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番外:仏ヶ浦=下北郡佐井村大字長後(青森県)呆れ果て驚き果てて仏ウタ念仏申すほかなかりけり… [番外]

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 仏ヶ浦へ行く方法は、車で行くのと船で行くのとふたつがある。
 車なら北の佐井からでも南の脇野沢からでも、まず国道338号線で山に登って150メートルくらいの高いルートを仏ヶ浦の上から駐車場へ降りる。そこに車を停めて、あとは110メートルの山坂を延々と下って、仏ヶ浦の磯に降りることができる。帰りはまた、そこを上ってくることになる。山道の急斜面の登り降りくらいなんでもないよ、という人と、罰当たりな展望台から仏ヶ浦を見下ろしたいという人限定のコースになる。
 船で行くらくちんコースを選びたい場合は、これも北からでも南からでも、とりあえずは牛滝港まで行き、そこで小型の遊覧船に乗り換えることになる(ほかに佐井や脇野沢から出る遊覧船もあるのかもしれない)。遊覧船には二種類あってひとつはグラスボートを標榜しているが、これは期待しないほうがよい。その遊覧船で仏ヶ浦の船着場に上陸し、周辺を散策することができる。現地には、地蔵堂と管理事務所とトイレくらいしかない。
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 二種類の遊覧船は、それぞれ時間やポーラスターとの接続方法などが異なるようなので、事前によく調べて予め予約などの確認が必要だろう。
 でんでんむしは前にその遊覧船で行っているので、今回は仏ヶ浦の沖を通るポーラスターから眺めるのみ。実は、遊覧船で行って帰りは脇野沢で大湊方面に行くバスに接続できないかも検討してみたのだが、数少ないバスが出てしまった2分後に脇野沢に帰ってくるようになっていた。2分くらいどうにかして、バスに接続できないのかとむつ市に問い合わせてみたが、それはまったく考えていなかったらしい。つまり、遊覧船は、ポーラスター接続しか考えていない。
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 往路のポーラスターが牛滝港に入ると、小さな港なのにやたら長い堤防(これは地理院地図にはまだ表示されていない)と、何の工事だかよくわからないがこれまた長い構築物を港につくっていた。そこで同乗者はみんな降りて遊覧船に乗り換えて行ったので、船室はそして誰もいなくなった状態。
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 船が牛滝港を出て北の仏ヶ浦へ向かうとき、大細間沢という谷を通過する。遊覧船より大きいポーラスターは、仏ヶ浦を通るときは、極力海岸近くを徐行する。船からの写真ではどうしても平板になるのと、大きさのイメージがつかない。前項でもふれた前の031 福浦崎の項も合わせて見ていただきたいが、地蔵堂の建物と岩の間に浮かんでいる遊覧船を見ると、その岩の大きさがわかる。人間は豆粒のようにしか見えない。
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 地蔵堂の前から、背後の山の上の国道につながる駐車場と登り降りする道がある。岩にはそれぞれ仏などの名前が付けられているが、それはまあどうでもいいというか…。どうでもいいが、当初ここを見た人が仏の世界と連想を広げ、昔はここが「佛宇陀」と呼ばれたのは、なるほどと思わせる。「宇陀(うた・うだ)はアイヌ語で「浜」という意味なのだが、それに佛をくっつけ、その読みが転訛して仏ヶ浦になったものだろうか。
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 ポーラスターの船内放送でも、ガイドのアナウンスが流れる。往復同じものを聞かされたが、そこでもやたら引用されていたのが、大町桂月だった。地理院地図で地蔵堂の下の岩磯に石碑の記号があるが、これも大町桂月の歌碑なのだ。
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 ここだけでなく、とくに東北ではどこへ行っても大町桂月の名がでてくることは多い。誰も行かないようなところへでも、積極的に出かけているからだろう。そうした各地の歌碑などの紹介には「文豪」としているものが多く、ここでも遊覧船のページでは「文豪」となっていた。
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 へそまがりでんでんむしは、前からこれに苦言を呈していてどこかで書いてきた。代表作の名前ひとつ誰も知らない「文豪」はあり得んだろう。美文調の紀行文は当時広く読まれたらしいが、確かに仏ヶ浦に関して言えば、この地を世間に広く紹介したのは彼の功績といえるのだろう。桂月がここを訪れたのは、1922(大正11)年のことで、亡くなる3年前だった。
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 仏ヶ浦の景観をつくっている緑色凝灰岩(グリーンタフ)は、海底に堆積した後に隆起し、それが長い間の風雨波浪の影響によって侵食され、現在見るようなさまざまな形をした巨岩が残った、と考えられている。
 前項で緑色凝灰岩の形成背景については触れていたが、このグリーンタフの仲間のひとつである石は、われわれのごく身近にあって(とくに関東では)、誰もが見たり触ったりしているはずだ。それは大谷石という名で、石垣などに広く使われているからだ。復路のポーラスターは、一路南へ向かい脇野沢港を目指していく。
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▼国土地理院 「地理院地図」
41度18分39.31秒 140度48分14.71秒
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dendenmushi.gif東北地方(2017/09/05 訪問)
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番外:ポーラスター=青森港・陸奥湾(青森県)逆マサカリ形の陸奥湾を南北140キロにわたって縦断する航路 [番外]

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 青森県の岬が多いのは、ひとえに陸奥湾が海岸線を長くしているからと言える。その陸奥湾は、津軽海峡から大間崎と竜飛崎を東西の湾口として、南に広がっているが、夏泊半島がその中央で北に向いて突き出ているので、その東を野辺地湾、西を青森湾と分けて呼ぶこともある。青森湾は半島より深く南に食い込んでおり、野辺地湾の北は大湊湾として北に凹んでいる。
 よく、下北半島がマサカリのような形と言われるが、「ルビンの壺」を見るときのように眼を変えて見ると、陸奥湾もまた下北半島と同じような形で対をなす、逆マサカリになっていることに気づく。
 逆マサカリの柄の部分が、青森港から下北半島と津軽半島の間を抜けて海峡に達する航路にもなっている。一般定期航路としては、陸奥湾を下北の脇野沢と津軽の蟹田の間で横断するむつ湾フェリーがあり、もうひとつ青森港と下北の佐井を結ぶシィラインがある。むつ湾フェリーには前にも乗っているので、今回はシィラインの「ポーラスター」(北極星を意味する名)に乗って、陸奥湾を縦断することにした。
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 朝早く、浅虫温泉駅を出て青森駅に降りる。ここから北へ向いて歩いて行くと、黄色と白の船体が岸壁に横付けされた、かつての青函連絡船「八甲田丸」を横目になおも行くと、青森港の客船ターミナルがある。乗船名簿に記入して脇野沢経由で福浦までの乗船券を買う。福浦までは3,460円也。
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 ここからポーラスターで、陸奥湾を北上すると、終点は佐井まで行くのだが、福浦と佐井の間は25キロと長いうえに岬がひとつもないので、その区間はカットした。実は、佐井からの船は、前にも団体ツアーで乗って仏ヶ浦に行ったことがあるのだ。
 で、青森から脇野沢までが55キロ、脇野沢から牛滝までが45キロ、牛滝から福浦までは15キロ。帰りも、福浦から脇野沢までこの船に乗る予定。
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 高速船のポーラスターは、フェリーや連絡船のようにデッキに出たりできない。航行中は客室に閉じ込められる。したがって、船からの岬めぐりも船室の窓越しに、ということになる。
 それなのに、座った後部座席の窓が、飛沫がかかるせいなのか恐ろしく汚い。前部のほうはさほどでもないらしいが、もう窓側の座席は全部ふさがっている。残念! 
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 シィラインのサイトには、下北半島と青森市とを結ぶこの航路について、「生活航路、観光航路、併せて下北半島が原子力半島であることから防災航路としての役割を担ってい」ると書いている。
 防災航路というのは、初めて眼にする。下北が「原子力半島である」というのは、かつては原子力船「むつ」の母港拠点だったことからの歴史を踏まえてのことだろうが、電源開発株式会社Jパワーの大間原子力発電所の工事も行なわれている。ただ、こちらのほうは函館市の工事凍結の訴えを起こしていることに加えて、震災の影響もあって当初2014年としていた運転開始予定は、大幅にズレこんで工事は長期化している。
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 1日2往復のこの航路は、どうやら仏ヶ浦観光の客がメインのようで、生活航路としての利用客は少ないようだ。生活航路としては、やはり車ごと移動できる脇野沢=蟹田のむつ湾フェリー(1,470円)のほうが、利用客は多いのだろう。
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 「八甲田丸」を見ながら港内をくるっと回って向きを変えると、バッコノ崎を横目に、船は北への進路をとる。
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▼国土地理院 「地理院地図」
40度49分57.52秒 140度44分14.47秒 41度19分36.17秒 140度48分23.67秒
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dendenmushi.gif東北地方(2017/09/05 訪問)
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タグ:青森県
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番外:浅虫温泉=青森市大字浅虫(青森県)アサムシってどんな虫って思った人必読そんなん知ってらぁの人はムシしてよし [番外]

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 東北本線時代に何度か「浅虫温泉」駅を通り過ぎ、アサムシってどんな虫なんだろうと漠然と思っていた。今回は初めて青森市営バスでやってきて、帰りは青い森鉄道で青森に引き返した。
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  ここへきて初めて知ったのだが、浅虫はムシではなかった。ムシではなくて、「アサをムス」ことから転じて「麻蒸」→「浅虫」となった名であった。では、なぜ「麻を蒸す」のかといえば、麻の繊維を取り出すためで、それには長時間水につけて発酵させるか、熱を加えるかして、皮を剥ぎ取る必要があったからだ。
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 その筋からしっかり目をつけまわされて、今ではすっかりワルモノ扱いになっている感がある大麻も、もともとは日本人の、とくに木綿が手に入らなかった北の人々にとって、貴重な衣料原料であったから、戦前までは広く栽培していたのだ。ここでは、麻の木から繊維を取り出すための工程に温泉の熱と水を利用していたというわけだが、そもそもそれはいつ頃のことだろうか。
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 いちおう876(貞観18)年に、円仁がこの温泉を発見した、ということになっている。慈覚大師円仁が、開山・再興したと伝わる寺はやたら多くて、関東で209寺、東北ではなんと331寺余もあるとされている。そのうちには、山形の立石寺、松島の瑞巌寺などの有名ドコロもあるのだが、徒歩で一日約40キロを踏破した人だというから、拡大解釈やあやかり組が多いとしても、あながち事実無根とは言えないかもしれない。
 最後の遣唐使船で唐に留学し、苦労して帰国した円仁が旅の記録を残した日記は、日本で最初の旅行記だったとされる。その足跡は北海道にも及ぶというから、浅虫で温泉を発見するなどは朝蒸前…いや朝飯前だったのかもしれん。
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 しかし、Wikipedia がいう浅虫温泉の歴史によると、円仁の発見にも触れているが、麻を蒸したという話をその理由には触れないままに続いて、「1190年にこの地を訪れた法然が温泉への入浴を広めてから、入浴用途にも使われるようになった」としている。ということは、この温泉は発見されてから300年間にわたって、その用途がもっぱら麻を蒸すためにのみ使われてきたということになるが、これはかなり怪しく思える。
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 実は、この温泉の歴史は、浅虫温泉公式ページにもまったく同じことが、しかも念入りに「布を織る麻を蒸すためだけに使われていました」と明記されているので、そういう伝承があることは事実なのだろう。
 だとしても、発見から300年以上もの間、この温泉では入浴が行なわれることなく、もっぱら蒸していたのは人ではなく麻だったことになるのは、いささか腑に落ちない。そう思うのは、でんでんむしだけなのだろうか。せめてもうちょっと、根拠のある史料が示されるとか「なるほど」と思うような説明をしてくれるといいんだけど…。
 日本の入浴習慣は、6世紀にもたらされた仏教の沐浴からとされているので、始めは蒸し風呂だった。これを寺で僧侶たちが修行の一環として、また七病除七福得という利益として広めたといえる。
 したがって、円仁の時代9世紀にはかなり広まっていたはずで、彼がそれを知らなかったとは考えにくい。だから、それからさらに300年経ってやっと法然がやってきて入浴を奨めたというのは、いかに東北の端っことはいえいささか間が抜け過ぎている。
 それに、1190年といえば法然上人(1133〜1212)57歳の頃で、この頃の法然は、対抗する南都各宗派を意識した浄土三部経の講説や問答などで忙しくしており、とても津軽の地まで足を運ぶことはできなかっただろうし、浄土宗のサイトを見てもそういう記録もない。
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 かつては東北の熱海と言われるほどの繁栄期があったことは、Wikipediaでは、「浅虫温泉駅を中心に、大型ホテルや旅館などの宿泊施設約40軒が営業している」としていることからも想像できるが、40軒というのはいったいいつのことだろう。現在の観光協会と旅館組合のサイトによると11軒が登録されているだけだ。
 駅から歩いて海岸に行く間にも、廃業して閉めたままのホテルの建物があった。歓楽街型温泉地としては、もはや立ちゆかなくなり、近年になって急速に衰退したのだろうか。
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 今、浅虫温泉といえば、水族館と道の駅(兼立ち寄り湯)が二大看板である。それでも、温泉の人を呼ぶ魅力は侮れない。団体御一行様用の大型旅館ホテルは、何軒かその威容を示しているし、その広い駐車場には観光バスが何台か停まっている。それを横目に、でんでんむしが選んだ浅虫の宿は、そうした大型旅館に挟まれるようにして、母娘が営む川縁に細長い小さな旅館だった。
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 棟方志功の絵を飾り、千鳥をシンボルにした旅館の横の小川には、いろんな種類の鳥がやってくるのだという。たまたま宿泊客はほかになく、のんびり悠々と個室しつらえの温泉に浸かってくることができた。
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 浅虫温泉が水族館と道の駅のほかにもうひとつ力を入れているのは、海岸の人工砂浜による海水浴場や海釣り公園の整備だったらしい。湯ノ島を中心として、南には善知鳥崎と鼻繰崎、北には裸島という岩島と八大龍王を祀る小山がある海岸は、なかなかきれいだ。
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 験潮場と青森県名産のヒバの木を使ったモニュメントがある海岸のプロムナードをほたて大橋にむかって北へ行くと、青森市から平内(ひらない)町に入る。
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▼国土地理院 「地理院地図」
40度53分37.77秒 140度51分34.82秒
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dendenmushi.gif東北地方(2017/09/04 訪問)
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タグ:青森県
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番外:羽幌ユースホステル=苫前郡羽幌町(北海道)炭鉱があったことは知っていたがアンモナイトは知らなかったよ [番外]

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 「番外:沿岸バス」の項でふれたように、増毛郡増毛町から北へは10の市町村を走って豊富・幌延まで続くバス路線は、天塩・遠別までが海岸線で、その長い沿線のなかでは、羽幌がいちおう真ん中付近でもあり、中心的な存在だとみていいのだろう。沿岸バスの本社も羽幌にあって、本社の建物の1Fもバスターミナルになっている。羽幌にはもうひとつ街の東寄りに「番外:沿岸バス」で紹介したもうひとつのターミナルがある。
 そこが旧羽幌駅のあったところで、ここからは羽幌炭鉱が活況を呈していた頃には炭鉱のための鉄道が、築別川・羽幌川の上流の山に分け入っていた。名前だけは知っていた羽幌炭鉱は、1935(昭和10)年に操業を開始し、良質な石炭を産出することで知られ、町も空前の賑わいをみせていたようだ。それが閉山して鉄道も廃止されたのが1970(昭和45)年で、わずか35年限りの繁栄だった。
 鉱山鉄道に続いて羽幌線も廃止されたが、羽幌港からは焼尻・天売のふたつの島を往復する航路があるので、交通的には今もなお重要なポイントになる。羽幌に泊まって、翌日にこの島へ行く計画だ。
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 初山別の金比羅岬から引き返して、沿岸バスを本社ターミナルで降り、この日の宿である羽幌ユースホステルまで、街をぶらぶら歩く。繁華なところは本社ターミナルの周辺だけで、そこを外れると静かな町並みが続く。
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 歩いていて気がついたが、車道と歩道の縁石がみな削り取られたような跡が痛々しい。横断歩道の白い印もそうだが、これらは冬場に出動する除雪車の活動の跡だ。夏の道で冬の厳しさを思い知らされる。
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 市街地の南の外れに、広い羽幌公園があり、さまざまなスポーツ施設も集まっているようだ。(スポーツといえば、羽幌炭鉱が盛んだった頃には実業団チームもいろいろ活躍していたという。)
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 緑の公園のなかで黄色く目立っているユースホステルは、アンモナイトでも一部には知られていたらしい。羽幌は、石炭ばかりか、日本でも有数のアンモナイトの産出地で、その調査研究のために国内外からたくさんの研究者がやってくるという。そうした人たちの定宿としても有名になったユースホステルの主人は、門前の小僧よろしくアンモナイトに興味をもつようになり、自分で採取した化石が、ケースに陳列してあった。
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 でんでんむしも、らせんつながりで当然それに興味はあり、神保町の書店のフェアなどで買ってきた化石をいくつか持っている。国内のものは規制もあり販売できないので、買えるのは外国産のものだけ。昔に買ったモロッコ産のはゴロンと大きな石の塊だったが、最近小田原の神奈川県立生命の星・地球博物館のミュージアムショップで買ってきたマダガスカル産のは、薄くスライスした石片だった。興味はあるのだが、とてもそのアンモナイトの山までは行けないし、今回は深く追求できない。
 ユースホステル体験は、能登についで二度目だが、今回は相部屋だった。作り付けの頑丈で広めの二段ベッドが二並びあって、ひとつの下段にはどうやら年寄り同士をくっつけたという感じの先客がいたので、こちらはもう一方の上段のベッドを選択する。上段でも座って頭がつかえない高さはあるので、さほど窮屈でもない。昔よく乗った広島=東京間を一晩かけて走っていた「急行安芸号」のB寝台にくらべればはるかに上等。
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 漫画本(いやコミック?ですか)が棚にずらりと並んだ談話室の片側の壁には、手書きまっぷがずらりとつなげて掲示してある。(下に飛び出しているのは天売・焼尻。)
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 これをつくっているのは、留萌駅の建物の中にあったFM局が拠点の留萌観光連盟で、この場合の留萌は留萌市ではなく留萌振興局管内の意味になるらしい。どこの市町村でも自分のところで制作した観光パンフレットもあるが、羽幌町のサイトではこの手書きのオロロンマップもサイトに載せている。その羽幌のマップでは、右上にユースホステルが描かれている。
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 これは、留萌の駅で発見していたのだが、なかなかの特筆モノなのだ。折りたたんで並んでいる青い部分が海を表している。
 なにが特筆モノかというと、えてしてこういうものは各自治体でバラバラにやるので、あったりなかったり、統一はまったくとれていない。このオロロンマップは天塩から増毛までの8つの沿岸市町村を、同一のスタイルでつなぐように設計されている。どのブロックも広げるとA3判の手書きマップをピンク色の国道232号線が横切っている。このユースホステルの談話室の壁では、それをちゃんとつなげて設計通り実現して、幅3メートルの留萌振興局管内のマップを表示していた。
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 無料で配布しているので、どうして成り立っているのかも気になる。広告はとっていないが、飲食店などからの掲載料収入くらいはあるのだろうか、それとも留萌観光連盟の事業費から予算措置がとられているのだろうか。よそのフトコロを気にしてどうする、というところだがこれだけのものでも調べて書いて描いてつくるとなると、たいへんな労力と装置と技術が必要なこともよくわかっているので、つい心配してしまう。
 これだけ広範囲な地域を、これだけちゃんとカバーしたオロロンマップのようなものは、北海道のほかの管内でもあったのだろうか。それともこの留萌管内だけなのだろうか。
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 車でフェリー乗場まで送ってもらい、ふたつの島へ向かう。
(留萌観光連盟制作の各市町村のまっぷは、留萌観光連盟ホームページからダウンロードできます。)

▼国土地理院 「地理院地図」
44度21分6.02秒 141度42分3.97秒
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dendenmushi.gif北海道地方(2017/07/02 訪問)

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タグ:北海道
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番外:沿岸バス=苫前郡初山別村字豊岬(北海道)オロロンラインを走る沿岸バスで留萌=豊岬間に乗り帰りは羽幌経由で [番外]

