短期集中連載『石垣島だより』 (シーズン1)項目リンクリスト(2011/12/22〜2012/01/31) [石垣島だより]


■めずらしく快晴になったけれども石垣島は冬場はいつもあまり天気がよくない(01) [石垣島だより]
■石垣市の中心街は島の南西部海岸沿いの比較的平坦な地域に限られている(02) [石垣島だより]
■目的はあるようなないようなないようなあるような石垣島滞在中(03) [石垣島だより]
■ライト兄弟から108年、初めてここに降りたときから18年、もうあと2年だけがんばる石垣空港(04) [石垣島だより]
■八重山(やいま)の島々へは石垣港離島ターミナルから出る連絡船で(05) [石垣島だより]
■もうひとつのターミナルは東運輸のバスターミナルで主要幹線は30分毎(06) [石垣島だより]
■石垣市立図書館のリサイクルコーナーから古い歴史全集の本をもらってきた(07) [石垣島だより]
■左から右へ揺れ動く民意のなかで混迷する八重山の教科書採択問題(08) [石垣島だより]
■ここは「右から左になった日」を記念しているんだけどそれは車の走行ルールの話(09) [石垣島だより]
■ここが商店街では初の命名権委譲が行なわれた“最南端の商店街”ですが(10) [石垣島だより]
■やいま大通り(市役所通り)いそがずあせらずなんくるないさー(11) [石垣島だより]
■家々の玄関のうえには日の丸のついた正月飾りがあるのを見ると…(12) [石垣島だより]
■日本最南端・最西端の八重山の重要港湾である石垣港は国境の港でもある(13) [石垣島だより]
■はるか南の海からやってきた人を思う海人の祭りハーリー会場の新川漁港(14) [石垣島だより]
■島の最多人名は“宮良さん”で地域名の境界線の区切り方がとてもおもしろい(15) [石垣島だより]
■とぅばらーま記念碑とアコウの大木がある「なかどー みちぃ(仲道路)」(16) [石垣島だより]
■マックスバリューとサンエーとかねひでとココストアとさしみ店ときいやま商店と…(17) [石垣島だより]
■宮良殿内や桃林寺のある中心市街地をちょっと外れるととたんに田園風景になる島の観光は…(18) [石垣島だより]
■石垣島の農業は開拓とともに苦難の連続で畜産は地域ブランド「石垣牛」を産む(19) [石垣島だより]
■ここから水平線の上に南十字星が見えるらしい大浜の海岸とその続きの海岸はこんな感じ(20) [石垣島だより]
■八重山の英雄オヤケアカハチの拠点があった大浜には御嶽(うたき・おん)もいくつもある(21) [石垣島だより]
■石垣島は駅伝もマラソンもトライアスロンも自主トレもキャンプも…(22) [石垣島だより]
■ここがオヤケアカハチの居城跡なのか?フルスト原遺跡で先島諸島の先史時代に思いをはせる(23) [石垣島だより]
■石垣のマングローブはやっぱり西表には負けてるけどおかげさんで「西表石垣国立公園」になった(24) [石垣島だより]
■先島諸島の無土器文化の位置づけは不思議だがいったいどういうものだったのだろうか(25) [石垣島だより]
■やっと探し当てた明和大津波遭難者慰霊碑はもう記録からも記憶からも遠くなって(26) [石垣島だより]
■白保のサンゴ礁は有名だが見つからない柳田国男の歌碑も海上の道に没したのか(27) [石垣島だより]
■サンゴ礁の島はサンゴの岩石と琉球石灰岩でできていて貴重な建材となってきた(28) [石垣島だより]
■ブーゲンビリアにハイビスカスにミニサンダンカなどが冬でも咲いているがこの春デイゴの花は咲くか(29) [石垣島だより]
■捨て石とマラリアと強制移住は八重山の歴史を知るうえで重要なキーワードになっている(30) [石垣島だより]

沖縄地方(2011/12/19〜2012/01/24 訪問〜01/31 記)
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捨て石とマラリアと強制移住は八重山の歴史を知るうえで重要なキーワードになっている(30) [石垣島だより]



オヤケアカハチとその勢力を殺いだ琉球王朝の第3代尚真王は、その後を宮古島の仲宗根に委ね、先島諸島の経営を始めるが、2年後には王府の直接統治へと移行する。琉球王朝の黄金期といわれる時代を迎え、奄美諸島から先島諸島までを支配下に治める。
先島のスクの時代からの貿易によるメリットもそっくり手にして、東南アジア貿易の中継地としての繁栄もしばらくは続く。中国から持ち込まれた藩薯芋(後にこれが薩摩藩を経て本土に伝わり、サツマイモと呼ばれる)のおかげで、食糧事情は好転し、飢饉餓死者も減少した。
しかし、宮古を含む先島は、琉球にしてみれば遠く離れた占領地に過ぎなかった。琉球化とその支配はどんどん強化され、その圧力は苛烈な人頭税の実施につながっていく。先島の人頭税は米納と上布代納で、15歳から50歳までの住民に対し、その担税能力には関係なく一律に負担を強要するものであった。
その重税が産んだ悲劇は、数多くの歌や伝説になって伝えられているが、琉球がこうした強引な政策をとらざるを得なかったのは、1500年代末期頃から琉球を通じて明と貿易することを画策する薩摩藩が琉球になにかと介入を始め圧力を強めたためだ、とする説もある。
だから、それが許されるというようなものではなかったこの税制は、居住の自由をも奪っていた。人口の少し多い島から、未開拓の島へ住民の移植を行なう強制移住によって新しく村を開かせる開拓政策を伴っていた。また、米で納税することを強制され、稲作ができる地を求めて未開地へ移住することもあった。ところが、そうした村のほとんどは、マラリアによって全滅するという悲惨なことになった。
薩摩の圧力は、朝鮮出兵から江戸時代を通じて琉球を介した明との間接貿易を有利に進めるために永く続き、ついには幕府が薩摩の琉球侵攻を容認する事態になっていく。
1609年、琉球に攻め込んだ歴戦強兵の薩摩軍は、たちまちにして首里城を陥れる。その後は琉球王は江戸へ連れて行かれ、江戸幕府の将軍に使節を派遣する義務を負うかたちで従属させられ、また琉球と清との朝貢貿易の実権は薩摩藩が握り、琉球はいわばその隠れみのに使われるようになる。
明治新政府になっても、いわゆる琉球処分によって、強権的に琉球は日本の一部に位置づけられる。廃藩置県によって、約500年間続いた琉球王国は滅びる。
この間、明和の大津波被災のうえに重税だけは続くという八重山の過酷な状態は、誰からも省みられることはなく、放ったらかしにされたままであった。驚いたことに、人頭税が廃止されるのは、1903(明治36)年になってからであった。
石垣島の南西の端にあたる富崎には、「唐人墓」というものがある。西回り周回道路の側なので、観光バスも立ち寄るポイントだが、ここはこの島が世界史の端っこに関わった、ある事件を記録するものである。
1852(嘉永5)年に、中国人のクーリー(労働者だが、ほとんど奴隷に近いと思われる)400人を西海岸へ運ぶ途中のアメリカ船で、船員の非道な扱いに決起した中国人が、船長らを殺害した後に石垣島沖で座礁、中国人のほとんどが島に上陸するという事件が起こる。
琉球王朝と島の人々は、これを人道的見地から小屋を建て、食料や水を供給したが、米英の海軍が三回にわたって来島、砲撃のうえ上陸して島に逃げ込んだ中国人を捜索し、そのほとんどは殺された。自殺者や病没者も続出したので、半数にも満たない生き残った者は中国に送還することになったが、このときの犠牲者を祀ったのが唐人墓なのだ。
そうかと思うと、1880(明治13)年には、日本政府が清国との交渉の過程で、宮古・八重山の先島諸島を清国へ割譲するという提案をし、条約の仮調印までしていたという事実もあった。
これも驚くべき話なのだが、この当時の日本人、政府のこの地域への関心の低さを物語る以外のなにものでもない。やはり、琉球にとって八重山は搾取の対象でしかなく、代わって支配した日本にとっても八重山は捨て石に過ぎなかった。日本の琉球処分に反発した清国との間で、日清修好条規に最恵国待遇条項を追加させる見返りに提案したと思われるが、幸いにも李鴻章の反対によって正式妥結にはいたらないまま、日清戦争になだれ込んでいく。
日清戦争に勝った日本は、清国から台湾を割譲させ、同時に改めて琉球に対する日本の主権を認めさせた。この時点で、中国側の尖閣諸島を含む琉球諸島は日本領として正式に承認し認識することになり、両国間では領土問題には一応の決着がついていた。
太平洋戦争では、飛び石作戦のアメリカ軍も、戦略的に重要でないとみた先島諸島を素通りして、沖縄本島を取り囲む。そのため、八重山では直接アメリカ軍との間での戦闘はなかったが、駐屯した日本軍の命で西表島などに強制避難させられた住民の多くが、マラリアによって死亡した。その犠牲者は、戦没者よりもはるかに多かったという。
こうして大急ぎの駆け足で眺めみると、八重山の歴史は、ほとんど忘れさられた捨て石、それにマラリアと強制移住(開拓)が、大きなキーワードになっているようにも思える。
「なんくるないさー」と島の老人たちがいうとき、それがこうした歴史を生き抜いてきた先祖をもつ子孫のことばだと思うと、また別の重みが感じられるのである。
「石垣島だより」(シーズン1)は、これにて一段落とし、また通常ペースに戻ります。


ブーゲンビリアにハイビスカスにミニサンダンカなどが冬でも咲いているがこの春デイゴの花は咲くか(29) [石垣島だより]









本土の人間が沖縄を訪れたとき、最初に「南国へやって来た!」と感じるのは、那覇空港に降りて、季節を問わず通路にずらり並んだ色とりどりのランの花々が出迎えてくれるときであろう。
石垣島でも、冬でも咲く花が多いので道を歩いていても、道路際や並木の植え込みや、民家の庭や門口に、華やかな色彩が溢れている。もちろん、本土と同じ花もあるけれど、やはりいかにも沖縄らしいブーゲンビリアやハイビスカスやミニサンダンカやトックリキワダの花、それに並木のヤシにたわわに実った実が赤く色づいているさまは、冬でも20度の温度をさらに上げているようでもある。
島では「アカバナ」と称されているハイビスカスは、なかでももっとも代表的なもので、どこの家の庭にも垣根にも、よく見かける。元来のアカバナはその名の通りまっ赤な花で、葉まで赤みを帯びている。
同じような形をしている花でも、色違いのものがいろいろたくさんあって、それらは栽培種なのか、葉も別種のように異なっている。
街路のフラワースペースなどでよく見かけるノボタンは、本土でも園芸品種として人気があるが、ここではこれが在来種だという。
石垣屋へ行ったとき、中庭に大きな木があって、花をつけていた。これがトックリキワダで、ここでは開店のときに移植したのだが、12周年の今年になって、初めて花をつけたのだそうである。それくらい、気むずかしい花らしいので、市では港周辺の公園や街路に植えているが、そうどこにもあるというものでもない。
これが初夏や夏や秋には、どうなるのだろうか。多くは変わらず、年中咲いているのだろうが、実は夏の石垣島にはまだ来たことがないので、実感としては未体験。
今回は、ちょっとシーズンにはまだ早かったのだが、本土のサクラに相当するのがデイゴといわれている。沖縄県の県の花であり、琉球大学の合格電報の文面が「デイゴ咲く」だとか、一時期大流行したTHE BOOMの「島唄」の歌詞で「デイゴの花が咲き〜」というのがあるので、見たことがない人でも知っている人は多い。
実際は、サクラとはまったく違う風情のまっ赤で大きくて華やかな花だが、これがまたトックリキワダに似て毎年花が咲くという保証はないらしい。それでも、ここ数年の石垣島ではデイゴの花がほとんど咲かないという事態は、普通ではない。異常な春が続いている。
主にデイゴヒメコバチというムシが広める病虫害被害によるもので、デイゴの葉や幹にこのハチが産卵しムシこぶをつくって木を弱らせてしまい、枯らしてしまうこともあるという。台湾方面から飛来してきたムシらしいのだが、島では対策プロジェクトを進めるNPOなどの活動を支援するなどしてきた。が、それも今年度でその当初の計画期限が到来する。
しかし、まだデイゴの完全復活には遠いようである。島では、引き続き対策を進める必要があるという声が強いが、海を越えて飛んできてデイゴを咲かなくしてしまう外敵に、これを防御駆除する決定的な方策も、まだみつかっていないようだ。 果たして、この春はデイゴの花は咲くことができるのだろうか。



サンゴ礁の島はサンゴの岩石と琉球石灰岩でできていて貴重な建材となってきた(28) [石垣島だより]



