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□29:ふるさとは遠きにありて思ふものそして…=広島市・安芸郡府中町(広島県) [ある編集者の記憶遺産]

 考えてみれば、飛行機よりもその歴史は浅い。ラジオ放送が始まって100周年には、まだ数年ある。確か1925(大正14)年、そんなもんなのである。
 記憶にあるラヂオ(あるいはラヂヲか)は茶色い木目の四角い箱だった。二つか三つのつまみダイアルと、くりぬきの穴にはざらっとした布が張ってあり、その奥にはスピーカー、周波数のパネルもあったような気もするが、あまりよく覚えていない。局は一つ(第二放送あったかな)なのだから、どのみちこれを見る必要はなかった。「National国民受信機」と書かれた小さなラベルのある裏板を開けると、真空管が二三本心細く光りながら、小さく唸っている。
 残念なことには、このラヂオで8月15日の放送を聞いた記憶がないのだが、「街頭録音」「のど自慢」「君の名は」「話の泉」「二十の扉」などといった大人の放送もよく聞いていた。なかでもいちばん気に入っていたのが三木鶏郎の「日曜娯楽版」だった。これは遠慮会釈のない政治批判・社会風刺のコントショーだったのだが、時の政府に睨まれてその圧力で潰されたという、いわく付きの番組として放送史に残ることになる。そんなことは知らず、毎週日曜日を楽しみにしていたが、反骨皮肉へそ曲がりの精神は、実はこのときにその大本があったのかもしれない。
 また、「浪花演芸会」の落語に漫才、そして祖父の聴く浪曲や講談にも耳を傾けていた。
 そして、もちろん夕方の子供番組には、外で何があってもその時間に間に合わせて放送を聞きに急いで帰ってくる。それが、当時のこどもにとっては欠かせない、大切な暮らしの時間なのであった。「鐘の鳴る丘」そして「笛吹童子」に始まる一連の「新諸国物語」や、「おらあ三太だ」「一丁目一番地」などのいわゆる「連続放送劇」は、刺激の少ない地方の町外れの子供にとっては、唯一の娯楽であり知識であり、想像を広げられる夢の世界でもあった。
 しばらくして、民間放送が始まり広島でもラジオ中国で広島カープの試合を放送するようになると、ラジオにかじりついてスコアブックをつけたりもした。
 「ラジオ歌謡」は聴いても、この当時第二放送でやっていたらしいクラシックの番組やみんながよくいうFENを聴くような環境ではなかったのが、今頃なぜか悔しい惜しいような気がする。鉱石ラジオのキットを、少年雑誌の広告の通販で買って組み立てて、水道管をアースにしてかすかに聞こえたときの喜びも、そこからさらにラジオ少年に進化させるまでではなかったのも、なぜか今頃になって残念な気もする。
 それは、ラヂオの放送が始まってから、間に戦争と敗戦を挟んで、たった二十数年のことだったのだ。
         ◇         ◇
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 オレンジと緑のツートンカラーの“湘南電車”が、発祥の地である東京駅から姿を消してもう十数年になる。それは、1950年に初めて登場した車体塗装の先駆けだったのだ。それまで汽車や電車の色といえば、濃い茶色のようなブドウ色のような地味な色と決まっていた。
 そこに登場したのが、目にも鮮やかな配色の湘南電車で、国民の戦後復興に向けた期待にもつながったという意味で、このカラーはただ単なる「電車の色」ではなかった。
 中長距離初の電車として、東京=沼津間で運行を始めた80系で採用されたこの色は、「警戒色のオレンジとその補色の緑」だったというが、そもそも郊外電車というものがなかった(市電の延長で走る宮島線はこれに該当しない)当時の広島の中学生でさえ「ミカンと葉っぱの色」だと思って、その沿線の風景を想像していた。
 見たこともなく、もちろん乗ることもかなわない湘南電車は憧れの対象だった。四角い箱ではなく、流線形とまではまだいっていないが車両先頭の運転台にちょっと斜めに角度がついたスタイルと、オレンジ色と緑色とに塗り分けられた車体は、大きな夢につながっていた。
 模型店のウインドウの中に、そのキットを見つけて、どうしてもそれを作ってみたくなった。プラモデルなどというものは、まだなかった時代、模型といえば木製の部品を削り加工して、組み立てて塗装するソリッドモデル(結果的に電車の場合は中空になるのでサーフェスモデル(中空図形)なのだけれども)だった。その吹き付け塗装だけを、店に頼んでいた。
 塗装ができて引き取りに行った日は、春も浅い冷たいかなりの雨が降っていた。風呂敷に大事にくるんで片手に抱え、片手に傘をさして銀山町(かなやまちょう=この字でこう読む地名は全国でここだけだ。まあ、いってみれば広島の兜町)の並びにある勧業銀行広島支店の石壁に沿って歩いているとき、大きな水たまりを跳んだつもりだったがよけ切れず、「しもうた!」と思ったたときにはもう遅い。水の下に隠れていたふたのない深い雨水升に、どっぷりはまってしまっていた。やれやれ、困った。下半身ずぶぬれで…。
 そのとき、通りかかった背広姿のおじさんがすぐ手を貸してくれて、建物の地下に連れていってくれた。そこは、銀行の食堂らしかった。昼下がり昼食時間はとうに過ぎていた。おじさんは、そこにいたおばさんに一言二言いうとすぐに消えた。おばさんたちは、とんだ災難だったと気の毒がって、ストーブにあたれ、ズボンを脱いで絞って乾かせと、しきりに世話をやいてくれた。風呂敷も広げてみたが、模型は壊れていないし、木製だからぬれたくらいはどうでもなかった。
 そして、うどんをつくって、体が温まるからとすすめてくれた。ありがたくいただいた、そのうどんのおいしかったこと…。
 世慣れない中学生は、そのときのおじさんやおばさんに、ちゃんとお礼をいえたのかどうか、思い出すとときどき気になる。その後社会人になってから、勧銀には口座を開いた。預金残高はわずかだが、いまもその銀行の口座は持っていたりする。銀行の名前は、何度も変わった。
 湘南電車のソリッドモデルの塗装に、なぜ自分で刷毛で塗らずに、わざわざ店に頼んでまで吹き付け塗装をしようとしたのだろうか。より本物らしくしたいためだったのだろうが、いま思えばそれも不思議なのだ。そのときは、なぜかどうしても、そのオレンジと緑の色は、そうでなければならぬような気がしていたのだ。
 それは、意識しないまま、湘南電車への憧れが、東京への都会への憧れにつながっていたのだろうか。 
         ◇         ◇
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 幼年期に刷り込まれたことは、一生残るものがある。茶色写真のなかの一枚には、タスキをかけマイクを握って選挙演説しているおじさんがいた。「広島に復興の希望の灯をともすプロ野球チームをつくりましょう」と。その人が立つ大型トラックの荷台の横には、「谷川昇」と書いた幕が下げてあった。その人の尽力は大きかったと聞いているが、一人の力ではもちろんない。二リーグ分裂にともなうチャンスに、広島の大勢の人の努力によって、広島カープは生まれることができた。当然ながら、大人もこどももみんな例外なくカープファンになった。
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 小学校の時には担任の先生が、軟投技巧派のエースの名前と同じで、教室で騒ぐこどもにチョークを投げて「ピッチャー長谷川!」とふざけたり、中学校では資金集めのために、選手の写真とサイン入りのビニール風呂敷が売られたりした。
 球団創設直後から始まり、その後も絶えることなく続く長い苦難の道を、ファンもあるときは貧者の一灯のタル募金で支え、万年最下位争いをしていて、一番高い目標が「勝率五割」だった田舎の弱小球団を、どこにも負けない誇りと情熱をもって応援し続けてきた。
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 それは、市民の熱狂的な応援の工夫にも表れ、昔から内外野のスタンドのさまざまな名物を、他に先駆けて編み出してきたのである。ラッパのおじさんは軍隊ラッパを鳴らしていたが、今はトランペットのコンバットマーチになった。相手がアウトになるたびに鐘を鳴らして囃すのも、今ではどこの応援団もやっているが、カープ応援団の創作だった。
 ラッキーセブンに風船を飛ばすのも、カープファンが始めたのだが、これについてはでんでんむしも少しだけからんでいる(つもり)。始めの頃、風船は青や黄色や赤などさまざまな色が入り混じっていた。これはやはりカープの応援用を強調するためには、色を赤に統一したセットで風船を売るようにすべきではないか、その気になれば簡単にできることだ…と、いつもラジオの実況中継を聞いていたRCCの「インターネットスタジアム」に書き込みをした。その翌年から、カープの風船は赤に統一された。
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 いまさらなのだが、野球というゲームは、実によくできていて、誠におもしろい。ストライクを投げれば狙い打ちもされやすいし、ボールを投げれば打たれにくいが、スリー・ストライクでバッター・アウトになり、フォア・ボールでランナー一塁になる。スリー・アウトで攻守をチェンジし、表と裏で一回になり、それを九回まで繰り返す。ホームランで一点になり、いい当たりでもアウトになり、いい当たりでなくてもヒットになる。コントロールミスだろうがわざとだろうが投手が打者に当てればペナルティが科せられる、打者が塁に出てランナーとなって後続打者のヒットで進塁し、ベースをぐるりと一回りしてくれば得点となる…。
 こういった野球の基本ルールそのものも、なにやら人生というゲームの一端を暗示しているような部分もあり、これにさらに個々のプレーヤーの磨かれた技術や判断、それに監督の采配や作戦が加わって、よりゲームとしての複雑性を増していく。「筋書きのないドラマ」という陳腐な形容にも、異論をはさむ余地がない。ゲームだから、勝ったり負けたりするのも当たり前、単にシロかクロかではなく、要は最終の率の争いである。そしてなによりも、とにかくなかなか思うようにはならない…。
 新しい球場が広島駅にも府中にも近いところにでき、原爆ドームの向かいにあった市民球場はもう取り壊されてしまった。大事なことは、みんな野球に教わった。よくある慣用句でまとめれば、そういうことだった。
 いまは、広島東洋カープは、根無し草のように風に吹かれているでんでんむしと、ふるさとをつなぐ、唯一の紐帯なのだといってもよい。
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         ◇         ◇
 でんでんむしのふるさと、青崎の、小中学校時代の記憶を掘り起こそうとすれば、あれこれきりがない。
 若さ故の過ちも数限りなく、少年時代のはじめから胸にトゲさすことばかりで、苦い思い出もたくさんある。 
 中学の教科書にもあったのか、室生犀星のあの有名な詩の一節がどうしても浮かんできてしまう。ふるさとからも肉親からも見捨てられた金沢生まれの詩人は、それでもその名前にふるさとの川の名から一字をとっている。そのふるさとに抱いた感情とはまるで別物で、とても「異土のカタイとなるとても」といった固い覚悟もない。だが、その冒頭のフレーズは妙にしっくりとなじんで居座ってしまう。
 
   ふるさとは遠きにありて思ふもの
   そして悲しくうたふもの
   よしや
   うらぶれて異土の乞食となるとても
   帰るところにあるまじや

▼Google Map
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dendenmushi.gif(2013/02/11 記)

「ある編集者の記憶遺産」は、これでいちおう終わりです。この続きは、「思い出の索引」年表に引き継がれています。

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タグ:広島県

□28:やはり東洋工業とバタンコのことは欠かせない記憶…=安芸郡府中町新地(広島県) [ある編集者の記憶遺産]

 東洋工業は、松田重次郎が創業し、松田恒次が伸ばし、松田耕平がみとった。戦前から、コルクやさく岩機などの製造をやっていたが、発展の基礎を築いたのは、なんといってもバタンコの製造で、これが後に自動車メーカーへと成長していく源となった。“バタンコ”というのは、やはり説明も必要だろうか。三輪トラックのことである。前輪が一つで、これにスクーターのハンドルのような大きいのが直結して、方向を決める。同時にこれが駆動部分で、運転者はエンジンの後ろにまたがるようにして乗る。その横には小さな助手席がついている。後輪の上には四角い荷台がついていて、主に荷物を運ぶためのトラックである。オートバイのように、足でスターターを強く蹴ると、バタバタとエンジンが起動する。
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 東洋工業では、これを戦前からつくっていた。広島市の東の端にあったため、原爆による直接被災をかろうじてまぬかれた工場で、終戦の翌年からはその生産を再開し、それから10年後には累計で20万台を数えた。バタンコは、各地で「バタバタ」とか「オート三輪」とか呼ばれ、戦後復興に大いに貢献した運送手段だった。ダイハツやくろがねもあり、ほかにもみずしま?といったメーカーもあり、東洋工業(ブランド名=マツダ)の独占とはいえなかったが、とにかく一世を風靡した車だったのである。
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 青崎中学校に通っていた頃、印象に残るできごとがあった。いわゆる企業城下町という意味では、何ほどのこともなかったが、その中学校には、お膝元だけあって、東洋工業で働く社員工員の子弟も多く、当時は彼らは地域のエリートのこどもだった。地元の有名大企業という意識はそれなりにあり、工場見学にも行ってバタンコの製造ラインを見たことがある。
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 どういういきさつがあってかは知らないが、東洋工業が一台の中古バタンコを、中学校に寄贈してくれたのである。さっそく「自動車部」なる部活もでき、湿地を生徒みんなで土を運んで埋め立ててつくった校庭を、バタバタと走っていた。中学生で免許もないのに…? こども心にも、「ほーかぁ。ええ会社いうなーそういうこともするんじゃのう」と思った記憶がある。
 当初は吹きさらしだった運転台にも、屋根がつきドアがつき、前輪丸出しでカクカクとしたデザインも丸みを帯びたスタイリッシュなものに変わっていった。
 それらの製造工程の一部は、周辺にできていた下請けの工場でもつくられていて、でんでんむしの“わが谷は緑なりき”の下流の線路近くにも、そうした工場が拡がっていた。工場から油膜の虹色を反射する排水が、小さな川にも流れ出し、イトウナギもいなくなってしまう。
 東洋工業が三年連続でトヨタ・日産を抑えて、自動車生産台数でトップを守ったこともあるが、巨大化した恐竜が絶滅するように、大型化したバタンコの最期はあっさりとやってきた。が、それを契機にした東洋工業は“R360クーペ”で小さな四輪メーカーに転身を図る。
 ほんとうに今から見れば、小さくてまるっきり遊園地の乗り物のような車であったが、偉大な四輪自動車なのである。1960年に発売されたこのクーペこそが、日本人が初めて“自分で買える”と思った車だといえる。一般に、その数年前に出ていたスバルがそうだといわれるが、30万円という価格の点で、これこそが日本の庶民でも車が買えるという夢を広く実現させ、モータリゼーションの黎明を引き寄せ牽引したことは確かだ。
 R360クーペが出て、広島の町でもたくさん走るようになった頃には、もう広島のイーストエンドを離れていた。地元だったという以外に、何の接点もなかったが、その後の画期的なロータリーエンジンの不運や、企業買収などさまざまな荒波に揉まれ変貌していった東洋工業には思い入れがあり、つい身びいきになる。
 やっぱり車を買うならマツダだな、といっても、免許をもたないので車もいらないし買わない。
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 東洋工業は社名もブランド名のマツダに変わり、経営も松田家の手から離れた。その間、工場は黄金山の南の海へ拡大し、大きな自動車輸送船が宇品工場に接岸するようになり、猿猴川には4本もの橋ができ、高いバイパスが広島湾の東端をよぎるようになった。苦労しつつも、いちおう世界にも進出する四輪メーカーとしての歩みを続けている。
 いまの地図でみると、マツダの本社があるところは、安芸郡府中町新地となっている。鹿籠(こごもり)や桃山には覚えもある。だが、新地とはこれまで聞いたこともない地名だ。全部が東洋の敷地だったから、一般に周知していなかっただけなのだろうか。

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dendenmushi.gif(2013/02/10 記)

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タグ:広島県

□27:こどもの頃ほしかったものは写真機と万年筆で… =広島市(広島県) [ある編集者の記憶遺産]

 こどもの頃ほしかったものは、写真機と万年筆であった。今では物欲はないほうだと自信を持っていえるが、こどもはそうではない。あらゆるものに飢えていて、ほしいものはたくさんあったような気がするが、たいていそれが満たされることはなかった。なかでも、この二つは、のどから手が出るほどだったが、やはり手にすることは叶わなかった。
 写真機は、長い間憧れではあった。手が届かないカメラとも写真とも違うが、日光写真というのも流行った。雑誌の付録にカメラと溶かして使う現像・定着液がついたということもあったが、そんなもので写真がうまく撮れるわけもなかった。いちばん確かに成功したのは、ピンホール・カメラだったが、これもホントのカメラとは違う。
 中学生の終わり頃だったか、当時いちばん安いスタートカメラというおもちゃのような、固定焦点のボックスカメラが初めて手にしたカメラだった。結局、一時ブームになった二眼レフカメラは、どうもこれは格好があまり美しくないので敬遠し、本格的なカメラはだいぶ後に給料をちゃんともらえるようになってからだった。DPEも自分ではやらなかったし、その後もちょっとだけ芸術的写真に志向したことはあったが、それ以上写真に大きく引き込まれることはなかった。
 小学生の頃は、敗戦直後とあってろくな筆記用具はなく、鉛筆は削りにくく芯はガリガリして折れやすかった。当時の鉛筆はトンボでも三菱でもなく、いいほうで丸いマークの「地球鉛筆」か三角のマークの「コーリン鉛筆」だった。
 万年筆を買えたのは、中学生になってからだった。
 その前に、小学校4〜5年生の頃だったか、NHKラジオのクイズにハガキを出して、その賞品に金色に輝く細身のシャープ・ペンシルが送られてきたときには、ものすごくうれしかった。
 ずっと後になって知ったことだが、この胴を回せば鉛筆の芯だけがするすると出てくる画期的な筆記用具は、早川電機工業の創業社長早川徳次が発明したのだった。その縁を大事に感じて、自分で初めてレコードプレイヤーを買うときは、シャープのを買っていた。
 かつては“目のつけどころがシャープでしょ”で、飛ぶ鳥も落とす勢いだった電機会社は、その名を社名にしてきた。が、どこで目のつけどころを間違えたのか、まさかこんなことになるとは、早川徳次さんも想像できなかっただろう。
 中学生になって買った万年筆というのは、修学旅行で京都の旅館に泊まったときだった。あれは西陣辺りの旅館だったような気がするが、夕食が終わった頃を見計らって、そういうこども相手に商売にやって来るおじさんがいた。荷台にたくさんの引き出しケースを積んだ自転車を旅館の前の道路に止めて、ケースを引くとそこにはさまざまな色のピカピカの万年筆が、ズラリと何段も並んでいた。
 値段がいくらだったかは覚えていないが、中学生が修学旅行にもってくるお小遣いで充分買える金額だったのだろう。うれしくなって緑色のを喜んで買ってしまった。たまにもれてくるインキを拭き取りながら使っていた。
 現在では、手書きはもっぱら150円のボールペンであるが、そもそも自筆で文字を書くということが、極端に少なくなってしまった。その理由ははっきりしている。そもそも下手な字を書かなくてもいい、それが動機と狙いの一つでもあったのだが、コンピュータを使うようになったからだ。
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 もちろん、万年筆ももっている。その一本は、商売柄ちゃんとしたものも持っていないと具合悪かろうと、今から40年も前に初めてヨーロッパに行ったときに自分へのお土産に奮発した黒い「モンブラン」。もう一本の茶色いのは、20年くらい前にそれまで勤めた会社を辞めるとき、同じ職場の若い人たちから餞別にともらった大事な記念の品で、知る人ぞ知るという名品、イニシアル入りの鳥取の「万年筆博士」のものである。
 インキにカッコつけるやつはペリカンがいいとか、アテナでないととかいっていたが、でんでんむしはもっぱらパイロットインキだった。このインキ。月島にいたとき、朝潮橋のナナ文具の棚の奥に一つだけ残っていたのを見つけて、当時の値段シールのままの60円で買ってきたものだ。
 相変わらず、字はうまくなっていない。第一、日常まるで書いていないのだし、“にっペンのミコちゃん”(これもこの頃きかない)をやったわけでもないので、うまくなっているわけがないが、今更カッコつけてみてもしかたがない。字が下手でも、なんの臆することもない。
 そういえば、中学のときには、漢字の書き取りテストで居残りをさせられて、先生からおこごとをもらったことがある。この頃からもう既に充分にへそは曲がっていたので、漢字の効率的でないことに問題を感じていた。だから、これを覚えなければならないということ、それをテストすることに割り切れないものを感じていたのだ。
 外国の映画では、タイプライタをぱちぱちやって手紙も原稿も書いているのに、書き取りでは対抗できんではないか。漢字も記号なら(ほんとはそれだけではないけれど)、そのうち機械でできるようにならなければ…。そうなれば、字が下手なのも問題でなくなる…。きっと…。
 そんな思いをずっと引きずっていたのが、後年まだわけのわからないうちから、日本語も漢字も使えないマイコンの黎明にいち早く飛びついて、それに乗っかってずっと今日まで至る伏線になっているので、中学生といえどもバカにしたもんでない。