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 沿岸バスのバス停は、要所要所ではビルの一角を借りたり、あるいはそれ以外のところでもいちおう屋根付きベンチ付きの待合所を設けている。
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 留萌の十字街も留萌駅前(といっても駅から少し離れた国道沿い)の停留所も、ビルの一角で、ベンチとトイレと自販機が備えられている。これから80キロ近くも(あるいはそれ以上)バスに乗って行くとなれば、これはありがたいというか、必須でもあるのだろう。
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 そもそもこの沿岸バスは、廃止された鉄道の代替交通機関としてできたものなので、その路線もレールのあったところをなぞっているらしい。
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 留萌を出た沿岸バスが、北へ向かって日本海の北沿岸を走り始めると、ほぼ真っ直ぐに海岸そばの道路がしばらく続く。15キロも走ると大椴川を渡るが、ここまでがこの沿岸に最初に線路が通った区間になる。留萠本線から北へ分岐して、留萠=大椴間が開通したのは、1927(昭和2)年のことであった。以来、この鉄路は、羽幌までそして幌延・天塩・遠別と延びつながっていき、1935〜36(昭和10〜11)年には宗谷本線と接続していた。
 そうして、半世紀を超える歴史を刻んできた羽幌線も、1987(昭和62)年それも国鉄分割民営化直前に廃止されている。露骨というかなんというか、まるで路線廃止の見本かなにかのように、民営化の直前に国鉄の線路として最後の廃止路線となったのが、かつては急行「るもい」や「はぼろ」が走ったこの羽幌線だった。
 こうして留萠=幌延間141.1キロは、沿岸バスのバス路線に転換され、この南北に長い路線バスが走ることになった。
 増毛から北へ、この路線バスが走り抜ける沿岸市町村は、増毛郡増毛町・留萌市・留萌郡小平(おびら)町・苫前郡苫前町・苫前郡羽幌町・苫前郡初山別(しょさんべつ)村・天塩郡遠別町・天塩郡天塩(てしお)町・天塩郡幌延町・天塩郡豊富(とよとみ)町とちょうど10を数える。いずれも、道民にはともかく本土の大半の人にとってはあまり馴染みのない地名ばかりだろうと思われるが、幌延という地名はそのうちみんなに知られるようになるかもしれない。なにしろ、そこは放射性廃棄物の地層処分の実践研究が進められているから…。
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 国道232号線と239号線は、別名オロロンラインの長い北への道中は続く。この沿岸は道路が海岸のそばを走っているが、山側が崖で迫ってくることはなく、明るく開けていてトンネルもない。
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 鬼鹿豊岡を過ぎなおも小平町が続くが、やがて苫前町に入ると、霧がいっそう濃くなってきた。苫前は大きな地図でもちょっとした出っ張りが目立つ場所もあって、港と灯台のある丘があるのだが、そこには岬がない。沿岸の岬は、羽幌町にもないので、次は初山別村の金毘羅岬までない。金比羅岬の先にもない。
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 往路では霧で何も見えなかったが、復路のバスからは苫前のグリーンヒルウインドパークという風力発電の風車が立ち並ぶところや鵜が羽根をやすめるロウソク岩がある。
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 今回の岬めぐりのポイントのひとつでもあった、天売・焼尻の島から帰ってきたときに、立ち寄ったのが沿岸バスの羽幌ターミナル。ここは旧国鉄の羽幌駅と鉱山鉄道の駅があった場所らしく、広い敷地をゆったりと使っている。その昔は羽幌の炭鉱から石炭を積み出す貨車がひしめいていたであろう旧構内は広い公園になっていた。
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 羽幌駅のあったことを示す、草花に埋もれた歌碑は「数多き 思い出乗せし 羽幌線 昭和とともに名残り惜しまむ」?と読める。昭和2年から昭和62年だから、確かに昭和とともあった鉄道だった。
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 帰りに、初山別から羽幌まで、羽幌から留萌まで乗った沿岸バスは、来るときの観光バスタイプではなく、普通のバスで途中で乗り降りする人も多かったので、長距離移動のためでなく生活路線としても充分に機能しているらしい。それでも経営は楽という訳にはいかないので、先に「番外:増毛」の項で紹介したようなお願いになるのだろう。
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▼国土地理院 「地理院地図」
44度33分48.46秒 141度46分26.30秒
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dendenmushi.gif北海道地方(2017/07/02 訪問)

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タグ:北海道
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番外:増毛=増毛郡増毛町弁天町(北海道)鉄路も連絡船もなくなった街では次にどんな風を待つのか [番外]

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 高速バスを含めると札幌から幌延・豊富という長距離をカバーしている沿岸バスには、これからの西海岸の岬めぐりではずっとお世話にならなければならない。その手始めにまず、留萌=雄冬間の留萌別苅線に乗っている。そのサイトのトップページでは、シンボル・キャラクターらしい萌えっ子イラストとともに、以下のような文言が並んでいる。

鉄路は無くなったけど私たちは元気です。また遊びに来てくださいね。
【お願い】
 全国には、存続が危ぶまれるなか、自社努力や国や都道府県、沿線自治体等からの公的な補助、お客様の温かい支援等をもって維持する公共交通が数多くあります。身近な鉄道や路線バス、船(フェリー)を将来にわたって維持するために、積極的なご利用をお願い申し上げます。
 
 公共交通機関網を、なんとか守るためには、結局みんながたくさんひんぱんに利用するしかない。一度だけやってきて一度だけしか乗らない通りすがりでは、たいしたことにはらないが、沿岸バスで小雨の増毛を二度通過した。
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 テレビCMでもよく見かけるこの二文字。それとはまったく関係のない「増毛」もアイヌ語源で「かもめの多いところ」という意味の「マシュキニ」「マシュケ」が転じたもの、と町のサイトでは言う。
 なぜどのくらいカモメが多いのか。別に野鳥の会のように目視で数えて実態調査をしたわけではなく、ニシン漁が盛んだった頃のイメージからなのであろう。
 1706(宝永3)年に松前藩士が知行したところから、和人の記録に表れるこの地は、それから約50年後に増毛場所ができて、本格的な和人の定着が始まっている。
 ニシン漁のもたらす繁栄を基礎に、幕末には沿岸警備の要衝として、明治期には交通網の整備が急速に進んで、鉄道と港湾とを結ぶ拠点として重きをなした。
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 つい先頃廃線になったばかりの留萌=増毛間の鉄道の名残りは、この岬めぐりの計画を立てる段階では、まだMapionには、堂々と白黒の鉄道軌道の記号線がしっかりと描かれたまま残っていたくらいだった。
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 その線路は、留萌からずっと海岸沿いを走っていたらしいが、波型に凹凸が曲線を描く海岸の、凹の湾岸を辿って港の北寄りに終点の増毛駅があった。線路の陸側は40メートルくらいの小高い丘が北に伸びており、その丘の北と西側に町が広がっている。
 凸の部分の町並みのつくる海岸線も特徴があって、こういう海岸線はなにか八方破れの無防備なような感じがしておもしろい。
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 国道から外れてバスが市街に入って行くと、なにやら歴史を感じさせる建物もある。町では、鉄道がなくなった後、主に往時の繁栄を偲ばせる大正期の町並みを復元させて売り出そうとしているようだと、後で運転手さんが教えてくれた。
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 増毛駅の建物もなくなっているが、それも復元する計画もあるらしい。留萌からのバスには、数人の乗客もいたが、みんなここで降りてしまった。観光目的で来る人も、それなりにあるらしい。こちらはバスから降りないで、通り過ぎるだけだから、たいして書くこともないし、写真もほとんどない。
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 だが、誰もがこの街から連想で思い浮かぶのは、『駅  STATION』ではなかろうか。
 1981年に製作されたこの映画は、個人的にはみんなが絶賛するほどの名作とも思えないのだが、いくつか印象に残るシーンがあって、それで忘れない映画のひとつである。
 円谷選手の手紙のナレーションとか、大晦日の夜居酒屋で紅白の「舟唄」が流れる場面とか、小さな駅の改札口と雪の町の間を出入りする人々とか、駅前の角に建つ食堂の佇まいとか、増毛から雄冬へ向かう連絡船が欠航だと言う場面などが、断片的に記憶に残っている。
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 そのロケに使われた食堂は残っていて、今も角に建ち観光協会が使っているというが、なんか映画の印象とは雰囲気が違う。「風待食堂」という同じ看板も掲げているが、なんだか、すごく違う。
 ナニが違うと感じる要因なのか。もちろん、周囲の建物や、道路などがきれいに新しくなっているのは当然だが、それだけではない。
 写真をネットで探してきて比較してみて気がついたのは、角に電柱があるかないか、その違いだった。
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▼国土地理院 「地理院地図」
43度51分21.35秒 141度31分29.46秒
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dendenmushi.gif北海道地方(2017/07/02 訪問)
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タグ:北海道
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番外:岩見沢から留萌へ=岩見沢市五条西 留萌市栄町(北海道)函館から数えると留萌までは約450キロJR北海道 [番外]

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 島牧村の岬をいちおうバスで行けるところまで行って、また寿都に引き返してきた。前述のとおりここで時間があったので、湯別の温泉施設で休憩し、最終のバスで黒松内に戻り、函館本線で三度長万部駅に帰ってきた。
 何度にも分けて、4回(このうち鵜泊線の1回は前に済んでいたので、今回分は3回)も行き止まりのバス路線に乗って行ってはまた終点で折り返し…ということを重ねて、とにかく、これでやっと檜山の岬めぐりは完了となった。
 日も暮れて夜になったが、この日のうちに少しでも北上しておこうと、長万部から室蘭本線(と千歳線)で札幌まで行き、札幌から函館本線に乗り換えて、岩見沢の駅前近くのホテルに着いたのはもう23時を回っていた。
 当初計画では、札幌で一泊と考えていたが、この日は土曜日の夜だったためか、どこもホテルが満室でとれない。おまけに、外国人観光客も多いため、バブル状態になっているのだろうか。札幌駅周辺のホテルはやたらに高いので、あまり泊まりたくもない。
 それなら、札幌は素通りしてもっとできるだけ北上しておこうと、岩見沢までやってきた。今や札幌のベッドタウンとなったらしい岩見沢方面へ行く土曜の夜の最終電車は、途中の江別を過ぎるまで超満員状態だった。旭川方面へ行く途中で通過することはあっても、ここで降りるのは初めてだ。
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 石狩平野の北東に位置する岩見沢は、北海道開拓の初期の段階から道路ができ宿ができ鉄道が通って駅ができ開拓者が定住して…そうして発展してきた街という点では、まるでアメリカの西部開拓史を地でいくような道筋を辿ってきたようだとも言える。
 それらすべてが、1878(明治11)年から5〜6年くらいの間に起こっている。開拓の中心となったのは、本土各地からやってきた旧士族とその家族であったという。
 未開の地にまっすぐな道路をつくり、まっすぐな線路を敷き、条里制の街をつくってきた岩見沢の名は、めずらしくアイヌ語源ではない。なんでも、開拓者が休泊所で浴(ゆあみ)をした、というところから転訛して定着した名だという。
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 ばんえい競馬のソリを引く馬ばんばがホームにいる岩見沢駅は、駅舎も近代的な建物でエスカレーターで橋上改札へ行き来するという、最近流行りというか、あちこちでよくある方式で、駅前もきれいに整備されている。それは、2000年の火災で旧駅舎が全焼し、その後に再建して間もあまり経っていないからなのだろう。なんとなく、規模はより大きいが旭川とも雰囲気が似ているような印象を受けた。
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 美唄などの炭鉱が近くにあったこともあって、岩見沢は鉄道輸送の中心地ともなっていた時期もある。室蘭本線が苫小牧から千歳線と分かれて、岩見沢につながっているのは、その名残りとも言える。
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 翌日は、始発に乗って深川まで行き、そこで留萌本線に乗り換える。
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 ここを走る函館本線の普通電車は、3つドアで車両の中央部の出入口に車内ドアがある。冬の防寒対策なのだろう。線路が走る西側は、石狩川が蛇行しながらいくつもの三日月湖や沼池をつくり、南北に流れる一帯は水田と低湿地帯が広がる。石狩川の右岸には、札沼線という鉄路も走るが、これが滝川の手前で突然終わる。
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 滝川から東へは、根室本線と空知川が分かれていき、函館本線が旭川に向かって方向を変える深川から、留萌本線が北西の山を越えていく。
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 雨竜郡沼田町字恵比島から、100メトールほどの恵比島峠をトンネルで越えると、留萌市大字留萌村の峠下に降りる。
 ここから留萌本線は、国道233号線と留萌川とともに下っていくが、いくつかの無人駅を通りながらのこの付近の趣も格別のものがある。終点留萌駅のひとつ手前の大和田駅でも、こんな感じ。
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 1910(明治43)年に深川=留萌間が開業した国鉄留萠本線は、1921(大正10)年には留萠=増毛間が延伸されてきたが、その16.7キロ区間が2016(平成28)年暮れに廃止されたばかりだ。これで、50.1キロとなった留萌本線は、日本一短い「本線」となった。
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 昨夜の長万部から、途中岩見沢で一泊して、留萌までやってきた。函館北斗から数えると、札幌までは約300キロ、106.6キロ、それに留萠本線の50キロを足して、計JR北海道内450キロになるので、これだけ乗れば、まあ「JR北海道フリーパス」の意味もあっただろうか。
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 留萌という地名は、随分昔から聞いていて、いちおうはその位置関係とともにインプットはされていたのは、昔の職場の先輩に留萌出身という人がいたからだ。だが、実際に降り立ったのは、今回が初めて。
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 留萌に着いた時から、雨が降り出してきた。そこでまた、まず黄金岬へ行く予定だった計画を変更して、まずは雄冬方面へ行くことにした。
 ここから南の雄冬までと、ここから北の羽幌・初山別へと続く岬めぐりは、行動順ではなく、南から北への順で掲載となる。そのほうが、位置関係が混乱しないだろう。

▼国土地理院 「地理院地図」
43度12分8.72秒 141度46分2.66秒 43度56分31.66秒 141度39分7.77秒
syakotannrumoiM-1.jpgtosimasapporoM-1.jpg
dendenmushi.gif北海道地方(2017/06/30 訪問)
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タグ:北海道
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番外:せたな町から島牧村へ=黒松内町字熱郛(北海道)再び長万部へ戻って今度は黒松内・寿都経由で島牧の海岸線を行く [番外]

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 第二富磯から折り返すバスに乗って、北檜山まで戻り、そこで長万部行きの函館バスに乗り換える。きた道を引き返すわけだが、18:40発のそのバスが最終バスとなる。
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 このバスには、檜山北高校からたくさんの生徒が乗ってきて、バスは満員状態になった。金曜日の放課後の部活を終えて帰る生徒たちを、学校の構内に設けられているバス停まで、先生が3人も見送りに出ていた。それでも「さよなら」の挨拶もなく、黙ってバスに乗り込んでいくのも今風なのだろう。それとも、個々に挨拶を交わすのはめんどくさいというので、バスが来る前にまとめて挨拶は済ませているのだろうか。
 多くは今金で降りるが、もうあたりがすっかり暗くなる国縫で降りた子がひとり、最後の長万部駅前まで降りない野球部の子もひとりいた。これを毎日通うのは大変だろう。
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 ひととおり懸案だった毛無山沿岸と、三本杉から茂津多岬にかけての間は、なんとかこれで終了。
 長万部で温泉に浸かって、翌朝また早朝の長万部駅まで。毛ガニと東京理科大がセットになった柱が立つ駅前は、いっそう静かでまだタクシーもきていない。その脇に置いたような白い箱は、この北海道あちこちで見かけたキャンピングカー。いかにも、団塊世代とおぼしき夫婦が、駅前のトイレに用があって停めているらしい。
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 前日はこの駅前で、温泉街へ行くのに、長万部町と長万部観光協会が立てたこの案内看板のおかげで、ちょっと混乱した。出入り口がひとつしかない長万部駅の正面は南東方向に向いていて、出て正面が海に向かっている。ところが、駅前にこれひとつしかない案内板は、海が下のほうに描かれている。地図は北が上という原則論は、こういう観光案内図の類で振り回す必要はないと思うのだが、この図だと、駅の方を向いて広場を背にして見るのが適当で、設置場所を間違えている。
 せめて、看板を見ながら立っている人の、視線に合わせるくらいの配慮はしてほしいものだ。こういうことは、看板を描くつくる人も描かせつくらせる人もまったく、その目的を理解していないようなもので、こういうことが平気でまかり通るのも、まだまだ世の中に意外に多いものだが、町と観光協会がこのありさまではね。
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 函館本線の始発で長万部からまず黒松内まで行く。始発電車は06:00発の小樽行きなので、宿で朝食をとる時間もない。なにしろ、この次の便ときたら13:18発の倶知安行きまでないのだから、しかたがない。こういうダイヤだから、函館「本線」なんてのは明らかに名前負けしている。
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  長万部からは直接、黒松内・寿都へ行くバスも、あることはあるのだが、午前と午後の日に2本しかない。だが、黒松内まで行けば、そこから出る寿都行きが 朝・昼・夕と3本あり、寿都へ行くにはこれに乗るしかないのだ。そして、島牧村へ入るには、まず寿都まで行かなければならない。今度は、もう函館バスではなくて、ニセコバスになる。
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 長万部から黒松内までは、一両のワンマンカーで30分もかからない。途中なかなか深い森を抜けるのだが、黒松内はブナの北限としても知られている。その北限が北へ移動しているということも、前に書いたような気がする。前回もこの駅にはやってきていて、駅前を突き当たったところにある小間旅館に泊まった。
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 その時にもそして今回も、なんとかそのブナ林のそばくらいまで行けないかと、あれこれ努力はしてみたのだが、結局車の利用者以外は来るな、と言われているようで果たせない。
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 このルートは、渡島半島の付け根あたりを南北に縦断するもので、ここにも昔には鉄道があった。
 わが国でも、国鉄が全国を制覇する前には、各地で民営の鉄道が多く走っていたもので、多くは乗合馬車が走っていたところが、鉄道に変わった。函館本線の黒松内駅から寿都町の寿都駅まで、16.5キロの営業路線があった寿都鉄道もそのひとつであった。
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 北檜山と国縫の間の線路は、国鉄からJRへの移行と同時期に廃線になっていたが、ここを走っていた寿都(すっつ)鉄道は民営の鉄道で、瀬棚線に先立つこと10年余前に廃線になっている。開通したのは、寿都鉄道のほうが9年ほど早いから、どちらの線路も10年ずれながらほぼ同じ長さの期間だけ、境界線を描く狩場山山塊を挟んで北と南でそれぞれ走っていたことになる。
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 なぜ、ここに(こんなところに…と言っては失礼だが)鉄道があったのだろうか。
 それは、寿都には最初には金銀も採掘した銅や亜鉛などを産出した鉱山が、1893(明治26)年から1962(昭和37)年まで稼働していたことと、ニシン景気に沸いた町でもあったからだろう。
 そして、同様に鉱山とニシン景気で栄えていた鉄道が、もう1本寿都鉄道の北で半島を15キロの線路を敷いて、やはり函館本線に接続していた。それが岩内と共和町小沢の間を、1912(大正元)年から1985(昭和60)年まで走っていた国鉄の岩内線である。寿都鉄道もなんとかこのなかでは先輩格の岩内線に接続連絡することで存続を夢見ていたようだが、それは果たせず、1968年朱太川の氾濫で線路が流され、ついに運行休止に追い込まれた。
 瀬棚線、寿都鉄道、岩内線と、渡島半島北部で同じように函館本線から西の日本海と結ぼうという鉄道が3本もあり、南の江差線と合わせて計4路線も走っていたわけだ。
 そのうちでは、いちばん長く、いちばん遅くまで走っていたのが1913年開業の江差線で、民営化後の2014年に廃止され、とうとう半島を東西に結ぶ鉄道はまったくなくなってしまった。思えば、江差線だけは廃止のだいぶ前、2007年に乗っていたのでこれも貴重な体験となった。

 156 相泊岬=檜山郡江差町字柏町(北海道)あれからニシンはどこへいったやら〜
 
 岩内線と寿都鉄道の後を受け継いだのが、ニセコバスなのだ。こうして、鉄道の夢の跡を辿るニセコバスは、一路黒松内から北の寿都へ向かって走り、寿都のバスターミナルからは、島牧線に乗り換えて島牧村の海岸線を西へ進んで行く予定だ。
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▼国土地理院 「地理院地図」
42度41分15.85秒 140度18分16.85秒
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dendenmushi.gif北海道地方(2017/06/30 訪問)

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番外:毛無山の南で久遠と大成そして富磯=久遠郡せたな町大成区富磯(北海道)5年前に続いて二度目の綱渡りで大成訪問 [番外]

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 須築から帰ってきたマイクロバスを三本杉で降り、北檜山を経由する長万部行きバスが上三本杉から来るのを待っていると、ムクドリかなにかの群れが、薄暗くなりかけた空に乱舞する。(それを撮ったつもりだったが、今回はデジタル記録の設定を失敗して解像度を少し荒くしていたのに気がつかなかった)もう夕暮だが、これから北檜山16:26発の第二富磯行きに乗らなければならない。
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 旧大成町の中心部であったところまで行くには、北檜山のバスターミナルから函館バスが運行する若松・久遠線に乗る。このターミナルは、とうの昔に廃線になった旧駅の跡地を使っているので、広々としている。
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 合併でせたな町をつくった3つの町のひとつは、旧瀬棚町、旧北檜山町とはひと山越えた南に位置する旧大成町であった。合併のいきさつについては「1462 稲荷岬」の項で述べた。つい「くおん」と読みたくなってしまう久遠(くどお)というのは、元々は旧大成町がもっていた郡名で、これが合併後のせたな町に引き継がれた。だから、大成区には湾や漁港や神社や字地名などに久遠の名がいくつか残っている。
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 では、若松というのはどこなのだろう。バスは北檜山から国道229号線を南に辿ると、まず後志利別川を渡ると、100メートルほどの低い峠を越えて、盆地に入る。若松はこの複雑に入り組んだ盆地の南一帯の地名なのだ。
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 ここだけ海岸線をなぞらない国道229号線(と276号線のはずだが、めんどうなので省略するね)は若松からさらに道は谷間の奥深く入って南下し、今度は標高200メートルの太櫓越峠を檜山トンネルで抜けて、大成区に入ると海岸の宮野まで降りていく。
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 北檜山と宮野の間は、海岸から離れた内陸の山の間をぬって走る。国道と海岸の間、11.5キロの間には、816メートルの毛無山の山塊がドンとあるのでこれを迂回するが、合わせて若松のような山間の盆地に暮らす人の便にもなっているのだ。
 この道を切り開いたのが商人たちだったという話は、前に「863 小歌岬」の項でふれていた。
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 国道は宮野で久遠湾の海岸に出ると、南東側に一路江差方面に向かっていくのだが、若松・久遠線のバスは、宮野の三叉路から西に向かって道道740号線に入って大成学校前というバス停まで行く。
 日に北檜山を出る下りが4便、上りは3便しかない。所要時間は40分ほど。ロカール路線バスではこれもよくあるのだが、上りの最終便は、折り返して戻ってこない。バスの車両とドライバーがそこに泊まるのか、それとも回送して翌朝の始発便はまた回送で行くのか。回送するくらいなら1便増やしたほうがてんというのはシロウト考えなのだろう。ここではどうなのか知らないが、それにもバス会社と路線によっていろいろな理由とケースがあるのだろう。
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 実は2012年にやってきたときには、南の乙部町から八雲町の西海岸線を北上してきた。ポンモシリ岬を過ぎたところからせたな町に入り、親子熊岩を経てツラツラ岬を過ぎ、その日は貝取澗のあわび山荘に泊まった。
 翌朝、朝食もとらずに宿の車で宮野まで送ってもらって、なんとか宮野発05:58発の大成学校前行きに間に合った。
 なぜにそのような綱渡りをしたかといえば、この路線はこの始発便の一本が折り返して北檜山行きになって戻って行くと、その次の便は午後の12:54までないからである。この状況は、5年後の2017年でも変わっていない。
 とにかく、このときは宮野から大成学校前までこのバスに乗り、久遠湾の外横澗岬、横澗岬、湯ノ尻岬、稲穂岬、そして小歌岬をそれぞれ項目にアップしている。kudo-2.jpg
 だが、小歌岬の西にも、日昼岬、添泊岬があり、その先の富磯集落の奥には帆越岬がデンとして控えている。ところが、この路線は富磯まで行くのは日に1便1往復しかない。それで前回は小歌岬で終わっていたので、今回はその残りをクリアしたいというわけなのだ。
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 しかし、今考えてみれば、このときに朝食もゆっくりとって、朝のバスで宮野まで行きそこからは、歩く距離は長くなるが4時間かけて富磯までゆっくり行って、余裕を持って午後の便で北檜山に行くという計画にしたほうがよかったのかもしれない。そうすれば、一度の大成訪問でこの地域の岬めぐりは終了できたのだ。
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 これも前後の計画のたて方にもよるので、その後のルートとダイヤの関係もあり、採用できるプランはどれかひとつに絞られ、いちがいにどっちがよいとか、ましてどれが正しいということもない。つまり、でんでんむしの岬めぐりはこういうことの積み重ねで成り立っている。
 それでも、海岸線をバス路線がぐるっとめぐっているところでは、こうした混乱はないのだが、ここのように国道が海岸から離れているとか、路線がつながらないで細切れになっているところが問題だ。
 終点のバス停は第二富磯というところで、そこまで行けば、帆越岬には接近することができる。しかし、尾花岬は影に入って望めない。それでも、行けるとこまで行くという方針にしたがって、この夕方だけ1日に1便1往復のバスに乗ってまたやってきた。