今さらだが、沖縄や先島の島々は、サンゴ礁にぐるりを取り囲まれている。というより、専門的にはともかく、素人的にはサンゴ礁が隆起してできた島々と考えてもいいのだろう。
八重山の島々は、1億7400万年前に隆起と沈降を何度も繰り返しながら、徐々に石灰岩の低くて平らな島ができあがり、それが大陸からは切り離されて残ったものと考えられている。
島の浜辺には、サンゴの破片や塊などがごろごろしており、砂は少ない。一見砂のようにみえるものも、やはりサンゴが小さく砕かれたものだったり、一部では“星砂”と呼ばれるプランクトンの死骸だったりする。
石垣島のサンゴ礁は白保だけではなく、島全体を取り巻いているのだが、風や波の当たり具合が成育に影響するので、とくに東海岸で発達しているといわれている。
今から14〜15年くらい前だったと思うが、サンゴの白化が問題となったことがある。サンゴが大量に死滅し、その死骸は白くなってしまう。ちょうど、その頃だったのだろう。川平のグラスボートに乗ってみたときには、サンゴ礁には白いものが目立っていた。
淡水が混じると、サンゴの成長が阻害されるので、川の流れ込むところなどには切れ目ができる。そこが舟の通路になる。大浜や宮良には切れ目があるが、白保にはなかった。だから溝を掘る必要があったのだろう。
真栄里から延びるサンゴ礁は、石垣港の南側を大きく迂回して竹富島につながっている。石垣港付近はサンゴ礁はなく(取り除かれて)、竹富東港へ入る船はサンゴ礁の切れ目を示す標識の間を通っていく。
水深が深いところでは、サンゴ礁も問題にはならない。小浜島とその周辺の小島は、ひとつのサンゴ礁で囲まれており、西表島はまた別のサンゴ環が取り巻いていて、そのサンゴ礁とサンゴ礁の間が、マンタの通るヨナラ水道である。
このように、この地域では、地図でもサンゴ礁の表記は欠かせないはずなのだが、もちろんZENRINソースのネット地図では、まったくこれも無視している。
島の基盤は、いわゆる琉球石灰岩と呼ばれるサンゴ礁がつくりだした岩盤でできていて、それが露出した道もある。岩盤の上にかぶさっている薄い表土は、大陸から分かれるときくっついてもってきた古い地層とみられる。



こういう島だから、少し掘れば、岩や石がごろごろ出てくる。それらを取り除いて重ねていくと、石垣は自然にできてしまう。その名も“石垣島”という名は、この島の様子を端的に示す表現であったのだろう。
また、鍬が入る土の下には、岩盤に行き当たる。それを切り出した石材は、島では貴重な建材になり、歩道の敷石や壁など、広く活用されている。
この琉球石灰岩は、古いサンゴ礁が隆起してできたもので、有孔虫や小さな貝類などさまざまな生物の化石とその隙間を泥や砂が埋めて固まった岩である。見たところ、本土の岩に比べれば、比較的加工はしやすい石材のように思われる。八重山の島々の海岸では、裾が大きくえぐり取られた、壷を逆さにしたような岩や小島を見ることが多いが、これは波の作用で岩が削られたものであろう。
こういう本土から遠く離れた島へ、石などをわざわざ運んでくることは、滅多にあるまい。琉球石灰岩やサンゴ礁の岩塊は、“地産地消”の代表のようなものではないか。



白保のサンゴ礁は有名だが見つからない柳田国男の歌碑も海上の道に没したのか(27) [石垣島だより]



二度目の白保行きは、7キロくらいはゆうに歩くことになってしまった。明和大津波慰霊碑を探して歩き、その足で宮良の集落に降りたが、バスの便とうまく合わず、結局白保まで歩いてしまったのだ。それだけでなく、白保では今度は柳田国男の歌碑を探し回って、またよけいに歩いてしまった。
白保は、石垣島の地名のなかでも、川平に並ぶくらい有名なのかもしれない。一時期は、ここのサンゴ礁を埋め立てて飛行場をつくるというプランが持ち上がり、地元だけでなく全国から反対の声があがったこともある。また、いつだったかはどこぞの新聞社のカメラマンが、テーブルサンゴだかなにかにナイフで自分のイニシャルを刻み込んだというので、スキャンダルになったりした。
サンゴは“動物”であるから、いってみれば石垣牛の背中にナイフを入れるようなものだが、こういうことをする人間の心理というのは計りがたい。
そんな事件で有名になったという側面もあるかどうか、白保のサンゴ礁はとにかく有名である。石垣島には何度か来ているでんでんむしも、白保はいつも390号線を通り過ぎるだけで、海岸まで行ったことがなかったので、今回はぜひ行ってみなければ、話にならない。
それにまた、島の中心で人が集まって暮らしている場所の、東の端に位置するのが白保である。東運輸のバス路線も、白保線が30分に一本走っている島のメインルートの終点。
実際に来てみると白保は古くて静かな集落である。ここまで来ると、やっと昔の八重山の民家の風情が感じられる。赤瓦の屋根に、サンゴ石の石垣、屋敷林としては定番のフクギが巡らされている。
サンゴ礁に潜りたい観光客向けの施設や店なども、ほとんどないといってもいいくらい。白保のマリンレジャー基地としての意味合いと役割は、もともとあまりなかったのか、今ではもうほとんど薄れてしまったのか…。
サンゴ礁の海岸は、港ができない。そこで、小舟の係留場所を、海岸の岩を動かして並べて船着き場をつくっている。海岸に建つ「舟溝開碎記念の塔」が意味するものは、固いサンゴの地盤を掘り抜いて、舟を入れる苦労をしたという証しなのだろう。だから「碎」なのだが、その溝もよくわからない。北へだいぶ離れた岸辺には、観光用のグラスボートが一隻、所在なげに浮かんでいる。このへんが溝なのか。

ゆるい弧を描いて広がる、白保の海岸は静かで、人っ子ひとりいない。
遠く、横一筋に白い波の線が、海に潜むリーフ(八重山では「ピー」という)の存在を示している。
そこに砕ける波の音が、海鳴りのように風に乗って絶え間なく押し寄せてくる。そこにしばらく佇んで、柳田国男の歌碑は、どうして見つからないのだろうと思うが、もちろん一人で考えても真相がわかるわけでもない。
確かに、白保に二三か所にある案内看板には、海岸の北のはずれにあると表示してある。ところが、二度もかなり歩いて探したのに、見つからない。見落としたということも考えにくい。
そこに刻まれているはずの歌は、わかっているから、別に見つからなくてもかまわないのだが、凡人はこういうところも見てみないと気が収まらないだけで、なぜ見つからないのか、というほうがより大きな問題として気になってしまう。
あらはまのまさごにまじるたから貝
むなしき名さえなお うもれつつ
幼少の頃から非凡な記憶力を持ち、旧家の膨大な蔵書を読破したという柳田国男が沖縄八重山を訪れたのは、1920(大正9)年、45歳のときの一度きりであった。
そして、『海上の道』を出版するのは、87歳で亡くなる前年の1962(昭和37)年のことで、40年以上も経ってからであった。
柳田は養子に入った家の名で、実家の姓が「松岡」なのだが、それと関係あるのかどうか(凡人はまたそういうところが気になったりする)、同じ姓を名乗る松岡正剛は、その非凡な読書録である『松岡正剛の千夜千冊』の最後に、この本を取りあげているのだ。
そして、「日本人はどこから来て、どこへ行くのか。それが柳田の最後に語ろうとしたことだった。」という松岡は、その“第千百四十四夜【1144】2006年5月22日”の稿の最後を、こう締めくくっている
けれども、柳田はこれを書いた一年後に没した。まさに海上の道に没したのである。ぼくもそのように終りたいものだ。
う〜ん、やっぱりなにか関係ありそうだな。
凡人には、そんなことしか書けない。
沖縄地方(2012/01/28 記)
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やっと探し当てた明和大津波遭難者慰霊碑はもう記録からも記憶からも遠くなって(26) [石垣島だより]



八重山の古記録大波之時各村之形行書によれば 乾隆三十六年(日本年号明和八年)三月十日(一七七一年四月二四日)午前八時ごろ大地震があり それが止むと石垣島の東方に雷鳴のような音がとどろき 間もなく外の瀬まで潮が干き 東北東南海上に大波が黒雲のようにひるがえり立ちたちまち島島村村を襲った 波は三度もくりかえした 史上有名な八重山の明和大津波である
津波は石垣島の東岸と南岸で激甚をきわめ 全半壊あわせて一三村 ほかに黒島 新城二村が半壊し 遭難死亡者は九三一三人に達した
こうして群島の政治 経済 文化の中心地石垣島は壊滅的打撃をうけ 加えてその後の凶作飢餓 伝染病などによる餓死者 病死者も続出して 人口は年年減少の一途をたどり 人頭税制下の八重山社会の歩みを一層困難なものとしその影響はまことに計り難いものがあった
この天災から二一二年 狂瀾怒濤のなかで落命した人人のことを思うとき いまなお断腸の念を禁ずることができない このたび有志相謀り 群島全遭難志望者のみたまを合祀してその冥福を祈り あわせてこの未曾有の災害の歴史が永く後世に語りつがれていくことを念願し 島内外各面の浄財と 石垣市 竹富町 与那国町並びに諸機関 団体の御協力を仰いで ここにこの塔を建立した
一九八三年(昭和五八)四月二四日
明和大津波遭難者慰霊碑建立期成会
今から241年前におきた、この地震の規模は、マグニチュード7.4で震源地は石垣島の白保崎南南東40キロメートル。津波は、“潮揚高貮拾八丈”(84.8メートル)で、沖の石は陸へ寄せ揚げ、陸の石ならびに大木は根こそぎ引き流されたと、古記録に伝えられている。
全潰した村は、石垣島の真栄里、大浜、宮良、白保、仲与銘、伊原間、安良、屋良部の計8村、半潰した村は、石垣島の大川、石垣、新川、登野城、平得、離島の黒島、新城の計7村であった。
ネット地図では国土地理院のも含めてすべてなにも表記がないが、宮良川左岸の海岸からはだいぶ奥まった場所に、明和大津波遭難者の慰霊碑があると、ひとつだけとある観光ガイドの地図には記してあった。
そこで、それを訪ねて宮良橋から探しながら歩いてみたのだが、どこにもそれらしいものが見あたらない。老人ホームのような施設の敷地で、草刈りをしている人に聞いてみてもわからない。なおも歩いていくと、サトウキビの畑の向うになんとなく丘のように見えるところがある。
建てるとすれば、だいたいそういうところが選ばれるはずだと、その丘を目指して畑の泥んこ道を行くが、なかなか丘へ道がつながらない。サトウキビ畑の手入れをしていた人がいたので、声をかけて尋ねると、この裏手がそうだという。看板もないからわかりにくいけどと教えてもらったように道を回り込んでいくと、看板はないのではなく草むらに転がっていた。
大きな人の背丈に倍する岩がいくつか立っている。こちらは転がっているというより明らかに立っている。これはもしかして「津波石」なのか?
それにしても、まさか標高60数メートルもあるここまでは…?
いやいや、84メートルの津波ならば、もっと高いところまででも…?
この岩を背にするようにして、慰霊碑はあった。冒頭に掲げた文はこの碑文の文字を写した。


草木のあいだに埋もれるようにしてある慰霊碑に手を合わせて、前の奥を見ると、高いところにあるのは石棺のようなつくりのものであった。
この場所と背景の岩と津波との直接的な関係性については、碑文はなにも語っていない。慰霊碑がある場所からは、海と宮良湾ははるかに遠く下のほうだった。


来た側とは反対の東側に出ると、やはり看板が、いや元は看板だったものの名残りが…。 それでも、宮良小学校の高学年のこどもたちは、ここにお参りすることもあるという。

先島諸島の無土器文化の位置づけは不思議だがいったいどういうものだったのだろうか(25) [石垣島だより]