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dendenmushi.gif(2013/02/09 記)

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□26:学校から団体で映画鑑賞に行ったそういう時代の記憶に残るものは…=広島市(広島県) [ある編集者の記憶遺産]

 映画への憧れのようなものは一般に広くあったが、まだまだそれは身近な娯楽とは言いがたかった。それを埋めるように、幻灯機というものや16ミリフィルムというものもあるにはあった。だが、それも持っている家は極めて限られた。それでも誰かがどこかで借りてきて、近所のこどもを集めては映写会のようなものが開かれたりした。
 また、戦後何本かつくられた広島の原爆をテーマにした映画のロケが広島で行なわれたことがあった。そんなときには、エキストラに動員されたこともある。映画『ひろしま』のときだったか、東洋工業の構内を使ったロケがあり、近くの学校ということで大量動員がかかった。しかし、できあがった映画には誰ひとり写っていなかったりして、みんなで大笑いした。
 映画のいちばん古い記憶は、原爆が落ちる前に市内の映画館で見たぼんやりしたもので、がくがくちまちまと動く画面には、ドタバタの喜劇のようなものが映っていた。チャップリンやキートンのフィルムだったのだろうか。その次は、向洋駅前近くにあった向洋銀映で見たのだろうと思うが、内容はよく覚えていない。同時上映の添え物ではミッキーマウスのようなマンガ映画があったように記憶している。
 戦後しばらくの間は、各地で夏の野外に幕を張っての映画会の催しがよくあった。これは無料で、青崎小学校の校庭でも、青崎東の鉄道アパートの広場でもあった。そこでは、三益愛子の母物だとかまだ小さな美空ひばりなどが映っていたのを覚えている。テレビが出る前だから、なにかそういう娯楽をみんな求めていたのだろう。
 学校の講堂で幕を引いての映写会もたまにあったが、小学校の高学年くらいからは学校から団体で映画鑑賞に行くこともあった。中学になっても視聴覚教育の設備はまだ整っていなかったので、市内の映画館の一回目の上映前に特別に封切り映画を上映してもらう映画鑑賞は年に何度かはあった。確か、20円くらい払っていたのではないだろうか。
 そんな小学校から中学校時代に映画鑑賞で見た映画は、もちろん教育的配慮から作品は選ばれていてディズニー映画も多くあったが、そのなかには歴史的にみても記念すべきものもあった。
 最初に見た長編マンガ映画(アニメという言葉はまだなかった)は、1947年に発表のイワン・イワノフ・ワノ監督の『せむしの仔馬』で、実写とはまったく違う幻想的なシーンのはしばしを、いまでも思い出すことができる。
 ではアニメはソビエトのほうが先行していたかというと、そんなことはない。日本での公開は1950年と『せむしの仔馬』より後になったが、ディズニーの長編映画第1作目であった『白雪姫』の衝撃も大きかった。これは歌の楽しさ、アニメの動きの楽しさを、おおいに発揮していて印象的だった。なによりも驚くのは、これが戦前にはもうできていて、世界では初のカラー長編アニメとして、1937年には公開されていたということだ。ただ日本とドイツ(確かそうだったはず)だけは、戦後だいぶ経ってからの公開となった。
 これにもいろんな説があったが、これから戦争をしようとする相手国がこんな映画をつくる力をもつ国だとわかれば、厭戦気分を煽りかねないから、当時の軍部が輸入上映を禁じたのだという。あるいは、ナチスも同じように考えたものだろうか。後年、確かにそのとおりの感想をもったので、それにも説得力がある。
 それから少し間をおいて、1958年公開の『白蛇伝』は、大川博制作の東映作品、日本で最初のカラー長編漫画映画であった。アニメ技術はディズニーにはまだ差があったが、東映アニメはその後の日本アニメを牽引し発展に貢献する。でんでんむし的には、この映画こそが日本人が初めてパンダという動物の存在を意識した最初ではなかったかと、そういう意味でも記念碑的な作品だったと思っている。
 アニメ以外にもいろいろな映画を、この早朝映画鑑賞会で見たが、そのなかでどういうわけで選ばれたか、とくに記憶に残っている作品に『黒い絨毯』というのがあった。主演がチャールトン・ヘストンとエリノア・パーカーという1954年のハリウッド映画だが、軍隊蟻という初めて見るアマゾンの自然とアメリカの美人女優が、強く中学生に印象づけられたのだろう。
 後で映画サークルの仕事をするようになって、いろいろ勉強して知ったのだが、この映画の制作者は、実はSFマニアの間では少々有名な人で、『地球最後の日』『宇宙戦争』『タイム・マシン』『謎の大陸アトランティス』といったでんでんむし好みの路線で、特撮の技を発揮したアニメ(パペトゥーン)作家でもあったジョージ・パルだった。
 当時は、日本で公開されても、広島まで来るのは少し遅れた。ジェームズ・ディーンの『エデンの東』は話題作で、これはもう団体鑑賞ではなく、一人で観に行った。それがまだ中学生のときか高校生になってか、よくわからない。それが上映された八丁堀の「文映」という映画館は、立錐の余地もないほどの超満員で、とても座るどころではない。座席の後ろに立って、人と人の頭の間から見るようで、途中で気分が悪くなって出てしまった。
 それからだいたい5〜8年後くらいに、洋画邦画ともに観客動員も作品の質も、日本では映画の黄金時代といってもいい時代を迎える。その後に迫りくるテレビ時代の足音も聞きつつ…。
 その頃、広島の繁華街のあちこちにたくさんあった映画館を、いまの地図で探そうとしてみても、ひとつも見つけることはできない…。と思ったら、ひとつだけ「東劇ビル」というのが昔と同じ場所にあった。映画館もあるのだろうか。


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dendenmushi.gif(2013/02/09 記)

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□25:記憶に生き続ける先生のことと『菊と刀』のこと…=広島市南区堀越町(広島県) [ある編集者の記憶遺産]

 いまになって自分の努力不足を棚に上げて、みぐるしい言い訳と自己弁護をするなら、中学校では国語や社会の先生には恵まれたのに、なぜ英語や数学の先生には恵まれなかったのだろうと…。中学のある時期、尊敬できない先生のおかげで、英語を自分で見切ってしまった。それでも当時、一人で悩みつつあれこれ考えたのだが、自分で勝手な性急に過ぎる結論をだしてしまった。 
 なんでも先生のセイにするのは、間違っている。だが、それがいちばん納得しやすい理由になることも事実である。近頃では、いじめに自殺に体罰に、学校で起こるいろいろな事件まであって、先生もなかなか大変だ。
 あえて極端で勝手な言い方をさせてもらうが、ニュースで知る校長先生・教頭先生や教育委員長といった人たちは、いかにも当事者能力も世間知もなさそうに思えて、いらいらしてしまう。あの学校の先生たちは、いったいどんな先生だったのだろう…。いったんことあると、そうした世間の眼にさらされ、おまけに退職金を減らされないうちに辞めようとすれば、寄ってたかって叩かれる…。
 先生を職業に選ぶというのも、結構覚悟がいることだろう。
 誰が言ったのかは忘れたので、情報価値は半減するのだが、「お前が何を仕事にしてもいいが、人を教える教師と人を裁く裁判官にだけはなるな」と父親に言われた、という有名人があった。無名人のくせに「なるほど、そういうもんか」と、これにはいたく感じ入って、それだけを真似してきたので、職業選択ではまず一番にそのどちらも除外された。
 そこまでストイックになると、ほかの仕事もやりにくくなりそうだが、先生というのはまた特別で、こどもが最初に日常的に接する、親以外の大人であり、他人である。しかも、最初から教えてもらうという受動的立場にいるから、一応そのすべてを受け入れている。それでいながら、だんだんと好きな先生嫌いな先生が、ちゃんとふるい分けられ峻別されていくのである。しかも、目上だしとりあえず先生なのだから、一応は尊敬しなければならない、ということさえもはや通用しなくなった。
 考えてみれば、やっぱり敬遠するに越したことはない、ヤバイ職業なのかもしれない。
 「忘れ得ぬ人々」などというテーマでは、よく学校の先生が登場するのも、無理からぬところであって、感受性の豊かなやわらかな心に、そっと足跡を残していった先生のことは、いつまでも忘れない。
 その頃は、先生も学区内に住むのが当たり前のようになっていて、現在の住所表示では堀越町にあった青崎中学校の先生は、その多くがその周辺に居住または間借りしていて、よく先生の家までいくというこどももあったようだ。何人か、生徒としても気になる先生はいた。
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 当時、中学の教科には「職業家庭」という、いかにもどうでもいいような科目があって、実際週一回あるかなしかのほんとうにどうでもいい(と学校も教育委員会も思っていたらしい)時間があった。その担当の先生がK先生といって、温厚そうなメガネのおじさんだった。通訳あがりの英語の先生と同じく、うわさでは正規の教師ではない臨時だとか言われていたが、事実はよく知らなかった。
 そのK先生の授業が、とても気に入っていて、毎回楽しみだった。心待ちにした授業などというのは、後にも先にもこれだけだったが、これが型破りな授業(それが授業といえるとして)で、およそ教科書などは一度も使わない。今なら教育委員会やいわゆるモンスターペアレントがやり玉に上げるかもしれない問題教師である。
 たとえば、あるときはいきなり「寒ブナの釣り方」というのを、何週かにわたって講義してくれる。ただの釣り方ではなく、寒ブナの生態まで含めて、まるでそのときは自分も冬の冷たい小川に糸を垂れているかのような、また自分がフナになったような気分になって、わくわくした。
 また、あるときは「日本海海戦で連合艦隊はいかにして勝利したか」というテーマで、これが微に入り細にわたって何週か続くのである。こんなおもしろい授業はない。みんなも興味津々だった(と思いたい)。K先生に教わるわれわれのクラスは、司馬遼太郎の『坂の上の雲』を知る何十年も前に、あの本の図版にもある「東郷元帥のT字型戦法」(その頃は「T」だと思い込んでいたのだが、どうもこれは「丁」だったらしい)の一部始終を、中学の教室の黒板で教わっていたのである。
 あるときの授業で、K先生は黒板に大きく『菊と刀』と書いて、中学生でもこれくらい読まなきゃだめだ、と言った。それで、図書室で借りて無理して読んだ(つもりになった)。
 現在では講談社学術文庫に入っていて、その評価をめぐってもさまざま論議があるが、1948(昭和23)年に『菊と刀』社会思想社版が出たのは、原著刊行からもまだそう間がない頃で、当時の日本のインテリには大きな影響を与えたらしい。
 数年後、改めて文庫版を自分で買って読み直した。思えば、これも日本が敵を知らず己を知らぬまま、いかに無謀な戦争にのめり込んでいったか、という嘆きに拍車をかけるものであるが、敵は戦争前から日本についてこれだけの情報を集め分析していた、ということがわかるだけでもすごい本だったのだ。いまではこれに対する批判も盛んであるが、当時の読者は素直に、初めて自分の姿を姿見に写して見るような気分に襲われたに違いない。
 ルース・ベネディクトのこの本は、日本研究の古典であり、以来今日まで書店の店頭から消えたことはない。それどころか、これがまた新装版になって近年やたら平台で目立っていたので懐かしかった。
 考えてみれば、中学生にこれを読めというのもずいぶん無茶な話で、当時の新制中学の生徒にわかるようなレベルではない。だが、本というのはわかる本、おもしろい本だけ読んでいてもダメなのであって、背伸びして読むものでもあるということを、K先生はあわせて教えようとしたのではないかと、いうような気がしている。
 お陰で、広島の本通りに出かけて行って、広文館や金正堂で背伸びして本を買うことを覚えた。といっても、お金があるわけではないから、並んでいる本だけ見て、買うのはいつもいちばん安い★一つの岩波文庫くらいだった。
 K先生は、次の春が来る前に不慮の死をとげられた。みんなで葬儀に参列してお別れをした。これまたうわさ好きのあいだでは、酔っぱらって川へ落ちたとか、いろいろ言われた。いや、きっと先生は、川の寒ブナの様子を見ようとして…。
 「ものごとを知る喜び」を教えてくれたその授業は、始まったときと同じように、いかにも唐突に終わってしまった。

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□24:初めて泳ぎを覚えた海と初めての部活で印刷所へ=広島市南区月見町(広島県) [ある編集者の記憶遺産]

 中学校へ入って最初の夏休み前に、水泳教室があった。まだ諸事万端不如意な時代だったから、泊まりがけで遠くへ行く臨海学校のようなしゃれたものでもなかったし、プールなどというものは、まだどこにもなかった。ただ、先生と上級生に引率されて、学校のグランドの目の前の山を越えて、蛎殻の散らばる海岸へぞろぞろと歩いていっただけである。広島湾に面した小さな浜は、さしづめプライベートビーチではあったが、いまの地図ではそこも埋め立てられ、月見町という町になっている。
 その水泳教室で、まず教わったのは六尺褌の締め方から。海水パンツもなかったのだ。すでに泳げる子もいて、体操がすむとそういう子達は沖に浮かんでいるかきいかだまで泳いでいく。でんでんむしはまだそのときは泳げない子のグループだった。泳げない子への教え方はかなり乱暴なもので、上級生の背中につかまって、背の届かない沖へ数メートル連れて行かれる。すると、そこでいきなり上級生が潜ってしまうので、つかまるものがなくなってしまった。当然身体は沈んでいく。あわてて水を呑んでしまい、必死でばたばたして岸をめざそうとした。その日が、曲がりなりに水泳を覚えた日だった。
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 泳げない時は、干潮で干潟が現れたところで、小魚を追ったりして遊んでいた。泳げるようになってからは、その遊び場の楽しさが、何倍増にも広がったことは、いうまでもない。今度は満潮で潮が満ちてくる時を計って、泳ぎに行く。新聞を広げてイのいちばんに見るのは潮時表で、それによって夏の一日のタイムスケジュールが決まる。
 もっぱら夏の遊び場であった海田川と的場川の河口辺りには、戦時中は潜水艦の修理をしていたというドックの跡もあった。
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 瀬戸内海では、干満の差がかなり大きい。干潮時には、遠く広島湾のあちこちに広がるかきひびの棚が姿を見せ、川は小さな流れとなって砂地を蛇行した。ドックの跡は、干潮時でも泳げる場所だったが、それが満潮時には、その河口でも水深が3〜4メートルにも達する。さらに深くなるドックの跡は、飛び込み専用だった。
 いま、地図を見ると、広い入江があったところは埋め立てられ、それに続く的場川も随分肩身が狭くなっているようだ。それに瀬野川(海田川)と的場川が流れる河口付近には、埋め立て地が伸びて、泳ぎを覚えた海も全部埋め立てられて、そこらには月見町という名前がついている。だが、驚いたことに、そのドック跡の形はいまも四角い水面として描かれていた。
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 日本製鋼所の南部は、広島市中央卸売市場になっていた。その海の沖には、広島呉道路と高速2号線、高速3号線と、何本もの高架のバイパスが海の上を走っている。湾の奥は両側が埋め立てられて、西側は埠頭、東側は工場団地になっていた。狭くなって深い入り江のようになった湾には、Mapionでは広島湾でなく海田湾という別の名前までついている。その高いところを、海田大橋という橋がひとまたぎしている。
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 十何年か前、所用があって広島に久しぶりに帰った。狭くなった海田沖の湾を横切るバイパスを走るバスの窓から、初めて泳ぎを覚えた海を探してみたが、どこを見ても見知らぬ海だった。透き通るような川に潜って見た、水と砂と光の織りなす川底を思った。あの、きれいでふしぎな世界は、もうないのだろう。
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 中学校に入ってもうひとつ新しい世界が開けたのが、いまでいう“部活”である。テニスはやってみたかったけど実現せず、結局やったのは新聞部と文芸部。予算がないので、一年に一度出せればいいほうだったが、顧問で新任のS先生が熱心で、先生の宿直の休日に宿直室に集まって、わいわいやっていた。たいして必要もないのに、広島の印刷所に出張校正に行こうと言い出したのもS先生であった。思えば、まねごとの編集をして、印刷所に出入りするようになったのは、この頃から始まっていたわけだ。
 また、ホームルームのT先生や国語のM先生の指導で、演劇のまねごともやった。文化祭では広島城の南の公園内にあった児童文化会館で、ブレヒト劇をやったりしたのもいい思い出になっている。中学校3年のときには、先生が「これなら山本安英を招待してもいい」といった最強メンバーとで、木下順二の「夕鶴」を上演する予定になっていた。与ひょうを演じることになって稽古をしていたが、なぜかこの年は文化祭が土壇場で中止になった。理由は知らなかったか忘れたかして、わからない。
 学校の行事というのは、当時は半ば強制的にやらされるものだけれど、後々になってみると、それが非常によい体験になり、おおきな糧になるということが多い。
 初めて泳ぎを覚えた海からすぐ南の似島で、高校の臨海で泳いだ遠泳とか、宮島街道を16キロ走ったマラソンなどもそうだった。が、それらのどれもが先生の情熱に支えられていたことは、疑う余地がない。
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dendenmushi.gif(2013/02/04 記)

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□23:いまはなきイースト・エンドの青崎中学校と図書室…=広島市南区堀越3丁目(広島県) [ある編集者の記憶遺産]

 国道2号線の下に流れた川は、日本製鋼所広島製作所の正門前付近まで、広い入江になっていた。現在の地図で見ると、旧国道2号線の南、日本製鋼所の工場の北西寄りに逆三角形に見える場所があるが、そこが、かつてはその入江だった。砂と泥が混じったような干潟が、潮が満ちてくると満々たる海面に一変する。日に二度ずつそれを繰り返しながら、川は広島湾の東に注いでいく。その川の名前が的場川だということは、近年になってネット地図を見るようになって初めて知ったくらいで、当時は誰も川の名前など知らず、気にもしていなかった。
 この川は、魚釣りのためのエサにするゴカイをとるのに、好適な場所だったし、ハゼもよく釣れる川だった。それに、今思えば、かなり重要なことだったが、当時から岡山では天然記念物に指定されているので有名な、カブトガニがたくさんいたのだ。
 広島湾の東奥には、もうひとつみんなが海田川と呼んでいたが、実は正式名称は瀬野川という比較的大きな川が流れ込んでいる。
 日本製鋼所広島製作所の工場は、この瀬野川と的場川の間に、かなり広い敷地があったが、戦後長い間こどもたちが海遊びに通う工場内の土手の道すがら、赤さびて崩れかかった鉄骨や破れた窓ガラスがそのままに見えていたものだ。
 うわさでは、戦時中は大砲もつくっていたという広い工場は、戦後は鍋釜までつくってしのいだという。同じくうわさでは、機関銃もつくっていた東洋工業は、戦後その技術をさく岩機に転用した(あるいはさく岩機が先で機関銃になったのかもしれない)ものだろう。
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 広島市立青崎中学校は、右岸の日本製鋼所の工場設備で、多くが遊休になっていたらしい建物や敷地の一部も使って開校されていたようだ。川が当時の広島市の東端だったから、文字通りの“イースト・エンド”にあった。
 その言葉を知ったのは、これもうわさでは進駐軍の通訳だったという中学校の英語教師が、盛んにそれを連発していたからだ。それが、ロンドンの貧民街を象徴する用語だと気がついたのは、だいぶ後になってからだった。だが、その教師の口ぶりやいかにも軽蔑的な態度から、決していい意味で使っているのではないことは充分わかった。
 中学校のグランドは、小さな新校舎一棟前の一部を除いて、入学当初は崖の下の湿地帯で、しばらくは生徒も先生も、全校あげてのモッコ担ぎで土を運び、たくさんのカエルの住み処を奪いながら、埋め立て作業に精をだしていた。
 そんなくらいだから、設備も万事に整っていなくて、工場施設の一部だったおんぼろの旧校舎は、冬は寒く夏は暑かった。それでも、ピアノが一台置かれた音楽室と図書室と小さな売店があったのは立派なものだ。なにしろ、中学校のある場所は、人家のある場所からも少し離れた、使っているのかどうかわからない工場の建物と山と畑に囲まれていて、近くには店もなかったから、パンなどを売る売店は必須設備だったのだ。
 旧校舎の一階の端の一部屋があてられていた図書室は、こんどは開かずの間ではない。三方の壁面にずらりと並んだ本棚と本は、中学に入って初めて見た異世界への扉だったといってよかった。
 そこで読んだ本のなかでは、よく記憶に残っているのが片っ端から読んだ講談社の「少年少女世界名作全集」と岩波書店の「岩波少年文庫」である。細かいことは忘れたが、図書室で行なう授業もあって、そのときに先生がまだめずらしかったカメラを持ってきて、クラスの男の子全員が図書室の前で本を手にして撮ってくれた貴重な写真がある。
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 女の子は別に撮ったのだろうが、この頃広島では中高一貫の私立女子校がいくつもあって、そちらに通学する子も結構あったので、女子のほうが人数は少なかった。
 記念切手ほどの小さなセピア色の写真は、いまとなってみれば、その時代を切り取った重要な証拠写真となった。
 それというのも、この図書室はもちろん、青崎中学校そのものが、とうの昔になくなってしまったからである。そのときにはもう広島を離れて久しかったので、どういういきさつがあったのかも知らないが、おそらくは長い仮住まいに決着をつけたということなのか。青崎中学校は廃校になって、生徒や先生たちは猿猴川を遡った大洲にできた、新しい大洲中学校へ引っ越していったという。
 青崎中学校というイースト・エンドの母校は、永遠に失われたのである。
 いまの地図で、その中学校のあった場所を探してみると、それとおぼしき付近は日本製鋼所の寮などの施設で埋められ、グランドの南にあった崖の一部は描かれているものの、その上の山はすべて向洋新町という住宅街になっていた。
 「青崎」という名のおこりではないかと、勝手に決めていた広島湾の東端に張り出していた山もなくなった。その崖をなぞるようにして、いまは新しい国道2号線が走っている。
 いつだったか、粗大ゴミのなかに講談社の全集が数冊捨てられていた。あまりの懐かしさに、持って帰って大事にとっておいた。
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 だが、後年、岩波文庫で『三銃士』や『モンテクリスト伯』『ロビンソン・クルーソー』などを読んでいて、この全集がいかに“超訳”であったかを知ることになるのだが、未知の世界へ誘ってくれた功績を損なうものではない。

