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番外:白米の千枚田=輪島市白米町(石川県)年会費20,000円で棚田のオーナーになれるそうですよ [番外]

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 “千枚田”というのも、最近では全国あちこちで名乗りをあげているようだが、それらのなかでも有名なのがここであろう。
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 駅はとうにないのに“輪島駅前”を名乗っているバスターミナルから、今度は町野線という路線バスに乗る。町野というのは能登半島の中央、曽々木の海岸から山の中にまで広がる集落で、バスは国道249号線を曽々木口に向かい、そこから町野川に沿ってそこを経由して横断し、内浦の宇出津(うしつ)へ出る。運転席の横にスコップが常備されているのは、能登半島横断路線の冬に備えてのことであろうか。
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 大きな地図で見ると、ほとんど直線のような能登半島北側の海岸線も、山がぽこぽこと細かく出入りを繰り返し、国道もそれに沿って何度もカーブを描きながら東北東に進んでいく。この線の輪島駅前から曽々木口のほぼ中間にあるのが、輪島市白米(しろよね)町である。
 海岸線はわずか1キロにも満たないくらいの小さな町の名は、今では世界的にも知られているくらいだが、それもこれも千枚田のおかげである。
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 深見町の集落を過ぎ、またぽっこりとカーブが膨らむところが道の駅になっていて駐車場があり、そのすぐ下の斜面に段々畑ではない段々田んぼ“棚田”がきめ細かく模様を刻んでいる。
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 白米町の集落は、この棚田からさらに山のほうに入った緩斜面に散らばっていて、田もまだ上のほうに続いているらしい。川もなく、棚田はかなりの急傾斜で海に落ちていくが、必要な水がちゃんと確保できるという地理的な条件に恵まれたのだろう。
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 高さは200メートルくらいしかない南北にある山が、開けた明るい谷間をつくりそこに水を溜めつつ、徐々に海岸の棚田まで潤しながら届くような仕掛けになっているようだ。そんなふうに、地図からは読める。
 ここの棚田は、それぞれ個人などがオーナーになるような制度もあるようで、それでいろいろなメディアにも取りあげられることも多く、全国的に有名な棚田になっているのだろう。
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 道の駅のあるところで、60メートルくらいの高さがあるが、そこから道(国道249号線)は下り坂になり、千枚田を過ぎるあたりは30メートル、その先で白米町が終わって野田町になるあたりからは、海岸波打ち際まで降りて名舟海岸へといながっていく。
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 その下っていく道路の下には、小さい“小泉純一郎さんの田んぼ”があり、そのすぐ下はもっと大きく“小泉進次郎さんの田んぼ”がある、と案内のパネルには表示してある。
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 そのまた下の細長いのは“安倍昭恵さんの田んぼ”となっていた。
 そのほか、永井豪さんや、さいとう・たかをさん、ちばてつやさんなどの漫画家たちの名も並んでいた。永井豪は輪島市の生まれで、朝市通りには記念館もあるようだし、のと鉄道の車両にはキャラクターが描かれたラッピング車両が走っている。
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 こどもの頃に手塚治虫の「ロストワールド」に出会って、以来漫画家になることを目指したというが、石森章太郎のアシスタントを経て、デビュー翌年の「ハレンチ学園」が大ヒットしたことは知っている。
 さいとう、ちば両氏は記念館の行事にも駆けつけるゴルフ仲間であるらしいので、その縁でここにも「ゴルゴ13」も「あしたのジョー」も名を連ねることになったものだろう。
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 棚田のオーナー会員の年会費は20,000円で、マイ田んぼ1枚にオーナー名の表柱建立。オーナーの特典としては、収穫した米10キロに+地元山菜がもらえるという。
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 ここは前に来たときも通過していたので、今回は西保線のバスが出るまでの間を利用して、輪島から往復してきた。バスも通るが車窓からではこういう景色は見られない。

▼国土地理院 「地理院地図」
37度25分31.52秒 136度59分58.32秒
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dendenmushi.gif北越地方(2015/09/12 訪問)

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タグ:石川県
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番外:門前町総持寺祖院と再びのビュー・サンセット=輪島市門前町鬼屋・門前町北川(石川県)門前町の岬まとめを兼ねて [番外]

 2015年の能登半島の岬めぐりは、門前町深見の猿山崎で終わっていた前のルートを引き継ぎ、半島北西部の海岸から始まったが、北は次項の大長崎のある門前町皆月から南は門前町剱地の琴ヶ浜の黒崎まで、およそ17.3キロにわたって“門前町”が続いている。鳳珠郡門前町は2006(平成18)年に、隣接する輪島市と新設合併していて、この合併によって門前町内の108もの大字にはすべて、「輪島市門前町」を旧字名の上に冠することとなったためである。大字が108もある(煩悩の数と同じ!)というのが驚きだが、それも門前であることとなにがしか関連があるのだろうか。
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 大きな寺社がある場合、その門の前から周辺にかけて町が形成される。それを“門前町”と呼ぶわけだが、それがそのまま町や行政区画の名称になっているところも全国で数えれば10か所くらい(もっとかな)はありそうだ。ここ、能登の“門前町”もそのひとつだが、ここの“門”はどこの門だろうか。それは「總持寺」である。総持寺と言えば今では鶴見だが、その発祥がここなのだ。
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 この地に、曹洞宗大本山總持寺ができたのは1321(元亨元)年で、後醍醐天皇や鎌倉幕府執権は北条高時という時代である。開祖の螢山紹瑾禅師は、後醍醐帝の綸旨を受けて勅願所となり、曹洞宗第一の道場の地位を固めたといわれる。
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 ナンでこんなところに曹洞宗大本山が…という思いも湧き出てはくるが、とにかくそれから1898(明治31)年に火災で焼失するまで、末寺一万六千余をかかえる大本山の役割を果たし、門前町も発展してきた。
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 火災で七堂伽藍の大部分を失ったのをきっかけとして、大本山は1911(明治44)年に神奈川県横浜市鶴見に移転され、復興を果たしつつ能登は總持寺祖院を称することになる。
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 この辺りのいきさつにどういう事情があったかは、拝観受付でもらったパンフにも、ほとんど触れていない。祖院として復興はしたものの、全盛期の大本山門前町の賑わいは、おそらく取り戻すことはできなかったのだろう。
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 前回の門前町訪問では、祖院の見学までできなかった。今回は空港からすぐ門前にきて、午後の五十洲へのバスの便まで時間ができた。寺内では仏殿などの大改修工事の最中ではあったが、今回はゆっくり時間をとって参拝し、紅葉の色づき始めた小雨の境内を歩き、門前のナマコ壁のカフェで一休みできた。
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 五十洲、皆月の帰りから、直接輪島市中心部へ出て、そこに泊まることを考えていたが、どういうわけか輪島市内のホテル・民宿の類いがどこもいっぱいで予約できない。そこで、コースとしてはちょっと後戻りになるが、前回も泊まったことのあるビュー・サンセットに能登半島最初の一泊することになった。
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 皆月から乗ったバスが門前に到着するのを、宿の車が迎えてくれて、以前も通った道を南に向かう。途中、黒島の集落辺りにはいろいろ観光案内の看板や幟などが出ていた。これは前にはなかったのだが、この地の廻船問屋の古い住宅などを保存して輪島市の文化財とし、「天領黒島」として売り出すことになったようだ。
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 ビュー・サンセットのことは、前にも書いていたが、広い敷地の多彩な建物を利用して、リゾート・ホテルからファミリー・インへ軸足を移したようで、家族連れや学校行事でやってきたらしい小中のこどたちの団体も泊りできていた。
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 今回泊まった部屋は広い庭にひとつだけある離れである。その離れには「荼?(どび)?=草冠+麻+非」という名がつけられている。ここの各部屋には花の名が当てられているが、離れだけは中国の花の名であるという。
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 そこで初めて知ったのだが、中国の二十四節気の花便り「二十四番花信風(にじゅうしばんかしんふう)」には、穀雨の花として牡丹とこの「どび}を配しているのだ。学名はRosa rubusというキイチゴ類らしいが、結局どんな花かはよくわからぬままであった。
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 この宿の設計がなかなか変わっていて、「いずれ名のある建築家」の作品であろうと前には書いていたのだが、二度目だからそれもちゃんと究明しなければならない。
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 その建築家は、毛綱毅曠(もづな きこう 1941〜2001)という人であった。最後には多摩美で教授を務めたこの人の作品には、岬めぐりでもここのほか、釧路フィッシャーマンズワーフMOO や北越急行ほくほく線のくびき駅舎、今回のルートで通る石川県能登島ガラス美術館がある。
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 多摩美が開いた特別展では、このようにいう。
 
 日本や中国の神仙思想、アジア諸地域の独特な来世観などに取材し、その時空を越えた「人と宇宙、自然との共生」への意識を現代に生きる我々の建築や都市空間にどう応用できるかが、重要なテーマとなっていました。そうした超越的な宇宙観へと飛躍するイメージの展開は、あまりの斬新さに時として賛否の声が起こることもありましたが、建築や都市問題へのグローバルな循環意識、環境や文化へ奥行きの深さを昇華していくデザインを一貫することで、国内はもとより、海外においても高い評価を受けました。

 また、wikipediaは「ただし彼の作品は、実用性、メンテナンス面で非常に難があるデザインの建築物であることも指摘されている」とも言う。
 確かに、風変わりな設計だけに、今後もこれを維持していくのには苦労もあろうかと思わせる。
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 曼荼羅を表すという客室のひとつで、どんな夢をみたのかは思い出せない。

■関連リンク
番外:国民宿舎足摺テルメ=土佐清水市足摺岬(高知県)建築家ここにあり

*輪島市門前町の岬・全リンクリスト(北から南へ)
 1265 大長崎 (次項に掲載予定)
 1264 小崎=輪島市門前町皆月(石川県)通ヶ鼻からさらに北へ細い道を行くとあれっ?また小崎ですよ
 1263 通ヶ鼻=輪島市門前町皆月(石川県)クラゲのような形をした「神様岩」がある港も船も小さいが…
 1262 小崎=輪島市門前町五十洲(石川県)猿山岬に続く次の岬は皆月線のバス終点の先にある風の岬で…
 1261 猿山岬=輪島市門前町深見(石川県)能登半島の西海岸線をつないでいくルートはここで分断されているので…
 730 猿山崎=輪島市門前町深見(石川県)猿山岬と猿山崎は別の岬でこの付近を能登半島地震が直撃した
 731 上長谷崎=輪島市門前町鹿磯(石川県)いまさらながら“岬”は日本の海辺の風景に欠かせないと思う
 732 赤神崎=輪島市門前町赤神(石川県)赤い神の岬を守ってきた八ッの島は砕けて岩礁になったのか
 733 黒崎=輪島市門前町剱地(石川県)ここはいちばん多い岬の名前がついた岬ですがなにか…

▼国土地理院 「地理院地図」
37度17分11.71秒 136度46分12.93秒 37度16分8.64秒 136度44分1.53秒
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dendenmushi.gif北越地方(2015/09/11?12 訪問)

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タグ:石川県
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番外:新潟県立大潟水と森公園=上越市大潟区潟町(新潟県)潟の自然を活かした公園で潟の風景を偲びつつ… [番外]

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 そう、“潟(かた・がた)”とはなにかといえば、辞書などを引くと「ラグーン」というのがすぐに出てくるのだが、「新潟」の「潟」を想像するに、これではなんとなくピンとこない…。
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 信越本線の列車を降りた駅は「潟町」。ここならそれらしいイメージも…と、頭に入れた地図をなぞりながら道を探して行くと、駅から初めてその公園の看板を目にした。なにしろ、駅にも駅前にも、なんの情報もない。看板にひとつ、道案内のひとつもないのは意外だったが、まず十中八九というより十中の九・九は車でやってくるので、でんでんむしのように信越本線から来る人間などおよそ想定外で、無視してよい範囲なのだろう。
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 車で来る場合は、北側の道路から正門があるらしいが、へそまがりはそういう道は行かない。なるべく駅から近いルートを探して、信越本線の線路を陸橋で越え、住宅の間を抜けて北陸自動車道を橋で渡り、公園内に入る。入場無料だから垣根もゲートもない。歩いて行けばそこが「新潟県立大潟水と森公園」の中だった。
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 園内の写真を適当に並べて置くが、でんでんむしの想像では、公園としてきれいに整備はされているが、その多くはもとからの自然のままであったろうし、そこにこそ「潟」の風景があるのではないか、と考えたのである。
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 この付近にいくつもある大きな池のひとつ、鵜ノ池を中心にして、広い園地の中を歩いているとそれはほぼ合っているのではないかと思えてくる。
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 池の中に突き出た島の上には、古墳時代の円墳があるくらいだから、水と森は人々の生活の場でもあったのだろう。
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潟(かた)もしくは潟湖(せきこ)
湾が砂州によって外海から隔てられ湖沼化した地形。ただし完全に外海から隔てられたものはほとんどなく、ごく狭い海峡により外海とつながっているものが多い。したがって、ラグーンは塩湖である。
日本では北海道のサロマ湖、秋田県の八郎潟などがラグーンにあたる。
(ウィキペディア)
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潟 かた lagoon
砂州によって外海から隔離された海岸の湖。浅海の砂が沿岸流などによって移動して砂州が形成され,内側が湖になる。潟は浅く,波が静かで,海と通じる口が狭いものほど塩分が少い。土砂の堆積によって,次第に浅くなり,淡水化して,やがて湿地となり,ついに海岸平野の一部になる。
(ブリタニカ国際大百科事典 コトバンク)
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 ふたつの解説・定義を並べてみたが、「ラグーンは塩湖」と限定したものより、「ついに海岸平野の一部になる」という後者の解説のほうが、この場合ぴったりくる。
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 この上越市の海岸線付近の地形は、まさしく砂州により陸地の内側に水域が閉じ込められたか、という感じである。公園になっている鵜ノ池の周辺には長崎という横長に固まっている集落や、その周りにいくつもの新田の名があるのも、近代におけるこの辺りの開発過程を示しているようだ。
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 そして、この付近よりもずっと後から、同じような条件に川が加わってできた「潟」が、だんだんと陸地として固まってできたところが「新しい潟」「新潟」だったのではないか。
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 「番外:新潟の鉄道路線」の項で書いたようなことと合わせて考えてみると、それはほんとに“新しい”ことだったとわかる。
 ただ、断っておくがこれはでんでんむしの私見である。あえて申し述べるのは、「新潟」の語源・由来については、どうも確かなものがないようなので、それならばとどこにも書かれていない(と思う)新説を披瀝しておこうと考えたからである。
 「新潟」がいつからそう呼ばれるようになったか、その由来はなにか、については“信濃川河口に潟があったから”といったところでは共通点があるものの、“「方」が「潟」になった”とか諸説があってはっきりしない。いつから、という点でも一説では16世紀からというが根拠が明らかでない。はっきりしているのは、日米修好通商条約の結果、幕末に初めて公式に五港開港とされたひとつに「新潟」があることだけだ。

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 例によって、ChinchikoPapa さんからは、前項について「犀潟」の次の駅、「くびき」も気になる名称ですね。」とのコメントをいただいた。「くびき」というのは、犀潟から乗り換えて、六日町へ向かうほくほく線の次の駅名である。大池にも近く高田平野の東の終わりに近く、山に入って行く手前だが、周辺には駅名以外にその名を示すのは中学校と郵便局くらいしか残っていない。だが、そこらは2005年に合併して上越市に吸収されるまでは「頸城村」だったところで、現在は上越市頸城区となっている。
 いわゆる行政区画ではないが、かつて越後の国には「頸城区」があり、その範囲は柏崎の一部から糸魚川におよび、山側では妙高や十日町まで含まれていた。だが、「頸(くび)」が意味する地形的な特徴も「城」の意味も定かでなく、現在の地図上やネット情報からはなにひとつうかがい知ることもできない。
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▼国土地理院 「地理院地図」
37度13分45.49秒 138度20分54.65秒
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dendenmushi.gif北越地方(2015/07/02 訪問)

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タグ:新潟県
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番外:笠島海岸=柏崎市柏崎市大字笠島(新潟県)芭蕉にはどうも関係がないらしい丘の下の浜で“あまちゃん”発見! [番外]

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 小さな漁港と夏には海水浴場になるこれまた小さな砂浜と弁天社が祀られた赤茶色の岩むき出しの笠島と防波堤があるだけのような静かな海岸である。
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 駅の裏手にも民家はあるが、笠島集落の主体は、ほとんどがその裏手の丘の上や斜面に固まっている。その丘は海岸までせり出しているので、平地はほとんどない。
 東隣の青海川集落の場合には、谷根川という川が米山山系の奥深くから流れ出ているので、その川筋にも民家があるが、笠島では川もなく海岸線の斜面に細長く集落がへばりついている。
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 静かな朝の笠島海岸である。砂浜のそばにある東屋のようなところで一休みし、しばし小さな漁村(広い畑らしいものもほとんどなさそうなので)の朝である。
 すると、ウエットスーツ姿のようなおばあさんがひとり猫車を押して笠島の弁天社のほうへ行った。まもなく、今度は若目中年のおじさんが同じような格好で、見知らぬよそ者にも朝の挨拶をしながらトンネルのほうへ過ぎて行く。挨拶を返すと、またひとり…。
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 なにげなしに見ていると、弁天社のある笠島のほうに行ったおばあさんは、弁天さんに手を合わせてお参りすると、なにやら身支度を調え、浮きを浮かせ、それを押すようにして海に入っていった。
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 ベテランの“あまちゃん”なのだ。
 すると、トンネルのほうへ行った男の人たちも…。
 田塚鼻の先には岩礁が伸びているようだし、男たちはそっちのほうへ、あるいはトンネルをくぐって牛ヶ首のほうへ行ったのかも知れない。女の人は近場の笠島周りが、仕事場になっているのだろう。
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 素潜りだから、あわびやさざえといった貝類か、また季節によってはわかめなどの昆布類もあるのだろうか。
 田塚鼻についても笠島についても、実質的に中身のあるネット情報はきわめて乏しい。
 そのなかでは「田塚屋」の「日本一と言われる笠島産もぞく」というのが唯一目立っていた。“もぞく”というのは“もずく”のことである。
 そこでは、「出雲崎産と笠島産の違いは、取れる場所は当然違いますが色、太さ、歯ごたえが多少違います。日本一と言われる笠島産のもぞくは深い海の底の石に着きますので、色も黒くミネラルもたくさん含んでおります。何をとっても歯ごたえがシャキシャキして素晴らしいです。」とあった。
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 「かさしま小唄」の碑が立っている浜からすぐのところを信越本線の線路が走り、そこから丘への上には国道8号線が通り、さらにその上を伸びる北陸自動車道が笠島の東で米山ICとSAになっている。浜から自動車道まで水平距離では380メートルしかない。
 その狭い幅の間に三本の幹線が通っているのは、そこから南には標高993メートルの米山を中心とした大きな山塊があるためである。米山三里と呼ばれた青海川から関所のあった鉢崎まで米山の裾を越えて行かなければならないこの付近は峠を上り下りして越えていかなければならない旅の難所でもあったろう。
 この笠島の海岸と山のわずかな隙間をぬって旧道があり、古来からの多くの旅人は、必ずここを通らなければならなかったわけで、奥の細道の帰路の芭蕉と曾良もここを通って行ったはずだ。
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 曾良の記録によると、陰暦7月5日雨上がりの道を鉢崎まで行き、その日の宿は“たわらや六良兵衛”方に泊まっている。問題はその前にある。