オヤケアカハチ・ホンカワラの本拠地の遺構が、フルスト原遺跡だとする説には異論を強調する専門家もある。その大きな理由は、フルスト原自体にそれを証明する物証が発見されていないことにある。また、土地の古老などの言い伝えにも、それを示唆するものがなにもないことをあげ、琉球の史書「球陽」にある表現も、舟の出入りや荷物の上げ下ろしなどにも、より海に近くて便利なはずの大浜のほうがあっている、そにこそ居城も求められるべきだ、としている。
具体的に言い伝えから「大浜43番地」あたりをあげている研究者(大濱永直著『八重山の考古学』1999年先島文化研究所)もある。その付近は、390号線が貫き、民家が建ち並んでいるところなので、新たな発掘調査も不可能だろう。
その説では、オヤケアカハチが大浜を本拠として活動していた頃をその終りに含む12世紀から16世紀にかけてを、“スクの時代”としている。
その頃は、台湾や大陸との間でスパイスや宝貝(この時代、貝は貨幣替わりに使われる貴重品)などを交易品とする積極的な私貿易(密貿易)が盛んに行なわれた。中国からは、陶磁器が日常雑器として持ち込まれ、スクの遺跡から見つかる中国製陶磁器やその破片は、本島や本土とも比べものにならないほど多彩で大量だという。
航海術にも長け、船をサンゴ礁の切れ目(裾礁)に入れ、交易品を積み下ろしするスクの周囲は、それなりに栄えていたのだろう。農業と牧畜もあり鉄器も使い、集落には首長をいただき、婦女子は装飾品で身を飾り、本島や明王朝や大和本土とも朝貢関係があったようだ。
そうした先島文化末期の頂点にオヤケアカハチはいたのだが、1500年の“乱”によって一時代に突然幕が引かれる。それまで保たれていた八重山の独立性は失われ、琉球王朝による密貿易の取締り強化と、住民の強引な移住政策の強要によってスク時代の集落は衰え、活動的な交易集団も急速に姿を消してしまう。
同じ資料で、その前の時代をみていこう。
そのスク時代の前から1400年くらい遡った頃から、先島諸島では無土器文化と呼ばれる一時代があった。この時代の文化の痕跡は、シャコガイ製の貝斧や石器や食物の調理に使う焼石などが発見されているように、フィリピンなどの南方諸島とのつながりや類似性が特徴的なのである。
焼いた石のうえにバナナの葉などにくるんだ食物をのせ土や葉っぱをかぶせて蒸し焼きにする光景は、今でもテレビの南洋ドキュメンタリーなどで見ることがあるが、それと同じような生活を営む人々が、この地域の島々で1000年以上の長期間にわたって暮らしていた。
では、その前はどうだったのだろうか。
今から約4000年前〜3300年前頃の遺跡からは、ウシの耳のような取手のついた赤色を帯びた土器が発見されている。この時代も少数だが大陸からの陶磁器が持ち込まれた形跡がある。先島諸島のこの時代の文化は、赤色土器文化といわれるが、この時代とその後に来る無土器文化の時代の間には、約800年ほどの空白期(ミッシングリング)がある。
無土器文化の時代は、前の赤色土器文化とも直接的なつながりはないうえ、その後にくるスク時代へも継承はなく、無土器人は離散してしまったか、貴重な貝を求めてやってきた外来者に追われて逃避してしまったか、時代は断絶してしまう、まことに不思議な時代があったのだ。
八重山の調査や考察は、明治期の鳥居龍蔵や大正期の柳田国男が有名だが、戦後の1958(昭和33)になって初めて、各学術分野にわたる総合的な調査が行なわれた。早稲田大学の「八重山学術調査団」の結成派遣がそれであった。これには、当時の早稲田大学の総長が石垣島出身の大濱信泉(1891〜1976)だったことが大きく、この調査によって“早稲田編年”といわれる八重山独自の歴史編年も残し、後の研究に貢献した。石垣港のほど近くに、早稲田大学の時計台を模した記念館ができているが、今回は行く機会がなかった。
この早稲田編年では、先史時代を12世紀末を境として無土器時代と土器少量時代に分け、その後に多量の海外陶器を含む時代がきた、としていた。
それが、現在では炭素14測定法による年代測定の結果、“無土器⇒土器少量”ではなく、“土器少量⇒無土器”と逆転してしまったのである。 普通、常識的に考えれば、無土器の後に土器が出てくるというのが当然な流れのように思うのだが、ここでは、土器⇒無土器⇒土器という時系列が存在していたわけで、早稲田大学が間違えるのは無理からぬことであった。



石垣のマングローブはやっぱり西表には負けてるけどおかげさんで「西表石垣国立公園」になった(24) [石垣島だより]



“マングローブ”も、“南十字星”ほど一般的ではないが、南をイメージすることばとして馴染んできたと言えるかもしれない。熱帯または亜熱帯地域の河口など、海水と淡水が混ざりあう汽水域の湿地に育つ森林は、生態系からも環境系からも貴重である。浅い干潟、波の影響の少ない場所、豊かな栄養分を含んだ泥のなかで、マングローブは生長する。
ただ、“マングローブ”という場合、同じ表現で森や林を指すときと、木の種類を指すことがあるが、“マングローブ”という名の木があるわけではない。マングローブの森林を構成する樹木の種類は、世界中では100種類もあるといわれ、それらは植物学的分類では主にヒルギ科、クマツヅラ科、ハマザクロ科の3科に属する種であるという。
石垣島では、オヒルギ(ヒルギ科)、メヒルギ(ヒルギ科)、ヤエヤマヒルギ(ヒルギ科)、ヒルギダマシ(クマツヅラ科またはキントラノオ科、ヒルギダマシ科)、ヒルギモドキ(シクンシ科)、ハマザクロ(ハマザクロ科、別名マヤプシキ)の6種がある…と、情報を引っ張ると出てくる。
モドキだのダマシだの、名前を並べてもさっぱりわからないし、見てもその区別はつかない。だいたい植物の科とか種とかが、シロウトにはそもそもよくわからない。が、要は“マングローブ”と一言でいうけど、実はこんなに多種多様ですよ、ということだ。
でんでんむしは、石垣島のマングローブといえば、ラムサール条約登録地にもなっている西部の名蔵アンパル(網を張るの意だというが定かでない)が最大だと思っていた。
2007(平成19)年にそれまでの「西表国立公園」が拡張されて、石垣島も編入され、石垣島と西表島との間にある石西礁湖を取り込む「西表石垣国立公園」がめでたく誕生。これによって名蔵も国立公園の特別地域にもなったが、実は宮良川河口のマングローブが石垣では最も広いのだという。
「宮良川のヒルギ林」として国の天然記念物に指定されているが、西表島の仲間川や浦内川のマングローブを知りそれらと比較すると、いささかちゃちく見えてしまう。だが、ここは石垣島限定。
最近では、島北部の野底にある、吹通川のヒルギ群落も売出し中である。
素人目には地表のさらに上のほうからタコ足状に根っこ(呼吸根)を広げて幹を支え海中に根を下ろすヤエヤマヒルギが、最もマングローブらしく思える。
また、タネで飛び散って親木から自立しようと、海中にひょろりと一本だけ小さな葉っぱを広げて立つ姿も、いかにもマングローブらしいのだが、宮良川の場合、陸地からヒルギ林を眺められる場所は、宮良橋くらいしかなく、そこからではそれらが観察できるわけでもない。

名蔵では、海岸の道路脇にもいくつかそういう場所があるが、ここ宮良川では、河口付近にヒルギが芽を出しているという光景は、どうやら見られないようなのだ。そこで、雨の中を車で通りかかった名蔵のほうの海岸の光景も合わせて…。



宮良川のヒルギ林の見物は、やはりカヌーや舟でと、体験観光の宣伝もされているが、でんでんむしはまだ体験していない。なんでも、名物おじいがガイドしてくれるらしいのだが、カヌーは誰かが漕ぐのに乗ってもおもしろくない。やはり一人で漕いでみたいし、それなら西表島の仲間川のほうが…。
サンゴ礁に取り囲まれた島では、河口など一部切れ目割れ目のような場所にしか、船(または舟)をつけることができない。オヤケアカハチの居城が大浜であったにせよ、フルスト原であったにせよ、この河口こそがその活動の拠点になる港だったことは確かである。
今は、もうその名も消えてしまっているが、ここらは「フナツキ」という古名もあった。


ここがオヤケアカハチの居城跡なのか?フルスト原遺跡で先島諸島の先史時代に思いをはせる(23) [石垣島だより]





奄美群島から八重山諸島にかけての、琉球弧とも呼ばれる地域に多いのがグスク(本島読み)とかスク(八重山読み)と呼ばれる遺跡である。「御城」とか「城」という字を当てているので、本土の大名の城を連想してしまうが、それともちょっと違う。
御嶽を取り込んで大きくなった聖域であるとか、環濠や石垣で囲んだ集落であるとか、地域の有力者の居城であるとか、いくつかのタイプ別要素がある。
石垣島にもグスクがある。それが、石垣空港の滑走路の北端の延長線上にある、「フルスト原遺跡」である。
その所在地は同じ大浜だが、オヤケアカハチの像がある集落からは800メートルくらい北北西にあたる台地の上である。“グスク状の遺跡”といわれているように、台地のあちこちに十数か所もの石垣で囲まれた家の跡のようなものがあるが、これらは発掘され再建復元されたものである。
石は当然この島で取れる珊瑚性石灰岩で、現在でも家のまわりを同じようにして囲っているのが、なにかおもしろい。ただ、ここの石垣は、通常の民家の石垣より全体的に高く、低いところでも2メートルくらいはある。
ちゃんと御嶽の跡もあって、囲いの中からは陶器の破片などが見つかっているが、遺跡としてはあまりはっきりしたことがわかっていないようだ。
ともかく、大浜の集落付近では、オヤケアカハチの居城跡のような遺跡が見つかっていないことから、このフルスト原遺跡がそうではないかという説は根強くあったらしい。それを立証する史料は、現在まで見つかっていないが、琉球王国の歴史書の記述にもあうというので、その可能性は高いとみられている。
同じ場所には貝塚もあったので、先史時代からの複合遺跡なのだろう。先島諸島の考古学研究も各所で発掘調査が進み、ここも1978(昭和53)年に、国の史跡に指定されている。

ただの石垣といってしまえばそれだけのことだが、なかなか味わいのある石垣である。そう思って眺めていると、石垣空港を飛び立った飛行機が、めずらしく晴れた青空を舞い上がっていく。石垣島でも、長い歴史のなかで、海岸線は押したり引いたりしているはずで、宮良湾を望む台地は、昔の人にとっても住むのに適した一等地だったのだろう。
縄文土器も弥生土器もどちらも発見されていない八重山諸島の先史時代には、大変興味深いことが多いようだ。
北の入口から入って、南の入り口へ出た。そこはもう大浜の集落の北の端で、おしゃれな家が多い。
大浜中学校の近くに、これまたおしゃれなパスタ屋さん。こんな住宅街にぽつんとある。自宅を改装した白い壁の赤い矢印に導かれて入ってみると、第一線を退いたご主人が厨房に立ち奥さんが店の客に運んでいるという感じの店。いただいたキャベツとアンチョビ(だったと思う)のパスタは、とてもおいしかった。



石垣島は駅伝もマラソンもトライアスロンも自主トレもキャンプも…(22) [石垣島だより]




昨年の秋の終わりから今年の始めまで、日照時間が平年の3ないし4割がたしかなかったという石垣島では、作物への影響も心配され始めている。このたよりの最初でも、いつも冬場はすっきりした天気の日が少ないと書いていたのだが、それをも越える自体らしい。
それでも、気温は20度程度はあるので、いろいろなスポーツのトレーニング地としても利用されている。先週だったかの地元の新聞で、広島カープの嶋選手が松山選手など若手とともに来島して、自主トレーニングを始めたという記事があるのを目にした。
ちょうど、そのころ、中央運動公園を歩いていたのだが、室内練習場の横のサブグランドで数人の人がなにやらやっているなと、横目で通り過ぎた。その前に新聞を読んでいれば、もっと近くによって確かめ、サインくらいもらってきたのに、残念だった。
同じく中央運動公園では、ここ数年千葉ロッテがキャンプを張る。今年も、来週にはやってくる予定だ。
サッカーの練習場も於茂登山の下にあるので、毎年のようにどこかのチームがやってくる。
トライアスロンの国際大会も開かれると、前にどこかで書いたが、それは石垣港周辺なので、そこには砂浜はないのに…と思っていた。ところが、トライアスロンは砂浜はないところでも普通にやることも多いようで、それは必須要件ではないらしい。陸から海へ、海から陸への移動が簡単にできればそれでよいらしい。それとは直接関係はないのだろうが、石垣港の埋立地では、巨大な人工砂浜もできるらしい。
プロのためばかりでなく、市民のスポーツも盛んで、幼児から中学高校生を対象にした、石垣島アスリートクラブもあって、これも中央運動公園の陸上競技場でトレーニングをしている。
地元出身の選手の活躍も、あげて応援する気風も十分で、八重山農林高校から福岡のホークスに入団が決まったといって喜び、八重山高校から女子駅伝の全国大会に出場するといって喜ぶ。
めずらしく晴れた先週の日曜日は、八重山毎日新聞主催の駅伝大会が開かれた。これは、運動公園をスタートとゴールに、八重山地区の各町の対抗で、与那国島や波照間島、西表島、竹富島は、島で一チーム、石垣島は各地域ごとにチームをつくるので、気の入れ方も違う。
そして、昨日の22日の日曜日は、やっぱり雨。だが、走る人びとにとっては、晴れているよりはラクかもという。今年10回目となる石垣島マラソンは、いわゆる市民マラソンで、今回は初めて全都道府県からの参加があり、また初めて参加者数が4000人を超えた。多くの人がはるばる飛行機に乗って、石垣島で走るためにやってくることに驚く。そのため、この週末、市内のホテルは満室状態になった。島をあげて、ボランティアなどが多数出て、給水や給食、コース管理の世話をする。
バスも一部は路線を変更しながら走り、いよいよコース道路に出てきた。バスは左折してコース区間は対向車線を走るが、サトウキビを満載して製糖工場へ向かうトラックは右折するので、マラソンが終わるまで辛抱強く待っていなければならない。
バスの運転手さんの同僚や知り合いも走っているそうで、「ほら、あの○○番のゼッケン、あれ同級生です」などと教えてくれる。そう。このバスも、やはり乗客は一人きりで、ほかに乗客はなかった。二人でマラソン談義で盛り上がりつつ、ターミナルへ戻ってきた。
八重山の英雄オヤケアカハチの拠点があった大浜には御嶽(うたき・おん)もいくつもある(21) [石垣島だより]


