So-net無料ブログ作成
検索選択

番外:立石海岸=横須賀市秋谷三丁目(神奈川県)子産石は今や絶滅寸前のようだが立石は周辺が公園に整備されて… [番外]

tateishi-6.jpg
 あまり地図を見る習慣がない人のなかには、横須賀市が三浦半島の西海岸にもあると知って意外に思う人もいるかもしれない。横須賀といえば軍港であり、戦艦三笠であり、海軍カレーであり、米軍基地であり、ドブ板横丁であって、どうしてもJR横須賀線が走り横須賀駅がある東海岸、東京湾側のイメージが強い。港のヨーコがいたヨコスカをはじめ、歌に歌われる舞台もみな東海岸だ。
 だが、小さな三浦半島では東へも西へも、横断するのにさほどの苦労はいらないので、西海岸も南は三浦市との境界である和田の海岸から、北は葉山町との境界である長者ヶ崎まで、北北西に直線距離で7.8キロの間は横須賀市の領域となっている。
tateishi-2.jpg
 秋谷はその市領域の北の端に位置している。その南部、芦名と境を接する秋谷と井戸石(久留和)のふたつの漁港の間、砂浜と岩礁が続く海岸に、岬状にこんもりと突き出た立石が目立っている。
tateishi-10.jpg
 ここらを立石海岸と呼んでいるのは、もっと昔はそれなりに風光明媚な海岸線と鄙びた漁村の面影が残っていたからだろう。でんでんむしがはじめてここを訪れた数十年前には、まだいくらかその雰囲気はあった。
 今では海岸の道路脇にはぎっしりと家が並び、ずいぶんと賑やかな海岸線になった。この海岸から北東にトンネルで山に登る広い道がつき、葉山町と半分ずつを分け合う山の上には、神奈川県と三井不動産が結託して開いた湘南国際村ができた。
tateishi-5.jpg
 なんだかよくわからない“国際村”だが、国際会議が開かれるわけでもなく、その稼働率を支えもっぱら役割を主張しているのは、どうやら各企業の研修施設としてであるようだ。年中、逗子駅前は、黒っぽいスーツに身を包み、コロコロのついたスーツケースを引きずったオネエサンやオニイサンが、貸し切りの京急バスや国際村行きの路線バスに乗ったり降りたりしている。
 その南の山のなかにあって、かつては秘境とか隠れ里とかいわれていた子安の里も、国際村開発余波のおかげで脚光を浴び、たくさんの看板が海岸にも立つようになった。その国際村から南に降りてきたところが立石海岸。
tateishi-7.jpg
 立石のあるところは小さな公園として保存されているが、かつてそこには石碑がひとつ立っていた。実にひさしぶりに寄ってみると、それがどこにいったのかわからない。それは確か、明治だか大正だか、天皇がここに立って景色を眺めたというようなものだったはずだ。
tateishi-1.jpg
 三浦から逗子へ出る国道134号線も、一見半島の西海岸線を走っているようなふりをしていて、実際にそういう標識も立っているが、そこを走りながら海が眺められる区間は、実はこの秋谷の立石海岸と、この北の子産石から長者ヶ崎にかけての間だけに限られている。
tateishi-3.jpg
 北海道などではそこらじゅうにあって、でんでんむしがこういうのが首都圏にあれば立派な観光ポイントになるのに…と書いているのは、ここに立っている立石のことを思っていたからでもある。このような立石は、三浦半島でもほかにはあまりないので、名前もつくというものだ。
tateishi-9.jpg
 久留和漁港のすぐ北、井戸石の岩礁がある付近に、子産石というバス停がある。子産石という名は、安産や多産を願ったもののようだが、その象徴がこのあたりの海岸にゴロゴロしていた丸い石だった。
tateishi-11.jpg
 久留和では海の石が、まるでこどもを生むように年々丸石が打ち寄せられてきた。そこで、この石をなでると子宝に恵まれ、妊婦がなでると安産がかなうといわれてきた。
tateishi-13.jpg
 かつては、ここらを通れば民家の門柱や玄関や庭先に、そのまん丸い石が鎮座していたものだが、最近ではそれもほとんど見かけなくなった。今ではバス停そばの、横須賀市が指定した表札の付いた台座に鎮座した大きい子産石とどこかの門柱の上にあるのがその存在を主張しているくらい…。
 道の脇の庭先に丸い石をおいていれば、誰か不心得者が車で通りすがりに持っていかないとも限らない。
 そんな事情もあって、車窓から見る程度ではほとんど目につかないほどに減ってしまったのではないだろうか。
tateishi-12.jpg

▼国土地理院 「地理院地図」
35度14分26.69秒 139度35分48.06秒
tateishiM-1.jpg
tateishiM-2.jpg
dendenmushi.gif関東地方(2016/11/29 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ
タグ:神奈川県
きた!みた!印(45)  コメント(4)  トラックバック(0) 
共通テーマ:地域

番外:国指定天然記念物「諸磯の隆起海岸」=三浦市三崎町諸磯(神奈川県)研究の出発点となった記念物 [番外]

moroisozakiryuki-1.jpg
 地理院地図では天然記念物や史跡などに「 ∴ 」記号付きで表記されているが、必ずしもその全部が記号付きで表示されているわけではないようだ。その基準はよくわからないが、やはり、地図の載せるのに適当なものと、それにはあまりふさわしくないものがあるからだろう。この「∴ 諸磯の隆起海岸」というのは、前々から地図でみていたので、気にはなっていた。
  “隆起海岸”といっても、ここは半島の海岸からはいささか離れた場所のようだし…。
 三浦半島の岬落ち穂拾いのついでに、そこにも初めて行ってみることにした。
moroisozakiryuki-10.jpg
 京急バスの天神町というバス停で降り、住宅街の間を西へ進むと、道が急な下りになって右に別れる角に、“諸磯遺跡”という文字が彫られた古い石碑が立っている。
 さては、これか?と思ったが、“遺跡”ともちょっと違う。後でわかったのだが、これは別にある縄文時代の標識土器や住居跡などがあった遺跡のことだった。それは、この台地の上や北側の斜面から発見されたらしい。
moroisozakiryuki-11.jpg
 そこから北へ折れ、谷に下っていくと、いくつもの老人施設の看板が並び、谷に降りきったところに“諸磯隆起海岸”の案内看板があった。どうやら板に書かれたそれを立てた人の名からすると、そのそばに建つ大きなホテイさん(いや、ダイコクさんだったかな?)の像がある家の人が立てたようだ。
moroisozakiryuki-2.jpg
 例によって勝手な想像だが、あるいはよくその場所の在処を尋ねられるので、いちいち面倒だというのでこれを立てた…?
moroisozakiryuki-9.jpg
 そこからほど遠からぬ谷戸の山際に、遠くからも目立つ黄色っぽい大きな説明看板がある。その前の崖の露頭が、一部では有名な「諸磯の隆起海岸」なのだ。諸磯崎という岬名は表記していない地理院地図も、それは「 ∴ 」記号付きで示されている。
 なにしろ国の天然記念物としては古い部類で、1928(昭和3)年に指定されている。この崖には、ポコポコと空いた小さな穴の列が6列くらいあり(というのだが、見た目にはそんなに多くない)、その穿孔貝が開けた巣穴の跡が、過去に起きた地震の間隔やそれによって陸地が隆起した程度などを推し測ることができるという。
moroisozakiryuki-5.jpg
 三崎では“ミズガイ”と呼んでいる貝は波打ち際に巣穴を掘る。その巣穴の列が汀線を示しているわけで、古い時代には大根畑のこの谷も入江だったという証拠で、それが今ここにあるということは、陸地が隆起したことの証にほかならない。
moroisozakiryuki-6.jpg
 シロウトにはそれと大地震との関連がいまいちよくわからないのだが、こうした研究の出発点になったのが、この露頭からだったということらしい。だから、この天然記念物には、二重の意味の重要性や記念すべき点がある、というわけなのだろう。
moroisozakiryuki-7.jpg
 ネットにもいくつかこれを紹介しているページもあるが、その写真を見るとホテイ(orダイコク)さんの立てた案内板も、現地に立っている三浦市教育委員会の説明板も、どうも古いものばかりのようだ。で、現在のはそれを取り替えて新しくしたものらしい。
moroisozakiryuki-8.jpg
 露頭の写真を見ると、古い写真のほうがその特徴をはっきり示していて、現在は草木などが茂るためか、下の列以外はあまり明確でない。
 三浦市教育委員会が1996(平成8)年に建て直した看板は、ニスのようなものが塗られ板に彫られた文字もなかなか味わいがある。
moroisozakiryuki-3.jpg
 国指定天然記念物 諸磯の隆起海岸
       昭和三年二月二十四日 文部省指定
 この崖の表面にみられる小穴の列は、穿孔貝の巣穴の跡で、堆積時期を異にするシルト(砂泥)岩質の地質の側面に、小規模のものを含めて六列ぐらい数えられる。
 巣穴の多くは風化され、形はさまざまであるが、一般に下部の列のものほど、よく保存されている。
 穿孔貝(ほとんどがイシマテガイで、別名この貝をヒミズガイ」ともいう。三崎ではこれを「ミズガイ」と呼んでいる。)は、波打ちきわで岩をほり、巣穴をつくってその中で生活する。したがって、古い巣穴の跡があれば、これから過去の汀線の位置や高度を知ることができ、また、これによって、歴史上の大地震の間隔や隆起量などが推定される
 この崖の巣穴の跡は、この種の推定を試みるにあたって、その出発点となったもので、それぞれの列は、いずれも、ある時代に汀線だったことを示している。そして列の数や巣穴の保存状態から、この場所が、過去なん回かにわたって隆起したことを物語っており、歴史上の大地震を知る上で貴重な資料といえる。
    平成八年七月一日


moroisozakiryuki-4.jpg

▼国土地理院 「地理院地図」
35度9分4.43秒 139度37分22.42秒
ryukikaiganM-1.jpg
dendenmushi.gif関東地方(2016/11/25 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ
きた!みた!印(39)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:地域

番外:通り矢のはな=三浦市晴海町(神奈川県)こどもの頃から口ずさんでいたこの歌は「城ヶ島の雨」だけど… [番外]

toriya-5.jpg
 何度も書くようだが、歌というのはほんとうに不思議なものだ。こどもの頃からラジオで聞き、鼻歌にいいかげんに口の端にのせていた歌がたくさんあって、いまも忘れない。若いミュージシャンやシンガーソングライターもおらず、流行歌手もまだこれといっていない時代からつくられ、歌われてきた歌の数々の一部は、現在では「抒情歌」とかいうくくりで中高年に人気のようだ。
 それは、やはりでんでんむしと同じように、昔の子供時代、若かりし頃に流れていた時間とシンクロするからであろう。
 「城ケ島の雨」も、そうしたあまたの歌のひとつ。北原白秋の作詞で、作曲は梁田貞、1913(大正2)年につくられたこの歌は、YouTubeにはなんと数十もの動画がのっかっている。歌い手は美空ひばりから無名の人までさまざまだが、五木ひろしや倍賞千恵子、キム・ヨンジャや田川寿美などなど有名な歌手のものもたくさんある。そのひとつの鮫島有美子の動画には「YouTube以外のウエブサイトでの再生はできない」との注意書きがでるが、それ以外は全部フリーのような顔をして並んでいる。しかし、そのうち権利関係をクリアにしたうえでアップされた動画は、厳密にみれば極めて少ないのではないか。
 その頃の歌詞はなかなか高尚なものばかりで、その詞の意味などわからないものも多かった。“利休”も知らず、“ねずみの雨”とはなんじゃろかと、わけもわからずに歌っていたその歌は、華々しく詩壇デビューした北原白秋が、隣家の夫人との不倫関係によってスキャンダルを起こし(当時は姦通罪があったので実際に投獄もされたらしい)、その相手と結婚して(その後離婚)この三崎に移り住んでいたときに書かれた詞だったことなど、ずーっと後になって知ったものだ。
toriya-2.jpg
 白秋が住んでいたのは、城ヶ島を対岸にみる向ヶ崎で、もちろんその当時は城ヶ島大橋などないから、通り矢とその向こうの島の遊ヶ崎付近を眺めて暮らしていたのだろう。その日常の風景から生まれた詞は、芸術座の音楽会のために依頼されたもので、大幅に遅れてきた詞に作曲家は開演前のわずか数日で仕上げ、自らのテノールで初披露されたという。
 この詩人のその後の活躍ぶりはいうまでもないが、詞のイメージとは違って、実生活は離婚と結婚と転居を繰り返すなど平穏ではなかったようだ。作曲の梁田貞は「どんぐりころころ」の作曲でも知られるが、それはだいぶ後年のことになる。
toriya-9.jpg
 「城ケ島の雨」の歌碑については、三浦市のサイトで、“昭和24年の建碑除幕”とあり、“昭和35年4月17日、城ヶ島大橋架橋により現在地に移転”されたとあるのだが、架橋以前の歌碑がどこにあったのかがわからない。
toriya-1.jpg
 それまでは渡船で往来していた城ヶ島に橋が架けられたのは、1960(昭和35)年のことで、城ヶ島の住人と徒歩・自転車は無料だが、今も渡り賃がいる有料の橋なのだ。全長は575メートルで、下の水路は遠洋漁業の船が出入りするので海面からは23メートルと高い。当時の架橋橋梁技術を結集して完成したのも、高度成長期の入口に差し掛かった時代の心意気を感じさせるものとも言える。
toriya-3.jpg
 「舟は行く行く 通り矢のはなを」という歌の一節にある通り矢も、現在はその姿が大幅に変化しているようで、当時の姿を想像するのがむずかしいほどではないかと思われる。
 その名は、頼朝がここで通し矢をしたのが由来とする説もあるが、陸地と岩礁の間の海流の早いところ(矢のように流れる)を指すのだろう。しかし、今では晴海町一帯の埋め立てが進んで、その早瀬のような場所がなくなっている。
toriya-4.jpg
 岩礁が一部残りそこは釣り人に人気のスポットではあるらしいが、白秋が歌に詠んだ風情はもうない。
 「通り矢のはな」とは鼻であり岬であったのだろう。そういえば、白秋が住んでいたのは向ヶ崎、対岸は遊ヶ崎、そしてこの付近一帯は三崎で渡し船が出ていたところは仲崎。地名も“みさき”だらけなんですよ。
toriya-7.jpg
 けれど、三崎と名が付く地名は、城ヶ島大橋の西側だけ。それも小網代まで。一部には「三浦市より三崎のほうが有名」という声もあるが、三崎は油壺から三崎の漁港までの間で、三浦市のほんの一部。
 京浜急行の言う「三崎口」も「口」ではあるかもしれないけれど、三崎ではない。
toriya-6.jpg

▼国土地理院 「地理院地図」
35度8分16.36秒 139度37分39.96秒
toriyaM-1.jpg
dendenmushi.gif関東地方(2016/11/25 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ
タグ:神奈川県
きた!みた!印(38)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:地域

番外:井上茂美旧邸跡=横須賀市長井六丁目(神奈川県)わざわざ探して行かなかったその場所に今度は行ってみた [番外]

inoue-7.jpg
 環境省と神奈川県が建てた荒崎の案内看板には、城山からの眺めは「眼下に松の青と砕ける波の白さが調和し、遠く相模・伊豆の連山や富士の容姿がすばらしい」と形容している。
 絵葉書的な説明はともかく、“調和している”という点では、三浦半島自体がある種の調和を保っているような気がするのは、単なる身びいきであろう。けれども、高くて大きな山も長い川もない半島では、どこまでも似たような台地がでこぼこと続き、崖も浜もある海岸線は、だいたいぐるりと周回することができる。そのため人が暮らす集落も海に近く、視界は常に広く開けている。
 こういうところに住むのもいいなあと思う人も多く、ちゃんとそれを実現している人も何人か知っている。が、ちょっと都会から世間から離れて、それでいてあまり隔絶された感じはないところは、通勤マイホームというよりは、半分隠居のような理想の隠遁生活に向いているような気がしていた。
 それに憧れる気持ちも強かったが、東京へ通勤するという現実が切り離せなかったでんでんむしは、中途半端に半島の付け根にかれこれ数十年も居を置いてきた。そこへやってきたときには、まだ京浜急行も三崎口まで延伸していなかったのだが、そんなときに見た地方版の小さな新聞記事で、井上茂美(しげよし 1975(昭和50)年に没)の消息を知った。
 そのことは、2007年初めのブログで、
として書いていた。
 それから数えて10年も経つので、今回また再再訪し、中途半端だった荒崎についても「荒崎2」を加え、まだ探さないままになっていた井上茂美の家があった場所も確かめておきたいと、これを書いている。
inoue-1.jpg
 でんでんむしがこの人に興味をもつ理由は、“最後の海軍大将”であったからでもなく、海軍内でも少ない開戦反対派だったからでもない。
 ただ、元高位の海軍軍人としての敗戦後の日本における身の処し方、という点においてのみ。
 旧軍幹部や戦争指導の関係者が続々と自衛隊などに復帰し、大企業からの誘いに応じて戦後社会にうってでるのを、苦々しく思っていたらしい井上自身は、いっさいの誘いを断り、近所の子供に英語を教えて過ごし、この海を望む台地の上からあまり出なかったといわれる。
inoue-2.jpg
 “一億総懺悔”などというお題目にごまかされて、戦争責任をあいまいなままにしてきた結果、戦前の思想や体制が復古するがごとき現象がちらちらとそこかしこに目につき、それを公然と主張する勢力や団体が政権を支援し動かしているような光景がだんだん増え、いや大手を振ってまかり通っている。そんな現在を、井上は想像していただろうか。
 そのすばらしい教育方針に感銘を受け夫もそうだという首相夫人が、名誉校長を引き受けた(疑惑が発覚してから辞任)という、幼いこどもに教育勅語を暗唱させる私学の要求に応じて、政治家や官庁と役人がせっせと便宜をはかるようになってしまっている。結局、この騒動も「適切に処理」されて、うやむやなあなあでごまかして逃げ切り可能にしてしまう。この政権になってから続く、もろもろのことにも、大多数は怒ることもなく、暗黙のうちに了解させられている。そうしていく先に、われわれは何を失っていくのだろうか。
 少なくとも、あるべき国のかたちをどう考えるかについては、われわれは戦後からずっと調和を欠いたままの混沌のなかでもがいていて、その答えをみつけられずにいる。そうこうしているうちに、いつの間にか過去の亡霊がゾンビのように蘇って、すでに政権に影響を与えている、いや政権を支えている、いやいやそれらが政権をつくっているというべきだ。「日本をとりもどそう」というのは、そういう意味だったのだ。それでも、世論調査では半数前後の支持率を維持しているというのも、実に不思議なことだ。
 話がそれた。もっとも、井上は自身の生き方や考え方について、自分で語ることはなかったらしいので、その戦後の去就についても、他の情報の断片から伺うだけ。かなり上っ面だけの、数十年前と同じ個人的な感想の範囲に留まり続けていて、進歩も発展もない。(それでも、その間にずいぶん昔仕事で新宿御苑前の雑居ビルを訪れたとき、その一室に井上の伝記刊行会かなにか、そんな表札を掲げてあったのをみたという偶然もあった。)
 したがって、書くこともあまりないのだが、前にはなんとなくそっとしておいてあげたほうがいいのではないかと、わざわざ探して行くことをしなかった。その後、この場所にも変化があったらしい。
inoue-3.jpg
 縁者があとをついで、一度は“井上茂美記念館”もオープンしたともいうが、今は閉館状態になったままのようだ。もともとの住居だった建物は、もう取り壊されてないようだが、わずかに古い門柱がその跡を示すものとして残っているだけだ。
inoue-4.jpg
 勝手に入ってきてうろうろする人間も多いらしい。そこで、“私有地立入禁止”と“記念館は閉館”の張り紙がぶら下がることになったのだろう。個人の記念館など、維持するのも大変だろうと想像はつくが、なにかこのままでも気の毒なような気も…。(阿川さん印税の一部でも…^_~。) 
 そう思いながらも、荒崎の上の台地から海を眺めてみる。
inoue-5.jpg
 この海が、広く太平洋へと続いている。千島、ミッドウエイ、ハワイ、硫黄島、サイパン、グアム、フィリピン、ニューギニア、パラオ、そしてでんでんむしの父親も眠るソロモンとガダルカナルの海へも。
inoue-8.jpg
 毎日、それを海軍の拠点であった横須賀のここから眺め暮らしながら、なにを思っていただろうか。
inoue-6.jpg
 もし、彼がここに立っていれば、いまどきの芸も能もないお馬鹿なインタビュアーなら、マイクを向けて「今のお気持ちは…?」と空疎な決まり文句を言いそうなところだが、でんでんむしにはそんなことを聞くのは無用で失礼だろうと思える。
 それは戦後の伝え聞くその生き方を知れば、それだけで充分、それがすべてなように思えるからだ。
inoue-9.jpg

▼国土地理院 「地理院地図」
35度11分44.15秒 139度36分24.78秒
inoueM-1.jpg
dendenmushi.gif関東地方(2016/11/29 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ
きた!みた!印(45)  コメント(6)  トラックバック(0) 
共通テーマ:地域

祝! 広島カープ25年ぶり、7回目のセ界制覇! 待ちに待ったその日がついにやってきた! [番外]

carpzumusuta-2.jpg
 最も優勝から遠ざかっていたチーム、と言われ続けてきた。やっと25年ぶりのVである。スポーツ新聞ではない一般紙にも「苦節25年」の見出しが踊る。2016年の戦いぶりは、勝ち星の半分以上が逆転勝ちで、6月から終始独走状態を堅持する、実にみごとなものだった。なにかと不自然だった監督采配も、今年は様変わりになったような印象がある。みんな大喜びであろう。広島の街も、さぞかし盛り上がっていることだろう。
 でんでんむしのようにその前の第一期「苦節25年」を経験してきた“球団創設以来のファン”は、だんだんと減っているだろうが、ちょうど球団結成から初優勝までも25年だった。そのときには、「一度でいいから優勝してくれ!」と願っていたものだ。それが、80年代の赤ヘル黄金時代を築き、都合6回もリーグ優勝して、そのうち3回は日本シリーズを制覇しているのだから、もう言うことはないくらいの大満足であった。
 以来、勝ち負けだけでなく、ゲームを冷静に楽しむ術もマスターして、長く続いていた低迷期も、いちいちカリカリしないで、余裕でカープの試合を見てきた。
 だが、その黄金時代を知らない若い人たちにとっては、ちょうどわれわれが初優勝を待ち望んでいたときと同じ年月だけ、この日を夢見て待っていたのだ。
 よかったね! うれしいね! バンザイだね!

