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61 (追加)月島再開発=その2。月島一丁目で進む新たな再開発。あの祠は帰ってくるのだろうか [月島界隈]

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 月島を離れてもう9か月になるのだが、なじみの理髪店にはわざわざ通っている。そうしてたまに月島界隈を歩こうと思ったのだが、いつも地下鉄の駅と理髪店の往復だけで終わっていた。
 11月末にきた「ブログレポート/10月分≪後編≫」では、「過去3カ月間でアクセス数の多い記事ベスト3」の“1位”が、意外にもなんと「14 月島の大規模再開発。昔「東京エースレーン」というボウリング場があったところが…」(2011-01-21 記)であった。
 この項もそうだが、「月島界隈」は全部が個人的な備忘録のようなもので、なにも重要なことや話題性があるような内容ではまったくない。
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 それとベスト3には入っていなかったが、これと同様にやはり前々から「なんでアクセス数が多いんだろう?」と疑問に思っていたのが、「31 月島一丁目でまた再開発。じわじわと消えていく運命にある月島の長屋と路地は」(2011-02-07 記)の項である。
 この項については、11月の9日に、路じうら小僧さんからいただいたコメントで、月島一丁目でここに書いたのとは別の再開発プロジェクトが動き出したことを知った。
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 路じうら小僧さんもそうであったように、この新しい一丁目再開発計画について知りたい人が、検索でこの二つの項目に辿り着いた、そのためにアクセス数が多くなっていたのだろう。
 そうだとすると、これらの二項目はそれ以前に書いたものなので、探してきてみたけど内容はなにも知りたいことには応えていなかったことになり、申し訳ないことだった。
 理髪店の主人とのとりとめのない(しかしあまり立ち入らない)ご近所話…。
 ところで、晴海大橋の袂に、新しい高層マンションができ、石川某という若いプロゴルファーがその宣伝をしているよね。あそこ辺だと日常の買い物はどうすんでしょうね、晴海トリトンでは間に合わないから豊洲まで行くのかなあ。いや、勝どきのツインタワーのように、マルエツでも入るんじゃないですか。広域避難場所に開放するようにはなっているのかねえ。
 そういえば、月島機械さんが佃をたたんで晴海に移転すると、近所の町内会なんかにはご挨拶があったそうですよ。へー、あそこは四丁目にも分室があったけど、あれはどうすんでしょうね。月島機械が佃機械になって、今度は晴海機械かあ。最初は、この月島第一小学校のところにあったんですよ。
 へー、そうだったのか。それは、知っていたような知らなかったような。書いたような書かなかったような…。
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 そうそう、一丁目で新しい開発が始まったんですか。もう取り壊し終わってますよ。サマリア病院のとこだけまだ残っていますけどね。あそこも取り壊して、なんでも53階かなにかの高層と中低層の二棟できるらしいですよ。病院はそっちのほうに入るんでしょうかね。
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 じゃ、同じ一丁目でもフジマートの裏のとこはどうなったんですか。あそこは、立ち退きがまだ遅れているのか、あのままのようですよ。エースレーンの跡地もそのままですし…。
 帰りに、ひさしぶりに有楽町線の月島駅まで歩いて行くと、大きく広い白い壁が、タイルの歩道からきっちりとめぐらされていた。「清水建設」とデベロッパーの名が記されている。
 中央サマリア病院の前後、現在の塀の写真(横位置)と、昔の写真(縦位置)を並べてみたが、とくに場所を限定して対比しているわけではない。
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 ちょうどこの再開発区域の南端の角には、めし屋があって、その角に小さなお稲荷さんかなにかの祠があった。このめし屋の外壁も祠も、何年か前に新しく模様替えしたはずであるが、そのどちらももうない。
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 祠のあった角だけ、緑のテープを巻いた柱があってちょっと囲いが残してあるようなのだが、高層マンションができても、あの祠はまたもっと立派になって帰ってくるのだろうか。この信号のところには、よく移動式の八百屋さんが車の荷台に野菜や果物の箱を積んで店開きをしていたが、この日も同じように店開きをしていた。
 祠の角から南の、フジマートやお風呂屋さんか旅館だったようなどこかの宗教の教会のあるブロックは、この開発からは外れている。清水建設は、まだここにどういうものができるのか、その姿を見えるように示してはいないようだが、いずれ販売業者が入るとこの白い塀に情報が示されるのだろう。晴海通りにまた新たな高層マンションができると、月島のイメージは随分変わっていくだろう。
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 路じうら小僧さんのコメントにもあったが、アイマークタワーのいくらかは、ここに新しく立つ高層マンションによって日陰になってしまう可能性もある。月島で最初(だったと思う)の高層マンションができるときにも、その北西側に隣接して日陰になる保育園のこどもたちの保護者などによる反対運動があった。どういう配慮がされたのか知らないが、とにかくアイマークタワーはできた。そして、今度はその住人が日照権だとかいって文句をつける。
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 そういうことを、何度も何度も繰り返しながら、月島もいつかはマンハッタンのようになっていくのだろうか。
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dendenmushi.gif(2011/11/30 記)

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タグ:月島
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番外:【月島界隈】01〜60■Link List [月島界隈]

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 2011/01から05まで、短期集中連載が完了しました。カテゴリや検索で探すのは、一覧性がなくて不便につき、リンクボタンつき全項目リストを掲載しました。

01 月島川の朝。今朝もまたいつもの朝と同じようにして 2011/01//08
02 月島川緑の散歩道(南東側)。運河の岸に沿って細長い遊歩道がある
03 清澄通り。月島の中心を貫く4車線の広い道を初めて歩いたのはもうかれこれ…
04 月島橋。清澄通りが渡るこの下を都営地下鉄大江戸線が走っている
05 大震災の慰霊碑。橋の袂でひっそりと「横死」の二文字がとくに胸を打つ
06 月島川。北西の隅田川と南東の朝潮運河を結ぶ運河はサクラの季節もいい
07 遊歩道の南西側。月島橋から西寄りには両岸に散歩道があり親水護岸になっている
08 千羽丸。毎日お仕事に出かけて行く船たちは中央区土木部と関係があるのだろうか
09 月島の歴史=その1。月島一号地ができる前はここら一帯は浅瀬の広がる海でした
10 月島の歴史=その2。月島の築島はこうして始まりこうしてできたが初めのうちは…
11 西仲橋。月島と勝どきを結ぶもうひとつの橋はもんじゃ通りの南の端の橋
12 ご存知屋形船。月島川には金子丸・あら川丸・佃折本などと屋形船の乗り場もある
13 月島川水門。ここで隅田川とつながっている狭き門のところまでが「月島一号地」
14 月島の大規模再開発。昔「東京エースレーン」というボウリング場があったところが…
15 わたし児童遊園。「わたし、あなた」じゃなくて「月島の渡し」があったところ
16 隅田川。月島が造成されたことで隅田川も下流に向かって延長されていったわけで
17 月島の歴史=その3。渡しから橋へ月島がつながるのは明治36年の相生橋が最初
18 サンシティ銀座EAST 。これがあの“エアロール”なのか“高齢者マンション”という名の…
19 月島第一小学校前バス停。清澄通りの南交差点にできた手拭い屋さんの佇まい
20 月島第一小学校。100年を超える歴史をもつこの小学校では6年生より1年生のほうがだいぶ多い
21 晴月橋。晴海と月島を結ぶ橋だから晴月(せいげつ)橋というわけだが船はいなくなった
22 月島四丁目バス停。狭い一方通行の通りの周囲は比較的古いマンションが多くて
23 朝潮橋。月島と晴海を結ぶもうひとつの橋を渡ると幼稚園から老人ホームまでが揃っている
24 朝潮橋西詰にあるお堂。神社でもなくお寺でもなく名もなくいわれや由緒を知る人もない
25 再び月島四丁目バス停。でんでんむしがバスにこだわるにはワケがあるといっても格別なことじゃない
26 月島第一公園。なんとなく違和感のぬぐい切れない公園の典型のような気もする
27 月島区民センターにある月島図書館。ここは石田衣良の“ご当地小説”の舞台でもある
28 月島の中心と三丁目バス停。月島に縁のあった人や月島を書いた人を「探見」したページを発見
29 地下鉄月島駅地下通路。L字型地下道の10番出入口は駅からいちばん遠く離れて
30 マテバシイの並木とフジマート。短いけどめずらしい並木の横の食品スーパーは日曜日大人気
31 月島一丁目でまた再開発。じわじわと消えていく運命にある月島の長屋と路地は
32 旧月島警察署西仲通交番。現在は地域安全センターだが、平成19年頃までは「日本最古の交番」だった
33 西仲通り商店街(もんじゃ通り)。三角屋根?アーケード通りは月島のシンボル
34 月島もんじゃ焼き屋。こどもの駄菓子から始まって今や東京のメイブツになったとはいえ…
35 月島三丁目児童遊園。1−1は公園として残した知恵は今思うとなかなか偉大であった
36 月島の隅田川テラス。スーパー堤防ではないようだが高い堤防が月島を守っている
37 月島の「川向こう」。堤防を階段で越えると正面に見える隅田川右岸は江戸の出島だった
38 今日の東京マラソンも月島を通る。だがもう引っ越ししたので見物できない
39 佃大橋。東京オリンピックのときに大急ぎでつくったが斜めになっているのはそのせいではない
40 旭倉庫と月島機械と。佃大橋の工事で佃の南西の堀は埋められてしまったので
41 初見橋とはどこのこと。地下鉄月島駅の上にあるムーンアイランドタワーは月島一高い
42 佃小橋。昔の四角い佃島を取り巻く堀に架かる小さな赤い橋とその下に注目
43 佃天台子育地蔵尊。なぜこんなところにこんな不可思議な空間が生まれたのだろう
44 佃煮と佃島と。そのそもそもの由来にははっきりしないことも多いのだが
45 月島の歴史=その4 佃の祭りの前に震災や空襲のこともちょっとだけ書いておかないと
46 住吉神社。全国に600もある住吉神社のひとつだが佃のはちょっとめずらしいこともある
47 住吉神社例大祭。ことしは3年に一度の祭りにあたるがあの大幟がみられるのかどうか
48 石川島と佃公園。人足寄場があった石川島は明治以降は造船基地だったがいまはその名もほとんど残っていない
49 中央大橋。レインボーブリッジと同じ日にひっそり(?)と開通したへそまがり大橋
50 佃・月島の北端の岬。隅田川を分ける先っちょから永代橋を望むと
51 消えてしまった石川島。いうなれば佃島に庇を貸して母屋をとられたかわいそうな島なの?
52 相生橋。…といえばどうしても広島を想ってしまうのだが元来はおめでたい名前なので
53 「海水館跡」って。一部では有名らしいここもかつては景勝地であったというがその面影も何もない
54 朝潮大橋と月島二丁目。日本ユニシス本社への通勤路は水門を見ながら朝潮運河を越える
55 豊洲。23区でいちばん新しい街がどんどん成長していくのを眺めるのもおもしろい
56 晴海大橋。「大橋」にもいろいろあるがこれは確かに大きいしまずほとんど人がいない場所
57 晴海トリトンスクエア。たくさんの思い出も残してくれた場所だが近年停滞気味で気になる
58 勝どき。大江戸線が90度にカーブして方向転換する上では新しい高層マンションも続々と
59 勝鬨橋。この橋を渡るときいつも頭をよぎることはたとえば1940年のこんなことなんかで…
60 月島展望。東京都中央区(2003)聖路加タワー展望室からみた月島界隈

dendenmushi.gif(2011/06/01 記)

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60 月島展望。東京都中央区(2003)聖路加タワー展望室からみた月島界隈 [月島界隈]

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 月島から隅田川をはさんで対岸に聳える、聖路加タワーの47階に、南に向いた無料の展望室があった。このタワーには、東京電力の豪華保養所もあると、どこかで読んだような気もするが、ここの広くて高い窓越しに、月島界隈が見事に一望できる。
 2003年にここから撮った写真があったので、これと現在の写真を比較して並べて見て、この短期集中連載の締めくくりにする計画であった。ここ数年の間に、たくさんの大きな建物が建っているので、おもしろい比較になるはずであった。
 ところが、なんとこの展望室が閉鎖になっていて、現在の展望写真が撮れなくなってしまった。地震とは関係がなく、去年の秋から閉鎖しているのだという。
 残念なことだ。閉鎖の理由が、落書きやいたずらやゴミなどを散らかして行く不心得者があとを経たないからだという。よけいにますます残念だ。
 ここは、もとはレストランの入り口も兼ねていたので、そんな様子はまったくなかったのだが、そういえば最近そのレストランにも行っていない。あるいはレストランがなくなって、荒廃することになったのだろうか、と思ってみるとレストランはやめたわけではなかった。
 以前のことを考えると、その閉鎖の理由は表向きで、もっと別のところにあるのではなかろうかと、思ってしまう。
 いずれにしろ、少数の不届き者のために、この世の中は簡単に後戻りしてしまう。それにしても、残念だ。
 窓の向きから、佃方面が映らないが、月島界隈で取り上げた場所は、だいたいこの範囲である。しかたがないので、2003年の写真だけで…。現在では、このエリアだけでも、ここに写っていないタワーが、8本ぐらいは増えているはずである。
 月島の南端から始めて、月島、佃、豊洲、晴海、勝どき…と回って、勝鬨橋が最後の「月島界隈」も、これでいちおう終わりです。
 このあと、番外をはさんで、また本題の『岬めぐり』に復帰します。 tukishimaT01.jpg

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dendenmushi.gif(2011/05/27 記)

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59 勝鬨橋。この橋を渡るときいつも頭をよぎることはたとえば1940年のこんなことなんかで… [月島界隈]

