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1473 北国澗=島牧郡島牧村字江ノ島(北海道)道の駅「よってけ島牧」に言われるとおりに寄ってはみたものの計画が破綻 [岬めぐり]

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 村役場のある泊を過ぎると、江ノ島海岸で、弁慶岬からずっと南西方向に下ってきた道は、この付近から西へ向いて走る。
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 島牧村の海岸線も、だいたいこの付近で半分くらいだろうか。
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 長い砂浜の続く江ノ島海岸の前方に見えてくるのが北国澗。ここも国土地理院地図で斜体表記の準岬名表記として一項目を設ける。
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 水と谷を意味する「澗」の字が、海岸線につけられている名に多いのも、北海道の特徴といえるのかもしれないが、ここは断崖の岩島を半分抱え込むようににした二本の太い腕が海に突き出している。岩島と二本の腕は直接つながっているわけではないのだが、東側の江ノ島海岸から眺めると、それが重なっているので、まったくひとつの岬のように見える。
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 手前の腕の尾根はなだらかに低く落ちているので、屹立した先端の部分は、岩島の崖なのだ。
 東西に広げた二本の腕の間隔は540メートルほどあるが、この付け根を江ノ島トンネルで抜ける。このトンネルも前項の厚瀬崎トンネルと同じで、海岸に近いところを、今は使わなくなった旧道と廃トンネル跡を示す )   (  が、3つも表示されている。
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 トンネルを出たところは千走(ちはせ)で、千走川の河口右岸には、スポーツセンターや温泉施設、そして左岸には道の駅「よってけ島牧」があるので、計画通りいったん近くの賀老通りでバスを降りる。
 道の駅「よってけ島牧」に寄って、ホッケバーガーとコーヒーの遅い朝食をとれたまではよかったが、なんとここで想定外の事態が発生。計画が大きく狂ってしまった。
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 計画では、ここで村でただひとつのタクシー会社がこのすぐ近くにあるので、そこに電話して迎えに来てもらい、木巻岬まで連れて行っていってもらう予定だった。
 …ところが。朝食も済んで電話してみると、その日は朝から遠くへ出かけていて、帰ってくるのは午後になるというのだ。降りてしまったバスは原歌止まりなので、目的地の終点栄浜へ行くのは次の便午後14時までないのだが、結局それを待つ以外には、先へ進む方法がなくなってしまった。
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 ニセコバスの島牧線は、栄浜まで行くのはその便と、あとは17時の二本だけしかない。長万部まで戻ることが可能なのは、午後14時の便だけだ。その昼に一本だけ往復できるバスで行ってまた帰ってきてもよかったのだが、それでは島牧村をただ通り過ぎるだけになってしまい、それもいかにも申し訳ない。
 そこで、いろいろ知恵を絞って、早朝の原歌行きで千走まで行き、そこからタクシーで8キロ先の木巻岬まで行き、そこからは白糸岬を眺めつつ栄浜まで歩く。そして14:30栄浜発のバスで寿都へ戻る…そういう計画を立てていたわけだ。
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 それがタクシーがないという事態であえなく破綻、3時間以上も次のバスを待たなければならない羽目になった。
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 ゆっくりと道の駅の周囲を散策し…というと優雅そうだが、この日はカンカン照りになって、いくら日焼け止めを塗っても、強い日差しのなかを延々と歩くのはいささか大変で、原歌まで歩くのがやっとだった。
 あとはもっぱら、少ない日影を探して休み、バスを待つほかない。
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 北国澗は、千走の側から見ると、西側の腕の陰に岩島が隠れてしまう。崖の白いものが目立っているが、それがなにかは想像も推測もできない。石灰石のようでもあるが、そうでもないようでもある。
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 ここから千走川を遡っていけば、村一番の観光ポイントである賀老の滝へ行けるらしい。元町の通りにも賀老通りがあり、賀老の滝の標識などがあるので、そこまで歩く?…と思ったら、なんとそれは河口から15キロも川を詰め上った山の中であった。
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 そこはもう、狩場山に近く、道はないが滝から南へ越せばせたな町、というところなのだ。とても行けない。
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 道の駅も何時間も過ごすような場所でもなかったので、まあ意味もないまま漁港や国道沿いに歩いて丸く婉曲する海沿いの道を回ると、そこに島牧小学校の立派な建物があった。
 長い海岸線のところどころに集落が分散する島牧村では、村の諸施設も一か所に集めることはむずかしかったろうし、またその意味もたいしてなかったのかもしれない。いかにも新たに統廃合してつくりました、というような島牧小学校も、西寄りの原歌集落のはずれの丸い海岸そばに建てられている。近頃では、こうした統廃合による新設校の立地は、海岸線からは少し奥まった高台を選んで建てられることが多いが、ここではそうした適地もなかったのだろうか。
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 江ノ島 海岸は「日本の渚百選」とやらに、そして賀老の滝は「日本の滝百選」に選ばれているそうだ。
 ところでみなさん、鳥に舌があるのは知ってました? 
 「舌切りすずめ」ってのがある?
 そうでしたよね。でんでんむしも最初は?と思い、次にそれを思い出しました。
 人間のように二枚ある鳥もいるのかどうか…。
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▼国土地理院 「地理院地図」
42度41分29.93秒 140度1分13.55秒
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dendenmushi.gif北海道地方(2017/07/01 訪問)
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タグ:北海道
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1472 厚瀬崎=島牧郡島牧村字港(北海道)旧トンネル・旧道・廃道歩きの情報がいっぱいあるそのなかに懐かしい名前を発見 [岬めぐり]

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 厚瀬(あっちゃせ)崎は、本目漁港の西にくっついているし、本目岬との間も800メートルしか離れていない。したがって、建物の密集した港の側からはほとんど展望がきかないが、岬の先端には小島のような岩山のようなものが盛り上がっているように見える。
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 思う間もなくトンネルを…と、くぐり抜けるのは厚瀬トンネル。上りと下りの車線が別々のトンネルになっているようで、出入口がふたつある。340メートルほどの長さだが、この岬もさほど大規模な出っ張りではないということ。
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 70メートルほどの高さが海岸に飛び出していて、周りは全部、崖がぐるりを取り巻いている。当然、トンネルでなければ通れない。地理院地図には、港よりの岬先端付近に、)( の表記が残っているので、ここもトンネル開通以前は、この崖の周りを回って通る道があったのだろうか。
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 帰りに通った海寄りのほうのトンネルには「新厚瀬トンネル」という名前があったので、こちらが後から付け足されたのだろうか。
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 念のために調べてみると、厚瀬トンネルの竣工は1965(昭和40)年であり、「新」のほうは1996(平成8)年であった。検索で出てくる情報は、旧道廃道を好んで歩く人々の記録が、群を抜いて他を圧倒している。そういうのをつらつら眺めていると、この先の大平(おおびら)トンネルもそうらしいし、せたなの虻羅トンネルもそうだという。
 そういう旧道廃道愛好家のブログやサイトの一覧に混じっていた、あるなつかしい名前を発見した。北海道旧道保存会のサイト「裏サンドウ喫茶室」に紀行を掲載している堀 淳一さん。その当時は確か、北大の物理学教授で、地図や地理が専門ではない。
 実をいうと、でんでんむしもいっちょまえのしごと人間だった時期も長く、仕事仕事にかまけてひさしく省みることのあまりなかった地図に、再びぐっと引き戻してくれたのがこの人の専門外の処女作(であったと思う)「地図のたのしみ」(1972 河出書房新社)だったのだ。この本は、その意味で個人的に記念すべき本だったが、その後版元を変わったりしながら、文庫にまでなっているし、類似の出版も相次ぐきっかけにもなっている。
 そのサイトでは、堀さんの紀行文は2009年で終わっていた。
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 厚瀬崎の西側には、栄磯・豊浜と集落があるが、この付近は海岸線の沖合にまで岩礁地帯が続き、岩島が点々と連なっている。
 西側から見た厚瀬崎は、崖の先になにかの台のように見える岩が印象的だが、この岩と同じものを東からも見ていたはずだが、ずいぶん見る角度によって違うものだ。
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 栄磯と豊浜の間には、少し高い崖浜の上のところを国道が通っている。そこから見ると厚瀬崎の向こうで灯台を載せた本目岬がかぶって見える。
 豊浜の南にある大平トンネル付近にも、ワスリと名づけられた岩の出っ張りがあるのだが、1キロ以上もあるトンネルの陰に隠れている。
 そういえば、島牧も御多分にもれずのアイヌ語源で、「シュマコマキ=(岩石の後背)の意」だというのだが、こういう権威の解説を読んでもピンとくるのは少ないのが困る。
 このトンネルを抜けると泊の集落で、村の中心というわけでもなさそうだが、なぜか島牧村の村役場はここにある。
 村のサイトにある「村の概要」では、

 面積は437.18k㎡、人口は約1,600人の漁業を基幹産業とする風光明媚な村です。
 本村の大部分を占める森林の中には10,700haを有するブナ原生林があり、その懐には落差70m、幅35mの「日本の滝100選」に選ばれた「賀老の滝」があり、訪れる観光客を楽しませています。

とあった。明治末には大平川を境にして東西二村に分かれていたのを、1956(昭和31)年に東西を合併して現在に至る。ずっと浮いた噂もなく、単独の村であり続けてきたわけだが、それにはこの村の地理的な条件も関係していたのだろうと思われる。
 面積は結構広くて寿都町の何倍もあるが、そのほとんどが国有山林で、とくに林業が盛んというわけでもなさそうで、漁業を中心とする村の集落は、およそ43キロも続く海岸線の国道沿いに集まっている。
 そして、隣接市町村との交通は、実質的に寿都へつながる国道229号線(と276号線)のみであるという、いささか表現は悪いがいわば袋小路のどん詰まりのようなところにあるからだ。
 バスの運転手さんに「役場がなんかあまりらしくないところにありますね」というと、「みな海岸に点々とあって、小学校はずっと離れたところにつくったしね。」と言う。このときはまだ、この後に起こる事態を想像もできず、その小学校の先まで歩くとは予定も想定もしていなかった。

▼国土地理院 「地理院地図」
42度41分29.53秒 140度1分12.78秒
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dendenmushi.gif北海道地方(2017/07/01 訪問)
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タグ:地図 北海道
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1471 本目岬=島牧郡島牧村字港(北海道)富浦、歌島、美川、栄磯、豊浜、永豊などの字地名の間にある断崖と灯台の岬 [岬めぐり]

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 国道229号線(と276号線)が、弁慶岬をカーブで回りきってしばらく南下すると、寿都町から島牧村に入る。その境界から約10キロも南南西方向に走ってきたところに、本目岬はある。
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 バスの前方にやっと岬が見えてくるまでの間も結構長く、その間に、富浦、歌島、美川といった小さな集落が点在している。けれども、弁慶岬から南西側の海岸では、ずっとのっぺりした凸凹の少ない海岸が続くので、港らしい港はない。港がないということは、集落も大きくなりようがない、ということではないか。
 富浦、歌島、美川といった地名は、いわゆる美称の色彩が濃い名前で、さらに先ある栄磯や豊浜、永豊などと合わせて、なにやら人々の願望が込められているような気もする。と、いちおう印象操作をしておいて…。
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 歌島の集落までは、比較的海岸から少しだけ遠い道が続き、歌島沼を過ぎると、静かできれいな砂浜の海岸が現れる。この付近は本目海岸といって、村営のキャンプ場かなにかあるという情報も、どこかで見かけた。本目というがこの浜の大部分は美川である。
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 名もない小さなコブを回り込むと、折川が流れこむ本目の集落がある。「本目」という名の由来もわからないが、ことばとしては囲碁の用語と結び方の名前と、ふたつ同じ名前が使われている。
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 本目集落には郵便局も駐在所も神社もお寺もあって、島牧村東部では大きな集落となっている。
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 ただ、折川の河口であるということが、ここに港をつくることを妨げた形跡(情況証拠)が、現在の地図をつくっている。河口というのは、一般的には港湾を設けるのに適地と言えるはずなのだが、寿都の朱太川のように、その条件が合わない場合も多く、河口だから港というわけでもない。本目が港に適さないと判断されたのは、川の氾濫もあったかもしれないが、何より湾が浅く風浪を避けるという港の最重要条件を満たしていなかったからではないだろうか。
 そこで、本目の人々は周辺を物色してみたに違いない。そうして、本目から西へ2キロも海岸を進めば、ふたつの岬の出っ張りに囲まれた、港の適地があることはすぐにわかっただろう。
 彼らは、迷わず集落から離れたそこに港をつくることを決め、実行したのではないか…そんなことが想像できそうだ。
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 それなら、最初からそこに集落をつくればいいじゃないか…って? 残念! そこは海岸からすぐ崖山になっていて、後背に集落が広がる余地がまったくないのです。
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 そこで、集落からは離れたその場所を示す字地名も、ずばり迷わず「港」。
 本目岬は、その港を囲む北東の出っ張りで、南西の出っ張りは厚瀬崎(あっちゃせざき)という。
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 本目岬のほうは、切り立った断崖に囲まれ、その下には岩場が広がっている。そう高くない岬のてっぺんには黒白の灯台も立っているが、その写真は全部西から東へ向かってのもの。西へ向かう車窓からは、灯台はてっぺんの一部だけしか見えない。港と海の安全と豊漁を願ってのことであろう、神社もあるようだが、それはバス車窓からは確認できなかった。
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 西行きの車窓からは全貌を現わさないこの灯台は、帰りのバスからは、本目港の側から岬の岩崖とともによく見えよくわかる。
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 道路からもそう隔絶していなくて、集落と港の行き帰りに通る本目岬は、ちょうど使い勝手のいい岬だったはずである。
 そういえば、本目結びというのは漁網に使う結び方なんだけどね。ま、関係ないんだろうね。
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▼国土地理院 「地理院地図」
42度44分42.61秒 140度6分51.27秒
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dendenmushi.gif北海道地方(2017/07/01 訪問)

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1470 弁慶岬2=寿都郡寿都町字政泊町(北海道)弁慶と風車がシンボルの町から西へ [岬めぐり]

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 「風の街」を標榜する寿都町のマークには、朱太川河口に並んでいる風力発電の風車と、薙刀を立てて持つ弁慶の像が描かれている。これは寿都湾の西に三角に飛び出た弁慶岬の弁慶で、この岬はすでに、

 693 弁慶岬=寿都郡寿都町字政泊町弁慶(北海道)大望ある身の永く止まるべきにあらずと…

の項でとりあげている。2011年のその時の訪問では、雷電国道を北上するのが目的だったので、黒松内に泊まって、翌朝のバスで寿都にやってきた。岩内へ向かう前に、時間があったためか、ここには行っておこうと考えたのか、バスで弁慶岬へ行き、次の上り便バスで寿都へ戻っていた。
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 今回は、寿都から西の島牧村へ向かうが、その西端の栄浜で行き止まり(道はあるがバスはない)なので、また折り返して戻ってこなければならない。弁慶岬はその往復のバスの車窓からを加えて「弁慶岬2」とする。通りすがりに見たところでは、前に来たときより駐車場に停めてある車の数と建物が増えている。
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 ここでもう少しは寿都のことにふれておこうと考え、一項目を設けた。と言っても、寿都の町をうろうろ歩き回ったわけでもないし、寿都鉱山廃坑や寿都鉄道廃線の遺跡を訪ねたわけでもない。ただ、バスで通り過ぎ(岬付近の写真は、主に帰路に眺めた風景)、帰りには温泉に入ってきただけなのだ。

 694 尻別岬=寿都郡寿都町字磯谷町能津登・磯谷郡蘭越町港町(北海道)町の中に町がある寿都は“茅のある川”

 町のこともこの尻別岬の項で、いろいろ書いているので、それ以上に今回新情報が判明したというわけでもない。
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 つけ加えると、人口3,064人で世帯数 1,720世帯、それに「演歌界の巨匠 北島三郎が歌う寿都町のイメージソング!!」として、「風のロマン」と「弁慶岬」の二曲あるというのを、町のサイトで知ったくらいかな、新情報は。
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 前回問題提起した、黒松内町の境界が、海にわずかに届いていないというナゾもそのままである。どうやら、1955(昭和30)年に寿都町、中の川を除く樽岸村、歌棄村、磯谷村の1町3村が合併して新しい「寿都町」をつくったときの線引を踏襲したものだろうが、肝心の歌棄(うたすつ)村と黒松内町の境界についてのいきさつは、あいかわらずわからない。
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 弁慶の話はさておき、和人がこの地域に進出して、集落を形成するようになるのは、17世紀も後半、1669(寛文9)年頃になるという。ちょうどシャクシャインの時期と一致する。やがて北の物産を求めて場所が開かれたが、松前が蝦夷進出の拠点であったため、当時の蝦夷といえば、やはりこの渡島半島西岸が中心であったのだろう。
 ただ、当時の和人の蝦夷への進出過程について、wikipedia におもしろい記述があった。寿都町の沿革のなかで、
 
 1688年 神威岬から北への婦女子通行禁止令が敷かれ、このため寿都地方に土着する者が増える。

とあるのだ。同様のことは、北に行った岩内でも言えたのだろう。
 深い湾に面しているので、住みやすいのか思えば、なかなかそういうわけでもなさそうで、強風で雪も多いらしい。その強風を利用して風力発電をと、朱太川の河口には何本もの風車が立っている。
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 その付近こそが、実は黒松内町の境界線が海に迫りながら到達していない場所なのだ。いくつかの三日月湖を残す朱太川は、何度も氾濫しているので、この付近も人家は少ない。寿都鉄道存続の夢を砕いたのも、最終的にはこの川の氾濫による。
 現在の境界線をみても、黒松内町と寿都町が朱太川で接している場所では、大きく蛇行して線が引かれている。これは明らかに、町の境を決めたときには、この状態で朱太川が流れていたことを示していると考えられるのだが、それはいったいいつ頃のことなのだろう。国道も河口の下流部分を避けて通っている。
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 国道と並んで走る川の南側の湯別の街があり、湯別の東を流れる川は、黒松内街との境界で、その山寄りに温泉施設がある。帰りは、黒松内へ戻るバスまで2時間も寿都で乗り継ぎを待たなければならなくなったので、思いついて先に「ゆべつの湯」までバスで行き、温泉に入ってそこで帰りのバスを待つことにした。
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 寿都の街は、朱太川の河口を避けるようにして湾の西岸にあり、歌棄はその湾を挟んで向かいに位置している。風車の背景になっている山が歌棄の山で、その北隣りは蘭越(らんこし)町になる。岩内はその北。寿都=岩内間もニセコバスが走っているので、2時間待つよりも岩内経由で函館本線につなぎ、小樽か長万部かどちらかで札幌に出られないものかと、ニセコバスとJRのダイヤをひっくり返して探してみたが、それは不可能とわかった。
 歌棄と向かい合う一方の、まるまる弁慶岬の出っ張りである政泊は、1933(昭和8)年から寿都町になっている。この岬を大きく放物線を描くように過ぎて行くと、いよいよ島牧村に入る。
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▼国土地理院 「地理院地図」
42度49分26.53秒 140度11分21.95秒
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1469 尾花岬=せたな町大成区太田(北海道)ここも陸からは見えない岬i行けない岬なので地図上で想像する岬めぐり [岬めぐり]