Carp!V7-2-6.jpg 
★ (↑字が小さい? 拡大してみてね!)
 広島人にとって、カープは特別な存在なのだと言ってもよい。関東にいても、ケーブルテレビでカープの試合はほとんどの試合を見ているが、マツダスタジアムでもビジターユニで真っ赤に染まったスタンドと、そこを埋め尽くした人々の顔を眺めていると、いいようのない感動と連帯感を覚える。
 ほかのチームでも、ファンの思いは同じといえばそうかもしれない。だが、カープの場合は、そこらへんがちょっと違うのである。
 神宮球場も横浜スタジアムも、関東で遠征があるときにごくたまに出かけることもあったが、いつもビジターの応援のほうがホームを圧倒していた。いまさらのようにレフト三塁側の応援がすごいと解説者やアナウンサーがいうけれど、そんなことは昨日今日に始まったことではないのだ。
 思えば41年前の初優勝の時も後楽園球場で、そのときのスタンドの大歓声は中央総武線の線路を越えた。2016/09/10の東京ドームも、ビジター席だけではなく、3塁側の上も真っ赤で、内野も赤くなりかけていた。広島からやってきたファンも多かったろうが、優勝決定戦にプライベートで、県知事と市長が東京まで飛んできて並んで応援するようなチームはカープだけだろう。
 広島出身者ではないけどカープファン、という人も増えているので、皆が皆同郷意識で寄り集まっているわけではないだろうから、実際どうなのかは球場で出口調査でもしてみないとわからない。
 だが、広島カープの存在は、広島という一地方の一地域を基盤として、初めて成り立っている。第一、チーム名に地域名を冠した球団は、今でこそ無理やり「東京なんとか」とかつけたりしている(現在はフランチャイズ制を標榜し、原則地域名を冠することになっている)が、長い間ずっと広島カープだけだったのだ。

Carp!V7-2-5.jpg 
 それは、広島に球団をつくろうとして奔走した先人たちの思いのなかに、原爆で一瞬のうちになくなってしまった広島の街と、ともすれば先も見えない不安で荒廃していく人々の心をひとつにまとめ、郷土の復興への力になるという期待があり、それが見事に結実した象徴が、広島カープだったからだろう。
 ローカルなことにかけては、12球団のうち随一であったが、12球団随一の貧乏球団であったこともまぎれもない事実であった。とにかく、その創設時から、監督の第一の仕事が選手を集めることと、それに払う給料の資金集めだったくらいであった。“樽募金”として語られるエピソードは、役員会で浮かび上がった解散合併の動きに対応して起こった。
 今でもそうだが、プロ球団は親会社が(広義の)宣伝のために資金を出すことで成り立っている。だが、カープにはそれがない。そのため、初代監督である石本が考えだしたのが、広く市民を集める後援会組織で、これが後々にまで続く、熱狂的な応援を支える軸にもなり、「市民球団」と言われるもとでもあった。
 もちろん、地元の広島電鉄、中国新聞社、東洋工業など地元の十数社の企業も、積極的に支援はしたが、彼らのどこか一社で丸抱えできるような体力のある企業はなかったので、自然寄り合い所帯。
 だが、現実は厳しいことに変わりはなく、連盟からは8つあったチームを整理するためマークされ、邪魔者扱いされた時期もある。“セ・リーグのお荷物”といわれる所以はそこにあったが、なんとか危機を乗り越え、合併案も回避してきた。
 1963(昭和38)年に東洋工業社長の松田恒次がカープの経営に乗り出す。このときから、正式名称が「広島東洋カープ」となるのだが、東洋工業は一部資本参加したものの経営権をもっていたわけではなく、有力なスポンサーのひとつにとどまる。
 カープだってマツダが親会社だろうという誤解は、今でも多いようだし、いっぽう市民球団であるという思い込みも多い。しかし、それはどちらも違うのである。
 一般市民が幅広く株を持っているわけではないから、その意味での市民球団ではない。実態は、恒治→耕平→元と松田家三代がオーナーを引き継いできた“同族経営の個人商店”のようなものである。東洋工業の経営危機で、外資との提携やなにかで、松田家が自動車から手を引くと同時に、松田家はカープ一筋になって今日に至る。マツダが引き続き有力な支援者サポーターであることも、昔から変わらない。
 もっとも、松田家は当初は松田家支配は当面のことで、ゆくゆくは球団の運営形態自体をも考える、と言っていたはずだが、その動きはない。四代目ぶくみのオーナー代行にはオーナーの甥が就任した。オイオイ〜。

Carp!V7-2-4.jpg
 遠征にもいつも選手とともに帯同していた先代と比べて、三代目オーナーはカープ愛が足りないような印象をもっていて、暗黒時代を招いた責任はオーナーにあると批判していた。また、代行就任当初、高橋慶彦を怒らせて彼がカープを離れることになったこともあって、いい印象がなかった。だが、近年の黒田の復帰を実現させたこと、新井を呼び戻して快く迎え入れたこと、マエケンの願いを聞き届けたこと、そして先代に倣って選手とともに歩む姿勢を続け、コミュニケーション努力もしているらしいなど、でんでんむしも少しは見直している。
 マエケンの移籍金の一部を地元に還元するという方針を、いち早く示したのもよかった。(その後、具体的にどうしたのかは知らないけれど…)(2016/11広島東洋カープは、広島市に5億円を感謝のしるしに還元すると発表した。日南と沖縄のキャンプ地にも1億円ずつ。)
 それらに加えて、最近の球団経営には、そもそもはマツダから出向してきた鈴木球団本部長の手腕によるところもあるのだろう。
 カープは、球界ではめずらしいはずの独立採算制である。一見当たり前のようだが、ほとんどの球団では、親会社とどんぶりだからその内容はわからない。赤字でも親会社が補填するだけだからである。親会社を持たないカープは、近年はずっと黒字経営である。いつだったか、オーナーが500万円の黒字だったと喜んで言ったというのを聞いて、なんだ情けないと思ったこともあるが、長い間貧乏は貧乏なりにコウラに似せて穴を掘ってきたのだ。
 そのため、ずっとFAでは選手をとらないで、可能な限り若手の有望な選手を獲得して育てていく方針でやってきた。だから、相対的に平均年俸も他球団に比べて低い。だが、優秀なスカウトやアメリカの筋の良いコネもあって、有望選手の発掘や優良外国人選手の獲得では、他球団に一歩先んじている。カープがとった外国人選手で、その後パ・リーグで活躍している者も多い。また、有力選手に育って、他球団へという者も多かった。
 新しい本拠地球場ができて以来、カープの商売上手は他球団の追随を許さない、独走態勢である。もちろん、熱いファンの支えがあってのことだが、入場者数も、グッズの売上も好調そのもの。経営状態はずいぶんよくなったことであろう。
carpzumusuta-1.jpg
 スタンド全体が赤くなるほどに強烈になったのは、ファンがグッズとして売られている選手ごとのネームと背番号の入ったユニフォームや、赤いキャップなどを買ってそれを身につけてくる(あるいは球場で着替える)からである。とくに近年の傾向としては、ビジター用の赤いユニフォームが人気で、ビジター球場だけでなくホーム球場のスタンでも大半を占めるほどに目立っている。
 この頃では、他球団でも日を決めてその日の入場者にカラーのシャツやタオルなど応援グッズを無料で配るところもあるが、カープはそんなことはしない。欲しいと思う応援グッズは、すべてファンが自前で買う。その売り上げは球団の収入になるから、樽募金が形を変えて続いているようなものだ。(樽募金といえば、新スタジアム建設のときに復活したらしいが、でんでんむしは遠くにいて知らなかった。)
 球団もこれには味をしめているので、ブラウン監督の頃から、目立って新グッズの開発には熱心で、ことあるごとに限定記念Tシャツなどを売り出している。新井の2000本や黒田の200勝は、そのひとつである。これには、選手自身のアイデアも採用されているなど、ひと味ちがう。
 そのほか、カープ坊やの手人形などグッズにはさまざまあるが、他球団の応援グッズに便乗したものもある。もちろん、相手球団に何がしかの挨拶をしたうえでのことだろうが、中日ドアラの耳を赤にしたのや、ヤクルトの傘を小さな赤い傘にして…といった例がある。また、スタンドで目立つのは、ファンが自分で思い思いにつくったボードや文字パネルであるが、これはカープが初めてというわけではなかろう。これも、昔は手書きがほとんどだったが、この頃はコンピュータを駆使してきれいにつくっているものも多い。
 カープ坊やというのは、初優勝のとき以来球団のシンボルのようになっているキャラクターで、ユニフォーム姿の男の子がバットを構えて前を向いている、2次元で丸いシールなどになっていた。球団マスコットとしても、最古参となる坊やである。新球場には3次元の大きな風船でできた坊やもいる。でんでんむしは、日本シリーズには必ず観に行くことにしていて、その都度これを売店で買ってきて貼ってあるので、ユニや色使いなどが微妙に異なる6人のカープ坊やが並んでいる。
carpboya-1.jpg
 初優勝のときに買ってきた大きい丸いシールは、本棚の横板に貼り付けていたが、日焼けして赤も色落ちしている。このときは、ルーツ監督の指示でチームカラーも赤に統一するよう指示があったが、ユニホームまでは間に合わず、帽子とヘルメットだけ赤にしたのだ。だから、このときは胸のCARPの文字も赤ではない。
 ゆるキャラが流行るずっと前からこれはあるのだが、もともと名前はなかったはずだ。いつからか、“カープ坊や”という名が広まってはいるが、そもそもの原案は確かに一見してこどもとわかるが、この顔の絵↑はどうも“坊や”という感じではないように思えてしかたがない。
carpzumusuta-5.jpg
 グランドで試合の合間や試合終了後に愛嬌を振りまくキャラは、カープ坊やではなく、スライリーというほとんど意味不明の着ぐるみである。
 セサミストリートのマペット人形をつくっている会社が製作したというのだが、これはどうみても依頼の事前打ち合せの段階で齟齬があったとしか思えない。それは、このスライリーの性格付けその他コンセプトについて、明快な説明をしない(できない?)からである。
 
 身びいきといえばそれまでだが、広島カープがいちばん最初に始めて、それが他球団にも波及したというものは、たくさんある。
 でんでんむしもそれを全部チェックしているわけではないので、思いつくままに順不同で並べてみるが、落ち漏れも承知のうえ、裏取りなしということで。
 資金不足に悩む初代石本監督が始めた後援会というのも、おそらくそうだったのではないかと思われるが、創成期の苦難を球団と共にしてきたという勝手な思い込みが強かったファンが、その熱意の表われとして始めた、さまざまな応援スタイルは、昔から現在までユニークな伝統をきずいてきた。だから、これは維持していきたい。応援スタイルはやはり他のチームの応援のマネ(たとえば、タオルをグルグル回すとか)は、やめてほしい。あくまでオリジナルでいきましょう。
 ヤジがきびしいのもそうだったが、かなり昔から“ラッパのおじさん”というのが現れていた。軍隊ラッパで突撃ラッパなどを吹き鳴らす。いわゆる鳴り物応援は、ここから始まったとしてよいのだろう。そして、これが次世代に受け継がれつつ、トランペットによる、コンバットマーチに発展していく。
 ベンチ上に陣取ったおじさんが、相手チームがアウトになると、仏壇から持ってきたチンを、絶妙なタイミングで鳴らしていた。これが、やがて応援団全体での鳴り物テーマになる。アウトになる毎に囃し立てられるわけで、かなりイラッとくるのではないかと、その効果に思ったのは、他球団の応援でもそれをやるようになってからだ。
 それまではやはり、ファンの多くはおじさんばかりで、カープが勝った日には流川の飲み屋が繁盛するといわれた。なかには、敗け試合に怒るファンがスタンドで酔っ払って、ウイスキーの空き瓶をグランドに放り込み、線審がケガをするという事件まで起こった。
 それが、少しずつ変わり始めるのが、“コージコール”がスタンドを包むようになった頃からだろう。“コージコール”は、スター選手だけでなく、各選手個人ごとの応援歌につながっていく。また、カープが得点するたびに歌われる「宮島さん」(宮島さんの神主が、おみくじ引いて申すには…)は、昔の唱歌「花咲か爺さん」(裏の畑でポチが鳴く、正直爺さん掘ったれば…)の替え歌である。だが、この替え歌はカープの応援のためにできたわけではなく、広島では戦前から広商の応援などに使われてきたものなのだ。
 球団の公式応援歌としては、初優勝前に「それ行けカープ」が制定されて、現在もラッキーセブンに演奏され歌われる。
 カープファンのなかには、東京で『酒』というPR雑誌の編集長として有名人にも知人の多かった佐々木久子(一度神宮球場のスタンドでお見かけしました)などもいて、彼女を中心として「広島カープを優勝させる会」も生まれ、これ以降有名人でカープファンを名乗る人も増えていく。
 応援歌の作詞・作曲者も、その縁でできたと記憶する。(初優勝の年のことは、
「1975☆『思い出の索引』★でんでんむし@アーカイブス☆わたしたちが生きてきた時代とは…」に書いていた。
 宮島のシャモジをカチカチ打ち鳴らすスタイルは、広島の応援の伝統的なものではあったが、プロ野球では初優勝がかかった試合など特殊な場合に限られる(初優勝を決めた後楽園球場でもあったというが、でんでんむしはちょどそのときはヨーロッパに行っていて見ていない)。その伝統は二本のミニバットを打ち合せ振る応援に、引き継がれている。
 近年の応援では、スクワットとカープ女子とジェット風船も象徴的だ。カープ女子に負けじと、他の球団でも織り姫とか、…あとなんだっけ?
carpzumusuta-3.jpg
 体力もいるスクワットは若い人ならではで、スタンドに女性が増えたことも特筆に値する。おじさん中心の野球応援が、明らかに変わっている。それには大リーグの球場を参考にしたというマツダズームズームスタジアム(日本の球場では左右非対称形なのはここだけ)が、ボールパーク的な色彩を打ち出してきたこととも関連するだろう。外野の入場券で入っても、バックネット裏の上まで含めてぐるりを一周できるほか、さまざまな特色のあるシートも用意されている。女性でも家族連れでも楽しめるような雰囲気づくりには、ある程度成功している。
 ジェット風船は甲子園で始まったとされるが、実はそれは阪神ファンではなくカープファンが始めたのだという。最初の頃は、風船は黄色や白や色とりどりとはいえ色彩は地味目だった。でんでんむしがRCCの掲示板に「カープのは赤い風船に統一したほうがよい」と投稿したのはその頃で、その翌年からはマツダスタジアムのジェット風船は赤一色になって、ラッキーセブンに一斉にそれが舞い上がるのはなかなか感動的で壮観だ。
carpzumusuta-4.jpg

 カープのことは、これまでもところどころでふれてきたが、ひさしぶりの優勝なのでちょっとリキ入れてみた。とりとめのない感想もいい加減に締めくくらないといけないが、重要なことを忘れているような気もする。
 あ、そうそうカープが最初に初めて他球団が追随したというのには、背番号ゼロというのもあった。それから、選手の用具一式を遠征地まで運ぶ、専用のカープトラックを設けたこともある。長年、その運転手を務めてきた人が、今年定年になるそうだが、優勝で花道を飾ることができてなによりだった。
 2年位前から、カープの選手が打席に立つときかぶる赤ヘルが、メタリックのきれいな光沢になった。これは、マツダの自動車の塗装からのヒントでできたらしいが、これも経営主体が変わって研究熱心な横浜が広島を視察し、いろいろ参考にしていて、さっそく追随している。
 いわゆる関連本“カープ本”の多さも、群を抜いているように思うが、今年は「赤ヘル1975」(重松 清 講談社文庫)を買ってきた。
   そうそう、ドミニカに開いたカープアカデミー、これを忘れていた。こういうのもカープが初めて。
 わが家の息子たちは、まったく野球に興味がない。いまどきどこの球団のファンか云々というのは昭和の時代だなどと吐かしている。もちろん、親の因果を子に押し付ける気もないからほおってきたが、娘たちがその分をフォローしてくれている。
 テレビからも押し付けがましかった日テレ系の読売の試合中継がなくなって、確かに昭和も遠くなったが、これが正常な状態でもあろう。
 二度目の苦節25年が終わり、これから二度目の赤ヘル黄金時代をつくってくれるのは、平成の選手とファンである。よろしくね!
 カープバカの雑文、失礼しました。他球団のファンの皆々さま、これからもよろしくお願いいたします!
Carp!--7.jpg

dendenmushi.gif (2016/09/10 記)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ
タグ:広島県
きた!みた!印(33)  コメント(6)  トラックバック(0) 
共通テーマ:地域

番外:立石岬灯台と原発=敦賀市立石・明神町(福井県)国策による灯台と原発がならんでいる半島の北から見える島は… [番外]

todaitogenpatsu-10.jpg
 敦賀半島の先端は、大きな山の北端ではなく、北西から南東に伸びる161メートルが最高点の、長さも200メートルに満たない小さな尾根の先である。その北端の100メートルくらいのところに立っている立石岬灯台は、通せんぼのところからいきなりの急坂を登って行ったところにある。
todaitogenpatsu-18.jpg
 驚いたのは、この急坂を登って灯台を訪ねてくる人が、意外に多いことだった。休日とはいえこの暑さのなか、なんでだろうと不思議に思うのは、もちろん自分のことは棚に上げてのこと。登るときにすれ違った中年の夫婦に「クマは出ましたか」というと「クマは出ません」との返事。灯台の日陰でゆっくりおにぎりなどを頬張りつつひと休みしている間にも、3組ぐらいが登ってきてまた降りて行った。
todaitogenpatsu-11.jpg
 滞留時間がみんな短いのは、せっかく灯台まで登ってきたのに、周囲はヤブで、敷地内の隅にベンチがあるだけで、海は見えるとはいえ見どころにはいささかもの足りないからであろう。いわゆる“展望台”的な要素にはちょっと乏しいのだ。
todaitogenpatsu-12.jpg
 それでも、ここからは干飯(かれい)と越前岬が重なりあっている北の海が美しく見える。おや!? 遠くにはぼんやりとだが島影も見えるではないか。若狭湾の北の海に、島なんてあったっけか?
todaitogenpatsu-15.jpg
 まさか竹島ではないから、どうやらこれは西北西250キロほど遠くの隠岐の島ではなかろうか。西の島前はさらに遠いうえに標高が高くないのでわからないが、東の島後が見えているのだろう。こういうのって、なかなか自信を持ってそう言えるまで、時間がかかる。
todaitogenpatsu-16.jpg
 そして、さらに西のほうには丹後半島の経ヶ岬も…。おおっ、これで自信をもって言えるな。隠岐の島です。それ以外には考えられないけど、意外に近くに見えるものだ。
todaitogenpatsu-13.jpg
 帰りの降りでも登ってくる2組くらいがあって、「灯台はまだですか?」と聞くので、「まだまだですよ。あと半分がんばって。」と返す。
 この人たちはバスで来たのではないから、車でやってきたわけだが、別に灯台めぐりの趣味があってのことではなさそうだ。道が通せんぼになっていたので、しかたなく坂道に誘導されてきたものだろうか。
todaitogenpatsu-6.jpg
 この灯台ができたのは1881(明治14)年のことで、ちょうど敦賀港と長浜の間に鉄道が敷かれたのと同じ時期である。いろいろ変なこともやったけれど、明治の指導者には近代国家の建設に向けて、巨視的なプランももっていた。敦賀に目をつけたのは、日本海と太平洋を結ぶ最短ルートであるからで、後にはこのルートで伊勢湾まで運河を通すという計画まであってしばらくはくすぶり続けた。
todaitogenpatsu-17.jpg
 明治になってから、お雇い外国人の手になる洋式灯台が、各地で次々に建てられた。しかし、それらは半分は外圧によるもので、外国の貿易船の都合で立地が決められていた。が、この立石岬灯台は日本人の考えで、その計画と設計により日本人技術者によってつくられた、初めての灯台だったのだ。その意味では、歴史的な灯台だと言える。つまり、当時の国策によってつくられた灯台第1号なのだ。
 シベリア鉄道と結ぶ航路ができ、当時の4大貿易港に発展した敦賀の行く手を示すシンボルとして、現在の敦賀市の市章にもこの灯台が示されている。
todaitogenpatsu-19.jpg
 現在の敦賀市のシンボルというには、3.11以降あまりにもマイナスイメージが強烈で大きくなってしまった原発も、国策といえば国策なのか。灯台のある尾根と南に続く半島主尾根の間に、隠れるようにしてある日本原子力発電の敦賀発電所は、その1号機が、日本最初の商用炉として発電を開始した東海村に続くものであり、原発銀座福井県(といっても県西部のみに集中)の最初の原発でもあった。
todaitogenpatsu-3.jpg
 国策にしたがって、敦賀市議会が原子力発電所の誘致決議をしたのは、1962(昭和37)年のことである。
todaitogenpatsu-4.jpg
 別に詳しいことが知りたいというわけでもないが、なぜかここには日本原子力研究開発機構の新型転換炉「ふげん」が隣接している。これは平成15年までは動いていたが、すでにもう廃炉になっている。そのためか、地図などでは表記されていないが、名称も原子炉廃止措置研究開発センター(略称:ふげん)というらしい。
 大量の水を必要とする原発は、海岸でなければならない。人里からもできるだけ遠くはなれているほうが望ましい。ふたつの尾根に挟まれ、猪ヶ池を抱え南側の明神崎を先端とする長い岬に囲まれた入江の奥の谷間は、いちばんに適地とみなされたのだろう。
todaitogenpatsu-5.jpg
 この原発の所在地は、敦賀市明神町である。“町”がつく地名は敦賀市街地では当然普通に多いが、半島で“町”がつくのはここだけである。
 半島でほかにはない“町”が、ここにだけにあるのは、どういうことだろうか。まさか、この谷間には町があったのを立ち退かせたということはないだろうし…。(そんなところは最初から選ばないはずだから)
 立石岬を西に回りこんで行く破線の道も、地図には描かれているが、おそらく崖崩れがなっかたとしても、この道は歩くことはできなかっただろう。
 というのも、西海岸も大きく原発エリアで、敦賀原発の西に広く白いままの埋立地が広がっているのも、原発用地らしい。
 そして、その南には、かの有名な高速増殖炉もんじゅ発電所が控えている。「もんじゅ」のあるところは敦賀市白木で、ここも“町”ではない。敦賀半島の先端は、隣の美浜町と半分コではない。685メートルの蠑螺(さざえ)が岳まで半島を分けてきた境界線は、そこから急に西に向きを変え、半島西海岸の門ヶ崎南の崖まで降りているからだ。
todaitogenpatsuM-2.jpg

▼国土地理院 「地理院地図」
35度45分43.24秒 136度1分7.10秒 35度45分9.14秒 136度1分5.86秒
todaitogenpatsuM-1.jpg
dendenmushi.gif北越地方(2016/07/18 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ

