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番外:So-netの「nice!」はナイスでないという話の続き「So-netブログの七不思議」の「8」 [番外]

 「So-netブログの七不思議」と題して、So-netブログのここがおかしいと思うことを、あまりまとまりなく、感想的にデータをつけて書いていたのは、2011年の1月初めのことであった。(サイドバーのリンクリスト参照)
 あれから、一年が経つのだが、そこで指摘し意見を述べていたことで、So-netブログが改善されたということは、なにひとつない。
 また、疑問に思うことで、とくに「ランキングの計算根拠の公開」について、応答マニュアルどおりの回答でない、具体的な解説や見解がほしいという質問についても、マニュアル通りの回答しか得られなかったし、そのやりとりをブログに書いて公開することについても了承が得られなかった。
 So-netブログでは、やたらランキングを公表しているのだが、表面的に表示された数字をみただけでも、ええ?なんで?ということがあるので、知りたがり屋のでんでんむしとしては、実数は非公開で当然としてもそのランキングを算出する計算根拠(計算式)くらいは、ぜひとも知りたいと思って質問を投げかけた。ところが、それは非公開という応答マニュアルで門前払いをくらった、というわけだ。
 つまり、一年前にでんでんむしがごちゃごちゃ書いたことは、So-netブログに対してはなんの影響も与えることがなかったらしい。
 でんでんむしの一連の分析と書き込みは、So-netブログをもっとよくしてほしいという思いからであったが、そもそもよけいな御世話というやつで、ムダなことだったのだろう。
 いや、必ずしもムダだったとは思えないこともあった。
 そのひとつは、七不思議の項目を書いているときには、いつもとは違う反応があった。その名を初めて見るような人びとから、いろいろなコメントをもらったことである。
 そのほとんどは、共感共鳴の表明であったと思うが、でんでんむしだけがヘンなヤツだからそんな疑問をもつのではないと、ある程度の証明が得られた。
 もうひとつは、「nice!」について、である。これもSo-netブログではかなり重視されているらしいのだが、この表現は評価をともなう表現なのでいろいろ具合が悪い、つけにくいことも多い。ほかの表現に変えたほうがよいという、でんでんむしのかねてからの意見を述べていた。
 これについて、「nice!」への解釈、自分の考え方を述べる人もあったりして、こちらも気がつかなかったけどなるほどそういう考え方もあるのかと思うようなこともあった。やはり、「nice!」はユーザーを悩ませているのである。それも、ここに再録する価値もあるかもしれないが、ちょっとうるさくなるので、見たい人にはごめんどうでも元の項のコメントを開いていただくしかない。
 「nice!」の問題は、その名前だけでなく、ほかにもおおきな問題があるのだが、とりあえずそれはさておき、ここではその名称だけに絞る。これについても、まるで無視されたので、So-netがやる気がないのなら自分で変えてしまえ!と、でんでんむしは自分で管理ページ⇒デザイン⇒レイアウト⇒記事カラム⇒記事からhtmlを書き換え、「きた!みた!印」という表記に変えてしまっている。(「でんでんむしはこうしている」というだけで、推奨しているわけではありません。)
kijiHTML.jpg
 ところが、最近では同様に自分で「nice!」の表現を変えている人が、随分増えているという事実がある。でんでんむしが手をつけるより先に、ちゃんと実践していた人も多かろう。それがみなでんでんむしの影響だなどと思い上がったつもりはないが、同じように考える同志が増えたと喜んでいる。これは一年前には、考えられなかったことである。
 あいかわらず、他のブログをみるのは、原則として「きた!みた!印」をもらった人のところに答礼訪問するだけのひきこもりブログなので、でんでんむしが見ているブログは、多くても日に30に届かない。最近では20も切る日もあるくらいで、きわめて少ない。
 それでも、過去に遡っていただいていた「きた!みた!印」を辿って確認してみると、ざっと次のような人びとが「脱nice!」化を実行していることが確認できたので、勝手ながら紹介させていただくことに…。(落ち漏れの点は平にご容赦のほど!)
  Kay-akira_Hirota さん 「見た!」
  ぱぱくま さん 「あしあと」
  でぶねこ さん 「あしあと」
  Loby さん 「あしあと」
  くまら さん 「ぽちっとな!」
  とる子 さん 「あしあと」

 数少ない常連さんとたまに顔を出してくださる方のなかで、これだけあるのはかなり多いといえる。でんでんむしが知らないところでは、もっと多いのだろう。
 やっぱり、ムダではなかった…?

 注意!! htmlの書き換えは、いかなる場合も自己責任(好きなことばではありませんが)です。その結果生じるすべての事態について、So-netもそうですがでんでんむしも責任を負うことはできません。また、質問、問い合わせ、苦情、意見につきましては、応対いたしかねますので、申し訳ありませんがあらかじめご了承ください。

dendenmushi.gif(2012/02/04 記)

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番外:『岬めぐり』にはテーマソングがありそれはもちろんあの同名の歌なのでついでに三浦半島の岬めぐり [番外]

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(三浦半島最東端の観音崎)

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(三浦半島南東端の剱崎)

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(三浦半島最南端の城ヶ島安房崎)

 歌謡曲では「岬」がついたタイトルの歌もいくつかあるし、歌詞のなかに歌い込まれている歌も数多い。それらには、実際に存在する岬を歌ったものもあれば、架空の岬や一般的に不特定多数の岬を意味するものもある。
 そんな岬の歌詞データぺースもつくろうかな、と考えてみたこともあるが、歌詞の引用はJASRACがうるさいし、それをクリアするのはめんどくさい。それに、やったとしても“それがどうした”という程度のものであろう。
 それよりも、岬めぐりのテーマソングとして、もっともふさわしい歌があるから、それだけはちゃんと明らかにしておいたほうがいいだろう。
 これも、だいぶ前から考えていて、同じことならなんとか楽曲を貼り付けられないかと、YouTubeなども見てみた。けれども、いくつかその歌があるにはあるものの、どれも公式に楽曲の権利者が承諾しているものではなく、著作権がクリアになっているものかどうかも疑わしいものばかりだった。
 それで、その歌の音声データや映像を入れるのは、あきらめた。まあ、結構有名な歌だから、ああ、あれかと、たいていわかってもらえるはずだ。
 その歌とは、山本コウタローとウィークエンドの『岬めぐり』。この歌については、すでに145 サンタロナカセ岬の項や359 鳥井崎の項の本文中で言及しているのだが、いちおう今回は、これを公式テーマソングとして認定するとして改めて項目を設けて取りあげることにした。
 1974 (昭和49)年に発売されたこの歌は、作曲は山本厚太郎で、作詞は山上路夫である。
 『帰って来たヨッパライ』(ザ・フォーク・クルセダーズ 1967 131万枚)『この広い野原いっぱい』(森山良子 1967 ?万枚)が切り開いたフォークソングのブームは、『白い色は恋人の色』(ベッツィ&クリス 1969 55万枚)『知床旅情』(加藤登紀子 1970 105万枚)などをはさみながら、1970年代のフォーク全盛期に入っていく。ざっと、眺めてみても、この時期のもの凄さがわかる。
 
  『旅の宿』(吉田拓郎 1972 70万枚)
  『結婚しようよ』(吉田拓郎 1972 42万枚)
  『学生街の喫茶店』(ガロ 1972 7万枚)
  『神田川』(南こうせつとかぐや姫 1973 86万枚)
  『心の旅』(チューリップ 1973 51万枚)
  『心もよう』(井上陽水 1973 42万枚)

  『岬めぐり』(山本コウタローとウィークエンド 1974 40万枚)
  『精霊流し』(グレープ 1974 58万枚)
  『赤ちょうちん』(かぐや姫 1974 30万枚)
  『無縁坂』(グレープ 1975 32万枚)
  『なごり雪』(イルカ 1975 54万枚)
  『我が良き友よ』(かまやつひろし 1975 70万枚)
  『22才の別れ』(風 1975 70万枚)


 わがテーマソングも、このなかに伍して堂々たるヒットといえるのだが、ここに並んでいる他のフォークととちょっと違うのが、作詞に山上路夫という既成のプロをもってきたということで、このあたりに制作上の思惑がいろいろあったことを偲ばせる。
 山上路夫は、このリストの72年のガロの作詞も手がけているほか、70年にはオフ・コースの最初の歌の作詞もするなど、フォークとの接点もありながら、この同時期、佐良直美や天地真理、そして小柳ルミ子や梓みちよなどのヒット曲を連発していた。
 『学生街の喫茶店』では、その喫茶店はお茶の水のあの店だとか、さまざまいわれたが、本人は「具体的に参考にした店はない」のだという。
 『岬めぐり』でも、その岬はどこかという詮索好きな人がいろいろ自説を述べあっているラジオ番組を聞いたことがある。そこでは、ある人は伊良湖岬ではないかとかといい、別な人はボクは室戸岬だと思っていたなどと、好き勝手なことをしゃべっていたので、オイオイと思ったことがある。
 数年前、山本コウタローが、NHKの懐かしのなんたらというテレビ番組に出て、解説をしていたし、NHKFMの三昧放送のなかでも言っているのでだいぶ誤解は減ったはずだが、『岬めぐり』の現場は、学生街の喫茶店とは違って、ちゃんとイメージして書いたモデルがある。
 それは、作詞家本人がちゃんとどこかで書いたか話したかしていたのを読んで知っていたのだが、その歌でイメージしている場所は「三浦半島」である。いささか、蛇足を付け加える。
 もともと「めぐり」といっているのだから、ひとつ特定の岬を指しているわけがない。
 「岬めぐりの バスは走る」のだから、マイカーでコロコロ行くのではなく路線バスで行かなければならない。
 「幸せそうな 人々たちと」いっしょになるくらいだから、あまり辺鄙な場所ではない。
 京浜急行のバス路線がめぐっている「三浦半島」というのは、都心からも比較的近く、いかにも納得であるうえに、でんでんむしが数十年来の住いとする場所も、この小さな半島の付け根にあたり、いわば地元である。
 そのうえ、なによりも「岬めぐり」というタイトルが、まさしくぴったりそのものであるから、これぞテーマソングと思い定めたものである。また、『でんでんむしの岬めぐり』が、全国をくまなくめぐるという方向を定めて再出発するときにも、まず足元からと、すでに何度か行っていたところも含めて、三浦半島の岬めぐりからやり直すところがスタートになっている。
 前にこの歌について書いたときには、“失恋男の傷心の小さな旅”のようなイメージで捉えていたのだが、改めて歌詞を読み直してみると、これは修正しなければならないと思った。
 「二人で行くと 約束したが 今ではそれも かなわないこと」というのは、“絶対にかなわない”というニュアンスがある。失恋のような別れでは、たとえ約束があったとしてもそれもいっしょに反古になるべきもので、いつまでもそのことをウジウジしない。
 「僕はどうして 生きてゆこう」も、もっと大きな喪失であることを伺わせる。三度も繰り返される「悲しみ深く 胸に沈めたら この旅終えて 街に帰ろう」のフレーズは、残された者の悲しみは、残された者が深く沈めていかなければならず、それを抱えての再出発しかほかに道はないことを納得させようとしている。単なるノーテンキなデートソングにしないところは、さすがプロのワザなのか。
 今は大学教授になっている作曲者と、その昔の仲間が寄って、“山本コウタローとほぼウィークエンド”を臨時再結成して、テレビに映ったのを見たこともあるが、やはり曲もいいのである。
 曲と詞が、うまくマッチして、それが永く人びとの心に残る歌として歌い継がれていく。また、歌詞の内容とは直接関係なく、シンボルになったりする。歌とはふしぎなものだと、いつも思う。
 
 ついでに三浦半島の岬めぐり リンクリスト

■ 072 旗山崎・伊勢山崎=横須賀市走水(神奈川県)さがむのおぬに
■ 071 燈明崎・千代ヶ崎=横須賀市西浦賀(神奈川県)光明はたとえ一筋であっても
■ 070 雨崎=三浦市南下浦町金田(神奈川県)道がほしい
■ 069 荒崎=横須賀長井(神奈川県)大洋の彼方に何をみたか
■ 063 大崎=逗子市小坪(神奈川県)これは2006年最後の夕日
■ 062 長者ケ崎=三浦郡葉山町下山口・横須賀市秋谷(神奈川県)その名の由来ももう忘れたが
■ 058 黒崎の鼻=三浦市初声町下宮田(神奈川県)大きくもなく小さくもなく
■ 057 安房崎=三浦市三崎町城ケ島(神奈川県)つながらぬ線路めぐりこぬ日々
■ 056 長津呂崎=三浦市三崎町城ケ島(神奈川県)利休鼠に招き猫城ヶ島灯台
■ 055 剱崎=三浦市南下浦町松輪(神奈川県)大根は剱にも似て
■ 054 観音崎=横須賀市鴨居(神奈川県)あの頃キミは若かった

 京浜急行さん、この春のキャンペーンに「三浦半島 岬めぐり」なんか企画されてはどうでしょうね。いいと思いますよ〜!


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dendenmushi.gif関東地方(2012/02/03 記)

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番外:休暇村越前三国など=坂井市三国町崎など(福井県など)“都道府県別幸福度調査”のベスト3は… [番外]

 福井県の海岸線は、県南西部の若狭湾沿岸を除くと、メタボのおなかのようにぷっくりとしていて、越前岬で出っ張ったあとは北に向けてもう一か所、九頭竜川の河口に目立ったハミダシがある。ここが東尋坊や渡島や休暇村越前三国があるところ。(下の地図、左の下端)etizenmikunikyukamuraMM.jpg
 石川県は、福井県との国境に近いところが若干出っ張っているが、そこから斜めにほぼ真っすぐの海岸が伸びやかに北へ延びている。内灘から千里浜の砂浜を経て長く大きく、でこぼこもそれなりに多い能登半島にかかる。
 富山県の海岸線は、富山湾岸のみで短く、目立つ出っ張りはほとんどなく、岬も二つしかない。
 今回の北陸シリーズ(2011/09/06〜09)は、福井県の北部から石川県の能登半島の西海岸を目指している。東京から福井へは、利用期間が3日から4日に延びたJR東日本のフリー切符で、上越新幹線でまず越後湯沢まで行き、そこからほくほく線の「はくたか」に乗り換えるのが便利で長岡を回るより早い。早いだけなら新幹線で米原経由のほうが早いというご意見はもっともなれど、この切符はあくまでJR東日本の路線を使うもの。北陸本線は、糸魚川付近でJR東日本とJR西日本に分かれるのだが、この切符の区間は特別に西日本エリアの福井まで利用できるのだ。
 この金沢行きの「はくたか」が、富山付近の信号機の故障で、10分以上遅れた。そのため、後の予定に若干変更を加えることになったが、基本は東尋坊から加賀海岸、それから能登半島の門前の南部から順に下って金沢へ戻るというコースを辿る。
 車内では、何度も通っていても、知らない町や田舎を走っているときは、本など読まずできるだけ車窓の景色を楽しむことにしている。ところが、前の座席のストライプシャツのおじさんのように、陽が直射するというのでもないのに、座るなりシェードを下ろしてしまう人も多い。
 この「はくたか」の車両設計は、外側から見る分にはかっこいいのだが、車内は全然ダメである。なぜダメか、この写真を見ればわかるでしょ。
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 特急列車の場合、座席の向きを進行方向に合わせて変えるようになっているのだが、車両によっては、また座席によっては、このように窓の位置と座席の位置がうまく合わなくなることがままある。新幹線や飛行機でもそれはあるのだが、たいていは雲ばかりの飛行機は、このさいどうでもよい。この「はくたか」はひどい。ちょうど目の前に、幅の広い窓と窓の間の壁がきてしまう。
 これでは、車窓の景色を楽しもうとすれば、首を曲げ顔を90度横にして窓に向けなければならない。
 初期の新幹線の車内には、無数のネジのアタマがそこいらじゅうに露出していたことは、「210 御前崎=蒲郡(愛知県)キミは新幹線内のネジのアタマをみたか」で書いていた。確かに、ネジは新幹線のみならず、ほとんどの車両で見えなくなったが、相変わらずの効率主義で、“乗客のための設計”には、まだまだ遠い。
 この岬めぐりでは、大阪へ経て広島まで足を伸ばしたのだが、九州新幹線「さくら」に乗った。JR九州とJR西日本が協調して、積極的にこれをPRしようとしているようだった。
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 ところが残念! 最新鋭の「さくら」でも、こんな按配。設計者などは「リクライニングシートを倒せばちょうどよくなる」というかもしれない。だが、考えてもご覧。シートを倒して景色を見たい人は多くはいない。こんなわけで、なかなか道は鹿児島へ行くよりもはるかに遠いようだ。
         ■          ■ 
 安直テレビドラマの刑事物などでは、なぜか必ず最後に犯人を追いつめる場所は、岬とか崖の上とか岩場の突端とかに決まっている。あれはいったい、どういう理由によるものなのだろう。
 とっくの昔に定年になっていていいのに、まだそういう役もやっているらしい愛川欽也も「自分でもそう思う。あんな寒い吹きっさらしのところではなく、炬燵かなんかにしてくれないかと思うが、そういう台本を書く人やそうしたい監督がいて…」と言っていた。
 あんなバカげた設定のドラマは、昔の作品を昼間の穴埋めに再々放送しているだけだろうと思っていたが、ところがどっこい、今でもそういうのを新しくまだ撮っているということが、キンキンのこの発言でわかった。そういう脚本家や監督のアタマをかち割って覗いてみたいような…というのは言い過ぎだろう。
 考えてみると、岬の突端や崖の上というのは、行き場も逃げ場のない犯人の、追いつめられた最後に許された悔恨の場、それを象徴しているのかもしれないではないか。岬や崖っぷちは、もう後がない“Desperate”を具現化しているのだ。おめーら、読みが浅いんだよォ!
 愛川欽也という役者は、早くから政治意識を持っていた人だが、一度参議院選挙に立候補して、理想と現実の狭間に落ちた。朝日ニュースターのCS放送で「愛川欽也パックインジャーナル」という、政治問題を普通のテレビが突っ込まない角度からつつく番組を長くやってきたのも、そうした経験があるからだろう。だが、最近は少し老害化も目につき、出演者の話を途中で遮って先刻承知の持論をまくしたてたりするので、ここは司会者の本分に戻ってもらいたい。
 その愛川欽也が、世論調査なるものはキライだ(信用しない、うさんくさい?)と力説してやまない(これもCSの番組を見ている人しか知らないのだが)のと、ほぼ同じようなことだが、でんでんむしもこの手の調査だとか、ランキングだとかいうものは信用しない。ましてや、宣伝イベントの“流行語大賞”(しかもこれなどは「流行語」の意味までねじ曲げてしまった)とか、“今年の漢字”などは論外で、こういうものを公共放送のNHKが7時のニュースで取りあげるという程度の感覚しかもたないことが、情けなく腹立たしく思えたりする。
 こういうと、単にひねくれ者でへそまがりだからといわれそうだが、それだけでもないはずである。
 大阪府には住んだことがあるが、結構住みやすいとこやし、あの選挙にみるようになんかわけのわからんパワーを秘めとるようなんで好きやねんと、今でも懐かしく思うことがある。福井県には、住んだことがない。いつも通過するか、何度か岬めぐりで来たことがあるくらいだ。
 法政大学の坂本研究室が調べたという全国47都道府県別幸福度調査なども、その基礎となる「幸福度」をはかる要素や評価基準について、合意形成ができていないところへ、一方的にランキングという形で発表され、その結果だけにメディアがこぞって飛びつくという現象は、相変わらずとはいえ好ましいことではない。
 “流行語大賞”も“今年の漢字”もあわせて、「いつまでそんなことやっとんじゃい! メディアの責任として、もっと大事なことがいっぱいあるじゃろが!」と言い続けることが重要なのだ。
 もしかしてそれは、国民総幸福量(GNH)を掲げるブータンの国王来日にあわせて発表したのか、と勘ぐったが、そうでもないらしい。
 とはいえ、GDPなどに代わる指標を模索する、というのは必要なことだと思う。その点では、新たな試みとして一石を投じたという評価はできる。
 その発表された結果では、“堂々の幸福度1位”だったのが、福井県だという。そして最下位は大阪府なのだというのである。
 しかも、なんと福井、富山、石川の北陸3県で、1〜3位までを独占している。
 “合計特殊出生率や総実労働時間、平均寿命など40の指標で点数化し、総合点から都道府県を順位づけた”という。確かに、この上位三県には共通して自然にも恵まれ、工場なども地元に根ざした産業として発展している。
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 北陸本線の小松駅の南側には、高架の窓のすぐ外の高いところに、巨大なKOMATSUのブルドーザー?がデンと鎮座(そういえば昔、溜池のビルの上にもあった)していて驚かされるが、地域の誇りの象徴なのであろう。富山の岬めぐりでも、やはり善循環を唱えた吉田忠雄のYKK(「328 生地鼻=黒部市生地吉田(富山県)「善循環」は不可能な世の中になったのか」の項参照)の存在が大きいと思った。そして福井県は、いくつかの地場産業も盛んで、女性の就業率は全国一なのだそうだ。
 ただし、「幸せ」と思うかどうかは個人個人の受け止め方で異なる、という誰にでもわかる明確で単純な主張や理屈や、ランキングへの問題提起をひっくり返すほどの説得力があるとは思えない。
 評価項目には、これまで国内最大最多15基を抱え込んでいる(それも県南西部の若狭湾岸のみに集中している)原発に関することは、どうやら入っていないらしい。
         ■          ■
 その福井県から石川県にかけての海岸線は、岬はほとんどなく、わずかに加賀市(大聖寺付近)にちょっとでこぼこがあり、そこにだけ三つの岬が数えられる。
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 東尋坊からそこへ行き、それから能登西海岸へ向かうつもりだが、初日に泊まった宿は、休暇村越前三国。休暇村がそのコースにあれば泊まってみることにしているのだが、能登千里浜は満室とのことで予約がとれず、ここだけになった。
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 今では全国36か所もある(現在、陸中宮古・気仙沼大島の二か所は営業休止中)休暇村が、初めてできたのは今から50年も前のことになる。当初は、当時の厚生省の所管事業として、11か所の施設は国立公園に付属するような形でスタートしたので、いかにもお役所の商法のようなものだった。建物も、どちらかというと山小屋に毛の生えたようなものであったが、現在は財団法人の運営で、団体客や家族旅行の受け入れにも積極的で、一般の旅館やホテルとの競争に意欲を燃やしているように見える。
 休暇村のよさの第一は、なんといってもほかにはない、せせこましくないそのロケーションであろう。
 「国民休暇村」と称していたように、国民の保養休養のための施設を拡充すべきという、設立当初からの目的は、当時の状況を考えるとまことに当を得たもので、これまで大きな役割を果たしてきたと、当初からの“ときどき利用者”であるでんでんむしは評価している。
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 休暇村越前三国は、越前加賀海岸国定公園の一部にある、風光明媚な松島海岸と広い海浜公園のなかにある。
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 温泉もいいし、部屋もきれいで、これで一人でも泊めてくれるのだから、岬めぐりでは重宝しているわけだが、料理のほうは場所によるばらつきもある。ネットの予約の手が滑って、つい“かわはぎ御膳”というのにしてしまったが、内容からは格安とはいえない。
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 JR芦原温泉駅と三国を結ぶ路線バスが、休暇村の玄関まで来てくれて、田んぼと畑と池の間にあるような芦原温泉や東尋坊を結びながら通って行く。温泉街を通るとき、53年前に泊まった旅館の名の記憶を辿って、バスの車窓を見ていたが、定かでなくわかるはずもなかった。
 ところで、この日本一幸福度が高いという地域を総称する名称は、「北陸地方」だろう。だが新潟県を含めると「北越地方」というべきだろうし、長野県にも岬があるので、これをも合わせ含めると「北信越地方」となるのか。しかし、それではいわゆる北陸地方のイメージがなくなって困る。
 しかたがないから、ここは「北陸地方」としておいて、岬めぐりの都道府県別地域分類では「北陸・信越地方」とでもするか。
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dendenmushi.gif北陸地方(2011/09/06訪問)

