So-net無料ブログ作成
検索選択

1432 青苗岬=奥尻郡奥尻町字青苗(北海道)島最南端の岬は広い慰霊と祈りと記念の空間になっていた [岬めぐり]

aonaemisaki-12.jpg
 北海道南西沖地震は奥尻地震とも呼ばれるほど、島の被害は大きかったが、なかでもこの海に突き出た低地の青苗地区は壊滅的打撃を受けている。
 島の犠牲者の半数は青苗の人々で、津波で何度か流されたうえに火災まで起こって、流されなかった家は燃えた。
aonaemisaki-7.jpg
 1993(平成5)年7月12日の夜に起こったマグニチュード7.8の地震と、藻内西方沖約15キロの海底で発生した地すべりによる津波のリアルタイム記録は、ほとんど残されていない。震度は6の烈震だったと“推定”されているのは、島には地震計がなかったためであるが、日本海側で発生した地震としては、近代で最大規模だったとされる。
aonaemisaki-8.jpg
 「時空翔」の中央にある黒御影石のモニュメントは、中央上部にくぼみがある。7月12日の夕刻に海の震源地側に向かって立てば、このくぼみの中に沈んでいく夕日を見ることができるのだという。この慰霊の場には、天皇陛下の御製や奥尻島生まれの詩人 麻生直子の詩が刻まれた碑があり、それを半分囲むように犠牲者の名を記した曲面の壁が取り巻いている。
aonaemisaki-9.jpg
 ひたすら国民の安寧を祈ることをもって本分としている天皇皇后両陛下は、ことあるごとに積極的に機会をつくっては被災地を訪問して人々を慰め励まし、また(戦争を含む)犠牲者の慰霊の旅を続けている。祈りそして歌を詠むという、古来の天皇の役割に徹しようとする意志も感じられるが、ここで石に刻まれていたのはこういう歌だった。

  壊れたる 建物の散る 島の浜 物焼く煙 立ちて悲しき
 
 御製の碑とモニュメントを挟んで反対側にある、麻生直子「憶えていてください」という詩碑の一節には、こうあった。
aonaemisaki-17.jpg
 
  最初の人が板切れとともにこの磯に立ち
  銀色の魚を釣り
  野菜や穀物を育て
  ひと組の男女が結ばれ
  父となり母となり
  ながい寒さから幼な子まもり
  働くことをいとわずに築いてきた村や町
  くらしの糧をわけあってきた
  海辺の家族の
  その歳月を置き捨てずにいてください
  
aonaemisaki-5.jpgaonaemisaki-6.jpg
 被災直後の写真では、北の丘の端で折れて倒れていた赤白だんだらの四角い青苗岬灯台は、ちゃんと立ち直っていたが、そこから南一帯の低地にあった青苗集落は、全面的に移転し、今では「時空翔」の慰霊施設と、震災から8年後の2001年にオープンした奥尻島津波館と、広い空間をもつ公園になっている。
aonaemisaki-10.jpg
 青苗岬は、その広い空間のさらに南で、低い陸地が細くすぼんで終わる全体を指しているともとれるが、厳密にはその南端であろう。
aonaemisaki-11.jpg
 そこには、一本の高い白い柱が建っている。その高さは16.7メートルあるという。“徳洋記念碑”という名のそれは、1931(昭和6)年に建立され、その後の起こった二度の大震災にも耐えて残った。「洋々美徳」と記されたこの記念碑は、岬めぐりではときどき遭遇する海難救助に関するものだった。
 その海難事故があったのは1880(明治13)年だから、これもずいぶんたってから半世紀後に建てられている。青苗沖で座礁したイギリスの中国艦隊旗艦であったアイアン・デューク号の事故では、訓練のため乗艦していた有栖川宮威仁親王が青苗に上陸、島民や他国軍艦と協力して救助活動にあたった。
aonaemisaki-13.jpg
 “有栖川宮威仁親王の遺徳と国境を越えた救助活動の美徳を讃えるものです”、と説明板はいうのだが、昭和6年といえば満州事変が起こり国際社会で日本は孤立を深め、北海道などでは大凶作で娘の身売りが急増していた。なぜ、そんなときにこの碑は建てられたのだろうか、という疑問が湧いてくる。
aonaemisaki-16.jpg
 その青苗沖の英軍艦座礁の場所は、いったいどこだろうか。
 青苗岬の南方4キロ付近の海上には、室津島・森磯島と沖ノハッピという岩礁が地理院地図にはある。その周辺には多数の岩礁が描かれているが、それ以外にも軍艦が座礁しそうな暗礁が隠れているのだろうか。
aonaemisaki-14.jpg
 室津島は、元清次郎の僧侶が断食座禅を組んだと伝説がいう岩島だが、ズームで見ると左手の島に灯台と祠があるのがわかる。
aonaemisaki-15.jpg

▼国土地理院 「地理院地図」
42度3分8.01秒 139度27分1.43秒
aonaemisakiM-1.jpg
dendenmushi.gif北海道地方(2016/09/04 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ
タグ:北海道

1431 群来岬=奥尻郡奥尻町字米岡(北海道)海岸段丘の上は空港の滑走路でその西北端は岬より岩島のほうで馴染まれている [岬めぐり]

kukimisaki-11.jpg
 「群来(くき)」は、春にニシンが産卵のために大群となって沿岸に押し寄せることを言う。まさに群れが来るわけだ。その昔、といっても明治・大正の頃には、そういう風景が、ここでも見られたのだろう。
 西海岸で青苗の集落にも近く、少し高くなっていた岬が見張り所になったのかもしれないし、あるいはこの海岸にニシンがやってきたのかもしれない。いずれにしても、そういう時代の名残りが、この岬の名に残されていることだけは確かなのだろう。
kukimisaki-4.jpg
 江戸時代に江差付近で始まったとされるニシン漁は、明治時代になってニシン漁の制限が解かれると漁場は開放され、積丹半島から留萌海岸など、北海道の西海岸に各地に広がっていく。だが、それが最盛期だったのは1900年頃で北の地域にいっときの繁栄をもたらす。だが、1950年代以降はその漁獲量は激減してしまう。
 今や幻の魚と言われるほどになり、たまに食べるニシンそばは、どうしてニシンは来なくなったのだろうという疑問とともに味わうことになっているが、その原因はいろいろ言われてはいるが、実のところはよくわかっていない。
kukimisaki-5.jpg
 バスが南に向いて走る藻内も、集落が津波でほぼ全域で流された。群来岬は、その北側にあたる藻内付近の海岸からも遠望できる。岬の先には、岩島が群れていて、群来岩という名がついている。地元の人の間では、“群来”といえば岬のことではなく、この岩島群を指すようだ。稲穂岬の食堂のおはさんと話していてそう確信した。
kukimisaki-6.jpg
 今ではニシンの見張りをする必要もないので、岬には用はないし役にも立たないが、岩が散らばる岩礁地帯は、ウニやコンブなどの貴重な漁場に違いないからだろう。
kukimisaki-3.jpg
 名前がついている岬の先端は、南に向いているので、ここはやはり南から見るのがよいだろう。この岬は、奥尻空港の滑走路の西端にある。標高50メートルくらいの海岸段丘の上に広がる空港の東を走る道道39号線は、フライトの関係なのか、空港ビルまでに入って行く場合と、道路の空港前だけの場合とがあるようだ。
kukimisaki-2.jpgkukimisaki-1.jpg
 滑走路の東の端、海岸が折れ曲がって南に向かうところに、地理院地図では“貝取澗”という表記がある。これは先にも“澗”にからんでリンクしたように、奥尻島対岸のせたな町大成区にもまったく同じ地名があった。
 これも当然ながらアイヌ語源だと思われるが、だからといって意味が明確になるとは限らない。
 “カイェウトゥル”(kaye-uturu)は、“折岩の間”というのだが、それを想像し理解するのはむずかしい。せたなの貝取澗は、海岸線が波打つように折れ曲がってはいたが、ここの貝取澗は50度に海岸が折れているだけ。なんとはない印象だけだが、岩礁との関連があるのではないかと思う。
 ここから島の南端部へ海岸線は折れ、字地名も米岡から青苗に変わる。先っちょをちょん切られたトカゲのしっぽのような、青苗岬の細長い出っ張りもここから始まっている。
kukimisaki-10.jpgkukimisaki-9.jpg
 貝取澗の南には、整然と区画された緑ヶ丘という住宅団地がある。震災前からあるのか、それとも震災後にできたものだろうか。どうも後者ではないかと思われたが、調べてみると違っていた。この団地の整備計画は、1968(昭和43)年から始まっていたものだった。震災後の高台移転は、この緑ヶ丘の周辺で行なわれたようだ。
kukimisaki-13.jpgkukimisaki-7.jpg
 緑ヶ丘のずっと南、震災被災者の慰霊碑「時空翔」というモニュメントに登ってみると、ここからは3キロ先の群来岬が順光できれいに見える。
kukimisaki-14.jpg
 この灯台から南の青苗岬地区は、全戸が津波で流出している。
kukimisaki-12.jpg

▼国土地理院 「地理院地図」
42度4分17.75秒 139度25分19.03秒
kukimisakiM-2.jpg
dendenmushi.gif北海道地方(2016/09/04 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ
タグ:北海道

番外:無縁島=奥尻郡奥尻町字米岡(北海道)ないないと書いていたがやっぱりあった!清次郎歌岬の情報がこんなところに! [岬めぐり]

hoyaishimisaki-22.jpg
 「1429 清次郎歌岬」の項で、こんな個人名がつくくらいだからきっとなにか話があるはずなのにその情報がどこにもない、町のサイトでもまったく無視されている、と書いていた。
 その奥尻町のサイトでは「神威脇周辺」の観光名所として括られたフォルダに、北追岬公園、カブト岩、モッ立岩、ホヤ石、ホヤ石の滝、そして無縁島の項目を並べている。
hoyaishimisaki-17.jpg
 岬ではないので、そのまま群来岬へ進むつもりだったが、なんとそこにあった無縁島の項目をみて、これは番外でつけ加えておく必要があると思った。
hoyaishimisaki-21.jpg
 なぜなら、ないないと言っていた清次郎の情報が、そこにあったからである。あったのは「歌の上手な少年」ではなくて、清次郎という若者と歌子という女性の悲恋(というのかなあ、こういうの)の話であった。
 要約するとヘンになるし、ここは奥尻町のサイトにリンクして、それを紹介しておこう。


 無縁島を染める夕日が胸をうつのは、そこに伝わる悲しい恋物語に由来するのかもしれません。
 いつの時代か、神威脇に住む島の娘・歌子と能登の国から流れてきた清次郎は恋に落ちますが、清次郎の裏切りで離ればなれとなり、歌子は悲しみのあまり清次郎の子を身ごもったまま神威沼に身を沈めました。その直後、島へやってきた無縁という名の僧侶は、歌子のために長い弔いを捧げ、室津島へ渡り断食座禅を組みます。数日後、海が荒れ波に呑み込まれた僧侶は、後に「無縁島」と呼ばれることになる島へ数珠を握りしめたままの姿で流れ着いたといいます。この僧侶が、歌子への裏切りを深く悔やんだ清次郎であったという伝説です。

 これも、なんだかなあという話だが、それは“清次郎の裏切り”とやらがどういうものなのかがわからないからかも。それに、“神威沼”や“室津島”(島の南端青苗岬の南4キロにある岩島)の存在と関連が明確な説明がないのでピンとこない。まあ、伝説というのはそういうもんだといえばそうなんですけどね。
 また、この話だと確かに無縁島にもってこないとおさまりがつかない。それはわかるが、そうなるとやはりこの男女二人の名がついた「清次郎歌岬」にはそれにふさわしい、この話の前段となるべき話もあるはずで…。
 知りたがり屋は、それが知りたいなあ。やっぱり。
hoyaishimisaki-19.jpg
 無縁島海岸という町有バス(これまでなんとなく“町営”だと思っていたが、バス停の標識やダイヤでみると“町有”が正式だった)のバス停があるところには、藻内の漁師の船なのか、小さな船溜まりがあり、無縁島と平島はその沖合500〜600メートルのところに浮かんでいる。
hoyaishimisaki-20.jpg

▼国土地理院 「地理院地図」
42度6分39.56秒 139度24分42.81秒
muenjimaM-2.jpg
dendenmushi.gif北海道地方(2016/09/03 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ
タグ:北海道

1430 ホヤ石岬=奥尻郡奥尻町字米岡(北海道)ホヤはよく知らないしもうひとつは知ってても「似てると言われてもねぇ」 [岬めぐり]

hoyaishimisaki-15.jpg
 前項の清次郎歌岬から500メートル南にある神威岩から、さらに350メートル南に下ったところにある立岩は、カブト岩という名があるらしい。地理院地図にはないのだが、清次郎歌岬を無視した町のサイトにはその説明がちゃんとあって、それによると北海道南西沖地震の際に、岩の半分が崩れ落ちたのだという。もし、その半分が残っていれば、きっとカブトのように見えたのだろう。
hoyaishimisaki-1.jpg
 カブト岩までくると、ここから南へは遠くまで視界が伸びて、直線距離で3キロ先のホヤ石やその向こうの無縁島まで見通せる。また、道がカーブするごとに見え隠れするホヤ石岬も判別できる。
hoyaishimisaki-2.jpg
hoyaishimisaki-12.jpg
 カブト岩からホヤ石岬までの間は、急斜面の山の下と海の間にわずかな隙間を見つけた道が通るだけで、人家も何もない。唯一、白い平屋の建物が1か所だけあるが、これは発電所。
hoyaishimisaki-5.jpg
 神威山の南に源流を発し、ホヤ石と発電所の間の谷を流れるホヤ石川の途中から取水し、山の斜面にトンネルか導管を通して、この上の貯水池に溜めてそこから落としているらしい。
 奥尻町に発電所は3か所あるが、北海道本島とは切り離されており、独立した発電・供給体制をとっている。最高出力は合計5,630キロワットで、これで奥尻全島の生活と産業の電力需要をすべてまかなっているのは立派だ。
 その運営・保守業務は、北海道電力から奥尻町が受託して行なう形になっていて、町には発電課があり、24時間体制で内燃力発電所と水力発電の運転監視・保守を行なっている。
 発電所のすぐ北に注ぐホヤ石川が、奥尻町の字湯浜と字米岡の境になる。
hoyaishimisaki-4.jpg
 ホヤ石というのは、当然ホヤに似ているとかいうのだろうけど、ホヤというものにあまり馴染みがなく食通でもない西の人間には、こんな立岩はあちこちにあるので「似てると言われてもねぇ」というのが正直な感想である。
hoyaishimisaki-6.jpg
 似ているといえば、もうひとつ。ホヤ石の北に小さな岩がぴょこんと海中に立っていた。これも地理院地図にはなにも表記がないが、町のサイトのほか奥尻町の観光情報ではもれなく収録してある。
hoyaishimisaki-7.jpg
 モッ立岩という名があるそこには、誰が立てたものか不明な丸い標識と説明まであるが、文字を読むことはできない。だが、一般人がこれについて書いてあるページもたくさんあって、そこにはその命名者はとある未亡人だというおとな向けの艶笑譚(というほどの内容はない)がまたもれなくくっついている。(みんなこういうのは好んで書きたくなるらしい)
hoyaishimisaki-11.jpg
 高さ25メートルというホヤ石とホヤ石岬は、580メートルほど離れていて、この間にホヤ石川と発電所、そして無名のもうひとつの立岩、それに地理院地図にはホヤ石の滝という記名もあるのだが、それはよくわからぬうちに通りすぎてしまった。
hoyaishimisaki-13.jpg
 ホヤ石と無名の立岩は接近してあるので、南から北へ向かうときには、その陰になっていたホヤ石が突然に現れる。この立岩にも、細かい節理がたくさんあるのがわかる。
hoyaishimisaki-8.jpg
 こういう節理は、地中でゆっくりと冷えながら固まっていくときに、溶岩の体積が縮むためにできるのだという。冷却する面から垂直方向にヒビが入っていくので、それを横からみたのが柱状節理だが、表からは見えない節理もあるということだ。
 ここでは、約300万年前の海底火山の活動にともなう火砕岩の地層である、米岡層が広がっている。その下から安山岩のホヤ石の層が貫入して出てきたものだという。まことにこの地上と地下には、想像のおよばない世界がある。
hoyaishimisaki-14.jpg
 ホヤ石岬は、道路がカーブするところで岩の小山をかすめて走っているところで、海側に低くて丸い岩が目印になる。
hoyaishimisaki-16.jpg

▼国土地理院 「地理院地図」
42度6分53.78秒 139度25分4.86秒
hoyaishimM-1.jpg
dendenmushi.gif北海道地方(2016/09/03 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ

1429 清次郎歌岬=奥尻郡奥尻町字湯浜(北海道)個人名が名前につく岬にはなにか物語もありそうだがこれがなにもない [岬めぐり]

seijirouutam-6.jpg
 人名がつく岬というのも、たまにあるのだが、その由来がちゃんと伝わっているものは、意外に少ないように思える。はっきりと個人名がついているのだから、架空の人物にしろ実在の人物にしろ、その名がついたいきさつなどは、当然に伝わっていてしかるべきだろう。だが、そう思うのは、ふらふらと寄ってくる知りたがり屋だけで、地元の人も地元民でもないたいていの人も、そんなことはどうでもいいことと考えているらしい。
seijirouutam-1.jpg
 ここの、“清次郎”さんという人は、いったいどういう人なんだろう。
 そういう疑問は、自然に出てくるはずだが、どこにもなにも情報がない。奥尻町のパンフでもサイトでも、この岬についてはまったくちらっともふれず、完全に無視していて、マップにさえ載ってもいない。なにか、恨みでもあるのかと思うくらい徹底している。
 だが、ここでは人名の後に“歌”という文字までくっついている。これで、なんにもいわれもへちまもありませんと言われても、とても納得はしがたい。そう思いませんか。まあ思っても、どうしようもないのだが…。(後でちゃんとつじつまが合う仕掛けになっています。お楽しみに)
seijirouutam-2.jpg
 清次郎歌岬は、クズレ岬の丘を降りて海岸に出たところの南にある。
 岩ばかりの小さな尾根が西に突き出ていて、そこをバスが走る道路は鴨石トンネルでその岩の下をくぐり抜ける。
seijirouutam-3.jpg
 30〜40メートルほどしかないこの岩尾根は、北から見ると礫岩を多く含んでいるように見えるが、明らかに溶岩性のギザギザした岩肌を露出している。これが、横になっているガリバーのアタマのように見えるという説もあるようだが、バスからではそう見るにはちょっとムリがあった。
 鴨石トンネルを出て、岬の南側に出る。
seijirouutam-4.jpg
 ゴツゴツした岬の先端部は、オーバーハングになっている。その下には横に層が刻まれていて、その右の出っ張りがなにやら丸く見える。ガスが抜けてはじけてできたような凹みも、大きいのや小さいのがたくさんある。
seijirouutam-5.jpg
 おや、その斜め上には、もうひと回り大きな円も見える。
 どうやら、これも「車石」のようだ。
seijirouutam-7.jpg
 流れ出た溶岩の表面が水で急に冷却されるとき、チューブ状に流れ、それが切れて枕状になることがある。その断面は放射状の節理をもつのが特徴とされているが、その断面が表に現れたとき、その円形と放射状の形から、人々は車輪を連想し、ホイールストーン(車石)という呼び名が生まれた。
seijirouutam-14.jpg
 車石で代表的なものといえば、根室は花咲岬のそれであろう。それは、この岬めぐりでもかなり早い段階で取り上げていた。
 その花咲岬の車石と、清次郎歌岬のそれは、少し車輪の形が異なるようだが、確かに円の周縁部には放射状に並んだ岩がはっきりとわかる。
 ふたつとも、その中央部で車軸が折れた跡のような形状を示している。
seijirouutam-8.jpg
 わが国では「車石」には、もうひとつ別の意味があって、一部で使われている。それは牛車などが通る道に敷いた石のことで、轍の跡が刻まれているものを指す。大阪のおみやげによくいただいていた叶匠壽庵の菓子に、それを模した「車石」というのがある。
 和菓子屋さんというのは、結構そういうところには眼をつけているらしい。鎌倉の鳩サブレーで修学旅行生にも人気の豊島屋では、石橋を模した「きざはし」というのもある。
 この放射状の「車石」も、根室や奥尻の名物に使われてもよさそうだが、やはりそういうところまでいくには、いまいちいろんなところで力がないのか。
seijirouutam-9.jpg
 清次郎歌岬を後に南下すると、今度は海中に立岩を大きくしたような岩島が見えてくる。これが、神威岩であろう。その名は、地理院地図にも明記されている。
seijirouutam-11.jpg
 神威岩の周辺は岩礁が広がっていて、小さな岩頭がたくさん並んでいる。
seijirouutam-12.jpg
 岬と岩のツーショットで見るていると、なんとなく歌の上手な清次郎という少年と、その物語がひとつくらいはつくられそうな気がしてくるのだが…。
seijirouutam-13.jpg

