもっとそのそばから、形のよい岩の岬の上に神社の鳥居や灯台がのっかっているのが見えるのだろう。
 こちらは、小谷石の無名岬からの遠望のみである。そのクルーズ船から見た写真などは、たくさんネットにあるので、そちらを参照してくだされ。
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 木古内を出るお昼すぎにはまだ晴れていたお天気も、バスで南に下るうちにどんどん雲が出て広がり、小谷石ではすっかり薄暗くなるほど怪しくなってきた。
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 怪しいといえば、古い昔の記録もかなり怪しい。「知内町史」の年表は『大野土佐日記』のほかにも『北海道巡回紀行』や『松前落穂集』などいくつかの記述を抽出して併記してあるのだが、それぞれの史料でずいぶん違いがある。
 たとえば、荒木大学の没年は、前項では『大野土佐日記』によって1260(文応元)年の蝦夷蜂起によるとしていた。ところが、年表では“建長年間(文応より前です)”の蝦夷蜂起で「荒木大学頭及ヒ官吏等皆殺サレ」という『北海道巡回紀行』の記述や、1428(正長元)年の蝦夷蜂起のため「荒木大学が討ち死にした」という『松前落穂集』の記録が並べられている。
 つまり、この「知内町史」の年表のうえでは、荒木さんは都合3回死んでいることになるのだ。
 古い怪しい資料の見方・扱い方はなかなかね、悩ましくむつかしいところです。
 それに負けず劣らず怪しいのが、もちろんネット情報ですね。
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 “矢越”という名前からはまあだいたい想像できる状況はあるのだが、念のために探ってみると、「コトバンク」の「矢越岬」の項には、“日本大百科全書(ニッポニカ)の解説”として、“江戸時代に幕臣荒木大学が武運長久を祈って放った矢が大岩に突き刺さり、そこを矢越と名づけたという伝説がある”と、堂々と書いている。
 ヤヤヤ!?…ですよね、これは。あるいは同名異人がいたのかもしれないけど、ここでいう荒木大学は鎌倉時代の話で、江戸時代じゃないし幕臣でもない。いろんな情報がこんがらがっているのを、適当につなぎ合わせた結果そんな解説ができてしまったようだ。「コトバンク」も「日本大百科全書」もあまり信用ならんということですかね。
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 伝説と言えば、ここにも義経伝説はある。伝説は伝説という見本のように話はいろいろで、ひとつは“東北から逃れてきた義経が、この岬にいた妖怪に矢を放って追い払った”というもので、またひとつは“この岬周辺で大荒れの天候に見舞われ、岬に向けて矢を放ったところ、岬を越えて矢が飛んでいき、天候が回復した”というもの。
 まあ、どちらでもお好きなほうを…。
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 ほかに矢越について知内町史の年表に出てくるのは、1655(明暦元)年に“松前藩の家老蛎崎広林が矢越八幡宮を建立し弓矢を奉納。[祭神記・社掌大野重教]”とある。
 知内町のサイトでもこれを補足して、“松前家老蛎崎光林が、蝦夷蜂起による出征の際、武運長久を祈願して建立し、弓矢を奉納したと伝えられている神社で、ここより南西に見える矢越岬におかれています。”としている。ここでいう「ここ」とは、でんでんむしが矢越岬を眺めている小谷石の無名岬と同じ場所のよう(集落からは見えないので)である。
 音が同じなのでどこかで違ったのだろうが、“広”か“光”か、どっちが正しいんでしょうね。古い資料には写し間違い書き間違いも多いので、まあどうでもいいんだけど。
 知内町史の年表には、もうひとつ矢越について別の記述がある。
 1205(元久2)年の項に、“七月廿三日海上安全にして當國矢越迄無着於此處為武運長久の矢二筋さし上る…」[大野土佐日記]”とあるのだが、主語が欠落しているのでピンとこない。年号から見ると荒木大学が上陸したときのことらしいが、このときとするとその前には“舟漂流に及び、日久しくやらで、舟中の水相切らし…”という記述があるので、とても海上安全どころではなく、どうもわからない。
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 和人の感覚で矢越の漢字を当てはめたのは、後からのことであろう。別の情報によると、“矢越”は、アイヌ語で「ヤクシイ(内陸を通るところ)」が語源だという。矢とも弓とも関係がない。その音で「ヤクシイ」が「ヤコシ」に聞こえたとしてもおかしくはない。どうやらヤクシイに矢越という字と読みを当てたことから、矢に関した話が創造されたとみて間違いあるまい。
 では、アイヌ語の意味がわかれば納得かというと、多くの場合これがまた簡単にそうはいかないのでヤヤコシイ。
 ただ、この場合の(内陸を通るところ)というのは、海岸を通ることができないから…という意味なのだろうか。そうであれば、確かにそのとおりでわかりやすいし、納得もできるのだが…。
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 確かに、道路も新幹線もここを避けるようにして内陸を通っている。上磯郡知内町と松前郡福島町の境界線となる尾根が下る大きな山塊が、人を寄せつけない。断崖絶壁が連続している海からもまた、人が入り込むのは容易ではない。
 だがまた、そういうところへ入り込んで、八幡宮を建てようとした人も、この岬の上に灯台をつくろうとする人間の努力も、まことにたいしたご苦労なことである。
 1845(弘化2)年に矢越岬を踏査した松浦武四郎という人は、幕末から明治にかけて蝦夷地調査に活躍した。われわれがなにげに使っている「北海道」の名は、実はこの人が考え名付けたもので、自らの号も「北海道人」と称していた。
 1957年に点灯した矢越岬灯台は、小谷石の側からでは見えないが、反対側の南からだと遠望でも白くはっきりと見える。しかしまあ、すごいところに建てましたねえ、この灯台。
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▼国土地理院 「地理院地図」
41度31分2.17秒 140度24分31.85秒 41度31分0.73秒 140度24分29.61秒
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dendenmushi.gif北海道地方(2016/09/05 訪問)

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1448 小谷石の無名岬=知内町字小谷石(北海道)砂金の魔力が人を動かしこの地域にも人が入り込み蝦夷との抗争も… [岬めぐり]

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 小谷石のバスの終点は集落の南にあるが、ひとつ手前の滝ノ澗で降りて少し引き返す。そこには無名だが、なんとなく記録しておきたいような出っ張りがあるからだ。道路がカーブして小谷石の集落と港を抱える入江の北側で、立石と岩島のあるところは、岩礁が埋め立てられて護岸ができ、駐車場やトイレがあるスペースになっている。これができたのは、1999(平成11)年で、その名も「イカリカイ駐車公園」というのだそうだ。
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 この無名岬にそういう整備工事がわざわざ行なわれたのには、当然理由があるだろう。それは、矢越岬の展望スポットが必要という理由ではないか。
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 入江は浅い凹み程度で、深く湾曲しているわけではない。しかし、ほんのわずかの角度のズレでも、視界は大きく制限されてしまう。その奥にある集落のなかに入ってしまうと、矢越岬はもう見えなくなってしまうのだ。
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 小谷石の漁港の南側にも、ちょっと大きく張り出した岩峰があるので、集落からはその陰になる矢越岬は見えない。だから、その展望を楽しむには、集落の手前のここで足を止めなくてはならない。
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 もちろん、さらに歩を進めてその出っ張りを回りこんで行けば、もっと矢越岬には接近することができる。地図を見ると、回りこんで少し先までは建物もあり道らしきものもある。
 そこまで行ってみたいとも思ったのだが、バスの終点からそこまで歩いてまた引き返してくるには、時間が不足している。折り返しのバスが出るまでわずかしか時間がないのだ。
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 なにしろ、小谷石まで往復できる便はこれだけだから、逃すわけにはいかない。ま、そういうわけで、手前のここで降りて、折り返しのバスを捕まえることにした。そのほうが若干時間にも余裕ができる。
 道の脇から、展望台へ登る鉄製の階段ができていたが、そこまで登るほどの時間はない。小谷石には数軒の民宿もあるので、泊まることも考えてはいた。だが、矢越岬以西の行程を考えると、そういうわけにもいかない。
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 「知内町史」には、「小谷石に初めて定住したのは万右衛門・市助・惣重郎という者で入居は宝暦以前、延享・寛延の頃」という記述がある。
 延享・寛延年間といえば、1744〜1750年頃のことで、町史の年表にもたびたび出てくる『大野土佐日記』という史料が書かれたのは、その後すぐの1751(宝暦元)〜1829(文政12)年の間くらいだろうとされている。
 これがまた、“北海道最古の古文書”とかいうスゴイものらしいが、史料としてはいささかその信ぴょう性に難もあるらしい。
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 「1445 狐越岬」の項では、「金山には当たらなかったけど温泉は出た…」と書いていたが、この金に関する記述もこの史料によって「知内町史」が年表に収録されていた。実は、それによると金もまったく出なかったわけではなく、砂金などの記録がいくつかあったようだ。
 そして前述の幕府の調査で結論が出たかと思いきや、1874(明治7)年になってもお雇外国人のアメリカ人、H・S・モンローが道南から道東にかけての地質調査を行なっている。その際にも砂金の埋蔵量調査のため知内に来る、という記録も残っているから、金に対する人間の欲望はどこまでも計り知れないものがある。
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 小谷石に人が定住を始める500年以上も前から、この付近に人が入り込んでいたのも、もともとは金を探し求めてやってきたのだった。
 将軍源頼家の命によってこの地に派遣されたのが、甲斐国いはら郡領主荒木大学であったというのはなるほど甲斐の国かあ、と納得させる。だが、その荒木らの一行が、まず最初に人の近寄りがたい矢越岬を目指したというのは、どういうわけだったのだろうか。彼らは、“矢越岬から渚づたいに涌元へ行って上陸”したと『大野土佐日記』は書いているが、それは1205(元久2)年のことであったという。
 しかし、1260(文応元)年の蝦夷蜂起により、“荒木大学ほか掘り子全員が土に帰”ったと、その史料は記している。また、1457(長禄元)年には、南條季継の脇本(涌元)館が、コシャマインとの戦いで落城している。
 “蝦夷征伐”というのが、この当時北を目指した和人のキーワードであったし、それからも長くアイヌとの抗争は続くことになる。
 そして、1789(寛政元)年に道東で起こった“クナシリ・メナシの戦い”の終結をもって、和人の蝦夷支配体制が固まっていく。
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▼国土地理院 「地理院地図」
41度32分7.29秒 140度25分43.84秒
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1447 ナマコ岬=知内町字小谷石(北海道)この岬について書いている記事もほかにないだろうけど書けることもないので… [岬めぐり]