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タグ:北陸 福井県
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番外:大津波が襲った東日本太平洋沿岸の岬に思いを込めて(『岬めぐり』既掲載分) [番外]

 親戚にも知り合いにも友人にも、東日本の人がただの一人もいない。だいたいが生まれも育ちも西日本の人間であるし、ブログだけでなくそもそもひきこもり系なので、もともと友人知人が多いわけではない。そんなでんでんむしなので、それも当然なのだが安否を気づかうべき人もいない。
 だが、親戚や知人の有無にかかわりなく、今回の大災害のニュースに心痛むことに変わりない。『岬めぐり』で訪れたときのことを思い返しては、あのとき道を教えてくれた人は無事だっただろうか、あそこで乗ったバスやタクシーの運転手さんは、七ヶ浜町で海岸まで軽自動車に乗せてくれたおじさんは、あの宿はどうなっただろうか、投稿してくれたいわきのゴローの飼い主さんの家には変わりはなかっただろうか、コメントを書いてくれた雄勝町の人は、牡鹿半島の浜で見かけた一家は、あの野蒜の駅のホームのこどもたちは…と、むなしくも思いだけは限りなくつのってしまう。
 歩いた町が、泥とがれきで覆われているのを、テレビの画面で見たり、馴染みのある地名が犠牲者の数と並んで伝えられるのは、まことにつらい。
 岬も例外なく津波に襲われ、場所によっては形まで変えてしまったところもあることだろう。今回の地震は、日本地図を一部変えてしまうかも知れない。
 ここ数日、当ブログのなかで閲覧数が増加しているのが、岩手や宮城の岬の項目である。みんなが検索して見ているのだろうが、なにごともないときに歩いてきた記録だから、ノーテンキなことしか書いていない。
 また、あくまで岬が主人公というスタンスだから、町の風景や人がたくさん写っているわけではない。被害が大きいとしきりに伝えられた南三陸地方は、まだ訪問していないので、その地域の岬は欠けている。
 はたして、検索してきてくれた人のニーズに応えられたのかどうかも、はなはだ疑問である。
 自分自身のいろいろな思いを込めて、大津波に襲われた岬をなぞってみる…。

■■■158▲葦毛崎=八戸(青森県)

■■■■453▲弁天鼻=久慈市侍浜町(岩手県)
■■■■■452▲三崎=久慈市宇部町(岩手県)
■■■■■■451▲黒崎=下閉伊郡普代村第2地割(岩手県)
■■■■■■■454▲北山崎=下閉伊郡田野畑村北山(岩手県)
■■■■■450▲矢越岬=下閉伊郡田野畑村机(岩手県)
■■■■■449▲弁天崎=下閉伊郡田野畑村明戸(岩手県)
■■■■■■455▲鵜ノ巣断崖(水尻崎)=下閉伊郡田野畑村真木沢(岩手県)
■■■■■■■448▲小浜崎=下閉伊郡岩泉町小本(岩手県)
■■■■■■447▲熊之鼻=下閉伊郡岩泉町小本(岩手県)
■■■■■■■446▲明神崎=宮古市田老(岩手県)
■■■■■■445▲真崎=宮古市田老(岩手県)
■■■■■■■444▲姉ヶ崎=宮古市崎鍬ヶ崎・崎山(岩手県)
■■■■■■443▲鍬ヶ崎=宮古市鍬ヶ崎(岩手県)
■■■■■■■442▲館ヶ崎=宮古市鍬ヶ崎(岩手県)
■■■■■■441▲竜神崎=宮古市日立浜町(岩手県)
■■■■■■■■■■■456▲閉伊崎=宮古市重茂(岩手県)

(下閉伊郡山田町、上閉伊郡大槌町から釜石市、大船渡市、陸前高田市、気仙沼市、本吉郡南三陸町にかけては、この夏に訪問を計画していた。)


■■■■■■654▲走ヶ崎=石巻市尾崎(宮城県)
■■■■■■■655▲ハテ崎=石巻市雄勝町船越(宮城県)
■■■■■■■■656▲峠崎=石巻市雄勝町船越(宮城県)
■■■■■■■■■■657▲大須崎=石巻市雄勝町大須(宮城県)
■■■■■■■■■652▲白銀崎=石巻市雄勝町桑浜(宮城県)
■■■■■■■■653▲丁名崎=石巻市雄勝町立浜(宮城県)
■■■■■■番外:雄勝といえば雄勝硯とサン・ファン号建造と(石巻市雄勝町)
■■■■■■■■638▲四子ノ崎=牡鹿郡女川町出島(宮城県)
■■■■■■■■■■637▲大貝崎=牡鹿郡女川町塚浜(宮城県)
■■■■■■■■■■■639▲早崎=石巻市寄磯浜(宮城県)
■■■■■■■■■■640▲寄磯崎=石巻市寄磯浜(宮城県)
■■■■■■■■647▲厚井崎=石巻市新山浜(宮城県)
■■■■■■■■■■■■■■646▲東ノ崎=石巻市鮎川浜(宮城県)
■■■■■■■■■■■■■645▲黒崎=石巻市鮎川浜(宮城県)
■■■■■■■■■■644▲清崎=石巻市十八成浜(宮城県)
■■■■■■■■■648▲釜ヶ崎=石巻市網地浜(宮城県)
■■■■■■■■■■■■■643▲焼山崎=石巻市小網倉浜(宮城県)
■■■■■■■■■■■■642▲ 君ヶ金崎=石巻市狐崎浜(宮城県)
■■■■■■■■■■■641▲大室崎=石巻市狐崎浜(宮城県)
■■■■■■■■■■649▲二鬼城崎・三石崎=石巻市田代浜(宮城県)
■■■■■■■650▲尾崎=石巻市渡波(宮城県)
■■■■■■651▲韮崎=石巻市渡波(宮城県)
■■■■341▲二本松鼻=宮戸・野蒜海岸(宮城県)
■■■340▲萱野崎=宮戸島嵯峨渓(宮城県)
■■■■339▲稲ヶ崎=宮戸島・月浜(宮城県)
■■■338▲メカル崎=宮戸島(宮城県)
■■337▲垂水鼻=東松島市宮戸(宮城県)
■■■■336▲寺崎=浦戸諸島(宮城県)
■■■■335▲丸山崎=東松島市大塚(宮城県)
■■■330▲呼崎=松島町手樽(宮城県)
■■■329▲天王崎=松島町手樽(宮城県)
■■331▲蛇島崎=手樽半島の最南端(宮城県)
■■332▲銭神崎=松島町手樽(宮城県)
334▲萱野ヶ崎=松島町松島(宮城県)
■■333▲館ヶ崎=松島町磯崎(宮城県)
■■■■■350▲平崎=馬放島・塩釜(宮城県)
■■■■■■349▲波多崎=七ヶ浜町吉田浜(宮城県)
■■■■■■■348▲石浜崎=塩竈市浦戸石浜(宮城県)
■■■■■■■■347▲花渕崎=七ヶ浜町花渕浜(宮城県)
■■■■■■■346▲吠崎=七ヶ浜町花渕浜(宮城県)
■■■■■■345▲七郎治崎=七ヶ浜町菖蒲田浜(宮城県)
■■■■■344▲黒崎=七ヶ浜町松ヶ浜(宮城県)
■■■■343▲御殿崎=七ヶ浜町松ヶ浜(宮城県)
■■■342▲飛ヶ崎=七ヶ浜町湊浜・松ヶ浜(宮城県)

007▲鵜の尾岬=松川浦(福島県)

   (福島第一原子力発電所)
   (福島第二原子力発電所)


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■■■■178▲殿上崎=久之浜(福島県)
■■■■■180▲富神崎=いわき(福島県)
■■■■■■179▲塩屋埼=いわき(福島県)
■■■■■181▲合磯岬=いわき(福島県)
■■■182▲竜ヶ崎=いわき中之作・永崎(福島県)
■■183▲三崎=いわき小名浜(福島県)
209▲八崎=いわき小名浜(福島県)
184▲竜宮岬=いわき小名浜(福島県)

187▲鵜ノ子岬=大津(茨城県)
■■188▲九ノ崎=大津(茨城県)
■■■189▲鵜島の鼻=大津(茨城県)
■■■■006▲五浦海岸=二ツ島(茨城県)
■■■■186▲鵜の岬=日立・十王(茨城県)
■■■177▲鶴首岬=日立(茨城県)
■■■176▲田楽鼻=日立市水木(茨城県)
■■175▲古房地鼻=大みか(茨城県)
■■174▲磯崎=勝田(茨城県)
020▲大洗岬(茨城県)

dendenmushi.gif(2011/03/15 記 03/17修正)

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番外:雄勝といえば雄勝硯とサン・ファン号建造ともうひとつは…(石巻市雄勝町) [番外]

 田園が広がる間にぽつぽつと農家の屋根があり、その間を白い田舎の道が通っている。田んぼの中の辻にはバス停の小さな小屋と標識が立っている。主人公がそこに立つと間もなく旧式のボンネットバス(このコトバを思い出すのにえらい時間がかかってしまった)がやってくる…。
 何十年か昔の物語や、古い時代を背景にした映画などでは、そんなシーンがよく登場する。それらは多分に、詩情あふれる情景のひとつとして、作者や監督のイメージがつくりあげたものであろう。「田舎のバス」(そんな題の中村メイコの歌があったなあ)でも、実際にはいかに田舎とはいえバスは人家のあるところを選んで走るはずのもので、なんにもない田んぼの真ん中にはバス停はつくらないだろう。
 とはいえ、それに似たような場面は、多くの人の記憶の中にもある、懐かしい風景であり、それでもわかるように昔(一時代前まで)は、田舎でも網の目のように…とまではいかなくとも、結構バスが走っていたのである。
 でんでんむしが、住民バス(乗合タクシー、地域バス、市民バス自主運行バスなど)のことにこだわるのは、バス会社がやーめたというのでしかたなく始めたものでも、よく考えてみればこれも地域復活の重要なアイテムのひとつになり得る要素を秘めていると思いはじめたからである。
 「田舎のバス」の復権は、たとえ主な乗客が病院通いの老人や通学のこどもであったとしても、なにか新しい期待もあるような気がするのだ。経産省も、“買い物弱者の救済”という視点から、先進事例の研究を始めた。役所の縄張りからいうと、そういうのもありとはいえ、いつものように縦割り行政でこの問題は解けまい。
 それにしても、情報が少ない。自治体のPRは下手である。誰か、“住民バス情報サイト”つくってくれませんかね。わざわざ外から来て乗りたいという人など、そう滅多にいないのかも知れないが、まずはその存在を明示することから、すべては始まるともいえる。(ような気がする)
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 さて、雄勝町の住民バス、“おがつ号”は、公民館前で別系統の路線と連絡するようになっていて、それをうまく乗り継げば、半島の南西部をぐるりと回ることもできそうなのである。その連絡を待つ間、付近を歩いてみると、まず雄勝硯伝統産業会館という大きな建物があった。ところが、休館日とのことで入ることができなかった。この町は、なんと全国シェア90%(とどこかに書いてあった)という硯の町だったのだ。ただし、このシェアは、ちょっと疑問もあるので、不確かな未確認情報である。雄勝硯生産販売協同組合のページでも、そういう表現ではなく、「600年の歴史を誇る銘硯の冴。雄勝硯の鋒鋩の秀逸さは他産地の追随を許しません。」とだけ書いている。
 硯なんて、昔中国のお土産に端渓というふれこみのお土産を買ってきたことがあるが、それも自分のためではなかった。自分では、硯で墨を磨って筆を持つことなど、もうここ何十年もやったことがない。字のヘタなでんでんむしも、墨痕鮮やかに筆で字がすらすら書ける人がうらやましい。
 雄勝硯の原石は雄勝石といって、地質学的には、“北上山系登米層古生代上部二畳紀(2〜3億年前)に属する黒色硬質粘板岩”、であるという。会館が閉まっていたので、現物は見ることができなかったが、雄勝硯の特徴は、共蓋付硯といって、一枚の硯材を蓋と硯に整形したものであるらしい。
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 帰りの住民バスの通る道端の露頭に、黒い岩層を見つけていた。これがそうかどうかは不明だが、こんな地層が雄勝の半島にはある。もちろん、半島とは反対側の硯上山付近も、その名前からして雄勝石となんらかかかわりがあるのだろう。
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 すでに、石巻の他の項目(641 大室崎=石巻市狐崎浜(宮城県)支倉常長が出港して最初に回り込んだ岬がここっ!651 韮崎=石巻市渡波(宮城県)建造にも復元にもびっくりのサン・ファン・バウティスタ号)でふれているサン・ファン号が、実際に建造された場所は、月浦でも渡波でもなく、ここだという説は、定説になっているらしい。橋の袂に立てられている標識は、ことさらその検証結果を主張したいのも、それまで流布されてきた通説を、なんとかくつがえしたいという熱意が感じられる。
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 この小さな川をドックとして、近郊近在からここに資材を集めて、500トンもの西洋式の大船をつくったということは、実に驚くべきことだと、でんでんむしなどは思うのだが、それにしてはいまいち知名度が低い。それは、この件に関する史料が、あまり残されていないことが大きい。
 雄勝の名物・じまんには、もうひとつあって、それは…。公民館にも展示があった、これ!
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dendenmushi.gif東北地方(2010/09/21訪問)
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番外:想い出すのは想い出すのは北上河原の…という歌があった(宮城県石巻市) [番外]

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 石巻は、石ノ森章太郎(1938〜1998)の“萬画”を街のシンボルとして担いでいる。石ノ森自身は、現在の宮城県登米市中田町石森の生まれで、石巻出身というわけではない。
 それなのに、市内を流れる旧北上川の中の島には、卵形のようなUFOのような「石ノ森萬画館」があり、JR石巻駅をはじめ、町中“石ノ森萬画”のキャラクターが溢れている。
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 記念館自体は、すでに前年に登米市にできているのに、2001年に重ねて石巻に萬画館をつくったのは、どういうわけだろう。
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 その辺りの、真意は測りかねるが、彼自身の郷土愛と、地元の理解と熱意の融合が生んだと、好意的に解釈すべきなのだろう。
 その出生の町の名がペンネームの由来ではあるが、当初は“石森章太郎”と称していた名を、途中から“石ノ森章太郎”とわざわざ一字を加えたのは、どういう心境によるものだろう。30周年を記念して、心機一転をはかったのか、その後に発表した『ホテル』や『マンガ日本経済入門』は、確かに新境地を開いたといえる。
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 『サイボーグ009』や『佐武と市捕物控』も、実は作者とさほどには年が離れていないでんでんむしには、もう漫画であれ萬画であれ、読者世代を過ぎていたが、それでもちゃんといくらかは読んで知っている。
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 『おくのほそ道』の石巻の段には、

  人跡稀に雉兎蒭蕘の往かふ道そこともわかず、終に路ふみたがえて、石の巻といふ湊に出。

と、いかにも僻地・奥地に来たかのような印象を残している。この後に、「646 東ノ崎=石巻市鮎川浜(宮城県)「こがね花咲」とよみて..」の項で触れた一節が続き、その後で石巻の町を描写している。
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  数百の廻船入江につどひ、人家地をあらそひて、竈の煙立つゞけたり。

 当時から、北上川の水運と石巻湾の海運が盛んだったさまが、これからもわかるが、同時に、


  思ひがけず斯る所にも来れる哉と、宿からんとすれど、更宿かす人なし。


と、詠嘆のさまを重ねて記したかと思えば、

  漸まどしき小家に一夜をあかして、明れば又しらぬ道まよひ行。

と、漂泊の旅らしさを強調している。

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 芭蕉という人は、こうみえてなかなかのクセモノで、紀行とは言いつつ、虚実ないまぜのフィクションで、曽良の「随行日記」と読み合わせてみないと事実がよくわからないことが多い。
 芭蕉の記述だと、石巻に来たのは、平泉に向かう途中「思いがけず」(半分道に迷いつつ)やってきたかのようであるが、そんなことはあるまい。また、実際は、矢本付近で、水を求めようとしたがどこでも断られて果たせなかった、というようなことが曽良の筆によって記されている。しかし、プライドの高い芭蕉には、そのことはそのまま書く気がしなかったのではないだろうか。
 そのできごとに影響されて、その時には親切な侍に助けられて、石巻の宿まで紹介されているのに、「宿からんとすれど、更宿かす人なし」といい、「まどしき小家に」としか書けなかった心理が、でんでんむしにはわかるような気がする…というのは言い過ぎだろうか。
 「更宿かす人なし」は、宿を断られたりした次の登米でのことなのだろう。
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 日和山から帰り道には、一行は北上川に面した住吉の大島神社付近に立ち寄っているはずである。ここには“石巻”の語源となった、川中の巻き石もあるのだが、それにはふれず、翌日の行程として、

 袖のわたり・尾ぶちの牧・まのゝ萱はらなどよそめにみて、遥なる堤を行。

と書いている。これらはいずれも歌枕の地を対岸付近に眺めつつ、という描写なのだが、金華山“袖のわたり”があったとされるのは、ちょうどこの住吉公園の辺りなのである。
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 今回、でんでんむしが石巻の岬めぐりの宿に選んだのは、その住吉公園のそばのこちら「FUTABA INN」。ここは、石巻総鎮守の大島神社のすぐ横。社殿の裏山の下にある。ここは、石ノ森の定宿であったと、どこかで読んだのだが、確認するのを忘れてきた。ishinomaki05.jpg
 西に数百メーートル行けば、芭蕉一行が泊った地があって、そこにはなんと、石巻グランドホテルが建っていた。なんとなく、そこよりもこっちのほうがいいような気がした。
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 二夜の宿となった二階角の部屋の窓から、手を伸ばせば届きそうな社殿の裏山に上ってみた。芭蕉の上った日和山の左手には、昔に殷賑を極めた北上川の河口が広がる。
 たまたまだが、これを書いているときに、高橋英吉という若くしてガダルカナル島で戦死した彫刻家のことを知った。その人が1911(明治44)年に生まれたのが、この北上川河口左岸であった。一般に知る人は少ないだろうが、あるいは石巻の人や、石巻高校の人々には知られているのだろうか。その作品の一部が、彼の母校である高校(当時は石巻中学)や石巻文化センターに保存されている。また、ガダルカナル島には、鎮魂の意味を込めたブロンズ像の大作がたてられているという。高橋英吉の長女で、神奈川県逗子市の木版画家・高橋幸子さんと、家人が近しくしていただいているので、そんな縁でここに記す。
 それにしても…と、また想うのは、人の縁の不思議さである。遠洋航海の船に乗り込んだ英吉は、三浦半島の三崎である女性と知り合い、二度の招集のわずかな合間に家庭をつくり、一子を残すが南の島へ行ったきり帰らぬ人となる。その子は、母と共に三浦半島の付け根逗子で暮し、父の残したデッサンを見て学び、木版画家となる。
 まこと、人の邂逅や人生を川の流れのようにいうことは多いが、川の流れの数倍に増して、とても単純ではない。ishinomaki02.jpg
 北を望むと、川はまた東に西にと蛇行しつつ、遡っている。“旧北上川”と、これまで何度も書いてきたが、これは登米市の津山町柳津付近で新北上川が分流されてから、そう呼ばれるようになった呼び名である。その放水路の付け替えは、明治の終わりから昭和の初めにかけて23年におよぶ大工事となった。
 洪水防止のため開削された新北上川は、芭蕉も歩いた一関街道に沿って南流して、石巻市相野谷付近で今度は大きく東へ向きを変え、石巻市北上町十三浜付近で追波湾に注ぐ。
 一方の旧北上川は、気仙沼線と石巻線に沿うようにして、東北第一の大河で、日本で四番目に長いという川は、昔と変わらず流れきて、この河口で流路延長249キロの生涯を終える。
 治山治水は、いつの時代も治政の大きな課題であった。伊達政宗の貞山堀も、北東端はここから始まっている。
 北上川を見たこともない時代から、この川の名前だけは知っていて、勝手なイメージを持っていたのは、『北上夜曲』という歌が流行ったせいだろう。初めて、北上川を間近に見たときには、コンクリートもなにもない、自然なままの岸辺と、急ぐことなくゆったりと流れる、水量の豊かな流れだった。
dendenmushi.gif東北地方(2010/09/19~21訪問)
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番外:十三湊遺跡=中世港湾都市の面影を尋ねて(青森県五所川原市十三) [番外]