▼国土地理院 「地理院地図」
42度9分12.29秒 139度24分40.80秒
seijirouutamM-1.jpg
dendenmushi.gif北海道地方(2016/09/03 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ

1428 クズレ岬(北追岬)=奥尻郡奥尻町字湯浜(北海道)今もなお崩れ続けているような断崖の上にある彫刻群とは? [岬めぐり]

kuzurehana-8.jpg
 温泉ホテル緑館のある丘は、南に大きく広がっていて、西に張り出した緩いでこぼこの突端が、地理院地図でクズレ岬と表示されている岬になる。
kuzurehana-6.jpg
 それは、神威脇の漁港からでも、防波堤の向こうに目立っているが、名前の通り、今もなお崩れ続けているような断崖が周りを取り巻いている。これは南側から見ても特徴的で、まさにクズレ岬そのものである。だが、ChinchikoPapa さんのコメントでは、「クズレ」はkusur(クスリ)が訛ったもので、そのまま「湯治場」「温泉場」の意味ではないか、という。なるほど、まさにここは温泉がある。
kuzurehana-10.jpg
 これは、1724(享保9)年に神威山が噴火したという記録とも、神威脇北の崖などとともに関連があるのだろうか。ワイナリーもあるという温泉ホテルの下から、この岬へ行く破線の道が描かれているが、どうやら岬の上一帯は公園になっていて、遊歩道などもめぐっているらしい。
kuzurehana-9.jpg
 “らしい”というのは、ここは北の漁港からの眺めとあとはバスで通り過ぎながら南からの車窓だけになったからだ。
kuzurehana-2.jpg
 温泉ホテルに泊まる計画では、クズレ岬の突端まで歩いて行くつもりだったが、それは実現しなかった。
 バス道路はクズレ岬の450メートル内側を通るので、そこから岬は見えないが、バス停は“北追岬公園”となっている。あんれ? クズレ岬じゃないんだね。
kuzurehana-3.jpg
 奥尻町が立てた標識や看板にも、あるのは“北追岬”ばかりである。念のためにMapionを見ると、バス停のほかに“北追岬公園キャンプ場”とあって、岬表記はクズレ岬と地理院地図に準拠している。
kuzurehana-5.jpg
 その看板や標識もかなり古いままで、震災で消えた“幌内温泉”という表記もそのままなので、これは震災前からずっとそこに立っていたものだろう。ということは、“北追岬”も昨日今日ではなく、ずっと前からその名を使ってきた、ということだ。
kuzurehana-12.jpg
 奥尻町や観光協会などが、復興のために力を入れてつくっているパンフレットなどの観光情報にも、“北追岬”はあってもクズレ岬はない。
 いったいこれは、なにを意味しているのだろうか。
 パンフなどをめくってみたが、なにもわからない。ただ、この“北追岬公園”には、流政之作品の彫刻による8つのモニュメントがあるのだという。流政之と島の関係は、書いてないのでわからない。公園散策には1時間ほど、と書いてあるので、結構広い公園らしい。
kuzurehana-4.jpg
 ハゲ落ち錆びが広がっている古い標識には、“彫刻公園北追岬”という文字もあるし、その下のほうには“メーン彫刻北追岬”のほか3つの彫刻の名が記されているようだが、はっきりわからない。
 そこで町のサイトの北追岬公園のページで確認すると、その名は北追岬のほかは、回天が原、神威流という流作品のようだ。
 彫刻まで行って見てもいないのに、それについてあれこれ書くのもはばかられるが、なにしろ町が発信している情報は充分でない。標識だけは見たので、そこからさらに納得のいくまで推測の糸をたぐりよせてみる。
 流政之作品のリストから、彫刻公園北追岬に収められた作品を拾いだしてみると、以下のようになる。
  1981 "北追岬"を制作
  1984 "はぐれ鳥"を制作
  1987 "神威流・回天が原"を制作
  2004 "島へっちょ・よくきたさ・恋のつぎめ"を制作
 つまり、1993年の震災後に制作されたのは、2004年のものだけで、ほとんどはそれ以前からで、流作品は北海道各地にもあるが、ここほど集中しているところはない。
 では、なぜここと流政之が結びついたのだろう。それは、町のサイトでもまずいちばんにふれるべきことだと思われるのに、なにも書いていない。
kuzurehana-1.jpg
 実は、初めに島を概括していた「1424 奥尻島の岬」の項のなかでは、神威脇について、「戦後すぐには、千島列島国後(くなしり)島の1郡2村の住民280人が入植した、という場所である。」と紹介していた。
 どうやら、それが流政之作品がクズレ岬の上に並ぶことになる発端だったのだ。その理由については、ご本人のインタビュー記事がある。日本経済新聞社が「戦後70年インタビュー」として、元零戦パイロットである彫刻家として流政之氏の話を掲載していた。(「攻撃の美学」好きになれぬ(戦争と私) 2015/8/12付
 
 「学徒出陣した戦没者を追悼する作品を東京・明治神宮に作ってほしいという依頼もあったが、これは断った。東条英機の主導で、学生たちが行進した明治神宮外苑競技場は、ふさわしくない。これとは別に高知県大月町に学徒出陣した戦没者を鎮魂する作品『雲が辻』を作った。
 北海道奥尻島には、北方領土の国後島を脱出した人々が入植した歴史がある。あまり知られていないが、戦争による『難民』が日本にもいたんだ。望郷のモニュメントを奥尻島の北追岬公園に作った」
 
 どうして、町はこういう肝心なことを、積極的に情報提供しないのだろう。「北追い」にはそういう意味があったのだ。
kuzurehana-11.jpg

▼国土地理院 「地理院地図」
42度9分51.92秒 139度24分21.49秒
kuzurehanaM-1.jpg
dendenmushi.gif北海道地方(2016/09/03 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ
タグ:北海道

1427 屏風立岩=奥尻郡奥尻町字湯浜(北海道)屏風のような立岩と立ち寄り湯温泉と島唯一のホテルもある神威脇 [岬めぐり]

byobutateiwa-5.jpg
 立岩はめずらしくないといっても、ここのはその名も“屏風”がついた立岩で、大きな岩島がふたつくっついたような形に並んでいる。これが屏風のように立っているということから、注目されて名がついたのだろう。
byobutateiwa-7.jpg
 岬の名はないが、道路がカーブしてトンネルで抜ける岩の尾根もあり、その隣でも岩の根が続いている。これらを一体とした岬とみても差し支えないのだろう。
byobutateiwa-8.jpg
 トンネルの北側から見ると、屏風とはこれかもしれない、という気がしてくる。
byobutateiwa-9.jpg
 ここのトンネルは神威トンネルで、87メートル。北国岬のところにあった湯の浜トンネルも幌内トンネルも100メートルを超えていた。
byobutateiwa-10.jpg
 実は、奥尻島ではトンネルの数が思いのほか少ない。平地が少ない海岸線を回っている道路には、崖を繰り抜いたトンネルも多いのではないかという予断もあったのだが、この南にある鴨石トンネルを入れて、計4つしかない。
 その予断を覆したのは、海岸線がおもに海岸段丘で形成されていたからであった。細かい尾根の凸凹があると、トンネルも多くなるのだが、この島では段丘が続く区間が多いので、川筋があっても岬が少なく、それを貫くトンネルも少ない。
byobutateiwa-6.jpg
 そのほかに、空港の近くと東海岸北部の勘太浜に覆道があるが、奥尻島の西海岸にだけ4つあるトンネルは、いずれも小さな岩尾根を貫くものである。
 屏風立岩のところにあるのは、そのうちのひとつの神威トンネルだが、“神威”もまた北海道の名で、“カムイ”とは神格を持つ高位の霊的存在を指すアイヌ語からきている。なので、当て字にもいくつかあるがそういう読みの地名は多い。
byobutateiwa-4.jpg
 屏風立岩のすぐ南にある、西海岸では最北に位置し、小さな漁港をもつ酒楽の名が神威脇。集落の南には神威脇川も流れているが、なぜ「脇」なのだろうか。
kuzurehana-13.jpg
kamuiwakiM-1.jpg
 神威脇川の源流を遡っていくと、奥尻島の最高峰である神威山(676メートル)に行き着く。この山の麓だから神威脇になったという想像もできる。この山の上に自衛隊の基地(レーダーサイトのようなもの)があることも、前にふれた。
byobutateiwa-13.jpg
 この集落は温泉でも有名らしく、フェリー乗り場においてあった町観光協会の作成になる「奥尻島まるごとマップ」には“神威脇温泉保養所”という施設が明記されていた。
 それとは別にも、集落南の丘の上には“温泉ホテル緑館”というのもある。震災で消滅した幌内の温泉を含めて、奥尻の温泉はこの地域だけに限定されている。
byobutateiwa-14.jpg
 温泉保養所というのはいわば名ばかりで、要は立ち寄り湯であるが、これも町が運営している建物も設備もかなり年季が入っているので、震災前から同じものを使っているらしい。
byobutateiwa-15.jpg
 神威脇漁港のそばにあって、源泉かけ流しの湯は熱めで、温泉成分が結晶化して湯わき口などに茶色く固まっている。はて、これはどこかで同じようなのを見たぞ。
byobutateiwa-17.jpg
 「澗」がらみで前項に紹介した「860 ヨリキ岬」の項では、国民宿舎「あわび山荘」に泊まったが、そこの温泉のそれはなかなかお目にかかれないくらいすごいものだった(写真はない)。
 せたな町の大成区貝取澗の温泉から、西へ40キロ離れた奥尻島の神威脇の温泉も地下ではつながっているのかもしれない。
byobutateiwa-12.jpg
 神威脇の北では、崖を削って防護措置を講じる工事が進められていたが、集落の部分は崖もなく、緩い傾斜地になっている。湯ノ浜温泉ホテル緑館は神威脇川を挟んで反対側の丘に、とんがり帽子の塔を備えた建物が目立っている。
byobutateiwa-16.jpg
 ここは島では唯一と言ってもいいホテルで、当初は札幌でビルやグリーンホテルなどを経営する会社が始めたが、後に島の観光会社の経営になったようだ。
byobutateiwa-18.jpg
 当初は、ここに泊まる計画も考えていたのだが…。
byobutateiwa-19.jpg

▼国土地理院 「地理院地図」
42度10分32.22秒 139度24分21.49秒
byobutateiwaM-1.jpg
dendenmushi.gif北海道地方(2016/09/03 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ
タグ:北海道

1426 穴澗岬=奥尻郡奥尻町字湯浜(北海道)岩礁と立岩と防波堤と道路と崖が続く以外にはなにもない海岸線に [岬めぐり]

anama-4.jpg
 北国岬から神威脇の北にある屏風立岩までの間は、岩礁地帯や立岩などが、ずっと続いている。そのそばを走る道路には少し高目の防波堤がある。道路からはすぐに山か崖が立ち上がる。この防波堤や道路も、震災後にできたものだろう。
anama-8.jpg
 Wikipediaの道道39号線についての説明では、「海岸沿いを走る個所が多いが北海道南西沖地震後に作られた高い防潮堤により、道から日本海の景観はあまり望めない。」と書いてあったので、思わず口元が緩んでしまった。
 それを書いた人は、レンタカーかマイカーか知らんけど、車高の低い車の中からだけしか見ていないらしい。ここは走っていないけど町営バス(と書いていたけどどうも“町有”らしい)からはどこでもよく見えますし、歩いていても海の景色が見えないということはありません。
anama-12.jpg
 142メートルのピークをもつ巨大な岩の崖でできている穴澗岬は、その中間にあって、その崖下では道が緩くカーブしている。その下の海には岩礁が続いている。
anama-13.jpg
 崖を構成している岩は一枚岩ではないので、落石注意の標識もあるし、防護ネットが全面にかけてあり、崖の道路側には防護柵もしっかりと設けられている。
anama-14.jpg
 この岩崖の岬の名前は、「あなま」岬である。「澗」はサンズイを除いたままで読むのだが、おもしろいのはネットの辞書などには「訓読み. 1. たに; 2. たにみず. 音読み. 1. カン; 2. ケン」とあって、マがヌケている。
anama-1.jpg
 この文字の意味は、谷などの狭い隙間に流れる水などを示していると考えられるが、これに「穴」や「横」などがくっついて岬の名前になるところは、いささか不分明なままである。Wikipedia もいい加減で、誰も使わない数詞のことしか書いていないので役に立たない。
anama-13.jpg
 この字がついた岬は、北海道には結構あちこちにあって、この奥尻島の対岸の北海道本島せたな町の南部では、それがとくに集中していた。
anama-8.jpg
 困ったことに、この大岩壁の岬の周辺には、小さな流れもまったくないのだ。案外、「澗」の字のサンズイは、岩場の水を示しているのかもしれない。それならば、「穴」もそこいらにありそうなのだが…。
 ChinchikoPapa さんのコメントによれば、「北海道に多い「あなま(岬)」ですが、maは「半島・岬」そのものを表す意味ですので、それにaneの「細い・狭い・切り立つ」をかぶせると、ane-maで「切り立った半島(岬)」という意味」になるのだという。 それによると、穴も澗も、aneとmaにそれぞれ適当(と思われた)漢字を当てただけということになるので、穴や水を探すのは無意味ということになるなあ。
anama-6.jpg
 道路と海の間に、もう黒い塗装は剥げ落ちているが、阪神色の棒が立っていて、黄色の小さな板に赤い矢印、その下になにやら意味不明の判じ物のような記号が記されている。(そういえば、これは幌内トンネルを出たところにもあった。)
 あれっ、矢印と判じ物の向きが変わった!
anama-7.jpg
 これはいったいなんじゃろか? 道路か防護の工事にからむものでもあるような感じがするが、工事関係者のおじさん(おばさんでもおねえさんでもいいけど)に教えてもらいたい。
anama-3.jpg
 しかしまあ、世の中、ほんとにふしぎなことわからんことだらけで、楽しいよね。
anama-10.jpg
 北海道では、海中や海岸で独立した岩が立っているいわゆる“立岩”は、無数にある。東京湾岸にもっていけば、それだけでも立派な観光ポイントになりそうな立岩も、北海道ではさしてめずらしくはなく、名前がついているのはそのごく一部にすぎない。
anama-11.jpg
 穴澗岬の北側に立っている立岩も無名だが、節理の岩が割れて、まるで石垣を積んだようにみえるところもある。うん、なかなか立派な立石だ。
tateiwa-1.jpg

▼国土地理院 「地理院地図」
42度10分56.49秒 139度24分36.47秒
anamaM-1.jpg
dendenmushi.gif北海道地方(2016/09/03 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ
タグ:北海道

1425 北国岬=奥尻郡奥尻町字湯浜(北海道)島の10時の方角にあるこの断崖が三角になった岬へは神威脇から歩いて… [岬めぐり]

hokkokum-11.jpg
 …というわけで、まずは北国岬から。フェリーで奥尻港に着くと、奥尻町営バスの南回り路線(青苗方面)に乗って、終点の神威脇までやってきた。そこには温泉があるのだが、それは後回しにして、荷物だけ置くと神威脇から北国岬まで歩いてきた。その距離は、片道3.3キロ。
hokkokum-2.jpg
 距離はたいしたことはないが、このときは熱中症になりそうなカンカン照りで、道道39号線にはまったく日影というものがない。あるのは、電柱の影くらい。そこに身を寄せて小休止して水分補給をしながら、照り返しの強い道を歩いて往復した。
hokkokum-1.jpghokkokum-3.jpg
 尾根が海に向かって伸び、その付け根部分にトンネルがあり、飛び出た岬の周囲は断崖絶壁で囲まれている…。
 そういう形は、岬の姿のひとつの典型であると言えるが、ここにはそんな形をした似たような岩こぶの岬がふたつ並んでいる。といっても、それは地図で見たときの形であって、実際には岩の塊の姿も印象も、まるで異なる。
hokkokum-4.jpghokkokum-15.jpg
 地理院地図で北国岬と岬名表記があるのは、そのうちの北側にあってちょっと大き目のこぶのほうである。
 手前のほうの出っ張りには名前がないが、そこを抜けているトンネルには“湯の浜トンネル”という名がついている。そして、もうひとつの北のほうに続くトンネルは“幌内トンネル”という。
hokkokum-10.jpg
 幌内トンネルを抜けたところには、地図では幌内と字地名が記してあるが、現在の住居表示ではそれは使われていない。人がいないからだ。
hokkokum-8.jpg
 そこは二本の細流が注ぐ小さな砂浜がある谷間で、実はここには幌内温泉という温泉があったが、それは地震と津波で消えてしまった。だから、神威脇の北部では、海岸線に人が住んでいる場所はないのだ。
hokkokum-9.jpg
 道道39号線は、この先で谷筋を大きく迂回して高度を上げて、坂道を登っていく。橋が見えるが、これが蚊柱(わしら)大橋で、90メートルほどの高さにある。
hokkokum-7.jpg
 当初考えていた計画では、歩くのは大変そうだからタクシーでこの橋の先のカーブまで行くことを検討していた。そこまで行けば「蚊柱岬」が見えるのではないかと思ったからだ。しかしながら、神威脇にはタクシーもなく、行ったとしても蚊柱岬が見えるという保証もないので、このプランはゴミ箱へ。
hokkokum-13.jpg
 前項で述べた、行けない、そばにも寄れない岬というのは、この蚊柱岬に始まって北に続く磯谷岬、そこから東へナカハマ岬、そして湯ノ岬、勝澗岬の5つである。
hokkokumM-2.jpg
 前述の通り、北国岬から先の道は山の中へ入って行き、奥尻町稲穂の海栗前(のなまえ)で、海岸線に戻る。だから、この間の岬は見ることができない。それじゃ誰も読めんじゃろうという配慮からか、バス停では“野名前”となっているが、ここから町営バスの北回りの路線に接続する。
 つまり、野名前から神威脇の間でバス路線が途切れているわけだ。あえて誰もいない山の中にバスを走らせる意味は、やはりどう考えてもないのだろう。奥尻島の岬めぐりを、10時の北国岬から始めるのも、このためである。
hokkokumM-3.jpghokkokumM-5.jpghokkokumM-4.jpg
 勝澗岬の東の大岩生川から、神威脇を経てホヤ岩まで、およそ19キロに及ぶ海岸線一帯は、住居表示ではすべて“奥尻町字湯浜”として括られている。
 湯浜のうち小字名が地図にあるのは、神威脇と幌内、それにもうひとつ、ナカハマ岬のところについている美ノ歌のみである。幌内は地震以降無人地帯になってしまったが、美ノ歌では凹んだ海岸に建物があると、地理院地図は語っている。だから、その一軒の建物のおかげで、美ノ歌という小字名が守られている。そう考えてよいのだろうか。
 とすると、温泉の跡だけはあるらしいが人も建物も消えた幌内は、これから先どうなるのだろうか。トンネルに名が残るだけ、ということになるのだろうか。
 北国岬についても、釣りに関する情報が2件あるきりで、あとは“北国の春”がリストに出てくるという始末で、岬についての情報はまったくない。
 岩だらけの岬を眺めていても、確かになにも書くことは浮かんでこない。
hokkokum-12.jpghokkokum-6.jpg