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dendenmushi.gif(2013/02/02 記)

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□22:青崎小学校と貸本屋と東洋工業と…=広島市南区青崎1丁目(広島県) [ある編集者の記憶遺産]

 広島市の東のはずれ、といっても今のではない。合併に次ぐ合併で、現在の市域は拡大しているが、昔は太田川のいちばん東の支流である猿猴川(えんこう(カッパ)がわ)の東岸は、青崎というちょっと広くて大きい岬のような地形をなしていた一部を除いて、すぐ安芸郡府中町になる。広島市立青崎小学校は、猿猴川の下流左岸にあった。当時は、広島市でいちばん東の端っこになる。
 府中町の小学校は、南部にはまだなかったので、われわれ府中町南部のこどもは、市境を越えて学区外から通学していたことになる。学校の白い四角い敷地は、昔のままで変わらないように地図でみえているが、それを囲んでいた猿候川に通じる堀割の水路はなくなっている。
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 青崎小学校の図書室は前にも書いたように名ばかりの開かずの間だったので、小学校時代の本との縁は、高学年になった頃に、校門前の家が始めた貸本屋が主であった。
 大人のための貸本もあったのだろうが、こちらは棚にぎっしり並んでいるマンガしか目に入らない。『ゲゲゲの女房』でよく知られることになったが、この頃はマンガ作家も貸本向けに描いていたのだ。そんななかでも、とくに気に入っていたのが「虫」のマークがついた手塚治虫の本で、片っ端から借りた。といっても、わずかな小遣いのなかで許す範囲という限度があった。
 手塚治虫は、この少し前に『新宝島』というマンガで、鮮烈な印象を残していた。それまでの『のらくろ』や『タンクタンクロー』といったマンガにない魅力があった。映画的なシーンのつくりかたをした、いまや伝説となっているこの本は、苦労して苦労して借りてきた。借りてきたときはもうぼろぼろになっていた。
 この頃、貸すといっても誰もただで貸してはくれない。物物交換である。だから、相手が読んでいない本や雑誌を、こちらも提供しなければ借りられない。そういうルールが、いつのまにかなんとなくできあがっていた。
 そのかわり、親友でなくても顔を知っていれば誰とでも取引は成立したのである。だから、口コミでもれてくる情報をつてに、遠くの方まで自転車を飛ばして借りに出かけるということもめずらしくなかった。
 その後、光文社の雑誌『少年』で『アトム大使』が始まったのは、小学校も6年生になった1951(昭和26)年のことだった。
 小学校の門前には、よく露天の店が出ていた。こども相手に針金細工のゴム鉄砲を売るおじさんから、畑の作物を並べるおばさんまで、さまざまだった。いま思えば、日々の暮らしの糧を得るのに、大人たちはみんな大変な苦労をしていたのだ。
 そんななか、学区の親たちで比較的恵まれていたのが、勤め人と呼ばれていた東洋工業や日本製鋼所の工場勤めをする人々だったろう。こどもの間でも、「うちはトーヨーじゃけん」というのは、自慢にできた。エリートという言葉もサラリーマンという言葉もまだなかったが、青崎小学校のすぐ近くの隣から、もう東洋工業の工場だった。
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 東洋工業(現:マツダ)は、国道2号線と猿猴川に挟まれた、ウナギの寝床のような南北に長い土地に、会社とその工場があったのだ。現在は、昔はなかった何本もの橋が、猿猴川の下流域に架かっているので、その橋を渡って眺めると、工場のバックには府中町の北東の外境界にもなっている呉婆々宇の山塊が連なっている。
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 工場の大半は広島市に属しているが、たまたま本社の建物があるところは、広島市ではなく府中町なので、この小さな町の税収にも貢献している。そのため、合併ばやりの今でも、周りがぐるりと広島市になった今でも、府中町だけは安芸郡府中町のままである。
 朝と夕暮れの向洋駅は、列車で通勤する大勢の人であふれていた。マイカー通勤など、誰にも想像できない時代のことである。
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□21:山陽本線と国道2号線が青崎小学校への通学路…=広島市南区青崎1-2丁目(広島県) [ある編集者の記憶遺産]

 国鉄の幹線のなかでも、複々線はそう多くないのだと、機関区か何かの見学に行って知って、なにやら誇らしく思えたものだったが、広島〜海田市間は、山陽本線と呉線が合流し並行する区間なのだ。
 その線路もまた、小学校と家を往復する通学路の一部だった。今から思うと、のんきな時代であった。線路に柵などなく、誰でもどこからでも自由に歩いたり横断したりした。
 上りの汽車が、向洋駅を出発すると、次の駅である海田市まで、大きく二か所のカーブがあり、その間の線路のレールの上を、落ちないようにバランスをとりながら、どこまで長く歩けるか、それが毎日の挑戦課題だった。
 レールの間の枕木上を歩くこともあったが、この間隔が微妙で、こどもの足でも、一つずつでは狭過ぎる、二つ飛びにすると広過ぎる。それに、よくちり紙と一緒に落とし物も落ちていたので、注意が必要だった。
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 汽車の本数も、そう多くはなかったのだろうが、それでも幹線で複々線である。旅客列車のほかに、貨物列車も走る。日本が戦後の復興路線を走り始める、まさにその助走から勢いをつけはじめた6年間、この線路を歩いていたことになるので、だんだんと本数も増え、貨物列車の長さもだんだん長くなっていった。
 ワムとか、トラとか、トキとか書かれた、貨車の記号を読んだり、車両の数を数えたり、汽車もまた遊びのネタになる。格好つけたがる汽車通学の生徒たちは、客室内には入らないで、デッキから身を乗り出すようにしてぶら下がっていた。
 が、なんといっても、あのダイナミックな蒸気機関車の動きには、魅了された。黒い煙と白い蒸気を吐きながら、大きな音を響かせて走る姿は、まさに命あるもののように見え、いつも汽車が来ると、それが過ぎるまで見送っていた。
 動輪が三つのものと四つのものがあることはわかったし、正面のライトのところに枕のようなタンクをつけたD51とそれがないC62の違いはわかったが、それ以上に興味も知識も発展しなかったのは、やはりぼんやりした小学生だったのだ。
 そんなぼんやりした小学生にも、はっきりした忘れ得ぬ記憶がある。
 あれは、小学校に入って二年目くらいのことだったろうか。当時は貴重だった、白い紙が一人に一枚配られた。それにクレヨンで赤い丸を塗りつぶし、端にご飯粒を塗って笹竹に巻き付ける。それを手に手にもって、全校生徒が行列してでかけたことがある。
 行った先は、自分の通学路である線路脇の土手だった。そこに整列して、待つうちに金ぴかの縁取りと日の丸をぶっちがいにつけ(ていたと思う)た機関車が、いつもよりおごそかにやってきた。
 そう思えたのは、それまでの先生たちの緊張ぶりが、こどもにも伝わっていたからだったのだろう。居並ぶこどもたちが手製の旗を振る前を、菊の紋章のついた窓に並んだ二つの影を乗せたお召し列車が、いつものような音をたてて、通り過ぎていった。
 終戦の翌年、東京・神奈川から始まった天皇巡幸は、昭和22年の秋の終わりには、被爆地広島を巡っている。
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 断るまでもないが、国道2号線は大阪から下関まで続く。ここでいうのはそのごく一部、広島〜海田市間だけのことである。
 これも当たり前だが、昔は結構広い大きな道だと思っていたが、二車線しかなく歩道の余地もないほどで、大きなバスやトラックが行き交えば、それだけで圧迫感がある。シャッターが降りたままの沿道の家や店も、いやがうえにも侘びしさを増す。
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 青崎と呼ばれるこの辺りには、小学校へ通い始めた頃は、まだほとんど店らしい店も数軒しかなかった。小学校を卒業する頃には、倍以上に店も増え、電気屋、散髪屋、魚屋、八百屋、クリーニング屋、自転車屋、薬屋などがここに軒を連ねていたと思う。
 この一角を過ぎる辺りには、かき打ち場(水揚げしたかきの殻を取る作業場)が、二三軒並んでいた。それからさらに東へ行くと、人家もまれになり、寄り添うように続いてくる山陽本線と並行している。
 どちらが先でいつできたのかは知らないが、山陽道も中国縦貫道もまだできる前、この二本のバイパスができるまでは、とにかくこの旧国道2号線しか、広島と東側を結ぶ道はなかった。現在は、国道2号線は青崎小学校の南側にできたバイパスにその名もとられてしまったので、いささか寂れた感じがする通りになってしまったが、当時はこれが唯一の大動脈で、この道が東へ向かう道、東から広島に入る道だったのである。
 小学校へ通うときから、この道をてくてくと、歩き始めた。当時は国道2号線も、車などはめったに通らない。信号機もひとつもない。その馬力の元が排泄物を盛大に撒き散らしながら、荷馬車はのんびりとパカパカと往来していた。
 ときどきは、この荷馬車の荷台に飛び乗って、通学した道である。こののどかな、白い道にもまた、通り過ぎたいくつものシーンがある。
 平野というものがなく、関東や関西のように、郊外電車が発達しなかった広島では、山間を縫うようにしてバスが走る。だから、今でも市街の真ん中にバスセンターがある。
 確か、小学校の社会科見学で調べた記憶によると、営業用の路線バスが、日本でいちばん最初に走ったのは広島なのだ。
 国道2号線は、俗に青バスと呼ぶ広電バス、赤バスの広島バス、ツバメマークの国鉄バス、芸陽バスに呉市営バスといったバス会社のバスが走る一大幹線道路だった。
 最初は、背中にストーブのようなものをくっつけたガタガタの木炭自動車で、それからガソリンのにおいと木の床にしみ込んだ油のにおいが懐かしいボンネットバスが走った。さらにリアエンジンになって前が平べったくなってシートがふかふかになったバスで…。
 そうだ、トレーラーという運転席と客席が分離したダックスフンドのようなバスが走っていた時期もある。
 高校時代には、これらのバスと抜きつ抜かれつの競争しながら、自転車で通学していた時期もあったが、いったい、何度この道を往復したものだろうか。
 これもまた数年前に、久しぶりに従兄弟の運転する車で、この道を走った。沿道のたたずまいが、記憶する昔の景色を浮かび上がらせ、そして戸惑わせる。
 バイパスのほうを通る車が多いので、交通量は減り、渋滞は緩和されたらしいが、すっかり寂れたとしか形容のしようがない景色に、複雑な想いだけが走っていく…。
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 いま思えば、当時の山や川の風景を撮った写真も、小学校時代の写真も卒業アルバム以外には1枚もない。それは、まだ普通の家では「写真機」を持っているところが、まったくなかったからだ。それは、青崎小学校へ通う6年間を通じていえることであった。なにしろ、小学校では校庭に並ばされて、頭から噴霧器でDDTをかけられていた、そういう時代だったのだから…。
 山陽本線の線路と国道2号線を通る通学路は、いま計ってみると1.5キロほどしかないのだが、当時はこれがかなり遠く長い道のりに思えた。もちろん、いまのように通学路が指定されているわけでもなく、毎日勝手気ままに経路を変えたりしながら、道草も適当にくいながらの通学だから、6年間も通えたのかも知れない。
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□20:ふるさとはと問われればそれはやはり「青崎」か?…=安芸郡府中町青崎東(広島県) [ある編集者の記憶遺産]

 原爆が落とされる前までは、臨時の避難疎開先で仮住まいだった場所は、その後十数年間にわたって、多感な少年期を過ごす場所となった。生まれた家はもうなく、広島市内に戻ることはなかったので、さまざまな思い出や、生活の舞台となった広島郊外のそこは、まさしく「ふるさと」そのものとなった。
 よく「お国はどちらですか?」とか、「出身はどこ?」とか聞かれるが、そういうときの「広島です」という答えは、場合によっては昔の「安芸の国」というような広い地域をイメージしてのこともあるが、だいたいはいつもこの広島県安芸郡府中町の、それも南東の端っこぎりぎりの地域を念頭においてきたように思う。

 人家が十数軒立ち並ぶ谷間の北側を、ぐるりと取り囲むようにして裏山が続いていた。その山に入会権というようなものがあったのかどうか知らないし、第一所有者がいるなんて、気にもしていなかった。
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 標高はせいぜい50〜60メートルほどで、山というよりほとんど丘のようなものだったが、雑木林とところどころ畑もあった尾根は、結構複雑にでこぼこしながら、船越峠を越えて呉婆々宇(ごさそう)山に連なる山塊の南端であった。小さな山からでもどこからとなく湧きだし流れだす水流を伴う。尾根と尾根の間にわずかに広がる谷間には田圃がつくられ、ドジョウやメダカやオタマジャクシが群れていた。
 秘密基地をつくったり、宝物を隠して地図をつくるなど、わが物顔に遊び場にしていたその山では、山桜やピンクのツツジや白いアセビが咲く春にはツクシやズボナなど野草摘みが楽しめた。松林を鳴らして抜ける風が涼しい夏は、無数のホタルが谷間を飛び交う。そして、秋は紅葉の間に何種類ものキノコやドングリ、ヤブツバキが彩りを添え、下草が枯れてノウサギの糞が目立つようになる冬は、野山で落ち葉かきに精をだした。
 松の落ち葉や枯れ枝を掻き集める落ち葉かき兼タキギ拾いは、ガスはおろか水道さえもまだなく、もちろん電気炊飯器もない時代、台所の煮炊きや風呂を沸かすのに欠かせない。それは、こどもの重要な仕事でもあった。
 小さいながら川は水量も豊富で、戦後の台風のときなど、記憶にあるだけでも二度にわたって道になっていた土手が決壊し、辺り一面が大洪水になったこともある。どこからこんなにと思うくらい、常に花崗岩のさらさらした川砂を運んでいる。この砂を掘り上げて堰き止める。一時的には下流が干上がるが、水の増加に砂のダムが耐え切れなくなると同時に、今度は堰を崩すと、水は勢いをつけて一気に川を下る。そんな川遊びもよくした。
 イトウナギと呼んでいたうなぎの幼魚やハゼやゴリ、フナなどの小魚を追うのも、オニヤンマやキリギスやセミを追うのも、夏の日課だった。ヘビもカエルもそこらじゅうにいて、それらもみんな遊び仲間だった。
 田圃のイナゴをたくさん捕まえては串刺しにして、これを火で焼いて食べると香ばしくておいしかったが、そんなことをしていたのはわれわれくらいだったのだろうか。今ごろになって、気になる。
 戦後の一時期は、食用ガエルと呼んでいたウシガエルやスズメからノウサギやテツドウグサまで、なんでもかんでも食べられるか否かが、最も重要なテーマだったのだが…。山には、野鳥もたくさん飛んで鳴いていたが、バードウォッチングなどという高尚な発想はどこにもなく、当時雑誌の広告を賑わしていたのは、空気銃やカスミ網の宣伝だった。
 とくに長い夏の日の夕暮れは、涼み台にみんな集まって、降るような星空を見上げるのも楽しい。急降下を繰り返してエサを追うコウモリが一仕事終えると、こんどはその川のそばにある湿地の草叢には、ホタルの灯りが点滅し、どうかすると家の中にも紛れ込んでくる。網戸などというものは、まだどこにもなかった。麦を刈り取った後の麦わらを編んで、ホタル篭をつくった。カギになった雁の群れが何度も空をよぎって飛んでいくようになると、川の茂みも黄色く変わる。
 少し大きくなると、祖父の畑仕事を手伝わされた。最初は遊びを制限されるのでいやいやだったが、だんだん田畑の農作業にも興味がわいてきた。高校くらいになると、自分で草花や菊の栽培に熱を入れるようになる。
 川沿いに南へ下っていくと、川幅はだんだん広くなり、国鉄山陽本線の複々線の線路と踏切がある。だが、その踏切に警報器や遮断機がつく前のことしか知らない。この線路を西へ行くと向洋駅で、東へ行くとそれより少しだけ遠い海田市駅があり、ここで呉線に分岐している。唯一変わっていないのは、この線路だけだろう。
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 さらに下ると、国道2号線(旧)にでるが、当時は誰もが単に「国道」といっていたので、2号という番号があることなど知らなかった。国道を西へ行くと青崎で、東へ行くと船越。川筋からちょうどこのあたりまでが、広島市と安芸郡の境界だったが、現在では船越も広島市安芸区になって、安芸郡府中町だけが広島市域に取り囲まれて残っている。
 国道の南には、川が注ぐ入江があって、満潮の時には線路付近まで海水が上がってきていた。そこから広島湾の海までは、1.2キロほどだ。この川にも的場川という名前があることは、数年前に地図でその表示を見て初めて知ったが、現在はその川も両側から埋め立てられて随分肩身が狭くなっているらしい。
 こどもの頃は、向洋駅もはるかに遠い先であったが、小学校はその駅の南にある広島市立青崎小学校まで、毎日通わなければならなかった。そこらは広島市青崎または「東青崎」で、川の流れていた谷間は現在の住居表示では安芸郡府中町「青崎東」。
 「青崎」は、猿猴川の河口左岸に、大きく張り出していた青い岬の一部だったともいえるのだった。
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 もうそこを離れ、縁もなくなってしまって数十年が経つので、その地域は大きく変貌し、もはや昔の面影はどこにもない。十数年か前に訪れたときには、駆け回っていた野山は、全部住宅地になり、そこには柳ヶ丘という名前がついていて、その北の端は山陽新幹線の府中トンネルの出入り口になっていた。町の境界になっていた川も、もう暗渠になっていた。
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 広島を出た後に、何度かそこを訪れることがあっても、そのたびに言いしれぬ寂しさと情けなさと、哀れさ悲しさで胸がつまるばかりになってしまうのだった。それがかえって足を遠のかせ、ふるさとはだんだん遠く、おぼろげになっている。
 いまやその実体はどこにも存在しないふるさとは、ただ自分の記憶のなかだけで、かすかな残像としてころがしてみるイメージにすぎない。そして、それがあったからこそ、その後数十年の都会生活ができたような気もする。
 そんな記憶を辿って、いま少し以前に書いていたものも引っ張り出しながら、情報整理の意味をかねて収録していきたい。


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□19:昭和20年・広島の夏の日=その7 キノコ雲も街を焼き尽くした火も消えてからもピカドンの死者は続き… [ある編集者の記憶遺産]