大浜の集落の東端では、丸くなった海岸線が北東の宮良湾に面している。今では、公民館や大浜小学校があるこの一帯は、石垣島の歴史にとって重要な地点であった。いくつもの御嶽(うたき=八重山では「おん」または「わん」と呼ぶらしい)が並ぶなかに、青い銅像(その前に目立つ石灯籠が奇妙だが)が建っている。
この像の主こそ“オヤケアカハチ・ホンカワラ”であり、大浜こそは彼の拠点であった地域なのだ。日本の歴史の本を読んでも、滅多に出てこないオヤケアカハチは、元々は波照間島の生まれだったと記憶するが、1500(明応9)年に反琉球王国の兵を挙げ蜂起する。しかし、王府が派遣した3,000人の征討軍によって鎮圧され、討ち取られた。
いつでもどこでも、歴史は勝者の記録であるから、オヤケアカハチは反乱軍の首謀者であり、悪いヤツということになっているが、地元では英雄である。実際、それまでの八重山は国家としての機能がどの程度働いていたかは疑問ながら、いちおうは琉球王朝とも宮古島とも一線を画した独立国であった。琉球や日本とも贈り物をして挨拶する入貢外交くらいはあったろう。 琉球王国側の見解では、オヤケアカハチは粗暴で税も納めなかったというが、そもそも税を納める義務などなかったはずである。その“反乱”を起こすに至った原因は、八重山固有の神、イリキヤアマリ神の信仰を王府に禁止されたために、これに抗議せざるを得なかったとも言われている。
こうなると神様の違いによる宗教戦争の色合いもあるわけで、さらには、こちらのほうがより大きな要因とみるのが妥当らしい、宮古島を支配する豪族仲宗根との八重山の支配権をめぐる争いでもあった。宮古が琉球側についた結果として、八重山の神と習俗を守る自己主張をして強力な琉球王朝に敗れたわけだ。
戦にはノロと呼ばれる巫女のような女性が、作戦を練り軍を指揮していたという一面もあり、呪詛合戦も行なわれていたという。
オヤケアカハチの像の周辺にあるいくつもの御嶽は、この戦で彼を支援したノロたち縁のものであったのかもしれない。ただ、敗戦後は官軍となった宮古島の仲宗根豊見親の支配となる。八重山のノロたちも大勢処分され殺されたらしいので、それらもいったん排斥されたはずである。
沖縄ではどこでも、この御嶽が数多くある。これは琉球独自の信仰にしたがって祭祀などを行なう聖域の総称で、神が存在あるいは来訪する場所、つまり聖域なので、やたらに立ち入ったりしてはいけないのである。
オヤケアカハチが敗れて、一時的には宮古の仲宗根支配下に入るが、イリキヤアマリ神を祀る御嶽はなんとか石垣島に残った。義経伝説を思わせるような、実はオヤケアカハチは小浜島の森に逃げ延びたという話まである。
御嶽に鳥居が設けられているのが、なんとも奇妙な感じだが、これは明治以降の皇民化政策によって、ノロは検挙され弾圧されたりもしたが、神道の施設として存続することを許された結果、ということになるのだろうか。
ノロの墓など御嶽になることがあるが、その場所が古代社会の集落があったところという場合も少なくない。保水力のない琉球石灰岩の小さな島では、水がなにより重要で古い井戸のある場所が御嶽になったりしている。
石垣島でも島内各所に御嶽がある。たいていは祠のようなものがあるこがないこともある。鳥居がない場合でも、古墳のようにぽつんと樹木が茂っているところがあれば、それはたいてい御嶽だったりする。



沖縄地方(2012/01/22 記)
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ここから水平線の上に南十字星が見えるらしい大浜の海岸とその続きの海岸はこんな感じ(20) [石垣島だより]




「南十字星」ということばには、なにやらロマンチックな響きがあると、北半球に住むものにとっては共通認識がある。それは、いつも見られない、どこでも見られない、滅多に見られないからである。
だが、北半球でも、緯度が低いところなら水平線の上のほうに南十字星も見ることができる。それもいつでもというわけではないらしいが、石垣島でも見えるのだそうだ。いや、石垣島天文台(先日「月虹(げっこう)」を観測したというのでちょっと全国ニュースで話題になった)まで行かなくても…。
発電所から東の大浜の集落は、古い住宅もあるがほとんどは新しく建て替えられた住宅地のようで、海岸から台地へ上っていく390号線から北側にはとくに立派な個人住宅が多いようだった。
このあたりになると、住宅が並ぶ前に道と堤防があって、その下はもう海である。一瞬、津波がきたらどこへ逃げればいいのだろうと、あたりを見回してしまうくらい、海が近く低い。
ただここでは、砂浜はなく、平たい岩場がかなり大きく広がっていて、水面は遠い。遠い水面のさらに遠くに、サンゴ礁にあたって砕ける白波が帯のようになって続いている。
緑色に見えるのは、地元では“あーさー”といって汁の具などに重宝されている海藻であろうか。岩の間の水路が小舟の出入り口になっていて、そこには魚の供養塔が立っていた。大浜の海岸をきれいにするために、集落の人たちは努力しているらしく、比較的漂着ごみなどの類いも目立たない。
この大浜の海岸の堤防に、南十字星が見えるポイントの説明がペイントされていた。「大浜から南十字星を見る会」というのがあるらしい。
ここで見えるのなら、石垣島の南東海岸ではどこでもほぼ同じ条件で、南十字星をみることができるのだろう。
新川から八島までの海岸は、石垣港、石垣漁港の岸壁や堤防が続いているが、真栄里からは自然の海岸が復活する。ただし、そこから東へは生コン工場やゴルフ場やANAインターコンチネンタル石垣リゾートがあり、大浜に入ってからすぐも、沖縄電力の発電所があるため、海岸は一般に人の目からはずっと遠くなってしまう。
そういう意味で、人の暮らしと海岸が近くなるのは、とりあえず大浜くらいしかないのかもしれない。


真栄里の八重山商工高校(いつだったか、甲子園を湧かせたことがある)のバイパスのカーブ付近のカフェから見た海岸、新開地のショッピングセンターからゴルフコースの横を突き抜けたところの海岸、ANAのホテルが人工的につくった(あるいは大々的に手を入れたとしか思えないが)ここだけ砂浜の海岸、沖縄電力の球場わきの海岸の写真も並べてみた。撮影日は同じではないので印象は異なるが、これらが人からは比較的遠い南東側の海岸で、やはり南十字星が見えそうな場所なのだが…。


でんでんむしは、南十字星を見たことがない。
かつて多くの日本の男たちが、赤道やその付近一帯の南の島々にばらまかれ、その星を見た。父親が南半球の南太平洋の小さな島で短い生涯を終えようとしたときと同じ星は、今もその空で輝いているのだろうから、いつかそれをその同じ空の下へ見に行きたいと思いつつ日は過ぎて、それは結局のところ果たせそうにはない。
石垣島の農業は開拓とともに苦難の連続で畜産は地域ブランド「石垣牛」を産む(19) [石垣島だより]




大規模な工業生産活動が成り立たない島では、一次産品を生み出しそれを加工して独自商品にするしかない。農業は、米や野菜もけっこうつくられていて、JAの大きなライスセンターもある。今時分は田に水を張っているところなので、米の二期作が可能なのであろう。もちろん、南国らしい風景をつくるサトウキビやパイン、バナナなどの生産も行なわれている。また、緯度がちょうどコーヒーベルトにあたっている石垣島で、近年注目されてきているのがコーヒーの栽培で、ほかにもJTと契約し、機械化も進んだ葉タバコ農家もある。
だが、島の開拓とともに始まった農業は苦難の連続で、現在でも水の確保と土壌の改良が大きな課題になっている。農道のところどころで見かけるのは、水のスタンド。飲み水ではなく、農業用水を提供するコイン式自販機である。粘土質の赤土が覆っていて、気象状況も温暖とはいえ独特の荒さもある島では、作物なら何でも育つというわけにはいかないし、病虫害との絶え間ない闘いも避けられない。
赤土自体は、サトウキビには適しているんだそうだが、一雨降るとこれが海に流れ出してしまう。一時期は、島の道路など開発工事と重なって、これが大問題になった。でんでんむしが来たときも(あれは最初の時か)飛行機の小さな窓から見る宮良湾は、まるで黄河のような色になっていて、驚いたことがある。今では、宮良湾もそんなことはない。
畜産業が盛んになったのは、あるいは農業のむずかしいところをカバーするものだったのだろうか。牛というのは、変なもので、よそから仔牛を連れてきて育てればそこの牛になる。石垣島で育てられた仔牛は、かつては“ドナドナド〜ナ〜ド〜ナ〜”と、本土の牛の産地に売られていくだけであった。
ところが、2000(平成12)年に沖縄で開かれたサミットの晩餐会で、メインディッシュとして石垣の牛肉が使われたことで、一気に知名度が上がり、島でも自信がついてその気になり、全国に出荷されるようになったものである。
「石垣牛(いしがきぎゅう)」は、2008(平成20)年に沖縄県農業協同組合(JAおきなわ)が地域団体商標として申請し、登録された地域ブランドになった。
松阪牛(まつさかうし)や、近江牛(おうみぎゅう)と並んで、石垣牛が認定された地域団体商標としては、島ではほかにもうひとつ、石垣の塩(いしがきのしお)がある。
JAおきなわでは、石垣牛の定義を、「沖縄県八重山郡(石垣市を含む)内で生産および育成されたことを示す登記書及び生産履歴証明書を有すること、生後おおむね20か月以上八重山郡内で肥育されていること」など、いくつかの厳格な条件をつけている。
だが、その条件を満たしてはいない「石垣牛」もたくさんあるらしいので、JAおきなわが公開している「石垣牛推奨店」は、いささか数は限定されるようだ。


先日は、マンションの近くで空港の南にある「石垣牛炭火焼肉専門店石垣屋」の開店12周年感謝デーで、全メニュー半額というのでほいほいと行ってきたが、ここのはJAのブランドではない。
だが、そのホームページでは、
・本当の石垣牛は -----? 仔牛を生産するための母牛(経産牛)ではなくて、石垣島に生まれ緑の牧場で潮風に吹かれて育て上げられた処女牛をいいます。
・石垣屋の石垣牛は -----? 30年間堺市の坂本牧場で、修行を積み、故郷の石垣で食用黒牛を大人になるまで肥育している(有)美崎畜産の純正石垣処女牛です。
とあった。それって、暗にJAの定義に異を唱えているのかなあ。
なんかモーようわからんようになってきた。
それにしても、でんでんむしのこどもの頃には、家庭で牛肉を食べるという習慣もまだなく、牛肉といえば“大和煮缶詰”くらいしかなかったのだが、その缶のラベルには牛乳石鹸のようなウシさん(もちろん肉牛と乳牛の違いはあるよ)の絵が描かれていた。しかし、これもよくよーく考えてみると、変である。
生きているウシさんの姿を見て、食欲をそそられることはないだろう。逆に、眼をじっとみていると、なんかカワイソになってこない?
これを、殺して食べてるんだからね、人間は…。
石垣牛のブランドマークにはさすがにそれはやめて、石垣島の地図と牛肉の写真にしている。


宮良殿内や桃林寺のある中心市街地をちょっと外れるととたんに田園風景になる島の観光は…(18) [石垣島だより]


