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なんとかかんとか復活しつつあるのかデイゴも咲くうりずんの頃(55) [石垣島だより]

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 THE BOOMの「島唄」の歌詞で、初めて知ったという人も多いのだろう。デイゴは、沖縄県の県の花になっている。本土のサクラと対称されることも多いが、当然ながらまったく違う。
 このデイゴの花が、近年非常に花付きが悪くなっていた。害虫のせいである。その害虫は、台湾などから飛んで来て住み着いてしまったデイゴヒメコバチで、その被害は拡大する一方であった。この虫がつくと、デイゴの葉や幹に産卵するので、虫こぶをつくったり花がつかなくなる。最悪の場合は木を弱らせて枯らすこともあるという。
 とくに台湾に近い石垣島では深刻な事態になっていて、薬を打ったり散布したり捕獲かごをつけたり、さまざまな対策がとられてきた。
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 何年かそういう努力を続けてきた効果が、やっと出始めた…ということなのだろうか。
 今年は、あちこちで花が咲いているのを見かけた。
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 真栄里のゴルフコースにも、何本ものデイゴがある。そのうち数本にはまだ弱々しいながら、一生懸命花を咲かせている。
 なかなか派手な花だが、花びらは半月形二つ折りが房状に集まっている。マメ科の植物だと聞けば、なにか花もマメの花に似ているような…。色も深紅なので、これが木いっぱいに咲くと、それはそれは見事なものである。
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 いつだったか、それこそ那覇のハーバービューに泊まって首里城に行ったときに、城壁の下で満開のデイゴの大木を見て感激した。
 だが、デイゴはサクラと違って、ずいぶん神経質そうなのだ。
 サクラはどこでもどの木でも、咲く時期になるとまず必ず咲いてくれるが、デイゴはそうはいかない。
 木によって、咲いたり咲かなかったりする。年によって咲いたり咲かなかったりする。
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 そういえば、同じ時期でも木によって、葉っぱが多いのやら少ないのやら、まるでないのやら、まったく同じ種類の木とも思えないくらいまちまちなのだ。
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 これだと、いたるところ群れになってデイゴの満開などという風景は、あまり期待できないことになる。
 沖縄では、立春から梅雨入りまでの間を「うりずん」という。“潤い始める”という意味らしい。おなじみのハイビスカスやブーゲンビリアなどは、冬でも咲いているが、とにかく本土ではみたことがない名前もわからない花々が、デイゴだけでなくさまざまな花が咲き乱れる。
 だが、連休に入る前に石垣島は大雨に襲われたらしいので、もう梅雨の気配なのか…。
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島いちばんの高級ホテルはANAインターコンチネンタルホテルで…(54)(シーズン3) [石垣島だより]

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 マエサトビーチからモンパノキの帯を越えたところにある白亜の階段状の建物が、ANAインターコンチネンタルホテルである。ここにもこれまで何度か泊まっているので、今回はその隣り(といっても建物と建物の間は300メートル以上も離れている)にある安いホテルにした。
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 お茶でもと思って、久し振りに中に入ってみたら、だいぶ中の様子が変わっているような気がした。レストランの名前は変わっていないようだが、ディナーだけで、カフェは午後2時からだし、ランチがとれるところもひとつのみになっている。ロビーも落ち着けるところがない。
 このホテルは、石垣島ではまず一番高級なホテルであるが、名前も微妙に変わってきているので、ホテルの経営なども外見からはわからないいろいろがあるのだろうと推察できる。
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 インターコンチネンタルホテルは世界各地にあるようだし、東京にも数か所あるが、「ANA」がついているのは少ない。那覇のハーバービューにも泊まったことがあるが、そこも最近の名前は「ANAクラウンプラザホテル沖縄ハーバービュー」となっている。
 なかなかややこしそうだが、ここ石垣島では「ANAインターコンチネンタル石垣リゾート」と「リゾート」がついている。広い内庭にはプールも結婚式用の教会もある。ちょうど、式を終えたらしいカップルが、ビーチで記念撮影などしていた。温泉ではないが大浴場スパの施設もあって、これがなかなかうまくできていた。
 ANAというだけあって、いかにもパイロットという格好をした人が大きな荷物といっしょにロビーで待っていた。JALのほうは別に日航ホテルがある。
 新空港と離島桟橋のあいだを結んで、路線バスが二系統走っているが、そのうちのひとつの路線が、このホテルの玄関前を停留所のひとつとしている。が、路線バスでここに出入りする人は少ないようだ。
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 確か、記憶ではタワーウイングの西に隣接しているコーラルウイングは、昔はサンコーストという別のホテルだったのを、糾合したような感じだった。料金もいくらか差がある。
 料金といえば、こうした高級ホテルの料金には、ずいぶんふしぎな感覚があるもので、生活感が狂ってしまうのだ。
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 ただひとつ開いていたところで、飲み物を入れると3,000円に近いビーフカレーをいただいてきた。ビュッフェスタイルのほうが安いくらいだったが、この頃はなんでもどこでもバイキング形式なので飽きているし、自分で取りに行くのがめんどくさいので…。
 さすがにお肉はおいしかったけど、
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 思えば、ここに泊まっていた時分は、それなりバブルであった。
 もう、ここには泊まれんよなあ、という正直な感想を新たにしつつ、また隣のゴルフコースの端へ。やっぱり、ぼんやりするにはここがいちばんだな。
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モンパノキやアダンなど亜熱帯の植物が海岸線を長く緑の帯で縁取る(53)(シーズン3) [石垣島だより]

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 石垣島の海岸の砂は、多くはサンゴの死骸が細かく砕かれてできたものである。砕かれ具合も場所によってかなり違い、白保などの海岸では砂というよりサンゴの塊の石で埋まっている。
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 真栄里では人工砂浜以外のところでも、細か目の砂が多く、そこにはハマヒルガオのような小さな朝顔状の花をつけた植物が蔓を伸ばし、砂に根を張ろうとしている。砂浜も上のほうにはこうした植物がいろいろ砂とせめぎ合っている。
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 その上は、密集した植生が緑の堤防のようになって、海岸と陸地の境界線をつくっている。この緑の帯はさまざまな植物が繁茂していて、簡単にそのなかに分け入っていくことはできない。
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 そのなかで、いちばん幅を利かせている植物は、どうやらモンパノキやアダンなどの亜熱帯の植物のようである。
 モンパノキは、沖縄ではどの島でも普通にそこらじゅうでよく見られる木であるが、風や潮にも強いので海岸線によく自生している。防風林として植えられることもあるようだ。大きいのになると高木になるが、そこらの海岸にあるのは風のためか低く茂っている。
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 多肉質の葉っぱに特徴があり、表裏に細かい毛が密生している。この葉っぱを天ぷらにして食べるという人もあるらしいが、あまり食習慣として広がっていないところをみると、さほどおいしいものではなさそうだ。
 木の葉の手触りの感触から、その名がついた。漢字で書くと「紋羽の木」となるが、「紋羽」はビロードだという説明がネットでは多く使われているが、本当だろうか。どうもそれも、決めつけるだけの材料は乏しいのであやしいのではないか。ビロード、コールテン、ベルベット、別珍…。実は区別がよくわからない。
 国語辞典では、紋羽二重(もんはぶたえ)というのがあって、高級生地の羽二重に紋を浮かせた一級品の生地であるとか、ネルのように柔らかく起毛させた綿織物のことをいうとしている。紋羽は足袋裏や肌着などに用いられたというし、地質が粗いというので、ビロードとはちょっと違うような…。
 ともかく、その葉からついた名のほかに、ハマムラサキノキ(浜紫の木)という別名もある。
 海岸を歩いていると、とにかく暑い。日陰が恋しくなって、このモンパノキの下にもぐり込んで一休みすると、こんな感じ。
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 だいたいにねじ曲がった枝振りになるので、高木でもあまり建材向きではないようだが、軽くて柔らかい木質なので加工しやすく、もともと材木が少ない沖縄地方では貴重な木材になってきたようだ。
 それで思い出したぞ。
 初めてやってきた八重山で、初めて訪問した波照間島で、「モンパの木」という店に立ちよった。そこで、この木を組み合わせて作った枕(のようなもの)を買ってきたんだった。
 あれは、どこへいったのだろう? もう、とっくに片付けられてしまったのだろうか。
 そうそう。最近ではこの木の小さいのを観葉植物として通販などで売っているらしい。
 それでもうひとつ思い出したのは、でんでんむしも、最初にきたときに、やはりそこらに生えていたクワズイモを見て、これを鉢植えにして銀座のインテリアショップで売れば売れるだろうと思った。モンテスラなどによく似ているし…。
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マエサトビーチは人工の砂浜で干潟もほとんど生物がいないのでちょっと淋しい…(52)(シーズン3) [石垣島だより]