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 尾花岬も前項の帆越岬についで、なかなか見えない岬・行けない岬で、これも、

 1443 尾花岬・帆越岬=久遠郡せたな町大成区太田・富磯(北海道)難所の見えない岬だからムリしてでも…

のほうに船からの遠望でいちおう入れていた。この2016年の岬めぐりの当初計画では、長万部からせたなに入り、せたなの残りの岬をめぐった後で瀬棚港からフェリーで奥尻島へ渡る計画であった。この航路に乗れば、尾花岬のかなり近いところを通過するはずだった。だから、尾花岬の視認はその航路にかかっていていたのだが、函館本線の不通であえなくおじゃん。
 ハートランドフェリーの瀬棚港=奥尻港航路を航行する、“アヴローラおくしり”から尾花岬の間は、至近距離で約7キロくらいのところを通過すると思われる。だが、奥尻島の最北端稲穂岬から尾花岬までは、約19キロは離れているから、正直に言うとほとんどこれが尾花岬という特定はむずかしいのだが、前の遠望写真でとにかく項目をつなげておくことだけを目的として、一項目を置く。(写真は1443項からの流用で、地図で辿る)
 それは、改めて、この毛無山山塊の西をいくつものトンネルで抜ける道道740号線を、せたな町のすでに項目にあげている水垂岬・日中戸岬までのルートをなぞっておく必要があるからだ。
 そうして、これをさらに翌日の島牧村側からの行程に接続しなければならない。
 帆越トンネルが2004(平成16)年に開通して、とりあえず富磯のさらに北に離れている太田まで道が通じたことは、前項で述べたとおりだ。
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 崖また崖の帆越山西岸は、帆越トンネルを北へ抜けると、海岸の開けた道になる。同じ町内のことだから、境界線とことさらいうのも変だが、帆越山と帆越岬を結ぶラインを越えると、字地名は富磯から太田に変わる。
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 トンネルを出たところにあるのも太田神社らしいが、その先の485メートルの太田山の頂上下まで、破線の山道があり、そこにも神社の記号がふたつもあるので、こっちが本社なのだろう。
 それにしても、この参道は急峻な山道で、参道の厳しさでは日本一ではないかというが、地図で見てもさもあらんと思われる。
 その太田山と太田神社からさらに北へ、次のトンネルにあたる手前が太田の集落で、その港から尾花岬までは3キロ弱のところまで接近できるだろう。
 太田まで行けてはいないが、行ったつもりで書いておくと、おそらくトンネルの入口まで行ったとしても、尾花岬はうまく見えないだろう。富磯からの帆越岬と同じことになりそうだ。
 だが、帆越トンネルを抜けたところのわずかな間なら、北北西に4キロ先、海の向こうに邪魔ものなしで、尾花岬を眺めることができるだろう。
 そしてそこが、陸から尾花岬が眺められる、ただひとつの場所であろう。
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 太田漁港の先からトンネルに入って、まず天狗岳509メートルの下をくぐり、ふたつの沢と尾花岬をトンネルで通過する。船隠でトンネルが終わるまでの全長は3,360メートル。これが太田トンネルで2013(平成25)年に開通している。
 すぐにまた、次のトンネルに入る。今度はそう長くはない。1,161メートルの日昼部トンネルは、太田トンネルと同時に開通している。
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 長い間、毛無山の西で断絶していた道道740号線が、このふたつのトンネルの開通でやっと南北に通り抜けができるようになった。それがわずか4年前のことだから、いかにこの地域が秘境であったか、ということにもなる。
 日昼部トンネルを出て、北へ1キロも進むと、そこにあるのが日中戸(にっちゅうべ)岬である。この付近も、かつては集落が谷筋にあったようだが、土砂崩れで流され、以来廃村になったというところ。
 ここまでは、また水垂岬から少し南に歩いたところから、むりやりの遠望ということで、

 864 日中戸岬=久遠郡せたな町北檜山区新成(北海道)かつてあった集落も学校もなくなってしまった無人地帯に

として項目を立てていた。2012年の訪問(見えるかなと、ちょっと覗いてみただけ)のときには、道路も覆道から先にはなく、地図でも岬の周辺海岸に道は記されていなかった。
 こんなわけで、地図上の想像行程を辿って、なんとか日昼岬・添泊岬・帆越岬・尾花岬・日中戸岬…と、檜山北海岸毛無山の岬めぐりはつながった。(ことにする)
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▼国土地理院 「地理院地図」
42度18分11.40秒 139度46分6.51秒
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dendenmushi.gif北海道地方(2017/06/30 訪問)

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1468 帆越岬=せたな町大成区富磯(北海道)陸からは見えない岬に最接近するために苦労してついにここまでやってきた [岬めぐり]

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 富磯のバス路線の終点は「第二富磯」。第一「第一」がどこかにあるのかどうかわからないし、この終点がどこなのか、探してもわからなかった。いちおうバス停を表示しているはずのMapionも、ここではまるで無印。
 なにしろここまでバスでやってくるだけでも大変なのだが、秘境というにはそぐわない、開けた明るい海岸沿いに集落がいくつか連なっている。
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 どうやら「第二」というのは、その集落のいちばん奥まった、北のはずれのことであるらしい。
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 バスを降りたところの海岸には、岩の間になにやら船寄せの構築物のようなものがある。地理院地図を見ると、確かに堤防のできそこないのようなそれが描かれている。「第二富磯」の正確な位置が、やっと判明した。
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 そこは、帆越岬をくぐる帆越トンネルの南の出入口まで、およそ1.5キロのところで、道道740号線が北へ向かう道の先には、黒々とした大きな山塊がある。この三角に飛び出た最高点が321メートルの帆越山で、この下を全長1,857メートルの帆越山トンネルが通り抜けている。
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 富磯から見ると、2キロに渡る南北に縦長の山塊の南のはじっこを見ているだけなので、そんなに巨大には見えない。
 帆越岬の岬名表記は、地理院地図では帆越山ピークの西南西に、ちょこんと突き出た岩場についているが、そこは見えている南の山の端と海岸の崖に遮られる。それはどの海岸からみても同じことで、要するに帆越岬も厳密にここがそうだというには船でもチャーターする以外に、そこを眺める方法はない。
 船? そうだ。乗ったよね。いちおうは眺めたよね。
 
 1443 尾花岬・帆越岬=久遠郡せたな町大成区太田・富磯(北海道)難所の見えない岬だからムリしてでも…
 
 チャーター船ではないけれど、奥尻航路の船から眺めたその遠望写真でも、切り立った崖の凄さはよくわかった。この山を帆越トンネルで越えられるようになったのは、2004(平成16)年のことだから13年前。そう昔ではない。
 では、それまではやはり富磯で行き止まりで越えられなかったのかというと、トンネル以前は海岸線の崖と岩の間に僅かな隙間をつくり、そこを覆道にして山を迂回していく海岸沿いの道があった。
 帆越山の北側には、太田という集落がある。太田集落と他の世界をつなぐルートはその覆道の道しかなかったが、落石や高波の影響を受けて、しばしば不通になって孤立したという。
 本当は、その太田まで行ってみたかった。前項でふれた函館バスの久遠線のダイヤには、大成学校前発06:06=太田着06:21の便があると表記してあった。帰りは太田発06:22=大成学校前着06:37である。これだけ。行ったとしてもすぐ折り返す以外に帰りの便は、ない。どうするんだろうね。出かけた人も必ず一泊して翌朝の便で帰ってくる、ということなのか。このバスの情報も、せたな町の提供情報には入っていない。
 帆越山を越えて太田までバスで行くには、前日に久遠に一泊し、翌日は太田に一泊という計画が必要になる。とまあ、行ってみることはできないので言ってみる書いてみるだけで実行はしない秘境。
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 富磯から北に見える出っ張りをよくよく見ると、トンネル開通以前に使っていた海岸沿いの旧道に、確かに覆道の名残りらしいものがある。
 どこにでも行く釣り人や、廃墟・廃道・廃線好きなマニアなら、当然この道にも入り込んでみたくなるのだろう。
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 さて、あんまり深入りしたくはない岬の名前だが、元の音がアイヌ語から来ているとしても漢字を当てた段階で、もうそこには当時の和人の考えた意味が付加される。
 でんでんむしは勝手に、陸のルートは行けない越せないので、船に帆をかけて越すということからこんな字を当てたのではないかと思っていた。
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 ネット情報によると、「北海道人」と称した北海道の名付け親で探検家・松浦武四郎の残した「西蝦夷日誌」には、「ホグシは帆卸の轉か。此岬を過る時は必ず帆を少し下げ太田山を拜し行が故號ると。」とあるという。
 岬の神社を敬って、帆を下げて通るというのは、瀬戸内海でもある話で、それがこちらに流用されたという感じが強い。いささか根拠の信頼性は?である。
 それは違うのだ、アイヌ語の「ポロ ポㇰ ウシ」大崖の下という意味だというのがアイヌ語源の解説で、たとえそれが正しいとしても、しかも大きな崖の下であることにも異論はないとしても、心情的にはやはりピンとくるところは違うような気がする。

<追記>いつも、ご自身のブログ「落合道人」に、nice!返礼コメントを書いていただくChinchikoPapa さんから、この項について以下のような貴重なご意見をもらったので、参考までにこちらに記録しておきたい。

松前藩によるアイヌ語地名への漢字の当てはめ方は、「音」でひろって後から現地を知らぬ役人が机上で漢字を当てはめたもの(幕府への書上げ=報告書など)が多く、現地の地形や風情を認識したうえで、つまり意味を考えて漢字に置き換えたもののほうが少ないと思います。松浦武四郎のように、現場を逐一踏査してから採取し、しかも意味まで考えているケースは、むしろ例外ではないでしょうか。だからこそ、のちに地名の用字(当て字)について、アイヌ民族からさまざまな異議が出て、カタカナにもどされたところも少なくありません。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。dendenmushiさん by ChinchikoPapa (2017-08-05 14:11)

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▼国土地理院 「地理院地図」
42度15分33.66秒 139度46分36.02秒
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1467 日昼岬・添泊岬=せたな町大成区上浦・富磯(北海道)日昼(にっちゅう=ひるひなか)はとうに過ぎ夕方になったので… [岬めぐり]

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 そして富磯へ行くバスの時刻表問題とは別に、もうひとつ、5年前の小歌岬の記録の中で、自分が書いていたことなのに「はてな?」と思ったことがある。
 今このバスが走っている道は、道道740号線なのだが、それについて「863 小歌岬」の項では「前項で触れたように、この道道740号線は、太田で行き止まりになっている。」と書いていることである。
 ここでいう「前項」とは、「862 湯ノ尻岬・稲穂岬」のことで、そこでは「そのうえ、この太田で道道740号線は行き止まりになっているのである。」とはっきりと書いている。
 一瞬あせった。これって間違いだったのか? 修正しなきゃ? 740号線は北檜山まで通じてるのに!?
 確かに、2017年現在では北檜山まで通じているのだが、5年前2012年当時には、まだ行き止まりのままであって、当時のブログの記載に間違いはなかった。
 つまり、その後この5年以内のうちに、740号線は初めて全通したことになる。では、途中太田で行き止まりになっていたこの道がめでたく開通したのは、4年前の2013(平成25)年のことだったのだ。
 太田トンネルとその北に続く日昼部トンネルとふたつのトンネルが開通することで、初めてそれまで完全に遮断されていた帆越岬と日中戸岬の間がつながった。
 このふたつの岬の間にあるのが尾花岬…。だが、そこへ行くのも容易ではない。
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 まだまだその前に、バスはせたな町は大成区の上浦・富磯を走っている。
 ここには、日昼岬と添泊岬というふたつの岬が連続してあるのだが、この海岸にはいくつもの似たような岩の出っ張りだらけなので、なかなかそれを特定するのがむずかしい。
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 どうして、ここにだけ岬の名がついているのか…という気もするが、考えて見れば、久遠湾には東の外横澗岬から始まって、数百メートルから1キロちょっとくらいの間隔で岬が続いている。
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 久遠の人たちにとっては、昔からそういう目印が必要であったからに違いあるまい。
 それと岬の名前。これも情報がほとんどないのが普通で、なかなか手を出しにくい厄介な問題である。よくわかるもの以外はあまりふれないように敬遠しているが、ここ日昼岬・添泊岬のふたつもまったく意味不明。この付近の地名からも字名からも、それらしい手がかりはない。ただ、「添」は魚の名前からというような情報はないことはないが、まったく納得には至らない。
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 ただ、「日昼」については、読みは「にっちゅう」、意味は「ひるひなか」という昔からよく使われてきた日本語であると思っていたが、どうやらそれは広辞苑には「昼中」や「日中」はあるが、「日昼」載っていない。それが岬の名前になるわけはわからない。
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 日昼から夕方にさしかかったので、西に向かう岬は逆光になり、黒い岬と夕日を浴びる岬が入り混じる。
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 そういえば…。
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 「日昼部トンネル」に「日中戸岬」とありましたよねえ。
 こうなると、なんかないわけはなかろう…。それに北海道の別の場所でもそんな地名もあったような気もする。となると、いずれはやはりアイヌ語源関連ということになるのだろうが、これまた手出しがしにくい。
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 北海道ではどこへ行っても道路脇で目立っているものがある。それはひとつは冬季の積雪時に道路の位置を示す「 ↓ 」の道路標識なのだが、もうひとつがこの交通安全の旗である。色やデザインや文字は、自治体によってさまざまだが、道内で申し合わせか決まりのようなものがあるのだろう。

▼国土地理院 「地理院地図」
42度13分43.72秒 139度48分14.08秒 42度13分52.64秒 139度47分46.43秒
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1466 小歌岬2=せたな町大成区都(北海道)2012年の前回訪問から5年も経っていれば忘れていることもあるけれど… [岬めぐり]

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 小歌岬2として、またこの岬をとりあげるのは、前回の2012年の訪問では、実は小歌岬の上までは行ったのだけれども、どうもその全体の姿が見えなかったからだ。確かにそこには「小歌岬」という小さな杭の標識やこれまた小さな灯台のようなものがあるにはあったのだが、バスの時間があるのであまり周辺を歩き回ることもできずに、畑の中の袋小路に入ってまた引き返していた。
 そのときの経緯は、
に詳しく書いている。今回は、大成学校前で降りずに、そのまま第二富磯の終点まで行くのだが、小歌岬は大成の市街地を抜けて、再び海沿いに県道が出る上浦付近から、バス車窓の後方にどうにか見える。
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 白い灯台もはっきり見えるし、灯台の丘が切れて、その下の海に落ちるところが、細長い大きな岩礁になって伸びている。
 地理院地図では、小歌岬の名はこの岩礁の先端に付けられているが、それはただ単に地図上の文字記載位置の都合であって、岬が灯台のある丘の出っ張りと下の岩礁を一体化してとらえたものであろうということは推測できる。
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 これでやっと小歌岬もちゃんと確認できた。これも、その上に行っても岬がどうなっているのかよくわからないという例で、遠く離れたところから眺めてみて、初めてその全貌がわかる。
 こうして、二度目の訪問にさいして、前に来たときの昔の記録をひさしぶりに開いて読んでみると、「ああ、そうだったのか」と新鮮な気持ちで読めてまたおもしろい。
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 すっかり忘れていることも多いもので、若松ルートの国道の元になった道は商人たちが切り開いたという話などは、さっぱり記憶になかった。5年前に自分で調べて書いていたものを「へーそうだったんだ」と、感心して読んだりしている。
 5年前の行程も、どこをどう通ってきたのか、かなりうすぼんやりとしている。もともと、この岬めぐりは記録も何時何分にどこから何に乗って何時何分にどこに着いたというような旅行記録はほとんど気にせず、それは記録していない。おまけに項目は岬中心でその掲載順も行動順ではないこともある。なので、「あれっ、このときはどうしたんだけっ?」というようなこともたまにある。
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 その「たま」が、ここであった。前項では、
 「実は2012年にやってきたときには、南の乙部町から八雲町の西海岸線を北上してきた。ポンモシリ岬を過ぎたところからせたな町に入り、親子熊岩を経てツラツラ岬を過ぎ、その日は貝取澗のあわび山荘に泊まった。
 翌朝、朝食もとらずに宿の車で宮野まで送ってもらって、なんとか宮野早朝発の北檜山行きに間に合った。」
 と書いていた。
の項を読み直してわかった(思いだした)のだが、実際の行動は、いったんバスに乗ったまま貝取澗を通り過ぎて終点の大成学校前まで行っている。そこから引き返して貝取澗へ戻ってあわび山荘に泊まっていたのだ。つまり、乙部から小歌岬までの岬は、このときの函館バス檜山海岸線の北の端を往復することで記録していた。
*江差町がリンクしているPDF(檜山海岸線)
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 このルートの路線バスは、やはり函館バスではあるものの、若松・久遠線とは別の長距離路線。江差=大成の間を走る路線だった。これが日に3便走っていて、ここにも大成から乗り継いで富磯へ行く便が早朝と午後ある。なかなかややこしい。函館バスのPDFでは、これが微妙に違うのだが、製作時期の問題もあるのだろう。
*函館バス檜山海岸線の時刻表
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 5年前のとき、運転手さんが「富磯行きに連絡するよう待つように言いましようか」と言ってくれたのは、その乗り継ぎ便のことで、これは現在でもあったのだ。
 えーっ! なんのこっちゃ! それを忘れずに覚えていれば、計画もまた組みやすくなったかもしれないのに…。せたな町の掲出している函館バスの時刻表で、第二富磯へ行くのは夕方の1日1便のみとばかり思っていたのだ。
*せたな町が掲げている若松・久遠線の時刻表
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 若松・久遠線ばかりでなく、こっちのほうのダイヤをみていれば、第二富磯行きは日に夕方1便だけでなく、大成学校前で乗り継げば、早朝と午後と合わせて日に3便になるのだ。
 しかもそれが、せたな町の若松・久遠線の時刻表には一言もふれられていないで、第二富磯行きは夕方1本だけになっているのは、いったいどういうわけなのだろう。なかなかミステリアスであります。
*函館バスの久遠線の時刻表PDF
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 誰が悪いのかミスなのかそうではないのかよくわからないが、北檜山から函館まで、亀田・松前・渡島と半島が3つもの名をもつくらい広範囲な営業エリアをもつ函館バスは、ひょっとしてどうやら総身に知恵が回りかねる状態になっているのか?