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14キュウリと焼き場

 どのくらいの時間が経ったのか。井戸に一時身を避けた祖父は、周囲の火が少し下火になるのを待って、祖母を探しに出かけた。そして、名のみが残る病院の跡で見つけた。誰かが祖母をそこまで運んでくれたらしいが、病院の機能はないに等しい。祖父は祖母を引き取って背負い、また戸板に乗せて、やっとのことで府中町まで引っ張ってきた…。
    ■
 それが、8月6日当日中のことなのか、翌日にまたがってのことか、よくわからない。
 祖父が原爆の話をしたことはなかった。その話を、もっとちゃんと聞いておけばよかったのにと、今になって思うのは、このときのこともある。
    ■
 その当時、避難する人でごった返す市の周辺郊外では、どこでも同じような光景が繰り広げられていたのだろう。生き延びたものは、とにかく郊外へと逃げ出した。広島市に隣接し、府中町の南はずれに位置する外新開でも、市内から逃げてきた人で溢れた。
 府中町と広島市青崎付近の山陽本線の沿線には、鉄道教習所、鉄道官舎、国鉄アパートなどの施設が並んでいたが、それらの空間も、かろうじて辿り着いた瀕死の火傷者でたちまち臨時の収容所になっていた。広い講堂のようなところにも廊下にも、軒先にもたくさんの人が横たわっていた。
    ■
 近辺に医者がわずかにいても、大勢の人を充分に治療手当てすることは、医薬品もない状態で、まったく望めなかった。組織的な救援の手は、まださしのべられていなかった。
 多くの人は、ただそこで命が尽きるのを待つだけ、という状態が続いていた。
    ■
 祖母も、火傷のためその直後からほとんどずーっと、意識不明のような状態であったようだった。その時には、貸家が使えるようになっていたらしく、その一室に寝かされた祖母は、口をきくこともないまま、石のように横たわったままでいた。
    ■
 マスコミが発達していない時代では、今でいう口コミ、ウワサが虚実を取り混ぜて、すべての情報を運んでいた。
 誰いうともなく、「ピカドンの火傷にはキュウリをすりおろして湿布をするとよい」といううわさが広まった。
 そこら中の畑からキュウリがなくなり、国鉄アパートから辺り一帯どこへいっても、キュウリおろしの独特のにおいが立ちこめた。
 もちろん、祖母にもキュウリの湿布をしたが、その甲斐はなかった。
 被爆から7日目に、祖母は息を引き取った。
    ■
 府中町字外新開の山を、東隣の船越町のほうに入ったところに、大きな竹薮があり、その奥にみんなが“焼き場”と呼んでいた火葬場があった。
 祖母もここに運んで火葬にしたが、なにしろその混乱ぶりときたら、こどもの目にも明らかで、異様だった。次から次へと運ばれてくる死者の火葬は、ほとんど工事現場さながらで、片っ端からそこらに穴を掘り、どんどん処理していく。
    ■
 ところが、薪が充分でない。死者が薪をかついでくるわけではないから、薪不足で充分に焼け切らず、黒焦げになったままのものもある。
 それでもかわまず、また新たな遺体のために、場所を空けてやらなければならない。半焼けの黒い頭蓋骨を黒い灰と一緒に掻きださなければならない。祖母のように棺に入れられてくるのはまれで、ほとんどは急造の担架のようなものや、梯子などにのせられて、ごろんと穴のなかに転がされる。そのようにして次々とやってくる。
    ■
 あの日から、かなり長い間、来る日も来る日も、焼き場に続く土手の道は人の列が行き来し、その奥からあがる煙は絶えることがなかった。
 キュウリも底を尽き、そのにおいが消えた後も、人を焼くにおいだけは長くあたりに充満した。
 

15石の表面を溶かす光
 
 それまでの空襲は、グラマンのような艦載機が飛んでくるか、サイパンからB-29などの爆撃機が編隊を組んで飛来し、多数の焼夷弾を高高度から目標施設に落としていく、というのが普通だった。
 防火演習なども行なわれ、早いうちにある程度消火作業などをして、なんとか延焼を食い止めることが唯一の対策であり課題だった。しかし、東京大空襲などからは、目標などというのではなく、無差別にばら撒かれる絨毯爆撃が行なわれるようになっていた。ひとつの爆弾から燃える油が四方八方へ飛び散る式の焼夷弾が使われて、消火作業も追いつかないで、被害を拡大した。
    ■
 原爆は、それまでの爆弾とは多くの点で異なっていた。まず、たった一発で広い範囲に深刻な被害を及ぼす。その爆発のエネルギーの半分はものすごい爆風となって街をなぎ倒した。それと同時に、高温の熱線と放射線が人も家も焼き尽くした。
 その閃光は、一瞬にして鉄も花崗岩もガラスも溶かした。
    ■
 広島に、いたるところに残されていた、原爆被害の証拠物件は、復興の過程でだんだん消えていったが、比較的後々まで現地に残されていたものに、電車通りに面した銀行の開くのを待ってか、石段に腰掛けていた人の影が、熱線によって石に焼き付けられていた跡があった。
 いまは、それは原爆資料館にあるそうだが、きっとその影も薄れていることだろう。
 寺町にあった菩提寺の墓は、その閃光によって、御影石の墓石はそのツヤを失い、触れば崩れるようにヒビ割れし、角が落ちて丸くなっていた。
    ■
 戦争の悲劇には限りがない。太平洋戦争では「本土決戦」を叫ぶ軍部をかわして、ぎりぎりのところで「終戦という名の敗戦」でやっと幕を引くことができた。
 だが、それもあまりに遅く、昭和20年の終戦の年だけでも、東京大空襲、沖縄戦、各地方都市空襲、そして広島・長崎、さらに外地に放置された人々を含めて、実際に前線に赴いた兵士だけでなく、多くの一般市民が犠牲になった。
 この悲劇をもっと早く、終わらせることはできなかったのか、そう思う人が大勢いても当然である。
 
 
16原爆ドーム・負の世界遺産
 
 「ピカドン」。原爆のことは、広島ではその後ずーっと一般にそう呼んだ。ピカッと光ってドンときたからである。張本勲さんのことを、前に書いたのは、彼もテレビでそう話すのを聞いて、これぞ広島の人ならではの「ピカドン」だなと思ったからだ。
 毎年、広島カープの試合日程は、8月6日のホームでの開催を避けるようにして組まれるが、この日は何度も「宮島さん」が歌われた。それは2012年8月5日、マツダスタジアムでの広島対阪神戦の始球式に、現役時代に着ることはなかったCarpのユニフォームを着て、張本さんが登場した。彼も、長いこと被爆者であることを公にしないでいたが、テレビで若い人が原爆なんて知らないというのを見て、積極的に原爆を語るようになった。
    ■
 ニュース(2005年の)によると、被爆後外国から最初に調査に入ったのは、アメリカ軍ではなくスターリンの指示を受けたソ連の駐在武官二人だった、という。二人は、8月の20日頃に、広島から長崎に入っていた。早くもそれが戦争のための兵器というより、世界戦略のカードであったことを証明していた。
 彼らは、大きな爆弾が落ちれば、相当大きな穴が開いているはずだと予想して広島にやってきたそうだが、案に相違して見渡す限り真っ平らで、穴などどこにもなかった。
    ■
 いわゆる爆心地は、太田川が本川と元安川に分岐するあたりとされている。川がつくる中洲をつなぐためT字型をした相生橋がかかっており、その東詰めに爆心地を記録する原爆ドームがある。
 爆心地なのに、この旧産業奨励館のレンガ造りの建物のドームが崩れ落ちずに残ってきたのは、猛烈な爆風も真上から受けたために、倒壊しなかったのだといわれていた。
    ■
 たった一発の新型爆弾で、ピカッドーンと一つの街を消し去る。その目的からすれば、この爆心地、投下地点の選び方は、理にかなっていた。三角州のほぼ中央で、県庁も市役所もお城も護国神社もデパートも新聞社も繁華街もすべてほぼ半径一キロ程度にすっぽりと入り、しかもその周辺のデルタに広がる木造民家の八割方は、確実に影響下に入る。
 爆心地は、そういう位置取りにあった。
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     ■
 原爆ドームが世界遺産になったというニュースを聞いたときには、ちょっと意外な気がした。「ええっ? 世界遺産?」という違和感があったのだ。しかし、「負の遺産」としては初めての指定だったといわれてみれば、なるほど、そういうのもありかも知れんと思う。
 ところが、世界唯一の「負の世界遺産」をもつことになった日本も日本人も、その意義を充分に理解し、世界にアピールできているか、世界唯一の被爆国というポジジョンを生かした役割を果たしてきたかというと、どうもそれは…。
    ■
 戦後しばらくして、爆心地に近い場所に、一軒の土産物屋ができた。
 主に、訪れるアメリカ軍の兵士などを相手に、原爆の記念品を売る店で、そこの主人が自らの身体中にできたケロイド(被爆した人の身体に残る火傷痕)を見せる、というのが話題になっていた。
 当時から、そのことにも批判があったが、その人はその人なりに自ら背負わされた負の遺産を生かしていたのだ。
    ■
 長い間「じぜんじのはな」だと思っていたが、どうやら「ぜ」ではなく「せ」であったらしい。「慈仙寺の鼻」と呼ばれた中洲の岬は、ちょうど相生橋がかかる中洲の突端あたりを指し、ここにお寺があった。もちろん、ピカドンで一瞬に消えた。
 そこにも大きな土饅頭の供養塔ができ、いつの頃からか自分の中ではそれが転じて、河畔一帯に咲いていた「慈仙寺の花」に同化されていた。
 それは、毎年その日の訪れを告げる「きょうちくとう」の花である。


17焼け跡に立って

 2005年に朝日新聞で、被爆四日後の広島の写真というのが公開されたことがある。被爆直後の写真というのも、そう種類も多くはないが、瓦礫の広がる被爆後の写真は、ただ見れば単に荒涼とした風景で、それを見て、そこで繰り広げられた、凄惨な状況を、具体的にイメージすることができるという人は少ない。
 それは、その閃光と爆風と劫火を生き抜いた人が少ないからであり、今にそれを伝える材料も、どんどん風化しているからである。
 人は誰も、他人の体験を、自分の体験として100%理解することはできないのだ。
 「想像できる」という、人間のもつ優れた能力をフル回転させなければなにもわからず、させればやっとその悲惨さの百分の一程度が理解できる。
    ■
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 焼け跡写真の左の端には、ちょこんととんがった山が見える。あれは、広島湾に浮かぶ似島(にのしま)にある安芸の小富士と呼ばれる山で、標高278メートルしかないが、肉眼ではもっと大きく、比治山、黄金山と並んで広島のどこからも見えていたランドマークのひとつである。
    ■
 焼け跡の中央には数棟、かろうじて全崩壊を免れたいくつかビルの残骸がある。これらは中国新聞社、福屋百貨店、そして後に原爆ドームと呼ばれる産業奨励館などの建物の残骸だったはずである。
 爆心地からは直線距離にして、1600メートルも離れてはいない。焼け跡の写真でいうとわたしが生まれた家は、安芸の小富士と残った残骸の間にあたる。もし、そこが写った写真があったとしても、場所を特定することは不可能だ。なにしろ、目印になるものがほとんどないのだから…。
    ■
 火が消えると間もなく、すでにそこにはないはずの家の様子を見に行く祖父について、府中町から南竹屋町まででかけていった。
 猿猴川河畔の東洋工業の建物などは、残っていたが、それを過ぎてから先は何かに洗われたように見通しがよかった。
    ■
 見渡す限り、瓦礫というより、焼けた瓦が行儀良く敷き詰められて並んでいるような感じがした。
 それは、道だけが白々と開けていたからだろう。その感じは、被爆四日後の写真にみるのと、まったく同じだった。
 元宇品や似島が、手を伸ばせば届きそうなすぐそこにあった。
    ■
 道幅は、両側の建物が倒れてかなり狭まっていたのだろうが、通行には支障がなかった。まだ、人が大勢駆けつけて、組織的な救援や復旧にあたるという時期でもなかったようで、人影もまばらだった。
 広島全体が、まだショックで茫然自失状態だったような感じがした。もちろん、それは後から思ったことである。
    ■
 南竹屋町に近づくと、道端に赤い小型トラックが止まっているのが、小さな山のように見えた。赤いというのは、焼けただれて赤くなっていたのだろうか。タイヤもフロントガラスもなく、ただうつろな目をした残骸となってうずくまっている。
    ■
 家があったと思われるところには、あの「宮島さん」を歌っていた風呂場の厳島神社のタイルだけが、一部ぴょこんと焼け跡の中に飛びだして目立っていた。
 焼けた瓦を一枚また一枚とめくっていくと、粘土細工のいたずらのように、溶けてぐにゃぐにゃに変形したガラス瓶など、生活の用具がでてきた。
 そういうもののいくつかを、祖父は持って帰ったらしく、数年は府中の家の庭先にごろごろしていたが、いつの間にかなくなった。
    ■
 これが不思議で、偶然といえばそれもできすぎていて、つくり話のように聞こえるかもしれないが、事実なのだ。
 たまたまわたしが瓦をめくったところで、それらに混じって、家で遊んでいたおもちゃが、焼けてぐしゃぐしゃになってでてきたのを自分で発見した。
 この家を守る役には立たなかったが、あのブリキの戦闘機と消防自動車だった。
    ■
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 当時、「ピカドンの跡には70年間は草木も生えない」といわれた。
 今、いくつもの慰霊碑があちこちに点在する平和公園はじめ、広島の街や川縁には、緑が茂っている。100メートル道路に植えた、ひょろひょろの苗木も大木に成長した。焼け跡の写真からは、想像もできないほど、街は復興した。
 だが、南竹屋町に再びわが家がよみがえることはなかった。
                                (完)


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dendenmushi.gif(2005-08- 記・2012/08/07 So-net 改筆採録)

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□18:昭和20年・広島の夏の日=その6 8月6日あの巨大な極彩色の雲の下にこそ… [ある編集者の記憶遺産]

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11もう67年前になる今日のこと

 夜中に、身体中が痒くて痛い。泣きたい気持ちもあったが、我慢した。
 明け方近かった。顔中、身体中が腫れ上がるようにカブレていた。昨日のめずらしいぶどうのような実は、広島でいうカブレ、ウルシの実だったのだ。
    ■
 リヤカーを出す時間がきたが、これではとても南竹屋町まで連れてはいけない。そう判断した叔母は「今日は広島はやめて、日なたに出ずに日蔭でおとなしゅう遊んどりんさいよ」と宣言した。
    ■
 67年前も、朝から快晴で、早くも強い陽射しが照りつけていた。日の当たるところに出ると、顔がちりちりと痛い。やっぱり叔母の言うとおりだ。
 痒みをこらえて家の蔭にいると、爆音が聞こえてきた。
 飛行機だ!
    ■
 表に出て見上げると、絵に描いたような青い夏空に、銀色に光るきれいな飛行機が朝日を背にして東から飛んできた。大きい飛行機だった。きらきらと輝くその飛行機は、爆音とともに悠然と近づいてきて、そして頭の真上を過ぎていく…。
    ■
 家の西側にある丘の向こうに消えようとする機影を、もっとみたい。なぜか銀色の飛行機に引き寄せられるようにそう思った。
 そして、日なたに向かって数歩走り出した、その瞬間。
 辺りが真っ白い世界に変わった。すべての色が消えた。
 と思うまもなく、強烈な音が響き渡り、衝撃を受けた身体は、宙に舞い上がり、次の瞬間には地面に転がっていた。
 何が起こったのやらもわからぬ目の前に、爆風で家の玄関のガラス戸が倒れて砕けた。ほんの数センチの差で、ガラスを頭から被らずに済んだ。
    ■
 西の丘の向こうに、雲がにょきにょきと盛り上がる。
 よくみると、かなりの勢いで沸き出してくる雲は、赤や青や黄色や茶色や、いろいろな色が混ざっていた。
 極彩色のようにもみえた雲の巨大な柱は、たちまちに天を突き、見上げるにも首が痛くなるほどに迫っていた。そして、その先端は丸く傘のように開いていて、見上げる顔と頭の上を覆った。
    ■
 だが、そのときその雲の柱の下でなにが起きていたのか、それを想像する力はなく、雲とともに沸き上がる得体の知れぬ恐怖に、泣きわめくことしかできなかった。その後のことは、ほとんど覚えていない。
 ただ、自分はどこからきたのかを問うとき、充分な説明はできないながらも、案外この雲の下からきたのかもしれない、と考えることがあるのだ。


12理不尽な仕業の理不尽な結末

 この日の記憶も、はなはだ曖昧で、断片的だが、以下は記憶ではなく、後に記録を読んで知ったことだ。
 ボーイング社製の長距離戦略爆撃機B−29の名は、前にもちょっとだけふれたことがある東京大空襲で日本人にも知られるようになり、空襲を受けた各地では、まぎれもない“鬼畜米英”の象徴そのものとして映ったことであったろう。
     ■
 ナチスのゲルニカ爆撃で2000人が犠牲になったときには、アメリカ大統領を始め国際世論が非難した。しかし、その数年後にアメリカ自身が行なった、東京やそれに続く各地方都市の無差別爆撃で、そして広島・長崎の原爆で、何十万の一般市民を殺戮したことについて、国際的・外交的にその責任が問われたことは一度もない。ゲルニカにはピカソがあり、広島にはピカソがいなかったからばかりではないだろう。
 東京裁判がどうの戦争責任がこうのという話も、もう何度も蒸し返されているが、戦争というもともと理不尽な仕業の結末は、やはり理不尽なままに終わるものだ。戦争というものが、そういうものなのだ。
     ■
 B−29に対して、防空防衛能力はほとんどなかったと思われる。なすがまま、されるがままというのが、当時の広島の状況だったらしい。広島駅裏の山にも比治山にも、その他あちこちにあったはずの高射砲陣地は、高高度でやってくる爆撃機にはなんの役にも立っていないし、迎撃する戦闘機の姿もなかった。
     ■
 広島に来たアメリカ軍機は、原爆を抱いてやってきたB−29エノラ・ゲイだけではない。その前には気象観測の偵察機が来て下調べをしている。“朝早く警報がでて、それが解除になった後に、ピカドンが落ちた”という証言が多数あった。そして、科学観測のための装置を装備した二番機も一緒に飛んでいた。その後は別の飛行機が飛来して、ご丁寧にも投下後の写真撮影までしている。
     ■
 とことん用意周到に準備された原爆投下は、とことん計画されたとおりに行なわれた。高度約9,600メートルで東から侵入し、投下目標地点である相生橋の手前約5,600メートルのところで爆弾を切り離し、途中で落下傘が開くとそのまま西に流れ落ちる。機は真っすぐ進むと、爆発地点に入ってしまうため大きく旋回したと記録はいう。
     ■
 これも計算どおりなのだろうが、目標地点の上空約580メートルに達したところで、世界で初の原子爆弾は炸裂した。その下には、街と人と暮らしがあった。
 音は光より遅いので、人々の五官には、ピカッとしてドンと感じられた。多くの人にとっては、それを五官が感じる間もなかったであろう。だが、その方が五官で苦しみを感じながら死んでいった人より、まだましだった、と言えるのだろうか。
    ■
 その爆発の瞬間に、ピカドンは直径280メートルの大きな火の球を生み出した。その火球の“中心温度は100万℃、表面温度5000℃”だったと推定されている。
    ■
 爆発の数秒間、強烈な熱線を放出して輝いた。このとき地上に照射された熱線は、爆心の直下では約3000℃だったという。これで、屋根瓦の表面が泡立った。
 高温は、周囲の大気を超高圧で膨張させ、衝撃波を生じた。それは瞬時にあらゆる建造物を破壊し、強烈な爆風が吹いた。その風速は、爆心から500メートル地点では、秒速約280メートルであったといわれている。
 火傷を負った被災者でまだ命あるものは、みな水を欲しがったという。
    ■
   水ヲ下サイ
   アア 水ヲ下サイ
   ノマシテ下サイ
   死ンダハウガ マシデ
   死ンダハウガ
   アア
   タスケテ タスケテ
   水ヲ
   水ヲ
   ドウカ
   ドナタカ
    オーオーオーオー
    オーオーオーオー

   天ガ裂ケ
   街ガ無クナリ
   川ガ
   ナガレテヰル
    オーオーオーオー
    オーオーオーオー

   夜ガクル
   夜ガクル
   ヒカラビタ眼ニ
   タダレタ唇ニ
   ヒリヒリ灼ケテ
   フラフラノ
   コノ メチヤクチヤノ
   顔ノ
   ニンゲンノウメキ
   ニンゲンノ
            (原 民喜『原民喜詩集』から『水ヲ下サイ』)