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 涌元から小谷石の間には、人家がまったくないと書いていた。したがって、涌元築港前のバス停から小谷石集落の東、滝の澗バス停の間3.8キロには、バス停がひとつしかない。ひとつでもあるのが不思議なようなものだが、そのバス停の名は“亥の子キャンプ場”。
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 ナマコ岬はそのバス停の南で、“逆くの字”型にちょっと膨らんだところである。キャンプ場がどこなのかよくわからないし地図にも記載がないが、海岸の道路脇のところか、あるいはちょうどバス停付近から一本だけ山にはいる細道があるので、それを登っていくのかもしれない。
 ナマコ岬という名も、なにも根拠なしにつくような名前ではなく、いかにも何かありそうだが、単純にナマコが獲れるところから…というようなことでいいのだろうか。
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 大方の地球上の生物に共通して言えることでもあるが、ナマコもなんでこんな生き物がいるのだろうかと不思議に思う。西洋ではカキについて同じような話が有名だが、夏目漱石は『吾輩は猫である』で、ナマコについて似たようなことを書いている。もっとも、それは名無しの猫が語る本文ではなく、「珍野苦沙彌先生虎皮下」として「在巣鴨 天道公平」なる得体のしれない人物から届いた意味不明の手紙のなかでであり、しかもフグとの合わせ技で出てくるだけだ。そこでは、「…始めて海鼠を食い出せる人は其膽力に於て敬すべく、始めて河豚を喫せる漢は其勇気に於て重んずべし。」としている。苦沙彌先生はともかく、漱石先生自身ははっきり西洋では有名な話を念頭に置いてのことだろう。
 しかし、でんでんむし的にはフグはともかくナマコはカキとともに比較的馴染みがあって、これを食べることにさほどの胆力は必要としなかった。昔からよく酢の物や大根おろしと合わせてコリコリと食べていた。たいして栄養にもなりそうでもないが、その食感や珍味を愛する食文化もおもしろいものだ。歴史的にみても、『延喜式』に載っているくらい古くからの食材であったようだ。食べていたのと同種かどうかは不明だが、潮が引いたあとの広島湾の海岸には、ネズミ色のナマコはそこらじゅうにごろごろしていた。
 それにしても、ナマコに“海鼠”という字を当てるほうにも、相当な胆力がいるのではないか。なにしろ、ネズミですからね。当て字の天才だった漱石先生も脱帽だろう。 
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 瀬戸内海の海岸では、わりとそこらにいたものだから、暖地性の生物かと思えば、北海道や青森でもよく獲られていて、乾物として利用する香港に輸出されているという。
 とりあえず、北海道にナマコ岬があってもおかしくないことはわかったが、それ以上のことはわからない。
 このナマコ岬付近の道は、岬から南は少し西に振れながらも南北に走っているが、ナマコ岬からはちょうど津軽海峡を挟んで、真東に正対して40キロ先が、下北半島の最北端、大間崎の弁天島にあたる。
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 また、南側の遠くにもうっすらと陸地の影があるが、こちらは南南西33キロ先の津軽半島の最北端、龍飛崎付近ということになる。
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 津軽海峡は国際海峡なので、ロシアや中国の船が通ってもOKなのだ。日露戦争のときには、バルチック艦隊がウラジオストクに入る航路として、津軽海峡ルートも真剣にその可能性が検討されていた。また、またもっと前に遡ると、開国以前からこの海域でのロシア船の往来がいくつもの歴史的事件事実として記録されている。当初は道東がその舞台だったが、だんだんと海峡を経て当時の行政の中心地であった松前に事件の現場は移ってくる。
 1786(寛政6)年のロシア商船による津軽海峡通過、1793(寛政5)年の大黒屋光太夫ら漂流者6名を連れてのラクスマン来航などを経て、1799(寛政11)年には幕府は松前藩の知内川以東浦河までを幕府の直轄にした。
 1811年(文化8)年にはディアナ号の艦長ゴローニンが捕縛され松前に移され監禁、続いて高田屋嘉兵衛船の拿捕などがあった。
 日米和親条約締結後、アメリカのペリー艦隊が箱館へやってくるのは、ゴローニン事件から43年後の1854(嘉永7・安政元)年である。
 はるか沖合を、大きなタンカーのような長い船が航行していた。それはどこの船だったのだろうか。
 ナマコ岬の南南西800メートルのところには、低いながら峠を越える出っ張りもあるが、そこには岬の名はついていない。その代わり、海岸の岩島には影泊島という名がつけられている。
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▼国土地理院 「地理院地図」
41度32分53.26秒 140度26分11.69秒
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1446 狐越岬=知内町字小谷石(北海道)金山には当たらなかったけど温泉は出た知内町にはふたつのトンネルがある [岬めぐり]

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 海岸からは離れた山寄りの知内町内を走り抜ける新幹線のトンネルは、都合6つもあるのだが、道路トンネルはふたつしかなく、そのふたつとも涌元から小谷石へ行く道の間にある。
 長磯岬と孤越岬の間を抜ける“しおさいトンネル”は、330メートルくらいの長さしかない。涌元漁港のところにあった“いさりびトンネル”(こちらのほうは地理院地図にも記名がない)はその半分もなかったが、どちらもトンネルの名前としてはくだけている(くだけたるトンネル名はまったく例がないわけではない。三浦半島の佐島にも同名のしおさいトンネルがある)。だいたいは地名や地域名がつけられることが多いので、決まり切った名になるのだが、このふたつのトンネルについてはちょっと違う。それは、公募で命名したからだろう。
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 “道道小谷石渡島知内停車場線トンネル名公募”は、1995(平成7)年に行なわれている。そして、“しおさいトンネル”のほうは1997(平成9)年に完成しているのだが、“いさりびトンネル”については町史の年表にその記述がない。
 トンネル名公募とトンネル完成の間には、豊浜トンネルの崩落事故(1996(平成8)年)が起こっている。これはかなり衝撃的な事故だった。この岬めぐりでもその現場を通ったことがある。また、定点観測でもアクセスが多い岬としてあげていたのが、この岬だった。
 とくに同じような断崖絶壁を掘り抜いたトンネルが多い北海道内では、他所事ではなかった。その年には、工事中の“しおさいトンネル”の前で安全祈願祭が行なわれている。この事故以降、道内のトンネルの付け替えが各所で進んでいる。
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 前述したように、涌元以南小谷石までの道路は、1964(昭和39)年の開通であるから、このトンネルはそれからおよそ30年ほどしてから開通している。ということは、それ以前には別のトンネルないし旧道があったわけだ。
 長磯岬側は見えなかったが、孤越岬側には岬を迂回する旧道があったことが、車窓からも壊れかけたガードレールなどが見える。それで、そこに道があったことを伺い知ることができる。
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 旧道は岬の尾根を回り、その先にある岩島との間をすり抜けて走っていたらしい。この旧道もすでに、地理院地図からはその痕跡もみえない。
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 孤越岬の岩島(と書いているがこれは島ではない。だが、岩山というよりは岩島のほうがなんとなくぴったりするので)の岩肌は、黄色や赤く見える崖が露出している。
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 見るからに、マグマが噴出したときに水と接触して水蒸気爆発が起こり、それが冷却されて破砕されたような形跡であるが、知内町には温泉も湯ノ里の知内温泉やこもれび温泉がある。発電所の西側山裾にあるこもれび温泉は、同名の温泉が蔵王にもあるが、知内町のはプールなども備えた健康保養センターという公営の立ち寄り湯である。そこはバスでその前に立ち寄っただけだし、湯ノ里の知内温泉のほうも福島への往復で通過しただけ。
 このふたつの温泉は東西に1キロ弱の距離があるが、町の境界線の山から海まで伸びる断層の上に並んでいるようにみえる。
 いつできたのかはよくわからない(年表から探せなかった)がこもれびのほうは比較的新しい温泉なのに対し、知内温泉のほうは古い。なにしろ、“北海道最古の歴史を持つ温泉地”というのだから…。
 その開湯は、1247年とされている。宝治元年のこの年は、北条時頼が三浦泰村を討ち果たし、三浦氏が滅亡するという宝治合戦があった年である。
 アイヌの間では知られていたのだろうが、和人で最初にこれを発見したのは、源頼家の家臣荒木某という伝承も残っているらしいが、その人物はもともとは金山を探すためにこの地の探索に入り偶然に温泉にあたってしまったということのようだ。
 金山の話は当時かなり知られていたらしく、その後も長い間さまざまな動きもあったようだが、1766(明和3)年に至って幕府が派遣した目付の点検によって、金山の利益は期待できないとの報告があり、それで決着したということになったらしい。

▼国土地理院 「地理院地図」
41度33分12.33秒 140度26分19.03秒
koetumisakiM-1.jpg
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1445 長磯岬=知内町字小谷石(北海道)小谷石で行き止まりになる道道531号線の涌元以南は半世紀前に開通 [岬めぐり]

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 蛇ノ鼻岬の次に現れるのは長磯岬だが、その前にちょっと追加しておくと、前項の蛇ノ鼻は涌元のほうから眺めたもので、いさりびトンネルというトンネルに入る前のことで書いていた。
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 しかし、国土地理院の地理院地図の岬名表記は、トンネルを出て東へ港を離れ、道路が90度にまた南へ向いてカーブする先の岩場につけられている。だが、この岩場は道路よりだいぶ低くて、目立つところではない。やはり岬が岬として認識されたのは、この岩場ではなくてその上に張り出した岩の崖と尾根を指してついたものであろう。
 このように、港の岸壁のすぐ隣に岬があるという例は、非常に多いが、それもまた船の出入りの目印でもあったからだろう。
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 長磯岬は、蛇ノ鼻岬のカーブを回るとすぐに見えてくる。
 細いが長い岩が突き出ているのが、その名の所以だろうか。
 そして、その長磯岬の向こう側には、もうひとつ別の岬も頭を出してくる。これは狐越岬で、このふたつの岬は、しおさいトンネルという350メートルのトンネルの北と南にある。つまり、トンネルの北側から見れば長磯岬で、南側から見れば狐越岬、ということになる。狐越岬のほうが長磯岬より大きく長いので北からは両方が見える。
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 知内町の年表によると、この涌元から南、小谷石までの道路ができたのは、1964(昭和39)年のことで、それから小谷石まで初めて路線バスが走った、とある。道道531号線が、行き止まりになる小谷石まで伸びてからは、半世紀ほどしか経っていないことになる。
 現在の住所表記では、蛇ノ鼻岬からが字小谷石になっているが、涌元から南の海岸線には人家はなく、道が終わる次の集落がバスの終点、小谷石である。
 では、道路が開通するまではどうしていたのだろうか。ムリに細い海岸伝いの道を通ったということもあるだろう。また、大方は船で往来していたのだろう。
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 知内町の西隣りにあるのは福島町だが、このふたつの町と郡を分ける境界線の南部では、岩部山から丸山と700〜800メートルの山塊が居座っていて、その尾根の南端が矢越岬となっている。
 小谷石からも矢越岬は越えられず、道もそこで行き止まりになっている。ここらが、道南の秘境たるゆえんであろう。
 海岸線が周回できないので、知内と福島を結ぶ国道228号線も、海峡を潜ってきた新幹線も、この山塊の北側で知内川が流れて尾根が切れるところを選んで通り抜けている。
 知内も涌元までは海岸に沿って平地が開けていたが、蛇ノ鼻岬からは山地にぶち当たるので、国道は知内川を渡ったところから西へ向きを変えて、知内温泉のある峠道を目指して、山を迂回している。
 そういう地理的な概念を、改めて確認しておくために、地理院地図で俯瞰してみよう。
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 この1キロ縮尺図と500メートル縮尺図では、蛇ノ鼻岬の位置表記が間違っている。この図で蛇ノ鼻岬とあるところは長磯岬であって、実際の蛇ノ鼻岬はその北側のカーブのところになる。
 町の年表では「知内町史」に、
 
「寛政2年正月2日いのこ泊り蛇の鼻の間に赤石と申処へ寄鯨」があったため、検分の役人・足軽武川七右衛門は両村の村役人の立ち会いのもとに蛇の鼻以西は福島の支配地と申し渡した…
 
との記録があるとしている。寛政2年というのは1790年で、伊能忠敬の測量隊がやってきて知内に泊まる10年前のできごとである。
 だがこの記録には、いささか不明な点、不審な点がある。
 まず、“いのこ泊り”と“赤石”の場所が、現代の地図からは探せない。赤石トンネルというのが白神岬の北東にあるが、これは離れすぎているので関係ないだろう。
 “寄鯨”というのは文字通りだろうが、それと“蛇の鼻以西は福島の支配地”となることの因果関係がわからない。なぜにそうなるのだろうか。
 それに、“以西”というよりも、“以南”というべきようにも思えるのだが…。
 この前後の記録がないのでその後どうなったのかは不明だが、このクジラがきた(あるいは漂着した?)ときには、知内と福島の境界が矢越岬から蛇ノ鼻へ大きく動いたことになってしまう。
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▼国土地理院 「地理院地図」
41度33分19.79秒 140度26分15.36秒
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1444 蛇ノ鼻岬=知内町字小谷石(北海道)道南一帯に路線網が広がるダイヤの見にくい函館バスでなかなか行けなかった岬へ [岬めぐり]