▼国土地理院 「地理院地図」
42度11分44.34秒 139度25分19.96秒
hokkokumM-1.jpg
dendenmushi.gif北海道地方(2016/09/03 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ
タグ:北海道

1424 奥尻島の岬=奥尻郡奥尻町(北海道)あの菅江真澄でさえ行かなかった北辺の離島をめぐる前に… [岬めぐり]

okushiri-1.jpg
 江差町の西北61キロ、せたな町の南西42キロ、と奥尻町のサイトではその位置を記しているが、せたな町の大成区大田の帆越岬から、ほぼ西に奥尻島の稲穂岬までは18キロしかない。ここが北海道本島と奥尻島が、いちばん接近しているところである。
okushiri-2.jpg
 本島と近い大成・久遠付近から渡ってきた者もいただろう。難破で漂着した者もいただろう。が、長くこの地はアイヌの地であった。島の名は、その人たちの言葉で「イク・シリ」が由来だという。アイヌ語で「向こうの島」という意味だそうだ。(ChinchikoPapaさんによると、oku-sir(奥尻)のokuは首・頸で、頸島(首のようなかたちをした島)という意味、の説のほうが有力なのだとか。)
 和人の進出にはやはり武田が難破でからんだりするが、1720(享保5)年に新井白石が著した『蝦夷志』で、本島に「奥尻」の文字をあてて、郡村名ともに現在にいたる。(その説によると、白石は「「イクシル(iku-sir)」と、「オクシル(oku-sir)」を混同しているのでは?…」ということになる。)
okushiri-3.jpg
 北の博物学者ほかなんでも屋で紀行家と言ってもいい菅江真澄も、1790(寛政2)年に『蝦夷喧辞弁』に江差から奥尻島を望んだと記しているにとどまる。(参照 「163 館山崎=男鹿市船川港双六(秋田県)菅江真澄の歩いた道」
 菅江真澄でさえ行かなかった島を、これからめぐろうとしているわけだ。
okushiri-4.jpg
 東西11キロ、南北27キロの南北に少し長い、ダイコンを折った下半分のような形の島は、花崗岩の段丘で台形状を成している。凸凹は多く、谷を刻んでいるので、島にしては川筋も多い。
 島内の最高点は、584メートルの神威山で、そこには自衛隊のレーダー・サイトがあるので、常駐する隊員のための官舎もある。西海岸では、かつては硫黄を産出しており、温泉もある。
 北の端の稲穂と、南の端の青苗は、似たような低く細長い鋭角に出っ張った地形となっている。1993(平成5)年の北海道南西沖地震では、島では200人余の犠牲者を出した。
okushiri-6.jpg
 島の中心は、フェリーが着く東海岸の中間で、塩釜川の谷間に民家が集まっている。これについで、南端の青苗地区も市街化している。青苗地区でとくに津波による被害が多かった。そのほか、主に島の海岸線に集落は点在しているが、一時は5,000人にせまるほどだった島の人口は、南西沖地震以降は3,000人を切っている。
 明治末期まではニシン漁が主体だったこともあるが、近年ではイカやホッケの近海漁業にウニやアワビの磯根漁業が主な産業になっている。
 北の離島だが、8000年前の縄文初期から人は住んでいたようで、遺跡や遺物が出土している。
 町の公式記録では、1767(明和4)年に田口九兵衛という人が漁業を営むために移住し、それ以来永住する人が増えたとしているが、100年後の1868(明治元)年の奥尻島の永住人は、11戸、男25人、女21人の計46人であったとも記している。やはり、厳しい北辺離島の環境下では、そうそう定住する人は多くなかったと思われる。
okushiri-5.jpg
 約84キロの島の周囲の海岸線は、ほとんど道道39号線が周回しているが、北の海岸だけは道が山の中を迂回していて、海岸には道がない。
 この海岸線に19の岬が点在しているのだが、そのうちの5つはその道がない部分にあるので、そばまで行って見ることはできない。
 奥尻島の岬めぐりも、なかなかしんどいです。
okushiri-7.jpg
 その海岸線は、海からすぐに山が立ち上がっているので、平地はほとんどないが、そのところどころにある集落をつなぎながら、道道をめぐる奥尻町営バスが走っているので、それに乗って回る。
 この町営バスは、西海岸のフェリーの着く港から、北の稲穂方面に向かう路線と、南の青苗方面に向かう路線がある。青苗方面行きは、青苗からは島の西海岸を北上して神威脇という集落まで行く。戦後すぐには、千島列島国後(くなしり)島の1郡2村の住民280人が入植した、という場所である。
 この神威脇は、島の中心街奥尻地区からちょうど反対の裏側にあり、路線バスで行くといちばん奥まったところになる。島を横断する道路もあるにはあるが、そこにはバス路線はない。また、海岸線を通っていない北の山中の道(神威脇=海栗前(のなまえ))間でも、バス路線は途切れていて、一周はできない。(そのためバス路線がふたつに分かれている)
okushiri-8.jpg
 実際の行動順に岬を並べると、ただでさえ馴染みがなく不案内な島内のどこにそれがあるのか混乱してしまう。なので、いつものようにここは島の地図の北から初めて、西海岸を下って南端の青苗を回って東海岸を北上するというルートで、岬を探っていくことにしよう。岬の順番は、島の10時のところ付近から始めて、逆時計回りで11時のところ付近まで拾って並べます。

▼国土地理院 「地理院地図」
42度10分32.22秒 139度30分30.65秒
okushiriM-1.jpg
okushiriM-2.jpg
dendenmushi.gif北海道地方(2016/09/03〜05 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ
タグ:北海道

1423 “アヴローラおくしり”からの岬=渡島半島(北海道)江差=奥尻航路から眺めるが岬の特定はむずかしい [岬めぐり]

ferry-11.jpg
 ハートランドフェリーは、稚内から利尻島・礼文島への定期航路と、この江差→奥尻島→せたな(瀬棚)の航路を運航している会社である。利尻島・礼文島航路には3隻の船の名が、タイムテーブル・パンフに記されているが、奥尻航路は“アヴローラおくしり”の1隻のみ。“アヴローラ”はロシア語のオーロラなのだそうだ。いずれも、同じデザインの色違いで塗装がされており、車の出入りは後方のみ。 
ferry-4.jpgferry-3.jpg
 当初の計画では、せたなから奥尻へ渡るつもりだったことは、先に述べた。そのせたな=奥尻航路は、5月から10月半ばまでの間だけ季節運航で、日に1往復のみである。やむを得ず計画変更を迫られて、やってきた江差=奥尻航路は同期間中は2往復ある。
ferry-5.jpg
 最初は気がつかなかったのだが、江差とせたなと別々に2本の航路があるのではなくて、江差→奥尻→せたな、せたな→奥尻→江差と引き返すという三角運航(というか、実際は“△”ではなく“へ”だけどね)をしている。
ferry-2.jpg
 だって、船は1隻しかないんだからね。当然そうなるわけなんですが…。すぐには、そこに考えが及ばなかった。
ferry-10.jpgferry-9.jpg
 距離も時間も江差のほうが長いが、こちらのほうが冬場も運航しているのでメインルートなのだ。1日1便と1日2便では、計画の自由さも格段に違う。 
ferry-7.jpg
 それでも、せたなからで奥尻島へ渡ろうとしたのは、せたなから南へ北へバスを利用して岬を確保する目的があったからだ。
ferry-6.jpg
 江差から北の渡島(おしま)半島西岸の海岸線は、2012年の10月の岬めぐりでなぞっていた。
toshima-1.jpg
 江差からの海岸線を北へは、乙部町、八雲町、せたな町と進む。その岬とは、以下のようになる。(上が北)
 
 857 ポンモシリ岬=二海郡八雲町熊石関内町(北海道)熊石の海岸線には北前船や
 856 立待岬=二海郡八雲町熊石折戸町(北海道)乙部町と八雲町の熊石町の間に長
 855 鮪ノ岬=爾志郡乙部町花磯(北海道)世の中いろいろな都合がありましてここ
 854 琴平岬=爾志郡乙部町三ツ谷(北海道)崖と化石と温泉と湧水の乙部町の“追
 853 突符岬=爾志郡乙部町元和(北海道)蝦夷地の歴史を刻んだ一郡一町の乙部町
 852 館ノ岬=爾志郡乙部町館浦(北海道)目に飛び込んでくる見事な地層は“館層”

 そして、ポンモシリ岬を越えるとせたな町に入る。ここでは親子熊岩や温泉もあるのだが、せたなからのバス便は通っていないのが、せたな町にとっては辛いところだ。

 860 ヨリキ岬=久遠郡せたな町大成区貝取澗(北海道)「澗」だらけの間にある岬
 859 ツラツラ岬=久遠郡せたな町大成区長磯(北海道)毎度ながらつらつら思うこ
 858 長磯岬・親子熊岩=久遠郡せたな町大成区長磯(北海道)しみじみと親子の情
toshima-2.jpg
 せたなからのバス路線は、宮野から国道と別れて北へ行く久遠線があるが、これがまた便利が悪い。いちおう、その途中までは行ったが、この小歌岬の先がいくつか残っていた。

 863 小歌岬=久遠郡せたな町大成区都(北海道)乙部から八雲そしてせたな町は大
 862 湯ノ尻岬・稲穂岬=久遠郡せたな町大成区花歌・久遠(北海道)大成も久遠ま
 861 横澗岬・外横澗岬=久遠郡せたな町大成区花歌(北海道)過去または未来…久
toshima-4.jpg
 せたな町では帆越岬や尾花岬を伴う毛無山の山塊が大きく張り出してきて、海岸線を走る道がなくなる。山を迂回し峠を越えてせたな市街地にもどり、また乗り換えたバスでその山塊の北側の岬を歩いてきた。

 870 茂津多岬=久遠郡せたな町瀬棚区北島歌(北海道)とりあえずここは遠望で確
 869 稲荷岬(藻岩岬・弁天岬)=久遠郡せたな町瀬棚区元浦(北島歌)(北海道)
 868 蝋燭岩・三本杉岩=久遠郡せたな町瀬棚区本町・三本杉(北海道)見事な立岩
 867 鷹ノ巣岬=久遠郡せたな町北檜山区太櫓(北海道)あまり一般に馴染みがない
 866 弁天岬=久遠郡せたな町北檜山区太櫓(北海道)岬の赤い弁天社に託す人々の
 865 水垂岬=久遠郡せたな町北檜山区新成(北海道)水もあまり集中して垂れ過ぎ
 864 日中戸岬=久遠郡せたな町北檜山区新成(北海道)かつてあった集落も学校も

 だが、ここでも三本杉から北、茂津多岬までの岬も残っていたのだ。その先はまた大きな狩場山が立ちはだかっているので、海岸線に道はあるものの、バスは走っていない。
  そんなふうに、切れ切れに残っていた岬を今回は拾う計画だったが、それは空振りに終わったわけで…。
toshima-7.jpg
  江差から奥尻の間で、せめて船の上から見える岬でも…と考えてはみたが、やはり船から正面にみても岬はわかりにくい。岬は斜めからでないとうまく見えないものだ。船からの斜めは、かなり遠くなるので、これまた不分明ではあるが、どうやら尾花岬と茂津多岬らしいあたりはなんとかわかるという程度だ。
toshima-5.jpg
  以下の写真は、船からではなく、奥尻島の北から見たところで、奥尻港を出て、せたなへ向かって走る“アヴローラおくしり”が、だんだん遠ざかっていく。
toshima-8.jpg
toshima-9.jpg
toshima-10.jpg

▼国土地理院 「地理院地図」
42度8分11.12秒 139度55分31.11秒toshimaM-1.jpg
dendenmushi.gif北海道地方(2016/09/03〜5 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ

タグ:北海道

1422 江差津花岬=江差町字姥神町(北海道)急きょ計画を変更せざるを得なくなって思いがけなく再びの江差 [岬めぐり]

esashitubana-2.jpg
 はからずもやってくることになった江差は、三度目。といっても、そのうちの一度はバスで通過しただけだから、泊まるのは二度目。前に泊まったのと同じ「ホテル寺子屋」にお世話になった。今回は、行きで泊まって、帰りでも時間待ちをした。
esashitubana-3.jpg
 前の江差では、かもめ島の「155 クズレ鼻」の項目のほか、「154 大潤ノ崎」、「156 相泊岬」の3項目を書いていたので合わせて参照願いたい。
esashitubana-1.jpg
 「ホテル寺子屋」は、奥尻島へ行くフェリー乗り場にいちばん近いところというので選んだこともあるが、なにしろ、このホテルもそうだがその前にある通り(姥神津花通り)が気に入っている。横山家のような古い建物もあるが、昔の家並みを再現したというわけではない。平成に入ってから整備を始めた“いにしえ街道”という名もある通りは、ニシンで栄えた200年前の建物を残す横山家や中村家など古い建物を保存したり、新しく建てる場合もそれぞれレトロ感を前面に押し出したつくり(なんとなく明治の雰囲気)で統一されている。
esashitubana-6.jpg
 しかも、この通りには電柱が一本もない。管理用のボックスは歩道にあるが、電柱は地下に埋設されているので、道がきれいなのだ。
esashitubana-5.jpg
 帰りには、ここでずいぶんバスを待ったので、前に行けなかった追分会館とニシンそばの店をマークしてみたが、ニシンそばのほうは開店前でやはりタイミングが合わなかった。
 誤解を恐れずに言えば、江差は過去の遺産で成り立っているような街だ。そのひとつがニシンであり、江差追分だというのは、ちょっと独断と偏見に過ぎよう。ホテルのある位置は、姥神大神宮の近くで、その鳥居の前から海岸に向けて下ったところには、大きな山車(やま)が収められた倉庫がある。
esashitubana-8.jpg
 帰りには時間があったので、追分会館に行ってみると、この姥神さんの祭りと山車の展示室があった。
esashitubana-9.jpg
 ここでビデオを見ていると、いかにもニシン漁で繁栄を極めたかつての名残りが、この祭りに集約されて残っているような気がするのだ。この祭りのときには、故郷を離れていた人も続々と戻ってくるので、町の人口が5倍にも膨れ上がるという。
esashitubana-10.jpg
 13もある山車も、そうでなくては引く人も手も足りまい。山車に鎮座するキャラクターもばらばらで、それがまたおもしろい。なかには武田菱を掲げた山もあるのは、北海道へ和人が渡る初期の段階で、武田氏がこの付近(上ノ国)にやってきたという歴史的事実を反映したものだろう。
esashitubana-11.jpg
 「江差の五月は江戸にもない」と謳われた往時の繁栄を、今に伝える祭りは大きな遺産であり、それをまた後世に伝え残していこうという地元の情熱が感じられてうれしくなる。
esashitubana-12.jpg
 会館の2階には、江差追分など追分資料館もある。“正調江差追分”というのを聞いてみたが、とても簡単にはマネできそうもない。正調はとても嫋嫋(じょうじょう)として、その微妙な節回しと発声がなんともいえない。
 「追分」そのものは、なにも江差に限った歌ではない。主に北前船の乗員などによって各地へ伝播したとされ、日本海側のあちこちに、それぞれある。
 そのなかで、江差追分だけは毎年全国大会(熟年の部と少年の部まである)が開かれるほどの全国区なのは、どうしてなのだろう。館内には追分会という看板を掲げた部屋もあって、江差追分を守る町民の活動拠点になっているようだった。
esashitubana-13.jpg
 この項はあえて、「1422 津花岬」としてみた。それは、どこかで「津花岬」の表示を見かけたからである。
 「津花町」という町名は地図にもあるが、その岬名は載っていない。
tsuhanam-15.jpg
 鴎島と市街地を結んでいる埋め立て地の、ちょうど開陽丸のある南半分と、国道228号線が90度に折れ曲がる町の南側が津花町なので、ここにかつては津花岬があり、それは埋め立てで消えてしまったのではないか、とも考えられる。
 埋め立て地の北側半分は姥神町で、ここと追分会館の中間にフェリーの乗り場はある。
 「五勝手屋羊羹」は前にも買ったが、あのときにはJR江差線がまだ走っていたのだ。
esashitubana-4.jpg

▼国土地理院 「地理院地図」
41度52分0.06秒 140度7分27.35秒
esashitubanaM-1.jpg
dendenmushi.gif北海道地方(2016/09/02・05 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ
タグ:北海道