 「五日 朝迄雨降ル。辰ノ上刻止。出雲崎ヲ立。間モナク雨降ル。至ニ柏崎一ニ、天や弥惣兵衛へ弥三良状届、宿ナド云付ルトイヘドモ、不快シテ出ヅ。道迄両度人走テ止、不止シテ出。小雨折々降ル。申ノ下尅、至鉢崎 。宿たわらや六郎兵衛。」

 曾良の旅日記では、5日の朝には出雲崎を出立していて、本来はその日は柏崎に泊まるはずであった。ところがよほどそこでの対応に頭にきたらしく、「不快シテ出ヅ」のみならず、二度までも追ってきた人が止めるのを振り切って、小雨の中を鉢崎まで足を延ばしている。出雲崎から米山の鉢崎までは、40キロ近くもある。芭蕉さん、相当な根性である。
 そういう事情だったから、笠島を過ぎるときにも決していい気分ではなかったろう。
 国道8号線が田塚鼻の南を越えるところには、「芭蕉ヶ丘トンネル」が通り抜けている。“芭蕉ヶ丘”ってえと、なんかそれらしい謂われがあるのだろうと誰でも思うが、どうやらなにもなく、勝手なイメージでそうつけたとしか思えないようで…。
 ではこちらも「村の鍛冶屋」のメロディに送られて、笠島を後にするとしましょうか。
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▼国土地理院 「地理院地図」
37度20分10.06秒 138度27分55.49秒
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dendenmushi.gif北越地方(2015/07/02 訪問)

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タグ:新潟県
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番外:新潟の鉄道路線=(新潟県)なんでこんなへんてこな形に線が引かれているのだろうと思ったことありませんか? [番外]

 駅弁の次ぎには、新潟の鉄道路線を改めて眺めてみたい。
 新潟の鉄道路線は、一見でたらめのようなまことに不可思議で無秩序な筋を地図上に残している。上越新幹線、信越本線、磐越西線、白新線、羽越本線、越後線、それに弥彦線と北越急行ほくほく線と路線の数も多い。だが、どうしてこんなヘンな形にレールが引かれているのだろう。
 これらの鉄道路線はそれぞれ複雑な経緯をもっているが、大まかに開通順にみると、信越本線の前身北越鉄道の開業が1897(明治30)年、磐越西線が新津につながったのが1910(明治43)年、白新線の新津=新発田間 が信越線として開通したのが1912(大正元)年、村上まで伸びたのは1914(大正3)年、越後線と弥彦線は1912(大正元)年と1916(大正5)年、ほくほく線の開業はいちばん新しくて1997(平成9)年である。
 おっと、忘れちゃいけない上越新幹線の大宮=新潟間開通(暫定)は、1982(昭和57)年だった。
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 そのときどきのさまざまな事情もしのばれるが、ひとつ言えることは、阿賀野川と信濃川、そしてそれらのたくさんの支流が流れる越後平野にレールを引くことは、それなりに大変なことだったろう。
 最初の信越本線(北越鉄道)は、まず信濃川右岸の山に近いところを選んで走っている。現在の新潟市の中心部は、始めから通っていないのだ。臨海線を含め現在の新潟市街地に近いところを鉄道が通るのはまず貨物線としてであり、1904(明治37)年に初めてできた駅は沼垂(ぬったり)駅で、その場所は現在の佐渡汽船乗り場のある万代島の東付近であった。沼垂という名前が象徴しているように、新潟付近の地盤は固まっていない時期が長かったと想像できる。
 1897(明治30)年の北越鉄道は沼垂=新津=一ノ木戸(現在の東三条)を結んで走り、1899(明治32)年には北越鉄道の沼垂=直江津間が全通している。そして1904(明治37)年に北越鉄道が新潟駅まで延伸されているので、新潟駅もこの頃にできたようだ。
 だが、当時の新潟市街地は、信濃川左岸が中心であったため、新駅の誘致合戦などいろいろあって大もめしたらしい。この頃の信濃川は川幅が1キロもあって広く、当時の技術では鉄橋の建設には莫大な資金がかかるということで右岸になったが、それからまたひともめあったらしい。
 1912(大正元)年になって、越後鉄道の白山=吉田間が開業して、越後線が延び、新津=新発田間にも線路が引かれた。上越線が上野まで全通するのは、1931(昭和6)年で清水トンネルができたからだった。
 このように、線路も駅もなんとなくごちゃごちゃとなっていて、新潟のレールがすっきりしないのは、水田や湿地帯や河川敷が大きく広がっている湿地帯の越後平野は、山とはまた違う意味で線路の敷設には難題があり、それが地盤の安定ということだったのだろう。
 現在の車窓からは、想像もできないが、阿賀野川と信濃川の度重なる氾濫で、長いこと地面も河川敷も田畑も、右往左往していたのではないかと想像できるのである。
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▼国土地理院 「地理院地図」
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dendenmushi.gif北越地方(2015/06/29〜07/02 訪問)

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番外:駅弁=焼きたらこ大トロ鮭弁当(新潟県)「いなほ」で駅弁を食べ損ねたので新潟駅で買った駅弁が… [番外]

 でんでんむしの岬めぐりでは、なによりもまず公共交通機関のダイヤ時刻表が優先されるので、その土地土地の名物やうまいものなどを食べ歩くという習慣も興味もない。なので、ときどきは食事をする時間もなく、食いっぱぐれになってしまうこともある。そんなときにも頼りになるのが駅弁である。
 ところが、「いなほ」ではその駅弁にも見放されてしまった。たまたま行きも帰りも乗ったのが酒田=新潟の運行だったせいもあったのかも知れないが、弁当の類いを積んでいない。おまけに、駅弁は車内ではなく駅で買うものだという屁理屈さえも、近頃ではすっかりその論拠が崩れている。
 駅弁を売っていない駅が、思いのほか多いのである。村上駅でも酒田駅でも駅弁はない。とうとう、駅弁はデパートの催事場で買うものになってしまったのか。
 とはいっても、大きな駅や新幹線などでは、そんなことはない。駅弁を山積みにした売り場では、飛ぶように売れている。「いなほ」が着いた新潟駅でも、在来線から新幹線の乗り場を結ぶ通路にある売り場もそうだった。
 「いなほ」でお預けを食らっていたためか、それに吊られて買ってしまった。外に出てレストランを探してなに食べるか考えるのもめんどくさいし…。
 ま、そんなときにも駅弁は便利なのですよね。(先日チラ見の新聞に天皇陛下がお好きなチキンライス弁当?とかの写真が載っていたが、駅弁にも宮内庁御用達とか一般のとは違う特別なのがあるのだろうか。)
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 見た目のボリュウムと値段から、この辺がよかろうかと選んだのは、“焼きたらこ大トロ鮭弁当”。
 ところが、これがものすごい「上げ底」でちょっと驚いた。
 日本の“上げ底文化”には歴史と伝統もあるらしいが、弁当でも昔からそれがないわけではなかった。昔の四方の枠が木で、底がヘギでできていた弁当の折箱でも、底から1.5〜2ミリくらいの微妙なところに底ヘギを差し込む溝が掘ってあったものだ。
 一時期、過剰包装が問題になって以後も、相変わらず上げ底はなくならない。ペットボトルでさえも、容量を大きく見せるデザインが多い。駅弁の上げ底は、菓子折などと並んで多かれ少なかれ広く定着していたものとも考えられる。
 プラスチック成型が容器の大勢を占めるようになって、上げ底も自由自在にできるのか。
 しかしねえ、これはちょっとどうなんだろうか? 
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 横から見ると、弁当の中身が入っている部分は、このちょっと折れたようになっている高さから真ん中の半分にあたる部分だけ。下は上げ底、上も上げフタ、なかなか大胆な上げ底で、実に上げ底率は50%である。
 ここまでくると、上げ底も立派な詐欺の領域に入ってしまいそうだ。

▼国土地理院 「地理院地図」
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dendenmushi.gif北越地方(2015/06/30 訪問)

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番外:山居倉庫=酒田市山居町一丁目(山形県)本間家と酒井氏となかなか趣と貫禄のある倉庫と… [番外]

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 だいたいが、過去のことなど今さら何の意味もない、そーゆーことにこだわるのは愚だ、とする意見・主張はかなり根強くはびこっている…。過去に拘泥して耽溺するという弊害があると言えば、それにも一分の理がないわけではないが、嵩じて家だとか家系だとかルーツだとか先祖だとか、そーゆーものや、昔語りまでを否定するような傾向には反発がある。
 もともとでんでんむしは、そーゆーことにこだわるのがだ〜い好きなのである。自分がなぜ、今ここにいるのか、その不思議を考えると、どうしても昔のこと先祖のことなど思わないわけにはいかない。
 そもそも、過ぎた過去のことは忘れよう無視しよう、あるいはそれを自分の都合のいいように解釈してそこから学ばない、といった姿勢自体こそが愚者のものであり、大きな間違いなのではないか。
 ここでも自分とは縁もゆかりもない坂井家や本間家にも、ちょこっとだけ関心を向けてみたい。
 佐渡の岬めぐりに行ったとき(1097〜1149、2014/06〜10掲載)、羽茂本郷の付近を中心に本間氏の足跡が残されていることを初めて知った。鎌倉時代から戦国時代にかけて、佐渡の国を支配していた本間氏の名も相模国愛甲郡の出身地に由来するというから、これまた鎌倉幕府によって派遣された守護地頭がその勢力の始まりだった。
 その後、佐渡の本間氏は一族間の争いや会津の蘆名や出羽の最上と組んで反上杉の立場をとったため、上杉景勝の佐渡侵攻(1589)によって滅ぼされてしまう。このときに、上杉側についた一部の本間氏族が上杉の転封に伴って越後・会津・米沢と移っている。
 酒田の本間家は、そのようにして山形に根を下ろし、江戸時代には海運業から金融業に進出する。庄内や米沢で藩の財政を支えるほどの豪商になった。
 徳川政権の要職を占めてきた酒井氏は、三河以来の譜代ではあるが、江戸時代に作成された系譜ではそのルーツを三河の海東氏の庶流としている。これは大江広元の五男の大江忠成を開祖とするもので、どうもその頃の系図を飾り立てる風潮に乗ったものと思われる。というのも、この時期に幕府が諸家に命じて家系図の提出を求めたことがあり、このときにおおあわてで体裁を繕おうとして、ムリヤリ清和源氏にくっつけたりしたものも多かった。その後、武家以外に広がり商売でこれを行なう者も現れ、家系図の信用を落とす一因にはなっているが、さまざまな資料を記録して残したという功績の一面もある。
 だいたいが、徳川譜代が外様大名の系譜(毛利は広元の四男が祖)と同じ大江広元にルーツを求める必要があるのか、飾り立てるにしてもピントがはずれていておかしいだろう。
 出羽庄内藩に移封された酒井家は、老中を長く勤めたがそのためもあって藩の財政は窮迫していたので、領内酒田で経綸の才があった本間光丘に藩の財政再建を託すことになり、「本間様には及びもないがせめてなりたや殿様に」と歌に謳われることになる本間様と殿様はこうしてつながる…ということになる。
 その結果庄内藩の財政もなんとか立て直しに成功し、本間家も莫大な利を得るが、一地方の大地主で事業家ではあったが財閥になることもなく、結局戦後の農地解放で没落の憂き目をみる。
 本間美術館には、前に酒田へ来たときに行っているので、今回は山居倉庫(さんきょそうこ)である。
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 もともと当初計画にはなかったのだが、定期船乗り場と酒田駅のバス便が悪く、結局行きも帰りも歩くことになった。幸い、帰りの「いなほ」の発時刻までは少々時間があったので、同じ歩くなら少し遠回りをして寄り道をすることにしたのだが、それを決めたのは、船の待合室と海鮮市場の間に貼ってあった山居倉庫の観光ポスターを見てからである。これも吉永さんのJRの広告にあったな。
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 そうだよね。これ有名だもんね。酒田のシンボルだものね。
 せっかくきたんだから、ちょっと見て行こうと、港からてくてく酒田港に流れ込んでいる新井田川に沿って東へ。
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 新井田川と最上川に挟まれた中州であったと思われるこの付近には、亀ヶ崎という地名が広く残っている。この付近までは岬の形で残ってきた地面で、その先の山居町の辺りは山居島と呼ばれる中洲で、地盤もまだ安定していなかったのだろう。
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 土盛りから始めた倉庫づくりは、思いの外新しく、1893(明治26)年から始まっている。しかし、それを建てさせたのが酒井家だったというので、ちょっと驚く。倉庫の管理・運営も酒井家が行なっていたというのだが、戊辰戦争では敗北して後に恭順したとはいえ、奥羽越列藩同盟の一翼を担っていたはずの庄内藩酒井家が、明治も半ばに至るまでこの地でどういうわけでそういう役割を果たすことができたのだろう。
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 4年かけて完成した14棟の酒田米穀取引所の付属倉庫は、なんとかのロケに使われたとか、そんなことで観光名所になっているようだが、今でもその大部分は現役でその機能を発揮しているそうである。
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 本間家の旧本邸の横を抜けて、酒田駅に到着。これで粟島・飛島とふたつならんだ日本海離島の岬めぐりはおしまいです。
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▼国土地理院 「地理院地図」
38度54分42.98秒 139度50分12.08秒
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dendenmushi.gif東北地方(2015/06/30 訪問)

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タグ:歴史 山形県
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番外:飛島のウミネコ繁殖地=酒田市飛島(山形県)「国指定天然記念物」かどうかはもしかしてビミョウなのか [番外]

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 海水浴場には小松浜という名もあるらしいが、その右手には大きな岩島の断崖がそそり立っている。それは隣の蛭子前崎のある岩山と狭い切れ目で接していて、そこいらじゅうがウミネコだらけになっている。
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 前項でふれた御積島周辺も地理院地図の表記がそうだったが、ここもそうである。ただ、位置の特定に少しずれがあって蛭子前崎のほうにその表記がある。小松浜の入口には、誰が立てたのかわからない看板があったが、それによると「館岩」がウミネコ繁殖地として天然記念物になっているとの説明がある。酒田市の飛島マップでも、確かに「国指定天然記念物」との表記がある。しかし、地理院地図でもMapionでも「∴ 」マークはついていない。
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 ウミネコの繁殖地だという館岩の表記は、地理院地図によると蛭子前崎の北壁あたりを指すらしいが、そこらにはウミネコの姿はほとんどなかった。
 現在その中心になっているのは、陸続きになっている館岩のほうではなく、島になって近いとはいえ陸とは離れている百合島のほうに繁殖地は移っているようだ。
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 そのほうが、自然の流れであり、道理にもかなう。それと天然記念物指定とは、なにか関連があるのだろうか。
 看板には、ほかにも“石砦遺跡”とか“古代文字”などの、なんだか魅力的な言葉も並んでいて、地続きの蛭子前崎に登って行く階段の道もあるようだった。しかし、これもパス。
 “古代文字”といえば、なかにし礼の「石狩挽歌」である。その歌詞の舞台は、主に小樽の北に突き出た半島周辺なのだが、“古代文字”については「719 畚部岬=余市郡余市町栄町・小樽市蘭島(北海道)海水浴場と中学生と遺跡と古代文字」の項で書いていたが、これも現物は見ていない。
 ここのも、マップには“刻線刻画石”と“謎の石屈”という文字が、蛭子前崎の上には記されている。
 とくに史跡とかになっているわけでもないし、古いものを残すということは、なかなかむずかしい。
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 橋を下るとヘアピンカーブになって、そこを降りて行くと、定期船乗り場になる。
 そこをそのまま通り過ぎて、自転車を返しに行かなければならない。
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▼国土地理院 「地理院地図」
39度10分54.51秒 139度32分50.01秒
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dendenmushi.gif東北地方(2015/06/30 訪問)

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タグ:山形県
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番外:特急「いなほ」=羽越本線(新潟県・山形県・秋田県)見とれてそれと知らぬ間に早くも過ぎる幾十里… [番外]

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 岩船港に着くと、タクシーが待っていて、運転手さんが名前を聞いてきた。帰りの乗合も予約はまた一人だったので、普通のタクシーの横っ腹にペタンと乗合タクシーのステッカーを貼り付けて走り出すと、再び「汽車」の歌碑が立つ村上駅まで戻ってきた。
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 この唱歌の作曲者は村上市出身の人だが、作詞者が不詳としてあって、特定されていない。唱歌にはよくあることだが、当然、それはかの人の作品だという諸説・異説もでてくる余地を残す。
 でんでんむしもこどもの頃、よく歌ってハーモニカで演奏したりしていたこの歌は、改めてよく読むとなかなか歌詞もすばらしい。汽車に乗って走る情景を、みごとに写し取っている。
 