「旧市街」と括っているが、当地でそう呼ばれているわけではない。「石垣島だより」(16)に掲げた電子国土ポータルの地図で、港を中心としたアミ線に塗られた町街区のことを、でんでんむしが勝手にそう表現しているだけなのだが、“字石垣”を一部に含むこのエリアが、そもそもの石垣の出発点として核になってきたことは確かであろう。
狭い道の間に民家やアパート、マンションなどが密集しているが、その中央を少しだけ広い道が横断し、縦にも数本縦断している。この地域内で、史跡マーク(∴)がついているのは、宮良殿内(みやらどうんち)と石垣氏庭園であるが、どちらも正直に言って観光名所というほどのものではない。宮良殿内のほうはときたま散策の観光客が紛れ込んでくるが、庭園のほうは閉まっていることが多いうえに少しはずれにあるので、わざわざ行く人も少ないだろう。
やはり西の外れにあたる桃林寺や権現堂も、薩摩藩がやってきて「石垣島にはなぜお寺がないのだ」といってつくらせたという歴史的意味はあるが、やはり観光バスはこない。
結局、この付近の古い石垣島の面影は、庶民の家は全部消えているので、わずかに残った旧士族の屋敷と石垣くらいしか、想像のよすがとするものはないわけである。
桃林寺から西に広がるのは「新栄町」というくらいで、後から開けた地域なのだろう。その先、旧市街地の西は、新川川を越えると、新しい団地などがあるが、真喜良小学校を過ぎると海岸沿いにはリゾートホテルなどが点在し、山側には収穫前の花の穂をつけたサトウキビ畑などが広がり、その向こうには石垣島天文台が白く光る前勢岳(197メートル)が眼に飛び込んでくる。

この先、西海岸道路をいけば、富崎、名蔵を経て、川平へ続く。バスターミナルからは、ここを走る川平リゾート線というバス路線が、日に6往復している。


旧市街地から北へ向かうと、産業道路の沿線くらいまでは町だが、それより北へはすぐに人家は途切れる。その名の由来は不明なシード線という道路からは、畑の中をフクギやリュウキュウテリハボクといった並木が続き、その周辺はサトウキビ畑や牧草地などが展開する。
そういった道は、“網の目のように”というわけはいかないが、島の全域にわたり主だったところを走る道ではよく見られる。そして、そのところどころに入植者が開いた集落が点在している。


牧場や牛小屋もあちこちにあるわずかにでこぼこな台地が続く先には、バンナ岳や遠くは於茂登岳が聳えるというほどは図々しくなく、控えめにぽこんとある。
於茂登岳の東をサッカーのキャンプ地を通って北の海岸へ出る道もあって、米原のヤシ群落や野底の海岸に出る。このルートを通る路線バスは、日に4往復しかない。

では、東へはどうか。空港南の新開地(これもでんでんむしが勝手にそう呼んでいるだけ)には、マンションなどは数棟あるが、個人の住居が集まる集落はいったん途切れる。ANAのホテルと沖縄電力の発電所を過ぎると、大浜という集落がある。現在は石垣市街地の延長線上にあるが、元は旧市街とは独立した集落であったろう。
ここから宮良川を越えて島の東海岸を北上すると、白保までは30分ごとの白保線のバスがあるが、さらに北へ進むと伊野田、伊原間などいくつかの集落がとびとびにあり、島の最北端の平野に至る。この路線も、日に4往復。
ざっとこのように整理して眺めてみると、中心となる市街地以外は、あちこちに点在する集落を除けば、ほとんどが田や畑や牧草地か、山地、未利用地ばかり、ということがわかる。
要するに、石垣島は八重山観光の基地ではあるものの、島自体では中心部で“観光するようなところ”は、ほとんどない、といっても差し支えなく、島でのいわゆる観光地といえば、川平湾くらいしかない。
先日の朝も、島の中央部を縦断する米原キャンプ場線のバスに乗っていたら、途中ホテル日航八重山の前で中年の男女4人が、運転手さんに尋ねている。川平まで行ってまた2時過ぎくらいまでに戻ってきたいのだが、これに乗れば可能か、というわけである。
いろいろダイヤをひねくりまわしていた運転手さんの答えを聞いた観光客は、運賃を聞いてあきらめてしまった。空港線と同じく200円で行けると思っていたらしい。川平リゾート線でも1000円はかかる。
「4人ならタクシーのほうがいいかも知れませんよ」と、運転手さんはフォローしていたが、でんでんむしには、これが“観光地石垣島”の課題のように思えた。米原のヤシ林とか、平久保崎とか、鍾乳洞とかほかにもいくつか観光ポイントはあるものの、観光客が得ている情報に偏りがあるため、川平に集中するかと思えば、それも貸切団体以外でふらっと行こうとしても、なかなか困難な点もあるのだ。
この観光客の場合は、そもそも事前の計画が甘いのが問題だが、観光客というのはその程度のものである。ホテルのほうで団体以外の観光客に対し、もっと適切な情報サービスをする必要もあるように思う。東運輸も“石垣島一周乗り合い観光バス”のようなものも走らせてはいるし、宮良や名蔵のマングローブ林のカヌーとか、手づくりシーサーといった「体験型観光」も試みられてはいるが、だいたいにおいて、観光というのは来るほうと受け入れるほうのマッチングがむずかしいものだ。
マックスバリューとサンエーとかねひでとココストアとさしみ店ときいやま商店と…(17) [石垣島だより]


市街地には、全国ブランドのスーパー「マックスバリュー」が数店あるほか、とぅばらーま記念碑のある390号線には、「タウンプラザかねひで」があり、旧市街地からは外れた空港南の新開地には「マックスバリュー」と「サンエー」というスーパーが並んでいる。
古くから市街地に住む人には「かねひで」の愛用者が多く、比較的新しい住人には「マックスバリュー」や「サンエー」の利用者が多いとも聞いたが、それは単にそれぞれが住んでいる場所から近いという理由が先なのだろう。いずれにしても、車で買い物に行くという、本土の地方都市そのままと同じような姿が、南の端の島にもある。
新開地のショッピングセンターのほうには、「マクドナルド」も「モスバーガー」もあるが、なぜかいわゆるファミリーレストランがない。一軒だけ広告でそう名乗っている店が新開地にはあるが、まったく違う別モノである。そこには「大戸屋」もあるのだが、本土の店とはやっぱりちょっと違うかな。
島の名物である八重山そばと並んで焼き肉屋などの店もそこそこにはあるし、名産のブランド“石垣牛”の店もあるが、ファミレスができない理由にはならないだろう。蕎麦粉を使わないそばである八重山そばは500円くらいで食べられるが、ブランドの石垣牛となるとハンバーグでも2,000円とか、とたんに値段は跳ね上がる。


そして、「Coco!」というピンクの看板のコンビニも、市街地のあちこちにあるし、「ベスト電器」も「かねひで」の向かいにある。最近、駅伝で目立っていないが、「ファッションセンターしまむら」もある。書店は「TSUTAYA」もあるが、新開地の「きょうはん」(文具や玩具と混じって本がある)以外には見たことがない。が、西のほうにももう一軒くらいはあるのだろう。
石垣島らしい、独特の店といえば、「さしみ店」かな。


そうそう、近頃、島でいちばん人気を集めている店は「きいやま商店」であろう。
といっても、それは店ではなく、兄弟といとこの3人組みのバンドの名前。ただ、それも実在した店には違いなく、兄弟の祖母が経営していた店の名前が「きいやま商店」だったが、何を商う店かは知らない。
昨年秋にセカンドアルバム「沖縄ロックンロール」を出し、島では、こどもからおとなまで大人気で、本人たちも元日の地元紙では「今年の夢は紅白だ!」と意気盛んなのである。歌もさることながら、トークがおもしろいというのは、誰やらに似ている。
年中さまざまな伝統行事がある石垣島では、「とぅばらーま」に限らず、歌と踊りは欠かせない。それは島の暮らしの一部のようになっているのか、現在でも島ではバンドコンテストなども行なわれている。
そうした島の土壌が押し出し、全国ブランドになって紅白出場は何回か果たし、すでにメジャーになった先輩格もいる。
“イカ天”からデビューし、今も活躍している数少ない例であるBEGINと、彼らが作曲した森山良子作詞の「涙そうそう」をヒットさせた夏川りみが有名である。
ほかにも、八重山高校出身の女性2人組デュオユニットやなわらばーもいるが、でんでんむしが知っているのはそのくらいか。
そういえば、BEGINのボーカルの比嘉栄昇さんや、夏川りみさんは、島顔を代表する美男美女だといってよいのではないか。
とぅばらーま記念碑とアコウの大木がある「なかどー みちぃ(仲道路)」(16) [石垣島だより]






石垣島の中心市街地は、於茂登岳とは独立して南西に突き出しているバンナ岳(230メートル)の火山活動でできたらしい、扇状地状のゆるやかな傾斜が南の海に落ちるところに限られている。
傾斜地を横切って、流れる新川川は、市街地の北と西の区切りとしているようにみえる。同時に、旧市街地を取り巻くようにある墓地も、目に見えない境界をつくっているようにもみえる。
碁盤目というほどきっちりはしていないが、横長の旧市街の密集地はさんばし通りの東にも広がっているが、それも八島の港から運動公園に至る道路で東の区切りとなっている。それよりさらに東にも住宅地は続いているが、ここらへんから空港の南一帯は、いまではさまざまな商業施設が並ぶいわば新開地で、とくにその南部は開けるのが遅かったとみられる。
島の東海岸を縦断する国道390号線は、バスターミナルから730交差点を進み、八重山博物館のほうへ右折して、気象台、仲道と旧市街地の道をぎくしゃくと折り曲がりながら走っている。その混雑を避けるために空港から新開地を突き抜けてバイパスが通り、住宅密集地の混雑を避ける車は、ほとんどこちらを通る。
だが、白保線のバスが通る旧市街地の道路は、東南部市街地の区切りのラインとしても、それなりの意味をもっていたのではないだろうか。
そのバス道路が、八島と運動公園を結ぶ道と交差する五差路(上の地図で青い国道番号が上下に二つ並んでいるが、その上のほうの記号がある付近)に、「とぅばらーま記念碑」というものがある。「とぅばらーま」とは、八重山民謡のなかでも“最高の叙情歌”として歌い継がれてきたもので、毎年九月十三夜の月をバックにして歌唱力を競うイベント「とぅばらーま大会」まである。
これにも、古典的な歌詞と多くの歌詞がつけ加えられてきているのも特徴であるが、元来の歌詞に言う「なかどー みちぃ」というのが、このバス道路にあたり、これは西にほぼまっすぐ走って宮良殿内につながる、細いけれども旧市街の主要路だったことがわかる。
歌碑の裏に刻まれた文は達筆で、以下のように言う。
「流れる才月
移りゆく人の心
大阿香の下に昔を
偲ぶよすがとして
この碑を建てる
昭和五十五年九月
登野城
平 得
真栄里」
個人名でなく、しかも知事や市長などの名でもなく、旧市街地の東に並んで於茂登岳まで届く三地域名の連名であるというのが、すばらしいことのように思える。
「大阿香」とは、交差点で目立っている大きなアコウの木のことである。
アコウの木は、これまで「岬めぐり」でも何度か遭遇してきたが、まさかこんなところで出合おうとは思わなかった。
本土のアコウは、九州や四国や紀伊半島の海岸際に限られている。なぜなら、その実は“遠き島より流れ寄”った結果であるからだ。そのどこかには、石垣島との関連をうたうアコウの木もあったことを、この木を見てやっと思い出した。
ここが、その母なる木の生い茂る島だったのだ。だから、この島のアコウは海岸べりに生えているとは限らない。このアコウは、海から1キロも内陸にあたる交差点で根づいている。
島の最多人名は“宮良さん”で地域名の境界線の区切り方がとてもおもしろい(15) [石垣島だより]