 十三湊(とさみなと)は、近頃では「じゅうさんみなと」と読んでもくるしゅうないということになっているようだ。どうやら、シジミが特産の汽水湖である十三湖のほうが「じゅうさんこ」であるのに、引きずられているらしい。
 その十三湖を東にして、西に前潟という細長い入江と砂丘と日本海が広がる、幅わずか500メートルほどの砂地の真ん中に、十三湊遺跡はあった。あったといっても、今あるのはその看板や説明板くらいのもので、周辺は全部畑になっている。
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 亀ヶ岡から北に走ってきた小さな弘南バスが集落に近づいてきたので、さてどこらで降りようかと思っていると、その窓から看板が眼に入った。あわてて次のバス停で降り、引き返してきた。
 現在の十三の集落は、十三湖とは反対の前潟寄りの街道に沿って並んでいるが、砂地の真ん中を広い道が通っていた。すぐ北ではもとの街道沿いの道につながるので、集落の中の交通混雑を避けようというバイパスのようなものらしい。
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 とはいっても、車が通ることはまれで、自転車に乗ったおばさんが自分の畑に通う。畑の土はもちろん砂地なので、土が飛ばされないようにという配慮もあるのであろう。畑には、それぞれさまざまな囲いがしてあった。
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 そんなところから、中世の港湾都市の遺構が見つかっていた。そうか。日本の歴史のなかでも、異彩を放っている安東氏の十三湊は、こんなところにあったのか…。
 昔から興味をかき立てられ、シロウトなりにそれはどんなところなのだろうと、イメージを膨らませていたので、その地にいま立っていると、きわめてひとりよがりな感慨が湧いてくる。
 13世紀から15世紀というのは、関東武士が全国各地へ散らばっていって、それぞれの地でそれぞれが実効支配を固めていき、豪族や大名の卵にのし上がっていく時代だといえる。もちろん中央の政権をめぐっても、南北朝から足利幕府へと動乱が続く頃でもあった。そんな時代に、ここに一大交易都市(都市が大げさならば拠点でもいいが)があった、そして日本沿海や蝦夷地はもとより、日本海を縦横に往来して大陸や半島と貿易をしていたというのは、ちょっとした驚き以外の何ものでもなかった。tosaminato04.jpg
 まとまった発掘調査が進んだのは比較的近年のことで、その成果の一部は十三湖の中で松林に覆われ、一本の木組みの橋でつながっている中の島にある市浦歴史民俗資料館に保存・記録されている。国の史跡指定を獲得したのは、今からつい5年ほど前なのだ。
 では、なんでそれが「市浦」なのか。「しうら」は、2005(平成17)年3月以前は、十三湖の周辺一帯を村域とする、独立した村だった。金木町とともに、新しい五所川原市に加わった。それで、遺跡の看板、説明板、マンホールのフタ(シジミとこれは砂山の踊りか?)も、まだ「市浦村」のままだったのだ。この資料館もそうなのだ。
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 五所川原市になったからとて、あわてて変える必要もない(お金もかかるしね)が、これだけみるならば、もう5年もそのままなわけは、五所川原市にとってはそれどころではない、といったところか。〝それなら、わざわざ飛地になってまで五所川原市にならなくてもよさそうでは?〟というのは、他所者の勝手な感想であろう。
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 十三湖大橋を渡って、大きな松林の中を歩いて中の島へ向かう。十三湖の北側にも、城跡や各種の遺跡が点在する。旧市浦村の領域でも、海岸に近いところには縄文遺跡がある。でんでんむしがそんなことに興味を持ち始めた頃には、誰もそんなことを教えてくれなかったが、三内丸山遺跡をはじめとして、いまや青森県を抜きにして縄文は語れないらしい。
 それにしても…と思うのは、昔の津軽は今ほど冬の寒さも厳しくなかったのだろうか…。
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 次の小泊へ行くバスまでは、だいぶ間があるので、ゆっくりのんびりと資料館を見学し、湖の水面をぼんやりと眺めて、往時のさまざまな時の流れに想いをはせる。
 どんな氏族でもそうだが、そのルーツの源泉は、深い時間の底に沈んでいて、浮かび上がることがない。安東氏もそうで、確かなことは少ないが、伝説としてはナガツネヒコやアラハバキ(亀ヶ岡の土偶はその姿だとする説もある)を経て、安倍貞任につながるという。前九年の役で敗れた貞任の遺児が津軽で安東氏を起こしたのだといい、一時期は蝦夷までその勢力が及ぶが、その後がまた波乱に満ちている。結局、南部氏との抗争に敗れてしまい、その後は秋田へ移って秋田氏の祖となるというのだ。
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 この木の橋を渡るのも、これが二度目である。
 十三湊の港湾拠点としての機能は、江戸時代までなんとか維持されたようだが、だんだんと岩木川の堆積が進んで、やがて湊としての命を終えてしまう。
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 市浦歴史民俗資料館は、五所川原市になってから印刷したパンフレットでも、その名前は変わっていない。それも当然であろう。名前といえば、前にどこかで“ここへきてみたら安東氏のことを安藤氏で統一してあったのでちょっと残念な気がした”、と書いていた。
 これには資料館にも名分があるようで、残された資料によると、「安藤氏」と「安東氏」は同じではあるが、前期の資料では「安藤氏」の表記が多く、秋田時代など後期になると「安東氏」の表記が多くなるのだそうである。したがって、十三湊を語るには安藤氏で統一した、ということのようだ。
dendenmushi.gif東北地方(2010/06/30訪問)
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タグ:青森県
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番外:遮光器土偶のふるさと・亀ヶ岡遺跡をやっと訪ねた=後編(青森県つがる市木造) [番外]

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 そもそも「遮光器」というのからして、あまり一般的ではないが、これは雪の中で暮すイヌイットのシャッター?付きのサングラスのようなものが想像されて付いた名前だという。が、現実に東北の縄文時代にそのようなものがあったともいえないので、これは呪術的な理由などから目の部分を誇張した表現だという見方が大勢を占めている。事実、豊穣と子孫繁栄を祈るためであると思われている、女性の臀部や胸部を極端に大きく表現した土偶は、世界的にみても類例がめずらしくないことも、この説を後押ししている。
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 ただ、そうだとしても、では目をこのように強調することには、どんな意味があるのだろう。“眼病を治したいと祈った”といわれても、はいはいさようですかわかりました、とはどうも言いかねる。
 大勢はそうでも少数意見は常にあるもので、学者などからは無視されているが、“宇宙服を着たエイリアン説”までかなり根強く残っている。何十年か前に、でんでんむしなどもその著書を読んで入門した、“宇宙考古学の世界的権威”であるエーリッヒ・フォン・デニケンが日本を訪問したときにも、当然これを“Oパーツ(out of place artifacts=時代錯誤遺物)的視点から眺めたであろうが、さすがにこの土偶の形状からだけで宇宙人の姿を形どったと断定するには、いかにも材料不足であったろう。
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 明らかに話は宇宙人のほうがおもしろいのだが、亀ヶ岡の場合は完全形で出土している遮光器土偶がない。頭のこの遮光器がはっきりと強調されているものも、ほかのものは見たことがないのでほとんどこれ一体しかないらしいが、左足が片方欠けている。つがる市の縄文館には、付近から発掘されたものが展示してあるが、その中で重文になって国立博物館に収まっているものに最も近い土偶は、肝心の頭の部分が欠けている。それも、土偶の使用法(儀式)によるものではないか、という見方が支配的だ。
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 縄文館でおもしろかったのは、展示物の下に発掘者の名前が掲示してあることで、それがみんな地元の畑仕事をしていて偶然それを見つけて提供した人のようだ。
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 亀ヶ岡遺跡(最近では“亀ヶ岡石器時代遺跡”と呼ばれることが多い)が、発見されたのは、津軽藩主の二代目の時代に、ここに築城工事を始めたのがきっかけだった。それは、1622(元和8)年のことだから随分古い。この年には、支倉常長らの仙台藩による慶長遣欧使節団が派遣されている。発見が早かったということは、充分な学術調査も行なわれる前にどんどん発掘されて遺物も持ち出されていたということで、遺跡にとっては残念な結果になる。ここでは数万点の遺物が好事家の注目を集め、海外にまで流失したと見られている。ならば、完形品がないのはそのせいかも知れないではないか。
 土偶や土器が出土し、丘の上からは甕(かめ)が出土したのが「亀ヶ岡」の名の由来だともされている。甕は、埋葬用か結界用(これについては似たような例が175 古房地鼻=大みか(茨城県)の項に関連してある)か、どちらかの目的で埋められたものだろう。
 その亀ヶ岡だが、これがまた興味深いことを発見してしまった。
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 縄文館のある場所からは少し北北東にずれた丘の上に、人家が固まってあり、木造館岡と木造亀ヶ岡が微妙に分かれている。遮光器土偶が出土したのは、どうやらこの丘の雷電宮という社の下あたりらしい。で、そこに降りて行くと、なんと周辺は立派なトイレを備えたきれいな公園に整備されていて、そこに大きな土偶のモニュメントが苦労しながらも片足で立っていた。
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 おまけに、この土偶には“しゃこちゃん”という愛称までつけられているようだ。こういうのは誰かが儲けるためにやっているのでもなければ、目くじら立てることではなく、縄文時代にも遮光器土偶にも、もっとたくさんの人が興味を持ってもらえるなら、愉快だと思って眺めていればいい。
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 亀ヶ岡の下は広い道路が南北に走り、その東側には津軽平野が続く。道を車で走る人も、大きな土偶の像を見て、「なんだろう?」と思うに違いない。
 亀ヶ岡にも縄文館にも、観光バスが来るようなことは、滅多にないのだろう。それでも、ここでトイレ休憩くらいはできそうだ。観光バスとしては、土産物屋がないからこの提案も採用されないか。
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 丘の上の弘南バスの乗場に戻ってバスを待ち、今度は十三街道を北上して十三湖へ向かうが、その前に…。忘れるとこだった、ここで発見した興味深いこととは…。
dendenmushi.gif東北地方(2010/06/30訪問)
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*「木造亀ヶ岡」はどこからどこまでなのか?

 上記の国土地理院の地図では地区の境界は明確でないのだが、ZENRINソースのネット地図と、AlpsMapソースのエキサイト地図では、その範囲が著しく異なる。
 地域の境界が大きく違い名称が異なるということは、地図の根幹に関わる大問題だが、これはいったいどうしたことか。

 まず、色分けがあいまいながら、記名表示が池の東に及んでいるオマエもかYahoo!地図。kameyahoo!.jpg

 次に、大がっかりのMapionの地図。kameMapion.jpg

 そして、世界で有名だからと信用しちゃいけない論外なGoogleのマップ。kameGoogle.jpg

 これが、ダサいながら地図の基本はいちばんしっかりしていそうなエキサイト地図。kameExcite.jpg

 ネット地図では、特定の場所をクリックすれば、その場所の地名が地図の上に表示されるようになっている。それで探っていくと、ZENRINソースの地図でも、地名表記の認識はエキサイト地図がしめすような狭い範囲が正しいと認めているようなのである。

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タグ:地図 青森県
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番外:遮光器土偶のふるさと・亀ヶ岡遺跡をやっと訪ねた=前編(青森県つがる市木造) [番外]

 最初にその写真を見たのは、いつの頃だったのか、今となってはもはや判然としない。とにかく、強烈な印象を受けたのはそれまで知っていた埴輪とはまったく違うド迫力に溢れていたからで、以来忘れられない。ホンモノ(あるいはすでにレプリカに置き換わっているのか)は上野の国博で何度も見たが、どうしてこんなモノが、日本の東北の津軽半島の片隅で埋もれていたのだろう。
 そんな思いをずっと引きずっていたのは、安東氏の十三湊や、三内丸山遺跡や、偽書騒動で曰く付きの『東日流外三郡誌』など、ふしぎな光芒を引きながら輝いている津軽の古代史への興味がつきないからでもあった。いつかその出土地である亀ヶ岡を訪ねてみたいと思っていた。この付近はこれまで二三度通り過ぎているのだが、なかなか遺跡まで訪ねることができないでいたので、今回はなにがなんでも行くぞーという意気込みであった。
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 立佞武多(たちねぷた)で有名な五所川原に着いたときには、立佞武多の館はすでに閉まっていたが、駅の側にある格納庫の大きさからは、充分にその壮大さが偲ばれるし、道路脇にはそれぞれの立佞武多の姿をアピールする柱のような杭のようなものが並べてある。kamegaoka04.jpg
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 青森の短い夏を彩るネプタやねぶたは、なんとなくそんなこの地域独特の歴史的な情念とも、無関係ではないような気さえもしてくる。
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 五所川原のホテルに泊まって、翌朝駅前の弘南バスのターミナルから小泊行きのミニバスに乗る。この長い路線は、本数も決して多いとは言えないが、ちゃんと亀ヶ岡で降り、十三湖で降りても、それぞれ次のバスに乗継いでその日のうちに小泊まで到達することができる。バスや電車というのはこうでなくてはならない。まことに、ありがたいバス路線である。
 ただ、やはり利用者がそう多いわけではなく、ここも補助金その他でなんとかやりくりをしているのだろう。平野の中に走り出すと、町の中をつなぎながら、少ない乗客を拾いながら走る。
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 遮光器土偶を掲げているというJR木造の駅は通らないが、いちいち“木造○○”と名乗っている町の中にもこんなものがあったりする。人家の固まっているところをちょっとはずれると、もう一面の津軽平野である。
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 日本地図を眺めていて、ここはいったいどんなところだろうと思う場所がいくつかある。この津軽半島の西海岸付近も、なかなかふしぎな場所のように思えていた。七里長浜もそうだが、まだ砂浜の海岸がエンエンと続く風景は、だいたいどこも大差がなくイメージの範囲内である。
 ところが、27キロにおよぶ七里長浜の陸地側は、大小無数の湖沼と人工的な溜池と自然の湿地帯と、30メートル前後の丘陵地帯と、その間に荒地が続きところどころ田畑と集落がばらまかれたようにある。細い道が海に向かって流れているが、尻無川のように海に届く前に消えているものも多い。
 こんな地形は、ほかに日本中探しても同じようなところはあるまい。
 いくつ目かの“木造○○”は、木造館岡であった。十三湖までの半分の道のりを来たことになる。運転手さんに亀ヶ岡遺跡の記念館のようなものがあるところで降りたいのだがと尋ねると、ちょっと考えていたが、郵便局のところで降りてしばらく行ったところで左の道を行けばよい、と教えてくれた。
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 電車やバスのダイヤ以外は、事前の下調べというものをまったくしないでんでんむしの岬めぐりは、そうした現地の人の情報が頼りである。
 地図で想像もつかないようなところもあるので、実際に少しでも歩いてみなければわからない。しかしながら、2万5000分の1の縮尺で想像するイメージと、実際に人間のサイズでその中に放り込まれて歩いて見る景色とは、埋めるのに苦労するほどのギャップがある。道を歩く分には、たいして相違がない。
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 雨もしょぼしょぼ降るので、よけい暗い針葉樹の中の道を歩いて行くと、突然目の前に畑が開けてきて、“縄文館”の案内掲示もあった。そこからなおも誰もいない道を歩き続けて、やっと大きな池と縄文館の建物が見えてきた。
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 後でわかったことだが、この建物があるところは津軽藩主の二代目が城を築くつもりであったところだった。なるほど。だから“館岡”なのだ。城には堀が必要だ。そこで、池もその環濠として利用しようとしていたものだった。池の水面が想像していたのよりはるかに低く深いのは、それと関係があるのだろうか。
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 亀ヶ岡遺跡そのものは、この築城計画とおおいに関係があった。(後編に続く)
dendenmushi.gif東北地方(2010/06/30訪問)
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番外:丹後半島最北端への道=崖だけでなく境界未定地もあるカマヤ海岸(京都府) [番外]

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 甲崎から北へ続く道は、日本海の青さと丹後半島の緑が迫る断崖の続く海岸線から100メートルも上、丹後半島をめぐる道は、人も車もこのただ一本の175号線を通る。北西方向に延びる海岸には、でこぼこはむしろ少ないくらいで、この付近の観光案内には「リアス式海岸」と紹介してあるものが多いが、ほんとうにそう言えるのだろうか。でんでんむしには、どうもにわかに首肯しがたい。
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 その説明とあわせて、この海岸を「カマヤ海岸」と呼んでいる。京都府の“なんとか200選”にもその名があるので、公式な名称なのだろうが、その名の説明はないので、どこから付いた名かも不明である。地図では国土地理院もZENRINも、等しくどの地図にもその表示がない。
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 このカマヤ海岸には、残念ながら経ヶ岬までは岬がないが、だからといってすっ飛ばしてしまうのももったいない。岬らしいところもないわけではないが、それをムリヤリ名前をつけて番号を振るわけにはいかないので、ここは番外として記録しておきたい。
 東の蒲入から西の丹後町袖志まで、およそ6キロに渡って、この海岸には人家が一軒もない。建物としては、甲崎の上の公衆トイレと、経ヶ岬のたんかい(丹海)バスの車庫があるきりである。(おっと、経ヶ岬の灯台の建物と駐車場のトイレもか)
 人がまったく住んでいない海岸線は、日本中探せばもっと長いところがいくらもあるだろう。だが、道も通っていて、しかもそんなに人里離れた山間へき地ともいえない場所では、めずらしい海岸といえるかもしれない。
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 なにしろ、道も急な斜面の途中にくっついているので、崖崩れも多い。山の上の高いところで物音や人の声がするのは、そこで今も防護工事が行なわれているからだし、数か所は半トンネルの洞門にして道を保護している。この長いところは、まだ比較的新しい。
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 カマヤ海岸のポイントは、名前はとくにないものの、やはりこの崖なのであろう。
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 高さだけでいうと、「590 今戸鼻」の項の若狭高浜「音海断崖」にはおよばないが、そのすぐ下を歩いて通り抜けられる。
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 断崖のカーブでは、まるで道路が宙に浮いているようである。歩いていても、からだが浮き上がるような錯覚さえする、ふしぎな場所である。
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 ここらが、ちょうど与謝郡伊根町と京丹後市の境界線にあたるはずなのだが、はっきりとここが境界線という具合には線引きが確定していない。
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 例によって、まったく地図のルールを超越して無頓着なZENRINソースの地図では、迷いも疑問もなく北北東に海まではっきりと境界線を引いているが、国土地理院とAlpsmapでは、崖の上の山の頂で境界線はぷっつりと途切れている。
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 「おおッ境界未定地だ」と喜んだものの、実は、伊根の大島のところでも宮津市との境で同じことがあったのを、見逃していた。さらには、阿蘇海にももうひとつ未定地があった。
 どうしてこういうことが起こるのか、おもしろい話がありそうなのだが、誰も語っていない。
 「味覚亭」(“みかくてい=未確定”ということ。しゃれてるね)さんという人のページ(「境界未定地域」の覚書)によれば、全国にはかなりの数こういう境界未定地はあるようだ。
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 経ヶ岬につながるいくつかのピークをもつ尾根の付け根を通り抜ける経ヶ岬トンネルはもう京丹後市。
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 人家も何もないトンネルの東口に、バス停がある。これまたなんでこんなところにバス停が…というやつだ。気になったので、帰路のバスで運転手さんに聞いてみたら、「やはり歩いている人もたまにあるので…」という返事。
 トンネルを抜け、少し下ると、経ヶ岬の入口だ。
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dendenmushi.gif近畿地方 (2010/06/09訪問)
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番外:大糸線・今は昔…ただ一度だけのアルプス体験から(新潟県・長野県) [番外]

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 「大糸線」という名前の響きには、かつてやるせないほどの想いをもった山男たち(山女はまだ当時は希少種だった)によって語られてきたなにやら重々しいものが、折り重なっているかのようなイメージがあった。
 名古屋から中央本線で松本まで行く。小ぶりで煙突がちょっと長い蒸気機関車に引かれて、松本からゴトゴト揺られるとまず有明で降りる。それから中房温泉を経て燕岳に登り、いわゆる表銀座コースを槍ケ岳まで縦走する。槍沢に降りて上高地を経て、また松本へ戻る。再び大糸線に乗ると、今度は白馬で降りる。ロープウエイで八方尾根に取りつき、そこからは唐松岳の鞍部を越えて、黒部渓谷の祖母谷へ降りる。欅平まで出て、関西電力のトロッコで宇奈月へ行き、富山から芦原温泉・東尋坊を経て、広島に帰ってきた…。
 それが、でんでんむしの唯一のアルプス体験であったし、東尋坊で初めて眺めた日本海が、岬めぐりへの遠いけれど確かな伏線となっている。
 それは、1958(昭和33)年の夏のことであった。コースの概略だけを書くと、どうということはない。だが、大糸線の列車に乗ってから、急きょ決めたおまけの唐松越えが、実は大変なものだった。通常、唐松越えの標準コースは八方尾根から唐松小屋までが一日、唐松小屋から黒部渓谷へ降りるまでが二日の行程である。それを、八方尾根山麓にテントを張り、ロープウエイが動き出すのを待って登り、その日のうちに餓鬼の田圃を通って祖母谷に降りたのだ。こちらは、リーダーに従って付いて行くだけだったが、二日のコースを一日で歩こうというのだから、それはそれは…。
 唐松小屋から降りる黒部の道は、気が遠くなるほど長く、歩いても歩いてもきりがなく、祖母谷温泉のランプの一軒宿にふらふらで辿り着いたのは夜も8時近くだった。
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 それ以来の大糸線というわけではないが、今回は糸魚川から入って南下するのも久しぶり。直江津からは、特急「はくたか」で糸魚川まで行く。その間に、JR東日本のエリアを越えてJR西日本エリアに入る。糸魚川からの大糸線も他の線と同じく一本では行かず、一両編成で南小谷まで行き、そこで乗換えになってまたJR東日本の線に戻る。
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 いつだったか、大糸線の沿線で集中豪雨があり、線路も流されて長いこと普通になる、ということがあった。旅館なども半分流されるといったテレビを見たような憶えもある。豪雨で川がどんなになるのか、そのときのものか、鉄橋の橋脚がぽつんと取り残されている。
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 一両編成の電車で、横並びの向かいの席に糸魚川から乗り合わせた黒いスーツ姿の若い女性は、黒いころころケースとバッグを持っていて、座るやいなやなにやら書類を出して、ケースを台にしてなにやら一心不乱に読んだりメモしたりしている。脇目もふらず没頭しているさまも、若さゆえなのかと、ちょっと気になった。どこか沿線の町へ営業に行く人かと思ったら、会社案内のようなものを出してめくっている。みればまだあどけなさも残る学生のようでもあるので、営業ではなくて就活なのか。
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 大糸線で、どんな会社があるのだろう。大町まで行けば、昭和電工などもあるが、途中には大きなあるいは中くらいの会社もほとんどあるまい。電車の乗換えで、今度は二両編成になり、彼女がどこへ行ったのか、どこで降りたのかもわからずじまいになってしまったが、とにかくその一生懸命に勉強しているさまをみれば、でんでんむしが採用担当者ならそれだけで合格といったかも知れない。それにしても、大糸線に揺られて通勤はできまいし…。
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 車窓から白馬の連山が流れていくが、どれがどの山かまでは判定するのはむずかしい。ただ、信濃森上から西南西方向に見えるのは、まぎれもなく唐松岳である。
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 若い時代の、あの日、この尾根を越えたのだ。
 若いときの、たった一度の経験でも、それは一生の宝物となる。
 そういうことがあるのは、間違いない。
 大糸線の若い女性にとっても、あの日のことが人生を開いていく重要なポイントになり、忘れられない日になるのかも知れない。
dendenmushi.gif北信越地方(2010/05/23訪問)
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番外:休暇村妙高・“雪割チューリップに元気をもらいました”ってか(新潟県) [番外]