タグ:福井県
きた!みた!印(39)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:地域

番外:帽子のこと織田のこと=丹生郡越前町織田(福井県)コレに比べれば帽子のチョンボなどはかわいい…ついでに武生も鯖江も [番外]

fujigahana-15.jpg
 “鎌倉帽子屋”のタグは、木ノ本駅に電話したとき、こちらが失くした本人であることの確認にも役立ったようだ。そのメッシュの黒いキャップは、さほど高価なものではないはずだが、わざわざ探して買ってきてもらったものなので、そう簡単に「失くしちゃったのよ」で済ますわけにもいかなかった。これまでも、岬めぐりの道中で紛失したものは、手袋やマフラーやウインドヤッケや帽子(これとは別にほかの)やハンカチやタオルや…いろいろある。
 老化現象というよりも、旅先の移動中の行動で、ともすると注意力が散漫になる瞬間があるらしい。そのことは自覚も意識もしているのだが、どうもいけない。今回にしても、木ノ本駅のベンチに座っていて、帽子を脱いで汗を拭ったことまでは覚えているのだが、電車に乗って座席に座ってしばらくしてから帽子がないことに気がついた。
 昔の映画に出てくるような、男がみんなかっこよく帽子をかぶっていた時代とは違って、今は帽子はかぶらないほうが普通である。けれども、頭の天辺が涼しくなってくると、冬は寒さよけに夏は日よけにどうしても帽子は欠かせなくなる。
 年寄りの帽子は、なかなかむずかしい。ベレー帽やハンチングはまったく似合わない。毛沢東や林彪がかぶっていたスタイルをアレンジしたのもこの頃ときどき見かけるが、あれもだめ。仕事がらみで外に出るときにはつばのある帽子をかぶることにして、それ以外はもっぱらキャップ(野球帽)ですませてきた。
 しかし、でんでんむしとしては、なかなか気に入ったというか、かぶる気になれるのがない。だいたい、あんなどこの会社だか商品だか知らないが、わけもわからん縁もゆかりもないアルファベットのロゴやマークなんぞを、でかでかつけて歩く気にはならない。もっとも、プロゴルファーのようにそれで大金が入ってくるとか、小金でよければ払うとでも言うなら話は別なので、相談に応じる用意はあるが…。
 それと、中国製はできるだけ敬遠。日本製でロゴなどが入っていないもの。となると、でんでんむしが買ってもいいキャップは、実際そこいらの百貨店でも大型店でもまずないのだ。
 世の中一般にも、おじさんの帽子といえばキャップというのは多いようで、みんななんの抵抗もないらしい。ロゴマークつきのキャップは、おじさんスタイルでは定番なのである。また、おばさんの帽子も、この頃ずいぶん増えているようだ。これも、少し前までは主流とは言えなかったはずだが…。
 それで、前々から非常に気になっていることがある。テレビでたまに公開録画などの映像で客席が映ることがあるが、このときに帽子をかぶったままで座っている中高年のおじさんおばさんが、やたら多いのだ。
 だいたい常識としては、帽子は戸外でかぶるもので、室内ではぬぐものである。少なくとも、でんでんむしの常識ではそうだ。近頃の狭小住宅に慣れている人にはわからないだろうが、かつての家や部屋では、入ったとこに“帽子掛け”というものがあったくらいだ。(西洋のエチケットでは、婦人の帽子はこの例外が認められているものがある、というようなこともうろ覚えだが。)
 たまたま、数日前の新聞の投書欄に、でんでんむしと同じ常識を持ち合わせている人からの投書が載っていた。趣旨はまったく同じ。投書者は、なぜ主催者は館内放送で事前に帽子は脱ぐように言わないだろうのか、と指摘していたが、同感である。
 ひと昔かふた昔の映像でちょっと見たところでは、館内座席で帽子をかぶっている人はほとんどいなかったはずだ。どうして、こういう常識はずれのバカな中高年おじさんやおばさんが増殖してしまったのかねえ。ほんとに嘆かわしいことだ。(2016/11補足:中高年に人気のさるBSの歌番組の公開コンサートの放映があった。それをみると、これまでとは客席の様子が一変して、帽子をかぶっている人がひとりもいない。これまではたくさんいたのだ。やはり、あの投書のおかげで、やっと気がついた主催者側が、ちゃんと注意をしたものと思える。)
takefusabae-1.jpg
 最初にお断りしたように、実際の行動順とは異なり、ブログの掲載順は琵琶湖から北陸線で北上し、越前海岸を南下しつつ岬を拾っていく。
 実際の行動では行程の終わりの2日になるが、武生まで行ってそこからかれい崎まで往復し、武生から鯖江に向かった。
 岩崎ちひろが生まれた街という武生は、蔵の並んだ一角を保存していて、ほー昔の武生の街はこんなだったんだ、と感激する。いっぽう、市役所の近所ではこんなものも…。確かに、こういう時代もあったよね。
takefusabae-11.jpg
 いわさきちひろとその絵を知ったのは、1960年の「わたしは赤ちゃん」(松田道雄・岩波新書)を読んだときだった。その少し前から、彼女は福音館の「こどものとも」で作品を発表していたが、その頃はまだその読者ではなかったのだ。
 JRの武生駅と福井鉄道の越前武生駅は、微妙な距離を残して離れていて、その間にまるまる平和堂というスーパーとその駐車場を長細く挟んでいる。takefusabae-2.jpg
 福井鉄道に乗って鯖江まで行き、そこで西鯖江の駅のそばのホテルに一泊したのは、最終日早朝に福井鉄道で神明駅まで行き、そこからバスで織田に行く必要があったからで、できるだけ神明まで近寄っておきたかった。
takefusabae-10.jpg
 やってきた鯖江は、メガネの街という触れ込みが有名で、そのことだけは知っていた。なるほど、大きなメガネの会社も見かけたし、中心街のアーケードにもそれをデザインしている。また、つつじもシンボルになっているようだ。
takefusabae-4.jpg
 この鯖江の通り、車が片側だけに駐車している。日を決めて、駐車できる側をどちらか一方に決めているからだ。なるほどね。
 政治にもバランスが必要だが、かねてから右翼の御用メディアの常連で、日本会議にも関わり彼ら右派の代弁をし、靖国参拝を盛り上げ率先してリードしてきたメガネのおばさんは、どうやらこのへんが地盤らしい。波長が合うらしいアベ内閣改造で右大臣になったが、メガネを常用しているのは地元産業のPRを兼ねたダテメガネなのだと、新聞の新大臣紹介にはあった。
 大きなお寺も多く、その前の駐車場に停めてあった車にはびっくり! こんなんがあったんだ。クルマには縁がないから知らなかったよ。(でも、この岬めぐりから帰って数日して、近くの町で色も同じこのメガネクルマを見かけた。)
takefusabae-3.jpg
 武生も鯖江も、だいぶ内陸の盆地(福井平野)に開けた町である。北陸本線の武生駅からかれい崎までは西南西に16キロ離れている。同様に、福井鉄道の神明駅から真西には、直線で21キロの距離があるのだ。
 そして、この南北二本の線の間にあるのが、福井県丹生郡越前町で、その中心は標高100メートルほどにある小さな盆地、そこが織田(おた)なのだ。
 ここらも、バスの便は非常に悪い。神明から織田の便も少ないので、早起きして電車に乗るが、織田までやってきても、そこで2時間も待たされる。
 が、ほかに交通機関はないので、とにかくバス。
takefusabae-5.jpg
 国道365号線にある織田バスターミナルと織田病院を結んで、結構複雑に路線が入り交じっているらしいが、ほかは無視して、とにかく平日しか運行しなくて本数も少ない越前地区巡回ルートの左右(そう)行きのコミュニティバスを待つ間、町の中心にある劔神社へ。神社への通りには“駅前通り”とあったが、ということは、ここにも昔は鉄道があった?
 やっぱりね。大正12年開業の鯖浦線(せいほうせん・さばうらせん)が、鯖江から織田を結んで、1973(昭和48)年の全線廃止まで走っていたのだ。このバスターミナルもその名残りというわけだ。そして、ターミナル前の大道りは“信長通り”。
takefusabae-8.jpg
 ほかにすることもないのでゆっくり参拝もし、いつもは無視するおみくじまで引いてしまった。100円を入れて丸い穴に手を入れて勝手に取れというタイプだが、ここのおみくじには少々がっかり。吉か凶かの内容(それもなかったが)にではなく、おみくじそのものがどこかで印刷して全国の神社に売り込んでいるかのようなもので、劔神社ならでは感や、そこはかとないありがたみがどこにもない。
takefusabae-7.jpg
 実は織田家の発祥の地がこの織田で、 劔神社も神官などをしていたその勢力によって守られてきたらしい。バスターミナルの角には、信長の銅像も立っていたが、ご本人はあまりこことも直接縁はなかったはずだろう。
 ところで、おみくじやお賽銭の一部は、やっぱり日本会議の活動費に回るんでしょうかね。
takefusabae-6.jpg
 越前岬へ行く越前地区巡回ルートのバスに乗りそこねた件は、どうしたかって? よく覚えていましたねぇ。
 そうそう、そのバスはね、越前岬の北の左右(そう)行きのコミュニティバスのことなんだけど、なんかばかばかしくて恥ずかしくて、詳しく書く気にもなれない。
 だが、コミュニティバスもいろいろあって、いろいろなところで乗っているが、ちょっとしたサービスや気遣いや、乗る人のためを思うという点で、ここ越前町のコミュニティバスはフレンドリーどころかまるでなっていない、最低だということだけは書いておこう。
 行き先表示も「織田病院行き」になっているから、旅行者はまさかそのバスだとは思わない。しかも「織田病院行き」が何台もほぼ同時にターミナルに並ぶ。運転手はそこに立っている客に一声かけるでもなく、降りてタバコを吸いながら携帯でなにやらトラックを借りる相談をすると、空車のまま行ってしまった。その後には、もういくら待っても左右行きはやってこなかった…。
 2時間待ったあげくが、コレだよ! シンジラレナイ  (`ヘ´))?
 これは、でんでんむしの岬めぐり史上、最低最悪の大チョンボ!として記録と記憶に残るだろう。
takefusabae-9.jpg

▼国土地理院 「地理院地図」
35度29分57.56秒 136度10分32.09秒
takefusabaeM-1.jpg
dendenmushi.gif北越地方(2016/07/19〜20 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ

タグ:福井県
きた!みた!印(39)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:地域

番外:やっぱりこっちのほうは鬼門だった(滋賀県・福井県)琵琶湖・越前海岸・敦賀・三方の岬めぐりはパプニングだらけ [番外]

shinkansen-3.jpg
 ひさしぶりの東海道新幹線である。通常は「のぞみ」に乗るときは、横須賀線で品川まで行ってそこで新幹線に乗り換えるのがいちばん便利なのだが、今回は「ひかり」なのでこの場合は東海道線で小田原まで行き、そこから新幹線に乗り換える。
 ウエザーマップの予報を眺めながら、出発日を選んでいたが、計画を決めて予約をとったとたんにまた予報が変化して、傘のマークが大きくなった。
 梅雨の合間をぬっての計画だから、しょうがない。今回は途中敦賀付近では雨の中に突っ込んでいくことも、覚悟して出かけることになった。おまけに「海の日」を含む三連休の只中。当然、いつもはこんなときは避けて計画するのだが、今回は“日曜祝日のみ運行”というバスに乗るためもあり、また片やでは“平日のみ運行”というバスにもうまくからめた計画にする必要があった。また、世間が夏休みモードに入る前に、済ませておきたかった。
 おかげで、JRのみどりの窓口に並んだときには、連休初日の下り東海道新幹線「ひかり」の指定席は満席。窓口のおねえさんがグリーン車なら空いているというのでそれにした。後へずらすことは計画上できないから、やむを得ない。横須賀線のグリーン車には今でもたまに乗るが、新幹線のグリーン車は会社の金で東京=新大阪間を往復していたとき以来、これもひさしぶりである。
shinkansen-2.jpg
 新幹線のことについては、以前にも書いていたことがある。
 また、窓の位置など車内設計についてもどこかで書いたような記憶があるが、どこで書いたか探し出せない。(So-netブログの“検索”はほとんど役に立たない。というのは言い過ぎか。たまには役に立つことも)ま、そんなことはどうでもよいか。
shinkansen-1.jpg
 今回の計画は、琵琶湖と越前から敦賀・三方にかけての岬めぐりである。実際の行動は、京都→大津京→近江塩津→木ノ本→敦賀→三方→敦賀→武生→越前町→鯖江→織田→越前町→武生→米原→小田原というふうになる。
 が、ブログ掲載順はまず湖西線の岬めぐりから始め(これは実際行動順通り)越前海岸を下って敦賀湾岸をめぐり、続いて美浜湾、そして三方の常神半島の先端までという順序で項目は並べることにする。
 琵琶湖は、これも不思議だが、岬と名のある出っ張りは、西岸と北岸にしかない。以前もついでに湖北の岬を…と思ってみごとに失敗した経験がある。越前海岸は、越前岬(「005 越前岬=丹生郡越前町血ヶ平(福井県)生きる勇気が湧いてくる?ような屹立する岸壁が…」)までは済んでいるが、ここは再訪してみたい。
 若狭路の岬めぐりは、「579 黒崎=小浜市田烏(福井県)常神半島をバックにここにはあのう〜トンネルの物語もあったんですよ」まではアップ済みなので、このときには見えなかった獅子ヶ崎を常神半島側からおさえておけば、日本海沿岸は龍飛から京都府の経ヶ岬までつながることになる。
 それが、このミッションの使命である。…とカッコつけてはみたが、この岬めぐりでは、なかなか計画通りにいかないでカッコよくないハプニング(というより誤算?)が続出した。それを実際行動順にあげてみるとたとえば…。
 ① 近江塩津から木ノ本へ行くはずの湖国バスが、途中で打ち切りになっていて、道の駅で次の便まで1時間以上待たされることになった。
 ② そのうえ、このバスが肝心の藤ヶ崎を回らず、藤ヶ崎トンネルを抜けるルートを通ってしまった。
 ③ おかげで、予定より遅く木ノ本駅から敦賀行きの電車を待っているときに、ホームのベンチに帽子を置き忘れてきてしまった。
 ④ 三方から常神へ行く若狭町営バスの“日曜祝日運行”の便が、行ってみるとなくなっている。(4月からダイヤ改正しているという)これでまた3時間以上の待ちに。雨だけは予報通り。
 ⑤ 雨と悪路で常神岬が見える峠まで行けず。おまけに常神から帰りのバスが、事前の調査した時刻と違っていて、またここで雨の中なんと3時間20分待ち。
 ⑥ ハプニングにはよいこともあって、敦賀コミュニティバスの常宮線が夏季臨時増便になっていたので、立石岬まで行く余裕ができた。
 ⑦ …と思ったら、立石岬までの道は崖崩れで通行止めになっていて、結局行けなかった。
 ⑧ 最終日織田から越前岬へ行く、越前地区巡回ルートのバスに、あろうことか乗りそこねてしまい、「越前岬2」は計画倒れになってしまった。
 …といった具合に盛りだくさんで、これ以外に計画したとおりに車窓からはうまく岬が見えないというのもあったりして、さんざんの結果となった。
 ①と④⑤は、6月の計画時点でネット情報により確認した運行ダイヤが、いずれも4月から改変されていたらしく、ネット情報の修正がうまく機能していないという現実を明らかにしてくれた。つまりネットの時刻表などは改正があっても修正や置換えをせず、まったく平気で古い時刻表を放置したままなので、信用してはならないということ。これはこれまでも何度か体験したことがあったが、いよいよもってこの体験を教訓にし、計画のデータを見直さなければならない。
 最後はなんとか、計画通り「しらさぎ60」(下の写真は金沢へ行く「サンダーバード」)で武生から米原まで出て、米原からまた「ひかり」で帰ってきたが、やっぱりこっちの方角は(京阪からみると東北)鬼門であったか。
shinkansen-4.jpg

▼国土地理院 「地理院地図」
35度25分13.41秒 136度0分33.73秒
biwakoetizenM-1.jpg
dendenmushi.gif近畿・北越地方(2016/07/16〜20 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ
きた!みた!印(44)  コメント(0)  トラックバック(1) 
共通テーマ:地域

番外:東海汽船「橘丸」=三宅島から竹芝桟橋へ(東京都)三代目の柳原良平カラーリングは正直言ってちょっと?だが… [番外]

tachibanamaru-9.jpg
 東京生まれ東京育ちの友人が、昔学校の修学旅行か何かで大島へ行ったときに乗った船の名が「橘丸」であったという。船の名も襲名されることもある(漁船などは“第八十三なんとか丸”のように番号だけ変えるのが多い)ようで、この現在の「橘丸」は三代目にあたるらしい。
tachibanamaru-12.jpg
 東海汽船の前身である東京湾汽船が、大正時代に建造して運航していた小型貨客船を一代目として、その友人が修学旅行か何かで乗ったのは二代目の「橘丸」で、戦後に徴用を解かれて東京湾に戻ってきて、大島航路に復帰していた頃のことらしい。
tachibanamaru-2.jpg
 三代目は、2014年6月就航を開始、総トン数は5,700トン、先年亡くなった柳原良平(当時東海汽船名誉船長)の選定で「橘丸」と命名され、船体のカラーリング(黄土色とオリーブ色と公式にはいう)も柳原が手がけたといわれている。
tachibanamaru-3.jpg
 それまでの東海汽船のフラグシップであった「かめりあ丸」(3,715トン)などに代替するものだった。「かめりあ丸」は伊豆諸島の神津島や新島などへ行ったときに乗っているが、白を基調とした船体はもうかなり老朽化していた。(この時の写真と、柳原良平のことなどについてはこちら↓に書いている。
tachibanamaru-4.jpg
 しかし、最初にこの船(三代目「橘丸」)の写真を東海汽船のサイトで見たときには、ヘンな色だなあ、それに斜めのラインが大型船にはどうもうまくマッチしていない。ほんとに柳原良平がこれに決めたのか?と思ったくらいだった。
 ヘンなカラーリングだと思う人は、やっぱりでんでんむしのほかにもいて、なぜかと質問をしたりしているが、単に先代のを踏襲したという情報は、個人からのものであったし、先代のがどうだったかもよくわからない。なぜか東海汽船もこの問題については、どうもすっきりした答えを用意してはいないようで、積極的な説明はない。tachibanamaru-6.jpg
 電気推進船(スーパーエコシップ=SES)」の新造船の名を、三代目となる「橘丸」とすることについても、反対の声があったようだ。それは、戦争中の“橘丸事件”の悪いイメージを引っ張りだすまでもないという理由からだった。確かに、命名もそれまでの「かめりあ丸」「さるびあ丸」「かとれあ丸」「ふりいじあ丸「すとれちあ丸」などと続いてきた花の名前路線から、大きく変更した復古調である。tachibanamaru-7.jpg
 これも柳原指示なのか? そうだとすれば、二代目の因縁を承知であえてその名を三代目に襲名させた理由は、いったいどの辺にあったのだろう。
 二代目は、当時の船舶が等しく辿った悲しい有為転変を経ていた。軍に徴用されて輸送船になったり、病院船になったりしていたが、事件は1945(昭和20)年それも8月3日のことである。モルッカ諸島周辺で南方戦線からの兵員の後退輸送にあたって、陸軍が病院船「橘丸」に偽名を付し、“1,562名の将兵たちが白衣を着て患者を装い、軍服や各種武器等は赤十字社の標章を付して梱包し”(wikipediaによる)て偽装して部隊・武器を輸送を計画し実行する。だが、それは国際法違反であり、出港後すぐに偵察機に捉えられて米軍の臨検にあい、拿捕されてしまう。陸軍史上最多の捕虜を出した、と記録されることになった、というのが“橘丸事件”だ。
 それでも、「橘丸」そのものは、パラオからウェーク島に回航、ウェーク島からは復員兵の第一陣700名を乗せて10月20日に浦賀に帰投したという。そして、戦後は大島航路の花形にもなり、1962(昭和37)年8月24日の三宅島噴火には避難民輸送に従事するが、後輩の新造船「かとれあ丸」や「さるびあ丸(初代)」の就航とともに、押しだされるようにして第一線から退き引退した。
tachibanamaru-10.jpg
  まったく理解不能だが、三代目に採用されているSESという推進システムは、“ディーゼル主機関直結のプロペラと電気駆動のポッド推進器を組み合わせたタンデムハイブリッド方式”、なのだそうだ。その全長は118メートル、旅客定員は約1,000名であるという。貨客船であることは他の僚船と同じで、これは主に伊豆諸島の航路に従事するということの特殊性から、自ずから決まってしまう。貨物と旅客の両方を同時にのせていくのだが、いわゆるフェリーではない。だから自家用車は載せられない。じゃぁ、貨物で運ぶのかねぇ。ま、でんでんむしには関係がないので深く追求しない。
tachibanamarusennai-11.jpg
 貨客船の特徴は、前方部にクレーンを備え付けていることで、各島々の岸壁に寄港すると、早業でコンテナを降ろしまた積んでいく。
 その間に、左舷のドアが開き、タラップが付けられ、乗客が降りていきまた乗ってくる。乗船するとそれぞれの選んだ船室に散っていくが、今回は昼間の長い航海になるので、特1等12,920円也(シルバー割・夏料金はもっと割高になる)をはりこんだ。受付でなぜか部屋番号を515番から517番に変更された。
tachibanamarusennai-4.jpg
tachibanamarusennai-7.jpg
 特1等というのは、二段ベッドが左右にあり、その奥の窓に向かってテーブルに座椅子、一方の壁にはテレビが取り付けられていて、その反対側はロッカーと冷蔵庫(ミネラルウオーターが2本入っていたので1本いただいた)、給茶セットなどがある。ビジネスホテルみたいなもんだが、見知らぬ他人と4人(あるいは2人でも)でこの部屋を長時間に渡って共有するというのは、(相手によることはもちろん)はたしてどんなもんだろうね。
tachibanamarusennai-13.jpg
tachibanamarusennai-2.jpg
 幸い、でんでんむしの部屋は相客はおらず、三宅島から竹芝桟橋に着くまでの6時間、ずっと一人だけの時間を独房で過ごしてサイコーだった。部屋の番号を変えたのは、余裕があるので相部屋にしないようにするためだったのかも…。
tachibanamarusennai-8.jpg
 えらく時間がかかるのは、東京湾に入るところからは徐行運転のようにスピードを落とすからで、三浦半島が見えてからアクアラインの吸排気塔を回りこんでレインボウブリッジをくぐるまでの2時間以上が、ものすごく長いように感じる。
 東海汽船の八丈島・御蔵島・三宅島を結ぶ航路は、通常の帰路は三宅島から竹芝桟橋まで直行するが、夏の間は特別に大島に寄港することになっている。しかも、大島からは東京行きの高速ジェット船に乗換えが可能らしい。
 うーん、この長さを考えると、きっと乗り換えたくなるだろうね。
tachibanamarusennai-15.jpg