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 なかなか行けなかった岬というのは、北隣りの木古内町と同じ上磯郡の知内(しりうち)町にある岬である。知内町へ行くにはまず、木古内から小谷石行きのバスに乗る。ここも函館バスの路線バスが走ってはいるのだが、この運行時刻がやたらヘンテコで不便にできている。
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 終点の小谷石からの折り返し便の函館行きが13:31で終わってしまうからだ。これが、以前からまったく改善されていないのは、とにかく“小谷石への日帰りは許さない、必ず一泊しろ”という強い意思が働いているともとれる。 
 今回は通りすがりのついでではなく、2日とってこの知内町とその先の松前郡福島町の岬をカバーすることにしたが、小谷石には泊まらない。
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 とにかく、この路線で往復することが可能なのは、1日1本だけしかない。木古内12:35発のバスで、これが小谷石に着くのは…。函館バスの時刻表を見ても…??。 バス停の表記はいたしかたないとしても、サイトではちゃんとわかるようにしてほしい。
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 函館バスのサイトが見づらいことは、前にも書いたことがあるような気もするが、それからサイトはリニューアルされている。だが、肝心のところは変わっていない。 
 函館バスの時刻表のナニがいけないのかというと、たとえば前記の例で言えば、利用者の関心事は木古内12:35発のバスに乗れば、自分の目的のバス停には何時に着くのだろうかということのはずだが、それがまったくわからない。示されている時刻表は、バス停にあるのと同じ発時刻だけ。実はこういうサイトはここだけではなく、ほかの地域でも結構多い。
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 エリア全体と個々の路線の位置やつながりがわかる、路線図を用意していないのも問題である。函館バスとこのサイトの設計者に言わせれば、それはマップがあるし、到着時刻はそのバス停のマークをクリックするとわかるはずだというのだろう。だが、その情報を得るためにはページを移動して何度もクリックをしなければ出てこない。それは、決して利用者の目的にかなう方法とは言えない。
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 マップでバス停を示すというのは、一見進化した方法のようにも思えるが、Googleのマップにバス停を載っけたものなのでか、重くて遅くて操作性が悪くいらいらしてしまう。
 基本的にバス会社は独占事業で、ここ道南ではほとんど函館バスオンリーなので、毎度道南でバスで計画するときにはユーウツになる。それには、ひとつには函館バスの営業エリアが広すぎて、きめ細かな対応ができないという事情があるのではないか。
 全国的にみても、バス会社の営業エリアは市町村単位プラスアルファ程度の地域の細切れになっているのが普通で、函館バスほど広範囲(長万部以南、渡島半島・松前半島・亀田半島の全域にわたる)に路線網が及ぶのはあまり例がないのではなかろうか。
 なぜそうなったか。それにも理由がある。終戦前の1944(昭和19)年のバス事業統合によって、道南で14社もあったバス会社が統合され函館乗合自動車株式会社をつくった。これがそのまま函館バスの前身となったからだ。
 その函館バスが木古内から南に向かうと、やがて蛇ノ鼻岬は遠くに見えてくる。松前半島の先端をくるりと回る国道228号線は、知内から海岸を離れて山に入るのだが、その手前の海岸線を走るところからの眺めが、いちばん岬らしく見えた。
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 段々になった尾根の出っ張りがおもしろい岬だが、150メートルから下が50メートルごとに段差がついたようになっている。これがこんなふうに見えるのは、北からの遠望のみで、涌元の漁港が近づくとそれは見えない。
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 だが、海岸の際を走る道路からは50メートルくらいの断崖が切り立っており、それはこの蛇ノ鼻岬から1キロ弱ほど南へ続いている。
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 知内の町を抜けると発電所があり、涌元の港へ向かう道筋には、神社の秋祭りを知らせる幟が立っていた。
 祭り。そうだ祭りだ「まつり」だ…。北島三郎は、函館の歌で世にアピールしたし記念館も函館にあるので、函館出身だと思っている人も多かろうが、ここ知内町の出身である。
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 知内から南に伸びる道道531号線の道路脇には、“シカ飛び出し注意!”の看板もあった。どういう事情かはわからないが、松前・矢越道立自然公園内である小谷石の山中にエゾシカ9頭(牡3、牝6)を放したのは、1964年(昭和39)年のこと、と町の記録にはある。
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▼国土地理院 「地理院地図」
41度33分33.03秒 140度26分11.11秒
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番外:木古内駅=木古内町字本町(北海道)北海道最西端ではないけれども最南端の駅は新幹線の駅として一新されていた [岬めぐり]

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 江差線が廃止されたのは2014(平成26)年の5月だったが、その3年前の時点からJR北海道管内で乗降客が最も少ない(1キロ当たりの1日平均利用客数41人)区間となっていた。JRが発足した当初の1987年から比べると、実に6分の1に落ち込んでいたというから、そりゃ大変だ。
 それでも、同じく木古内から西へ伸びていた松前線が1988(昭和63)年に廃止されたのに比べると、江差線はずいぶん永らえたといってもいい。それは、代替道路となる道道5号線の整備が遅れていたこともあるが、もともとの江差線が五稜郭から始まっていたときから、道南の幹線として経緯してきたことと無関係ではなさそうだ。
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 本州でも同じだが、国鉄になる前からも民間の鉄道がたくさん敷かれていた。軽便鉄道が江差まで延長されて江差線となったのも、1936(昭和11)年と早かったが、函館と木古内の間は本州から青函トンネルを経て北海道をつなぐ重要幹線と重なっていたからだろう。
 江差線廃止後に北海道新幹線が開通したのは2016(平成28)年3月で、これ以降は木古内=五稜郭間は第三セクターに移管されて道南いさりび鉄道線となっている。木古内駅は、高架になったJRと地上1Fのいさり火鉄道とふたつの駅がくっついている。
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 北海道新幹線開通前には、新青森で海峡線に乗り換えて函館まで行っていたが、開通後は「はやぶさ」に乗ったまま青函トンネルを出て、函館北斗という新駅までつながった。
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 新幹線が北海道に上陸?するのは福島町の吉岡付近だが、そこからまだしばらくは青函トンネルの延長上にあるので、コモナイ川で一瞬地上に出るがすぐまた第一湯の里トンネルがある。そのトンネルを抜けたところが知内町の湯ノ里で、それからまたいくつもの小さなトンネルをくぐって、広いところに出るのが木古内町。
 木古内から函館北斗までの間は、また今度は長いトンネルがいくつも続くが、新幹線の終点で、札幌方面や函館駅へは乗り換えとなる新駅は、北斗市の市渡というところになる。木古内駅は北海道にトンネルで上陸してから、終点までのほぼ中間に位置している。
 その北海道側の最初の駅になる木古内駅も、以前のホームも狭くて人1.5人でいっぱいになるほどで、待合室も狭かった。海峡線の名はなくなったが、いさりび鉄道の駅と貨物線も含めて新駅は、駅前周辺を含めて大変貌している。これを機にして、町の再開発が行なわれたらしい。大通りに面した町並みは、まだ新しい。
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 新幹線のホームからは、長い陸橋通路を渡って南東側に出ると、駅前には広いロータリーがあって、バスとタクシーの乗降場や駐車場があり、正面には道の駅がある。
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 昔の木古内駅には、2007年と2012年の2回降りているはずなのだが、木古内町の岬は、ひとつだけしかない。それがサラキ岬。
 その東、函館寄りには 三ツ石崎という岬があるが、そこはもう北海道新幹線の新駅ができた北斗市になる。この岬も車窓からだったが、その項目では木古内から南の岬に行こうとしたけど行けなかったことなど、2007年当時のいきさつについて書いている。
 これまでそれが、ずっと懸案として残っていたので、今回の計画ではせたなからの帰りにはぜひともと予定していた。それが函館北斗から北へは行けないという思わぬ事態となってしまったが、最後の計画だけは当初の予定とはだいぶ異なってもなんとか達成したい。そう考えて、道の駅の前から出る木古内から南へ行くバスを待っている。
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 この道の駅の名前が“みそぎの郷 きこない” というのだが、“みそぎ”がわれわれが知っている意味なのか、それとも別の意味があるのか、聞き損ねた。

▼国土地理院 「地理院地図」
41度40分42.04秒 140度26分5.08秒
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番外:旧JR江差線=檜山郡上ノ国町・上磯郡木古内町(北海道)渡島半島の西岸を船で下って松前半島をバスで横断する [岬めぐり]

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 尾花岬や帆越岬があるところは、久遠郡せたな町であったが、そこから南に向かって海岸線を下って行くと、二海郡八雲町があり、爾志郡乙部町を通って、爾志郡乙部町に入り、檜山郡江差町に至る。
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 この海岸にある岬は、いちおう網羅していて、小歌岬から相泊岬まで計14 の岬(12項目)を数える。奥尻島の北部からこれを眺めると、ほとんど霞んでしまううえに、岬の判別などまったくできないが、いちおうリストだけはあげておこう。
 
 
 前項の終わりに朝焼けのなかにある対岸の北海道本島の写真をあげていたが、これは奥尻小学校前の民宿の窓から早朝に撮った。奥尻島の岬めぐりは、当初計画とはだいぶ違う形で早めに終了したので、翌日の朝いちばんの江差行きフェリーに乗ることにした。台風が接近しているのと、道南の天気予報では雨になると予想されていたので、早く北海道本島へ引き返しておいたほうがよかろうという判断だった。
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 早朝にもかかわらず、朝食も出してもらいフェリー乗り場まで送ってもらい、再び“アヴローラおくしり”に乗り、鍋釣岩に別れを告げる。
 フェリーからなんとかこれら渡島(おしま)半島西海岸の岬を、確認できるかと思ったが、これはまったくダメ。さっぱり見分けがつかないので、早々にあきらめた。06:50に奥尻港を出ると、09:00に江差港に着く。
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 江差港に戻ると、来たときと同じルートで木古内行きのバスに乗りたいのだが、これがまた連絡が悪く、次の木古内行きは10:45まで待たないといけない。
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 午前中なのでニシンそばの店も開いていないし、もう何度か歩いた江差の町をまたふらついて時間を待つ。このバス路線は、かつてあったJR江差線の代替ということで始まった、函館バスの路線である。そう函館バスの営業路線の範囲は、完全に“函館”の範疇を越えて、渡島半島・松前半島・亀田半島に広がっている。 
 JR江差線が走っていたのは、平成26年5月までで、当初は鉄道の代替ということで木古内駅前と江差駅の裏に当たる函館バスの江差ターミナルを結んで走り出した。
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 だが、その後は江差町内の路線が延長され、現在では江差町の北部にある高校や病院から、姥神のフェリー乗り場とターミナルを経由し、上ノ国から海岸を離れて山に入り、峠を越えて松前半島東海岸の木古内まで行く。このバスが通る道からは、昔の江差駅の様子はわからないが、ここの在りし日の様子は、昔のブログの項目から拾い出せる。函館バスが走らせているこの路線のバスは、小型というのか中型というのか、よくわからないバスで日立かどこかの車両であったと思う。確かめようとしたが、どこにも車両製造のプレート掲示がない。
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 実はこの同タイプのバスは、全国でコミュニティバスなどとしてたくさん走っている。東京は中央区の江戸バスもこの車両を使っているし、でんでんむしの町を走っている京急バスもこのバスを採用したが、一台で座れる人数は11人だけだ。ただ座席のおき方にはいりいろな配置がある。シェアは全国各地でどんどん伸ばしているようだが、個人的にはこのバスはあまり好きではない。ムリに低床にだけこだわった設計になっているのでムダが多く、座席数が少ないし、運転席がやたらに高いので、天井も窓も高くなんだか妙にバランスが悪いバスなのだ。
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 おまけに函館バスのこの路線で使っているバスは、ラッピングで窓をほとんど覆っているので、景色がほとんど見えない。
 江差ターミナルと言っても、単なる車庫のようなところに、小さな待合室がくっついているだけだが、そこを出てしばらく走ると、檜山郡上ノ国(かみのくに)町に入る。
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 上ノ国からは天ノ川の流域に沿って、道道5号線を南東に進み、徐々に高度を上げていく。途中では、道路のそばに旧江差線の線路跡や鉄橋があるのが見える。
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 湯ノ岱という温泉があるところでは、旧湯ノ岱駅の前に停まって、一休みする。なにしろ、始発から終点までの所要時間は1時間50分にもなるので、トイレ休憩の意味もあるのだろう。
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 ここと神明のところでは、旧駅の前にバス停があり、そこには旧駅の建物やプラットホームなどの跡が残っていて、赤く錆びたレールもそのままだ。
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 また、別のところでは沢に架かっていた鉄橋や線路の石積みを取り除く工事も行なわれていたから、旧鉄道の廃線跡は徐々に取り除かれているところなのだろうか。
 松前半島の分水嶺は、中央よりも東寄り斜めに連なるが、高度はそう高くはない。上ノ国町から木古内町へ変わる境界線は、標高200メートルの吉堀隧道で越える。
 峠を越えると、木古内川に沿って一気に南東へ下りながら、谷の幅がどんどん広くなり、やがて新幹線の高架が見えてくる。
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 全線区で赤字が続いているJR北海道は、すでに留萌線の留萌=増毛間の廃止を決めているが、さらに2016年秋には利用者が少なく維持が難しい線区をまとめて示すという。輸送密度の極端に低い線区としてあげられているのは、札沼線(北海道医療大学=新十津川)や石勝線(新夕張=夕張)、根室線(富良野=新得)などである。
 留萌=増毛も岬めぐりの計画で、検討はしていたが、とにかく本数が少ないので使えない。利用者が少ないので採算が取れない、合理化のため本数を減らす、ますます使いにくくなって廃線…という構図は、本土でも北海道でも変わらない。 