▼国土地理院 「地理院地図」
42度13分20.35秒 139度48分52.74秒
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1465 茂津多岬3(中茂津多岬・冷水茂津多岬)=せたな町瀬棚区北島歌・島牧村-(北海道)渡島半島の北を区切る狩場山が下るところ [岬めぐり]

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 茂津多岬については、これまですでに二度ばかり項目としてあげていた。ひとつは2012年の訪問ではせたなの水垂岬付近から北を遠望した。直線距離でおよそ29キロ離れていた。

 870 茂津多岬=久遠郡せたな町瀬棚区北島歌(北海道)とりあえずここは遠望で確認しておくだけです

 それからふたつ目、2016年には台風で長万部にも行くことができず、計画を大幅修正して江差から奥尻島へ渡ったときに、46キロ離れた島の最北端稲穂岬からの遠望として、茂津多岬2を項目としていた。

 1442 茂津多岬2=久遠郡せたな町瀬棚区北島歌(北海道)巨大な山塊が落ちる海岸を4つの長いトンネルで抜けるところ

 遠望ばかりでふたつも項目をあげたいきさつや心づもりについても、そこでふれているが、今回はついに茂津多岬3である。いやはや。
 今回も、その岬の上に立ったというわけではない。なかなかの難所なので、やっとどうにか須築の港から1.6キロまで接近した、ということでOKにしたい。
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 茂津多岬のある山地は、国道は海岸から1.3キロもの内陸側を、全長1.9キロもある茂津多トンネルで通り抜けている。このため、道路や陸側からは眺めることができず、北側ではもっとトンネルが断続的に続くので、せいぜい南からのいちばん接近した眺めがこの程度ということになってしまう。
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 もう少し西寄りに位置を変えてみれば、もっとはっきりとこれが茂津多岬だと言えるのだが、バスの都合でそれはできない。
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 だが、ここ須築の旅館に一泊して、翌朝歩いて山登りをするつもりがあれば、岬の上に立つことも可能なのだ。その場合は、旅館の前から国道を須築橋まで進み、トンネルの入口手前から元へ戻るように南向きに斜面を登って行く。150メートルも高さを稼いだところからまた北向きにゆっくりと広い台地上の上を進んだところが茂津多岬の上になる。茂津多岬のコブから250メートル北にもコブがあって、そこは中茂津多岬という名もついている。このラインがせたな町と島牧村の境界線になる。
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 境界線を越えたところに灯台が立っていて、これが茂津多岬灯台。地図では標高270メートルくらいのところにその表記があるが、実はここの灯台は日本一標高の高い灯台なのだという。平均水面上から灯台の先端までは標高290メートルなのだそうだ。灯台の北400メートルのところで海に突き出ているコブには、冷水茂津多岬という名がついている。
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 この台地の上に登れば、つごう3つもの岬が並んでいるわけで、岬めぐりとしては、本来ならどうしても登ってみたいところだ。
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 まあ、10年前ならその気にもなっただろうが、この頃ではもうムリはできないし、おまけにここはクマがよく出る場所としても知られている。
 そういうわけで、ここはとりあえず図上演習で、そこへ行ったつもりになっておこう。まあ、登ったからといって、実は、岬は岬の上に立ってもさっぱりなんだかわからないというのも多いしね。
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 …と、また負け惜しみを言っているが、地形的にはこの台地はなかなかの景観も予想できる。植生もきっとすばらしいのではないか。須築橋からの林道は、車も入ることができる道らしいので、車ならなんなく上まで行けそうだ。それでもクマ承知で観光ポイントとして売り出すには、まだまだなのだろう。
 なぜか見づらいせたな町のサイトでは、「せたな町観光ガイド」2015を紹介しているが、そこには日本一標高が高い茂津多岬灯台の小さな写真が一枚あるきりだ。だが、残念ながら灯台のあるところは島牧村でせたな町ではないし…。
 しかし、その写真の下では「せたな町の観どころはその雄大な自然。総延長72kmの海岸線を彩る芸術的な奇岩の数々は圧巻です。」としている。
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 確かに、せたな町のポイントは、三本杉や親子熊岩(858 長磯岬・親子熊岩=久遠郡せたな町大成区長磯(北海道)しみじみと親子の情愛を感じさせてくれる岩)が代表する海岸線であろう。渡島半島の北で巨大な山塊を従える茂津多の岬だけではなく、北海道最西端の岬(奥尻島を除くと)となる尾花岬もあるし…。大きな地図で一見すると、茂津多の岬と尾花岬は並んでいるように見えるが、尾花岬のほうが5キロも西へ飛び出ている。
 問題は、道はあってもトンネルばかりだったりバスも走っていないということなのだ。
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▼国土地理院 「地理院地図」
42度36分34.32秒 139度49分21.17秒
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1464 弁天岬=せたな町瀬棚区北島歌(北海道)お隣さんの集落は南へ5キロ北へは10キロも先にありますここは須築(すっき) [岬めぐり]

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 須築トンネルを出るとすぐ、またトンネルが続く。これは藻岩トンネルで71メートルの短いトンネルだが、おや?
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 藻岩岬のある580メートルのトンネルが須築トンネルで、須築に近いほうの短いのが藻岩トンネルだという。逆のように思えるが、どういう事情でこういう名前になったのだろう。
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 それにしても、ホントどーでもいいことばかり気にしている。まー、それがこのブログの真骨頂と自負するところでもあるわけなんだけど…。
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 美谷の北付近から、ずっと建物も何もない海岸線が続き、しばらく行くとまたもうひとつの短いトンネルと、台座のような岩の横を通り抜け、カーブを回ると、前方にぽこぽこした小山が見えてくる。これが弁天岬だ。
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 この国道229号線を走る間じゅう、人っ子ひとり見かけることはなかったが、弁天岬の手前で道路工事をやっていて、そこの信号機の横に立っていたおじさんがいた。この人が往復の間で見かけた唯一の人間だった。
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 弁天岬では、この北と南に防波堤が延びる港があり、須築の集落が固まっている。
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 このバスの終点である須築にやってきた。長いこと、懸案にはなりつつも、なかなか来ることができなかったこの路線。三本杉からここまでおよそ25分。運賃は480円也。
 終点のひとつ手前の漁港で降りたのだが、終点の須築もすぐその先で、バスが道の向こうに見えている。
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 このバスが、数分後には折り返してまたきた道を戻っていくわけで、これを逃すと1時間40分後の最終便になってしまい、それだとこの後の岬めぐりの計画がまったく成り立たなくなってしまう。
 せめてもう少し、折り返し時間に余裕があるといいのだが…。バスのほうにしてみれば、ここで何十分も時間を待つ理由はなにひとつないのだ。
 これも、公共交通機関でめぐる岬めぐりではよくあることで、いたしかたない。
 弁天岬という名で、小山の中腹にはちゃんと神社マークがあるので、弁天さんがここにも祀られている。そこまで行けば、あるいは北の茂津多岬も、もうちょっと姿を見せてくれたかもしれない。
 とにかくそんなわけで、須築の滞在時間はわずか3分。その時間ではどこへ行くこともできないので、弁天岬の弁天さんも見えずじまいに終わった。弁天岬という同名の岬は、全国各地にあるが、このせたなの町内にもうひとつあった。それは、太櫓・鵜泊線に乗って行くと途中の海岸の岩礁の上にあったもので、2012年にやってきたときには、そこは車窓から眺めて、項目にあげていた。

   866 弁天岬=久遠郡せたな町北檜山区太櫓(北海道)岬の赤い弁天社に託す人々の願いはなんだろうか

 ふたつの港の間にあって、それを守るようにしてある須築の弁天さんは、せたなの最北端の奥まった集落にとって、決して小さな存在ではないのだろう。同じ町内とはいえ、南の集落である美谷までは5キロ弱も離れていて、北隣となる島牧村のいちばん近い集落である栄浜までは10キロ以上も離れている。
 そんな周囲からは隔絶した集落が須築で、戸数もあまり大きはなさそうだが、結構立派な旅館もある。おそらく、この国道沿いでは、重要な宿泊施設になっているのだろう。
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 地図上の弁天岬の表記は、弁天さんのある小山から西の海に大きく張り出した岩礁と南の港の防波堤の先につけられている。
 北を回りこんできた須築川が、茂津多の台地の下で海に流れ込むところに、自分たちの居を定めようとしたのは、どんな人たちだったのだろうか。
 河口に港をつくり、その港口の小山に弁天社を祀り、その出っ張りを弁天岬と呼んで港の目印としたのだろう。
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▼国土地理院 「地理院地図」
42度35分38.19秒 139度49分27.27秒
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1463 藻岩岬=せたな町瀬棚区北島歌(北海道)この付近では国道229号と国道276号が同じところを走っている? [岬めぐり]

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 虻羅トンネルを出たところの海中には、亀岩、窓岩があり、さらに北の美谷トンネルのところには獅子岩がある。藻岩岬は、その先の横滝トンネルを出ると、前方に見えてくる。
 そこはもう、須築トンネルの山が南西に落ちるところだ。
 虻羅トンネルの北から藻岩岬までの海岸線は、およそ7.5キロほど。
 この間に集落は白岩、島歌、長浜、美谷、北島歌と続き、港も大小3か所ある。トンネルと覆道もふたつあり、5本の川が谷をつくって海岸に達し、滝もふたつ表記されている。
 こういった海岸線は、日本中どこでもだいたい似たような様相を呈しているとも言えるが、北海道の場合には、崖が急峻で、海岸に岩礁や立岩が多く、人家が集まる集落も飛び飛びで少ないということが言えそうだ。それに看板の類もほとんどないので、風景がきれいに見える。moiwamisaki-4.jpg
 こんな看板はあるけれど。(バックミラーに注目。この後ろにまだ続いている。)
 窓岩も亀岩も獅子岩も、それぞれ奇観として人の目を意識してつけられた命名だろうが、それを楽しみに見にわざわざやって来る人は少ない。
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 獅子岩がある美谷トンネルの北側から見ると、その背後に巨大な一枚岩が縦に落ちてきて海岸に突き刺さったように見えるところがあった。実際の生成の過程は、陥没か隆起かによって硬い一枚岩が残ってあらわになった、というものだろうが…。
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 一見ゴジラ岩のような獅子岩を過ぎると、美谷の集落を通過する。海際には国道の標識があって、229と番号がついている。
 美谷付近の地図を拡大してみると、北に神社があって、南のはずれに郵便局がある。考えてみると、郵便局というのは偉大なものだ。小泉郵政改革によってごちゃごちゃにされかけたが、どっこいそのネットワークは日本全国こんな隅々まで、特定郵便局はちゃんとがんばっているぞ。
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 美谷川が流れる海岸道路には、青い逆おにぎり型の国道マークふたつあって、それには229と276と記されている。あれっ、標識は229ひとつしかないのだけど…。
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 車の運転をしない(できない)でんでんむしは、国道のお約束もよく知らないのだが、ひとつの国道がふたつの国道を兼務することは、よくあるらしい。
 国道229号線は小樽市と檜山郡江差町を結ぶもので、国道276号線は苫小牧市と江差町の間の国道であるという。ならば276号線は、どこかで東に向かわなければならないが、いったいどこで分岐しているのだろう。そんな興味が湧いてきてその名を辿っていくと、翌日の岬めぐりを計画している島牧村と寿都から岩内の海岸を進み、倶知安から支笏湖南岸に出て、苫小牧市に達している。
 しかし、国道のシロウトとしては、江差と岩内の間で、わざわざ国道276号と国道229号をダブらせなければならない理由がよくわからない。ついでに江差を見ると、厚沢部川の河口付近の柳崎橋から北へは、229と276だけでなく、途中で熊石から八雲に分かれていく国道277号というのまであり、ひとつの同じ道路に都合三本の国道の名がついていた。
 松前から始まり、松前半島と渡島半島の西岸を北上していく道路には、追分ソーランラインという別の名前もついていた。それもこの先の茂津多岬を境とするせたな町で終わり、その北の島牧村からは雷電国道という呼び名になって小樽までつながっていく。
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 横滝のトンネルを出ると、目の前に現れるのが藻岩岬。
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 藻岩川の北で、須築トンネルがくぐり抜けている尾根が、西に張り出して海に落ちている。この周辺の海岸線では崖が多い。この藻岩岬の南でも北でも崖になっている。
 ところが、ちょうど岬のところだけ、240メートルのピークから、ほぼ等間隔で等高線がきれいに下っている。そのため、この岬は、なだらかな傾斜を描く岬になっている。
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▼国土地理院 「地理院地図」
42度34分35.52秒 139度49分47.05秒
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1462 稲荷岬2=せたな町瀬棚区元浦(北海道)お稲荷さんは見当たらず虻羅の崖のほうにひきつけられてしまうが… [岬めぐり]

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 前項の番外で、北檜山地域の輪郭はなぞってみたが、海側のせたな町が久遠郡で、長万部寄りの今金町が瀬棚郡となっていた。素朴に考えて、「せたな町」が「瀬棚郡」でないのはおかしい。なんでだろ?と思った。
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 せたな町は、2005(平成17)年に瀬棚郡瀬棚町と瀬棚郡北檜山町と久遠郡大成町が合併してできた。こういう合併の場合、どうしてもそのなかでいちばん大きい町などが中心となって、それに引きずられることが多いのだが、ここでは3町の間の力関係が均衡していたのだろう。
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 合併に際しては、3町のそれぞれの顔を均等に立てるように配慮された。その結果、町役場は瀬棚郡北檜山町に置き、町の名は漢字ではなく「かな」にしたうえで瀬棚郡瀬棚町からとり、郡名は他の二町とは異なる久遠郡大成町から引き継ぐということになった。
 大岡裁きのようなまとめかただが、これがわかると、この地域の状況がだいたいよく納得がいく。
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 長万部から乗ってきた函館バスは、北檜山ではなく上三本杉が終点となっているが、そのひとつ手前の三本杉で降りる。バスの運転手さんに聞くと須築への乗り換えは、終点の上三本杉よりも瀬棚市街の北、三本杉のほうがいいだろうというので、そのアドバイスに従った。確かに、ここでは北行きのバス停に二本のバス停標識が立っているが、後で通りがかりにみたら、上三本杉には北行きにはそれがなかった。
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 計画通り2分の待ち合わせで、東ハイヤーのマイクロバスがやってきた。例によって乗客はでんでんむし一人だけ。
 瀬棚須築線と呼んでいるこのバス路線は、函館バスの足が伸ばせないというところなのだろう。町では「運行は(有)東ハイヤーが行い、バス運行に係る経費は運賃収入等、町と北海道からの補助金によって運行されています」とサイトで書いている。どうも実際は町営というより(サイト上のダイヤも別扱い)、せたな町瀬棚区の区営バスというような位置づけらしい。
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 この路線の維持に努力が払われているのは、主に老人などの交通弱者と通学生徒のためであろう。日に4〜5本のダイヤは、瀬棚方面に行く南行きは早朝に、須築へ行く北行きは夕刻に組まれており、日中に使えるのは2本しかない。この路線に乗りその後の若松・久遠線に続いて乗るために、土日ダイヤを避けほかとの日程調整にずいぶん苦労した。
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 旧瀬棚町の地域は、瀬棚区として海岸沿いに広がり、風力発電の風車と三本杉と日に1便だけ奥尻島との間をフェリーが発着する港がある。その北に位置する三本杉からさらに北へ、毎度おなじみの風景が展開する海岸沿いの道を5.5キロほど進むと、この区間最初の岬となる稲荷岬がある。
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 三本杉の北では、梅花都、中歌、元浦、嗣内、虻羅といった集落が点在していて、これらがみんな瀬棚区元浦という地域。岩礁や立岩が続く海岸の先に、岬らしい巨大な岩の飛び出しが見えてくる。
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 これが稲荷岬だ、と言いたいところだが、国土地理院地図の岬名表記は、この岩の間を通り抜けた先、道路がゆるく膨らんで弧を描いているところにつけられている。バスの通りすがりにはお稲荷さんは見当たらず、地図にも神社記号はない。(落合道人ブログのコメントで、これは「トウカ」の原日本語に漢字を当てたのでは、と教えてもらった。なるほど、稲荷社のない稲荷岬もあるわけだ。)
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 漁師の店を看板にした店など数軒の建物があるその付近は、虻羅の集落と港のすぐ手前で、海には岩礁地帯があり、山側にはふたつの小さな尾根と崖が張り出している。
 稲荷岬は、現在はこの丸い出っ張りになっているが、あるいは元はもっと尾根と連動したちゃんとした岬だったのかもしれない。
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 目の前のバスのフロントガラスに、巨大な崖が現れる。このほうがずっと岬らしいが、ここは岬の名はなく、また実態も岬ではなく「クズレ」という記名は崖につけられている名だ。1.2キロに渡って続くこの崖の中を、虻羅トンネルで道路は抜ける。
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▼国土地理院 「地理院地図」
42度29分56.96秒 139度50分36.49秒
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dendenmushi.gif北海道地方(2017/06/30 訪問)
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1461 泊崎(はつざき)=つくば市泊崎(茨城県)かつての地形を想像して特別に岬と認定して一項目に [岬めぐり]