▼国土地理院 「地理院地図」
34度5分11.15秒 139度31分36.70秒
miyakejimaizuM-1.jpg
dendenmushi.gif関東地方(2016/05/20 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ
タグ:東京都
きた!みた!印(38)  コメント(0)  トラックバック(1) 
共通テーマ:地域

番外:大路池=三宅村坪田(東京都)なかなか簡単にはま〜るく収まらないま〜るいマールのことなど… [番外]

tairoike-6.jpg
 専門家の説明がシロウトにわかりにくい原因のひとつは、専門用語をいとも気軽に振り回し、それですべてが済んだかのような終わり方をするからである。専門家同士ならそれでもかまわないのだろう。また、同時にいろんな専門用語表現を使い分けるのかどうか知らないが、あっちの説明とこっちの説明で違う用語を平気で使ってフォローしないということがよくある。これがシロウトを惑わせる。
tairoike-5.jpg
 たとえば、大路池についても「約2500年前に出来た火口湖」という説明があり、また「マグマ水蒸気爆発で生じた円形の火口の周囲に少量の火砕サージ堆積物の低い環状の丘を形成したマール」という説明もがあるかと思えば、「爆裂火口」であるともいう。こうなると、火口とマールと爆裂火口は同じなんですかい違うんですかいと聞きたくなるが、そういうことは非常に多い。
 まず、「火口」とは「火口はマグマや熱泥や温泉水が、地下深部から上昇してきて地表を突き破ることで形成される」そうなので、水蒸気爆発でできるものも火口と言ってもいいらしい。したがって、大路池を火口湖と言うのには差し支えがないわけだ。
 次に「爆裂火口」とはなにか。火山の爆発でできる火口だが火砕丘をもたず、地面がえぐれたような凹みになるというので、そうすると火砕丘があるマールはそうではないことになるが、別の説明ではマールもその一種だという。こうなるとわけがわからん。しかも、火砕丘があるかないも、けっこう微妙だし…。
 しかもマールの説明の中で「火砕サージ」といわれると、それがまたわからない。雲仙普賢岳以降一般用語化した「火砕流」とはちょっと異なっていて、火山ガスの比率が高く、高速でなぎ払うように移動する現象だそうだ。その動きが水蒸気爆発火口の周辺をなぎ払うことで、周囲に円形の縁ができる、ということなのか。
tairoike-8.jpg
 この三宅島南部にはいくつものマールがあると書いていたのだが、マールには水がある場合もない場合もある。大路池には、その丸い凹みの南側に偏っていはいるが、水を湛えている。そのすぐ下の都道北側にも地理院地図でははっきりと水のないマールが描かれており、大路池の北東、坪田集落よりには大路池に匹敵するくらいの大きさのマール地形がある。そこも池ではないが、輪の中には小さな池と水流があり、道があり畑があり、都道に接するところには都立三宅高校がある。
tairoike-7.jpg
 おやおや、ここにきてwikipediaの“三宅島”の項には、こんな記述があるのを発見した。
 
 「…海岸付近ではマグマが海水と接して発生するマグマ水蒸気爆発による爆裂火口地形(マール)がいくつも見られる。大路(たいろ)池がある古澪(ふるみお)、新澪(しんみお)池跡、三宅高校のある八重間などもマールの例である。新しい溶岩が海岸に達しなかった場所は切り立った海食崖が続いている。
 
 なるほど、三宅高校のところは、八重間という名があるんだ。おおっ、それに「1388 新鼻」の項で、古澪について問題提起していたが、「古澪」もやっぱりちゃんとあったんじゃないか!
 しかも、その場所を「大路(たいろ)池がある古澪(ふるみお)」と特定している。この記述によると、古澪の上や隣に新澪ができたんじゃなくて、古澪からはまったく離れた別の場所であるところ(ここからは東に2キロ以上離れている)に新澪はできた、ということになるわけだ。
 さらにうろうろしていると、どうやらこの wikipediaの元ネタになっている(逆ってことはないよね)らしい「日本の活火山」サイトのなかにある「三宅島火山地質図」の解説にも、「海岸近くのマグマ水蒸気爆発で開いたマール (爆裂火口)を数多く見ることができる.大路[たいろ]池のある古澪[ふるみお],1763年に形成された新澪[しんみお]池(跡)などはこのようなマールの例である.」との記述があるのを確認した。
tairoike-12.jpg
 しかし、それは具体的にどこだ、ここだよとはっきり書いてくれないもんかねえ。案外、大路池と都道の間にある小さなマールがそれなのかも…?
 いやいや、まてよ。もう一度説明を読んでみよう。ここではwikipediaもその元ネタも「大路(たいろ)池が(の)ある古澪(ふるみお)」をひとつのマールと勘定しているわけだから、ということは、「大路池=(or ≒ )古澪」ってことになるんですか?
 これは大発見だ。しかし、まてまて、もうしばし…。
 そうであるならば、古澪の存在やそれが大路池という名になる経緯など、もう少しれっきとした由来説明があってもよさそうなものだが…。どこにもないんだね、これが。だから、なかなかすっきりとまあるく収まらない。
tairoike-1.jpg
 バス停を降りて、広い道を上りながら深い森のなかに入っていくと、道はまた急な下りの階段上になる。つまり火砕サージでできた縁の内側に入ったわけだ。
tairoike-3.jpg
 桟橋に立って正面をみると、丸くはなく左奥が少し奥深くなったような水面が左右に広がる。この水面は、マールの南半分にも満たない。北は緩い斜面になって、サージの縁に達し、そのまま真北にある雄山火口へと続いていく。
tairoike-10.jpg
 ああ、そういえば、マールのことを最初に書いたのは、男鹿半島だった。ここでもいろいろ書いているので、参照してくだされ。
 ま、いずれにしても、知りたがり屋シロウトの駄文に過ぎませんがね。
tairoike-4.jpgtairoike-11.jpg

▼国土地理院 「地理院地図」
34度3分15.72秒 139度31分33.45秒
tairoikeM-1.jpg
dendenmushi.gif関東地方(2016/05/20 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ
きた!みた!印(35)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:地域

番外:新澪池跡=三宅村阿古(東京都)池が池でなくなったときそれが問題だと思うのはでんでんむしくらいのものなのか [番外]

shinmyouike-12.jpg
 新澪(しんみょう)池跡には、バス停のほか休憩スペースやトイレ、それに駐車場があるので、おそらく薄木から坪田までの間を走る車にとっては、重要なポイントになるのだろう。駐車している車も1台、また後から1台増えたが、どうやらいずれも釣り人の車らしい。
shinmyouike-4.jpg
 ここでは、新澪(しんみょう)池跡の“跡”もポイントである。つまり、かつては池だったものが、今はそうではなくなっているということだ。
 まず、このあたりで池といえば、火口に水が溜まってできる火口湖であると考えられるが、それはいつできたのだろう。気象庁の「三宅島噴火の歴史」では、
 1763年 宝暦13年 雄山山頂噴火、阿古村薄木でも噴火。約6年間
 と一行記されているだけだが、地質調査総合センターと産業技術総合研究所のサイト「日本の活火山」によると、宝暦の噴火についても詳しく書かれている。
 
 1763年8月17日(宝暦十三年七月九日)夜より鳴動が頻繁にあり,雄山の山頂から赤熱の岩片が稲妻のように飛んだ.翌日から鳴動,地震が頻発する中,薄木からも噴火が始まった.阿古,坪田両村にはスコリアや火山灰が多量に降り,伊豆,神着にも降灰があった.薄木には深い火口が形成され,水が湧いて池となった.この火口が新澪池であると伝えられている.噴火は1769年(明和六年)まで続いた.噴火をもたらした割れ目火口列は3条の割れ目の中央にあたる.スコリアは南東山麓にかけて厚く降下した.薄木周辺ではこれを覆って爆発角礫岩が堆積した.また,新澪池北方の小火口からは薄木へ溶岩が流れ下った.この噴火を期に阿古住民は東山から再び現在の地へ移村したという.
 
 ここでのポイントは、次の三点。
 ・この火口が新澪池であると「伝えられている」こと。(つまり伝聞である)
 ・このときの噴火は1769年(明和六年)まで「6年間も続いた」こと。(それだけ長い間にはいろいろあるだろうから、池くらいできてもおかしくない)
 ・阿古住民は東山から「再び移村した」こと。(その前1643年の噴火で東山に移ったばかりだ)
 現在の国土地理院の地理院地図でも、阿古の表示範囲が広い。当然、薄木も粟辺も、まだ阿古なので、東の坪田との境界線はどこになるのだろうと、実は疑問に思って探っていた。すると、ここから東に1.1キロ先の、カール状の谷(割れ目噴火? ではないな整然とし過ぎているから)が海岸にまで続いているところまでが阿古だった。
 現在の阿古の中心は港の北だが、そこからこの辺まで、何度か阿古の集落が移村を繰り返していたために阿古の領域ができたとも考えられる。
 新澪池は、なかなかきれいな池だったらしく、それを伝える記述は、さまざまにあるようだ。
shinmyouike-6.jpg
 が、問題はこの池が池でなくなったことである。1983年の噴火で水がなくなったと言われているが、それも経過を見たものはいないらしい。前項であげた新山の記録でも、新澪池爆発とはあるだけで、いつ水がなくなったのか、はっきり明記したものは見当たらなかった。
 爆発と同時に抜けたのか、それからしばらくしてだんだんに減っていったのか、何日かして行ってみたら水がなくなっていたということなのか、それもわからないのだ。(そんなこたあどーでもええんじゃ! とにかく水はヌケたんじゃ!) 
shinmyouike-5.jpg
 それにしても宝暦年間とは時代が違う昭和なんだからもうちょっと…と思っていたら、「ジオスポット」の説明には、「新澪池は一瞬にして干上がり…」とあった。そうなのか!?
 “一瞬にして干上が”るって?…。その状況が、どうもうまく想像できないのだ。
shinmyouike-7.jpg
 前出(前項参照)の『地質ニュース』では、噴火翌日の調査レポートとして、次のように書いていた。
 
 新澪池は地形図のそれとは様相を一変させていました。以前からあった池の隣りに径200mほどの窪地が生じ、その北に火砕丘が生じています。火砕丘の中の割れ目からは、白煙がモウモウと立ち上がり、周囲には白色から黄白色の昇華物が付着しています。(写真8)
nippanashinmyoP-1.jpg
 
 その「写真8」というのが、右の写真(左の白いのが火口と,写真下の説明が言う)である。
 だが、この写真の下のほうには、明らかに枯れ木の向こうに池の水面とおぼしき平滑な面が広く写っている。つまり、噴火の翌日にはまだこのような状態だったことがわかる。となると、「ジオスポット」の説明が言う“一瞬”とは、いったいいつのことなのだろうか。
 新澪池の爆発火口は、現在の火口跡の北西側にできた。その跡は凹みになっているのがわかる。また、南側は高い崖になっていてなかなか深い池だったようだ。これが湧き水でできていた。
shinmyouike-8.jpg
 ここの爆発も新鼻新山の爆発も、同じ水蒸気爆発によるものであったが、池だったところの中の地形は複雑で、爆発も単純ではなかったようだ。マグマが水と接触して起こる同じ水蒸気爆発でも、そのときのマグマと水の状況によって、さまざまな結果を地形に残すものらしい。
shinmyouike-9.jpg
 池の跡を眺めていると、カラスが近くまでよってきた。さっき新鼻新山にいたカラスがついてきたのだろうか。
shinmyouike-10.jpg
shinmyouike-1.jpg
 県道脇の看板は、火山ガスの注意をうながすものや、新鼻新山のロッククライミングを禁止する、打ち込んだハーケンなどを取り除くようにという警告であったりする。そういえば、新鼻新山でロッククライミングをしたと、えらく得意気に書いているブログもあったなあ。
shinmyouike-11.jpg

▼国土地理院 「地理院地図」
34度3分6.89秒 139度30分7.71秒
shinmyouikeM-1.jpg
dendenmushi.gif関東地方(2016/05/20 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ
きた!みた!印(45)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:地域

番外:鯖ヶ浜と鯖ヶ浜港=三宅村阿古(東京都)赤い今崎海岸に続くニビイロのサビガハマは「橘丸」の寄港地 [番外]

sabigahama-5.jpg
 東京芝浦の竹芝桟橋を出た船や、運よく欠航にならずにやってきた八丈島・御蔵島からの船が出入りするここは、錆ヶ浜港(さびがはまこう)。
sabigahama-10.jpg
 全島避難が解除になって以来、三宅島の玄関口の役目を果たしてきている、島の西側にあるこの港は、もともとはサブの扱いで、東側の三池港が使えないときに西のここに接岸するだけであったようだ。
 どういう影響があったのか、説明が見当たらないので、詳しい理由は不明ながら、2000年噴火以降、東の三池港は使えなくなっている。だから、「橘丸」ももっぱらこっちへ着く。もうひとつ、伊豆岬と今崎の間に、伊ヶ谷港(いがやこう)という港もあるが、これが今のサブになっている。
sabigahama-6.jpg
 しかし、ここはなぜ“サビ”なのだろう。魚偏なら“サバ”かとも思ったが、沿岸から遠い伊豆諸島ではサバもあまり聞かないし、金偏の“鉄のサビ”が浜の名につく理由も思いつかない。
 伊豆大島などでよく食べられている白身魚に、“サビ”(クロシビカマス)という魚があるので、その名からきた名前なのか。いずれにしても“サバ”ではないらしいし、第一魚偏ではない。港の北に続く黒っぽい浜の名も錆ヶ浜。ここは港よりも、浜の名のほうが先にあったと考えるべきだろう。
sabigahama-9.jpg
 鯖ヶ浜港は、阿古漁港の北側に突き出た岸壁のことで、東海汽船の大型の貨客船「橘丸」が、毎日早朝に東京からやってきて、お昼すぎには八丈島・御蔵島からの折り返し便が着き、また人と荷物を積んで、そそくさと出て行く。今のところは、それだけのために存在する港である。こういう大型船の接岸する岸壁には、かなりの幅も長さも必要になるので、小型船のように港の防波堤と灯台をくぐって港内に入るというようなことはない。
 外海に面した防波堤のような岸壁が、船が接岸するところなのだ。 
sabigahama-11.jpg
 こういう場合は、入港する船はアタマから入ってきて岸壁の前で反転し、船首を海に向けて接岸するのが決まりである。
 でんでんむしが帰るときに乗った便は、八丈島から出たものの、御蔵島への寄港はできなかった。そんなアナウンスが、広い待合所の建物のなかに響いていた。が、どんな客がそれで影響を受けることになったのだろう。
 そんな埒もないことを思うのも、自分が八丈島で三宅島へ向かうはずの「橘丸」を2日間も待たされ待ちぼうけをくったばかりだからだ。
 寄港できなかった御蔵島から乗るつもりだった乗客は、乗れなくて乗っていないわけだから、八丈島から乗って御蔵島で降りるつもりの乗客が、三宅島まで連れて来られた、というケースは考えられる。
 さーて、そういう人がいたとして、どうするんだろうね。
 天候次第で、船はなかなか計画通りにはいかない。それは離島の場合は大前提で、だから東海汽船も、乗船券に予定通りに運行しないことがあるという意味の印字をして手渡したりしているわけだが…。
imasaki-1.jpg
 港の岸壁の北側を見ると、まず目に飛び込んでくるのは、赤いテーブル状の今崎海岸である。その手前からは、対照的にくすんだ灰色の海岸が伸びてきて岸壁までつながっている。
sabigahama-3.jpg
 小説家などだと、空や海の表現に「にび色(鈍色)」などと気どって表現するのを好む傾向があるが、こういう錆ヶ浜がまさしくそのにび色なのであろう。空や海ならいいけど、浜にはふさわしくないのかな。“サビ”と“ニビ”…。
 そのときに流れてきた溶岩の性質によって、赤くもなったり黒くもなったりするが、錆ヶ浜に切断面を晒している部分的に礫の層も含む地層もにび色であった。sabigahama-1.jpg
 今崎海岸の項がいっぱいになってしまったので、書き切れずに残っていたのは三本岩。大野原島(三本嶽)と地理院地図で表記されている岩島は、錆ヶ浜からは西南西に9.2キロの距離にある。ここも、海底火山の噴火で生じた島だろうが、もちろん無人島。
imasaki-10.jpg
 だが、遠くの海にはかなげに蜃気楼のように浮かんでいるこの岩島は、今の三宅島、とくに阿古地区の漁師さんなどにとっては、その存在感ははっきりとしていて、生活と密接に結びつくほど重要である。
 阿古の民宿に電話したときにも、いちばんに「釣りですか?」と聞かれたくらいで、外来の観光客のうちに占める遊漁客の比率がどのくらいかはわからないが、相当なものではないか。民宿の多くは、そういう客を相手にしており、自前で、あるいは提携で、遊漁船を用意して待っている。
imasaki-2.jpg
 そして、その船が向かう漁場の主だったところが三本岩。大きいのは確かに三本だが、そのほかに十指に数えられるほどの小さな岩島が集まっている。釣はしなくても、そういうところに行ってみるのもおもしろそうだ。けどね、ここには岬はないから行かなくてもいいんだ。
sabigahama-7.jpg

▼国土地理院 「地理院地図」
34度4分10.11秒 139度28分50.31秒
sabigahamaM-1.jpg
sabigahamaM-2.jpg
dendenmushi.gif関東地方(2016/05/19〜20 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ
きた!みた!印(44)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:地域

番外:火山体験遊歩道=三宅村阿古(東京都)1983(昭和58)年10月の噴火で島の中心だった旧阿古集落は呑み込まれた [番外]

taikenyuuhodou-1.jpg
 このあたりはもういちいち地図を見ないで、頭のなかの地図だけを頼りにふらふらと歩き回ったので、行動が計画的でなくなってしまった。夕景浜からの始発バスの時間に遅れては大変だ。早朝ぶらぶら散歩のつもりが、時間配分を誤って、遊歩道のなかをすべて回り切ることはできなかった。
 赤い黒い溶岩が冷えて固まるまでのように、時間が多くのものを変えていく。おそろしくつらいかなしい経験の跡に、“遊歩”という文字を当てはめても、誰もさほどに違和感を覚えないのだろう。
taikenyuuhodou-2.jpg
 1983(昭和58)年10月3日の2時頃から、測候所の地震計に前駆的微動が記録され始め、15時23分頃に雄山南西山腹二男山付近に生じた割れ目から噴火が始まった。
 この割れ目噴火で噴出した溶岩流が、南西側に流れ出した先には、当時の島の中心であった阿古地区には、520世帯1300の人々とその家が固まっていた。そこは観光と漁業の中心地でもあり、温泉も湧いていた。そのため、阿古温泉郷とまで言われて繁栄していた。
taikenyuuhodou-4.jpg
 溶岩流は、その集落を襲い、町並みをすべて飲み込んでしまったが、このときは、日本で初めてという流れる溶岩流に放水して冷却させる試みも行なわれ、海に落ちる寸前で流れは止まったようだ。人的被害はなかったが、噴火が昼間だったこと、ちょうどその1か月ちょっと前に防災訓練を実施したばかりだったこともあって、住民関係者が沈着冷静な行動をとれたため、と言われている。
taikenyuuhodou-5.jpg
 溶岩流や火山灰等の噴出物総量は、国土地理院の測定では計2000万トンに達し、噴火前後に発生した101回の有感地震のなかで最大のものは、3日のマグニチュード6.2、震度5であった。
taikenyuuhodou-7.jpg
 火山体験遊歩道は、その溶岩流の西側の一部の上に設けられている。
 その案内板によれば、阿古地区の人々が避難する最終バスが出た10分後に、溶岩流が集落を呑み込んでいったという。その後も残っていた消防団や警察や医療関係者は、道路が遮断されたため、漁船で避難した。
 噴火後の3か月後でも、溶岩は熱を持ち続け、その上を歩くと靴底のゴムが溶けた。
taikenyuuhodou-9.jpg
 火山体験遊歩道ができたのがいつか、はっきりとした記録が三宅村の情報にも見つからないのだが、2000年の全島避難が解除になって、帰島がかなった後で、島の復興再生を図る事業の一環として、溶岩流の上に木道を設けるなど整備されたものらしい。
taikenyuuhodou-10.jpg
 遊歩道の西の端に、溶岩と草に埋もれるようにして、コンクリートの四角い建物が二棟ある。これが阿古小学校と阿古中学校の跡である。その間には溶岩樹型も残されているらしいが、そこまでは行っていない。急いで行けば充分行けたのだけど、なんかねどうでもよくなってしまって…。(これも老化現象でしょうか)
taikenyuuhodou-11.jpg
 この遊歩道の東、夕景浜から一周道路へ出たところ付近は鉄砲場と呼ばれているが、ここにも溶岩流に埋まった自動車などがあるらしい。
 遊歩道の南には、三宅村役場があり、そこから道路を挟んで海寄りに下りたところに、阿古温泉郷の名残りであろうか、“ふるさとの湯”という村営の温泉施設(地熱で海水が温められた天然かけ流し)もあった。ここは、観光施設というより、どちらかといえば島の銭湯のような感じで、実際島民の人はそういう使い方をしているらしい。
 もちろん、入浴してきましたが、それはこの早朝の遊歩道とは別の行程でね。
taikenyuuhodou-12.jpg
taikenyuuhodou-13.jpg
taikenyuuhodou-8.jpg

▼国土地理院 「地理院地図」
34度4分46.46秒 139度28分49.38秒
taikenyuuhodouM-13.jpg
dendenmushi.gif関東地方(2016/05/19 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ
きた!みた!印(43)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:地域