▼国土地理院 「地理院地図」
41度42分49.69秒 140度18分29.75秒
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1443 尾花岬・帆越岬=久遠郡せたな町大成区太田・富磯(北海道)難所の見えない岬だからムリしてでも… [岬めぐり]

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 これも前項の茂津多岬とまったく同じいきさつと理由で、項目を設ける。
 尾花岬・帆越岬も、茂津多岬にまさるとも劣らない岬めぐりの難所である。これもなかなかそば近くにも行けないというわけで、せめて奥尻島の東岸からほぼ正面に見えるこれを、いちおうチェックしておこう。
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 何度か書いているが、岬は正面から見てもちっとも岬らしくない。周囲の景色が単調なこともあって、遠近感がまったく出ないのだ。
 それを承知で、とにかくむりやり正面からの遠望で…。
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 まず、尾花岬はせたな町の日に一度だけフェリーの発着する港からは、16.5キロ南南西に離れている。以前には鵜泊までしか行かないバスを港で降りて水垂岬まで歩き、そこから南の日中戸岬までを眺めるところで終わっていた。日中戸岬からは、道路はさらに南へ、1.1キロの日昼部トンネルと3.4キロもある太田トンネルという二本の長いトンネルで伸びているが、ここも公共交通機関はいっさいない。(iOS マップ↓)
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 尾花岬は、その長い太田トンネルの北側4分の1くらいのところにある。もちろん、ここもどこからも見ることができない岬なので、船からか対岸にある奥尻島から見るしかない。
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 奥尻島の最北端からは、東北東18.5キロにある尾花岬は、おぼろげに巨大な崖が岩肌を露出しているのがわかる程度だ。地理院地図によると、崖のように見えない緑の山も、海岸近くはこの一帯では例外なく崖のようである。
 なんらか、場所を特定できるようなものはないかと、眼を皿にしてみたが、やはりわからない。なにしろ、目印になるようなものがほとんどないからだ。
 遠目だからわからない、というだけでない。わずかな目印は、トンネルの切れ目とか、小さな沢の切れ込みとか、岩の出っ張りの並び具合くらいしかないのだ。
 おそらく、よほど海岸から近い所を、船で行ったり来たりしてやっとわかるくらいだろう。
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 尾花岬を太田トンネルで南へ抜けたところが、せたな町大成区の太田集落で、ここには漁港もある。この北隣りの集落と漁港は鵜泊で、そこから太田までは11キロ、その間、トンネル以外はほとんどなにもない。
 太田トンネルの南よりの上に毛無山816メートルがある。ぽこんと三角に飛び出ている頂きがそうかと思うが、自信はない。
 500メートル前後の相泊山・太田山が、毛無山と太田集落の南に続いてあり、帆越山がその先に大きく海岸を制圧している。
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 帆越山の標高は、せいぜい320メートルしかないが、南北に長い山塊が海岸に立ちはだかり、人を寄せつけない断崖の海辺を避けて、道は2キロ弱の帆越山トンネルでこの山の下をくぐり抜けている。(iOS マップ↓)
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 つまり、帆越岬もまた尾花岬と同じく、陸からは見えない岬なのだ。1.85キロのトンネルを南に抜けても、次の集落である富磯まではまだしばらくは無人の海岸が続くので、帆越岬の北にある太田集落と南にある富磯集落の間は、6.5キロの間が開いていて、南からの少ないバス路線もほとんどは小歌岬のある大成区都までしか行かない。
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 わずかに日に一本だけ第二富磯というバス停の終点まで行く便があるので、実は今回の当初計画は、それに合わせて組んでいた。小歌岬もいささか消化不良のままだったが、ここへはまだほかにも日昼岬・添泊岬が残っていた。太田まではバスも通っていないので、せめて富磯まで寄って北の帆越岬を南から見るのと合わせて、いずれまた来るつもりだったのだ。(iOS マップ↓)
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 尾花岬の海岸線は、断崖続きでトンネル以外の道はなかったように思われるが、帆越岬のほうの海岸線にはトンネルができる前には旧道が通っていたような形跡が、地理院地図からは伺える。そこで、Apple iOSのマップでこの部分の航空写真をみると、確かに廃道になってズタズタになったかつての道路の跡が残っていた。
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 結局、尾花岬と帆越岬はまったく同じような条件にある岬で、今回はJR線でのせたなからのアプローチができず、岬めぐりの難所はまたしても不発に終わった。
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 それだからこその難所なのだろうが、遠望とは言いながらせっかく東から眺めることができたので、記録にとどめておくことにした。
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 茂津多岬・尾花岬・帆越岬と3つの岬めぐりの難所は、海岸線を崖で覆われているので、道はトンネルしかないこと、周辺がまったく人家もなく人の気配もない地であること、もちろんバスなども通っていないといった条件が揃っている。こういう場所は、北海道本島でも積丹半島北部と知床半島の一部のほかにはないように思われる。
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▼国土地理院 「地理院地図」
42度18分11.74秒 139度46分6.43秒 42度15分33.66秒 139度46分33.78秒
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1442 茂津多岬2=久遠郡せたな町瀬棚区北島歌(北海道)巨大な山塊が落ちる海岸を4つの長いトンネルで抜けるところ [岬めぐり]

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 茂津多岬のことは、「870 茂津多岬=久遠郡せたな町瀬棚区北島歌(北海道)とりあえずここは遠望で確認しておくだけです」として、以前にも項目にあげていたが、そこで白状しているとおり、その岬に行ったわけではなかった。
 今回、ここでまた「茂津多岬2」としてあげるのは、いささかのはばかりもあった。というのも、今回の2もまた遠望のみだからだ。
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 それでもあえて、ここでまた遠望で2をとりあげておく“理由その1”は、茂津多岬はなかなかそばまで行くことができない岬であること。そして、“理由その2”は、今回は、奥尻島からの遠望で、この岬をより西の海側から眺める機会はそうそうないから…。
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 奥尻島の最北端である稲穂岬から、茂津多岬までは東北東に46キロ離れている。かなりの遠望なので詳細は見えず、そのシルエットだけになるが、それにもまた意義があると考えた。
 前には、せたなの水垂岬からの遠望だったが、稲穂岬からの遠望はさらに17キロ西寄りになるが、南北には10キロほど遠くなる。
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 こんなことに意味があるのかどうか、書いていても不安になるが、今回は台風の影響で函館本線が不通になったために、当初計画していたせたなの北部ぎりぎりのところまでコミュニティバスで行って、茂津多岬を南からいちばん近いところからみるというプランが、まことに残念なことにおじゃんになってしまったので、その記録という意味はあるだろう。
 この落とし前を、いつつけられるか、現在のところまったく見通しが立っていないし…。
 茂津多岬はなかなか行けない岬で、これまでなんども計画してなかなか実現できていない。その理由は、ひとえに交通の便が悪い、公共交通機関はまったく走っていない場所にあるからだ。
 北からは島牧村のバスの終点である栄浜までで、南からはせたなの須築(すっき)でバスは終わっている。
 そして、この栄浜と須築の間には道はあるが、約11キロの間に5つのトンネルが連続する。そのひとつを除いてあとはみな長いトンネルで、そのなかでもいちばん長いのが1.9キロの茂津多トンネル。このトンネルで島牧村とせたな町の境界の尾根(400メートル)を越える。
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 そこは1520メートルの狩場山から西へ伸びる尾根の終点で、尾根の先がトンカチの頭のようになっていて、西の海へは200メートルにおよぶ急斜面が落ちている。その断崖の西の端が茂津多岬と中茂津多岬、さらにその北に冷水茂津多岬とあって、境界線はその真ん中のほうだが、南側から見えているのは茂津多岬だけになる。
 トンカチの頭の上は南北に長い台地になっていて、島牧村側には茂津多岬灯台がある。地理院地図をみると、南の須築橋からトンカチの上に登る自動車道が途中まであり、ちょっとしたハイキングで行けるらしい。ただ、クマよけの注意が必要。
 公共交通機関がないなら、マイカーやレンタカーなら行けるかといえば、どのみちこの道はトンネルばかりだから茂津多岬はどこからも見ることはできない。
 やっぱり、でんでんむしとしては、須築漁港の岸壁と弁天岬の上からくらいがせいぜいなのだが…。
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 茂津多岬の左手に、遠く細く伸びる陸地は、積丹半島だろう。

追記:「1440 滝ノ澗岬=奥尻郡奥尻町字稲穂(北海道)“海栗前”では読めんじゃろと北回り町有バスの終点は“野名前”と変換」の項について、ChinchikoPapaさんから二回続いてコメントをいただいたので、参考までに追記させていただく。

1 ウニは「nino」ですが、島言葉の方言で「nona」と発音したことがあったんでしょうかね。「セタ・ナ」の町名も気になりますね。

2  先ほど、何気なくアイヌ語辞典を調べてみたら、「uni」ないしは「uni(hi)」には「家々」「家屋」「住宅」という意味がありますね。もし、ウニが「海栗」ではなく「uni」のほうだとしますと、それに和語の「前」を付けることで、「集落(の前浜)」ないしは「集落(の前海)」というのが当初の意味だった可能性もあります。

なるほどね。確かに和人が音で和語のウニに当てはめてしまったということも、可能性としてはおおいにあり得る。
ChinchikoPapaさんからは、時折なかなか捨てがたいコメントをいただくので、残しておきたいときにはこうして記録させていただいているが、この1のコメントがついていた項目記事を読んで、改めて驚いた。
So-net「地域ブログ」のなかでも、数少ない内容の充実度に加え、12年にわたって「下落合」という一地域に絞って精力的な調査と発信を続けておられるのには、脱帽する。そのうえ、「訪問していただいた方々(PV)は東京都の人口を、そろそろ超えようとしている」し、1日の総閲覧数も4000もあるというから、たいへんなものだ。

でんでんむしなど、足元にも及ばないのだが、当の「岬めぐり」ブログは、隔日だった掲載間隔をダウンさせている。ここのところ2016年10月からは3日に一度に落とし、さらに12月からは5日に一度の更新にしている。これについてはいくらか事情もあるのだが、それはまた…。

▼国土地理院 「地理院地図」
42度36分22.21秒 139度50分2.34秒
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1441 勝澗岬・ナカハマ岬=奥尻郡奥尻町字湯浜(北海道)見えない岬もひとまとめにして島一周の輪を閉じる [岬めぐり]