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 干拓地と市境の不思議は、西谷田川のずっと南にもつながっている。二本の谷田川に挟まれた台地は、先細りになってその先端を丸く沼の水面に突き出しているのだが、その先端部の南側の田んぼ一帯が、やはり龍ヶ崎市の領域になっている。
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 前に、牛久沼の水面は全部龍ヶ崎市に属している、と書いていた。ということは、龍ヶ崎市とその沼周辺の他の隣接自治体との境界線は、だいたいにおいて沼の岸で引かれている。それが原則のようなのだが、水面だけでなく、一部では干拓地も取り込まれているところもあるのだ。
 それにも、それぞれなんらかの理由があるに相違ないのだが…。
 つくば市の市域では、最南端部にあたる台地の先端である泊崎の南には、台地の裾に数軒の民家がある。その敷地はつくば市だが、その前の広い水田になっている干拓地と、その先の水面は龍ヶ崎市である。水田の持ち主の家かどうかはわからないが、家の門柱の上には、大きなカエルの石像が乗っかって、沼を眺めていた。こういう台の上に乗っかっているのは、狐とか犬とか、獅子とか、あるいはたまに牛とか、沖縄ではシーサーとか、だいたい相場が決まっている。カエルというのは見たことがない。おそらく、日本中探してみてもここだけなのでは?(筑波山麓にはあるのかエ?)
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   カメからの連想だろうか、背中に小さいのが乗っかっている。こんなことはありえないのだろうが、いかにもありそうに思えるのがおかしい。おんぶカエルはたくさん見てるが、あれはさる行為中のカップルであって、親子ではないし。
 どういう不運がその稀なるカエルを直撃したのか不明だが、左の門柱のカエルの顔はかわいそうに半分かけ落ちているようにもみえたが、よくわからない。
 それにしても、りっぱなカエルだ。こんなでかいカエルの石像を門柱に掲げることにした理由も知りたくなってしまう。残念ながら「ごめんください。通りすがりの者ですが、このカエルは…?」と尋ねて戸を叩くほどの勇気もない。そこらに人影でもあれば、きっと声をかけただろうが…。
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 もちろん、沼とカエルはすぐに結びつく。現に終点でバスを降りて、沼に向かうとすぐにウシガエルの独特の鳴き声が聞こえてきた。が、だからといって門柱の石像には結びつかないし、この付近にそういう慣習があるというわけでもなさそうだ。
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 茎崎から乗り換えたつくバスは、いちおうつくば市の最南端の台地の上に開けた自由ヶ丘を経由して富士見台という住宅団地までやってくる。ここが終点でまた折り返すバスの運転手も、ここで交代するようで、交代の運転手は小型車を運転してバス停で待っている。バスが来ると、バスと小型車の運転を交代して、小型車はどこかへ行ってしまった。どこへ行くのだろう。
 こういう交代は、どこか別のところでもなんどか見たような気がするが、すぐに思い出せない。あれは、富山の氷見でもあったかな。
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 富士見台の住宅地から、ゆるい上りの道を行くと、関東ではめずらしいといっていよい竹林があった。なんとなく城跡っぽい雰囲気はある。
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 …と、竹林のはずれに、なんと「↑岬」という小さな看板があるではないか。
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 おおっ! やっぱりここはれっきとした岬なのだ。
 なおも行くと、なんとこれが「岬食堂」という川魚料理店の案内標識だったのだが、やはりこの台地の出っ張りが確かに「岬」であるという認識の証拠にはなる。
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(これ、「つなぎ」ではなくて「うなぎ」です ↑ 。そんなこたあわかってる? はいそうですよね。)
 つくば市の領域である台地の先端には、地図ではお寺のマークがあり、龍ヶ崎の市域になっている沼岸の平坦部には神社のマークがついている。
 まずは、下の神社から訪ねてみよう。
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 泊崎の平坦部の先端は、大きな樹木も茂っておらず、ただろくに整地もされていない空き地が、沼に面している。いささか異様にも思える光景が、そこには展開している。神社の祠がふたつあるのだが、並んでいるとはいえない。それぞれが近くだけれどもお互い関係ないよね、とでも言い合っているような風情である。
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 しかも、そのひとつのほうは、道路から細い参道があるのだが、それと神社の周囲がぐるりとフェンスで囲まれている。当然、向こう側で抜けられるものだと思ってずんずん入っていったが、祠を取り囲むフェンスは厳重で、出られない。結局元の道路まで戻らないと、抜け出せないしくみになっていた。回りに樹木はないので、隣の祠と鳥居もすぐそこに見えるのだが…。
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 フェンスで仕切られた神社は空き地の南寄りにあったが、隣の祠は空き地の真ん中に鎮座している。この鳥居の扁額には「七浦辨財天」とあり、フェンス囲みのほうは「泊崎弁財天」という名前である。同じ弁天さまを祀っているのにもかかわらず、明らかに互いに別々の神様を祭る別々の神社であることをことさらのように強調している。どうしてこんなことに…?
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 その名からして、フェンス内の弁天さんは「泊崎」を名乗っている。これは沼の水面ではなく、岬のように突き出た台地の突端(つくば市)である。一方の広い空き地の真ん中にぽつんと立つ祠には「七浦」という名がついている。これは明らかに沼の水面(龍ヶ崎市)のあちこちの岸を総称したものと言える。
 それが示していることは、フェンスの弁天さんはつくば市で、空き地の真ん中にある弁天さんは龍ヶ崎市、行政区分境界は弁天さんをも二分しているということなのだろう。
 「七浦辨財天」に氏子や管理をする人がいるとすれば、この付近で龍ヶ崎の市域には人家は一軒もないので、その人たちは龍ヶ崎から船に乗ってやってくるか、茎崎橋などを大迂回し遠回りしてやってこなければならないことになる。
 行政区画とその線引きというのは、おもしろいものだが、いろんなところに大小さまざまな影響を及ぼす。その線引きはどのようにしてできるのだろうか。
 ごく大雑把に言えば、その昔の勢力争い・武力闘争の帰結としての棲み分けが、長年に渡って基本的に継承されてきているから、ということがある。それも、誰が親分か、誰が支配していたかは時代によってどんどん変化するので、一筋縄ではつかまえられないが、最終的には明治の廃藩置県とその中の町村もその線引きを引きずりながら大筋が定まっていた。そのうえに、近年の市町村合併でまた塗り替えられてきた。
 町村単位の線引きは、やはり戦国時代の各地方豪族の支配と、その闘争の拠点となる城と支配地が、大きく影響しているはずであろう。
 龍ヶ崎市にも牛久市にもつくば市にも城があったが、それらはみな当然、周囲からはちょっと小高くなった台地で、戦略的に重要と思われる地を選んで築城されていた。
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 沼の上に張り出した泊崎などは、見るからに城があってもよさそうな場所であった。そして、実際にちゃんとこの台地の上には泊崎城という城があったのだ。
 泊崎城を築城したのは、多賀谷重経という天正年間の地方豪族で、群雄が割拠する1587(天正15)年のことだとされているが、彼がこの地を選んで築城したのは、牛久城と足高(あだか)城でこの周辺の支配を固めようとしていた岡見氏の勢力圏にくさびを打ち込んで分断する、という意図があったとされている。
 牛久城は、現在の牛久市城中町、根古屋と呼ばれる台地付近にあった。そこは泊崎からは東北東に1.2キロほどのところである。また、足高城というのは、泊崎から西へ2.5ほどのところつくばみらい市城中で、やはり当時は沼に突き出た台地の上にあったらしい。現在は台地は水田に囲まれているが城中や足高という字地名は残っている。
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 泊崎にも城跡などの痕跡は既にないが、先端部にあったお寺のマークは太子堂であった。弘法大師の遺徳を偲んで建てられたものだろうが、ここから正面1.3キロ先に見えるのが、龍ヶ崎市の庄兵衛新田町付近になる。北には筑波山も遠く見える。
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 南の展望はあまりきかないが、泊崎の南はつくばみらい市(これもなんだかなあという名前だが)なので、飛び出している泊崎の細長い出っ張りだけがつくば市なのだ。
 まあ、そんなこんなでここは国土地理院が認める岬ではないけれども、諸事情を総合勘案して、岬の一項目に加えることにした。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度56分53.53秒 140度7分16.84秒
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(これをみると、泊崎が龍ケ崎市のように見えますが、突き出た台地の部分は全部つくば市です。それももう何度も聞いたからわかってるって? そうでしたねスミマセン。)
dendenmushi.gif関東地方(2017/06/14 訪問)

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1460 芝崎=三浦郡葉山町一色(神奈川県)もう古い話になったが御用邸をも恐れず憚らぬ埋立地はいかにしてできたか [岬めぐり]

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 でんでんむしが初めて“葉山”という地名を意識したのは、いつなんでだったか、そのことは前に書いたような気がして、長者ヶ崎でSo-netブログの検索欄から探してみても、出てこない。あれ、おかしいなと思ったら、“長者ケ崎”として項目をあげていたからだった。気が利かない検索だ。それを書いた当時の表記が「ケ」だったのでそうしたはずだが、今見ると地理院地図も「ヶ」になっているので、修正しておいた。これで検索でも出てくるようになったはずだ。
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 長者ヶ崎は、南の秋谷方面から順光で眺めるのが、いちばんきれいに見え、しかも堂々とした岬であることがわかる。森戸神社も葉山マリーナのところも岬ではないし、北の逗子市との境界にある鐙摺(あぶずり)も岬ではなくなっているので、葉山の岬は横須賀市との境界になる長者ヶ崎しかないと、そのときにも判断していたのだが、実はもうひとつあった。
 それが芝崎なのだが、以前は単なる埋立地だと思っていたところに、ちゃんと“芝崎”と斜体の岬名表記で明示されている。そこで、遅ればせながら葉山のふたつめの岬としてカウントすることにした。
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 今回は、立石海岸を通ってきたバスを葉山で降り、ここで海岸周りの別のバス路線に乗り換える。停留所は御用邸の門を挟んで離れているので、警備の人が立つ御用邸の門の前を通り過ぎる。すると、そこに立っていた警備の人から、思いがけず「こんにちは」と挨拶をされた。ちょっと驚きつつ、こちらも挨拶を返す。海岸回り線のバス停に置かれた、葉山ロータリークラブが寄贈したベンチに座って、あれはあの警備の人だけの個性なのだろうか、それともマニュアルなのだろうか、と考えた。
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 葉山の海岸は、南の長者ヶ崎から北の鐙摺まで直線で3.5キロしかないが、その間には葉山御用邸をはじめとして、一色海岸、県立近代美術館、森戸神社、森戸海岸、葉山マリーナといくつかのポイントが並ぶ。そのなかにあっては、芝崎はやはり単なる埋立地以外のなにものでもなく、コンクリート護岸に囲まれた住宅団地に過ぎない。その北側の一角は、飲食店なども並んでいるが、大半は高級住宅地である。
 高級住宅地というものは、持たない者からみればひがみの対象にしか過ぎず、こんなところへ家など建てた日にゃ塩害でたちまち困ったことになるのが関の山だなどと、しきりに陰口をいわれてしまう。
 実際、それへの対策から、徐々に個人住宅は減り、高い壁をめぐらしたマンションが、ここでは幅をきかせるようになっている。
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 埋め立ての前には、ここに広い海食台か岩礁地帯が広がっていたに違いない。それこそが芝崎だったはずだ。真名瀬のあたりは、大峰山の西麓の細い海と海と山の間に家が並んでいたが、その家の人達は目の前が埋め立てられてさぞがっかりしたことだろう。六角形をつくろうとして失敗したような形の埋立地がいつできたのか、でんでんむしにはまったく覚えがないのも道理で、まだ関東にやって来る前の1964(昭和39)年にはもうできていた。
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 そもそも、公有財産であるはずの海面を埋め立てて誰かの私有物にする権利というのは、いったいどういうものなのか、なかなか納得がいかない。漁業補償をしたといっても、海や海岸は漁師だけのものではない。当然ここでも、そのときには埋立反対運動も起こったらしい。このとき、おかしなことに町の教育委員会は、海岸を“保護指定から除外するよう”申請を出していたという。
 東京オリンピックを口実にしつつ、船舶振興会に笹川サンや児玉サンといった毎度おなじみのフレーズや名前が交錯し、森戸神社の宮司だった町長の辞職にまつわる奇妙なウワサなどからみつつ、町の大ボス小ボスにフィクサーとゼネコン、お決まりの構造のなか、既得権益層お得意の手法で、“粛々と”埋め立ては運んでいったようだ。はじめは児玉サンの豪邸もここに建ったらしいが、今は大きなマンションが建っている。
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 “葉山”といえば、御用邸のおかげもあって、全国的にもなんとなく高級そうな良いイメージ、おしゃれな感じが先行しているが、町の内実はこの真名瀬の埋め立てに象徴されているように、古い田舎町の一面が支配していた。今はどうなっているのだろう。
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 埋め立て後の現在でも、埋立地の南西部には岩礁が残り、鮫島という岩島群が潮の満ち引きによって現れたり沈んだりしている。その残った岩礁の部分を、葉山町ではこれも遅ればせながら町の天然記念物に指定して保護しているようだ。荒崎などでは生物相が乏しいと書いていたが、葉山の磯ではいろいろな生物が見られる。
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 でんでんむしも、以前この西海岸ではウミウシだかアメフラシだか、そんなのが浅瀬の岩の間にたくさんいるのを見たことがある。そういえば、昭和天皇も御用邸滞在中にはよく磯を歩かれていて、新種のウミウシだかなんだかを発見されたというのを、新聞で見たような記憶もある。
 それらの生物の採集や、この場所での釣りも禁じられているようだ。
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 そうしたルールを守ることを条件に、シュノーケリングなどの磯遊びはできるようだが、駐車場やトイレなどの設備はなにもなさそうだ。ここで磯遊びをするにはそれなりの覚悟と準備も必要なのだということは、この人たちをみればわかる。
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 芝崎から富士山のほうを見れば、菜島と裕次郎灯台が右手に浮かぶ。この灯台ができる前には、でんでんむしもこの辺りの海をボートで漕ぎ回り、五目釣りを楽しんでいた時期もあったが、それも遠い昔のことだ。
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 では、森戸の青い屋根の「デニーズ」にでも寄って、お昼をいただいて帰るとしようか。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度15分59.42秒 139度34分5.32秒
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dendenmushi.gif関東地方(2016/11/29 訪問)
          ■
 さて、10年前から改めて全国の岬をめぐることにしてリスタートしたときに、まずは足元からと三浦半島の岬をめぐるところからやりなおし、So-netブログへの掲載を開始した。
 それから10年を経過したところで、また三浦半島の落穂ひろいを何回かに分けて訪問してきたが、それもこの芝崎で終わる。東海岸は付け加えるべき漏れている岬、以前はなかったのに岬名が加わったというのがないので、西海岸ばかりになった。 
          ■
 2016年の終わりから、 ずっとほぞぼそと引き延ばし作戦で続けてきたが、いよいよ在庫整理も底をついて終わりになった。
 だが、仕事はまだまだ終わらないし、次の岬めぐりはまだ残っている靑森のむつ湾と十和田湖で計画する心づもりはあるものの、いつ出かけられるかもわからない。
 したがって、これからしばらくは新規項目のアップはできない。ちょうどいい機会なので、このままナニもせずにほっておくとどうなるのかも確かめてみたい。
 やっと、地域ブログのわけのわからないランキングからもはずれることができるだろう。 (2017/04/12 記)

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タグ:神奈川県
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1459 諸磯崎=三浦市三崎町諸磯(神奈川県)地図にない岬を探し訪ねてやってきたのは油壺の南ここは浜諸磯 [岬めぐり]

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 「三浦市」よりも「三崎」のほうが名が通っているように思われると、前に書いたが、それは京浜急行の「三崎口行き」の特急や快速が、都心の地下を南北に通り抜けているからで、それを見ている知っている人は東京には多いはずだ。
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 なにしろ明治からの構想を引き継いでいるという都営1号線と呼ばれたその地下鉄路線は、結構複雑な歴史をもっているようだ。その線に京急が乗り入れを開始したのは、1968(昭和43)年頃だったと思われる。(違う鉄道会社の相互乗り入れでは、1962(昭和37)年の日比谷線と東武伊勢崎線のほうがだいぶ早かったが、もっと早いのあるのかな)
 それ以降は、相互乗り入れは盛んに当たり前のようになり、この都営浅草線などは京急線のほかにも京成線や北総線も乗り入れているので、なかなか電車の種類も多くてにぎやかだし、今でもその実態は複雑なのだ。
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 京急の線路自体は北は本線が泉岳寺までで、東は羽田空港まで、西は新逗子まで、南は浦賀と支線があり、本線は三崎口まで(久里浜線という言い方も残っているのか? 鉄オタではないので細部に突っ込まないで)となっている。だが、三崎口駅は終始発駅としてのバックヤードのようなものをもたないので、それは京急久里浜駅がカバーしているのだろう。
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 京急電鉄が経営するマリンパークもある油壺は、いちおう観光地であるが、別荘地でもあった。でんでんむしはそういうものとは縁がないが、ここに別荘をもって、マリーナにヨットが置いてあれば、それは大変なステータスということになるのであろう。
 京浜急行としては、かなり早い段階から、この油壷まで線路を引き電車を走らせるつもりであったが、結局それは断念せざるを得なかったようだ。1975(昭和50)年開業の三崎口駅で線路が終わっているのは、その機を逃した残念さの象徴のようなものだ。それは、三崎口駅の駅前に立ってみればそこはかとなく感じられるはずである。
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 「諸磯崎」という岬は地理院地図やMapionにも載っていないうえに、三崎口駅の観光パンフからももれている。にも関わらず、ここで一項目を立てた理由にはふたつある。ひとつは三浦半島で有名な油壷に岬が全然ないので淋しいこと、もうひとつは地質学がらみでは歴史的にも有名な無視できない場所が近くにあったからだ。
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 北から小網代湾、油壷湾、諸磯湾と深く切れ込んだ入江が連続する一帯は、いわゆるリアス海岸でもあり、湾があるということは岬もそれぞれにあるのだが、なぜかこの付近の地理院地図には、岬の表記が見当たらない。
 諸磯でも“油壺”を名乗る施設や建物が多く、それには別荘ではなく老人施設が多いのがわかる。まあ、老人施設もある意味別荘のようなもんだが…。
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 さらに西へ歩いて行くと、ダイコン畑やキャベツ畑も広がる三浦半島らしい風景が続き、それが終わって海岸へ出たところが浜諸磯。
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 諸磯崎は神社の横を進んでから細い横道を抜けたところに、海食台が開けたところで、白いスタイリッシュな灯台が立っている。この岬の北側が、油壺湾と諸磯湾への入口になっている。
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 ここまでは、三崎層の特徴を示す互層になった岩があるが、油壺から北へは砂岩と礫岩からなる初声(はつせ)層に変わる。
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 諸磯崎のすぐそばまで別荘らしい建物が、わが物顔に迫っている。
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 岬の南側に回ると、高く崖が切り立っている。
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 浜諸磯からは南に三崎港を回って三崎口へ行くバスがあるので、それに乗ると海外町の漁港を通る。このとき、道路を切り開いた切り通しの崖が露出しているが、ここは神奈川県の天然記念物に指定されている地層がある。
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 地層が大きく波打った曲線を描いて、うねっているような模様があるが、これも城ヶ島の灘ヶ崎の項でふれたスランプ構造なのだ。
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 この付近には、ほかにももっと地質学上の見本になる露頭がたくさんあるらしいのだが、まあシロウトの知ったかぶりもいいかげん適当にしておかないとイカンしね。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度9分19.97秒 139度36分27.65秒
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dendenmushi.gif関東地方(2016/11/25 訪問)