    ■
 その日からその年の暮れまで、つまり昭和20年の間だけで、当時の広島市の人口のおよそ三分の一にも相当する、約14万人の人が亡くなったといわれている。
 
 
13運がいいとか悪いとか…

 それでも、爆心地から少し離れたところで、わずかながらあちこちに生き延びた人は、ほんのちょっとした偶然によって、しばらく命をとりとめることになる。
 偶然が生死を分けるということは、平常時でも例がないわけではないが、このとき広島の街では、いたるところにそれがあった。
    ■
 戸外にいた人は熱線を浴びて、一瞬のうちに炭のようになったり、皮膚や肉が焼けただれ、建物の中にいた人は押しつぶされた。
 倒れた家の下敷きになって、身動きならないまま焼死した人も多かった。
 放射能被害がどうのこうのというのは、それからまた後のことで、この災厄を、偶然なんとか生き延びた人の何割かは、その後原爆症で長い苦しみを味わいながら死んでいくことになる。
    ■
 夏の朝は早い。いつものように、比治山の被服支廠にでかけていた下の叔母は、場所が爆心地から少し離れていたこと、建物がレンガ造りの頑丈なものであったこと、などによって助かった。
 比治山が直接の爆風を遮って、ここから東側では比較的被害が少なかったようだ。それでも、ガラスの破片を浴びて、血だらけになって、混乱の中を歩いてやっと府中に逃げてきた。
 「黒い雨」は、広島中心から北西部にかけてのことで、どうやらこちら東側では降らなかったようだった。その話は、聞かなかった。
    ■
 南竹屋町の家の中にいた祖父は、倒れた家の下敷きになった。祖父は持ち前の豪胆さもあったろうが、やはり運がよく、どうにか火が回って来る前に自力で這い出すことができた。
 そして、辺りがすぐ猛火に包まれると、家の前にあった井戸の中に梯子を降ろし、それに掴まって身を沈め、猛火と焦熱をなんとか避けた。
 井戸の周りには物置きや蔵などもあったが、そこが密集地ではなく、多少の空地があったことが幸いしたのだろう。
    ■
 祖母は、運が悪かった。
 たまたま、この日の朝は、近所の知り合いの家に用があるといって、ちょうど出かけたところだった。途中の路上で熱線を浴び、半身に大火傷を負って倒れた。
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dendenmushi.gif(2005-08- 記・2012/08/06 So-net 改筆採録)

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□17:昭和20年・広島の夏の日=その5 広島原爆の日が何日か知っている人は4割もいないという [ある編集者の記憶遺産]

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畑小屋のあったところは

 広い入江は潮が満ちて光る。潮が引くとカニが体操をする。その北の端からは、小さな川が国道2号線を越え、山陽本線を越え、さらに奥に北に、曲がりくねりつつ細く延びる。それに沿った道を行くと、東西を低い山の連なりに挟まれた畑や田圃がどこまでも続く。
 その谷あいの入り口近く、安芸郡府中町字外新開、いかにもという地名をもつそこには、府中町の南の外れもいいとこで、小さな川の向こう側は船越町という隣町で、山と田畑の間に十数軒の家が散らばる。
 川が岩で段差をつくるところは、自然の洗い桶のような凹みができ、洗濯物から大根まで、人々のあらゆるものの洗い場になっている。さらに川は赤土の採れる山や段々畑の山を過ぎ、どんどん細くなっていくが、やがて田畑の広がりがなくなると山の薮の中に消えてしまう。
    ■
 それを取り囲んでいる山の高さは数十メートルほどしかないが、自然の雑木林というか、タブなどの常緑樹や名も知らぬ潅木が生茂る、広葉樹林帯の特徴をもつ。
 冬はヤブツバキが、春はヤマツツジやアセビが咲き乱れ、夏は松林を抜ける風が涼しく、無数のホタルが飛び交い、秋はズルタケ、ソウメンナバなどと勝手に呼んでいたキノコが、ドングリと紅葉の間に無数に生える。これらのナバはキノコ汁になる。
    ■
 疎開した安芸郡府中町外新開は、そんな場所だった。だが、広島と行ったり来たりの忙しい疎開生活では、そういう自然の環境を楽しむような余裕は、誰にもなかった。もちろん、現在では宅地化の波に呑み込まれ、その面影はどこにもない。
 ときどきは、米軍機がくるというので、山の斜面に掘った防空壕に避難しなければならない。夜には南の呉の方角で、盛んに爆撃を受けているらしい光がまたたき、遠い音がした。
    ■
 府中町の山の間の小さな谷の畑小屋を出て、山陽本線の踏切を越え、国道2号線に出ると、青崎の東洋工業へ向かう昇り坂がまず最初の難所。それから大洲の橋を渡ると下るが、また今ではマツダスタジアムに近い蟹屋町の昇りがあった。的場の交差点を回ると鶴見橋を目指して南に下る。
 それがだいたいのコースだったように思う。叔母は一人で、荷台に二人のこどもを乗せたリヤカーをこいでいく。今なら猿猴川(えんこうがわ)に架かるいちばん南の橋を渡れば、ほぼまっすぐ南竹屋町まで行けるので、もっと楽だったろうに。
 

10
風化はもうすでに


 さて、ここで問題です。
 広島に原爆が落とされた日が、いつかを知っている人は?
 
  全国でウソだろっ38%。 (T_T)
  20代ではマジッすか22%。 (-_-#)
  ほいじゃが広島でも74%じゃけん! (>_<)

 
 (数字は2005/8/4放送のNHK TV『クローズアップ現代』の放送データによる) この数字は、2005年のものだから、今だともっと下がるのだろう。
    ■
 そうか。いまからもう、67年も前(上記放送時は60年前)のことになるのだ。100年も経てば、経験者もいなくなり、歴史の箱の中にしまい込まれてしまうのだろう。
 日本のいちばん暑く長い夏は、このようにして始まり、このようにして過ぎていったのだ。
  ●昭和20年7月17日  米英ソ首脳会談、ポツダム宣言発表。
  ●昭和20年7月28日  鈴木首相ポツダム宣言を「黙殺」と談話。
  ●昭和20年8月6日   広島に原爆が投下される。
  ●昭和20年8月8日   ソ連が対日宣戦布告。ソ満国境を越え参戦。
  ●昭和20年8月9日   長崎に原爆投下。
  ●昭和20年8月14日  御前会議でポツダム宣言受諾を決める。
  ●昭和20年8月15日  終戦の詔勅ラジオで放送される。
  ●昭和20年8月30日  マッカーサー総司令官、厚木飛行場に到着。
  ●昭和20年9月2日   ミズーリ号艦上で降伏調印。
  ●昭和20年9月11日  GHQが戦争犯罪人39人の逮捕を命令。

 日本人はすべて、この長い夏のことを、歴史の事実としてもっと知らなければならない。
    ■
 当時まだ小さなこどもにとっては、どれもあずかり知らぬことであり、その意味も背景も理解できぬことであった。この頃のことはほとんど覚えていない。8月15日の記憶も、ほとんどない。いくつかのシーンだけが、焼き付いたように残っているだけだ。
    ■
 67年前の今日、叔母は「明日は広島へ行くけぇね」と、従兄弟とわたしに告げると、リヤカーの準備を始めていた。
 いつも広島へ行くときには、夏の暑い陽が照りつける前に南竹屋町へ到着するように、早起きして5時には出発するのだ。
 その日、わたしはよく行く小さな探検に出かけた。川の洗濯場の上には、なにやら小さなブドウの房のようなものがぶら下がっている。これは新発見、初めてみるめずらしいものだ。それをたくさん収穫し、それとホウセンカの花でつくった色水を材料にして遊んだ。
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dendenmushi.gif(2005-08- 記・2012/08/05 So-net 改筆採録)

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□16:昭和20年・広島の夏の日=その4 米軍機が撒いていった警告ビラをみた祖父はこどもたちを疎開させた [ある編集者の記憶遺産]

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撒かれたビラは単なる脅しではなかった

 三本松の前に、人が集まっている。中心に立っているのはサーベルを下げた軍人で、人々が手にビラをもっている。そのビラなら、空から大量に降ってくるのを見た。なにかのお祝いのようにきれいに、それは賑やかに華やかに舞い降りてきたものだった。
 もちろん拾ってみた。紙は薄くてぺらぺらしていたが、軽くて丈夫そうで、別の世界から降ってきたもののようだ。
 ビラには、下手くそな字と絵が描かれていた。いろいろな図柄があったようだが、ひとつだけ覚えている。その絵柄には、家が赤い炎を上げていて、その上には大きな飛行機が覆いかぶさっていた。それは、とくべつ広島だけに向けた内容なのか、それとも各都市に撒かれたものと同じものなのか、わからなかった。
    ■
 そのビラだが、井伏鱒二が『黒い雨』で書いているところでは、次のようなくだりがある。
 
 『ふと僕は、先月の上旬か中旬ごろ敵機の落して行った伝単の文句を思い出した。「いずれ近いうちに、ちょっとしたお土産を広島市民諸君にお目にかけたい」という意味のことが書いてあったそうだ。』(新潮現代文学2)
 
 これを読むと、そのビラは明らかに広島に向けた警告だったことがわかる。原爆について、アメリカ軍がそれとなくにおわせ、伝単(ビラ)で予告したことは、はずれなかった。
 それは、予告というより確かな警告だったのだが、その意味をまともにありのままに想像できる日本人は、当時あまりいなかった。
    ■
 第一、こんなビラを、いったいなんのために、アメリカ軍は撒いたのだろう? 
 無益な抵抗を続けている敗残兵に投降を促すためのビラなら、自軍の兵士の損傷を避ける意味もあろう。だが、このビラには、なんの意味もない。危ないから早く逃げろ、といっているわけでもない。
 あるとすれば、自分たちの優位性を誇示し、“お前達の命は俺達の自由にできるんだぞ”と勝ち誇った見得を切っているに過ぎないのだ。
     ■
 だから、こんな一見ふざけたようなビラを見ても、受け止め方は一様にはならない。こりゃあ危ないと思って具体的な行動を起こした人と、それほどのことではないと無視しなにもしなかった人と、だいたい二つに分かれた。
 祖父は、前者であった。
    ■
 祖父はこれを見て、広島に万一のことがあった場合を考えた。そして、夫を招集された上の叔母とそのこども(つまりわたしの従兄弟)とわたしの三人を、府中町字外新開の畑小屋に、疎開させることにした。


リヤカーに乗って“疎開”

 五歳児の記憶というのは、かなりまだら模様をしている。
 はっきりと覚えていることもたくさんあるが、その前後の出来事やそれとの関係性についての記憶は、あやふやになっている。 祖父の意思決定は、素早く迷いはなかったようだった。府中町の畑には貸家もあったが、そこに上の叔母と従兄弟とわたしの三人が住めるようにしようという計画だったらしい。
 しかし、それまで待たずに、急いで畑の片隅にあった小さな小屋に、三人を疎開させた。
    ■
 南竹屋町の家と府中町の畑小屋は、直線距離にすると5キロ足らずであろう。だが、猿猴川があるため、広島駅に近い方をぐるっと回っていかなければならない。
 大正橋という橋が一番南の橋だったが、記憶ではこの橋は戦後は焼け落ちて、人が一人やっと通れるくらいの仮橋になっていたように思う。『黒い雨』でもこの橋の名前が出てくるが、ちゃんと渡れているように書かれているので、どうもいつ落ちたのかわからない。
    ■
 それに、昭和20年の夏には、市電はともかく、ガソリンを使う一般の交通機関はほとんど機能していなかった可能性がある。木炭自動車の乗合いバスが走っていたような気もするが、それに乗った記憶がないし、それは戦後のすぐのことだっかもしれない。
 国道を自転車の横に荷台の車が取り付けられるようになったリヤカーで、行き来するのだ。さすがにこういうものも、いつからかなくなってしまっている。
    ■
 この荷台に、まだ歩けるようになって間もない従兄弟と五歳のわたしを乗せ荷物も載せて、叔母がひたすら自転車を漕いでいくのだ。
 荷台には、二人のこどもが乗り心地がいいように布団も敷かれていて、飲み物も大きな容器に用意されていた。その味も、ときどき記憶に甦るのだが、それが麦茶だったかミカン水のようなものだったのか、定かでない。
    ■
 畑小屋は、ほんとうに農作業のための道具を収納している物置きで、その片側には二畳ほどの畳も敷いてあった。そこに三人が寝泊まりする生活は、そうして始まった。
 煮炊きは叔母が、小屋の前に七輪を出して行ない、“田舎の生活”がものめずらしかったわたしと従兄弟は、日々新たな経験をして遊ぶのが仕事だったが、ハイジのような…というほど牧歌的な毎日だったわけでもなかった。
     ■
 そんな生活は、あくまでも仮住まいなので、必要な物資などを運ぶのと、祖父母に孫の顔を見せるのと両方で、十日に一度くらいは、南竹屋町にまたリヤカーで帰り、一二泊してまた府中町へ戻るといったことを繰り返していたのだ。
 ただ、それでは、あまり疎開の意味もないのだが…。
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dendenmushi.gif(2005-08- 記・2012/08/04 So-net 採録)

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□15:昭和20年・広島の夏の日=その3 宮島さんの神主がおみくじ引いてもわからない [ある編集者の記憶遺産]

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南竹屋町と千田町

 あなたの場合、いったい「一番古い記憶」というのは、何歳くらいの時のものだろうか。おそらく、誰もはっきりとは「何歳何年のこれ」と特定はできないだろう。
 わたしの場合も、そうなので、古い順に並べることなどできない。だが、それらの断片のいくつかは、すべて南竹屋町の生家とその周辺でのことだった。
    ■
 アスベストのニュースで、解体作業の映像が流れると、三本松の「角屋」が強制疎開で引き倒されていたことを、あの土壁のにおいとともに思い出してしまう。散歩で体操をしている人たちをみると、「間(はざま)酒店」の前の広場で、ラジオ体操をしていた光景が浮かんでくる。
 それらを、こんなところにいちいち書いてもしかたがないのだが、今にその記憶の証拠物件が残っているのをみると、なんともやるせない。お医者さんの「東儀さん」は、子孫のどなたかが継いでいるらしく、今も医院の看板が出ている。
    ■
 「千田小学校」も、今もそこにあるのが不思議な気さえする。その入り口には石の門柱があり、兵隊さんの歩哨所があった。防火訓練や金物供出の記憶がある千田小学校には、原爆の記憶を留めようという努力をしてきたらしく、いくつかの痕跡を今に残している。この門柱も昔のままのような気がする。
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 校門の横には、被爆したクスノキが今も葉を茂らせていた。
 運搬手段は、もっぱらリヤカーであり、大八車である。人力車は今でも浅草や鎌倉にごろごろしているが、大八車はなくなった。時代劇によくでてくる大きな二輪車で、主に荷車の用途である。リヤカーにも、説明がいるだろうか。これは自転車の横に車の付いた荷台をつないだもので、オートバイのサイドカーのようなものだ。
    ■
 その大八車に、さまざまな金物をいっぱいに積み込んでいる。それを引いて押して、千田小学校の校庭まで運んで行く。そうして、集められた金属類が、みるみる山のように積み上げられていく。
 各家庭から供出させた金物を、兵器や資材に再利用するためである。
 別の日、千田小学校の校庭ではまた別の行事が行なわれていた。
 もんぺ姿に手ぬぐいを頭に巻いた女の人たちが、ご近所総出で何列かになってバケツ・リレーをやっている。その先には燃え盛る火炎がある。掛け声とともに、必死の消火訓練は、迫力があった。
    ■
 小学校の前には川が流れていて、橋には低い石の欄干があった。平野橋というのがその橋の名前だったというのも後から知ったその橋も川もないが、その頭の丸い石は、小学校のなかにちゃんと保存されていた。だが橋の名前は、今の京橋川にかかる四車線の大きな橋にそれを譲ったらしい。
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 高い金網に囲まれていた「広大(当時は別の名前だったが)のグランド」にもよく行った。今、そこに広大はないが、グランドと敷地の跡は、やはり金網のフェンスに囲まれている。
    ■
 数年前に、わざわざこの町を訪ねて、そこらを歩いてみたのだ。生家があったとおぼしき場所には、それを特定するなにものもない。家の前には畑が広がり、その向こうには広島のシンボルのひとつでもあった比治山が見えていた。今、畑はなく、比治山も建物の陰になる。
 ただ、家の前から三本松と呼ばれていた神社の祠(これも後から知ったが、お稲荷さんだった)まで、広い坂道があったと思っていた。

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 今見ると、道は広くもなく、坂も記憶の傾斜よりもだいぶ緩い。三叉路の真ん中にあった三本松のほこらも、ビルの下のわずかな隙間に押し込められていた。
 

生家での記憶
    ■
 生活の場は、足が折り畳みできる丸いちゃぶ台を囲むお茶の間で、そこに集う何人もの人の影があったが、あまりよくは覚えていない。
 電気は白色ガラスの笠に、後知恵では松下幸之助が考案した「二股ソケット」がついていた。ラジオは、神棚と同じ鴨居の高さにあり、これも「ナショナル受信機」だったらしいが、ここでラジオを聴いたりした記憶は、ほとんどない。
 だが、蓄音機はよく聴いた。ピックアップの先はゲンコツのように丸く重い。鉄筆の先のような針をつけて、分厚いレコード盤にのせる。箱の横に手回しのハンドルがついていて、これを回さないと回転が落ちて、音が「る〜〜ん」と変になる。
    ■
 夜は、二階の部屋で寝ていたのだろうか。電気の笠には、ふろしきのような布が巻き付けてあるので、薄暗い。怖い夢もよく見る。
 昼は、怖くない。二階の部屋には祖父が手造りの石造りの柵で囲まれたテラスがあり、そこから比治山が正面に見える。
 比治山の右横辺りには、何をするものか何のためかはよくわからなかったが、飛行船がよく浮かんでいた。
 それを眺めながら、着物を着た女の人と一緒に歌う。“見よ 東海の 空明けてぇ〜 旭日高く…”
 女の人は母ではない。もうそのときに母はいなかったので、それは叔母たちだった。
    ■
 祖母の記憶は、白い前掛け(エプロン)をして、かいがいしく台所で立ち働く姿であった。上品な味のする箱寿司や、フライパンで焼くさ まざまな形のクッキー(というよりお好み焼きの元祖に近い)、戸棚からだしてくれる干しバナナ…食べ物の思い出ばかりというのも申し訳ないが、もっぱらその祖母が南竹屋町の家でわたしのめんどうをみ育ててくれていた。
    ■
 市内の交通機関は、一応正常だったらしい。広島の町中には路面電車が走っていた。それに乗って、ヒモからぶら下がった木の把っ手のようなものを引くと、チンチンときれいな音を立てた。今度はバスに乗り替えて、太田川をさかのぼって、結婚していた上の叔母の家を訪ねて行った記憶がある。
 途中、神田橋を過ぎ、工兵橋にかかると、バスが走る土手の下には、戦車がずらりと並んでいるのが見えた。
 下の叔母は、まだ女学生で、比治山にその学校はあった。
    ■
 家の前の道路の向かいには、蔵があり、井戸があり、セメントでできた防火用水桶があり、祖父の仕事のための物置きにもなっていたのか、少し広い空間が開けていた。
 誰かが仕事でも車を使っていたのかというと、そんな記憶はない。あったとしても、ガソリンはもう手に入らなかっただろうが、もちろんこれも後から考えることだ。
    ■
 動くブリキのおもちゃが気に入っていた。
 サイレンを鳴らし梯子が伸びる赤い消防自動車、機銃がバリバリと火花を散らして走るゼロ戦…。すごいぞ…バリバリバリ…。
    ■
 風呂場はそう広くはなかったが、西日本で多かったいわゆる五右衛門風呂で、鉄の円い釜が据え付けられ、釜の下で薪などを燃やして湯を沸かす。
 鉄の釜では、乾いたところに触れるとやけどをしそうだが、湯の中では背中をつけても平気で気持ちがいい。ただ、底だけは木製かセメントでできた板を入れる必要がある。
    ■
 この風呂場は白いタイル張りで、その一面には厳島神社の朱色の大鳥居と回廊と弥山まで取り込んだ風景を描いたタイルが使われていた。そこで、いつも大声で歌う歌があった。「宮島さん」というのが正式題名かどうかも、よくわからないが、それで通ってきた。野球フアンの方ならご存知の、広島東洋カープの応援団が、得点の度に大合唱する、あの歌。もちろん、カープなどまだない昔の文句はちょっとだけ違っていたが、○○の部分を入れ替えて多目的に使える。
 戦前から、広島は広島商業を頂点とする野球熱の盛んなところだったのである。この歌も、その辺からきているらしい。
  「宮島さんの神主が おみくじ引いて 申すには
     きょうも ○○ 勝〜ち勝〜ち か〜ちかち…」

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dendenmushi.gif(2005-07-末 記・2012/08/03 So-net 採録)