 文部省唱歌「汽車」
    作詞:不詳 作曲:大和田愛羅 1912(明治45)年
 
  今は山中今は浜
  今は鉄橋渡るぞと
  思う間も無くトンネルの
  闇を通って広野原

  遠くに見える村の屋根
  近くに見える町の軒
  森や林や田や畠
  後へ後へと飛んで行く

  回り燈篭の絵のように
  変わる景色のおもしろさ
  見とれてそれと知らぬ間に
  早くも過ぎる幾十里


 この歌詞には、モデル探しも、実際にどこかの鉄道路線に当てはめることなども、まったく無意味なほど普遍的で、汽車で走る景色の楽しさにあふれている。
 羽越本線の沿線の風景もまた、この歌詞のとおりだ。 
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 新潟から村上までくるときも、乗ったのは白新線と羽越本線を走る特急「いなほ1号」だったが、今度は「いなほ9号」で酒田まで行く。9号は酒田止まりだが、この特急は秋田まで行く羽越本線の幹線列車である。というか、この線ではほかには休日運行の観光列車「きらきらうえつ」があるだけで、とにかく少し遠くへ少しでも早く行くとなると、この特急「いなほ」しか実質的に使える列車はないのだ。
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 しかし、この線を走る特急列車に、「いなほ」という名前は実にぴったりである。なにしろ、越後平野・庄内平野・秋田平野と、三大米どころをつないで走っているのだから…。稲穂が稔る前の、緑のじゅうたんもまたよい。
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 羽越本線では、最上川を越えた酒田までが約半分強ある。この酒田=新潟間は、何度か通ったことがある。が、今回の粟島・飛島の岬めぐりが終わると、もうおそらく二度と通ることはないのかも知れない。
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 この南半分強に当たる区間では、なんといっても村上の先から鶴岡の手前まで続く、日本海沿岸が特徴的である。山がせって海に落ち、その間に平地はほとんどなく、海岸線には笹川流れといわれる岩のつくりだす海岸風景が展開する。
sasagawa-1.jpg 秋田から酒田までは、2007年秋の岬めぐりで、やはり「いなほ」の上りに乗っているが、この区間もこの一度だけ。男鹿半島からの帰りに通ったこのときの記録は、「173 芹田岬=にかほ(秋田県)いつの日にか歸らん」や、番外:象潟・酒田(秋田県・山形県)へそ曲がり鳥海山の裾野を行くなどにある。
 佐渡も終わったので、今回は残る日本海の離島の岬めぐりを企画したわけだが、新潟県の粟島は終了。次は、山形県の飛島である。

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▼国土地理院 「地理院地図」
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dendenmushi.gif北越地方(2015/06/29〜30 訪問)

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番外:弁天岩=岩船郡粟島浦村(新潟県)「そそど、んごんご」1メートルも島全体が隆起したあわしまへ! [番外]

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 フェリー「あわしま」が発着する岸壁の前には、粟島汽船の待合室や発券窓口、観光案内所などがある建物がある。3階建てのこの建物と港の南にある学校が、粟島ではいちばん大きな建物であろう。村役場はその右手奥にあるが、もっと小さい。
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 その建物を通り抜けて山のほうに出ると、広い道路があって、その奥にあるのが弁天岩である。
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 この弁天岩、地理院地図にもはっきりとその存在感を示して描かれているのだが、Mapionときたらまるで地図の用を自ら放棄しているがごとくで、まったくあきれかえってしまう。「地図の間違い指摘」なんてボタンを付けているが、およそ間違い以前の問題である。(Mapionについては昔から問題提起をしてきているが、相変わらずのようで、これにも歴史があるのだ。)
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 弁天岩があるのは、単に池のある庭の端に大きな岩があって、その上に赤い社殿があるのがちらりと見える。
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 この島の電力をまかなっている発電所の横から裏に回ってみると、そこに弁天社の赤い鳥居があった。benteniwa-4.jpg
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 地理院地図では、岩の北側に水準点の表記があって、2.9と表示してある。
 標高も等高線もまるでいいかげんなMapionは別にして、一般に地図をつくる測量をするうえで重要な役割をもつ水準点は、その地域の標高の基準点となっている。
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 ところで、この弁天岩はなぜに地理院地図で目立っているのだろうか。
 それは、粟島マップを見るとわかる。そこには、「新潟地震前は海に囲まれていました。」と説明があるのだ。
 “新潟地震”という場合は、1964(昭和39)年の新潟地震のことで、2004(平成16)年の“新潟県中越地震”のことではあるまい。そうか、あれからもう半世紀が過ぎたのだ。
 この当時はまだ地震対策はおろか、震度などの観測態勢も充分にきめ細かく整っていなかったが、日本海を震源とする震度6相当の地震は、新潟市・村上市・鶴岡市・酒田市など各地で家屋が全壊するなど、広範囲に被害が及んだが、奇跡的に死者が26名と少なかった。また、テレビがカラー化して普及し始めた時期で、津波・火災・液状化・落橋など地震の記録映像がたくさん残された、最初の地震であったということもできる。
 震源に近かったのが粟島で、この地震で粟島は島全体が1メートルも隆起したという。
 このため、海岸にあった弁天岩も持ち上がり、海から遠くなってしまった。内浦港の港湾整備はその後で行なわれたのだから、自然に弁天岩の周りは港の岸壁で内陸側に取り込まれたが、その周りの水域だけはなんとか残して弁天岩のかつての姿を少しでも保とうとした…。
 そんな様子がしのばれる、弁天岩であった。
 そうです、これは池なんかじゃなくって、海なのです。
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 どこかで港とつながっていて、海水が入っているのだろう。立派そうな釣り道具一式を持ってきた若めのサングラスおじさんが、歩道の柵越しに岩の前の小さな海面に釣り竿を出し入れしている。道には30センチ近くもあろうかというクサフグ?が、無造作に捨て置かれている。魚だって生き物なんだから、あまり無益な殺生はしないようにしたほうがいいのではないか。…というのは、ぼつぼつ仏心もついてきた老人の感想であった。
 そういう釣り人も含めて、この夏もたくさんの人が粟島を楽しみにやってくるのだろう。温泉もあるが、時間がなくて入れなかった。ほんとに、首都圏にもっと近ければ、大人気超お勧めのスポットですよ、ここは…。
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 港の北側にある明るい茶色の建物は、「そそど」というカフェで、魚の切り身などが入ったカレーがおいしかった。ここを経営する夫婦も地域おこしの協力隊かなにかで、島にやってきて住み着いた人たちだろうか。
 案内所に置いてあった「あわしまんごんごMAP」という折りたたみ手書き手造り地図は、島中の情報がコンパクトに収められていて便利。
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 「そそど」ってどういう意味ですかと聞いてみたら「ゆっくり」の意味だという。「んごんご」は「行こう!行こう!」というこの島の方言だと、MAPに書いてあった。
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▼国土地理院 「地理院地図」
38度28分2.52秒 139度15分14.75秒
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dendenmushi.gif北越地方(2015/06/29 訪問)

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タグ:新潟県
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番外:沖縄本島の岬めぐりと沖縄戦まとめ(沖縄県)ざわわざわわ…とざわつくところいたむこころ… [番外]

 沖縄本島の岬めぐりでは、まだひとつふたつ追加しなければならないところもあるが、今回の北部の岬めぐりで大筋でまとめることができる。
 それぞれ、項目番号をマッピングしてみると、やはり南部には岬は少なく、その多くが北部に集まっている。
 その理由のひとつは、中南部では山がないこと、また島の成因が異なることも、大きく影響しているのではないかと思われる。
 だが、それも考えてみれば理由をつけるための理屈のようなものでしかないのである。
 残る本島の岬は、今回積み残しになった石川西海岸の空寿崎と、南端で喜屋武岬の東にある荒崎である。空寿崎は市街地の岬で、荒崎は喜屋武岬と平和祈念公園の間にある。平和の礎(いしじ)には行っているので、荒崎も項目にあげたと思い込んでいたが、探してみるとそれがなかった。
 離島では、慶良間諸島や久米島や渡嘉敷島も、まだ残っている。
 だが、ここまでの軽いまとめでも、改めて沖縄の戦争と基地の問題はどうしても意識せざるを得なかった。
 常にそれらのことを考えながら、岬をめぐっていたので、その断片はそれぞれの岬に託してふれてきたこともある。
 たまたま、2015(平成27)年は沖縄戦から数えても70年…。
 たまたま、このシリーズ連載を続けてきたのが、4月から6月と、ちょうど70年前の沖縄戦の時期とも重なっている。
 ごくごくおおまかに、この3か月足らずの間にこの島で起こったことをできるだけ想像してみるよう努力しただけでも、これが戦争なのだ!ということがわかるだろう。
 でんでんむしも原爆被災者だが、空から大きな新型爆弾がひとつの町を壊滅させるのも怖いが、この地上で戦車が走り、兵隊が銃を打ち、ガマと呼ばれる琉球石灰岩がつくる無数の洞窟に火炎放射器を放つ…。そういう戦争も恐ろしく悲惨である。
 ただ、こちらはそれを直接体験したわけではないので、記録からそのイメージをふくらませてみるしかない。それについて具体的に書くことはできないので、国内唯一の地上戦(これについては硫黄島などもあるから唯一ではない、という指摘もある)が行なわれた沖縄戦の記録は、探せばいくつかある。最近では沖縄タイムス、首都大学東京・渡邉英徳研究室、GIS沖縄研究室が共同制作したデジタルアーカイブがある。「沖縄戦デジタルアーカイブ~戦世からぬ伝言(いくさゆーからぬちてーぐとぅ)」は、「沖縄戦を未来に継承するため、証言、データ、地図など、それぞれが蓄積してきた技術とコンテンツを駆使し」たというもので、今なおデータは増殖中だという。
 ただし、このデータが重すぎるのか、つくりかたが悪いのか、でんでんむしのコンピュータ環境では読み込みの時間がかかりすぎて、どうにもならない。最初のマッピングだけで延々時間がかかってしまって、まったく実用にならなかった。ところが、iPadで見るとちゃんと動いた。どうしてそうなるのかわけがわからないが、「取り扱いに注意」という条件付きで、比較的入りやすそうな沖縄タイムスのサイトに、いちおうそのリンクを貼り付けておこう。(ここからでも、アーカイブスへ入るときには要注意かも。0のオッサンがツブセとか言ってるらしいけど、ガンバレ!オキナワの新聞。)

 詳しい証言はそちらにゆだね、ここではアメリカ軍の侵攻速度・日付けで想像しながら追ってみよう。
 約20万人もの死者を出したという沖縄戦だが、そのうち12万人以上が沖縄県民で、さらにその9万4000人は軍人や軍属ではない一般人であったという。
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 アメリカ軍の沖縄攻撃は、1945年の03/26、まず慶良間諸島への攻勢で始まった。日本軍は予想していなかったというが、ここを占領して海上から沖縄本島攻撃に備える足がかりにするというのは、至極当然の作戦とも言える。
 そうして、04/01を期して上陸作戦を敢行したのは、残波岬の南に延びる中西部の海岸線であった。日本軍が水際防衛作戦を取らなかったので、上陸自体はたいした抵抗も受けることなく行なわれ、嘉手納や読谷にあった飛行場も占拠された。のみならず、04/03には早くも東海岸に進出し、奥武岬のある中城湾一帯を抑えた。
 これにより、沖縄本島と日本軍は完全に南北に分断されてしまう。ただでさえ指揮命令系統や作戦などにも問題の多かった日本軍の沖縄防衛計画は、これでほぼその破綻がはっきりみえてくる。
 以後は04/04から08までの間に、アメリカ軍は北部への侵攻を続けて辺野古崎から名護まで到達し、04/13には最北端の辺土岬に達している。
 一方、アメリカ軍の沖縄本島南部へ向けての侵攻は、04/08のラインで、いったんストップしている。それから、05/21の首里に迫るまでに40日以上かかっている。首里城と那覇市街から知念岬の南へ進出したのは06/03である。
 それからも本島南部への侵攻には時間がかかっており、現在ひめゆりの塔や健児の塔などがある摩文仁の丘付近、平和の礎などがある最南端地区へは06/20に達している。アメリカ軍の侵攻に時間がかかったということは、すなわち激戦地であったということで、南部地域では一般市民の死亡率が宜野湾市で26.9%、浦添市で44.6%、西原町で44.6%、糸満市で36.9%に達していたという。崖から多くの住民(主に女性)が投身した本島最南端の喜屋武岬にアメリカ軍が到達できたのは、06/21のことであった。摩文仁で牛島司令官らが自決したのが06/23。この日をもって日本軍の組織的戦闘が終結したとして、後にこの日が沖縄慰霊の日として制定された。その日は、米軍西海岸上陸から84日目のことであった
 上記の、アメリカ軍の侵攻日付けと犠牲者数、市民死亡率は、2015/06/18の(あの0のオッサンが「本当につぶれて欲しいのは…」とご指名の)朝日新聞朝刊特集「戦後70年」の記事によった。

▼国土地理院 「地理院地図」
26度21分20.07秒 127度46分3.23秒
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dendenmushi.gif沖縄地方(2015/04/04〜08 訪問)

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タグ:歴史 沖縄県
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番外:名護市=(沖縄県)ゆがふ・21世紀の森・ゆるキャラ名護親方・六諭・ウコン・徳球も生まれたあけみおのまち [番外]

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 名護市には、結局4泊したのだが、宿泊したのは「ホテルゆがふいんおきなわ」だけで、名護バスターミナルに近いここを拠点にして、沖縄本島北部を回ろうと考えた計画だった。
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 北部のそれぞれの地で宿泊場所を探すこともできたのだが、バスの便を考えると、結局これに落ち着いた。
 「ゆがふ(世果報)」というのは沖縄の古い言葉で、豊年とか五穀豊穣とかの願いが込められていて、字義の解釈は“果報な世の中。幸せで素晴らしい世界”という意味にもなる。本土でもこれを名前にした食堂などがたくさんあるようだが、それらは「ちゅらさん」の居酒屋にあやかったものも多いのではないかと思われる。
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 このホテルのロビーに、日本ハム・ファイターズの大きな掲示が出ているのは、ここが日ハムのキャンプ地だ(だった)からなのだ。その球場はホテルの目の前にある名護市営球場だ。
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 だが、この市営球場も老朽化が進み、どうやら来年(2016年)は日ハムが名護でキャンプを張ることはなくなったようだ。とすると、ロビーの掲示も取り払われるだろうが、ホテルも痛手だな。
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 ホテルから市役所までの通りの海岸側は、21世紀の森という大きな公園になっていて、あけみおSKYドームから市民会館まで、さまざまな市の施設が集まっている。
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 また、名護湾に面し、南には部瀬名岬や遠く恩納村の山も見えるその海岸は、きれいなやはり人工の砂浜が東西に広がるビーチで、これも市営らしい。
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 名護市のもともとの商業的な中心地は、きれいに柱のように花を飾り立てた名護十字路の付近だったのだろうが、近年は北のバイパス沿いや南の東江のほうに移っているようにも見える。
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 西の名護湾から南の部瀬名岬、東の辺野古崎・天仁屋崎まで、名護市の市域は広いが、27,870世帯、61,995人(平成27年5月1日現在)の多くは、かつて古くには運河開削計画もあった本部半島の付け根に集まっている。nagoshiM2.jpg
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 最近どこでも大流行のゆるキャラが、名護市にもある。ほかのゆるキャラといえばだいたいカワイイのとかオモロイのとか相場が決まっているのだが、名護市のそれは、“じいさんキャラ”でしかもちょっと硬派である。
 
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 名護市のサイトにその紹介があるが、名護ゆるキャラは「名護親方(なぐうぇーかた)」という。このじいさん、ただものではないのだ。
 三山時代に続く琉球王朝が1609年の島津侵入によって終わり、行政再編が進められた結果、17世紀中頃から18世紀中頃にかけてのこの地域は、それぞれ名護・羽地・久志の各間切は按司や親方によって知行されてきた。
 そうした流れの中に、久米島生まれの程順則(てい じゅんそく)は、1728年に名護間切総地頭職を勤める。
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 後に聖人親方として有名になる彼は、その前に琉球で最初の公的教育機関となる明倫堂の創設を建議するなど、近世沖縄を代表する文人・学者・教育者でもあった。名護ゆるキャラ「名護親方」が右手に持っている本のタイトルは「六諭」(6つの諭(さと)しの意)。
 これは彼が中国で入手した『六諭衍義(りくゆえんぎ)』で、明朝期国民の守るべき規範として伝わる、いわば道徳の本であった。やさしい言葉で書かれているし中国語を学ぶためにもいいと考えた順則は、これを自費出版して日本に持ち帰る。その自費出版本が1714(正徳4)年に、薩摩藩主・島津吉貴に献上されると、時の八代将軍吉宗の元に届けられる。
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 それが、荻生徂徠や室鳩巣の手によって、儒教思想による道徳の教科書や手習いの本として活用されるようになっていく。そして、ついにはかの教育勅語にも大きく影響を与えることになる。
 もともとは、「教民傍文」の中の一部だった「六諭」だけを取り出して范鉱という人が解説したのが「六諭衍義」である。
 1722(享保7)年に室鳩巣が和解を施した『六諭衍義大意』は、その後、明治年間まで版を重ね続けたが、普及の過程では、本文をさらに簡略化して通釈した異本も数多く出た。その一つであり、最も端的に「六諭」をまとめているのが『教訓道しるべ』であるという。
 
第一 孝順父母  是ハ人の子たるもの。孝行を専らとし。何事も親にそむかざるべき教を諭せり。
第二 尊敬長上  是ハ我より年かさなる人と。我より目上なる人に。無礼なきやうにと。行儀を正すべき諭しなり。
第三 和睦郷里  是ハ家内をはじめ一ツ所ところに住居する人々。たがひに中よくくらし。ねんごろに附合すべきの諭しなり。
第四 教訓子孫  是ハ子や孫をよくよく教へ導ちびき。善人に仕たつべきの諭しなり。
第五 各安生理  是ハ人々天よりあたへ給たまふ産業(すぎはひ=生業?)をつとめ。仮にも外をおもふまじき諭しなり。
第六 毋作非為  是ハ道理と不道理といふ事ありて。人々悪事をせぬやうにとの諭しなり。