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 野尻湖の周辺には、適当な宿泊施設がなかったので、迷った末に毎度おなじみの休暇村の今回は『妙高』。
 黒姫駅から、北へ谷筋を下る信越本線は、池尻川が関川に合流するところで県境を越え、すぐ妙高高原駅に着く。ここは、黒姫よりももっと大きな駅で、新潟県は妙高市となる。妙高山の山麓には池の平や赤倉など、板を履いたこともないでんでんむしでも知っている有名なスキー場がたくさんある。
 妙高山麓は、北国街道が南北に貫いていて、信越本線よりも上のちょっと高いところを走っている。だから、昔から開けていたところなのだが、なにしろでんでんむしには縁もゆかりもない地域である。
 ただ、それを言い出せば、縁があるわずかなピンポイント以外は、日本中ほとんど縁がない。だから、息子の彼女の母方が直江津だと聞いて、妙にうれしかったりする。
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 その直江津を目指して走る電車を、妙高高原の次の関山で降りる。そこまで、休暇村妙高のマイクロバスが迎えに来ているはずなのだ。関山駅からは西南西の方向に一直線に、関温泉・燕温泉へ行く道路が通っていて、休暇村はその長いスロープの途中にある。
 おばあさん4人のグループが、同じバスで一緒に乗り合わせる。どういう関係なのか、年齢は70から80というところか。女性の歳はよくわからない。上りや下りの電車でやってきて駅で落ち合ったふうである。これからは、こういったグループでの旅行も多くなるのだろう。<br /> そのなかの一人が、おばあさんにしてはなかなか好奇心旺盛で、「この辺のスギはみんな根元からしゃくれたようになっているわねえ」などと、のたまう。なかなか頼もしいおばあさんだ。
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 休暇村については、すでに何度か書いているが、もともと国有地を利用しているので、周辺環境にそれぞれ特徴がある。ここは、全国で確か12箇所くらいから始まった国民休暇村創設当時からの古参であるが、もちろんでんでんむしは初めて。スキー場を自前でもっていて、専用リフトもある。また、周辺の散策路や案内板なども、全国の休暇村と同じような仕様になっている。だが、年の半分近くが雪に埋もれるここでは、それも通りいっぺんのような気もする。案内板をつくったりプランする人がほんとに現地調査を充分にしたのだろうか、と疑問に思ったりする。
 夕食時には、山菜のてんぷらを別注文しておいた。なにかはわからないが、たまに食べる山菜とはまったく違うものもあって、その苦味も心地よい。
 着いた時には、スキー場のうえに見える妙高も少しガスが出ていて解け残りの残雪が、なにか淋しく思えたが、翌日はよく晴れた。
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 一番風呂に入って、朝飯前の散歩に出かける。休暇村のスタッフが案内する朝の散策というのもあるので、そういうのに参加してもいいのだが、時間が7時では待っていられない。地図を見ると、この上の関温泉の下にある大きな谷に、不動滝という表示があるので、そこまで行ってみよう。
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 スキー場の斜面は、だらだら上りで、関温泉が見えてきたところから下る道は、通行止の厳重な柵があり、おまけに「クマに注意!」の看板がある。この時分は、山菜取りの人がクマに襲われたとかいうニュースがよくある。鈴は持ってこなかったし、どう注意すればいいのか。谷に降りていく道は、赤倉温泉のほうに抜ける道なのだが、まだ雪が残っているということか。
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 不動滝まで下ると、深い谷底に降りてきたような感じがする。この谷は、妙高山直下の地獄谷から燕温泉を経て流れ下るの大田切川がつくる。現在も妙高の雪解け水が、両側から深く切れ込んでいる谷を削り続けていて、それが地図にもはっきりと刻まれている。道がいちばん低くなったところに橋がある。滝は、その下にあるが上からではそれともわからない。ここまできたからには降りてみるしかない。
 不動尊の祠があるので、滝もその名がついた、ここも修行と信仰の場であったのだが、いまでは祠の前に張り出したテラスの床は腐れ落ちてしまっていて、祠の壁に張りついて、カメラを持つ手を飛沫のなかに突き出すくらいが精いっぱいだった。
 休暇村は連休前の土曜日だが、ほぼ満室のようだったが、ほとんどの人は車で来ている。帰りの電車はまたあの特急の車両で走っている普通「妙高1号」で、関山駅まで送ってもらうよう予約しておいた。
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 玄関から外に出ると、並んだプランターの花に水をやっている人がいる。ここへきていちばんに目にとまったのは、玄関脇の首の長いチューリップだった。その姿が、いかにも去年の秋以来の数か月を、冷たい雪の下で耐えてきました、とでもいいたげにみえたのだ。
 その人に声をかけると、うれしそうに話してくれた。雪は先週までたくさんあって、やっと雪の季節が終わったところだという。この付近の雪は、一茶の柏原が“五尺”だから、ここも2メートルくらいだろうか。いえいえと、その人は首をふる。4メートルは積もるのだという。
 「チューリップはね、まだ雪があるところを突き破って蕾を出してくるんですよ」。
 へーえ。へそまがりでんでんむしは、近頃流行りのコメント「…に元気をもらいました」とかいうのが、なにか理由もなく好かんのではあるが、ここはやはりそんなところなのか。
 その人が、関山駅まで送ってくれる係だった。不動滝まで行ってきたというと、健脚を褒めてくれて、あの滝の上の橋が雪の重みで傾くのだと教えてくれた。
 妙高の麓でも、田植えはもう終わっていた。
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dendenmushi.gif北信越地方(2010/05/23訪問)
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番外:柏原と小林一茶記念館・一茶の句であなたが好きなのは?(長野県) [番外]

 信濃町の野尻湖から隣町の飯綱町の牟礼の間は、長電バスが走っており、これが途中黒姫駅を経由する路線だが、黒姫止りのバスも多い。日に13便もあるので、野尻湖観光には比較的便利である。
 バスの運転手さんが、走り出すなりどこからきたのかと問いかけてきた。例によって、ほかに乗客はいない。「この辺りも、昔はもっと賑やかだったんだけどねえ。今はもうすっかり淋しくなってしまった…」と、いかにも申し訳なさそうに言う。確かに、野尻には店も数軒あるにはあるが、営業しているのかいないのかわからない。「この辺りの人は、今は主に何を仕事にしている人が多いんですか」と聞くと、まるで答案を用意していたかのように、その運転手さんは解説してくれた。
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 それによると、かつては付近の山々から伐採される木材の加工集積場として繁栄したし、周辺にいくつもあるスキー場も多くの人を集めていたし、野尻湖へ来る観光客も多かった。しかし、それらも年々減少している。町では、工場誘致で就労人口の確保を図ろうとしてきたが、それも進出企業の規模縮小などもあって、期待に応えるほどうまくはいっていない。古い伝統の地場産業である信州打ち刃物も、地域経済を支えるほどの力はない。
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 黒姫山のスロープとその下の谷筋で、わずかに農業が息づいているくらいでは、やはり若い人は都会へ出て行くしかない。
 日本中の地方は、どこもほぼ共通した課題に直面している。
 「ところで、一茶記念館へ行くには、どこで降りればいいのですか?」
 そういうと、親切な運転手さん(こういう場合、ほぼ85%くらいは親切である。これは日本のとてもいいところだ。)は、黒姫駅から電車に乗るのであれば、まず役場のところで降りて一茶の旧宅を見て、それから記念館まで戻って、そこから駅へ歩くのがよいと教えてくれた。
 では、時間もあることだし、せっかくだから当初はスルーするつもりだった一茶の旧宅とやらも、ついでに見て行くことにしよう。なにしろ、こどもの頃に初めて接した俳句のなかで、とにもかくにもわかったのは一茶の句だけだったのだから…。
 小林一茶についての知識は、その昔教科書で習った程度のことでも、その詩情と身のまわりの動植物に注がれる暖かなまなざしの句のいくつかには、人並みに興味があった。そこで、その一茶が信濃の人だということも、江戸にもいて結構あちこち旅もしていたということも、複雑な家庭環境であるうえ本人も尋常の暮らしではないということも、親族との間で遺産相続その他をめぐる骨肉の闘争をしたということも、それでも最後は終の住み処を故郷に求め得たことも、いちおう知ってはいた。だが、それが信濃のどこだったかまでは、茫漠としたままで過ごしてきた。それがここだったとは、野尻湖の岬めぐり計画で地図を見て、初めて気がついたのである。
 なるほど、ここは柏原。今では駅名が「黒姫」に変わっているが、昔は「柏原」だった。一茶の故郷とは、まさにここだったのだ。
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 一見のどかな田園風景が広がるが、時候のいい季節にちょろっとやってくる観光客には、その地域の冬の厳しさはわからない。黒姫駅の片隅にある赤いラッセル車でも、それは想像される。そのことは、越後の『北越雪譜』について書いた、291 角田岬=新潟市西蒲区角田浜(新潟県)越後の冬も雪も知らずしての項目でも触れた。
 一茶自身も、『おらが春』ではこんなことを書いている。
 おのれ住る郷は、おく信濃黒姫山のだらだら下りの小隅なれば、雪は夏きえて、霜は秋降る物から、橘のからたちとなるのみならで、万木千草、上々国よりうつし植るに、ことごとく変じざるはなかりけり。
     九輪草四五りん草で仕廻けり

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 一茶の旧宅というのは、焼け残った土蔵のことで、それがきれいに修復されている。一間の土間に囲炉裏が切ってあり、ござを敷いただけの窓もない土蔵が、それであった。なにか、きれいになっている分だけ違和感が吹っ切れない。
     これがまあつひの棲処か雪五尺
     我里はどう霞んでもいびつなり

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 記念館は、一茶の墓と俳諧寺のある丘の斜面にあったが、これもバス通りからは行けず、大回りして行かなければならない。その通りを記念館をめざして上って行くと、小学唱歌『村の鍛冶屋』の碑があった。なーるほど。あの、しばしもやまずに槌打つ響きは、信州打ち刃物の鍛冶だったのだ。想像もしていなかった、思いがけないうれしい“発見”である。
 信州打ち刃物は、日本古来の日本刀の技術を鎌や鉈などの日用刃物で、こういうのは信州のみの特産ではなく、全国各地にそれぞれの地場に根ざしたものがある。今では、どこにも鍛冶屋らしいものはないが、祖父が関係者だったというこの辺りの旧家らしい若月さんという人が、この詠み人知らずの唱歌に関する情報提供を呼びかける趣旨で設けたコーナーだった。
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 記念館の上のそば屋はもう誰もいなくて、信濃のそばは食い損ねたが、記念館名物らしいネコ館長もちゃんと出勤して館内にいた。一茶に関する資料記録は、かなりたくさん残っているので、収蔵展示物も多い。
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     盥から盥にうつるちんぷんかん
 一茶は、“俳聖”といわれる芭蕉とは対照的な面があり、常に世俗の垢と波のなかで揉まれ、己の我執と物欲とももがいた人である。資料記録が残っているのは、ひとつにはそのためであったかもしれない。また、一茶自身も当時の感覚からするとかなりの変わり者であったらしい。50歳過ぎてまだ20代の妻を迎えた喜びのなかで、愛妻を抱いた回数まで克明に日記に記録するような人であった。(これは、記念館ではなく、相馬御風の『一茶と良寛と芭蕉』という本に「七番日記」などの紹介がしてあり、それで知れる。)
 しかし、そうした妻や子に対する人間的な愛も、それぞれ早くに死別するという試練に遭わなければならない。
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 世間では、“すね者”として通っていたというが、へそまがりでんでんむしなども、なんとなしにそれもわかるような気もするのだ。“なぜ「でんでんむし」なのか?”で触れているが、それと同様の意味のこんな句もある。
     足元へいつ来たりしよ蝸牛
 数ある一茶の句で、自分が知っているものは少ないが、それのなかではどれがいちばん好きな句としてあげられるだろうか。
     春立つや愚の上に又愚にかへる
     露の世は露の世ながらさりながら
     ともかくもあなた任せのとしの暮

 そういうのもいいが、やはり有名なこの一句かなあなどと考えながら、黒姫駅に戻ってみると、誘致した企業の工場広告看板もあるホームには、なんとその句碑が立っていた。
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 おそらく、近頃のとくに都会の子はハエなど見たこともないのかも知れない。衛生意識と環境は、著しく進歩したが、おかげでこの句のもっている、なんともいえないおかしみや諧謔が、実感としてわかる人間がいなくなりそうだというのが、ゲームのようにして、一対一の真剣勝負のように蝿叩きを振り回していたこどもの頃の自分とだぶらせて思うのである。
dendenmushi.gif北信越地方(2010/05/22訪問)
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番外:野尻湖ナウマンゾウ博物館で『ギャートルズ』を連想する(長野県) [番外]

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 野尻湖で『ギャートルズ』を連想したのは、実際は時代と場所の混同であって、マンモスとナウマンゾウは同じゾウ科の動物だが、属が異なる別のでゾウである。ところが、この両者は時代と場所がまるっきりかぶらないのかといえば、琵琶湖のように同じ場所から両方の化石が見つかったりして、必ずしもそう断定もできないらしいので、話がややこしくなる。
 約400万年前からおよそ1万年前くらいまで、氷河期を生きていたマンモスがなぜ絶滅したかについては、氷河期末期の気候変動による食料不足、人類の狩猟圧力に負けた、巨大な嵐や細菌・ウィルスが原因とするなど、諸説ある。
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 “日本にもゾウがいた”ということで、その名は広く知られているナウマンゾウは、マンモスの時代の終わり頃から、約2万年前の新生代更新世後期までで、生息していた場所も日本、朝鮮半島、中国という東アジアに限られていた。
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 前にも、ナウマン博士に縁があった高知の須崎周辺や、化石が出ている浜名湖の浜北佐潟の項目で、少し関連して触れていた。ナウマンゾウの化石は、日本全国あちこちで発掘されているが、ここ野尻湖が最も有名で、ちゃんとした博物館までできている。ナウマンゾウに限らず、野尻湖周辺の5万年の歴史と湖を中心とした周辺の自然環境を対象にしている。
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 なにしろ、1962(昭和37)年から始められた発掘調査は、現在に至るまでエンエンと続けられているというから、それだけでもすごいのだ。当然、化石発掘の量もここがいちばん多い。
 また、発掘に“野尻湖友の会”という全国組織まであって、誰でも入会して発掘にも参加できる。おまけに、運良く何か発見できれば、展示ラベルには自分の名前をつけることも可能…といった、従来の専門家が“神の手”かなにかを使いながらひっそりとやる、発掘調査の常識を覆すようなユニークさが受けているのだろう。
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 「野尻湖発掘」については、さまざまな情報が数多く発信されていることも、重要だろう。ナウマンゾウ博物館は、その基地にもなっている。売店もお決まりのグッズなどと並んで、地学・歴史関連の書物資料も販売されている。記念に、野尻湖地質グループ著『火山灰野外観察の手びき』という小冊子を求めておいた。
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 その博物館が発信している仮説のひとつには、非常に興味をそそられる。
 およそ、3〜4万年前、旧石器時代に生きた人々は、ここで集団生活を営み、ナウマンゾウを狩って暮していたのではないか、というのだ。
 それというのも、野尻湖周辺では旧石器遺跡が多く、さまざまな石器や骨でつくった細かい作業をする道具などが発見されているからであり、見つかる化石も、自然な形で出てくるのではなく、ばらばらで整合しないのだ。
 そこから、導きだされた仮説は、野尻湖はナウマンゾウの解体処理場だった、というものである。
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 こうなると、やはり園山俊二『ギャートルズ』は、“マンモー!”ではなくて実はあれは“ナウマンゾウ”だったのだ、と考える方が納得がいく。マンモスが主に生きた氷河期だとすると、やはりおかしいということになる。マンガの登場人物が、オトコは上半身裸、豹柄ワンピ毛皮のオンナは二の腕も胸の谷間も露出しているとなれば、氷河期も終って間氷期に入り、温暖化がかなり進んだ時代ということになるからである。
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dendenmushi.gif北信越地方(2010/05/22訪問)
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番外:竜串=土佐清水市竜串(高知県)足摺岬へ来た人の20%しかここまで来ない [番外]

 今朝は、これを書く前に iPad の予約で忙しかったが、岬めぐりにそれをもっていって、現地でその日にすぐ書込みをしたいとは思っていない。やはり、こうして、帰ってきてしばらくしてから、あれこれ無駄話も入れながら書く方が、今のところスタイルとして安定している。
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 岬の名前や読み方については、いつも折りに触れて登場する問題であり、最近では「538 女城鼻=土佐清水市松尾(高知県)神社と監視哨とアコウと名前の読み方と…」でもふれたのだが、これが案外いいかげんで決め手がないことが多い。
 「竜串」も同じくで、その名の由来には諸説あるものの、これというものがない。わが民族は名前についてはどうでもいいと思っているのではないか、とそこでも極端なことを書いたが、それも本心からではない。
 ただ、地名に関してはそれがお上が決めて「そうせよ」と命じたものよりも、庶民の間で長い間に言い伝えられて徐々に定着してきたものが多いので、それを逐一記録する習慣がなかったことと相俟って、正確な伝承ができずにきたということも大きいだろう。
 竜串の諸説につけ加えることが許されるならば、でんでんむしにも自説がある。それはやはりその地形からの想像だが、“竜の櫛”というのがもともとの意味ではなかったか。「櫛」は字画が多くて書きにくいから「串」の字をあてたのだ。
 真面目な話、こういうことは過去にいくつも事例があるだろうし、現に今でも常用漢字に入れるか入れないかで、似たようなことを考えている。少なくとも、“竜を串刺したような”というのよりは、遙かに「櫛」のほうが妥当性があるのではないだろうか。「竜に髪があるのか?」といったツッコミはこのさい受付けない。
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 2000万年も前の地面のことを、ごちゃごちゃ言ってみても、今更始まらないんではないかと思う人が多いのか、地学的教材の宝庫という竜串までやってくる人は多くないらしい。
 なにしろ、足摺岬にくる人10人のうち、竜串にくる人はたったの2人に過ぎないのだそうだ。これは、いわゆる観光ツアーなどを企画運営する旅行会社のせいであろうと、でんでんむしは思っている。
 現在のツアーは、契約している観光施設の点と点を結びながら、ひたすら走り回るのをもって旨とするようなものがほとんどで、その計画からすると、同じ道を引返すのは極力避けたいと考えるのが普通である。土佐清水からまた西へ足を延ばすには、その先にまた点がつながっていなければならない。それに、どうせまた高知へ引返さなければならないのならば、わざわざ遠回りする理由はない。
 そんなわけで、竜串まで来てもそこから先、宿毛に抜けるのはなかなか取りにくいコースになってしまう。これが須崎か四万十あたりにあれば、また事情は少し変わっただろう。
 たとえ、足摺海底館があるとはいえ、ここまで連れてきたとしても、でこぼこの岩が続くだけの海岸の岩場をみても、多くの人はたいして感心しないのであろう。
 竜串層の地学的な特徴は、砂岩・泥岩が波風の浸食作用で、無数の甌穴や丸い岩の玉を生み、波風のつくる紋がそのまま岩に化石となって刻まれた、複雑な地形と地層にある。この特徴は、松崎付近から千尋岬、この一帯にかけて広く展開している。
tatukusi05.jpg
 自然の景観を珍奇に思い、それをわざわざ訪れてみるという興味と習慣は、割と古くから日本人はもっていた。ここでも、大竹小竹、しぼり幕、らんま石、かぶと石、鯉の滝登りなどの名称が付けられているが、これも古い観光地によくある。
 しかし、ほんとうのおもしろさは、もうちょっとだけ踏み込んだ、科学的な知識を理解しないと味わえない。感心したりおもしろがったりするところまでは、なかなかいかないのだ。
tatukusi12.jpg
 遊覧船を降りると、砥崎と叶崎を前後に遠く見ながら、竜串の岩場を急いで通り抜けながら、そんなことも思う。なぜ、急いでいるかといえば、次の宿毛行きのバスに乗るため、足摺海洋館前のバス停まで間に合うように到達しなければならないからだ。
 ここでも、ハコモノはできているが、竜串の魅力を、日本人が潜在的にもっているはずの興味や好奇心に結びつけるソフトがないのだ。
 だから、旅行会社も団体客も、吸引する力にはなっていない。
 先週の土曜日の夜、実にひさしぶりにTBSの『日立 世界ふしぎ発見!』を観た。この春の番組改編以来かどうか、近頃だんだんNHK-BSの番組で見るものがなくなっていて、たまたまグランドサークルをやっていたチャンネルに止めた。この番組も以前はたまにみることもあったが、数年前から変な番組のつくりになってしまったうえ、竹内海南江さんがあまりでなくなったので見なくなっていた。それが、たまたまみたその回に出ていて、番組構成も元に戻っていた。
tatukusi13.jpg
 抽選で一日20人しか見学者を許可しない、“地上で一番美しい場所”というグランドサークル内のザ・ウェイブとは、もちろん比較することではないが、砂岩と泥岩の造形という共通点はある。竜串の写真を整理していると、そんなことも思い出した。
 ここに来るのも二度目で、本来ならちゃんと一項目にしたいところだが、正式に岬としての名称はないので、番外なのだ。
dendenmushi.gif四国地方(2010/01/24再訪)tatukusiM.jpg