1421 道南の岬をめざしたものの=奥尻島・渡島半島・松前半島(北海道)震災の島とふたつの半島の落穂ひろいと… [岬めぐり]

donannomisaki-1.jpg
 JR東日本とJR北海道が提携して期間限定のフリーきっぷが、今年は北海道新幹線開業記念として、6月と9月に二度売り出された。6月はもたもたしているうちにいっぱいで買えず、9月の分で道南に行くことにした。
 北海道と東日本の路線が、5日間乗り降り自由で26,000円というのは、単独で切符を買って行くよりは安いとは言えそうだが、より安さを実感するには、乗りっぱなしでなければならない。だが、列車に乗っているだけでは、でんでんむしの目的は達せられないし、JR北海道の路線ダイヤは、決してうまくはつながらず便利とは言えない。
 新幹線で函館北斗まで行っても、そこからまた函館本線に乗り換えなければならない。長万部から函館本線はニセコ・余市・小樽経由で札幌に行くルートと、室蘭本線と千歳線で苫小牧経由で札幌に行くルートのふたつしかない。だが、函館本線は本数も少なく、千歳を経由する特急北斗(違いはわからないが、“スーパー”とつくのもある)が走るルートのほうがメインになる。
 北海道の乗り放題は、函館本線と室蘭本線・千歳線の関門を抜けてさらにどこまでできるかわからない。が、5日ではかなり限られる。といっても、前にはこの切符で旭川を経由して遠軽・網走までは行っている。
 今回は、道南の岬めぐりで残っているところと奥尻島がメインで計画を組んだ。函館北斗からスパー北斗(とにかく乗れる列車はこれしかない)長万部まで行き、そこからバスで渡島半島を横断して西海岸の瀬棚へ出る。そこから南北の沿岸に残っている岬を訪問して、瀬棚からフェリーで奥尻島へ渡る。
donannomisaki-2.jpg
 奥尻島の岬をめぐって、またフェリーで瀬棚に戻り、きたコースで木古内まで行く。木古内からは福島と知内の残っている岬を回って木古内から新幹線で帰る、という計画だった。
 この計画では、乗り放題と言っても、北海道内は木古内から長万部を往復するだけなので、あまり北海道フリーきっぷのお得感はない。それでも、とにかく道南で切れ切れに残ってしまった岬を片付けることを第一の目的として、東京駅までやってきたところで、思わぬ事態に遭遇する。新幹線乗り場の電光掲示板が、スーパー北斗の運休を告げていたのだ。
 ええっ! そういえば台風が通りすぎた北海道各地で被害が出ていたのは知っていたが、まさかスーパー北斗が止まっているとは…。
 念のため駅の人に聞いてみても、特急だけでなく各停も含めて全線運休で復旧見通しも立っていないという。
donannomisaki-3.jpg
 さて、どうするか。とりあえず函館北斗まで行く列車のなかで考えよう。混んでいる「はやぶさ」は、通路側の席しか取れなかったが、これだとまるで車窓の景色も見えない。新幹線もコンセントはついたが、WiFiまではないので、手持ちの地図と時刻表で考える。
 A案 函館北斗から代替バスが出ているだろうからそれで長万部・瀬棚を目指す。
 B案 次の台風も接近しているので、奥尻島計画を破棄して青森に引き返し、夏泊や下北の漏れているところを埋める。
 C案 木古内に引き返して江差に向かい、翌日の朝の便で奥尻島に渡り、また江差・木古内に戻る。
 検討の結果、いちばん計画を大幅にいじらなくてすむC案を採用することに決定した。近づく次の台風は、もう天に任せるよりしかたがない。
 この案だと、最初の泊まりの瀬棚をキャンセルして、江差でどこか泊まるところを探せばよい。船の時刻と島内の移動計画は修正しなければならないが、それもバスの時刻表でなんとか対応できると確認した。
 それにしても、これだとほとんど北海道フリーきっぷの効用は発揮されないことになる。
donannomisaki-4.jpg
 だいたいこのフリーきっぷは、乗客の少ない閑散期を狙ってしか発売されない。夏の場合は、夏休みが終わった直後に設定されるが、これは二百十日の台風シーズンのただなかである。平穏にすむほうが少ないと思ったほうがいいくらいだ。同様にこの切符で北海道までやってきた人たちも大勢いたはずだが、みんなどうしたんだろうね。まあ、被災した人のことを思えば、これしきのことで騒ぐわけにはいかない。
donannomisaki-5.jpg
 今回の計画のでメインは奥尻島だが、渡島半島西岸で残ったところをめぐりたかった。瀬棚からバスで大成富磯方面と、北上して三本杉から茂津多岬までの間の岬を回る計画を立てていたが、これが全部おじゃんになってしまった。そのほかにも、半島北部の島牧の岬も残っているが、これが非常な難物で、何度も試みたがなかなかうまく計画に入らない。今回もまた見送りになっていた。
 もうひとつ、木古内から松前半島東岸にも、小谷石と福島周辺に残っている岬がある。これまで、なんどか計画からこぼれ落ちてしまったところなので、これもなんとか片付けたい。
 心配なのは、奥尻島から帰りのフェリーまで、なんとか台風が待ってくれるかどうかだが、江差のホテルで天気予報を確認すると、スピードがずいぶん遅いらしい。これならなんとか台風の影響が出る前に、計画を終えることができるだろう。
donannomisaki-6.jpg

▼国土地理院 「地理院地図」
42度8分31.28秒 139度28分39.42秒
donanM-1.jpg
dendenmushi.gif北海道地方(2016/09/02〜06 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ
タグ:北海道

1420 獅子ヶ崎=小浜市田烏(福井県)長さ600メートル幅100〜メートルの崖でできた岬は小浜市の最東端 [岬めぐり]

shishi2-9.jpg
 常神半島の付け根は、いささか微妙ではあるものの、東は日向、西は塩坂越(しゃくし)とみて、まず不都合はあるまい。西海岸を走ってきた県道216号線も、ここから塩坂越トンネルを越えて三方五湖のほうへ出るからだ。このトンネルから南へは大きな道路はなく、ちょっと隔絶した感じで世久見、食見という集落があり、そこから北へ伸びる大きな出っ張りが固まっている。隔絶したといっても、世久見には世久見トンネルがあり、それで三方湖岸の国道162号線で常神からきた線と合流している。
 塩坂越トンネルに入って三方五湖へ出る前に、チェックしておかなければならない岬が、このシリーズの最後にもうひとつ残っている。
shishi2-8.jpg
 それは、小浜市の獅子ヶ崎。
 常神半島の南西にもこもこと突き出た半島の北端に、低く細長く飛び出た岬である。高さは50メートルくらいで、100〜150メートルくらいの幅しかないが、長さは600メートル近くある。
 この半島も周囲は断崖、とくに先端部分は全面急な崖で、この硬い崖のために侵食や崩落を免れた部分だけが、海中に突き出るようにして残ってこの岬になったと考えられる。この付近を通るときには、行きも帰りも雨だった。薄暗いなかにほとんど影のようにしか見えない。
shishi2-10.jpg
 この半島もほとんど集落らしい集落はなさそうで、見えているその半分弱までが若狭町。岬のある先端部分は小浜市の領域となる。
 小浜市に入る前に、若狭町について気になったこと。若狭町は「三方上中郡若狭町」だが、東隣りは「三方郡美浜町」であった。そして、おかしなことにどちらの郡もほかの町や村はなく、一郡一町なのだ。
 どうして、こういうことになったのか。やはり、昔は「三方郡」のなかに美浜町と三方町があったのだが、三方町が遠敷郡上中町と合併して「若狭町」となったときに「三方上中郡」を名乗ったという。しかし、なんで「三方郡若狭町」にならなかったのか。いったい、どういう不都合があったのだろうか。町のサイトをみても、さっぱりわからない。もしかして、「上中」という文字を残す必要があったからか。だが、それだけなら、どこでもあるように「若狭上中町」とかするのが普通だろうに。shishigasaki-11.jpg
 獅子ヶ崎が東に抱え込む湾には、地理院地図では記名がないのだが、Mapion に倣って世久見湾と呼んでおこう。この世久見湾の真ん中に、でんとあるのが鳥辺ならぬ烏辺(うべ)島。この島もその向こうも若狭町。これも、晴れた日だときれいに見える、海の美しさを楽しむことができるだろう。だが、こういう小雨霧雨のような風情もまた、墨絵を見ているようで味わいがある。
 おもしろいのは、こうした無人島でも、釣り情報だけはぞろぞろでてくるのだが、烏辺島に限ってはそれが見当たらず、スイミングとダイビングのスポットとしての情報があるきりだった。
shishigasaki-9.jpg
 烏辺島と獅子ヶ崎はほぼ東西に横並びなのだが、こちらは常神半島のほうから見ているので、バックは岬ではなく半島になる。
shishigasaki-5.jpg
 実はこの岬は、神子トンネルを越えて南に下った付近から見えていたのだが、そのときには岬の先端には隣にある黒崎もアタマを出していた。
shishi2-2.jpg
 このため、岬の先に岩島のように隆起した部分があるように見えていた。が、黒崎がかぶらない獅子ヶ崎の姿は、もっと南からみたこの姿になる。
shishi2-6.jpg
 小浜市の領域では、いちばん東の端になるのがこの獅子ヶ崎だが、そこから1キロ南西側にある黒崎は、小浜の岬めぐりで「579 黒崎=小浜市田烏」の項として書いていた。そこでも千島のことにふれていたが、沖の石は…。
 このときは、犬熊の海岸から矢代湾越しに見ていたのだが、バックには常神半島が見えていて、「あそこまで行くのは大変そうだなあ」という感想をもったことを記憶している。
shishi2-11.jpg
 また、常神半島から西へは、獅子ヶ崎よりもっと遠く薄く、長い半島のように見えていたのは、小浜市の最北端になる蘇洞門の断崖と久須夜ヶ岳であった。そこも、「569 長崎=小浜市宇久」「575 七蛇鼻=小浜市宇久」の項にあるが、ちょっとモヤが晴れた一瞬には、長崎の白っぽい崖がなんとなくわかるような気もした。
(このあたりの項目ではきた!みた!印は4とか8くらいで、常連さんを含めて近頃訪問くださる方々は皆無だったので、いちおうリンクを…。(お天気がいいときの若狭湾の景色もどうぞ)
shishigasaki-10.jpg
 というわけで、これでどうにか越前・敦賀・美浜・若狭・小浜へとつながった。そして、誤算続きのこのシリーズも終える。
mikataeki-1.jpg
 バスは、遊子・塩坂越とふたつのトンネルをくぐり抜け、JR三方駅に戻ってきた。この駅で失くしたというか忘れてきた帽子のことを、木ノ本駅に問い合わせてもらったことから、無事に戻ってくることになった、記念すべき駅になる。また、ここへ来て待合室の掲示ではじめて、予定していた日曜運行のバスがなくなっていることを知った。
kiyama-7.jpg
 三方駅のホームには、若狭町の「ラムサール条約登録湿地 名勝 三方五湖」などの観光看板。
kiyama-8.jpg
 これで、本州の日本海側は、竜飛崎から丹後半島最北端の経ヶ岬までつながったことになり、この次、西へは犬ヶ岬(京都府京丹後市丹後町)からとなるが、さて、それはいつ…。

▼国土地理院 「地理院地図」
35度34分34.39秒 135度48分41.12秒shishigasakiM-1.jpgshishigasakiM-2.jpg
dendenmushi.gif北越地方(2016/07/18 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ

タグ:福井県

1419 神子崎=三方上中郡若狭町神子(福井県)神功皇后の影を残す半島の陸の孤島だった浜辺の集落と岬の名は“みこ” [岬めぐり]

kamikozaki-5.jpg
 なぜ常神で3時間も時間を潰さねばならなくなったかといえば、ひとつには常神岬が見えるところまで登ることができなかったので、時間が余ったというだけではなく、計画で予定していたバスの時刻が変更でなくなっていて、夕方の最終便まで待たなけばならなかったからだ。
kamikozaki-2.jpg
 すでにこのシリーズ冒頭から告白しているように、誤算続きの連続だったなかでは、“ネット上に流れているバス時刻表が変わっていた”、という要因によるものが多い。とくにこの半島を往復するにあたっては、4月からダイヤ改正があったというが、6月に調べた時点では古い時刻表しか流れていなかった。おかげで、わざわざ休日にのみ運転されるという10時のバスに乗り、15時のバスで帰ろうという日程にして計画してきたのが、まるで無意味になってしまった。このため往路で2時間、復路で3時間とロスタイムを生じてしまったわけだ。
 まあ、この日は1日かけて常神半島を往復するつもりだったので、2時間や3時間待っても…。(まけおしみ。でもそれくらい余裕をみた計画だったから、狂いが生じてもなんとか後に影響しなくてよかったよ、ほんとに。)
kamikozaki-3.jpg
 “神”の字があちこちに散らばるこの付近は、神功皇后が三韓征伐遠征の途中で風待ちをしたという言い伝えによるものだろうが、縄文遺跡もあり、常神のひとつ南の入江の奥にある常神社の祭神も神功皇后である。この神社も御神島(おんがみじま)にあったものが当地に移されたとされている。
kamikozaki-6.jpg
 戦前戦中には実在の歴代天皇に数えられていた神功皇后も、現在では神話とする考え方が主流のようだが、彼女が応神天皇の母であるという点は重要である。なぜなら、応神天皇こそは、実在が確かめられる最初の天皇(井上光貞などによる)というからだ。在位41年でその後の天皇家の系譜を確かなものにした応神の母本人が、“巫女”だったのではないかとの説もあり、さらにそれが“卑弥呼”で、いやそうではなくその後の“台与”だ…とか。
 このへんになると新羅人渡来説なども出てきて、想像の幅はどんどん膨らむ。想像は必要だが、確かなことがわからないので、門外漢のシロウトとしてはあまり深入りはできない。
kamikozaki-8.jpg
 常神の南にある集落は、神子(みこ)、小川、遊子、塩坂越(しゃくし)と点々と半島西海岸に並ぶが、その間隔は開いていて、山々に遮られている。若狭町営バスの三方線が走る道路は、その山の尾根に沿って迂回したり、トンネルで抜けたりする。
kamikozaki-1.jpg
 神子の集落へ出るには、北からだと神子崎の高いところの尾根を巻いて下り、南からだと920メートルの神子トンネルを抜ける。トンネルを抜けたところにあるその名も「岬小学校」は、常神半島唯一の学校らしい。
kamikozaki-9.jpg
 神子崎は、神子集落の北西側に張り出した岬である。道路はその上70メートルくらいのところをくねくねと巻いている。
kamikozaki-10.jpg
 神子の海岸も、砂浜にはあまり恵まれてはいないように見受けられるが、それでも民宿の看板が目立ち、海岸道路の下には、色とりどりの三角の小旗を数珠つなぎにしたロープが張られている。どうやらこれは、地元新聞社などが提携した海水浴場を意味しているようだ。
kamikozaki-11.jpg
 1972(昭和47)年に県道216号線の拡幅工事が終わって、ほぼ現在に近いような形で全通するようになるまでは、まったくの陸の孤島であったこの付近の浜辺の集落は、大きな意味と役割を持っていたことは留意しておくべきだろう。その意味も役割も、道路が通ってからは急速に薄れていくことになったのではないだろうか。
kamikozaki-4.jpg
 神子桜と呼ばれるヤマザクラが覆う入江を囲む山の下には、この地で古くから続く刀祢(律令制の官人)の大音(おおと)家で、先祖代々守り伝えられてきた『大音文書』という、県の有形文化財になっている史料があるという。それは、800年におよぶ期間の文書334点、冊子110点からなり、桐でできた背負い櫃(ひつ)に収められているという。
kamikozaki-12.jpg
 神子も海水浴ばかりでなく、釣り客が多いので、民宿もたくさんあるのだろう。その釣り人の間では、ちょっと有名らしい岩島が、神子の南西4.8キロの海上に浮かぶ千島である。
shishi2-3.jpg
 釣り人たちは、この無人島の岩島を“千島群礁”と呼んでいる。
 常神半島の岬は、これより南にはもうない。
kamikozakiM-2.jpg

▼国土地理院 「地理院地図」
35度37分28.37秒 135度49分28.86秒
kamikozakiM-1.jpg
dendenmushi.gif北越地方(2016/07/17 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ
タグ:歴史 福井県

1418 常神岬=美浜町日向・若狭町常神(福井県)“ノドからアタマまで”は結局行けず3時間も常神集落で時間をつぶすことに [岬めぐり]

tunekamimisaki-20.jpg
 結論から言えば、美浜町と若狭町の境界線上に位置する常神岬は、結局、美浜町敦賀半島西岸側からの遠望のみ、ということになってしまった。
tunekamimisaki-21.jpg
 気山のレイクヒルズからバスに揺られ続けて、三方湖、水月湖の湖畔を通り、塩坂越のトンネルを抜けると、なんとかドラゴンのように細身ででこぼこした常神半島の西海岸に出る。そこをまた延々走って、1時間かけて辿りついたバスの終点が常神(つねかみ)である。そこはドラゴンというよりは水飲み鳥の頭のように下に向いてかしいでおり、常神の集落はその鳥のノドのところにあるが、常神岬はそこからまた一山越えた水飲み鳥の頭頂部のところにある。
tunekamimisaki-11.jpg
 地理院地図には、岬へ行く道はなく、標高約240メートルの山の上に灯台があり、そこまで行く道は描かれている。140メートルの峠があるので、灯台まで行かなくても、峠の上から常神岬の先端が見えるのではないか、当初の計画ではそう考えていた。ところが、それがそう簡単にはいかなかったわけですね。バスをめぐる誤算はここでもいくつかあったのだが、それはとりあえずおいて…。
 この日は、予定通り朝から雨で、それは覚悟のうえで敦賀駅前のコンビニでビニールのカッパまで買ってきた。山ひだの谷とその前にわずかに開けたところに集落が密集している。密集ということばが、ここでは実に適切である。細い路地の両側いっぱいに民家が軒を連ねている。地図ではそこに“常神のソテツ”と∴ 記号で示されている。ははあん、また例の古い時代に指定された天然記念物だな、と思ったがまずはそれを探して行ってみよう。
tunekamimisaki-7.jpg
 めったに人には出合わないので、たまにあった人をつかまえて聞いてみる。ソテツもだが、問題はこの集落の奥から灯台に続く鞍部への道の情報を確認することだ。
 民宿の案内図よりも実際はもっともっと細かく込み入っている集落の間を入ると、家からちょうど出てきたちょっと若目のおじさんに出合った。さっそくつかまえて峠への道を聞くと、「いやー、その道はムリだね、今は通れないから、やめたほうがいい」という。なんでも、いつも道の草木を刈ったりしていちおう整備はしているのだが、ここしばらくはそれをやっていないのでどうなっているかわからないのだという。
 そっかあ、それじゃムリだな。ダメを押すように雨も強くなってきた。それではソテツだけでもと路地を探すが、なかなかわからない。
tunekamimisaki-6.jpg
 通りかがったおばあさんに聞くと「そりゃなかなかわからんわ」と案内してくれた。民宿の軒下のようなところを通って、その民宿の庭に、そのソテツはあった。
tunekamimisaki-4.jpg
 細い谷間の傾斜を覆い尽くすようにして建っている民家の、多くが民宿をやっているらしい。その間を上へ上へと辿って行くと、道とも言えないような家の裏に出る。この家がこの谷では最奥だから、道があるとしたらここからだろうなと、なおも未練がましく覗いてみると、踏み跡も流されて消えかかっているがどうやらこれが道らしい。かつて標識だったものらしい木が倒れているのでそれとわかる。
tunekamimisaki-1.jpg
 確かに、このお天気でこの道を登るのはムリだわい。それにムリして登ったとしても、木が茂ったままだと鞍部から岬を見下ろすということもできないだろう。そう納得して、民宿の間を降りる。
tunekamimisaki-2.jpg
 集落からさらに西に道があるので、行けるところまで行ってみる。港の終わった先には公園があって、処理場のような建物があるところで岸壁も道も終わっている。
tunekamimisaki-9.jpg
 常神岬から南に続く断崖が南端に達するのがここで、この向こう西側には御神島という長細い無人島があるが、それは常神にくる途中の峠道からのほうがよくわかる。
tunekamimisaki-18.jpg 
 “神”という字が多く使われているのは、この地が神功皇后伝説の地でもあるからだろうか。
tunekamimisaki-10.jpg
 今では海水浴というよりも釣りやボート遊びなどと、民宿の魚料理が人を集めるのか、夏休み前というのに日曜日のこの日は、しばらくすると雨もやんで、結構大勢の人が海岸近くには寄ってきていた。海岸に魚料理の看板を掲げた店があったので、入っていくと迷惑そうな顔をした店の人に、今日は予約でいっぱいだと断られた。ほかに、カフェの看板もあったかなあと、また路地を探すと、どのくらい前までかはわからないが元カフェだったらしいところはあった。
 その以外には、まったく中に入って座る場所がどこにも、なにひとつない常神であった。集落の東のはずれにお寺があって、その前にわずかにある貧弱な浜で、家族連れが水遊びをしていた。
 地理院地図では、その上の出っ張りにお寺の記号が付してあるが、実際にあるお寺の位置とは違う。出っ張りの上に登ってみると、そこにはかつては建物があったが崖とともに崩落してしまったような痕跡が認められる。
tunekamimisaki-15.jpg
 下の新しいお寺も、外来者を迎え入れるようでもないので、仏の慈悲にすがることもできない。帰りのバスの時間まで、とにかくここ常神でうろうろと時間をつぶさなければならない。3時間。これはつらいですね。バスがきてやれやれ。
tunekamimisaki-16.jpg