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 1940(昭和15)年という年は、その後たくさん観た西部劇の原形ともいえるジョン・フォードの『駅馬車』が日本公開された年であり、隅田川の最下流に架かる可動橋「勝鬨橋」が開通した年であり、でんでんむしが生まれた年ということにもなっている。
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 この翌年の暮には、いよいよ太平洋戦争に追い込まれていくわけだが、その3年前から当時は“支那事変”と呼んでいた戦争は始まっていた。“事変”といっていたのは、宣戦布告がないままに拡大したからだが、今では言葉で真実を誤魔化そうとしていたともとれる日中戦争は、もはや抜き差しならぬところまではまり込んでいた。
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 だが、そんななかでこの年の紀元2600年のお祭り騒ぎは、国を挙げて全国各地でさまざまな行事が盛大に繰り広げられていた。その年に生まれたのに、“キゲンハニセンロッピャクネン~”という奉祝歌を、そのサビの部分だけだが幼年の頃口ずさんでいたという記憶があるのは、それくらいこの歌が広く歌われたということであろう。全国民が提灯行列をして練り歩いたのは、これから国を覆う暗雲が拡大するのを無意識のうちに予感して、派手に騒げばそれを振り払えるとでも思いたいための、空騒ぎだったのかもしれない。
 当時は“神話が史実”であったから、誰しもその実在を疑っていなかった(疑うことなど許されなかった)神武天皇が即位し、国を開いてから2600年の節目に当たるというので、そのための盛大なイベントがいろいろ計画されていた。
 世界的なイベントといえば、当時からやはりオリンピックと万国博覧会であった。ナチスドイツも、ベルリン・オリンピックをプロパガンダのためにおおいに利用したという先例があったばかりだった。
 ついでにいうと、映画史に残るリーフェンシュタールによってつくられたその記録映画『民族の祭典』が公開され、キネマ旬報の外国映画ベストテンの第一位となったのも1940年。
 大日本帝国もナチスに倣って、この祭りにオリンピックと万博をあわせて、国威発揚に努めたいという思惑があったのだろう。オリンピックと万博を一緒にやろうというのは、盆と正月が一緒に来るようなもので、今風にいえば「あり得ない」ような計画であった。
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 結論から言えば、戦争の雲行きが怪しくなってきて、さすがの軍部もそれどころではあるまいと反対に回ったため、2年前になって計画は中止となり、盆も正月も両方こなくなってしまう。
 その万博の会場として予定されていたのが、当時の“月島四号地”、つまり晴海地区で、実はこの勝鬨橋は、万博会場への実質的メインゲートとして計画・架橋されたものであった。
 そのため、設計から施工まで外国に頼らず、すべて日本人の手によってつくることでその技術力を世界に誇示すべく、新興国日本の風格と格式を表わすものでなければならなかった。だが、架橋は一時のお祭り騒ぎのためにのみ計画されたわけではない。石川島造船所をはじめとして、多数の工場なども多く集って住民も増えていた月島地区との交通路が、相生橋一本では足りなくなっていたので、実用的な要請のほうが強かった。そのため、万博は中止になっても、橋の建設だけは続けられ完成した。
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 この橋ができる前には、ここには「かちどきの渡し」という渡し船が往来していた。なぜ「勝鬨」なのかといえば、その渡し自体が、1905(明治38)年に“旅順陥落祝勝記念”としてできたものだからである。なんと、日露戦争の“かちどき”だったのである。
 「東洋一の可動橋」と呼ばれ、橋桁の中央部が「ハ」の字型に開くようなしくみになっていたのは、当時の隅田川の海運が盛んだったことを示している。橋には路面電車用レールが敷設されていたが、実際に電車が走ったのは1947年から1968年までの間で、でんでんむしも一度くらいは都電で橋を渡ったはずである。一日三回開いていた跳ね橋も、船の航行が減る一方では車の通行が増大し、1970(昭和45)年に試験的に開いたのを最後に、開かずの跳ね橋になっている。今も、中央部の塔屋には信号機が残っている。
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 橋の袂にあるささやかな資料館を見学すると、この橋のしくみもよくわかる。跳ね橋の錘が格納されている真ん中の橋脚の中に入ることができる見学ツアーもやっていたが、結局これには参加できないで終わった。
 橋の歩道と車道を分けるアーチの下部には、勝鬨橋が開くときの様子を時系列に示す鉄製の飾り(透かし彫りのような)がはめ込まれている。bkachidoki13.jpg
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 資料館の反対側対岸にある「デニーズ」に行くと、勝鬨橋を再び開くようにしようという運動をしている団体の機関紙のようなものが置いてあったりする。だが、跳ね橋を開くのは、もう電源も喪失(この表現が馴染むようになってしまった)しているので、ムリであろう。
 「デニーズ」で思い出したのは、ディズニーがつくった世界最初の長編漫画映画『白雪姫』のことである。アニメという言葉はまだ使われていなかったが、これも映画史に残る傑作であった。この映画は1940年ではないが、日本の軍隊が大陸に突き進んでいく頃にはすでに完成していた。ところが、アメリカと戦争をする日本とドイツでは、すぐに公開されることはなかった。日本人とドイツ人が『白雪姫』を見ることができたのは、それから13年も経った1950年になってからだった。
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 「デニーズ」のあるイヌイの建物は、昔は屋上にイヌイ倉庫のマークをつけていたのだが、今では伊達政宗の兜の月ほど細くはない三日月をのっけている。イヌイ倉庫のホームページには、勝鬨橋周辺の変遷がわかる古い写真などもある。だが、この月のモニュメントの説明はなかった。
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 晴海通りの南側もイヌイ倉庫のビルで、高層の賃貸マンションが工事中の頃の写真もあわせて見ると、月島第二小学校の時計台は、少し前までは勝鬨橋とセットで写り込んでいた。
 隅田川の河口からほぼ1キロほどの位置にある勝鬨橋の右岸南には、築地市場が展開していて、ここにもランチでときどき行ったものだ。
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 また、“幻の晴海万博”に戻るが、これも計画倒れで終わったというようなものではなく、かなり本気でやるつもりだった。6年前に「月島図書館だより“MONJA”」で知って、「へぇー」と驚いたことがあった。それは、この万博の前売り券をなんと“100万冊”も売ったということ、その80%は払い戻しで回収されたということ。そしてさらに、1970(昭和45)年の大阪万博でこの券が有効であったこと、そしてまた、実際に大阪万博の優待券と引き換えられた(券には交付印が押されて持ち主に返却された)ものが3,077件もあったということである。
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 空襲なんかもあったのに、みんなよく大事にとっているもんだ。
 そんなこんなの勝鬨橋は、でんでんむしと同い年。跳ね橋部分は大きなトラックが通るとガタピシ揺れるので少し不安だけれど、花崗岩の欄干やしっかりした石組みの橋は、まだまだそれなりの貫録を示している。
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dendenmushi.gif(2011/05/24 記)

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タグ:月島 勝どき
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58 勝どき。大江戸線が90度にカーブして方向転換する上では新しい高層マンションも続々と [月島界隈]

 一丁目から六丁目まである「勝どき」が、元々は「月島」だったことの痕跡は、歩いているといくらも見つかる。前にも書いたように、月島第二小学校も、銀行の月島支店も、月島消防署も、月島警察署も、月島アパートも、月島倉庫も、これらはみんな勝ちどきにある。
 もう、昔の話、銀座から勝鬨橋を渡って晴海通りを走っていた都電は、「月島□丁目」行きだったはずである。□が5だったか6だったかまでは覚えていない。また、門前仲町から清澄通りを走ってきた電車も同じく「月島□丁目」行きで、ここが終点だった。
 そんな時代には、この交差点は場末のかなり淋しいところだったように思える。月島川と新月島川の間の四角い埋立地と、新月島川と月島埠頭までのブロックは、冷蔵倉庫などが集まる豊海の延長で、倉庫会社がたくさんあり、その間にちらちら都営住宅などがあるくらいだった。
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 今、勝どきと名を変えたその地域の中心となる交差点の周辺は、マンションが建ち並び、それだけでは足りず高層マンションまでが、何棟も建ってすっかり大都会の風情を漂わせている。
  晴海通りと清澄通りが交差する北角には、サンスクエアという再開発ビルがあるだけだったが、西角にはURの高層マンションができて、周囲の風景を一変させた。
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 勝どき地区には、隅田川沿いにも高層のビルがあるが、やはり六丁目にタワーができたときには、ちょっと驚いた。59階のタワーが、しかも二本同時にできた。それは、どこからもよく目立っていたが、間もなく周辺にも同じような高層の建物が増えて、すでにさほどには突出した感じではなくなっている。
 このタワーの設計デザインの一部は、晴海トリトンと同じ人であるらしい。というのも、こちらも計画の途中から住友商事が絡むことになったので、うなずける。なるほど、歩いてみると、トリトンと同じような雰囲氣がある。
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 全体にカーブのラインが目立つ。それが風をはらむセールをイメージしたものだと後から聞いたが、それまでまったくそんなことまで想像していなかった。黎明橋のトリトンブリッジのガラス越しに見ると、なんとなくそんな気にもなってくる。
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 老都知事の執念のために、膨大な税金を使った東京オリンピックの招致活動中、候補地をめぐるIOCの視察団が東京にやってくるという数日前から、彼らが通るであろうコースの要所要所に、こんな花壇ボックスが置かれた。メインスタジアム予定地や選手村予定地への入口にもあたる黎明橋の上にも、それは置かれていた。
kachidoki11.jpgkachidoki12.jpg ちょうどその頃、黎明橋から250メートルほど離れた勝どき交差点の高層ビルは基礎工事も終わり、上へと伸び始めていたのであった。工事現場の隣にある月島第二小学校のシンボルであるレトロな時計台が、間もなく高いビルの谷間に沈もうとしていた。
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 都内中心部を6の字を描くようにして走る大江戸線は、勝どき付近がちょうど6の字の底部にあたる。ここが開業したのは、2000(平成12)年の全線開通時で、築地方面からの地下トンネルは築地市場の下から隅田川を渡り、新月島川の下で90度向きを変えてすぐ勝どき駅となる。
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 この“東京23区でいちばん最後に開通した地下鉄”は、いちばん深いところを走っているのでも有名だが、この付近では“はじめての地下鉄”だったので、そんなに深くはなくてもよかったが、やはり隅田川の河口付近をもぐるので…。
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 晴海トリトンに通う通勤客も増え、朝のラッシュ時は、駅も大勢の人で大混雑している。最初3つあった出入り口も、今では5つに増えたが、狭いホームは、身動きならないほどのときもある。高層マンションの住人が、さらに増えるので、勝どき駅の混雑は、ますますひどくなろう。
 大江戸線でいちばん混雑がひどいのは、ラッシュ時の東西線からの乗り換え客を詰め込んだ「門前仲町→月島」間で、180%近いという。だが、月島でいくらかこの値が減っても、ほぼこのすし詰め状態は勝どきまで続いている。勝どき駅で、晴海トリトンへ通勤する人々がドッと降りてやっとピークが解消する。
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 駅の出口の前に古くからある不動産屋は、昨年か一昨年ぐらいだったか個人名だった店の名を変え「勝どき不動産」を名乗るようになった。近隣の新しいマンションの間取り図がウインドウに掲げられ、若いカップルなどがよくのぞき込んだりしている。そこから少し離れた月島橋の袂には、カタカナ名の新しい不動産屋も開店した。
 「銀座まで何分」という、古典的なキャッチフレーズが、今も有効に使える勝どき周辺は、まだしばらく人気で、もう一軒ぐらい不動産屋も増えるかも知れない。
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 高層ビルは、長い日陰をつくりだす。道路拡幅工事も終わって、明るいサザンカの道になっていた晴海通りの勝鬨橋寄りは、いつの間にか陰の道になってしまい、ビルの切れ目の隙間にだけ日が当る。
 その先に、勝鬨橋が見えてくる。
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dendenmushi.gif(2011/05/21 記)

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57 晴海トリトンスクエア。たくさんの思い出も残してくれた場所だが近年停滞気味で気になる [月島界隈]

 月島に仕事場を移したときには、晴海トリトンスクエアもすでにあり、都営大江戸線も開通していたので、毎朝「勝どき」駅から晴海通りの歩道を歩く大勢の通勤の人々の群れが、南西へ向かって帯のように流れていくのを眺めていた。
 少し年配の人も混じってはいるが、大半は若い人たちで、しかも女性の比率が非常に高い。高齢化とか言われているが、ビジネスの現場は、やはり若い人の世界である。
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 正式には「晴海アイランドトリトンスクエア」というが、ここは三棟の高層オフィスビルが立ち並び、北の端には都営住宅らしいマンションもくっついている複合商業施設である。住友グループの資本が入った再開発によるものらしく、店子も住友商事などがメインのようである。
 中小企業ばかりで大企業の経験がなく、自分でつくった会社は超零細。いわゆる“エリート”とは、ほど遠い世界を生きてきたでんでんむしには、多少は「あの人たちのように、IDカードをぶら下げてケータイをもち、社食でお得ランチを…」といった今風の、恵まれたビジネスマン、ウーマンへの若干の羨望がなかったとはいえない。
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 ちょうどその頃、NHKが『ロッカーのハナコさん』というオフィスものテレビドラマを放映していたのだが、これがこのトリトンスクエアでロケをやっていて、吹石一恵が、ともさかりえが自分がいつも歩いている場所で、今日はどこが映るのか…というおもしろさがあった。
 大きなくりっとした眼がチャームポイントの吹石一恵という女優が少し気になったのは、彼女の父親が近鉄の選手だったからである。テレビにかじりついて、江夏の投球の一球一球に祈る気持ちで手に汗を握っていた、あの時のことは、忘れられない記憶として刻まれていた。
 古葉監督率いるわが広島カープが西本監督の近鉄バッファローズと争った1979(昭和51)年の大阪球場での日本シリーズ第7戦、有名な伝説となった広島1点リードの9回裏、無死満塁の二塁走者が、吹石徳一選手だったのである。
 翌年、文藝春秋から創刊された『Sports Graphic Number』に、山際淳司の『江夏の21球』が掲載されると知って、発売日に書店に駆けつけたものだった。
 余談になるが…というのも、すべてが余談の積み重ねのようなこのブログではわざとらしい。この作品がマンガの原作によるということを、観ていたときにはまったく意識していなかったのだが、『JIN-仁-』の例を持ち出すまでもなく、最近のテレビドラマの多くが、自分で苦労しないでマンガから栄養分を吸収することでなりたっていることを、改めて確認したときにこれもそうだったのだとついでに気がついた。
 マンガ原作なら飛びついても、もし同じものがオリジナル・シナリオで持ち込まれたときには、テレビは目もくれないのではないか、おそらく…。
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 高層オフィスタワーは、X棟、Y棟、Z棟の3棟がトライアングルを構成している。三本の柱のその中央に、避難場所にも使えそうな広いスペースがとってある。その北側にもうひとつ中層のW棟があるので、この4つで「スクエア」と名付けたという説明がウイキペディアにはあったが、それはどーだろう。いささか苦しい、こじつけのようにしか思えない。XYZに異質なWを加えてムリヤリ線を引いてみても、いびつな変な形の四角にしかならない。それよりも、ここは素直に“広場”という意味で理解しておくほうが、どう考えてみても自然である。
 また余談だが、平日は毎日午前11時30分頃から、この広場の一角に、お弁当の販売ワゴンが並んでいた。トリトン内の飲食店がそれぞれ自慢?のお弁当を積んで集ってくるのだ。オフィスビルから出てきたたくさんの人たちが、自分の好みのワゴンの前に立って、袋をぶら下げて仕事場へ帰って行く光景が、なんともおもしろかった。社食がある会社ばかりではないのである。どうせ、どこかの誰かが横槍を入れたのだろう。昨年から、広場のお弁当ワゴンはなくなり、オフィスビルから遠いはずれに押し込められている。これでは、弁当の販売にも影響が出よう。
 W棟には、慈恵医大晴海トリトンクリニックがあるので、よくお世話になった。加藤先生、お元気でしょうか。また、広場の上には、第一生命ホールがあって、何度か演奏会にも行ったが、咳がひどくなってからは遠慮してきた。土日になると、楽器ケースを抱えた人たちが、大江戸線などで集ってくるのを、よく見かけた。 
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 オフィスタワーのほうは、無用の者が立ち入るわけにもいかないが、商業施設内の食べ物屋にもよく行った。ここに行き始めた頃には、「クイーンアリス」というフレンチには石鍋裕、「トゥーランドット」という中華の店には脇屋友詞と名物シェフがいた。それぞれが競い合って、施設全体を盛り上げていた。その頃の、晴海トリトンスクエアは、よそから来たお客さんを連れて行っても充分喜んでもらえるような場所だった。
 だが、こういう繁華街でもなく集客力があるわけでもない、後背地が広く肥えているわけでもない場所で、家賃を払って飲食店やその他の店をやっていくのはいかに大変なことか。素人が考えても、充分推測ができるのである。
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 残念ながら、数年したところで石鍋シェフも脇屋シェフも、店ごと引き連れて他の場所へ移って行ってしまった。
 施設運営会社も苦心をしているようだが、次々と出店者が入れ替わる。いつも利用していた人間の目から見ても、“60のショップ&レストラン”は、だんだんと魅力がなくなっているような気がして、まことに淋しい。
 建物の上にかなりな規模の緑地をつくって、四季折々の花や樹木が楽しめるのもよかった。これらの設計というかデザインというかも、なかなか凝ってはいるが、このデザインでは北の端の商店にまで、ただでさえそう多くない客を誘導するのはむつかしいな、と思っていた。案の定、今では何度も飲食店が入れ替わった後が、住友グループの保育所になったり、100円ショップになったりしている。
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 晴海トリトンの北西側、朝潮運河に沿った「さくらの散歩道」は、自動車は通らない広い道である。東京都中央区にとってこの道兼広場は、さまざまなイベントも行なわれる貴重なスペースになっている。
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 ここにレクサスのマークをつけたトヨタの販売店があるのは、一見不思議に思える。だが、晴海の見本市会場から帰る途上での昔の記憶を思い起こしてみると、トリトンのある場所には確かに都営住宅もあり、その脇にトヨタの店があった…。
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 晴海通りが朝潮運河を渡るのは黎明橋だが、そのそばにはトリトンブリッジという動く歩道の橋がある。こういう橋もめずらしいのではないだろうか。これは中央区の「区道」であるという。市道があれば区道があってもおかしくない。区道があることは、ここで初めて知った。
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 都会の中のこういうスペースは大変貴重で、街づくり、地域の魅力ポイントとして、今後も重視されるべきで、晴海トリトンはそのテストケースになろう。
dendenmushi.gif(2011/05/18 記)