近頃ではほとんどテレビで見ることはないが、歌手の普天間かおりさんは本名で、「みなさんよくご存知の名ですが、うちの名前のほうが先なんです」というようなことを話していたのを思い出す。彼女のルーツは、琉球の王族にあるので、同名は少ないとも聞いた。
地名と人名の関わりは、かなり密接なつながりがある場合も多いのだが、沖縄について言えば旧王族でなくてもそれはいっそう顕著である。
ここ石垣島でも同じで、島の町名・字地名(たまに島名)と同じ名前の島民は多い。地名があってそれを名乗ったのか、人名があってそれが地名になったのか、そのどちらもあったのだろう。
「石垣島タウンガイド」という観光情報誌によれば、石垣島に多い名字は、宮良・金城・砂川・石垣・平良・下地・上原・玉城…という順だそうである。このなかで島の地名と同じものは、宮良、石垣くらいしかないようだが、これは多い順のリスト。ほかにも町を歩いていると、大浜の表札名もやたら多いし、そういう地名との関連事例はもっとあるのだろうと思われる。人名としてはいちばんなさそうな、北部の地名「桴海」でさえ、その名を名乗る“桴海さん”がちゃんといるくらいだ。
そのまんまの“石垣さん”とおなじ町名は市街地の中心部にあるが、さほど広くはない。
いちばん多い“宮良さん”の名のある地域は、市街地から東に離れた集落を中心として、島の北部に展開してかなり広い。
地図でみると、宮良の地名は海岸から山のほうまである。これが、宮良だけでなく、市街地の中心部を構成している真栄里(まえざと)に至っては、港に近い海岸から、15キロ以上も離れたこの島の主峰である於茂登岳(おもとだけ)のピークにまで達している。ついでにいうと、この標高525メートルほどの山は、沖縄県内の最高峰である。登山道は昨年の台風以来、閉鎖されたままである。
今回改めて調べてみると、於茂登岳の頂上までその境界線が届いている地名は、真栄里のほか、やはり市街地から延びている平得と登野城、東のマングローブの湾から広がる名蔵、北西部の観光スポットである川平、北のヤシの林の海岸から続く桴海、とある。
これらがいずれも海岸から山の頂を中心として、島の南部から西部、北部にかけてぐるりと取り巻いている。東部は、その境界線は頂上まで届いていないだけで、大浜と宮良も山の上まで迫っているのである。いわば、ここにあげた写真の海岸から遠くの山の上まで、ひとつの地域名がかぶせられている。
つまり、石垣島の地名区割りは、等分ではない(於茂登山の頂は島の中心ではなく北に偏っている)が、ちょうどピザを切り分けたよう(もちろん直線ではないが)になっている。まことにおもしろい。
これには、明らかに島を分画するという政治的な匂いを含んだ意図が感じられる。これは、考えてみると、入会権など、山林と生活とが結びついており、その調整のためなのだろうと思われる。
市街地をちょっと外れると、途端に田舎になる石垣島では、市街地の中心部を切り分けている登野城や平得や真栄里といったところには、住宅街の中にやたら官舎や公務員住宅が目立つ。国家公務員住宅が4〜5か所もあるうえ、県職員の住宅に、銀行などの社宅、それに県営住宅もこの付近に集中している。そのすぐ脇には、沖縄独特の大きなお墓があるので、新興の住宅地がお墓の領域を侵食してきたといえる。
こうした市街地と畑や牧草地の田舎と山の上に同じ地名を冠しているので、それだけでは場所の特定ができない。交通信号のある主な交差点の標識も、「平得(南)」とか「平得(北)」といった具合。
“字”を冠している表記例もあるが、やはり島には字地名がない、といって差し支えあるまい。一部役所や地図などで真栄里や平得に「字」をつけることもあるのだが、これはつけたりつけなかったりであるうえ、町名に字をつけただけだから字をつければ町名がなくなる。ほとんど意味をなさない。そこで、差別化の手がかりは地番しかないのだが、この地番がまたナンの規則性もなさそうなので、はなはだやっかいなのだ。郵便屋さんは大変だわ。



はるか南の海からやってきた人を思う海人の祭りハーリー会場の新川漁港(14) [石垣島だより]




18年前、最初に八重山に来たときに、八重山博物館を見学して強烈な印象を受けた。展示室の奥まったところには、古い南方海洋民俗史料が山のようにあったからである。そのなかには、独自の記号のような文字まであったと記憶している。
日本民族は、南方系と北方系、それに大陸系の混血で成り立ってきたとする説があるが、ここの展示物を見たときには、まったく異質の海洋民俗文化の息吹を間近に感じるような気さえしたものだった。
それから何年かして、何度目かの石垣島訪問の際に、改めてそれを見たいと思って博物館を訪れたところ、その部屋ごとなくなっていた。どうしたのか、どこへ消えたのか、確かめるのも忘れてぼう然として帰ってきた。
最近の地図では、宮良殿内の近くに、南嶋民俗資料館というのがあるので、そこへ移ったのかもしれないと訪ねてみたが、こちらはそれとは関連がなく、民政府時代に最初に八重山の知事を務めた吉野高善博士のコレクションが元になっている。建物も、宮良殿内の九代目の主の息子の屋敷を使っていて、展示物の多くは明治以降の民俗資料が中心のようであった。だが、そこでもやはり象形文字の存在は、記録として残っていた。
そうした連綿と続く海人(うみんちゅ)の流れを汲む石垣島の漁民たちの基地は、石垣港を挟んで東西に分かれている。東の登野城・八島漁港と、西の新川(あらかわ)漁港であるが、正式には石垣漁港と総称するらしい。
八重山漁協も、八島町のほうに支所をおき、新栄町のほうを本所としている。新川漁港では、新しく漁港の整備が進んでおり、使われなくなる古い船溜まりの一部で埋立てが行なわれていた。
きれいになった漁港は、港のなかでも海の色が美しい。
毎年夏のはじめに開かれるのが、豊漁を願う伝統の海の祭りで、ハーリー舟の競漕が行なわれるのも、ここ新川の港である。新川小学校のこどもたちから、チームをつくって参加するし、職域の対抗まであるらしい。伝統的なこれも“サバニ”というのとは違うのかどうか確かめていないが、長崎など各地にも同じような行事が点在している。
漁港から少し離れたところの小屋では、その舟の修復が行なわれていたが、新川漁港の岸に引き揚げられていた青い小さな漁船も、ハーリーのような面構えをしていた。面構えといえば、いかにも沖縄の人らしい顔というのは明らかにあって、新川あたりの港で働く男たちはいかにもそれらしい。
沖縄地方の魚は、赤や青や黄色の本土の人間にはなじみがない魚も多いが、八重山漁協では近海マグロが主らしい。
今年2012年の初セリでは、「総水揚げ4.75トンのうち近海魚398キロ、マグロ類1652キロが地元セリにかけられ、115万円余の販売実績を挙げた。マグロ船は4隻が入港し、キハダやビンナガなどを水揚げ。中には尖閣諸島周辺で漁獲された「尖閣マグロ」も登場。セリ人が「尖閣ブランド」と宣伝し、幾分高値で取引された。」と、1月5日の“日本最南端の新聞社:八重山毎日新聞オンライン”は報じていた。
昨年の7月には、安全操業を確保するため、八重山漁協所属の漁船約10隻が、尖閣諸島周辺で集団操業するため石垣港を出港したというニュースも伝えられた。これと関連していたのか、議員会館での「尖閣の魚を食す会」というのもあったりしたようだ。こういう動きには政治的利用の匂いがあったが、国境の海は常にそういう問題も抱えているという事実がある。
昔の海人は、小さな舟に乗って櫂をかき、国境もない南の海を島伝いにやってきた。この島に最初にやってきたのは、どんな人たちだったのだろう。
沖縄地方(2012/01/12 記)
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日本最南端・最西端の八重山の重要港湾である石垣港は国境の港でもある(13) [石垣島だより]





島にとって最も重要な課題である物資の運搬は、飛行機よりもはるかに一度に積載できる荷物の量が多い船に頼るところ大である。また言うまでもないことながら、歴史的にははるかに長く輸送は船に頼ってきた。石垣港は、八重山地域の物資集散の要として、今では重要な役割を担っている。
この港が歴史に登場し始めるのは、やはり明治以降のこと、といってよいのだろう。
八重山の開拓と同時に始まった石垣の港の役割と必要性と重要性は、明治初期に西表島で石炭の採掘が始まったことで、一段とクローズアップされ高まったともいえる。
NHKのドラマ『坂の上の雲』では省略されていたが、日本に近づいてくるバルチック艦隊を発見したのは、信濃丸より石垣島の漁民のほうが先だった。彼らはそれを本島に知らせるのに船を出すが、結果的に間に合わなかった。そのため、歴史に残ることもなかったが、司馬遼太郎の原作では、このことを書いている。その頃は、まだ港も舟もお粗末なものであったろう。
大正の末期になって、石垣港に初めて木造桟橋が建設されたという記録があるが、昭和11年に初めてコンクリ-トの桟橋ができた。その写真が、石垣市港湾部港湾課のページに残っているが、陸地から一本の長い桟橋が海に向かって伸びているだけであった。
そこでは、あわせて“昭和47年復帰当時の石垣港”、“昭和52年浜崎町地区造成中の石垣港”の航空写真が並べられている。
それをみると、復帰当時にはすでに美崎町の三角地帯と、それに隣り合う新栄町の造成も終わっている。浜崎町は、現在の石垣港の中心埠頭にあたる。
戦中戦後、琉球政府時代と本土復帰後を通じて、本格的な埠頭と港湾の本格的な整備が進められてきた結果、現在のような、1万トン級の貨客船が接岸可能なバ-スを備えることになる。
現在では、本土や沖縄本島からのフェリー航路が旅客の扱いが廃止され、貨物のみになっている。これは、航空機の影響だろうが、そのためフェリー埠頭からの旅客フェリーの定期運航は、与那国航路以外はなくなったようだ。
だが、石垣市では将来を見込んでか、国内外からの大型旅客船寄港にも対応できるよう、サザンゲートブリッジでつなぐ沖合には人工島ができ、整備を進めているようだ。この港付近は、トライアスロン世界大会の公式コースにもなっている。
この港で忘れていけないのは、中国ならびに台湾とのつながりである。
昔は石垣島と台湾を結ぶ船もあったし、中国と台湾の船による一時寄港利用も盛んに行なわれ、港内や港外に中国船が錨を下ろしていたものだが、それは中国と台湾の関係が微妙に変化してきた今では、もう意味もなくなっているのだろうか。
日本最南端・最西端の八重山の重要港湾は、国境の港でもある。

家々の玄関のうえには日の丸のついた正月飾りがあるのを見ると…(12) [石垣島だより]




今日の本題の前に、一昨日の「ユーグレナモール」の項(10)について、新情報があったので追加。モールの入口にある大きな看板(肝心のモールの名前があるにはあるけれど目立たない)の絵は、沖縄出身のアーティストpokke104さんと島のこどもたちが共同制作したものだという。
お正月に来たことも二度くらいあって、最初は波照間島だったか、各戸の玄関口に飾られているお正月の飾りを見て驚いた記憶がある。何に驚いたかといえば、その飾りについている結構大きな「日の丸」に、である。
今年のお正月は、いつの間にやら七草も過ぎたが、こちらではそういう風習はないのだろうか。だが、お正月を迎える飾りは、本土並みに盛んである。少ないけれど門松も、一応健在であった。また、まだ少ないけれど、本土で増えている、クリスマスリースのような丸い飾りをドアに付けている家もあった。
石垣島のお正月飾りは、大小はあるが一定の決まりでもあるかのように、ほとんど同じもので、本土のと違って、左右にしめ縄のしっぽのようなモノが長く延びて、御幣がぶらさがっている。波照間島で驚いたのと同じく、やはり「日の丸」があるが、こちらはこじんまりとだが、ちゃんと中央で二本ぶっちがい。
国旗を立てる代わりというわけではなかろうが、本土にはない(ないと思うが全部調べたわけではない)この日の丸には、なんとなく複雑な思いがしたのだ。
またしても、以下、でんでんむし流の揣摩憶測に過ぎない。
沖縄本島ではどうなのか知らないが、この日の丸には沖縄地方の人びとの、長く続いた本土復帰への熱い思いも込められてきたのではないだろうか。
もともとは琉球王朝をいただく独立国であったはずなのに、江戸時代の薩摩処分によっていわば薩摩藩の植民地同然の苦渋をなめ、明治新政府に引き継がれて日本人になったに過ぎない。また、太平洋戦争では本土を守る楯となって戦場と化し、多くの民間人が命を落とし、敗戦後はアメリカ軍の統治下に置かれてきた。今でも多くのアメリカ軍の基地が残ったままで、日本政府ならびに本土の人間は、基地を我慢すればカネを出すくらいのことしかしてこなかった。
本土では右翼の街宣車が大音量でが成り立てる軍歌とともに翻るか、オリンピックのときやワールドカップくらいしか、あまり出番がない日の丸を、こんな日本のハジッコで、毎年年の初めにこんなにたくさん掲げている人びとがいる。
それは、長い歴史のなかでの日本に対する意識、沖縄独特の複雑な国家意識の表われではないのか。日本人でありながら遠い祖国にさまざまな思いを馳せるのに似て、大きく膨らんだ憧憬と期待や、その他もろもろがあったのではないか。もっとも、この正月飾りをよく見れば、中央の赤い丸のところには「交通安全」「家内安全」「商売繁盛」と書かれた三枚の札もあるので、日の丸もそのついでに過ぎず、いわばまじないのようなもので、さほどに深い意味はないのかもしれぬ。
ともかく、本土復帰から40年も経つが、沖縄の人びとがその期待に反して味わってきたのは、日本という国家への不信ばかりではなかったのか。大和の支配になって以来、沖縄にとって、なにかひとつでもよいことがあっただろうか。
日本という国に対する幻滅は、もう頂点に近づいていることは確かで、このままだといつかこの飾りから日の丸が消える日がくるかもしれない。