番外:三七山・ひょうたん山・赤ばっきょう・椎取神社=三宅村坪田・神着(東京都)「ジオスポット」が連続する無人地帯を歩く [番外]

sanhitiyama-1.jpg
 三宅島は有史以来の噴火活動を続けてきている火山島だが、気象庁のサイトによると、20世紀になってから以降の噴火だけでも、1940(昭和15)年、1962(昭和37)年、1983(昭和58)年、2000(平成12)年と4回の噴火が記録されている。
sanhitiyama-2.jpg
 このうち、1940(昭和15)年は、「7月12日北東山腹より噴火、溶岩流出。14日から山頂噴火。多量の火山灰、火山弾放出。死者11名、負傷20名、牛の被害35頭、全壊・焼失家屋24棟、その他被害大」とある。
 北東山腹からの溶岩流が流れ下ったのが、サタドー岬とアノウ崎の間で、この辺りの地形や様相は、一変したのであろう。現在は、この間の溶岩流の上を島を一周する都道212号線が通り抜ける、広い大きな道路が走っているが、その沿道付近はすべて無人地帯で人家の一軒もない。
sanhitiyama-3.jpg
 この無人地帯をサタドー岬から北へ向かって歩いて行くと、三七山→ひょうたん山→赤ばっきょう→椎取神社と、「ジオスポット」が続いてある。
sanhitiyama-4.jpg
 三宅島の火山活動がつくりだした風景のなかを歩いて行くと、まず三七山というスコリア丘が現れるが、これは1962(昭和37)年の噴火活動によるものである。ガスの抜けた穴がたくさんある黒い軽石が火口付近に降り積もってできた噴火でできた丘のことを、スコリア丘という。案内板にもそう書いてあるのだが、でんでんむしにはなぜスコリアを暗黒色と限るのか、赤いのもあると思うのだが、それはスコリアではないのか、それがまだいまのところよくわからない。
sanhitiyama-5.jpg
 1962(昭和37)年となると記憶も新しく、「山頂から海岸付近まで火柱が並びました。(火のカーテン)」など、なかなかリアルな噴火状況が記されている。20もの噴火口が30時間も噴火を繰り返し、2000万トンもの噴出物を辺りに吐き出した。このときは、地震も1か月にわたって続き、学童の島外避難が実施されている。
hyoutanyama-1.jpg
 無人地帯を貫く都道はずいぶん立派になっているが、これは噴火溶岩流出も、雨のたびに火山灰の泥流や土石流で埋まったりしたために、道路の嵩上げ工事が行なわれているからだろう。
 三七山の水準点が、車道と歩道の間の柵の下に埋もれるようになっていた。すいぶんひどい扱いじゃないかとそのとき思ってシャッターを押していたが、後から考えてみれば、これも嵩上げのときに引っ張りあげてなんとか元に位置に置いたということなのだろう。あれっ! でもそうすると高さが変わってしまうよね?(現在の地理院地図では、サタドー岬の南から椎取神社の北までの間には、水準点の表記はない。)
hyoutanyama-2.jpg
 続くひょうたん山は、1940(昭和15)年に、海の中から噴火が起こって盛り上がった山だという。火山弾がそこらじゅうに散らばるひょうたん山は、なぜそう呼ぶのかもちゃんと説明があって、それによるともとは噴火口がふたつ並んでいたのだそうだ。
hyoutanyama-5.jpg
 それが、海側で海食が進み、削られて海食崖になり、ひょうたんの片方が海に呑み込まれてしまい、その北側にあった集落が壊滅した。
hyoutanyama-3.jpghyoutanyama-4.jpg
 案内板には赤ばっきょう(赤場暁)の絵が掲げられているが、昭和10年に描かれたその絵は崖に囲まれた入江の風景である。それが5年後の噴火で、すべて埋め尽くされてしまった。赤い崖がその名の起こりらしいが、人が駆け下りるものと同じくらい速さで谷を流れ下る溶岩流で入江も、当時は島で唯一の天然の良港も完全に埋められてしまう。
akabakkyo-1.jpg
akabakkyo-2.jpg
 現在、わずかに旧入江だったというところの崖は、案内板によってなんとかわかるが、残念ながら見えるところは赤くはなくて黒い。
akabakkyo-4.jpg
akabakkyo-5.jpg
 1962(昭和37)年の噴火活動でもこの付近の溶岩流は続き、都道も土石流から守るため全面的な嵩上げをしている。
shiitorijinjya-1.jpg
 溶岩流が流れた谷筋は、溶岩の誘導路として再整備されたらしい。そこを橋で越えると、椎取神社のバス停がある。
shiitorijinjya-2.jpg
 最初に神様が降ったのが、この椎取神社付近で、島の北側の地名に残る神着の言い伝えもここから始まったとみてもよいのだろうか。付近の樹叢はタブ、スダジイなどの典型的な照葉樹林帯で、神の森にふさわしいところだった。
shiitorijinjya-6.jpg
 だが、度重なる溶岩の流出と火山灰の土石流、さらには火山ガスで立ち枯れるなど、壊滅的な影響を受けた。その後は、樹叢の再生変化が少しずつ進んでいる、というのが現在の状況らしい。
shiitorijinjya-3.jpg
 ジオスポットの案内板には、神社の鳥居周辺の2000年から3年間の変化が写真で伝えられているが、その向こうに、地面から鳥居の一番上だけが、まるで丸太をそこにゴロンとおいたような姿で残っていた。
shiitorijinjya-4.jpg
shiitorijinjya-5.jpg

▼国土地理院 「地理院地図」
34度5分49.86秒 139度33分37.24秒〜34度6分27.72秒 139度33分29.29秒
hyotanyamaM-1.jpg
dendenmushi.gif関東地方(2016/05/19 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ
きた!みた!印(46)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:地域

番外:八丈島から三宅島へ=八丈町・三宅村(東京都)東京都亜熱帯区から100キロ北へ戻って… [番外]

anettai-4.jpg
 八丈島のリゾート売り出し作戦は、ハワイ並みにはいかなかったが、それでも東京都にこんな島と自然があるのは貴重なことだろう。何度か紹介してきた八丈島観光協会のガイドマップなどは、「東京都亜熱帯区」を謳っている。
anettai-3.jpg
 実際、島を歩いていると、道端にさりげなく茂っている植物が、いつもわれわれが日頃見慣れているものとはちょっと違う。ひょっとすると花卉園芸店の店先ならあるかもしれないが、それらが道端にあることはない。
anettai-7.jpg
 先に「番外:リゾートホテルの廃墟があちこちに」の項では、「緯度的には、八丈島は九州の大分・熊本・佐賀・長崎と横並びでほとんど変わらない。黒潮の影響があるとはいえ、“東洋のハワイ”にはもともとちょっとムリがあったのだろう」と書いていた。それはそれでその通りだったろうが、やはり黒潮の影響は大きく、それこそが、同じ緯度に並ぶ本土の各地とも一線を画するものであったのかもしれない。
anettai-8.jpg
 さて、これで八丈島は逆時計回りに回る輪を閉じる。と言っても、大サリヶ鼻と赤崎の間は、実際に歩いていないので、厳密には輪を閉じたとは言えないのだろう。そこのところは、飛行機からみたということで…。
anettai-9.jpg
 とにかく八丈島は終わったが、計画通りに三宅島へ渡ることができなかった。そこで、また改めて三宅島の計画を立てなければならないことになった。それも、あまり間をおかないうちに…。
anettai-6.jpg
 風向きの関係であろう。八丈島空港からいったん西へ向けて飛び立ったANA機は、すぐに反転して八丈富士、八丈小島を眺めながら、北東に進路をとる。
mikuramiyake-1.jpg
 しばらく飛ぶと、岬のない御蔵島が見えてきて、その先にぼんやりと浮かんでくる島影が三宅島である。飛行機は、そのまま北東方向へ進み房総半島の東から回りこむので、大島やその他の伊豆諸島は見えないのだ。
mikuramiyake-2.jpg
 だが、三宅島、御蔵島に比べると思ったより扁平ですね。一番高い雄山から東の海岸へは三宅島のなかでもいちばん傾斜が急なところなのだが、そこでも八丈島の西山の傾斜よりは緩いのだ。これにも理由があって、古くに火山活動を停止している御蔵島は、新たな噴火がない時代が続き、その間に海食崖が発達した。このため、島の沿岸は波浪に削り取られた断崖になっている。これに対して三宅島は、現在に至るまで活動を続けている火山島で、溶岩流の流出を繰り返し海に落ちているため、なだらかな沿岸部を形成している。
anettai-11.jpg
 というわけで、いちおうこれで三宅島にバトンタッチしたことにして…。

 1か月後、梅雨に入る前にと思って、行ってきました。今度は、竹芝桟橋から「橘丸」で船中泊、島に一泊してまた「橘丸」で竹芝に戻るという計画です。
 それでね、三宅島へ行って島を歩いて思ったんだけど、やはり八丈島とは植生がまったく違っていて、三宅島のほうはほとんど本土並みなんですね。フツーにいつも見ているような草木ばかり…。
 やっぱり、黒潮の影響は大きいし、その黒瀬川を越えて北へ100キロも戻るということは、完全に「亜熱帯区」からは圏外になる、ということでもあるようです。
mikuramiyake-3.jpg

▼国土地理院 「地理院地図」
33度7分0.66秒 139度47分24.14秒 34度5分12.43秒 139度30分55.37秒
mikuramiyakeM-1.jpg
dendenmushi.gif関東地方(2016/04/19・05/19 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ
タグ:東京都
きた!みた!印(44)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:地域

番外:“抜舟の場”から神湊へ=八丈町三根(東京都)“流人の島八丈島”が定着するのは江戸期からのことだが… [番外]

kaminato-2.jpg
 ついつい余計なことに手を出して、後で後悔することはよくある。忙しいときに限ってまた、そういう余計なことを始めてしまったりするのはなんでだろう。
 AdobeのLightroomのデータが重くなったので、過去のデータを整理していたら、どうやらまだこれからアップする予定のファイルまで消してしまったらしい。
 もともと写真はろくでもないのばかりだし、おまけにその日は船が欠航になったので足止めをくらった雨と風の日だったのだが、訪問した八丈島歴史民俗資料館の写真がHDのどこを探してもなくなっている。このテーマで当然番外として締めくくりをやらなければならなかったのだが、このミスを言い訳にそれはヤメることに…。
runin-2.jpg
 廃墟のリゾートホテルがリゾートホテルとして機能していた頃の神湊東の海岸は、いったいどんなんだったのだろう。それが疑問に思えるほど、現在のこの付近の海岸はなにやら殺伐としている。お天気の印象もあるのだろうが…。
kaminato-2.jpg
 ホテルの廃墟から神湊のほうへ行くと、浜には“抜舟の場”という石碑や“流人の碑”が立っている。そうだ、歴史民俗資料館は割愛するとしても、流人のことだけは少しでも書いておかなければならないだろう。
runin-1.jpg
 宇喜多秀家のことは、「1367 船戸鼻」の項で書いたが、鳥も通わぬ八丈島が流罪の場所として使われ始めたのは、為朝の伝説があるとはいえ、歴史的にいうと比較的新しい。1606(慶長11)年の秀家がその第1号でその後1600人が流されたと、歴史民俗資料館のパンフには書いてあるが、そうだとすると八丈島の流人は、江戸期に入ってからのことだ。
 流罪=島流しという刑罰は、律令制が導入される以前の古代からあった。その意味は、神の怒りにふれた者を島に捨て殺しにするというもので、その精神は律令制のなかでも受け継がれていった。
 死罪につぐ重刑ではあるが、多くの天皇や皇子、宗教者などが流された中世では、権力側にとって不都合で目障りな人物の勢力を削ぐ、という目的で多用された。要するに、殺すまでの理由もないが目障りで都から遠くへ追放し、邪魔されないようにという政治的な意味で実行されるケースも多かった。場所は島である必要はないし、配流地での生活もある程度自由ということもあったようだ。(崇徳院の讃岐については「1348 乃生岬」の項で、順徳帝については「1123 塩屋崎」の項で、日蓮については「1104 鴻ノ瀬鼻2」の項でそれぞれ書いていた。)
runin-3.jpg
 その罪が重いほど遠くへ流されたが、後醍醐天皇や尊良親王のように配流先の隠岐や土佐から脱出してまた勢力を盛り返すという例もあった。だから俊寛の場合は鬼界ヶ島(「540 足摺岬」の項)のように遠くの孤島などが選ばれるようになった、ということもあったのではないか。
 そういう距離的な意味では、八丈島は適当に遠い。しかも、江戸からは舟で一直線である。江戸期からの配流は、伊豆諸島、なかでも八丈島の役割がだんだん大きくなっていく。戦国の終わりを告げる秀家配流以来、実に数多くの人が流されてきた。当初は政治犯や思想犯などが多かったとされるが、時代が下るとだんだんに単なる重犯罪人も多くなる。なかには、根っからの極悪人も当然いただろうが、そうではない人も、それぞれ特殊技能をもった人も大勢いたわけで、そういう人が島に住み着いて島に貢献したという一面もある。
 なかにはうまく島に溶け込んでいけた者もいただろうし、島の女性と仲良くなるという者もあっただろう。だが、“渡世勝手次第”というのは行政管理の側の都合のいい責任放棄で、島で生きていくのは容易ではない。
 禁を破ってでもなんとか島抜けをしようと思う者は、跡を絶たなかったのだろう。だが、思うのと実際に実行するのとは大いに違う。
kaminato-7.jpg
 誰が建てたのかわからない石碑と、立て看板には“抜舟の場”とある。資料館の数字とは少し違うが、秀家以来明治4年までの間に流されたのは1917人であり、抜舟と呼ばれた島からの脱出を図った事例も11回、成功したのは1回のみと記してある。
 地理的には北の江戸へ向いたこの浜は、当時の八丈島から舟を盗んで逃げ出すには、まず考えられる格好の場所だったのだろう。
kaminato-6.jpg
 その横には、“流人の碑”という、なにか両手を天に差し出しているような八の字のようなモチーフの大きな碑が建っていたが、それを建てた人たちの立場がおもしろい。そばにある黒い石碑は、それを建てたのが、日本橋・浜町・柳橋・堀留・人形町・京橋のいわば流人を送り出す側、それにそれを受け入れる側の八丈島の各ライオンズクラブだというのだ。
kaminato-1.jpg
 神湊は、その当時から舟を寄せるのに適していた、古くからの湊だったのであろう。今では大きな漁港になっていて、かなり高い堤防が深いふところに多くの船を包み込んでいる。
kaminato-3.jpg
 ここも二日間にわたって二度三度訪れているので、天気のいいとき悪いときが入り混じるが、すぐ左手には神止山の小噴火口があり、その向こうに八丈富士が望める。ここから北にはもうしばらく集落はない。
kaminato-5.jpg
kaminato-4.jpg
 “関係者意以外立入禁止”の漁港の中を突っ切って(遵法精神も時と場合による)北へ出ると、次の岬であるイデサリケ鼻も見えてくる。
kaminato-12.jpg
kaminato-13.jpg
 この先は、実は歩いて行く時間がなく、計画では底土港から出た「橘丸」の船上から眺めるだけでいいか、と考えていた。
 だが、でんでんむしも、八丈島からの島抜け脱出にはみごとに失敗してしまったので…。
 そうそう、忘れるとこだったが、八丈島への流刑が正式に法律的な手続きで廃止になったのは、1881(明治14)年のことである。
kaminatoM-1.jpg

▼国土地理院 「地理院地図」
33度7分47.24秒 139度48分30.73秒
kaminatoM-2.jpg
dendenmushi.gif関東地方(2016/04/17〜19 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ
タグ:歴史 東京都
きた!みた!印(46)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:地域

番外:リゾートホテルの廃墟があちこちに=八丈町三根(東京都)なかでもこの神湊東の廃墟はスゴイぞ〜 [番外]

kaminato-4.jpg
 底土港からは北西に1.5キロほどのところに、神湊の集落と漁港がある。バスに乗るためには、そこまで歩いて行かなければならない。この付近はやはり溶岩の流出でできた緩斜面の終わりで、緑の植生の間にペンションのような建物もある。
kaminato-1.jpg
 と、道の左手になにやら怪しげな建物が見えてきた。思わずぎょっとするほど、巨大だ! (辺りに何もないせいもあるが…。)
kaminato-3.jpg
 寄ってみると、なんとこれが廃墟だというわけで、ますます怪しい。
 草ぼうぼうの敷地内にはひときわ大きな、議事堂のように中央に塔を備え左右両翼に広がる建物があるが、もう何年も荒れたままのようで、さりとて朽ち果てるでもなく永らえている。白いカーテンが八の字状にぶら下がったままになっているのも不気味っぽい。
kaminato-5.jpg
 入口の一対になった白い塔のように高い台座の上には、なにが乗っかっていたのだろう。その右手遠くには人の立像が立っている。歴史的な人物は思い浮かばないので、おそらくはその建物を建てた人の像とかなのだろう。
 草の陰に隠れた看板の文字は、「Hachijo Oriental Resort」と読める。このホテル跡の廃墟は、近頃一部で盛り上がっているという廃墟ブーム・廃墟マニアの間では、わりとよく知られた有名な物件らしい。なんでも、仲間由紀恵と阿部寛が出るあの映画のロケにも使われたという。
 これを取り上げて、荒れ放題の内部の写真までたくさん載せたブログやサイトがいっぱいあるので、そっちに興味のある方は検索してみるとよかろう。
haikyo-8.jpg
 もうひとつ検索してみてわかったのが、銅像の人物である。やはりオーナーだった安田某という人だということはわかったし、その人が空手家でも有名な人物だという情報もあったが、銅像の人物と有名な空手家が、同一人物であるかどうかは、どうも確かな結びつきの証が得られない。
 しかも、在日だというこの人物、その夫人がらみでなにやら北朝鮮、総連、金剛山、統一教会などなど、さまざまにやばそうな名前がゾロゾロでてきて恐ろしい。これはなかなか近寄れんということであろうか、空手家の情報を載せたWikipediaも、朴某という本名では沈黙している。
 廃墟も、最初から廃墟として建てたわけではなかろう。安田某氏が“八丈ロイヤルホテル”という名ではじめて1968(昭和43)年この地に建てたホテルは、88室もあって収容人員も450もあったというから、そんな大規模ホテルがやっていけるだけの繁栄時代があったわけだ。
 しかし、その後は名前も“プリシアリゾート”に代わり、また“オリエンタルリゾート”に変わっているので、経営上はいろいろあったようだが、永く八丈島最大の巨大ホテルであった。
 このホテルができた当時は、まだ西から東京にやってきたばかりだったでんでんむしには、八丈島は遠い異国でしかなかったが、どうやら八丈島が“東洋のハワイ”みたいなノリで宣伝され売り出されるような時代があったらしい。新婚旅行でこのホテルに泊まったという人も、たくさんいたのかもしれないのだ。
 だから、八丈島の大規模リゾートホテル開発は、ここだけではなく、大賀郷の“八丈島国際観光ホテル”や樫立の“八丈島温泉ホテル”もそうだった。しかし、どのホテルも2004〜5年頃までに閉鎖に追い込まれて、今は廃墟になっている点も同じである。
haikyo-6.jpg
 “八丈島国際観光ホテル”のほうは、船戸鼻や長崎へ行くときに見ていたが、病院のような茶色い大きな建物があるなあと思って見ていた。だが、島民のための病院であれば、こんなでかい建物は必要ないのだった。こちらも廃墟サイトにはいろいろ取り上げられているようだ。
haikyo-7.jpg
 “八丈島温泉ホテル”は、奈古ノ鼻や素石ヶ鼻を眺めていた乙千代ヶ浜のすぐ東側にあったのだが、温泉掘削工事の途中で二度も縄文遺跡が見つかったりした。その後温泉が枯れて廃業に追い込まれたという。こちらは所有者の管理が厳重なようで、写真もほとんどないようだ。
 それにしても、一時期はそれだけ観光地・リゾート地としても人もたくさん集まって、巨大なホテルの重要があったものが、どうして2005年までに一斉に閉鎖し、廃墟への道を歩まなければならなくなってしまったのだろうか。
 緯度的には、八丈島は九州の大分・熊本・佐賀・長崎と横並びでほとんど変わらない。黒潮の影響があるとはいえ、“東洋のハワイ”にはもともとちょっとムリがあったのだろうが、それよりも直接的に影響する大きな原因があったはず、とこれは容易に推察できる。
 それが、沖縄である。
 これは沖縄北部のどこかでちょっと書いたような気もするが、1970年代の沖縄海洋博は、まだまだ本土の沖縄ブームに火をつけるには至らなかったが、日焼けしたモデルがヤシの木陰、白いビーチで躍動するといった航空会社のCMがテレビに登場し、そういったイメージが溢れるようになる1990年代のリゾートホテール建設推進で爆発する。
 その陰で、わずかに命脈を保っていた八丈島のリゾート・メリットが、急速に色あせていくのはやむを得ないことだったのだろうと、これはあわせて考えれば納得がいく。
haikyo-9.jpg

▼国土地理院 「地理院地図」
33度7分38.93秒 139度48分34.24秒
haikyoM-1.jpg
dendenmushi.gif関東地方(2016/04/15〜19 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ
タグ:東京都
きた!みた!印(53)  コメント(0)  トラックバック(1) 
共通テーマ:地域