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56 晴海大橋。「大橋」にもいろいろあるがこれは確かに大きいしまずほとんど人がいない場所 [月島界隈]

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 晴海運河は、木場の貯木場の名残りもある相生橋から南側の水域から始まり、アーバンドックの南西からは幅の広い水域がレインボーブリッジの東京湾につながっている。その中間で晴海と豊洲を結ぶのが、晴海大橋である。遠目に見るとその傾斜もさほどには思えないが、橋の袂に寄ってみると、これはもう山かと思うくらいの登り坂になっている。
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 2006(平成18)年に開通して、日比谷・銀座・築地・勝どき・晴海ときて、さらに豊洲・有明へとほぼ真っすぐに延びる道路がつながった。これで晴海通りが真っすぐ延伸するのかと思いきや、そうではなく首都高速10号晴海線という計画道路の一部になるらしい。晴海通りは、これまでどおり晴海三丁目から北へ折れ曲がり、春海橋から豊洲を経由して東雲までのようだ。
 車を運転しないでんでんむしは、道路にはあまり関心はないのだが、それでも都市計画道路というものが、どういう構想によってプランニングされているのか気になることもある。
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 ゆりかもめの「新豊洲」駅の周辺は、丸い変電所の建物のほか、まだ空地が広がっている。それはその南隣の「市場前」駅の周辺までずっと同じである。この付近が、東京都では築地市場の移転先として予定したものの、有害物質がでてきて大もめにもめている、問題の場所である。
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 問題が加熱する以前、東京ガスがあった付近を豊洲埠頭の南端まで歩いてみようとしたことがあった。その頃は、厳重な柵もなく、イケイケでブルトーザーやダンプが活動した跡らしい荒地を歩いていたのだが、遠くのプレハブの仮小屋のようなところから人が現われて、それ以上の進入を拒否されて引き返したことがあった。
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 ゆりかもめの「市場前」駅は、ここ数年毎年1日平均乗車人数は二十数人であるという。さもありなん。…っていうか、むしろ平均で毎日二十何人もいるというのが、ふしぎというべきか?
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 「新」をつけたいかにも安易な名称がいただけない「新豊洲」から、晴海トリトンスクエアのある三本ビルに加えて高層マンションも増えた晴海の間に架かる巨大な架け橋は、実に橋長は580メートル、最高地点での海面までの高さは24.2メートル。橋の端から端まで、歩いて10分以上かかる。その全貌は、なかなか写真にも収まりきらない。
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 おまけに橋は、南行き車線と北行き車線が完全に分離しており、二本の橋が並んでいるようで、その間にはなにやらコンクリートの大きな構造物がある。どうやら、これが首都高速10号晴海線につなげる計画のためであるらしい。
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 晴海大橋の南側には、豊洲大橋もほぼできているが、その後工事は中断したままで開通はしていない。これとつながる予定の環状第2号線のメドがたたないままの開通には、交通混雑と混乱が増幅されるだけだとして、開通凍結を求める請願が、月島連合町会など三つの地元団体から出されている。これも、築地市場の移転問題と、微妙な関連がありそうだ。
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 環状第2号線や首都高速10号晴海線がつながるときには、この晴海大橋はまたさらに姿を変えていることだろう。
 豊洲大橋の向うには、レインボーブリッジが延び、はるか西には季節にもよるがお天気に恵まれると富士山がよく見える。なにしろ橋が高いので、かなりの登り坂になる。都内各地にある「富士見坂」では、ビルが増えて見えなくなってしまったところも多いが、ここには新しい「富士見坂」ができている。(また、例によって富士山の見える写真が見当たらない。)
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 観覧車お台場方面の写真はあったが、このときは羽田空港の新滑走路ができる前で、“羽田ターン”のコースをとって飛行機が飛んでいる。
 この橋をジョギング・ウォーキングコースにしている人や、自転車で渡ろうとしている人もたまにある。車がいるのはしかたがないが、だいたいは行き交う人もいない。どこも人で溢れている都内では、まずめずらしい場所。
 それが、この晴海大橋なのです。
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dendenmushi.gif(2011/05/15 記)

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タグ:晴海 月島 豊洲
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55 豊洲。23区でいちばん新しい街がどんどん成長していくのを眺めるのもおもしろい [月島界隈]

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 石川島造船所が石川島から豊洲に越してきたのは、でんでんむしが生まれる少し前くらいの頃であったが、今の豊洲はその造船所の跡地を中心にして大規模再開発が進んでいる。
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 1960年代の始め頃の東京と、60年代終り以降からの東京を知っているでんでんむしとしては、どの街も長い間に当然に大きく変わってきて、その現地もいくらかはみてきた。
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 そのなかでも、ある程度大規模に様変わりしてきたのが湾岸地区であろう。お台場周辺についで、東京23区内で最も新しくできて急成長している街といえば、まずこの豊洲があげられるのではないだろうか。
 60年代頃の豊洲は、倉庫と工場と造船所など大きなブロックがつながり、その間を広くてほこりっぽい道路を、大型のトラックが黒い煙を吐き出しながら轟音をあげて走り回っていた。
 申し訳のような歩道と歩道橋はあったが、どこまで見渡しても店はおろか人影もまったく見えない、殺風景を絵に描けばちょうどこんな感じか…そんな印象が豊洲にはあったものだった。
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 今の豊洲には、かつての造船所のモニュメントをシンボルにした、新しい街ができている。“アーバン・ドック”という名もあるパブリック・スペースには、ドックつながりというわけか“ドッグ・ラン”までもあるところが今風である。複合ショッピング・センターには、近年流行のシネマコンプレックスもあれば、紀伊国屋書店や東急ハンズもあるというので、オープンの日にはさっそく見物に出かけたりしたものだった。
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 今では、それに隣接して中高層マンションなどが並ぶ。一方では、オフィスビルも新しくにょきにょき建ち始め、新しい街はさらに成長を続けている。古い街もいいけれど、こういう新しい街もおもしろい。いったい、だれがどこで、どんなことをして、こういうことになるのだろうか…。
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 運河沿いのテラスも、でんでんむしとしては隅田川テラスに続く格好の散歩コースになる。まだ全通はしていないが、広い晴海運河をめぐる新ルートは、この新しい街に寄り道をしたりするので、隅田川コースよりも時間がかかる。朝潮運河から廃線になった東京都港湾局の専用線が赤錆びて残る鉄橋に並ぶ春海橋を経て、日本ユニシス本社前から豊洲をぐるっと回って、「ゆりかもめ」に沿って晴海大橋を渡って晴海トリトン経由で月島へ…というコースは、もちろん逆回りも可である。
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dendenmushi.gif(2011/05/12 記)

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54 朝潮大橋と月島二丁目。日本ユニシス本社への通勤路は水門を見ながら朝潮運河を越える [月島界隈]

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 湯島から月島へ移ってきたときに、よく参考にさせてもらった月島の店情報のページがあった。月島は、もんじゃ以外ではほとんど数えるほどしかランチにも夜にも適当な店はないのだが、それだけに貴重な情報だったので、そこにあげてある店には軒並み行ってみたりしていた。そのページをつくっていたのは、豊洲一丁目の日本ユニシス本社の人たちであった。
 ユニシスといえば、TDLのパレードのスポンサー?としても有名だが、月島との関係が、当初はピンとこなかった。当時は、まだ豊洲にもあまり大きなビルは少なく、日本ユニシスのビルはよく目立っていたが、通勤にはあまり便利とは言えず、東京駅八重洲南口からの都バスか、地下鉄の豊洲駅か月島駅から歩くしかない。
 月島駅からは、豊洲駅からよりちょっと遠いし、歩く道もかなり淋しい。それでも、朝の散歩のときに、朝潮大橋の広い歩道のスロープを三々五々豊洲方向へ歩いて通勤に向かう人をよく見かけた。その人たちが、夜にちょっと寄り道するとなれば、それはやはり月島以外にはなかったのだろう。
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 「東京都道473号・新富晴海線」という名前があるらしい、隅田川を佃大橋で渡り、朝潮運河を朝潮大橋で渡る2キロちょっとの高架道路は、前にも書いたように東京オリンピックのときにできた。豊洲から晴海通りを経て東雲、辰巳あるいはお台場方面につながる道でもある。
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 朝潮大橋と並んで佃水門があり、晴海運河と朝潮運河をつないでいる。橋は広く長いが、東京都のポンプ場が佃三丁目に三角にせりだしているのでちょうど工事中の水門は狭くなっている。水門にも管理人が必要で、豊洲側には官舎のようなものもある。
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 朝潮大橋の晴海側には、橋へ上がる階段があるが、月島側から渡るには、初見橋から始まるスロープに入らなければ、道なりに来ても行き止まりになってしまう。
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 朝潮大橋の晴海側の袂にあった空地には、老人ホームができている。その南には晴海総合高校と首都大学東京晴海キャンパスが続き、そのさらに南にも区立の老人ホームがある。
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 23 朝潮橋の項でもふれていたのだが、晴海地区の土地利用とその推移には、なかなか他の地域にはあまりない独特のものがある。老都知事が執念を燃やして失敗した二度目の東京オリンピック誘致計画では、メインスタジアムまで晴海につくるつもりだった。
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 橋の月島側は、晴海とは対照的な土地利用の月島二丁目。まだ古い建物が残るが、近年それを利用したらしいこんなステーキハウスもできている。「山ぐち」という看板を掲げた店は、いまニュースを賑わしているあの焼き肉屋の変な店構えとは、大違い。夜しかやっていないので、行ったことはなかったのだが、なんとネット情報によれば「小栗旬ゴヒイキの店」なんだって。月島二丁目のイメージチェンジになるのかしらん。あ、ユニシスの月島ページ、最近見ていないけど、こういう月島にはめずらしい高級店も取り上げたのかなあ。
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dendenmushi.gif(2011/05/09 記)

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53 「海水館跡」って。一部では有名らしいここもかつては景勝地であったというがその面影も何もない [月島界隈]

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 その名も「相生の里」という高齢者施設が、相生橋の袂にできて、南へ向かうテラスが少し延びた。同時に、堤防の下の道が整備されて、橋から行き止まりの小さな三角定規のような公園まで、通行できるようになったのは、比較的最近のことである。
 でんでんむしは散歩のとき、以前は小公園と相生橋の間の堤防下は、途中で民家の間の路地に降りて、清澄通りに戻らなければなければならなかった。おまけに、周辺の家々の菜園やら花壇やら盆栽棚やら果樹園やらが、堂々と占拠していた。いつもむりやり通り抜けていたが、およそ通路などではなかった。東京都中央区も、気がつかなかったわけではないだろうから、長い間公有地の私的占拠状態を黙認していたのだろう。堤防下はコンクリートで固めてあるので、それらの植物は鉢物や発砲スチロールやプラスチックの容器に土を入れて、育てられていた。その頃の写真もあったはずなのだが、見当たらない。
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 「相生の里」の川寄りのオープンスペースから、堤防下へ降りる階段もできていて、通行の邪魔になるものは撤去されてきれいになっていた。レッドカーペットのような道の脇、堤防の支えになっている桁の間には、少なくとも通行の妨げにはならないスペースがある。菜園や花壇や盆栽は、そこにきれいにまとめられていた。
 この通路を行くと、三角形の小さな公園で行き止まりになるのだが、その手前に道に降りる場所があり、そこが「海水館跡」なのである。
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 情報量の少ない今のネット地図では、当然のごとく無視されているが、かつて愛用していた東京の地図には、ちゃんとそれが表示されていた。そこで湯島から月島へシマを変えてやって来たときに、さっそく「いったいこれはなんだろう」と思って、佃三丁目の道が直角に曲がる曲がり角にあたる現地を訪ねた。その後も、散歩のコースによっては、よくこの周辺も歩いてきた。
 文学散歩マニアの間では、それなりに注目されてもいたようで、そこには明治学院大学の藤村研究部が建てたという堂々たる記念碑が、わずかなスペースをブロック塀に囲まれて立っていた。どうやら、母校の先輩を顕彰するものらしい。
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 ここに、明治38年から関東大震災で焼失するまで、「海水館」という旅館兼下宿屋があり、多くの文人なども訪れたというのだ。なかでも、島崎藤村、小山内薫、吉井勇、三木露風などは、ここに滞在して創作活動をしたと伝わっている。東京都中央区のネットでの説明には、「月島の 広き草原風吹きて 東の風の 涼しかりけり」という露風の歌が紹介されているが、吉井勇の歌にも、「冬の海 見ればかなしや新佃 海水館は わび住みにして」というのがある。佃島の延長埋立地は、“新佃”と呼ばれていた。
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 今、「海水館の記」という碑が立つ場所は、住宅の切れ目ですぐ堤防が迫っている。人の背丈よりも高い堤防なので、川が眺められるわけでもない。堤防の下で背伸びしても、豊洲のビルの頭が見えるだけで、どこをどうみてもそんなにありがたいような場所ではない。
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 ところが、「海水館」があった頃には、東京湾に面した新佃の海岸には松林が続き、晴れた日には遠く房総の山々を眺める風光明媚の地であったらしい。海に向かってせり出すような二階建ての建物からは、釣りもできたし、温泉こそなかったが一日中風呂が沸いていた、というのである。
 そこで、思い出していただきたいのは「月島」の名は“月の名所”だったからということである。41の初見橋の項で、大江戸線の改札口にある月をモチーフにした壁面も紹介している。「月島」の名は「築地」と同じく「築島」から転じたという説もあるが、両方正しいのであって、どちらか一方だけということではあるまい。
 おそらくは、その月の名所の観月スポットとしても、「海水館」は人気があったのだろう。
 藤村がここで書いたのは、『春』という作品である。ブンガクが苦手なでんでんむしも、藤村の代表作のいくつかは読んでいるが、これは読んでいない。『桜の実の熟する時』はまだよかったが、その続編のようなモデル小説であるらしいから、これから先も読むことはないだろう。
dendenmushi.gif(2011/05/06記)