やいま大通り(市役所通り)いそがずあせらずなんくるないさー(11) [石垣島だより]




石垣島の中心部を構成する市街地は、簡単に言えば港を中心とする東西方向に約5キロ、南北方向に約3キロくらいの範囲に限られている。東は八重山商工高校、西は新川川の幅で、北側はホテル日航八重山や八重山農林高校などがある産業道路が、そのエリアを画している。
民家が密集したこの地域を、縦横に道が張りめぐらされているが、なかで主要な横断道路は、港側から1号線、2号線、3号線、4号線、産業道路とあり、このうち1号線にあたる道が通常「やいま大通り」または「市役所通り」と呼ばれている。東はバイパスとしてつながった、国道390号線でもあるらしい。
これをまた縦断して南北に走る主な数本の道路と、何本もの細い道路が、港から徐々に坂を登りながら町の区画を区切っている。
石垣市役所は、本土の人口5万人前後の各自治体のド派手で豪華な市庁舎とは、まったく比較にもならないほど質素で簡素なもので、前庭に茂る大きな木の陰に隠れてしまう。この前を通る道が、いちばん広くて大きい主要幹線であり、同時にこの道から南側のほとんどが埋立地と考えてよかろう。
昔の、島の南岸の輪郭を示す道路なのだ。
ヤエヤマヤシなど南国ムードを象徴する街路樹が植えられ、歩道には琉球石灰岩の石畳が敷かれている。
この通りに面したいくつかのホテルに泊まったこともあるし、離島ターミナルやバスセンターに近いので、観光客がうろうろする道でもあるが、それはほかにうろうろする場所もないからに過ぎない。
しかし、この大通りも730交差点から東に、市役所前から西に外れると、もう店もなにもなくなってしまい、うろうろもできなくなってしまうのだ。狭い島の狭い道では、車も軽自動車が圧倒的に多く、のんびりと走っているように思えるのは、気のせいばかりではない。
よく、“ここでは島時間が流れている”という。島の人は、時間にルーズであるとか、あまり細かい約束など気にしないと、本土からやってきた人間が感じたところから言われはじめたらしい。実際、そう思うことも、まま体験する。今回も、まずそんなこともあった。
その歩道の植え込みのなかに、こんな看板を発見!
まったく、おっしゃるとおりであります。
この精神を学ばなければならない。
市役所はボロでも、道路は狭くても、繁華街なんかなくても…。
「なんくるないさー」。

ここが商店街では初の命名権委譲が行なわれた“最南端の商店街”ですが(10) [石垣島だより]



石垣島でいちばんの中心街・繁華街といえば、730交差点というよりも「ユーグレナモール」でしょうが…という意見もあるだろう。
730交差点からさんばし通りを北へ少し行った郵便局のところを左に折れた先に、二本の同じような商店街が並んで通っている。
これが石垣島唯一のアーケード街であり、商店街なのだが、その長さはわずか150メートルほどしかないので、あっという間もなく通り抜けてしまう。もう一方のほうの通りを引き返してみても、やはり同じような店が並んでいて、見分けがつかない。
その二本の通りに挟まれるようにして、中央にあるのが、石垣市公設市場である。観光ガイドブックなどでは必ずイチオシで紹介されるのは、ここが単なる生鮮食料品市場だけでなく、2階に石垣島の土産物がまとまっている特産品センターがあるからだろう。
しかし、ちょっとまてよ!? ここは確か「あやぱにモール」という名前ではなかったのか?
記憶に間違いはない。以前はそういう名前だった、この“国内最南端の商店街”の名前が、「ユーグレナモール」になったのは、2010年に東京に本社がある株式会社ユーグレナに命名権譲渡をしたから、というわけである。
“最南端の命名権譲渡”、“沖縄県初の命名権委譲”、“商店街では日本で初の命名権委譲”である。
「あやぱに」とは、八重山民謡の歌詞にある鳥の羽根のことらしいが、しからば「ユーグレナ」とはなんぞや?
調べてみたら、それはなんと「ミドリムシ」だという。この会社は、ミドリムシの特性を活かした健康食品や化粧品などを製造販売している会社なのである。
でも、なぜ石垣島なの? わざわざこんなところの商店街の命名権なの?
それで考えてみれば、なるほど石垣島にはクロレラの工場もあるくらいだから、ミドリムシの培養に適しているとか…?
島のどこかに工場でもあるのかしらんと、会社のページを見てみたが、そんなことはどこにも書いてない。
もともと、ムリして借金してつくったアーケードが負担になって、財政状況をなんとか改善したいという組合と、イメージづくりに使いたい会社の思惑が一致したというわけだろう。会社では「ユーグレナ黒糖」や「ユーグレナちんすこう」も売り出しているが、それだけではねえ。
契約は2年間で、2012年の3月には期限がやってくるが、さて、そのあとは?
アーケードの柱に立てられた緑の旗は、今年の3月以降もはためいているのだろうか。
もっとも、市場に露店を出しているおばあも、買い物をする客も、「あやぱに」だろうが「ユーグレナ」だろうが、どっちだろうが関係なさそうである。本社が宮古島にあるフリーペーパーの観光ガイドなどは、去年の秋の発行物でも「あやぱに」と書いているくらいで、さほど浸透していないのかもしれない。
せっかくなら、組合にも会社にも、それなりのメリットがあればいいのだけれど…。

沖縄地方(2012/01/07 記)
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ここは「右から左になった日」を記念しているんだけどそれは車の走行ルールの話(09) [石垣島だより]




石垣島の中心部は、どこかといえば、海に近い端っこながら、やはりこの「730交差点」付近であろう。とくに繁華街といえる場所があるわけでもない島のなかでは、この港のすぐそばにある交差点が、交通の要衝ポイントで、島を訪れる人が必ず通らなければならない場所になっている。南北方向の桟橋通りと東西方向のやいま大通り(市役所通り)が交差するところ。
バス路線はすべて、この交差点を通らなければならない。また、先だっては、新空港開港までのカウントダウン開始のイベントも、ここで行なわれている。確かに“中心部”には違いないようだ。
なぜ、「730(ななさんまる)交差点」というのか。それは、沖縄県の道路の車両が右側通行から左側通行に切り替わった日、1978(昭和53)年の7月30日を記念したものだ。その記念碑がヤエヤマヤシとシーサーに囲まれて鎮座している。
沖縄県の本土復帰は、1972(昭和47)年なので、本土並みの右側通行になるまで6年かかったことになる。
初めて来たときには、四つ角には大きな土産物の店舗などがあったのだが、それも閉店し、目抜き通りに空地が目立っている。北東角の石垣グランドホテルは、チサンホテルと名前を変えている。
現在の離島ターミナルができる前は、この交差点の角の建物の間に、赤瓦の屋根を載せた電話ボックスがあり、そこを抜けると目の前に離島桟橋があって船が並んでいた。
もう電話ボックスもないし、昔の桟橋があったところでは、広範囲に囲いができ、そのなかでクレーンが立ち並び工事が進んでいる。
それなりににぎやかだった桟橋の通りに代わって、730交差点とターミナルを結ぶ通りに、飲食店や土産物屋、三線店などが軒を並べるようになっていた。
いずれにしても、ここしか中心部といえるところがないということが、現在の島の状況を象徴しているようにもみえる。

左から右へ揺れ動く民意のなかで混迷する八重山の教科書採択問題(08) [石垣島だより]

石垣島は、一つの島でまるごと一つの市という行政単位になっている。こういう例がほかにもあるのかどうか、すぐに思い至らない。だが、実はこれはもともとちょっと怪しいのだ。
というのは、尖閣諸島をどう考えるかで、とたんに“一島一市”になったりならなかったりしてしまうからだ。尖閣諸島は、行政区域としては今でも立派に「石垣市」なのである。
市議二人がこの島に上陸したとか、市長も行くとか行かないとかで話題になったこともある。
だが、今もっともホットでやっかいなモメている問題は、八重山地区の中学教科書選定問題であろう。本土のメディアでもかなり取りあげられたので、多少は知っていたが、なかなかことは複雑で、簡単に状況の一部始終を把握するのもむつかしい。
ただ、こういうことになることは、まったく予想できなかったわけではないのである。
2010年の石垣市長選挙で、保守派の中山義隆市長が当選し、それまで4期16年という長期にわたって続いてきた革新市政に幕が下ろされた。すべてはここから始まっている。
「生命どぅ宝」、「平和ほど尊いものはない」を座右の銘とした大濵前市長は、“沖縄の反戦平和”の柱のひとつでもあったのだが、長期政権のスキもウミもアキもあっただろうし、“パワハラ”で告発され、それがネットや右寄りメディアで散々に利用されたことも原因だろう。
まだ若くて元気のいい新市長は、自ら尖閣に上陸したいという人で、「将来は尖閣周辺をクルージングやトローリングもできる海にしたい」と言い、おおいに喜んだ産経新聞は、「尖閣上陸宣言」「実効支配に動き始めた石垣市」などと書き立てていた。
右派や右寄りのメディア、それらを信奉する人びとにとっては、この市長交代は沖縄というそれまで手出しができなかった“反戦平和の牙城”を切り崩すために打ち込まれた、強力なクサビであった。
あとは、これを叩き続ければ、堅い岩も砕くことができる…。
右寄り市長に選ばれた石垣市教育委員長が、右の人びとにとっては目の上のコブだった日教組の反戦教育をやり玉に上げてなんとかしたいと動き始めるのも当然のことで、今回はとりあえず公民教科書だけでも「新しい歴史教科書をつくる会」系(つくる会の内紛で分裂し、現在では自由社と育鵬社がある)の育鵬社版が選ばれれば、次に歴史教科書に手をつけるのは簡単なことだ。そのためには、議事録の改ざんをも辞さないという、強い決意のもとでやったことだ。強引な運営で、思惑通り地域としてはいったん公民は育鵬社と決まったかにみえた。
ところが、そう簡単にはいかなかったのは、竹富町の教育委員会がその総意として、育鵬社版を拒否して東京書籍版を選択すると主張したからだ。しかも、昨年9月に開かれた改めて3市町村の全教育委員13人が4時間になんなんとする議論の末、多数決で育鵬社版を不採択とし、東京書籍版の採択を決めた。しかし、石垣市教育委員長などはこれが無効だという。このへんのいきさつが、本土の情報ではよくわからない。
教科書などそれぞれの教育委員会や教師が選べばいいと思うのだが、文部科学省は“一町一教科書”ではだめだから育鵬社版を使えという。教科書は八重山地区(石垣市、竹富町、与那国町)で、同じものを一括採択しなければならんという根拠薄弱なお役所的都合による規則をタテに、竹富町には無償配布をしないと言い出した。
ことは裁判沙汰に持ち込まれそうで、問題は越年したが、石垣市長のほうは自身の施政方針の半分が神奈川県小田原市の施政方針の文章からのパクリだったというので、当分それどころではない様子。
石垣市立図書館の前にある広い新栄公園の一角には、憲法第九条の条文が刻まれた石碑が立っている。本土では大江健三郎氏や故井上ひさしなどが尽力してきた“九条の会”も、さほど大きな力にはなっていない。日本で唯一地上戦を体験した沖縄ならではともみえる石碑も、このぶんではそのうち公園の改修工事とかが行なわれて、ついでに埋められたりしてしまうんじゃなかろうか。
そこから道路を挟んで隣にあるのは、あくまで東京書籍版をという竹富町の町役場。島だとなにかと不便と、石垣島の離島ターミナル近くに置いてあるのだ。

沖縄地方(2012/01/03 記)
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石垣市立図書館のリサイクルコーナーから古い歴史全集の本をもらってきた(07) [石垣島だより]