番外:底土港・そこど荘=八丈町三根(東京都)底土港にはきてみたものの2日連続で「橘丸」は欠航そこでそこど荘に泊まり… [番外]

sokodoko-2.jpg
 改めて繰り返すと、今回の計画では八丈島の岬めぐりが一巡した後で、東海汽船の「橘丸」で三宅島に渡り、三宅島の岬を一巡りしてまた「橘丸」で八丈島に戻り、八丈空港からゆっくり午後の便で羽田へ帰る…というつもりであった。
 そして、八丈島と三宅島を結ぶ航路が発着する港が、三根の底土(そこど)港である。
 明日は底土港から船に乗ってという前日から、ホテルのフロントが情報をもたらしてくれ、天候の変化が予測され船や飛行機が欠航になる可能性が出てきたというのだ。
 もともとこの計画を考えるにあたっては、ウエザーマップの10日間予報を参考にしながら日取りを選んできた。その時点では半ばでは雨っぽい予報も織り込んではいたのだ。そこで八丈島から三宅島に移動すれば雨の影響も最小限で済むというのが希望的観測だった。が、その雨をもたらす前線が西から発達し、強風を伴って列島を横断することになってしまい、全国的に影響が出た。強風かあ、それは予測してなかった…。
 とにかく、17日朝の「橘丸」は、三宅島まではきたが、そこから竹芝桟橋へ引き返してしまったらしい。三宅島へのヘリコプターも満席で、八丈島から脱出する手段は完全に絶たれてしまった。
 それでも底土までやってきたのは、翌日の便はあるかもしれないし、東海汽船の窓口のあるこちらのほうが、なにかと好都合と思ったからだ。初めての旅行者にはおおいに面食らって途方に暮れる重大場面だが、東海汽船などはしょちゅうのことで、お詫びもへちまもなにもまったく関係ない、天候が悪いんだから欠航で結構。ネットに欠航のバツ印をつけてしまえばそれでおしまい。なんのことがあろうかという、まことに平然とした風情なのだ。
 実は、三宅島と八丈島の間にはやはり相当の距離感が立ちふさがっている。見たことも体験したこともないが、この間には黒潮が流れており、昔の貧弱な船と操船技術では、なかなかこれを乗り切ることはできなかったという。
 “黒瀬川”と漁師や船乗りが呼んで怖れもしたその黒潮のせいではないが、三宅島まできた「橘丸」が、八丈島まではやってこないというケースは、めずらしくないらしい。ここも同じ東京都だが、駅で電車が遅れたとか運休だとかでも駅員にくってかかるような、中高年のバカオヤジはもちろんいない。こういうことは日常茶飯事で、誰もいちいち騒ぐに値しないのだ。
sokodoko-8.jpg
 念のため東海汽船の窓口で、翌日の「橘丸」に予約を変更して、新しい予約番号をもらって、底土旅客ターミナルの屋上にでてみた。「橘丸」のこない岸壁では、クレーンが働いて盛んにテトラポットづくりをやっているようだ。
sokodoko-5.jpg
 その向こう東側の海岸は、150メートルの断崖が切り立っている。大根、御正体根と地理院地図では名がふってある岩場と岩島が重なりあって見えるが、こういう風景は曇りや雨模様のほうが貫禄があるような気もする。この崖の上が、前項でふれた一周道路の最高点や登竜峠があるところになる。
sokodoko-3.jpg
 さてそうなると、どこか底土で泊まるところを確保しておかなければならないが、欠航が決まった時点ですぐに電話した民宿では、飛行機も欠航になっているので前夜からの客を優先しなといけない。だからそれが確認できるまでの間は即答できないという。なるほど、そりゃまこと正しい理屈だ。
sokodoko-9.jpg
sokodoko-11.jpg
 空き室もあるからだいじょうぶよとかわいい感じの女将さんが受けてくれたのは、底土港の岸壁からいちばん近い“そこど荘”という民宿。名前からしても電話番号からしても、底土ではいちばんの老舗民宿なのであろう。万事、ゆったりしている。食事の時にいっしょになるお仕事のおじさんたちのグループがあって、長期滞在の宿泊地にもなっているようだ。
sokodoko-10.jpg
 広い敷地の緑の中に、平屋の建物が埋もれている。結局、翌日の朝も橘丸はやってこなかったので、都合ここに2泊お世話になった。部屋の前の廊下から中庭を挟んで大根と御正体根の断崖が見える。
sokodoko-12.jpg
 底土は広く島の北西部をくくっている三根のいちばん東の端で、ここから西へ、三根の中心部へは真っ直ぐな広い道がゆっくりと上って行く傾斜路になっている。
sokodoko-7.jpg
 八丈富士も雲をかぶっていて、風もさほどではないように思えるが、外洋はまた別なのであろう。
sokodoko-13.jpg
 バスはこの北で漁港のある神湊(かみなと)が終点だが、貨客船の定期便が着岸する底土港にはバスはこない。それでも夏だけはバスが寄るというが、町の住民の塊の大きさでいうと、底土ではなく神湊。それは一見すると納得もできそうだが、定期船が着く(ときどきしばしば着かないけどね)港にバスがこないのはやっぱりなんか不思議感は払拭できないのだ。
sokodoko-14.jpg

▼国土地理院 「地理院地図」
33度7分22.20秒 139度49分3.71秒
sokodokoM-1.jpg
dendenmushi.gif関東地方(2016/04/17〜19 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ
タグ:東京都
きた!みた!印(46)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:地域

番外:大賀郷中を歩いて歩いて=八丈町大賀郷(東京都)ホテルも八丈島空港もそして八高から金土川また大小前また旧役場前と… [番外]

oogago-1.jpg
 ひとまず、これで初日の日程は終了である。これから八丈富士南麓の標高80メートルにあるホテルまで戻るわけだが、長崎からはほぼ一直線に、北へ伸びている広い道路が溶岩台地のスロープを上っている。
oogago-2.jpg
 この日は早朝羽田を発って、ホテルから乗ったタクシーを出発点の赤崎付近で降り、それ以来ずっと歩きづめに歩いてきた。その距離はおよそ12キロくらいになる。
 この日は、レンタサイクルの予定を片道だけタクシーにしたのでそうなったが、この日だけでなく、八丈島滞在中は結構よく歩くことになった。
oogago-3.jpg
 それは、ひとつには中央部を循環して走るバス路線がほとんど使えなかったことと、ホテルの位置が大賀郷の西山に寄っていたため、東山を回るバスに乗るために、ホテルからまた末吉方面に行くバス停まで、往復5キロも歩かなければならなかったからでもある。
oogago-23.jpg
 前にも書いたように、八丈島はひょうたん型で、ふたつの膨らみを繋いでいる中央のくびれ部分に町の中心があり、八丈富士を含めて島の北西側半分は、北が三根、南が大賀郷とふたつに分けられている。したがって、三根も大賀郷もかなり広いのだが、大賀郷の中心は八丈島空港の南、公共施設なども集まっている平らなところと、そこから八重根にかけて流れ下る溶岩のスロープ一帯がそうだといえるだろう。
 そんな大賀郷を歩き回ったときの写真を拾いながら、この地域を眺めてみよう。

*八丈ビューホテル
oogago-6.jpg
 まず、二泊した八丈ビューホテル。島には三根のほうに大きな高級リゾートホテルがいくつかあるが、大賀郷ではいちばんのホテルということになろうか。旅行会社の主催するツアーの客も多かった。
oogago-5.jpg
oogago-4.jpg
 ガラス張りのロビーからは、大賀郷が見渡せる…というほどではないが、横間ヶ浦火山もよく見える。大賀郷の中心の海寄りの斜面は、先にも使った帰路の飛行機が滑走路を離れてからのものがよくわかる。
oogago-18.jpg
 八丈島は、緑がとても豊かである。溶岩台地の斜面も、上から見ると森のようで、このなかに道路が走り、家々が埋もれている。
 
*八丈島空港へも歩いて行く
oogago-15.jpg
 八丈島空港は、もともとは海軍の飛行場であった。旧軍には空軍はなく、陸軍と海軍にそれぞれ航空隊があったが、さすが離島だけあってここは海軍の縄張りになっていた。
oogago-16.jpg
 現在はANAが、B737-800とA320を使って、羽田との間を朝昼夕と日に三往復飛ばしている。
 空港の出入口は北側の八丈富士の側で、二路線しかない町営バスの一路線がコミュニティバスとして運行されてはいる。これが、とても使いにくいルートとダイヤになっているので、観光客には不便。まず車で往来するのが常識となっている島の人には別にどうということはないのだろう。
oogago-13.jpg
 結局、帰るときの飛行機に乗るときも、大小前から八高を経由して、滑走路の下をトンネルでくぐり、空港まで2.5キロ歩いて帰ってきた。飛行機に乗るために延々歩くというのもおもしろい体験だった。
oogago-22.jpg
 
*バスのこないバス停八高
oogago-19.jpg
 大小前と八高は、いずれもバス停の名前で、大賀郷小学校前と都立八丈高等学校を示している。八高のほうはコミュニティと町が呼んでいる循環路線のほうのバス停だが、時刻表に「2便 八高 8:07」とあるにもかかわらず、ついにバスはこないとか、なかなかミステリアス。
oogago-20.jpg
 二日目はホテルから八高まで歩けば、大小前までバスに乗れると思っていたが、結局バスは姿も見えず歩くはめになって、末吉行きにも間に合わず、しかたがないのでタクシーを呼んで(タクシーは流してはいないので、地域ごとに数社あるタクシーの番号を自分で調べておいて呼ばなければならない)、横間ヶ浦の橋とトンネルを抜けて向里まで行くことになった。
 
*町営バスの“バスパ”でバスでスパへ
 大小前のほうは、八丈島の町営バスのメインの路線の停留所で、ここまで行けば東山の海岸に近い山麓をめぐることができる。この路線は、神湊から旧役場前を経て三原山を西から回りこみ、島南東部の末吉までのルートで、日に6便が往復している。
oogago-8.jpg
 この路線名が末吉に行くのは「坂上行き」、神湊へ行くのは「坂下行き」という不思議な名前になっていて、旅行者を惑わせる。坂下も坂上もどこにもそんな地名はないからである。
 考えるに、ひょっとしてこの「坂」とは、あの横間の橋の坂のことですかい?
buspa-1.jpg
 町営バスを利用する観光客には、二日間有効の“バスパ”(温泉入り放題、バス乗り放題というフリーチケット1,000円)がお得である。この手のフリーパスがいいのは、料金割引もさることながら、いちいち運賃をみて小銭を用意するという手間が省けるのがいい。でんでんむしもこれを最大限利用させてもらい、温泉にも二か所で入ってきた。
 
*大賀郷で昼飯を食いっぱぐれないために
 八丈島で観光客が注意すべきことは、昼飯を食いっぱぐれないための行動計画が必要なことである。
 飲食店は、もともとそう多くはないし、中心街にそれが集まっているということもない。大賀郷では、旧町役場の周辺に一部で有名な寿司屋と蕎麦屋があり、あと金土川というこれも不思議な地名の付近に食堂やカフェなどがあり、溶岩斜面の森のなかにも数軒の飲食店が散らばってあるようだが、午後2時を過ぎるとたいていの店が閉まってしまう。
innsyokuten-1.jpg
 だから、バスに乗って末吉方面に行き、帰ってきてなにか食べようと思っても、まずどこも開いていない。では、末吉方面で食べれば…と思っても、大坂トンネルを越えた向こうでは、一軒だけ郷土料理の店があるものの、まず飲食店はないと考えたほうがよい。
 旧町役場の裏手にある寿司屋の銀八には、なんとか滑り込みで間に合って、名物の島寿司をいただくことができたが、これはなかなかおいしかった。島寿司というのは、見た目はいちおう握りだが、握られているネタはすべてづけである。おやじさんが、これはなにこれはなにと魚の名前を教えてくれるが、一見するとどれも同じようで、色が異なるのは岩のりだけである。
 蕎麦屋や森のなかのレストランなど、多くは閉まっていたり、そこへわざわざ行くという行動計画が成り立たなかったので、行けなかったところがある。
 あ、そうそう。八丈島にはコンビニはありません。
 最初は一瞬あれっと思ったけど、考えてみれば当たり前だ。ここは東京都とはいえ離島。トラック輸送のネットワークを原点として成立しているコンビニはありえない。
 スーパーは、これもあちこちに散らばって数軒がある。
 
*大小前付近
 「だいしょう」ではなく「おおしょう」ですからね。ガジュマルの校門を入ると、芝の校庭が広がっている、八丈町立大賀郷小学校は、明治10年にこことは別の場所で開校し、明治36年からこの地へ移転したという古い歴史をもっている。現在のクラスは各学年ごとに1クラス、それに特殊学級を加えて全校生徒126名であるという。
oogago-21.jpg
 大小前の八丈町ができる前の大賀郷村は、この島の中心であった。大賀郷中学校はこの下の斜面を少し下ったところにある。
 もともとこの島に人が住み始めたのも、永く島の陣屋などがあったのも、この大小・大中の下、八重根のほうにかけてであったらしい。この先の資料館から南へ大里の付近の集落は、申し合わせたように丸い玉石を積んで家の囲いとしているが、そのあたりが昔からの島の中心であったようだ。
oogago-24.jpg
 いくつかの遺跡も、この大賀郷の南から三原山の南麓付近に集中しているようだ。
 
*旧役場前付近
 現在の行政の中心は、空港の南、新築して移転した町役場(正式には八丈支庁)や町立病院などがある植物園(結局そこには行けなかった)の東あたりに固まっている。だが、そこはちょっと奥まっていて、路線バスが走るメインストリートでのポイントスポットは、やはり旧町役場のバス停である。
oogago-7.jpg
oogago-25.jpg
 そこは、観光協会や町営バスのターミナル兼車庫になっていて、神港の方面から乗ってくると、ここでバス車両の乗り換え移動が必要になることも多い。
oogago-9.jpg
 その北側、黄色い標識が立っている三叉路を渡ると、こんもりした小山があって、天照神社がある。この小山はスコリア丘ではないだろうか。言ってみればこれも小規模の火山の噴火の跡で、噴石丘などとも呼ばれるが、噴火で飛び散ったマグマが冷えて固まった岩滓が火口周辺に積もり、円錐台形の山をつくる。
 伊豆は伊東の観光地大室山もそうだというのだが、それはかなり大きい。だが、この神社の小山くらいの小さいのがたくさんあったのではないか。
oogago-10.jpg
 神社を過ぎて少し行ったところで大賀郷の東端になり、住所表示は三根に変わる。律儀にも、その付近が西山と東山の間、くびれ部分の平坦部のちょうど真ん中あたりになる。

▼国土地理院 「地理院地図」
33度6分18.86秒 139度47分6.37秒
oogagoM-1.jpg
dendenmushi.gif関東地方(2016/04/15〜19 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ
きた!みた!印(39)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:地域

番外:横間ヶ浦火山=八丈町大賀郷(東京都)八丈島形成の歴史はここから始まったのか? [番外]

yokomagaura-5.jpg
 ときどきふれていることだが、実際に見る風景と地図でのイメージを一致させるのにちょっと苦労する場合がある。ここもその例で、いかにも立派な岬なのに、なんで無名なの?と思ってしまう。だが地図を冷静にみると、ここは岬でもなんでもなく、ただ、ゆるく孤を描いて伸びる断崖の海岸線なのだ。
 そこはもう西山のテリトリーでもなく東山の範疇に入るのだが、ここには岬の名はない。これだけ目立っていると無視もできないし、ついでなのでちょっと触れておこう。
yokomagaura-3.jpg
 これは左手の三原山(東山)から西に伸びてきた山塊が、横間ヶ浦という島ではめずらしい砂浜の南に飛び出しているところである。
nagasaki-1.jpg
 まず、目立っているのが横間ヶ浦の上の山腹を、斜めによぎっている白い橋脚である。横間橋と逢坂橋というふたつからなるその橋が右手の山の上に消えていくのは、そこで大坂隧道というトンネルに入るからだ。
 そのトンネルの上に、215メートルのピークがある。ここも横間ヶ浦の浜とこの尾根はほとんど南北にまっすぐに連なっているので、実は海岸線は出っ張っていないのだ。
 そこから右手に続く次のピークまでもそうなのだが、断崖の浜が南に伸び、その先でカーブするところには地理院地図では横瀬と名のついたところがある。その上の尾根が、ここから見るといかにも岬のように見えるのだ。横瀬のところには小さな岩島がくっついている。
nagasaki-5.jpg
 さて、数少ない熱心な読者のみなさんには、ここで思い出していただきたい。「1363 下立鼻」の項で、「東山でいちばん古い火山という横間ヶ浦火山が活動を始めたのは、今から約14万年前の更新世の頃だとされている。」と書いていたことを…。
 その「横間ヶ浦火山」というのが、どうやらここらしいのだ。ここが、八丈島発祥の火山で、ここが噴火した後に火口は東へ広がり、東山の大噴火で大きな島になったということになる。
 だが、それは具体的にどこなのだろう。215メートルのピークが火口の頂きなのか、トンネルの手前の湾曲したところが爆裂火口の跡なのだろうか…。
yokomagaura-6.jpg
 「横間ヶ浦火山」なんて言い方は、おそらく一部の専門の学者くらいしか使わないのだろう。現に国土地理院を始め、各種地図にはそんな名はないし、町の地図にもない。しかし、でんでんむしは、それがそうなのであれば町の観光協会も教育委員会も、それをもっと使って広めるべきだと思う。yokomagaura-7.jpg
 八丈島の初日は、北東の端の三根から、西山をぐるりと逆時計回りに戻りながら岬を拾いつつ歩いて、大賀郷の最後の岬である長崎までやってきた。岬はここで終わりだが、大賀郷の領域はさらに南、横間ヶ浦の橋を上ったトンネルまで続く。そして、トンネルの向こうは八丈町樫立になるが…。
yokomagaura-8.jpg
 その前に、岬以外の大賀郷のまとめもやっておかないといかんだろうな…。

▼国土地理院 「地理院地図」
33度6分18.86秒 139度47分6.37秒yokomagauraM-1.jpg
dendenmushi.gif関東地方(2016/04/15〜19 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ

きた!みた!印(44)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:地域

番外:崖の鼻…ではなくてこれは花4=家の前の崖に咲く花(神奈川県)増えてきたシャガにスミレ・タンポポも [番外]

hana3-1.jpg
 アヤメ科アヤメ属のシャガは中国が原産地だが、かなり古くから日本に帰化している植物のひとつである。茶花としてもよく知られてきた。
hana16-3.jpg
 染色体の関係から、種子ができないので、地下茎で繁殖をするというのだが、「Iris japonica」という学名のとおり、花はアイリスやアヤメとよく似ている。遠目には白い花のように見えるが、寄ってみると青い斑点や黄色の模様がある。
 扁平で一方向に流れる葉は常緑で、冬でも緑を保っている。このため、崖の手入れの際にも、シダとともに残すようにしていたが、これもだんだんと範囲を拡大して、大きな群生になってきて、いまやシダを圧倒している。
hana3-2.jpg
 乾燥地でなく湿気のある場所を好むようで、これがちょうどよい湿り気加減なのであろう。というのは、北に向いて開けた崖は、雨が降るとしっかりと山に水気を蓄え、これが徐々に崖に滲みだしてくるからである。柵の下の石積みにもいつの間にかきれいなコケがたくさん生えるようになった。
hana15-1.jpg
 こういう環境はでんでんむしにとっても好まれるのだろう。ときどき、かなり大きなでんでんむしがいる。アジサイも何本かあるのだが、これはフェンスの切れたごみ収集場所の崖なので、誰かが挿したか植えたかしたのだろう。これからの季節では、アジサイやヤツデの葉っぱとでんでんむしというのは、定番の組み合わせのようだが、この崖にはヤツデも多い。控えめな花が終わって実をつけ始めている。そのほか、アオキとかナンテンも多いが、これらもあまり大きくすると困るなあ。
 ちょうどヤマブキと花期が同じなので、どうやらこの崖はシャガとヤマブキで勢力範囲を競うようなことがしばらく続きそうな気配だが、もっといろいろな花が咲くようにしたいな。
 黄色と白の花が多いので、なにか赤い花をつけるのもほしいのだけど…。
 スミレ、タンポポという昔から伝統的に親しまれてきた野の花も、ほんの僅かだが、生えている。
hana10-1.jpg
 スミレはとくに頼りなく、数株がなんとか小さな花をつけているが、これも来年また出てくるかどうか。その周りにあるユキノシタは、もともとは家の庭うちにあったものだが、なにかのついでに崖に運ばれたものらしい。これも小さな花を鈴なりにつける。庭先にはこれも蒔いた覚えもないのにかなりはっきりした紫の花をたくさんつけた、しっかりした株が生えてきた。
hana10-3.jpg
 タンポポは、だいぶ前からニホンタンポポの減少が著しく、セイヨウタンポポばかりになってしまうのでは、と心配されていた。おそらく、ここらに生えて花を咲かせているのも、セイヨウタンポポなのであろう。
hana11-1.jpg
 その見分け方というのも、いろいろ言われているが、花と茎の付け根にある「総包片(そうほうへん)」という部分が反り返っているのがセイヨウタンポポで、それが反り返らないのがニホンタンポポなのだという。
hana11-2.jpg
 みたら、ちゃんと反り返ってました。
 昆虫や動物ももちろんそうなのだけれど、植物もどうしてこんなにたくさんの種類が繁殖し、花を咲かせ実をつけているのだろう。花も実もなくともちゃんと繁殖の術をそれぞれにもっているのにも敬服してしまう。
 だが、なによりも不思議なのは、この地球という惑星がどうしてこんなに、収拾がつかないほどかくも多種多様な生命体を抱え込み、育んできているのか、という根源的な問いであろう。
 今年も、また崖によじ登り、そこに生えてくる植物と対話しながら、楽しんでみたい。去年は、ちょっと休んだら茂りに茂って後始末が大変だったので、今年はもっとこまめに崖に登らなければなるまい。

dendenmushi.gif関東地方(2016/04/13 記)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ
タグ:
きた!みた!印(34)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:地域

番外:崖の鼻…ではなくてこれは花3=家の前の崖に咲く花(神奈川県)クサイチゴはヘビイチゴよくその実をとって食べていた [番外]

hana14-2.jpg
 手入れと言っても、そうおおげさなことではない。もともと自分の土地でもない官地なので、市役所に管理の責任はあるのだろうが、目の前にあるのだから、自分が手を出しても差し支えない程度に、梯子と手の届く範囲で年に何回か茂る木々を刈るのである。
 道路も当然市道だが、その清掃も自分の責任範囲で、これは近所の他の家よりずいぶん広い。別に敷地が広いと言いたいのではなくて、三角形に近い角地なのでそうなってしまうだけだ。とくに秋から冬にかけては、崖と山から木々が葉を絶え間なく降らせてくれるので、落ち葉掃きも大変な仕事になるのだ。
 これも考えてみると、だんだん話がおかしなほうに曲がってると思うのだが、この頃では「垣根の垣根の曲がり角 焚き火だ焚き火だ 落ち葉焚き」ということができなくなっている。
 掃き集めた落ち葉は、大きなビニール袋に詰めて、ごみ収集に出すが、当市ではこれは“資源ごみ”である。だが、崖の手入れで刈り取った枝などは、庭木としてまた別の“燃えるごみ”の日に出さなくてはならない。
 とにかく、この崖にも手入れが必要だと思ったのは、放おっておくと一定の繁殖力の激しい名も知らぬ草木がやたらに伸び茂って、数年もすると大木にまでなってしまい、下草はみな枯れて暗い崖になってしまう。観察していて、それに気がついた。
 そうなる前に、年々こまめに手入れしていれば、明るい花も咲く崖の斜面が保てるのだ。
 最初は、花など咲いていなくて、シダが何種類も生えていた。シダも実はこの地域では貴重な自然なので、そのシダを保護する目的で、下草を刈り込み、大木が茂らないようにしていた。
 いろんな植物が生えてくるものだと、いつもそれを楽しく観察しながら除去しているが、そのなかで優先的に除去されるものに茎や葉に刺があるイバラの類などがある。
hana5-1.jpg
 今この季節には白い花をつけ、やがて赤いつぶつぶの実をつける草木がある。これも刺が鋭くて、はびこらせるとやっかいになる。
 でんでんむしがこどもの頃の山野にも、同じようなのがあって、それをヘビイチゴと呼んで、赤い実を取っては口に入れていた。
 ネットの図鑑でみると、どうやらこれはバラ科のクサイチゴという名前がついているようだ。キイチゴの仲間らしいが、背丈が低く草のようなのでその名がついたようだ。西洋の童話などにはよく登場するが、そのキイチゴの仲間は非常に多く、世界中ではなんと数百種もあるといい、そのうち日本には十数種が分布している。
hana5-2.jpg
 そのなかでもスター格のキイチゴほどちやほやされることも目立つことなく、ひっそりと半ば忘れられるようにして茂ってきたのだろう。だから、“ヘビ”などがついて呼ばれたりしたのだろう。
 こういう山が削られてできた斜面などに、いちはやく進出してきた植物のひとつである。
 今年はその花びらがいちだんと大きく、遠目にもその五弁の花が目立って群生している。作業の邪魔にならない場所を選んで、このクサイチゴの生息するところを確保してやらなければなるまい。
hana9-1.jpg
hana16-1.jpg
 どこかから飛んできた頼りないナノハナや旺盛なハナダイコン、これも植えた覚えも蒔いた覚えもないのに六弁の小さな花を咲かせている丈の低い草も、来年はどうなるだろうか、わからない。
hana16-2.jpg
hana12-2.jpg

dendenmushi.gif関東地方(2016/04/12 記)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ
タグ:
きた!みた!印(30)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:地域