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 沖縄北部のこの地域では、小さな漁業はあっただろうし、後には林業も少しはできたが、やはり農業以外の主な産業はまずなかったのだろう。主食は芋で、租税としてサトウキビ作と米作が地域によって割り振られ義務づけられていた。
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 本部半島の付け根、東際を流れる羽地大川の改修工事(1735年)、は、米作のための国家事業として、当時の土木技術を動員して行なわれた。その名残は、名護市北部の条理にもみられるようだ。
 山原の特産物としてはウコン(鑿金)の栽培も政策的に実施され、18世紀中頃には本土ではこれが黄染料として使われ、今に定着しているタクアンの黄色も、山原のウコンによるものだったという。
 ふしぎな縁であるが、いずれにしてもその暮らしは厳しいものであったろうと思われる。タクアンを囓るときには、そんなこともちょっと思ってみたい。
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 「あけみお」とは、夜明けの美しい静かな入り江の青々とした水の流れ。海のかなたのニライカナイから人々に豊穣をもたらす流れであり、海の外へと広がり行く水の流れでもあります。人々の幸せを願い可能性に向かって突き進む名護市の進取の精神を表した言葉です…とサイトのトップに説明が出てくる。
 「ようこそ あけみおのまち名護市へ」というタイトルと名護湾の夜明けの動画で始まる名護市のサイトでは、もうひとり、ゆるキャラにはできないだろうが有名な人物の名があった。
 徳田球一の記念碑が、名護市の文化財と史跡のなかにあったのだ。まったく思いもよらず意外だったが、「徳球・とっきゅう」が、この町の中心地名護十字路近くに生まれたとは…。でも、考えてみればこの名も奄美に多い名前だしね。
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▼国土地理院 「地理院地図」
26度35分23.12秒 127度58分55.39秒
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dendenmushi.gif沖縄地方(2015/04/04〜08 訪問)

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番外:エメラルドビーチ=国頭郡本部町字備瀬(沖縄県)美ら海水族館もある国営沖縄記念公園の海洋博公園で [番外]

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 結構大きな本部半島にも、岬は備瀬崎ひとつしかないが、その南でちょこんと突き出ている、でんでんむしの角のようなふたつの出っ張りがある。そこにはエメラルドビーチという名が付けられていて、白い砂が目を射るように輝いている。
 ヤシの木も並んでいて、施設も整っているのだが、全体になんだかつくりものっぽい感じがするというか、なにか芝居の書き割りの中を歩いているような妙な感じがした。
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 そのためかどうかわからないが、結局このビーチを北から南へ横断する間、一度もカメラを構えてシャッターを押していなかった。
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 どういうわけなんだろう。なにか、ふしぎな雰囲気に圧倒されて、我を失っていたのかも知れないし、なにかの魔法にかかっていたのかも知れない。あるいは、もっと現実的に考えれば、一面を覆う白い砂に照りつける太陽光線がぎらぎらと反射して、単にあまりの暑さに大急ぎでビーチを横切り、建物を目指したためかも知れない。
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 魔法が解けて、我に返ったのは美ら海水族館のところまで来てからだった。そうだ。岬でなくてもここはやっぱり写真には撮っておかないと…。
 やっと気づいてシャッターを押したのは、水族館の上から北側を眺めたときである。ビーチの北向こうには、備瀬崎が伸びている。
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 その西には伊江島。ここは国営沖縄記念公園のうちの「海洋博公園」のなかである。地理院地図では「沖縄記念公園」としか表記がないが、国営沖縄記念公園には、もうひとつ「首里城公園」があるので、沖縄記念公園だけでは場所の特定をしたことにならない。が、心配しなくともここはそれよりも海洋博公園、いやいやそれよりも沖縄美ら海水族館で有名なのである。
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 そもそもからいえば、ここにこんな広大な国営公園ができているのは1975(昭和50)年から1976年にかけて開催された、沖縄国際海洋博覧会の跡地利用としてなのである。
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 そういえば、そんなんやってたんだなあというくらいしか記憶もないし縁もなかったのは、その当時はまだ沖縄へも行ったことがなかったからだろう。その博覧会は、時の首相佐藤栄作が通産官僚だった堺屋太一らに指示して、沖縄県の本土復帰記念事業として国が主導して実施した。堺屋を再び起用するなど、明らかに大阪万博の盛り上がりに便乗して二匹目のドジョウを狙ったものだったが、入場者数は想定を大きく下回って終わった。
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 エメラルドビーチは、その海洋博覧会のためにつくられたもので、日本初の人工ビーチだったのだ。沖縄の海を象徴するエメラルドグリーンと、サンゴの白い砂が美しいが、いかにも人工っぽいのも当然で、まさに作り物そのものだった。
 振り返ってみれば、この海洋博への大規模投資が、沖縄復帰後のインフラ整備の基になったという事実はある。しかし…、とそこには若干の疑問も挟み込む必要もあろう。58号線沿線の整備で植えられたヤシなどには、元来沖縄の植生ではないものまで含まれていたという。ヤシの木に白い砂に青い海と空と輝く太陽…そうしたイメージの根幹は、本土からやってきた人間が勝手に植え付けようとしたものではなかったか。その陰には悲惨な戦争と厳しい基地の島という現実から、本土からやってくる観光客の眼をそらすという意図もあっただろうし、その効果もあった。
 事実、堺屋は「沖縄の歴史の話はもうやめよう」と、あえてそれを封印したことを認めている(2015/06/08朝日新聞 朝刊)。
 本土の人間が沖縄の戦争と戦後の基地に土地を奪われてきた現実を、充分に理解し反芻する間もなく、そうした問題には蓋をしたまま、青い海とヤシの茂る白い砂の浜辺のイメージはつくりあげられていった。今にも本土と沖縄のギャップが、なかなか埋められない背景には、そういう一面があったこともまた事実であろう。
 ところで、このエメラルドビーチの説明には、「全国でも唯一といってよい礁湖(ラグーン)内にあるビーチ」というのがあちこちで使い回しされているのだが、はて?
 この意味するところが、どうもピンとこない。ラグーン内のビーチなど、めずらしくもないのでは…。これは「ビーチ造成当時には」ということなのだろうか。であれば、今ごろこういう説明を麗々しく残しておくことはないのだが。
 コピペで記事をつくることが一般に習慣化してしまって、誰でもどこでもやっているので、それでもいいのだと大目に見られているようなネット情報では、こうしたことも稀ではない。よくないことである。時代に合わせて制度自体の見直しが必要だとしても、まずは著作権の理解をもっと広めることを徹底することから始めなければ…。
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 本部半島の西端で南北に長く、広大な博覧会の跡地には、水族館のほか、イルカショーのオキちゃん劇場、植物園、プラネタリウム、郷土村などの施設もあるらしいが、広大な敷地をもてあましているような感じもなきにしもあらず。ここでも、一見すると日本人と変わらないが、話している言葉が違う人々が大勢やってきていた。
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 さて、そこで思い出したのが、2015年に例の官房長官が沖縄県知事と初めて会談したときのこと。官房長官は、“辺野古を認めればUSJをもってくる”というような意味の発言をしていた。これもずいぶん沖縄をバカにしたような話で、政府が考えてきて今も変わらず考えている“沖縄振興策”とは、結局あちこち補助金を振りまきお祭り会場をつくるくらいのことでしかない。
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 そのUSJ話は、根も葉もないことではなく、すでに根を張り芽が出て葉を広げ始めているようだ。2015年5月には実際に政府関係者が、当然のように関係者の念頭にあったらしいここ海洋博公園を視察に訪れている。
 実は辺野古をかかえる名護市にも、その候補地として名もあがっていたネオパークオキナワという観光施設があるのだが、その視察日程にはそこは入っていなかった。
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▼国土地理院 「地理院地図」
26度41分55.84秒 127度52分38.97秒
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dendenmushi.gif沖縄地方(2015/04/05 訪問)

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番外:今帰仁城跡=国頭郡今帰仁村(沖縄県)優美な曲線と曲面が印象的な石垣を眺めグスク時代の歴史を偲ぶ [番外]

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 琉球王朝の成立以前には、沖縄を北・中・南の三地域に分けて、それぞれに王をいただく三山時代があった。3つの勢力図がほぼ確定した1314年から、1429年の三山統一までがその時期で、鎌倉幕府の末期から室町幕府の初期に当たる時代である。この時代を、グスク時代というように、権力者が各地に城塞を構えて按司を置いて、地域の支配体制を固めようとした。
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 今帰仁村(なきじんそん)のサイトにある今帰仁城歴史年表では、「山北王」となっているが、これは中国の史料に基づく正式な国名が山北・中山・山南とあったことによる。しかし、現在では後の史料の北山・中山・南山という表記が一般的に多くなって、両方が混在していてでんでんむしのような初心者を惑わしてくれる。要するに、「山北王」と「北山王」は同じである。
 今は城跡の石垣だけが残る城塞遺構の今帰仁城跡は、その北山の中心地であった。この付近に人が住み始めたのは13世紀末頃とされるが、この城をいつ誰が築城したかなど、詳しいことはわかっていない。
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 三山に共通していたのは、明朝の中国や東南アジアとの交易を経済の柱にして成り立っていた王国であったことだ。貿易といっても、この当時のことだ。対等な貿易はあり得ず、明朝に朝貢し冊封してもらうという従属的な関係が基本にあったはずである。けれども、実際に冊封を受けたという記録は中山王と南山王で、北山王の記録はない。
 朝貢の記録も中山・南山に比べると少ないので、このあたり北山の独自の立ち位置も想像できるのだが…。
 北山・中山・南山と三分割とはいえ、支配地域面積からいうと、北山がいちばん大きく広く、うるま市石川付近までがその領域だったというから、ほぼ沖縄本島の北半分強を占めていたことになる。
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 奄美の島々までその勢力下に置いていた北山王は、もとは羽地按司で羽地内海に流れ込む羽地大川、羽地ダムなどの名が残る本部半島の北付け根に、そのルーツを辿ることができる、地方豪族のひとりだったのだろう。従兄弟の子で山北王であった今帰仁按司を討ち、自ら山北王となったといわれている。支配面積は広かったが、地形的には山地ばかりで、国力はさほど豊かとは言えなかったと思われる。
 因みに、中山は那覇付近までで、その南が南山となっていた。こういうことは、ないがしろにできないものであって、この区割りが後に郡になり、現在もなお国頭・中頭・島尻という地域区分として活きている。
 しかし、版図が大きいからといって戦争に勝てるとは限らない。
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 三王統の鼎立が100年続いた後、いろいろあって(ちょっと複雑なので簡単に省略)結局は中山が他を抑えた形で、尚思紹王を始祖とする第一尚氏が琉球最初の統一王朝を打ち立てることに成功する。これも地政的には山地がなく人口も周密で海に開けた中山のほうが、政治的にも軍事的にも優位であったからなのだろう。
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 その結果、今帰仁城を本拠とする北山地域も、琉球統一後は王府から派遣された監守という役人による地方管理の拠点になるが、その規模は首里城に匹敵したという。
 1609年になって、薩摩藩が琉球を攻略したときには、まずこの今帰仁城が本島攻略の第一目標となるのは、地政的にいって当然の順序であった。奄美の島づたいに南下侵攻してきた薩摩の軍船は、城の北に広がる今泊付近の海岸に大挙して押し寄せたのであろう。
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 城は炎上し、監守もその役目をなくした後は、もっぱら祭祀の場として御獄のような性格をもってきたようだが…。
 山の斜面とその傾斜を利用してつくられた城郭は、今に残る石垣で想像するしかないが、その優美とも言える石垣の曲線と曲面は、歴史の記憶をなんとか留めようとしている。
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 1972(昭和47)年に国の史跡に指定された今帰仁城跡は、2000年には首里城跡や勝連城跡などとともに、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産(文化遺産)リストに登録された。
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 名護から今帰仁城跡へ行くには、南側国道449号線と北側505号線が本部半島を循環道路が一周しており、このルートを琉球バス交通と沖縄バスが走っている。そのほか、那覇空港から運天港行きのやんばる急行も運行している。
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 時間的にも距離的にも、北側ルートで往復するのがいちばん早いので、羽地内海から今帰仁村に入り、備瀬崎へ向かう途中のバス停、今帰仁城跡入口で降りて、標高110メートルの城跡まで、山坂道を往復してきた。
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▼国土地理院 「地理院地図」
26度41分27.96秒 127度55分46.83秒
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dendenmushi.gif沖縄地方(2015/04/05 訪問)

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番外:本部半島=(名護市・今帰仁村・本部町)沖縄本島西海岸で目立っているけど岬はひとつしかない丸い出っ張り [番外]

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 沖縄本島北部の西海岸の、やんばるふんばる国頭村を南下していくと、奥間の道の駅を過ぎて田嘉里川を越えたところから大宜味村(おおぎみそん)になる。この村も海岸のわずかな平地に集落が点在する。途中に塩屋の入江を橋で渡るが、海岸沿いの道には岬と名のつくものがひとつもない。
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 その国道58号線を南下するバスの車窓に見えるのは、古宇利島・屋我地島のふたつの島で、小さな奥武島とともに橋でつながっている。
 島といっても横から見る限りあまり島のようには見えず、かろうじて見える橋からどうにかそれと知れる。
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 津波山付近の境界線から始まる名護市は、屋我地島と古宇利島を結ぶ古宇利大橋の途中までで、その橋の北側と古宇利島は今帰仁村(なきじんそん)になる。
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 屋我地島の西には本島との間に4キロにわたるワルミ海峡という水道があって、その北の口にあるのが運天港。伊平屋島や伊是名島への連絡船は、そこから出ている。
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 橋と島で囲まれた羽地内海(はねじないかい)と呼ばれる水域周辺にも、岬のひとつやふたつくらいあってもよさそうなものだが、これがまったくない。
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 名護市がここらから本島東海岸までを押さえているわけだが、その付け根から西へ丸くぽこんと飛び出している半島状の出っ張りは、沖縄本島全図のなかでも際だって目立っている。そこを指し示す呼び名は地図にはないのだが、それもなにかと不便である。名護市の北西部と、国頭郡今帰仁村と国頭郡本部町、さらに西の島には伊江村があるこの出っ張りを、仮にここでは本部(もとぶ)半島と呼んでおくことにしよう。
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 本部半島全体でも、岬と名がつくものはただひとつだけしかない。それは半島北西部に飛び出た備瀬崎。本部の西には伊江村の伊江島があり、瀬底島水納島もあるがそこらにもなく、半島の名護湾側にもあってもよさそうなにそこにもなく、次の岬は…名護湾の南端にある部瀬名岬までない。
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 そもそも、数ある日本国土を形づくる海岸線の出っ張りや飛び出しに、岬の名前がつくものはごく一部でしかない。だが、その一部にだけわざわざ名前がつき、そして何世代にもわたってその名が伝えられていくのは、それなりの理由や背景があったからこそだろう。
 でんでんむしは、岬の名がつき残っているのは、そこに人間との深い関わりがあったからこそだろうと思い、これまでもそう書いてきた。
 だが、こうして沖縄本島の西海岸に回り込んで改めて眺め回してみると、今度は逆に、「なぜ岬の名前がつかないか」が改めて疑問に思えてくる。それは、単に答えを反対にして人間との関わりがない、もしくはそれが薄いから…というだけでもすまないような気がしてくるからだ。
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 沖縄本島の西海岸では、名前のある岬は辺土岬以南では、まず赤丸岬があった。それから以下に取りあげる予定の、本部の備瀬崎、名護湾の部瀬名岬とが控えている。その次は長くてでこぼこも多い恩納村でも真栄田岬ひとつだけで、次ぎには読谷村の残波岬があるくらい。
 さらに南に下っても、浦添市の空寿崎と那覇空港内の大嶺崎があるだけで、南端部の喜屋部岬まで岬はない。
 単純に東海岸と比べることにも、どちらが岬がいくつ多いとかいう数字にもあまり意味はないだろうが、岬の数だけで言えば東西の海岸線では倍以上の差がある。けれども、人との関わりという点だけからすると、東海岸と西海岸では地形的にも人口の周密度などからみても、際だった差があるようにも思えない。
 それでもやはり、この本部半島で岬がひとつだけというのは、東西対抗では西側のマイナス要因のひとつになっている。
 こうして、いつものように答えの見つからない堂々めぐりループに入ってしまう…。
 ま、これもなにも答えをどうしても見つけたいというよりも、あれこれと下手な考えをひねくり回して遊んで楽しんでいるだけなんだけどね。
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▼国土地理院 「地理院地図」
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dendenmushi.gif沖縄地方(2015/04/04〜05 訪問)

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番外:再び「鹿折唐桑」へ=気仙沼市新浜町(宮城県)打ち上げられていた船も解体されてなくなっていたが… [番外]