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□14:昭和20年・広島の夏の日=その2 天候条件がよかったから原爆は広島を選んだ [ある編集者の記憶遺産]

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広島とはどういうところだったか

 最近でこそ「ヒロシマ」とカタカナで書かれることは少なくなった、「広島」とはいったい、どんなところだったのだろう。花崗岩でできた中国山地を削りながら土砂を運んできた、太田川の三角州の上に、最初に築城し町造りをしたのは、毛利輝元である。そのとき、自身の先祖に当たる毛利の大祖、大江広元の名に因んでその名をつけた、ともいわれる。
    ■
 それ以前は、今の市街地の中心部は全部海であったのだろう。100メートル道路を縦断する電車通りには“白神社”という巨岩の社があるが、この岩だけがぽっかり海面に突き出ていたのかもしれない。
 厳島神社を造った平清盛も、ここは素通りしているようだし、神武東征伝説では、その途上で、今の安芸郡府中町は呉裟々宇山(下りの新幹線が安芸トンネルを出ると右手に、上りの新幹線が広島駅を発車するとすぐ左手に見える山。付近の最高峰)の麓、多家神社のところに船を停めたという記録がある程度である。
 長州征伐の時には、幕軍の前線基地だったし、忠臣蔵の浅野家の本家がここであった時期もあるが、さほど歴史上に大きな役割を果たした地、というわけでもなかった。
    ■
 明治の廃藩置県で、安芸と備後の旧二国が広島県となり、明治13年に県令として赴任してきた薩摩藩士だった千田貞暁が、その後の近代広島の基礎を築いた。
 彼の努力により宇品という港が開かれ、さまざまな産業も興されるが、何といってもそれが脚光を浴び、その功績が再評価されることになったのは、明治27年の日清戦争の勃発であった。
 “そおらーもみなとも よははーれーてー”という古い童謡は、宇品港の殷賑(いんしん)を謳ったものだが、“端艇(はしけ)の通いにぎやかに”して、ここから続々と大陸へ兵員や物資が送られることになった。おりから、山陽鉄道も神戸から広島まで延伸されていた。
    ■
 戦争指揮のため大本営が広島城内におかれ、時を移さず明治天皇も広島に入り、伊藤博文首相以下政府高官の大部分も広島に移り,帝国議会も広島で開催されるなど、翌明治28年天皇が広島を離れるまでの二百数十日間は,広島は実質上日本の首都になったのである。
 呉には鎮守府がおかれ,広島は陸海軍の西日本における中心地となり、戦略基地となった。その経緯から、当然その後の日露、日中、太平洋戦争でも、ここから戦地に向かった兵員は多かった。「軍都広島」という看板は、こうして固定していった。
 「千田さん」と、大人たちが敬愛を込めて呼んでいたのは記憶にある。千田県令の名は、今に広島の町名に残り、千田小学校も、その名に由来する。
 彼が基礎をつくり、夢に描いた広島の発展、それは本人の思いもかけない方向に伸びていったのだろう。そしてそれが、彼が、いや誰もが、知る由もない運命の辿る道を引いていたのかもしれないのだ。
     ■
 トルーマンが原爆投下を決定したのは、後に弁護され正当化されているように、「アメリカ将兵の犠牲を少なくし、戦争を早く終結させるために必要だった」わけでは、まったくない。
 新しい兵器をソ連にさきがけて開発して優位を確保するために、その威力をどこかで実証したかっただけなのだ。しかも、ご丁寧にもうひとつ、タイプの違うものも長崎でも試している。どさくさにまぎれて、自分の利益のために多くの犠牲を承知のうえで、それを恥じない点において、それは火事場泥棒ソ連の参戦と変わることはない。
 アインシュタインなど科学者の後押しでできたその世界初の究極爆弾を、どこに投下するか、いくつかの選択肢がほかにもあったこと、計画当日の天候も大きく左右し、結局広島に目標が定められたことも広く知られているが、その候補決定に当たって、「軍都広島」のイメージがなんらか影響しなかったとは、誰にも言えない。
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宇品線と比治山の下で

 広島が、日清戦争以来「軍都」といわれてきたのは、大本営があったからだけではない。その後に続くどの戦争においても、物資兵員の兵站基地的な性格を、強くもち続けていた。
    ■
 明治27(1894)年の6月に山陽鉄道が広島まで延びると、そこから宇品までの線路が突貫工事で敷設され、2か月後には軍用鉄道路線が開通していた。広島駅と宇品港を結ぶ、たった6キロ足らずのこの鉄道が、一般旅客を乗せるようになるのは、それから3年後のことである。
 今、広島に行っても宇品線はない。既に1960年代の終わり頃から段階的に旅客営業は廃止され、最後まで残っていた貨物輸送も、1986(昭和61)年に廃止された。だが、その痕跡だけは、付近を歩けばいくつも見られる。
    ■
 この軍用鉄道の沿線にも、軍の施設がいろいろ設けられていた。陸軍被服支廠倉庫や陸軍兵器支廠や陸軍糧秣支廠倉庫などもそうである。
 戦況が厳しくなると、軍は一般の市民や学生をさまざまな作業に動員した。いわゆる学徒動員は、学徒出陣までいかない生徒たちを動員していたものだ。
 早い話、勉強などそっちのけで、毎日、兵隊さんの服を縫ったり、兵器をつくる手伝いをしたり、強制疎開(焼夷弾の被害を食い止めるためと、江戸時代そのままに火除け地をつくる目的で建物を強制的に接収し取り壊す)の取り壊し作業をしたりしていた。
    ■
 比治山の南東側に位置するところにあった広島陸軍兵器支廠に動員され、ここで作業に従事していた修道中学校の生徒のなかには、平山郁夫さんもいた。
 その隣の陸軍被服支廠では、比治山女学校に行っていた下の叔母が、ミシンを踏んでいた。
 日清戦争以来ここにあった被服支廠だが、大正時代のレンガ造りの建物が被災当時のもので、これが旧陸軍被服支廠倉庫として、今に残る。
    ■
 そして、そこから北へちょっと行った段原には、張本勲さんがいた。わたしと同じ年頃だった。
 いずれにしても、軍人や官員が多い町では戦前から検番も盛んで、周りには山ばかりで農産物が自給できるほどの田地もなかった。早くから、消費都市の様相を強く持っていたのが広島である。
 そこで産業を育成奨励しなければならないと、元安川のそばにできたのが、当時では異色の丸いドームを備えた「産業奨励館」であった。
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dendenmushi.gif(2005-07-末 記・2012/08/02 So-net 採録)

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□13:昭和20年・広島の夏の日=その1 どんなささいなとるにたらないような体験であっても… [ある編集者の記憶遺産]

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ひとつの運命の星のもとに

 どんな時代に、どんな親や環境のもとに、生まれてくるか、誰しもそれは自分では選べない。それを人は運命と呼ぶ。
 運命はまた、ほんの紙一重の神様の気まぐれや偶然によって、いとも簡単に、あっちでころころ、こっちでころころと変転する。
 そうとでも思って割り切らないと、人はこの世を生き抜いてはいけないのだろう。
    ■
 生まれてきた時代が悪かったとか、生まれてくるのが早過ぎたとか遅過ぎたとか、そういう表現で、人の運否天賦を呪ってみても、それもまたむだなことだ。そんなことは思わず、ただ、人は誰しも、生かされているから生きているのだ、と思うほうがよいのだろう。
 では、決して望んだ訳でもないのに、道半ばにして死ななければならなかった人は、どう思えばいいのだろう。
    ■
●1939(昭和14)年 5月/ノモンハン事件 7月/国民徴用令 9月/ドイツのポーランド侵攻で第二次世界大戦始まる
●1940(昭和15)年 9月/日独伊三国同盟調印 10月/大政翼賛会発足 11月/紀元2600年
●1941(昭和16)年 4月/日ソ中立条約 10月/東条英樹内閣組閣 12月/ハワイ真珠湾攻撃・マレー沖海戦
●1942(昭和17)年 1月/マニラ占領 2月/シンガポール陥落 5月/珊瑚海海戦 6月/ミッドウェー海戦 8月/米軍ガダルカナル上陸・第一次^第三次ソロモン海戦

 既に大陸では1937(昭和12)年から蘆溝橋事件に始まる日中戦争が続いており、そのなかで国民は“紀元2600年”を奉祝していた。開戦の翌年には、日本軍の前線は最大まで延び切っていて、これから後は下り坂を転げ落ちる一途となる。
    ■
 この間に、広島の町の真ん中で結婚三年目の夫婦にこどもが産まれ、それから二年も経たないうちに妻を病院で亡くし、悲嘆した夫は幼子を親に託し、職業軍人でもないのにお国のためにとわざわざ志願し、海軍軍属として戦地に赴く。
 大きな時代のうねりの中にも、庶民のささやかな暮らしがあり、喜びもまた悲しみも綾なしていた。おそらくは、“こんな時代に生まれてきたことを恨む”ようなこともなく…。


ほんとに悲惨な目に遭った人は何も語ることもできず死んだ


 原爆のことを語ろうとしている。こんな、他人にとっては実にどうでもいい私事を連日連ねつつ、そのことをくわしく書いて、人様の目に触れることを覚悟のうえで記録しようとしているのも、今回(注:2005年)が初めてのことである。
    ■
 悲惨な体験をした人はたくさんある。たくさんあった。それに比べて、自分のその程度の体験などは、とても体験のうちに入らない。劫火の中をかいくぐって九死に一生を得たというわけではないのだから、人に語るほどの資格はなにもない、と思っていたからだ。
    ■
 しかし、どんなささいな体験でも、語らねばならないと思いなおした。誰でも、とるにたらない、たいした体験でなくても、語ったほうがいいと思うことにしたのだ。
 ただ、本当にひどい体験をした人は、何も語ることもできずに死んでいるのだ、ということだけを、決して忘れずに…という条件付きで。
    ■
 マスコミが勝手につけたキャッチフレーズに「怒りの広島・祈りの長崎」というやつがあったが、そんなに単純に整理できるものでもない。それに、広島の人は、どちらかといえば原爆について語ることを、できれば避けたがる人も多い。
 家の中でも、祖父と原爆の話をしたことはない。今となっては、それも悔やまれる。
    ■
 戦後12年という歳月をどうにか生きて、どうにかわたしを育ててくれた祖父を支えていたのは、先に死んでいった者が託した責任を果たすための義務感であったろう。
 その直接の死因は、持病の喘息の悪化による呼吸器系の障害だった。正式には病名がそうだったことはなかったが、晩年の弱り方は、とても尋常ではなかったので、やはり原爆症の疑いが大いにあったと思っている。
    ■
 アメリカ軍は、進駐してしばらくすると、比治山の上の目立つところに、かまぼこ型の建物を数棟建てた。これは、原爆の効果がどの程度あったか、その新兵器が人間へもたらすダメージを調査する機関のためのもので、正式名称は知らず、ただみんな「ABCC」と呼んでいた。
 ABCCの連中は、なぜか市内には住まず、呉方面から占領軍専用の銀ピカのバスで、国道二号線を走って通っていた(とうわさされていた)。そのバスが通るたびに、われわれこどもたちは、それに遭遇すると何かいいことでもあるかのごとく、「あ、ABCC! 見た見た!」と囃した。
 祖父も、このABCCに呼び出されて、何度もそこへ行っていたことがある。あるときは「今日はアメリカさんの送り迎えつきじゃけぇ」と車で帰ってきたりしたこともあった。
 だが、ABCCが原爆症の治療をしたことはない。
    ■
 結果的に今まで生きてこれたのだから、別にたいした、ドラマチックな経験をした訳ではない人間が、何も語ることもできずに死んでいった人に代わって語ることも、到底できないのだが、せめて記憶を風化させないためには、なんらか、つっかい棒の一本くらいの役に立つかもしれない。
 そう思って、しばらく、8月6日までくらいの予定で、この短期連載は毎日続けてみたい。

dendenmushi.gif(2005-07-末 記・2012/08/01 So-net 採録)

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□12:野ばら社『児童年鑑』とはどんな本だったかというと… [ある編集者の記憶遺産]

 ページ数はわからないが、厚さは5センチくらいあった。判型も当時はそんなこと知りもしないが、おそらくB6判くらいだった。表紙はすでにビニールがあったかどうかも不明だが、光沢が少しある空色で、題字が箔押ししてあった(カラ押しだったかも?)。製本はいちおう上製本で、糸かがりの丸背だった。口絵の数ページだけがカラーで、本文はスミの折りと色インキ印刷の折りとがあった。
 口絵のカラーでは、イラスト絵地図の日本地図と世界地図があった。
 動物や植物の簡単な図鑑のようなものもあった。
 本文は縦組みで、これもイラストつきでわりと詳しい日本史年表と、比較的簡単な世界史年表があった。
 ことわざや俚言を集めたページもあれば、百人一首のページもあった。
 道歌に加えて、なぜか明治天皇の御製もあった。
 よく覚えているのは、そのくらい…。だが、ほかにも雑多なことがたくさん盛り込まれていたはずで、「年鑑」というより「十科事典」的な趣がある本だった。
 広島の八丁堀は福屋という戦前からのデパートがあった。それに加えて、岡山の天満屋が進出するまだだいぶ前のことだった。福屋の横から金座街という短い通りがあり、その先が鉤になって東西に伸びる本通り商店街に続いていた。
 その鉤の手前に広文館という本屋があった。本通りにも金正堂という本屋があり、電車通りの向うに渡ると積善館という本屋もあった。その当時は「書店」という呼び方は定着していなかったように思われる。フタバがその当時からあったかどうかよく覚えていないが、紀伊国屋やジュンク堂が進出する、はるか昔のことである。
 その立地条件から、その後もよく出入りしたのが広文館で、さして広くはない店内に新刊本がぎっしり並ぶさまは、始めのうちはどきどきするほどだった。
 そこで、どれか好きな本を選べといわれても、たいがいは迷い困る。
 けれども、そのときには、きっと天啓のような導きがあって、『児童年鑑』との遭遇があったのだろうと、今にして思うことがある。
 昨日(2010/7/29)の岬めぐり580甲ヶ崎のところで、ちらっと書いた、松岡正剛の『情報の歴史』で、その頃というのは、どんな時代だったかをめくって眺めてみる。
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 年表のおもしろさが、どっとあふれ出てくる。
 野ばら社の『児童年鑑』で、その後も長く飽きずに眺めていたのが、地図と年表だった。
dendenmushi.gif(2010/07/31 記)

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□11:バスに乗って広島の町へ行き初めて買ってもらった「本」があった [ある編集者の記憶遺産]

 青崎小学校は広島市の東のはずれにあるが、でんでんむしの住んでいたところは安芸郡府中町で、学区からいうと異なる。当時は、府中町には小学校はひとつしかなく、府中町のはずれからはそこへはとても通えない。それで、府中町から青崎に通って来るこどもは、特別に「区外」からの通学生とされていた。
 国鉄の駅「向洋(むかいなだ)」と東洋工業の本社があるところは、広島市ではなく府中町である。国道二号線沿いや駅への通りには若干の商店もあったが、やはりちょっとした買い物は広島の町まで出ていかなければならない。
 買い物をするものも、お金もなかったはずだが、たまにバスに乗って広島に出かけることがあると、遠足にでも行くような楽しい気分になる。
 うっかりして、前にも「国道二号線」と書いたのだが、これは「当時の」という断りをいれなければならなかった。現在の二号線を西へ行くと、青崎小学校の南250メートルのところを通って猿猴川を黄金橋で渡り、比治山の南を抜け、京橋川を平野橋で渡って、南竹屋町(原爆で焼けたでんでんむしの生家があった)を横切って行く。
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 何年か前、初めてこの道を通ったときには、まったく今浦島の心境になったが、マツダ本社の奥に連なる、呉娑々宇(ごさそう)山をみて、胸の奥からこみあげてくるものが抑えられなかった。山陽新幹線からもよく見えているこの山々から新幹線のトンネルの上付近にかけてが、中学高校くらいの時期には、でんでんむしの遊び場だった。
 それはともかく、今ではすっかり寂れてしまった旧二号線は、青崎小学校の北を通り、新しくできたマツダスタジアムに至近の蟹屋町、広島駅を経由して、広島の中心街である八丁堀、紙屋町へ向かう。
 5W1Hのほとんどが不明のまま、ある一冊の本との出会いが、そこであったのである。
 野ばら社『児童年鑑』。それがその本の名前であった。
 今でも同じ名前の図案カット集や書道、童謡唱歌などの実用書を出している出版社が、旧古川庭園に近くにあるが、それがこの出版社なのか、関連があるのかどうか不明である。出版社の場合、取次の口座を引き継ぐ形での経営権の移動が行なわれることもよくあるので、名前が同じでも連続性があるとはいえない。
 入手に至る事情は、さっぱり覚えていないのだが、なにか一冊好きな本を買ってあげるというようなことだったのだろう。でんでんむしが選んだ『児童年鑑』は、滅多にないチャンスに実に最適の選択によって遭遇した、最高の一冊だった。なにしろ、それから何年もの間、この本一冊がぼろぼろになるまで愛用したのだから…。
dendenmushi.gif(2010/07/29 記)

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□10:教室で作文を先生にほめられて一生の道が決まるということはないにしても… [ある編集者の記憶遺産]

 当時、小学校で「綴り方」といっていたのか、それとも「作文」といっていたのか、それもよくわからない。『綴り方教室』という映画もあったような気もするが、そのこととも直接関係ない。
 小学校の4、5年生の頃だったと思うが、自由題の作文を書いてくるようにという宿題が、クラスの全員に出された。…と書いてみて、ふと思う。それは記憶違いで、あれは宿題ではなく、教室のその場で授業時間内に書いたのではなかったか。そんな気がする。
 自由題で書けといわれ、すぐ思ったのは、当時家で買っていたなかよしのネコだった。現在ではあまり見なくなった黄味がかった茶と白のだんだら模様のネコのことは、いつも一緒だったから、いくらでも書くことは浮かんでくる。それを題材にして、「ネコのミー」という作文を書いて提出した。
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 数日後の国語の時間に、一人だけ指名されて、先生がその作文をたいへん褒めてくれて、みんなの前で自作を読み上げるようにという。いくらぼんやりでも、そんなことができたのはクラスで後にも先にも自分唯一人だけだったとなれば、いかに誇らしいことかは理解できる。
 ただ、それだけのことだったが、そのことがその後の自分の人生をなんとなく規定して、流れをつくり始めた最初のひとこまではなかったか。
 後で思えば、そんな気もするのであり、薄ぼんやりした小学校時代の、最も輝かしい瞬間だったともいえる。
 よく、自分の一生を決めた先生の一言とかいうのがあるけれど、現実にはそれらはすべて後からそういう理屈をつけて、自分自身を納得させるためのものである。
 この場合もその類いなのではあろう。もちろん、それから勉強が好きになったとか、大人になったら何になろうという目標ができたわけでもなかった。
 そのときの、先生が誰だったのか、それももはや遠く消えかかっている。確か、“長谷川先生”のときだったろうか。毎年最下位争いをしている広島カープという2リーグ制で新設された田舎貧乏球団の屋台骨を支えて、大車輪の活躍をしていたエースが長谷川投手であった。長谷川先生もそれを意識していた。長谷川投手は「小さな大投手」といわれたくらい小柄だったが、長谷川先生は長身で、教室で騒ぐこどもがあれば、短いチョークを、そっちへ向けて「ピッチャー長谷川、投げました!」といって飛ばしたりしていた。
 新聞を見ながら、勝率や順位変動などをグラフにして机の前の壁に貼っていたのも、この頃だったろう。ところが、こんなやりがいのない作業が、そうながく続けられるわけがない。世の中には、どうしようもないことが多いものだと、こどもなりに納得した。順位が上がらないなら、あとの目標は今でいえばさしずめ “GIANT KILLING”ということになる。
 強いて言えば、でんでんむしの「判官びいき」的、「アンチ寄らば大樹の蔭」的へそまがり思想の原点は、ここらへんだったのだろう。
 野球を教えてくれたのは、税務署に勤めていて、職場のチームではキャッチャーをしていたという叔父であった。プロ野球を観に、広島の観音町にあった県営球場まで連れて行ってくれたり、スコアブックのつけ方を教わった。それがおもしろくて、ラジオ中国の野球放送を聞きながら、スコアブックをつけたりしていた。
 遊びでする野球は、もっぱら三角ベースで、それもあまりゲームにはならず、交互に打つのと捕るのとを繰り返すことが多かった。空地が狭いので、ホームランを打つと山の薮の中に入ってしまい、そうなると一個しかないボールを探して時間の大半がつぶれてしまう。なので、ホームラン厳禁。
 絵がうまいとは自分でも思わなかったから、写生大会で入賞したのには本人が驚いたが、賞状をもって帰ると、そこに書いてあった広島市教育長かなにかの表彰者の名前をみて、今度は叔母たちが驚いた。その名の人物こそでんでんむしの父や母が小学校で習った担任の先生の名前だった、というのである。
 そのときには、まだそれがピンとこなかった。
dendenmushi.gif(2010/07/27 記)