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 「珊瑚礁」という響きには、深い憧れがある。多くの人がそうではないだろうか。石垣島はそのぐるりをほとんど全部、珊瑚礁で取り巻かれている。
 だが、通常はそれは遠くの水平線の手前のリーフに砕ける波が白い帯となって見えているだけで、そこへ行くには船でもチャーターしないと行くことはできない。
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 島には、砂浜のきれいなビーチがあちこちにたくさんあるが、海水浴場など観光行楽施設としてあげられるところは、川平や底地、フサキや米原など数か所があるだけだ。
 マエサトビーチもそのひとつなのだが、ほかと違ってここはどうやら人工の砂浜らしい。ANAのホテルができるときに、あわせて整備されたのかもしれないが、ホテルのビーチ施設がある。
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 公の海岸なので、ホテルが独占するわけでもなく、ただ一本のビーチへの入口からは誰でも自由に出入りすることができる。ホテルの宿泊者用にはパラソルやビーチタオルなどの便宜も図られているが、宿泊者でなくとも料金さえ払えばすべてのサービスを利用できる。
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 木陰のない砂浜では、ビーチパラソルが必需品だ。直接日が当たらなくても日に焼ける。いちおう日焼け止めは塗っていたが、足に塗るのを忘れていたので、足の皮はむけてしまった。
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 このビーチは、珊瑚礁の内側海岸の一部を二本の石積み堤防で囲い、そのなかの岩を除いて砂を入れたものだろう。
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 その石積み堤防の外側は、ビーチ造成前の真栄里の海岸であった、その昔のままの様子を示している。珊瑚礁のなかはラグーン(礁湖)と呼ばれる。石垣島の周囲を取り巻くラグーンは、見た目にはいわゆるエメラルドグリーンの浅い海面が広がっている。
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 「珊瑚礁」のなかの広くて平らな浅瀬は、そのほとんどが琉球石灰岩の岩だなで覆われている。干潟には緑の海藻があり、浅いポンド(潮だまり)もたくさんあるが、一般的に想像される干潟の楽しさは、残念ながらここにはない。
 なぜか、生物・生命というものがほとんど眼につかないからである。
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 瀬戸内海で過ごした人にはよくわかるだろうが、普通干潟や潮だまりといえば何種類もの小魚や貝類や海藻類や、ヒトデや海鼠やウミウシなどなど、たくさんの生物であふれかえっている。
 場所にもよるのだろうから、いちがいに決めつけることはできないだろう。あるいはまた、珊瑚礁のリーフ近くまで行けば、もっと事情は変わるのであろう。が、瀬戸内海や三浦半島のそれから比べると、石垣島の海岸の干潟は淋しい。
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 ちょうど引き潮の磯でわずかに見つけた生物は、体中に藻のようなものをくっつけた小さなカニと、三本の長い角を出しているイソギンチャクの仲間のようなものくらいであった。
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 ビーチの西は八島の港湾に続き、東には原発をもたない唯一の電力会社沖縄電力の塔があり、その先は大浜の海岸につながっている。
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南北に10キロも続く真栄里という地域の南の端っこに日陰を求め(51)(シーズン3) [石垣島だより]

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 初めて石垣島へやってきて、10日ほどかけて八重山の島々をめぐったのは、1992〜3年のことだった。ちょうど30数年勤めた会社を辞めて、初めてまとまった時間が自由になったときで、さあどこへ行こう、というときに迷わず選んだのが八重山だった。
 以来、八重山とはふしぎな縁ができて、何度か行っているが、八重山の岬めぐりもひととおり終わっているので、今回は短期滞在。
 旧空港に近くても何のメリットもないが、まだ泊まったことがない真栄里(まえさと)のホテルにした。
 真栄里というのは、石垣島の地域名のひとつで、島の南端部にその中心がある。もう古い話になった甲子園出場で話題になった八重山商工がある付近から、珊瑚礁の海岸に沿って東に、マックスバリューもサンエーもしまむらもメイクマンもと、大型ショッピングセンターが集まるところやゴルフ場やANAのホテルがある地域である。
 ここにはマックやミスドもあるし、TSUTAYAもある。その並びには沖縄県庁の八重山支所や刑務所まであるのだ。だが、マックにミスドがあっても、本土の地方都市にあるような街並みを想像してくると、その印象はずいぶん違うだろう。
 そこから北へ行くと、旧空港跡地が広がり、そこから北はほとんど牧場と田畑、あるいは未利用地ばかりとなる。途中には三和(みわ)や於茂登(おもと)といった集落を細くなってつなぎながら、真栄里はついに於茂登岳まで達するのである。
 標高526メートルの於茂登岳は、石垣島の最高点であるばかりでなく、沖縄県の最高峰でもあるが、そのてっぺんに近いところまで、真栄里という地域は広がっている。
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 あんまりふしぎでおもしろいので、前にも書いた記憶があるが、石垣島の地域分けはこの於茂登岳から放射状に広がっている。それは全部ではなく、於茂登岳の山頂付近(これがまたおもしろいのだが、その頂点は山頂より北東に500メートルほどずれている)に集まってくるのは、真栄里のほか、時計回りに平得(ひらえ)、登野城(とのしろ)、名蔵(なぐら)、川平(かびら)、桴海(ふかい)の6地域だけなのだ。
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 その様子は、地図でなければわからないが、国土地理院ではだめなので、こういう場合はMapionのほうが役に立つ。なにしろその線引きときたら、「真栄里をなにがなんでも於茂登岳まで引っ張っていくぞ!」という、明確な意思がなければとうていできないような線の引き方をやっている。
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 これら6地域はどれもみな海岸線をかかえているので、於茂登岳から海岸までを取り込む境界線で仕切られている。その線引きは複雑にでこぼこしているが、各境界線が集まる山頂付近では、はっきりした直線で放射状なのだ。
 このような線引きができた理由としては、入会権などが想像できる。だが、まだこれの原因や歴史的ないきさつについては調べていない。調べようと思いながらそのままになっていた。
 だが、今回はもっぱらこの真栄里の海岸近くで、だらだらとすることにしていた。ほかの島へもどこへも行かない。島内もうろうろしない。真栄里だけで、それも海岸の付近だけ…。
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 4月の石垣島は、もう本土の真夏である。
 Tシャツ一枚に長目の半パンツにゾウリ、というスタイルでも、背中から照りつける太陽が焼き付くような感じがある。なので、あまりうろうろもできない。
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 もっぱら、ゴルフ場の端にある数本のデイゴなどの樹木がつくる日陰の、草の上に座り込んで、文庫本を読んで過ごす。こういうときも、やはり電子書籍よりは紙の本でしょう…。そう思うのは、もうでんでんむしも古い時代の人間になったから、だろうか。
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 真栄里といっても長く広いので、山頂付近からここ海岸までは10キロ以上も離れている。したがって、於茂登岳も遠くその頭を覗かせているだけである。
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短期集中連載『石垣島だより』 (シーズン2)項目リンクリスト(2014/01/20〜2012/02/18) [石垣島だより]

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      ↓こちらが(シーズン  2)