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 このあたりのことは、奥尻島の岬めぐりの最初で、「1425 北国岬の項」にも書いている。島の北から逆時計回りと考えるとすれば、そこに着目しておかなければならなかったからだ。
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 これで島をひとめぐりして、時計で言うとここ11時付近につながったわけだ。だが、ここから最初の岬としてあげた北国岬との間には、西へ、そして南へといくつもの岬がある。そして、それらは全部道もなく、行けない岬なのだ。すでに書いたことと一部ダブリ気味にはなるが、ここで一周の輪を閉じておかなければならない。
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 稲穂岬より西の岬には、まず前項の滝ノ澗岬があり、そこから西南方向に4.7キロ直線を引いたところにあるのが勝澗岬となる。道はないし、バスも行かないので、そこは野名前(海栗前)から眺めるだけだ。
 ガロ川のほかに大岩生川という島では大きな流れが注ぐ海岸には、遠目に見てもわかるほど、白っぽい石の塊がゴロゴロと、まるで並べ敷き詰めたようにある。
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 滝ノ澗岬と勝澗岬の間は、50〜100メートルくらいの段丘が続き、地図で見ると3つくらいの緩い膨らみが数えられるが、それらは無名で、その先にある勝澗岬の大きな膨らみと、その周辺の岩礁地帯で突出している岩島が並んで沖に向かって伸びているのが肉眼でもしっかりと確認できる。
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 勝澗岬の南の山塊のなかで、ひときわ高く飛び出ているのが、標高427メートルの勝澗山であろう。
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 地図では勝澗岬の1.5キロ西に続くのが湯ノ岬という岩の出っ張りだが、これは海栗前の港からは勝澗岬の陰になって見えない。稲穂岬からだと見えている可能性もあるが、ちょっと遠すぎて、こういう内側にある出っ張りは確認できない。
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 湯ノ岬から西北側に650メートルのところには、ナカハマ岬がある。
 これは、40〜50メートルの立岩の大岩壁が、柱を立てたように見えている。この岬の先にも岩島が連なっていて、遠目にもわかる。
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 ここもなかなかの奇景で、アクセスさえよければ、立派な観光ポイントになるようなところである。残念ながら、そこには船でも寄せる以外に近くに行く方法がない。
 ところが、このナカハマ岬の向こう側、西側の入江に面した海岸には、地理院地図では一軒だけ四角い建物の記号が記されている。そして、その入江には先の「勝ノ澗」に続いて、「美ノ歌」という使われなくなった小字名が表記されている。
 この付近は現在の字名では奥尻町字湯浜になっており、この湯ノ浜と東の稲穂との境は、大岩生川を境界線として分かれている。
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 ナカハマ岬の大岩柱の向こう側には岩島のように、小山のように見える出っ張りがあるのだが、これがナカハマ岬の西南西1.15キロにある磯谷岬の一部なのか、それともそれはまだナカハマ岬の一部なのか、遠望では判断がつきかなねる。
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 磯谷岬から南南西に730メートル下ったところが、蚊柱(わしら)岬である。これも、幌内からも見えなかった。
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 これで、勝澗岬・ナカハマ岬以外の、見えない岬は、湯ノ岬、磯谷岬、蚊柱岬の3つを数える。
 そして、北国岬から始まった島の一周の輪は、これで連結ということにしておこう。
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▼国土地理院 「地理院地図」
42度13分18.58秒 139度28分28.21秒 42度13分3.48秒 139度26分56.91秒
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1440 滝ノ澗岬=奥尻郡奥尻町字稲穂(北海道)“海栗前”では読めんじゃろと北回り町有バスの終点は“野名前”と変換 [岬めぐり]

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 東を望めば帆越岬や尾花岬、北を望めばせたな町と島牧村の境界にあたる茂津多岬が眺められる最北端稲穂岬。そこから、西を見るとどうなるだろうかといえば、島の北辺を描くそこからの海岸線は、西から少し南に下りながら、およそ12キロ以上にわたって伸びている。
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 バスが走るのは、さいの河原から稲穂の集落を経て終点の野名前までの間で、その海岸線のうちの手前2.5キロだけであるし、道路も野名前から先は山のなかに入っていくので、海岸線は無人地帯が延々と続くことになる。
 その海岸でいちばん東に位置するのが滝ノ澗岬である。
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 実はこの岬名には、ちょっと困った。ここでは北海道全域でほかにも多く岬名にでてくる“澗”の字にしてあるが、地理院地図では“潤”という字になっているからだ。“うるう”というのも意味的にはあり得るのだが、さてどうしたものだろう。お上に従う従順な日本国民のひとりとしては、国土地理院に逆らうのもいささか心苦しいのだが、これまでの流れとして、取り巻く空気として、ここはやはり“澗”でいくことにした。
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 同じような名前に、余市に“滝ノ澗ノ岬”があり、“滝ノ澗トンネル”というのもあるし、その他“澗”の岬や地名は多いことは、前にもふれた。だが、“潤”というのは、ほかでも記憶がなく、すぐに思い浮かばない。
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 北回りのバスの終点は、野名前というところで、道路脇に建物が並ぶ静かな集落がそこで終わる。この読みはそのまんま“のなまえ”なのだが、地理院地図の字表記は“海栗前”としている。これが、元々の正しい名前なのであろう。バス停は読みやすいように、という配慮で変換されたものだろう。
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 “海栗”とは、ウニのことであることは明白だが、これを念のため“さくらばな”のおばさんに確認してみると、その通りだと言って、勘太浜や東風泊など次々に島の地名をあげながら、地名にはみんなちゃんと意味があるんだから…と熱を込めて話してくれた。
 さくらばな(これがおばさんの名前)さんによると、海栗前の海岸にはかつてはウニがごろごろとあったのだという。事実、今でも堤防を歩いていると、そこここにウニの殻が転がっている。カラスに食べられてしまった残骸であろうか。
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 滝ノ澗岬は、海栗前の港から西へ850メートルのところに飛び出ている岩と岩礁の岬である。
 崖は20メートルもないくらいの低さで、先端の部分以外はみんな緑で覆われている。だが、その海岸線には港の岸壁からすぐに始まる岩だらけの磯が、ずっとこの先見える範囲のすべてにわたって続いているようだ。
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 その岩の磯は、水がきれいで、透き通って見える。これならウニも見つけやすいかも…。
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 海栗前からは滝ノ澗岬の陰になって見えないのだが、岬を回り込んだところには地理院地図では名前のついていない、島では比較的長い川が岩の間に流れ込んでおり、その西にはガロ川というそれよりは少し短い川がある。その中間の海岸にはポロ島という岩の出っ張りがあり、その上の斜面には“滝ノ澗”という字名が残っている。
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 稲穂から西へは無人地帯と書いたが、地図をよくよく見ると、滝ノ澗岬の手前から山に入っていく道の脇には、ちらほらと建物の四角い表示があった。山の中の球浦開拓を別にしても、まったくの無人地帯ではないらしい。
 岬の名や字地名に“滝”の字を残しているのだから、きっとどこかに滝もあるのだろう。
 そう思って、二本の川を地図で辿っては見たが、滝を示す記号は見当たらない。だが、西側で岬の東裾付近で海に流れ込んでいる無名の川の河口付近では、斜面がえぐられた岩崖があり、その上流にそれらしい黒い線もあるが、滝の記号にはなっていない。だが、きっとこれは滝なのだろう。
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 この川の右岸にあたる山の斜面には、海まで続く破線の道が描かれている。ほんとうのことを言えば、「でんでんむしの岬めぐり」も、こういうところまで歩いてみたい。そうすれば、おそらく滝も発見できるだろう。そして岩がゴロゴロとあるような丸い記号で埋め尽くされた海岸に降りて、滝ノ澗岬も西側から眺めてみたい。
 そんなことも考えてはみるが、やはりそこまでは徹底できない。
 そこでまあ、こんなところでテキトウにお茶を濁しているわけなんですが…。
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 海栗前から北東の方向を眺めると、稲穂岬の賽の河原が横から眺められる。
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 実際の行動は、集落のはずれまで行って一休みして時間調整した折り返しのバスに乗って、さいの河原まで戻り、そこで次のバスが来るまでを過ごして引き返した。

▼国土地理院 「地理院地図」
42度14分0.97秒 139度31分39.79秒
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1439 稲穂岬=奥尻郡奥尻町字稲穂(北海道)島の最北端の岬は“霊場賽の河原”で崩れた石積みが一面を覆っている [岬めぐり]

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 バス停では勘太浜の次の停留所が“さいの河原”で、バス停の上には稲穂岬灯台があり、道路から下って低く刃物かなにかのように突出した先が稲穂岬である。ここが島の最北端にあたるのだが、最南端の青苗岬も、似たような地形だった。
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 その大きさは、灯台から岬の先端までの距離でいうと、青苗岬で475メートルだったが、稲穂岬では620メートルあり、灯台部分の横幅も370とこちらのほうが青苗より100メートル長い。
 青苗岬の沖には室津島があったが、稲穂岬の周辺は岩礁が取り巻いていて、ところどころでその頭を海面上に出している。
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 青苗の灯台は赤白のダンダラで、稲穂の灯台は黒白のダンダラ。どちらも本体は四角い。青苗灯台は震災で倒れたが、稲穂灯台はそういう情報はない。燈光会も北の離島までは手が回らないのか、ここにも看板はなかった。
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 灯台というのは、もともと観光用ではないから、やってくる外来者にサービスする義務はないのだが、だいたいにおいて、石垣で厳重に囲ってフェンスをめぐらし、敷地内への立ち入りを拒否している。そのため、展望を求めて灯台に登ってくる人も、いくつかの例外はあるもののたいていは期待はずれに終わる。稲穂岬灯台も、ここから岬を一望に見下ろすというようには配慮されていないので、ここから岬を見ることはできない。
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 稲穂岬灯台では、なにやら樋のような構築物が灯台と後方の鉄塔とを結んでいるが、なんにためのものか見当もつかない。ただの配線ケーブルにしては大げさだし…。
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 バス道路がこの先の稲穂に向かってヘアピンカーブを曲がるところには、食堂の看板と幟が立っていて、そこから稲穂岬に降りていく。
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 稲穂岬というバス停名はなく、“さいの河原”となっているが、下りの道でもまず案内されるのは、大きな垂木に彫り込まれた“霊場賽の河原”の文字である。
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 この岬先端には、広い石積みが広がっているが、そのほとんどは崩れるか崩れかかっている。ここは海難犠牲者や水難事故幼少死亡者を“懇霊”する地なのだ。例の武田信広の一行が嵐に遭遇して奥尻島に避難し、三平汁を馳走されたときに、「偶然その所在を知って懇ろに法要された」(案内板)というから、500年以上も前から、ここはそういう霊場であったわけだ。
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 明治の半ば頃になって、島の人がここに地蔵堂を建て、以来例年定例的に法要が営まれて、霊場の地の歴史を刻んできたわけだ。
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 それもあってか、この海に突出した平地には堂宇のほかにも数軒の人家が集まっていたが、それらはことごとく津波に押し流された。この点も青苗と同じである。
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 地蔵堂の手前に、コンクリートの四角い建物があるが、これはその震災に襲われる直前に完成した公衆トイレで、津波が引いた跡に残ったのはこのトイレだけだった。
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 そう語ってくれたのは、地蔵堂から少し離れてぽつんと一軒だけ建っている土産物屋兼食堂のおばさんである。お揃いのエプロンをした数人の女性のなかで仕切っているが、そのおばさんで、主人は漁師なので自分はこの“北の岬さくらばな”という店をやっている。
 海鮮バーベキュウなどのようなものもあるらしいし、でんでんむしが着いたときには観光バスが1台停まっていたが、立地からみると観光客以外はまずやってこないだろう。
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 ウニ丼をいただいた後で、帰りのバスを待つ間、しばらく展望台のうえから岬を見下ろし観察していたが、それでも入れ替わり立ち代り、車でやってきてはまた帰っていく。赤いオープンカーはてっきりカップルかと思えば、それがおじさん一人。
 その店の前はバックネットが張られた野球場(ソフトボール)になっていて、その向こうには屋根を付けた相撲の土俵もあった。
 震災後は、町がそういう施設を設けているのだろう。
 奥尻島には奥尻三大祭と呼ばれる祭り行事がある。島の最南端青苗岬沖合にある「室津島」にちなんで航海の安全と大漁を祈願する「室津祭」。町のシンボル「なべつる岩」にちなんだ観光祭と産業祭を兼ねる島内最大のイベント「なべつる祭」。そして、道南五霊場のひとつである島の北端稲穂岬の慰霊の地「賽の河原」での法要や供養のため行事「賽の河原祭」で、このときには歌謡ショーに子供相撲やソフトボール大会などが催される。
 それらが、6・7・8の夏の間に集中してあるのだ。北の岬が賑わうのは、毎年6月の一度だけなのだろう。
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 稲穂岬から東を見ると、檜山の山並みが大きく高く波打っている。ここでせたなへ向かうフェリーを見送っていたわけだが、赤いオープンカーの右手から“アヴローラおくしり”がやってくる。その向こう岸はせたな町大成区の帆越岬の付近であろう。
 そして、中央付近に大岩壁が続いているが、これがせたな町北檜山区の太田トンネルが抜けている尾花岬のあたりになる。雲に隠れていたがその後ろで最高峰は毛無山。
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▼国土地理院 「地理院地図」
42度15分8.56秒 139度33分29.63秒
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1438 崖ノ岬=奥尻郡奥尻町字宮津(北海道)遠くからも白く見えていた崖はのり面がブロックで覆われていた [岬めぐり]