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 誤解のないように前項に付け加えておくが、先に「1202 恵比須鼻」の項 で紹介したPDF情報には、住民が実施したアンケート調査の結果も詳しく述べられている。それによると、住民がみんな県の防潮堤計画に反対しているわけではない、ということだ。「位置や構造の話し合いには応じるが、高さは絶対に変えられない」という県に対し、打開のために住民が自ら意見集約をはかろうとしたアンケートの結果は…。
 意外にも、3分の1もの住民は、県が計画する9.9メートルの防潮堤を支持していることがわかったのである。アンケートに回答した住民564人のうち県の計画支持は35%、震災前と同じ1.2メートルでというのが6%、中間の5メートルでが20%、防潮堤は不要というのも17%あったという。
 このアンケート結果が発表されたのは2013年3月のことで、でんでんむしが初めて被災地を訪れたのはその4か月後のことだった。
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 そのときには、南三陸町から気仙沼市を歩いたのだが、鹿折唐桑(ししおりからくわ)の印象も深いものがあった。そこをバスで通ったときの記録は、「991 神明崎2=気仙沼市(宮城県)たくさんの船が流され陸に置き去りにされたが最後まで残った“第十八共徳丸”も…」 に書いているが、大きな漁船の船体が、鹿折唐桑駅(駅ももちろんなくなっていたが)の前付近の道路脇にどーんとあった光景が眼に焼き付いていた。
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 この船の処置をめぐっては、その後も全国ニュースで報じられたので、よく知られることになった。
 今回の山田町から釜石、大船渡、陸前高田、気仙沼までの岬めぐりの最後に、再びこの地を訪れたのは、BRTから唐桑半島に入る路線バスに乗り換えるためだった。
 この被災地訪問の最後に、あえて1項目を設けて、その後の鹿折唐桑付近を記録しておきたい。
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 陸に上がった漁船は解体されてすでになく、流された建物の土台の間に草が生えていた気仙沼市みなと町から新浜町にかけての一帯では、土盛りが盛んに進められ、復興商店街なども新しくできた盛り土の上に引っ越していたのだろう。
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 前のこの地の写真と見比べてみれば、とても同じ場所とは思えないほどだ。
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 コンビニなども店開きをしていたが、まだまだ基盤整備の最中であった。全体に地面の嵩上げをして、市街地の復興を図ろうという計画も、考えてみれば大変なことだ。
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 再びまたJR気仙沼駅にやってきた。前回と同じコースで大船渡線に乗り、一ノ関駅から新幹線に乗り換えて、帰ってきた。
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 直接被害を被ったわけでもない部外者が、被災地や復興計画についてあれこれいうことは、なかなかむずかしいところがある。
 願わくば、多くの国民が同じようなおもんばかりの気持ちをもって、被災者に寄り添いたいと願っていることが、すみやかなよりよい復興の応援になることを祈るばかりである。
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▼国土地理院 「地理院地図」
38.915467, 141.581042
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dendenmushi.gif東北地方(2014/11/07 訪問)

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番外:再び「奇跡の一本松」へ=陸前高田市気仙町(岩手県)改めてここを再訪してみる気になったのは… [番外]

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 マグニチュード9.0の大地震は、気象庁の正式名称では「東北地方太平洋沖地震」というらしいが、被害は東北地方だけではなかったということからか、「東日本大震災」のほうが定着しているようだ。陸前高田市では、押し寄せた大津波によって市の中心部が壊滅し、全世帯のうち7割以上が被害を受けた。JR東日本大船渡線の竹駒駅・陸前高田駅・脇ノ沢駅・小友駅と線路も流失した。2011(平成23)年の6月末で、陸前高田市の死者は1,656人、行方不明者は95人であったという。(おくればせながら、「陸前高田市」の「高田」は「たかた」です。)
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 この地震によって、海岸線も大きく変わってしまったが、小友町では84センチ、米崎町では58センチの地盤沈下を観測したという。
 現在、陸前高田市の平地では、気仙川の西にある山から土砂をとって、市街地を嵩上げする工事が盛んに行なわれているようで、その土を運ぶ銀色に光るコンベアなどが、やたら目立っている。
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 前回、バスの雨の車窓から、淋しく眺めていた「奇跡の一本松」を、今度はちゃんと現地で見てみようと思ったのは、この一本松のモニュメントをつくるにあたっては、日本の自動車メーカー各社の技術者が知恵とワザを出し合って完成させたと知ったからだ。
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 見たからといって、技術者でもない素人に、感心すべき何がわかるわけでもないが、見に行くことにもそれなりの意義があるように思えたのだ。
 東西に長く続いていた松原の、西の端っこに、津波が引いた跡にたった一本だけ残った松の木。
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 それもやがて枯れてしまうが、その姿をなんとか残したいという思いは、日本中の人びとの被災地にたいする思いを象徴していたのかもしれない。
 最初の「なんだかなあ…」という印象から、徐々にそっちへ意識が変わっていったのだ。
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 「奇跡の一本松」は、かつての松原の北側にあった古川沼の水路が、西の気仙川の河口に接するところ、ほんとうに西の端で、水路の名残を橋で渡って行ったところにぽつんと立っている。バイパスから南へ海岸にかけての字地名は砂盛。文字通り、嵩上げ工事で巨大な砂の盛山ができているが、地名の由来は気仙川の河口と松原の海岸の砂が堆積してできた土地であることを示しているようだ。
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 壊れていた水門も、以前と比べると多少は片付けられているが、周囲はすべて工事中で、そこへ行くための通路と、土砂を盛り上げたところに階段と手すりで囲った見晴台が、訪れる人用に設けられていた。これは、別に観光用に設けたわけではなく、一帯で大がかりに進められている土盛り工事の過程でできたもののひとつを、階段と手すりをつけて臨時の見晴台にしたものだ。
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 一本松の南には、遠く左手には広田半島が、近く右手には長部漁港の恵比寿鼻と白浜崎が望める。これで前回と今回二回にわけての被災地の岬めぐりは、いちおうその輪をつなげて閉じることになる。
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▼国土地理院 「地理院地図」
39.003445, 141.625171
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dendenmushi.gif東北地方(2014/11/07 訪問)

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番外:門之浜湾・碁石海岸口駅=大船渡市末崎町(岩手県)白い高い防波堤とBRT代替バスの駅 [番外]

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 明治三陸地震津波と昭和三陸地震津波に襲われたリアス海岸地区では、その教訓や津波の到達点「海嘯来襲地点」を後世に伝えようとする石碑などがたくさん残されている。
 館ヶ崎のある門之浜湾の奥にも、そういう石碑が4つもあるらしい。
 漁港の北に位置する谷になっている門之浜地区や、その西に続く鶴巻・大田地区の奥まったところにあるようだが、東日本大震災でも門之浜湾ではほぼ同じようなところまで津波は到達していたようだ。
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 まだ復興工事が終わっていない漁港の東端では、遠目にも目立つ白くて高いコンクリートの防波堤がつくられていた。ちょうど門之浜地区の海側にあたるところなのだが、その高さは2階建ての建物よりももっと高い。
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 気仙沼でも高い防波堤で覆う計画が論議を呼んでいたが、これはなかなか悩ましい課題であろう。防波堤でも完全に津波を防ぎ切ることはできまい。仮にできるとしたら、それは海岸線のすべてにもれなく張り巡らさなければ意味がなかろう。
 素人考えでは、このような部分的な防波堤に意味があるとは思えないので、この後もこの白い高い壁は、まだこれから湾沿いに西へ延びていき、門之浜湾をぐるりと囲むことになる計画なのだろうか。
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 旧市街地の中心地だった大田地区は、浜から続く平坦地なので、ここは今回の津波でも甚大な被害を受けたようだ。その一帯はうずたかく土盛りがされていたので、ここも土地を高くして復興をはかろうとしているのだろう。
 それでも、大田地区も数百メートル先からは土地が次第に高くなっているので、その高いところは浸水だけで済んだり、津波からは免れたりした家も多かった。
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 そのさらに上の高台には、末崎小学校と末崎保育園、ドラゴンレール大船渡線の上には末崎中学校がある。中学校の隣には市営球場のグランドがあったのだが、そこは全部仮設住宅がぎっしりと並んで建っていた。
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 そこが球場だったことを忍ばせるスコアボードの裏を回ってから道に出ると、碁石海岸口駅という大船渡線代行バスの停留所がある。
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 ここには、都合4度も乗り降りしていて、すっかりおなじみの駅になった。碁石海岸へ行くにはいちばん近い駅なので、ここに駅があるのは当然のように思って利用していたのだが、実はもともとJR大船渡線としては末崎地区の駅はここから北ひとつ大船渡寄りの細浦駅のつもりであったらしい。
 細浦の次は、陸前高田市の小友駅で、その間には駅はなかったのだ。
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 JR大船渡線が各所で寸断されて、従来通りの鉄路の復旧が困難になったとき、その線路のあった場所を専用道路にして、そこに代替バスを走らせることになった。それが、バス・ラピッド・トランジット(バス高速輸送システム=BRT)である。
 BRTは、場所によっては復興工事の関係で旧線路の跡地を道路にして走行できないところもあり、そういうところは一般道路を走ることになっている。
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 大船渡の盛駅から小友駅までは、ほぼ旧線路の跡地がBRTバス専用道路になっている。この区間が開通したのは、2013(平成25)年秋のことだった。
 そのときに地元の末崎地区が、大船渡市の市長に働きかけてJRに陳情書を提出して要望した結果、臨時駅としてここにこの駅が設置されることになった。そう思ってみると、確かにこの駅は元々から駅があったような場所ではない。踏切の脇に駅をくっつけたようだが、門之浜湾ではここ以外には適当な場所はなさそうだ。
 BRTになると、普通の踏切とは遮断機が逆になって、専用道路のほうにバーが降りる。
 小友駅へ行くバスを待っていると、乗用車が二台やってきて“駅前”に停まるとスーツ姿の少し若めのおじさんたちがどやどやと降りてきて、辺りを見回していたが、やがてまた車に乗り込んで去って行った。なかに一人えらそうなのがいてそれになにか説明していたので、どうやらどこかのお役所の視察で寄った、ということだったのだろう。
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▼国土地理院 「地理院地図」
38.995463, 141.716616
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dendenmushi.gif東北地方(2014/11/06 訪問)

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番外:碁石海岸=大船渡市末崎町(岩手県)北の岬は今もなお忘れられない「おもいで岬」 [番外]

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 碁石岬の灯台を後に、北へ続く海岸の松林のなかにプロムナードがある。宿でもらった碁石海岸のマップによれば、ここから北へが碁石海岸で、いろいろな名前のついたいろいろな大小の岩がたくさんある。その最北にあるのが、穴通磯と名付けられているメガネ岩のように穴が3つも開いた岩だが、そこまではおよそ3キロ以上の道を上り下りしなければならない。
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 このコースは、自動車道もなく、海岸の遊歩道としては途中の大浜くらいまでがいいとこで、たいていの観光客はそこまでも行かず、せいぜいが海馬(とど)島あたりまで行けばいいほうであろう。
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 見事な松林は、この碁石海岸の特徴になっているようだが、この松林の歴史も古く、1816(文化13)年に地域の住民が防潮防風林として植林したのが始まりだという。
 この道は、「美しい日本の歩きたくなる道500選」に選定されているのだそうだが、こういう「…選」も大流行で、実にいろんなのがある。碁石海岸は、このほかにも「日本の渚・百選」であり、岩に打ち付ける波の音が雷のように響くという雷岩の音は「残したい日本の音風景百選」に選ばれているという。
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 前項の碁石海岸とはどこかという設問だが、地理院地図では2万5000の縮尺までは西海岸に、それ以上の地図では東海岸に、その表記をつけている。
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 西海岸には、広い道が碁石浜から博物館のほうに通じており、その沿道には歴史もありそうな温泉旅館やら遊覧船乗り場やらがあるので、どうやらこちらのほうがもともと開けていた、古くから意識されてきた碁石海岸なのだろうと推測できる。
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 ところが、大船渡市が博物館やら温室やら大駐車場やらガイドセンターなどの施設を海馬島からも碁石岬からもそう遠くない中間点に整備した。
 どうやら、これ以降観光客がやってくる碁石海岸は、東海岸にその比重が移っていったのではないか。
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 そんなふうに想像できるが、おそらくそう的外れではあるまい。
 そう考えながら歩いていると、三陸復興公園に指定されてから後に環境省が建てた看板では、「碁石海岸は、末崎半島の太平洋側に面した約6kmの海岸線を指しています。」とのっけから“太平洋側”に限定した表記に出くわした。
 もっとも、その説明のなかには碁石も入っているので、碁石浜のある西海岸はまるっきり除外されるということではないらしい。
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 雷岩と高さ数10mの断崖が切り立つ乱曝谷の付近は、東海岸の一般観光コースの中心であるらしく、テラスなどの設備が整っている。その先の海馬島付近から西へ道を辿ると、ネイチャーガイドセンターのしゃれた建物があるが、これも国の支援ででき、大船渡市に管理運営が移管されているようだ。
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 その駐車場の向かいには椿館という大きな温室があり、世界から集めた椿が展示してある。
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 その前に結構大きな石碑がでーんと座っている。道路のほうには背が向いていて、駐車場側の表には「おもいで岬」という歌詞が刻んである。これはご当地出身の歌手・新沼謙治のデビュー曲の歌碑なのだ。
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 テレビのオーディション番組で出てきた1975年の新人歌手は、それまで左官をやっていた。5回目の挑戦となるその決戦で合格したときの、審査員の一人だった阿久悠の講評は、なかなかこの純朴な青年の真骨頂と将来を見通していたような鋭さがあった。(本人が出た何かの番組でそのエピソードを知った。)どうやら、阿久悠の予言通り、持ち前の純粋さを保ちながら長くこの芸能界を渡ってこれたのは、喜ばしい。碁石海岸を思いながら「おもいで岬」を歌ったという歌手は、その後の活躍で大いに大船渡市の知名度向上に貢献したことを称えて、この碑は建てられた。そこに刻まれた歌詞はその阿久悠が、彼のために書いた。
   北の岬は 今もなお 忘れられない
   忘れられない おもいで岬

 近年は、震災後の被災地の復興活動にも、お隣の陸前高田市出身の千昌夫とともに活躍していて、“いわてけん!”のスターである。
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 そこから道路を下ると、大船渡市立博物館の大屋根がある。この博物館もなかなか見事な、工夫された展示がしてあって、こどもたちがこの海岸と地域を勉強するのにも役に立っているのだろう。
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 博物館から下ると、いよいよ碁石のある碁石浜に出るが、書ききれなくなったのでこれはまた次項に…。そうそう、この道の途中に「新沼」という表札の家があった。この地方に多い名前なんだろうか。

▼国土地理院 「地理院地図」
38.985952, 141.741747
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番外:リアス海岸の岬=山田町・大槌町・釜石市・大船渡市・陸前高田市(岩手県・宮城県)釜石に出る前に計画がすべてパア [番外]

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 でんでんむしの岬めぐりは、文字通り分刻みのスケジュールに従って動いている。別に自慢するようなことでもないし、公共交通機関を利用しての…という限定があれば、当然にそうならざるを得ない。
 いつも事前にバスや電車の時刻表をチェックして、連絡、乗継ぎに齟齬のないように計画は立てるのだが、交通機関のほうに齟齬が出ると、とんでもないことになってしまう。
 今回の三陸の岬めぐりは、これまでまだ取りあげていなかった、宮古から南、陸前高田から北の海岸線である。
 これは大変な難所なんですよ。なにしろ、あのリアス式海岸(ria coast)ですから…。
 それに、2011年の大震災では、くまなく大津波に襲われた地域で、まだまだ復興がなったとは言い難いところだ。ほんとうは、不要不急の物見遊山といわれても仕方がない岬めぐりは、まだ遠慮したほうがいいのだろうとも考えたが、大震災大津波の後の状況を記録しておく意味もあろうということで、2013年の南三陸・気仙沼訪問の続きとして計画したのものである。
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 東北新幹線の「はやぶさ」で新花巻まで行き、そこから釜石線に乗って釜石まで出る。そこからバスで北へ向かい、山田まで行ってまた引返してくる。要所要所の海岸で降りてはまたバスに乗りながら、釜石でその日は一泊。
 翌日もまた残ったところをめぐって、今度は釜石から三陸鉄道南リアス線で大船渡へ出る。大船渡の碁石海岸に二泊して、大船渡と陸前高田の岬をめぐって、気仙沼から大船渡線で一ノ関へ出て、新幹線で帰ってくる…。
 ざっとそういう計画を立てていた。
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 前日まで北日本を低気圧が通過していて、午後にはそれも太平洋へ抜け去るだろうと予想していて、お天気は回復して青空が広がるなかを、2両編成のJR釜石線は順調に遠野を過ぎ、東へ走ってきた。
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 1000メートル近い分水嶺を土倉トンネルで抜けると、釜石線は深い谷のどん詰まりにある釜石鉱山の手前でぐるっと一回転して陸中大橋駅に着く。
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 ところが、この陸中大橋駅で停まったきり、動かなくなってしまった。風が強いので運行を見合わせる、とのことである。
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 「陸中大橋」というからには、大きな橋でもあるのかと、あたりを見回すが、それらしきものはない。大橋というのは橋の名前ではなくて、この谷間の集落の名前らしい。
 風は確かに吹いているが、谷間を下っていく電車の運行に差し障りがあるようにも思えなかったが、こちらはただ動くのを待つしかない。
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 やっとちょっと動いたかと思うとまた停まる。そなんことを繰り返しながら、下っていくと途中で横から谷筋が合流するところが2か所ほどある。その谷からの横風が吹いてくるここら辺が危ないというのだろうか。
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 上を見上げると、遙かに高いところを道路が通っている。人間の行なう土木工事というのは、どこまでもキリがないらしい。これは仙人峠道路という283号線のバイパスのようだ。これだと、やはり風が吹くと通行止めになりそうだが…。
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 結局、釜石駅には定刻を1時間以上遅れて到着した。事前に立てた計画がまったく意味をなさなくなってしまった。分刻みの計画はすべておじゃんだが、まあなるようにしかならない…。これが旅の空では重要なこと。
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 その日は、釜石湾の岬を眺めるだけにして、早々にホテルに入って急きょまったく別の計画を組み直さなくてはならない。復興工事が進む市街地に新しくできたビジネスホテルは、やはり復興工事関係の人が多いらしい。玄関を入るとまず靴を脱いで、スリッパに履き替える方式である。
 翌日から改めて山田行きの早いバスで往復することにしたが、もう途中で降りる時間的余裕もなくなっているので、乗りっぱなしで車窓風景だけになってしまう。
 さて、「あのリアス式海岸」と書いたが、近頃では“式”はなしで「リアス海岸」ということになっているらしい。この宮古以南のリアス海岸は、半島が飛び出して入江・湾があって浜があり、また半島になって…を交互に繰り返す地形がずっと続いている。宮古の山田湾から陸前高田の広田湾まで直線距離で61キロに渡って、そういう地形が連続しており、湾の数は13にもなる。
 岬めぐりの難所としては、以前に三重県の南伊勢付近 をあげていたが、要するにリアス海岸では、半島には集落も道もないところが多く、交通機関はほとんど半島の内側または付け根を通るだけなので、岬めぐりにははなはだ不便なことが多い。
 加えて、まだまだ復興工事の最中とあっては、海岸や浜へも行くのは制限されてしまう。
 いかなることになりますか、とにかく地図上の北から順に南に下って行きながら、バスと南リアス線の車窓から、リアス海岸の岬を追ってみることにする。
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▼国土地理院 「地理院地図」
39.273237, 141.87301
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番外:大江本家と留辺蘂=北見市留辺蘂町温根湯温泉(北海道)多くの人にはめったに縁がないかも知れないこの地域の紹介 [番外]