▼国土地理院 「地理院地図」
42度14分43.97秒 139度48分12.34秒
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dendenmushi.gif北海道地方(2017/06/30 訪問)

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タグ:北海道
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番外:長万部と渡島半島=山越郡長万部町字長万部(北海道)台風による函館本線不通で変更した2016年未達プランに再挑戦 [番外]

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 長万部へは2011年と2012年にやってきていた。2016年09月にも、ここを目指して開通してまださほど間もない北海道新幹線に乗って新函館北斗まではやってきたものの、そこから先の道内のJR線が台風の影響で不通になっていて、急きょ計画を変更せざるを得なかった。しかたがないので函館北斗から木古内まで戻って、江差経由で奥尻島へ渡り、また帰ってきたので、そのときはJR北海道は函館北斗と新青森の間しか乗らず、まったく北海道全線フリーの意味がなかった。
 
 1421 道南の岬をめざしたものの=奥尻島・渡島半島・松前半島(北海道)震災の島とふたつの半島の落穂ひろいと…
 
 今回は留萌までJRに乗る計画にして、同じく「大人の休日倶楽部パス」、JR東日本全線とJR北海道全線5日間乗り放題のフリー切符を利用した。この切符も人気が高く、とくに北海道へ向かう東京駅06:32発の「はやぶさ1号」の座席指定券は、すぐに満席になってしまう。ようやく利用期間ぎりぎりの出発最終日に「一席だけ空いています」という指定をどうにかとって、4時間20分かけて新函館北斗までやってきた。
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 前にも書いたことだが、この新幹線の設計は感心せん。当然、窓際の席がとれないと、それ以外の席では車窓の景色などはほとんど望めない。窓側でも目の前にあるのは柱のような壁であって窓ではない。景色を見るために首を45〜90度に曲げなければならないのは不自然で、座席を倒せば…と設計者は言うのだろうが、顔の向き斜め前に展望は開けてほしいものだ。それが自然だろう。これじゃ長時間の乗車はしんどい。やっぱり北海道は飛行機のほうが…。
 それはともかく、まずはそのときに計画していて行けなかった渡島(おしま)半島西海岸の岬で残っているところをめぐる。その拠点というわけではないが、公共交通機関で回るでんでんむしの岬めぐりでは、どうしても長万部を通らなければならないことになる。
 新函館北斗から道内北部に入って行くには、まずなにはともあれ噴火湾の西岸を走る函館本線に乗り換えなければならない。新函館北斗の駅では、北へさらに向かう人と、南の函館へ向かう人と、観光客の流れはごったがえしつつ徐々に二分されていく。
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 駒ヶ岳を眺めながら大沼公園を過ぎ、森から噴火湾(内浦湾)岸を北西に進むとあの木彫のクマを生み出した八雲、そこからは北北東に進路を変えて長万部に着く。この間、スーパー北斗だと所要時間は1時間と10分。ここからは、函館本線は北西に向かって山の中に入っていき、室蘭本線は北東の湾岸沿いに伸びていく。
 ダイヤは、圧倒的に千歳を経由する室蘭本線が中心で、倶知安、小樽を経由する函館本線は、「本線」も名ばかりで完全に支線である。もっとも、小樽や札幌から旭川へ行くのも函館本線だから、このルートも一部ではまだかろうじて「本線」の命脈を保っているのだろう。
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 せたなと島牧に2日に日を分けて行く行程なので、初めて長万部に1泊しなければならないことになったが、宿も駅前にビジネスホテルがあるというような町ではなく、この温泉郷に泊まるしかない。駅を出るとそば屋が一軒あるだけ。このそば屋にも2回くらいは行っているが、それもほかに選択肢がなにもないからだ。最近では、スーパー北斗の車内販売商品もこの店が提供しているらしい。
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 少し歩いて跨線橋を越えたところにある長万部温泉のいちばん近い四国屋(左の白い建物)に宿をとったが、歩いてもうら寂しいさびれたという印象が強い町で、温泉の立派な金文字石碑とアンバランスである。
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 細くて高い跨線橋が、函館本線と室蘭本線の何本もの線路を跨いでいる。引き込み線や今はあまり使われていないような線路も何本かあるので、跨線橋の長さは140メートルもある。
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 これが駅前と温泉地区を結ぶ近道とされているが、歩行者専用(自転車は押して渡ることができる)、車は通れないのでぐるっと大回りをしなければならない。この事情は、駅の南側でも同じようで、要するに駅と線路が町を東西に分断しているのだ。
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 それも、かつては何本もの線路が、それぞれに重要な役割を果たしていた時期があったわけで、鉄路のさびれが町のさびれにもつながったのであろうか。東京理科大学を誘致したのも、再び町に活気を呼ぶ若い力をという考えからだろうが、その効果はどうなのだろう。
 長万部からは、函館バスのせたな線に乗り、国道5号線を南に国縫(くんぬい)まで進んで行く。
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 函館本線と国道5号線が並走する噴火湾岸は、道南の大動脈というか、要するに唯一の幹線といってよい。大沼国道とも呼ばれるその道路脇には、長万部と国縫の間で、いささか奇妙な光景が見られる。国道沿いにいくつものドライブインのような大型の建物が並んでいるが、そのどれもが廃墟化が進行しつつあるその途中、という有様なのだ。なかでは、名物の「いかめし」の看板を掲げた建物だけが、今も稼働中のようだったが、ほかはすべて夢の跡だ。
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 さびれているのは長万部の駅前周辺だけではないらしいが、問題はかつては競ってこの道路脇に大きな建物を建てるというビジネスプランが成立したのに、それがどうしてこんな状態になってしまうのか、ということだろう。
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 国縫からは国道230号線で今金町、そしてせたな町に向かって渡島半島を横断する。標高150メートルほどの美利河(ぴりか)峠を越えると、ダムから先は後志利別(しりべしとしべつ)川沿いにゆるやかに下っていく。
 この道も、かつては鉄道が走っていた。約50キロ足らずの瀬棚線は1987(昭和62)年に廃止されていて、その代替としてこの函館バスが走っているわけだ。
 北檜山というのは、その廃止された終着始発駅の名前で、その名はせたなの一地域の名として、駅跡地はバスターミナルとして残っている。
 渡島半島のこの付近では、山越郡長万部町、瀬棚郡今金町、久遠郡せたな町と行政区域は分けられ、今金町からせたな町に入ったあたりに位置する檜山北高校が、「北檜山高校」ではないのは、こうしたいくつかの町を広く学区にしているからだろう。
 さて、でんでんむしがせたなへやってきたのは二度目で、前回の2012年の行程では、木古内から松前へ行き、松前からは追分ソーランラインという道道229・227号線を北上してやってきた。
 そのときにも、久遠や太櫓の岬と、三本杉までは行ったのだが、富磯と須築地区にバスの便の都合がうまく合わなくて行けないまま残っていた岬があった。2016年の計画ではそれをめぐって、せたなから船で奥尻島へ行くつもりだったが、それが函館本線不通で果たせなかったので、まずそれから片付けよう、という計画である。
 せたな町のバスルートは、メインの長万部=上三本杉路線のほかに、瀬棚の港があるせたな市街からさらに南の鵜泊へ行く太櫓・鵜泊線があるが、そこの岬めぐりはもう済んでいる。バスの終点から水垂岬までは歩いて行ったが、そのさらに先の日中戸岬は、遠くから見た、または奥尻島から眺めたということで、お茶を濁している。
 そして、その先も南へ行く道はあるのだが、バスが通っていない。南は、北桧山から大成や富磯へ行く若松・久遠線というバス路線がいちおうある。
 前には、大成も小歌岬までは行ったつもりだったが、その北に連なる帆越岬も、フェリーから見たということにしていたが、そこまでの間にもいくつか岬が残っていたので、これも片付けなければならない。
 どうしてこういうややこしいことになっているかと言えば、816メートルの毛無山の山塊が、海岸にどーんと張り出しているからだ。
 同様に、せたな市街から北側でも、狩場山1520メートルの巨大山塊が、せたな町と島牧村の境界線をつくっている。その西端に飛び出ているのが茂津多岬で、そこも長いトンネルがいくつもあって、道路は通っているがバスは走っていない。
 茂津多岬の南部では、せたな町瀬棚区北島歌の須築(すっき)という港がある集落まで、瀬棚須築線という路線がある。この路線は函館バスの採算にのる路線ではないらしく、町では地元の東ハイヤーに委託して運行している。
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 前振りが長くなってしまったが、どこにそうある岬か道をどう走っているのかを理解するためには、こういった概念図をあらかじめ頭に置いておく必要もある。
 では、三本杉から北の岬を確認しながら、茂津多岬の南、終点の須築まで行くルートから出発!
 ちなみに「三本杉ってナニ?」という人は、こちらのリンクを辿ってみて、また戻ってきてね。
 
 868 蝋燭岩・三本杉岩=久遠郡せたな町瀬棚区本町・三本杉(北海道)見事な立岩にひかれていて気がついてみたら…


▼国土地理院 「地理院地図」
42度30分58.23秒 140度22分30.68秒
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dendenmushi.gif北海道地方(2017/06/30〜07/01 訪問)
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タグ:北海道
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番外:茎崎=つくば市森の里・小茎・下岩崎・茎崎・旧稲敷郡茎崎町(茨城県)住宅団地が点在するここらは稲敷郡茎崎町だった [番外]

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 幾筋もの複雑な切れ込みを抱えた台地と、その間を埋める沖積(ちゅうせき=流水が運んだ土砂などが堆積すること)低地がつくる関東平野のこの付近では、貝塚やそれを含む遺跡も多いという。小貝川という名も、小さな貝殻がたくさんあるというところから、この字が使われるようになったものだろう。
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 台地の上は古くから人が住み着き、その下の海からは豊富な海の幸に恵まれていたのだろう。現代では、その丘の上を選んで住宅団地がいくつもできているようだ。牛久駅前のバス停からは、森の里団地・梅ケ丘団地・緑が丘団地・刈谷団地・桜ケ丘団地・つつじが丘といった行く先表示がある。
 このうちの緑が丘団地行きの関東鉄道バスに乗れば、牛久沼の北部を横断する茎崎橋を渡って、茎崎に行くことができ、そこから乗り換えて泊崎(はつざき)の手前になる終点の富士見台まで行けそうだ。そう思って乗ったバスの運転手さんに確認してみると、それなら橋を渡る手前の茎崎窓口センターで降りて「つくバス」に乗り換えたほうが料金が安いという。茎崎からはつくば市になるので、やはりバス会社の路線網は、市町村境界を厳格に守っているらしい。これには、昨今のコミュニティバスが増えたこともあってその傾向に拍車がかかる。
 教えてもらったとおり、「茎崎窓口センター」では、少し離れたところにあるつくバスのバス停乗り場からすぐに乗り換えができたが、なんかヘンな名前のバス停だなあ。
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 牛久駅を出て、国道9号線を北上し、田宮(たぐう)から左折して西へ向かうところから、もう牛久市を離れてつくば市に入っていた。1960年代から開発が進んだ筑波研究学園都市の周辺では、どこも急激に人口が増加したが、稲敷郡茎崎町(くきざきまち)も当時全国一の人口増加率を記録して1983年に単独町制を敷いたが、2002年つくば市に編入されている。窓口センターというのは、合併後の茎崎地区の住民サービスのために、旧町役場のあとにつくば市が設けた行政窓口(支所)のようなものなのだろう。その周辺、橋の東側は小茎という字地名がついていて、その北西側の沼岸に森の里という名の大住宅団地が広がっている。
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 茎崎の名は、牛久沼の細長い水面を挟んで、その東西に渡っているのだが、こういう平らなところでは、どのようにして縄張りができるのだろう。Wikipedia からその経緯を探ってみると、このようになっていた。
  
・1972年(昭和47年) - 境界変更により稲敷郡茎崎村が龍ケ崎市佐貫町の一部を編入。稲敷郡茎崎村佐貫町となる。
・1978年(昭和53年)
 7月24日 - 佐貫町を森の里に改称、同時に村内の他の大字の一部を編入。稲敷郡茎崎村森の里となる。
 10月23日 - 9月1日に龍ケ崎市から再編入した佐貫町を森の里に編入。
1983年(昭和58年)
 1月1日 - 茎崎村の町制施行により稲敷郡茎崎町森の里となる。
・2002年(平成14年)
 11月1日 - 茎崎町がつくば市に編入され、つくば市森の里となる。
 
 これによると、近年でも境界線の変更が行なわれていること、元々龍ケ崎市の市域だったところを編入していることなどが伺えるが、再編入の実態はよくわからない。牛久沼の水面はほとんど全部龍ヶ崎市佐貫町に属しているが、沼岸の一部には葭ヨシが繁茂して半分陸地化しつつあるところもあろう。つくば市側で住宅地開発が行なわれるときに、造成工事のときについでに取り込んだほうがいいという事態があったのだろう。
 もうひとつ、「森の里」というのは開発された当初の住宅団地の名前であろうが、それがそのまま「つくば市森の里」という地名になっている。
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 この付近では、大小さまざまな住宅団地があちこちに点在しているが、森の里は大規模なほうであろう。地図をみてもその存在感が独特で、真っ直ぐな直線によって仕切られた沼岸からすぐに区画された住宅地が広がっている。
 それもこれも、筑波研究学園都市の周辺開発によるものだ。1970年代になにもない田園地帯に、大学や各種研究機関を集めて計画的な大規模な街づくりをしようというのは、なかなかの発想だったとも言えるが、そういうものが集まれば、周辺にたくさんの住宅が必要にもなる。
 森の里は、そうした住宅団地のひとつだった。
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 かつての旧町の名残から、小学校や中学校、高校、運動公園、老人福祉施設、公民館、病院…といったものにはことごとく茎崎の名を冠している。それらは茎崎橋の東西両側に点在している。
 茎崎という地名に惹かれてきたのも、牛久沼の東側、茎崎橋付近にそれらしい出っ張り地形が明確にあるのかどうかを確かめるためだった。だが、茎崎橋の周辺では、沼の岸には葭(あしよし)の類いが緑の島をつくってはいるが、地形的な岬といえるほどのものではない。
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 茎崎の名が、沼の岸に生える植生に由来するものだろうという推測はできるが、確かめるすべもない。
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 橋の付近は、牛久沼の東側が北に深く延びているところにあたるが、ここらは沼も細長くまるで川そのもののようになっている。実際、地理院地図でも茎崎橋から北側の水面には、谷田川と記載している。ならば、川が牛久沼になるのは、どこからなのだろうか。
 これも明確にはわからないのだが、推測できるひとつには茎崎橋から南側が牛久沼、という見方はできそうだ。
 それというのも、橋はそもそも両岸の地盤が固いところにしか架けられないし、橋から南の両岸には後年の埋立干拓でできた水田や畑の低地が続いているので、そこらも昔は水面であったと想像できるからだ。
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 その一部沼の東には「弘化新田」という名も残る。弘化というのは、江戸時代後期、1844年から1847年までの期間(天保の後、嘉永の前)だから、その頃に進んだ干拓による新田だったわけだ。
 谷田川に比べると、西谷田川はずっと細く短く、茎崎運動公園の西の上岩崎付近では干拓地の間を流れる水路となって、途中細見橋の北側で少し膨らんでまた水路になって沼につながっている。
 その水路の北部に架かる上岩崎橋の付近では、西側干拓地の一部が、きれいに定規で線を引いたように長方形を描くように直線で仕切られ、そこに龍ヶ崎市の市域が食い込んでいる。
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 これまた、どういう理由によるものかわからない。憶測をたくましゅうしてみると、地理院地図には上岩崎橋の西に発電所の地図記号があるのと、なんらか関係があるのかもしれない。しかしねえ、発電所って近代のものだし、しかも干拓地の真ん中の発電所というのもヘンだし…。発電所というより揚水場のようなものなのか?
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 ほんとに、おもしろいことはどこにでもいっぱいある。もっともそれを「おもしろい」と思えるかどうか…のハナシだけど。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度59分11.83秒 140度6分18.75秒
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番外:牛久沼=龍ケ崎市佐貫町・取手市・つくばみらい市・つくば市・牛久市(茨城県)関東平野と川とそして沼 [番外]

 ここ半年も岬めぐりに出かけられずにいた。ブログの新規アップ更新も、4月の半ばいらい3か月もストップしていて、まったくほったらかしになっていた。これだけサボっていれば、ランキングとやらからも静かに消えていくことができるとだろうと思っていたのだが、あにはからんやなかなか消えない。
 消えるまで待つことにもさほど意味がないので、ぼつぼつそっと(密かに?)復活してみることにしよう。
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 ずっと関東も南のほうに暮らしてきたので、北のほうはなにかと不案内でなじみがない。やたらだだっ広くて、山もない平野では、夏場のこの時期だとかなり早くからアサーッ!とばかり、朝日が照りつける。
 見えるところに山がないと、なんとなく背筋が寒くて落ち着かないのは、でんでんむしがどこでもいつでも山がすぐ後ろにある、西日本の育ちだからだろう。(もっとも、日本では広い平野のほうが少ないのだから、なにも西日本に限ることではない。)
 常磐線に乗ろうとやってきた上野駅では、「常磐線」と表記したホームが何本もあって、ちょっと迷い考えさせられる。上野東京ラインという線もできて常磐線が品川まで行くようになったこともあるのだろう。長い横須賀線と同じ15両編成の電車が、利根川を渡り、取手の街を過ぎると、やっと緑のポコポコした丘や田畑が現れる。このあたりは関東平野のほぼ中央付近にあたる。
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 この関東平野は、いったいいつどのようにしてできたのだろうか。もちろん、専門的にはそう簡単に言えないのだろうが、専門家でないでんでんむしは、勝手に簡単に言ってしまえる。
 現在のような日本列島の形ができたのは、1650万年前に起こった日本海の拡大をともなう一連の地殻変動によるが、この頃に後に関東平野となる付近では列島の元になる地塊が二つに折れ曲がる。地殻が割れ沈降が起こる。その後、その上には何度かの海進や、大規模な火山噴火による降灰、さらに分厚い堆積を繰り返す。台地とその間のV字谷ができ、さらにその谷が数知れぬ水流が運んでくる堆積物で埋められていく…。
 約1万年~5,500年くらい前、歴史的には縄文時代と呼んでいる頃には、大規模な海進が起こり、谷も低い丘も海に没し平野の奥までリアス海岸になってしまう。それから海が再び退くと、低地は土砂が堆積して埋められ、干潟や湿地が広く拡大していく。そうした時代がこの前後約1万年も続く。やがて、沖積層も乾燥して干上がり、どこまでも連続する低地のなかに、川が流れ、大きな水溜まりが残る。また、雨のたびに氾濫して流れを変える何本もの大きな河川は、ところどころに三日月湖や池を残していく…。霞ヶ浦や印旛沼・手賀沼や牛久沼なども、そのようにしてできた。
 藤代だか佐貫だかの駅のホームには、カエルの歌のメロディが流れていて、なんとなくホッとする。でんでんむしやカエルは、昔からの古いなじみなのだ。
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 藤代の駅は取手市で、小貝川の鉄橋を渡る佐貫の駅は龍ヶ崎市で、そのつぎの駅が牛久駅だ。牛久にはちょっと所用があってやってきた。その所用とは関係ないが、牛久と言えば牛久沼であり、小川芋銭であり、住井すえであろう。いずれも名前だけは知っているという程度だ。
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 芋銭にあやかってかカッパのタイルもはめ込まれた橋上駅の牛久駅を降りたところから、関東バスに乗って茎崎へ向かう。どうやら、牛久から牛久沼へ向かうには、丘の上に広がっている住宅団地へ行くそれが唯一のバスルートらしい。
 牛久駅から牛久沼までは、西へ直進して2キロちょっとのところで、その北が茎崎だし、牛久市南部の龍ヶ崎市との境界付近で、湖岸を分け合っている。
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 ところが、おもしろいことに牛久沼の水面は、牛久市の市域ではないのだ。牛久市だけではない。その周辺で並んで沼を取り巻いているつくば市もつくばみらい市も、沼の南端に接する取手市も、同様に牛久沼を市域にしていない。どの市もみんな市域は湖岸までで、沼の水面は取り込めていない。
 では、牛久沼の水面部分は、どこの市域に所属しているのかといえば、それは龍ヶ崎市である。牛久沼の水域部はずべて龍ヶ崎市佐貫町になっている。
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 こういうケースはめずらしい。このような内陸水域に境界線を引くときは、そのほとんどの場合、水域の中央付近で境界線が引かれることが多いものだが、ここでは違う。
 常磐線に龍ヶ崎という駅はなく、市の中心部は、JR常磐線の佐貫駅から南東に延びる関東鉄道竜ヶ崎線で東に入ったところになる。そこは、庄兵衛新田町という牛久沼岸からは6キロも離れている。では、なぜ牛久沼は龍ヶ崎市なのだろうか。
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 龍ヶ崎市もそのことについてはなぜかサイトでも口をつぐんでいるが、一説によると江戸時代に沼の干拓事業に失敗した桜井庄兵衛の借財を、龍ヶ崎の農民たちがかぶってきたからだという。
 沼岸に細長く残る庄兵衛新田町は、庄兵衛の干拓が成功していれば、付近の島も取り込んだ広い干拓地になったのだろうか。干拓には失敗したが、この付近は、近年うな丼の発祥地として売り出し中である。
 牛久沼は水深1~2メートルというから、ほとんど浅い水溜まりのようだが、これはもともと川だったところが膨らんで沼になったからだろうか。牛久沼は竜の角かヒゲのように二本に分かれた細長い水域が北北西に向かって伸びている。それそれ谷田川と西谷田川という二本の川で北に延びているが、沼で合流した流れは南の端で八間堀と呼ばれる水路によって小貝川につながっていく。
 牛久沼は、いうなればその小貝川の支流のひとつが、ちょっと堰き止められて膨らんだ…というようなものだろう。
 その小貝川は、北部で渡良瀬川や鬼怒川の流れを取り込んできた利根川と、取手市の東南部で合流している。小貝川も鬼怒川も、今でも洪水のニュースに出てくる名前だ。谷田川はせいぜいつくば市の北部、加速器研究機構のある台地付近までで終わっているが、小貝川と鬼怒川は近寄れども合流することはなく、競うようにそれぞれ支流を広げ、関東平野の北部のヒダに沿って深く入り込んでいる。
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 関東平野は、無数に入り組んでいる水流の筋を合わせて理解し、把握しておく必要がある。小貝川も鬼怒川も利根川も、基本的に北から南へ流れているが、利根川はまるで渡良瀬川や鬼怒川と小貝川の流れを遮り、それを受け止めるようにして東へ流れていく。平野の西を流れる荒川もそうだし、だいたいにおいて、古東京湾からの道筋を伝えてきた関東平野の川は、南の湾に向かって流れているが、利根川だけが東の太平洋の海岸へ向かって流れている、と見ることもできる。
 これは広く知られているように江戸時代に行なわれた、利根東遷という大土木工事によって流れを東に誘導したからだ。そして、それにともなって江戸川という流れができたのだが、それ以前の利根川は江戸川のさらに西側を流れていた。
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 その昔、平野を流れ下る川は、大雨が降るたびに大水を出し、流れを自由自在気ままに変えながら下る暴れ川だった。そこで、平野に暮らすためにはこれをコントロールする治水対策こそが、施政者の大きな課題となったわけだ。そして、現在でもそれは変わらない。
 だが、もうひとつの側面も忘れてはならない。川は交通流通手段としても重要な役割を果たしていた。川と川を結びつなぎ、平野に張り巡らされた水路は、道でもあったから、たとえば、伊能忠敬の時代、佐原から江戸まで船で往来できたというくらいだから…。
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 話が膨らんで、流れが変わってしまった。
 この沼には、岬はないのだろうか。霞ヶ浦にはいくつもの岬があったが、小さな牛久沼にははっきりした岬はない。茎崎とか岩崎とか、泊崎(はつざき)といった地名はあるものの、国土地理院が認める岬ではない。
 崎のつく地名は無数にあって、そのなかにはいかにもかつては岬だったとわかるものもあるが、名だけで岬とはまったく繋がりそうにない場所も多い。だが、そのうちでも泊崎だけは、少しばかり違っていて、これは地形的にもかなり明らかな岬の形状をしているので、ついでにそこまで行ってみることにした。