石垣市立図書館は、大変立派なすばらしい図書館である。石垣島に来て、所在ないときにはときどきここを訪れては、その空気を味わい、地元の新聞や資料などを見るのもおもしろい。
バスターミナルからちょっと北側の道には、“美崎大通り”という名前もついているのだが、どうも名前負けしているとしか思えないその通りを西に向かうと、前方に赤い大屋根が現われる。
これがその図書館なのだが、“岬めぐり”がメインのブログとしては、その前に「美崎」という名前を素通りするわけにはいかない。
消防署や市役所、それにホテルミヤヒラやバスターミナルや離島ターミナルがある三角形の地域に、美崎町という名が付いているのだが、この三角形は、元は名実ともに「岬」だったのではないか。
現在では、美崎町の三角形に接して、新栄町、浜崎町が続くが、これらも明らかな埋立地で、石垣港の港湾整備に合わせて造成されたものと考えられる。
図書館が建っているところは、浜崎町一丁目。
今回の石垣島訪問で、最初に泊まったベッセルホテル石垣島とバスターミナルの間にあるので、さっそく通りがかりに何度か寄ってみた。
すると、“本のリサイクルコーナー”というのがあって、大きなプラカゴに本がならべてあり、自由に持って行っていいという。そのカゴの中に歴史関係の講座全集のような本が何種類かある。全巻揃いではなく、番号が欠けているが、こういう昔の学問的知見の集大成は、部分的にでも資料的な価値がある。
係の人に尋ねてみると、市民でなくてもいいし、何冊持っていってもいいという。
こりゃ、ちょうどいい退屈凌ぎにもなろうというもの。
マンションに移ってから、改めてコロコロのキャリーバックを引いて、本をもらいに行ってきた。バッグに詰めて、バスターミナルから東運輸のバスに乗って持ち帰った本は、『岩波講座 日本歴史』のうち5巻(岩波書店1962年刊〜)、『岩波講座 世界歴史』のうち7巻(岩波書店1969年刊〜)、『大世界史』のうち中世史7巻(文藝春秋社1966年刊〜)の計19冊だった。ベランダの傘付き丸テーブルと椅子の使い道がまだないので、ちょっとエエ恰好して写真撮ってみた。
石垣島の新年は、ANAインターコンチネンタルリゾートの花火とともに明けた。今朝もまだ外は暗いが、2012年の最初の日…。Edward Hallett Carr の「歴史は現在と過去の対話である」という有名な名言を拳々服膺しながら、今年はこんな本から味わいながら読み始めることにしようか。

恒例にしたがって、三が日は駅伝も見ながら…ねっ! (↑写真のテレビ映像は2011/12/25の全国高校駅伝のもの)
沖縄地方(2012/01/01 記)
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もうひとつのターミナルは東運輸のバスターミナルで主要幹線は30分毎(06) [石垣島だより]




石垣島の周囲は139.22キロメートル、面積は228.64平方キロメートルで、島の形は北東から南西方向に斜めにした柄の長いでこぼこのフライパンのようである。もっとも、この喩えは、ほかに思いつかないので苦し紛れである。
琉球諸島のなかの島としては、沖縄本島がいちばん大きく、二番目が西表(いりおもて)島、それに次いで三番目に大きな島である石垣島島内の公共交通網としては、東(あずま)運輸というバス会社のバス路線がある。
そのバスターミナルが、石垣港離島ターミナルからほど近いところにある。これが、この島のもうひとつの重要なターミナルである。
日航ホテル経由で空港行きとANAのホテルを経由して空港へ行く路線は、もっぱら観光客と空港利用者のためであるが、島の東南海岸の人口密集地帯を白保まで走る生活路線や、島の北西部にある川平(かびら)へ行く西回りや、島の最北部の平久保方面へ向かう東回り路線などがある。
東運輸のバスは色とりどりのカラーリングがされた、古いタイプの車両を大事に使っているので、近頃都市部で流行りのICカードタッチ式はおろか、整理券方式さえも導入されていない。それどころか、停留所の案内表示も自動で表示が出るバスも少なく、運転手さんの音声案内に耳を傾けていなければ、降りる停留所もわからない。
おまけに、料金の案内も完備にはほど遠いので、乗るときにどこまでいくらかを聞いておくなど、乗るにはコツがいる。ターミナルから乗るときは、窓口で切符を買っておくことになっているが、途中から乗るときは料金は前払い。ドアは前と中程の二箇所あるが、もっぱら前乗り前降り。なかなか、慣れるまでは複雑で迷う。が、少々遠くのほうからのたのたやってくる乗客もちゃんと待って拾ってからいくし、バス停に間に合わなかった人もわざわざ停めて乗せてくれる。
本数は、白保線が30分に1本の割りでいちばん多いが、西回り、東回りなどは日に4〜5便しかないので、時間に追われる観光客にはきびしい。
でんでんむしも、来島二日目かに、島のショッピングセンターがあるところに行こうと思って、ターミナルの窓口のおねえさんに聞いたら、「それならちょうどよかったですね、15分後の白保行きに乗ってください」と言われた。
15分待つくらいが、この島では“ちょうどいい”のである。あせらず、いそがず、あわてず…。
沖縄地方(2011/12/31 記)
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八重山(やいま)の島々へは石垣港離島ターミナルから出る連絡船で(05) [石垣島だより]





石垣空港が八重山地域の空の玄関だとすれば、石垣港離島ターミナルは海の玄関となろう。周辺の離島への船による交通は、ほとんどすべてがここを中継点として各島々へ向かうことになる。
このターミナルができたのは2007(平成19)年という比較的最近のことで、それ以前はもっと手前のL字型になった岸壁に、それぞれの船会社が桟橋を延ばしたり、直接岸壁に舳先を着けて客を運んでいた。そこは、かつては離島桟橋とか、観光港などと呼ばれていたのだが、八重山列島への表玄関は、その当時と比べると様相を一変している。
お決まりの八重山風の赤瓦のターミナルからは、広いロビーを経て岸壁に向かってドアをくぐると、やはり赤瓦の浮き桟橋から、八重山観光フェリー、安栄観光、波照間海運、石垣島ドリーム観光それぞれの航路の連絡船に乗り込んで島へ向かう。
船会社のチケットブースには、それぞれが運行する島々の名前を掲示してあり、それを眺めるだけでも日本最南端に位置する南の島への憧れは膨らんでいきそうだ。
10の有人島と20近い無人島を総称して、八重山列島とか、八重山諸島とかいうが、これには北東に位置する宮古列島は含まず別扱いとなる。また、普通は「やえやま」だが、「八重山」と書いて、「やいま」と読ませることもある。
八重山列島と宮古列島を総称するときは、天気予報などでもよく使う「先島諸島」という呼名がある。
沖縄本島を加えれば、「琉球列島」となり、奄美諸島をも加えて、広く「南西諸島」ということもある。沖縄の本土復帰が遅れたこともあって、そのさらに遠くはずれにある八重山の島々は、久しく本土の日本人の意識にすらなかった、といっても過言ではなかった。
戦後もだいぶ経ってから、こどもだったでんでんむしなどは、「イリオモテヤマネコ」で初めて、沖縄からも遠く離れたこの付近に、こんな島々があることを知った。
だが、今では八重山の島々をめぐる観光ツアーは“八重山5島めぐり39,800円から”などと新聞広告を賑わし、これも大人気のようで、毎日多くの人がここから船に乗って出発していく。

沖縄地方(2011/12/29 記)
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ライト兄弟から108年、初めてここに降りたときから18年、もうあと2年だけがんばる石垣空港(04) [石垣島だより]






ライト兄弟のフライヤーが、キティホークの草原に浮かんだのは、今から108年前のことだった。有人動力飛行に世界で初めて成功してから、わずか1世紀の間に、これほど急激に進化した人間の発明品は、おそらくほかにないのではあるまいと、でんでんむしは思っている。
戦争の道具として進歩したという事実はあるにしても、空を飛びたいという人類の夢を、これほど見事に具現化し、しかも大衆化したものもない。そういう点も飛行機が好きな理由だが、なによりもいまだに「どうしてこんなものが自由に空を飛ぶのだろう?!」と、不思議で仕方がないからである。
初めて石垣空港に降り立ったのは、今から18年前のことで、その頃は南西航空という地方離島路線の飛行機に那覇空港で乗り換えてやってきた。那覇空港での乗継ぎも、ターミナルの端っこへバスで移動した記憶がある。主翼が機体の上部に付いている飛行機や、YS-11にも乗っていた記憶もあるが、やがてジェット時代になる。
南西航空はその後日本航空傘下に入ったので、石垣空港はしばらくはJAL(JTA)が独占していた。ANAは宮古島と、シマを棲み分けていた時代もあった。石垣空港は、その名残を残していて、昔からある建物はJAL専用、後から付け足した新しいほうの建物がANA専用となっている。
なじみがない人は、沖縄というと那覇くらいまではなんとか想像できるが、そこからまた1時間弱かけて南に飛んでこなければならない島は、なかなか遠い。
飛行機のタラップを降りた乗客は、徒歩でターミナルの出口へ向かっていた。最初のときも、コンクリートの照り返しと島の通常気温とがあわさって、ものすごく暑いところに来たという印象が強かった。雨の日などは短い距離でもバスで移動していたが、近頃では安全管理の面からか、晴れていてもバスである。
この旧式の空港も、あと2年で島の東部の白保地区に建設中の新空港へバトンタッチする予定だ。なにしろ、戦時中に海軍の飛行場としてつくられた滑走路は1500メートルしかないので、ジェット時代には暫定と特例でムリをしながら運用している空港なのだ。だから、新しい空港ができるまで設備投資はもう何年も停止しているため、いつまでも昔のままである。
フェリーというルートもあるにはあるが、なにしろ本土から遠く離れた離島のことで、空路がほとんど唯一といってもいい大動脈。現在でも変わらないと思うが、数年前まで離島地方空港全国50ほどある第三種空港のなかでは、石垣空港は乗降客数・貨物取扱量でトップであった。
以前は本土各地から石垣島への直行便もあったのだが、それも次々と廃止されてきた。今では那覇空港と結ぶ路線がメインで、それと宮古島、与那国島、多良間島、波照間島といった周辺の島を結んでいて、あと2年間は八重山地域の中心ターミナルであり続ける。

目的はあるようなないようなないようなあるような石垣島滞在中(03) [石垣島だより]




ホテルでは何十日も滞在するというわけにもいかないので、今回はマンスリーマンションをとりあえず30日借りることにしたのだが、それが空港の端のすぐそば。
飛行機が好きなので、ここなら毎日退屈しないだろう。なにしろ、部屋の窓の向うが滑走路の南端にあたるので、石垣空港に離着陸する飛行機が、いつも目の前を通っていく。
音がうるさいのではと、気にする向きもあろうが、電車のようにしょっちゅう轟音を響かせているわけでもないので、たいして気にならない。ときおりするジェット音は、南の島のゆったりとした時間の流れに、アクセントをつけてくれる。
日がな一日、何の予定もなく、ただのんびりと過ごすことは、最高の贅沢だが、半分はそれを期待もしているし、とくに差し迫った目的らしい目的があるというのでもない。
強いていえば、今回は島に慣れるのが目的のようなもので、島のあちこちにふらふらと出かけて、そこらをぶらぶら歩いてみるのもよかろう。だが、岬めぐりは既に石垣島に関してはひととおり終わっている。周辺の離島にも、まだ今のところは行く予定もない。
例によって公共交通機関が頼りなので、あまり島のはずれで不便すぎても困る。適当に町で適当に田舎、そんな条件には合っているかもしれんわけで…。
石垣市の中心街は島の南西部海岸沿いの比較的平坦な地域に限られている(02) [石垣島だより]



石垣市は、日本の最南端に位置する市である。人口は5万人を少し切っているが、その大多数は島の南西部にあたる海岸沿いにある平坦地に集中しているといってよかろう。それには、この島の開拓の歴史からもわかるように、当初はこの付近だけしか、人が住める場所がなかったことがある。中心の於茂登岳はじめ、いくつかの山地に向かってゆるやかな傾斜が続き、徐々に標高が上がっていくが、山地や島の北部では、かつてはマラリアが猛威を振るっていたという。
人が住める地域だったところが市街地になり、今ではそこには、漁港があり、周辺離島を結ぶ連絡船が発着する観光港があり、市役所を始め各種官公庁の出先機関や、商店街などを中心として、人家や建物が密集している。
市街地の建物は、ブロックなどの四角い形のものが多く、観光写真にあるような赤い屋根に白いしっくい、シーサーを乗せた屋根が石垣に囲まれているといった家は、探すのがむつかしい。
中心から少し離れたところで、目立っているのは山側の四角いホテル日航八重山と、海側で階段状のANAインターコンチネンタル石垣リゾートである。
昔は、石垣島のホテルといえば、このふたつが双璧だった。どちらにも泊まっているが、ちょっと高級志向。前回は離島ターミナルやバスターミナルにも近い、老舗のホテルミヤヒラに泊まっているので、今回は節約志向でこの中心街の港周辺にも急速に増えてきた、気軽に利用できるヴェッセルホテル石垣島を選んだ。石垣市街地の写真は、このホテル最上階の部屋から撮ったもの。
朝食付きの、なかなかリーズナブルで気持ちのよいホテルであったが、浜崎町という港の岸壁に近い立地は、ダイビングツアーなどマリンレジャーを楽しみたい観光客向けに人気のようである。

そこに2泊して、それから空港近くのマンスリーマンションに移る。












番外:大津波が襲った東日本太平洋沿岸の岬に思いを込めて(『岬めぐり』既掲載分リスト)