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52 相生橋。…といえばどうしても広島を想ってしまうのだが元来はおめでたい名前なので [月島界隈]

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 川べりの隅田川テラスとその上の土手と道と、そして両者をつなぐ斜面からなる石川島公園を南に向かって通り抜けると、目の前に現れるのが相生橋である。対岸の越中島は、元は広い葦の原だったようだ。その土地に目を付けた陸軍の練兵場になっていたそこは、今ではヤマタネなどの倉庫や都営住宅が並んでいる。石川島側のテラスのふちには、鋼矢版の囲いがしてあって、水生植物の再生実験が行なわれているような形跡がある。
 越中島と月島の間には、小さな船のような形をした島が横たわっている。こういう場合のお約束のように、その名は「中の島」だが、川の中央ではなく越中島よりにあり、しかも陸と橋と島が一体になって、そこは公園になっている。
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 何の気取りもない、素朴な鉄骨の枠組みが特徴的なフォルムが印象的なこの橋は、その構造についてトラスがどうとかの説明板もあるが、しろうとの悲しさでどこがエライのかよくわからず、覚えていない。現在の橋に架け替えられたのは、1998(平成10)年のことである。
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 前にもちょっと紹介したが、月島と佃島が渡し船以外で初めて本土と結ばれたのは、この橋の開通(1903(明治36)年)によってであった。最初の橋は、もちろん木の橋で、このときは中の島も名実ともに島で、これを利用して月島側の長めの橋と越中島側の短い橋と、大小二本の橋ができたのであった。
 橋の開通と、ほぼ同時にやってきたのは水道管。でんでんむしが当時を知るわけはないので、これらはすべて月島図書館で仕入れた資料による知識と記憶であるが、東京湾にできた埋立地では、交通事情もさることながら、井戸がないので飲料水には不自由していたらしい。なにしろ、水桶を積んだ小舟が隅田川を渡って、水を売りにきたというのだから…。
 お向いさんの“本土”越中島や深川も新興の埋立地だったのだが、深川のほうはその頃は結構繁華な場所だったらしい。富岡八幡などの門前町で文字通り市をなす状況だったと思われる門前仲町から、橋の拡幅工事が終わって路面電車が線路を延ばしてきたのは1923(大正12)年。橋にもいろいろな歴史とドラマがある。
 大震災はその2か月後、燃えた船が橋に流れてきて全焼してしまう。月島は、それから3年以上もの間、またしても“離島”になってしまう。震災復興事業で掛け替えられた隅田川の橋は多いが、この橋はその第一号だった。
 石川島の先端に当たって二手に分かれた隅田川も、東の流れはこの橋までである。この橋から下流は、豊洲運河ということになるらしい。橋の袂にある川の標識は、“ここまでが隅田川”ということを、やけに強調しているように見える。
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 橋の東側、越中島には海洋大学の広い敷地があって、川寄りには帆船「明治丸」が保存されている。かつては灯台を巡回するのが仕事だったこの船は、その後は練習船として活躍した。今ではなにかの重要文化財のはずである。
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 おや? なんか変…。
 三本マストが高くそびえているはずなのに、それがほとんど目立たない。いったいどういう事情で、マストをちょん切ってしまったのだろうか。重要文化財になんちゅうことすんじゃい!
 以前は、佃側から見ても、それが高々とあったのだという証拠に、ちょん切られる前の写真も…。(“なんでも物知りの”ChinchikoPapaさんがブログでくださったコメントによると、「明治丸」は海洋大学が修理中であったが資金難になり、補修作業が中断しているとのこと。マストがちょんぎられたままになっているのはその関係らしい。)
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 「相生」という名は、地名としても全国各地にある。なかでもいちばん有名なのは、兵庫県の相生市であろうが、ここの命名の由来はかなり特殊である。なんでも「おお」が元の呼び名で、たまたま城主の海老名氏が相模の生まれであったところから、この字が当てられたという、複雑骨折のような由来による。
 神奈川県には海老名市があるので、鎌倉時代の守護地頭として播磨へ派遣された鎌倉武士の一族なのであろうが、こういう例は数多く、それがその後の日本の骨格を形成したような趣がある。当時の社会的な事情を考えると、これは相当大変な意思決定に基づく社会改革であったといえる。
 その文脈のあとで述べるには、かなり飛躍しているし、同列に論じることではないながら、民主主義の現代に生きる人間が災害を乗り越えるに思い切った手も打てず、あまりにももたもたしているようにみえてしまう。
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 この変な例を別にすると、だいたいは「相生の松」が象徴し、謡曲の「高砂」も元は「相生」であったように、夫婦が長く睦まじくあるという意味の賀字・雅語の類いである。もちろん、この相生橋も最初の架橋が大小二本の橋であったところから、夫婦橋の意でつけられた命名である。茶碗でも箸でも名刺(これだけは最近少なくなりましたが)でも、オトコが大でオンナが小と決まっていた。この頃はそれですんなり決まったが、昨今では逆の場合もあり異論も多かろう。
 広島生まれのでんでんむしは、同じ名前の広島の三角洲の中央にあるT字形橋のことに、どうしても想いが流れていくのである。
 本川という川を横断しながら、中央から南に向かってやはり中の島とも呼ばれた中洲島にもかかるその橋は、上空から見ても目立つ形で、それが原子爆弾の投下目標になったといわれている。でんでんむしの生家は、その橋から1.7キロほどのところにあった。
dendenmushi.gif(2011/05/03 記)

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51 消えてしまった石川島。いうなれば佃島に庇を貸して母屋をとられたかわいそうな島なの? [月島界隈]

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 前に石川島という島について、「いまはその名もほとんど残っていない」と48項の見出しに書いていた。というのは、佃島の北側一帯は、今の住居表示では「佃二丁目」となっている(佃一丁目は“百間四方”といわれた旧佃島の狭い範囲だけ)。今は「リバーシティ21」とも呼ばれる、かつては佃島とは別の島であった地域全体がそうなのであって、つまりは「石川島」という名は、現在の地名としてはどこにも残っていないわけである。
 古くは「鎧島」といわれたこの島は、隅田川が運んできた土砂が堆積してできた中州だったのだろう。ただ、浮世絵版画にはただの砂洲ではなく、山らしきものが描かれているので、小さな島があってその先に砂洲が延びていったと考えられる。その南西側の端っこの砂洲を、おそらくは鎧島の土も使いながら埋め立て広げたのが、佃島である。将軍家光の代に、“石川五右衛門”ならぬ“石川八左衛門”が鎧島を拝領したので、そこが石川島と呼ばれるようになったのだという。石川島は、鬼平などの時代小説でおなじみの“人足寄せ場”という労役場があったことでも知られ、明治期には海軍の重要施設としての役目も果たした。
 こうしてみると、佃島に庇を貸して母屋を乗っ取られたようなもので、かわいそうなのは石川島じゃありませんか。
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 パリ広場の突端から相生橋にかけては、「石川島公園」という名がある。高層マンションの下には「石川島資料館」がある。佃島小学校・佃中学校(これも小学校のほうが先で、あとからできた中学校は「佃島中学校」にするには憚りがあったわけであろう)の南には「石川島播磨重工業健康保険組合病院」というのもある。
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 今に残る「石川島」は、そのくらいであろう。ただし、病院は少し前に「IHI東京病院」と看板を変えた。石川島資料館は、ひさしぶりに覗いてみると震災後は閉館になったままであった。
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 その名が消えたのは、石川島播磨重工がそもそもの発祥の地であるここから撤退したことが、いちばん大きな要因になったのであろう。資料舘と病院だけじゃ、どうしようもありません。
 1853(嘉永6)年に、ここに水戸藩が造船所がをつくり、これが後に石川島造船所となり、さらに1939(昭和14)年頃から造船所の主力は、豊洲に移転する。海軍がここを中心に使うようになったことと、関係があったのかもしれない。豊洲に移った石川島造船は、播磨造船と合併して石川島播磨重工業となり、現在では「IHI」が社名になっている。なんか、安売り旅行会社か電気釜みたいな名前だなあ、などといってはいけません。こっちのほうがはるかに由緒ある略称なんですからね。
 メザシの土光さんも、この会社の出身であった。最後まで残っていた佃工場が閉鎖されたのは、1979(昭和54)年であった。
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 石川島公園には、かつてここで日本で初めて蒸気式軍艦が建造されたことを記念する標識が立てられている。
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 でんでんむし得意の憶測だが、石川島を消して佃に地名を統一するにあたっては、「佃島」とするには百間四方に限定されるようで抵抗があったわけで、「島」をとって「佃」とするのは、足して二で割る妥協案だったような感じもする。小学校と中学校の名前が違うのも、そうしたいきさつをしのばせているようだ。
 石川島とは直接関係ないのだが、石川島散歩で時間に余裕があれば、ちょっと立ち寄ってみるとおもしろい場所がある。中央大橋あたりでついでに書いておけばよかったのだが、書き忘れていたのでここで紹介しておこう。
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 中央大橋の南詰め、橋に向かって右手にガラス張りの建物がある。ここは共同通信社の研修センターかなにかだが、その1Fに全国の地方紙を集めて閲覧に供しているスペースがある。
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 地方紙だから、送られてくるのに多少時間がかかり、その日の新聞は無理だが、全国各地いろいろな地方の新聞が見られる、これはなかなかおもしろいですよ。 (手前のテラスと茶色い椅子は、隣の中華レストランのもの)
dendenmushi.gif(2011/04/29 記)

●関連リンク(求む情報提供)
番外:2013年前半のブログレポートまとめ:「消えてしまった石川島。」はなぜか消えないで…(So-netブログの七不思議12)

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50 佃・月島の北端の岬。隅田川を分ける先っちょから永代橋を望むと [月島界隈]

 このブログは、岬をめぐるのがメインテーマなのだが、いろいろな経緯からここしばらくはサブテーマのほうにばかり、傾斜してしまっている。月島界隈も、ぐるっとひとまわりが終わるまで、あともう少し続ける予定である。
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 この項は、地形だけでいうなら岬にこじつけてもいいくらいで、佃・月島の北端にちょつと尖って突き出た先っちょである。
 この先っちょの上の一帯にも、パリ広場とかいうほとんど無意味な名がついているのは、例の友好河川がらみだがこれも当事者の自己満足だけのことでしかなく、ここを歩く人の何割がその名を知っているかといえば、決して多くはあるまい。
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 隅田川が永代橋をくぐって流れてきて、石川島にあたって、ふたつに分かれる、ちょうどその分水嶺のようになっているが、本流は上流に向って左、西を流れる。右の東側も、越中島に沿ってこの先の相生橋までは隅田川なのである。「メッセンジャー」も見送るこの場所は、水面が広く開放されていて、ちょうど正面に永代橋のアーチを眺める。
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 隅田川がまだ大川と呼ばれていた時代、四番目にあたる架橋は、現在の位置よりも少し北、豊海橋で日本橋川を越えたところ付近で行なわれた。この橋は、新開地深川を結ぶという点で地理的な要衝でもあったし、江戸を代表する橋として名高い。やはりここでも、祭りの人出で溢れる橋が落ちて、多数の犠牲者が出たという記録もある。
 物語りにも多く登場するが、でんでんむしはひょんなことから平岩弓枝の『御宿かわせみ』を読み始め、とうとう明治維新になるまでつきあってしまったが、その主人公たちにかかわる宿があったとされるのが大川端で、今の永代橋の下流右岸にあたる。大川端町という町名も消えてしまって、新川一丁目となっているが、ここを歩くと小さな堀割りがあったところにお稲荷さんだけが残っている。新川側も佃公園より木は若いが、サクラの並木が中央大橋まで続いている。
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 先日、そこを歩いていたら、こんな立て札が立っていた。
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 そして、ちょうど水上バスの新鋭船「ひみこ」が通りがかるところだった。
 ひとつの島になっている佃と月島では、ここが最北端。
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 突端の半分はウッドデッキになっていて、半分は石を敷いて満潮時には水をかぶるようになった親水設計である。大きな木もなくて陰翳に欠け、明るいがいささか殺風景ではある。たまに、ここから釣糸をたれている人を見かける。足場はいいのだが、あまりいいポイントではあるまい。おそらく...。このときは、潮が引いていたので、昔に撮った満潮時の写真も…。
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 ジョギングや散歩、犬をつれた人、などで賑わうこの付近に、新しく加わったポイントが、みんなの注目を集めている東京スカイツリー。
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 先ごろの地震で、先っちょが折れ曲ってしまった東京タワーの気持もよくわかる。このニュースを読んだとき、Macintoshのことをすぐに連想したものだ。彼等は、ユーザーがぼちぼち新製品情報を気にしたり、切り替えを考えようとしたりすれば、必ずといっていいほどどこかしら具合が悪くなってしまうのだ。これは「Macが拗ねている」のだと理解を示しているのだが…。
dendenmushi.gif(2011/04/25 記)

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49 中央大橋。レインボーブリッジと同じ日にひっそり(?)と開通したへそまがり大橋 [月島界隈]