 石垣島の新しい空港はカーラ岳の南側で白保の海に近い盛山に(31) [石垣島だより]
 石垣島の中央運動公園で千葉ロッテマリーンズがキャンプイン(32)  [石垣島だより]
 赤い瓦の屋根と白いしっくいが妙にしっくりする八重山の家(33)  [石垣島だより]
 八重山の赤い寄棟屋根にはゴツゴツの石を野面積みした石垣が似合う(34)  [石垣島だより]
 ミサキの神の美崎御嶽をはじめ石垣島にもたくさんのうたきがそこらじゅうに(35) .. [石垣島だより]
 石敢當とは直進してくる魔モノ除けの装置だが似たようなモノが…(36)  [石垣島だより]
 島では街路樹が道の風情をかもしだし学校の校門花壇もすばらしいよ(37)  [石垣島だより]
 市役所や図書館や離島ターミナルのある埋立地には市民会館もあって(38)  [石垣島だより]
 大浜信泉記念館から亀甲墓まで飛び飛びながらつながっていくように(39)  [石垣島だより]
 思ひやる八重の汐々…石垣島の柳田国男の歌碑は三度目の正直でやっと“発見”..(40) [石垣島だより]
 また石垣島に戻ってきて今度は石垣島の情報についてのあれやこれやから(41) [石垣島だより]
 「わ印」の人には関係ないが石垣島のバス路線でとりあえず島内を周回できる..(42) [石垣島だより]
 名蔵アンパルは石垣島の自然のゆりかごラムサール条約指定の湿地で国指定の鳥..(43) [石垣島だより]
 石垣島の鍾乳洞は二つあるのかどうかを究明に現地へ行ってみたら(44) [石垣島だより]
 本土ではみんなが忘れている戦争の記憶を伝える沖縄でも異色の八重山平和祈..(45) [石垣島だより]
 戦争の記憶を伝える八重山戦争遺跡のひとつは石垣島測候所の壁で(46) [石垣島だより] 
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なぜか気になる日本の最西南端八重山の歴史そのポイントを改めて整理してみる(50) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]

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 「でんでんむしの岬めぐり」のサブテーマともいえるのが、「地図」である。岬をダシにしながらその国土地理院の各地域地図をあわせてつなげているのだが、そもそも八重山という地域に興味をいだいたのも、地図を通じてのことだった。
 中学生になってもらった、インクの香りもうれしい真新しい教科書のなかに、帝国書院の地図帳があった。これがうれしくて毎日それを広げて眺めていたのだが、日本周辺の地図をみていると、いろんなことに気がついてくる。アジア大陸の東の端では、およそ三つくらいの半円弧が北から南に連なっている。北はカムチャッカ半島から千島列島が目立たぬほど緩いカーブで北海道東部に達している。北海道から九州にかけての日本列島もまた、全体が弓なりになっていて、中央の関東から南に伊豆諸島と小笠原諸島が点々と帯を描く。その東の海は濃い青色で示された海溝の長い割れ目が切れ込む。
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 九州の南からは、またひとつ別の弧を描くように、南西諸島と呼ばれる奄美群島、沖縄諸島、宮古列島、八重山列島、そして尖閣諸島の島々が、台湾のそばまで続いている。この日本の南西の端っこにある島々とは、いったいどんなところなのだろう。
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 太古には大陸と地続きであったものが、地殻の変動と海進によって、弧状の島々が残されたといわれているが、八重山の場合は中新世の八重山層群がその基盤になっているらしい、と「1083 馬鼻崎] の項 で書いていた。中新世というのは、およそ2000万年〜1000万年頃の時代で、ちょうどその頃に日本海が拡大をしていた。
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 しかし、南西諸島で最も古い時代の地層には、もっともっと昔、約1億7000万年前の中生代ジュラ紀にできた地層というものがある。これが石垣島の北部にあるトムル崎付近にあるので、その名もトムル層という。ジュラ紀というのは、バンゲア大陸が分裂し、裸子植物が繁茂し、始祖鳥が現れておなじみの恐竜が跋扈を始める頃である。
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 人類が、いつ頃からこの島々に住み始めたのか、まではわからない。だが、日本でいちばん古い人骨が発見されているのが、この石垣島なのだ。これについてもあちこちでちょこちょこ書いたような気もするが、2010(平成22)年に、およそ2万年前(放射性炭素年代測定)の人骨が石垣空港の近く、竿根田原の洞窟からみつかっている。それまでは浜松の浜北が最古とされていた、日本最古記録を更新する発見だった。
 日本人の起源については、さまざまな説があるが、柳田国男は『海上の道』で南方渡来の可能性を示し て注目され、南方起源説は今も有力なひとつの見方となっているといってよいだろう。
 縄文時代も弥生時代もなかった、といってもいいのだろう。先島諸島では約2500年前から無土器文化といわれるまだ謎の多い時代が続いて いて、シャコガイ製の貝斧や石器や食物の調理に使う焼石などが発見されているところから、南方諸島との類似が際立っている。
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 その後に12〜15世紀頃に栄えたクスの時代を迎えると、主に台湾や大陸との間でスパイスや宝貝に陶磁器などの交易も盛んになり、石垣島大浜を本拠としていたオヤケアカハチ 、石垣周辺の長田大主、川平の仲間満慶山らが割拠する。オヤケアカハチは波照間島の生まれだが、その言い伝えによると、外国人との混血であったらしい。
 御嶽と真乙姥から大阿母の地位を託された多田屋オナリを中心とする八重山独特の南の海から神を迎える祭祀 も、琉球のキコエノオオキミの影響下に組み入れられ、琉球王朝の支配下に入ってからは、八重山の独立性は急速に失われていく。
 薩摩と幕府の琉球処分によって、過酷な重税とくびきにしばられた時代は、明和の大津波などの災害にも苦しめられつつ明治まで続く。
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 オヤケアカハチと同時代には、平久保半島にいた族長的な人物のもとで牛馬を数百頭も飼育していたという記録があるほど、牧場は古くから盛んで、山以外島のほとんどが牧場だったこともあったらしい。牧場でないところには、自生のサトウキビが生えていたが、首里王府からはサトウキビ栽培を禁じられていた八重山では、明治になってからやっと製糖用サトウキビ栽培が始まる。
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 そもそも、欽明推古の時代から始まったという暦が首里の王城で使用されるようになったのは15世紀であり(もっとも、これにはどうして中国から入らなかったのだろうという疑問がある)、鉄や製鉄技術が南西諸島にもたらされたのが鎌倉時代というから本土とはおよそ1世紀もの遅れがあったし、仏教寺院や神社が持ち込まれたのも18世紀になってから…。
 こうしてみると、自ずから本土とはまったく異なった日本が、ここにあったということがわかる。
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 八重山の歴史については、「石垣島だより(25)」 で先史時代を、「石垣島だより(30)」 では「捨て石とマラリアと強制移住は八重山の歴史を知るうえで重要なキーワード」だとして、ごく簡単なまとめをしていた。そこでもふれていた移住は、強制もその他も含めて、八重山の歴史とともにある。本島からの移住も後になると多くなるが、島じまの間での移住は常にあったようだ。それだけ、住み着くのには苦労を要した地域だったということができる。島の北部に目立っている野底岳というとんがり帽子の岩山にはマーペーという娘の悲恋話の伝説があるが、そもそもその恋人たちを引き裂いたのも強制移住だった。
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 捨て石については、明治に清国との交渉過程で八重山を清国に譲渡しようという案があったくらいで、琉球王府の過酷な人頭税などとともに、中央政府からは常にどうでもよいひどい扱いをされ続けてきて、その終わりに戦争マラリアも位置づけられる。
 八重山の人々のやさしさは、島の南西にある冨崎の唐人墓にからむ歴史のひとコマからも想像できるし、彼らがまた“西欧先進国”のしわざによって奴隷船のようなところに詰め込まれた中国人たちに同情するのも、自分たちのおかれてきた境涯ともまったく無関係ではなかったろう。
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 以前からここのことは“トウジンバカ”となにげなく呼んでいたが、バス停の名は“トウジンノハカ”となっていた。また勘ぐりだが、“トウジンバカ”では“唐人馬鹿”になるから「の」を入れたのではあるまいか。“トウジン”というのも、今で言うヘイトスピーチであった時代は、でんでんむしの古い記憶にもあるくらいである。使い道は、よく怒られたりするときに、「このトウジンが!」とか「お前はトウジンじゃのう」とか…。
 もちろん、この地域と中国大陸との関係は、さまざまに深い。
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 本土の人間にとっては、いくら八重山年表を見てもそれだけではなかなか全体像がわかりにくい。それらとあわせて、隙間をもう少し埋めてみようとして、あえてこれまでの記述との重複もありながら、いろいろな観点から眺めてみた。バラバラと書いてきたが、それらをつなぎあわせてみれば、なんとなくこの地域の特殊性も見えてくる。あんまし、整理にはなっていなかったけど…。
 いわゆる「日本歴史」の本とか年表とかを見て、いくらか知っていたとしても、そういう常識とはまったく隔絶している。事実、平安時代も戦国時代もなかったこの地域の歴史は、日本であって日本でなかったような、おまけに沖縄本島の琉球ともまた違う、そんな複雑な感想をこの作業を通じて呼び覚ますのである。
 そこがまた、さむがりやのでんでんむしは、どうしても南のほうに吸い寄せられるという事情とは、まったく別次元で、この地域に興味が増すのである。
 ここはいったいどんなところだろう。そんな興味はずっとあったので、結構長く勤めた会社を辞めてとりあえず自由になったとき、すぐに2週間くらいの計画を立てて、八重山へ出かけて行った。それが20数年も前の八重山初体験で、でんでんむしと八重山の縁は、そこから始まっている。