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1458 赤羽根崎=三浦市三崎町城ヶ島(神奈川県)洞門がぽっかり空いた馬の背の岩尾根が南に延びる城ヶ島中央 [岬めぐり]

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 赤羽根崎も馬の背洞門も、地理院地図にもMapionにもまったく表記がないが、これも三崎口駅に置いてあるパンフレットには記載されている。城ヶ島のほぼ中央で南の相模湾に向かって、三角に飛び出ている岬の付近には、「赤羽根」という字名がもともとあったらしい。その痕跡は、Mapionに岬の東側の湾内に「赤羽根ビーチ」として記載があるので知れるが、そうするとこの岬に赤羽根崎と名があってもおかしくない。
 このように、地理院地図などには表記がなくても、地元の案内板やパンフレットなどにはちゃんと名前が記されていることは結構ある。当岬めぐりではいちおうの指針が必要なので、地理院地図に記名があるものを拾うことを原則にしているが、地元情報でその名が確認できるものは、極力それも項目にあげるようにしている。
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 馬の背洞門というのは、赤羽根崎の先端部の岩場で、馬の背のように痩せた尾根に大きな穴が開いているところだ。崖もとんがって張り出しているが、その下で洞門をもつ岩尾根が、南の海に向かって伸びている。この赤羽根崎の崖も絶え間なく押し寄せる波浪が、島を削ってできた海食崖であろう。
 崖だけでなく、海岸に広がる平らな岩場も、同じ作用が働いて、岩が均されたようになっている、海食台と呼ばれる場所だ。三浦半島の南端は、まさしく海と台地の攻防、いや攻めているのは海ばかりで台地のほうは守勢一方だから“攻防”は適当ではないのだろう。荒波の侵食をなんとかここで食い止めようと頑張っている最前線の特徴が、如実に表れている場所のひとつなのだ。形勢不利な陸側は、波浪の攻撃に土手っ腹に穴まで空けられてしまう。こういうのを、海食洞穴という。崖に台に穴。海食3セットが揃っている。
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 その最上部はほんの人一人がやっと渡れるというくらいの幅で、かろうじて橋のように残っているが、今にも崩れ落ちるのではないかと心配するほどに危うい。
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 当然、そこには入るな渡るなという標識があって柵もしてある。
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 なかなかの奇観でもあるので、島の名所のひとつになっている。この洞門は島めぐりのコース案内では重要ポイントになっていて、標識や道案内がつくられている。だが、そういう標識や案内板の類では、馬の背洞門はあっても赤羽根崎は存在しないかのようだ。まあ、同じ場所にふたつも名前はいらないということだろうし、見せ物としても岬よりは洞門のほうが印象に残るだろう。
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 今回のコースは、灘ヶ崎から長津呂崎を経て、海岸の岩と砂の間をぬって東へ進み、馬の背洞門の赤羽根崎までやってきた。ここに三浦市が建てた看板には、「明治の文豪、大町桂月…」とあるのだが、文豪とはいえんだろう。どうひいき目に見ても…。今でいう、エッセイストのようなもので、酒と旅を愛して全国各地を訪れては歌を詠み詩を書くという結構なご身分である。美文家と当時は呼ばれたようだが、文豪らしい作品はなにひとつないかわり、たくさんの碑石を日本各地に残している。
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 “馬の背”とは、「馬の背のように両側が深い谷となって落ち込んでいる山の尾根伝いの道(大辞林)」ということだが、“馬の背を分ける(越す)”ということばもすぐ連想で浮かんでくる。分水嶺のようなイメージで理解していたら、これがどうも違うらしい。おなじく大辞林の解説では「馬の背の片方に雨が降り、もう片方には降らないの意で、夕立などがごく近い地域で降る降らないの差ができる状態をいう。」というのだ。まるでフェーン現象だな、こりゃ。しかし、馬の背の左右でお天気が変わるというということがあるわけもないので、これはちょっと疑問だが…。今はちょっとそれに突っ込んでいる余裕がない。
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 赤羽根崎のそばの海には、小舟が一艘浮いている。誰もいない? いますよ。船尾のモーターの横で身体を海面にくっつけるように屈みこんでいる。これは、三浦半島のあちこちで見られる“みづき漁”だろう。後ろに長く細く伸びた竿を使って、海中メガネで海を覗きながら、獲物を突く漁法なのだ。
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 ここからは岬の上に階段と手すりが付けられている道を登って、道なりに北東方向へ進む。すると、県指定天然記念物ウミウやヒメウ、それにクロサギの生息地となっている断崖が見える展望台がある。 
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 半月形に湾曲した小湾を、ぐるりと断崖が囲んでいる。これもまたみごとな海食崖の見本のようだ。
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 Mapionの「赤羽根ビーチ」表記には、遊泳マークまでついているのだが、これはいささか問題であろう。確かにわずかに浜といえばそれらしきものもあるにはあるが、そこへ行くには道はなく、船で行くしか方法はないように思われる。あるいは地図にも案内板にもない秘密の通路があるのかもしれないが、そこは自然保護区域のはずだから、むやみに入って泳いでいいというものではないと思われる。
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 この辺りまでくると、道はきれいに整備された広い遊歩道で、道の縁にはスイセンの株がズラリと並んでいる。
 この道を抜けると、広い自動車道に出て、右に行けば城ヶ島公園、左に行って坂を下れば、城ヶ島大橋への登り口でもある白秋碑前のバス停と広い駐車場に出る。

▼国土地理院 「地理院地図」
35度7分51.44秒 139度37分5.02秒
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dendenmushi.gif関東地方(2016/11/25 訪問)

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タグ:神奈川県
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1457 灘ヶ崎=三浦市三崎町城ヶ島(神奈川県)前にはなかった岬名がいつからかちゃんと明記されるようになった岬 [岬めぐり]

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 城ヶ島も何度か行っているので、この道もあの景色も見覚えのあるものばかりだ。ここ前にも通ったよねとか思いながら、京浜急行の三崎口駅前2番乗り場から乗ったバスの終点から、家の裏の間の細道を抜けて行く灘ヶ崎も初めてではない。
 それなのに、これまでの三浦半島の岬めぐりでここを項目にあげていなかったのは、当時の地理院地図にはその名の記載がなかったからだ。今では、地理院地図もMapionなど他の地図でもちゃんと載せている。そこで、こりゃちゃんと補足しなければ…と改めてやってきた。
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 灘ヶ崎はほぼ東西に横長の城ヶ島では、北東の端にあたる。北側はすぐマグロの水揚げで有名な三崎漁港で、その西の入口を守る長い防波堤が、岬の端から伸びている。遠目に見るとほとんど両者はつながっているようにも見えるが、灘ヶ崎の先端でいったん切れ、その先から防波堤が始まっている。
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 大きな岩が尾根のようになって、西の富士山に向かって伸びていく。この日は、前日は雪が薄く積もったが、もうすでに溶けて、めずらしいくらいの秋晴れのお天気になった。
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 楫(かじ)の三郎山という、いかにもなにかありそうな(三浦市の建てた説明板を読んでも不得要領)小山が、バス停終点の先にあるが、この山の北側には道がない。南側をすり抜けていくと小山の上に祠があり、そこから眺める灘ヶ崎が最高だ。
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 この城ヶ島の西端では、ここから南の長津呂崎にかけて、またここから東の城ヶ島一帯では、同じような何十枚もの板を重ねたものを斜めに傾けたような岩の層が、一帯に連続している。大小さまざまな、板棒きれを並べ突き出したような景観が続いている。
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 ここらではそれが崖ではなく、低い岩のでこぼこになって、海に向かって広がっている。これが三崎層で、城ヶ島付近ではその露頭が目立っているのだ。
 三崎層は1200万年前から400万年くらい前までの間に、大洋の海底に堆積した岩で、火山由来の噴出物である灰や岩滓が、積もり重なり固まった岩の互層になっている。
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 おおまかに言えば、白と黒が互い違いになっているが、白いのが火山灰が泥(シルト・粘土)となって固まった岩石で、黒いのが火山噴出の岩滓(スコリア)を含む凝灰岩の層になっている。それがかなり広範囲な露頭として大規模に展開している。三崎層は、三浦半島でも東は雨崎と剣崎の間から、西は油壺の南の浜諸磯を結ぶ線から以南と荒崎と佐島の一部に限られる。ほとんど半島南端を中心として分布している。
 互層になっているということは、1200万年前から400万年前という期間には、交互に違う噴出物を吐き出す大規模噴火が、間を置きながら何度も何度も繰り返されてきた、ということになるのだろうか。
 それも想像してみると、かなり不思議なことのように思え、いったいどのようにしてそういう現象が起こったのか疑問に思える。しかし、専門家はそういうことにはあまり疑問を感じないらしく、どのようにすればこういう互層になるのか、そのことについてあまり明快には教えてくれない。
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 あるサイトのページには「プレートの沈み込みに伴う付加体に特徴的な逆断層によって、同じ地層が繰り返し出現しています」という三崎層に関する説明があったのだが、悲しいかななぜ“逆断層が特徴になるのか、それによって同じ地層が繰り返し出現”することになるのかがわからない。
 まったく、ドがつくシロウトはどうしょうもなく困ったものだし、説明の下手な専門家にも困ったものだ。もちろん、専門家の仕事のメインがシロウトのご機嫌をとりむすぶことにはないことも充分に理解しているつもりだ。が、それは両者の意識と知識と疑問のもちかたに、大きな断層があるからなのであって…。
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 それでも、地質学の研修フィールドにもなっているらしいこの半島の地質については、それぞれ専門の方々によるいろいろなサイトやページがあり、教わることが多くておおいに感謝しています。
 そんな情報のなかには、見慣れない用語がたくさん出てくるので、シロウトはその意味から調べて理解しなければならない。
 灘ヶ崎の南すぐ、城ヶ島灯台の下には、城ヶ島京急ホテルがある。その横の崖には、黒いスコリア質凝灰岩の層が、まことに奇妙な形にねじ曲がり、のた打ち回ったような跡がそのまま固まってしまったようにして固まっている。
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 それはスランプ構造というものらしい。海底に堆積したものがまだ固まらないうちに斜面を滑り落ちる(海底地すべり)などして、このような形になったのだという。なるほどねえ。それはなんとなく想像ができます。ただ、ここの写真があまりうまくなかったので、それはまた後で…。
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 そして、その大洋の海底が、1年に数センチずつ西へ西へと動き、それを日本列島のプレートの端まで運んできて、その下に潜り込んでいくときにその一部がこすり付いた。
 城ヶ島で見ている三崎層は、そういうものだったと知ると、なんか楽しくなってくる。ねえ、そう思いませんか。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度8分13.84秒 139度36分38.43秒
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1456 長井松ヶ崎=横須賀市長井三丁目(神奈川県)岡崎の岬が松ヶ崎とはこれいかに火山豆石もわからんとはこれいかに [岬めぐり]

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 荒崎も公園からのコース順路に従えば、だいたいはどんどんびきという狭い入江を右に見て、佃荒崎のほうに進むことになるのだが、その北西側にも大きく岩場と丘が張り出している。その丘は城山とも呼ばれていて、実際に城塞のようなものがあったらしい。海に出っ張っているとはいっても、さほど戦略的に重要なポイントになっていたわけでもなさそうだ。この荒崎城には、三浦介義明の次男である三浦義澄が居城として住まいしていたという。
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 和田義盛の居城もその点では同じことだが、三浦にしろ和田にしろ、この時代の鎌倉武士は、土着の勢力圏、あるいは自分で切りとった勢力圏に住まうという、土着の武士団を形成していたので、最初から戦略的な眼で居城を選定していたわけではなかろう。
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 幕末には、彦根藩が荒崎の西に台場を築いたとされるが、彦根藩も幕命にしたがってここでその任についただけで、三浦や和田の時代とは武士もまったく性格をことにしていたわけだ。
 荒崎も何度か行っていて、昔は今よりももっとバスの便が悪かったような気がする。そこで、長井から荒崎まで延々歩いたことも記憶にある。そのときには小田和湾に沿って海岸線を歩こうと決めていて、道のないところはコンクリート護岸の上を歩いてぐるりと荒崎まで回った。途中、港のそばの護岸いっぱいに建物が建っているところもあって、結局海岸線を全部回り切ることは、無理だとわかった。
 そのコースの途中には、仮屋ヶ崎というバス停もあるのだが、そこには全然岬らしいものはなかった。また岡崎というところも同じだが、その先端まで行ったので、ここも前に来ている。しかし、ここも地図にはない岬なので、そのときには岬という意識がまったくないまま歩いて通りすぎていた。
 井上成美旧邸跡から下ってくる道と合流する付近には、熊野神社や住吉神社があり、それぞれ古い昔の漁村を守ってきた。そこからさらに北へくねくねする海岸を2.5キロも歩くと、長井漁港の北に張り出た岡崎に着く。
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 長井岡崎公園から西には、結構大きな団地がある。県営らしいが、棟と棟の間もせせこましくなく広く開いている。その間を抜けると、目の前に岩礁地帯が現れる。そこが長井松ヶ崎。
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 ただ、字地名は岡崎なのに、岬名は松ヶ崎だからねえ。地図にもないとなればこれはわからなかった。たまたま三浦半島の地質情報を集めたサイトでその名を知ったので、めでたく一項目追加。
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 そのサイトとは、トップページに海外町のスランプ構造をあしらった「三浦半島の地層・地質」というもので、いろいろ教えてもらい参考にさせていただいた。
 長井松ヶ崎として、この地質サイトが取りあげていたのは、ここには火山豆石があるからのようだった。“火山豆石”というのも、あまり聞き慣れない名前だ。
 その説明によると、「火山灰でできた丸い変わりアメ玉のようなもので、中心部は火山砂や小さな礫でできていて、大きさは直径数mm〜数cmの小さな丸い石」ということらしい。
 どうしてこのようなものができるかというと、火山が水蒸気爆発を起こしたとき、噴出物の粒子が核になって水分が細かい火山灰を引き寄せてくっつけ、空中を飛んでいる間にどんどん灰が固まって膨らんでいき、このような火山豆石となるのだという。
 へえー、ですね。まったく自然の現象とは…。
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 けれども、その自然現象がどこにあるのか、松ヶ崎の岩礁を歩いてみても、これか?というようなものになかなか出くわさない。シロウトの悲しさか、岩の上に小さな点々がたくさんあるので最初はそれかと思ったが、単なる貝だった。やっぱりなにか案内があるといいのだが…。
 そういう自然現象は、まだ人類が知らない太古に起こったものばかりとはいえない。三浦半島では、1923(大正12)年の関東大地震によって、陸地が1.5メートル近く隆起したのだというのだから…。
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 1.5メートルというと、この長井松ヶ崎の岩場も、荒崎や城ヶ島の海食台も、三浦半島の岩場はみんな関東大震災によって初めて陸上に出てきた…ということになりますねえ。
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 自販機を並べた横に、“駄菓子・文房具・ゲーセン”とこども三題噺のような小さな看板を出している家が、岡崎のバス停前にあって、なんかおかしかった。

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▼国土地理院 「地理院地図」
35度12分33.45秒 139度36分35.09秒
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dendenmushi.gif関東地方(2016/11/29 訪問)

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1455 お仙ヶ鼻=横須賀市長井六丁目(神奈川県)尾を引いているモノもちがいい横須賀市の説明看板と“お仙”って誰? [岬めぐり]