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番外:「Mapion 岬めぐり」7つのナゾ・月間1,000万人も見るMapionが… [番外]

 本ブログ左欄の小さな掲示板で、Mapionが “Mapion 岬めぐり”を始めたと書いていた。それを発見したのはまったくの偶然で、サイトのあちこちをクリックしていてたまたま発見したものだった。しかし、あとからMapionのサイトを見ても、どこにもリンクボタンがないし、サイトマップをみても表記がない。どこをどうして、それがでてきたのかが、いまとなってはわからないので、それが最大のナゾなのだが…。
 それ以外にも、いろいろあるので、紹介がてら画面とともにあげてみよう。
mapionMMM.jpg
ナゾ●その1
 Mapionのサイトのトップページにガイドがない。なのに「Mapion 岬めぐり」というページが存在する。(検索では、ちゃんと出てくる)
ナゾ●その2
 Mapion の本体は2009/04から、地図ソースをZENRINに切り替えたはずなのに、ここではわざわざAlps の地図を掲載している。
ナゾ●その3
 だが、それにしてはたとえば「潮岬」の表示位置がおかしいことなど、なんとなくヘンである。
ナゾ●その4
 しかも、その地図には「Copyright@Alps Mapping K.K.」というこれまで見たことがないクレジットがついている。(新会社?)
ナゾ●その5
 「Mapion 岬めぐり」自体にはCopyright(C)CyberMap Japan Corp となっていて、リンク先は「株式会社マピオン」である。
ナゾ●その6
 「CyberMap」は、以前のMapion が使っていたはずなので、不思議がないとはいえ、Mapion の本体のクレジットは(C)Mapion Co.,Ltd.だ。
ナゾ●その7
 「Mapion 岬めぐり」と銘打つ割には、取りあげている岬の数は9項目しかない。

 このサイト自体が、地図ソースの変更によって押し出されてしまったCyberMap の活用法として考え出した企画なのだろうか。(てとさんからいただいた、下記コメントによると、そうではなくて、「ずいぶん前に作り始めて、企画倒れで更新が止まった残骸のようにも見えます」という。その可能性は考えつかなかった。)
 “ナゾ●その2”については、なにしろMapion の地図では、「足摺岬」でさえ15万分の1で初めて出てくるが、それより細かい縮尺の地図ではまったく岬は表記がない。常識的に考えても、通常は岬の名などは細かい縮尺の地図では出てきても、縮尺が大きくなるとなくなるのが普通であるが、それでも超ポイントの岬は残ることがある。だから、大きい地図にあってもおかしくはないが、それが縮尺が細かくなると消えるというのは、地図として基本的におかしい。
 だから、足摺岬ではもちろん灯台もないし岩島もない。だから「Mapion 岬めぐり」にはMapionの地図はとても使えないから、ということは理解できる。ということはつまり、Mapion 自身も自分が採用したこの地図ソースの欠陥に気づいているわけだ。
 足摺岬の例に関して言えば、「539 スボノ口鼻=土佐清水市松尾・足摺岬(高知県)祝:AlpsMAPの復活!」の項ですでに、同じくZENRINを使っているYahoo!地図を俎上にしているので、それと同じことがMapion にもあてはまるということだ。
 でんでんむしは、へそまがりの皮肉屋の地図好きなので、そのうえでの辛口発言と理解していただければ、これで「GOOD DESIGN」マークがついているのだから、なんともかんとも、グッドデザインも悪い冗談としか思えない。
 状況証拠的には、試験的にやっているもので、まだ正式公開前であるという可能性も大。でも、検索にはかかるし、「マピオンおすすめ周辺情報」としてちゃんと広告もとっている。
 あ、そうか。これを見本にして、もっと本格的にスポンサーのつく岬の数を増やしていこう、という作戦なのか。いくつくらい、そんな岬があるだろうか。
 Mapion では「自然スポットの○○100選」などもやろうとしているので、これもそうした試みで広告も増やそうということなのだろうが、いいところに眼をつけたといえますな。
 なぜって、自然スポットや岬の周辺となると、普通ではまず広告営業はできないだろう。だが、こうした仕掛けがあれば、ある程度はスポンサーの拡大を測ることができよう。
 なにしろ、2010/04/07のマピオン社のニュース・リリースによると、“月間利用者数が1,000万人を突破”したというMapionである。でんでんむしは、みんながMapionを見るようになったのに逆行していて、昨年春以来Mapionを見る機会がなくなっていたが、これからこのサイトにどこの岬が増え、どんな広告主が現われるのか、楽しみにしよう。
 いちゃもんも忘れずに! そのリリースのボタンをしてみると、タイトルが、
      マピオン、月間利用者数が1,000万人を突破
  〜2年間で2倍以上に成長、地図デザインや検索機能の向上により〜

となっていた。
 ほかのことはともかく、“地図デザイン”が“向上”というのは、地図屋としてはアマイ! 大甘である。
 もっと、自分にきびしく真剣に地図を愛してくれ〜! といいたい。
 そのためにも、でんでんむしがかねてからつけてきた苦言も、きちんと受け止めてもらえるとうれしいのだが…。
 そうそう、その少し前のリリースでは、地図データを毎日更新することにしたというのがあった。あわせて、ユーザーから地図データの修正要望を受け付けるための専用窓口を設けた、という。
 ZENRINソースの不備やアップデートが追いつかないのを、ユーザーの手を借りてやろうというのは、う〜ん!
 やっぱり、いいアイデア…というべきなのかなぁ、これは。
 でんでんむしお得意の揣摩憶測を、またまたしてもぶつぶつつぶやいてみました。

dendenmushi.gif(2010/04/30 記)「でんでんむしの岬めぐり」ブログ(SINCE 2006)

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番外:国民宿舎足摺テルメ=土佐清水市足摺岬(高知県)建築家ここにあり [番外]

ashizuriT06.jpg
 なにもない地面とその上の空間に、実用的な目的をもった建物というものを建てる建築家というのも、なかなか魅力のある仕事のように思える。
 「建築家・團紀彦」という名前を知ったとき、すぐに、頭にひらめいた名前があった。でんでんむしにとっては、作曲家としての本業よりも『パイプの煙』をエンエンとはき続けたことで知名の團伊玖磨と、近代史の重要ポイントで登場する三井合名の團琢磨…その一族ではないのかと思った。こういう直感はだいたい当たる。
 といっても、「團」という名字そのものが、そうざらにはないので、別に自慢にはならないのだが、琢磨の孫にあたる團紀彦氏が生まれたのが、神奈川県の葉山である。葉山ではあちこちに住んでいたという團伊玖磨が建てた(奥村珪一:設計)最後の葉山の家というのをよく(遠目に)見て知っていたし、さらにその家がもはや人手に渡って取り壊されてしまってないと聞いて、今さらながら時代の移り変わりをしみじみ噛みしめたのであった。
 その、“最後の葉山の家”というのがあった場所は、実は葉山町ではなく横須賀市なのだが、千葉なのに東京デスニーランド、日本テレビが新橋なのに汐留というが如きものであろう。
 もう大昔の話だが、でんでんむしは、小さなヨットを持っていたことがあって、最初は観音崎(054)に置いていたが、その後、久留和から森戸海岸に置き場所を移した。その久留和というのが、葉山と横須賀の境になる長者ケ崎の南であった。久留和の北で海を見下ろす高台に、ひときわ目立つ白い平べったいコンクリートと広いガラス窓の建物が、あたりを睥睨していたが、團家のその広い大きな窓からの眺めは、062 長者ケ崎の項(付:マイケル・ジャクソンが座った椅子)に掲げた、久留和海岸がちょっとだけ見える写真に、少しだけ近いものだったろう。
 ヨットといっても、その実ほとんどは海岸近くで雑魚釣り用ボートと化していたが、海の上からあれが團伊玖磨の家だと、見上げていた頃のことを思い出す。その頃、紀彦氏は高校生くらいだったのか…。
 足摺テルメの写真を見たときに、なんとなくそんなことまで思ったのだ。
 やはり、日本のエスタブリッシュメントというか、富裕階級の血統というのも厳然としてあるもので、まったく別の階級社会を流れているその流れは、滅多なとことではわれわれ庶民の血統とは交わることがない。團家は、ブリヂストンの石橋家、そしてあの気前のいいいお母さんがいる鳩山家とも閨閥でつながっている。
 たとえそうだとしても、紀彦氏が湘南高校から東大へ進み、大学院や留学を経て、團紀彦建築設計事務所を設立(1986年)し、建築家として実績を残すことになるのは、環境に恵まれたこともさることながら、ご本人の努力と豊かな才能の賜物にほかならぬものであろう。
 ここ、土佐清水市の国民宿舎足摺テルメは1998年の作品であるが、山の上にでかい建物を建てるのではなく、山から下る斜面をうまく利用した宿泊施設は、まるでなにかおしゃれな物語の中にいるようで、すみずみまでなかなかに楽しませてくれる。
 建築家というものの存在を、はっきりと感じさせてくれる国民宿舎なので、番外編として写真を載せておくことにした。
ashizuriT01.jpgashizuriT02.jpgashizuriT03.jpgashizuriT04.jpgashizuriT05.jpgashizuriT07.jpgashizuriT08.jpgashizuriT09.jpgashizuriT10.jpgashizuriT12.jpgashizuriT13.jpgashizuriT14.jpgashizuriT16.jpgashizuriT15.jpgashizuriT17.jpgashizuriT18.jpg
 “匠”という言葉は、内橋克人氏の名作でなじみがあるとしても、一般に文字・活字のうえでのことで、これを代名詞として音声で呼び慣わすということを大胆にやってしまったテレビ番組がある。人気のリフォーム番組だというが、そこでは、やたら“匠”と連呼される建築家たちが苦心して、古い家を低予算で改造するのを見せている。あれをみていると、施主のこれまでのような暮し方が、果たしてリフォームできるのだろうか、と思うことがある。
 せっかくのデザインも、かつてそうであったように、やがては施主の暮しのがらくたで覆われていくことになってしまうのではないだろうか。
 つい、そんな余計な心配までしてしまうのだが、足摺テルメという国民宿舎では、ちょっとだけスペースを持て余している感はあるものの、ホテルという日常と機能から生じがちながらくたは、極力排除すべく配慮されているようだ。ただ、2010/04からは、このホテルの経営が変わったのか、名前も変わって「国民宿舎」が消えた。
ashizuriT19.jpg
 さて、足摺テルメからは、足摺岬の町の中心部が眺められる。足摺岬は、この山の向こう側になる。 
dendenmushi.gif四国地方(2010/01/23訪問) 
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別ブログVol.2からのデータ移転統合終了 [番外]

 いくつかの他ブログサイトを渡り歩いた末に、So-netに舞い戻ってきたのは2010/02でした。2010/01〜2010/03の半ばまで、「でんでんむしの岬めぐり Vol.2」として、公開してきた項目データ(「1か月の試行錯誤の結果So-netに舞い戻ってきた(2010/02/03 記)」から、2010/03/20の「So-net 有料プランにして…(2010/03/20記)」の各項目は、2010/03/21に、2009/11/18をもっていったん終了していた本編(Vol.1)に移転統合しました。

  「でんでんむしの岬めぐり Vol.2」として公開していた間は、岡山県倉敷市の岬の写真をタイトルに使用していました。

miyanohana04.gif

ユーザアイコンは、こんなのにしていました。 den8den8.gif

denden.jpg(2010/03/22記)


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So-net 有料プランにしてVol.1との統合をはかろうとしている… [番外]

 この「でんでんむしの岬めぐり」ブログの右往左往ぶりは、そのつど紹介してきている。簡単に言うと、Vol.1が2009年末近くになって、ちょうど500項目を越え、ファイル制限に近づいてきたので、紆余曲折を経た末に2010年2月から So-netの別ブログとしてVol.2を開始し、今日に至っている。
 ちょうどその別ブログを設けたと同時期に、So-netの有料プランが開設されたのだが、そのときにはあまりメリットがないと思っていたので、そのまま別ブログを続けてきた。
 しかし、このままだとまったく更新しないVol.1は、6か月経つと削除されてしまうおそれがあることがわかった。
 それに、Vol.2はカテゴリ(ブログ共通テーマ)を、「趣味・カルチャー」にして、Vol.1の「地域」と別に設定していたのだが、これも考えてみるとあまり意味がない。同じテーマのブログ内容は、やはりひとつのまとまりになっているほうが望ましい。それに、「趣味・カルチャー」は宣伝ブログがのさばっていて、なんとも気分がよくない。
 有料プランにすれば、ストレージ容量が3GBに増えるので、あえてブログを分割しなくてもよい。有料プランのメリットは、それだけしかない。その他のアクセス解析をリッチにとか、ファイルの種類を増やせることなどには今のところ関心がないし、いくつもブログがつくれるというのもさしあたって必要がない。だが、容量増だけでも有料にする意味はあるかもしれない…。
 そう考えて、有料登録をした。有料にしても、登録後に一瞬「登録しました」という文字がでるだけで、So-netからメールひとつ来るわけでもなく、なんの変化もない。なので、自分でなんとかしない限り、なんのメリットもないということらしい。
 とりあえずは、Vol.2のブログ共通テーマを、当初からの「地域」に戻しておくことにした。
 しかし、このままでは、同じカテゴリに同主旨のブログがふたつ存在するだけで、Vol.1とVol.2の統合を図らなければ、有料にした意味がない。
 さて、それはどうしたら可能なのだろう。
 手作業で、新規項目としてコピペをしながら、どちらかへ移転作業をしなければならないのだろうか。もちろん、手間からいっても、500項目以上あるVol.1のほうへ、まだ25項目しかないVol.2を追加移転して統合することになるだろうが…。
 さてさて…。
    ●       ●       ●   
 数週間前の情報によると、ブログのうち内容が広告ブログであるものについてはその旨を明記するように…という検討がされるらしい。これは、ぜひ早期に実施してほしいものだ。
 多くのブログサービスが無料で使うことができるのは、スポンサーがいてプロバイダが広告を取っているからであることは、よく理解できているつもりである。民放のテレビやラジオをタダで視聴しているのと、同じことである。だから、広告があるのがけしからんとは思わない。
 けれども、最近目立つ特徴的傾向として、一見普通の個人のブログのようなふりをして、実は企業のビジネスや商売やこづかい稼ぎを目的としたブログが増殖していることがあげられる。
 そのなかには、自分の欲望だけがむき出しで、仮にもブログの仮面の体裁を整えることさえしようとしていないものも少なくない。まったく中身のないこれらのブログは、「新型迷惑ブログ」とでもいうべきものである。
buga.jpg ひとつのカテゴリにネットオークションの商品リストを延々50項目にもわたってアップしたり、ホテル旅館の宣伝ガイドをズラリと並べたりするのも、情報といえばそうかもしれないが、それならば置き場所を限って整理してほしい。普通のブログのリストに混ざって、リストの場所ふさぎをするのが妥当だとは、どうにも思えない。
 もちろん、広告も場合によっては有用な情報たり得るわけで、形式論で排除を計るのもどうかとは思うが、かといって運営者側が何もコントロールをしないで、野放しにしておくのもいかがなものであろうか。
 もともとアフリエイトのようなものを当初からシステムに組み込み、公に認めたうえで出発しているのがブログなのだから、一般にブログ運営者は、こういう広告ブログにも寛大(鈍感)なようだ。So-net にしても、新規作成のウインドウに新たに「Yahoo!オークション商品紹介」とかいう欄を設けたくらいだから、あるいはこの程度は“禁止事項”にはあたらないと判断しているのかもしれないが、そのへんはアフリエイトもオークションもやっていないからよくわからない。
 また、トラックバックもブログの本来の機能ではあるが、これも適切な利用法が徹底されているとは言い難い。勝手に人のブログにつけたトラバを集めて並べたものを、自分のブログだという妙なことが横行しているが、これもほったらかしである。(いや、トラバは承認制という措置だけは講じてあるから、これはほったらかしではないという主張はできる。)
 ブログのまっとうなあり方のための努力とか、質の向上に対する姿勢は、どうも最初からブログ運営者自身に乏しいのではないかと疑わしくなる。著作権についても、運営者の姿勢としては通り一遍だし、テーマ内容の交通整理さえもきちんと管理しようとしないのは、どうも当事者としての責任を放棄しているようにしか見えない。
 ここまでいうと、ちょっと極端に過ぎる意見のような気もしないではないが、ブログ運営者の不作為の罪の芽は、なんとなくそのへんからすでに始まっているように思えてならない。
 そのことが、近い将来にブログの可能性そのものをも喪失させ、ブログの衰退を招くような結果につながる心配や危険性が、まったくないとは思えないのである。
 Twitter が人気なのは、その予兆であるかも知れない。しかし、でんでんむしとしては、Twitter はやろうとして最初につぶやいてはみたけれど、どうもその流儀がうまくのみ込めないでいる。買ってきた本も、読まずに積んである。
 やはり、ブログのほうがいい点も多いはずなのだから、利用者の啓発を含めて、なんとかブログをもっといい方向へ発展させるように考えてもらいたいものだが…。
denden.jpg(2010/03/20記)(2010/03/20記 2010/03/21Vol.2から移転統合)


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番外:1か月の試行錯誤の結果So-netに舞い戻ってきた [番外]

 2009年の11月末、『でんでんむしの岬めぐり Vol.1』は、ファイル制限に近かづいた500番までで一区切りをつけて終了し、新年を期して他のブログへ移行してVol.2を継続するつもりでいた。
 ところが、年末にちょっと2〜3のブログにあたりをつけて、カンタンに再開できると思っていたのは、かなり甘い考えだった。
 当然のこととはいえ、現在ユーザーに開放されているブログのシステム設計は、基本は似たりよったりでどれもどこも差がないように見えるが、いざ始めてみると、これが千差万別で、それぞれに強烈なクセをもっている。どこのブログがいいかわるいかというような議論は、およそ意味がない。
 どのブログにも、いい点もあればそうでない点もある。早い話が「一長一短」といやつで「ここはこの点はいいんだけど、こっちがどうもね」ということの繰り返しで、なかなかコレというところに遭遇しない。
 つまるところ、こうした要求が、それぞれのブログのもっている流儀に、うまくなじめるかどうかだけが、そのブログを続けられるかどうかの鍵になる。
 いくつか、実際に書き込みもしてみたけれど、どれもどうもいまいちしっくりこない。でんでんむしの注文がとくにうるさいわけではないない。せいぜい、記事の投稿と修正がスムーズにできること、html編集ができること、写真アップするさいの見分けがサムネールでできること、新規や過去の記事が誰にでも参照しやすくなっていること、デザインが落ち着いていること、ブロガー独自の告知やアピールができる欄があること、カスタマイズができること…くらいだ。
 ところが、これがなかなかうまくいかない。
 結局、なじんだSo-netで「別ブログ」を開設すれば、そのほうが問題が少ない、ということに気づいたのである。
 実はこの「別ブログ」も、既に一度経験があるが、切替えに若干課題があるので、これも満点とはいえないが、いよいよとなれば「有料」にしてもかまわない。
 そう割り切って、結局舞い戻ってくることにした。
 Vol.2は、Vol.1のときのように「原則隔日書込み」ということが、諸般の事情から不確実になりそうな雲行きだが、改めてマイペースではじめることにしましょう。
denden.jpg(2010/02/03 記)
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2006/10/16の「001 地蔵崎」から2009/11/18の「番外:So-netブログ」までがVol.1 [番外]

 Vol/1では、タイトル写真は、前半はテンプレートの「田舎」で、後半はブログの写真から選んだ、地球が丸く見える石垣島最北端の岬の写真を使っていました。urasaki01.gif

 meduriIcon.jpg ユーザーアイコンはこんなんを使っていました。

 この後から、Vol.2 として、2010/2月からSo-netに公開していた項目を、移転追加していきます。

4533281.jpg(2010/03/20記)

 


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番外:So-netブログでの3年と1か月 [番外]

●これがこのブログ最後の書込みです
 『でんでんむしの岬めぐり Vol.1』は、この項をもって終了です。
 「岬めぐり」自体が、まだ第一次目標の半分もいっていないので、この先も続けていくが、Vol.2は別のブログで、2010年になったら開始しようかと考えている。
 まだ、どこで続きを始めるかも決めていない。もしこの続きにも興味があるという方があったら、また探してきてくだされ。
 So-netブログが2009年11月で5周年だというが、この『でんでんむしの岬めぐり Vol.1』は、2006年の10月16日に「001 地蔵崎=美保が関灯台」の項を初めて書込み、以来2009年11月16日の「500 寺ヶ崎・小寺ヶ崎=日光市中宮祠」まで、原則として隔日のペースで書込みを続けてきた。
 どうして、この岬めぐりブログをSo-netで始めたかといえば、たまたま接続プロバイダがSo-netだった、というだけのことであった。思えば、So-netとのつきあいも古い。パソコン通信時代はNiftyだったが、インターネットも初期の頃一時期So-netを使っていたことがある。それからINSを経てADSLといろいろ変遷があって、マンションが光になるときにSo-netに舞い戻ってきた、というわけだ。
 So-netブログも、いろいろ変なところはあるが、これでも随分マシなシステムだということがわかったのは、ついこの前、Yahoo! ブログに新たにつくろうとして苦労したからだ。もともと、ブログはもっと前からExciteでやっており、ここのシステムも使い良かったので、それと比較してしまう。
 新しいところを探そうにも、GoogleやZENRINではない地図ソースを使っているところとなると、かなり限られてしまいそうだが、それはまた別の話。
 ちょうど、500項目到達という切りのいいところにきて、So-netのファイル使用領域も制限の1000MBに限りなく近づいてきたので、これを一区切りとして、Vol.1を締めることにした。ファイル制限は申し出れば増やせるが、たまには気分転換で、風景を変えてみたい。
 そこで、最後にあたり、『でんでんむしの岬めぐり Vol.1』の3年と1か月にわたるまとめを…。