▼国土地理院 「地理院地図」
35度56分46.15秒 140度7分46.51秒
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dendenmushi.gif関東地方(2017/06/14 訪問)

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番外:立石海岸=横須賀市秋谷三丁目(神奈川県)子産石は今や絶滅寸前のようだが立石は周辺が公園に整備されて… [番外]

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 あまり地図を見る習慣がない人のなかには、横須賀市が三浦半島の西海岸にもあると知って意外に思う人もいるかもしれない。横須賀といえば軍港であり、戦艦三笠であり、海軍カレーであり、米軍基地であり、ドブ板横丁であって、どうしてもJR横須賀線が走り横須賀駅がある東海岸、東京湾側のイメージが強い。港のヨーコがいたヨコスカをはじめ、歌に歌われる舞台もみな東海岸だ。
 だが、小さな三浦半島では東へも西へも、横断するのにさほどの苦労はいらないので、西海岸も南は三浦市との境界である和田の海岸から、北は葉山町との境界である長者ヶ崎まで、北北西に直線距離で7.8キロの間は横須賀市の領域となっている。
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 秋谷はその市領域の北の端に位置している。その南部、芦名と境を接する秋谷と井戸石(久留和)のふたつの漁港の間、砂浜と岩礁が続く海岸に、岬状にこんもりと突き出た立石が目立っている。
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 ここらを立石海岸と呼んでいるのは、もっと昔はそれなりに風光明媚な海岸線と鄙びた漁村の面影が残っていたからだろう。でんでんむしがはじめてここを訪れた数十年前には、まだいくらかその雰囲気はあった。
 今では海岸の道路脇にはぎっしりと家が並び、ずいぶんと賑やかな海岸線になった。この海岸から北東にトンネルで山に登る広い道がつき、葉山町と半分ずつを分け合う山の上には、神奈川県と三井不動産が結託して開いた湘南国際村ができた。
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 なんだかよくわからない“国際村”だが、国際会議が開かれるわけでもなく、その稼働率を支えもっぱら役割を主張しているのは、どうやら各企業の研修施設としてであるようだ。年中、逗子駅前は、黒っぽいスーツに身を包み、コロコロのついたスーツケースを引きずったオネエサンやオニイサンが、貸し切りの京急バスや国際村行きの路線バスに乗ったり降りたりしている。
 その南の山のなかにあって、かつては秘境とか隠れ里とかいわれていた子安の里も、国際村開発余波のおかげで脚光を浴び、たくさんの看板が海岸にも立つようになった。その国際村から南に降りてきたところが立石海岸。
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 立石のあるところは小さな公園として保存されているが、かつてそこには石碑がひとつ立っていた。実にひさしぶりに寄ってみると、それがどこにいったのかわからない。それは確か、明治だか大正だか、天皇がここに立って景色を眺めたというようなものだったはずだ。
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 三浦から逗子へ出る国道134号線も、一見半島の西海岸線を走っているようなふりをしていて、実際にそういう標識も立っているが、そこを走りながら海が眺められる区間は、実はこの秋谷の立石海岸と、この北の子産石から長者ヶ崎にかけての間だけに限られている。
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 北海道などではそこらじゅうにあって、でんでんむしがこういうのが首都圏にあれば立派な観光ポイントになるのに…と書いているのは、ここに立っている立石のことを思っていたからでもある。このような立石は、三浦半島でもほかにはあまりないので、名前もつくというものだ。
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 久留和漁港のすぐ北、井戸石の岩礁がある付近に、子産石というバス停がある。子産石という名は、安産や多産を願ったもののようだが、その象徴がこのあたりの海岸にゴロゴロしていた丸い石だった。
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 久留和では海の石が、まるでこどもを生むように年々丸石が打ち寄せられてきた。そこで、この石をなでると子宝に恵まれ、妊婦がなでると安産がかなうといわれてきた。
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 かつては、ここらを通れば民家の門柱や玄関や庭先に、そのまん丸い石が鎮座していたものだが、最近ではそれもほとんど見かけなくなった。今ではバス停そばの、横須賀市が指定した表札の付いた台座に鎮座した大きい子産石とどこかの門柱の上にあるのがその存在を主張しているくらい…。
 道の脇の庭先に丸い石をおいていれば、誰か不心得者が車で通りすがりに持っていかないとも限らない。
 そんな事情もあって、車窓から見る程度ではほとんど目につかないほどに減ってしまったのではないだろうか。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度14分26.69秒 139度35分48.06秒
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dendenmushi.gif関東地方(2016/11/29 訪問)

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タグ:神奈川県
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番外:国指定天然記念物「諸磯の隆起海岸」=三浦市三崎町諸磯(神奈川県)研究の出発点となった記念物 [番外]

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 地理院地図では天然記念物や史跡などに「 ∴ 」記号付きで表記されているが、必ずしもその全部が記号付きで表示されているわけではないようだ。その基準はよくわからないが、やはり、地図の載せるのに適当なものと、それにはあまりふさわしくないものがあるからだろう。この「∴ 諸磯の隆起海岸」というのは、前々から地図でみていたので、気にはなっていた。
  “隆起海岸”といっても、ここは半島の海岸からはいささか離れた場所のようだし…。
 三浦半島の岬落ち穂拾いのついでに、そこにも初めて行ってみることにした。
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 京急バスの天神町というバス停で降り、住宅街の間を西へ進むと、道が急な下りになって右に別れる角に、“諸磯遺跡”という文字が彫られた古い石碑が立っている。
 さては、これか?と思ったが、“遺跡”ともちょっと違う。後でわかったのだが、これは別にある縄文時代の標識土器や住居跡などがあった遺跡のことだった。それは、この台地の上や北側の斜面から発見されたらしい。
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 そこから北へ折れ、谷に下っていくと、いくつもの老人施設の看板が並び、谷に降りきったところに“諸磯隆起海岸”の案内看板があった。どうやら板に書かれたそれを立てた人の名からすると、そのそばに建つ大きなホテイさん(いや、ダイコクさんだったかな?)の像がある家の人が立てたようだ。
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 例によって勝手な想像だが、あるいはよくその場所の在処を尋ねられるので、いちいち面倒だというのでこれを立てた…?
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 そこからほど遠からぬ谷戸の山際に、遠くからも目立つ黄色っぽい大きな説明看板がある。その前の崖の露頭が、一部では有名な「諸磯の隆起海岸」なのだ。諸磯崎という岬名は表記していない地理院地図も、それは「 ∴ 」記号付きで示されている。
 なにしろ国の天然記念物としては古い部類で、1928(昭和3)年に指定されている。この崖には、ポコポコと空いた小さな穴の列が6列くらいあり(というのだが、見た目にはそんなに多くない)、その穿孔貝が開けた巣穴の跡が、過去に起きた地震の間隔やそれによって陸地が隆起した程度などを推し測ることができるという。
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 三崎では“ミズガイ”と呼んでいる貝は波打ち際に巣穴を掘る。その巣穴の列が汀線を示しているわけで、古い時代には大根畑のこの谷も入江だったという証拠で、それが今ここにあるということは、陸地が隆起したことの証にほかならない。
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 シロウトにはそれと大地震との関連がいまいちよくわからないのだが、こうした研究の出発点になったのが、この露頭からだったということらしい。だから、この天然記念物には、二重の意味の重要性や記念すべき点がある、というわけなのだろう。
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 ネットにもいくつかこれを紹介しているページもあるが、その写真を見るとホテイ(orダイコク)さんの立てた案内板も、現地に立っている三浦市教育委員会の説明板も、どうも古いものばかりのようだ。で、現在のはそれを取り替えて新しくしたものらしい。
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 露頭の写真を見ると、古い写真のほうがその特徴をはっきり示していて、現在は草木などが茂るためか、下の列以外はあまり明確でない。
 三浦市教育委員会が1996(平成8)年に建て直した看板は、ニスのようなものが塗られ板に彫られた文字もなかなか味わいがある。
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 国指定天然記念物 諸磯の隆起海岸
       昭和三年二月二十四日 文部省指定
 この崖の表面にみられる小穴の列は、穿孔貝の巣穴の跡で、堆積時期を異にするシルト(砂泥)岩質の地質の側面に、小規模のものを含めて六列ぐらい数えられる。
 巣穴の多くは風化され、形はさまざまであるが、一般に下部の列のものほど、よく保存されている。
 穿孔貝(ほとんどがイシマテガイで、別名この貝をヒミズガイ」ともいう。三崎ではこれを「ミズガイ」と呼んでいる。)は、波打ちきわで岩をほり、巣穴をつくってその中で生活する。したがって、古い巣穴の跡があれば、これから過去の汀線の位置や高度を知ることができ、また、これによって、歴史上の大地震の間隔や隆起量などが推定される
 この崖の巣穴の跡は、この種の推定を試みるにあたって、その出発点となったもので、それぞれの列は、いずれも、ある時代に汀線だったことを示している。そして列の数や巣穴の保存状態から、この場所が、過去なん回かにわたって隆起したことを物語っており、歴史上の大地震を知る上で貴重な資料といえる。
    平成八年七月一日


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▼国土地理院 「地理院地図」
35度9分4.43秒 139度37分22.42秒
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dendenmushi.gif関東地方(2016/11/25 訪問)

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番外:通り矢のはな=三浦市晴海町(神奈川県)こどもの頃から口ずさんでいたこの歌は「城ヶ島の雨」だけど… [番外]

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 何度も書くようだが、歌というのはほんとうに不思議なものだ。こどもの頃からラジオで聞き、鼻歌にいいかげんに口の端にのせていた歌がたくさんあって、いまも忘れない。若いミュージシャンやシンガーソングライターもおらず、流行歌手もまだこれといっていない時代からつくられ、歌われてきた歌の数々の一部は、現在では「抒情歌」とかいうくくりで中高年に人気のようだ。
 それは、やはりでんでんむしと同じように、昔の子供時代、若かりし頃に流れていた時間とシンクロするからであろう。
 「城ケ島の雨」も、そうしたあまたの歌のひとつ。北原白秋の作詞で、作曲は梁田貞、1913(大正2)年につくられたこの歌は、YouTubeにはなんと数十もの動画がのっかっている。歌い手は美空ひばりから無名の人までさまざまだが、五木ひろしや倍賞千恵子、キム・ヨンジャや田川寿美などなど有名な歌手のものもたくさんある。そのひとつの鮫島有美子の動画には「YouTube以外のウエブサイトでの再生はできない」との注意書きがでるが、それ以外は全部フリーのような顔をして並んでいる。しかし、そのうち権利関係をクリアにしたうえでアップされた動画は、厳密にみれば極めて少ないのではないか。
 その頃の歌詞はなかなか高尚なものばかりで、その詞の意味などわからないものも多かった。“利休”も知らず、“ねずみの雨”とはなんじゃろかと、わけもわからずに歌っていたその歌は、華々しく詩壇デビューした北原白秋が、隣家の夫人との不倫関係によってスキャンダルを起こし(当時は姦通罪があったので実際に投獄もされたらしい)、その相手と結婚して(その後離婚)この三崎に移り住んでいたときに書かれた詞だったことなど、ずーっと後になって知ったものだ。
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 白秋が住んでいたのは、城ヶ島を対岸にみる向ヶ崎で、もちろんその当時は城ヶ島大橋などないから、通り矢とその向こうの島の遊ヶ崎付近を眺めて暮らしていたのだろう。その日常の風景から生まれた詞は、芸術座の音楽会のために依頼されたもので、大幅に遅れてきた詞に作曲家は開演前のわずか数日で仕上げ、自らのテノールで初披露されたという。
 この詩人のその後の活躍ぶりはいうまでもないが、詞のイメージとは違って、実生活は離婚と結婚と転居を繰り返すなど平穏ではなかったようだ。作曲の梁田貞は「どんぐりころころ」の作曲でも知られるが、それはだいぶ後年のことになる。
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 「城ケ島の雨」の歌碑については、三浦市のサイトで、“昭和24年の建碑除幕”とあり、“昭和35年4月17日、城ヶ島大橋架橋により現在地に移転”されたとあるのだが、架橋以前の歌碑がどこにあったのかがわからない。
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 それまでは渡船で往来していた城ヶ島に橋が架けられたのは、1960(昭和35)年のことで、城ヶ島の住人と徒歩・自転車は無料だが、今も渡り賃がいる有料の橋なのだ。全長は575メートルで、下の水路は遠洋漁業の船が出入りするので海面からは23メートルと高い。当時の架橋橋梁技術を結集して完成したのも、高度成長期の入口に差し掛かった時代の心意気を感じさせるものとも言える。
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 「舟は行く行く 通り矢のはなを」という歌の一節にある通り矢も、現在はその姿が大幅に変化しているようで、当時の姿を想像するのがむずかしいほどではないかと思われる。
 その名は、頼朝がここで通し矢をしたのが由来とする説もあるが、陸地と岩礁の間の海流の早いところ(矢のように流れる)を指すのだろう。しかし、今では晴海町一帯の埋め立てが進んで、その早瀬のような場所がなくなっている。
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 岩礁が一部残りそこは釣り人に人気のスポットではあるらしいが、白秋が歌に詠んだ風情はもうない。
 「通り矢のはな」とは鼻であり岬であったのだろう。そういえば、白秋が住んでいたのは向ヶ崎、対岸は遊ヶ崎、そしてこの付近一帯は三崎で渡し船が出ていたところは仲崎。地名も“みさき”だらけなんですよ。
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 けれど、三崎と名が付く地名は、城ヶ島大橋の西側だけ。それも小網代まで。一部には「三浦市より三崎のほうが有名」という声もあるが、三崎は油壺から三崎の漁港までの間で、三浦市のほんの一部。
 京浜急行の言う「三崎口」も「口」ではあるかもしれないけれど、三崎ではない。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度8分16.36秒 139度37分39.96秒
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dendenmushi.gif関東地方(2016/11/25 訪問)

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番外:井上茂美旧邸跡=横須賀市長井六丁目(神奈川県)わざわざ探して行かなかったその場所に今度は行ってみた [番外]

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 環境省と神奈川県が建てた荒崎の案内看板には、城山からの眺めは「眼下に松の青と砕ける波の白さが調和し、遠く相模・伊豆の連山や富士の容姿がすばらしい」と形容している。
 絵葉書的な説明はともかく、“調和している”という点では、三浦半島自体がある種の調和を保っているような気がするのは、単なる身びいきであろう。けれども、高くて大きな山も長い川もない半島では、どこまでも似たような台地がでこぼこと続き、崖も浜もある海岸線は、だいたいぐるりと周回することができる。そのため人が暮らす集落も海に近く、視界は常に広く開けている。
 こういうところに住むのもいいなあと思う人も多く、ちゃんとそれを実現している人も何人か知っている。が、ちょっと都会から世間から離れて、それでいてあまり隔絶された感じはないところは、通勤マイホームというよりは、半分隠居のような理想の隠遁生活に向いているような気がしていた。
 それに憧れる気持ちも強かったが、東京へ通勤するという現実が切り離せなかったでんでんむしは、中途半端に半島の付け根にかれこれ数十年も居を置いてきた。そこへやってきたときには、まだ京浜急行も三崎口まで延伸していなかったのだが、そんなときに見た地方版の小さな新聞記事で、井上茂美(しげよし 1975(昭和50)年に没)の消息を知った。
 そのことは、2007年初めのブログで、
として書いていた。
 それから数えて10年も経つので、今回また再再訪し、中途半端だった荒崎についても「荒崎2」を加え、まだ探さないままになっていた井上茂美の家があった場所も確かめておきたいと、これを書いている。
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 でんでんむしがこの人に興味をもつ理由は、“最後の海軍大将”であったからでもなく、海軍内でも少ない開戦反対派だったからでもない。
 ただ、元高位の海軍軍人としての敗戦後の日本における身の処し方、という点においてのみ。
 旧軍幹部や戦争指導の関係者が続々と自衛隊などに復帰し、大企業からの誘いに応じて戦後社会にうってでるのを、苦々しく思っていたらしい井上自身は、いっさいの誘いを断り、近所の子供に英語を教えて過ごし、この海を望む台地の上からあまり出なかったといわれる。
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 “一億総懺悔”などというお題目にごまかされて、戦争責任をあいまいなままにしてきた結果、戦前の思想や体制が復古するがごとき現象がちらちらとそこかしこに目につき、それを公然と主張する勢力や団体が政権を支援し動かしているような光景がだんだん増え、いや大手を振ってまかり通っている。そんな現在を、井上は想像していただろうか。
 そのすばらしい教育方針に感銘を受け夫もそうだという首相夫人が、名誉校長を引き受けた(疑惑が発覚してから辞任)という、幼いこどもに教育勅語を暗唱させる私学の要求に応じて、政治家や官庁と役人がせっせと便宜をはかるようになってしまっている。結局、この騒動も「適切に処理」されて、うやむやなあなあでごまかして逃げ切り可能にしてしまう。この政権になってから続く、もろもろのことにも、大多数は怒ることもなく、暗黙のうちに了解させられている。そうしていく先に、われわれは何を失っていくのだろうか。
 少なくとも、あるべき国のかたちをどう考えるかについては、われわれは戦後からずっと調和を欠いたままの混沌のなかでもがいていて、その答えをみつけられずにいる。そうこうしているうちに、いつの間にか過去の亡霊がゾンビのように蘇って、すでに政権に影響を与えている、いや政権を支えている、いやいやそれらが政権をつくっているというべきだ。「日本をとりもどそう」というのは、そういう意味だったのだ。それでも、世論調査では半数前後の支持率を維持しているというのも、実に不思議なことだ。
 話がそれた。もっとも、井上は自身の生き方や考え方について、自分で語ることはなかったらしいので、その戦後の去就についても、他の情報の断片から伺うだけ。かなり上っ面だけの、数十年前と同じ個人的な感想の範囲に留まり続けていて、進歩も発展もない。(それでも、その間にずいぶん昔仕事で新宿御苑前の雑居ビルを訪れたとき、その一室に井上の伝記刊行会かなにか、そんな表札を掲げてあったのをみたという偶然もあった。)
 したがって、書くこともあまりないのだが、前にはなんとなくそっとしておいてあげたほうがいいのではないかと、わざわざ探して行くことをしなかった。その後、この場所にも変化があったらしい。
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 縁者があとをついで、一度は“井上茂美記念館”もオープンしたともいうが、今は閉館状態になったままのようだ。もともとの住居だった建物は、もう取り壊されてないようだが、わずかに古い門柱がその跡を示すものとして残っているだけだ。
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 勝手に入ってきてうろうろする人間も多いらしい。そこで、“私有地立入禁止”と“記念館は閉館”の張り紙がぶら下がることになったのだろう。個人の記念館など、維持するのも大変だろうと想像はつくが、なにかこのままでも気の毒なような気も…。(阿川さん印税の一部でも…^_~。) 
 そう思いながらも、荒崎の上の台地から海を眺めてみる。
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 この海が、広く太平洋へと続いている。千島、ミッドウエイ、ハワイ、硫黄島、サイパン、グアム、フィリピン、ニューギニア、パラオ、そしてでんでんむしの父親も眠るソロモンとガダルカナルの海へも。
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 毎日、それを海軍の拠点であった横須賀のここから眺め暮らしながら、なにを思っていただろうか。
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 もし、彼がここに立っていれば、いまどきの芸も能もないお馬鹿なインタビュアーなら、マイクを向けて「今のお気持ちは…?」と空疎な決まり文句を言いそうなところだが、でんでんむしにはそんなことを聞くのは無用で失礼だろうと思える。
 それは戦後の伝え聞くその生き方を知れば、それだけで充分、それがすべてなように思えるからだ。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度11分44.15秒 139度36分24.78秒
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dendenmushi.gif関東地方(2016/11/29 訪問)

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祝! 広島カープ25年ぶり、7回目のセ界制覇! 待ちに待ったその日がついにやってきた! [番外]

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 最も優勝から遠ざかっていたチーム、と言われ続けてきた。やっと25年ぶりのVである。スポーツ新聞ではない一般紙にも「苦節25年」の見出しが踊る。2016年の戦いぶりは、勝ち星の半分以上が逆転勝ちで、6月から終始独走状態を堅持する、実にみごとなものだった。なにかと不自然だった監督采配も、今年は様変わりになったような印象がある。みんな大喜びであろう。広島の街も、さぞかし盛り上がっていることだろう。
 でんでんむしのようにその前の第一期「苦節25年」を経験してきた“球団創設以来のファン”は、だんだんと減っているだろうが、ちょうど球団結成から初優勝までも25年だった。そのときには、「一度でいいから優勝してくれ!」と願っていたものだ。それが、80年代の赤ヘル黄金時代を築き、都合6回もリーグ優勝して、そのうち3回は日本シリーズを制覇しているのだから、もう言うことはないくらいの大満足であった。
 以来、勝ち負けだけでなく、ゲームを冷静に楽しむ術もマスターして、長く続いていた低迷期も、いちいちカリカリしないで、余裕でカープの試合を見てきた。
 だが、その黄金時代を知らない若い人たちにとっては、ちょうどわれわれが初優勝を待ち望んでいたときと同じ年月だけ、この日を夢見て待っていたのだ。
 よかったね! うれしいね! バンザイだね!