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 隅田川とセーヌ川が仲良くするとは、どういう方法や意味や意義があるのかよくわからないが、友好都市というのがあるんだから友好河川があってもいいじゃないか、というわけで(か?)隅田川がパリのセーヌ川と友好河川となったのは、1989(平成元)年のことであった。当時、佃二丁目の高層マンション群も次々とできていたが、交通の便ははなはだよくなかった。
 ちょうどこの頃、知人がこの高層マンションに住んでいて、ものめずらしさに見学しに訪問したことがある。北向きの窓のテラスは、かなり高い塀でカバーされていたが、そこから覘くとちょうど眼のはるか下で、中央大橋の工事が進んでいた。
 東京の都市計画では、この新しい街と霊岸島を結ぶ道路を計画しており、この道路を道路たらしめるのは、ひとえに中央大橋の開通にかかっていたわけである。
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 当時は隅田川でいちばん新しい橋ということでもあり、セーヌとの提携に因んでというタイミングもあった。そういう背景でか、この橋は「フランスのデザイン会社が設計した」のだという。中央大橋を取り上げたネット情報は多く、そのいずれもが判で押したようにそう書いている。ウィキペディアがそう書いているので、どうやらそれの孫引きらしい。せっかくなら、と思って調べてみたが、デザイン会社の名もデザイナーの名もわからない。
 名称不明のデザイン会社やデザイナーは、向うは向うでジャパネスクに配慮したのか、その結果支柱のてっぺんには兜のイメージを取り入れることになったのだろうか。石川島の古名が鎧島だったので、橋は兜にしたという説もあるが、どうなのだろう。そういう情報まで提供してこのデザインになったのだろうか。
 日本好き・スモウ好きでもあったパリのシラクから市長からは、東京都に友好の印として、フランスの彫刻家オシップ・ザッキン作の「メッセンジャー」という彫像が贈られたりして、なかなか華やかな、気合いの入った橋だった。もちろん予算も気張っていたはずである。
 そんなこんなで1993(平成5)年に竣工、8月26日に開通式も華やかに行なわれたはずである。
 中央区としての誤算(?)は、港区のレインボーブリッジと開通式の日がかぶってしまったことであろうか。いかに華やかに演出しようと、いろいろな面でレインボーブリッジとは張り合っても勝負は見えている。
 テレビニュースも新聞記事も、平等公平でないことを基本的たて前とするマスコミは、レインボーブリッジ一色で、中央大橋を取り上げたものはほとんどなく、あったとしてもごく小さな扱いでしかなかったのではなかろうか。
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 中央大橋が、へそを曲げたのはそのためではなく、設計の当初からである。佃二丁目と新川二丁目を結ぶ道路のなりゆきから、角度を変えなければならない。そこで、橋の中央、隅田川の上で、ゆっくりとカーブしているのだ。へそが曲がっているというとそうではないというかも知れないが、へそから曲がっているのは確かである。
 広い歩道と車道の間にはコンクリートの箱を並べて植栽が施されていたが、昨夏の猛暑でみんな枯れてしまった。
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 「メッセンジャー」もそのカーブのあたりの橋桁付近に置かれているが、こいつは何をどこへ届けようとしているのか、永代橋のほうの川を向いているので、橋からでは背中しか見えない。
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 中央に支柱があって、そこからワイヤーで吊り下げる形式の橋は、あちこちにずいぶん増えた。
 新川側の橋の下は、長いことホームレスのねぐらになっていたが、中央区もどうにか退去させることに成功した。
 この橋も、橋桁は石川島播磨重工業の製作である。佃大橋のところで、「橋の地産地消」だと書いたのだが、中央大橋のときには、もう石川島播磨は石川島になく、横浜工場でつくったのだ。
 その橋桁の下には、永代橋がすっぽりと収まっている。
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dendenmushi.gif(2011/04/22 記)

 へそまがりでんでんむしは、前にもSo-netのここが変ということをいろいろ書いていたが、相変わらずで、実はもうどうでもよくなっている。昨日も5時間近くアクセスできないでいたが、その時間帯の訪問者・閲覧数は見事に0になっていた。

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48 石川島と佃公園。人足寄場があった石川島は明治以降は造船基地だったがいまはその名もほとんど残っていない [月島界隈]

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 住吉神社の裏をカギ型に流れている堀は、北東隣に位置する石川島と境をなしている。今の住居表示では、佃二丁目となっているそこは、林立する高層マンションを中心として、なぜか「リバーシティ21」という通称もある街の整備が進められてきた。公園や小中学校やショッピングセンターや郵便局もある。ちなみに、小学校は「佃島小学校」で、中学校は「佃中学校」である。

 四角い佃一丁目は、家康がそこを摂津の漁師たちに与えたということになっているが、最初からこんな好都合な平地の島があったわけではない。実質的には、彼らが自身で埋め立ての作業から携わったとみるべきであろう。
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 埋め立てとなると、その土はどこからもってきたかが気になるが、それは隣接する石川島からというのが妥当だろう。
 当時からそう呼ばれていたとは思えないので、川中島などと呼ばれていたとみるのも当然だろう。では、いつ頃から石川島という名前がついたのか、それもよくわからないながら、江戸中期にここに人足寄場が置かれた頃には、石川島は佃島とは明確に区別されていたようだ。時代劇ファンにはおなじみだろうが、人足寄場とは労役場であったらしい。そういえば、直接は関係ないけど「鬼平」こと長谷川平蔵が、少年時代を過ごしたのは、石川島対岸の鉄砲洲であった。
 東京都中央区も、土木部では佃島の成り立ちについては、本能寺説をとっているようで、掲げられている説明板にもその旨明記され、その図面上では、石川島と佃島をつなぐのは、東にあった小さな橋ひとつだったようだ。
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 また、この図面では、石川島のなかには、いくつもの水路(入江)が描かれている。こうした地形は、後に明治期になると海軍の基地になったり、造船所ができたりすることと、無縁ではないだろう。
 この説明板によると石川島の南端に灯台ができたのは、かなり後のことらしいので、それまでどうしていたのだろうと思ったりするが、いわゆる江戸湊の中心は、まさしく佃島・石川島と霊岸島と亀島川沿いの付近一帯であったと考えられる。亀島川水門の右、新日鉄のビルの南には、江戸湊の記念碑として金色の錨のモニュメントがある。また、そのつながりがあってのことだろうが、東京港の潮位標も霊岸島の南端にある。(写真右の逆三角形の構築物がそう)
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 六角二層の灯明台は1866(慶応2)年、石川島人足寄場奉行清水純崎が隅田川河口や品川沖を航行する船のために油絞りの益金から人足の手で寄場南端に常夜灯を設けた、という。
 佃公園が整備されたのは、平成元年のことで、隅田川テラスの上にできたモニュメントは、浮世絵などに残されたものから復元されているというが、これは六角ではなくて四角。もちろん灯台としてではなく、その下はトイレである。
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 サクラが高層マンションの下の土手を彩る頃、隅田川を行き交う水上バスのビュースポットになる。ここには、「隅田川とセーヌ川友好河川」を記念するものもいくつかある。いろんなことを考えるもんだね。これがセーヌならシテみると佃はシテ島だね。
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 マンションの提供公園と空地、それに隅田川テラスとが一帯となって、石川島をぐるりと回る水辺の散歩道は、なかなかすばらしいもので、でんでんむしお気に入りのコースでありましたよ。
dendenmushi.gif(2011/04/19 記)

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47 住吉神社例大祭。ことし(2011)は3年に一度の祭りにあたるがあの大幟がみられるのかどうか [月島界隈]

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 住吉神社の例大祭は、3年に一度、8月の始め頃に開催される。でんでんむしも月島に棲息中、三度もこの祭りを楽しんだ。ちょうど今年平成23年は、大祭の年に当る。三社祭は中止、東京湾の花火も中止というが、ここはどうするのだろうか。三社祭よりは遅いうえに、なにしろこちらは3年に一度なので、やることになるのだろう。だが、それでも祭りをやるとすれば、どこでどう配慮しながら祭りをやるのか、今ごろ佃の氏子や神主も悩んでいるのだろうか。
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 もともとは、家康以来の経緯によって、四角い佃島の氏子で始まったが、月島の造成が進むにつれて、住吉神社の氏子とその範囲も膨らんでいった。
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 その祭りがある年には、早くからさまざまな準備が始まる。7月になると堀から大幟の柱などを掘り出して、佃煮屋の丸久の裏に横たえて乾かす。祭りのシンボルともいえるこの大幟は、別に深い穴を掘って立てているようにも見えない。ロープで張ってはいるが、木材を組んで立てているそれだけで力学的に安定している(らしい)。それだけで大丈夫なのかと、ちょっと不思議ながら気になる。
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 祭りのスケジュールを織り込んだポスターがつくられ、町内ごとに神輿や法被などの点検もしなければならない。もちろん、寄付を集めにまわらなけばならない。町内あちこちでは御旅所といわれる神輿巡行の休憩所のやぐらが組まれ、葦簀(よしず)が張りめぐらされる。竹が立てられしめ縄が張られ、軒軒には祭礼提灯が揺れる。
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 これは、日本中がどこでも同じ夏祭りの風景である。
 家々に掲げる提灯が、地域によって異なることに気がついたのは、前回の祭りのときだったか。獅子頭がねり歩く一丁目の提灯は赤く、堀の向こうの二丁目は確か青だった? 月島は確か白かった…?。
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 祭りは、地域の人々のつながり、その強さを如実に表すものといってもよい。住吉神社の大祭にかける佃島の地元の人の熱意や努力は、たいていではないが、それも遠く先祖から連綿と受け継いできたものと思える。そういう背景があれば、45項の震災のときの古老の語りぐさも、なんとなくそういうこともあるかと納得できるような気もする。
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 それにしても、佃にしても月島にしても、祭りとなるとよくあれだけの人が集まってくるなあと感心する。それが、日常的にそこらに住んでいるようにはとても思えないのも、不思議といえばいえる。
 さて、どうしますかねえ、今年は…。

dendenmushi.gif(2011/04/15 記)

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46 住吉神社。全国に600もある住吉神社のひとつだが佃のはちょっとめずらしいこともある [月島界隈]

 佃島がそもそもどのようにしてできたかについては、44項でも勝手な解釈を展開していた。いまさらいうまでもなくでんでんむしはドがつくしろうとで、知っていることといえば、あちこちに公表されている情報をつなぎ合わせて、ああそうなのか、と思っているだけのことである。
 そこで、一般に言われていることでも、つじつまの合わないことや、よくわからないことが多く、そんなこんなの感想やらなにやらを取り混ぜて感想を書いているに過ぎない。
 家康と摂津佃村の関係についても、あちこちの情報をつなぎ合わせてみても、なかなか納得というところまで到達できないでいた。
 ただ、本能寺のとき説にしても、そうではないいつか住吉参詣のとき説にしても、共通するのは、神崎川を渡るときに摂津佃村の漁師たちが船を出して、家康一行を助けたということである。なぜに、大坂でも西のはずれで川を渡らなければならなかったかという点でも、源家の五公を祀った「摂津多田の廟(今の池田市の多田神社)に参詣のため」という理由が共通している。本能寺説では、実際にはそこに行かないが敵方の監視の目をくらますために、という筋書きになっている。
 このとき、佃村の庄屋だった森孫右衛門とその一族の名前が出てくる。今の大阪市の地図を見ると、なかなか興味深いのは、摂津の佃村の地理的な状況が、後に彼らが移り住むことになる佃島と似ていることだ。ちょうど前項で掲げた明治初期の東京湾の地図で南西に延びる砂洲が描かれているが、摂津の佃村もこうした川中島にあった。考えてみれば、川を渡るということは、当然対岸もあるわけである。対岸の協力もなければ、安全とはいえない。神崎川中洲にある佃村の対岸が、大和田村であった。
 この人たちが、家康に連れられて、江戸に行ったらしい。その時期については、やはり「家康江戸下向の折(家康と同時に江戸入り)」という説明が主流であるが、それにも納得いかないことも多々あるので、そんなことをごちゃごちゃ書いていたわけである。
 たまたま、でんでんむしと同じSo-net「地域ブログ」で、いつも内容のある書き込みを続けておられるChinchikoPapaさんが、これに関してご自身の見解を自身のブログでコメントしておられたので、その転載の許可をいただいた。それをまず、ご紹介しょう。

◇ChinchikoPapaさんのコメント
Chinchiko Papalogより転載)
 「再校江戸砂子」(享保年間)によれば、佃島は佃村や大和田村の漁師が日本橋小田原町へやってきたころは、安藤家の抱え屋敷が建っていたようですから、少なくとも関ヶ原の戦前後は安藤家の所領と思われ、初めて大川の“川中島”に住んだのはおそらく安藤家(と家人)の人たちですね。
 湊を含めた、本格的な築垣普請は正保元年(1644年)2月ですけれど、佃島の住吉社が建立されたのは正保3年6月29日(住吉社伝)ですから、おそらくこの普請が、攝津の漁師たちとその子孫が佃島へと移り住んだ時期とシンクロしているのではないかと思います。
 それまでの彼らは、住吉社ともども日本橋小田原町にいたわけで、佃島(この名前もまだありません。安藤島とでも呼ばれていたのかな?)は“川中島”として存在していました。小田原町に在住していたとき、彼らは盛んに住吉社の分社化活動を行なっており、安藤家を含めたいくつかの大名屋敷で勧請されてますね。それが機縁で、川中島の安藤家と元・大和田/佃村の人たちが親しくなったのかどうかまでは、わかりません。
もっとも、考古学的な発掘調査までは不勉強で押さえていませんので、古墳時代には国内最大クラスの拠点港だった浅草湊ともども、川中島(佃島)にも人が住んでいた遺跡がすでに発掘されているのかどうか・・・。有名な佃島の井戸掘りとともに、なにかの痕跡が見つかっているのかもしれません。
 親父は一貫して、子供のころから「天安」贔屓でしたが、わたしは「丸久」ファンです。nice!をありがとうございました。>dendenmushiさん
by ChinchikoPapa (2011-04-06 11:12) 


 なるほど! と思うことがあった。日本橋は小田原町で始まった魚河岸との関連である。佃村(と川をはさんで隣村の大和田村)の人々ははじめは日本橋周辺にいたのだ。住吉神社の社伝でもまったくふれられていないことだが、それをキーワードにして探ってみると、だんだん筋道がみえてくるような気がしてきた。
 安藤家の存在も、摂津の渡し船のときから関わっていたようで、その名が「安藤対馬守の命令で漁民三十余名が江戸に出て白魚漁をはじめる」というような記録もあり、家康の意向を受けて摂津以来、佃村の担当窓口だったのかもしれない。
 神崎川を渡すのがきっかけでできた家康と摂津佃村と大和田村の縁が、それだけで終わることなく続いたのは、当初は漁業よりも軍事的な役割や戦には欠かせないロジスティクスなどの軍役面で効用があったからだろう。当然、大坂冬の陣、夏の陣でも、川筋を縦横に使って活躍したことが想像できる。そんなことがあっての江戸行きだったのだろう。江戸行きを家康下向と同時にするというのは、若干の事実もあったろうが、できるだけ古くからの関わりを強調したいという後世の思惑がからんで言い伝えや記録になっていることが多く、現に魚河岸の発祥についても同様のことがあり、時系列にならべて見ると、おかしなことが頻発する。
 江戸下向に同行したという森一族も、当時はまだ関東にはなかった漁法をもって優位にあり、幕府御用の魚を扱ううちにその残りを江戸市中で売りさばく権利を得る。徐々に魚市場の形成のなかでも大きな役割を果たすようになり、その一族のうちの一派は後に霊岸島に拠点をもつ御船手組の手先として、海賊対策の手伝いをしたかもしれない。そうして、佃島へつながっていった、ということも充分に考えられる。
 摂津から江戸に移住してきたとき、人々は自分たちの氏神様と一緒にやってきた。それはごく自然のことであった。それは、摂津では田蓑神社ともいわれ、神功皇后が三韓征伐の帰途、摂津国西成郡田蓑島(現在の大阪市西淀川区佃=神崎川河口に近い中洲)で海の神である住吉三神(底筒男命、中筒男命、表筒男命)を奉ったとされる由緒ある神様と神社であったというから、いずれは大阪の住吉神社の流れを汲む分社であったのだろう。
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 現在、摂津の佃にあるのは、住吉神社ではなく田蓑神社である。これの名称についても家康がらみの説話があるが、神職も一緒に江戸に行ったことになっているので、そのときからすでに住吉神社だったのか、それとも正保3年以前は田蓑神社として江戸にあったのかも、どうもよくわからない。
 住吉神社は全国で600も数えられるというから、それ自体の希少性はないが、正保3(1646)年に現在地に改めてできた佃島の住吉神社は、住吉三神と神功皇后に加えて、恩人である徳川家康を祀っているのも、めずらしくはないかもしれないがそれらしいところである。
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 鳥居には金網で保護された住吉神社の扁額が掛かっている。これは有栖川宮幟仁親王の筆によるものだそうで、陶製の扁額というのはなかなかめずらしい。
 最も古い埋立地だった現在の佃一丁目の堀の角にある神社は、よく散歩の度に前を通っていた。別に氏子でもなんでもないけれど、この世には人知の及ばぬ存在があってほしいと思うので、あえて八百万の神さまを無視したり粗末にするという精神はない。いつも、散歩道の二の鳥居のところを通るときには、足を止めて一礼をすることにしていた。
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 佃の住吉さんでは八角の神輿もあるけれど、特筆に値するのは大幟であると思う。なにしろこれは安藤広重の『名所江戸百景』にも描かれていて、これが佃の町内に6本も立つと、それは大変壮麗なものなのである。
 その柱とそれを抱いて支えるための木材が、堀に埋めてあることは前にも紹介した(42 佃小橋の項参照)。大幟は、いまでは3年に一度の例大祭のときにだけ掘り出して立てられる。
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 広重『名所江戸百景』佃島 住吉の祭


dendenmushi.gif(2011/04/11 記)