▼国土地理院 「地理院地図」
24.389609,123.832693
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dendenmushi.gif沖縄地方(2014/04 記)

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島の北西側にある川平湾は島を代表する観光地とはいうものの…(49) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]

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 石垣島のリゾートホテルは島の南部から西部にかけてと、あとはこの川平(かびら)の西部に限られている。宮古島南部のリゾートほど大規模ではなく、川平湾からは北西に突き出ている半島の北側にクラブメッド、その南の底地(すぐち)ビーチにはシーサイドホテルとシーマンズクラブという二つのホテルがあるくらいで、実におとなしいものだ。
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 それは、島の中心市街地からは北に遠く離れたところにあるという立地のせいもあるが、みやげ物屋や食べ物屋があるわけでもない、なにもないただ自然に囲まれた静かなところである。新空港ができてからは、空港から直接川平地区とをつなぐバス路線もできた。そのバスは、川平の湾を展望する川平公園からは、さらに北西に走ってこれらのホテルをめぐるようになっている。
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 川平公園は、さてここへ来て何をするか、何をみるかといえば、さして驚くようなこともなく、せいぜいが船底にガラスを張ったボートで浅い海底を眺めるくらいでしかない。
 まあ、黒真珠の養殖でも有名だというから、それでもおみやげに買いたいという人は別だが…。とはいうものの、この黒真珠、どこで養殖していてどこで売っているのか、まったく知らないことに気がついた。まあ、そこいらを歩いているぶんには、まったくわかりません。
 なにしろ、世界の真珠王であるあの御木本幸吉が、ここで真珠養殖に関わったくらいで、例の石垣測候所の岩崎所長も強力にプッシュしていたという経緯も歴史もある。
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 それでも、ほかにあまり行くところもない島を代表する観光ポイントではあるから、観光バスも「わ印」ナンバーの車もたいていは行く。従来、狭かった駐車場を広げる工事も終わって、そこからちょっと東へのぼると、写真で毎度おなじみの展望が広がる。
 川平湾には岬はない。湾だけでなく、川平地区全体でも、クラブメッドのある半島の西の先っちょ川平石崎が、ただひとつあるだけである。
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 この島の北東部は、ふぞろいのふたつの半島がある。地図表記はないが、仮に川平半島と崎枝半島と呼んでおくと、南側に4つの岬の出っ張りをもった崎枝の半島があり、そのほとんどが中央にある標高216メートルの屋良部岳の山地である。この半島と北の川平半島には川平石崎が飛び出し、これに抱かれるようにして崎枝湾が広がり、その北寄りの浜が底地ビーチである。
 川平の集落は、東側の川平湾に面したところにほぼ固まっている。
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 入江の出入り口付近に、いちばん大きな小島という名の島と、マジバナリ、ムクバナリのほか無名のこちらは小さい小島がいくつもあって、これが蓋をしているため、湾内は波も立たない。
 前回きたときに、川平湾とは反対側の底地ビーチにあるシーマンズクラブに泊まったことがある。それよりも前の段階で、すでに項目は立てているが、このときに撮った川平石崎と御神崎の写真も、ついでに紹介しておこう。
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 琉球王朝の支配に入る前の石垣島では、今の大浜地区にオヤケアカハチ、石垣地区には長田大主が勢力を張っていた。そして、島北部の川平地区は仲間満慶山という実力者の縄張りであったらしい。底地ビーチの南の端には、海岸のそばの崖に、いくつもの横穴が掘られたり、あるいは自然の岩の窪みなどを利用した霊廟地がある。それが仲間氏一族のものだった。
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 今回は、あえて公園から東の吉原集落まで歩いてみた。ちょうど川平湾をぐるりと半周するルートである。これで川平は主なところはだいたい歩いたことになる。
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▼国土地理院 「地理院地図」
24.452487, 124.14478
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宮良殿内と桃林寺と権現堂からかいまみえるものは八重山の歴史のポイント(48) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]