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 北海道は広い。岬めぐりでは、あと日本海側の一部と島嶼部を残すところまではなんとかこぎつけたわけだが、内陸部はほとんどと言っていいくらい知らない。道東・オホーツクと札幌や旭川を結ぶのは、鉄道では南の根室本線・釧網線と北の石北本線である。道路ではいくつものルートはあるが、国道の番号が若いものでは、釧路から帯広・富良野を結ぶ38号線と、網走から旭川に出る39号線がある。
 鉄道の石北本線が、遠軽のほうを大きく迂回しているのに対して、国道39号線は北見から西へ石北峠を越え、大雪山の東麓・層雲峡を抜けて旭川に出る。石北本線も石北峠も、その名はこの線で結ばれるふたつの国の旧国名(石狩国と北見国)からついている通り、高い山で隔てられた国を往来するには、高い峠を越えなければならない。
 紋別郡遠軽町と上川郡上川町を通る石北本線は北見峠を石北トンネルで越え、その南で北見市と上川町の層雲峡に抜ける39号線が1,000メートルの石北峠を越える。
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 海岸線ばかりを歩く岬めぐりでは、こうした内陸部へはなかなか縁がないのだが、かつてでんでんむしがやっていたマイナーなウエブサイトで、か細い縁がつながっていた温根湯温泉の大江本家には、かねてから行きたいと思いつつなかなか実現できずにいた。そこで、今回こそはぜひとも投宿してみたいと思ったので、石北本線を通るオホーツクからの帰り道に、留辺蕊(るべしべ)の駅で降りて、39号線を走るバスで温根湯温泉に寄ることにした。
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 留辺蕊駅の周辺はきれいに整備されていて、町の大通りの店にはそれぞれ看板でユニークなイメージを出そうとしている。高浜虚子の句碑があるという看板につられて駅前広場の自転車置き場(これがまた立派)のほうへ行くと、周囲を花壇で飾った黒い石の句碑がある。(これは平成7年に留辺蕊町が建てたものだが、2006(平成18)年には町は北見市と合併した。)
   皆降りて 北見富士見る 旅の秋
 旭川で開かれた俳句大会でやってきたのは1933(昭和8)年のことで、層雲峡で吟行して留辺蕊駅で北見富士を見るためにホームに降りたときの句である。当時はまだ石北峠越えのルートは開通していなかったはずなので、層雲峡からまた旭川に戻ってから石北本線の列車に乗っていて留辺蕊駅に降りたのだろうか。碑にあるようにその夜は阿寒湖に泊まっているとすれば、虚子一行はここからどういうルートを辿ったのだろうか。(もっとも、阿寒湖のほうは比較的早くから観光地として名高いところだったはずなので、交通の便はよかったのだろう。)
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 温根湯温泉に向かう途中の道筋の畑にも、タマネギの箱(枠)がたくさんおいてある。湧別で見たタマネギは、実はこっちの北見地域のほうが先にはじめた本場だったのだ。
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 運転手とのやりとりから、バスに乗り合わせたご年配のご婦人方のグループも、大江本家に泊まるらしいとわかったので、その一行とは反対側の道から無加川に出る。「無加」もアイヌ語の「川を越す=ム(塞がる)カ(いかに越すか)からつけられた名だと北海道が河畔に建てた看板が言う。温泉があるので、川が凍るのも遅かったが、凍って初めて川を渡ることができた。
 目の前に大江本家があり、隣にもホテルが並んでいるが、温根湯温泉の主な宿は現在ではこの2軒のようだ。足湯もある河畔や夢花橋と名付けられた橋の上から、北見富士を探してみたが見えない。
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 宿の裏の秋らしくなり始めていた林の中を一周りして大江本家に入り、まずは社長さんにご挨拶する。昔のささやかな繋がりを懐かしがってもらい、温泉に浸かって気持ちよくのんびりした。
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 温泉浴場への通路に、大江本家の歴史が述べられている。この温泉宿のルーツを辿りながら、この地方の歴史も探ってみよう。
 この家の先祖は、山形の大江さんである。山形といえば、左沢(あてらざわ)の大江町があるし、寒河江には大江姓の人が多く集っている。そのルーツは大江広元にも繋がるのだが、それはさておき…。(この話は長くなるなるので、また折りを見てアーカイブスに入れておきたい。)
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 温根湯がアイヌの言葉では、「大きな湯の沸くところ」の意味だというので、古くからアイヌはそれを知っており、無加川沿いに狩猟期の宿泊場所を設けていたらしい。しかし、この留辺蕊の一帯は、壮大な原野であり、鬱蒼とした原始林に囲まれていて、滅多に人が入ることもなかった。
 1819(明治24)年には、網走と旭川を結ぶ中央道路が開通し、屯田兵1000名が野付牛(当時は北見のことはそう呼んでいた)と湧別に入植している。
 1897(明治30)年頃になると、この原始林の調査が入り、改めて良質な泉質、豊富な湯量の源泉が再発見される。ここで温泉宿を始めた、大江本家創始者の大江輿四蔵は、1899(明治32)年に温泉出願の免許を取得している。
 やはり温泉も豊富な山形の人であった輿四蔵は、屯田兵開拓に伴って北海道に渡ってこの地に縁ができ、温泉にはピンとくるものがあったのだろう。多額の費用を投じて温泉開発に乗り出す。
 けれども、当時はまだ交通の便も悪い山間僻地の域を出ないこの地では、相当に苦労があったようだ。明治40年以降になると、拓殖道路(後に国道39号線になる)の留辺蘂=温根湯間が開通し、大正の始めになって鉄道の開通整備が進んだことによって、本格的な温泉宿経営が成り立つようになったと思われる。
 実は、野付牛までは、大江本家開業の当時には旭川からの鉄道があったはずなのだが、これは富良野・池田経由だったという。地図でそのルートを想像すると、現在の帯広の東にある池田からは、足寄を経ているはずだが、その先がわからない。へたすると留辺蕊は通らなかった可能性もある。
 大江本家の記録でも、1912(大正元)年に留辺蕊=野付牛の間の鉄道が開通し留辺蕊駅開業とあるので、このときの網走延伸と1916(大正5)年の下湧別=遠軽=留辺蘂=野付牛を結ぶ湧別軽便線の開通など、大正になってからの周辺の鉄道網整備が待たれたのであろう。
 それによって、留辺蕊と温根湯の間には客馬車が運行され、町も徐々に発達し、1920(大正9)年には旭川第七師団の転地療養所にも指定され、延べ45,000人もの傷病兵が療養したという。
 大正5年には温根湯にも電灯がつき、それから5年後の1921年には客馬車が自動車になる。その名も“大江自動車”なのだが、大江本家の社長さんによるとこれは同郷の遠縁にあたる大江さんが起こしたものだったという。
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 昭和に入って二代目、三代目が受け継いだ大江本家は、大雪山国立公園の指定(昭和9)、法人化して株式会社設立(昭和29)、国道39号線の開通(昭和32)などもあって、観光地・温泉地として売り出しに力を注ぐ。(絵が好きで自分でも画筆をとった三代目敬二の絵は自家オリジナル土産物やパンフレットにも使われているが、コレクションを集めたギャラリーもある。なかなかクロウト裸足の絵である。)
 平成11年に、温根湯温泉開湯100年を迎えた後は、先代夫人の後を継ぐ現社長が四代目だという。
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 留辺蕊は、「ルペシペ=ru-pes-pe=[道・それに沿って下る・もの(川)」に由来するそうだ。温根湯を流れる無加川は、東に向かって大江本家の前を流れるが、北見で常呂川と合流してサロマ湖と能取湖の間からオホーツク海に注ぐ。
 石北峠の南、標高1,541メートルの三国山(この山の西にあるのが一時期有名になった2,141mのトムラウシ山)の源流から無加川・常呂川が海に出るまでは、およそ105キロもある北見市は、択捉島留別村を除くと北海道の自治体として最大の面積がある。
 “多くの人にはめったに縁がないかも知れない”とタイトルは付けてみたが、大江本家は旅行会社の北海道ツアーでは「あの」がつくくらい有名なのだ。これまで縁がなかった人は、ぜひ温根湯温泉に行ってみてね!
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 大江本家の歴史を通じて、この地域のことを少しだけなぞってみたが、鉱山の ことなどまだまだ触れなかったことも多いが、ひとまずこのへんで…。

▼国土地理院 「地理院地図」
43.759577, 143.509059
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dendenmushi.gif北海道地方(2014/09/29〜30訪問)

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タグ:北海道 歴史
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番外:おこっぺ道の駅とある軌跡=紋別郡興部町興部(北海道)夢と希望をレールにのせてはきたものの… [番外]

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 「人口5,000人程、牛の数は12,000頭、コンビニ2件、映画館はナシ。でも海水浴場に、ナイターが楽しめる野球場、冬でも遊べるテニスコート・ゲートボール場などもあります。」そう紹介をする“おこっぺファンくらぶ”や、130号を超えて続いている“町長日誌”など、なかなかユニークで一生懸命な町のホームページをもつ興部町は、最新(2014年09月)のデータでは男性2,003人、女性2,126人の計4,129人、世帯数は1,875戸となっていて、やはり過疎化に歯止めがかからないようだ。
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 町の花は「ハマナス」で、町の木は「ナナカマド」というこの町は、宝永年間に松前藩の漁場として支配したというが、明治22年になって初めて沙留に和人が定住し、同31年に石川、高知、富山などの各県から入地者が来住して本格的に開発が進められた、と町のホームページは語る。
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 なお続けて、明治42年に雄武からは字興部を、紋別からは字沙留、ルロチの2か村を分割併合して、興部村外2か村長役場が設置され、大正4年に北海道2級町村制が施行されて興部村となった。大正10年には国鉄名寄本線が全通し、農業、林業、漁業の飛躍的発展をみるに至り、大正14年興部村から西興部村を分村したものの、農林漁業の発展とともに商工業も次第に発展し、昭和26年に町制が施行されて今日に至っている、と町の沿革はいうのだ。
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 興部を「おこっぺ」とはなかなか読めない名前の由来は、当然これもアイヌ語で、「オウコッペ=川尻の合流しているところ」の意味からだという。
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 その川とは興部川と藻興部川だと町ではいうのだが、地図でみるとこの二本の川の間には、比較的大きな丘陵が海まで延びており、合流するところはないようにみえる。むしろ、藻興部川と南の瑠橡(るろち)川のほうが河口が近いうえに、地形をみると河床の跡らしい場所もある。
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 だが、それと同様に興部川と藻興部川の間も、そうでなかったとも言い切れない。おそらくは、海岸の砂丘が盛り上がって川の流れを変えていた時期があったのだろう。
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 前の項でもふれたように、オホーツクの岬めぐりの初日は、東京から旭川までJRに乗りっぱなしでやってくるのがやっと。見事に近代化されきれいな旭川駅にはちょっと驚いた。昔、旭川にも降りて泊まったこともあるのだが、そのときの記憶ももう薄れている。
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 その翌日に旭川から早朝の宗谷本線に乗って、降りたのは名寄。ここは地図で名前だけは知っているところだが、今はなくなっている名寄本線の跡を、天北国道という名もある国道293号線を、名寄から下川、天北峠を越えて西興部村を経て興部まで、名土バスでやってきた。
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 興部のバス停も、かつての名寄本線と興浜南線の駅だった広い場所の一角に、こじんまりとくっついていて、赤レンガのインフォメーションセンターと記念館を兼ねた建物や道の駅やらがある。
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 1921(大正10)年に名寄本線が、そして1935(昭和10)年には興部駅=雄武駅間の興浜南線が、それぞれかなり早い時期から開通していたこともあって、この町にとって鉄道が廃線となることは、まさに死活問題であったのだろう。「オホーツク本線敷設構想」を掲げるなど、雄武町を含む沿線自治体町や地域ぐるみで存続運動を展開したが、1980(昭和55)年の国鉄再建法施行を受けて特定地方交通線に指定され、興浜南線は1985(昭和60)年に、名寄本線は1989(平成1)年に廃止されてしまった。okoppe-7.jpg
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 おこっぺ道の駅周辺とバス停の待合室を兼ねた記念展示は、その廃線がいかにこの地域の人々にとって切ないものであったか、を伝えてくれる。
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 赤レンガの前のガラス板に彫り込まれた「夢と希望をレールにのせて 名寄本線・興浜南線……永遠の軌跡」という一文からも、それが、ひしひしと伝わってくるような気がした。
 
  興部町に初めて鉄道が敷かれたのは大正10年…
  生きることも厳しかったこの地方に、鉄道は夢と希望、そして繁栄を運んできた。
  そして、それはオホーツクラインを鉄道で結びたいという願いとなって興浜線へと広がっていったが、果たせないまま昭和60年興浜南線は終わりを告げた。
  レールの響きとともに人々の生活と深く結びつき、歴史が静かに刻まれていった名寄本線も、時代の流れの中で「廃止」とのたたかいがはじまったのである。まさに“生命線”と呼ばれ、誰もがその存続を願い、必至の思いで運動が展開された。
  しかし、住民の願いもむなしく、1989年4月30日名寄本線廃止の日を最後に、地域の発展につくし住民の哀歓を運び続けた鉄道はその姿を消した。
  68年間、夢と希望をレールにのせて、くらしに活力を与え続けてきた名寄本線……その功績は大きく、永遠に消えることなく、いつまでも私たちの心の中で走り続けるだろう。
  鉄道と共に歩んだ先人たちの功績を讃え、その英知と力を学び、希望ある未来へと前進していくことを願いつつ、ここに力強くも美しい名寄本線・興浜南線の姿を永遠にとどめる。

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▼国土地理院 「地理院地図」
44.469425, 143.117779
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番外:おうむ道の駅と鉄道夢の跡=紋別郡雄武町雄武(北海道)いまはなき興浜南線の雄武駅の跡で辿る鉄道への想い [番外]

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 モダンな展望台を備えたその建物には、商工会議所のようなものも入っていて、1Fが道の駅とバスの待合室になっている。雄武のバス停は、「おうむ道の駅」の前にある。
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 その場所は、国道238号線からロの字になってバスの動線が引き込まれているので、この場所がかつての興浜南線の雄武駅の跡なのだろう。南線の起点終点であり、興浜線の工事が北へ向けて始まった雄武駅の跡には、人々のなくなってしまった鉄道への想いが、怨念の成仏を願うかのように残っているように思えたのであった。
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 興浜線の名は、興部(おこっぺ)と浜頓別の間を繋ぐという意味である。これが開通すれば、北から天北線・興浜線・名寄本線・湧網線・釧網本線とつながって、オホーツク海沿岸を南北に縦貫する鉄道網ができるはずであった。
 天北線の浜頓別から北見枝幸までは、1936(昭和11)年に興浜北線が開通していた。一方、名寄本線の興部からは雄武までは、1935(昭和10)年に興浜南線が営業していたのである。
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 先行して開通していた興浜北線・興浜南線にしても、太平洋戦争が厳しさを増すなかで不要不急線として全線が休止となってしまう。全線路が撤去されて、樺太の鉄道用に転用される計画であったが、その線路の輸送を始める前に終戦となった。
 戦後地元ではいち早く鉄道の復活に力を注ぎ、間もなく休止していた鉄路が復旧する。
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 そして、途切れていた興浜南線の雄武と興浜北線の北見枝幸の間は、少々時間がかかったが、それでも、1966(昭和41)年から雄武でまず工事が始まり、枝幸町の西音標までの間では路盤工事が終わっていた。
 ところが、ちょうどその頃から、全国的に地方の過疎化とモータリゼーションの急激な進行が始まる。あわせて親方日の丸の国鉄の赤字が大々的に問題視されるようになって、雄武=北見枝幸間の工事は1977(昭和52)年度をもって中止されてしまう。
 その後も、1980(昭和55)年には国鉄再建法が成立し、人員の削減や地方の新規路線の建設凍結対策が打ち出され、特定地方交通線の国鉄からの分離・バス転換が進められていくことになる。既開業区間であった興浜北線・興浜南線ともに、第一次特定地方交通線の指定を受け、南線・北線ともに1985(昭60)年に相次いで廃止され、バスに転換されることになった。
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 ざっと整理してみると、ここの鉄道の経緯はそんなところだろう。
 その後も現業部門の民営化が続くことになるのだが、国鉄の分割民営化は、世論にも一応支持され、うまくいったほうと言えようか。巨額の累積債務の処理が表向きの理由であったが、実は国労・動労つぶしであったことも明らかで、それを推進した中曽根首相自身がそれを隠してはいなかった。
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 合理化・民営化に反対する組合の主張は、国民には受け入れられなかった。それくらい民営化前の国鉄の状況はひどかった。でんでんむし自身も、出張で出かけた名古屋駅では、コンコースに機動隊員が立ち、出札口のガラスが全面厚いカーテンのようなもので覆われ、小さな開口部に口を寄せて行く先を告げ、そこからお金を差し出すと手しか見えない職員から切符が投げ返されてきた、という異様な経験をしたことがある。あれはいったいなんだったんだろう。
 結局、政権の思惑通り、国労・動労つぶしは成功した。ストもあれば赤字路線も政治路線も、まあいろいろあったけれど、それらはともかくとして、鉄道が地域の背骨の役割を果たしていた時代は長い。バスに代替するというのは、およそ次元が違うと思えるくらい、鉄道が走っているということの意味は大きいと思う。
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 雄武から宗谷バスで枝幸へ行き、枝幸から神威岬まで往復して、また枝幸から雄武まで戻ってきた。もう夕暮れで道の駅は閉まっていたが、展望台には明りがついていたので、もう一度登ってみた。
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 この日は、ここから遠くない民宿オホーツク荘に泊まり、翌朝早い便でまず紋別まで行く。早朝、バスの駐車場になっているところに「歴闘50年」という記念碑(誰が建てたのかよく確認しなかったので、“歴闘”の意味がいささか不明だが、そこでは「おむ OMU」となっていた)が建っていた。また、次の駅名が「栄丘」としてあったので、これは興浜南線の記念碑だ。
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 ここらへんに、機関車の向きを変える円形の転車台があったのだろう。
 というのは、待合室に昔の戦時中の雄武の様子を、当時のこどもの目で描いたイラスト画が掲示してあり、その絵の中に“転換キ”としてこども押して回したと書いてあったからだ。
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▼国土地理院 「地理院地図」
38.068776, 138.440344
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番外:宿根木=佐渡市宿根木(新潟県)吉永小百合さんも行った千石船の里の風情と行けなかった新谷岬… [番外]