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45 月島の歴史=その4 佃の祭りの前に震災や空襲のこともちょっとだけ書いておかないと [月島界隈]

 佃と月島の歴史を考えるために、もう一度明治の埋め立てが始まる前の地図を示しておこう。これは、以前そのために筑波の国土地理院にわざわざ出かけて、昔の地図のコーピーを入手していたものである。これと、前項の北斎の『富岳三十六景』の佃島のリンクを合わせみて、昔の佃島を想像してみたい。
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 この後、月島一号地、二号地と埋め立てが進み、人が増えていくが、まず関東大震災という大災害がそこを襲う。その直前の地図がこれである。
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 そしてまた、いささかダブりぎみではあるが、歴史=その4として、これも以前に書いていたページからの転載である。

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 1-4 月島は震災で焼けたが…

 だんだん石川島で働く人の住居が増えてきた…

 相生橋の架橋が急がれた理由は、月島にも水道をひくためでもありました。人工の埋立の島には水道がなく、舟で来る「水売り」に頼っていた月島では、なかなか人口も増えず町づくりも進まなかったからです。しかし、橋もでき水道も引かれ、石川島造船所も活発になると、周辺に関連の工場も増え、造船所関係で働く人の住居として最適な地でもあったので、だんだん人口も増え、石川島とともに発展してきます。
 よく「火事とけんかは江戸の華」なんて無責任なことをいいますが、確かに江戸時代には何度も大火があり、そのたびに町づくりがやりなおされたという歴史があります。明治の半ばに埋め立ててできた月島には、江戸時代はありませんでした。以前もんじゃを食べに来た知人が「さすが江戸の下町の雰囲気ですね」なんていうから、「残念ながらここらは江戸時代は海だったよ」というとしらけていました。ただ、無理にそう思いたいならすぐ隣の佃は江戸時代から漁師の島としてあったからね、とフォローにならないフォローをしました。

 震災で焼けた月島と焼け残った佃

 江戸の大火は経験しなかった月島が、大きな災厄に見舞われたのが、関東大震災でした。大震災の時の火事は大変なものだったようです。明石町の方の火が月島に飛び火して、月島全域が燃えてしまったのです。家だけでなく焼死者もたくさん出て、なかには川を渡って逃れてきたのに月島で力つきた人もあったのでしょう。月島川に架かる月島橋の北詰、やかたぶねのそばに慰霊碑があります。古老たちが話した記録によると、このとき佃は全住民が消火活動に当たり、それ以上の大きな被害をくい止めたのだそうです。月島は全部燃えたのに佃は燃え残った、この違いはどうして起こったのか。
 当時、月島の住民はほとんどがよそから移り住み借家人として暮らしていたのに対し、佃のほうはそれこそ江戸時代から代々暮らしている、その意識の違いだった、というのです。おもしろいというと語弊がありそうですが、なるほどと思ってしまいます。
 もうひとつなるほどという話が伝わっています。時代はくだって、太平洋戦争の東京大空襲です。このときは、月島・佃は空襲の被害をあまり受けずに終わっています。このため戦後もしばらくは古い戦前の町並みがそっくり残っていました。いまはもうかなり変わっていますが、それでも路地の裏にある古い長屋風の建物のなかには、戦前からのものもあるかもしれませんね。で、なぜ空襲で焼け残ったのかというと、これが単なる偶然ではないというのですね。明石町は外国人居留地だったという歴史をもっていて、アメリカ公使館がいまの聖路加病院の近くにありました。このため、アメリカの爆撃機もこのあたりの爆撃を避けたというのです。明石町と月島は隅田川はさんで離れてるんだから…とも思いますが、高いところから無差別に爆弾をばらまいた当時の空襲では、なるほど明石町を避ければ月島だけ狙うということもできなかったのかもしれません。
 関東大震災では明石町から飛び火をもらって焼けた月島が、東京大空襲では明石町のおかげで爆撃からまぬかれた、というわけです。

 でもほんとなのかしらね?

(2003/7) (2011/04/08 転載)

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 戦前の地図で、辿ることができるのは、ここまでだった。空襲のときには、晴海や豊洲の埋め立ても終わっていた。

dendenmushi.gif(2011/04/08 記)

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44 佃煮と佃島と。そのそもそもの由来にははっきりしないことも多いのだが [月島界隈]

 「田の字」を平たくしたような区画の中央を、佃小橋から隅田川方向に向かった突き当たりが、佃の渡しのあったところにあたる。佃の渡しについては佃大橋のところですでにふれたが、堤防の下の空地にその碑と中央区が立てた案内板がある。
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 その脇、新装改築されてモダンな店構えになった佃煮屋「丸久」の前には、北條秀司の句碑がある。「雪降れば 佃は古き 江戸の島」というのは秀句とはいえないのかもしれないが、花柳章太郎とともに佃島や隅田川を愛してよく船に遊び、その結果が『佃の渡し』という新作に結実する。それが新派の舞台として新橋演舞場で上演されたのは1957(昭和32)年のことだと、その碑には書いてある。
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 1859(安政6)年の創業以来伝統の味を誇ってきた「丸久」が店を新しく建て替えたのは、古い前の建物の耐震性に問題があったためと自分のページで言っている。この店ができたのは幕末なので“佃煮御三家”のなかではいちばん新しい。佃大橋寄りの通りには元祖「天安」と本家「佃源田中屋」が並んでいる。こちらは、創業174〜200年といわれているから、それぞれ創業1837(天保8)年と1811(文化8)年。
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 佃煮が佃島の名産として始まり、それが全国的に広がるのは、参勤交代のさいの江戸土産となったためという説が有力らしい。
 では、そもそも佃島にはいつから人が住むようになったのか。
 これはもう、徳川家康が摂津佃村の漁師33人を連れてきて、ここに住まわせ白魚漁などの漁業特権を与えたのが始まり、というのが定説になっている。
 ところが、江戸にも漁師はたくさんいただろうにわざわざ摂津佃(今の西淀川区あたりとされる)から連れてきたのはなぜか(どういう理由で)、それがいつか(その時期)については諸説あって、必ずしも明確でない。
 家康と摂津佃村との関係については、その理由に言及していない情報が多いのだ。理由らしきことにふれている情報にも大きく二説あって、ひとつは「本能寺の変の直後、急きょ岡崎に引き上げようとする家康を船を出して助けたから」という説で、もうひとつは「住吉神社への参詣のおり摂津西成郡佃島の漁師が漁船で家康の一行を渡したのが縁で」というものである。
 でんでんむしなどおもしろがりは、当然前者の説をとるわけだが、これも史実かどうかの確証はない。確証はないが、こっちのほうが話としてはるかにおもしろい。『徳川実紀』で調べようとしたが、どうもよくわからない。山岡荘八の『徳川家康』を読み返しても、野伏せりや一揆の百姓に遭遇する場面や知多で船で渡る場面はあるが、佃島の話は出てこない。おそらく、なんらかの史料の切れっぱしでもあれば、山岡荘八もフィクションといえどもこれを使わないわけはないから、これもつくり話の類いなのか。
 因みに、「天安」もでんでんむしと同じ少数派の前者説である。中央区などは変なことを書いて突っ込まれても困ると、なぜかはさっぱりわからないボカシ派である。
 時期も、本能寺の変なら1582(天正10)年で明らかだが、後者説では「家康入府と同時」とするものが多いが、特定はされていない。家康が江戸に入るのは1590(天正18)年、小田原攻めの後だから、そんな多事多難な慌ただしいときに、わざわざ摂津の漁師などまで連れてくる、そんなことをするだろうか、という疑問もある。
 一説では、佃煮も摂津の佃村で家康が食して、それが気に入ったので江戸に連れてきたという、まことに無邪気なものまである。
 でんでんむしは、いずれにしても、摂津の佃村から呼び寄せたのは、家康入府時ではなく、その後江戸の町づくりが始まってしばらくしてから、旧恩に報いてやろうという余裕ができてから、と考えるほうが理屈に合っていると思うのである。
 江戸開府から佃煮屋が創業するまでには、なにしろ200年もの時間差があるのだから。
 さらに、佃島の成立も記録では1645(正保2)年に島に隣接する洲の埋め立てが終わり、その翌年に佃から奉じてきた自分たちの氏神様に東照権現を奉斎して住吉神社ができることになる。もし、入府のときに一緒にやってきたというなら、彼らはそれまで55年間もの間、佃島以外の江戸のどこかで暮していなければならないことになる。それが佃島に最初から住み着き、55年後に洲の埋め立てができて、そこに移住したということも想像できるが、そのようなはっきりした記録もないらしい。
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 こんなぐあいに、歴史の不確かなことは数多く、一般にそうだといわれていることでも、にわかに信じるに足ることは少ない。
 確からしいことは、家康以来この佃島が政権とのゆるいながらも特別な関係によって、漁業から始まって後には海運などに渡って、ある種の特権を受け、江戸の町づくりのうちでも江戸湊の形成という港湾上で意味をもっていたのではないか、ということである。

●葛飾北斎「富嶽三十六景」武陽佃島

dendenmushi.gif(2011/04/06 記)

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43 佃天台子育地蔵尊。なぜこんなところにこんな不可思議な空間が生まれたのだろう [月島界隈]

 佃小橋の手前、袋小路になった堀のそばに、小さな社があるのはお稲荷さんで、その前に住宅と住宅の間に挟まれた細い路地がある。その幅は、わずか数十センチで、通常であればそこへよそ者が入って行くのははばかられる。だが、その路地の南東側(どちらかというと、こちらのほうが正門らしく、アーチも設けられている)には赤い幟が二本はためいており、北西側にも看板がぶら下がっていて、「佃天台地蔵尊」の入口であることを示しているので、誰でも入って行ってよいのである。
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 路地のなかほどには、お地蔵さんが祀られているが、これが普通のお地蔵さんではない。黒い板のような石に線画でその姿が彫られている。線刻の地蔵像というのはめずらしい。
 これが、なぜこのような場所にあるのか、それについての確かな説明、詳しい由来は、どこにもないようである。
 ただ、江戸中期の正徳~元文年間に、地蔵菩薩を厚く信仰した上野寛永寺崇徳院宮法親王が、自ら地蔵尊像を描いて江戸府内の寺院に地蔵尊造立を促したという言い伝えと、地蔵比丘といわれた妙運大和尚がこの宮が描いた地蔵尊を写して全国の信者に八萬四千体石地蔵尊建立を発願したという話がある。
 佃の天台子育地蔵尊には、天台地蔵比丘妙運の刻銘があり、これこそその拝写された地蔵の姿そのものではないか、といわれている。
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 けれども、ここは寺院でもなく、地蔵堂があるわけでもない。佃の四角い島に隣接して、漁のための船着き場だったと推測される場所である。佃島の東南側の海に面して小舟が蝟集し、帆柱を林立させているそのさまは、広重の描き残している浮世絵版画などからも、充分にうかがえるのである。
 幼くして世を去ったこどもを慰霊し、こどもの無事な成長を願う地蔵が、ここにあるのはおおいに謎含みであるが、佃島に暮らす人々が、代々これを守って今日に伝えてきた事実に変わりはない。
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 地蔵の前には、一抱えもあるイチョウの大木の幹がでーんと立っている。ネット情報でこの佃天台地蔵を取り上げたものは数多いが、そこでよくあるイチョウの説明が「屋根を突き抜けてそびえている」といった描写である。
 へそまがりは、こういうところにもひっかかってしまう。タケノコではないのだから、そうではあるまい。
 第一、この場所にできた当初の状況から想像してみると、地蔵の周りに家が建ち並ぶようになって、イチョウごと今のように取り囲んでしまったのだろう。もともとそうして残された空間には屋根はなく、お堂もない。屋根のような天蓋のような覆いはあとから付け加えられ、周囲の家の壁が自然にお堂のような祠のような形態に整えられていったのではないか。
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 イチョウはその過程でも切り倒されることなく、大切に保護され、今ではその幹の周りに合わせて造作が施され、このなんとも不可思議な空間をつくることになった。そう考えるのが、どうもしっくりくる。
 祠の向かい側には、薄暗い路地に面してきれいに整えられた民家の玄関らしい入口もあって、地蔵とともに暮らしてきたここの人々の心情にふと思いをはせる。人々の子を思う自然な気持ちの深さが、この地蔵をここまで残してきたのだろう。
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 確か、以前の東京の地図には、この場所も明記されていたような記憶があるのだが、現在ネット地図を席巻しているZENRINソースの地図では、完全に無視されている。
 しかし、それはかつてこのイチョウをなんとかの記念樹に指定しようという沙汰があったのを、丁寧にご辞退したというここの人々にとって、むしろ望ましいことなのであって、テレビクルーがどやどやとやってきたりするのも迷惑なことだろう。
 これから先、東日本の太平洋岸では、あちらこちらに新しいお地蔵さんができることになるのかもしれない。人の悲しみは、深ければ深いほど、それを肩代わりすることはおろか、共有することすらも決してできない。ただ、やさしく見守ることしかできないのだ。
dendenmushi.gif(2011/04/01 記)

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42 佃小橋。昔の四角い佃島を取り巻く堀に架かる小さな赤い橋とその下に注目 [月島界隈]