番外:崖の鼻…ではなくてこれは花2=家の前の崖に咲く花(神奈川県)最初は一本から始まって見事な群生になったヤマブキ [番外]

hana13-1.jpg
 部屋から隣近所の家が見えないというのが自慢だと、前項で書いたが、ちょうど今の時期だと部屋から庭の生け垣越しに見る崖の眺めは、こんな感じになる。
 この頃では、花も外来種が幅をきかせているので、花の名前も聞いたこともなく言いにくい名前の花ばかりだ。が、もともと図鑑とにらめっこでその名を究明するというそんな情熱もなく、ただぼんやりとそこに勝手に生えてきて勝手に花を咲かせているものを眺めている楽しんでいるだけだが、これがヤマブキであることくらいは、わかる。
hana15-2.jpg
 近年のネットの情報には、それを図鑑本をカバーするものがあるようだが、この図鑑というのが結構期待はずれというか、探そうとする花がちゃんと載っているほうが少なく、それでだんだん当てにしなくなって、今のような横着を決め込む原因にもなってきた。(ほら、またヒトのセイにしてはダメ!)
 植物図鑑も写真のものが主流になっているようだが、図鑑はやはりイラストのほうが、よくわかっていいような気がする。制作者側の身になって考えてみると、牧野式のイラストをオリジナルで網羅するというのは費用も時間も膨大になるので、やさしい企画ではない。
 もうだいぶ前のことになるが、近所の空き地や崖などに、黄色いコスモスに似た形の花がたくさん咲いた。そのときにも、苦心してその名前を調べたものの、やはり外来種でその長いカタカナ名前は、忘れてしまっていて思い出せない。
 ところが、その黄色い花は同じ黄色の外来種でもセイタカアワダチソウほどの生命力はないらしく、毎年続いて咲くかと思えば、だんだん少なくなってしまい、今ではほとんど見かけなくなってしまった。
 この地域の谷戸をつくる低い山々には、神奈川県の花になっているヤマユリがたくさん自生している。崖にもたくさん咲いた時期もあって、とくに初夏の夕暮れの薄暗がりのなかに、白く浮き上がる花はなんともいえない風情があるのだが、これも年々その数が減っていく。
 さびしいことだが、自然は人間の手を加えずとも、変わっていくのでそれが自然というものだろう。
 崖の植生には、クズの侵食が大きな影響を与えていることもあるようだ。これも昔にはなかったものが、向こうの山から崖に降りてきて、年々はびこっている。クズもその花はなかなか可憐なのだが、これもほおっておくとあのツルと葉っぱが崖全面を覆うことになってしまう…。
hana4-1.jpg
 この崖にヤマブキが黄色い花を咲かせ始めたのはだいぶ前からだ。最初はひょろんと一本だけだったのが、株が大きくなり見事な黄金の塊をつくるようになったのだが、ある年の市の刈り込みで、全部刈り取られてしまった。
 しかし、それからまたその周辺の別の場所から生えだし、今年の春は一段と大きく崖の上のほうにまでその範囲が広がっている。比較する人間とかが入っていないので、規模がわかりにくいが、フェンスの支柱と支柱の間隔が3メートルで、フェンスの高さが1メートルである。この塊でも6メートルの幅、高さも3メートルあることになる。
 これがひょろりの1本から始まったことを、最初から観察していて知っているでんでんむしには、結構感動もんなのである。
hana15-3.jpg
 道行く人の目も楽しませているようで、枝を切り取っていく人もあるようだが、ヤマブキは花瓶にさしてもなかなか水が上がらないのだという。
hana4-2.jpg
 太田道灌の故事にあるのは「七重八重…」というが、家の前の崖のヤマブキは一重である。wikipediaには、ちょっと独特な解説が加えられていて、それがおもしろいところもあるが、ヤマブキのこの歌でも新しい解釈があることを知った。
 通常、八重の花には実がつかないという解釈だが、「七重八重…」は花が幾重にも折り重なるさまをいい、「実のひとつだに」というのも、「山ほど花が咲くのに、(実が硬くて)食える実がつかないのは情けない」とする解釈もあるというのだ。だが、一重でも実をみた記憶がないし、これだと鄙には稀なる歌の教養ある佳人が、蓑のかわりに差し出す場面も登場する余地がなくなる。道灌の歌への開眼もなく、「わが庵は 松原つづき 海近く 富士の高嶺を 軒端にぞ見る」という歌も生まれなかったことになるので、やはりその解釈は不採用で却下。
 わが庵からも、当初は富士の高嶺が見えていたのだが、家が建てこんできて見えなくなってしまった。
 枝がずいぶん伸びてきたので、今年は花が終わったら剪定をするつもりでいる。そう、数年前からは、この崖の手入れを自分でするようにしているのだ。
hana12-4.jpg

dendenmushi.gif関東地方(2016/04/11 記)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ
タグ:
きた!みた!印(36)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:地域

番外:崖の鼻…ではなくてこれは花1=家の前の崖に咲く花(神奈川県)時間稼ぎの番外が少し続きます [番外]

 でんでんむしが背負っている殻…ではなくて棲家は、もう築ン十年の古家である。その当初にこの土地を選んだ理由はいくつかあるが、できるだけ他所の家が目の前に見えないところというのも大きかった。そのときには、夏目漱石が『門』で描いた、宗助とお米の「崖の下の家」をなんとなく意識していたのかもしれない。
 「廂に逼るような勾配の崖が、縁鼻から聳えている」というほどではなく広い道路を挟んでいるが、「朝の内は当たって然るべきはずの日も容易に影を落とさない」という事態になるところは、冬至の前後に限っては似たような状況である。
 別に人の妻をとったわけではないから、彼らのように人目を忍んで住む必要もないが、「すぐの崖下だから、多少陰気ではあるが、その代り通りからは尤も隔たってるだけに、まあ幾分か閑静だろうというので」宗助とお米が相談のうえ崖の下の家を選んだ理由とも、いくらかは似ている。
 山を開いた新興住宅地の南のはずれで、大通りからは少し奥に入っていて、おまけに南が崖だから、自分の家の居間やその他の居室から、隣近所の家が視界に入るということがない。こんなところはほかにはあるまいと、これは実は密かに自慢している。見晴らしがよくて海が見えるというのもいいが、風当たりが強すぎる。それとはまた違うが、崖を借景にした景色もまた別の趣があっていいのである。とうぜん、かなりの海風で山と木々がうなりをあげても、下はなんともない。
 崖の上にはお金持ちが住んでいるというわけではなく、ヤセ尾根が南の鉄道の線路に伸びていく谷戸をつくっているだけなので、浅く低い山ながら自然の雑木林のなかで、一日中さまざまな野鳥が入れ替わり鳴き交わしている。今年のウグイスも、やってきて鳴き始めた。もうすぐ、ホトトギスも鳴き出すだろう。ときには、野生化したリスが木々の間をするすると走っていたりする。
 猫の額ほどの庭も、崖とは道路を挟んで続きのようなものだから、スズメはもちろん、オナガやメジロなどいろんな鳥が降りてくる。
 その庭には、越してきたときから、サクラとモミジを大きく茂らせるのが夢であった。今やその夢も実現してはるか後ろのほうに通りぬけ、大きくなり過ぎたサクラとモミジは、結局両方ともとうに切らなければならぬ羽目になってしまった。
 ここに住み始めた頃の崖は、シロウト診断では第三紀層の砂泥岩の地層が模様を描いていて、上の一部には見事な褶曲の地層を露出していた。下のほうの地層からは、小さな白い二枚貝の化石がたくさん見つかっていた。崖は山を削って住宅地にする大工事のために、人為的に出現したものである。
 たが、何年も経つと木々が茂り始め、いつの間にか大きな木々が道にはみだしてかぶさるようになって、市が刈りこみを行なわなくてはならなくなったりした。また、崩れるような崖ではないが、山向こう側の谷戸の宅造工事に絡んで、落石防護用の鋼鉄製のネットを貼るという騒ぎにもなったりして 、市では崖と道路の間に立派な石垣と金網を張った防護柵の工事をした。
 そのネットの間から植生がまた自然に復活して、すぐにネットも隠れてしまった。その植生が、なかなか不思議だなあと思ってみているが、だんだん経年とともに微妙に変化していくのはわかる。
 今年の春、家の前の崖には、こぼれ種や風に乗って飛んできた新顔も含めて、いろいろな花がいっせいに咲いている。もちろん、崖の上にはサクラも何本かあって、ちょうど目の前に白い花びらのオオシマザクラや少しピンクがかったソメイヨシノ花びらが雪のように舞い降りて、崖にも道路にも庭にも降り積もっている。
 そんな家の前の崖の花を、これも記録の意味を込めて、また次の岬めぐりの材料仕入れが整うまでの時間稼ぎに…。
hana2-1.jpg
hana2-2.jpg
 まずは、名前もよく知らないようなやつから…。(マクロレンズがすぐに出てこなかったので、いつもの岬と同じ普通のデジカメのオートです。なにしろ、写真には凝らないもんで…。よく花をきれいに撮っておられるみなさんからご覧になると、おそまつですんません。)
hana6-1.jpg
hana6-2.jpg
hana8-1.jpg
hana8-2.jpg

dendenmushi.gif関東地方(2016/04/10 記)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ
タグ:
きた!みた!印(44)  コメント(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:地域

番外:高松はこれが二度目=高松市(香川県)だが昔の記憶はほとんどなく初めてのようなものなので… [番外]

takamatsu-11.jpg
 初めて高松にやってきたのは、もうン十年も昔のことで、大阪から出張できたのだが、そのときどうやってきたのかまったく記憶がない。当然、まだ橋はどこにも架かっていないから、宇高連絡船(フェリーか)に乗ってきたはずなのだが、その記憶がない。わずかに高松の事務所に挨拶に顔を出したこと、仕事が終わって行った栗林公園の松と船からみた玉藻城の海城の佇まいをかすかに覚えている程度だ。橋ができて、それを初めて渡ったときは、坂出から善通寺のほうへ行ったので、高松には寄らなかった。
 今回の高松は、それ以来の二度目ということになるが、そんなわけだからまるで初めてのようなものだ。二度目は飛行機だから、市の中心からは南に15キロのところにできている空港からやってきた。
takamatsu-13.jpg
 高松港の桟橋に立ってみても、その昔連絡船を降りてどこをどう歩いたのかもさっぱり思い出せないが、今歩いてみると桟橋から高松駅までも距離がある。あたりの景色もすっかり変わっているはずだ。高いきれいなビルなどが桟橋と駅の間にあって、連絡船「讃岐丸」の錨が、モニュメントとして残されていた。
 まあ、どうでもいいことっていやあそうなんだけど、全般にこういうものをプランしたり設計したりする人たちの想像力というものに、疑問をもってしまうことがよくある。 鉄の錨を野外に残すなら、当然風雨の中でサビが落ちるということは、すぐにわかるはずなんだけどね。
takamatsu-9.jpg
 なんといっても「紫雲丸」のことは、忘れられない記憶である。もちろん、当時のニュースとして知っているだけだが、その影響などについても、前にも、「470 ナキンダ鼻=玉野市宇野(岡山県)宇高連絡船『紫雲丸』を知っていますか?」の項で書いている。この沈没事故があってから後、客車輸送は廃止され、連絡船自体もフェリーや高速船への移行が促進される。そして本四架橋の実現を、大きく後押ししたのもこうした事故があってからのことだった。
takamatsu-12.jpg
takamatsu-10.jpg
 宇高連絡船はなくなったが、高松港は今も瀬戸内海の各島を結ぶ航路がたくさんある。直島へ行く大きな船は、草間彌生もどきの赤い水玉模様。小豆島便が発着する桟橋からは、正面に長崎ノ鼻がある。
takamatsu-5.jpg
 高松の町も、岬めぐりでJR高松駅で乗り降りしたり、琴電の駅から歩いたり、うどん屋へ行くのにウロウロした程度で、あまりあちこち歩いてはいないが、アーケードの商店街が縦横に発達しているのはなかなか壮観である。
takamatsu-7.jpg
 町を歩いていると、さすがにうどん屋が多い。いたるところにある。昔は…とこれもさっぱり覚えていないが、昔からごく普通にあったのだろう。そこが偉大なところなのであって、どこぞのイベント屋が仕掛けたとかなんとかいうのは、どーでもいいことなのだ。
takamatsu-8.jpg
 空港から市内に入るリムジンバスから、ちょっと気になる銅像が歩道脇にあるのが眼に入ったので、そこへは改めて訪ねてみた。バスからちらっと見たとき直感的に、「おっ! これは『父帰る』じゃないのか?」と思ったからだが、行ってみるとやはりそれは当たっていた。
takamatsu-4.jpg
 そうか、これまで気にしたことはなかったが、菊池寛はこの街の生まれだったのだ。琴電の瓦町駅から西へ向かう通りはアーケードではないが、なんと“菊池寛通り”という名まであり、そのずっと向こうには菊池寛記念館もあるらしい。
takamatsu-3.jpg
 岬めぐりで計画がいっぱいなので、そこまでは行く時間はない。せめて、この銅像だけでもどうぞウ…。
takamatsu-6.jpg
 県庁や市役所のあるところとJR高松駅の間にある、兵庫町のホテルに3泊して、ここを拠点に香川県の岬めぐりをすることになったのは、ある出版社の連休を利用した行事に、ついでに混ぜてもらったからだ。その会社では旅行のプランも往復は団体行動だが、行ってどこで何をどうするかは、全部各人が自由に考えて行動するという方針なのである。これはユニークだが、なかなかおもしろいし、すばらしく先進的な考え方ではないか。
 「よかったら一緒に行きませんか」と声をかけてもらえるのは、とってもありがたいことである。感謝。香川の岬めぐりはまだ岡山側からちょこっとつついた程度でしかない。これ幸いと便乗して、それではと未踏のままだった香川県の海岸をめぐることにしたが、バスの都合などを考慮しながら計画を立てた結果、日々ちょこちょこと出かけては高松まで戻るという行動の組み合わせになった。
 だから、掲載順と実際の行動は前後するのだが、屋島の先端の長崎の鼻までで、高徳線沿線、香川県沿岸の東側約半分弱が終わったことになる。
takamatsu-1.jpg
takamatsu-2.jpg
 高松駅のホームの端が行き止まりになっているのも、元々宇高連絡船との接続を必要としていたためだ。この後は、予讃線で西へ行くことになるが、その前に予讃線が通らない海岸をバスで回っておかなければならない。というのは、予讃線自体が高松駅を出るとすぐに立ちはだかる山塊を、南に迂回して海岸線からは離れてしまうからで、坂出までは路線バス乗り継ぎの旅になる。が、また高松に戻ってきて出なおしたほうがいい。
 それもこれも、香川県といえばなにしろ日本でいちばん(面積の)小さな都道府県だからである。
 これも毎度お世話になっている国土地理院が公表しているデータなのだが、まず広いほう上位の三道県が、
 1 北海道 83,424.22 (単位:km2、以下同じ)
 2 岩手県 15,275.01
 3 福島県 13,783.75
となっていて、狭いほう下位の三都府県が、
 45 東京都 2,190.90
 46 大阪府 1,904.99
 47 香川県 1,876.73
となっている。
 うれしいね、堂々の47番目。「うどん県」は「日本でいちばん狭い県」なのだ。これこそもっと自慢していいかも。
takamatsu-16.jpg
takamatsu-15.jpg

▼国土地理院 「地理院地図」
34度20分46.83秒 134度2分45.11秒
takamatsuM-1.jpg
dendenmushi.gif四国地方(2015/10/31〜11/03 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ
タグ:香川県
きた!みた!印(40)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:地域

番外:引田は「ひきた」でなく白鳥は「しらとり」でなく大内は「おおうち」にあらず=東かがわ市引田(香川県)この海辺の町が栄えた頃 [番外]

kagawakenM-1.jpg
 海なし県は別にして、また島嶼部も別にすると、香川県の海岸線はそう長くない。ざっと見でも富山県や京都府や佐賀県よりはちょっと長いか、という程度である。瀬戸内海に北面して、お椀を伏せたようなその海岸線では、その東のお椀の縁にあるのが東かがわ市であるが、香川県の東端のこの市には残念ながら岬がひとつもない。
 引田港の北には半島状に突き出た小山があり、灯台まであるのだが、どういうわけか岬の名はないのだ。かといって、このまま素通りするのも、もったいないので番外。今回の讃岐の岬めぐりは、 前項の徳島遠望からこの東かがわ市の番外を経て、さぬき市、高松市、坂出市、丸亀市、多度津町、三豊市、観音寺市と海岸線を東から西へ辿る。今回も実際の行動は前後するが、項目は地図の東から西への順である。
 まずはそのいちばん東側、東かがわ市というのは、2003(平成15)年に香川県大川郡引田町(ひけたちょう)、白鳥町(しろとりちょう)、大内町(おおちちょう)が合併と同時に市制を施行してできた、比較的新しい市である。「ひけた」だけでなく、「しろとり」も「おおち」も、誰もが読むであろう普通の読み方ではないところがおもしろいが、それはともかく…。
 一字違いでややこしいが、大川郡は明治期に敷かれた郡制でその範囲は現在の東かがわ市と西隣りのさぬき市を合わせた地域のことである。そして、その東半分の東かがわ市の市域は、明治期まで讃岐で1000年以上の永い間にわたって続いてきた、「大内郡」と呼ばれてきた地域と重なっている。
 例によって、でんでんむしの岬めぐりは、その訪問地について事前の下調べをいっさいしない方針なので、初めての駅に降り立ち、初めての町を地図だけを頼りにふらふらと歩いて行く。いつもそのようにして、前から知っていたこととは別にそこで初めて見聞きしたものを、“ほ~”とか“ヘー”とか新鮮な感動とともに受け止める。
hiketa-1.jpg
 この雨の降る讃岐の古い町の“ほ~”は、なかなかにレトロな印象であった。空襲にも震災にも大火にもあわない幸運に恵まれた、大きな高い建物もない町並みは、全体に黒っぽい。2階が低く虫籠窓と呼ばれる小さな窓が申し訳のようについているのが特徴。古い商店街もあると街角の案内板が示す辺りは、ちょうど道路工事中で入れない。
hiketa-2.jpg
 結構激しい雨の中を、とても“らんらんらん”という気分ではないが、ちゃぷちゃぷ港に向かって歩いていると、いかにも古そうな家々が並び、そのいくつかには歴史的建物として保存されているものらしい。
 そうした建物のなかのひとつ「讃州井筒屋敷」は、東かがわ市が保存のため所有し改修して公開しているもの。雨宿りを兼ねて飛び込んだ。
hiketa-3.jpg
 各地方の素封家には、酒造や醸造などを業として財をなしたものが多いが、引田御三家といわれたひとつ佐野家も、元禄時代からの醤油づくりで全国的に引田醤油(“ヒゲタしょうゆ”とは音が似ているが、それは銚子発祥なのでこれとは関係がない)の名を広めたといわれる。
hiketa-4.jpg
 この家の住居や蔵などを公開していて、イベント等にも使われているようで、ちょうどこの日は結婚式前の写真撮りかなにかが行なわれていたので、座敷や離れのほうには入るのを遠慮した。写真左上の白無垢が花嫁さんである。
 受付で昆布茶をごちそうになって、陳列を見ていてわかったのは、なんと引田は和三盆の発祥の地であるという。“ヘー”である。
 あの暴れん坊将軍吉宗の時代に、高松藩がサトウキビの栽培を始め、それまで黒糖中心だったが、“盆のうえで三度研いで白くする”和三盆の製法を編み出したものという。ここでは和三盆を固めて型抜きする干菓子づくりなどの体験ができるらしい。隣の阿波にも和三盆はある。
hiketa-5.jpg
 引田付近の古絵地図が展示してあったが、山が西北からの風を防ぐ地形に囲まれた丸い港は、瀬戸内海航路の重要な港のひとつであったことがよくわかる。なぜなら、ここは大坂にいちばん近い讃岐である。渦潮の合間をぬって鳴門海峡を通ってもいいが、淡路島の西岸に沿って北上し岩屋を回れば大坂はすぐだ。
 そして、内海航路は、陸上交通が発達して車のまま四国へ往来することができる現代では、想像もできないほどに重要であった。
 その引田港に出入りする船の船舵職人の子に生まれた久米通賢(1780〜1841)は、日本で初めて実測地図をつくった人で、それは伊能忠敬よりも早かったという。もっとも、その地図の範囲は讃岐にとどまりごく狭かったが、その2年後に伊能測量隊がやってきたときにはついて協力したという。外国船が日本沿海に出没する時期、この人は測量のほか洋学への関心からか海防に熱を入れるようになり、高松藩で銃器や軍艦の設計をするかと思えば、坂出の塩田開発をしたり、農業用揚水機やマッチなどいくつもの発明品も残したりして、“讃岐のエジソン”として地元では偉人のひとりに数えられている。
 地理院地図を見ると、引田港に流れ込む小海川の北に海に突き出た城山の内側に「引田」という地名がある。そのほかにも松原とか大池・安戸池といった汽水湖のような地形もあり、西へ山を越えると白鳥や三本松の町がある。
 この城山の内側を見ていると、直線で区切られた広い田圃があるので、またしても勝手な憶測では、ここにある「引田」こそが、“田を引く=干拓”からきたこの地名の起こりではなかったかと思える。
hiketa-8.jpg
hiketa-9.jpg
 引田駅に戻る頃には雨もようやく小降りになり、高徳線で津田まで引き返す電車を待つ間にほぼ止んだ。花が飾られた駅の陸橋に上がってみたが、城山の下の海は見えない。
 そうそう、笠置シズ子はこの町の生まれだった。(七尾市のところで、七尾伶子のことを書くのを忘れていたので、ここは忘れずに…。どっちも知らん? 昭和も遠くなりにけりじゃのう。)
hiketa-10.jpg