●記事数526、総閲覧数の累計は41万件超(2009/11/17現在)
 これまでの記事総数はこの項目を入れて526件、総閲覧数は累計で41万件を超えた。nice!:2,271で読者数:5と、管理ページには表示されている。So-netの閲覧数やページビューや解析結果の意味不明さなどについては、前にも書いたので、繰り返さない。また、でんでんむしの“ひきこもり”という基本姿勢やnice!のナイスでないことについても別に書いている。(番外:なぜ「ひきこもり」なのか?)
 これらはそのうえでの数字であり、またこれが多いのか少ないのかも判断できないし、する必要もない。
 ただ、いろいろ観察していると、このブログがどのように見られているのか、おおまかな実態も見えてくる。
 アクセス解析では、訪問者とページビューというものが並列で示されるうえ、各項目の数字とは別に、「トップページ」などの数字も膨らむのだが、これと新規項目の関係がどうなっているのか、その実態がよくわからない。
 でんでんむしのひきこもり基本姿勢は、アクセスアップをめざして努力す姿勢とは正反対のものである。早い話が、自分でアクセス数を増やそうという努力はまったくしないで、『読みたい人がいたら、どうぞ勝手に読んでね』というものだから、逆にいうといちばん自然のままのパターンが伺える、と考えてもよい。
 それでいうと、このブログを見にくる人は、数少ない定期固定読者を別にすれば、そのほとんどは、検索でやってきた、たまたまどこかで見てやってきたという人たちの行動の集積だから、組織票なし、運動母体や支援組織なし、オール浮動票である。
 だいたいのパターンとしては、早朝に新規項目を書き込むと、その項目の閲覧数は1日で50〜70くらいを数えるが、2日目になると少ない場合はせいぜい一桁程度になることも少なくない。隔日にだから、トータルでも新規に書いた日はちょっと増え、その翌日はちょっと減り…というパターンを繰り返している。多い日で1日1000件を超え、だいたいは600〜700件くらいで推移している。
       ピクチャ g6.png
 ランキングについても前に書いたとおりで、So-net独自の計算方法があるらしいが、どうしてそうなるのか、何の数字をどう計算しているのかは公表していないので、ランキングをつくっている人間以外にはさっぱりわからない。そんなランキングを、気にする必要もない。
 …のだが、「でんでんむしの岬めぐり」のブログテーマ:地域(23位 / 478ブログ中 )と、一時期よりだいぶランクダウンしている。これも、前に書いたが、減ったときは簡単に減り、増えたときにはなかなかランクは上がらない傾向があるので、これを繰り返しているうちに、だんだんと下ってしまう。こちらのベースはあまり変わっていないので、他が増えていると考えるべきなのだろう。同じカテゴリ内ランキングで、前後の項目を見ると、だいたいはnice! も30〜50近く集めており、多くてもたまに2ケタになるかという程度の、「来る者は拒まず・去る者は追わず」方式の当ブログの何倍もあるので、この差は大きい。

●この時点でのよく見られた項目の上位50
 項目ごとのアクセス数は、原則的に新しいものは当然多くならない。といって、では古い項目が多いのかといえば、これがそうでもない。それには理由があって、はじめのうちはキーワードの登録もほったらかしで、自動処理に任せていた。そのせいもあっただろう。
 新項目の初速は、だいたい10日で100を超えるというのが、平均的なところだろうか。とはいっても、これも項目による差は明らかにある。早いものは2〜3日で軽く100を超えるが、反応の鈍い項目は20日くらい経過してやっと100に届く。その違いがどういう理由によるものかは、詮索してみても、はっきりとはわからない。
 ブログの内容、書かれたキーワードが大きく関わることは想像できるが、アップした日の曜日やお天気などによっても、かなりのばらつきが生じている。どうやら、お天気の良い休日などには、さすがにコンピュータとにらめっこしている人は少ないらしい。でんでんむしの場合は、平日のお仕事の合間、朝と夜に見られているほうが多いようだ。
 たとえば、この時点で締め切ったとして、アクセスの多かった項目にはどんなものがあるのだろうか。
 そんな興味もでてきたので、ちょっと集計してみた。これが、この3年と1か月間の、ページビューが多かった項目から順にならべてみたリストである。
best50.gif
 これが、人気があった項目のベスト50といってもいいのだろうか。
 しかし、「人気」というのは、検索で探してくることを考えると、それを「人気」という言葉でくくるのは当たらないような気がする。かといって、「ニーズ」というほどのことでもないだろう。
 けれども、ひとつひとつ見ると、これもなかなかおもしろい。

●ある時期どこかで「マイブーム」…
 全部を調べたわけではないので、推測だが、Yahoo! 検索結果のリストの上位に表示されるものは、比較的閲覧数が多いということもあるようだ。
 ただ、それも決定的かというとそうでもない。
 「恋人岬」のようなポピュラーなものがダントツなのは、なんとなくわかる。だが、それは同時に「検索」での人気、多くの人が見に行くページというものが、極めて興味本位の底の浅い流行りのような面を多く含んでいるともみることができそうだ。残念ながら、「恋人岬」を検索できた人の多くは、「岬めぐり」にも、他の岬にも興味をもっているわけではないだろう。それにしても、このリストにものぼらない、伊豆半島の恋人岬との違いは、いったいなんなのだろう。
 今思えば、この新潟県の恋人岬(正式名は鴎ヶ鼻)の項目を書いた頃には、ネット上にその情報はほとんどなかったはずだ。それが、今ではたくさんの項目が検索ででてくる。ひとりよがりでいえば、このでんでんむしブログが、この岬の売り出しに一役かってきたのかもしれない。
 おかしいのは2番目にランクインした項目で、これは実在の岬ではないのに、“本の人気”でこの数字というのが、笑える。このランキングの上位2項目は、直接「岬めぐり」とは無関係の要素が吸引した結果といえる。つまり、これを除いた3位以降が、このブログ本来のニーズに立脚した基礎票だと考えられる。
 また、結構マイナーな誰が知っているの?というような岬でも、よく見られているのも不思議なことだ。その反対に、有名な岬だからといって、そうアクセスは多くない。
 7番目の雨崎も、知っている人はほとんどいないはずである。では、誰が見ているのかといえば、あるいは地元の市役所や市民が見て、ここに道をつくろうという動きが起こっているのかもしれない。そう考えると、楽しい。
 結局は、よくわからんというのが真相に近いのだが、「マイブーム」というか、ある時期どこかに紹介されたり、リンクが付けられたりして、アクセスする人が増えるという現象が、どきどき、ところどころで起こっているらしい。
 リンクをしても、それを知らせてくる人はまずいないのが現状で、こちらにはそれがさっぱりわからないままというのは、なにか淋しい気もする。ときには、Wikipedia に、岬めぐりの項目がリンクされているものもある。
 たとえば、リストの7番と同じように、8番にある岬なども、ほとんどの人が知らない岬である。これは、その地元でなにか関心を引くできごとがあったに違いないのだ。
 最近でも、この10月末頃から11月にかけて、毎日数十ずつのアクセスを積み重ねてきた項目があった。それが、37番目に位置している。2008年の秋に訪れた宮城県の岬で、改めて見ても別にたいしたことが書いてあるわけでもない。
 この現象を見ていて考えたのは、小学校か中学校の教材に、その前後の項目が使われ、これがどこかにリンクされたのではないか、ということだった。もちろん、これも勝手な想像で、真偽のほどは保証できない。
 こんな調子で、リストは続くが、閲覧総数が500を超えるものが、147項目あった。
 現在進行形で動いているもので、こんなランキングにも大きな意味があるとは思えないが、いちおうどう見られているかを測る資料にはなる。Vol.1を締めくくるにあたって、記録しておこう。

●みなさんありがとうございました。
 これまで、いつも、ときどき、たまに…見ていただいたみなさん。ありがとうございました。
 最後までわからんかった「読者数:5」のみなさん、ありがとうございました。
 プロフィールのところには、「dendenmushiさんを「お気に入り」に登録したユーザー[ 総数:3人 ] 」とある。「やす」さん、「チャッピィー」さん、「Krause」さん、ありがとうございました。
 こちらからは、積極的に訪問しないのにもかかわらず、ひきこもっているブログを探して、わざわざnice! をつけてくださった、So-netユーザーのみなさん、ありがとうございました。
 これも、出入りが結構あるようで、一時期は毎回こられていて、いつのまにかこなくなるというのがだいたい普通のパターンで、しばらくするとメンバーが入れ替わる。わりと古くから、たまに、ときどき、思い出してこられる、という方が数人あった。
 いちおう、お礼参りは礼儀と心得てするけれど、覗いて見ると著作権の注意を促しているでんでんむしとしては、残念ながらとてもnice! はつけられないという場合もあって困った。
 そんななか、でんでんむしにとってもnice!王は「xml_xsl」さんで、054 観音崎での登場が最初で、085項あたりからはほぼ精勤といってよく、そのマメさには脱帽しています。
 コメントをつけていただいたみなさん(といっても、これはほとんど常連さんだけ)、ありがとうございました。
 そして、圧倒的大多数の通りすがりのみなさん、So-netの外から、検索で、ホンのできごころで見ていただいたみなさん、ありがとうございました。もっとも、そういう方々との一期一会のご縁は、今後も長く続いていくはずですけどね。
dendenmushi.gif(2009/11/18記)


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番外:なぜ「ひきこもり」なのか? [番外]

■まことに勝手ながら…
 ついでだから、お盆休み特集・番外編の続きである。このブログは「ひきこもりブログ」であると自認し、そう公言している。この場合、「ひきこもり」とは、「ほとんど外部へ出かけて行かないで、自分のブログのなかにこもったままで、ひたすら書き込みを続けているだけ」と言うほどの意味であって、それ以上のことではない。
 では、なぜ「ひきこもり」とあえて言うのか、言う必要があるのかといえば、現在の大方の認識では、ブログは、ただ書くだけでなく、そこでほかの人のブログをあちこち見て回り、同好の仲間を探したり、お友達をつくったり、コメントをつけあったりすること、そして、お互いにできるだけ多くの人に見てもらう努力を重ねながら、ブロガー同士の交流の場となることを理想として、それがあると考えられているからである。
 大方のブログ運営会社では、ブログは、できるだけ多くの人に見てもらうことに意味があり、そのために会員ユーザ相互の訪問を前提として、アクセスアップを促すような設計をし、それぞれのブログのシステムを組み、運営運用をしている。それは、広告という収入源に結びつけたいという思惑があってのことだ。もちろんSo-netも、そうした考え方で設計されている。
 だが、でんでんむし自身は、そういうことは目的としていない。ただ、自分の記録を整理・蓄積しておくのに便利だからという理由だけで、これを使わせてもらっている。「目的外使用」とまではいかないが、自分のデータ整理の道具にしているに過ぎない。まして、“ここのラーメンはお勧めです”みたいな、宣伝に結びつく内容も、いっさいない。
 つまり、まことに勝手ながらでんでんむしのブログは、そうしたブログのあり方とは、ちょっと異なる使い方をさせてもらっているわけで、そのことはいくらか旗幟鮮明にしておく必要があろう、と考えた結果である。
 一般に、こうした「ひきこもりユーザ」は原則的に想定外とされている。したがって、そういう立場からだけで物申すのは適切ではない。ここでは、いちおう“なぜ「ひきこもり」なのか”を含めて、このブログの趣旨と、そこに至る訳を記しておきたい。あわせて、So-netを使っていて疑問に思うことも考えておきたい。
 しかし、これも、もっぱらこのブログの経緯に関する自分のための記録整理のひとつであって、誰かに読んでもらいたい、賛同してもらいたい、改善してもらいたいと切に願っているわけでもない。いわば、ほとんどSo-netブログ周辺を観察しながらの独言なので、あしからず。

■So-netブログは3年弱、隔日書込み
 このブログの始めは2006/10のことで、もうぼつぼつ3年に近くなる。それまで、インターネット以前は「パソコン通信」に熱中していたし、インターネット以後は「ホームページ」やブログもいくつか経験してきたが、「SNS」までにはいかなかった。
 “ネット上での人間の交流”、“意見交換”などというものは、決して大きな期待を寄せるようなものでは、いまのところまだない、という結論を得ていたからである。それがまだ、希望を持って輝いていたのは、300ボーの通信速度でやっていたパソコン通信の初期の頃までのことであった、と独断と偏見ではそう思っている。
 結局、自分が歌いたいから歌う、カラオケと同じことなのだ、と悟った。それならば、「ひとりカラオケ」やろうじゃないか、ということで、このブログでは原則的に隔日の新規書込みを続けてきた。
 新規書込みを、この業界では「投稿」ともいうらしいので、そういう表現もときどき使ってはいるが、これも考えてみればあまり適切とはいえない。
 「投稿」とは、自分が他のメディアに採用してくれるかどうかはわからぬままに原稿を送ることであり、自分のブログに自分で記事を書く場合には、ふさわしくないようにも思える。
 隔日にした理由は、毎日では忙し過ぎるだろうという配慮からである。まあ、写真を数枚入れて、数行の説明をする程度なら、それも可能だろうが、写真も選んで、Web用に解像度を落として加工し、文章も単なる写真説明ではなく、紀行やもろもろの見聞をまとめておくには、あまりムリをしたくない。それが、長続きさせるコツでもある。
 完全隔日でいくと、カレンダーがきれいな市松模様になるのだが、ときどき休んだりするので、なかなかパーフェクト市松模様になる月は少ない。
 書き込む時刻は、いつも早朝(5時〜7時)に限っている。

■ナイスではない「nice!」と「コメント」
 「nice!」や「コメント」も、見にくる人を増やすためのSo-netの装置である。しかも、「nice!」は、So-netの会員でなければつけられない。だからというわけではないが、ブログもその同一ブログないだけの閲覧に限られ、あまり外には広がっていかない傾向があるのではないか。
 「ひきこもりブログ」は、書くだけでほかのブログを見に行かないと書いていたが、ほかの人がわざわざ見にきて「nice!」をつけてくださるので、そういう場合には知らん顔をするのではなく、「返礼訪問」するのが礼儀であろう。そう考えて、「nice!」をもらったときは、そのボタンからほかのブログに行くことはある。
 ただ、このSo-netの「nice!」というネーミングは、はなはだよくないと思う。「訪問しました」「来ました」「見ました」というシルシをつけるという意味なのであれば、一般的にはこういう場合「記帳」のようなものだから、「足跡」を残すという形にしているブログもあるが、そのほうがやり方としてはスマートだ。
 ところが、「nice!」とか「applause」とかになると、“評価”を伴うことになるわけで、なかにはつけにくいという場合も、往々にしてありうる。返礼しようにも、そのブログが著作権侵害の疑い濃厚なものや、単なる催しの宣伝で中身のないものや、自分と相容れぬ主張を堂々とされていると、とても「nice!」とは言い難い。
 もっとも、中身を読まずにどんどん機械的に「nice!」をつけている人もあるようなのだが…。でんでんむしには、そういう芸当もできない。
 「コメント」も同様であるが、幸か不幸か、こちらは常連のdotenoueno-okuraさんくらいしか、書く人はいない。ただ、これも見ていると、「一行コメント」が主流のようで、単なるごあいさつのように使われているらしい。同じSo-netユーザであれば、これにも返礼訪問はする。
 コメントには「返事」が必要だろうが、この対応もいろいろあって、自分のブログに書き込まれたコメントには、その場ではいっさい返事をしないと割り切っている人もある。かと思うと、相手のブログへ行って、そこでコメントすることにしている人もあるようだ。
 これも、唐突に「nice!とご訪問ありがとうございました」というようなコメントがあると、それもいささか悩ましい。
 まだまだ、参加者拡大中のブログでは、ルールやマナーも確立していない。
 長年やってこられたらしい、数百という「nice!」を集める人気ブログでは、コメントを外しているところが多いのも、おおいにうなづける。

■「ページビュー」「アクセスランキング」はナゾだらけ
 「ひきこもり」ではもともとアクセス数を増やそうという努力をしていないので、いくらアクセスがあろうがなかろうが、本来はどうでもいいことではある。
 が、表示されている以上は、それがどんな場合にどうなるのか、その理屈くらいは知っておきたい。それだけの興味で観察をしている。
gamen04.gif
 「管理トップ」のページからは、「総閲覧数」が、「今日」と「累計」で表示されている。だいたい、最近の平均では、一日の総閲覧数は700〜800くらいが普通だが、これが多いのか少ないのかよくわからない。
 そうなると、「アクセスランキング」で見なければ、見当がつかない。
 これはどうやら、「全体」の順位なのか?
 「ブログテーマ」というところにも、そのテーマブログのなかの順位が示されている。これらの数字は、毎日朝に更新されているので、「前日の成績」ということか。ただ、これも以前は毎朝7時半から8時半くらいの間に更新されていたが、最近はSo-netが朝寝坊になって、9時から10時近くくらいにならないと、更新されない。ということは、これも自動ではなく、人為的な操作が伴なうようになったのだろうか。
 「ブログテーマ」は、So-netの設定したカテゴリから、「地域」を選んでいる。ここも最初は、登録ブログが30件くらいしかなく、そのうちの14位だった。今、366件が「地域」で登録されているが、順位はほとんど変わっていないことになる。ただ、14〜15位というのは最近の位置で、少し前までは18〜20位というのが、このでんでんむしブログの定席だった。このブログお休みの間に13位までいったらしいが、これは自己最高順位である。
 このランキング、順位がどのようにして、何を根拠に決められているのか、ユーザーにはさっぱりわからないブラックボックスになっている。
 しかし、順位やランキングを決めるというなら、その要素というか、計算方法くらいは公表するべきであろう。
 たとえば、昨日8/15のデータでは、
   アクセスランキング: 389位 ↑
   ブログテーマ:地域(15位/366ブログ中)

となっている。その前日のアクセスランキングが「587↓」で、ブログテーマのほうはやはり15位だった。
 つまり、この一日で198位も「全体」?のアクセスランキングは上昇しているにもかかわらず、「地域」のテーマではまったく順位に影響していない。こんなことが、どうして起こるのだろうか。そのくせ、十数ポイント下がっただけで、地域順位はドーンと下がることもあるので、わけがわからんのである。どうも、見ていると、アクセスランキングの数値が減るときにはなかなか順位は上がらないが、増えるときにはかなり下がる、という傾向がある。
 ひとつ考えられることは、順位は相対的なものであるから、周囲の他のブログが同じように上がればランキングは変わらないということはいえる。
 だが、全体で200もランキングが上がったのに一テーマ内の順位が変わらないことの説明としては(逆ならまだしも)、充分でないような気がする。
 また、これはでんでんむしの推測だが、順位には閲覧数だけではなく、「nice!」や「コメント」の数も得点としてなんらかの換算評価が行なわれているのではないか、ということも考えられる。それも、感じでは、それにかなり高比率の得点配分がされているようにみえる。
 そうであれば、「ひきこもりブログ」は、当然ながら不利である。「nice!」はせいぜいついても数件で、コメントもほとんどないブログの割には、この順位というのは予想外の上位にあるといってよい。
 いずれにしても、ランキングの決め方を公表していないので、ここでごちゃごちゃ言ってみても始まらないし、もともと一生懸命順位を上げようとしているわけではないので、そういう点ではどうでもいいが、スッキリと納得がいかないことだけは確かだ。
 それと、いま書いていて気がついたが、閲覧数とランキングの反映のされかたに時間的ズレがある、タイムラグがある、ということも考えられるが…。
 「読者数  5」というのもあるが、ごめんなさい、これもよくわからんのです。

■「閲覧数」「訪問者数」
 「記事管理」のページでは、項目ごとに「閲覧数」「nice!」「CMT」などの数字が示されている。
 これも、よくよく眺めてみると、項目によって閲覧数の違いが結構ある。当たり前といえばそうだが、どこで違いが出るのか、それはなかなか曰く言い難いところもある。
gamen02.gif
 ただ、どこかの岬ではない「なぜ「でんでんむし」なのか」などの項目は、3週間経過しても3桁には届かない。
 「nice!」は、ひきこもりでも毎項目5〜8件くらいはもらっている。たまに2桁になることもあるが、「ひきこもり」であるからには、これ以上には増えることはないようだ。
 これも、ホンの出来心でつけてしまったという人もあるだろうが、しばらく続いたり、いつのまにか消えてしまったり、いろいろである。いいわるいではなく、これはつける人の自由でいいのだが、傾向などをみるのもおもしろい。
 特筆すべきは、毎回もれなく「nice!」をつけに来られる方があることだろう。そのマメな人は、他のブログテーマで常に上位にある人である。やはり、ランキング上位にある人は、常にそういう努力をしているわけで、そこが「ひきこもり」とは全然違う。
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 「アクセス解析」というページには、「ページ別」や「時間別」などごとに「訪問者」「ページビュー」の数字が示されている。
 ここで、わかったようで実はよくわからないのが、「訪問者」と「ページビュー」の関係である。
 たとえば、「訪問者 6  ページビュー 6」とあれば、6人の人が見にきてそのページだけ見て帰った、と想像できる。しかし、「訪問者 1  ページビュー 5」とあれば、一人の人が5回同じページを見たということではあるまい。一人の人が、始めに見たページが「訪問者」にカウントされて、それから別のページを続けて見た場合には、「ページビュー」だけがカウントされる、ということか。
 それに、項目ごとはわかるが、いちばん数字の多い「/_pages/user/m/article」が、何を意味しているのか、「RSS1.0」も「トップページ」というのも、どういうことなのか
 So-netの説明では、さっぱりそのへんがわからない。どういう実際行動がこの数字の陰で行なわれているのか、頭がワルイのでさっぱり見当がつかないでいる。