▼国土地理院 「地理院地図」
35度38分30.27秒 135度48分54.48秒
tunekamimisakiM-1.jpg
dendenmushi.gif北越地方(2016/07/17 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ
タグ:福井県

1417 黒崎=三方郡美浜町坂尻(福井県)道もなく人家もない岬その向こう常神半島の美浜町側もまた道も人家も岬もない [岬めぐり]

kurosaki-1.jpg
 このシリーズだけでこれが3つ目になる黒崎は、美浜湾南岸のほぼ中央付近で北へ突き出た小山の先が、ちょっと東へ向いてしゃくれたところである。中央にあっても、美浜湾西側には行かない。したがって、この岬は菅浜や佐田のほうからしか見えない。
kurosaki-2.jpg
 標高330メートルの天王山の塊から、北へ下りながら伸びていく岬の東西両側には、道もなく人家もない。天王山は、わずかに南東端の椿峠で県境の山々に接続しているが、ほとんど島のようで、その半分は湾に突き出ているが、残り半分は田畑や集落が広がる陸地に埋まっている。
kurosaki-4.jpg
 美浜町の役場がある中心地は、この天王山の西側に開けた耳川の河川敷が陸地化したような平野にあるが、平野の際から山がいきなりぽこっと盛り上がって囲んでいる。
 こういう地形は、讃岐平野に似ているが、ここらはさほど広くはないので平野とは言わないのだろう。ただ、この若狭湾沿岸一帯に共通しているこういう地形は、やはりリアス式のフィヨルドの名残りのようでもあり、その浅い部分が堆積によって陸地化していったものとみてもよいのだろう。
 そして、陸地化せず海水が入り込んだまま周囲に山だけが残ってできたのが三方五湖、ということになるのではないだろうか。
 美浜町の役場やJR小浜線の美浜駅がある平野の西端から始まる三方五湖は、久々子(くぐし)湖、日向(ひるが)湖、水月湖、菅湖、三方湖と続いている。
kiyamaM-10.jpg
 美浜町と若狭町の境界線は、気山付近からジグザグに複雑な線を描きながら、久々子湖の東北部と日向湖をまるまる美浜町側に取り込んでいる。
 そして、レインボーラインの一部をなぞりながら北へ伸び、常神半島の背を若狭町と半分に分けながら、半島の北西常神岬で海に落ちている。この境界線の北東部分が全部美浜町なのだが、集落があり人がいるのは日向までで、その先は無人地帯である。
 常神半島の西側、若狭町には海岸を道路が走り、集落も点在して先端まで至っているのに、東側の美浜町側には、なぜ人が住み着かなかったのだろうか。
 それはとにかく、この半島の地形のためだろう。半島東側は断崖が続いていて平地がまったくと言っていいほどない。日向の先に3か所くらいは断崖が切れて小さな浜がある場所があるのだが、そこには西海岸にあるように小さくてもいいから川があればいいのだが、それがない。水がないから人は住めない。
 人がいないから、岬もない。
 岬がないから、でんでんむしもこの黒崎から北西の海岸へは行かなくてよい。黒崎も人も住まず道もないので、県道33号線を走るバスからの眺めのみとなった。そういうわけで美浜町の中心部は通り過ぎる。
kurosaki-7.jpg
 次の岬は常神半島先端の常神岬となるのだが、そこへは若狭町営バスの三方線という路線バスに乗らなければならない。その始発バス停がどこにあるかというと、ふたつの町の境界線が走る気山付近の“レイクヒルズ”となっている。
 近年、全国各地で同様のことが起こっている。それまでのバス会社が運行する路線が、どこも不採算部門となって撤退を余儀なくされ、住民の足がなくなり、通学も困難になる。それでは困るというので、自治体が補助金を出して赤字の補填をする条件で路線を存続させたり、コミュニティバスの運行という形で自治体自身がバス路線の運営に関わるようになった。
 いまや、地方のバス路線といえば、コミュニティのほうが多いくらいであろう。
 コミュニティバスにも大きくふたつあって、自治体が積極的に運営にタッチする場合と、地元のバス会社やタクシー会社と提携して委託する場合がある。
 前者の例では「1350 箱崎=三豊市詫間町箱(香川県)まことに見上げた三豊市コミュニティバスが行くこの“箱”はあの「箱」のことなのだった」」の項で紹介した三豊市のように、市営バスとして徹底して本格的にかかわるのもあるが、多くは後者のような形で、この若狭町の三方線も町営バスではあるが、実際の運行はレインボー観光自動車が行なっている。
kiyama-1.jpg
 気山というのは、平日の昼間で1時間に1本走っているJR小浜線でいうと、美浜駅と三方駅の間にある駅名であり、久々子湖の南で舞鶴若狭自動車道でいうと若狭三方ICのある付近で、気山という山もある。その所在は、三方上中郡若狭町となる。
kiyama-2.jpg
 “レイクヒルズ”とは、新興の住宅団地かなにかかと思ってやってきたら、なんとそこは“レイクヒルズ美浜病院”という病院でありました。その下には福井県立美浜高校があって、境界線はその高校の校庭を縦断して、病院はまるまる若狭町域となっている。
kiyama-3.jpg
 そして、若狭町内である久々子湖の南西にあるふたつの丘には、美浜町の飛び地があるのだ。
 ココらへんの境界線の複雑さといい、これはおもしろそうで、なにかあるはずだが…。なにもわからん。
kiyama-5.jpg
 バスはレイクヒルズから三方駅を経由して、三方湖と水月湖のほとりを北上していく。
kiyama-6.jpg

▼国土地理院 「地理院地図」
35度38分1.55秒 135度57分15.70秒
kurosakiM-11.jpg
dendenmushi.gif北越地方(2016/07/18 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ

1416 城ヶ崎=三方郡美浜町菅浜(福井県)この海岸線が「美浜・五木ひろしマラソン」の折り返しコースです [岬めぐり]

jyougasaki-1.jpg
 名前からすると、ここも城があった山なのかもしれないが、そういう情報はない(ようだ)。敦賀半島ではいちばん大きな集落ではないかと思われる菅浜の中心から、西の海に向かって飛び出たふたつのコブ。80メートルに足りないふたつのピークの間に平場があるので、城を置くには適してはいる。
jyougasaki-2.jpg
 その先っちょが城ヶ崎で、その周辺には小さな岩がたくさん散らばっている。だが、県道はその内側を通っている。南側には、菅浜漁港の堤防と岸壁がせり出していて、写真にはうまく撮れていない。
jyougasaki-9.jpg
 南からは、どれも同じような写真ばかりで、北側からは(帰路では)座席を後部に変えたので、窓の汚れは少し減ったが、カメラ位置としてはうまく撮れていなかった。
jyougasaki-3.jpg
 県道33号線は、佐田竹波敦賀線と標識が出ていたが、海岸線をもう少し南に下ると、菅浜から北田・佐田と続く。ここらが敦賀半島の西の付け根にあたる。佐田で国道27号線と合流して、帰路のバスは東に向きを変え、敦賀駅に向かうわけだ。
 この佐田のけやき台は、「美浜・五木ひろしマラソン」の折り返し点で、スタートとゴールは関電の原発があった丹生。その往復20キロというマラソン大会は、2016年で実に28回を数えるほどの実績がある。
jyougasaki-4.jpg
 歌手・五木ひろしは、美浜町出身で名誉町民だという。2010年に小浜の岬めぐりで、当時やっていたNHKの朝ドラ「ちりとてちん」にかこつけて、「571 青井崎=小浜市青井(福井県)もし…たら…れば…それは限りなく大きく重い」の項でちょっとふれた。このドラマでは、本人も出演したうえに、その持ち歌の「ふるさと」が大きなテーマになっていた。
jyougasaki-5.jpg
 で、その「ふるさと」については、まったく関係ない場所である北海道で、2011年に「678 親子岩・ローソク岩=様似郡様似町字鵜苫(北海道)あ〜ぁ 誰にも 故郷がある 故郷があ〜る」の項でも書いていたので、繰り返さない。
 前者の項目(571)では、この頃は「きた!みた!印」もほったらかしでロクに応接もしていなかったが、翌年の後者の項目(678)でみると、現在もなお引き続いて“きてみて”いただいている常連(半常連を含む)の方々が8名もおられた。いつもありがとうございます。
 ということは、でんでんむしが、ながいこと無視していて、遅ればせながら世に言う「nice!」を、いただいた返礼訪問だけに限定してつけはじめてからはもう5年になるのだ。
 こんなことを書くのも、自分自身では古い昔の項目を引っ張りだして見ることなどしないものだから、こういう機会についでにチェックを入れておこうというわけですね。
jyougasaki-7.jpg
 平尾昌晃・山口洋子コンビによる「ふるさと」の歌碑とかも、当然あるんだろうな。この頃の歌碑は、美空ひばりの“塩屋崎”のが最初かどうかは知らないけど、あれと同じように前に立つと曲が流れてくる式のも流行っているようだ。ここのはどこにあるんだろう。マラソンコースの沿道にはなかったようだが…。
 と思って調べてみると、やっぱりちゃんとあるんですね、これが。
 ところがね、これがある場所は美浜町ではなくて、隣の若狭町なんですよ。どうなっているのか知らないが、そこは三方五湖を望むレインボーラインの山頂公園内にある“五木の園”なのだそうだ。その“園”とやらと歌手とがどういう関係なのかもわからないが、岬めぐりではそこまで行く予定はない。例によって“恋人の聖地”やら“誓の鐘”などが目白押しになっているらしいレインボーラインへは、幸いにも岬とは関係がないので、行かずにすんだわけだ。
jyougasaki-6.jpg
 敦賀半島西岸、美浜湾東岸のコースはこれで終わりになるが、ちょうど城ヶ崎からほぼ西に線を引くと、13.6キロ先のそこには常神岬がある。見えているそこまでが全部美浜町である。
jyougasaki-10.jpg
 そして、もっと手前側にも黒々とはっきりした塗りの岬が見えてくる。これが黒崎で次項の岬なのだが…。
jyougasaki-8.jpg

▼国土地理院 「地理院地図」
35度39分24.01秒 135度57分49.96秒
jyougasakiM-1.jpg
dendenmushi.gif北越地方(2016/07/18 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ
タグ:福井県

1415 弁天崎=三方郡美浜町竹波・菅浜(福井県)水洗い跡で汚れたままのバス車窓から美しい海岸を眺めつつ… [岬めぐり]

benntennzaki-9.jpg
 でんでんむしも、岬めぐりの計画をたてるときにはインターネットでバスや電車の時刻表と地図をチェックするが、それ以外の地域情報は、岬の項目を書くときに裏付けなどのために関連情報を確認する。ネット情報は活用はしているが、決して鵜呑みにはしない。
 そうして見る情報のなかには、旅行先や観光地の情報をライターから集めているサイトもあって、そういうのはなにがしかの報酬も書き手に支払われるしくみになっているらしい。水晶浜について書いていたページもそうらしく、きれいだ楽園だとやたら持ち上げているので、かえって気持ちが(気色が)悪い。
benntennzaki-4.jpg
 そこで水晶浜としてあげてある写真の何枚かは、実は弁天崎のもので、細かいことを言えばこれは水晶浜ではなく、しいて言えばダイヤ浜のほうに近いが、それも浜ではなかったりする。
benntennzaki-5.jpg
 だが、多くのこうした観光情報は、細かいことは気にしない方針らしく、弁天崎の写真を水晶浜としているのは多い(なかには弁天崎の南の菅浜の砂浜を水晶浜と称しているものまである)ようだ。目的のためには手段を選ばないというか、ネット情報のいい加減さを示す一材料としては役立ってくれる。
 逆に、“日本の水浴場88選”(いろんなのがあるんだねぇ)に選定されていて、有名になった水晶浜にあやかったほうが得だという判断もあるのか、竹波から菅浜までを全部水晶浜だとひっくるめてしまえ、という傾向もなきにしもあらず…なのか。まあ、好きにやってくだされ。
benntennzaki-3.jpg
 この西海岸に海水浴場が並び、それぞれ人気を集めるようになったのは、原発ができて道が整備された1971年以降だというが、バスでくる客より自家用車でくる人のほうが圧倒的に多いので、そういう人々は馬背峠(「1408 名子崎」の項参照)の下をトンネルで抜けてくるのだ。確かに、これは敦賀からは最短ルートで、トンネルを下って、まっすぐ海に出たところ、ちょうどそこがとにかく有名な海水浴場である水晶浜になるのだ。
benntennzaki-2.jpg
 どうも、この美しい海岸を走る福鉄バスは、運悪くやたら窓が汚い車両で、ガラスには水洗いした水滴の跡が、ガラス一面にてんてんと残っている。こういうところにも、バス会社の姿勢も伺われるのだが、いい加減な車体清掃のまま乾かして、客を乗せて走っている。外側だから拭くこともできない。
benntennzaki-7.jpg
 そこで、車窓写真でいい加減に撮っている当方としても、なるべく選んではいるがそのまま載せるしかない。(ひどいもんだけど、これがいい加減な現実だ。)きれいなのも混じっているが、それはフロントガラス越しで撮ったものだから。
benntennzaki-6.jpg
 弁天崎は水晶浜やダイヤ浜のある竹波地区と南の菅浜地区の境界線上にあって、小さな尾根の先に岩島が大きいのから順にぽこぽこと並んで海に消えていくという地形になっている。もちろん、その名はここに弁天社があるからで、バスの車窓からは南から岬を見たときに、赤い鳥居が見える。
benntennzaki-10.jpg
 ここには地理院地図では、“松淵”と斜体フォントで並記されている。あるいは松が生え渚に陰を落とし、幽邃な景観を醸しだしていた時期があったのかもしれない。道路脇に残った松も目立たなくなるほど減り、弁天崎を北から南から囲んでいる岩なども、昔の景色からみるとひとまわりも小さくなってしまったのではなかろうか。
benntennzaki-12.jpg
 広く開けた美浜湾では、外海からの影響も受けやすい。沿岸流の働きで、徐々にこうした景観も、砂浜もやせ細っていく傾向は、どこにも多くみられる。白いきれいな砂浜をつくっているのは敦賀半島の花崗岩で、これが風化し水に運ばれて海岸に蓄積した。水晶浜とかダイヤ浜とかいう名前も、白亜紀に形成された花崗岩と変成岩の岩脈から、結晶が割り出されてきたからなのだろう。
benntennzaki-8.jpg
 美浜町の名は、耳川が流れる役場付近の旧村にちなんで弥美(みみ)の「美」と砂浜の「浜」を合成したとされているが、そんなややこしいことを言わなくても、“美しい浜がたくさんある町”で、充分通用する。
 同名の町が、もうひとつ愛知県は知多半島にある。(確か、海岸際に灯台があるところで、前に書いたつもりだった…とSo-net検索をしても出てこない。愛知県の項目を見てもない。あれれ? 野間埼灯台も行ったはずなのに、どうして項目がないのだろう…。)
benntennzaki-1.jpg

▼国土地理院 「地理院地図」
35度40分26.37秒 135度57分59.37秒
benntennzakiM-1.jpg
dendenmushi.gif北越地方(2016/07/18 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ
タグ:福井県

1414 針岩=三方郡美浜町丹生(福井県)ここも原発があるので素通りはできないから岬じゃないけど一項目に [岬めぐり]

hariiwa-16.jpg
 白木のトンネルから南は、敦賀市ではなく美浜町になるが、トンネルから下って小湾に出たところが丹生の集落である。ここの丹生は「にゅう」と読むらしいが、「にう」と呼ぶところもある。全国には、丹生という地名は多い。
 全部ではないにしても、そのほとんどはかつて水銀を採掘できたことに由来するものだろうが、ここがそうかどうかは確かな情報がないのでわからない。水銀から原発へというのも、有害物質と人間がどうかかわるかという点では共通点もある。
hariiwa-5.jpg
 小さな湾は、島のようになっている出っ張りが、海面を区切るように囲っていて、その奥まったところに奥ノ浦の集落があり、そのバス停には美浜町のコミュニティバスが停まっていた。だが、それには乗る機会がない。福鉄バスは、そこに寄ってから県道33号線に戻ると、海岸を南下して行く。
hariiwa-7.jpg
 このとき、小湾の湾口にある丹生大橋を渡ったところに、関西電力の美浜原子力発電所がある。なんと、敦賀半島でこれで3つ目の原発である。さすがは名にし負う“原発銀座”であるが、これだけでは終わらないところがまたすごい。
hariiwa-6.jpg
 福井県のうち、美浜町以西は北陸電力ではなく関西電力のサービスエリアになっているからなのか、1962(昭和37)年に原子力発電から譲り受け建設することを公表し、1970(昭和45)年に美浜1号機の営業運転を開始している。この頃は、まだ原発のマイナスイメージは小さく、山向こうの敦賀原発とともに、大阪吹田で開かれた日本万国博覧会会場へ送電していたことが誇らしげに喧伝された。
hariiwa-1.jpg
 橋の袂には、関電が設けた原発のPRセンターがある。各原発では、ほとんどのところでこうした一般向け・対外的なPR施設を設けている。
hariiwa-4.jpg
 往路のバスはこの橋を渡って、ゲートの前まで行ったのだが、復路は橋は渡らずに過ぎて行く。通勤の人や発電所に所用の人が乗ることを想定しているからだろう。
hariiwa-9.jpg
 針岩というのは、この美浜原発を隠すように南西側にある、小山の南海岸にある立岩である。門ヶ崎もその尾根も、白っぽい花崗岩質の岩が露出していたが、半島北部は同じようで、針岩も花崗岩の立岩らしい。
hariiwa-10.jpg
 岬という名ではないのだが、ここも岬名表示と同じ斜体フォントで地理院地図では表記しているので、あえて一項目とすることにした。地理院地図には同じ書体で、その上には「文(あ)ご魚越」という表記もあるのだが、これはよくわからないのでムシ。ただし、原発がある島と門ヶ崎から流れてくる尾根をつなぐジョイント部分なので、ここもやはり陸継島であったのだろう。“アゴ”とはトビウオのことをいうところもあるので、ここもトビウオが飛び越えられるくらい細くつながっていた、ということを伝えているのではなかろうか。
hariiwa-12.jpg
 針岩のほうは、文字通りの針にしてはいささか太めだが、立岩の形状からついた呼び名だろう。が、花崗岩で鋭い鋭角の立岩になることはめずらしい。風化しやすいので、なかなか針のようにはならないのだ。それでも、ここにその名が残ったということは、もっと昔にはもっと尖っていたのかもしれん。
hariiwa-3.jpghariiwa-11.jpg
 針岩は、原発の橋からも見えず、海岸を少し南にいかないと角度的に車窓には映ってこないので、少し遠くからしか見えない。この道中の西に続く丹生の浦には砂浜がいくつもあって、丹生海水浴場、竹波海水浴場、水晶浜海水浴場、ダイヤ浜海水浴場と、それぞれが海水浴場として賑わっている。その砂も、白っぽい花崗岩質の砂だ。
hariiwa-13.jpg
 この付近で西に見えてくるのは、常神半島。美浜町は、門ヶ崎の南から常神岬までの16.7キロを結ぶラインの内側で、美浜湾の湾岸をすっぽりと包み込んだ町である。美浜湾も敦賀湾と同じく、若狭湾の支湾のひとつであるが、奥深い敦賀湾とは対照的に、口を広く大きく開けた湾である。
hariiwa-14.jpg
 南は一本の谷に沿って町域を山の中に進め、滋賀県高島市と県境を接している。
hariiwa-15.jpg
 1954(昭和29)年に三方郡北西郷村・南西郷村・耳村・山東村が合併して発足しているから、もうずいぶん古い町の部類に入る。2016(平成28)年8月1日現在の町の人口は、3,738世帯・9,916人。そんな美浜町の岬をこれからめぐっていくことになるが、残念なことに湾の東側に限られていて、その数も多くはないのである。
hariiwa-16.jpg