▼国土地理院 「地理院地図」
34度13分28.10秒 134度24分7.73秒
hiketaM-1.jpg
dendenmushi.gif四国地方(2015/11/02 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ
タグ:香川県
きた!みた!印(42)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:地域

番外:時国氏庭園=輪島市町野町西時国(石川県)ふたつの時国家が400メートルと離れず並んでいる [番外]

shirsaki-2.jpg
 山また山が続く能登半島ではめずらしく、町野川の流域だけが山が切れて、幅が約1キロもある平地が展開する。地図ではその東側の山裾に、「∴ 」がふたつ並んでいる。町野町西時国の「時国氏庭園」と、町野町南時国の「上時国氏庭園」である。これはなんだろうと、前から気にはなっていたので、今回はそのひとつだけでも行ってみようと、白米千枚田、白崎を経由する町野線のバスで、下時国まできた。
tokikuni-1.jpg
 とりあえずふたつある時国家(ときくにけ)のうち、手近なところにあるほうで、間に合わせることに。
tokikuni-3.jpg
 パンフの説明によると、時国家は平時忠を祖とし、その子の時国の代からこの地に腰を据え農地を開き耕やし、時国村をつくってきた地域豪族である。江戸期には山廻役、御塩懸相見役、御塩方吟味人役など藩の役職を代々受け継いできた豪農大庄屋であったということらしい。その家が重要文化財として残されているわけだが、地理院地図ではどちらも「庭園」のほうがメインとなっている。どうやら家のほうは江戸期のものだが、庭園のほうはもっと古いらしいが…。
tokikuni-4.jpg
tokikuni-5.jpg
 鎌倉様式の回遊式庭園は、みたところあまりたいした感銘を得ることはないようだ。しかし、それが歴史ある“国指定の名勝”であるため、そういう扱いになっているらしい。
tokikuni-8.jpg
tokikuni-10.jpg
 因みにMapionでも「∴ 」で表示されているが、下は「能登安徳合祀時国家」と、上は「本家上時国家」となっている。
 下でもらったパンフには「重要文化財 時国家」と表に記してあり、裏に小さくかっこ書きで(下時国家)と表記している。
 横着をして足を伸ばさなかった上のほうのサイトでは、「珍しいタイプの民家 国指定 重要文化財・名勝」として「本家 上時国家」を名乗っている。サイトの作り方も専門家に依頼してつくった下と、いかにも手作り感あふれる上と対照的であるが、料金は下が600円で上が500円。
tokikuni-11.jpg
 そもそも、どうしてここにちょっとだけ離れてふたつの時国家があるのか。それは、1634(寛永11)年になって、13代目にあたる藤佐衛門時保が、時国家を二家に分けたからであった。
 なぜ、ふたつに分けたかといえば、天正年間に能登は加賀前田藩領になるが、その後の慶長年間には時国村の一部が越中土方領になるという事態になる。それを受けて、13代目自身は分家して加賀藩領に居を定めたということらしい。分家を決意した当主のほうが「下時国家」となるのだが、なぜ、自分のほうを分家にしたのだろう。
 越中土方領のほうが「本家」を称することになったいきさつはよくわからないのだが、上のほうのサイトには「当家は本家です。分家は川下に屋敷を建てるのが礼儀でした。それで川上の当家を上時国家、川下の分家を下時国家と呼ぶようになりました。」と記して、案内図には下のほうを「時国家(分家)」と表している。
 野次馬的観察では、この上下両家の間には、微妙な空気感が漂っているように見受けられて、なかなかおもしろい。
tokikuni-12.jpg
 下の庭には「能登安徳天皇社」なるものがあるが、“源平800年”の1985(昭和60)年を期に設立された“全日本平家会”が、赤間神宮から下時国家に分霊という形で邸内社を建立したのだそうだ。
 それはどういう因縁で? なぜここに? それがまたおもしろい。
 時国家の祖である平時忠は、壇ノ浦で義経の源氏軍勢に破れた平家の数少ない生き残りで、そのなかでは平大納言は最高位の平家重臣であった。捕らわれて京に連れ戻されても死罪に問われなかったのは、彼が武人ではなく文官であったこと、神器のひとつである鏡を守ったこと、自分の娘を源義経に嫁がせるなどの事情があったらしい。
tokikuni-13.jpg
 結局、1185(文治元)年、時忠は能登に配流されるが、その場所はここではなく、北東へ13キロの現在の珠洲市大谷であった。1189(文治5)年にそこで没していて平時忠公墓所もあるという。
tokikuni-14.jpg
 時忠が言ったとされる「一門にあらざらん者はみな人非人なるべし」の意味は、だいたいにおいてよく誤解されている。これは自身が責任者となっていた建春門院の御願寺・最勝光院の造営が完成し、翌年には従二位に叙せられた頃に、平氏の栄華をたたえての言であるが、“人に非ず”というのは「宮中で栄達できない人」という程度の軽い意味だというのが、現在では有力な説となっている。
 実際問題として、当時の状況はそれはごく当然、当たり前すぎるくらいのことであって、「言うまでもない」程度の常識にすぎなかった。言うまでもないことをことさら言うと、放言になってしまうという例なのか。
tokikuni-15.jpg

▼国土地理院 「地理院地図」
37度27分0.83秒 137度4分41.28秒
tokikuniteienM.jpg
dendenmushi.gif北越地方(2015/09/12 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ
タグ:石川県
きた!みた!印(35)  コメント(4)  トラックバック(0) 
共通テーマ:地域

番外:白米の千枚田=輪島市白米町(石川県)年会費20,000円で棚田のオーナーになれるそうですよ [番外]

shiroyone-4.jpg
 “千枚田”というのも、最近では全国あちこちで名乗りをあげているようだが、それらのなかでも有名なのがここであろう。
shiroyone-1.jpg
 駅はとうにないのに“輪島駅前”を名乗っているバスターミナルから、今度は町野線という路線バスに乗る。町野というのは能登半島の中央、曽々木の海岸から山の中にまで広がる集落で、バスは国道249号線を曽々木口に向かい、そこから町野川に沿ってそこを経由して横断し、内浦の宇出津(うしつ)へ出る。運転席の横にスコップが常備されているのは、能登半島横断路線の冬に備えてのことであろうか。
shiroyone-3.jpg
 大きな地図で見ると、ほとんど直線のような能登半島北側の海岸線も、山がぽこぽこと細かく出入りを繰り返し、国道もそれに沿って何度もカーブを描きながら東北東に進んでいく。この線の輪島駅前から曽々木口のほぼ中間にあるのが、輪島市白米(しろよね)町である。
 海岸線はわずか1キロにも満たないくらいの小さな町の名は、今では世界的にも知られているくらいだが、それもこれも千枚田のおかげである。
shiroyone-2.jpg
 深見町の集落を過ぎ、またぽっこりとカーブが膨らむところが道の駅になっていて駐車場があり、そのすぐ下の斜面に段々畑ではない段々田んぼ“棚田”がきめ細かく模様を刻んでいる。
shiroyone-5.jpg
 白米町の集落は、この棚田からさらに山のほうに入った緩斜面に散らばっていて、田もまだ上のほうに続いているらしい。川もなく、棚田はかなりの急傾斜で海に落ちていくが、必要な水がちゃんと確保できるという地理的な条件に恵まれたのだろう。
shiroyone-6.jpg
 高さは200メートルくらいしかない南北にある山が、開けた明るい谷間をつくりそこに水を溜めつつ、徐々に海岸の棚田まで潤しながら届くような仕掛けになっているようだ。そんなふうに、地図からは読める。
 ここの棚田は、それぞれ個人などがオーナーになるような制度もあるようで、それでいろいろなメディアにも取りあげられることも多く、全国的に有名な棚田になっているのだろう。
shiroyone-11.jpg
 道の駅のあるところで、60メートルくらいの高さがあるが、そこから道(国道249号線)は下り坂になり、千枚田を過ぎるあたりは30メートル、その先で白米町が終わって野田町になるあたりからは、海岸波打ち際まで降りて名舟海岸へといながっていく。
shiroyone-8.jpg
 その下っていく道路の下には、小さい“小泉純一郎さんの田んぼ”があり、そのすぐ下はもっと大きく“小泉進次郎さんの田んぼ”がある、と案内のパネルには表示してある。
shiroyone-10.jpg
 そのまた下の細長いのは“安倍昭恵さんの田んぼ”となっていた。
 そのほか、永井豪さんや、さいとう・たかをさん、ちばてつやさんなどの漫画家たちの名も並んでいた。永井豪は輪島市の生まれで、朝市通りには記念館もあるようだし、のと鉄道の車両にはキャラクターが描かれたラッピング車両が走っている。
shiroyone-9.jpg
 こどもの頃に手塚治虫の「ロストワールド」に出会って、以来漫画家になることを目指したというが、石森章太郎のアシスタントを経て、デビュー翌年の「ハレンチ学園」が大ヒットしたことは知っている。
 さいとう、ちば両氏は記念館の行事にも駆けつけるゴルフ仲間であるらしいので、その縁でここにも「ゴルゴ13」も「あしたのジョー」も名を連ねることになったものだろう。
shiroyone-12.jpg
 棚田のオーナー会員の年会費は20,000円で、マイ田んぼ1枚にオーナー名の表柱建立。オーナーの特典としては、収穫した米10キロに+地元山菜がもらえるという。
shiroyone-13.jpg
 ここは前に来たときも通過していたので、今回は西保線のバスが出るまでの間を利用して、輪島から往復してきた。バスも通るが車窓からではこういう景色は見られない。

▼国土地理院 「地理院地図」
37度25分31.52秒 136度59分58.32秒
shirakomesenmaidaM.jpg
dendenmushi.gif北越地方(2015/09/12 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ
タグ:石川県
きた!みた!印(40)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:地域

番外:門前町総持寺祖院と再びのビュー・サンセット=輪島市門前町鬼屋・門前町北川(石川県)門前町の岬まとめを兼ねて [番外]

 2015年の能登半島の岬めぐりは、門前町深見の猿山崎で終わっていた前のルートを引き継ぎ、半島北西部の海岸から始まったが、北は次項の大長崎のある門前町皆月から南は門前町剱地の琴ヶ浜の黒崎まで、およそ17.3キロにわたって“門前町”が続いている。鳳珠郡門前町は2006(平成18)年に、隣接する輪島市と新設合併していて、この合併によって門前町内の108もの大字にはすべて、「輪島市門前町」を旧字名の上に冠することとなったためである。大字が108もある(煩悩の数と同じ!)というのが驚きだが、それも門前であることとなにがしか関連があるのだろうか。
monzenmachi-3.jpg
monzenmachi-7.jpg
 大きな寺社がある場合、その門の前から周辺にかけて町が形成される。それを“門前町”と呼ぶわけだが、それがそのまま町や行政区画の名称になっているところも全国で数えれば10か所くらい(もっとかな)はありそうだ。ここ、能登の“門前町”もそのひとつだが、ここの“門”はどこの門だろうか。それは「總持寺」である。総持寺と言えば今では鶴見だが、その発祥がここなのだ。
monzenmachi-21.jpg
 この地に、曹洞宗大本山總持寺ができたのは1321(元亨元)年で、後醍醐天皇や鎌倉幕府執権は北条高時という時代である。開祖の螢山紹瑾禅師は、後醍醐帝の綸旨を受けて勅願所となり、曹洞宗第一の道場の地位を固めたといわれる。
monzenmachi-9.jpg
 ナンでこんなところに曹洞宗大本山が…という思いも湧き出てはくるが、とにかくそれから1898(明治31)年に火災で焼失するまで、末寺一万六千余をかかえる大本山の役割を果たし、門前町も発展してきた。
monzenmachi-5.jpg
 火災で七堂伽藍の大部分を失ったのをきっかけとして、大本山は1911(明治44)年に神奈川県横浜市鶴見に移転され、復興を果たしつつ能登は總持寺祖院を称することになる。
monzenmachi-4.jpg
 この辺りのいきさつにどういう事情があったかは、拝観受付でもらったパンフにも、ほとんど触れていない。祖院として復興はしたものの、全盛期の大本山門前町の賑わいは、おそらく取り戻すことはできなかったのだろう。
monzenmachi-6.jpg
 前回の門前町訪問では、祖院の見学までできなかった。今回は空港からすぐ門前にきて、午後の五十洲へのバスの便まで時間ができた。寺内では仏殿などの大改修工事の最中ではあったが、今回はゆっくり時間をとって参拝し、紅葉の色づき始めた小雨の境内を歩き、門前のナマコ壁のカフェで一休みできた。
monzenmachi-8.jpg
 五十洲、皆月の帰りから、直接輪島市中心部へ出て、そこに泊まることを考えていたが、どういうわけか輪島市内のホテル・民宿の類いがどこもいっぱいで予約できない。そこで、コースとしてはちょっと後戻りになるが、前回も泊まったことのあるビュー・サンセットに能登半島最初の一泊することになった。
monzenmachi-10.jpg
 皆月から乗ったバスが門前に到着するのを、宿の車が迎えてくれて、以前も通った道を南に向かう。途中、黒島の集落辺りにはいろいろ観光案内の看板や幟などが出ていた。これは前にはなかったのだが、この地の廻船問屋の古い住宅などを保存して輪島市の文化財とし、「天領黒島」として売り出すことになったようだ。
monzenmachi-20.jpg
 ビュー・サンセットのことは、前にも書いていたが、広い敷地の多彩な建物を利用して、リゾート・ホテルからファミリー・インへ軸足を移したようで、家族連れや学校行事でやってきたらしい小中のこどたちの団体も泊りできていた。
monzenmachi-19.jpg
 今回泊まった部屋は広い庭にひとつだけある離れである。その離れには「荼?(どび)?=草冠+麻+非」という名がつけられている。ここの各部屋には花の名が当てられているが、離れだけは中国の花の名であるという。
monzenmachi-16.jpg
 そこで初めて知ったのだが、中国の二十四節気の花便り「二十四番花信風(にじゅうしばんかしんふう)」には、穀雨の花として牡丹とこの「どび}を配しているのだ。学名はRosa rubusというキイチゴ類らしいが、結局どんな花かはよくわからぬままであった。
monzenmachi-15.jpg
 この宿の設計がなかなか変わっていて、「いずれ名のある建築家」の作品であろうと前には書いていたのだが、二度目だからそれもちゃんと究明しなければならない。
monzenmachi-17.jpg
 その建築家は、毛綱毅曠(もづな きこう 1941〜2001)という人であった。最後には多摩美で教授を務めたこの人の作品には、岬めぐりでもここのほか、釧路フィッシャーマンズワーフMOO や北越急行ほくほく線のくびき駅舎、今回のルートで通る石川県能登島ガラス美術館がある。
monzenmachi-18.jpg
 多摩美が開いた特別展では、このようにいう。
 
 日本や中国の神仙思想、アジア諸地域の独特な来世観などに取材し、その時空を越えた「人と宇宙、自然との共生」への意識を現代に生きる我々の建築や都市空間にどう応用できるかが、重要なテーマとなっていました。そうした超越的な宇宙観へと飛躍するイメージの展開は、あまりの斬新さに時として賛否の声が起こることもありましたが、建築や都市問題へのグローバルな循環意識、環境や文化へ奥行きの深さを昇華していくデザインを一貫することで、国内はもとより、海外においても高い評価を受けました。

 また、wikipediaは「ただし彼の作品は、実用性、メンテナンス面で非常に難があるデザインの建築物であることも指摘されている」とも言う。
 確かに、風変わりな設計だけに、今後もこれを維持していくのには苦労もあろうかと思わせる。
monzenmachi-11.jpg
 曼荼羅を表すという客室のひとつで、どんな夢をみたのかは思い出せない。

■関連リンク
番外:国民宿舎足摺テルメ=土佐清水市足摺岬(高知県)建築家ここにあり

*輪島市門前町の岬・全リンクリスト(北から南へ)
 1265 大長崎 (次項に掲載予定)
 1264 小崎=輪島市門前町皆月(石川県)通ヶ鼻からさらに北へ細い道を行くとあれっ?また小崎ですよ
 1263 通ヶ鼻=輪島市門前町皆月(石川県)クラゲのような形をした「神様岩」がある港も船も小さいが…
 1262 小崎=輪島市門前町五十洲(石川県)猿山岬に続く次の岬は皆月線のバス終点の先にある風の岬で…
 1261 猿山岬=輪島市門前町深見(石川県)能登半島の西海岸線をつないでいくルートはここで分断されているので…
 730 猿山崎=輪島市門前町深見(石川県)猿山岬と猿山崎は別の岬でこの付近を能登半島地震が直撃した
 731 上長谷崎=輪島市門前町鹿磯(石川県)いまさらながら“岬”は日本の海辺の風景に欠かせないと思う
 732 赤神崎=輪島市門前町赤神(石川県)赤い神の岬を守ってきた八ッの島は砕けて岩礁になったのか
 733 黒崎=輪島市門前町剱地(石川県)ここはいちばん多い岬の名前がついた岬ですがなにか…

▼国土地理院 「地理院地図」
37度17分11.71秒 136度46分12.93秒 37度16分8.64秒 136度44分1.53秒
monzenSojijiM.jpg
monzenVSM.jpg
dendenmushi.gif北越地方(2015/09/11?12 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ
タグ:石川県
きた!みた!印(35)  コメント(2)  トラックバック(1) 
共通テーマ:地域

番外:新潟県立大潟水と森公園=上越市大潟区潟町(新潟県)潟の自然を活かした公園で潟の風景を偲びつつ… [番外]

ogata-15.jpg
 そう、“潟(かた・がた)”とはなにかといえば、辞書などを引くと「ラグーン」というのがすぐに出てくるのだが、「新潟」の「潟」を想像するに、これではなんとなくピンとこない…。
ogata-1.jpg
 信越本線の列車を降りた駅は「潟町」。ここならそれらしいイメージも…と、頭に入れた地図をなぞりながら道を探して行くと、駅から初めてその公園の看板を目にした。なにしろ、駅にも駅前にも、なんの情報もない。看板にひとつ、道案内のひとつもないのは意外だったが、まず十中八九というより十中の九・九は車でやってくるので、でんでんむしのように信越本線から来る人間などおよそ想定外で、無視してよい範囲なのだろう。
ogata-4.jpg
 車で来る場合は、北側の道路から正門があるらしいが、へそまがりはそういう道は行かない。なるべく駅から近いルートを探して、信越本線の線路を陸橋で越え、住宅の間を抜けて北陸自動車道を橋で渡り、公園内に入る。入場無料だから垣根もゲートもない。歩いて行けばそこが「新潟県立大潟水と森公園」の中だった。
ogata-3.jpg
 園内の写真を適当に並べて置くが、でんでんむしの想像では、公園としてきれいに整備はされているが、その多くはもとからの自然のままであったろうし、そこにこそ「潟」の風景があるのではないか、と考えたのである。
ogata-14.jpg
 この付近にいくつもある大きな池のひとつ、鵜ノ池を中心にして、広い園地の中を歩いているとそれはほぼ合っているのではないかと思えてくる。
ogata-10.jpg
 池の中に突き出た島の上には、古墳時代の円墳があるくらいだから、水と森は人々の生活の場でもあったのだろう。
ogata-6.jpg
潟(かた)もしくは潟湖(せきこ)
湾が砂州によって外海から隔てられ湖沼化した地形。ただし完全に外海から隔てられたものはほとんどなく、ごく狭い海峡により外海とつながっているものが多い。したがって、ラグーンは塩湖である。
日本では北海道のサロマ湖、秋田県の八郎潟などがラグーンにあたる。
(ウィキペディア)
ogata-7.jpg
潟 かた lagoon
砂州によって外海から隔離された海岸の湖。浅海の砂が沿岸流などによって移動して砂州が形成され,内側が湖になる。潟は浅く,波が静かで,海と通じる口が狭いものほど塩分が少い。土砂の堆積によって,次第に浅くなり,淡水化して,やがて湿地となり,ついに海岸平野の一部になる。
(ブリタニカ国際大百科事典 コトバンク)
ogata-8.jpg
 ふたつの解説・定義を並べてみたが、「ラグーンは塩湖」と限定したものより、「ついに海岸平野の一部になる」という後者の解説のほうが、この場合ぴったりくる。
ogata-16.jpg
 この上越市の海岸線付近の地形は、まさしく砂州により陸地の内側に水域が閉じ込められたか、という感じである。公園になっている鵜ノ池の周辺には長崎という横長に固まっている集落や、その周りにいくつもの新田の名があるのも、近代におけるこの辺りの開発過程を示しているようだ。
ogata-9.jpg
 そして、この付近よりもずっと後から、同じような条件に川が加わってできた「潟」が、だんだんと陸地として固まってできたところが「新しい潟」「新潟」だったのではないか。
ogata-12.jpg
 「番外:新潟の鉄道路線」の項で書いたようなことと合わせて考えてみると、それはほんとに“新しい”ことだったとわかる。
 ただ、断っておくがこれはでんでんむしの私見である。あえて申し述べるのは、「新潟」の語源・由来については、どうも確かなものがないようなので、それならばとどこにも書かれていない(と思う)新説を披瀝しておこうと考えたからである。
 「新潟」がいつからそう呼ばれるようになったか、その由来はなにか、については“信濃川河口に潟があったから”といったところでは共通点があるものの、“「方」が「潟」になった”とか諸説があってはっきりしない。いつから、という点でも一説では16世紀からというが根拠が明らかでない。はっきりしているのは、日米修好通商条約の結果、幕末に初めて公式に五港開港とされたひとつに「新潟」があることだけだ。

ogata-13.jpg
 例によって、ChinchikoPapa さんからは、前項について「犀潟」の次の駅、「くびき」も気になる名称ですね。」とのコメントをいただいた。「くびき」というのは、犀潟から乗り換えて、六日町へ向かうほくほく線の次の駅名である。大池にも近く高田平野の東の終わりに近く、山に入って行く手前だが、周辺には駅名以外にその名を示すのは中学校と郵便局くらいしか残っていない。だが、そこらは2005年に合併して上越市に吸収されるまでは「頸城村」だったところで、現在は上越市頸城区となっている。
 いわゆる行政区画ではないが、かつて越後の国には「頸城区」があり、その範囲は柏崎の一部から糸魚川におよび、山側では妙高や十日町まで含まれていた。だが、「頸(くび)」が意味する地形的な特徴も「城」の意味も定かでなく、現在の地図上やネット情報からはなにひとつうかがい知ることもできない。
kubiki-1.jpg

▼国土地理院 「地理院地図」
37度13分45.49秒 138度20分54.65秒
oogatakouenM.jpg
dendenmushi.gif北越地方(2015/07/02 訪問)

にほんブログ村 その他趣味ブログ<br />その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ


タグ:新潟県
きた!みた!印(35)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:地域