■ブログテーマ「地域」ご近所サンを眺める
 自分のブログテーマにふさわしいのを選んで登録するわけだが、この制度が始まったときに考えた。これは「旅行」ではないし、ほかに適当な分類もない。特定の地域に居座っているわけではないけれども、日本全国各地、各地域を訪問する「岬めぐり」だから、「地域」でも充分おかしくないだろうなと、考えて登録した。
 ところが、あまり考えずに登録している人も多いらしく、なんでこれが「地域」なのというものもあれば、「日記・雑感」という別テーマがあるのに、「地域」に入っているものもある。この辺は、ブログの運営者が明確な指針を示してコントロールしようとしていないで、いわばほったらかし、よく言えば各人の自由に任されているので、統一のとれたジャンル分けとはほど遠い。
 第一、So-netが用意しているテーマ分けでは、なかなかしっくりこないことも多かろう。「占い」というのがあるのに、「写真」はないのだ。これもほかになにかあるのかもしれないが、とにかくこのカテゴリー分けはいいかげんなので、困る。
 因に、わが「地域」は「暮らし・健康」の分類の末席を汚している。隣が「ペット」「育児」「妊娠・出産」で、これもなんだかなあ、という感じである。
gamen05.gif
 「地域」のなかでのブログランキングを見ると、この上位3位は、ここのところ長い間、不動の順位である。
 以下の顔ぶれも、意外にあまり大きく変動することがない。ここのランキングでは、25位までが表示されるが、あまり大きな変動がないので、26から50位くらいまでには、どんなのがあるんだ ろうという興味のほうが強くなる。これも、やり出すとキリがないので、「人気急上昇」で間に合わせておこうということか。
 また、ときどき新顔がいきなり上位に顔を出すこともある。やはり閲覧数は、長い間やっていないと増えないだろうから、いきなり入ってくるのは(そして、すぐに落ちないのは)So-netが力を入れている“他ブログからの乗換え”の結果なのだろうか。そうであれば、多少の優遇措置でもあるのだろうか。勘ぐり好きのでんでんむしは、そんなことまで考えてしまう。
 「でんでんむしの岬めぐり」は、「ひきこもり」を標榜しているが、案外それは普通で、むしろあちこちのブログを覗きに行く人の方が少ないのではなかろうか。このリストを眺めていると、そんなことまで思ってしまう。
 自分は「ひきこもり」だから、それを棚に上げて言うのだが、25位のブログから、「岬めぐり」に「nice!」をつけてこられたことがあるというブログは、4〜5件しかない。
 でんでんむしが、もし「ひきこもり」でなかったら、リストにあるブログは、ご近所サンなんだから、軒並み訪問すると思うけど…。
 同じリストに載っていても、8割は隣のブログを覗くこともなく、知らん顔というわけで、これは大いに意外で、昨今のブロガー気質の一端を、かいま見たような気がしたものだ。(もちろん、見ているけれどもナイスと思わないので「nice!」はつけない、ということかもしれないしね。こういうところからも、「nice!」が適切でないことがわかる。)
 どうやら、人のブログを見に行かない「ひきこもり」は、特別なことではなく、ましてでんでんむしの専売特許でもなく、誰でも普通そうらしい。
 ブログも、コミュニケーションだとか、お友だちだとか、なんのかんのといってみても、しょせんはカラオケと同じこと、自分がよければそれでいいということなのだろうか。
 「オマエが言うな!」とな…。
 いかにもさよう、ごもっともでござりまするな。
(2009/08/16)


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番外:なぜ「みさき」なのか? [番外]

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 世の中に、いわゆる「熱中人」は数多く、その分野・ジャンルからテーマまでも、実に広範囲で、人々が熱中するものはさまざまである。そういう人たちの中には、とてもとてもでんでんむしなどには到底マネができんワイ、恐れ入りましたというようなものも多い。
 ブログをいくつかやった経験からも、“へそまがり道”に反しない程度で、なるべく他人の後を追いかけるのではなく、同じやるなら誰もやらないようなことを、自分自身が信念をもって続けられるようなことを看板にしたい、そう考えた。
 それで、それまで長年こころのなかで意識し続けてきたこと、けれどもまったくバラバラで、ちっとも徹底していないことをテーマに取りあげることにしたのだが、それが「岬めぐり」だった。
 なぜ「みさき」なのか?
 それもよくある質問(もちろん宣伝もお友達づくりもしない“ひきこもりブログ”なので、そんな質問はほんとうは“たまにしかない”のだが、基本のハテナ)なので、お盆休みのヒマネタとして、今日はそんなことを説明しておくことにしよう。
 多くのことがそうであるように、岬めぐりも最初から現在のような形を考えていたわけではない。けれども、その原点は?と問われれば、それはまだ10代の終り頃に、北アルプスに登って、その帰り道で芦原温泉で疲れを癒し、ついでに足をのばした「東尋坊」がそうであった。
 それまで、海といえば瀬戸内海しか見たことがなかったので、初めて見る日本海だった。天気のよい夏の日本海は、おとなしいものだったのだろうが、それでもその荒波に接して、そそり立つ断崖の岩が続くさまは、なかなか印象が深かった。
 そのとき、漠然と感じたことは「ああ、ここでもう地面は終ってしまうのだなあ。ここから先へは人間はもう歩いて行くことはできないのだなあ」というバカみたいな感想だった。
 それともうひとつ、打ち寄せしぶきをあげて砕け散る波に、あくまで逆らうが如くに、その絶え間ない侵食から、大地を守り続けている断崖が、けなげなものにも写ったのである。
 その印象が、ずっと尾を引いていたのと、太平洋を行く船の上から潮岬を眺めたときの感慨とドッキングしていった。
 潮岬の項で、そのことは既に書いたはずなので、その船旅の由来は省略するが、海の上で十何時間も陸地を見ないでいると、たまに見える陸地は、奇妙な安堵感を与えてくれる。
 そういうときも、まず一番に見えるのが岬である。潮岬のようなところでも、それがぽつんとした小島のようにしか見えなかった。けれども、そこから奥に、われわれの暮す大地が続いているのだ。
 でんでんむしは、“隅っこ・端っこ”が好きなのである。真ん中にいるとどうも頼りなくて落ち着かない。それも岬につながるかもしれない。おまけに、人が大勢おしかけるようなところはあまり好きでなく、行列をして待つなど言語道断なのであって、それより無名でも誰も行かなくても、どんな場所でもなにかがある。
 いや、やはりそれよりも、地図好きのほうが、納得のいく説明になるのだろう。地図を眺めていると、日本は小さな島国で、でこぼこが多い。
 この出っ張っているところは、ほほう○○岬というのか、ここは□□崎で、ここが△△鼻かあ。ここは、いったいどんなところなのだろう。
 それは、断崖でなくとも、荒磯でなくとも、わざわざ名前がつくのには、相当のいきさつと理由があってのことだろう。
 そうした思いが重なっていくうちに、できるだけ機会をつくっては、そうした出っ張りを訪ねて行くようになった。
 ただ、会社勤めの身、現在のように週休二日など夢のまた夢、まして薄給の身では、そうそう簡単ではない。
 細く長く、途切れがちになりながらも、少なくとも地図の上では絶え間なく続けてきのが「岬めぐり」だった。
 日本全国、文字通り津々浦々の突端出っ張りを訪ねて歩くのは、楽しいだろうな。そのうち、「沿海図」を作成した伊能忠敬の測量隊も、同じ道を歩いたかもしれないという、当然のことにもハタと気がつく。
 そうなるともう、自分の進む道はこれしかないと、確信できる。
 日本は「岬大国」ではないか、という常連コメンテーターさんの声もあったが、恐らくそれは間違いない。ほかの国のことを調べたわけではないので、厳密な比較はできず、あくまでも感覚と想像の域をでないが、恐らくそうであろう。
 最初、このブログを起こして、データ整理を始めるときに、考えていたタイトルの候補があった。
 「ここに地終わり、海始まる」
 ヨーロッパ人の感覚では、地の果てという感覚が最もふさわしいのであろう。詩人は、ユーラシア大陸最西端の岬である「ロカ岬」をこう謳った。
 今や有名観光地で、日本人の旅行者も数多く行っていることだろうが、やはりこれもすでに有名になって膾炙しているとはいえ他人のマネ。
 それに第一、でんでんむしの岬めぐりは、日本の岬限定である。まったく知らない読んだこともないポルトガルの詩人の詩を引っ張ってくるのは、宮本輝がこれをタイトルに小説を書くのとは、いささか事情も違う。
 というわけで、これは不採用になった。
 だが、気分としては、最初に東尋坊で感じた印象は、ひとことで言い表せば、そういうことになる。詩人の偉大さは、多くの人のこころを端的に代弁することにあるのかもしれない。
 しかも、地図上で名前のついている岬・崎・鼻を対象とするでんでんむしの岬めぐりは、そうした「地の果て・最果て」的なエース級の岬も多いとはいいながら、実はその多くほとんどは、誰も知らない、誰も行かない、地方の田舎の、人里離れた僻地の出っ張り・突端がその中心を占めている。
 そうすると、おのずからまた違った理由づけも必要になりそうだ。
 いつも、そういうとき岬と相対して思うのが、「なんで、おまえさんだけが、そんなふうに出っ張って、突っ張っているんだろうねえ」ということである。
 岬は、どれも似ているようで、どれも違う。周囲の地形や、人間との関わりや、その地域の歴史や、さまざまなことに思いは飛んでいく。
 それを、自分自身の記録として書き留めているのがこのブログで、「岬評論家」は「岬の評論」であったり、「岬での評論」であったり、さまざまだが、この「自称岬評論家」という肩書きは気に入っている。「自称プロサーファー」ほどのいかがわしさもないのでなかなかいいし、と思っているのだが、いかがなものであろうか。
(2009/08/14)
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番外:なぜ「でんでんむし」なのか? [番外]

 『でんでんむしの岬めぐり』というブログタイトルの「でんでんむし」は、単なる筆者のペンネーム(ハンドルネーム)であります。どうしてこんなベタな名前をつけたのか、今日の番外はそれについて…。
 これもいずれ徐々にとりあげるつもりだが、So-netブログにはわからないことが多い。「記事管理」というリストでは各項目の「閲覧数」なるものが表示されることになっているが、これが7月の中旬以降、明らかな大幅ペースダウンを示している。
 自他共に認める“ひきこもりブログ”だから、もともとそんなに多くはないし、その数を増やしたいと思って努力しているわけでもないので、単なる好奇心からなのだが、従来のペースでは新規投稿後一日経過すればこの数字は60くらいにはなり、数日経過後には三桁に達するというのが、通常パターンであったが、それが中旬以降の新規アップ項目では、12日以上経っても例外なく二桁のままである。
 このひきこもりブログも、一昨日の土曜日にアップしたもので450項を数えることになったが、この項目などは、丸二日経っても30件にも届かない。これは近来にない低レベルである。(もちろん、これはページごとの「閲覧数」というデータに限ってのこと、アクセス全体とは直接には関係がない(らしい)。)
 考えられる環境変化は、学校が夏休みになった、政局が動きだしたことぐらいだが、これまで、この『でんでんむしの岬めぐり』ブログを見る人は政治家が主ということはあり得ないので、学生さんが学校で見るケースがそんなに多かったということなのだろうか。
 もともとこのブログ自体が、人様に見せることよりももっぱら自分自身の記録と材料整理のため、という大義名分を掲げているのではあるが、多少は読者への親切も意識はしている。誰も他人のことにはあまり興味がないこととは思うが、すっかり夏休みモードの世間に合わせて、夏枯れ対応で少し番外編でのデータの整理・補足・分析に加えて、暇ネタなどを試みておきたいと思う。
 その手始めにまずは「でんでんむし」の由来から。
 ハンドルネームに「でんでんむし」に使っていたのはかなり前からで、ブログもこれまでいくつかやったりやめたりしてきた。その最初の頃は、登録のニックネームも「でんでんむし」「dendenmushi」ですんなり使えたのだが、そのうち「すでに登録されている」と使えなくなったので、いろいろ変形したり短縮したりして今日に至っている。
 こういう名前に、実際にある動植物などの名称をそのまま使うのは、それ自体命名に工夫はないが、その名を使う個人個人のなんらかの思い入れがあるはずである。
 でんでんむしの場合、それはなにか?
 それは、自分自身が、周りの田畑や庭先や裏山や小川の自然の中で駆け回り、遊びまくったこどもの頃、ひとりで遊ぶとき、こどもなりの考えにふけるとき、大地と草に顔をくっつけるようにして過ごしたものだ。
 そのとき、目の前にいたもっとも身近な生き物が、ミミズ、ダンゴムシ、ナメクジ、クモ、バッタ、オケラ、アリ、ヘコキムシなどであり、テントウムシ、カメムシ、チョウ、トンボ、カナブンといった昆虫類であった。水中には、ボウフラ、ゲンゴロウ、ミズスマシ、アメンボウ、ヤゴ、ドジョウ、メダカ、そしてカエル…。
 こういった、いつもそばいた小さな生き物は、またとない友達でもあった。そのなかでも、“以上総代”として、デンデンムシをあげている。(写真を撮ろうにも、東京都中央区でそれを探すのはムリだった。しかたがないので和歌山の岬めぐりのときに、たまたま遭遇したヤツのを流用してみたが、やはり青いアジサイか何かの葉っぱにのっかっているほうがいいよねえ…。とりあえず、これで間に合わせ。)
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 それも、結構興味をそそる生き物だったし、絵になるし、誰もがイメージしやすいから、キャラとしても最適である。
 第一、家を背負っている。都合の悪いときは、何時間でも何日でもその中にこもって出てこない。出入り口に膜を張って、死んでいるのか生きているのかもわからないヤツまでいる。
 動き方もユニークで、見ていると飽きない。足はないくせにどこでそう推進力が働くのか、まるで流れるように進む。頭をふりふり、ツノや目玉を伸ばしたり縮めたりしながら進む。その先端をちょんと突いてやると、なんだかとまどったようにひっこめて、ゆっくりと向きを変えようとする。
 その歩みのスピードは、きわめてのろい。
 しかし、しばらくほかのことに気をとられて眼を離していると、いつのまにかどこかへ行ってしまっている。まるで、ワープ能力でも備えているようだ。
 でも、ワープしたのではないという証拠には、よく見ると銀色の道を残している。遅くとも、着実に進むべき道を知っているかのようだ。
 殻をつまんで持ち上げると、くねくねとからだを動かすが、こうなるといかにも無力で、情けないことになる。
 さらに、「なぜデンデンムシなのか?」と聞かれたときには、ちゃんともっともらしい、使える逸話を、新美南吉という先人が残してくれている。おまけに美智子皇后のお墨付きまであるので、それを引き合いに出せば、なんとか格好もついて、たいていの人が恐れ入って納得してくれるというものだ。
 別名「かたつむり」といいます。学のあるところを見せたければ「蝸牛」という字を使うこともできるし、ついでに柳田国男の『蝸牛考』のどこかを引いてきたり、一茶の句(富士山へ登るというヤツ)を引用することもできる。かわいく「まいまい」といってもいい。
 かように、なかなかのクセモノだが、この古い友達が自分のなかで一瞬の輝きを放ち、天啓のようにひらめいたことがあった。それは、中学の国語の教科書の冒頭に、上田敏の訳詞による有名なブラウニングの詩をみたときだった。「すべて世は事もなし。」の象徴が、でんでんむしのようにも思え、こころに響いた。
 さらに、あの殻の螺旋。これがすばらしい。ラセンという構造も魅力がある。ぐるぐるとおなじところを回っているようで、実はゆるゆると高みをめざしている。
denden05.gif
 というわけで、一時期螺旋の貝殻など集めたりしていたが、上の写真の化石は神田神保町の三省堂書店で、だいぶ昔に買っていたものである。モロッコから出土したというゴニアタイトは、デボン紀(3億5000年前)のものであるという。螺旋のおもしろさだけなら、アンモナイトでもよかったかもしれないが、なじみやすさという点ではでんでんむしに敵うものはいない。
 まあ、そんなこんな、さまざまなこじつけで、だからでんでんむしなのであります。
(2009/07/27)
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番外:龍泉洞=下閉伊郡岩泉町岩泉(岩手県)自然がつくるもの人間がつくるもの [番外]

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 岩泉(いわいずみ)町は、東西にかなり大きく広い町域を抱えている。その大部分が、小本川と小本街道を中心骨格として、山の中に何本もの谷筋の襞を折り重ねてつながっている。
 その海岸線はわずか6キロくらいしかないが、その間に熊之鼻、小浜崎、水尻崎と、三つの岬を数える。
 ここで、いったん海岸線を離れて、小本川に沿って16キロほど北上山地へ入り、宇霊羅山の下にある龍泉洞に立寄ることにする。数十年前に発見された新洞も対岸にあって、この二つが水流ではつながっているというが、まだ調査も全部できていない。というより、この岩手県にどれくらいの洞窟が山中に眠っているのか、まだ誰にもわからないのだ。
 岩手県の北部は、「岩」にからむ事象が目立っている。断崖絶壁に火山の痕跡に温泉に琥珀、そして洞窟がある。これこそ、宮沢賢治が『グスコーブドリの伝記』を書くバックグラウンドだった。
 ここには、大小百数十におよぶ洞窟があるといわれている。それは、この辺りが海底が隆起してできた石灰岩質の大地だからである。それが水の流れに浸食されて空洞になり、さらに浸透してくる雨水などが、山中の石灰分を溶かし垂れさがって鍾乳石をつくる。
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 鍾乳洞といえば、秋芳洞には何度か行ったことがあるが、これまでに発見されたところを総合すると、どうやら岩手のほうがそれを上回るようだ。
 龍泉洞のある谷を北上すると、近年にその調査が進み始めた安家洞(あっかどう)がある。そこは、規模も龍泉洞より大きいらしいが、われわれシロートが簡単に体験できるのは、完全に観光地化された龍泉洞のほうである。おまけに、去年のことだが、安家洞の東側にある氷渡洞(すがわたりどう)という鍾乳洞につながる、また新しい洞窟も発見されている。
 洞窟探検も、ケービング(caving)というスポーツまがいにまでなってしまう世の中だが、まだまだ一般人は観光地となって整備されたところに入るだけで満足しなければならない。
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 ジュール・ヴェルヌも、SFファンでもあるでんでんむしとしては尊敬する作家の一人だが、その原作を映画化したという『地底探検』(1959年)は、いささか軽薄に思えたものだった。SFというものが、なかなか正当な市民権を得にくいのは、作家のつくり出すイメージの世界を映像などに具現化すると、とたんに荒唐無稽に見えてしまうからだろう。
 当時、チョイワルのプレスリーに対して良い子的イメージで人気があったパット・ブーン(代表的ヒット曲:「砂に書いたラブレター」「四月の恋」など)が出ていたことと、洞窟の中が宝石や鉱物の結晶でキラキラしていたが、それが妙に嘘っぽい印象を強調していた。
 ところが、である。数か月前にNHK-BSが放送した番組で、メキシコの洞窟で「結晶洞窟」というものが発見されたというのを見て、ホントにこんなのがあったんだと驚いてしまった。
 「岩泉」という名の元になったであろうこの洞窟は、山口県の秋芳洞、高知県の龍河洞と並んで“日本三大鍾乳洞”のひとつとされている。じゃ、兵庫県の玄武洞はどーしてくれるんだ、と突っ込みたくなる人があるだろうが、これは玄武岩の柱状節理・板状節理では日本一だろうが、残念ながら“鍾乳洞”とはいえないのだ。
 その意味では、ここ龍泉洞も鍾乳石はあるので“三大”にはノミネートされてはいるが、むしろ地下から湧き出る泉と、その青い水を湛えた地底湖に大きな特色があるといってよい。『地底探検』では地底海まで現われるが、この湖程度は納得の範囲である。
 洞内を流れる豊富な透明な水を見ていると、別名「岩泉湧窟(いわいずみわっくつ)」というまさしくその名のとおりであり、「岩」と「泉」を町の名とするにもまことにふさわしい、と改めて思う。
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 入口の橋の下を流れる清水川の水は、この洞窟の地底湖から湧き出し、流れ出したものだと、わざわざ掲示がしてある。
 水が滴り落ちる洞窟の中700メートルほどだけは、大勢の観光客を迎え入れるために道筋には万全の配慮がしてある。鍾乳石に影響があるためか、「洞内撮影禁止」の看板もあるが、どうせ暗い洞内では想像以上に露光不足で、そうでないところでも自動ではブレまくりになってしまう。
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 突然、洞内に人影があって驚くが、この自然の洞穴を原始生活を営む人類が利用した証拠が発見されているからというので、原始人の人形が置いてあった。しかし、だからといってアルタミラかラスコーのような壁画をマネして岩肌に描く必要がどこにあるのだろうか。これは、まったくいただけない。
 龍泉洞のある場所は谷の途中で、役場があり、JR岩泉線の終点となっている現在の岩泉町の中心よりは、だいぶ山の奥に位置する。清水川や小本川の川筋が蛇行して複雑な流れになっていたことからみると、川筋より谷に入ったところのほうが、人が生活するのにもより適していたのだろう。おあつらえ向きに洞窟まである。
 たまたま、一昨日の日曜日の夜には、NHK-BSで、氷渡洞の新発見の洞窟内を映し出していた。丸いボールのような形や、さいころの角を研磨したような形や、エチゼンクラゲの組体操のような、自然がつくりだす白い鍾乳洞の摩訶不思議な光景には息をのむ。
 だが、同時に、その直前まで観ていたNHKスペシャル『マネー資本主義 ウォール街の“モンスター”金融工学はなぜ暴走したのか』で、人間がつくりだすもの…というか、そういうものまでつくりだす人間の不思議さも、唐突ながら鍾乳洞に重なるように浮かんでくる。洞窟の岩壁に、獲物の絵を描いていた同じ人間であったはずだったが…。
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東北地方(2009/06/30訪問)

龍泉洞=下閉伊郡岩泉町岩泉(岩手県)


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番外:南方熊楠顕彰館(和歌山県)その漠然とした思い…てんてん手まりの手がそれて [番外]