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 古い字名で今は消えてしまったもので、場所がよくわからなかったのに「茶津」というのがあったが、それは弁天岬の北、二本の短い川が注ぐ宮津漁港の辺りを指す地名であった。川のひとつの名は茶津川というらしい。
 古い資料を渉猟しているうちに、それがわかったのだが、茶津層という凝灰岩砂岩(砂と粘土が固結し火山砕屑質の岩屑を多く含む)および頁岩(けつがん=薄く割れやすい泥板岩で本の頁をめくるような剥離性あり)、凝塊角礫岩(直径32ミリ以上の火山岩塊と火山灰からなる)などからなる中新世の地層が広がっている。
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 遠く南の赤石岬からも見えていた白く切り立った崖ノ岬も、その茶津層のなかにある。
 白く見えていたのは、岩ではなくて、崩落防止のために崖の全域にわたって四角いブロックを貼り付けていて、それが白く見えていたのだ。
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 崖ノ岬というのは、岬が主ではなく、崖が主人公である。岬の海岸には岩礁と岩場も少しあるが、ごくゆるーく道がカーブしている。崖のほうは50メートルくらいの高さがあり、垂直とはいえないものの、かなり急角度に立ち上がっている。
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 コンクリートブロックで覆われてしまったので、今は見ることができないが、古い資料によると火山の砕屑物が堆積し固結してできた火砕岩のなかに、黒っぽい玄武岩の岩脈が筋をつくって貫入していたという。
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 今、その火山がどこなのかを考えるのは、おそらく愚というものなのだろうが、こうした火山の痕跡は地形・地質となって北海道南西部にもたくさんある。比較的近い時代の火山活動として知られているのは、奥尻島から南南西80キロにある渡島大島(松前町)になるのだろう。だが、それ以前からも、比較的浅い海の海底火山の爆発がたくさんあったのではないかと想像される。
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 海底の地形をみると、対岸のせたな付近から奥尻島を取り込むようにして棚が張り出しているらしい。本島とは海の底で地続きだったと考えてよい。奥尻島から先、西の海底は深く切れ込んで落ちていく。
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 急な崖の下を走る道路で、落石や崩落の危険性があるところでは、トンネルを掘るほどの山もない場合、覆道が設けられる。これは、半分トンネルのようなものだが、崖ノ岬の北にも、宮津1号覆道・宮津2号覆道という名があるふたつの覆道が続いてある。
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 崖ノ岬から覆道を抜けて、勘太浜南にある港付近まで、およそ1キロ弱くらいの間続く急崖の上は、海岸段丘というべき緩傾斜地が広がっていて、それは勘太浜の集落から稲穂へと続いている。
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 勘太浜は、三平汁の発祥に絡んでなにかあったように記憶していたが、確認のため調べてみても、どうもそういう証拠が出てこない。あれは、なにかと混戦した思い違いだったのか。
 でんでんむしのような西日本の人間にとっては、あまり馴染みのない食べ物ではあるが、名前だけは全国的によく知られている。北海道も主に渡島・檜山地方に伝わる郷土料理だが、奥尻町ではこの島こそが三平汁の元祖だとして、かなり本気で「奥尻島元祖『三平汁』研究会」なるものを発足させている。
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 もちろん、島の名物として定着させ、観光振興や地産地消にも役立てようとしうことだろうが、なにしろ、“「三平汁」に関するさまざまな説や言い伝え、関係資料、はては噂話などを整理、調査、研究し、「三平汁発祥の地が奥尻島」、「奥尻島の三平汁が元祖」であることを立証していく”というのだから熱がこもっている。
 なにごとによらず、ものの起源だとか由来だという話になると、諸説紛々として収拾がつかないことも多いのだが、実はこの「三平汁の由来」も、その見本のようなものだ。
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 いちばん基本的なところは「斉藤三平」という人がその創始者だということになっているのだが、その人はというと、南部藩家臣であったりいや松前藩であったり、いやいやそれは島の漁師だったという説まである。漁師が「斉藤三平」という名前を持っているというところからしてすでに怪しいが、その時代というのが、1454(享徳3)年で、松前藩の始祖・武田信広が蝦夷地に向かう途中で嵐にあい奥尻島に漂着した、とする。このときに武田さんに塩蔵ニシンと貯蔵野菜の煮込み汁を作ってあげたのが三平さんだったという。
 ところが、そもそもその人物がいた江戸期以前から、この地方では食されていたという説も出てきて、これまで蔓延していた斉藤三平説は、いささか旗色が怪しくなってきた。
 そんなわけだから、奥尻町には「最初に結論ありき」ではなくて、“研究”を推し進めてもらいたい、と思うわけであります。
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▼国土地理院 「地理院地図」
42度13分37.17秒 139度33分35.35秒
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1437 弁天岬=奥尻郡奥尻町字宮津(北海道)“バスセンター”から稲穂方面行き町有バスに乗って北へ向かうと… [岬めぐり]

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 奥尻のフェリー発着場は、奥尻市街よりも北に外れていて、そこには岸壁にフェリー関連の建物がひとつあるだけで、“バスセンター”と町有バスの時刻表にあるところは、岸壁の端にある駐車場の隅っこのことだった。
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 そこには、中小二台の町有バスが停まって、発車時刻を待っている。中型のほうのバスが青苗から神威脇まで行く便で、小型バスのほうが稲穂方面、野名前まで行く便である。それぞれ折り返し便で、またここに戻ってくることになっている。
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 町有だから運転手さんも、町の職員なのか。中型のほうは女性、小型のほうは男性だったが、当然、観光客以外の島の人とはみんな顔見知りで、毎日乗る中学生や高校生など、どこで降りるかも何も言わなくても意思が通じている。ピンポンと鳴らないのにバスが停まったなと思うと、のそのそと後ろのほうから降りてくる。男の子は黙ったまま降りていくのが多いが、なかには挨拶をしていく子もいる。
 これが島のおばさんとなると、なにやら会話もあるが、聞いていても半分もわからない。津軽弁が入ってきていると知って納得した。津軽弁は、なにしゃべっているのか、まったくわからない。
 南回りを運転していた女性運転手さんによると、この日は休日だったが、それでもこんなに島外のお客さんが多いのはめずらしい、という。確かに島以外からの観光客らしいのは、でんでんむし以外にも数人いたけど…。
 奥尻島には、小学校と中学校が、青苗と奥尻にそれぞれ2校ずつあるが、このうち中学校のほうは統合されて、赤石岬の上にある奥尻高校の隣に移る計画らしい。その高校も、“町立高校”になるようで、それらは28年度中のことらしい。
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 泉谷しげるのサインが車体横中央に大きく描かれた小型バスは、運転手さんの話だとスクールバスにも使われているという。なぜ泉谷しげるなのか。
 それは、彼の支援活動による募金で、このバスを購入したからなのではなかろうか。あるいは、その支援に感謝する町の意思表示なのかもしれない。 
 北海道出身の泉谷が、1993年に東京で始めた奥尻島救済キャンペーン「一人フォーク・ゲリラ」と題した路上チャリティーライブは、大きなインパクトを与え、他のアーチストなどをも刺激したが、本人自身がこれを契機として以後、雲仙普賢岳噴火災害、阪神・淡路大震災救済、宮崎口蹄疫被害復興支援、東日本大震災支援チャリティー、福島県各地の避難所めぐり、そして日本全国の地域活性イベントへと、その活動を続けることになるのだ。
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 そういう記念すべきバスに、町が自称する“バスセンター”から乗り込んで、今度は北へ向かう。こちらの路線は乗客はでんでんむし一人だけ。バスは、仏沢、球浦、東風泊(やませどまり)を過ぎると、大きな坂道を登る。その坂を登ったところに奥尻小学校と、その日の宿があるのだが、すぐにはそこで降りない。
 この日の行程は、バスダイヤの都合を考えて、まずフェリー待合室のロッカーに荷物をおいて、北回り路線の終点の野名前まで行く。そこから折り返してさいの河原で降り、ここで次の便でバスセンターに戻り、またの折り返し便で奥尻小学校前の民宿に泊まる。そういう計画になった。
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 これも、当初考えていたせたな港から奥尻へ往復する計画での行程とは異なるわけだ。もう、函館本線・室蘭本線は復旧したのだろうか。だが、それもせたなルートを放棄した今となっては関係がない。
 奥尻小学校は、東海岸の北寄り、奥尻中心街からは少し遠い宮津にある。島の北から通う子と青苗小学校の位置関係から、かつての宮津小学校を統合して奥尻小学校にしたらしい。
 なぜそう思ったかというと、バスの時刻表では“奥尻小学校”とバス停名はなっているが、乗って走っているバスの車内に流れるアナウンスは“宮津小学校”となっていたからである。運転手さんに確認すると「ああ、テープまで直せないんですよ」と言う。
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 小学校を過ぎると、坂は下りに向かい、その先に赤い屋根の建物が見えてくる。これが宮津弁天宮。ここが弁天岬なのだ。その海の先には、瀬棚の山と岬が見えてくる。
 弁天宮を載っけた小山には、バスの走る道路からも階段を降りて行けそうな感じもするが、どうやらここは深く切れこんだ鞍部になっていて、弁天宮に行くには港からの別の道から登るのがメインのようだ。
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 岬はこの小さな丸い小山の下で、それは帰りに北から南に向かって走るバスの車窓からでないと見えない。下に鳥居があるのがわかるが、ここから急斜面を164段の階段で登ると弁天さん。
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 ここに弁天さんを祭ったのは、江戸時代の大漁祈願からというが、もともとからアイヌのチャシ(砦)があった。宮津という地域名も、弁天宮がある湊だからだろうと思っていたら、“ミヤツ”というのはアイヌ語の「チャシ・コツ(砦の跡)」からきている、とある情報にはいう。ええっ、そうなの?
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 いつもこういう語源情報を見るたびに思うのだが、なんで“チャシ・コツ”が“ミヤツ”になるのか、そこんところを説明してくれる情報はないんだよね。
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▼国土地理院 「地理院地図」
42度12分36.76秒 139度33分0.67秒
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1436 鍋釣岩=奥尻郡奥尻町字奥尻(北海道)ナベのツルの岩の北には北海道に多い?“十字街”がここにも [岬めぐり]

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 古い時代、最初に人が住み着いたのは島の南部、青苗の砂丘の上に続く台地だった。が、時代が下ると、北海道本島が目の前に見える東海岸に、島の中心部は移っている。本島との往来が、あたりまえのことながら、島の生活にとってなによりも重要になっていくからであろう。
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 しかし、東海岸にも青苗のような海に面して開けた場所はない。そこで、川の流れる谷間の、狭い平地で海岸から奥へと集落は発達していく。
 それが、現在島の中心部となっている、奥尻・谷地・仏沢ということになる。役場をはじめとする官公署郵便局に学校に病院などが集まる塩釜川の流域に広がった中心街は、川筋にそって細く長く谷の奥まで続く。
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 この奥尻地区の地名が、昔は「釣懸」と言ったことは前項でふれたとおりで、この字面が島のシンボルとなっている「鍋釣岩」を表わしていたと想像できる。
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 奥尻十字街のバス停と谷地にある次のバス停である奥尻中前の、ちょうど中間の海岸に近い海の中に、このナベの取っ手(ツル)のような形をした岩はある。
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 岩と言っても高さは20メートル近いし、なによりもただの立岩ではなく、岩の中央部が大きく空いている。なかなかの奇形である。だいたいにおいて、人間の習性は珍奇希少なものを尊重したがる。当初これが島の中心部の名前を示し、現在もなお町のシンボルになっているというのは、まったく当然のことだったろう。
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 夜にはわざわざライトアップまでするほどの熱の入れようだが、この岩は当初は海岸から陸続きであったらしい。
 それが、1993年の北海道南西沖地震の震災で、海岸が沈下して海の中に立つことになってしまった。それは、厳島神社の鳥居よろしく、景観的にはずっと見栄えがするシチュエーションになったと言えるが、いいことばかりではない。震災でツルの片方の一部が崩落してしまった。
 現在、ツルの海側のほうが陸側のほうと比べると、少し細く痩せている。これもその影響であるらしい。町では、崩落部分の補強工事をしたという。
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 「鍋釣岩」というのは「ツル」が「ツリ」に変化してしまった結果としての名称のようだが、これは岬ではない。あるいは、陸続きであったときには、いくらか岬的形状を残していたかもしれないが、もともと岬ではない。岬ではないがこういうのは、無視して通過するわけにもいかない。
 それに、東海岸ではちょうどこの付近は岬欠乏地帯なので、一項目で岬扱いとする。
 それにしても、自然の造形に驚かされることは多いが、これもなかなかの傑作である。この傑作は,いったいどのようにしてできたのだろうか。それを推理してみよう。
 地底のマグマの活動は、火山で噴火するだけではなく、地中にある岩体に割れ目や隙間があるところに入り込んだりする。これを“貫入(かんにゅう)”という。そのまま、冷えて固まるので深成岩ということになる。
 マグマ由来の岩石は、その組成によって安山岩・玄武岩それに流紋岩があるが、この鍋釣岩は安山岩である。隙間や岩の弱い部分に入り込んで、そここで固まって岩脈をつくるが、貫入された岩と接した部分には、冷えて固まったときに細か目の節理を生じている。
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 それが、地殻変動で地表近くにまで運ばれてきて、さらに風化や侵食などの作用で軟らか目の周囲が取り除かれる。さらに、なんらかの理由で中央の部分が取り除かれ(この部分は安山岩ではなかった可能性もあるだろう。だから残らなかった)て、ナベのツルのような形になった…。
 節理の岩の弱い部分には、シダの仲間のようなものなど植物も生えている。
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 海岸には、展望台もあるらしいのだが、こちらは横着をしてそばまでは行かず、これはバスの車窓からと、フェリー岸壁付近からの眺めでご勘弁。
 鍋釣岩を過ぎると、奥尻十字街のバス停から奥尻の市街地を少し奥にある病院をぐるっと回ってフェリー乗り場に着く。ここが南回り路線の終点である。
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 うにまるくんも、船が着くたびに岸壁に出迎えてくれるが、その後ろにはちゃんともうひとつの島のシンボルが見えている。
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 ところで、ふと気になったのだが、“十字街”というバス停の名前。普通、“十字路”ならわかるし、全国ほかにもたくさんあるだろうが、“街”だからね。それは路(みち)ではなく、街(まち)を中心にした名称ということなのか。
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 奥尻の十字街は、あまり十字にもなっていないし街でもないと思ったが、それはバス停付近のことで、その奥にある市街地は確かに道で格子状に区切られた街だ。スナックとかの古ぼけた看板も見えたので、ここが繁華街なのだろう。
 実は、北海道には“十字街”と呼ばれる場所は、少なからずあるらしい。でんでんむしが行ったところでは、函館には十字街という市電の停留所がある。小樽には、入船十字街と奥沢十字街というこれは交差点の名前だ。余市にも、余市駅前十字街というバス停がある。
 まだ行ってはいないけどこれからいつか行くことになる留萌は、近頃鉄道の廃線が伝えられた。そこには、本町十字街というバス停がある。
 そうか! 札幌のような碁盤目の大都会にはないだろうけど、このぶんでいけば地方のちょっとした街にはもっとあちこちに“十字街”がありそうだ。といっても、ちょっとみた釧路、網走、紋別、旭川、稚内、さらには苫小牧、室蘭、千歳、帯広には見当たらなかったので…。
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▼国土地理院 「地理院地図」
42度9分58.56秒 139度31分3.79秒
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1435 赤石岬=奥尻郡奥尻町字赤石(北海道)島の東海岸の真ん中へんにやってきたのでここらで島の字地名を整理 [岬めぐり]