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 小木港の弁天崎から次の岬は、2.6キロ西へ行った宿根木(しゅくねぎ)の新谷岬である。ところが、とんだチョンボがあって、新谷岬そのものの写真がない。いや、写真がないだけでなく、その現地を正確に見ていなかったことが、後で判明してしまった。
 大きな思い違いから、そのときに新谷岬と思って見ていたのは、そのもうひとつ西側の出っ張りの先っちょだったのである。どうして、こんなことになってしまったのだろう。
 記憶に頼ってふらふらしていたことへの、警告と受け止めておき、ここではしかたがないから「番外」ということにして、宿根木について項目を残してみた。
 事前になにも調査をしないでやってくると、ときにあーっと驚くようなことにぶち当たることがある。たとえば、この宿根木のように…。
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 東から来ても西から来ても、だらだらと坂を下って海岸に向かって降りて行く。道路の上から見ると、狭い細い谷の間に、このワンセットの集落が風を避けるためのように、すっぽりとはまりこんでいるのだ。屋根は黒い瓦葺きに混じって丸い石を並べたものもある。下りきると大浜と呼ばれていた浜に出るが、海側にはコンクリートを打っただけの駐車場と、岩場が頭を出している入江がある。そのあちこちには、白さがひときわ目立っている花崗岩の石柱が立っている。昔は、船を繋ぎ留めるものだった。
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 沖にも岩礁があるらしく、白い波がったっている。開かれた水路はわずかで、港のようではあるが、これでは大きな船は入ってこられないだろう。ひょっとして、あの大地震と関係があるのだろうか。
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 道路の内側には、竹の風よけと濃い茶色で塗装が統一された木造の古そうな民家が軒を寄せ合い、その間をすり減った石畳の路地が通る。建物はすべて総二階で、狭い限られた敷地のなかでの発展方向が上に向くしかなかったことが想像できる。
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 メインストリートの脇には細い水路があり、三角の板壁の家がある。これも限られた土地に合わせて家を建てたからだろう。
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 井戸があり神社があり寺がある。神社の前に架かる石橋の石材は、入江の船つなぎの石柱と同じく、尾道から運ばれてきた花崗岩(御影石)だ。
 この谷間の小さな集落には、一時期(1824(文政7)年の記録)には13艘もの回船の船主がいたという。ということは、当然その回船事業に付随する船大工を始めとするさまざまな仕事に関わる人々が集まり、120戸500人もの人が蝟集していた。
宿根木という集落の特殊性は、そのようにしてできたのであろう。現在も人が住み暮らしているが、集落始まりの頃と同じように、農漁業の生活に戻っている。大浜でバスを待っていると、軽トラックが来て止まって、荷台から作物の箱を抱えて集落に消えて行った。
 佐渡から帰って来たら、JRの駅々(JR東日本限定)に吉永小百合さんがこの路地に立っている写真が、でかでかと張り出してあったので、びっくり〜。
 もうひとつ、でんでんむし的興味から感動したことがある。
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 すり減った石畳の路地の奥に、「柴田収蔵の生家」というのがそこにあった。名前だけはちょっと知っていたくらいだが、この人は1820(文政3)年にここで生まれ、1859(安政6)年に江戸で亡くなっている。惜しい人だった、と思う。もっと長生きしていれば、きっと歴史にもっと大きく名を刻んだ人だったろう。
 “もっと・きっと”の柴田収蔵は、幕府の蕃書調所絵図調書役という、いまでいえばさしづめ国土地理院のような仕事をしていた。個人蔵とかで、一般に見ることはできないが、ペリー来航の一年前に、彼が残した「新訂坤輿略全図」(1852(嘉永5)年刊行)があり、これには“Syukunegi”という記述もちゃんと挟み込まれていて、そういうことができる愛すべき人だったようだ。
 申し遅れました。「坤輿(こんよ)」というのは、「非常に大きな輿(こし)=大地、地球」のことで、つまり「大世界地図」なのです。
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 宿根木の谷の東上の台地には、昔の小学校の建物を利用した「佐渡国小木民俗博物館」がある。なんでも、宮本常一の強い勧めがあったというが、実にさまざまな民俗資料・生活雑器などが多数集められ保存されている。
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 その隣のばかでかい新館は、「白山丸」を展示するためにできたものである。これは、柴田収蔵が江戸で亡くなる前の年に、宿根木で建造された「幸栄丸」の実物大復元船(512石積み)で、宿根木の白山神社にちなんで「白山丸」と名付けられたものだという。
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 実際には千石には足りないが、板に残されていた設計図どおりに忠実に復元された船内まで入ってみることができる。こういう船で日本の近海を周回していたのだと思うと、われわれのご先祖さんたちがやたら愛おしく思えてくる。イベントの時には、外へ引き出して、帆を張り上げることができるらしい。
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 博物館の前には、広い敷地の端にこの集落で使われたという石見が能登の瓦が黒いのと板葺き丸い石置きの両方の屋根の郵便局がある。
 この横の細い道をまっすぐに行けば、新谷岬があったのだ…。なんともかんとも…。

▼国土地理院 「地理院地図」
37.802766, 138.244566
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番外:小木港=佐渡市小木町(新潟県)「たらい舟」と「佐渡おけさ」の小木の話はいちおうは知っていたが… [番外]

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 ここから先は、項目の順は佐渡の南海岸線を、ぐるりと時計回りに辿っているが、実際の行動行程は行ったり来たりである。
 宿根木のさらに西になる強清水の民宿に泊まった翌日には、そこを通る宿根木線の路線バスで、佐渡南西端の沢崎まで行き、そこから5キロほど歩いてまた引き返す途中で潮早岬に寄り、宿根木からはバスで小木に戻って小木線のバスに乗り換えた。
 佐渡のバス路線はだいたいにおいて各路線を乗り継いでいけば、島を一周できるのだが、佐渡島全体でも沢崎鼻と潮掛鼻の間だけがバスが通っていない。それも当然で、この区間だけは海岸線に沿った道路がない…いや、ないわけではないのだが…。
 そこで、小木から出てまた小木に戻って…ということになる。
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 観光たらい舟を営業しているのは、外ノ澗のほうの船着場だが、小木線のバスを待つ前に寄ってみたら、ちょうど中型の観光バスでやってきたスーツ姿も目立つ一団が、たらい舟のお客になっていた。
 城山の東側に突き出た桟橋の周辺をちょろちょろするだけで、とにかく乗ったというだけだが、考えてみれば女性の力で櫂を漕ぐだけだから、そう遠くへ行けるはずもない。それにしては、「佐渡情話」のお弁のように、これを漕いで柏崎まで行くというのは相当ムリである。
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 この話がいつの時代にできたか知らないが、たらい舟のほうは1802(享和2)年以降のことだと思われる。この年の享和佐渡小木地震は、小木付近の海岸線の形を変えてしまうほどだったという。その結果、無数の岩礁が入り組んだでこぼこの多い、小さな入江が続く海岸になると、アワビやワカメなどが繁殖する、しかし、従来のような船ではその漁には適さない。
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 そこで考案されたのが、たらい舟なのだ。これは、現在でも小木一帯での漁に使われている。犬神平あたりを歩いていると、ところどころに転がしてあったそれは、青いFRP加工がしてあった。
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 観光たらい舟は、漁に使われているたらいよりも大きいのだそうで、「11人乗っても大丈夫」だとか。うまく前に進めることができれば、たらい舟操縦士免許が200円の手数料でもらえるらしい。
 いやー、観光イベントってのもたいへんだなあ。
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 たらい舟もさることながら、やっぱり佐渡といえば「おけさ」であろう。「おけさ」といっても柿ばかりではない。なんといっても『佐渡おけさ』である。フェリー発着所の前には、その像があった。
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 これを見ていて、思い出した。でんでんむしがこどもの頃に、近所でやっていた盆踊りでは、この『佐渡おけさ』で踊っていた。それやら月があ出た出たの「炭坑節」などと、今思うと結構ヘンなものだったが、それだけ全国に広まっていたということであろう。
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 この発祥と伝播についても、諸説が入り乱れているので、いったいどれが正しいのか、よくわからない。
 だが、歌のほうは大筋九州地方のハイヤ節が、北前船の船乗りたちによって小木港にもたらされたのが始まりで、それが金山の鉱夫たちの「選鉱場節」から「相川おけさ」となったりしたものだろう。
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 これが全国に広まったのは、1926(大正15)年に、実際に選鉱場で働いていた人がレコードに吹き込んで発売され、山田耕筰や藤原義江に絶賛されて歌手になり、大人気となってからだという。
 この頃の日本は、全国といってもその市場は広く大きかった。なにしろ、南樺太があり満州があり台湾があり朝鮮があったのだから…。
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 フェリーの岸壁には、ちょうど「こがね丸」がついて、船首部分をぱっくりと開けているところだった。この船の名も「佐渡おけさ」の“山にゃ 黄金の 花が咲く”の「こがね」なのだろう。

▼国土地理院 「地理院地図」
37.815586, 138.280377
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番外:椎崎温泉=佐渡市原黒(新潟県)“朱鷺の舞湯”でトキ色の夕空トキ色の湖面そしてトキ色の月も… [番外]

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 「椎崎」の地名については、「1097 樹崎」の項でふれていたが、椎崎温泉の所在地は、住居表示では「原黒(はらくろ)」となる。ところが、泊まった“佐渡グリーンホテルきらく”では、自分の住所を「新潟県佐渡市しいざき温泉」としている。“原黒”は“腹黒”みたいで嫌ったのか。
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 加茂湖を見渡す丘の上の椎崎温泉にはほかにも温泉ホテルがあるが、そちらは「原黒」を使っている。バス停には「原黒」はなく、「椎崎温泉前」となっている。ほかに「原黒」を名乗るところはなく、保育園も「椎崎保育園」で「原黒保育園」ではない。
 「原黒」も両津市と言っていた頃からの地名表記ではあるのだが、やはりその新表示のためになくなってしまった旧字地名にも未練があるらしい佐渡市では、その標識を全島くまなく立てることにしたらしい。「ここは 椎崎です」いいねえ、この標識。だいぶ汚れているけど。
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 もう“新”ともいえない住居表示への反省と揺り戻しが、この島でも起きていた。大雑把にまとめてしまう現在の住居表示と違って、佐渡市のこのきめ細かな旧字地名の標識は、島を歩いていてずいぶん助けられ、一人とぼとぼ(一人で歩くということはなんか自然にそういう感じになってしまうのが情けないけど)歩く身を勇気づけてくれた。
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 椎崎の丘の上には、温泉ホテルのほかに椎崎諏訪神社があった。由緒ある神社らしく、また佐渡らしく、社殿の前の広場には能舞台が置かれていた。
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 新潟県の有形民俗文化財に指定されているこの舞台は現役で、5月から10月の毎月一回の薪能が開催されているという。
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 能舞台の手前には、“グリーンホテルきらく”の露天風呂がある。露天風呂といっても、ちゃんと建物があり、屋根があるのだが、加茂湖を見ながら入るこじんまりした個室形式の温泉も気持ちよかった。
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 この温泉が宿の自慢らしく、“朱鷺の舞湯”という名が付けられている。鹿が入っていた、猿が浸かっていたといった温泉も各地にあるが、さすがに佐渡ではトキときた。
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 説明によると、なんでも金北山の連峰を回峰修行中の行者(木食上人?)が、この椎崎の森で傷ついたトキが湧き出る泉に浸かっていて、やがて舞い上がっていったのを見て、温泉がわかったのだという。
 これらは温泉にはくをつけるための伝説に過ぎないのだろうが、越の湖と言われた加茂湖畔の椎崎には、“夕映えの松”と称された三本松があったと、その伝説は語る。そして、その松はトキの巣造りをするところでもあったのだ。
 かつては日本の空をトキ色に染めたと言われるくらいたくさんいたトキの、絶滅寸前からの復活の努力とその物語は、現在も継続中である。その様子はトキドキ全国ニュースで報じられる。
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 夕映えの三本松が今も健在なのかどうかは、確認し忘れたが、ホテルの部屋から加茂湖の向こうの山に夕日が沈むと、空も湖面もトキ色に染まっていく。
 そして、夜になると椎崎の対岸、樹崎の空にトキ色の月が上って、加茂湖と椎崎を明るく照らしだした。
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 さて、番外から番内に戻ると次は「1103 鴻ノ瀬鼻」になるのだが、翌日は椎崎温泉前から南線の佐和田行きに乗って、まずは真野新町まで行く。佐渡島の中央平坦部を北東から南西に向けて移動し、西海岸に出るわけだ。
 そこから赤泊線に乗り換えて、今度は南東へ向いて山越えで、再び東海岸の前浜に出る。
 そして、前泊線に乗り換えて北東に向かって多田まで戻り、そこから歩いてやっと鴻ノ瀬鼻につなぐ…。
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 そういうややこしいルートになってしまった。

▼国土地理院 「地理院地図」
38.068776, 138.440344
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dendenmushi.gif信越地方(2014/05/14〜15訪問)

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番外:再び「著作権」について=ブログをやる人が考えるべき「許されるコピペ」と「許されないコピペ」 [番外]

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 仕事柄、ものを写しとるという作業はよくあったものだ。コピー機という便利なものがこの世に登場するまでは、ひたすら手書きで筆写しなければならなかった。これは、結構つらい大変な作業だった。
 コンピュータが実務に使えるようになって、まず「これは便利」と感じたのは、「コピーして貼り付ける」(Copy and Paste =コピペ)が簡単にできることだった。
 しかし、それはまた盗用・剽窃といった著作権侵害が、誰でも簡単に気軽にできる、ということを意味する。しかも、ネットの普及で対象者はそれまでのようにある程度限定的でなく、一気に一般に拡大する。
 一般の人は、まず著作権についての基本的知識も持ちようがないので、悪いことだという意識もなしにやってしまう可能性が大である。これはブログなどを運営するネット事業者の、知識普及啓発努力が欠かせないだろう。その点ではSo-net ブログは、なにもやっていない(と思う。少なくともどこにも見当たらない)。
 そこで、個人的に、番外:ブロガーとして最低限これだけは守るべき 著作権のルール「A to Z」 として、その参考になればと2013/09/16から注意喚起のページを設けていた。
 先日、So-net ブログのファイル使用領域を増やす手続きをしていたときに、その脇に著作権に関する注意のような記述が一瞬現れたので、So-netもいよいよやってくれたか、後で見ようと思った。ところが、後で見てもどこにもそれらしい入口もない。これは、いったいなんなんだ?
 それでは、So-net ブログ以外ではどうしているのだろう。たまたま見ることができたアメブロ(アメーバブログ)では、「アメーバヘルプ  トラブルを防ぐために」としてちゃんと注意があり、そこでは、「著作権の考え方」 として説明をしている。
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 So-netブログも、これくらいのことはしなければならない。
 理研の問題が起きてから、一時ネットでもコピペが問題になったが、その流れでいろいろな人がさまざまに意見を述べていた。昔から、“学者先生はハサミとノリで論文をつくる”というようなことは、一部ではよく言われてきたことだ。学術研究では先人の研究の上に立つことが前提になることもあって、「学術論文に著作権はない」という意見まであったようだ。それについては、判断するほどの知識もないが、そのために“ルールに則れば引用は可”という著作権法の精神があるのだと思う。
 でんでんむしは、サブカラムの「でんでんむしポリシー」で、“著作権に疑義がある場合にはnice!をつけないでスルーさせていただく”と明記しているものの、それが著作権違反になるかならないかを明確に判定する能力もない。別に著作権違反の取り締まりをやるわけでも、やりたいわけでもない。ネットニュースなどでは積極的に引用拡散をうながしているようなものもあるが、それらについてもよくわからない。
 あくまで「うン?」と感じるかどうか、だけの直感による。ただ、中身が引用ばかりだったり、引用の出所が明記されていないもの、ルールに則っていないもの、明らかに他人の作品をコピペしているが許可を得ていると記述がないものなど、どうもナイスとは思えないときに、スルーしているだけだ。
 この項のタイトルも、内容にどこまでが許されてどこから許されないかを書いているわけではないので、いささか羊頭狗肉のそしりを免れない。だが、それは専門家・識者のご意見を拝聴すればよい。
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 理研以降、最近出てきた著作権指針のなかでは、CNET Japanで、弁護士・日本大学藝術学部 客員教授・福井健策氏による「特集 : 18歳からの著作権入門」 が、参考になりそうなので、リンク紹介しておこう。こういう情報をおさえたうえで、著作権についての認識を明らかにしておく必要があろう。
 それにしても、So-netブログさん、早く何とかしましょうよね。
dendenmushi.gif (2014/06/04 記)

 So-netブログでは、著作権についての注意喚起が(少なくともどこにも見当たらない)と書いていたが、写真のファイル容量の増加を申請するときに、それらしい表記が一瞬出ることがわかった。次の容量増加の申請をするときに、そのボタンをクリックしてみたが、どれもちゃんとリンク表示ができなかった。
 So-netブログはたまにハードメンテはやるようだが、ソフトのメンテはまるでほったらかしである。
 でんでんむしが前々から提示している問題には知らんぷりだし、酷暑の夏も「So-netユーザID 再認証」の画面に大きく出てくる男女二人は、分厚い暖かそうな外套を着込んだままである。おまけに、この頃はランキングなどに使われている各ブログの画面も半年以上昔のままで、いっさい更新をやめてしまっている。ほんとに、なんとかしろよ! (2015/09/08 追記)