 長い間そうだとばかり思い込んでいたのに、あとで調べてみたらそれがとんでもない記憶違い、間違いだった、というようなことがたまにある。
 でんでんむしの南方熊楠への興味や思いも、自分自身の将来が描けぬまま、ただ漠然と博物学者や宮沢賢治にあこがれていた時期にあった。10代の終わり頃、高校生の頃からそれはあったが、発端は中国山地の山歩きであった。
 お金がないので遠くへは行けず、もっぱら地図を手に広島県内の山、県境付近の山をうろうろするのが楽しみで、その当時あった地元の小さな登山道具屋兼出版社が出す“山毛欅の木”の名を冠した山歩き本などを読んでは歩いていた。その頃は、“南方熊楠もこの中国山地を歩いていて、三段峡や帝釈峡も彼が世に広く紹介した”と信じていた。
 ところが、後年のことだが、彼の年譜など調べてみたときに、そんなことはどこにも出てこなかった。どうやらその頃に、いくつかの情報がクロスして記憶違いが刷り込まれたらしい。
 案外、“天狗”といわれた彼のこと、実は広島の山も歩いていたのかも知れない…が、彼が主にフィールドワークとして山歩きをしたのは、やはりこの紀州熊野の山に限られていたようだ。確かにアメリカへもイギリスへも行って暮しているが、和歌山生まれの彼が国内で過ごした場所は、そのほとんどが田辺周辺で、そのほかあまり遠くへ出かけたという形跡がまったく記録されていないのだ。
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 熊楠が住んだという家の隣には、和風モダンな南方熊楠顕彰館ができていて、その隣の屋根瓦を積んだ土塀が雰囲気を盛り上げている。
 館内の陳列物を眺めて歩いていると、また思いが飛んでいく…。
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 人間の歴史のなかには、「この人は生まれてくる時期を間違えたのかも知れない」というような人がままある。ただ、この理屈はだいたいが根拠薄弱で、その情緒をむやみに敷延すれば、かなり多くの人に当てはまる(またはそんな気がする)ので、あまり効果的とも決定的ともいえない。
 だが、太平洋戦争が始まる頃にその生涯を終えた彼の多彩な業績が再評価されるのは、戦後の混乱もおさまり、それから長い時間が経って世の中がやっと落ち着いてからのことになる。東大予備門では漱石や子規らと同期だったそうだが、そこから落ちこぼれになっている。その後の当時の日本人としては相当破天荒な人生、日本でよりも欧米での評価が高かったその研究などは、たとえば今のような時代にこそ、もっと大きな花を開かせたかも知れないと思わせる。
 反骨在野の研究者として、常にわが道を歩んだ熊楠は、神社合祀だけでなく、さまざまな問題にも、積極的にコミットしている。それが、田辺の人々にも受け継がれていたのだろう。
 そうそう、忘れるとこだった。407 洲崎の項のタイトルも、実は熊楠に敬意を表してかけてあったのだ。多才な彼は、鴨長明の『方丈記』を英訳して紹介した人物でもあった。
 前項には、「南方熊楠のキャラメル箱」というファンサイトを運営しておられる「てつ」さんという方からのコメントをいただいた。いかに“ひきこもりブログ”を標榜しているとはいえ(いや、それだからこそ)、こういった反応があることはありがたいことだ。でんでんむしの記述は、そのほとんどが自分で見聞きした経験と、昔の記憶だけで書いているので、熊楠についても正しい情報を得たいという方は、こういったサイトもご覧いただいたほうが、よろしいかと思います。
 上屋敷町と片町の間には広い道があって、その両側に駅前通りのアーケード街とはまったく異なる雰囲気をもつ、まだ新しい商店が並ぶ田辺銀座が突如として出現する。
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 その通りのはずれで、“弁慶の松”という石碑があるのを発見したときは、一瞬妙な気がした。そういえば、駅前にもでっかい銅像の弁慶ガナ・ギナタを振り回していたではないか。しかも、その銅像の脇には、平泉町との間にかわした「姉妹都市提携盟約書」なるものまで堂々と石に刻まれている。“盟約”というのが、文句は言わせないという圧力をちょっと感じさせるが、それだけではない。
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 武蔵坊弁慶が、源平合戦で活躍した熊野の別当・湛増の子だと信じる田辺の人々は、“弁慶祭り”まで開催して郷土の英傑として誇りをもっている。弁慶松は、奥州衣川での立ち往生を嘆き悲しんで、何代にも渡って植え伝えてきた。その五代目の松がここにあったことを伝えるのが、この碑である。
 これも“なるほど”というべきなのであろうが、実は弁慶が“京の五条の橋の上”で牛若丸に出合うまでのことは、その出生についてを含め、確かな史料がなく伝説の域を出ないらしい。
 でもね、こういう場合は“言ったモン勝ち”みたいなところがあるからね。
 それになんといっても、長い間熊野への玄関口の役目を果たしてきた田辺としては、ほかに競争相手も現われないので楽勝だ。
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 紀伊田辺の駅舎には、こんな看板も掛けられていた。♪ごめんなさいね〜(大江裕ふうに)。合気道にはご縁がなくて、さっぱり存じ上げませんでした。
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minakata09.gif 新大阪まで行く「スーパーくろしお」の車窓の左側には紀伊水道の海が光り、右側には収穫の終わったみかん山が続く。
 ふと、♪てんてんてんまりてんてまり…のメロディが浮かんでくる。紀州の殿様の駕篭に飛び込んで、山のみかんになってしまったあのまりは、いったい東海道の道中のどこで手がそれて飛んできたものだったのだろうか…。
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近畿地方(2009/01訪問 大阪・和歌山シリーズ終了)

南方熊楠顕彰館(和歌山県)

 


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番外:河内長野・観心寺(大阪府)前々から気になっていた場所 [番外]

 同じ河内の片隅に何年か住んでいたのに、河内長野には一度も行ったことがなかった。一度も行ったことのない土地は日本中ほとんどがそうではあるが、ここは前々から気になるところで、行きたいと思いながら行けないでいた。
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 なにが気になるかといえば、まず第一が「十一面観音」。写真では見ていたが、実物はまだ拝観したことがなかった。
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 そこで、まずはこの仏たちにゆっくり会いたいと思う。同じく観心寺にある仏像としては、正面中央に鎮座まします国宝である「如意輪観音」のほうが文化財としての位は上なのだが、どちらかというとそのいちばん端っこに、わけのわからない石灯籠と並んでいるこの十一面観音像のほうが、その立ち姿を含めて、なかなかいいと思う。
 防火対策をしたコンクリートの陳列館には防犯カメラはあるが誰もおらず、なにも注意がないので写真はフラッシュなしで撮らせてもらった。ところが、帰りがけに堂の隅に「撮影禁止」という古ぼけた小さな札が架かっているのを発見してしまった。ごめんなさいね。
 次に気になるのが、楠木正成。南北朝の英雄で歴史上知らぬものとてない(?)のに、実はこの人に関する限り、史実というものほとんどなにもわかっていない。南北争乱の時代に忽然と現われて、短い間だけにその歴史に名を残し、最後は湊川で足利直義の軍に空しく敗れる。
 敵方の足利尊氏でさえも一目置いていたらしく、その首はここ観心寺に送り届けられたというので、ここに首塚がある。
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 この寺の中院は楠木家の菩提寺とされ、正成少年時代の学問所であった。ここから南西方向に直線距離では4.5キロのところに、「大江時親邸跡」というのがある。これがちゃんと地図にも明記されているのがおもしろい。
 この人は軍学に長けていた人物で、幼い正茂は彼を師として軍学などさまざまを学んだ、そのためここから加賀田の大江邸まで往復したといわれている。
 千早赤阪村の楠城は、観心寺の北北東3キロの位置にある。ここや金剛山を背景に、彼が演出した軍略や奇計は、そこで学んだものが大きいとされる。それで、このあたりのことも気になっていたのだが、葛城山までは登ったが、金剛山には登ったこともない。しかし、結構深い山で、標高はさほどでなくとも、深い谷が幾筋にも刻まれ、尾根が縦横に伸びた、極めて複雑な地形である。
 今回は、時間と天気の都合で、「大江時親邸跡」へは行けなかったのだが、観心寺から歩こうとすると、何度も谷を昇り降りし、団地のなかをよぎっていかなければならない。現在の様子は、下の国土地理院の地図で見る通り、山の上が削られていくつもの団地になっているのだ。この地図の右上が観心寺で、左下が大江時親邸跡なのである。
 これもまた、「なんでこんなところで…?」という大疑問が、山と谷を覆う霧のようにわき出してくる。でんでんむし得意のかんぐりでは、昔の河内平野は北から南のこのあたりまで広い沼地で、人が住み着くような場所ではなかったのかもしれない。
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 この寺の奥の山には、これまた団地に付近を侵食されながら後村上天皇陵がある。後醍醐天皇の第8皇子にあたる彼は、父の死後吉野で即位した南朝2代の天皇なのである。実際、寺の山門を入ったところに後村上天皇行在所の碑があるが、ここで政務をとったのはわずかに過ぎない。吉野を拠点にあちこち活動した人で、天皇のなかでは数少ない武闘派。
 その母である三位の局、新待賢門院の墓もあるが、この人は後醍醐天皇の寵妃でありながら、護良親王の排除に動くなど、あまり評判がよくない。護良親王を立てようとしていた正茂の首塚と、新待賢門院の墓が並んでいるのも皮肉といえる。宮内庁の手はここにもちゃんと行き届いていて、陵墓参考地にされている。
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 日本史のなかで謎が多い南北朝の、どちらを正当な皇統とするかの論議は永く続いた。そのなかで、楠木正成の評価も足利尊氏と対極にあって、揺れ動くことになる。
 明治天皇は楠木正成の刀を佩刀としたといわれているが、明治も後年になって南朝が正統とされる。そして、明治以後の皇国史観のもとで「忠臣の鑑」としての虚像は膨大になってしまう。われわれくらいの年代には、講談社の絵本などで、桜井の別れとか、千早城の糞尿攻めなどという話を知っているので、その絵まで浮かんでくるくらいだが、そうした情報もそういう背景のなかで刷り込まれてきたのだ。
 十一面観音の対面には、大楠公のゆかりの品も展示されていて、東郷平八郎と大山巖の書が並んでいた。
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 皇居前広場にあるのと同じ昔はハガキの絵柄にもなっていた馬に乗った楠木正成の銅像が、寺の下で雨に煙っていた。「観心寺」というバス停は、寺の前にはなく、そこから少し離れたところにあるが、これもバスが後村上天皇陵の隣の団地を回るようになっているからで、そのバス停のすぐ下からは、深い谷を流れる水音が上ってきた。
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近畿地方(2009/01/21訪問)

番外:河内長野・観心寺(大阪府)

 


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番外:2009年もよろしくお願いします [番外]

 世の中めでたいことばかりではありませんが、いちおう新年のご挨拶を申し上げます。
 いろいろ思うところあって年賀状もやめてもう15年にもなりますが、2009年は丑年。ちょうどふた周り前の丑年が1985年でした。そのときに、でんでんむしが親戚友人知人仕事関係者に出した年賀状がこれ。
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 1984年の子年からは干支のキャラクターを利用しようと、ミッキーマウスをBASICでつくった円で描きました。牛のキャラはなかなかなくて、やっと当時SONYがもっていた牛キャラをみつけたので、1984年に出たばかりの革命的なMacintoshにバンドルされていた革命的なソフトMacPaintで描いたのがこのSPASE TRIPでした。
 このときは、Macintoshは9インチのモノクロモニタ、日本語はまだ使えず、ひらがなや漢字はドットで文字を描いたもので、ゲイツ君もMacOSのマネッコをつくるのに余念がなかった頃のことです。
 おそらくこの年賀状を見て、そんなことがわかる人は誰もいなかったのではないでしょうか。「なんじゃこれは…。またあいつ変なことしとるわい」というのが大方のところだったでしょう。
 現在の「パソコン」といわれるハードやGUIとマウスで操作する基本ソフトの原形は、実にこの84年のMacintosh登場のときに初めて一般人でも使えるように実用化され、コンピュータの大衆化はここから始まったといえます。
 あれから24年。Macintosh128kの登場からは、ちょうど四半世紀を数えることになりました。コンピュータとその環境も様変わりになりました。それ以前のBASICのマイコン時代を抜きにしても、その間のさまざまな想いやできごとが、24年前の年賀状を引っ張りださせることになりました。まさに、万感の想いあふれる24年間でした。
 ひとつ言えることは、24年間に20台近いMacintoshを買って、やっと道具として使えるようになったということでしょうか。昔のようにコンピュータそのものへのこだわりは、自分のなかではずいぶん沈静化しました。もはやAppleもiPod・iPhone屋さんになってしまいました。
 Macintoshを使っている人は、2〜3%しかいないらしいSo-netで、こんなこと書いてもしょうがないのではありますが、25年の間にはずいぶんとさまざまなことがあるものです。
 そういうわかりきった結論が、2009年初頭の感想というもの、なんか冴えない話でしたね。
    ▲ △ ▼ ▽ ▲ △ ▼ ▽▲ △ ▼ ▽
 さて、So-net blog『でんでんむしの岬めぐり』も、2009年から通算360番台になります。
 このブログをお借りして、過去の岬めぐりのデータ整理を始めたのは、2006年の秋からでした。結構昔から岬めぐりの意識はあったものの、ついでに足を伸ばして、というくらいが関の山で、まあ主だったところにいければいいや、というくらいに考えていたのです。
 ところが、ちょうど写真がネガからデジタルへ切り替わる頃を挟んで、なかなか昔の写真を探すのが一苦労で、結局探してもみつからないものもありました。
 それなら、再訪も必要だし、いっそのこと日本中の岬・崎・鼻をできる限り、しらみつぶしに歩いてみようということに、方針を転換する決心をしたのもその頃です。
 ブログには、その記録を一日置きに整理してアップするということをしてきましたが、それももっぱら自分自身の個人的なニーズに始まったことであり、ブログでたくさんのお友達をつくったり、アクセス数を増やして誇る気など、毛頭ありませんでした。まったくの“引きこもりブログ”、マイペースもいいところで、自分勝手にやっています。
 ただ、礼儀上、nice! ボタンを押してくださるときには返礼に訪問するくらいで、ほかのブログもあまり見ていません。
 いつもコメントをつけてくださったknaito57さんはじめ、いつもnice! ボタンを押してくださるみなさん、ありがとうございます。とくに、xml-xslさんからは、でんでんむしが記事を投稿し始めた当初から、いつもほとんど欠かすことなく見ていただいているようです。
 改まって、一年分まとめてお礼申しあげます。
 そんなわけですから、2007年の1月には、総閲覧数がやっと10,000を超え、2008年1月には80,000を超えた程度でした。いくら引きこもりブログとは言え、さすがに項目がだんだん増えてくると、検索で見てくださるケースが増え、2009年1月ではとうとう200,000を超えるまでになりました。ただ、でんでんむし自身もそうなので、よくわかるのですが、検索で見るページには、さーっとなでるようなもので、ほとんどの場合、風のように通り過ぎていくのみです。それは、やはり考えればむなしいような気もしないではありませんが、まあそれでもどこかで誰かの目に留まって「!」と思ってもらえることがあれば、それでよしとしなければならないでしょう。
 このブログの書き込みもだいぶ溜まってきたとはいえ、まだ360。しかしそれは、3,700を超える日本中の岬のうち、やっとその1割に足がかかったという程度に過ぎません。とりあえずは島嶼部を除いた本土四島を中心に全部歩きたいと考えていますが、それでも1,800くらいはありますから、この計画自体最後までできるかどうかも、はなはだ心もとないものです。
 まあ、でんでんむしですから、ゆっくりのんびり、あわてずさわがず、今年も続けられるところまで参りましょう。
 2009年は、みなさんにとって、よい年になりますように…。
(2009/01/01)
タグ:Macintosh
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番外:鼠ヶ関(山形と新潟の境で) [番外]

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 この姿だけを見れば、いかにも「鼠ヶ崎」という立派な岬のように思えるが、残念ながらそういうわけにもいかない。そこで、ここは「番外:鼠ヶ関」である。
 ここは弁天島といい、港口に点在し、防波堤でつながれている小島のひとつである。島とはいいながらすっかり陸続きになってしまっているが、元をただせばれっきとした島だったわけで、岬の名で呼ばれることがなかったのも、そのためであろう。
 昔の地形を想像してみると、現在の鼠ヶ関駅周辺の高地のほか、市街地のほとんどは、鼠ヶ関川の河口が深く山間に入り込んだ入江に呑まれていたはずで、それを挟んで北と南に山がせりだしていた。…まさに関所を置くにはぴったりの条件を備えた場所だったはずである。
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 港の北側には「念珠関所跡」という表記が地図にもあり、標識などもあるが、実は「関」という字までもつここは、江戸時代からの比較的新しい関所のあったところで、それより古い時代の関所は、反対の南側の端にあった。
 関所の名が地名に残るくらいだから、当然ここは重要な関だった。
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 弁天社の前には、地元漁師の屋台が店を並べ、干物やイカ焼などを販売している。こういう風景も、岬めぐりでは随所でお目にかかる。日本中漁港だらけなのだ。ここのところ燃料が高くなって、一斉休漁というのがあったが、この港でもそのときは船は出なかったのだろうか。政府も、燃料代の補填を打ち出したが、シロウト考えでは、それはごく場当たり的な対策に過ぎない。もっともこの場合は、問題が燃料代だからそれでもいいようなものだが…。たとえば、冷凍冷蔵技術や設備が進んでからの海産物の流通の複雑さなどまで踏み込んで、日本の近海漁業の行く末を描かなければならない時期でもあろう。
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 弁天社の境内の隅に大きな石碑が立っていて、そこには“温海町”が立てた“源義経碑”が、簡単に義経の逃避行と当地との関わりを述べている。村上元三原作の大河ドラマに便乗した碑だと、自ら告白している。その原作は読んでいないし、昭和41年というドラマの方も、当然忘れているので、それとの関わりは不明だが、ここでは「弁慶の機智により通ることができ更に、関守の世話で当地に宿泊、疲れをいやした」とある。ここからそう離れていないマリーナには“義経上陸の地”という記念碑があったり、土地の言い伝えでは関所の役人が一行を丁寧にもてなして、義経がその返礼にくれた矢立が残っているとか、そういう話が伝わっている。はてさて。
 “…右靭(みぎうつほ)、せんが桟(かけはし)などと言ふ名所名所を通り給ひて、念珠の関守厳しくて通るべき様も無ければ、「如何せん」と仰せられければ、武蔵坊申しけるは、「多くの難所をのがれて、是まで御座しましたれば、今は何事か候ふべき。さりながら用心はせめ」”という『義経記』の記述とは大いに異なる。
 だが、『義経記』そのものからして、後世に書かれたもので、史実の記録とは言い難い。しょせん、伝説の域を出ず、証拠もなくさまざまな説が咲き乱れることになる。とくに若狭から庄内に達するまでは、諸説入り乱れて行程自体が定かとは言い難い。
 でんでんむしも、一度小松空港からのバスの車窓から、安宅の関の碑と像があるのを、通りすがりに見たことがあるが、かねてから安宅の関の跡というのが砂浜が続く海岸にあって、山の中の関所というイメージとは、まったく違うことに違和感をもっていた。(NHKがやっている黒沢映画の旧作放映で観た『虎の尾を踏む男たち』でも、安宅の関は山の中として描かれていた。)そこで、勝手に、「もし、“勧進帳”のようなことがあるとしたら、それは安宅よりも、山の中ではないけれどここ鼠ヶ関のほうが、地形的に見る限り厳しい関としてはふさわしいのではないか、とは思っていた。
 もちろん、そうなると地元の言い伝えとは矛盾するが、あの肝心の“勧進帳”にしてからが、今で言えば後世の映画化やドラマがヒットしてその話だけがあたかも史実の如く有名になったようなものだから、かなり怪しい。第一“安宅の関”からして、『義経記』には“安宅の渡し”としてあり、関などでてこない。西行や義仲のみならず、義経にも肩入れする芭蕉でさえ、そこを通ったはずなのにそれについてはスルーしている。“弁慶の機知”のような話はいくつかあるし、それらが“勧進帳”のような話を生んだのだろう。行程も、どこからどこまで船で、どこからどこまで陸路を行ったのか、それすらも極めて怪しくなってくるのだが、その先、三瀬に船で着いて数日休養し、それから最上川を遡るというのはあまり異説はないようだ。
 町の南端は伊呉野(いぐれの)という。だが、そこはもう山形県ではない。盲腸のように飛び出したここだけが、山形県に食い込むようにして新潟県なのである。
 ほかにもいくつかあるが、県境が川とか尾根とかでなく、町の中を通っているめずらしい例である。
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 「わが町・こんな町」というのがなんともおかしいが、ということは、この文字は新潟県の仕業か? もっと昔の古い関所は、このあたりにあった。
 そうそう、せっかくあつみ交通のバスの運転手さんが教えてくれたのだから、“念珠の松”も、ちゃんと入れておかなければ…。nezu10.gif
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 この松は、もともと村上屋という旅館の庭にあったものだという。なるほど、裏口から出てみるとその道筋には数件の旅館が看板を上げている。村上屋だけがなくなって、松だけがこうして残った。
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 越後寒川まで行くつもりで鼠ヶ関の駅に戻って、次の電車を待っている。駅のホームから山のほうを見ると、かなり川沿いに山が奥へと引っ込んでいる。昔の旅人は、この広くなった河口を迂回しながら渡ったのだろうか。それとも、渡しのようなものがここにもあったのだろうか。
 念珠の松のところにいたおじさんがやってきた。この人も一人旅らしいが、どういう旅なのだろうか。
 とにかく、これからの旅はさまざまな形で変わっていくはずである。それに気づいたか、新潮社が新しくシリーズで出した、電車路線情報も重視したという日本地図帳が売れている。でんでんむしも、地図マニアのはしくれとして、買おうと思ったのだが、見ると別に編集や情報にさほどの魅力もないので、結局買わないでいる。だが、地図を見ながら日本をあちこちめぐるというスタイルは、徐々に一般化している、といってよい。それも、一人か二人が、それぞれに化石燃料を燃やしながら走り回るというのではなくて…。
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東北地方(2008/06/20訪問)

番外:鼠ヶ関(山形と新潟の境で)


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