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□09:広島のそろばん塾と国道二号線のローマ字と青小の開かずの図書室 [ある編集者の記憶遺産]

 当時の小学校の授業で、何を学び、どんな成績だったのか、よく覚えていない。きっと、そんなに目立つこどもではなかったし、そんなに成績がいいというほどでもなかったのだろう。
 小学校の6年間は、とにかく遊ぶのが忙しい毎日で、まだ周辺にたくさん残っていた自然(というより、それしかなかった)を相手に、なにかしら遊んでいた。今時分であれば、夏草のあのむせかえるような草いきれのなかで、草も花も虫も、そしてでんでんむしやかえるなど手当たり次第すべてのものが、遊び相手になり得た。
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 勉強などにうるさくいう親もいなかったし、習い事や塾とも遠かった。
 とはいえ、そろばん塾だけは盛んで、通っているこどもも結構いた。そろばんができれば、それは将来の仕事にも役立つという、世間の共通認識があったらしく、広島商業の珠算の先生などは、確かラジオ番組をもっている有名人だったような気もする。ラジオでそろばんをどう教えるのか、それもよくわからないのだが…。
 これも、流行りみたいなもので、なんとなく自分も行かなければ悪いような気がして、ほんの少しの間だけ通って「9級」の免状をもらってやめたことがあった。当時、学校で買ったそろばんは、ひどく雑なつくりで珠もすらすらとは動かないようなシロモノだった。
 そろばんだけでなく、鉛筆やクレヨンの芯にはガリガリ引っかかるものが入っていたり、紙は藁半紙という通り、ワラの切れ端が混ざっていたり、黒っぽい粗悪なものしかなかった。
 平凡な小学校生活で、どんなことを習ったのか、ほとんど覚えていないのだが、ひとつだけローマ字を習い始めたことは、ある思い出と重なっていて忘れられないことだった。
 ローマ字は、4年生くらいのことだろうか、たまにしか習う機会はなかったが、これが忘れられないのは、自分たちの知っていることばが、ABCでも表現できて読めるということに、とても興味を覚えたからだ。これは、おおげさにいえば、ひとつの異世界への扉を開けるような気がしたのだろうと、後付けの理屈がつく。
 安芸郡府中町のでんでんむしの家から広島市立青崎小学校までは、改めて計ってみると約1.5キロほどの道のりで、大人の足で歩けば30分はかからない。小学生は、当時はかなり遠く感じたその道を、ゆっくりと時間をかけて歩いて通う。
 あるとき、通学路の国道二号線に沿ってぽつんとあった古道具屋の前に、ピカピカの見たこともないような乗用車が停まっていた。茶色と白の車の後ろには、習いたてのアルファベットが並んでいる。最初は「M」でその次が「E」だ。これは「め」だな。あれ、次は「R」で「C」…? ローマ字では読めんじゃないか。「めく…る?」と声に出して苦心しているところへ、古道具屋から出てきた上品できれいなそしてまた見たこともないような服装のアメリカ女性が出てきて、こちらに向かって笑いかけながらひとこと、「Mercury…」といって車に乗り込んだ。
 どぎまぎして、どうしていいかわからないで立ちつくしていたでんでんむしを残して、マーキュリーは広島の方向へ走って行った。first contact は一瞬のうちに終わってしまった。朝日新聞が『ブロンディ』を連載していた頃のことだろう。
 日本の国語は、井上ひさしが『国語元年』で書いているように、明治維新のときに大きな骨格ができたが、戦後のGHQによる日本語いじりという危機もあったらしい。ローマ字教育もそれと関連があったのかも知れないが、そういう時代を背景にして、“日本の国語をローマ字にせよ”と主張する運動があった。かと思えば、“イヤ、ニホンゴハ スベテカタカナニ”という議論も、大まじめにされていた。
 相変わらず、本とは縁遠い毎日であった。青崎小学校にもいちおう「図書室」というところがあるらしかった。そんなうわさは聞いていたので、あるとき意を決して探索に乗り出した。そこに行けば、貸本屋に行かなくてもすむではないか。
 当時のこどもの感覚では、同じ学校内でもいつもの決まった教室への出入り以外に、あちこち歩き回るということはしないものだった。
 階段の踊り場のような、中二階のようなところにくっついていた小部屋がそうらしかった。行ってみると、学校の怪談になりそうな薄暗い小階段の奥に確かに「図書室」と黒板に白文字の表札が架かっていた。おそるおそる、その扉を開けようとしてみたが、その部屋には鍵がかかっていて、誰も入れないのだった。
dendenmushi.gif(2010/07/25 記)

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□08:独特の雰囲気があった『譚海』もたまにみるくらいだったが… [ある編集者の記憶遺産]

 戦後の雑誌ブームというのは、今ではよほどの研究家でなければ、その全貌を知ることができないくらい複雑である。こども向けの雑誌でも、それは同じことで、とにかくいろんな雑誌が出たり消えたりしていたが、そのなかでちょっと異色なのが『譚海』という雑誌であった。
 これは博文館が大正時代に創刊したもので、頭に小さく「少年少女」という文字もくっついていたらしいが、それはあまり記憶になく、もっぱら『譚海』とだけ呼んでいた。戦前は、岡本綺堂、長谷川伸、山本周五郎、海野十三、横溝正史、大佛次郎といった作家が寄稿していたという。しかも、山手樹一郎が編集長をしていて、自分も覆面作家として作品を発表していた、という話もある。戦後のそれも、多少変質した部分もあったのだろうが、山岡荘八、小松崎茂、山中峯太郎、サトウ・八チロー、高木彬光、島田一男、山田風太郎といった人たちが、執筆陣に名を連ねていたのだから、大変なものであった。
 ただ、この雑誌もたまに“物々交換貸借”でやっと手に入るくらいだったから、読者というほどでもなく、こどもだからあまり作家にも興味がない。問題は、おもしろいかおもしろくないかだけである。『譚海』はおもしろかった。けれども、とびとびにたまに見るだけだから、続き物では話がわからない。作品と作家で、記憶しているものは、『譚海』に限ればあまりない。
 さらに、でんでんむしが知っていた『譚海』は、いつの時代のどこが出したものだったかさえ、よくわからないのである。なぜなら、博文館自体が経営危機に陥り、1948(昭和23)年には組織が変わっているからである。その流れを汲む新社が、現在まで日記に特化して続いてはいるが…。
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 いろいろ調べてみても肝心の出版社がそういう事情だから、なかなかわからなかったのだが、「少年・少女名作漫画劇場」というページを見つけた。どうやら、“昭和の旅人”さんという個人のコレクターがつくっているらしいが、ここには昔の雑誌や漫画などがたくさん並んでいた。ここの「少年誌」のところを見ると、戦後の昭和24年〜29年の『譚海』は、「発行所 文京出版」となっていた。
 なにか、独特のおどろおどろしい雰囲気をもった雑誌編集の味が、なんともいえなかったという記憶がある。
 もっとも、それは『譚海』に限らず、少年雑誌一般にも共通するところがあり、怪談実話、西洋怪談などが幅をきかせていた。怪談でも冒険でもない奇妙な味のある読み物を“ミステリー”として広めた、後にはSFの普及にも努力した江戸川乱歩が、こども向け探偵ものを育て養う土壌がふつふつとしていた。
 少年雑誌のネタで多いのは、ほかに今でいう雑学的な断片的な知識が、めちゃくちゃに詰め込まれていた。世界の七不思議とか、驚異の恐竜の話とか、雪男をみた男の話とか、世界でいちばん大きな花とか、人を食う貝の話とかが、おもしろおかしく書かれていた。
 そんな記事のなかで、どの雑誌だったか不明だが、ひとつ鮮明に覚えているのは、ENIACのことを書いた記事だった。そこには、それから数十年経って電子計算機というものが、人の口の端に上り始めたときに示された、なにやら箱のような機械のようなものが並んだ部屋に人が立っている、あの写真が使われていたのだった。
 町には紙芝居の打つ拍子木が鳴り、『黄金バット』が人気を集めていた。夏の夜には、小学校の校庭に高い竹が二本立てられ、その間に白い布が張りめぐらされ、美空ひばりの『悲しき口笛』が上映された。
dendenmushi.gif(2010/07/23 記)

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□07:『のらくろ』と貸本屋で借りたマンガ以外の本『ヒキガエルの冒険』 [ある編集者の記憶遺産]

 田河水泡の『のらくろ』の記憶も重要だった。なにしろ、一時期はチャンバラまで禁止されたのだから、犬に擬人化されているとはいえ、もろ旧日本軍そのものの『のらくろ』も、おおっぴらに店先に並んでいたわけではなかったように思われる。
 誰かがこっそりと所蔵しているのを、回し読みしていたような気がするのだが、そういう秘やかな楽しみがよけいに興をそそった面もあった。『のらくろ』のすばらしさは、デザイン的なセンスが、表紙や背や見返しや扉や、しっかりした造本のすみずみまで行き渡っていたことで、そういう感想は後年のものであるとしても、当時からのらくろ自身の階級がだんだん上がっていくのが、とても印象に残っていた。
 もうひとつ、『のらくろ』で忘れられないのは、歩いたり走ったりしたことを示す、独特の“砂ぼこりマーク”である。なるほど、このように描けば、移動していることがわかるんだと学んだ結果は、後に他の学校の先生がきて行なわれた研究授業の対象になり、グループで発表する掲示の中に、バスが走っている様子を描くのに、のらくろ方式を採用した。教室の後ろに並んだ見学の先生が、それを指して話しているのをたまたまみて、秘かに得意だったという記憶もある。
 貸本屋でマンガばかり借りていた頃から少し後になると、マンガ以外のものも借りるようになる。そんな本のなかでなぜか忘れられないのが、『ヒキガエルの冒険』という本だった。雑誌以外で、はじめて文字を読むことで物語を楽しむという経験をしたのが、この本だったのかも知れない。
 小学校前の貸本屋からは、足が遠のいていたのは当然である。なにしろ、そこの娘に「○○君は、よくマンガを借りに来られますが、勉強をしたほうがよいと思います」などと言われたのだから…。うまいぐあいに、より家に近い国道二号線の広島市と船越町の境付近にも貸本屋ができていたので、『ヒキガエルの冒険』は、そこで借りたものであった。
 もうひとつ、この本はあるいは別の理由で記憶に残っていたのか。たとえば、返却期限を過ぎて延滞金を取られたとか、そんなことがあったような気もするが…はっきりわからない。
 それに、この本を書いたのが誰か、どこから出ていた本かといったことも、さっぱり記憶がないのでわからなかった。
 ところが、ずっと後年になっていつも定期的にこどもの本を買っていたとき、そのなかに岩波書店が出した新刊(1983)で石井桃子訳『たのしい川べ』というのがあった。これを読んだときに、「これはあの『ヒキガエルの冒険』と同じ話ではないか」と思ったのである。事実、そのサブタイトルが同じだった。
 これはケネス・グレーアムの「THE WIND IN THE WILLOWS」の邦訳で、E・H・シェパード(ミルンの『クマのプーさん』の絵の人ですよ)のさし絵が、またすばらしかった。
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 その本は、今でもあるが、岩波書店が手をつけるずっと前に、邦訳がどこかから出ていたということになる。
 それで調べてみたら、戦前にも中野好夫の訳で白林少年館出版部というところから出ていた。そのうえ、戦後すぐ(1945)にも『ヒキガエルの冒険』という題で石井桃子の訳本が出ていることがわかった。このときの出版社が、英宝社ということもわかったのである。
 戦後すぐ『日米会話手帳』と同じときに、こんな本が出ていたということに、改めて驚くが、どうやら、でんでんむしが貸本屋で借りてきて、はじめて物語を読む楽しさを体験した本というのは、この英宝社版だったようだ。そして、この版権がその後に岩波に渡ったということらしい。
 ケネス・グレーアムという人は、確かコナン・ドイルと誕生日が同じという時代の人で、イギリスにその後も伝わる豊かな自然のなかで生き生きと動き回る主人公たちが繰り広げるこどものための物語の伝統を守り残した人といえる。
 この物語が、永く記憶に残っていたのは、自分たちの身の回りにもいる小動物たちの物語であったことと、その舞台と同じような自然のなかで転げ回っては遊んでいたからかもしれない。

dendenmushi.gif(2010/07/21 記)

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□06:戦後のベストセラー第一号と“本といえば貸本屋”という時代のこと [ある編集者の記憶遺産]

 その頃は、本を買うという発想もお金も、まだなかった。本をたくさん並べた本屋というものがまず身近にないだけでなく、こどもが小遣いで買うような本もまた存在していなかったのだ。
 もちろんそれは、戦後の広島の青崎の周辺のことだといえばいえるかも知れない。よく、有名人がこども時代を回顧して、家には全集がずらりとあって…というような話をしたり書いたりしているが、そういう恵まれた環境もどこかにはあったのだろう。だが、おしなべて当時の日本の現実は、ほぼ青崎周辺と変わらなかっただろう。
 出版の歴史のなかでは、戦後を象徴するできごととして、『日米会話手帳』のエピソードが、語り継がれてきた。
 終戦後すぐにこの本(といっても、うすっぺらいものだったが)をつくって伝説的ベストセラーにしたのが、誠文堂新光社の小川菊松という人である。それらはすべて、後にご本人が書かれた本を読んで知ったことではあるが、今では知る人もない貴重な証言と思われるので、その部分を紹介しておこう。

 しかし、昭和二十年八月、いよいよ重大発表があるということになると、誠に残念でもあり、くやしくてたまらなかった。十五日、私は丁度所要があって房州に出張していて、ラジオから流れ出るあの天皇陛下のお言葉を聞いていたのは岩井駅であった。これを聞く多数の人々とともに溢れる涙を禁ずることはできなかったが、帰京の汽車の中で考えついたのは「日英会話」に関する出版の企画だった。関東大震災の直後ヒットした、「大震大火の東京」当時のことを思い出し、いろいろと方策を練りながら帰って来た。社に帰り着いて見ると倅誠一郎を始めとして、加藤芝、高安達治両君の三人が浮かぬ顔をして戦勝のみぎり飲もうと取ってあった酒を飲んでいる。皆が虚脱状態にいるのだ。その間に割り込んだ私は、しばらくして「どうだ。日米会話の手引きが必要じゃないか」といったものだ。三人は全く驚いていたようだった。事実、皆の頭には、ただ終戦になったことだけが駆けめぐっていて、これからそうしようかまでも考えられていなかったあのだろう。それが当然なことで、私の頭の動きはどうかしているのかも知れない。事実、私のように永い間、出版一途に生活し、しかも出版を時期にマッチさせることをもって最大の快事と考えているもののみの頭の働きであったかも知れない。
 以上の話はその後、新しく入って来る社員に伝わり、それがまた社外の人人にも伝って行ったらしく、今では一つの伝説のようになっているが、それは次のようにおもしろく変形している。丁度、陛下のラジオ放送があったとき、私は倅誠一郎とその他の社員三人と共に、当時ラジオを備えてあった電話交換室で放送を聞いていた。そして皆と一緒に涙を出して聞いていた私が、陛下のお言葉が終り、皆がやっと顔を上げた瞬間に「どうだ。早速日米会話の本を出そう」といったというのである。なるほど話としてはこの方が面白いし、また人の噂などというものは、こういう風に伝って行くものなのであろうと思った。

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 (小川菊松著『出版興亡五十年』470ページ 誠文堂新光社 昭和28年刊)
 確かにこの写真にあるうすっぺらい本のことは、そのとき周辺の誰かがもってきたことがあったらしくて、その現物を見たという記憶は、ぼんやりとながらあるのだ。
 32ページのちゃちな本を出すのはどうかという社内の慎重論を押しのけて、初版30万部も刷るというのが、当時の印刷や紙の状況を考えればとても大変なことだと思われるが、結局360万部を売る記録的な売れ行きとなった。ただ、それは例外的な社会現象だったからで、広島のはずれまで、その現物がやっと届いたくらいで、普通の生活のなかで本が話題になるようなこともなかった。
 そんな時代の「本」といえば、まず貸本屋だった。NHKの朝ドラ『ゲゲゲの女房』で、その存在を初めて知ったという人もあるだろうが、青崎地区では貸本屋が小学校の校門前にあった。
 そこには、おとなの本もあったのだろうが、マンガ以外は眼には入らなかった。水木しげるのように、貸本屋向けにマンガを描く作家も、たくさんいたのである。
 借賃がいくらだったのか覚えていないが、とにかく工面できる限りの小遣いでマンガを借りてきたのは、小学校も高学年になってからだろう。その頻度は、使えるお金に制約されるので、手当たり次第というわけにはいかない。自然、数あるマンガのなかから選ばなければならないが、でんでんむしの好みは、宇宙とかロケットとか、そういったテーマのものだった。そんななかに、手塚治虫の作品もあったと記憶している。
 そのマンガの中身はほとんど忘れているが、断片的ながら核シェルターのようなものまであったのと、その貸本屋の娘が同級生にいて、児童会でチクられたことだけは、よく覚えている。
 当時の児童会では、「流行歌は歌わないようにしましょう」などという決まりをつくったりしていたので、そうした流れの延長だったのだろう。『ゲゲゲ…』にも、貸本が悪だと糾弾する人々が現われるが、それは戦争に負けても戦時中の“とんとんとんからりんの隣組的感覚”は、民主主義のなかに変質しながらも広く浸透していて、容易に消えることではなかったということではないだろうか。
 アメリカ兵(たまに豪州兵)がジープでそこらを走り回ったり、国道二号線を進駐軍の車両が行き交う時代も長く続いたが、「そうだ! これからは英語だ。英語を勉強しなければ…」と思ったりするような大人も、そういったことを示唆してくれるようなことも、でんでんむしの周辺には唯の一人もおらず、なにごとも起こらなかった。
 今思えば、原爆という歴史上まれな災厄のあとでも、こどもの目には、いたって平和な時間が流れていたようにしか見えなかったのが、なにかふしぎなくらいである。
dendenmushi.gif(2010/06/19 記)

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□05:本とはおよそ縁がない暮らしで付録が楽しみだった雑誌は盆と正月くらい [ある編集者の記憶遺産]

 原爆で家を焼かれたので、府中町のこども時代は、本というものとはおよそ縁がない暮らしだった。考えてみれば、妻を失い、家財も何も一挙に失ってしまって、食べるのがやっとという生活を余儀なくされ、おまけに遠く南方の戦地へ送られたらしい息子は遺骨でも帰ってこない。
 祖父のそのときの落胆は、いかばかりであっただろうか。
 70年は草木も生えないといわれた原爆の地にも、草が芽を出し、バラックが立ち並び、再び人が戻ってきても、盛業だった左官業を再開することもせず、結局、わずかな家作で暮らし、畑を耕すニワカ百姓になるという道を選んだ。
 復興広島には欠かせない仕事だったのだから、すぐに戻って弟子を集め、事業を再開すれば、たちまち広島屈指の建築業くらいになっていたかも知れないのに…である。
 自分も一家を構え、こどもを育てるようになってから、また人生の岐路に立ちあったときなど、折りに触れてこのときの祖父の心境を、なぞりながら推し量ってみる。すると、悲しいまでの諦観というか達観が、おぼろげな輪郭として浮かび上がってくるのだった。
 とにかく、そんなわけだったから、家に本などあるわけもなく、また買ってもらえるようなものでもなかった。
 ただ、盆と正月には少しばかりの小遣いやお年玉がもらえる。それで学年別学習雑誌を買ってくるのが、精いっぱいだった。その雑誌と付録で、とりあえず半年間楽しむわけである。半年経つと、次の雑誌が買える。
 雑誌には必ず三大付録とは五大付録が、ときには七大付録というのまであって、これがまた楽しく遊べる。これは、日本独特のものなのか、現在にもそれは引き継がれている。考えてみれば、こうした雑誌とその付録こそが、でんでんむしのいちばんの友であり、遊び相手だったような気もする。
 小学校時代を通じて、そんな状況は変わらず続いたが、やがて雑誌は『小学○年生』から、『少年』や『少年画報』『少年クラブ』へと変わっていく。
 雑誌の付録にもいろいろあったが、カメラはまだ高価で、とても一般的ではなかった時代、記憶に残るのはピンホール・カメラと日光写真だった。そのほかでは、『少年画報』の付録だったと思うが、“法隆寺パノラマ模型”というのも忘れ難い。まだ見たこともない法隆寺へのイメージは、これを組み立てていく作業のなかで、大きくふくらんでいった。
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 このシリーズの□01、□02で紹介した東京国際ブックフェアの来場者は、前回を2万人以上上回る8万7,449人(前回6万4,844人)で、34.8%も増加したという。7月8日から11日まで、東京・江東区の東京ビッグサイトで開かれていたこの催し、業者来場日の初日と2日目については、前回より8,000〜1万人近く増加しており、「一般的に展示会では考えられない増加率(主催者)」だった。
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 もちろん、その理由もはっきりしていて、ことしは直前までiPadの登場に刺激されて、電子書籍関連の報道が相次いでいたことがあって、業界関係者がいつもに増して数多く訪れた結果であろう。
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 でんでんむしが、雑誌の付録のピンホール・カメラや日光写真で遊んでいたのは、小学校の半ばくらいであったろうから、1950(昭和25)年としてみる。すると、iPadで遊んでいる今、それから60年しか経っていない。還暦でひとまわりするだけの間に、でんでんむしの遊び道具もずいぶん高級になったものである。
dendenmushi.gif(2010/07/17 記)