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 この横須賀市の案内板の説明文で、「黒くて硬い凝灰岩と、白くて軟らかい砂岩・泥岩」というのはわかりやすくてよい説明だ。そのふたつの層が洗濯板のようにでこぼこしているのは、侵食作用だけではないと踏み込んだ説明、「水分を吸収して膨張収縮しやすい砂岩・泥岩層が、水分を吸いにくい凝灰岩層との間で長い年月をかけて変化してきたためと考えられています。」というのもよい。たいていの人は、これでなるほどとうなづけることだろう。
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 だが、残念ながらそれだけでは、肝心のプレートの移動で海底の堆積物が削り取られてきたという説明が抜けてしまう。確かに堆積ではあるのだが、三浦半島が海にあった頃に堆積したというわけではない。やさしく説明するというのは、むずかしいものだ。
 また、堆積したというだけでは、この付近の海岸の岩の層が陸に向かって斜めに傾きながら飛び出しているのをみれば、なかなかすんなりとは腑に落ちないであろう。
 堆積するときは上下に順に堆積していたはずだが、その堆積層がプレートに押し出され押し付けられて、陸地側に乗り上げるように重なっていった…そう考えるとなんとなく「そうかあ」という気にもなるのだが…。ところが、たいていの本の付加体の説明図では、陸側が沈み海側が持ち上がるように描かれ、これと逆向きの傾斜で示されている。その矛盾を説明した本はない。
 とにかく、それだけではなく、もっと激しく複雑な力がさまざまに交錯していたことだろう。想像もつかないようなエネルギーが働いて、変成し変形した。そのことはこの岬の地層にもうかがえる。
 幾重にも折り重なる砂岩と泥岩の互層を眺めていると、想像はとうてい及ばないながら、不思議な気持ちになる。
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 …あれっ。ちょっと待てよ。横須賀市がこれを建てたのは…昭和52年?
 1977年だなあ。プレートテクトニクス理論が発表されてから10年近く経っている頃だけど、まだそれが広く浸透していたとは言い難いから…。これが書かれたとき、どの程度それを踏まえたのか踏まえてないのか、よくわからない微妙なところだ。というのは、日本の学会がプレートテクトニクスの受容でまとまるまでには、10年以上の歳月を必要としたからだ。
 首都圏から至近距離にあり、各大学の地質学研究室の実地研修なども盛んに行なわれている場所を抱えながら、とにかく40年前の説明をそのまま使っている横須賀市は、実におおらかでのんびりしているというか鈍いというか。
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 荒崎の弁天島をさらに東へ行くと、小さな浜と急にびっくりして飛び出たような小さな岬がある。ここがお仙ヶ鼻なのだが、その名は地理院地図には載っていない。載っていないが、ネット情報では釣り情報などたくさんの項目が拾い出されるくらい、よく知られている岬らしいので、項目を追加することにした。
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 お仙ヶ鼻は植生に覆われていて、三崎層の崖の周囲は歩けないので、これを石段で乗り越えなければならない。小さな岬と書いたのは、地図を見ての印象で、実際にそばに寄ってみるとなかなか大きい。ちょうど先端部の岩棚に立っていた釣り人を見てそれが実感できる。
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 その東に出ると栗谷浜(くればま)漁港があり、特養老人ホームのでかい建物が目立っているが、この上がソレイユの丘で、その下の先が佃嵐崎(つくたらしざき)となる。
 このあたり、項目の順序は、地図上の順にはなっていないで、行ったり来たりしている。実際の行動も、北から順に南へとか、きれいに計画的に動けなかった。何日かに分けて、あっちへ行ったりこっちへ来たりしているのは、近場だからとぶらり散歩のつもりで飛び出して、バスの都合その他で細切れになったからである。
 また、歩いているうちにおやこんな岬もあった…。じゃせっかくだから、ついでに入れておこうと、ずいぶんラフで無計画な出たとこ勝負になっている。
 お仙ヶ鼻もそんななかで“発見”してしまった岬なのだが、この名前の由来もあまりはっきりしない。“お仙”さんという女性にまつわるな何らかの話があるのだろうとは想像できるが、その確かな情報がどこにもないらしい。
 このテでよくあるのは、その女性がこの場所で不慮(あるいは覚悟の)の死を遂げた…という話だから、ここももしあるとすればそんなところだろう。が、そういう話の多くは事実に基づくものというより、誰かが思いつきで喋ったのが、だんだん尾ひれハヒレが付いて、もっともらしくなっていってしまう。…というのもある。
 地図には載っていない名前が、ネット情報などではどんどん広がって膨らんでいくというのも、なにかおもしろいのを通り越して、ちょっと気味が悪く思えたりする。
 そんなん感じもしながらお仙ヶ鼻のネット情報をみていると、釣り情報などに混じっていた、「nagainokaze」という人が書いているページに目が止まった。その人は、このお仙伝説は、房総の“おせんころがし”の話を伝え聞いた、ただその「背景は移植されないまま」の連想から生まれたのではないか、というのだ。
 なるほど。それはあり得る。案外、そんなところが正解だったりして…。
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 この岬の西には、昔の“火サス”に出てきそうな白亜の豪邸(いかにもいわくありげな)とその敷地が広がっている。その敷地とお仙ヶ鼻の境にあるツワブキか何かの黄色い花も咲く細い階段を登って…。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度11分38.57秒 139度36分29.62秒
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dendenmushi.gif関東地方(2016/11/29 訪問)

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1454 荒崎2=横須賀市長井六丁目(神奈川県)栗谷浜ルートになぜか失敗10年ぶりの荒崎で「付加体」の意味を考える [岬めぐり]

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 10年ぶりの荒崎は、長井からソレイユの丘経由のバスに乗り、ソレイユの丘で降りて栗谷浜に出るつもりだった。ちょうど長井のバス停ダイヤにもその便が明記されていたからだ。ところが、時間通りにやってきたバスは、ソレイユの丘に行かず、まっすぐ荒崎まできてしまった。運転手さんに聞くとこれは行かない、ひとつ戻って漆山のバス停のとこから上って行けという。じゃああの時刻表はいったい何なんだよ、ちゃんと星印がついてソレイユの丘経由とあるじゃないかと、問い詰めたいところだがそれも虚しい。それに第一、近頃どこでもなにかと文句を言ってくってかかるオヤジが多いので、あれと同じようにはなりたくない。
 ぐっと呑み込んで、まあこっちは余裕でどっちでもいいんだからね。それじゃあ、と一般ルートで荒崎公園に向かうことに。
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 荒崎は三浦半島のなかでも、観音崎、城ヶ島、油壺…と数えあげても、何番目かに有名な場所と言えるだろう。潮が満ちたり干いたりする岩とその間に小さな砂浜が挟まっていて、海岸に続くでこぼこした岩場には潮だまりもある。そんな海岸を多くの人が歩いてすり減った踏跡を辿りながら岩を乗り越え、ときには潮が満ちても渡れるようにコンクリートで補強された細い道をつたって歩くことができる。
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 家族連れなど大勢の人が、海の香りを楽しみにやってくる。磯伝いの道は東西に向かい、北側は30メートルくらいの崖が続くので、冷たい風も遮られ、南に開ける海の向こうには伊豆大島が見える日も多い。そしてもちろん、西にはお約束の富士山が…見えるときもあれば、見えないときもある。
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 尖った岩の角にさえ気をつければ、こどもを遊ばせるのにもいい場所だが、決して大人が眼を離してはいけない。ただ、こども目線で考えれば、ここはやはり人が常に多く出入りすることもあってか、小さな魚介類や海藻など磯の生物相が乏しくさびしい。
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 周囲に緑も花も少ないけれど、そこに変わらずにある岩の様子をみると、いくらかおもしろいこともあるのだ。
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 三崎層という地層が縞になっている崖の下は、斜めになった板状の岩が重なっているような風景を見せている。
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 なにしろその風景こそは、遠い遠い昔、ここが日本列島に最後に付け加わった陸地だという証拠なのだから…。
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 三浦半島の地層は、ちょうど半島を東西の線でいくつかに切り分けたように池子層・逗子層・葉山層群・初声層などと北から南へ重なりながら並べたようになっている。いまからおよそ1200万年から400万年くらい前にかけてできたとされる三崎層は、半島の南端部と荒崎、佐島の一部、つまり三浦半島の南部を構成している地層なのだ。
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 でんでんむしは、地質学を正規に学んだことはない。まったくのシロウトなのだが、昔からその関係の本をいくらか読んできた。その興味は浅く広い。だが、そうした一般の幅広い興味に応える書物は、昔はまったくなく専門書ばかりであった。
 その昔の専門書では「地向斜」というのが幅をきかせていたが、どれを読んでもそれがどういうことなのか、なかなか自分でイメージを得るように理解できなくて困った記憶がある。学者の書くものは、どうしてこんなにもわかりにくいのだろう…その思いをいっそう増幅させる一因ともなった。
 今では学会的には「地向斜」はどこかへきれいに片付けてしまわれたようで、いつのまにかすっかり影をひそめてしまったが、それにかわってよく出てくるようになった用語が「付加体」。でんでんむしが最初に接したそのことばは、確かに「付加帯」とされていたので、てっきりそうだと思い込んでいた。
 2010年のはじめに高知県の岬めぐりに出かけたとき、四万十帯についていくつか書いてきた。これが付加体に改めてちゃんと眼を向けてみた最初だったのだろうか。
 その後、専門を一般向けにくだいた地球科学関連の本もいろいろ出るようになったし、最近ではネットにもそういう情報がたくさん公開されるようになって、より詳しく知ることもできありがたいことだ。
 おかげで「付加体」については、どうやら自分なりのイメージを膨らませることができる。でんでんむしは勝手に、これを説明するにはごはんつぶがついたしゃもじを想像するのがよい、と考えている。
 そのごはんつぶのついたしゃもじを、茶碗や皿の縁に当てて、ゆっくり動かしていくと、ごはんつぶがその縁に重なってたまっていくだろう。そこで、ひょいとしゃもじと茶碗や皿をいっしょにひっくり返す。
 その状態で、こそぎとられ縁にくっついているごはんつぶが「付加体」なのだ。そう考えるとわかりやすい。(珍説?新説!)
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 で、荒崎にみられる三崎層は、日本列島で最後に(今のところ)くっついたごはんつぶなのだ。そして、三崎層は三浦層群に含まれ、それはさらに大きくみると房総半島や丹沢とともに四万十帯の東の端っこを構成している。
 土佐清水の竜串に行ったときには、実は思いもしなかったのだが、そこにも三崎層が存在していた。四国の西南端と三浦半島はつながっていたのだ。
 しかし、やはり「付加体」などという生硬な専門用語は、なかなか一般には浸透しにくいとみえて、自治体の立て看板の説明文などではこれを省いている。横須賀市が荒崎に建てている案内看板では、「数千万年前、まだ三浦半島が海底であった頃に堆積した黒くて硬い凝灰岩と、白くて軟らかい砂岩・泥岩の層により形成され」たなどという表現をとっているのだが…。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度11分38.82秒 139度36分1.08秒
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1453 佃荒崎=横須賀市長井四丁目(神奈川県)和田義盛の地盤だった和田の里から長浜海岸へ出て北へ [岬めぐり]

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 佃荒崎を「つくたらしさき」と読むらしい。「だ」「ざ」と濁ることもあるようだが、「つくだあらさき」がつづまったものだろう。またその北側にある小さな漁港は、栗谷浜と書いて「くればま」と読むということも、なずなさんのサイトで知った。
 こういうのは地元に密着している人でないとなかなかわからない。この人の「花の家(神奈川県三浦半島の自然)」サイトは、三浦半島を隅々まで歩き尽くして、その風景の写真動画だけでなく、コースマップの自作からダイヤモンド富士そして半島の花々などなど、まことに内容が充実していて、まったく見上げたものである。個人の制作するサイトで、広告やポイント稼ぎが目的ではないもので、このようにすばらしいものがあるのは、とてもうれしいことだ。敬意を表して紹介させてもらった。
 でんでんむしも昔はサイトを自作していたが、めんどくさくなってより手間の少ないブログに転向してしまった。だが、自作のサイトにはやはりブログではできない魅力もある。
 前に荒崎に来たときに、どうしてここも項目にあげていなかったのだろうと、記憶を辿ってみると、どうもそのときはソレイユの丘から直接海岸に降りようとして降りられなかったので、そのままになっていたのかもしれない。
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 今回は、長井の南にある初声町和田でバスを降りて、そこから佃荒崎の南側をみることにした。和田の北で横須賀市は終わり、赤羽根付近からは三浦市になる、
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 三浦半島で和田といえば、和田義盛である。三浦大介義明の孫にあたる義盛は、この和田に居を構えて治めていたのでその土地の名を姓として名乗っていたわけで、バス停和田から海側に向かって道路を入るとすぐに鳥居がある。その神社の境内に“和田義盛旧里碑”なる大きな石碑が建っている。また、そこからさらに海に近く寄ったところには、和田氏の拠点であった館城の跡を示す碑が、民家の庭先を削るようにして建っていた。いや、削ったのは民家のほうであろう。
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 1213(建暦3)年の和田合戦は、北条義時の専横と挑発に不満をもつ御家人と兵を挙げ立ち上がる。和田勢はよく奮戦し、義時邸、大倉御所、大江広元邸を襲撃し、源実朝も避難しなければならなかった。だが、起請文を反古にした三浦義村の裏切りもあって、由比ヶ浜に敗れる。江ノ電の和田塚は、このときの敗軍の死者を埋葬した地とされている。
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 海岸に出たところは、和田長浜海岸という。地元の人は「なはま海岸」と呼んでいると、これもなずなさんのサイトにはあった。長浜の意味だろうが、長さは逗子海岸よりも短い。そのかわり逗子海岸のように、浜のすぐ上を道路が通るようなこともないし、砂浜の幅はこちらのほうがずっと広い。道路から離れているうえに、海岸線は北からも南からもアプローチできないので、人もあまり多くなく穴場であるという。
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 長浜の北が佃荒崎、南は「058 黒崎の鼻」である。黒崎の鼻は逆光になって文字通りの黒崎だが、ここも最近ではガイドマップのコースに入っていて、みんなに知られるようになった。
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 長浜の北の砂浜で横須賀市と三浦市の境界線を越えるので、三浦市の和田から、佃荒崎へはまた横須賀市に戻る。
 佃荒崎の上はソレイユの丘になっているが、地理院地図の表記は「長井海の手公園」となっていた。“海の手”とは新造語であろうか。
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 三浦半島は大きな山も川もあまりない。半島最高点の大楠山が241メートルで、武山200メートル、南部の岩堂山が82メートルと目立つくらいで、あとは凸凹はむろんあるものの、全体的に見れば標高50メートル足らずの台地状になっている。それは、遠くをみた写真でもわかるように、遠目にはテーブル状といってもいいくらいだ。
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 その分、海岸からは崖状に立ち上がるところも多く、台地から道が海に降りるところは限られる。海岸線も海のそばを道が通るところは少ない。
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 この佃荒崎から荒崎にかけての海岸線は、半島のなかでも貴重ななぎさを歩けるコースなのだ。
 ところが運悪く、このときには佃荒崎を越える道の部分が工事中であった。これではおもしろくないので、予定は変更してなぎさを歩くのはやめた。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度11分29.73秒 139度36分31.94秒
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1452 観音鼻=横須賀市佐島一丁目(神奈川県)三浦半島の落穂ひろいと半島南部を主に占める三崎層はここ佐島から始まる [岬めぐり]

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 三浦半島はいわば地元なので、岬めぐりを本格的に全国展開する決心をしたときに、まず足元からと始めた経緯がある。その手始めいや足始めが「054 観音崎」(2006/12/01 再訪)だった。しかし、それから数えてももう10年を経過している。
 先日、地質関係でひさしぶりに三浦半島の地理院地図をつぶさに辿ってみていたら、前には項目にあげていなかったところが数か所あることがわかった。前に見落としていたという可能性は低いので、その後地理院地図に岬名が加えられたのだろう。
 加えて、地理院地図にはないが、そう呼ばれているという名前が判明したものもあったので、それらをまとめて、“三浦半島の岬・落穂ひろい”に出かけることにした。
 「観音崎」から始めた第一期についで、第二期三浦半島は「観音鼻」から。この間、およそ10年間で1450項の岬をめぐってきた勘定になる。
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 JR横須賀線の逗子駅前の2番のバス停からは、三浦半島西海岸のうち北部へ行く京浜急行のバス路線が数本ある。そのなかに「湘南佐島なぎさの丘」行きの直行便というのがあるので、それに乗って終点まで行く。
 三浦半島は、赤い電車とバスも京浜急行(正式社名は「京浜急行電鉄株式会社」で略称は「京急電鉄」と称しているが、一般には「京浜急行」のほうが通りがいい)の縄張りで、毎度お世話になっている乗客の一人だが、小さくて狭いこの半島エリアでも、バス路線は生活路線のみの視点で線が引かれているらしい。逗子駅から南へ、半島の西海岸を行くバスは、最長でもその半分の位置にある長井までしか行かない。
 ついでのことに電車京浜急行線の三崎口駅まで行けばいいのにと思うが、そうはなっていない。それにも理由はあるのだろう。
 佐島はその長井のもっと逗子寄りの手前で、国道134号線から南西に少しはみ出している出っ張りの一帯を指す地名である。その丘の上に京浜急行が開発して売り出した住宅地の真ん中がその直行バスの終点で、これも京急が自分で開発した住宅団地だから、ムリにでも維持しなければならない路線なのだろう。
 佐島へ行く路線は、ほかにも佐島マリーナ前まで行くのがあるが、それは国道134号線を通るルートで、直行便は途中湘南国際村を経由する独自のルートを走る。混雑する国道は、逗子市内と秋谷と芦名くらいしか通らないが、それでも30分はかかる。
 今回新たに“発見”した観音鼻は、この丘の下で小田和湾に南面している。地名がやたら出てきても、他地域の人にはわかりづらいので、京急電鉄の現地案内所のサイトを紹介してみると、こんな感じ。
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 空撮写真の中央下がなぎさの丘で、その上から海岸線を辿って北へ行くと、芦名、秋谷、そして葉山に入って長者ヶ崎、芝崎、森戸と続き、逗子湾の大崎、鎌倉の稲村ヶ崎、江ノ島、湘南海岸から大磯の高麗山へと富士山の眺めが展開している。
 観音鼻は、なぎさの丘から左へ、漁港の脇でちょこんと緑の小島がくっついたようになっているとこがそうだ。その左上に長く突き出しているのは天神島。それに囲まれた湾内が佐島マリーナの係留地になっている。
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 天神島は横須賀市の臨海自然教育園となっていて、ハマユウが自生する北限地となっている。昔ここにきたときにはまだ自然という名が多少は残っていたが、いまでは建物が増え東側は護岸、西側にわずかに自然の海岸が残っている。
 分譲地自体は、いまではもっと家が建っているが、それでも予定通りとはいかないらしく、最近では他のデベロッパーの名前で建売住宅などを売り出しているようだ。
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 分譲住宅地から丘を下ったところは、昔から続く古い漁師町の佇まいも感じられ、魚屋さんが朝早くから店を開け、買い出しに来ている人が集まっているといった風景も見られる。
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 観音鼻というのは当然ここに観音堂があるからで、その入口には十一面観音があるという看板が立っていた。だが、簡単に拝観できるような雰囲気ではなさそうだ。
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 この観音さんの小山いや小島も、海岸線の住宅地の拡大によって、当然のように陸地と一体化していったものとみえる。
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 三浦半島の地質は三浦層群と呼ばれ、主に北部は逗子層・池子層で、南部が三崎層と初声層などからなる。素人目には逗子層と三崎層の区別がなかなかつきにくいので困るが、佐島の付近は三崎層の泥岩と砂礫岩が互いに重なりあう地帯の北限だ。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度13分20.94秒 139度36分39.66秒
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1451 ツバクラ岬・女郎ヶ岬=福島町字岩部(北海道)大雨に見舞われて行けなくなってしまった岬 [岬めぐり]