 現在の住居表示による地名では、佃大橋・初見橋・朝潮大橋を結ぶ有楽町線が通る通りから北東側のすべてが佃(「島」はついていないことに注意)で、これが一丁目から三丁目に分割されている。
 佃一丁目と二丁目の区分け線引きの仕方をみても、旧佃島の特殊性と、それがだんだんと埋め立てで広がると同時に周辺とくっついてきた歴史を彷彿とさせている。
 月島駅から北へ向かってマンションの間を縫って行くと、斜めの道が交差し、三角になった公園のような空間があるが、ここで路地の流れが微妙に角度を変えている。ここが一丁目と二丁目の境界である。人が一人やっと通れるような細い路地の隙間に祠があったりするのも、古くて長い間の人の営みを思わせる。
 この、堀の東のワンブロックだけが一丁目に含まれているのは、どうやらこの付近が船着き場であり、旧佃島と一体不可分であったからではないかと思われる。
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 そこからすぐに赤い欄干の橋が架かっている堀がある。この堀が、江戸時代からの最も古い佃島の小さな四角を描いていた。隅田川につながって「コ」の字型になって旧佃島をつくっていたこの堀も、東京オリンピックのときに佃大橋を通すため、その堀の南側を埋め立てられてしまった。
 この佃小橋の通りが、旧佃島の中央で島を二分する比較的大きな通りになっており、その突き当たりが、佃の渡しがあったところになる。
 ここでは、先を急がず、橋の上から堀の中に注目してみたい。
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 白い立て札が堀の中に立っている。
 この立て札を、読んでみよう。
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 佃島の住吉神社の祭礼に使われる大きな木柱が何本も、この堀の中に埋められている、というのである。木材の保存には、水底の土中が適しているということを、昔の人も知っていた。何十年だか何百年だか、毎回祭礼の度にこれを掘り出しては、大きな幟を立てて祭りを営んできたのである。
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 そんなことを思うと、なんとなく心強くなる。人間のたゆみない営みは、さりげなくも案外しぶとい。いかなる困難にも常に向き合って、とにかくなんとかしていける…。
 佃小橋の南側、袋小路の行き止まりになってしまった堀の周辺には、サクラの木も多い。これもまた、去年のサクラの写真を引っ張りだしてきた。
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 今年のサクラは、いろいろ時節を慮っているのか、まだ花の時期がやってこない。だが、遅れても必ず咲くことだろう。
dendenmushi.gif(2011/03/27 記)

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41 初見橋とはどこのこと。地下鉄月島駅の上にあるムーンアイランドタワーは月島一高い [月島界隈]

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 月島機械の前のエレベーターでL字型の地下通路に潜ると、壁面にはもんじゃ屋の広告などもあったり、組合のもんじゃマップなどもあって、他所から地下鉄でやってきた人がそれを見ていたり、待ち合わせをしていたりする。そう、ソースの違いもあるよね。こちらはブルドックだが、広島ではオタフクだ。並べてみると、共通点がありそうななさそうな…。
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 東京メトロ有楽町線と都営大江戸線の駅が接近して交差しているので、L字の角にあたるところでは、朝夕はかなりの人でごった返す。有楽町線のほうは、この先豊洲の駅に向かって、二つの運河の下をくぐっていかなければならないので、月島駅も比較的深い。対する大江戸線も、後発なのでどこでもいちばん深いところを潜っているのだが、ここではさほどでもないので、あるいは先発の有楽町線の上を通っているのだろうか。
 大江戸線の改札口の壁面には、月をモチーフにしたらしい装飾があるが、これを見て“月島の名は観月の名所だったから”というところまで想像する人は少ないだろう。hatumibashi07.jpg
 それでも、駅から地上に出たところにそびえる高層マンションの名が“ムーンアイランドタワー”だといわれると、「そのまんまやんけ」と関西弁で軽く笑える。こういう場合、やっぱ関西弁でないとあかんわ。“月島”の名の意識のしかたにも、いろいろあるようだ。まあ、名前などは、単なる符号・記号に過ぎないのだからどうでもいいといえば言える。
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 月島でいちばん高いこの建物、2002年にできたものだが、地上38階のUR賃貸のタワーマンション。家賃もかなり高いらしい。
 木村カエラが、今のようにブレークする前に、テレビ神奈川の番組に出ていたのを見ていたことがあるが、そのとき本人が「うちは月島」といっていたから、まさか長屋ではないだろう。あるいはこのへんに住んでいた可能性も高いと、またまた勝手な憶測を広げていた。
 ムーンアイランドタワーの前の清澄通りの中央分離帯には、「初見橋」という名前が、はっきりと大きな標識で示されている。
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 初見橋、どこやねン? いや、ここはもう関西弁でなくてもいいだろう。
 それがいつのことなのか、調べが行き届かず定かでないが、もちろん東京オリンピックよりも、さらにずっと前のことであろう。佃島が四角い堀の外側にも展開し、その南に月島一号地が造成されたあと、新佃島と月島が地続きになった。それまでは、佃島と月島の間にも掘割があって橋で結ばれていたのだろう。その橋の名こそが、初見橋だったのだろう。
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 ところで、この青い標識塔。同様のものが、東京都内のあちこちに(それも決まって中央分離帯に)かなりの数が残されているはずである。
 でんでんむし得意の推測では、これは昔の都電の停留所とその名を示したものではないか、と思っている。
 佃島・月島が初めて“本土”とつながったのは、相生橋で、その開通を待って路面電車が門前仲町から水道管とともに渡ってきたことだろう。
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 初見橋が架かっていたであろう交差点の上を、東京マラソンランナーが走る陸橋が通っているのだが、その名は「新月陸橋」だそうである。うーん、“新”の意味がいまひとつ…。
 その向こう側は、佃2丁目と3丁目。月島機械のある佃2丁目にもマンションがやたら増えているが、おもしろいのはその名前が、ほぼ例外なく“月島”を名乗っていることだ。
 たとえば、「ソルシェ月島」「ファミール月島」「セザール月島」「パークアクシス月島」「ライオンズタワー月島」「クレストフォルム月島」「ガーデンハウス東京月島」…。これらはみんな月島ではなく佃にある。
 もちろん、不動産物件としては最寄り駅を明確にしたほうがいいという事情もあるのだろう。

dendenmushi.gif(2011/03/12 記)

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40 旭倉庫と月島機械と。佃大橋の工事で佃の南西の堀は埋められてしまったので [月島界隈]

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 佃大橋の月島側と佃側には、それぞれテラスに通じる階段があって、堤防を越えられる。月島側には少し下流に月島一丁目児童遊園にもテラスへの階段がある。この付近は、堤防の内側も遊歩道が整備されていて、かなり古いサクラの並木があるのだが、マンションやビルの工事の度に、それが少しずつ短くなっているような気がする。
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 去年はまだこれくらいあったのだが…。soko&kikai02.jpg
 ここから佃大橋にかけては、比較的大規模のビルなども並んでいて、その端に旭倉庫がある。これは隅田川の対岸からでも目立つ大きな看板が立っているので、一般にも名前だけはよく知られている。(この写真は、やはり数年前のものです)。
 スペインクラブという一部では有名らしい店も、その倉庫だった建物の一角にある。今はもう使われなくなった倉庫の一部を利用したらしく、トラックの荷台の高さに入口がある。それも敷居が高い(文字通り)理由の店で、昼間しか、それも一度しか行ったことがないままになってしまった。中に入ると、広い空間の壁面いっぱいに、ベラスケスの模写が描かれていて、全体的な雰囲気とともに、なにやら場違いなところにいるようで、圧倒されるような気がした、という記憶がある。
 旭倉庫は、大正時代に薬品や染料などの貿易関係者によって発起されたというが、勝ちどきにある月島倉庫(こちらは戦後すぐの設立だが)とともに、この新開地が江戸湊の流れをくむ東京の港湾施設にも利用されてきたことがよくわかる。
 昭和50年代の終わりから、旭倉庫は不動産事業に進出していて、今では月島の倉庫機能は小さくなっているらしいが、前からよく聞いていたあることと、ここはどうも深く関わりがありそうなのだ。
 それは、音楽関係者の間では、録音などのスタジオが月島にあって、よく使われている、という話である。ラジオを聞いていて、ミュージシャンなどが話しをするなかに、ぽろっとそんな話がでてきたりする。なんどかそんな情報を耳にし、それを覚えていただけだが、具体的に旭倉庫がそれとどう関わっているのか、この付近のどのビルにそんなところがあるのか、今もってまったく不明である。
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 佃大橋からの道は高架となって、月島と佃の間を通り抜ける。西仲通りの北端が、その陸橋の下の交差点になり、その角にはそこだけ異質な感じで説教所なるものが残っている。その向かいのマクドナルドの2階へは、iPadが発売されたときに、無線LAN(WiFi)を試すのが目的で入ったことがある。
 そのときも、この説教所の屋根を、ふしぎな気分で眺めていたのだが、そこで改めて気がついたのは、月島にはお寺がないということであった。いや、ないことはないのだ。長屋の一区画を超えない程度の、よく見ると確かにお寺の表札が出ている、というようなところが、あるにはある。
 佃島の古い住民の先祖の多くは、築地本願寺の檀家である。なにしろ本願寺を築地に移すときにも、船を出してまだ不確かな地盤を埋め立てる手伝いまでしたというから、浅からぬ縁である。そんなことともこの説教所は、どこかでつながる因縁があるのかもしれない。
 マクドナルドの2階から交差点の佃側を見ると、横断歩道を渡ったところが月島機械である。
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 前に、月島四丁目付近では鉄工機械の工場などもあったと書いたが、月島機械が創業したのも四丁目のほうで、それが明治38年であるというから、埋め立てが終わってしばらくしてもう進出していたことになる。現在の佃に本社を新築移転したのは、昭和45年のことである。
 月島は、長屋ばかりではなかった。倉庫と機械工業は、月島の歴史のうえで、重要なものだった。月島機械にしろ、月島倉庫にしろ、もともとは月島だったからそう名乗っていたものが、片方は佃へ移転し、片方は倉庫のある場所は変わらないのに地名の方が勝ちどきに変わってしまった、というわけだ。
 陸橋が佃大橋と朝潮大橋をつなぐ下を、東京メトロ有楽町線が走っている。この橋を架け、道を通すときに、実は佃島も南西側の堀を埋められて月島と地続きとなり、昔からの小さな四角い佃島は、オリンピックがやってくる前に姿を消していた。かつての掘り割りの上を、高架の道路が走り、その下は駐車場になっていて、なんとも中途半端な空間が残されている。
 昭和55年には新富町まできていた地下鉄有楽町線が、そこから隅田川を渡り、新富町=新木場間へと延伸されるのは昭和63年からのことだった。その工事にさいして、さすがにそのオリンピック道路で埋め立てられた掘り割りの下をもぐりたくはなかったのだろう。
 そんなわけで、有楽町線は佃大橋の南に少しずれたところで隅田川をくぐり抜け、掘り割りのあった場所をよけて月島駅で高架下に戻っている。月島機械前の高架下には、月島駅への通路につながるエレベーターがある。この付近から、有楽町線は道路の下に戻っている。
dendenmushi.gif(2011/03/09 記)

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39 佃大橋。東京オリンピックのときに大急ぎでつくったが斜めになっているのはそのせいではない [月島界隈]

 比較的平坦な東京マラソンのコースでも、佃大橋の上り坂は30キロを過ぎてからふたつの難関のひとつである。自動車道は新大橋通りから南東に進んだところから、橋に向かう道は分離され、明石町と湊の間を上り始める。歩行者は階段を登り、自転車用には橋の南側の両袂にスロープが設けられている。
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 おそらくは、この橋が船の航行のネックにならないようにという配慮であろうか、水面からの高さは勝鬨橋に合わせている。だからだいぶ離れたところから上ってこなければならないのだ。
 写真で見ているとほとんどわからないが、地図で見るとよくわかる。この佃大橋、隅田川の上を斜めに渡っているのだ。そんなん別にめずらしくないじゃろという人は、隅田川で斜めに架かっている橋がほかにあるか、探してごらん。
 いつも真正面よりも斜めからものごとを見るのが好きなでんでんむし好みである。ただ、上流に白い支柱とワイヤーの中央大橋などは、橋真ん中でカーブしているのだ。佃大橋と中央大橋と、どちらがよりひねくれているか、にわかに判断できまい。
 この橋ができたのは、1964(昭和39)年の夏。東京オリンピックの開会までになんとか間に合った。オリンピック関連事業では唯一の架橋だったというのだが、はて…。ではこの橋が、東京オリンピックの会場のどこかとつながっていたのかといえば、どうもそうでもないようだ。豊洲でボート? ありえません。いまでこそ、おしゃれを売りにしているが、豊洲などは当時は工場と倉庫ばかりで大型トラックが黒い煙を吐きながら走っていた。要は、日本橋の上にフタをして高速道路を走らせた、首都道路網づくりの一環であったらしい。
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 堂々4車線の広い橋だが、たまたま車がいない写真ばかりになってしまった。これは、明石町の聖路加ガーデンタワーの前のテラスから眺めたところ…。次は、橋の上から勝鬨橋方面を見たところ…。おまけに、なんだサクラが咲いているじゃないか。
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 そうです、これは昨年、一昨年の写真なのです。
 引っ越し。くたびれました。
 それで、片づけがまだすんでおらず、メインマシンを新川に移したので、写真データがあっちこっちのまま。何台かあるマシンの性能にも違いがありすぎて、サーバーの使い分けもまだ思うようにならず、ブログ用の写真も揃えられないでいる。
 まあ、ぼちぼちやることになりますので、移転前のように毎日ペースの復活はむつかしいので、気ままなマイペースになりますが、よろしくお付き合いください。
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 佃大橋、もうひとつ忘れてた。これも橋の下の写真がないので、入れられないでいるが、工法として鉄の箱を渡してその上に車を走らせるような構造になっている。
 2年半ぐらいの工期で完成させたのも、そのせいかもしれないが、これはまったくのあてずっぽうの素人考えなので、間違っているかも知れない。
 この鉄の箱と橋をつくったのは、地元の石川島播磨重工業の佃島工場。なんと、いわば“橋の地産地消”なのですじゃ。これもめずらしいね。
 もうひとつ、特筆すべきは、佃の渡しが、この橋の開通式の当日をもって廃止されたということ。つまり、昭和39年夏までは、東京の銀座からもそう遠くないところに、渡しがあったということ。
 前項にコメントを寄せていただいた「風太郎さん」のように、渡し賃とともにその渡しに乗っていた記憶が定かという生き証人もたくさんご健在であろう。
dendenmushi.gif(2011/03/04 記)

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38 今日の東京マラソンも月島を通る。だがもう引っ越ししたので見物できない [月島界隈]