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★ (↑字が小さい? 拡大してみてね!)
 広島人にとって、カープは特別な存在なのだと言ってもよい。関東にいても、ケーブルテレビでカープの試合はほとんどの試合を見ているが、マツダスタジアムでもビジターユニで真っ赤に染まったスタンドと、そこを埋め尽くした人々の顔を眺めていると、いいようのない感動と連帯感を覚える。
 ほかのチームでも、ファンの思いは同じといえばそうかもしれない。だが、カープの場合は、そこらへんがちょっと違うのである。
 神宮球場も横浜スタジアムも、関東で遠征があるときにごくたまに出かけることもあったが、いつもビジターの応援のほうがホームを圧倒していた。いまさらのようにレフト三塁側の応援がすごいと解説者やアナウンサーがいうけれど、そんなことは昨日今日に始まったことではないのだ。
 思えば41年前の初優勝の時も後楽園球場で、そのときのスタンドの大歓声は中央総武線の線路を越えた。2016/09/10の東京ドームも、ビジター席だけではなく、3塁側の上も真っ赤で、内野も赤くなりかけていた。広島からやってきたファンも多かったろうが、優勝決定戦にプライベートで、県知事と市長が東京まで飛んできて並んで応援するようなチームはカープだけだろう。
 広島出身者ではないけどカープファン、という人も増えているので、皆が皆同郷意識で寄り集まっているわけではないだろうから、実際どうなのかは球場で出口調査でもしてみないとわからない。
 だが、広島カープの存在は、広島という一地方の一地域を基盤として、初めて成り立っている。第一、チーム名に地域名を冠した球団は、今でこそ無理やり「東京なんとか」とかつけたりしている(現在はフランチャイズ制を標榜し、原則地域名を冠することになっている)が、長い間ずっと広島カープだけだったのだ。

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 それは、広島に球団をつくろうとして奔走した先人たちの思いのなかに、原爆で一瞬のうちになくなってしまった広島の街と、ともすれば先も見えない不安で荒廃していく人々の心をひとつにまとめ、郷土の復興への力になるという期待があり、それが見事に結実した象徴が、広島カープだったからだろう。
 ローカルなことにかけては、12球団のうち随一であったが、12球団随一の貧乏球団であったこともまぎれもない事実であった。とにかく、その創設時から、監督の第一の仕事が選手を集めることと、それに払う給料の資金集めだったくらいであった。“樽募金”として語られるエピソードは、役員会で浮かび上がった解散合併の動きに対応して起こった。
 今でもそうだが、プロ球団は親会社が(広義の)宣伝のために資金を出すことで成り立っている。だが、カープにはそれがない。そのため、初代監督である石本が考えだしたのが、広く市民を集める後援会組織で、これが後々にまで続く、熱狂的な応援を支える軸にもなり、「市民球団」と言われるもとでもあった。
 もちろん、地元の広島電鉄、中国新聞社、東洋工業など地元の十数社の企業も、積極的に支援はしたが、彼らのどこか一社で丸抱えできるような体力のある企業はなかったので、自然寄り合い所帯。
 だが、現実は厳しいことに変わりはなく、連盟からは8つあったチームを整理するためマークされ、邪魔者扱いされた時期もある。“セ・リーグのお荷物”といわれる所以はそこにあったが、なんとか危機を乗り越え、合併案も回避してきた。
 1963(昭和38)年に東洋工業社長の松田恒次がカープの経営に乗り出す。このときから、正式名称が「広島東洋カープ」となるのだが、東洋工業は一部資本参加したものの経営権をもっていたわけではなく、有力なスポンサーのひとつにとどまる。
 カープだってマツダが親会社だろうという誤解は、今でも多いようだし、いっぽう市民球団であるという思い込みも多い。しかし、それはどちらも違うのである。
 一般市民が幅広く株を持っているわけではないから、その意味での市民球団ではない。実態は、恒治→耕平→元と松田家三代がオーナーを引き継いできた“同族経営の個人商店”のようなものである。東洋工業の経営危機で、外資との提携やなにかで、松田家が自動車から手を引くと同時に、松田家はカープ一筋になって今日に至る。マツダが引き続き有力な支援者サポーターであることも、昔から変わらない。
 もっとも、松田家は当初は松田家支配は当面のことで、ゆくゆくは球団の運営形態自体をも考える、と言っていたはずだが、その動きはない。四代目ぶくみのオーナー代行にはオーナーの甥が就任した。オイオイ〜。

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 遠征にもいつも選手とともに帯同していた先代と比べて、三代目オーナーはカープ愛が足りないような印象をもっていて、暗黒時代を招いた責任はオーナーにあると批判していた。また、代行就任当初、高橋慶彦を怒らせて彼がカープを離れることになったこともあって、いい印象がなかった。だが、近年の黒田の復帰を実現させたこと、新井を呼び戻して快く迎え入れたこと、マエケンの願いを聞き届けたこと、そして先代に倣って選手とともに歩む姿勢を続け、コミュニケーション努力もしているらしいなど、でんでんむしも少しは見直している。
 マエケンの移籍金の一部を地元に還元するという方針を、いち早く示したのもよかった。(その後、具体的にどうしたのかは知らないけれど…)(2016/11広島東洋カープは、広島市に5億円を感謝のしるしに還元すると発表した。日南と沖縄のキャンプ地にも1億円ずつ。)
 それらに加えて、最近の球団経営には、そもそもはマツダから出向してきた鈴木球団本部長の手腕によるところもあるのだろう。
 カープは、球界ではめずらしいはずの独立採算制である。一見当たり前のようだが、ほとんどの球団では、親会社とどんぶりだからその内容はわからない。赤字でも親会社が補填するだけだからである。親会社を持たないカープは、近年はずっと黒字経営である。いつだったか、オーナーが500万円の黒字だったと喜んで言ったというのを聞いて、なんだ情けないと思ったこともあるが、長い間貧乏は貧乏なりにコウラに似せて穴を掘ってきたのだ。
 そのため、ずっとFAでは選手をとらないで、可能な限り若手の有望な選手を獲得して育てていく方針でやってきた。だから、相対的に平均年俸も他球団に比べて低い。だが、優秀なスカウトやアメリカの筋の良いコネもあって、有望選手の発掘や優良外国人選手の獲得では、他球団に一歩先んじている。カープがとった外国人選手で、その後パ・リーグで活躍している者も多い。また、有力選手に育って、他球団へという者も多かった。
 新しい本拠地球場ができて以来、カープの商売上手は他球団の追随を許さない、独走態勢である。もちろん、熱いファンの支えがあってのことだが、入場者数も、グッズの売上も好調そのもの。経営状態はずいぶんよくなったことであろう。
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 スタンド全体が赤くなるほどに強烈になったのは、ファンがグッズとして売られている選手ごとのネームと背番号の入ったユニフォームや、赤いキャップなどを買ってそれを身につけてくる(あるいは球場で着替える)からである。とくに近年の傾向としては、ビジター用の赤いユニフォームが人気で、ビジター球場だけでなくホーム球場のスタンでも大半を占めるほどに目立っている。
 この頃では、他球団でも日を決めてその日の入場者にカラーのシャツやタオルなど応援グッズを無料で配るところもあるが、カープはそんなことはしない。欲しいと思う応援グッズは、すべてファンが自前で買う。その売り上げは球団の収入になるから、樽募金が形を変えて続いているようなものだ。(樽募金といえば、新スタジアム建設のときに復活したらしいが、でんでんむしは遠くにいて知らなかった。)
 球団もこれには味をしめているので、ブラウン監督の頃から、目立って新グッズの開発には熱心で、ことあるごとに限定記念Tシャツなどを売り出している。新井の2000本や黒田の200勝は、そのひとつである。これには、選手自身のアイデアも採用されているなど、ひと味ちがう。
 そのほか、カープ坊やの手人形などグッズにはさまざまあるが、他球団の応援グッズに便乗したものもある。もちろん、相手球団に何がしかの挨拶をしたうえでのことだろうが、中日ドアラの耳を赤にしたのや、ヤクルトの傘を小さな赤い傘にして…といった例がある。また、スタンドで目立つのは、ファンが自分で思い思いにつくったボードや文字パネルであるが、これはカープが初めてというわけではなかろう。これも、昔は手書きがほとんどだったが、この頃はコンピュータを駆使してきれいにつくっているものも多い。
 カープ坊やというのは、初優勝のとき以来球団のシンボルのようになっているキャラクターで、ユニフォーム姿の男の子がバットを構えて前を向いている、2次元で丸いシールなどになっていた。球団マスコットとしても、最古参となる坊やである。新球場には3次元の大きな風船でできた坊やもいる。でんでんむしは、日本シリーズには必ず観に行くことにしていて、その都度これを売店で買ってきて貼ってあるので、ユニや色使いなどが微妙に異なる6人のカープ坊やが並んでいる。
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 初優勝のときに買ってきた大きい丸いシールは、本棚の横板に貼り付けていたが、日焼けして赤も色落ちしている。このときは、ルーツ監督の指示でチームカラーも赤に統一するよう指示があったが、ユニホームまでは間に合わず、帽子とヘルメットだけ赤にしたのだ。だから、このときは胸のCARPの文字も赤ではない。
 ゆるキャラが流行るずっと前からこれはあるのだが、もともと名前はなかったはずだ。いつからか、“カープ坊や”という名が広まってはいるが、そもそもの原案は確かに一見してこどもとわかるが、この顔の絵↑はどうも“坊や”という感じではないように思えてしかたがない。
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 グランドで試合の合間や試合終了後に愛嬌を振りまくキャラは、カープ坊やではなく、スライリーというほとんど意味不明の着ぐるみである。
 セサミストリートのマペット人形をつくっている会社が製作したというのだが、これはどうみても依頼の事前打ち合せの段階で齟齬があったとしか思えない。それは、このスライリーの性格付けその他コンセプトについて、明快な説明をしない(できない?)からである。
 
 身びいきといえばそれまでだが、広島カープがいちばん最初に始めて、それが他球団にも波及したというものは、たくさんある。
 でんでんむしもそれを全部チェックしているわけではないので、思いつくままに順不同で並べてみるが、落ち漏れも承知のうえ、裏取りなしということで。
 資金不足に悩む初代石本監督が始めた後援会というのも、おそらくそうだったのではないかと思われるが、創成期の苦難を球団と共にしてきたという勝手な思い込みが強かったファンが、その熱意の表われとして始めた、さまざまな応援スタイルは、昔から現在までユニークな伝統をきずいてきた。だから、これは維持していきたい。応援スタイルはやはり他のチームの応援のマネ(たとえば、タオルをグルグル回すとか)は、やめてほしい。あくまでオリジナルでいきましょう。
 ヤジがきびしいのもそうだったが、かなり昔から“ラッパのおじさん”というのが現れていた。軍隊ラッパで突撃ラッパなどを吹き鳴らす。いわゆる鳴り物応援は、ここから始まったとしてよいのだろう。そして、これが次世代に受け継がれつつ、トランペットによる、コンバットマーチに発展していく。
 ベンチ上に陣取ったおじさんが、相手チームがアウトになると、仏壇から持ってきたチンを、絶妙なタイミングで鳴らしていた。これが、やがて応援団全体での鳴り物テーマになる。アウトになる毎に囃し立てられるわけで、かなりイラッとくるのではないかと、その効果に思ったのは、他球団の応援でもそれをやるようになってからだ。
 それまではやはり、ファンの多くはおじさんばかりで、カープが勝った日には流川の飲み屋が繁盛するといわれた。なかには、敗け試合に怒るファンがスタンドで酔っ払って、ウイスキーの空き瓶をグランドに放り込み、線審がケガをするという事件まで起こった。
 それが、少しずつ変わり始めるのが、“コージコール”がスタンドを包むようになった頃からだろう。“コージコール”は、スター選手だけでなく、各選手個人ごとの応援歌につながっていく。また、カープが得点するたびに歌われる「宮島さん」(宮島さんの神主が、おみくじ引いて申すには…)は、昔の唱歌「花咲か爺さん」(裏の畑でポチが鳴く、正直爺さん掘ったれば…)の替え歌である。だが、この替え歌はカープの応援のためにできたわけではなく、広島では戦前から広商の応援などに使われてきたものなのだ。
 球団の公式応援歌としては、初優勝前に「それ行けカープ」が制定されて、現在もラッキーセブンに演奏され歌われる。
 カープファンのなかには、東京で『酒』というPR雑誌の編集長として有名人にも知人の多かった佐々木久子(一度神宮球場のスタンドでお見かけしました)などもいて、彼女を中心として「広島カープを優勝させる会」も生まれ、これ以降有名人でカープファンを名乗る人も増えていく。
 応援歌の作詞・作曲者も、その縁でできたと記憶する。(初優勝の年のことは、
「1975☆『思い出の索引』★でんでんむし@アーカイブス☆わたしたちが生きてきた時代とは…」に書いていた。
 宮島のシャモジをカチカチ打ち鳴らすスタイルは、広島の応援の伝統的なものではあったが、プロ野球では初優勝がかかった試合など特殊な場合に限られる(初優勝を決めた後楽園球場でもあったというが、でんでんむしはちょどそのときはヨーロッパに行っていて見ていない)。その伝統は二本のミニバットを打ち合せ振る応援に、引き継がれている。
 近年の応援では、スクワットとカープ女子とジェット風船も象徴的だ。カープ女子に負けじと、他の球団でも織り姫とか、…あとなんだっけ?
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 体力もいるスクワットは若い人ならではで、スタンドに女性が増えたことも特筆に値する。おじさん中心の野球応援が、明らかに変わっている。それには大リーグの球場を参考にしたというマツダズームズームスタジアム(日本の球場では左右非対称形なのはここだけ)が、ボールパーク的な色彩を打ち出してきたこととも関連するだろう。外野の入場券で入っても、バックネット裏の上まで含めてぐるりを一周できるほか、さまざまな特色のあるシートも用意されている。女性でも家族連れでも楽しめるような雰囲気づくりには、ある程度成功している。
 ジェット風船は甲子園で始まったとされるが、実はそれは阪神ファンではなくカープファンが始めたのだという。最初の頃は、風船は黄色や白や色とりどりとはいえ色彩は地味目だった。でんでんむしがRCCの掲示板に「カープのは赤い風船に統一したほうがよい」と投稿したのはその頃で、その翌年からはマツダスタジアムのジェット風船は赤一色になって、ラッキーセブンに一斉にそれが舞い上がるのはなかなか感動的で壮観だ。
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 カープのことは、これまでもところどころでふれてきたが、ひさしぶりの優勝なのでちょっとリキ入れてみた。とりとめのない感想もいい加減に締めくくらないといけないが、重要なことを忘れているような気もする。
 あ、そうそうカープが最初に初めて他球団が追随したというのには、背番号ゼロというのもあった。それから、選手の用具一式を遠征地まで運ぶ、専用のカープトラックを設けたこともある。長年、その運転手を務めてきた人が、今年定年になるそうだが、優勝で花道を飾ることができてなによりだった。
 2年位前から、カープの選手が打席に立つときかぶる赤ヘルが、メタリックのきれいな光沢になった。これは、マツダの自動車の塗装からのヒントでできたらしいが、これも経営主体が変わって研究熱心な横浜が広島を視察し、いろいろ参考にしていて、さっそく追随している。
 いわゆる関連本“カープ本”の多さも、群を抜いているように思うが、今年は「赤ヘル1975」(重松 清 講談社文庫)を買ってきた。
   そうそう、ドミニカに開いたカープアカデミー、これを忘れていた。こういうのもカープが初めて。
 わが家の息子たちは、まったく野球に興味がない。いまどきどこの球団のファンか云々というのは昭和の時代だなどと吐かしている。もちろん、親の因果を子に押し付ける気もないからほおってきたが、娘たちがその分をフォローしてくれている。
 テレビからも押し付けがましかった日テレ系の読売の試合中継がなくなって、確かに昭和も遠くなったが、これが正常な状態でもあろう。
 二度目の苦節25年が終わり、これから二度目の赤ヘル黄金時代をつくってくれるのは、平成の選手とファンである。よろしくね!
 カープバカの雑文、失礼しました。他球団のファンの皆々さま、これからもよろしくお願いいたします!
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dendenmushi.gif (2016/09/10 記)

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番外:立石岬灯台と原発=敦賀市立石・明神町(福井県)国策による灯台と原発がならんでいる半島の北から見える島は… [番外]

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 敦賀半島の先端は、大きな山の北端ではなく、北西から南東に伸びる161メートルが最高点の、長さも200メートルに満たない小さな尾根の先である。その北端の100メートルくらいのところに立っている立石岬灯台は、通せんぼのところからいきなりの急坂を登って行ったところにある。
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 驚いたのは、この急坂を登って灯台を訪ねてくる人が、意外に多いことだった。休日とはいえこの暑さのなか、なんでだろうと不思議に思うのは、もちろん自分のことは棚に上げてのこと。登るときにすれ違った中年の夫婦に「クマは出ましたか」というと「クマは出ません」との返事。灯台の日陰でゆっくりおにぎりなどを頬張りつつひと休みしている間にも、3組ぐらいが登ってきてまた降りて行った。
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 滞留時間がみんな短いのは、せっかく灯台まで登ってきたのに、周囲はヤブで、敷地内の隅にベンチがあるだけで、海は見えるとはいえ見どころにはいささかもの足りないからであろう。いわゆる“展望台”的な要素にはちょっと乏しいのだ。
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 それでも、ここからは干飯(かれい)と越前岬が重なりあっている北の海が美しく見える。おや!? 遠くにはぼんやりとだが島影も見えるではないか。若狭湾の北の海に、島なんてあったっけか?
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 まさか竹島ではないから、どうやらこれは西北西250キロほど遠くの隠岐の島ではなかろうか。西の島前はさらに遠いうえに標高が高くないのでわからないが、東の島後が見えているのだろう。こういうのって、なかなか自信を持ってそう言えるまで、時間がかかる。
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 そして、さらに西のほうには丹後半島の経ヶ岬も…。おおっ、これで自信をもって言えるな。隠岐の島です。それ以外には考えられないけど、意外に近くに見えるものだ。
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 帰りの降りでも登ってくる2組くらいがあって、「灯台はまだですか?」と聞くので、「まだまだですよ。あと半分がんばって。」と返す。
 この人たちはバスで来たのではないから、車でやってきたわけだが、別に灯台めぐりの趣味があってのことではなさそうだ。道が通せんぼになっていたので、しかたなく坂道に誘導されてきたものだろうか。
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 この灯台ができたのは1881(明治14)年のことで、ちょうど敦賀港と長浜の間に鉄道が敷かれたのと同じ時期である。いろいろ変なこともやったけれど、明治の指導者には近代国家の建設に向けて、巨視的なプランももっていた。敦賀に目をつけたのは、日本海と太平洋を結ぶ最短ルートであるからで、後にはこのルートで伊勢湾まで運河を通すという計画まであってしばらくはくすぶり続けた。
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 明治になってから、お雇い外国人の手になる洋式灯台が、各地で次々に建てられた。しかし、それらは半分は外圧によるもので、外国の貿易船の都合で立地が決められていた。が、この立石岬灯台は日本人の考えで、その計画と設計により日本人技術者によってつくられた、初めての灯台だったのだ。その意味では、歴史的な灯台だと言える。つまり、当時の国策によってつくられた灯台第1号なのだ。
 シベリア鉄道と結ぶ航路ができ、当時の4大貿易港に発展した敦賀の行く手を示すシンボルとして、現在の敦賀市の市章にもこの灯台が示されている。
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 現在の敦賀市のシンボルというには、3.11以降あまりにもマイナスイメージが強烈で大きくなってしまった原発も、国策といえば国策なのか。灯台のある尾根と南に続く半島主尾根の間に、隠れるようにしてある日本原子力発電の敦賀発電所は、その1号機が、日本最初の商用炉として発電を開始した東海村に続くものであり、原発銀座福井県(といっても県西部のみに集中)の最初の原発でもあった。
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 国策にしたがって、敦賀市議会が原子力発電所の誘致決議をしたのは、1962(昭和37)年のことである。
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 別に詳しいことが知りたいというわけでもないが、なぜかここには日本原子力研究開発機構の新型転換炉「ふげん」が隣接している。これは平成15年までは動いていたが、すでにもう廃炉になっている。そのためか、地図などでは表記されていないが、名称も原子炉廃止措置研究開発センター(略称:ふげん)というらしい。
 大量の水を必要とする原発は、海岸でなければならない。人里からもできるだけ遠くはなれているほうが望ましい。ふたつの尾根に挟まれ、猪ヶ池を抱え南側の明神崎を先端とする長い岬に囲まれた入江の奥の谷間は、いちばんに適地とみなされたのだろう。
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 この原発の所在地は、敦賀市明神町である。“町”がつく地名は敦賀市街地では当然普通に多いが、半島で“町”がつくのはここだけである。
 半島でほかにはない“町”が、ここにだけにあるのは、どういうことだろうか。まさか、この谷間には町があったのを立ち退かせたということはないだろうし…。(そんなところは最初から選ばないはずだから)
 立石岬を西に回りこんで行く破線の道も、地図には描かれているが、おそらく崖崩れがなっかたとしても、この道は歩くことはできなかっただろう。
 というのも、西海岸も大きく原発エリアで、敦賀原発の西に広く白いままの埋立地が広がっているのも、原発用地らしい。
 そして、その南には、かの有名な高速増殖炉もんじゅ発電所が控えている。「もんじゅ」のあるところは敦賀市白木で、ここも“町”ではない。敦賀半島の先端は、隣の美浜町と半分コではない。685メートルの蠑螺(さざえ)が岳まで半島を分けてきた境界線は、そこから急に西に向きを変え、半島西海岸の門ヶ崎南の崖まで降りているからだ。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度45分43.24秒 136度1分7.10秒 35度45分9.14秒 136度1分5.86秒
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dendenmushi.gif北越地方(2016/07/18 訪問)