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 南端の青苗岬から赤石岬までは直線距離で約13キロほどで、ここまでで島の東側海岸の半分強。フェリーの発着している港にも近づいてきた。
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 山ヶ岬から北の海岸線を見通すと、島北部の弁天岬や崖ノ岬まで、はっきりとわかるようになる。
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 赤石岬は、コブのようになった崖の出っ張りを道路がよぎって、よっこらしょとばかりに上ってまた下るところであるが、その背景に高さ30メートルほどの丸い小山が控えている。
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 この小山の上が公園になっていて、その名も“うにまる公園”。奥尻町の名産品であるウニを模したゆるキャラの名である。
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 道路を走っているだけではわからないが、フェリーから見ると、公園には、ウニをイメージした塔のようなものがあるのがわかる。
 奥尻島の漁業は、主にウニやコンブなどの沿岸の岩場を漁場とした磯根漁業と、イカなどの漁船によるものである。かつてはあったカニ漁も、今ではそれをやる漁師がいなくなったという。また、イカやホッケも一時期は盛んだったが、機械化など外的な変動との波間に沈んでしまう。アワビは、種アワビの供給くらいで、生産地の勢いはない。
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 その公園からさらに丘を上ったところには、奥尻高校があると、道路際の標識が教えてくれる。20数人程度だという高校の卒業生は、その全員が卒業と同時に島を出て行く。島に残っても仕事がないからだ。
 高齢化は進み、限界集落も課題になる。義援金なども多く寄せられて、被災者の多くが借金なしで家を建てたと言われるが、町の財政は借金にあえいでいる。漁船などの保障も手厚く行なわれ、港湾公共事業で一時的には潤うが、将来的な展望は開けず、“水産土木栄えて水産業滅ぶ”とも言われてきた。観光客も被災前の水準には戻らない。復興は、なかなか「できた」とは言えないような、厳しい現実もあるはずだ。
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 だが、それらは町のサイトからは片鱗も見えない。
 きれいごとばかりで覆ってしまうのが、行政の広報だとは思えないのだが…。
 2016年8月現在で、男性 1,458人、女性 1,352人、合計 2,810人、世帯 1,575世帯という奥尻町は、いかにも小さい。小さいからまたできることもあるのではないか。(というのもまた、きれいごとにすぎないのだろうか。)
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 公園の下、北側を流れている烏頭(ぶし)川から北は、字地名も赤石から奥尻に変わる。
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 1872(明治2)年に島全体が奥尻郡となり、「釣懸」「赤石」「薬師」「青苗」の4つの村が置かれた。釣懸というのは、町のシンボルにもなっている“なべつる岩”にかかわる名であろうが、これが後に奥尻になっている。赤石と青苗は今もそのままだが、“薬師”というのがわからない。
 それはいったい、どこらへんのことなのだろう。
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  ( ↑ Mapionの全島図のうえにでんでんむしにおいて字地名をマッピングした。)
 1941(昭和16)年には島の字地名が改称されている。それによると、
 青苗(旧名通り) 米岡(千畳) 富里(青苗沢) 松江(薬師・初松前) 赤石(恩顧歌・赤石・富士川) 奥尻(釣懸・谷地) 宮津(茶津・東風泊) 球浦(球島) 湯浜(幌内・神威脇) 稲穂(のなまえ・菰澗・勘太浜)
 というように整理されているのだが、ここで“薬師”は弥右衛門岬のある初松前付近にあったものが、松江に統合されたことがわかる。
 つまり、最初の4つの村は、すべて島の東海岸の南部にだけ集中していた。それが、70年後には北の稲穂から南の青苗まで、島のぐるりに集落が広がっているのだ。(球浦開拓という集落だけは、例外的に山の中)
 1906(明治39)年に奥尻村として村制が敷かれ、町になったのは、1966(昭和41)年からだ。そして、現在の住居表示では奥尻町は、奥尻の北から逆時計回りで回ると、
  球浦 宮津 稲穂 湯浜 米岡 青苗 富里 松江 赤石
と9つの字になっている。
 1941年にあった字で、現在の地理院地図(旧字名を一部残して表記している唯一の地図)からも、その名が消えているのは、薬師のほか、茶津、菰澗、富士川があり、釣懸と青苗沢は川の名になっている。
 また、新たに加わっている小字名として、仏沢、滝ノ澗、藻内、砥石が拾い出される。
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▼国土地理院 「地理院地図」
42度9分14.24秒 139度31分18.62秒
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1434 山ヶ岬=奥尻郡奥尻町字赤石(北海道)通りすがりに奥尻島の遺跡を町のサイトからちょっと拾ってみる… [岬めぐり]

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 大昔の移動手段で、比較的手軽でいちばん効率的で威力を発揮したのは、舟であったろう。したがって、数千年も前から奥尻島がオホーツク文化圏の西と南の端であり、かつまた本州の文化圏との交流があったというのは、決して突飛なことでもありえないことでもない。
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 そういう交流の場では、各種のことばが入り混じって使われ、人々はわりと自由に行き来をしていたのだろう。島のことばには、島の人が「むかい」という道南西部沿岸のことばが主になっていて、それに津軽弁が多く混在してくるのだという。
 それは、奥尻町のサイトの観光ページではなく、“文化・教育”のページから知ったのだが、そこにはほかにもいろいろ興味深いことが書かれていた。
 そんななかから、いくつかを拾いだしてみよう。
 まず、「青苗貝塚」について。
 
 そもそも「貝塚」って何でしょうか?
 「貝塚」とは、昔の人が食べた貝をはじめとする様々な食べかすを捨てた「ゴミ捨て場」だと、一般的に多くの方に思われています。
 でも、「青苗貝塚」は、青苗市街地ならばどこからでも望むことができる 台地(高台)に位置しています。
 本当に「ゴミ捨て場」なら、どこからでも望めるそんなに高い場所に、しかもそんな目立つ場所に設置するでしょうか。
 本当に「貝塚」=「ゴミ捨て場」なのか疑問です。
 実は「貝塚」は「ゴミ捨て場」ではなく、昔の人が食べ終えたもの、道具なら使い終えたものをほおむる「墓地」のような場所だったのです。
 昔の人たちは、貝をはじめとする生き物や道具でさえ、人間と同じように「こころ」を持つと考えられ、信じられていました。
 そうした生き物や道具をほおむり、とむらうのが「貝塚」だったのです。
 「貝塚」を「貝捨て場」と言わずに、「貝塚」と言っているのは、こうした意味があるからなのです。

 普通“貝塚”といえば大森貝塚などをすぐ連想してしまうのだが、この貝塚はずっと新しく、飛鳥時代から鎌倉時代にかけて北海道で栄えた、1000年くらい前の擦文文化のものだという。同時代、平安時代の記録によると、北の海の特産品として干しアワビとアシカの毛皮が挙げられているというが、まさしくこの貝塚からはアワビの貝殻が多く、また発掘された動物の骨のうちではアシカの骨が約9割以上に達するという。
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 そんな特徴のある貝塚の場所は、やはり青苗砂丘遺跡のなかではないかと思われるのだが、どこをみてもその遺跡も貝塚も場所を明確に示した説明がないので、結局わからないままで終わった。
 奥尻の北海道先史時代を彩る擦文文化の担い手は、縄文人の子孫であるとともに、アイヌ民族の祖先であった。そう考えても、差し支えないのだろうか。
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 また、青苗遺跡の東側の墓地からは、ガラス玉、水晶玉、水晶製切子玉、石製玉などとともに、大きな勾玉も発見されている。頭部に刻文が刻まれた丁字頭勾玉は緑色のヒスイで、その原石は新潟県糸魚川産であることがわかっている。おそらくは、古墳時代に近畿地方で使用された遺物が、古墳時代後期以降にここまで流れてきたものではないか。
 
・ChinchikoPapa さんからのコメント:
古墳時代の初期に栄えた、ヌナカワ女王のいた「越国」独自のヒスイ勾玉ですね。ヌナカワ女王は、出土物から「出雲」と親和性が高かったようで(神話のメタファーからすると同盟関係?)、近畿のヤマト政権が成立する以前か、あるいは成立後であっても関係が希薄か、あるいは出雲との関係から侵入勢力に対しては敵対していると思います。 
 
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 奥尻空港の滑走路拡幅工事にともなって発見された砥石遺跡では、4,500年くらい前の北海道最古と思われる集団墓地(600基を超える)も発見されている。このことからも、本州の人間が本州の感覚で想像するより、はるかに高度で複雑な社会生活を営む集団が、この島にも住んでいたことがわかる。
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 さてさて、山ヶ岬もどうということのない緩い道路のカーブで、海側には若干の岩場が突き出ている。長い長浜海岸の北寄りに位置するが、長浜という字名はなく、小カカリ石付近から北は全部、赤石という字名になっている。
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 バス停名は「山ヶ崎」となっている。そういえば、前項の「弥右衛門岬」も、明治の修学旅行の記録では「崎」になっていた。「岬」を「さき」と読み、その読みに「崎」の字を当てるようになったのだろうか。
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 それとも、北海道では「崎」より「岬」のほうが多いので、同調圧力が働いて、「崎」が「岬」になったのだろうか。
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▼国土地理院 「地理院地図」
42度8分9.98秒 139度31分9.04秒
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1433 弥右衛門岬=奥尻郡奥尻町字松江(北海道)約8,000年前から人が暮らしていた砂丘の面影もなく弥右衛門さんも不明 [岬めぐり]