 青梅から完全にもぎとってしまった市民マラソンの王座(そんなものあるのか?)を、わずか1〜2年で不動のものにした東京マラソンは、これはもうマラソンというより、新手のお祭りといったほうがよかろう。
 去年、佃大橋の上でそれを眺めていて、そう思ったが、そのマラソンコースは、月島も横断していく。ちょうど、佃大橋から朝潮大橋の間を北西から南東へ走っていくのだが、高架になった自動車道を走るので街の景色は見えないし、街の人もランナーが見えるのはふたつの橋の上だけなのである。
 おまけに、この高架の下の通りは、月島と佃の境界線である。めんどくさいことを言えば、ランナーが走る側は佃であって月島ではないかも知れない。
 月末を前に月島の仕事場を引っ越した。今年のマラソンは見物できないので、去年の写真を入れようかと思ったら、メインのコンピュータを同じ中央区だが隅田川を中央大橋で越えた新川の新しい仕事場スペースへ運んでしまったので、間に合わない。が、そんなことはどうでもよかろう。
 月島最後の日は、あまり寒くはなかったが、小雨がぱらぱらするときもあって全体にどんよりと暗い日だった。今年のサクラまで待っていると、引っ越しもシーズンになってしまうので、その前にカタをつけてしまおうと、思い切ったのだ。春一番が吹く前に…。
 ワンルームで、家財がたくさんあるわけでもないのに、引っ越しはそれなりに大変。
 長年の間に積もっているごみを整理して、要らないものを全部捨てて身軽になって帰るという懸案課題も、不充分なまま。結局、時間切れで未整理のままの資料や書類を段ボール箱に詰め込んで、自宅にもって帰ることになってしまった。
 片づけられないわけでもないし、モノが捨てられないわけでもないが、かといって「捨てる技術」だとか「断捨離」だとか、至極当然わかりきった当たり前のことを、もっともらしく得々と言う本が出たり持ち上げられたりすると、苦々しい気分になる。何を捨てて、何は捨てられないか、それを決めるのはオマエではないのだ、とでも言いたくなる。
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 それでも、何度かに分けて、中央区の粗大ごみ回収を申し込んだ。インターネットから申請し、品目・数量から料金を計算し、その金額分のシールを買ってきて貼って、決められた日に回収場所に出しておくと持っていってくれるというシステムは、これまでも利用したが、なかなかうまくできている。帰った自宅のある街でも同じようなことを始めたので、かなり普及しているのだろうか。それなのに、そういうルールも無視して、ガスレンジやテーブルなどを、一般ゴミに出して知らん顔をしているのは、いったいどういう人間なのだろうか。インターネットができなくても、ほかの方法もあるはずだろう。
 ルールとはなったものの、なかなかめんどうで負担になりすぎてその仕組みに乗りきれないのが、家電リサイクルとコンピュータ製品のリサイクルのシステムである。
 要らなくなった冷蔵庫と、もう長いこと部屋の隅に処分ができず放置されたままになっていたブラウン管式の古いディスプレイなどは、ネットで盛んに広告をしている不用品回収業者に見積もりを依頼した。
 中央区と同じような値段で済むとは、もちろん思ってはいなかったが、予想外に高いものについた。それでも、自分で申請して、金を払って、梱包して、発送するという、「文句があるならやってみろ」とでもいいたげなあのリサイクルシステムを使わないで済む代償だと考えれば、納得がいくというものである。
 引っ越しには、何かとパプニングもあるうえに、問題が積み残しになってしまう。
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 今回の引っ越しで、どうやら一番最後まで尾を引きそうなのが、ほかならぬSo-net である。
 月島を引き揚げることで、接続会員ではなくなったわけだ。しかし、帰る自宅にはすでに、ケーブルテレビがあって、これを機会に自宅の通信環境を一元化して、無線LANにしたので、プロバイダとしてのSo-net を継続する意味もすきまもない。
 ただ、このブログは続けたいので、コース変更の手続きをしてほしいと、10日前にハガキを出しているのだが、いまだにウンともスンとも言ってこない。
 ハガキなんぞ出さなくても、電話で言えばすむでしょ、ネットですぐできるでしょうと、誰でもそう思いますよね。ところがねえ…。 そうじゃないんだな、これが。電話なんか何回かけてもぜったいつうじないからね。

dendenmushi.gif(2011/02/27 記)

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37 月島の「川向こう」。堤防を階段で越えると正面に見える隅田川右岸は江戸の出島だった [月島界隈]

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 月島ができる前は、築地・明石町・佃島・越中島のすぐ沖は、佃島とお台場がぽつぽつと浮かぶ海だった。
 浜離宮の隣は、いくつかの広大な大名屋敷があったところで、松平越中守の下屋敷にあった浴恵園など、庭園に海の水を取り入れた汐入りの庭もあったことが、明治2年の絵図にも記されている。離宮のすぐ隣には大きな入江のような地形も見える。
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 幕末に咸臨丸でアメリカに渡った勝海舟らが活躍した幕府の軍艦操練伝習所があったのは、波切神社の東側いまの市場駐車場ビルのあたり。維新後の一時期は、そこには文明開化の象徴の一つでもあった、築地ホテルという大きなホテルができていた。
 この地一帯は、維新後は海軍省の所有になって、多くの海軍施設ができる。場内には海軍の発祥地の碑も建っている。
 江戸時代、いまの中央区(築地・銀座・日本橋・八丁堀・新川など)一帯自体が、家康が江戸の町づくり計画で、神田の山を取り崩して海岸を埋め立ててできた町並みであった。そのため、川(というより堀割運河のようなものだったろうが)でかなり細かく区切られていた。いまその川は、そのほとんどが道路や公園やビルになっていて、神田川と日本橋川・亀島川しか残っていない。
 聖路加タワーや聖路加看護大学がある明石町のあかつき公園のあたりは、広めの入江になって江戸湾とつながっていた。
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 おそらくちょうど長崎の出島を連想したであろう幕府は、このあたりを外国人居留地にした。早くにはシーボルトも住み、江戸時代蘭学発祥の地となった。アメリカ公使館もこの地に永くあり、石造のプレートなども残されている。
 また、運上所(税関)も、いまは料亭治作のところにでき、その関係でか、日本で最初に電信の交信が行なわれたのもここであった。
 石川島の北側、江戸時代の埋立地新川はいまより少し小さく、その分隅田川の河口がもっと広くひらいていた。中州のあたりもまだ川で、大川の名にふさわしく、ここでは現在の倍くらいの川幅になっていた。永代橋はいまの橋より少し北側の箱崎町にあって、深川を結んでいた。
 越中島は深川とは橋で細長く、つながる文字通りの島であったが、その島に沿うようにして堆積ができ、明治になったころには軍の調練場になっていた。
      ●
 前に書いていた「晴月佃勝豊散歩」では、こんなことも書いていた。そこでは別項目に譲ったのでふれていないが、月島対岸の明石町には、中津奥平藩邸があり、そこで蘭学の灯火が光を放ち始めたという歴史のひとこまも忘れてはなるまい。聖路加看護大学の斜向かいの交差点の真ん中には、「解体新書」の碑と並んで福沢諭吉の碑も建っている。 公使館の名残の石は、聖路加タワーの隅田川側にも置かれている。

dendenmushi.gif(2011/02/23 記)

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36 月島の隅田川テラス。スーパー堤防ではないようだが高い堤防が月島を守っている [月島界隈]

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 昨日の問題の答えは、「荒」である。アラ、そうだったのね。
 ここを歩くときは、いつも朝と決まっていた。午後などにはまず歩かないが、ということはでんでんむしが歩くときはいつもここは日陰になっていたわけだ。といいつつ、さりげなくいい写真がないことの言い訳をしている。月島の北西側を流れる隅田川は、実は荒川だったのだ。
 いつだったか、一度、隅田川の全川筋を数日がかりで全部歩き通してみたことがあった。このときの記録もどこかにはあるはずなのだが…。ともかく、東京の人でも、隅田川がどこから始まっているのか、はっきり意識している人は少ない。
 北区の志茂5丁目といってもピンとこないが、東京メトロ赤羽岩淵駅の北東に位置する岩淵水門から、隅田川は始まっている。河川管理のプロの意識では、これがあくまでも荒川の本流であって、みんなが「荒川」といっているのは、あとから付け替えられた「荒川放水路」のことなのである。
 でんでんむしの記憶でも、昔の地図には必ず「荒川放水路」と明記してあったが、近頃では単に「荒川」となっている。前項の堤防に埋め込まれたプレートをみても、少なくとも昭和38年までは、河川管理上はこの隅田川は「荒川」だったわけである。
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 この堤防は人の背丈の倍はありそうで、公園から数段上ったところから、階段を越えて初めて隅田川が見えてくる。階段を下りたところが隅田川テラスというある種の緩衝地帯、遊水池のようになっている。平時には、ここは格好のジョギングコースや散歩道になっているわけだ。こうした堤防を越えられる階段は、公園のある数箇所に設けられている。
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 例の仕分けでは、あまりにお金がかかり過ぎると指摘されていたが、“スーパー堤防”というのも、隅田川の流域の数箇所で進められていた。ここの堤防は、それほどの余裕はないが、川と住宅地の間に貴重な空間を生み出している。
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 三丁目児童遊園から続く階段を上るとすぐ正面に、聖路加タワーが聳えている。
dendenmushi.gif(2011/02/22 記)

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35 月島三丁目児童遊園。1−1は公園として残した知恵は今思うとなかなか偉大であった [月島界隈]

 朝潮橋から月島図書館のある区民センター、マテバシイの並木、旧日本最古の交番を経て、真っすぐ月島を横断する道は、清澄通りから南東側では二丁目と四丁目の境になっていて、北西側では一丁目と三丁目の境になっている。その道を突き抜けて、隅田川にぶち当るところが、公園になっている。
 道は一丁目と三丁目の境なのに、その突き当たりは三丁目1−1。三丁目はここから始まっている。わたし遊園も通りの行き当たりが公園になっていたのだが、朝潮運河側ではそういうものはなく単に行き止まりになっている。隅田川側では堤防の内側にもうワンブロックにマンションなどが並んでいる。主な通りが隅田川に向かうところは、そこには家を建てさせず、公園にして空間を残したわけである。
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 これは、一見どうということはないようにも思える。月島自体がハモニカ長屋の住宅密集地であれば、そんなことは当然すぎるくらい当然の配慮であったかも知れない。
 だが、今、その公園の隣でも中規模のマンション開発が進んでいるのをみると、ここを公園にして、誰もが好きなときに隅田川の河岸に出られるようにした、ということのありがたさを、ひしひしと感じてしまう。
 公園というものは、ただこどもが遊ぶだけではない、より大きな意味をもっているが、中央区では月島のこれらの小さな公園を、たいした遊具があるわけではないのだが、「児童遊園」と呼んでいる。
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 月島の住人は、狭い日当たりの悪い路地の間に競うようにして大小の鉢を並べ、草花などを育てている。そうした個々人の行為と、いかにも手入れが行き届いた公園の間に、なにかギャップがあるような気もする。
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 マンションの工事で、どうやらここにあった古い桜並木も、かなり伐採されてしまったのか。
 公園を抜けて隅田川の高い堤防に行き当たると、これまで気がつかなかったが、プレートが堤防の壁に埋め込まれている。ああ、残念。最初の文字がツタの葉に隠れて読めません。さて、問題です。ここにはなんという字が隠れているのでしょうか。
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 ヒント:漢字一文字です。
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dendenmushi.gif(2011/02/21 記)

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34 月島もんじゃ焼き屋。こどもの駄菓子から始まって今や東京のメイブツになったとはいえ… [月島界隈]

 つい先日、みぞれまじりの寒い宵の口、東京駅八重洲南口から出て、明石町を経由して勝鬨橋を渡り、深川車庫へ行くバスに乗っていた。 前の席に座った若い女性が、運転手さんに尋ねている。もんじゃ通りに行くにはどうしたらいいかというのだ。運転手さんは、最初は勝どき駅前で降りて、亀戸行きのバスに乗り換えるコースを教えようとしていた。いやいや、それよりも、勝鬨橋南詰で降りて、交番の角を左に曲がって西仲通りをまっすぐ行けばそのほうがはるかに早いのに…。そう思っていたら、運転手さんも考え直して、ちょっと歩くけどこっちのほうがいいと教え直していた。
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 どうやら、その女性は遠くからやってきて、もんじゃなるものを食してみようという、酔狂な考えに取りつかれてきたらしい。月島といえばもんじゃ。今では誰でもそういう連想をするくらい、立派な東京名物のひとつであると認識されてきたらしい。
 だが、最初に断っておくと、でんでんむし自身は個人的にこの食べ物にはあまり感心していない。だから、もんじゃ屋には数回数軒は入ったことがある程度で、人様にお勧めするような情報提供や、もんじゃのうんちくを語ろうというにも、その資格を欠いている。したがって、鉄板の上の写真を撮ろうなどとは毛頭考えない。
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 もともとはこどものためのおやつ間食として、路地裏の駄菓子屋の店先に鉄板を置いて焼くようなものだった。“もんじゃ焼き”の語源も、そのときこどもたちが文字を書くようにたらして遊んだ“文字焼き” といったところからだという。
 こどものおやつだったという点では、広島のお好み焼きと同じであるが、広島出身のでんでんむしとしては、どうしてもそれと比べてしまう。それが、もんじゃに対しては辛口にならざるを得ない唯一の理由である。
 広島のお好み焼きは店の人が焼いてくれるが、月島のもんじゃ焼きは客が自分で焼く。店としては手間がかからないンだから、もっと安くてもよさそうなものだが、今ではこどものおやつどころの値段ではなく、しかもアルコール類を提供することが不可分となっている。
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 月島のもんじゃ屋は、西仲通りだけでなく、そこから路地を入ったところや別の通りにもあって、その数70とも80ともいう。ブラッド・ピットがお忍びで食べにきたという伝説がある店などは土間の雰囲気など、昔の駄菓子屋もんじゃの延長にあるようだ。
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 でんでんむしが月島にやってきた9年前には、西仲通りには気の利いた喫茶店やブリ刺し定食のうまい食堂などもあったのだが、間もなくそれらがすべてもんじゃ屋になってしまった。月島では、もんじゃ以外でうまいものを食べさせる店は、まずほとんどない。もちろん下戸のでんでんむしのいうことだから、知らないだけである。
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 月島の有名店も、ネットでは超有名なアンコウ鍋のほていさん、テレビがくると必ず写す牛もつのげんき、清澄通りの居酒屋魚仁(ここは吉田類の「酒場放浪記」に登場した)など、などいくつかあるけれども…。あ、ほていさんはね、何度かお客さんを連れて行きましたけどね。
dendenmushi.gif(2011/02/20 記)

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33 西仲通り商店街(もんじゃ通り)。三角屋根?アーケード通りは月島のシンボル [月島界隈]

 月島のメインになる通りは、清澄通りを中心にしてほぼ左右対称に引かれている。両側の川に近い通りが「河岸通り」。その内側が「仲通り」。その西側の通りだから「西仲通り」なのである。地下鉄の有楽町線の改札を西に出た7番出口の階段を上ったところから、西仲通り商店街の1番街が始まり、まっすぐ4番街まで続くこの通りは、130余の商店が軒を接して並んでいる。
 ここに商店街が(組織として)できたのは、1946(昭和21)年、終戦の翌年のことである。その後1960(昭和35)年からは、歩道と車道を分け、歩道の上にはアーケードを設置する工事が行なわれてきた。
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 現在でも、この通りを歩くと、アーケードの上につけられた三角の屋根飾りが、まず目立っていて、個々の店をつなぐシンボルのようになっている。シーズンには、ここに電飾もピカピカする。
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 その三角屋根のさらに上を見ると、そこにはおそらくはアーケードができる以前の通りのイメージを残しているようだ。月島には戦前からの建物もまだ残っているが、古い看板建築のような趣をもつ店は、上に残った看板とは違う商売をしているところもあれば、古い看板と今の商売が変わることなく続いているところもある。
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 「月島西仲共栄会商店街振興組合」といういかめしい名前の商店街加盟の店舗のうち、約半分弱が飲食店である。通称「もんじゃ通り」といわれるこの通りは、まさしく月島のもうひとつの中心であり、その通りのなかの中心が、旧交番が建っている交差点なのである。
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 この通りではさまざまなイベントも定期的に行なわれ、草市などは屋台なども並んで、古き下町の風情を偲ばせてくれる。もちろん佃住吉神社の例大祭には、神輿を出して練り歩く。これは毎年やるのは大変なので本祭は三年に一度の行事になっている。
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 中央区が進める新しいお祭りもあったりして、高円寺などから先輩を招いて阿波踊りをやったときも、この通りは主要な舞台となった。
dendenmushi.gif(2011/02/19 記)

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