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 石垣島を訪れる観光客の多くは、やはり団体ツアー客なのだろうが、近頃では航空券とホテルだけがセットになった個人ツアーというべきようなものを利用する人も多いだろう。でんでんむしも、そういうのをよく利用してきた。
 で、そういう個人では、どこへ行くのも自由だが、どこへ行くかを自分で調べるなりして決めなければならない。石垣市の市街地・住宅地のなかにある宮良殿内や桃林寺・権現堂の周辺では、カメラと地図のようなものを手にした中高年の夫婦や一人旅の人をよく見かける。
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 観光バスは通り過ぎるが、やはり個人でぶらぶらするとなると、こんなとこしかないんだ。いやいや、「こんなとこしか」というのは誤解を招く。これらは、その気になってみると、なかなか八重山の歴史上重要なポイントでもあるので、素通りはしないほうがよいのである。
 宮良殿内は、でんでんむしも最初の石垣訪問時に一番に訪れた場所であった。桟橋から北へ向かう桟橋通りを少し上って、路地を左に入ったところにあるそこは、まずどう読むのかで観光客を悩ませる。だいたい八重山ではそういうことが多いが、地元の呼び方があるうえにそのほかの読み方が何通りかあったりする。「みやらどぅんち」がまあ一般的な呼び方といえるかもしれないが、「めーやらどぅぬじい」というのもあるし、200円払って中に入るとくれる紙には「めーらどぅぬず」としてある。
 このA4二つ折りの紙が、なかなかバカにならない内容のある資料なので、これさえちゃんと読んでおけば、こんな通りすがりの素人のよけいな解説などいらないのである。
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 きれいな石垣に開いた門をくぐってピーフンにあたり、左に曲がって行くと、以前はいつも縁先の隅におじいさんがひとり、小さな台を前にして座っていたものだが、まだ若めのおじさんに変わっている。名物じいさんも寄る年波で引退を余儀なくされたらしい。右手に入っていくと、琉球石灰岩を使いソテツやヤシまである南方的枯山水の庭がある。枯山水そのものは日本伝統の流れであろう。
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 この庭は国の名勝で、建物は1956(昭和31)年に琉球政府が重要文化財に指定し、1972(昭和47)年の本土復帰に伴って国の重要文化財になっている。
 「殿内」とは、首里王府時代に設けられた行政区(間切)の頭職(かしらしょく)の私邸で、この様式が首里の士族階級の屋敷の構えや様式を踏襲しているというので重文になっている。ところが、士族の屋敷も階級によって規格が定めてあったのだが、この頭職の家は首里王都の士族にのみ認められていた建材、間取り、赤瓦葺きなどの様式そのままに建てられた。王府からは分不相応な規則違反であるからと、建て替えの命令を何度も受けていたが、これに応じなかった。
 そうこうするうちに王府自体が危うくなりかけた、1875(明治8)年頃に強力な圧力があってやっと瓦葺きを茅葺きに変えたが、王府解体後にまた赤瓦に戻すなど、なかなかしぶとくがんばった。いわれるまで気が付かなかったが、この赤い屋根の勾配は、確かに少し急なようである。それも、茅葺きの上に瓦屋根を載せたからからだという。
 ところが、首里の王城も士族屋敷もすべてが戦火で灰燼に帰してしまったとあって、琉球王朝時代の士族屋敷の様式をそのまま今に伝えるものは、本島にはなく八重山のここだけになってしまった。皮肉にも中央の指示に反して辺境ががんばったおかげである。それが重文の意味というのがおもしろい。
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 桃林寺の建物のほうは比較的新しいものらしいが、津波で流されたり再建されたり修復されたりしてきた権現堂と桃林寺の仁王像は、やはり重要文化財になっている。
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 桃林寺と権現堂が意味するものは、いわば寺社における琉球処分の結果、八重山に初めて誕生したお寺と神社ということである。1614(慶長19)年に、実質的に琉球を間接支配する態勢に持ち込んでいた薩摩藩は、尚寧王に寺社の建立を“進言”した、と教育委員会の説明は言うが、この頃薩摩が琉球に要求することは、すべて“強要”だったのではないか。それが、琉球本島のみならず、八重山にまで及んでいた。
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 つまりは、薩摩が強要してこの寺社をつくらせるまでは、八重山にはお寺も神社もなかった、ということなのである。
 だって、琉球には独自の神様とそれを支えるシステムが、ちゃんと存在していたのだから、お寺も神社も必要なかったはずなのだ…。
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▼国土地理院 「地理院地図」
24.341217, 124.159844
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国際用語になっている“TSUNAMI”の力を伝える石垣島大浜の大津波石(47) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]

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 八重山で甚大な被害を出した明和の大津波については、遭難者慰霊碑を探しに行ったときの項目(石垣島だより 26)で書いていた。1771(明和8)年明和大地震の大津波が襲った石垣島では、壊滅的な大被害を受けたことは、そこで書いているとおりだが、遭難者慰霊碑の場所は、宮良の集落の北1.5キロにあたる、標高60メートルの畑の中の丘の上にあった。そのとき、津波石もあるとは聞いていた。だが、標高60メートルの慰霊碑のそばにごろごろとしている石は、津波石ではあるまい。その場所の特定と確認ができていなかった。
 そこで、今回はその津波石を改めて探しに行った。津波石とは、津波によって動かされ運ばれてきた石である。小石も当然運ばれてきただろうが、よほど大きなものでないとわざにそうは呼ばないだろう。石垣島には、そういうものがあちらこちらにいくつもあるらしいが、どこか代表的なやつを探してみればよかろう。
 その代表的なのが、大浜にあるらしい。
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 石垣島の南東部では、市街地と白保の間で大きく凹んだ湾がある。これが宮良湾で、それを挟んで東に宮良、西に大浜の集落がある。
 宮良湾にはヒルギ林の宮良川が流れ込み、フルストバル遺跡(石垣島だより 23)の丘 からも珊瑚礁が広がる浅い海面が見渡される。そこから南の海岸近くに降りてきたところが大浜で、ここにはオヤケアカハチの像や御嶽などがあることも前に(石垣島だより 21)で書いていた。
 大浜の津波石は、そのすぐ前にあった。
 これまで、その前を通っていたのに、気がつかなかった。情報がインプットされていなかったので、立て札でも立っていなければ見過ごしてしまう。そして、そこには立て札も案内もなかった。
 大浜小学校の南東に、デーンとある津波石は、木が大きく茂っていて、その根が岩の壁を抱え込むようにして伸びている。何メートルあるのか、その高さも木が覆っていてよくわからないほどだ。その周囲をめぐると、数十歩も必要である。
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 津波石の証拠としては、その周辺の土壌地質との連続性がないことがあるだろう。よそから運ばれてきた異質の石が、そこに根を生やしているのではなく浮いている必要がある。ここの石は、まさしく浮いている。
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 いったいどこから、何メートルくらい運ばれてきたのだろうか。大浜の海岸付近の珊瑚礁から切り離され、移動してきたものだろうという推測はできるが、海岸からこの場所までは、10メートルもの上り坂である。
 われわれは簡単に、“津波が運んできた”といい、“あっそう”と思うけれど、それに必要な膨大な力とエネルギーを考えてみると、それもにわかには信じがたくなるほどだ。
 津波といえば、小学校の教科書にあった、稲むらに火をつけて村人を高台に集めて救った庄屋の話で、初めてそれを理解したくらいである。そのときには、それを紹介したのが小泉八雲であったことなどは、知らずにいた。
 その話で、地震のあとに海の水が急速に沖に引き下がっていき、やがて大きな壁となって集落や田畑の上から覆いかぶさってきて、なにもかも根こそぎ持って行ってしまう…そういう状況は頭では理解したつもりでも、それがどういうものかは、日常生活からはやはり遠くにして過ごしてきた。“TSUNAMI”が国際用語として外国で通用していると聞いても、それは変わらなかった。
 それを一変させたのは、3.11以降に知ることができた、さまざまな情報による。チリ地震津波や奥尻島など、すでに体験していた人を除けば、日本人のほとんどがまず似たようなものだったろう。直接被災をこうむった人々の恐怖と悲しみと無念さも、その何十分の一くらいは、ともにすることもできよう。
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 宮良湾では、湾内のあちこちに、岩がばらまかれている。これらも津波石のようにみえる。おそらく、そうだろう。
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▼国土地理院 「地理院地図」
24.345853, 124.200266
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戦争の記憶を伝える八重山戦争遺跡のひとつは石垣島測候所の壁で(46) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]