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番外:帽子のこと織田のこと=丹生郡越前町織田(福井県)コレに比べれば帽子のチョンボなどはかわいい…ついでに武生も鯖江も [番外]

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 “鎌倉帽子屋”のタグは、木ノ本駅に電話したとき、こちらが失くした本人であることの確認にも役立ったようだ。そのメッシュの黒いキャップは、さほど高価なものではないはずだが、わざわざ探して買ってきてもらったものなので、そう簡単に「失くしちゃったのよ」で済ますわけにもいかなかった。これまでも、岬めぐりの道中で紛失したものは、手袋やマフラーやウインドヤッケや帽子(これとは別にほかの)やハンカチやタオルや…いろいろある。
 老化現象というよりも、旅先の移動中の行動で、ともすると注意力が散漫になる瞬間があるらしい。そのことは自覚も意識もしているのだが、どうもいけない。今回にしても、木ノ本駅のベンチに座っていて、帽子を脱いで汗を拭ったことまでは覚えているのだが、電車に乗って座席に座ってしばらくしてから帽子がないことに気がついた。
 昔の映画に出てくるような、男がみんなかっこよく帽子をかぶっていた時代とは違って、今は帽子はかぶらないほうが普通である。けれども、頭の天辺が涼しくなってくると、冬は寒さよけに夏は日よけにどうしても帽子は欠かせなくなる。
 年寄りの帽子は、なかなかむずかしい。ベレー帽やハンチングはまったく似合わない。毛沢東や林彪がかぶっていたスタイルをアレンジしたのもこの頃ときどき見かけるが、あれもだめ。仕事がらみで外に出るときにはつばのある帽子をかぶることにして、それ以外はもっぱらキャップ(野球帽)ですませてきた。
 しかし、でんでんむしとしては、なかなか気に入ったというか、かぶる気になれるのがない。だいたい、あんなどこの会社だか商品だか知らないが、わけもわからん縁もゆかりもないアルファベットのロゴやマークなんぞを、でかでかつけて歩く気にはならない。もっとも、プロゴルファーのようにそれで大金が入ってくるとか、小金でよければ払うとでも言うなら話は別なので、相談に応じる用意はあるが…。
 それと、中国製はできるだけ敬遠。日本製でロゴなどが入っていないもの。となると、でんでんむしが買ってもいいキャップは、実際そこいらの百貨店でも大型店でもまずないのだ。
 世の中一般にも、おじさんの帽子といえばキャップというのは多いようで、みんななんの抵抗もないらしい。ロゴマークつきのキャップは、おじさんスタイルでは定番なのである。また、おばさんの帽子も、この頃ずいぶん増えているようだ。これも、少し前までは主流とは言えなかったはずだが…。
 それで、前々から非常に気になっていることがある。テレビでたまに公開録画などの映像で客席が映ることがあるが、このときに帽子をかぶったままで座っている中高年のおじさんおばさんが、やたら多いのだ。
 だいたい常識としては、帽子は戸外でかぶるもので、室内ではぬぐものである。少なくとも、でんでんむしの常識ではそうだ。近頃の狭小住宅に慣れている人にはわからないだろうが、かつての家や部屋では、入ったとこに“帽子掛け”というものがあったくらいだ。(西洋のエチケットでは、婦人の帽子はこの例外が認められているものがある、というようなこともうろ覚えだが。)
 たまたま、数日前の新聞の投書欄に、でんでんむしと同じ常識を持ち合わせている人からの投書が載っていた。趣旨はまったく同じ。投書者は、なぜ主催者は館内放送で事前に帽子は脱ぐように言わないだろうのか、と指摘していたが、同感である。
 ひと昔かふた昔の映像でちょっと見たところでは、館内座席で帽子をかぶっている人はほとんどいなかったはずだ。どうして、こういう常識はずれのバカな中高年おじさんやおばさんが増殖してしまったのかねえ。ほんとに嘆かわしいことだ。(2016/11補足:中高年に人気のさるBSの歌番組の公開コンサートの放映があった。それをみると、これまでとは客席の様子が一変して、帽子をかぶっている人がひとりもいない。これまではたくさんいたのだ。やはり、あの投書のおかげで、やっと気がついた主催者側が、ちゃんと注意をしたものと思える。)
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 最初にお断りしたように、実際の行動順とは異なり、ブログの掲載順は琵琶湖から北陸線で北上し、越前海岸を南下しつつ岬を拾っていく。
 実際の行動では行程の終わりの2日になるが、武生まで行ってそこからかれい崎まで往復し、武生から鯖江に向かった。
 岩崎ちひろが生まれた街という武生は、蔵の並んだ一角を保存していて、ほー昔の武生の街はこんなだったんだ、と感激する。いっぽう、市役所の近所ではこんなものも…。確かに、こういう時代もあったよね。
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 いわさきちひろとその絵を知ったのは、1960年の「わたしは赤ちゃん」(松田道雄・岩波新書)を読んだときだった。その少し前から、彼女は福音館の「こどものとも」で作品を発表していたが、その頃はまだその読者ではなかったのだ。
 JRの武生駅と福井鉄道の越前武生駅は、微妙な距離を残して離れていて、その間にまるまる平和堂というスーパーとその駐車場を長細く挟んでいる。takefusabae-2.jpg
 福井鉄道に乗って鯖江まで行き、そこで西鯖江の駅のそばのホテルに一泊したのは、最終日早朝に福井鉄道で神明駅まで行き、そこからバスで織田に行く必要があったからで、できるだけ神明まで近寄っておきたかった。
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 やってきた鯖江は、メガネの街という触れ込みが有名で、そのことだけは知っていた。なるほど、大きなメガネの会社も見かけたし、中心街のアーケードにもそれをデザインしている。また、つつじもシンボルになっているようだ。
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 この鯖江の通り、車が片側だけに駐車している。日を決めて、駐車できる側をどちらか一方に決めているからだ。なるほどね。
 政治にもバランスが必要だが、かねてから右翼の御用メディアの常連で、日本会議にも関わり彼ら右派の代弁をし、靖国参拝を盛り上げ率先してリードしてきたメガネのおばさんは、どうやらこのへんが地盤らしい。波長が合うらしいアベ内閣改造で右大臣になったが、メガネを常用しているのは地元産業のPRを兼ねたダテメガネなのだと、新聞の新大臣紹介にはあった。
 大きなお寺も多く、その前の駐車場に停めてあった車にはびっくり! こんなんがあったんだ。クルマには縁がないから知らなかったよ。(でも、この岬めぐりから帰って数日して、近くの町で色も同じこのメガネクルマを見かけた。)
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 武生も鯖江も、だいぶ内陸の盆地(福井平野)に開けた町である。北陸本線の武生駅からかれい崎までは西南西に16キロ離れている。同様に、福井鉄道の神明駅から真西には、直線で21キロの距離があるのだ。
 そして、この南北二本の線の間にあるのが、福井県丹生郡越前町で、その中心は標高100メートルほどにある小さな盆地、そこが織田(おた)なのだ。
 ここらも、バスの便は非常に悪い。神明から織田の便も少ないので、早起きして電車に乗るが、織田までやってきても、そこで2時間も待たされる。
 が、ほかに交通機関はないので、とにかくバス。
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 国道365号線にある織田バスターミナルと織田病院を結んで、結構複雑に路線が入り交じっているらしいが、ほかは無視して、とにかく平日しか運行しなくて本数も少ない越前地区巡回ルートの左右(そう)行きのコミュニティバスを待つ間、町の中心にある劔神社へ。神社への通りには“駅前通り”とあったが、ということは、ここにも昔は鉄道があった?
 やっぱりね。大正12年開業の鯖浦線(せいほうせん・さばうらせん)が、鯖江から織田を結んで、1973(昭和48)年の全線廃止まで走っていたのだ。このバスターミナルもその名残りというわけだ。そして、ターミナル前の大道りは“信長通り”。
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 ほかにすることもないのでゆっくり参拝もし、いつもは無視するおみくじまで引いてしまった。100円を入れて丸い穴に手を入れて勝手に取れというタイプだが、ここのおみくじには少々がっかり。吉か凶かの内容(それもなかったが)にではなく、おみくじそのものがどこかで印刷して全国の神社に売り込んでいるかのようなもので、劔神社ならでは感や、そこはかとないありがたみがどこにもない。
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 実は織田家の発祥の地がこの織田で、 劔神社も神官などをしていたその勢力によって守られてきたらしい。バスターミナルの角には、信長の銅像も立っていたが、ご本人はあまりこことも直接縁はなかったはずだろう。
 ところで、おみくじやお賽銭の一部は、やっぱり日本会議の活動費に回るんでしょうかね。
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 越前岬へ行く越前地区巡回ルートのバスに乗りそこねた件は、どうしたかって? よく覚えていましたねぇ。
 そうそう、そのバスはね、越前岬の北の左右(そう)行きのコミュニティバスのことなんだけど、なんかばかばかしくて恥ずかしくて、詳しく書く気にもなれない。
 だが、コミュニティバスもいろいろあって、いろいろなところで乗っているが、ちょっとしたサービスや気遣いや、乗る人のためを思うという点で、ここ越前町のコミュニティバスはフレンドリーどころかまるでなっていない、最低だということだけは書いておこう。
 行き先表示も「織田病院行き」になっているから、旅行者はまさかそのバスだとは思わない。しかも「織田病院行き」が何台もほぼ同時にターミナルに並ぶ。運転手はそこに立っている客に一声かけるでもなく、降りてタバコを吸いながら携帯でなにやらトラックを借りる相談をすると、空車のまま行ってしまった。その後には、もういくら待っても左右行きはやってこなかった…。
 2時間待ったあげくが、コレだよ! シンジラレナイ  (`ヘ´))?
 これは、でんでんむしの岬めぐり史上、最低最悪の大チョンボ!として記録と記憶に残るだろう。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度29分57.56秒 136度10分32.09秒
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dendenmushi.gif北越地方(2016/07/19〜20 訪問)

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タグ:福井県
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番外:やっぱりこっちのほうは鬼門だった(滋賀県・福井県)琵琶湖・越前海岸・敦賀・三方の岬めぐりはパプニングだらけ [番外]

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 ひさしぶりの東海道新幹線である。通常は「のぞみ」に乗るときは、横須賀線で品川まで行ってそこで新幹線に乗り換えるのがいちばん便利なのだが、今回は「ひかり」なのでこの場合は東海道線で小田原まで行き、そこから新幹線に乗り換える。
 ウエザーマップの予報を眺めながら、出発日を選んでいたが、計画を決めて予約をとったとたんにまた予報が変化して、傘のマークが大きくなった。
 梅雨の合間をぬっての計画だから、しょうがない。今回は途中敦賀付近では雨の中に突っ込んでいくことも、覚悟して出かけることになった。おまけに「海の日」を含む三連休の只中。当然、いつもはこんなときは避けて計画するのだが、今回は“日曜祝日のみ運行”というバスに乗るためもあり、また片やでは“平日のみ運行”というバスにもうまくからめた計画にする必要があった。また、世間が夏休みモードに入る前に、済ませておきたかった。
 おかげで、JRのみどりの窓口に並んだときには、連休初日の下り東海道新幹線「ひかり」の指定席は満席。窓口のおねえさんがグリーン車なら空いているというのでそれにした。後へずらすことは計画上できないから、やむを得ない。横須賀線のグリーン車には今でもたまに乗るが、新幹線のグリーン車は会社の金で東京=新大阪間を往復していたとき以来、これもひさしぶりである。
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 新幹線のことについては、以前にも書いていたことがある。
 また、窓の位置など車内設計についてもどこかで書いたような記憶があるが、どこで書いたか探し出せない。(So-netブログの“検索”はほとんど役に立たない。というのは言い過ぎか。たまには役に立つことも)ま、そんなことはどうでもよいか。
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 今回の計画は、琵琶湖と越前から敦賀・三方にかけての岬めぐりである。実際の行動は、京都→大津京→近江塩津→木ノ本→敦賀→三方→敦賀→武生→越前町→鯖江→織田→越前町→武生→米原→小田原というふうになる。
 が、ブログ掲載順はまず湖西線の岬めぐりから始め(これは実際行動順通り)越前海岸を下って敦賀湾岸をめぐり、続いて美浜湾、そして三方の常神半島の先端までという順序で項目は並べることにする。
 琵琶湖は、これも不思議だが、岬と名のある出っ張りは、西岸と北岸にしかない。以前もついでに湖北の岬を…と思ってみごとに失敗した経験がある。越前海岸は、越前岬(「005 越前岬=丹生郡越前町血ヶ平(福井県)生きる勇気が湧いてくる?ような屹立する岸壁が…」)までは済んでいるが、ここは再訪してみたい。
 若狭路の岬めぐりは、「579 黒崎=小浜市田烏(福井県)常神半島をバックにここにはあのう〜トンネルの物語もあったんですよ」まではアップ済みなので、このときには見えなかった獅子ヶ崎を常神半島側からおさえておけば、日本海沿岸は龍飛から京都府の経ヶ岬までつながることになる。
 それが、このミッションの使命である。…とカッコつけてはみたが、この岬めぐりでは、なかなか計画通りにいかないでカッコよくないハプニング(というより誤算?)が続出した。それを実際行動順にあげてみるとたとえば…。
 ① 近江塩津から木ノ本へ行くはずの湖国バスが、途中で打ち切りになっていて、道の駅で次の便まで1時間以上待たされることになった。
 ② そのうえ、このバスが肝心の藤ヶ崎を回らず、藤ヶ崎トンネルを抜けるルートを通ってしまった。
 ③ おかげで、予定より遅く木ノ本駅から敦賀行きの電車を待っているときに、ホームのベンチに帽子を置き忘れてきてしまった。
 ④ 三方から常神へ行く若狭町営バスの“日曜祝日運行”の便が、行ってみるとなくなっている。(4月からダイヤ改正しているという)これでまた3時間以上の待ちに。雨だけは予報通り。
 ⑤ 雨と悪路で常神岬が見える峠まで行けず。おまけに常神から帰りのバスが、事前の調査した時刻と違っていて、またここで雨の中なんと3時間20分待ち。
 ⑥ ハプニングにはよいこともあって、敦賀コミュニティバスの常宮線が夏季臨時増便になっていたので、立石岬まで行く余裕ができた。
 ⑦ …と思ったら、立石岬までの道は崖崩れで通行止めになっていて、結局行けなかった。
 ⑧ 最終日織田から越前岬へ行く、越前地区巡回ルートのバスに、あろうことか乗りそこねてしまい、「越前岬2」は計画倒れになってしまった。
 …といった具合に盛りだくさんで、これ以外に計画したとおりに車窓からはうまく岬が見えないというのもあったりして、さんざんの結果となった。
 ①と④⑤は、6月の計画時点でネット情報により確認した運行ダイヤが、いずれも4月から改変されていたらしく、ネット情報の修正がうまく機能していないという現実を明らかにしてくれた。つまりネットの時刻表などは改正があっても修正や置換えをせず、まったく平気で古い時刻表を放置したままなので、信用してはならないということ。これはこれまでも何度か体験したことがあったが、いよいよもってこの体験を教訓にし、計画のデータを見直さなければならない。
 最後はなんとか、計画通り「しらさぎ60」(下の写真は金沢へ行く「サンダーバード」)で武生から米原まで出て、米原からまた「ひかり」で帰ってきたが、やっぱりこっちの方角は(京阪からみると東北)鬼門であったか。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度25分13.41秒 136度0分33.73秒
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dendenmushi.gif近畿・北越地方(2016/07/16〜20 訪問)

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番外:東海汽船「橘丸」=三宅島から竹芝桟橋へ(東京都)三代目の柳原良平カラーリングは正直言ってちょっと?だが… [番外]

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 東京生まれ東京育ちの友人が、昔学校の修学旅行か何かで大島へ行ったときに乗った船の名が「橘丸」であったという。船の名も襲名されることもある(漁船などは“第八十三なんとか丸”のように番号だけ変えるのが多い)ようで、この現在の「橘丸」は三代目にあたるらしい。
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 東海汽船の前身である東京湾汽船が、大正時代に建造して運航していた小型貨客船を一代目として、その友人が修学旅行か何かで乗ったのは二代目の「橘丸」で、戦後に徴用を解かれて東京湾に戻ってきて、大島航路に復帰していた頃のことらしい。
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 三代目は、2014年6月就航を開始、総トン数は5,700トン、先年亡くなった柳原良平(当時東海汽船名誉船長)の選定で「橘丸」と命名され、船体のカラーリング(黄土色とオリーブ色と公式にはいう)も柳原が手がけたといわれている。
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 それまでの東海汽船のフラグシップであった「かめりあ丸」(3,715トン)などに代替するものだった。「かめりあ丸」は伊豆諸島の神津島や新島などへ行ったときに乗っているが、白を基調とした船体はもうかなり老朽化していた。(この時の写真と、柳原良平のことなどについてはこちら↓に書いている。
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 しかし、最初にこの船(三代目「橘丸」)の写真を東海汽船のサイトで見たときには、ヘンな色だなあ、それに斜めのラインが大型船にはどうもうまくマッチしていない。ほんとに柳原良平がこれに決めたのか?と思ったくらいだった。
 ヘンなカラーリングだと思う人は、やっぱりでんでんむしのほかにもいて、なぜかと質問をしたりしているが、単に先代のを踏襲したという情報は、個人からのものであったし、先代のがどうだったかもよくわからない。なぜか東海汽船もこの問題については、どうもすっきりした答えを用意してはいないようで、積極的な説明はない。tachibanamaru-6.jpg
 電気推進船(スーパーエコシップ=SES)」の新造船の名を、三代目となる「橘丸」とすることについても、反対の声があったようだ。それは、戦争中の“橘丸事件”の悪いイメージを引っ張りだすまでもないという理由からだった。確かに、命名もそれまでの「かめりあ丸」「さるびあ丸」「かとれあ丸」「ふりいじあ丸「すとれちあ丸」などと続いてきた花の名前路線から、大きく変更した復古調である。tachibanamaru-7.jpg
 これも柳原指示なのか? そうだとすれば、二代目の因縁を承知であえてその名を三代目に襲名させた理由は、いったいどの辺にあったのだろう。
 二代目は、当時の船舶が等しく辿った悲しい有為転変を経ていた。軍に徴用されて輸送船になったり、病院船になったりしていたが、事件は1945(昭和20)年それも8月3日のことである。モルッカ諸島周辺で南方戦線からの兵員の後退輸送にあたって、陸軍が病院船「橘丸」に偽名を付し、“1,562名の将兵たちが白衣を着て患者を装い、軍服や各種武器等は赤十字社の標章を付して梱包し”(wikipediaによる)て偽装して部隊・武器を輸送を計画し実行する。だが、それは国際法違反であり、出港後すぐに偵察機に捉えられて米軍の臨検にあい、拿捕されてしまう。陸軍史上最多の捕虜を出した、と記録されることになった、というのが“橘丸事件”だ。
 それでも、「橘丸」そのものは、パラオからウェーク島に回航、ウェーク島からは復員兵の第一陣700名を乗せて10月20日に浦賀に帰投したという。そして、戦後は大島航路の花形にもなり、1962(昭和37)年8月24日の三宅島噴火には避難民輸送に従事するが、後輩の新造船「かとれあ丸」や「さるびあ丸(初代)」の就航とともに、押しだされるようにして第一線から退き引退した。
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  まったく理解不能だが、三代目に採用されているSESという推進システムは、“ディーゼル主機関直結のプロペラと電気駆動のポッド推進器を組み合わせたタンデムハイブリッド方式”、なのだそうだ。その全長は118メートル、旅客定員は約1,000名であるという。貨客船であることは他の僚船と同じで、これは主に伊豆諸島の航路に従事するということの特殊性から、自ずから決まってしまう。貨物と旅客の両方を同時にのせていくのだが、いわゆるフェリーではない。だから自家用車は載せられない。じゃぁ、貨物で運ぶのかねぇ。ま、でんでんむしには関係がないので深く追求しない。
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 貨客船の特徴は、前方部にクレーンを備え付けていることで、各島々の岸壁に寄港すると、早業でコンテナを降ろしまた積んでいく。
 その間に、左舷のドアが開き、タラップが付けられ、乗客が降りていきまた乗ってくる。乗船するとそれぞれの選んだ船室に散っていくが、今回は昼間の長い航海になるので、特1等12,920円也(シルバー割・夏料金はもっと割高になる)をはりこんだ。受付でなぜか部屋番号を515番から517番に変更された。
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 特1等というのは、二段ベッドが左右にあり、その奥の窓に向かってテーブルに座椅子、一方の壁にはテレビが取り付けられていて、その反対側はロッカーと冷蔵庫(ミネラルウオーターが2本入っていたので1本いただいた)、給茶セットなどがある。ビジネスホテルみたいなもんだが、見知らぬ他人と4人(あるいは2人でも)でこの部屋を長時間に渡って共有するというのは、(相手によることはもちろん)はたしてどんなもんだろうね。
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 幸い、でんでんむしの部屋は相客はおらず、三宅島から竹芝桟橋に着くまでの6時間、ずっと一人だけの時間を独房で過ごしてサイコーだった。部屋の番号を変えたのは、余裕があるので相部屋にしないようにするためだったのかも…。
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 えらく時間がかかるのは、東京湾に入るところからは徐行運転のようにスピードを落とすからで、三浦半島が見えてからアクアラインの吸排気塔を回りこんでレインボウブリッジをくぐるまでの2時間以上が、ものすごく長いように感じる。
 東海汽船の八丈島・御蔵島・三宅島を結ぶ航路は、通常の帰路は三宅島から竹芝桟橋まで直行するが、夏の間は特別に大島に寄港することになっている。しかも、大島からは東京行きの高速ジェット船に乗換えが可能らしい。
 うーん、この長さを考えると、きっと乗り換えたくなるだろうね。
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▼国土地理院 「地理院地図」
34度5分11.15秒 139度31分36.70秒
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dendenmushi.gif関東地方(2016/05/20 訪問)