▼国土地理院 「地理院地図」
35度42分0.03秒 135度57分39.77秒
hariiwaM-1.jpg
dendenmushi.gif北越地方(2016/07/18 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ
タグ:福井県

1413 門ヶ崎=敦賀市白木一丁目(福井県)三人寄っても何人寄ってもなんの知恵も解決策も出ないままの「もんじゅ」の隣の岬 [岬めぐり]

kadogasaki-5.jpg
 前日の悪天候をもたらした前線が抜けて快晴となった日の早朝、敦賀駅前から朝一番の白木行きのバスに乗る。200円均一の敦賀のコミュニティバスは、福井鉄道のバスが請け負って代替しているようだが、なぜかこの路線だけはコミュニティではなく、福鉄バスの路線なのだ。だから、料金は均一にはならない。
kadogasaki-1.jpg
 バスは敦賀の平地を抜けると、半島の尾根を関峠で越え、敦賀半島の西海岸、美浜湾の岸に出る。この湾岸を北上すると、関西電力の美浜原子力発電所を経て、白木トンネルを出た海岸に白木の集落がある。ここがバスの終点で、門ヶ崎はその小さな漁港の堤防の端にある。
kadogasaki-2.jpg
 その前の竹波付近で海水浴客がどっと降りるときに、料金は800円を越えていたかと思う。それが白木トンネルを出ると200に表示が変わった。桁が足りなくなって1200円と表示できないのかと思って、降りるとき千円札を料金箱に入れようとしたら、運転手さんが200円でいいのだという。ええっ、そうなんですか? なんか得したような気分である。だって、海水浴に来てその前に降りた人たちはみんな800円とか900円払っていたはずだから…。
kadogasaki-3.jpg
 これも、前項で述べていた敦賀市域の境界線の線引きによるのであって、白木は敦賀市、敦賀駅前から敦賀市内までだから、ここは200円なのだ。だが、海水浴場のところはすべて三方郡美浜町。なるほど、この路線だけがコミュニティでない理由が、やっとわかった。
kadogasaki-4.jpg
 門ヶ崎のある白木は、敦賀半島西岸では最後の集落で、この先北東側に海岸は続くがそこにはもう人家もない。あるのは「もんじゅ」だけ。
kadogasaki-9.jpg
 200円から急にお金が大きくなるが、日本原子力研究開発機構が、このなにも働いていない原発の維持のために使っている予算は、1日5500万円なのだそうだ。その組織は文科省の管轄らしいが、どんな組織なのかはよく知らない。もちろん、高速増殖炉についても「発電しながら同時に消費した燃料以上の燃料を生産することができることから原子力発電の燃料であるウラン資源の利用効率を飛躍的に高めることができ」るという、機構の宣伝以上のことは知らない。
kadogasaki-10.jpg
 度重なる事故や隠蔽などから、世界にひとつだけの高速増殖炉はながいこと結果も出ないまま、運転を停止したままである。原子力規制委員会は“日本原子力研究開発機構による運営では安全性が確保できない”として、新たな運営主体の具体的な特定を文科省に求めていることは、新聞で読んで知っている。
kadogasaki-11.jpg
 何も知らない素人が考えても、機構の当事者能力は大いに疑われるが、世界にひとつだけしかない(他の国ではとうに撤退しているから)のに、別に運営主体を求めることなどできっこなかろう。
 これはもう、やめるしかない。だが、やめないで懸命に延命だけをはかっている。誰がどこでどうしているからかは知らないが、これがやめられないことにこそ、現在のわが国の原子力政策の虚構と欺瞞と破綻と矛盾など、すべてが集約されている、と言っても過言ではないのだろう。
kadogasaki-12.jpg
 1960年代に生まれた“使用済み核燃料リサイクル”という構想は、90年代に動き出し、その構想を担うべきここの高速増殖炉も六ヶ所村の再処理工場もずっと失敗続きでうまくいっていない。
 ずっとうまくいく見通しもつかないのに、金だけはどんどんつぎ込んでいる。なぜ早くやめないのか。それは、これをやめることは核燃料リサイクルの破綻を意味し、それが原発をやめることにつながるからだろう。幸い、いくら金をつぎ込んでも自分の懐が痛むわけではない。
kadogasaki-7.jpg
 したがって、性懲りなく自民党政権は原発稼働をどんどん進め、出てくる核のゴミは処理する方法がないので、どんどん「使用済み燃料プール」を各地に拡大して貯めこんでおくしかない。日本が抱えこんでいるプルトニュウムの量は、核兵器転用につながるから、外国の目も厳しくなる。
 「もんじゅ」だけでも1兆円を超え、六ヶ所村にいたってはその数倍といわれるお金(これ税金ですよね)をつぎ込んでなおかつ先が見えない半世紀以上前の構想にしばられているなんて…。
kadogasaki-6.jpg
 いったい誰が責任者なのだろうか。とにかく役人は責任を取ったためしがないし名前さえも表に出ることがなく、役所の機構そのものがある意味無責任体制に守られている。そのうえに民間の電力会社の利権がからんで、身動きならない状況になってしまっている。(一説によると、このサイクル計画の破綻を認めてしまうと、いつか使えるからととっておいて使用済み核燃料を資産計上していた電力会社がたちまち経営悪化してしまうからだ、という。)
 「もんじゅ」にしろ「ふげん」にしろ、まったくこんなところに名前が使われていて、さぞ嘆いていることだろう。この菩薩の名を使って命名したのには、永平寺の高僧がからんでいたという話もあるが、永平寺はそれを否定している。
 三人寄っても知恵も出なかった「もんじゅ」のために(なるのか?)も、東京電力から電気を買うのをやめて切り替えようかと、真剣に検討中。(切り替えました。東京電力さようならです)

※ついに廃炉へ!(最新情報です)2016/09/13

もんじゅ廃炉で政府が最終調整 核燃料サイクル政策見直し必至
 福井新聞ONLINE 9月13日(火)7時55分配信

 政府は12日、原子力規制委員会が運営主体の変更を求めている日本原子力研究開発機構の高速増殖炉もんじゅ(福井県敦賀市)を廃炉にする方向で最終調整に入った。政府関係者が明らかにした。再稼働には数千億円の追加費用が必要となり、国民の理解が得られないとの判断に傾いた。核燃料サイクル政策の枠組みの見直しは必至で、関係省庁で対応を急ぐ。

 所管の文部科学省は、規制委から運営主体の変更勧告を受け、原子力機構からもんじゅ関連部門を分離し、新法人を設置して存続させる案を今月に入り、内閣官房に伝えた。しかし、電力会社やプラントメーカーは協力に難色を示しており、新たな受け皿の設立は困難な情勢。政府内では、通常の原発の再稼働を優先すべきだとの考えから経済産業省を中心に廃炉論が強まっていた。 

 政府は、もんじゅ廃炉後も高速炉の研究開発は継続する方向。実験炉の常陽(茨城県)の活用やフランスとの共同研究などの案が浮上している。

 原子力機構は2012年、もんじゅを廃炉にする場合、原子炉の解体など30年間で約3千億円の費用がかかるとの試算をまとめている。もんじゅは核燃料の冷却にナトリウムを利用する特殊な原子炉のため、一般の原発の廃炉費用より割高となる。 

 一方、再稼働するには、長期の運転停止中に変質した燃料を新しいものに交換する必要がある。 

 もんじゅ本体の施設の維持管理に年間約200億円かかり、茨城県東海村にある燃料製造工場を新規制基準に対応させる工事費も大幅に必要となる。もんじゅ本体の新基準対応費も含めると、再稼働させるためには数千億円の追加負担が見込まれる。 

 規制委は昨年11月、原子力機構に代わる組織を特定するか、できなければ施設の在り方を抜本的に見直すよう求め、半年をめどに回答するよう馳浩文科相(当時)に勧告していた。 

 敦賀市の渕上隆信市長は今月8日、松野博一文部科学相と面談し、「一定の成果が上げられないまま撤退という判断になれば、30年の協力は何だったということになりかねない。地元の期待を裏切らないでほしい」と存続を強く求めた。
 
 Yahoo! ニュース 2016/09/13 AM10:40 より

kadogasaki-13.jpg

<参考> 毎日新聞 2015年12月10日 東京朝刊から

 原子力規制委員会から運営主体の交代を求められ、存廃の岐路に立つ高速増殖原型炉「もんじゅ」(福井県敦賀市)。発電しながら使った以上の燃料を生み出す「夢の原子炉」と呼ばれる。どういう仕組みなのか。実現の可能性はあるのか。改めて探った。【酒造唯】

 自然界にあるウランのうち通常の原発(軽水炉)の燃料になるウラン235は0・7%に過ぎない。99・3%を占めるウラン238は核分裂しにくいため、そのままではゴミになる。もんじゅはこれを利用しようと考え出された。

 もんじゅの燃料のプルトニウム239は、核分裂するとスピードの速い中性子が3個飛び出す。これがウラン238に当たるとプルトニウム239に変わる。中性子1個を次のプルトニウム239の核分裂、残り2個をウラン238の変換に使うと、消費したより多いプルトニウム239ができる。「高速」中性子を使って燃料を「増殖」するのが、高速増殖炉の意味だ。

 もんじゅの炉心は、ウラン・プルトニウム混合酸化物(MOX)燃料を、ウラン238だけでできた燃料(ブランケット燃料)が覆う構成。ブランケット燃料に生まれるプルトニウムの97%以上はプルトニウム239だ。核燃料に再利用するには十分高い濃度で、核兵器にも転用できる。

 軽水炉では燃料を冷やすのに水を使うが中性子は水の中では速度が遅くなる。遅い中性子は核分裂を効率よく起こす半面、ウランをプルトニウムに変えられないため増殖に使えない。もんじゅは原子炉の冷却にナトリウムを使う。

 ナトリウムは効率よく熱を奪う利点があるが、強い放射能を帯び、水や空気と触れると火災や爆発を起こす。原子炉を冷やしたナトリウム(1次系)で直接水を温めるのは非常に危険だ。もんじゅはいったんナトリウム同士で熱交換し、放射能を持たないナトリウム(2次系)で蒸気をつくって発電する。このため軽水炉に比べて設備が非常に複雑になる。もんじゅの出力は28万キロワットと原発では小型だが、設備の大きさは100万キロワット級の原発に匹敵する。

 他にも、暴走しやすく原子炉の制御が難しい▽ナトリウムは不透明で原子炉内の点検が困難−−など多くの欠点がある。高速増殖炉は軽水炉よりも早く1951年に米国で世界初の原子力発電に成功したが、実用化した国はまだない。仮にもんじゅが成功したとしても、経済性を検証する実証炉、商業的に使う実用炉、高速増殖炉専用の再処理工場などさまざまな施設を造らなくてはならず、増殖の実現はまさに「夢」の世界だ。

 もんじゅの構造に詳しい元京都大原子炉実験所講師の小林圭二さんは「高速増殖炉は増殖を主眼にするためさまざまな無理がある。電源としては失格だ」と話す。

▼国土地理院 「地理院地図」
35度44分4.62秒 135度58分29.67秒
kadogasakiM-1.jpg
dendenmushi.gif北越地方(2016/07/18 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ

タグ:福井県

1412 立石岬2=敦賀市立石(福井県)きれいになった敦賀駅前から常宮線のバスに乗ってやってきたが先端へはまたしても… [岬めぐり]

tateishimisaki-13.jpg
 敦賀半島の突端は立石岬で、実はここは昔にもバスでやってきたことがある。それは2001/10のことで、古い写真データを引っ張りだして、「039 立石岬」として項目にもあげていたが、このときはバスで行ってそのまま折り返して帰ってきていた。ということは、西浦のほかの岬も通っているわけだが、この頃はまだ岬めぐりの方針が定まっていない時期で、目立つ主な岬だけでいいや、くらいに考えていたから、ほかの岬はムシされていた。
 ひさしぶりにその昔の39番目の項目を開いてみると、「一泊4000円のすんごいホテル(という名前はついていた)に泊まって…」と書いている。
turugaekimae-2.jpg
 そうだ。そんなことがあった。そのとき初めて来た敦賀の駅とその周辺は小さくごみごみしていたような記憶があるが、今回来てみると敦賀駅は新しくきれいになっており、駅前も広々と整理されている。2015年の太川・蛭子コンビにマルシアがマドンナで加わった「路線バス乗り継ぎの旅」で、一行がここを訪れたときにはまだ古いままの駅だったから、新しくなって間もないのだ。
turugaekimae-3.jpg
 駅前商店街のかかりにあったその“すんごいホテル”も、その隣の似たようなホテルとともに健在のようである。だが、今回は新しく駅前にできているビジネスホテルのひとつに3泊する計画になった。
turugaekimae-1.jpg
 初めて来たときには、バスで立石を往復したあと、敦賀半島の西海岸にある「もんじゅ」のところまでも行きたいと、駅にくっついていた観光案内所に寄ったのだが、バスの便がうまくなく断念していた。
turugaekimae-4.jpgturugaekimae-5.jpg
 敦賀駅前のバスのりばは、駅の設計にあわせてきれいにかっこよくおさまっているが、外来者にはどこ行きのバスがどの乗り場から出るのか、ちょっとわかりにくい。ここでバスを待っていると、次々に自家用車がやってきてはバス乗り場に停車していて、おやっ敦賀ではバスのりばはバス専用ではないらしい。まあ、バスもたまにしかこないし…。
tateishimisaki-9.jpg
 今回は、立石岬も「もんじゅ」のほうも、ちゃんと時間をとって、バスの終点からさらに岬の先端まで歩いてみるつもりでやってきた。そのため、何度も計画をあれこれ考えていたのだが、なにしろ朝と昼と夕方にしかバスがないので、朝のに乗れば昼まで、昼のに乗れば夕方まで何時間も待たなければならない。かといって、折り返し便では時間がなさすぎるので、岬の先端まで行ってくるのはとうてい無理だ。
tateishimisaki-7.jpg
 それがネックで、計画には苦労していた。何時間でもバスの時間を待つのはいいとしても、それは待つ場所による。なにもないことにかけては襟裳の比ではないここ立石で、4時間も5時間も待つのはちょっと…困る。
tateishimisaki-8.jpg
tateishimisaki-18.jpg
 ところが、夏季の臨時便が出ていることがわかって、これなら待ち時間も気になるほどではなく、先端にも行って灯台にも登ってくることができる。そう考えて、急きょ計画を組み替えたというわけ。
tateishimisaki-17.jpg
 常宮線の終点は、立石の漁港の脇にあるが、ここで一人バスを降りて、北へ向かう。敦賀のバス停標識はメーテルです(駅前の通りにもたくさんの銅像などが並んでいるが、この作者と敦賀は何の関係もない)。
tateishimisaki-10.jpg
 すぐに道は岸壁で終わり、そこからは民家の前を通り抜けて細道を進む。岸壁のそばの家は、15年前に来たときとほぼ同じ姿で立っていたが、その前に立石岬灯台の標識などが新しく加わっていた。おっ、クマも出るのか。
tateishimisaki-11.jpg
 岬ではよくありがちなことだが、防波堤が切れるところを回りこむと、とたんに風が強くなる。いちばん強烈だったのは竜飛崎で、これはもう堤防から頭を出せないほどだったが、これは西風の影響が少し弱まるところに防波堤ができ、その内側に集落ができる(順序は逆だけどね)からではないか。
 ここではこのときは、防波堤と民家の間の通路には、心地よい風が吹き抜けていて、帰路ではここでしばらく涼んでいた。
tateishimisaki-12.jpg
 敦賀湾の湾口を眺めながら、北へ進む。対岸はもう東浦の範囲を越えていて、バスも通わぬ途絶地帯の険しい山並みである。右手奥にはふたつの岬が見える。手前の濃いほうが干飯崎、向こうの薄いほうが越前岬であろう。
tateishimisaki-15.jpg
 どれがどれだかはっきりさせるのはむずかしいが、南越前町と越前町の境界線が通る473メートルの矢良巣岳や、737メートルのホノケ山(これがいちばん高く見えるところか)などが雲に届く。
tateishimisaki-14.jpg
 いい調子で歩いていたのはわずかの時間で、いきなり目の前に通せんぼの大きな看板が現れて、行く手を塞ぐ。あんれまっ!
tateishimisaki-16.jpg
 崖崩れだという。“通行禁止”の文字がでかく威圧する。おまけに元気者が横をすり抜けないように、厳重な柵が横に飛び出るようにしてある。注意するだけでなく実際に誰も通らせないぞという、強い意志を示すこの看板、敦賀市ではなく敦賀海上本部というのがなにかありそうだ。
 やれやれ、せっかく再挑戦しようとやってきたのに、またしても…立石岬の先端へは行きそこねてしまったか。縁がないとはこういうことなのだろう。
 しかたがないので、ここは東浦から見たときの写真で代用することにして、看板の脇から登りになる灯台まで行ってみることにしよう。
okazaki-13.jpg

追記:
前出の「手」という集落について、物知りのChinchikoPapaさんからまたコメントをもらっていたので、ここで追記しておくことにする。

原日本語だと、「テ」ときに「タ」は「地域・エリア」の意味になりますね。「山手」は山のある地域(エリア)、「岩手」岩のある地域(エリア)という具合ですが、ただの「テ(タ)」の場合はその前に付いていた名詞がとれてしまったケースが多いようです。

なるほどね。そういうことですか。そうなると、その取れてしまった前の名詞がナニカ気になったりしますね。

▼国土地理院 「地理院地図」
35度45分48.82秒 136度1分4.32秒
tateishimisakiM-1.jpg
dendenmushi.gif北越地方(2016/07/18 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ

タグ:福井県

1411 明神崎=敦賀市明神町(福井県)潮染むるますほの小貝拾ふとて…色ヶ浜には大勢の人がやってくる [岬めぐり]

myojinzaki-6.jpg
 色ヶ浜にバスが着くと、ほかの乗客はみんな降りてしまう。道路の周辺は駐車場もいっぱいで、もうたくさんの人がやってきている。色ヶ浜の海岸にも多少の砂浜はあるのだが、ここの海水浴のみんなのネライは、湾と入江の関係で海流が砂を集めて、沖に頼りなげに浮かんでいる水島である。そこまで、渡船で運んでもらうのだ。
myojinzaki-2.jpg
 明神崎は水島にではなく、その北から伸びてきた細く長い岬の端についた名であろう。が、灯台は水島の南端の方についているらしい。
myojinzaki-8.jpg
 水島の白い砂の上には、たくさんの海水浴客がいる。海岸の道路からは900メートルくらい離れているが、もうぎっしり近く人が乗っかっているようだ。地図でみると、島の周囲には浅い砂浜というか浅瀬が広くあるようで、これではあんまり本来の「泳ぐ」には向いてなさそうだ。逆に見れば、ポチャポチャするだけの水浴びには、かえって都合がいい。
myojinzaki-4.jpg
 これだけ人が大勢いると、“無人島感覚”はちょっと望めないだろうが、ほかの海岸にはない一興はあるので、それが集客力になっているのだろう。
myojinzaki-3.jpg
 色ヶ浜も古くから集落があったものか、あるいは自然の景観だけがあったものか、西行が「潮染むる ますほの小貝拾ふとて 色の浜とは いふにやあるらん」と詠んだ地がここなのだという。
myojinzaki-11.jpg
 松尾芭蕉が『奥の細道』の旅で敦賀を訪れたとき、わざわざここへやってきているのだ。ご苦労なことにここまで歩いてくるとは…と一瞬思ったが、歩くわけないよね。西行がどのようにしてきたかは知らないが、そりゃそうだね。舟ですよ舟。奥深い敦賀湾は波も静かなので、船ではなく、舟で充分だったろう。
 芭蕉の旅の目的は、古来からの歌枕の地を訪ねることでもあったので、敦賀にくれば西行にならって色ヶ浜まで足を伸ばす…舟を出すことは当然なのであった。
 それは、1689(元禄2)年の旧暦8月というから、現在の暦では9月も終わり頃である。