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 小谷石ではなく福島町で泊る計画にしていたのは、福島町が地元のタクシー会社と契約してデマンドバスを運行しているからだった。通常のコミュニティバスとは違い、予約が必要らしい。これが吉岡から岩部までの海岸線を中心に、日に5往復していることがわかったので、宮歌のペンションという名前の民宿へ泊まり、翌朝いちばんの便で岩部まで行くつもりだった。
 それで岩部まで行けば、ツバクラ岬は目の前にあるし、海岸を走るところからマツクラノ岬も見えるだろうという心づもりだった。
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 国道228号線の海側が少し膨らんで、そこには広い砂利を敷き詰めたコンブ干場をもつ家が並んでいて、民宿はその間にある。部屋からは津軽海峡が目の前に広がる。
 この民宿から数百メートル西側の地下を、青函トンネルが通り抜けているはずだ。吉岡は北海道側のトンネル工事の拠点になっていたところで、海峡線と称していた頃には、吉岡海底駅という駅もあったが、通常の旅客の扱いはせず、もっぱら工事用だったと記憶している。これに対して本州側には竜飛海底駅があった。
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 民宿のおばさんに、トンネル工事の頃には宿も大繁盛だったのでは、と水を向けてみると、その頃にはまだ開業していなかったという。民宿ではどこでもありがちなことだが、ここもお仕事で長期滞在するおじさんたちのグループがいた。
 翌朝の朝食時になると雨はほとんど豪雨状態で、道は川になるようなありさまだった。
 やはり岩部までは行ってみたかった、というのは本心だが、この雨ではどうしようもない。いくらか覚悟はしていたとはいえ、かなりの降り方なので、この日の岩部まで行くという予定は変更して、朝のバスを待って木古内へ戻り、早めに東京へ引き上げることにした。幸い、小谷石も前日に終了しているので、もう心残りはない。
 今回の道南と奥尻の岬めぐりは、出だしから函館本線の不通でつまづいて、ずっと計画の変更を重ねてここまできたが、最後もまた大幅な修正である。考えてみれば、JR北海道とJR東日本の乗り放題フリーパスの恩恵は、ほとんど受けてなかったわけだ。
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 頭から雨合羽をかぶり傘をさしてバスを待つ間も、ザンザン降りだったので、写真どころではなかったが、どっちにしても岬などはさっぱり見えなかった。それでも、まだ早朝の雨足がゆるやかだった頃に、宿の窓から撮ってみた。矢越海岸の断崖は、よく見ればぼんやりと影があるかないかという程度だった。
 少し言い訳をしておくと、「でんでんむしの岬めぐり」は、全国の岬をできるだけ網羅したいとは思っているが、決して“制覇”や“踏破”を目的としていない。そのときの状況次第で、行けなかった岬も行けた岬も、それぞれがその岬との縁であったわけで、それを大切にしたいと考えている。
 そんなわけで、ツバクラ岬も、その手前の女郎ヶ岬も、前日の夕方の晴れ間に見た遠望だけでよしとすることになった。
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 ツバクラ岬の西にある岩部の小さな集落は、岩部川の流れる谷間の河口で、少し奥まっているので、斜めに遠くから見たのでは、ほとんどそれは見えない。その手前にトンネルがあるが、漁港はこのトンネルのこちらにあるようだ。
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 女郎ヶ岬も小さなトンネルで抜けているようだが、その場所の特定もむずかしいが、岩場があるあたりだろうか。その左手に三角の岩島が目立っているが、これは日出の白糸の滝付近で、このあたりの海岸には覆道がいくつも連なっている。それらも、翌日は雨のなかでなにも見えなくなっていた。
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 宮歌の氏子沢のバス停から、松前と函館を結ぶバスに乗り込んで、カッパを脱いでリュックにしまい傘を畳んで、やれやれと一息つく。木古内までは55分もかかる。この松前半島の先をめぐっている国道228号線を走るバス路線は、旧松前線の代替でもあったが、線路がなくなったのは1988(昭和63)年。だからもう全線廃止からも久しいので、かつては鉄道が通っていたことも遠い昔で、今ではもう誰も代替などという意識もあるまい。
 ともかく、いちおうこれで今回も積み残しになった檜山・島牧地区の一部を除いて、曲りなりにも道南の岬めぐりは終わる。
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▼国土地理院 「地理院地図」
41度30分24.40秒 140度20分47.33秒
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dendenmushi.gif北海道地方(2016/09/05〜06 訪問)

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1450 マツクラノ岬=松前郡福島町字岩部(北海道)小谷石から岩部までおよそ10キロ弱くらい断崖の無人の海岸線 [岬めぐり]

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 前項の矢越岬は、北東側の小谷石からの眺め、つまり知内町の領域だけだったが、南西側の福島町からの遠望も最後につけていた。
 矢越の白い灯台が見えるのはこれだけだ。といっても、それは写真を拡大してみてはじめてわかるのであって、なにしろ15キロも離れているのだから、よーく見ると白いものが…という程度だから、見えないというわけではないものの、肉眼でも見えると言い張るにはちょっと苦しい。
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 矢越岬灯台の点灯は1957(昭和32)年で、海面からは96メートルのところにある。ここに灯台を建てるために、小谷石から山の中を電柱を立てケーブルを引いた。あれっ! そういえば、地理院地図には矢越岬灯台のマークが付いていませんね。この付近では白神岬灯台に次ぐ、重要灯台のように思えるのだが…。
 この灯台とマツクラノ岬の写真は、その日のうちに小谷石から知内出張所のバス停に引き返し、そこから松前に行くバスに乗り換えて、福島の海岸に降りたときに撮ったものだ。このときには、小谷石で今にも降り出しそうだった天気が、ほんの少しの間だけ晴れ、沈む夕日が照らす矢越海岸を浮かび上がらせていた。これはまさに奇跡的であった。
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 というのも、その宵の口から雨が降り出し、翌日は豪雨のようになってしまい、二度とこの景色も見えなかったからだ。
 福島町は、本州の地名を冠した町のひとつで、福島出身者が多く移り住んだからだろう。こういう例は北海道にはいくつもある。札幌と千歳の間にある北広島などはそういう町のうちでは大きいほうだろう。その町には「◯◯カープ」と付く名前の少年野球チームが8つもあるという。
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 福島町には、横綱千代の山・千代の富士記念館があるし、青函トンネル記念館がある。いずれも町立。予定を変更したので、時間調節のために降りて見学しようと思ったら、どちらも休館日であった。
 ついていないときはしかたがないもので、マツクラノ岬へも翌日にコミュニティバスのようなもので岩部まで行くつもりだった。その道中の海岸線からは、もう少し近くからマツクラノ岬を望むことができるはずであった。
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 それがダメになったので、マツクラノ岬もこの次のツバクラ岬も、このほんの僅かな間だけ弱い夕日に薄ぼんやりと浮かびあがった遠望だけになってしまった。
 したがって、だいたいのところしかわからないが、まあいたしかたない。
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 矢越岬の西2.6キロのところにあるマツクラノ岬は、南西寄りから眺めると少し左寄りという位置にあたる。
 山むこうの知内町との境界になる尾根が、左手に高く伸びていく。その下の海岸線は断崖がむき出しになっているのがわかるが、どこが沢なのかまではわからない。
 地理院地図では、矢越岬の西にはツヅラ沢川と船隠の川、タタミの川が記されている。このうち船隠の川が流れ下るところに船隠島があり、その河口左岸の端がマツクラノ岬となっている。
 船隠の川は狭い谷を流れているようで平地はないが、矢越岬寄りのツヅラ沢川の河口付近はほんのちょっとだけ開けている。そこは船着場用に四角く掘られたような形跡もあるのだが、ここには戦後の一時期には樺太からの引揚者の集落があったのだという。
 なんでこんなところに…と思いをめぐらせていくと、引き揚げてきた人をすぐに受け入れるような態勢は、その当時に整っているはずもなく、仮設住宅もなかっただろう。
 引き揚げてきても、そこは見知らぬ土地。しかたなく、誰も見向きもしないような場所を見つけて住もうとしたと考えると、哀しくて胸が詰まる。千島列島の国後島からの引揚者が、奥尻島でいちばん辺鄙な神威脇に移住したというのと合わせて…。
 (誰ですか、お先マックラ…なんてダジャレでまとめようというのは…。でもね、そうでもしないとなんか気分も晴れませんしね。)
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▼国土地理院 「地理院地図」
41度30分54.25秒 140度22分36.48秒
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dendenmushi.gif北海道地方(2016/09/05〜06 訪問)

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1449 矢越岬=知内町字小谷石・福島町字岩部(北海道)郡と町との境界線にある岬の周辺はちょっとした秘境のようだが… [岬めぐり]

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 矢越岬はなかなかの景観といってよい。小谷石からクルーズ船も出ているらしいし、最近ではテレビでも何度か取り上げられているようだ。なので、船で行けばもっとそのそばから、形のよい岩の岬の上に神社の鳥居や灯台がのっかっているのが見えるのだろう。
 こちらは、小谷石の無名岬からの遠望のみである。そのクルーズ船から見た写真などは、たくさんネットにあるので、そちらを参照してくだされ。
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 木古内を出るお昼すぎにはまだ晴れていたお天気も、バスで南に下るうちにどんどん雲が出て広がり、小谷石ではすっかり薄暗くなるほど怪しくなってきた。
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 怪しいといえば、古い昔の記録もかなり怪しい。「知内町史」の年表は『大野土佐日記』のほかにも『北海道巡回紀行』や『松前落穂集』などいくつかの記述を抽出して併記してあるのだが、それぞれの史料でずいぶん違いがある。
 たとえば、荒木大学の没年は、前項では『大野土佐日記』によって1260(文応元)年の蝦夷蜂起によるとしていた。ところが、年表では“建長年間(文応より前です)”の蝦夷蜂起で「荒木大学頭及ヒ官吏等皆殺サレ」という『北海道巡回紀行』の記述や、1428(正長元)年の蝦夷蜂起のため「荒木大学が討ち死にした」という『松前落穂集』の記録が並べられている。
 つまり、この「知内町史」の年表のうえでは、荒木さんは都合3回死んでいることになるのだ。
 古い怪しい資料の見方・扱い方はなかなかね、悩ましくむつかしいところです。
 それに負けず劣らず怪しいのが、もちろんネット情報ですね。
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 “矢越”という名前からはまあだいたい想像できる状況はあるのだが、念のために探ってみると、「コトバンク」の「矢越岬」の項には、“日本大百科全書(ニッポニカ)の解説”として、“江戸時代に幕臣荒木大学が武運長久を祈って放った矢が大岩に突き刺さり、そこを矢越と名づけたという伝説がある”と、堂々と書いている。
 ヤヤヤ!?…ですよね、これは。あるいは同名異人がいたのかもしれないけど、ここでいう荒木大学は鎌倉時代の話で、江戸時代じゃないし幕臣でもない。いろんな情報がこんがらがっているのを、適当につなぎ合わせた結果そんな解説ができてしまったようだ。「コトバンク」も「日本大百科全書」もあまり信用ならんということですかね。
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 伝説と言えば、ここにも義経伝説はある。伝説は伝説という見本のように話はいろいろで、ひとつは“東北から逃れてきた義経が、この岬にいた妖怪に矢を放って追い払った”というもので、またひとつは“この岬周辺で大荒れの天候に見舞われ、岬に向けて矢を放ったところ、岬を越えて矢が飛んでいき、天候が回復した”というもの。
 まあ、どちらでもお好きなほうを…。
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 ほかに矢越について知内町史の年表に出てくるのは、1655(明暦元)年に“松前藩の家老蛎崎広林が矢越八幡宮を建立し弓矢を奉納。[祭神記・社掌大野重教]”とある。
 知内町のサイトでもこれを補足して、“松前家老蛎崎光林が、蝦夷蜂起による出征の際、武運長久を祈願して建立し、弓矢を奉納したと伝えられている神社で、ここより南西に見える矢越岬におかれています。”としている。ここでいう「ここ」とは、でんでんむしが矢越岬を眺めている小谷石の無名岬と同じ場所のよう(集落からは見えないので)である。
 音が同じなのでどこかで違ったのだろうが、“広”か“光”か、どっちが正しいんでしょうね。古い資料には写し間違い書き間違いも多いので、まあどうでもいいんだけど。
 知内町史の年表には、もうひとつ矢越について別の記述がある。
 1205(元久2)年の項に、“七月廿三日海上安全にして當國矢越迄無着於此處為武運長久の矢二筋さし上る…」[大野土佐日記]”とあるのだが、主語が欠落しているのでピンとこない。年号から見ると荒木大学が上陸したときのことらしいが、このときとするとその前には“舟漂流に及び、日久しくやらで、舟中の水相切らし…”という記述があるので、とても海上安全どころではなく、どうもわからない。
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 和人の感覚で矢越の漢字を当てはめたのは、後からのことであろう。別の情報によると、“矢越”は、アイヌ語で「ヤクシイ(内陸を通るところ)」が語源だという。矢とも弓とも関係がない。その音で「ヤクシイ」が「ヤコシ」に聞こえたとしてもおかしくはない。どうやらヤクシイに矢越という字と読みを当てたことから、矢に関した話が創造されたとみて間違いあるまい。
 では、アイヌ語の意味がわかれば納得かというと、多くの場合これがまた簡単にそうはいかないのでヤヤコシイ。
 ただ、この場合の(内陸を通るところ)というのは、海岸を通ることができないから…という意味なのだろうか。そうであれば、確かにそのとおりでわかりやすいし、納得もできるのだが…。
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 確かに、道路も新幹線もここを避けるようにして内陸を通っている。上磯郡知内町と松前郡福島町の境界線となる尾根が下る大きな山塊が、人を寄せつけない。断崖絶壁が連続している海からもまた、人が入り込むのは容易ではない。
 だがまた、そういうところへ入り込んで、八幡宮を建てようとした人も、この岬の上に灯台をつくろうとする人間の努力も、まことにたいしたご苦労なことである。
 1845(弘化2)年に矢越岬を踏査した松浦武四郎という人は、幕末から明治にかけて蝦夷地調査に活躍した。われわれがなにげに使っている「北海道」の名は、実はこの人が考え名付けたもので、自らの号も「北海道人」と称していた。
 1957年に点灯した矢越岬灯台は、小谷石の側からでは見えないが、反対側の南からだと遠望でも白くはっきりと見える。しかしまあ、すごいところに建てましたねえ、この灯台。
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▼国土地理院 「地理院地図」
41度31分2.17秒 140度24分31.85秒 41度31分0.73秒 140度24分29.61秒
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dendenmushi.gif北海道地方(2016/09/05 訪問)

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1448 小谷石の無名岬=知内町字小谷石(北海道)砂金の魔力が人を動かしこの地域にも人が入り込み蝦夷との抗争も… [岬めぐり]

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 小谷石のバスの終点は集落の南にあるが、ひとつ手前の滝ノ澗で降りて少し引き返す。そこには無名だが、なんとなく記録しておきたいような出っ張りがあるからだ。道路がカーブして小谷石の集落と港を抱える入江の北側で、立石と岩島のあるところは、岩礁が埋め立てられて護岸ができ、駐車場やトイレがあるスペースになっている。これができたのは、1999(平成11)年で、その名も「イカリカイ駐車公園」というのだそうだ。
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 この無名岬にそういう整備工事がわざわざ行なわれたのには、当然理由があるだろう。それは、矢越岬の展望スポットが必要という理由ではないか。
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 入江は浅い凹み程度で、深く湾曲しているわけではない。しかし、ほんのわずかの角度のズレでも、視界は大きく制限されてしまう。その奥にある集落のなかに入ってしまうと、矢越岬はもう見えなくなってしまうのだ。
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 小谷石の漁港の南側にも、ちょっと大きく張り出した岩峰があるので、集落からはその陰になる矢越岬は見えない。だから、その展望を楽しむには、集落の手前のここで足を止めなくてはならない。
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 もちろん、さらに歩を進めてその出っ張りを回りこんで行けば、もっと矢越岬には接近することができる。地図を見ると、回りこんで少し先までは建物もあり道らしきものもある。
 そこまで行ってみたいとも思ったのだが、バスの終点からそこまで歩いてまた引き返してくるには、時間が不足している。折り返しのバスが出るまでわずかしか時間がないのだ。
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 なにしろ、小谷石まで往復できる便はこれだけだから、逃すわけにはいかない。ま、そういうわけで、手前のここで降りて、折り返しのバスを捕まえることにした。そのほうが若干時間にも余裕ができる。
 道の脇から、展望台へ登る鉄製の階段ができていたが、そこまで登るほどの時間はない。小谷石には数軒の民宿もあるので、泊まることも考えてはいた。だが、矢越岬以西の行程を考えると、そういうわけにもいかない。
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 「知内町史」には、「小谷石に初めて定住したのは万右衛門・市助・惣重郎という者で入居は宝暦以前、延享・寛延の頃」という記述がある。
 延享・寛延年間といえば、1744〜1750年頃のことで、町史の年表にもたびたび出てくる『大野土佐日記』という史料が書かれたのは、その後すぐの1751(宝暦元)〜1829(文政12)年の間くらいだろうとされている。
 これがまた、“北海道最古の古文書”とかいうスゴイものらしいが、史料としてはいささかその信ぴょう性に難もあるらしい。
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 「1445 狐越岬」の項では、「金山には当たらなかったけど温泉は出た…」と書いていたが、この金に関する記述もこの史料によって「知内町史」が年表に収録されていた。実は、それによると金もまったく出なかったわけではなく、砂金などの記録がいくつかあったようだ。
 そして前述の幕府の調査で結論が出たかと思いきや、1874(明治7)年になってもお雇外国人のアメリカ人、H・S・モンローが道南から道東にかけての地質調査を行なっている。その際にも砂金の埋蔵量調査のため知内に来る、という記録も残っているから、金に対する人間の欲望はどこまでも計り知れないものがある。
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 小谷石に人が定住を始める500年以上も前から、この付近に人が入り込んでいたのも、もともとは金を探し求めてやってきたのだった。
 将軍源頼家の命によってこの地に派遣されたのが、甲斐国いはら郡領主荒木大学であったというのはなるほど甲斐の国かあ、と納得させる。だが、その荒木らの一行が、まず最初に人の近寄りがたい矢越岬を目指したというのは、どういうわけだったのだろうか。彼らは、“矢越岬から渚づたいに涌元へ行って上陸”したと『大野土佐日記』は書いているが、それは1205(元久2)年のことであったという。
 しかし、1260(文応元)年の蝦夷蜂起により、“荒木大学ほか掘り子全員が土に帰”ったと、その史料は記している。また、1457(長禄元)年には、南條季継の脇本(涌元)館が、コシャマインとの戦いで落城している。
 “蝦夷征伐”というのが、この当時北を目指した和人のキーワードであったし、それからも長くアイヌとの抗争は続くことになる。
 そして、1789(寛政元)年に道東で起こった“クナシリ・メナシの戦い”の終結をもって、和人の蝦夷支配体制が固まっていく。
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▼国土地理院 「地理院地図」
41度32分7.29秒 140度25分43.84秒
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1447 ナマコ岬=知内町字小谷石(北海道)この岬について書いている記事もほかにないだろうけど書けることもないので… [岬めぐり]