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 西表島の岬めぐりで「日本最南端のバス停」のある南風見は、「1069 落水崎」の項 で書いていた。ここでちょっとふれていた、戦争マラリアの慰霊碑というのは「忘勿石」とその祈念碑の両方があるらしい。それは、波照間島から意味もなく移住させられ、故郷の島影が望める西表の南風見で、意味もなく苦しみ死んでいった人々たちの鎮魂のためと、後世にその悲劇を忘れないで伝え残そうというものだった。
 その1069項でも、「こんな美しいなにげない風景のなかにも、“戦争”の二文字が陰を落としている場所が多い」と書いていたように、八重山の戦争遺跡は34件もある。それは、八重山平和祈念館でもらってきたコピーに一覧にしてあって、地図にプロットしてあった。
 それらは慰霊碑や忠魂碑のほか、陣地や掩蔽壕、銃眼などの軍施設跡や部隊ごとの慰霊碑、避難壕として使われた洞窟といったものである。
 沖縄ではいまも「平和学習」というのがあって、こどもたちも八重山平和祈念館へやってくるらしい。
 一方、本土ではいまや昔通ってきた(「平和」というと「アカ」呼ばわりをされるような)道に、逆戻りし始めているような風潮さえも一部に感じられる。沖縄での住民の犠牲に、軍は関与していない責任はないという言説まであらわれる。原爆マンガは残虐でこどもに有害だと、市長や校長や教育委員会がこれを図書館から排除しようとする…。
 その沖縄の「平和学習」も、それを支えてきた教組などへの反発対抗勢力が徐々に声を大きくして力を増し始めていて、なかなか平和なままではいられない。八重山の教科書問題が起こったのも、先の石垣市長選挙では自民党が推す現職がまた勝ったのも、沖縄の新聞や朝日新聞への批判攻撃も、そうした流れの中にあるような気がする。
 石垣島の鍾乳洞に入っていたときに、逃げ場隠れ場のない沖縄で、人々がこうした洞窟に逃げ込まざるを得なかったことを、否応なく連想してしまった。アメリカ軍が撮影したフィルムで見た、洞窟の入口から中に向けて火炎放射器の炎が発射される場面が、鮮明に思い出される。
 琉球石灰岩の洞窟が数多くあったことが、結果的に沖縄の悲劇を拡大してしまったということは、考えられないことなのだろうか、とふと思う。
 石垣市立図書館前の公園に、憲法第第九条の碑があることや市長選挙や八重山教科書問題などについては、前の「石垣島だより「左から右へ揺れ動く民意のなかで混迷する八重山の教科書採択問題(08)」 でも触れていた。
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 第九条の碑もそのうち埋められてしまいました、といったことになるのでは…と心配もしていたが、保守市政のもとでもまだ無事である。先日来のニュースで、日本国憲法とそれを守ってきた日本国民にノーベル平和賞を申請するとかいったものがあった。それもいいアイデアかもね。だが、ノーベル賞のなかでも平和賞くらい権威と納得性に欠けるものはないんだけど…。だから、このアイデア、皮肉が効いてていいのか!
 戦争の放棄をうたう条文の大きな石碑の後ろを、平和のハトが支えているところから少し離れて、なにやら壁のようなものが立っている。
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 34か所の八重山戦争遺跡のリストにはなかった(ちょうど移設の狭間だったのか)が、これも戦争遺跡のひとつなのだ。台風進路の第一線の観測拠点であった、石垣測候所(気象台)の壁に残っていた弾痕。気象台の壁は米軍機や艦砲射撃による多数の弾痕を受け止めていたが、改修にともなってその一部をこの新栄公園に移設保存したのだという。
 不思議なことには、この壁が立っているだけで、なんの説明もない。この移設された壁は、まだ彈痕が少ないほうなのだが…。
 また、少し脱線するが、ここまできて前に書いていたこととの関連が明らかになってきた。石垣測候所といえば、(石垣島だより(40)シーズン2)の項 でふれた柳田国男とも関係があった。1921(大正10)年の柳田来島当時、石垣測候所の所長などに歓待されている。記録などにはその名前などくわしいことが残されていなかったが、それが岩崎卓爾のことであった。
 岩崎は、明治の末に新設された石垣島測候所の赴任して所長となり、以来亡くなるまでの40年間にわたって石垣島に住み、石垣島を愛した文化人であったのだ。一地方の名士の枠を超える活躍は、八重山地方の生物、民俗、歴史など広範に及び、多数の著書を残していた人だった。新発見の生物も多く、それらには「イワサキ」の名が冠してあるほどだ。
 それで、柳田国男が石垣島を訪れたとき、測候所所長自らがなにかと世話をやき、島を案内したであろうことが想像できる。おそらく、柳田の歌が「八重山新報」に載ったのも、その筋からであったろう。それにしては、岩崎のその情熱と思いは、柳田に伝わったのかどうか、彼の残したメモからみると岩崎の名もなく、残念ながらさほど関心を示していないように見受けられる。
 当時から石垣島測候所は、島のなかでも特別な存在であったと思われる。それを思わせる古い写真が(石垣島だより(38)シーズン2)の項 の喫茶「海坊主」店内の壁に飾ってあった。
 これをみると、やはり艦砲射撃の標的になるのは、これだけ目立っていればむりからぬことだ。
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 平和の鐘やら非核宣言の碑やら、ここにはいろいろあるのも、長く続いていた“革新市政”のおかげだったのかもしれないと思ったので、世代交代も計ることができないでまたまた“保守”に敗北した選挙結果をうけて、また中央では憲法を“改正”しようという動きが盛んである。やはり、これらが埋められてしまう可能性も、まるっきり杞憂とは言えないかも…。
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 水溜りも残る雨上がりの公園では、澄み切った青空のもと、ゲートボールに興じている年配者のグループがあった。この人たちは、戦争の記憶を残しているのだろうかどうだろうか。
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本土ではみんなが忘れている戦争の記憶を伝える沖縄でも異色の八重山平和祈念館(45) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]

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 近年では、70年近くも前に終わった戦争のことなど、誰もまったく気にもせず、みんなすっかり忘れ去ってしまっているようだ。だが、それは本土だけのことなのだ。
 沖縄では戦争の記憶はいまもなお風化することなく、いまも語られ、いまも伝えられ、いまも忘れられていない。
 空襲は東京だけでなく各地方都市までおよび、広島と長崎に原爆は落とされたが、戦場の第一線からは後方にあった“銃後”の本土と違って、凄惨な地上戦が展開された沖縄では、戦争は兵隊がするものではなく一般島民すべてがそれを体験した。この違いは相当に大きく、沖縄をめぐるさまざまな問題の底辺で、すべてかかわっているように思えてならない。
 沖縄本島では、多くの戦跡や慰霊の場や祈念館があるが、その代表的なものが摩文仁の沖縄県平和祈念資料館であろう。平和の礎(いしじ)や国立沖縄戦没者墓苑などを含む平和祈念公園のなかにあるそれと、石垣市新川の具志堅用高記念館の斜向かいにある八重山平和祈念館は姉妹関係にあるようだ。だが、その規模やメインテーマは大きく異る。
 八重山の歴史については「石垣島だより」の30「捨て石とマラリアと強制移住は八重山の歴史を知るうえで重要なキーワードになっている」で、ごく簡単なまとめ(戦争にも歴史にも沖縄にも、あまり関心がないという人向けの駆け足なので、ぜひ一読しておいてほしいのだが)をしていた。
 そこでもふれていたマラリアが、八重山の祈念館のほうでは主なテーマになる。
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 フィリピンなどから北上してきたアメリカ軍の艦船は、八重山・宮古の島々を艦砲射撃はしたというが上陸はせず、そのまま本島に向かった。最初のアメリカ軍上陸作戦の標的は慶良間島で、それが1945(昭和20)年の3月26日で、それから始まる約3か月にわたる沖縄戦では、膨大な数の砲弾と銃弾が打ち込まれた“鉄の暴風雨”のなかで、軍人と民間人合わせて約20万の死者を出し、島の地形も変わってしまった。
 その後、アメリカ軍が先島諸島にきたときは占領軍としてであり、上陸するのは宮古島が1945年の8月26日、石垣島が3日遅れの29日であった。
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 凄惨な沖縄戦からは取り残された形にはなったものの、実はそのとき八重山では食糧不足と栄養失調、それにマラリアによって数千人の犠牲者を出していたのである。とくにマラリアは、駐屯していた日本軍による完全な“軍災・人災”で、当地ではそれを「戦争マラリア」と呼んでいるが、本土ではほとんどの人がそれを知らないでいる。
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 当時、八重山の人口は31,701人だったが、このうち半数を超える16,884人がマラリアに罹患し、死亡者3,647人で人口の1割以上が犠牲になった。日本軍の命令によって住民が強制疎開させられたが、その移住先がマラリアの有病地帯であったためだ。
 戦術的にもほとんど意味がない強制疎開は、石垣島全地域、竹富村、与那国村で行なわれた。たとえば、石垣島登野城と大川の約6,200人あまりは、同じ島内の白水に追い立てられ、850余人の死者を出した。白水という地名は現在の地図ではみつからないが、バンナ岳を越えてさらに北へ於茂登岳の麓に入ったあたりのようだ。そこらもマラリア有病地帯だった。
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 また、波照間島では、全島民1,590人が西表島の南風見、古見、由布島へ移住させられ、1,587人(罹患率がもっとも高かった)がマラリアに苦しみ、そのうち477人が死亡している。
 祈念館で配布される白黒コピーの資料には、以下のような波照間での戦争マラリアについての聞き書きが抜粋されていた。
 