 十六日、空霽たれば、ますほの小貝ひろはんと種の浜に舟を走す。海上七里あり。天屋何某といふもの、破籠・小竹筒などこまやかにしたためさせ、しもべあまた舟にとりのせて、追風時のまに吹き着きぬ。浜はわづかなる海士の小家にて、侘しき法花寺あり。ここに茶を飲、酒をあたためて、夕ぐれのさびしさ感に堪たり。
   さびしさや 須磨にかちたる 浜の秋
   波の間や 小貝にまじる 萩の塵
 その日のあらまし、等栽に筆をとらせて寺に残す。

 色ヶ浜は“種の浜”とい呼ばれていたのか。芭蕉の筆はいかにも“上から目線”でそっけないが、“天屋何某といふもの”が、これだけいたれりつくせりのサービスに務めたのは、もちろん豪商の余裕とプライドがそうさせたのだろうが、先行していた曽良が事前に手を回していたからだろう。
 秋の夕暮れのさびしさを、『源氏物語』の「須磨」をもってきたのは、今の世にもなるほどと思わせるが、“ますほの小貝”はもう今ではほとんど取れないようだ。これは、単に萩色のような赤い貝、つまりサクラガイのようなものだったのであろう。“侘しき法花寺”は、今では本隆寺という名である。
myojinzaki-9.jpg
 水島と明神崎の向こう岸をみると、海岸に緑が大きな塊になって盛り上がっている。そこが岡崎である。
myojinzaki-14.jpg
 色ヶ浜を過ぎ、かつては西浦小学校があったところを過ぎると、浦底という集落がある。ここからは明神崎が長く突き出て深い静かな入江をつくっている。
myojinzaki-12.jpg
 入江の奥に向かって走るバスの先には山が切れる谷間があり、そこには建物や構築物が建て込んでいる。そこが日本原子力発電(日本原電)の敦賀発電所である。
myojinzaki-13.jpg
myojinzaki-10.jpg

▼国土地理院 「地理院地図」
35度44分20.55秒 136度2分14.31秒
myojinzakiM-1.jpg
dendenmushi.gif北越地方(2016/07/18 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ
タグ:福井県

1410 鷲崎=敦賀市手(福井県)原電のお金でできたトンネルとバイパスから北東に飛び出た細い小さな尾根が伸びる先に [岬めぐり]

washizaki-4.jpg
 鷲崎トンネルの銘板の文字は、それぞれ南と北のトンネルにいちばん近い小学校のこどもたちが書いたのだそうだ。南の沓側が常宮小学校、北の手側は西浦小学校の児童の手になる文字を使っているという銘板の部分を拡大してみようかと思ったが、北側からトンネルに入るところでの写真が、ちょっとうまくなかったのでそれはできず。
washizaki-9.jpg
 鷲崎は、北側からの写真だけになる。
 それは、断崖の上を走っていた旧道ではなく、日本原電が出したお金でつくったトンネルとバイパスは、その旧道の内側を通り抜けているので、トンネルを出るともう鷲崎は後ろに消えてしまう。旧道を通ればちゃんと南からも見えていたが、トンネルでは見えないからだ。
washizaki-10.jpg
 高さは60メートルほどの細い岬は、ケータイ用のものと思われるアンテナ塔を載せ、トンネルの山から北東に向けて突き出ている。
washizaki-1.jpg
 ここで断崖は終わり、砂浜がちょっとだけ広がり、その向こうには集落が見えてくる。
washizaki-7.jpg
 ここが手の集落である。“て”ってぇのもおもしろい地名だが、誰も知らない何もわからないということなのか、やっぱりなんの情報もない。
 ただ、さすがに“て”っ言うだけじゃ言いにくいしわかりにくかろうというので、地元の知恵者がここは“手の浦”と称することにしようと…。
 かどうかはわからないが、とにかくここはバス停の名は“手の浦”、海水浴場の名も“手の浦海水浴場”となっております。
washizaki-2.jpg
 予備知識を事前に仕入れることをまったくしないでうろうろしているものだから、うろうろしているうちにだんだんとわかってくることがある。
 元比田へ行くときに乗った敦賀コミュニティバスには、“東浦線”という路線名がついていたが、これは別に東浦というところがあるわけではなく、敦賀湾の東岸を総称して東浦と言っていたかららしい。
 では、敦賀湾の半島側は西浦なのだから、ここを走るバス路線は“西浦線”かといえばそうではない。古い神社と集落のひとつから“常宮線”となっていた。このことからも、半島東岸の西浦一帯で、常宮が重きをなしていたことが想像できる。
 トンネルの銘板の文字を書いたこどもたちの小学校は、常宮と西浦というわけですねえ。ところが、この両校とも平成27年度いっぱいで休校になっている。西浦中学校というのもあったのだが、これは小学校よりも1年早く休校になった。
 西浦のこどもたちは、常宮線のバスでなのかスクールバスでなのか、半島付け根付近の学校まで通っているのだろう。ここにもまた、全国の町から遠く外れた岬を訪ねて行くと、あちこちで展開されていることと同じことがあった。
washizaki-6.jpg
 西浦から西にかけては、若狭湾国定公園が始まる。景色の美しい海岸線にある海水浴場は、シーズンにはたくさんの人がやってくる。手の浦海水浴場もそれなりではあろうが、やはり色ヶ浜の人の多さにはかなわない。
 同じバスでも、数組の若い人たちが、色ヶ浜に行くために乗り合わせていた。どうして行き先がわかるのか? だって、敦賀駅ののりばでごちゃごちゃ言ってたり、運転手に聞きにきたりしてるから…。
 そうそう、この乗ったバスは、そうした海水浴客のために増発された、夏季だけの臨時便だった。
 手の浦の海から、ずっと奥のほうに見える島は色ヶ浜(色浜)の水島。
washizaki-8.jpg
 鷲崎の北で並んでいる手も色ヶ浜も小さな集落で、西浦海岸ではとくに港に適しているとも言えない。だが、そこだけが山が開け、平坦とは言えないまでも、傾斜が緩くなったスロープを控えている。それがここにそれぞれ集落ができた理由だろう。
 しかし、どちらも川はないので、天水に頼っていたのだろうか。
washizaki-3.jpg
 鷲崎から西へ、半島の脊梁となっている尾根には、敦賀半島最高峰の西方が岳(764メートル)がある。背後の山が蓄えた水は、どこかで清水や井戸になって、集落の人々の暮らしを支えてきたのだろう。
 鷲崎や手の浦からまたずっと東のほうに湾を横断してみると、東浦の松ヶ崎や黒崎がそこにはある。よほどの水飢饉ともなれば、東浦の川から汲んだ水を舟で運んだりしたこともあったかもしれない。
 こういう半島の暮らしは、そういうものだったろう。
washizaki-5.jpg

▼国土地理院 「地理院地図」
35度42分19.38秒 136度2分36.86秒
washizakiM-1.jpg
dendenmushi.gif北越地方(2016/07/18 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ
タグ:福井県

1409 小崎=敦賀市沓(福井県)気比神宮と一対の常宮神社もある海岸線を走りながら眺める沓の先に飛び出た小崎 [岬めぐり]

kosaki-9.jpg
 縄間(のうま)まで走ってきた県道33号線は、西へ折れて馬背峠トンネルへ行ってしまうので、ここから先、敦賀半島東岸を北上する道は、県道141号線となる。
kosaki-1.jpg
 常宮(じょうぐう)に入ると、海岸のそばにこんもりとした森が道路にかぶさってくる。ここが常宮神社。この神社は、実は昔は気比神宮と一対で遇されていたこともあり、本宮・摂社、上社・下社の親子関係でなかなかの由緒があるらしい。
 伝説によると、仲哀天皇と神功皇后が気比に詣でて三韓征伐にいくときに、皇后だけはなおこの常宮に留まって外征の計画を練ったという。集落と神社の名になっている「常宮」の読み方だが、“つねみや”ではなくて音読みである。古くは訓で“つねみや”と読んでいたらしいが、それも神功皇后の神託(つねに宮居し…)にちなんでの命名だった。それが、後世に音読みに変わったらしい。
 この神社が安産の神としても信仰されているのは、神功皇后がこの常宮で腹帯を付け、遠征中の筑紫で応神天皇を出産したからだという。こうした伝説がここに残るのは、先にもちょこちょこ記してきた、敦賀湾沿岸の古墳群とも無関係であるとは思えない。そして、この神社の奥にも、古墳時代後期の横穴群があるという。
kosaki-8.jpg
 気比神宮が海に近いのも、理由があってもことだろう。その前の海は敦賀の津であったし、常宮神社の前の入江も船を寄せ錨を下ろすところだったのだろう。
 この神社へも、それからずっと長い間、海岸伝いにというよりも、船を寄せてくるという形でのアクセスのほうが、陸路よりもはるかに多かったのではないか。
kosaki-4.jpg
 縄間や常宮の海岸にある桟橋状の構築物は、名子のとは違って、ずっと本格的である。これは海水浴客のため、とは言えそうにない。
kosaki-10.jpg
 海からやってくる人が多いのに、この付近の海岸はずっと砂浜で、港もない。そのために、たくさんの桟橋がつくられるようになったので、名子とはいささか様子が違うのも、そう考えれば納得がいく。
 例によって、自分勝手な御託を並べております。「そりゃアンタちがうんだよ」といったことをご存じの方があれば、ご教示いただければありがたい。
kosaki-7.jpg
 常宮の北が沓という集落で、ここもなんでこんな名前なのか知りたくなるが、よくわからない。
 小崎のある小山が、半島からぽこんと飛び出た形になっており、上から見れば沓(くつ)のように見えるから…というのはどうだろう。ただ、上から見る方法は、神様ならもっていただろうが…。
kosaki-6.jpg
 128メートルのピークをもつ小島を、むりやり半島にくっつけたようになっているが、この周囲はこの北の鷲崎までずっと断崖に囲まれていて、人家も何もない地域が続く。
kosaki-5.jpg
 小崎の出っ張りのところだけ、またもっと小さな小山がくっついているように見える。
 長い海岸線を弓なりに走ると、景色も小崎の形もちょっとずつ変わっていく。だが、変わらないのは、対岸で目立っている火力発電所の建物である。その左が田結崎で、セメント工場を挟んで右側に鴎ヶ崎が位置するわけだが、なんとなくわかる。
kosaki-2.jpg
 沓の集落を過ぎると、道はバイパスのような最近開かれたような道路に入り、その先にはこれもまたまだ白さを残すトンネルが現れる。
kosaki-3.jpg
 鷲崎トンネル。このトンネルとバイパスは2015年に開通したが、原子力防災道路(身も蓋もなく言えば、原発に事故が起こったというときに、避難するための道路)としてその建設費は、全額日本原電の寄付によるものらしい。
 原電? そう、原発です。なにしろ、ここは福井県も西の端。いよいよ、日本有数の原発銀座に入ろうとしているところですよ。
 そしてそして、“沓”の向こうにあるのは“手”です。

▼国土地理院 「地理院地図」
35度41分29.45秒 136度2分37.56秒
kosakiM-1.jpg
dendenmushi.gif北越地方(2016/07/18 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ
タグ:歴史 福井県

1408 名子崎=敦賀市名子(福井県)ここらへんから海水浴場や釣りレジャーで賑わうところで… [岬めぐり]

nakozaki-9.jpg
 弁天崎にすぐ続いてある名子崎は、地形は弁天崎よりも岬らしく出っ張っているが、弁天様も何もないので、こっちのほうがより何の変哲もない。バスは、大きくカーブしてこの岬を越える。
nakozaki-2.jpg
 岬らしいところは往路ではほとんど見えないので、復路の車窓からその姿をみる。例によっていいかげんなテキトウな写真ばかりだが、常連さんは“あいかわらずだな”で済むが、やはりたまには断っておかなければなるまい。
nakozaki-10.jpg
 でんでんむしは、写真はメモ代わりというつもりで割り切っている。座席に座ったきりでは、フレームワークなどやりようがないので、トリミングもしなければ使えない。少々ボケているくらいブレているくらい平気でOKなんです…。だって、走っているバスの車窓から撮るんだから、ブレていないほうがおかしい。
 開き直ってます。設定ももっぱらデジカメのオートで撮るだけで、写真の質にはこだわりがないのである。
 要は、その場所の雰囲気を伝え、少しでも文を補完してくれればよい、というきわめて覚めた割り切りをしているわけなんですね。
nakozaki-9.jpg
 名子(なご)という集落の名をもらった岬は、北の小崎と呼応して、縄間(のうま)、常宮、沓といった集落が連続する変形弓なりの海岸線を抱え込んでいる。
 大きく開けたこの変形弓なりの海岸は、敦賀湾の西岸、敦賀半島で言うと東海岸では、めずらしく平地が少しだけあるところなのだ。名子崎の対岸、向いに位置する発電所や田結崎のある鞠山周辺とともに、湾岸では比較的古くから開けてきた土地であったのだろう。
nakozaki-11.jpg
 平地があるので耕作ができたという以外に、交通の要衝としての役割もあったのではないか。カメのような岬は、北側でこの平地を抱え込んでいる次の岬である。
nakozaki-12.jpg
 敦賀半島は長い。先端の立石岬から半島の付け根を横断する国道27号線までは14.5キロもあり、幅も結構ある。前項は「1407 弁天崎」だったが、そこから西へまっすぐ線を引くと、半島を横断した向こう側にも偶然(あれっ? 偶然ではなく意図したものなのだろうか?)同じ名前の「弁天崎」がある。その間の水平距離は6.65キロだが、この間に標高521メートルの三内山などが挟まっている。
 半島を横断する必要がある場合、これを越えるのは大変だった。しかし、人間の活動はやはり山があればそれをなんとか乗り越えようとする。その必要は必ず生じてくる。
nakozaki-8.jpg
 そこで、名子や縄間に舟を寄せて、山のできるだけ低いところを探して、そこに道をつけ、峠を越えることになる。縄間から西に山に入り、右へ左へと尾根に沿ってできるだけ省エネで登ることができるルートを探し、150メートルといちばん低く山が切れたところで峠越え。ここからは、谷筋にそって下って行けば、半島の西側、丹生の浦に出る。
 その峠の名前は“馬背峠(まじょうとうげ)”という。150メートルの峠道も馬にはきつかったのだろう。
 …と書いているうちに気がついたのだけれども、これは「馬を背負う」のではなくて、「馬の背を分ける」のほうだろうね。やっぱり。(それにしては、ちょっと峠はすっきり馬の背のようにはなっていないのだが。)
nakozaki-6.jpg
 付け根部分を除くと、半島を横断できる道は、ここだけなのだ。現在は“馬背峠トンネル”で難なく越えられる。その付近は、名子の道から正面に見える。
nakozaki-7.jpg
 ヨットハーバーもある名子の海岸からは、ちょんちょんと飛び出た堤防のような構築物が、沖の防波ブロックとともに地図にも描かれている。これは、同様のものが弁天崎の二村にも、縄間にもたくさんある。
nakozaki-3.jpg
 現在の名子は、海水浴場があるのと、釣りのためのいかだなどを出して、海のレジャー客にアピールしているようだ。海岸の構築物も、そうしたレジャーのための桟橋なのか、それとも砂の流出を避けるためのものなのか、よくわからない。しかし、砂の流出で困るほど波や海流が激しいとは思えないので、ここはレジャー用ということでいちおう決定。(当たってるのかな?)
nakozaki-5.jpg
 砂浜というのは、泳ぐ覚悟、水に濡れるつもりがない者にとっては、ボートなどに乗り移るにも結構不便であるから、釣り客などのためにつくったものだろうか。
 それにしても、予算だってそれなりにかかりそうなんだけど…。
nakozaki-4.jpg

▼国土地理院 「地理院地図」
35度40分32.38秒 136度2分8.93秒
nakozakiM-1.jpg
dendenmushi.gif北越地方(2016/07/18 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ
タグ:福井県

1407 弁天崎=敦賀市二村(福井県)気比神宮から芭蕉には無視された松原を経て敦賀半島の西海岸へ向かう [岬めぐり]

bentenzaki-6.jpg
 前項でふれた、杉原千畝関連の本などが盛んに出始めたのは、1994年のスピルバーグの『シンドラーのリスト』公開以降のような気がするのは、例によって個人的な印象と感想によるもので、とくに調べたわけではない。弁天崎とは関係がないのだが、ふと思い出したのでついでに…。
 敦賀港の南に続く市街地は、枝分かれして支流を広げた二本の川が湾に流れ込むことで、運ばれてきた砂州の上に広がっていったと思われる。三方を山に囲まれたその奥行は深く、湾最南部の岸壁から、その名も“山”という山際の地域まで5.8キロもある。古墳群もこの山が描くUの字の線に沿って点在していると思われる。
bentenzakinakoM-2.jpg
 敦賀港から敦賀駅までは1.8キロと接近していて、その間に気比神宮がある。敦賀から若狭路へ向かうJR小浜線は、北陸本線と並走しながらひたすら南へ走る。西敦賀の駅を過ぎてからおもむろに西へ向かい、粟野駅まで大きく南側へ回りこんでいる。
 これも想像だが、こういう場合は地盤が確かなところを選んで線路を敷設したので、砂州でできた軟弱地盤のところを避けたからではないか。市街地の北の海岸線も、松原を含めて、もっと南だったのではないか。おそらく、気比神宮の北あたりがもう海岸だったのではなかろうか。
bentenzakinakoM-3.jpg
 松尾芭蕉が「奥の細道」の旅でやってきたルートは、「湯尾峠を越ゆれば、燧が城・帰山に初雁を聞きて、十四日の夕暮れ、敦賀の津に宿を求む。」とあるので、福井から南下して今庄からの峠越えで敦賀に入ったようだ。その頃にはもう“敦賀の津”として、湊で栄える町の性格を明確にしていたわけだ。
kehijinnjya-1.jpg
 その日の夜に「気比の明神に夜参す。仲哀天皇の御廟なり。社頭神さびて、松の木の間に月の漏り入りたる、御前の白砂、霜を敷けるが如し。」として、宿の亭主からは、大願発起して道普請をし、神前に真砂を敷いた遊行二世の上人の話を聞いている。
 つまり、参詣道も非常な悪路で、「草を刈り土石を荷ひ」する必要があったわけだ。また、その夜は「月殊に晴れたり。『明日の夜もかくあるべきにや』と言へば、『越路の習ひ、なほ明夜の陰晴はかりがたし』」と亭主は言う。翌日は「亭主の詞にたがはず雨降る。」というわけで、二句を残している。