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番外:大路池=三宅村坪田(東京都)なかなか簡単にはま〜るく収まらないま〜るいマールのことなど… [番外]

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 専門家の説明がシロウトにわかりにくい原因のひとつは、専門用語をいとも気軽に振り回し、それですべてが済んだかのような終わり方をするからである。専門家同士ならそれでもかまわないのだろう。また、同時にいろんな専門用語表現を使い分けるのかどうか知らないが、あっちの説明とこっちの説明で違う用語を平気で使ってフォローしないということがよくある。これがシロウトを惑わせる。
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 たとえば、大路池についても「約2500年前に出来た火口湖」という説明があり、また「マグマ水蒸気爆発で生じた円形の火口の周囲に少量の火砕サージ堆積物の低い環状の丘を形成したマール」という説明もがあるかと思えば、「爆裂火口」であるともいう。こうなると、火口とマールと爆裂火口は同じなんですかい違うんですかいと聞きたくなるが、そういうことは非常に多い。
 まず、「火口」とは「火口はマグマや熱泥や温泉水が、地下深部から上昇してきて地表を突き破ることで形成される」そうなので、水蒸気爆発でできるものも火口と言ってもいいらしい。したがって、大路池を火口湖と言うのには差し支えがないわけだ。
 次に「爆裂火口」とはなにか。火山の爆発でできる火口だが火砕丘をもたず、地面がえぐれたような凹みになるというので、そうすると火砕丘があるマールはそうではないことになるが、別の説明ではマールもその一種だという。こうなるとわけがわからん。しかも、火砕丘があるかないも、けっこう微妙だし…。
 しかもマールの説明の中で「火砕サージ」といわれると、それがまたわからない。雲仙普賢岳以降一般用語化した「火砕流」とはちょっと異なっていて、火山ガスの比率が高く、高速でなぎ払うように移動する現象だそうだ。その動きが水蒸気爆発火口の周辺をなぎ払うことで、周囲に円形の縁ができる、ということなのか。
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 この三宅島南部にはいくつものマールがあると書いていたのだが、マールには水がある場合もない場合もある。大路池には、その丸い凹みの南側に偏っていはいるが、水を湛えている。そのすぐ下の都道北側にも地理院地図でははっきりと水のないマールが描かれており、大路池の北東、坪田集落よりには大路池に匹敵するくらいの大きさのマール地形がある。そこも池ではないが、輪の中には小さな池と水流があり、道があり畑があり、都道に接するところには都立三宅高校がある。
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 おやおや、ここにきてwikipediaの“三宅島”の項には、こんな記述があるのを発見した。
 
 「…海岸付近ではマグマが海水と接して発生するマグマ水蒸気爆発による爆裂火口地形(マール)がいくつも見られる。大路(たいろ)池がある古澪(ふるみお)、新澪(しんみお)池跡、三宅高校のある八重間などもマールの例である。新しい溶岩が海岸に達しなかった場所は切り立った海食崖が続いている。
 
 なるほど、三宅高校のところは、八重間という名があるんだ。おおっ、それに「1388 新鼻」の項で、古澪について問題提起していたが、「古澪」もやっぱりちゃんとあったんじゃないか!
 しかも、その場所を「大路(たいろ)池がある古澪(ふるみお)」と特定している。この記述によると、古澪の上や隣に新澪ができたんじゃなくて、古澪からはまったく離れた別の場所であるところ(ここからは東に2キロ以上離れている)に新澪はできた、ということになるわけだ。
 さらにうろうろしていると、どうやらこの wikipediaの元ネタになっている(逆ってことはないよね)らしい「日本の活火山」サイトのなかにある「三宅島火山地質図」の解説にも、「海岸近くのマグマ水蒸気爆発で開いたマール (爆裂火口)を数多く見ることができる.大路[たいろ]池のある古澪[ふるみお],1763年に形成された新澪[しんみお]池(跡)などはこのようなマールの例である.」との記述があるのを確認した。
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 しかし、それは具体的にどこだ、ここだよとはっきり書いてくれないもんかねえ。案外、大路池と都道の間にある小さなマールがそれなのかも…?
 いやいや、まてよ。もう一度説明を読んでみよう。ここではwikipediaもその元ネタも「大路(たいろ)池が(の)ある古澪(ふるみお)」をひとつのマールと勘定しているわけだから、ということは、「大路池=(or ≒ )古澪」ってことになるんですか?
 これは大発見だ。しかし、まてまて、もうしばし…。
 そうであるならば、古澪の存在やそれが大路池という名になる経緯など、もう少しれっきとした由来説明があってもよさそうなものだが…。どこにもないんだね、これが。だから、なかなかすっきりとまあるく収まらない。
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 バス停を降りて、広い道を上りながら深い森のなかに入っていくと、道はまた急な下りの階段上になる。つまり火砕サージでできた縁の内側に入ったわけだ。
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 桟橋に立って正面をみると、丸くはなく左奥が少し奥深くなったような水面が左右に広がる。この水面は、マールの南半分にも満たない。北は緩い斜面になって、サージの縁に達し、そのまま真北にある雄山火口へと続いていく。
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 ああ、そういえば、マールのことを最初に書いたのは、男鹿半島だった。ここでもいろいろ書いているので、参照してくだされ。
 ま、いずれにしても、知りたがり屋シロウトの駄文に過ぎませんがね。
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▼国土地理院 「地理院地図」
34度3分15.72秒 139度31分33.45秒
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dendenmushi.gif関東地方(2016/05/20 訪問)

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番外:新澪池跡=三宅村阿古(東京都)池が池でなくなったときそれが問題だと思うのはでんでんむしくらいのものなのか [番外]

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 新澪(しんみょう)池跡には、バス停のほか休憩スペースやトイレ、それに駐車場があるので、おそらく薄木から坪田までの間を走る車にとっては、重要なポイントになるのだろう。駐車している車も1台、また後から1台増えたが、どうやらいずれも釣り人の車らしい。
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 ここでは、新澪(しんみょう)池跡の“跡”もポイントである。つまり、かつては池だったものが、今はそうではなくなっているということだ。
 まず、このあたりで池といえば、火口に水が溜まってできる火口湖であると考えられるが、それはいつできたのだろう。気象庁の「三宅島噴火の歴史」では、
 1763年 宝暦13年 雄山山頂噴火、阿古村薄木でも噴火。約6年間
 と一行記されているだけだが、地質調査総合センターと産業技術総合研究所のサイト「日本の活火山」によると、宝暦の噴火についても詳しく書かれている。
 
 1763年8月17日(宝暦十三年七月九日)夜より鳴動が頻繁にあり,雄山の山頂から赤熱の岩片が稲妻のように飛んだ.翌日から鳴動,地震が頻発する中,薄木からも噴火が始まった.阿古,坪田両村にはスコリアや火山灰が多量に降り,伊豆,神着にも降灰があった.薄木には深い火口が形成され,水が湧いて池となった.この火口が新澪池であると伝えられている.噴火は1769年(明和六年)まで続いた.噴火をもたらした割れ目火口列は3条の割れ目の中央にあたる.スコリアは南東山麓にかけて厚く降下した.薄木周辺ではこれを覆って爆発角礫岩が堆積した.また,新澪池北方の小火口からは薄木へ溶岩が流れ下った.この噴火を期に阿古住民は東山から再び現在の地へ移村したという.
 
 ここでのポイントは、次の三点。
 ・この火口が新澪池であると「伝えられている」こと。(つまり伝聞である)
 ・このときの噴火は1769年(明和六年)まで「6年間も続いた」こと。(それだけ長い間にはいろいろあるだろうから、池くらいできてもおかしくない)
 ・阿古住民は東山から「再び移村した」こと。(その前1643年の噴火で東山に移ったばかりだ)
 現在の国土地理院の地理院地図でも、阿古の表示範囲が広い。当然、薄木も粟辺も、まだ阿古なので、東の坪田との境界線はどこになるのだろうと、実は疑問に思って探っていた。すると、ここから東に1.1キロ先の、カール状の谷(割れ目噴火? ではないな整然とし過ぎているから)が海岸にまで続いているところまでが阿古だった。
 現在の阿古の中心は港の北だが、そこからこの辺まで、何度か阿古の集落が移村を繰り返していたために阿古の領域ができたとも考えられる。
 新澪池は、なかなかきれいな池だったらしく、それを伝える記述は、さまざまにあるようだ。
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 が、問題はこの池が池でなくなったことである。1983年の噴火で水がなくなったと言われているが、それも経過を見たものはいないらしい。前項であげた新山の記録でも、新澪池爆発とはあるだけで、いつ水がなくなったのか、はっきり明記したものは見当たらなかった。
 爆発と同時に抜けたのか、それからしばらくしてだんだんに減っていったのか、何日かして行ってみたら水がなくなっていたということなのか、それもわからないのだ。(そんなこたあどーでもええんじゃ! とにかく水はヌケたんじゃ!) 
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 それにしても宝暦年間とは時代が違う昭和なんだからもうちょっと…と思っていたら、「ジオスポット」の説明には、「新澪池は一瞬にして干上がり…」とあった。そうなのか!?
 “一瞬にして干上が”るって?…。その状況が、どうもうまく想像できないのだ。
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 前出(前項参照)の『地質ニュース』では、噴火翌日の調査レポートとして、次のように書いていた。
 
 新澪池は地形図のそれとは様相を一変させていました。以前からあった池の隣りに径200mほどの窪地が生じ、その北に火砕丘が生じています。火砕丘の中の割れ目からは、白煙がモウモウと立ち上がり、周囲には白色から黄白色の昇華物が付着しています。(写真8)
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 その「写真8」というのが、右の写真(左の白いのが火口と,写真下の説明が言う)である。
 だが、この写真の下のほうには、明らかに枯れ木の向こうに池の水面とおぼしき平滑な面が広く写っている。つまり、噴火の翌日にはまだこのような状態だったことがわかる。となると、「ジオスポット」の説明が言う“一瞬”とは、いったいいつのことなのだろうか。
 新澪池の爆発火口は、現在の火口跡の北西側にできた。その跡は凹みになっているのがわかる。また、南側は高い崖になっていてなかなか深い池だったようだ。これが湧き水でできていた。
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 ここの爆発も新鼻新山の爆発も、同じ水蒸気爆発によるものであったが、池だったところの中の地形は複雑で、爆発も単純ではなかったようだ。マグマが水と接触して起こる同じ水蒸気爆発でも、そのときのマグマと水の状況によって、さまざまな結果を地形に残すものらしい。
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 池の跡を眺めていると、カラスが近くまでよってきた。さっき新鼻新山にいたカラスがついてきたのだろうか。
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 県道脇の看板は、火山ガスの注意をうながすものや、新鼻新山のロッククライミングを禁止する、打ち込んだハーケンなどを取り除くようにという警告であったりする。そういえば、新鼻新山でロッククライミングをしたと、えらく得意気に書いているブログもあったなあ。
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▼国土地理院 「地理院地図」
34度3分6.89秒 139度30分7.71秒
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番外:鯖ヶ浜と鯖ヶ浜港=三宅村阿古(東京都)赤い今崎海岸に続くニビイロのサビガハマは「橘丸」の寄港地 [番外]

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 東京芝浦の竹芝桟橋を出た船や、運よく欠航にならずにやってきた八丈島・御蔵島からの船が出入りするここは、錆ヶ浜港(さびがはまこう)。
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 全島避難が解除になって以来、三宅島の玄関口の役目を果たしてきている、島の西側にあるこの港は、もともとはサブの扱いで、東側の三池港が使えないときに西のここに接岸するだけであったようだ。
 どういう影響があったのか、説明が見当たらないので、詳しい理由は不明ながら、2000年噴火以降、東の三池港は使えなくなっている。だから、「橘丸」ももっぱらこっちへ着く。もうひとつ、伊豆岬と今崎の間に、伊ヶ谷港(いがやこう)という港もあるが、これが今のサブになっている。
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 しかし、ここはなぜ“サビ”なのだろう。魚偏なら“サバ”かとも思ったが、沿岸から遠い伊豆諸島ではサバもあまり聞かないし、金偏の“鉄のサビ”が浜の名につく理由も思いつかない。
 伊豆大島などでよく食べられている白身魚に、“サビ”(クロシビカマス)という魚があるので、その名からきた名前なのか。いずれにしても“サバ”ではないらしいし、第一魚偏ではない。港の北に続く黒っぽい浜の名も錆ヶ浜。ここは港よりも、浜の名のほうが先にあったと考えるべきだろう。
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 鯖ヶ浜港は、阿古漁港の北側に突き出た岸壁のことで、東海汽船の大型の貨客船「橘丸」が、毎日早朝に東京からやってきて、お昼すぎには八丈島・御蔵島からの折り返し便が着き、また人と荷物を積んで、そそくさと出て行く。今のところは、それだけのために存在する港である。こういう大型船の接岸する岸壁には、かなりの幅も長さも必要になるので、小型船のように港の防波堤と灯台をくぐって港内に入るというようなことはない。
 外海に面した防波堤のような岸壁が、船が接岸するところなのだ。 
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 こういう場合は、入港する船はアタマから入ってきて岸壁の前で反転し、船首を海に向けて接岸するのが決まりである。
 でんでんむしが帰るときに乗った便は、八丈島から出たものの、御蔵島への寄港はできなかった。そんなアナウンスが、広い待合所の建物のなかに響いていた。が、どんな客がそれで影響を受けることになったのだろう。
 そんな埒もないことを思うのも、自分が八丈島で三宅島へ向かうはずの「橘丸」を2日間も待たされ待ちぼうけをくったばかりだからだ。
 寄港できなかった御蔵島から乗るつもりだった乗客は、乗れなくて乗っていないわけだから、八丈島から乗って御蔵島で降りるつもりの乗客が、三宅島まで連れて来られた、というケースは考えられる。
 さーて、そういう人がいたとして、どうするんだろうね。
 天候次第で、船はなかなか計画通りにはいかない。それは離島の場合は大前提で、だから東海汽船も、乗船券に予定通りに運行しないことがあるという意味の印字をして手渡したりしているわけだが…。
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 港の岸壁の北側を見ると、まず目に飛び込んでくるのは、赤いテーブル状の今崎海岸である。その手前からは、対照的にくすんだ灰色の海岸が伸びてきて岸壁までつながっている。
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 小説家などだと、空や海の表現に「にび色(鈍色)」などと気どって表現するのを好む傾向があるが、こういう錆ヶ浜がまさしくそのにび色なのであろう。空や海ならいいけど、浜にはふさわしくないのかな。“サビ”と“ニビ”…。
 そのときに流れてきた溶岩の性質によって、赤くもなったり黒くもなったりするが、錆ヶ浜に切断面を晒している部分的に礫の層も含む地層もにび色であった。sabigahama-1.jpg
 今崎海岸の項がいっぱいになってしまったので、書き切れずに残っていたのは三本岩。大野原島(三本嶽)と地理院地図で表記されている岩島は、錆ヶ浜からは西南西に9.2キロの距離にある。ここも、海底火山の噴火で生じた島だろうが、もちろん無人島。
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 だが、遠くの海にはかなげに蜃気楼のように浮かんでいるこの岩島は、今の三宅島、とくに阿古地区の漁師さんなどにとっては、その存在感ははっきりとしていて、生活と密接に結びつくほど重要である。
 阿古の民宿に電話したときにも、いちばんに「釣りですか?」と聞かれたくらいで、外来の観光客のうちに占める遊漁客の比率がどのくらいかはわからないが、相当なものではないか。民宿の多くは、そういう客を相手にしており、自前で、あるいは提携で、遊漁船を用意して待っている。
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 そして、その船が向かう漁場の主だったところが三本岩。大きいのは確かに三本だが、そのほかに十指に数えられるほどの小さな岩島が集まっている。釣はしなくても、そういうところに行ってみるのもおもしろそうだ。けどね、ここには岬はないから行かなくてもいいんだ。
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▼国土地理院 「地理院地図」
34度4分10.11秒 139度28分50.31秒
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番外:火山体験遊歩道=三宅村阿古(東京都)1983(昭和58)年10月の噴火で島の中心だった旧阿古集落は呑み込まれた [番外]

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 このあたりはもういちいち地図を見ないで、頭のなかの地図だけを頼りにふらふらと歩き回ったので、行動が計画的でなくなってしまった。夕景浜からの始発バスの時間に遅れては大変だ。早朝ぶらぶら散歩のつもりが、時間配分を誤って、遊歩道のなかをすべて回り切ることはできなかった。
 赤い黒い溶岩が冷えて固まるまでのように、時間が多くのものを変えていく。おそろしくつらいかなしい経験の跡に、“遊歩”という文字を当てはめても、誰もさほどに違和感を覚えないのだろう。
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 1983(昭和58)年10月3日の2時頃から、測候所の地震計に前駆的微動が記録され始め、15時23分頃に雄山南西山腹二男山付近に生じた割れ目から噴火が始まった。
 この割れ目噴火で噴出した溶岩流が、南西側に流れ出した先には、当時の島の中心であった阿古地区には、520世帯1300の人々とその家が固まっていた。そこは観光と漁業の中心地でもあり、温泉も湧いていた。そのため、阿古温泉郷とまで言われて繁栄していた。
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 溶岩流は、その集落を襲い、町並みをすべて飲み込んでしまったが、このときは、日本で初めてという流れる溶岩流に放水して冷却させる試みも行なわれ、海に落ちる寸前で流れは止まったようだ。人的被害はなかったが、噴火が昼間だったこと、ちょうどその1か月ちょっと前に防災訓練を実施したばかりだったこともあって、住民関係者が沈着冷静な行動をとれたため、と言われている。
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 溶岩流や火山灰等の噴出物総量は、国土地理院の測定では計2000万トンに達し、噴火前後に発生した101回の有感地震のなかで最大のものは、3日のマグニチュード6.2、震度5であった。
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 火山体験遊歩道は、その溶岩流の西側の一部の上に設けられている。
 その案内板によれば、阿古地区の人々が避難する最終バスが出た10分後に、溶岩流が集落を呑み込んでいったという。その後も残っていた消防団や警察や医療関係者は、道路が遮断されたため、漁船で避難した。
 噴火後の3か月後でも、溶岩は熱を持ち続け、その上を歩くと靴底のゴムが溶けた。
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 火山体験遊歩道ができたのがいつか、はっきりとした記録が三宅村の情報にも見つからないのだが、2000年の全島避難が解除になって、帰島がかなった後で、島の復興再生を図る事業の一環として、溶岩流の上に木道を設けるなど整備されたものらしい。
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 遊歩道の西の端に、溶岩と草に埋もれるようにして、コンクリートの四角い建物が二棟ある。これが阿古小学校と阿古中学校の跡である。その間には溶岩樹型も残されているらしいが、そこまでは行っていない。急いで行けば充分行けたのだけど、なんかねどうでもよくなってしまって…。(これも老化現象でしょうか)
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 この遊歩道の東、夕景浜から一周道路へ出たところ付近は鉄砲場と呼ばれているが、ここにも溶岩流に埋まった自動車などがあるらしい。
 遊歩道の南には、三宅村役場があり、そこから道路を挟んで海寄りに下りたところに、阿古温泉郷の名残りであろうか、“ふるさとの湯”という村営の温泉施設(地熱で海水が温められた天然かけ流し)もあった。ここは、観光施設というより、どちらかといえば島の銭湯のような感じで、実際島民の人はそういう使い方をしているらしい。
 もちろん、入浴してきましたが、それはこの早朝の遊歩道とは別の行程でね。
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▼国土地理院 「地理院地図」
34度4分46.46秒 139度28分49.38秒
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番外:三七山・ひょうたん山・赤ばっきょう・椎取神社=三宅村坪田・神着(東京都)「ジオスポット」が連続する無人地帯を歩く [番外]