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 また人の名前の岬である。清次郎さんは書くことも出てきてなんとかなったが、弥右衛門さんについてはまったくなにもわからず、完全にお手上げ。
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 で、その前に…。
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 奥尻島の岬は、北から逆時計回りに回っているが、実際には島についてからバスで神威脇まで行き、青苗までまた引き返してそこで一泊した。青苗岬付近の集落は津波で全滅し、移転を余儀なくされているので、現在の青苗集落は南北に伸びる港の周辺と少し高くなっている港の西側になる。
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 新しくできたような家々が並ぶ町並みのなかにある、素泊まり専門の宿に泊まり、翌日の早朝に町を歩いて群来岬や青苗岬へ行った。津波館は開館までに時間がありすぎ、バスの時間と合わないので、見学はできず。
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 漁港には、避難設備のつもりかなにかのような大きなテラスが設けられているが、工事中とかで入ることができない。そこから港越しに見ると弥右衛門岬の端もちょっとだけ見える。港の北の端には、地図でみると砂浜も残っているが、青苗の北部は昔から砂丘が発達していた場所らしい。“青苗砂丘遺跡”というのもあるようだし、その証言記録が見つかった。
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 奥尻町教育委員会が発行している「ふるさと奥尻通信」(平成28年2月29日)によると、1901(明治34)年に奥尻島の対岸、の久遠小学校(せたな町大成区)の奥尻島修学旅行を紹介している。
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 なんと、明治のこの小学校の修学旅行はすごい。久遠小学校は奥尻島を徒歩で全周するという計画を立て、実行している。それはまず、久遠港から汽船で昼過ぎに釣懸(現奥尻)に到着、上陸後青苗へ向けて島の東海岸を徒歩で南下している。その記録の一部はこう言う。
 
 赤石、長浜海岸を通過して、薬師(現松江)へ。今のような道路もなく、原始林を抜ける様は、あたかもジャングルを行軍するかのようだったでしょう。途中、大かかり石(海上に顔を出した岩)の前で休憩、弥右衛門崎を越えて初松前の集落に至ります。ここから南端の青苗までは砂丘が続き、歩きにくい中ようやく青苗小に到着して厨川校長以下、村民らの盛大な歓迎を受けました。初日の行程は大変過酷であり、就寝した頃には夜明け前の3時になっていたのでした。(北海道教育雑誌第102号所収)

 ここでは“弥右衛門崎”と言っており、初松前というのが、弥右衛門岬の南西に位置する集落で、港から見える海岸線がそこである。「ここから南端の青苗までは砂丘が続き、歩きにくい中…」というのだから道もなく広い砂丘が広がっていたことがわかる。
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 なるほど、砂丘かあ。南に鳥のくちばしのように飛び出たところとその北に続く丘が、全部砂丘だったのは、そう大昔のことでもないらしい。
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 だが、ずっとずっと大昔から、この砂丘の端の上に、住居を構えてきた人間がいた。
 「文化財オンライン」の「青苗砂丘遺跡」の項は、以下のように記している。
 
 青苗砂丘遺跡は、発掘調査によりオホーツク文化期の住居跡や墓が確認されたことから、これまで、主にサハリン島南部や道北・道東沿岸部に分布するとされていたオホーツク文化が日本海を南下して奥尻島まで及んでいたことを示す貴重な遺跡です。また、土師器や碧玉製管玉など本州から運ばれた遺物も出土していることから、この遺跡において北方と南方の文化が交流していたこともわかります。

 時代は約8,000年前(縄文時代初期)の遺跡だが、本州本土でいう縄文時代とはちょっと異なり、オホーツク文化圏の南限・西限にあたる。
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 土器や石器はもちろん、他に類を見ない石を組んだ炉の跡が発見されている。氷河期が終わって、やっと人間の活動も盛んなになり始めようかという時代、砂丘の住居に炉をつくり、火をおこしてそれを絶やさずに、営みを続けけてきた人々が偲ばれるが、その遺跡の位置は、記録からも地図からも特定できなかった。
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 ただ、道路がカーブするだけの弥右衛門岬から、北に向かって次の山ヶ岬までは6.5キロの長い海岸線が続く。その名も長浜というこの一帯は、御影石(花崗岩)がごろごろとしていて、みかげ石海岸とも呼ばれてきた。
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 そのうちの大きなのが海中から飛び出ていて、カカリ石という名もついて、地図にも明記されている。
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▼国土地理院 「地理院地図」
42度4分59.72秒 139度29分45.00秒
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1432 青苗岬=奥尻郡奥尻町字青苗(北海道)島最南端の岬は広い慰霊と祈りと記念の空間になっていた [岬めぐり]

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 北海道南西沖地震は奥尻地震とも呼ばれるほど、島の被害は大きかったが、なかでもこの海に突き出た低地の青苗地区は壊滅的打撃を受けている。
 島の犠牲者の半数は青苗の人々で、津波で何度か流されたうえに火災まで起こって、流されなかった家は燃えた。
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 1993(平成5)年7月12日の夜に起こったマグニチュード7.8の地震と、藻内西方沖約15キロの海底で発生した地すべりによる津波のリアルタイム記録は、ほとんど残されていない。震度は6の烈震だったと“推定”されているのは、島には地震計がなかったためであるが、日本海側で発生した地震としては、近代で最大規模だったとされる。
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 「時空翔」の中央にある黒御影石のモニュメントは、中央上部にくぼみがある。7月12日の夕刻に海の震源地側に向かって立てば、このくぼみの中に沈んでいく夕日を見ることができるのだという。この慰霊の場には、天皇陛下の御製や奥尻島生まれの詩人 麻生直子の詩が刻まれた碑があり、それを半分囲むように犠牲者の名を記した曲面の壁が取り巻いている。
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 ひたすら国民の安寧を祈ることをもって本分としている天皇皇后両陛下は、ことあるごとに積極的に機会をつくっては被災地を訪問して人々を慰め励まし、また(戦争を含む)犠牲者の慰霊の旅を続けている。祈りそして歌を詠むという、古来の天皇の役割に徹しようとする意志も感じられるが、ここで石に刻まれていたのはこういう歌だった。

  壊れたる 建物の散る 島の浜 物焼く煙 立ちて悲しき
 
 御製の碑とモニュメントを挟んで反対側にある、麻生直子「憶えていてください」という詩碑の一節には、こうあった。
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  最初の人が板切れとともにこの磯に立ち
  銀色の魚を釣り
  野菜や穀物を育て
  ひと組の男女が結ばれ
  父となり母となり
  ながい寒さから幼な子まもり
  働くことをいとわずに築いてきた村や町
  くらしの糧をわけあってきた
  海辺の家族の
  その歳月を置き捨てずにいてください
  
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 被災直後の写真では、北の丘の端で折れて倒れていた赤白だんだらの四角い青苗岬灯台は、ちゃんと立ち直っていたが、そこから南一帯の低地にあった青苗集落は、全面的に移転し、今では「時空翔」の慰霊施設と、震災から8年後の2001年にオープンした奥尻島津波館と、広い空間をもつ公園になっている。
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 青苗岬は、その広い空間のさらに南で、低い陸地が細くすぼんで終わる全体を指しているともとれるが、厳密にはその南端であろう。
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 そこには、一本の高い白い柱が建っている。その高さは16.7メートルあるという。“徳洋記念碑”という名のそれは、1931(昭和6)年に建立され、その後の起こった二度の大震災にも耐えて残った。「洋々美徳」と記されたこの記念碑は、岬めぐりではときどき遭遇する海難救助に関するものだった。
 その海難事故があったのは1880(明治13)年だから、これもずいぶんたってから半世紀後に建てられている。青苗沖で座礁したイギリスの中国艦隊旗艦であったアイアン・デューク号の事故では、訓練のため乗艦していた有栖川宮威仁親王が青苗に上陸、島民や他国軍艦と協力して救助活動にあたった。
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 “有栖川宮威仁親王の遺徳と国境を越えた救助活動の美徳を讃えるものです”、と説明板はいうのだが、昭和6年といえば満州事変が起こり国際社会で日本は孤立を深め、北海道などでは大凶作で娘の身売りが急増していた。なぜ、そんなときにこの碑は建てられたのだろうか、という疑問が湧いてくる。
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 その青苗沖の英軍艦座礁の場所は、いったいどこだろうか。
 青苗岬の南方4キロ付近の海上には、室津島・森磯島と沖ノハッピという岩礁が地理院地図にはある。その周辺には多数の岩礁が描かれているが、それ以外にも軍艦が座礁しそうな暗礁が隠れているのだろうか。
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 室津島は、元清次郎の僧侶が断食座禅を組んだと伝説がいう岩島だが、ズームで見ると左手の島に灯台と祠があるのがわかる。
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▼国土地理院 「地理院地図」
42度3分8.01秒 139度27分1.43秒
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dendenmushi.gif北海道地方(2016/09/04 訪問)

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1431 群来岬=奥尻郡奥尻町字米岡(北海道)海岸段丘の上は空港の滑走路でその西北端は岬より岩島のほうで馴染まれている [岬めぐり]

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 「群来(くき)」は、春にニシンが産卵のために大群となって沿岸に押し寄せることを言う。まさに群れが来るわけだ。その昔、といっても明治・大正の頃には、そういう風景が、ここでも見られたのだろう。
 西海岸で青苗の集落にも近く、少し高くなっていた岬が見張り所になったのかもしれないし、あるいはこの海岸にニシンがやってきたのかもしれない。いずれにしても、そういう時代の名残りが、この岬の名に残されていることだけは確かなのだろう。
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 江戸時代に江差付近で始まったとされるニシン漁は、明治時代になってニシン漁の制限が解かれると漁場は開放され、積丹半島から留萌海岸など、北海道の西海岸に各地に広がっていく。だが、それが最盛期だったのは1900年頃で北の地域にいっときの繁栄をもたらす。だが、1950年代以降はその漁獲量は激減してしまう。
 今や幻の魚と言われるほどになり、たまに食べるニシンそばは、どうしてニシンは来なくなったのだろうという疑問とともに味わうことになっているが、その原因はいろいろ言われてはいるが、実のところはよくわかっていない。
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 バスが南に向いて走る藻内も、集落が津波でほぼ全域で流された。群来岬は、その北側にあたる藻内付近の海岸からも遠望できる。岬の先には、岩島が群れていて、群来岩という名がついている。地元の人の間では、“群来”といえば岬のことではなく、この岩島群を指すようだ。稲穂岬の食堂のおはさんと話していてそう確信した。
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 今ではニシンの見張りをする必要もないので、岬には用はないし役にも立たないが、岩が散らばる岩礁地帯は、ウニやコンブなどの貴重な漁場に違いないからだろう。
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 名前がついている岬の先端は、南に向いているので、ここはやはり南から見るのがよいだろう。この岬は、奥尻空港の滑走路の西端にある。標高50メートルくらいの海岸段丘の上に広がる空港の東を走る道道39号線は、フライトの関係なのか、空港ビルまでに入って行く場合と、道路の空港前だけの場合とがあるようだ。
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 滑走路の東の端、海岸が折れ曲がって南に向かうところに、地理院地図では“貝取澗”という表記がある。これは先にも“澗”にからんでリンクしたように、奥尻島対岸のせたな町大成区にもまったく同じ地名があった。
 これも当然ながらアイヌ語源だと思われるが、だからといって意味が明確になるとは限らない。
 “カイェウトゥル”(kaye-uturu)は、“折岩の間”というのだが、それを想像し理解するのはむずかしい。せたなの貝取澗は、海岸線が波打つように折れ曲がってはいたが、ここの貝取澗は50度に海岸が折れているだけ。なんとはない印象だけだが、岩礁との関連があるのではないかと思う。
 ここから島の南端部へ海岸線は折れ、字地名も米岡から青苗に変わる。先っちょをちょん切られたトカゲのしっぽのような、青苗岬の細長い出っ張りもここから始まっている。
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 貝取澗の南には、整然と区画された緑ヶ丘という住宅団地がある。震災前からあるのか、それとも震災後にできたものだろうか。どうも後者ではないかと思われたが、調べてみると違っていた。この団地の整備計画は、1968(昭和43)年から始まっていたものだった。震災後の高台移転は、この緑ヶ丘の周辺で行なわれたようだ。
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 緑ヶ丘のずっと南、震災被災者の慰霊碑「時空翔」というモニュメントに登ってみると、ここからは3キロ先の群来岬が順光できれいに見える。
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 この灯台から南の青苗岬地区は、全戸が津波で流出している。
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▼国土地理院 「地理院地図」
42度4分17.75秒 139度25分19.03秒
kukimisakiM-2.jpg
dendenmushi.gif北海道地方(2016/09/04 訪問)

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