★再追記:引用のルール

引用は、引用の目的にそった正当な範囲内で行なわれることを前提に認められている。その条件は、「引用」の場合には他人の著作物などをそのまま改変を加えず、その範囲を明確(たとえば本文中の場合は「」でくくるとか、改行してどこからどこまでが引用部分かを示す)にして掲載し、その出典を明記(著者名・タイトル・出版社新聞社・発行日付)することが必要であり、また量的にも質的にも自分のオリジナル原稿が主で引用部分は従という主従関係がある場合に限られる。

昨今、問題となっている「キュレーションメディア」の騒ぎは、一般にその知識が広がるきっかけになればいいのだが…。他人の原稿をネットで集めて、それをリライトソフトでリライトして、さも自分が書いたような形で発表する場がある、またそれをビジネスとして主催しているところがあるということに驚く。(2016/12/14 再追記)

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番外:平良港=宮古島の中心地はこの付近(沖縄県)周辺の島と町と合併して新設市になる前は「平良市」だった [番外]

 宮古島は、周辺の島々とともに、市制をとっている。2005(平成17)年の、平良市と宮古郡伊良部町・上野村・城辺町・下地町の新設合併によって、人口5万の市となった。つまり、宮古島は合併前は「平良」だったのだ。このとき、通常ならば石垣市のように「宮古市」と列島の名を名乗りたかっただろうが、特定の島の名である「宮古島市」となってしまったのは、すでに宮城県宮古市が存在していたからだろう。
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 宮古島の中心地は、市役所や多良間島や伊良部島への連絡船乗り場などが集まっている平良地区であろう。ここが宮古島いちばんの繁華な市街地でもあるので、この付近には岬はない。
 市街化や港湾整備が進むと、それまであった岬も消えてしまうという傾向がある。ここがどの程度その影響を受けているのかどうかはわからないが、宮古島の西海岸の岬は大浦湾の大崎から南には、西浜崎までないのである。意外に宮古島の岬は多くないので、まったくすっ飛ばしてしまうと、それも淋しい。
 番外で項目をつなぎながら、島を西から東へ反時計回りに回りながら、宮古島の輪郭を辿ってみよう。
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 先にもふれたように、この中心市街地にバスターミナルはない。そこで泊まるホテルは港からは遠く、比較的バスには便利なはずのところにとり、最後の日だけ少しくらいはリゾート気分もあったほうがよかろうと、連絡船乗り場の桟橋を見降ろすホテルアトールエメラルド(Mapionでは“ホテルアイランドコーラル”となっている)に泊まることにした。名前はいかにもリゾートっぽいが…。
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 ここはすぐ南にマガナイビーチがあるので、いちおうは宮古島リゾートの外れにはなんとかひっかかっているが、その大勢は西の東急リゾートから始まる南海岸に集中している。
 石垣島が千葉ロッテマリーンズのキャンプ地なら、宮古島はオリックスバファローズのキャンプ地である。タクシーの運動手さんに、選手たちはどこに泊まっているのか聞いてみた。するとその答えがおもしろい。一軍は南海岸にあるリゾートホテルで、二軍はこの市街地付近のホテルなのだ。
 なるほど、実力の世界というわけですな。ロッテは一軍と二軍合同のキャンプと言っていたが、やはりグランドでは合同でも、宿舎は別々だったのだろうか。
 で、でんでんむしも岬めぐりでは、南海岸にあるリゾートにはまったく縁がなかった。それは、幸いなことにそこには岬がまったくないから、そもそも行く必要がないのである。
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 港の岸壁には海上保安庁の巡視船が停泊中で、朝早く見ていると自転車やバイクや自家用車でやって来た人か次々に乗り込んで行く。しばらくすると岸壁に整列して、体操が始まった。今日も尖閣諸島の海域に出動するのだろうか。
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 その隣の桟橋からは、伊良部島や多良間島とを結ぶ連絡船が、出たり入ったりしている。

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 このうち伊良部島航路は、いずれはなくなってしまう。岬の名はない南側の出っ張りと、伊良部島を結ぶ架橋工事が進んでいるからだ。
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 パイナガマビーチは、ホテルのすぐ南にあるがそう広くはない。市街地に近いので、リゾート気分にはいささか物足りない。
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 まだシーズンではないため、ホテルもビーチも閑散としていた。ビーチの南側には、人工の突堤や砂浜のように見える地形があって、一帯では工事も終わっていないようだ。
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 沖縄では人名と地名の一致が多いも特徴のひとつで、ここ平良(たいら)の姓名を持つ人も多い。その近くには仲宗根という字地名もある。この姓は、宮古島の英雄と言われた豪族の名で、帰りに空港まで乗ったタクシーの運転手さんの名前も同じだった。群馬の中曽根とは関係ないそうである。
 連絡船乗り場に近いターミナルでは、大きな岩を琉球石灰岩の壁が取り巻いて歩道をふさいでいる。
 何だろうと寄ってみると、15世紀頃の宮古島で主長を務めた人物の墓であり、“みゃーか”というらしい。
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 石垣島のようにそこらじゅうに御嶽があるようには見えなかったので、タクシーの運転手さんに聞いてみたら、「たくさんありますよお」という返事だった。

▼国土地理院 「地理院地図」
24.805479, 125.274625
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dendenmushi.gif沖縄地方(2014/02/19訪問)


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番外:狩俣=宮古島市北部の集落(沖縄県)大きな石門のあるそこには独特の歴史が刻まれていた [番外]

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 現在の地名表示では、一律に「平良」とされているが、宮古島の北部は「狩俣」という地域である。池間大橋が架かる前の地図で見れば、そこはちょうど、でんでんむしが二本のツノを出してそろりと首を伸ばしたようにも見えたであろう。
 それくらい、細長く北西方向に伸びた半島は、広いところでも幅1キロ程度で、北東側の海岸線に沿う50メートル足らずの小高い丘が、これまた細長く続いている。南西側はほとんど平地といっていいくらいの緩やかな斜面が海に落ちる。狩俣の集落は、そのほぼ中央、東の丘を背にするようにして固まっていて、そのほかは整然と区画された農地が広がっている。
 集落の間を通る県道を走り抜けてしまえば、比較的新しい家や建物も並ぶとくになんということもない、人影もない静かな集落である。
 いちおう池間島まで渡って、雨と風の吹き始めた池間大橋を戻って、帰りのバスを待つためにバス停のある狩俣まで、てくてく歩いてきた。その距離およそ4.5キロ。
 雨はまだら模様で、途中降ったかと思うと、集落に着いたときにはまださほど激しくはなかった。それが、だんだん激しい雨になっていき、バスに乗るだいぶ前からは、ガレージの軒先を借りて雨宿りをしなければならないほどになった。
 しかし、狩俣の集落内は、雨がひどくなる前に、ひとめぐりめぐってきた。そこで、思いがけないものに遭遇したのである。
 具体的には、集落の東南の入口付近にあった、道路にまたがる大きな石の門であり、集落の歴史を語る古い昔の井戸と遺跡と立て看板である。
 まったく、予想外のことで、これにはいささか驚いた。
 それをちゃんと咀嚼して紹介するには、あまりにも材料が不足しているうえに熟成もしていない。
 そこで、それぞれに立っていた案内の立て看板の記述を、そのまま紹介しておくことにしよう。
 その看板だが、通常はこういうものは市の教育委員会とかが立てるものが多く、それが普通でもあるのだが、ここのはそこからして異なっている。立てたのは集落の住民みずからで、黒地に白い文字の看板には、“狩俣自治会”とあった。
 まずは“自治会指定文化財”という「東の大門(あーぬ ふじゃー)」の紹介文から。

 自治会指定文化財
 東の大門(あーぬ ふじゃー)
 狩俣集落は古い時代に系統の異なる三つの小集団が渡来し定住した。時代がすすみ住居が増えると、散在していた人々は暮らしの便や安全をはかる上から集落をつくり、まわりを石垣で囲い東、西、北に石門を設け居住区域を限定し外敵に備えた。こうして島内では他に例のない「城郭集落」が形成されたのである。
 人口が増加すると居住区は前方に広げられ、門の場所も約五十メートル先(現位置)に移された。(写真)。この石門は「あーぬとぅーりゃ(東の通門)」とも呼ばれ、集落の表門にあたる主要な出入口で、昔から村の伝統的な祭事と深くかかわってきた。戦後集落内の交通事情により撤去され、その後コンクリート製になったが老朽化したため、今回建てなおすに当たり、元の形に戻すべく旧来の工法で地元の石材を用い一回り大きめに復元した。
 伝承によれば「城郭集落」を構築した中心人物は、十四世紀ごろ中国からやってきて狩俣で一生を終えた「くばらぱあず」という人物で、神通力をもつ占いの名人、預言者であったという。中国の陰陽道に通じ、風水や易学の知識を有し、石工・木工の技にも長けていたようである。「くばらぱあず」は狩俣では「すまぬぬす(島の主、村の守護神)」として崇敬されている。石の大門は狩俣集落の発生と変遷を知る上で貴重な存在である。歴史民俗文化財として後世に遺したいとの思いからこの度建立した。
  2010年4月       狩俣自治会
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  この、1923年、鎌倉芳太郎氏撮影の写真に、写っている人の姿…。
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 歴史民俗文化財
 ナーンミ・ムトゥ(仲嶺元)

 ナーンミとはこの付近の里の地名である。狩俣には昔から大小五つの祭祀集団があって、それぞれの先祖神を祀る祭事行事が古式にのっとって行なわれてきたが、伝統的なこれらの祭事・神事は社会の変化にともなってほとんど途絶えてしまった。ここナーンミ元は村落の神事ではウプフム元、ナーマ元、シダディ元に次いで四番目に格付けされる。祭神はミズヌヌス(水の主・水の神)で水に関する祭神はこのナーンミ元を中心に行なわれた。伝承によれば、この元の祭神はシダディ元の農耕神・鍛治神と同じ系統の渡来人といわれている。大神島を経由して今の狩俣集落南西海岸のターヌビータ(田の浜)から上陸した渡来人の一行は、 アーヌカー (東の井戸、ズーガーともいう。東の石門に近い自治会指定文化財)の水源を発見し定住を決める。この水源を守るためにおかれたのがナーンミ元の水の主であると伝えられている。水資源の乏しい狩俣には、生活用水の確保に苦労した人びとの長い歴史がある。天を仰ぎ、ひたすら降雨を祈り、雨乞いのクイチャーを踊った人びとの姿は、戦後上水道が普及するまでよく見られたものである。狩俣の「暮らしと水」の歴史を考える上で この地は大切にしたい。
 なお、拝所周辺にはテリハボク、フクギなどの古木が多く見られる。村の保存木としてこれも大切に見守りたい。
 2012  (平成24)年 10月   狩俣自治会
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 民俗文化財
 アーヌカー (東の井戸)・ズーガー

 水資源に乏しい宮古島、なかでも狩俣地区は三方を海に囲まれた岬状の地理的環境にあって水事情は厳しく、古くから人々は水の確保に苦労した。
 伝承によれば狩俣地区の発生は渡来人による泉の発見(ウプグフムトゥの始祖神)によって始まるが、ここの水源も大神島を経由して狩俣に渡来した人々によって発見された。この水源を見つけて村立てを決めた渡来に一部は現在のナーンミムトゥの地に住み、ミズヌヌス(水の主・水の神)として水源を守り、他は背後丘陵下方のシダディムトゥの地に定住し、ユーヌヌス(豊穣神・農業神)となった。
 狩俣地区の地形は小規模の起伏が多く、v字形の地形では表面水流と地下水が合わさって泉ができる。初めは足場の悪い自然の傾斜を水口まで降りて汲み上げたが、やがて石段を設け取水の便をはかる。この井戸は1920年ごろまで20段の石段のあるウリガー(降り井)であった。その後、水口の底部から円形状に石を積み上げ、周りを埋めて現在の形になった。このような井戸の構築法は狩俣地域で他にも多くみられる。家庭の生活用水の確保はもっぱら婦女子の務めで、渇水期には未明から順番待ちで汲まなければならなかった。集落に上水道が引かれたのは1965年。それまでこの井戸は村に生命の水を恵みつづけ、時にもはンマリミズ(生まれ水・産湯)、また末期のスニミズ(死に水)として用いられるなど暮らしと深くかかわってきた。アーヌカー(東の井戸)ともズーガー(地の井戸)とも呼ばれているこの井戸は狩俣の歴史民俗を知るうえで貴重な遺跡である。
 2012/3  狩俣自治会
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 県道からも見えるところにある、「水」の碑。これは、近年地下ダムなどの事業計画の完成記念碑だが、ここでもこの地域の水の歴史に触れている。しかし、なかなか迫力あるなあ。
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▼国土地理院 「地理院地図」
24.913713, 125.268059
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dendenmushi.gif沖縄地方(2014 /02/19訪問)

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番外:与那国島=最西端にあった日本の“水源(源流)”(沖縄県)最西端国境の島で落穂ひろいをしてみると… [番外]

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 八重山でも西のはずれで、日本の最西端となれば、またくる機会はおそらくもうなかろう。四つの岬も項目にアップできたし、与那国馬についても書いたが、まだなにか足りないような気がするので、おれやこれやの落穂ひろい。
 地元の方言では「どぅなんちま」という与那国島(よなぐにじま)は、面積 28.91平方キロメートルで、これはだいたい新宿区と文京区を合わせたくらいの広さ。海岸線の長さは 27.5キロメートル。世帯数 791世帯、総人口 1551人のこの島は、主に漁業とサトウキビと畜産、それに観光で成り立っている。
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 今回泊まった与那国アイランドホテルは、比較的新しく、最西端にしてはシティホテル並みの設備が整っていた。その位置をみたとき、そこは昔にきたときに泊まった宿と同じ場所にあるように思えたが、最先端交通のタクシードライバーの話では、それは違うだろうと言う。なるほど、昔の宿はもう廃業していて建物だけが虚しく残っている。
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 そう、その名も“ホワイトハウス”では、角の丸いテレビをつけると台湾の放送が入ってきたのが印象深かった。
 アイランドホテルは、空港と祖納の間、比川へ行く道との分かれ道の角にできた。なんでも、当初はリゾート&ヘルスを意識したらしいが、やはりそれではうまくないらしく、ホテルに特化したようだ。
 なにしろ、一か月滞在した石垣のホテルのいかにも間に合わせのマンスリー部屋からみると大違いで、本土のリゾートホテルと比べても遜色がないが、食事は朝だけしかないので、泊客は夜は祖納に数軒ある飲食店に行くことになる。
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 与那国島でも石垣島にならってか、ダイビング客をも呼び込みたいふうだが、観光の目玉にするには立地がいまいちというところだろう。町の下水マンホールの絵柄は、カジキと与那国馬と西崎灯台、それにヨナグニサンである。ヨナグニサンは、イリオモテヤマネコと同じく島の名を冠している蛾の仲間だが、ヨナグニと名がついていてもこの島の固有種というわけではない。
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 崖ばかりで砂浜が少ない与那国では、観光客が行けそうな浜は祖納のナンタ浜と久部良湾と、あとは比川の浜くらいしかなさそうだ。ナンタ浜はなんでも歌にも歌われたきれいな浜だったらしいが、祖納の港湾施設が大きく伸びていて、浜の景色の魅力はずいぶん低下してしまったように見える。
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 それでも、ここでも海の碧さは透き通っている。久部良の浜では与那国馬と遊ぶというプランもあるらしい。比川は少し海が遠い感じもする。
 この島の観光は、これという決め手に欠けるうらみはあるが、レンタカーも大袈裟すぎるここでは、電動自転車で島じゅう回るというのも、ひとつのアイデアではないか。
 案外起伏が多くて、Dr.コトーも大変だったと思われるが、電動なら東西南北隅々まで走ることができる。車の交通量も少なく、その割に立派な道路があるので、案外いいかもしれない。
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 与那国島は、国境の島でもある。今回、島を回っていて目についたのは自衛隊の通信基地に揺れる島の様子だった。「反対」と「歓迎」の幟や横断幕がところどころにあった。その自衛隊が配備されるというのは、南牧場の付近らしいが、用地の問題でまだもめているようだ。
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 石垣で聴きに行った陸上自衛隊の中央音楽隊の演奏会の、与那国公演のポスターもあった。
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 与那国町長は、自衛隊誘致で島の活性化につなげたいと積極的である。例の八重山教科書問題でも与那国町は、自民党が推す市長とその意を受けた教育長がいる石垣市と歩調を合わせていて、竹富町だけが孤立したような結果になっている。
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 祖納の上にのしかかるかのようなテインダバナは、隆起サンゴ礁だと馬鼻崎の項では書いていた。そういう情報が多いなかで「島の地質は、隆起珊瑚礁ではなく主に第三紀堆積岩からなる」とする情報もある。素人は、いったいどっちなのとまたしても困ってしまう。
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 与那国島には女護が島的な逸話や伝説もあるようだが、それはこの島の歴史のなかで、実際に琉球王朝の支配が及ぶまでは、サンアイ・イソバという女首長がいたとされているからだろう。
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 1879(明治12)年の琉球処分によって、正式に日本の一部となるが、与那国島が脚光を浴び賑やかだった一時期もあった。1895(明治28)年から1945(昭和20)年まで半世紀にわたって続いた台湾の日本統治時代には、与那国の人口は2万人におよんだという。一見、不思議にも思える現象だが、航空機が一般に使えるようになるずっと前だから、本土と台湾の往来の拠点ともなっただろうし、ヤミの物資の取引などもあったのだろう。
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 もうひとつ、Wikipedia から与那国雑学ネタを仕入れたが、これには意表を突かれてへーと思った。それは、与那国島が“日本列島沿岸部の水源”だというのである。どういうことかというと、日本中の港などにある船舶用の浮標は“水源に向かって左側は緑色”、“水源に向かって右側は赤色”と決められている。その「日本列島の水源」が、与那国島なのだ。
 なるほどねぇ。日本列島を南から洗う海流の流れを意識してみれば、おおいになるほどと思える。
 与那国島こそは、日本の“最果て”というより、“源流”を探して辿れば最南西端のここに行きつくことになっていたのだ。

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dendenmushi.gif沖縄地方(2014/03/30)

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