 日本の敗戦が濃厚となり、米軍の矛先が沖縄に向けられた1945年3月末のことです。波照間島では日本軍の作戦で、全住民に西表島への集団疎開が命令されました。
 その指揮は、軍の特務機関から学校の指導者として派遣されていた山下(偽名)という軍曹によってなされました。島民は、軍の命令直下で日ごろの態度を一変させ、住民の意見を無視して軍刀を振り回し、強制疎開を命令している山下の姿を見て驚きました。
 日本軍の内に秘められた真の恐ろしさを見せつけられたのです。
 日本軍は住民を疎開させる一方、西表島へ運べない牛馬や山羊などの家畜を、米軍の食料になるおそれがあるという名目で徴用し、自軍の食料として確保しました。のちに、波照間島住民への強制疎開は、日本軍のさしせまった食糧問題を解決するためにとられた作戦だった、といわれたゆえんです。
 
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 皮肉なことに、八重山の有病地帯で猛威をふるったマラリアを撲滅するために尽力してくれたのは、戦後施政権をもっていたアメリカ軍であった。そのおかげでマラリアは急激に収束に向かうが、その後また1955年頃に琉球政府が行なった移住政策によって息を吹き返そうとする。それもまたアメリカのウィラープランによって完全に撲滅されたのは、1960年代になってからだった。
 
▼国土地理院 「地理院地図」
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 こういうとき、なんも表記に愛想がない地理院地図はものたりない。市街地の地図はやはりZENRINソースのMapionに負けているのは残念だ。
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石垣島の鍾乳洞は二つあるのかどうかを究明に現地へ行ってみたら(44) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]

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 日本中に鍾乳洞はいくつあるのだろうか。統計的数字はどこにも出ていないらしいので、まだまだ調べが進んでいないのだろうか。地表からだけではわからない洞窟は、判明していないところが多くあるのだろう。鍾乳洞と岬が結びつくことはほとんどないので、これまでも番外で岩手県の龍泉洞を取り上げた くらいだ。
 “日本の主な鍾乳洞”として50ばかり挙げてあるリストのなかに、琉球石灰岩がその大層をなしている沖縄県では4つもの鍾乳洞があり、そのひとつが石垣島の鍾乳洞である。
 ところが石垣島には、鍾乳洞と名のつくものがふたつあるらしい。最初、地図で見たときにはそういう表示になっているものがいくつもあった。国土地理院の地図ではひとつのようになっているが、Yhoo!地図などは北側に建物と八重山鍾乳洞動植物園と、南に∴史跡マークつきの石垣島鍾乳洞と表記方法を変えて二つある。
 この真実がどうなっているのか、確認したい気持ちもあって、石垣市新川の鍾乳洞を訪ねて歩いてみた。
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 ホテル日航八重山の西を北へ伸びる県道208号線を、シード線を越えてゆくと、徐々にゆるやかな登りになる。サトウキビの刈り取りを機械でやっている畑の向こうには、海が見えてきて、竹富島が平べったく横たわる。
 道の前方北側にはバンナ岳と前勢岳の間を道が伸びていくが、看板が二つ並んでいるのが見えてきた。石垣島鍾乳洞は左への矢印があり、八重山鍾乳洞のほうは反対に右手を指している。やっぱり、二つは別々の鍾乳洞だった。
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 では、まず左へ進んで石垣島鍾乳洞へ。途中にはお墓や廃棄物の処理場などがあって、あまりよろしいとはいえないアプローチを進んで、やっと入場券売場に到達。そこから、竜宮城の楼門のような建物の下から洞窟へ降りて行く。
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 サンゴの海の堆積が石灰岩となり、それが地上に隆起して酸性に弱い炭酸カルシウムが雨水や地下水によって侵食されて生じる空洞に、二酸化炭素との化学反応で鍾乳石や石筍などができるという理屈は、なんとなくおぼろげながら理解できる。
 でんでんむしが初めて見た鍾乳洞は、広島のお隣山口県の秋芳洞であった。ここは、地上のカルスト台地の風景と相まって、なかなか強い印象を残したが、それからまた新発見が続いて、洞窟の規模は何倍にもなったらしい。
 石垣島鍾乳洞がいつ発見されたのか、その記録もわからないが、観光施設として営業を始めたのは1994(平成6)年だという。全長3200メートルは全国第7位で、鍾乳石の数は50万本(どのようにして数えたのだろう)で、石筍の数は日本一(いったい何個(何本か)なんだろう)だと自慢している。そのうちの660メートルが観光用に公開されている。
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 秋芳洞よりすごいのでは…と書いている人もあったが、確かに洞内いたるところに次々にあらわれる鍾乳石や石筍の群れはなかなか見事だ。
 観光鍾乳洞らしく、トトロだとか落ちないとか、さまざまなこじつけ石や岩があるなかに、石灰岩がサンゴの海の海底堆積からできたという証拠物件たる、シャコガイの化石というのもある。
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 鍾乳石と一口に言うが、みんなが知っている雫が垂れて重なってというドリップや、水の流れによるものや水蒸気のようなものからできるものもあるのだそうだ。そういう分類で鍾乳石を分けると30種類もあって、その全部の種類がここにはあるのだという。
 それこそ自慢できるではないか。30種類全部「→」とか「↓」でもつけて、教えてくれたらよかったのにね。…と思いました。
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 カルサイトという鉱物でできている鍾乳石は、もともとは無色透明なのだが、風化して赤茶色になり、これにさらにいろんなものがついて色がつくらしい。白く見える目立つのがあったが、これはカルサイトの小さな結晶が輝いているのだという説明もあった。
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 さて、今度はもうひとつの赤い看板の方へ。石垣島滞在中、毎朝の朝食時に飲んでいたマリア牛乳だったが、マリヤ牧場のサイロがあるところから広い一帯は八重山自然村というらしい。めったにバスが来ないバス停は、「自然村入口」だった。
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 なんやかんやとある動物園も植物園も、これが植物園?と思ってみるとがっかり感が大である。だがら、自然村という、なにもない自然の豊かな園地にきたと思うのがよい。
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 八重山鍾乳洞はその自然村の一部で、南のずっと外れに、竜神鍾乳洞という入口がある。照明も少ない大きな洞窟だが、石垣島鍾乳洞の後ではいささか慣れてしまって、インパクトに欠ける。
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 外へ出てみて、また改めて地図をみて気がついたのだが、要するに石垣島鍾乳洞も八重山鍾乳洞も、同じ洞窟のつながりになっているのだ。それを地上の所有権に従って分割しているようだ。
 地理院地図ではU字形の洞窟入口が、二箇所ほとんど接近して描かれていた。そういうことかぁ。

▼国土地理院 「地理院地図」
24.397522, 124.148185
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名蔵アンパルは石垣島の自然のゆりかごラムサール条約指定の湿地で国指定の鳥獣保護区で(43) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]