     月清し遊行のもてる砂の上
     名月や北国日和定めなき

kehijinnjya-2.jpg
 芭蕉が「気比の明神」というように、応神天皇ほか6柱もの祭神をもつが、その建立は飛鳥時代とされるほど古い由緒をもつ。「1405 田結崎」の項で述べたような渡来人の来着などに、その起源があることは確かなことなのだろうと、門扉の菊の紋章をみながら思ったものだ。
kehijinnjya-3.jpg
 2016年のNHK大河ドラマは、三谷幸喜創作の
真田丸』。なんとなく三谷劇場につきあうのがめんどくさくなってしまったので、最近はごぶさただが、これに大谷吉継が石田三成の朋輩としてほぼ出ずっぱりに出ていた。敦賀は、このこのドラマの主人公の義父になる、大谷吉継の城があったところだ。
turugaekimae-4.jpg
 駅前には吉継の幟などもはためいていたが、彼の敦賀城は後に一国一城令で取り壊されてしまうので、遺構などは何も残っていない。三成を諌め押し留めるのには失敗しても、三成への心情がついには病をおしてまで関ヶ原で命運を共にするところまでいってしまう。さほど地元と吉継の関係が長く深いとも言えないのだが、ひとつ気になったことがある。
bentenzaki-1.jpg
 大谷吉継は敦賀城主としてある間に、大工事をして城を海城につくり変えたといわれているのだが、その場所は気比神宮の並びで、830メートル西へ寄った敦賀西小学校のある付近ではないかとされる。
bentenzaki-2.jpg
 バスはその西小学校の横を過ぎ、松原の南を回って湾の西岸を北上する。この道も前に来たときに通っているが、浜からこの道まで430メートルある。公園となっている松林を含めると分厚い松原なのだが、芭蕉の眼にはとまらなかったのだろうか。松原のことにはまったく触れぬまま、舟で色ヶ浜へ向かっている。
bentenzaki-9.jpg
 あるいは、昔はもっと海が迫っていたなら、松原も薄く印象も薄かったのかもしれない。
 以上、気比神宮・吉継の海城・松原の三点をつなぐと、昔の敦賀の海岸線が浮かんでくるのだが…。
 敦賀湾西岸の最初の岬は、弁天崎である。西岸は立石へ行くバスに乗って往復したので、行きにはうまく見られなかった岬も、帰りで再確認するということができる。
bentenzaki-7.jpg
 弁天崎は何の変哲もない岩が残した出っ張りで、二村という集落のはずれにある。その名からすると、地図には記号はないが弁天社でもあるのだろう。車窓からはよくわからなかったが、帰りには朱塗りの欄干も見えたし、ふたつの岩島を結んで縄も貼ってあったので、確かに弁天さんはあるのだろう。
bentenzaki-8.jpg
 火力発電所やセメント工場や、金ヶ崎や鴎ヶ崎や、敦賀の港や街や松原の海岸が、その向こうに見えている。
bentenzaki-11.jpgbentenzaki-10.jpg

▼国土地理院 「地理院地図」
35度40分13.65秒 136度2分29.68秒
bentenzakinakoM-1.jpg
dendenmushi.gif北越地方(2016/07/18 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ
タグ:歴史 福井県

1406 鴎ヶ崎=敦賀市金ヶ崎町(福井県)杉原千畝や信長とともに名だけは周囲をすっかり埋め立てられてもかろうじて… [岬めぐり]

kamomegasaki-5.jpg
 敦賀港は湾奥の東にあり、そこは天筒山の山塊が171メートルと標高は低い割に、大きな存在感を持って敦賀市外の東を仕切っている。天筒山から西に小さく張り出した尾根が金ヶ崎の山で、その尾根の南に金ヶ崎宮や北に金ヶ崎城の城跡などがある。鴎ヶ崎は、この金ヶ崎の山の西に端に、ちょっと膨らんでいるところである。
kamomegasaki-6.jpg
 けなげにも、今も岬の名は残っているが、実情は周囲がすべて埋め立てられ、敦賀港の北岸壁からさらに西に広い造成地が続いていて、もはや岬としての実態もイメージもすっかり失なわれている。海からは遠くなってしまった小山の尾根の先っちょで、今もその名が消えることなく保存されている理由はわからない。
kamomegasaki-4.jpg
 だが、かつてはこの岬が、敦賀港のシンボルのようになっていたはずだ。
 今はもうないのだが、敦賀駅から北陸本線と分かれて北へ伸びる線路があった。その線路が天筒山の西麓に沿うようにして金ヶ崎に伸びていき、鴎ヶ崎の下で何本もの引き込み線レールが分かれていた。
 そこに着いた貨車や列車に、すぐ南の敦賀港の岸壁に横付けした船から荷物や人が激しく行き交っていたときもあったのだ。
 それは、現在の地理院地図上には残っている(前から気にはなっていたけれどもwebの地理院地図はかなりデータが古い?)が、現実にはもうそんなものはない。だが、それを消し去るときには、どうも鴎ヶ崎の名もついでに消されてしまいそうな予感がする。
kamomegasaki-2.jpg
 ここに貨物列車が入ってこなくなったのは、2009(平成21)年のことである。それからは“敦賀港オフレールステーション”と名前だけはかっこつけたが、トラックで運ぶコンテナ便を扱うだけだ。
kamomegasaki-8.jpg
 第二次大戦中、リトアニア領事代理だった杉原千畝が発給した「命のビザ」の話は、ずいぶん昔になにかの本で読んでいたが、ここ近年になって本はバタバタとたくさん出るわ、デレビではドキュメンタリからドラマ化までして、“日本のシンドラー”はちょっとしたブームをつくっていた。
 それは、大戦中のできごとで日本人が胸を張ることができる、数少ない事例のひとつ(ほかになにがあったっけ? すぐに思いつかない)だったからだろう。
 だが、それにしても、それまではほとんど無視に近い状態だったのが、ここへきて急に盛り上がっている感じがするのはなぜだろう。
kamomegasaki-11.jpg
 杉原千畝がいたリトアニアのカナウスからペテルブルグまでは、約550キロ。彼のお陰でビザを手にし、シベリア鉄道に揺られてはるばる極東のウラジオストクまでやってきて、そこから船で日本海を縦断し、ついに“東洋の波止場”敦賀へ上陸したユダヤ人難民の数は、1940年から1941年にかけて約6000人だったという。
 鴎ヶ崎の手前、コンテナヤードの手前、公園の一角には三角屋根の建物がある。そこはそれを記念した、“人道の港 敦賀ムゼウム”(ムゼウムはポーランド語で資料館や博物館の意)である。このムゼウムが開館したのも2008年だから、歴史的にはつい最近といってもいいことなのだ。
 この日はやたら暑い日で、とても炎天下をウロウロする気にもなれなかったので、これも遠望のみ。
kamomegasaki-2.jpg
 田結崎から鴎ヶ崎は、1.7キロ南に下ったところになるが、その間には火力発電所のほかに敦賀セメントの工場もある。天筒山の北側は、石灰岩の山である。その下を国道8号線は上り下りに分かれて4つのトンネルで通り抜けている。
taizaki-11.jpg
kamomegasaki-1.jpg
 琵琶湖のところでふれたのは、撤退ルートについてだけだったが、1570(元亀元)年の金ヶ崎の戦いでは、信長の軍勢は、朝倉勢の金ヶ崎城を攻め、その城攻め自体にはほぼ成功していたにもかかわらず、ここから撤退を余儀なくされることになる。単なる撤退ではなく、後に“金ヶ崎の退き口”とか、“金ヶ崎崩れ”とも呼ばれるように、敵方を追撃をかわしながらの命からがらの撤退となったのは、北から朝倉、南から浅井の挟み撃ちにあう危難にさらされることになったからだ。
kamomegasaki-9.jpg
 信長の戦でも少ない負け戦的要素が多分にあったため、とくに語られるフシもあるが、信長自身これが相当悔しかったらしいことは、幾多のドラマなどで取り上げられてきたその後に続く挿話によっても想像がつく。
 このとき、挟み撃ちの危難を豆を小さな袋に詰めるという暗号(なぞかけ)でいち早く信長に知らせたのは、浅井長政に嫁いでいた妹のお市の方だという話も、ドラマでは好んで使われるが、この情報源(史料)は朝倉側にしか伝わっていないのだという。とすると、朝倉側が惜しい勝利をのがしたのは自分たちのせいではなく、情報漏れにあったからだと弁護するためのつくり話とも考えられる。
kamomegasaki-10.jpg
 琵琶湖のところでも、この撤退戦の殿軍(しんがり)を、このときはまだ木下藤吉郎だった秀吉と家康が務めたと書いていたのだが、どうも家康にそんな危険なむずかしい任務を与えるだろうか、という疑問は大きい。務めたとしてもそれは名目で、追撃の表面にたって殿軍の損でむずかしい役はやはり秀吉だったのだろう。
 しかしまあ、いろいろありますが、とにかく(なにがとにかくじゃ)敦賀といえば、気比神社と気比の松原ですよね。
kamomegasaki-7.jpg

▼国土地理院 「地理院地図」
35度39分51.81秒 136度4分23.08秒
kamomegasakiM-1.jpg
dendenmushi.gif北越地方(2016/07/18 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ
タグ:歴史 福井県

1405 田結崎=敦賀市鞠山(福井県)そもそもの敦賀と『大敦賀行進曲』が歌われた時代の敦賀港に思いをはせてみる [岬めぐり]

taizaki-6.jpg
 江良の南の赤崎は、字地名で岬はないので、その南の田結(たい)から西にぽこぽこと連続する尾根の先、鞠山というところに小山がふたつある。鞠のように丸い山という意味だろうか。
taizaki-2.jpg
 西の小山の先に、田結崎という名が付いているが、この岬の西側と南側がしっかり埋め立てられている。その南側は敦賀火力発電所の広大な敷地になっていて、田結崎から西へはまっすぐな長い防波堤が、その内側にフェリー発着所を囲っている。
taizaki-4.jpgtaizaki-1.jpg
 ここから出るフェリーは、どこへ行くのだろうか。現在は、新日本海フェリーの、舞鶴・敦賀から新潟・北海道を結ぶ航路が発着している。taizaki-5.jpg
 日本海側でこれだけの地理的条件に恵まれた港があれば、それは当然北前船の往来発着も盛んであっただろう。もっと言えば、海は外へ開かれた通路であり、港は出入口であるから、日本海側で京阪にも近い敦賀が、古から幾多の変遷を経ながらも、常に半島や大陸との船による往来が続いてきたことは、動かしがたい事実である。
 そもそも、「敦賀・つるが」という名前からして、もとは角鹿(つぬか)というこの地域の古名からきていたというのは、昔は広く認識されていた。
     ふるき名の 角鹿や恋し 秋の月    芭蕉
 「日本書紀」にはツヌガアラシト(都怒我阿羅斯等)という人物が海を渡ってこの地にきたとされ、「古事記」にも“意富加羅国”の王子である都怒我阿羅斯等が“笥飯(けひ)浦”に来着したが、その額に角があったのでこの地を角鹿と称した、というような記述があるという。これらは応神天皇と結びつき、気比神社の祭神ともされている。
 そして、律令体制に組み込まれたときに、“畿内七道の諸国郡郷の名は好字をつけるようにせよ”ということになり、そこで初めて「敦賀郡」が登場した。
 この地が古代日本史のなかで、ことさら脚光を浴びることは少ないが、敦賀湾の東西両岸と市街地が山に行き当たる南部東部の山には、数多くの古墳群があることからも、一大勢力がここにあったことを示している。
taizaki-8.jpg
 “東洋の波止場”も、大元から質せば、渡来人にも行き着くわけだが、もっとずっと近いところに戻してみると、北前船の後でやってきた明治という新しい時代の到来とともに、近代の芽生えが胎動し始め、敦賀は港を中心に活発な活動を始めることになる。その経緯を、前出の「敦賀の歴史」サイトなどを参考に、キモだけあらあら抽出して理解してみよう。
taizaki-7.jpg
 まずは、巨大な山塊によって隔てられている福井県内の嶺北と嶺南を結ぶというニーズが先行して、敦賀=三国航路が開設(明8)され、続いて北前船と同じく北海道航路が定期便として運航(明9)され、長浜から敦賀までの鉄道の敷設(明17)によって、敦賀は船から鉄道へ、鉄道から船への積み替え集積地として大いに発展する。
 やはり船による物資の輸送というのは、一時に大量に安く運べるという点で、昔も今もそのメリットに変わりはなく、敦賀の海運事業も、その地の利を活かして近海航路も拡充されていく。
 ところが、鉄道がトンネルとスイッチバックで峠を越え、福井へ金沢へと延伸されることになると、たいそうな港湾施設がいらなくて小回りのきく貨車輸送のほうがより便利ということになる。そうなると、北陸線からは盲腸のように引き込み線を通って敦賀港まで行く必要がなくなり、敦賀は通過して流れていくことになってしまう。
 各地で歓迎される鉄道は容赦なくどんどん伸びていき、北陸線が富山まで開通(明32)すると、日本海側の北海道を含む新潟以北からの荷物は、富山の伏木港まで船できても、そこからは貨車に積み替えられて運ばれるということになり、ついに北前船の伝統とメリットも諦めなければならなくなる。
taizaki-9.jpg
 そして、いよいよ敦賀の海運が衰退する道がはっきりして、敦賀港が選んだのは、“国際港”としての可能性に活路を見出そうとするものだった。
 つまり、“東洋の波止場”、“異国の星の下”、“国際列車”、“青い眸”といったことばを詰め込んだ『大敦賀行進曲』の歌詞は、それに合わせたものだったわけである。
 日露戦争後は、敦賀=ウラジオストック間に定期航路が開設(明40)されて、シベリア鉄道を経て欧州へもつながる国際貿易港となる。
 そして、さらにこの欧州へのルートは敦賀から東京へ伸び、東京=敦賀=ウラジオストック=ペテルブルグというルートで、船と連絡列車で日本海を渡り、大陸縦断して欧州と結ぶ、日本では初めてのボート・トレインの長大なラインが完成(明45)するのである。だから、“花の東京へ一走り”で、『大敦賀行進曲』の歌詞は終わるわけだ。
 でね、その頃の敦賀港の岸壁は、次の岬のあるところで、ここじゃないんですね。このもっと奥。
taizaki-10.jpg

▼国土地理院 「地理院地図」
35度40分45.53秒 136度4分34.20秒
taizakiM-1.jpg
dendenmushi.gif北越地方(2016/07/18 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ
タグ:歴史 福井県

1404 松ヶ崎=敦賀市江良(福井県)ここから南が“西へ行こうか東へ行こうか港敦賀は東洋の波止場…”の敦賀港 [岬めぐり]

matsugasaki-3.jpg
 国道8号線を南下するバスは、敦賀半島と敦賀湾を西にして、東浦をつなぎながら敦賀市街へ近づいて行く。杉津PAから見えるのは、日本海というより敦賀湾の湾口に過ぎないと水を差していたが、ここらでその地理的関係をおさらいしておく必要もあるだろう。
 敦賀湾というのは、もっと視点を高くしてみると、若狭湾という日本海に大きく開かれた湾の、東の端で狹いが深く凹んでいるところだ。つまり、大きな若狭湾の中の小さな湾のひとつ、というわけである。こういう状態を指す専門用語で“支湾”という言い方もあるらしい。地理院地図の表記では、若狭湾の文字よりも支湾の敦賀湾の文字のほうが大きく太いが、これは別に意図的なものではあるまい。
wakasawanM-1.jpg
 そのメインの若狭湾は、東の越前岬から西の経ヶ岬まで、70.5キロの湾口をもつ大きな湾である。このなかでは、東から立石岬、常神岬、獅子ヶ崎、鋸崎、成生岬、博変岬…などなど、たくさんの岬もある小さな出っ張りが、ちょこちょこと刻まれていて、多くの入江や港もつくっている。
 その港のうちでは、漁港を別にすれば、この東の敦賀湾の敦賀港と、西の舞鶴湾の舞鶴港が、日本海側の重要港に数えあげられる。
matsugasaki-1.jpg
 敦賀湾は、元比田から敦賀半島先端部の立石岬まで7.4キロ、湾の奥行き南北の距離は12キロと深い湾で、この松ヶ崎と対岸の敦賀半島鷲崎の間は3.15キロと狭まっている。
matsugasaki-2.jpg
 松ヶ崎そのものは、湾岸のCカーブでちょっと岩礁が出張っているところで、名前から想像すればかつては松の木が何本か茂っていたのかもしれない。それをホーフツとさせるように岩礁の上には立木が枯れているが、これは松なのだろうか、よくわからない。
matsugasaki-4.jpg
 めんどくさいことをあえて言えば、湾の中に港はあるわけで、湾=港ではない。この縦に長く深く入り込んだ敦賀湾のなかで、敦賀港の範囲はちゃんと厳密に定められているようだ。
matsugasaki-5.jpg
 敦賀港は、敦賀半島の明神崎(これが立石岬ではないところが、なんともいえないお役所流の加減というものか)から、斜めに線引して松ヶ崎とを結んだ直線を引き、その線よりも南西側を、その範囲としている。(もっと古い時代にはこの線引きはもう少し南で斜めではなく、松ヶ崎の1.7キロ南の赤崎の対岸にあたる小崎の間に横線で引かれていたようだ。)
 松ヶ崎は、敦賀港の東で港内と港外を分ける目印だったのだ。
matsugasaki-7.jpg
 といっても、現実の問題として、港の内か外かを問わなければならないようなことで、どんなことが予想されるのか、それは陸の上からではあまり具体的に思いつかない。
tsurugawanM-1.jpg
 だが、いろいろ想像をめぐらしながら情報をたぐっていくと、舞鶴港とはまた別の違う道を歩んできた敦賀港の姿も、だんだんと見えてくるのだ。
 そんな情報のなかで、「敦賀の歴史」というサイトにめぐりあった。これは燻製作り・魚干物作りなどを趣味とする敦賀市在住の管理人氏個人の制作ながら、なかなかよくまとめられていて、しかも手の込んだ中身も濃いサイトであった。
 そのなかの「戦前 敦賀港」というページの冒頭には、1936(昭和11)年の伊藤久男の歌で、作詞:高橋掬太郎、作曲:古関祐而による『大敦賀行進曲』の歌詞の一部が掲げられていた。
 当時の一流どころをスタッフに揃えてつくられたこの歌は、全国的に流行ったというわけでもなく、なにかの記念イベントの一環として、予算をかけたいわゆるご当地ソングの大きな仕掛けによるものだと推察できる。

1 西へ行こうか 東へ行こうか
  港敦賀は 東洋の波止場
  名残り惜しめば テープもぬれて
  明日は異国の 星の下
  
5 誰と乗りましょ 国際列車
  遠い波路を はるばる着いて
  青い眸の あこがれ乗せて
  花の東京へ 一走り
            (1936年 『大敦賀行進曲』詞 高橋掬太郎)
 
 そのサイトでもここだけ抜粋されていたが、その1番と5番の歌詞は、こんな具合である。
matsugasaki-8.jpg

▼国土地理院 「地理院地図」
35度42分15.87秒 136度4分46.71秒
matsugasakiM-1.jpg
dendenmushi.gif北越地方(2016/07/18 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ
タグ:福井県