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 涌元から小谷石の間には、人家がまったくないと書いていた。したがって、涌元築港前のバス停から小谷石集落の東、滝の澗バス停の間3.8キロには、バス停がひとつしかない。ひとつでもあるのが不思議なようなものだが、そのバス停の名は“亥の子キャンプ場”。
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 ナマコ岬はそのバス停の南で、“逆くの字”型にちょっと膨らんだところである。キャンプ場がどこなのかよくわからないし地図にも記載がないが、海岸の道路脇のところか、あるいはちょうどバス停付近から一本だけ山にはいる細道があるので、それを登っていくのかもしれない。
 ナマコ岬という名も、なにも根拠なしにつくような名前ではなく、いかにも何かありそうだが、単純にナマコが獲れるところから…というようなことでいいのだろうか。
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 大方の地球上の生物に共通して言えることでもあるが、ナマコもなんでこんな生き物がいるのだろうかと不思議に思う。西洋ではカキについて同じような話が有名だが、夏目漱石は『吾輩は猫である』で、ナマコについて似たようなことを書いている。もっとも、それは名無しの猫が語る本文ではなく、「珍野苦沙彌先生虎皮下」として「在巣鴨 天道公平」なる得体のしれない人物から届いた意味不明の手紙のなかでであり、しかもフグとの合わせ技で出てくるだけだ。そこでは、「…始めて海鼠を食い出せる人は其膽力に於て敬すべく、始めて河豚を喫せる漢は其勇気に於て重んずべし。」としている。苦沙彌先生はともかく、漱石先生自身ははっきり西洋では有名な話を念頭に置いてのことだろう。
 しかし、でんでんむし的にはフグはともかくナマコはカキとともに比較的馴染みがあって、これを食べることにさほどの胆力は必要としなかった。昔からよく酢の物や大根おろしと合わせてコリコリと食べていた。たいして栄養にもなりそうでもないが、その食感や珍味を愛する食文化もおもしろいものだ。歴史的にみても、『延喜式』に載っているくらい古くからの食材であったようだ。食べていたのと同種かどうかは不明だが、潮が引いたあとの広島湾の海岸には、ネズミ色のナマコはそこらじゅうにごろごろしていた。
 それにしても、ナマコに“海鼠”という字を当てるほうにも、相当な胆力がいるのではないか。なにしろ、ネズミですからね。当て字の天才だった漱石先生も脱帽だろう。 
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 瀬戸内海の海岸では、わりとそこらにいたものだから、暖地性の生物かと思えば、北海道や青森でもよく獲られていて、乾物として利用する香港に輸出されているという。
 とりあえず、北海道にナマコ岬があってもおかしくないことはわかったが、それ以上のことはわからない。
 このナマコ岬付近の道は、岬から南は少し西に振れながらも南北に走っているが、ナマコ岬からはちょうど津軽海峡を挟んで、真東に正対して40キロ先が、下北半島の最北端、大間崎の弁天島にあたる。
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 また、南側の遠くにもうっすらと陸地の影があるが、こちらは南南西33キロ先の津軽半島の最北端、龍飛崎付近ということになる。
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 津軽海峡は国際海峡なので、ロシアや中国の船が通ってもOKなのだ。日露戦争のときには、バルチック艦隊がウラジオストクに入る航路として、津軽海峡ルートも真剣にその可能性が検討されていた。また、またもっと前に遡ると、開国以前からこの海域でのロシア船の往来がいくつもの歴史的事件事実として記録されている。当初は道東がその舞台だったが、だんだんと海峡を経て当時の行政の中心地であった松前に事件の現場は移ってくる。
 1786(寛政6)年のロシア商船による津軽海峡通過、1793(寛政5)年の大黒屋光太夫ら漂流者6名を連れてのラクスマン来航などを経て、1799(寛政11)年には幕府は松前藩の知内川以東浦河までを幕府の直轄にした。
 1811年(文化8)年にはディアナ号の艦長ゴローニンが捕縛され松前に移され監禁、続いて高田屋嘉兵衛船の拿捕などがあった。
 日米和親条約締結後、アメリカのペリー艦隊が箱館へやってくるのは、ゴローニン事件から43年後の1854(嘉永7・安政元)年である。
 はるか沖合を、大きなタンカーのような長い船が航行していた。それはどこの船だったのだろうか。
 ナマコ岬の南南西800メートルのところには、低いながら峠を越える出っ張りもあるが、そこには岬の名はついていない。その代わり、海岸の岩島には影泊島という名がつけられている。
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▼国土地理院 「地理院地図」
41度32分53.26秒 140度26分11.69秒
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dendenmushi.gif北海道地方(2016/09/05 訪問)

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1446 狐越岬=知内町字小谷石(北海道)金山には当たらなかったけど温泉は出た知内町にはふたつのトンネルがある [岬めぐり]

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 海岸からは離れた山寄りの知内町内を走り抜ける新幹線のトンネルは、都合6つもあるのだが、道路トンネルはふたつしかなく、そのふたつとも涌元から小谷石へ行く道の間にある。
 長磯岬と孤越岬の間を抜ける“しおさいトンネル”は、330メートルくらいの長さしかない。涌元漁港のところにあった“いさりびトンネル”(こちらのほうは地理院地図にも記名がない)はその半分もなかったが、どちらもトンネルの名前としてはくだけている(くだけたるトンネル名はまったく例がないわけではない。三浦半島の佐島にも同名のしおさいトンネルがある)。だいたいは地名や地域名がつけられることが多いので、決まり切った名になるのだが、このふたつのトンネルについてはちょっと違う。それは、公募で命名したからだろう。
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 “道道小谷石渡島知内停車場線トンネル名公募”は、1995(平成7)年に行なわれている。そして、“しおさいトンネル”のほうは1997(平成9)年に完成しているのだが、“いさりびトンネル”については町史の年表にその記述がない。
 トンネル名公募とトンネル完成の間には、豊浜トンネルの崩落事故(1996(平成8)年)が起こっている。これはかなり衝撃的な事故だった。この岬めぐりでもその現場を通ったことがある。また、定点観測でもアクセスが多い岬としてあげていたのが、この岬だった。
 とくに同じような断崖絶壁を掘り抜いたトンネルが多い北海道内では、他所事ではなかった。その年には、工事中の“しおさいトンネル”の前で安全祈願祭が行なわれている。この事故以降、道内のトンネルの付け替えが各所で進んでいる。
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 前述したように、涌元以南小谷石までの道路は、1964(昭和39)年の開通であるから、このトンネルはそれからおよそ30年ほどしてから開通している。ということは、それ以前には別のトンネルないし旧道があったわけだ。
 長磯岬側は見えなかったが、孤越岬側には岬を迂回する旧道があったことが、車窓からも壊れかけたガードレールなどが見える。それで、そこに道があったことを伺い知ることができる。
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 旧道は岬の尾根を回り、その先にある岩島との間をすり抜けて走っていたらしい。この旧道もすでに、地理院地図からはその痕跡もみえない。
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 孤越岬の岩島(と書いているがこれは島ではない。だが、岩山というよりは岩島のほうがなんとなくぴったりするので)の岩肌は、黄色や赤く見える崖が露出している。
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 見るからに、マグマが噴出したときに水と接触して水蒸気爆発が起こり、それが冷却されて破砕されたような形跡であるが、知内町には温泉も湯ノ里の知内温泉やこもれび温泉がある。発電所の西側山裾にあるこもれび温泉は、同名の温泉が蔵王にもあるが、知内町のはプールなども備えた健康保養センターという公営の立ち寄り湯である。そこはバスでその前に立ち寄っただけだし、湯ノ里の知内温泉のほうも福島への往復で通過しただけ。
 このふたつの温泉は東西に1キロ弱の距離があるが、町の境界線の山から海まで伸びる断層の上に並んでいるようにみえる。
 いつできたのかはよくわからない(年表から探せなかった)がこもれびのほうは比較的新しい温泉なのに対し、知内温泉のほうは古い。なにしろ、“北海道最古の歴史を持つ温泉地”というのだから…。
 その開湯は、1247年とされている。宝治元年のこの年は、北条時頼が三浦泰村を討ち果たし、三浦氏が滅亡するという宝治合戦があった年である。
 アイヌの間では知られていたのだろうが、和人で最初にこれを発見したのは、源頼家の家臣荒木某という伝承も残っているらしいが、その人物はもともとは金山を探すためにこの地の探索に入り偶然に温泉にあたってしまったということのようだ。
 金山の話は当時かなり知られていたらしく、その後も長い間さまざまな動きもあったようだが、1766(明和3)年に至って幕府が派遣した目付の点検によって、金山の利益は期待できないとの報告があり、それで決着したということになったらしい。

▼国土地理院 「地理院地図」
41度33分12.33秒 140度26分19.03秒
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タグ:北海道 歴史
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1445 長磯岬=知内町字小谷石(北海道)小谷石で行き止まりになる道道531号線の涌元以南は半世紀前に開通 [岬めぐり]

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 蛇ノ鼻岬の次に現れるのは長磯岬だが、その前にちょっと追加しておくと、前項の蛇ノ鼻は涌元のほうから眺めたもので、いさりびトンネルというトンネルに入る前のことで書いていた。
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 しかし、国土地理院の地理院地図の岬名表記は、トンネルを出て東へ港を離れ、道路が90度にまた南へ向いてカーブする先の岩場につけられている。だが、この岩場は道路よりだいぶ低くて、目立つところではない。やはり岬が岬として認識されたのは、この岩場ではなくてその上に張り出した岩の崖と尾根を指してついたものであろう。
 このように、港の岸壁のすぐ隣に岬があるという例は、非常に多いが、それもまた船の出入りの目印でもあったからだろう。
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 長磯岬は、蛇ノ鼻岬のカーブを回るとすぐに見えてくる。
 細いが長い岩が突き出ているのが、その名の所以だろうか。
 そして、その長磯岬の向こう側には、もうひとつ別の岬も頭を出してくる。これは狐越岬で、このふたつの岬は、しおさいトンネルという350メートルのトンネルの北と南にある。つまり、トンネルの北側から見れば長磯岬で、南側から見れば狐越岬、ということになる。狐越岬のほうが長磯岬より大きく長いので北からは両方が見える。
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 知内町の年表によると、この涌元から南、小谷石までの道路ができたのは、1964(昭和39)年のことで、それから小谷石まで初めて路線バスが走った、とある。道道531号線が、行き止まりになる小谷石まで伸びてからは、半世紀ほどしか経っていないことになる。
 現在の住所表記では、蛇ノ鼻岬からが字小谷石になっているが、涌元から南の海岸線には人家はなく、道が終わる次の集落がバスの終点、小谷石である。
 では、道路が開通するまではどうしていたのだろうか。ムリに細い海岸伝いの道を通ったということもあるだろう。また、大方は船で往来していたのだろう。
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 知内町の西隣りにあるのは福島町だが、このふたつの町と郡を分ける境界線の南部では、岩部山から丸山と700〜800メートルの山塊が居座っていて、その尾根の南端が矢越岬となっている。
 小谷石からも矢越岬は越えられず、道もそこで行き止まりになっている。ここらが、道南の秘境たるゆえんであろう。
 海岸線が周回できないので、知内と福島を結ぶ国道228号線も、海峡を潜ってきた新幹線も、この山塊の北側で知内川が流れて尾根が切れるところを選んで通り抜けている。
 知内も涌元までは海岸に沿って平地が開けていたが、蛇ノ鼻岬からは山地にぶち当たるので、国道は知内川を渡ったところから西へ向きを変えて、知内温泉のある峠道を目指して、山を迂回している。
 そういう地理的な概念を、改めて確認しておくために、地理院地図で俯瞰してみよう。
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 この1キロ縮尺図と500メートル縮尺図では、蛇ノ鼻岬の位置表記が間違っている。この図で蛇ノ鼻岬とあるところは長磯岬であって、実際の蛇ノ鼻岬はその北側のカーブのところになる。
 町の年表では「知内町史」に、
 
「寛政2年正月2日いのこ泊り蛇の鼻の間に赤石と申処へ寄鯨」があったため、検分の役人・足軽武川七右衛門は両村の村役人の立ち会いのもとに蛇の鼻以西は福島の支配地と申し渡した…
 
との記録があるとしている。寛政2年というのは1790年で、伊能忠敬の測量隊がやってきて知内に泊まる10年前のできごとである。
 だがこの記録には、いささか不明な点、不審な点がある。
 まず、“いのこ泊り”と“赤石”の場所が、現代の地図からは探せない。赤石トンネルというのが白神岬の北東にあるが、これは離れすぎているので関係ないだろう。
 “寄鯨”というのは文字通りだろうが、それと“蛇の鼻以西は福島の支配地”となることの因果関係がわからない。なぜにそうなるのだろうか。
 それに、“以西”というよりも、“以南”というべきようにも思えるのだが…。
 この前後の記録がないのでその後どうなったのかは不明だが、このクジラがきた(あるいは漂着した?)ときには、知内と福島の境界が矢越岬から蛇ノ鼻へ大きく動いたことになってしまう。
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▼国土地理院 「地理院地図」
41度33分19.79秒 140度26分15.36秒
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1444 蛇ノ鼻岬=知内町字小谷石(北海道)道南一帯に路線網が広がるダイヤの見にくい函館バスでなかなか行けなかった岬へ [岬めぐり]

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 なかなか行けなかった岬というのは、北隣りの木古内町と同じ上磯郡の知内(しりうち)町にある岬である。知内町へ行くにはまず、木古内から小谷石行きのバスに乗る。ここも函館バスの路線バスが走ってはいるのだが、この運行時刻がやたらヘンテコで不便にできている。
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 終点の小谷石からの折り返し便の函館行きが13:31で終わってしまうからだ。これが、以前からまったく改善されていないのは、とにかく“小谷石への日帰りは許さない、必ず一泊しろ”という強い意思が働いているともとれる。 
 今回は通りすがりのついでではなく、2日とってこの知内町とその先の松前郡福島町の岬をカバーすることにしたが、小谷石には泊まらない。
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 とにかく、この路線で往復することが可能なのは、1日1本だけしかない。木古内12:35発のバスで、これが小谷石に着くのは…。函館バスの時刻表を見ても…??。 バス停の表記はいたしかたないとしても、サイトではちゃんとわかるようにしてほしい。
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 函館バスのサイトが見づらいことは、前にも書いたことがあるような気もするが、それからサイトはリニューアルされている。だが、肝心のところは変わっていない。 
 函館バスの時刻表のナニがいけないのかというと、たとえば前記の例で言えば、利用者の関心事は木古内12:35発のバスに乗れば、自分の目的のバス停には何時に着くのだろうかということのはずだが、それがまったくわからない。示されている時刻表は、バス停にあるのと同じ発時刻だけ。実はこういうサイトはここだけではなく、ほかの地域でも結構多い。
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 エリア全体と個々の路線の位置やつながりがわかる、路線図を用意していないのも問題である。函館バスとこのサイトの設計者に言わせれば、それはマップがあるし、到着時刻はそのバス停のマークをクリックするとわかるはずだというのだろう。だが、その情報を得るためにはページを移動して何度もクリックをしなければ出てこない。それは、決して利用者の目的にかなう方法とは言えない。
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 マップでバス停を示すというのは、一見進化した方法のようにも思えるが、Googleのマップにバス停を載っけたものなのでか、重くて遅くて操作性が悪くいらいらしてしまう。
 基本的にバス会社は独占事業で、ここ道南ではほとんど函館バスオンリーなので、毎度道南でバスで計画するときにはユーウツになる。それには、ひとつには函館バスの営業エリアが広すぎて、きめ細かな対応ができないという事情があるのではないか。
 全国的にみても、バス会社の営業エリアは市町村単位プラスアルファ程度の地域の細切れになっているのが普通で、函館バスほど広範囲(長万部以南、渡島半島・松前半島・亀田半島の全域にわたる)に路線網が及ぶのはあまり例がないのではなかろうか。
 なぜそうなったか。それにも理由がある。終戦前の1944(昭和19)年のバス事業統合によって、道南で14社もあったバス会社が統合され函館乗合自動車株式会社をつくった。これがそのまま函館バスの前身となったからだ。
 その函館バスが木古内から南に向かうと、やがて蛇ノ鼻岬は遠くに見えてくる。松前半島の先端をくるりと回る国道228号線は、知内から海岸を離れて山に入るのだが、その手前の海岸線を走るところからの眺めが、いちばん岬らしく見えた。
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 段々になった尾根の出っ張りがおもしろい岬だが、150メートルから下が50メートルごとに段差がついたようになっている。これがこんなふうに見えるのは、北からの遠望のみで、涌元の漁港が近づくとそれは見えない。
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 だが、海岸の際を走る道路からは50メートルくらいの断崖が切り立っており、それはこの蛇ノ鼻岬から1キロ弱ほど南へ続いている。
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 知内の町を抜けると発電所があり、涌元の港へ向かう道筋には、神社の秋祭りを知らせる幟が立っていた。
 祭り。そうだ祭りだ「まつり」だ…。北島三郎は、函館の歌で世にアピールしたし記念館も函館にあるので、函館出身だと思っている人も多かろうが、ここ知内町の出身である。
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 知内から南に伸びる道道531号線の道路脇には、“シカ飛び出し注意!”の看板もあった。どういう事情かはわからないが、松前・矢越道立自然公園内である小谷石の山中にエゾシカ9頭(牡3、牝6)を放したのは、1964年(昭和39)年のこと、と町の記録にはある。
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▼国土地理院 「地理院地図」
41度33分33.03秒 140度26分11.11秒
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