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□04:スミ塗りこそしなかったが教科書は「本」にはなっていなかった [ある編集者の記憶遺産]

 本との出会いで、よく語られるのが“教科書”である。これは、家に本があってもなくても、本が好きでも嫌いでも、誰でも公平に経験する本との遭遇である。
 教科書が本といえるのかどうか、そんな屁理屈はどうでもいいのであって、最初にそれをもらった一年生が、おかあさんに自分の名前を書いてもらうなどは、なかなか思い出のなかで絵になるひとこまでもあろう。
 なによりも、知識や人間として必要なことを教えるものとして、教科書は本というもののもつ本質のある一部を、確実に明確に示している。
 数年の違いで入学した従弟たちの教科書や、自分のこどもたちの教科書や、いろいろな時代のいくつかの教科書を、それぞれ感慨をもって見送ってきた。
 当然のことながら、これも時代を映すわけで、でんでんむしが小学校(厳密に言うと国民学校か?)に入学したのは、戦争がやっと終わった翌年のことで、食料と物資の不足で誰もが生活に困窮していた。
 敗戦後、学校では教科書にスミを塗らされ、先生の言うことも180度変わってしまった…というようなことを、いろんな人がいろんなところで話したり書いたりしていたので、よく読まされ聞かされた話として知ってはいた。だが、でんでんむしは、その直後に小学校に入った一年生なので、スミを塗る教科書すらなかった。
 それが一年生の始めだったのか、途中だったのか、あるいは一年生では間に合わず二年生からだったのか、記憶が定かではないのだが、あるとき教室で大きな紙を配られた。
 がさがさいわせながら、それを先生の指示に従って、慎重に折り重ね畳んでいく。最後に袋になったところに竹製の物差しを差し込んで、切り開いていく。それが、でんでんむしが初めてもらった教科書だった。
 それにしても、後年、自分の仕事でも、これと同じような作業をすることになろうとは、思いもよらなかった。
 同じ昭和21年であっても、地域的な違いもあっただろう。
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 夏は、しきりに昔のことが想われる季節でもある。原爆で生家を失ったということは、そこで、自分の一生が大転換せざるをえなかったわけだが、こどもはそんなことは思いもしない。
 祖母は家の外にいて数日後に亡くなり、家の下敷きになりながら奇跡的に生き残った祖父や叔母たちと広島の隣町の府中町というところで暮していたでんでんむしが通ったのは、広島市の東のはずれ、青崎という地域にある小学校だった。
 そういえばここも「崎」のつく地名なのだが、青いこんもりとした山が、一塊、広島湾の東の端に突き出している、そんな場所だった。小学校は、青い山の内側にあった。
 最近のニュースでは、マツダの工場内での事件であの暴走車が走り回った、その暴走ルートのすぐそばに、青崎小学校はあった。
 ほかの人のことはあまり関心もないのでよく知らないのだが、この学校の卒業生で一番の有名人はといえば、広島カープが育てた野球選手のひとりであろう。なぜか今は縦じまのユニフォームを着ているが、彼を教え育んだのもこの小学校であったという。
 広島を離れていたからということもあるし、広島カープを応援していても選手個人には特別思い入れもないので、そのこともまったく知らなかったのだが、その選手の父親とは、青崎小学校と青崎中学校では、でんでんむしと同窓だったのだ。
 そういえば、テレビで野球を見ながら、“金本”という名前も同じだし、似てるなあとは思っていたのだが…。
 その教科書にどんなことが書いてあったのか、それもさっぱり覚えていない。
 けれども、原爆が落ちる前から、教科書がどんなものかは知っていて、それは記憶にある。そこには、「サイタ サイタ サクラガ サイタ」も、「ハナ ハト マメ」も残像があるから、それらは叔母達の教科書だったのだろう。
 学齢前のその当時から、金釘流のカナ文字が書けたのは、今考えるとおそらく叔母の遊びとして、そうした教科書でカナ文字を教え込まれたからなのだろうと思われる。
dendenmushi.gif(2010/07/15 記)


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□03:自分が初めて出会った本と「こどもがはじめてであう本」は… [ある編集者の記憶遺産]

 かつて、ある人から聞いた話だが、息子の婚約者の家に行ったところ、その家には本というものの存在がまったく見えなかったので、この結婚は絶対にうまくいかないといって破談にさせた、という人があった。伝聞だから、ディティールは不明である。
 その家を家捜ししても一冊の本すら発見できなかったのか、たまたま通された応接間に、これ見よがしの本棚をおく趣味がなかっただけで、別に図書室があったのかも知れないし…。
 だが、これは妙に説得力のある話だ、とそれを聞いたときに思った。「つり合わぬは不縁の元」というのとは、またちょっと違うなにかを含んでいるし、差別というのでもないが、この世の中には本などなくても不自由なく生きられるという人も実際大勢いて、それが悪いということもできない。
 つまりは、『この世の中には、本がなければ生きられない人と、本などなくても生きられる人と、二種類ある』ということになるが、それにも時代という背景を抜きにしては考えられない。
 原爆で焼けたでんでんむしの生家は、広島の中心で左官の棟梁の家であった。内弟子も数人抱えた、大きな家だったような記憶はあるが、もちろん図書室もなかったし、事務所のようなところはあったので、本棚くらいはあったかも知れないが本が並んでいたような記憶もない。
 幼児期の記憶を懸命に辿って、本の姿を追い求めても、それは浮かび上がってこないのである。
 ただ、厚い板紙のおそらくは講談社絵本のようなものを見た記憶はあるのだ。その見開きのページのいくつかは、今でも鮮明に覚えている。
 戦時色や皇国史観に彩られたそれらのページは、時代が時代だから、荒波を行く軍艦のそばに逆紡錘形の水柱が立っているところとか、背嚢に銃剣をもった兵士が青竜刀を振り回す弁髪の兵を倒すところとか、立てた弓の先に光る鳥がいて辺りに鋭い光線を発しているところ…といったものであった。
 自分が初めてかかわった本としては、前項で手塚治虫の『新宝島』をあげたのだが、これは自分の意思が加わってのことであって、実際に初めて出あった本といえば、そんなものだったし、その頃はそれがまず普通のことだったのだろう。
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 「こどもがはじめてであう絵本」という謳い文句は、そんな自分自身の記憶と結びついたからか、実に訴求力に富んでいると感心した記憶がある。
 それまで、ディック・ブルーナのことはまったく知らなかったが、その絵と色彩の単純さと驚くほど明確な線が、なんとも新鮮で、これが石井桃子の訳で福音館書店から初めて日本に紹介されたときに、すぐ全巻箱入りセットを買ってしまったのは、そうした自身の追想のなかの本と、おおいに関係があったと、今にして思う。
 実はその色は原著とは少し違いがあったというので、今年原版の色彩で新装版を出した福音館書店のホームぺージでは、「2010年は、うさこちゃんが生まれてから55年の年です」とある。
 そうか、あれからもうそんなに経つのか…。いや、そんなわきゃないな。それは日本にはじめて紹介された年からではなく…。

dendenmushi.gif(2010/07/13 記)

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□02:電子書籍への想い・はるかな道「東京国際ブックフェア」つながりで… [ある編集者の記憶遺産]

 最初に本というものと触れ合った原点は、人によりさまざまなものがあり、それぞれに貴重な思い出とつながっていて、しばしそのことを頭の中で泳がせてみるだけでも、ふしぎになんとなく幸せなひとときが流れていくはずである。
 でんでんむしの場合は、なんといってもマンガであり、それも今年のNHK朝ドラで意外なブームを呼んでいるといわれているゲゲゲの“貸本屋マンガ”そのものであった。
 手塚治虫の『新宝島』を、つてのつてを遠くまで辿って物々交換条件でやっと借りてきて、わくわくしてコマを追い、ページをめくった時期と、それはほぼ符合する。手塚治虫自身も、貸本マンガをたくさん描いていたはずなのだが、東京国際ブックフェアでもでんでんむしが縁のある出版社のブースの隣には、虫プロダクションのブースがあり、ベレー帽の手塚さんが見守っていた。そこで自分の記憶に間違いがないかどうか、聞いて確かめておこうと思っていたのに、この日もすっかり忘れて帰ってきてしまった。 だが、とにかく今はiPadでダウンロードしたアプリで、手塚治虫マガジンを読むことができる。
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 ブックフェアの二日目は、出展社の開くセミナーのなかから、二つに参加した。ひとつはオンデマンド印刷に関するもので、ひとつはePubに関するものであった。
 これも、でんでんむしの本に関わる遠い原点から始まって、現在にまでつながっているテーマなのである。
 歴史的にみると、人類の三大発明として「火薬」、「羅針盤」とともに名を連ねている「活版印刷」は、グーテンベルクが、ワイン絞り機の原理から発想したといわれており、ゆったりとライン川が流れるマインツの町にグーテンベルクミュージアムを訪ねたときの感激は、いまだに色あせない。そのときに記念に買ってきた、お土産用にそこで印刷した42行聖書の1ページでさえ、あれから35年も経った現在でも、色あせることなく鮮やかなのである。
 グーテンベルク以前の「本」はというと、ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』を連想してしまうが、教会の奥深くに隠された羊皮紙を束ねたものであったのだから、活版印刷によって本は初めてそのクビキを解かれた、ともいわれる。
 印刷というのも、大量に安くというメリットの裏返しに固定費の高止まりというデメリットを抱えたシステムなので、個人で少部数で安価にというニーズには、フィットしているとは言えない。それを埋める軽印刷も、いろいろな方法が登場してきた。そのなかでも、ガリ版印刷くらい長く広く普及したものはない。宮沢賢治は本郷で筆耕のアルバイトをしていたというが、これもただ字が書ければいいというものでもなく、ガリを切るという特殊技能者も、各職場や学校などに多数存在した。(ヤスリの上に置いた原紙の蝋を鉄筆で削り取って、インキをつけたローラーで紙に転写するという基本原理は、“プリントごっこ”とおなじだ。)
 でんでんむしの叔母が、このガリ切りの技能者で、家でアルバイトをしていたので、こどもの頃からそれで遊んでいた。自分でガリ版の新聞をつくって、近所に配ったりしていたのは、中学生の頃だった。
 それが、近年のオンデマンド印刷につながっているのは、マスメディアの役割と必要性を認めたうえで、その対極にある少部数印刷の自由な道を、なんとか確保しておくべきだという自身の信念による。
 ガリ版については、エジソンの発明と家に今も大事にとってある堀井謄写堂の謄写版の違いと関連など、いくらでもネタがあるのだが、それらは雑誌『本とコンピュータ』でおなじみだった、津野海太郎氏の『小さなメディアの必要』にも詳しい。
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 この本にも、ブックフェアでのボイジャー萩野氏のセミナーで、再会した。T-Timeで .Bookに書き出しているのだ。再会といえば、iPad以降、いくつか懐かしい名前に再会する機会が増えているのだが、『iPodをつくった男』大谷和利氏の名前もそうだ。
 二日目のもうひとつのセミナーは、「ePUBと世界をつなぐT-Time」という題名に魅かれて並んだ人が大勢いた。会場に入れないで帰った人も相当いたようだが、おそらく入れた人にしても期待したような内容ではなかったと思う。
 例によって三省(経産・総務・文科)はじめさまざまな思惑がからんで、実用的な規格統一もできていないePubについては誰も多くを語ることができないのかも知れないが…。
 ボイジャーでは、『理想書店』というアプリを無料でApp Store に上げ、多数の電子書籍販売に乗り出したようだが、これにも長い間培ってきた T-Timeが、やっと陽の目をみたというところだろう。だが、アプリの評判は必ずしもよくない。確かに面倒であるし、iPadになっていないじゃん、結局Safariなの、といった感想はある。ここでも講談社の京極夏彦『死ねばいいのに』が iTunes Store よりも高い値段で売られている…と思ったが、あれはタイムセール価格だったのだろうと気がついた。
 予想通り、電子書籍の販売拠点はかなり大幅に拡大しそうである。ただし、でんでんむしは、紙の本をPDFにしただけのようなものは、この一時期だから認められる商品に過ぎないと思う。
 若い人が多いそのセミナーなかでは、でんでんむしは最高齢の部類に属する。この歳でePubをどうこうしようというのは、かなりの無謀といえる。でも、まあ言ってみれば、単なるヤジウマの域は出ないのでご心配には及ばない。
 HTMLについてはインターネット以前からハイパーテキストに興味があったし、Hyper Cardが出た翌年(1988)には、「My Book」という絵本をメタファにイメージしたスタックをつくった。それをおもしろがって当時出た専門雑誌に紹介記事を書いてくれたのが、大谷氏だった。
 その後、エキスパンドブックをはじめ、さまざまなハイパーメディアの長い試行錯誤を重ねてきて、今日の電子書籍にやっとつながってきつつある。それを最初に明確に意識できたのが、富田倫生氏が苦心された『青空文庫』を、iPhoneで読んだときだったと言える。
 著作権の切れた、かといって買ってまで読む気はないようなたくさんの作品(富田氏はそれらを“商業出版の枠組みにものらず、アーカイブという着地点も得られない「漂流作品」”という。)を、ダウンロードして読めるのはとても楽しいことで、でんでんむしはそれだけでもiPadの使い道はあると、きわめて安易な満足ができるのである。
 佐野眞一氏もでんでんむしとほぼ同感だったらしいことは、一日目の基調講演のなかで、「iPadを最初に持ったときにはちょっと重いと思ったが青空文庫を大量に入れて持って歩くと軽いと思うようになった」と述べていたことからも理解できる。
 とりとめのない話に終始したが、先に書いた 553 文庫鼻=高知市春野町甲殿(高知県)iPadの届く日に文庫への想いやらなんやら と合わせて今回の東京国際ブックフェアの感想を見ていただけると、ありがたいのだが、どうせ人様の役に立つようなことではないからムリにはお勧めしない。(さすが So-netだから、SONYのことを書くときにはこれでも気をつかっているつもりだが、それまで訪問してくれていた人がiPadについて書いたとたんにぱったりこなくなると、なにが気に障ったのだろうと悩んだりもする。)
 iPadについては、5月末に「めもり猿人」さんから「So-netはJAVAのせいでしょうか、iPadのSafariから写真のアップロードができないみたいですね。結構、これ致命的かと思ってたりします。」というコメントをいただいていた。これについては、でんでんむしも試してみたが、So-net以外でもできない。つまり、iPadにはブログに写真などをアップロードするなど、普通のネットブックと同じことを同じようにやらせようと思っても、今のところはできないのである。iPadが他の書籍リーダーと異なるのは、コンピュータであってコンピュータではないというのは、こういうことだろうが、時間が解決する問題もあろう。
 ともあれ、高校生の頃から、「日本語をタイプライターを打つように書くことができないだろうか」という夢をみていたでんでんむしが、時代の流れのなかでMacintoshにめぐりあい、日本語化とともにDTPの実践を進めてきた。
 そしてまた、でんでんむしが原爆で家を焼かれたときに、その敵国アメリカではバネバー・ブッシュという人が「メメックス」という構想をまとめて論文を発表していたという事実を知ったときの衝撃! それが、度重なる製品の発売に先駆けてコンピュータというものにユーザとして、その黎明の当初から関わってきたことにつながる。そうした、一連の個人的another storyも、今の時点に集束してほぼ語ることができそうな気もして、とにかくこの機会に備忘メモを残しておこうと考えた。
dendenmushi.gif(2010/07/11 記)

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□01:“電子書籍元年”の「東京国際ブックフェア」(本が二割引で買えるよ)とiPad [ある編集者の記憶遺産]

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 もう現役を退いてから長いので、こういうイベントにも久しくご無沙汰していたのだが、今年はある出版社の社長がつくってくれた縁ができたおかげで、「出展社のVIP」待遇で、初日の基調講演と午後の専門セミナーに参加することができた。
 基調講演は、『本コロ』(『誰が本を殺したのか』)でこの業界にしっかり食い込んでご意見番の地歩を固めている佐野眞一氏による、「グーテンベルクの時代は終わったのか」というものであった。その演題に“どんなことを話すのだろう”という興味があって申し込んだのだが、同様の関心を持つ人が多かったらしい。申し込みが殺到して、広いメイン会場に入りきれない人のために特設会場まで設けられるという大盛況だった。
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 午後の専門セミナーは、たくさん分散して開かれているなかから、グーグル株式会社の村上会長と、Googleブックス担当者による「Googleブックスの進化と出版」と、株式会社ボイジャーの萩野社長による「何のためのデジタル 出版とは誰のものなのか?」という二つの抱合わせプログラムを選んだ。こちらも、ちょうどタイミングを合わせて発表した「グーグルエディション」の取材を兼ねた報道関係者を含めて、大勢の人で会場は埋められていた。
 だいたいにおいて、講演やセミナーで得られるものというのは、よくよく考えてみると、さほどのことはないのが普通である。それはこれまで何十となくそういうものを経験し、また自分自身も台のうえから演じる立場に立ってみたことから、はっきりしている。ただ、ひとつその利点があるとすれば、“臨場感”のようなものであろうか。
 ほんとうになにかを知りたければ、本を読むほうがはるかに目的にかなう場合が多いはずだろう。
 しかし、今やその「本」をめぐる環境に大きな転機が訪れようとしており、そのためにこそ今年の「東京国際ブックフェア」も盛り上がっている?のかもしれない。
 もともと、ブックフェアが半分、残り半分は電子機器メーカーやソフトウエアなどの「デジタルパブパブリッシングフェア」で、それがなければ出版社だけではこんな大規模なイベントにはなり得ない。今年からはおまけに「教育ITソリューションEXPO」もくっついたので、相対的にブックフェアの色が薄まってしまうのもしかたがない。
 それに、“電子書籍元年”と騒ぎ立て(何度目かね?)られている今年は、デジタル機器メーカー側もそれに合わせた出展内容があって、もちろんiPadもキンドルも会場のあちこちでたくさん並べらている。
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 それに関しては、萩野氏(この人には、パイオニアでレーザーディスクをやっておられた頃からの一方的な思い入れがあった)の話を聞いていて感じたことがあって、ほんとうはそれについて書かなければならない。
 しかし、今日もまた朝一から会場へ出かけたいので、時間がなくなってきた。それについては、項を改めることにしたい。なんでiPadなのか、看板に偽りありになってしまうのは、そういうわけ。
 「東京国際ブックフェア」は昨日から始まって、2010年7月11日(日)まで、他の二つは土曜日まで、東京は有明の東京ビッグサイトで開かれている。
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 とくにブックフェアのほうは土日が一般公開日で、出展している本は新刊でもなんと「二割引」で買うことができる。ただし、出展している出版社は限られているので、欲しい本があるかどうかは、保証できない。
 これは、定価販売を金科玉条にしてきた出版社としては、書店の手前もあってあまり大きな声で宣伝するわけにもいかず、ほとんど知られていないので、情報提供しておこう。
 昨夜の7時のNHKニュース7の番組ガイドには「▽あなたはどちら?紙の本VS電子書籍」という記述が堂々と掲載されていた。おそらくは、ブックフェアにひっかけてのニュースなのだろうが、NHKがこんなことを言ってもらっては困る。あんまりひどいので見る気もしないでんでんむしは、裏番組のBSフジの『善徳女王』のほうを選んでしまう。
 マスコミがどうしょうもないのは、今に始まったことではないが、こういう煽り方や問題意識でごちゃごちゃいうのは、いいかげんやめてほしいものである。

dendenmushi.gif(2010/07/09 記)

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