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 三宅島は有史以来の噴火活動を続けてきている火山島だが、気象庁のサイトによると、20世紀になってから以降の噴火だけでも、1940(昭和15)年、1962(昭和37)年、1983(昭和58)年、2000(平成12)年と4回の噴火が記録されている。
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 このうち、1940(昭和15)年は、「7月12日北東山腹より噴火、溶岩流出。14日から山頂噴火。多量の火山灰、火山弾放出。死者11名、負傷20名、牛の被害35頭、全壊・焼失家屋24棟、その他被害大」とある。
 北東山腹からの溶岩流が流れ下ったのが、サタドー岬とアノウ崎の間で、この辺りの地形や様相は、一変したのであろう。現在は、この間の溶岩流の上を島を一周する都道212号線が通り抜ける、広い大きな道路が走っているが、その沿道付近はすべて無人地帯で人家の一軒もない。
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 この無人地帯をサタドー岬から北へ向かって歩いて行くと、三七山→ひょうたん山→赤ばっきょう→椎取神社と、「ジオスポット」が続いてある。
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 三宅島の火山活動がつくりだした風景のなかを歩いて行くと、まず三七山というスコリア丘が現れるが、これは1962(昭和37)年の噴火活動によるものである。ガスの抜けた穴がたくさんある黒い軽石が火口付近に降り積もってできた噴火でできた丘のことを、スコリア丘という。案内板にもそう書いてあるのだが、でんでんむしにはなぜスコリアを暗黒色と限るのか、赤いのもあると思うのだが、それはスコリアではないのか、それがまだいまのところよくわからない。
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 1962(昭和37)年となると記憶も新しく、「山頂から海岸付近まで火柱が並びました。(火のカーテン)」など、なかなかリアルな噴火状況が記されている。20もの噴火口が30時間も噴火を繰り返し、2000万トンもの噴出物を辺りに吐き出した。このときは、地震も1か月にわたって続き、学童の島外避難が実施されている。
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 無人地帯を貫く都道はずいぶん立派になっているが、これは噴火溶岩流出も、雨のたびに火山灰の泥流や土石流で埋まったりしたために、道路の嵩上げ工事が行なわれているからだろう。
 三七山の水準点が、車道と歩道の間の柵の下に埋もれるようになっていた。すいぶんひどい扱いじゃないかとそのとき思ってシャッターを押していたが、後から考えてみれば、これも嵩上げのときに引っ張りあげてなんとか元に位置に置いたということなのだろう。あれっ! でもそうすると高さが変わってしまうよね?(現在の地理院地図では、サタドー岬の南から椎取神社の北までの間には、水準点の表記はない。)
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 続くひょうたん山は、1940(昭和15)年に、海の中から噴火が起こって盛り上がった山だという。火山弾がそこらじゅうに散らばるひょうたん山は、なぜそう呼ぶのかもちゃんと説明があって、それによるともとは噴火口がふたつ並んでいたのだそうだ。
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 それが、海側で海食が進み、削られて海食崖になり、ひょうたんの片方が海に呑み込まれてしまい、その北側にあった集落が壊滅した。
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 案内板には赤ばっきょう(赤場暁)の絵が掲げられているが、昭和10年に描かれたその絵は崖に囲まれた入江の風景である。それが5年後の噴火で、すべて埋め尽くされてしまった。赤い崖がその名の起こりらしいが、人が駆け下りるものと同じくらい速さで谷を流れ下る溶岩流で入江も、当時は島で唯一の天然の良港も完全に埋められてしまう。
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 現在、わずかに旧入江だったというところの崖は、案内板によってなんとかわかるが、残念ながら見えるところは赤くはなくて黒い。
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 1962(昭和37)年の噴火活動でもこの付近の溶岩流は続き、都道も土石流から守るため全面的な嵩上げをしている。
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 溶岩流が流れた谷筋は、溶岩の誘導路として再整備されたらしい。そこを橋で越えると、椎取神社のバス停がある。
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 最初に神様が降ったのが、この椎取神社付近で、島の北側の地名に残る神着の言い伝えもここから始まったとみてもよいのだろうか。付近の樹叢はタブ、スダジイなどの典型的な照葉樹林帯で、神の森にふさわしいところだった。
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 だが、度重なる溶岩の流出と火山灰の土石流、さらには火山ガスで立ち枯れるなど、壊滅的な影響を受けた。その後は、樹叢の再生変化が少しずつ進んでいる、というのが現在の状況らしい。
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 ジオスポットの案内板には、神社の鳥居周辺の2000年から3年間の変化が写真で伝えられているが、その向こうに、地面から鳥居の一番上だけが、まるで丸太をそこにゴロンとおいたような姿で残っていた。
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▼国土地理院 「地理院地図」
34度5分49.86秒 139度33分37.24秒〜34度6分27.72秒 139度33分29.29秒
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番外:八丈島から三宅島へ=八丈町・三宅村(東京都)東京都亜熱帯区から100キロ北へ戻って… [番外]

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 八丈島のリゾート売り出し作戦は、ハワイ並みにはいかなかったが、それでも東京都にこんな島と自然があるのは貴重なことだろう。何度か紹介してきた八丈島観光協会のガイドマップなどは、「東京都亜熱帯区」を謳っている。
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 実際、島を歩いていると、道端にさりげなく茂っている植物が、いつもわれわれが日頃見慣れているものとはちょっと違う。ひょっとすると花卉園芸店の店先ならあるかもしれないが、それらが道端にあることはない。
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 先に「番外:リゾートホテルの廃墟があちこちに」の項では、「緯度的には、八丈島は九州の大分・熊本・佐賀・長崎と横並びでほとんど変わらない。黒潮の影響があるとはいえ、“東洋のハワイ”にはもともとちょっとムリがあったのだろう」と書いていた。それはそれでその通りだったろうが、やはり黒潮の影響は大きく、それこそが、同じ緯度に並ぶ本土の各地とも一線を画するものであったのかもしれない。
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 さて、これで八丈島は逆時計回りに回る輪を閉じる。と言っても、大サリヶ鼻と赤崎の間は、実際に歩いていないので、厳密には輪を閉じたとは言えないのだろう。そこのところは、飛行機からみたということで…。
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 とにかく八丈島は終わったが、計画通りに三宅島へ渡ることができなかった。そこで、また改めて三宅島の計画を立てなければならないことになった。それも、あまり間をおかないうちに…。
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 風向きの関係であろう。八丈島空港からいったん西へ向けて飛び立ったANA機は、すぐに反転して八丈富士、八丈小島を眺めながら、北東に進路をとる。
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 しばらく飛ぶと、岬のない御蔵島が見えてきて、その先にぼんやりと浮かんでくる島影が三宅島である。飛行機は、そのまま北東方向へ進み房総半島の東から回りこむので、大島やその他の伊豆諸島は見えないのだ。
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 だが、三宅島、御蔵島に比べると思ったより扁平ですね。一番高い雄山から東の海岸へは三宅島のなかでもいちばん傾斜が急なところなのだが、そこでも八丈島の西山の傾斜よりは緩いのだ。これにも理由があって、古くに火山活動を停止している御蔵島は、新たな噴火がない時代が続き、その間に海食崖が発達した。このため、島の沿岸は波浪に削り取られた断崖になっている。これに対して三宅島は、現在に至るまで活動を続けている火山島で、溶岩流の流出を繰り返し海に落ちているため、なだらかな沿岸部を形成している。
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 というわけで、いちおうこれで三宅島にバトンタッチしたことにして…。

 1か月後、梅雨に入る前にと思って、行ってきました。今度は、竹芝桟橋から「橘丸」で船中泊、島に一泊してまた「橘丸」で竹芝に戻るという計画です。
 それでね、三宅島へ行って島を歩いて思ったんだけど、やはり八丈島とは植生がまったく違っていて、三宅島のほうはほとんど本土並みなんですね。フツーにいつも見ているような草木ばかり…。
 やっぱり、黒潮の影響は大きいし、その黒瀬川を越えて北へ100キロも戻るということは、完全に「亜熱帯区」からは圏外になる、ということでもあるようです。
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▼国土地理院 「地理院地図」
33度7分0.66秒 139度47分24.14秒 34度5分12.43秒 139度30分55.37秒
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dendenmushi.gif関東地方(2016/04/19・05/19 訪問)

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番外:“抜舟の場”から神湊へ=八丈町三根(東京都)“流人の島八丈島”が定着するのは江戸期からのことだが… [番外]

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 ついつい余計なことに手を出して、後で後悔することはよくある。忙しいときに限ってまた、そういう余計なことを始めてしまったりするのはなんでだろう。
 AdobeのLightroomのデータが重くなったので、過去のデータを整理していたら、どうやらまだこれからアップする予定のファイルまで消してしまったらしい。
 もともと写真はろくでもないのばかりだし、おまけにその日は船が欠航になったので足止めをくらった雨と風の日だったのだが、訪問した八丈島歴史民俗資料館の写真がHDのどこを探してもなくなっている。このテーマで当然番外として締めくくりをやらなければならなかったのだが、このミスを言い訳にそれはヤメることに…。
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 廃墟のリゾートホテルがリゾートホテルとして機能していた頃の神湊東の海岸は、いったいどんなんだったのだろう。それが疑問に思えるほど、現在のこの付近の海岸はなにやら殺伐としている。お天気の印象もあるのだろうが…。
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 ホテルの廃墟から神湊のほうへ行くと、浜には“抜舟の場”という石碑や“流人の碑”が立っている。そうだ、歴史民俗資料館は割愛するとしても、流人のことだけは少しでも書いておかなければならないだろう。
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 宇喜多秀家のことは、「1367 船戸鼻」の項で書いたが、鳥も通わぬ八丈島が流罪の場所として使われ始めたのは、為朝の伝説があるとはいえ、歴史的にいうと比較的新しい。1606(慶長11)年の秀家がその第1号でその後1600人が流されたと、歴史民俗資料館のパンフには書いてあるが、そうだとすると八丈島の流人は、江戸期に入ってからのことだ。
 流罪=島流しという刑罰は、律令制が導入される以前の古代からあった。その意味は、神の怒りにふれた者を島に捨て殺しにするというもので、その精神は律令制のなかでも受け継がれていった。
 死罪につぐ重刑ではあるが、多くの天皇や皇子、宗教者などが流された中世では、権力側にとって不都合で目障りな人物の勢力を削ぐ、という目的で多用された。要するに、殺すまでの理由もないが目障りで都から遠くへ追放し、邪魔されないようにという政治的な意味で実行されるケースも多かった。場所は島である必要はないし、配流地での生活もある程度自由ということもあったようだ。(崇徳院の讃岐については「1348 乃生岬」の項で、順徳帝については「1123 塩屋崎」の項で、日蓮については「1104 鴻ノ瀬鼻2」の項でそれぞれ書いていた。)
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 その罪が重いほど遠くへ流されたが、後醍醐天皇や尊良親王のように配流先の隠岐や土佐から脱出してまた勢力を盛り返すという例もあった。だから俊寛の場合は鬼界ヶ島(「540 足摺岬」の項)のように遠くの孤島などが選ばれるようになった、ということもあったのではないか。
 そういう距離的な意味では、八丈島は適当に遠い。しかも、江戸からは舟で一直線である。江戸期からの配流は、伊豆諸島、なかでも八丈島の役割がだんだん大きくなっていく。戦国の終わりを告げる秀家配流以来、実に数多くの人が流されてきた。当初は政治犯や思想犯などが多かったとされるが、時代が下るとだんだんに単なる重犯罪人も多くなる。なかには、根っからの極悪人も当然いただろうが、そうではない人も、それぞれ特殊技能をもった人も大勢いたわけで、そういう人が島に住み着いて島に貢献したという一面もある。
 なかにはうまく島に溶け込んでいけた者もいただろうし、島の女性と仲良くなるという者もあっただろう。だが、“渡世勝手次第”というのは行政管理の側の都合のいい責任放棄で、島で生きていくのは容易ではない。
 禁を破ってでもなんとか島抜けをしようと思う者は、跡を絶たなかったのだろう。だが、思うのと実際に実行するのとは大いに違う。
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 誰が建てたのかわからない石碑と、立て看板には“抜舟の場”とある。資料館の数字とは少し違うが、秀家以来明治4年までの間に流されたのは1917人であり、抜舟と呼ばれた島からの脱出を図った事例も11回、成功したのは1回のみと記してある。
 地理的には北の江戸へ向いたこの浜は、当時の八丈島から舟を盗んで逃げ出すには、まず考えられる格好の場所だったのだろう。
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 その横には、“流人の碑”という、なにか両手を天に差し出しているような八の字のようなモチーフの大きな碑が建っていたが、それを建てた人たちの立場がおもしろい。そばにある黒い石碑は、それを建てたのが、日本橋・浜町・柳橋・堀留・人形町・京橋のいわば流人を送り出す側、それにそれを受け入れる側の八丈島の各ライオンズクラブだというのだ。
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 神湊は、その当時から舟を寄せるのに適していた、古くからの湊だったのであろう。今では大きな漁港になっていて、かなり高い堤防が深いふところに多くの船を包み込んでいる。
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 ここも二日間にわたって二度三度訪れているので、天気のいいとき悪いときが入り混じるが、すぐ左手には神止山の小噴火口があり、その向こうに八丈富士が望める。ここから北にはもうしばらく集落はない。
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 “関係者意以外立入禁止”の漁港の中を突っ切って(遵法精神も時と場合による)北へ出ると、次の岬であるイデサリケ鼻も見えてくる。
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 この先は、実は歩いて行く時間がなく、計画では底土港から出た「橘丸」の船上から眺めるだけでいいか、と考えていた。
 だが、でんでんむしも、八丈島からの島抜け脱出にはみごとに失敗してしまったので…。
 そうそう、忘れるとこだったが、八丈島への流刑が正式に法律的な手続きで廃止になったのは、1881(明治14)年のことである。
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▼国土地理院 「地理院地図」
33度7分47.24秒 139度48分30.73秒
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番外:リゾートホテルの廃墟があちこちに=八丈町三根(東京都)なかでもこの神湊東の廃墟はスゴイぞ〜 [番外]

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 底土港からは北西に1.5キロほどのところに、神湊の集落と漁港がある。バスに乗るためには、そこまで歩いて行かなければならない。この付近はやはり溶岩の流出でできた緩斜面の終わりで、緑の植生の間にペンションのような建物もある。
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 と、道の左手になにやら怪しげな建物が見えてきた。思わずぎょっとするほど、巨大だ! (辺りに何もないせいもあるが…。)
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 寄ってみると、なんとこれが廃墟だというわけで、ますます怪しい。
 草ぼうぼうの敷地内にはひときわ大きな、議事堂のように中央に塔を備え左右両翼に広がる建物があるが、もう何年も荒れたままのようで、さりとて朽ち果てるでもなく永らえている。白いカーテンが八の字状にぶら下がったままになっているのも不気味っぽい。
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 入口の一対になった白い塔のように高い台座の上には、なにが乗っかっていたのだろう。その右手遠くには人の立像が立っている。歴史的な人物は思い浮かばないので、おそらくはその建物を建てた人の像とかなのだろう。
 草の陰に隠れた看板の文字は、「Hachijo Oriental Resort」と読める。このホテル跡の廃墟は、近頃一部で盛り上がっているという廃墟ブーム・廃墟マニアの間では、わりとよく知られた有名な物件らしい。なんでも、仲間由紀恵と阿部寛が出るあの映画のロケにも使われたという。
 これを取り上げて、荒れ放題の内部の写真までたくさん載せたブログやサイトがいっぱいあるので、そっちに興味のある方は検索してみるとよかろう。
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 もうひとつ検索してみてわかったのが、銅像の人物である。やはりオーナーだった安田某という人だということはわかったし、その人が空手家でも有名な人物だという情報もあったが、銅像の人物と有名な空手家が、同一人物であるかどうかは、どうも確かな結びつきの証が得られない。
 しかも、在日だというこの人物、その夫人がらみでなにやら北朝鮮、総連、金剛山、統一教会などなど、さまざまにやばそうな名前がゾロゾロでてきて恐ろしい。これはなかなか近寄れんということであろうか、空手家の情報を載せたWikipediaも、朴某という本名では沈黙している。
 廃墟も、最初から廃墟として建てたわけではなかろう。安田某氏が“八丈ロイヤルホテル”という名ではじめて1968(昭和43)年この地に建てたホテルは、88室もあって収容人員も450もあったというから、そんな大規模ホテルがやっていけるだけの繁栄時代があったわけだ。
 しかし、その後は名前も“プリシアリゾート”に代わり、また“オリエンタルリゾート”に変わっているので、経営上はいろいろあったようだが、永く八丈島最大の巨大ホテルであった。
 このホテルができた当時は、まだ西から東京にやってきたばかりだったでんでんむしには、八丈島は遠い異国でしかなかったが、どうやら八丈島が“東洋のハワイ”みたいなノリで宣伝され売り出されるような時代があったらしい。新婚旅行でこのホテルに泊まったという人も、たくさんいたのかもしれないのだ。
 だから、八丈島の大規模リゾートホテル開発は、ここだけではなく、大賀郷の“八丈島国際観光ホテル”や樫立の“八丈島温泉ホテル”もそうだった。しかし、どのホテルも2004〜5年頃までに閉鎖に追い込まれて、今は廃墟になっている点も同じである。
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 “八丈島国際観光ホテル”のほうは、船戸鼻や長崎へ行くときに見ていたが、病院のような茶色い大きな建物があるなあと思って見ていた。だが、島民のための病院であれば、こんなでかい建物は必要ないのだった。こちらも廃墟サイトにはいろいろ取り上げられているようだ。
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 “八丈島温泉ホテル”は、奈古ノ鼻や素石ヶ鼻を眺めていた乙千代ヶ浜のすぐ東側にあったのだが、温泉掘削工事の途中で二度も縄文遺跡が見つかったりした。その後温泉が枯れて廃業に追い込まれたという。こちらは所有者の管理が厳重なようで、写真もほとんどないようだ。
 それにしても、一時期はそれだけ観光地・リゾート地としても人もたくさん集まって、巨大なホテルの重要があったものが、どうして2005年までに一斉に閉鎖し、廃墟への道を歩まなければならなくなってしまったのだろうか。
 緯度的には、八丈島は九州の大分・熊本・佐賀・長崎と横並びでほとんど変わらない。黒潮の影響があるとはいえ、“東洋のハワイ”にはもともとちょっとムリがあったのだろうが、それよりも直接的に影響する大きな原因があったはず、とこれは容易に推察できる。
 それが、沖縄である。
 これは沖縄北部のどこかでちょっと書いたような気もするが、1970年代の沖縄海洋博は、まだまだ本土の沖縄ブームに火をつけるには至らなかったが、日焼けしたモデルがヤシの木陰、白いビーチで躍動するといった航空会社のCMがテレビに登場し、そういったイメージが溢れるようになる1990年代のリゾートホテール建設推進で爆発する。
 その陰で、わずかに命脈を保っていた八丈島のリゾート・メリットが、急速に色あせていくのはやむを得ないことだったのだろうと、これはあわせて考えれば納得がいく。
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▼国土地理院 「地理院地図」
33度7分38.93秒 139度48分34.24秒
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番外:底土港・そこど荘=八丈町三根(東京都)底土港にはきてみたものの2日連続で「橘丸」は欠航そこでそこど荘に泊まり… [番外]

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 改めて繰り返すと、今回の計画では八丈島の岬めぐりが一巡した後で、東海汽船の「橘丸」で三宅島に渡り、三宅島の岬を一巡りしてまた「橘丸」で八丈島に戻り、八丈空港からゆっくり午後の便で羽田へ帰る…というつもりであった。
 そして、八丈島と三宅島を結ぶ航路が発着する港が、三根の底土(そこど)港である。
 明日は底土港から船に乗ってという前日から、ホテルのフロントが情報をもたらしてくれ、天候の変化が予測され船や飛行機が欠航になる可能性が出てきたというのだ。
 もともとこの計画を考えるにあたっては、ウエザーマップの10日間予報を参考にしながら日取りを選んできた。その時点では半ばでは雨っぽい予報も織り込んではいたのだ。そこで八丈島から三宅島に移動すれば雨の影響も最小限で済むというのが希望的観測だった。が、その雨をもたらす前線が西から発達し、強風を伴って列島を横断することになってしまい、全国的に影響が出た。強風かあ、それは予測してなかった…。
 とにかく、17日朝の「橘丸」は、三宅島まではきたが、そこから竹芝桟橋へ引き返してしまったらしい。三宅島へのヘリコプターも満席で、八丈島から脱出する手段は完全に絶たれてしまった。
 それでも底土までやってきたのは、翌日の便はあるかもしれないし、東海汽船の窓口のあるこちらのほうが、なにかと好都合と思ったからだ。初めての旅行者にはおおいに面食らって途方に暮れる重大場面だが、東海汽船などはしょちゅうのことで、お詫びもへちまもなにもまったく関係ない、天候が悪いんだから欠航で結構。ネットに欠航のバツ印をつけてしまえばそれでおしまい。なんのことがあろうかという、まことに平然とした風情なのだ。
 実は、三宅島と八丈島の間にはやはり相当の距離感が立ちふさがっている。見たことも体験したこともないが、この間には黒潮が流れており、昔の貧弱な船と操船技術では、なかなかこれを乗り切ることはできなかったという。
 “黒瀬川”と漁師や船乗りが呼んで怖れもしたその黒潮のせいではないが、三宅島まできた「橘丸」が、八丈島まではやってこないというケースは、めずらしくないらしい。ここも同じ東京都だが、駅で電車が遅れたとか運休だとかでも駅員にくってかかるような、中高年のバカオヤジはもちろんいない。こういうことは日常茶飯事で、誰もいちいち騒ぐに値しないのだ。
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 念のため東海汽船の窓口で、翌日の「橘丸」に予約を変更して、新しい予約番号をもらって、底土旅客ターミナルの屋上にでてみた。「橘丸」のこない岸壁では、クレーンが働いて盛んにテトラポットづくりをやっているようだ。
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 その向こう東側の海岸は、150メートルの断崖が切り立っている。大根、御正体根と地理院地図では名がふってある岩場と岩島が重なりあって見えるが、こういう風景は曇りや雨模様のほうが貫禄があるような気もする。この崖の上が、前項でふれた一周道路の最高点や登竜峠があるところになる。
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 さてそうなると、どこか底土で泊まるところを確保しておかなければならないが、欠航が決まった時点ですぐに電話した民宿では、飛行機も欠航になっているので前夜からの客を優先しなといけない。だからそれが確認できるまでの間は即答できないという。なるほど、そりゃまこと正しい理屈だ。
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 空き室もあるからだいじょうぶよとかわいい感じの女将さんが受けてくれたのは、底土港の岸壁からいちばん近い“そこど荘”という民宿。名前からしても電話番号からしても、底土ではいちばんの老舗民宿なのであろう。万事、ゆったりしている。食事の時にいっしょになるお仕事のおじさんたちのグループがあって、長期滞在の宿泊地にもなっているようだ。
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 広い敷地の緑の中に、平屋の建物が埋もれている。結局、翌日の朝も橘丸はやってこなかったので、都合ここに2泊お世話になった。部屋の前の廊下から中庭を挟んで大根と御正体根の断崖が見える。
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 底土は広く島の北西部をくくっている三根のいちばん東の端で、ここから西へ、三根の中心部へは真っ直ぐな広い道がゆっくりと上って行く傾斜路になっている。
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 八丈富士も雲をかぶっていて、風もさほどではないように思えるが、外洋はまた別なのであろう。
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 バスはこの北で漁港のある神湊(かみなと)が終点だが、貨客船の定期便が着岸する底土港にはバスはこない。それでも夏だけはバスが寄るというが、町の住民の塊の大きさでいうと、底土ではなく神湊。それは一見すると納得もできそうだが、定期船が着く(ときどきしばしば着かないけどね)港にバスがこないのはやっぱりなんか不思議感は払拭できないのだ。
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▼国土地理院 「地理院地図」
33度7分22.20秒 139度49分3.71秒
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