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 石垣島の西部海岸で大きく凹んでいるのが名蔵湾で、この湾奥にあるのが名蔵アンパルと呼ばれる湿地帯である。
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 湿地帯と言っても、日光や箱根にあるようなのではなく、一面マングローブの森が広がり、潮が満ちるとその裾まで海水が入り込んできて、潮が引くと砂と泥の干潟が広がる。なので、道もなく人が入り込む余地がほとんどない。
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 そのため、いわゆる観光地としてはあまり目立たない。川平湾に行く観光バスも、名蔵大橋を渡るときにちょっとだけスピードを落としはするが、それだけで通りすぎてしまう。
 橋の脇の駐車場に一時停車する「わ印」の人たちも、せいぜいが橋の欄干から眺めるだけである。
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 島の人は「アンパル」と呼び習わしているようで、地理院地図でもその表記になっている。その意味は「網張=あみをはる」というところからきたとされているが、正確なことはわからない。ラムサール条約でも「名蔵アンパル」と地名を冠して、場所の特定をしている。
 岬もないので、「岬めぐり」で項目を立てるわけにいかないが、入江の中に降りてみたり、アンパルの中にできるだけ接近してみようと考えた。
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 名蔵の集落はアンパルの中心からは1.5キロ以上東に引いていて、道路も大きく迂回している。そこから畑の中を突っ切って、アンパルの林に近づいて行く道はあるいは地図にもないルートがあるのかもしれないが、不用意に入り込むこともできそうにない。
 そこで、名蔵大橋を通る道路の脇から、橋の下に降りたり、入江の岸に降りる道を探ってみた。
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 しかし、そこからもアンパルの横っ腹を遠くに見るだけでは、どうも様子がよくわからない。
 せいぜい、ヤエヤマヒルギの幼木がちょろちょろとあるくらいだ。これらも、アンパルの林から引き潮に乗って流れついてきたのが、根を下ろし芽を出したものだろう。入江の南のほうには、そうしてできたようなかたまりがいくつも小島のように見えている。
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 アンパルの入江が海につながるのは、名蔵大橋の下の狭い水道だけだが、海に流れ出たヤエヤマヒルギの種が、名蔵湾の岸でも根を下ろしているところがある。
 名蔵大橋の北に設けられた駐車スペースには、大きな案内板が三つも建てられている。三つとも環境省那覇自然環境事務所のもので、これを全部読めば、名蔵アンパルについてはだいたいわかる。
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 そこはまた、「やいま村入口」というバス停になっている。アンパルに近づく方法として、これがあったな。
 八重山の古い民家を移築保存(大浜信泉の生家もある)している石垣やいま村は、観光バスのコースになっているが、ここからアンパルに降りることができるかもしれない。降りられないまでも、すぐ上から眺めることができるだろう。
 沖縄の民謡などを三線(さんしん)で生演奏している家に集まっている観光客を横目に、下る道を探して降りていく。誰もアンパルには興味がないらしく、人影はまったくない。
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 下まで降りると、木道より立派な通路が、林の中を水辺まで続いているが、その距離はあまり長くない。
 ここに行ったときはちょうど潮が引いていたので、木々の間の向こうの方に水面が見えるだけであったが、根方の砂泥の中にはマングローブの気根のようなものが、たくさんぽこぽことある。これがヒルギダマシか。
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 だが、カニもトビハゼも鳥も、生物らしいものは見えない。静かに、ただ時が過ぎていた。後で地図を見て検証してみると、この水面は名蔵川だった。
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 日本のラムサール条約湿地は、名蔵アンパルが指定された2005(平成17)年当時は36か所だったが、2012(平成24)年には46か所に増えている。
 そもそも、ラムサール条約とは、人間の生活を支える重要な生態系として、幅広く湿地の保全と湿地の「賢明な利用(Wise Use:ワイズユース)」を提唱し、そのために対話(情報交換等)、教育、参加、啓発活動(CEPA:Communication, Education, Participation and Awareness)を進めることを大切にしていこうという国際条約で、世界中の自然保護に大きな役割を担っている。
 「ラムサール」というのは、その湿地に関する条約(Convention on Wetlands)が採択された国際会議の開催地イランの都市の名なのである。
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 木道のそばには、こんな看板も…。環境省の看板にも同じようなものがあったが、これは名蔵に伝わる古謡「アンパルヌミダガーマユンタ」の歌詞と説明で、なんでもアンパルのさまざまなカニ(13種の名が出てくる)が、ヒダカガニの生年を祝うためにそれぞれいろんな係の役目を分担して負って、宴会を盛り上げる…という内容らしい。
 実に、おもしろい。こういう歌をつくって歌う人の心根のやさしさ、純朴さに胸を打たれる。地元の人が昔からこの湿地とともに生きてきたという証であろう。こういうのって、外国でも大受けするのではないかと思うけど…。
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▼国土地理院 「地理院地図」
24.397522, 124.148185
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dendenmushi.gif沖縄地方(2014/04 記)

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「わ印」の人には関係ないが石垣島のバス路線でとりあえず島内を周回できるようになった(42) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]

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 石垣島がいくら八重山の玄関だとしても、玄関に入っただけで帰ってしまうのももったいない。たいした観光ポイントはないとは言いながら、せっかくきたのならまあゆっくりしていってください。
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 旗を持った人について行けばいいツアーの人は別にして、フリーでくる観光客の場合、最近ではほとんどの人がレンタカーを利用するらしい。そのため、空港周辺にはレンタカー会社がひしめいているし、島の道路でも「わ」ナンバーの車がやたら多い。そういう「わ印」の人にも関係がないが、石垣島の路線バス事情について、若干の予備知識があると便利である。
 石垣島のバス会社は、東運輸ひとつだけ。「ひがし」ではなく「あずま」だが、ひとつしかないのでバス会社の名前を覚える必要もない。
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 そのバスターミナルが、美崎町の離島ターミナルの近くにある。すべての路線はここから出ているので、まずこの場所を把握し、できればすぐ一度行って、バスの時刻表を手に入れておくのがいい。
 なにしろ、各路線ともに本数は決して多いとは言えないから、バスを利用するつもりなら、時刻表とにらめっこである程度事前に計画を立てる必要があるのだ。行き当たりばったりはダメ。それだと行ったきりで帰れなくなったりしますよ。
 それから、運賃もたとえば空港からバスターミナルまでは520円で、その他の路線もそれなりであるから、全路線バス放題のフリーパスの活用を考えるべきであろう。1,000円の「1日フリーパス」と、2,000円の「みちくさフリーパス(5日間フリーパス)」があるので、たとえ3日でもみちくさのほうがトクである。
 上記二点を踏まえたうえで、路線バスでの石垣島めぐりのヒントとなるバス路線を眺めてみよう。なぜか、東運輸のホームページはガタガタである。そのなかから主な路線のルートマップを取り出しながらみてみよう。
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◎空港線 島の南東部の海岸を走る。これには市街地のコースが違う二系統があるので、注意。
[->>4系統 平得大浜白保経由空港線 
 従来の白保線が空港まで延長された、いわば島の幹線生活道路で、スーパーや病院などを経由して、ターミナルと空港の間を走る。
[->>10系統 日航八重山/ANAic経由空港線
 ホテル日航八重山やANAインターコンチネンタルホテルなどへ行く場合はこの系統。若干寄り道にはなるが準急もある。
◎川平リゾート線 
 島の西海岸をターミナルから川平公園、クラブメッド、石垣シーサイドホテル、シーマンズクラブまで行く。島南西部のホテルや冨崎や名蔵、崎枝を経由する。
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◎米原キャンプ場線 1日に二本だけ
 島の中央を縦断して北の海岸米原へ抜け、川平公園まで行く。米原ヤシ林へ行くには貴重な路線だが、なにせ本数が少ないので、これを使う計画には工夫がいる。
 なお、新空港の開港にともなって、この線は川平からまた米原→おもと→三和を経由して石垣空港まで延伸された。空港から川平へ直接アクセスできる路線になったわけである。
◎吉原線 1日に一本だけ
 名蔵まで海岸でなく内陸を走る。川平も経由して米原の西の吉原まで行くが、これも本数が少ないので、観光客向きではない。だが、鍾乳洞やヤイマ村に行くときには使えるかも。
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◎西回伊原間線 1日に一本だけ
 これも鍾乳洞やヤイマ村を経由して川平、米原からさらに北上して平久保の半島の付け根にあたる伊原間まで行く。西回一周線と合わせて使う。
◎西回一周線 平日は1日に二本だけで休日は一本だけ
 バスターミナルから川平→米原→伊原間までと、伊原間→白保→大浜→バスターミナルで、時計回りに一周りする。
◎東回一周線 1日に一本だけ
 しかも早朝なので、観光客は使えない。東回り一周線(下り便)というのが白保→伊原間へ行き、伊原間から川平経由でターミナルへが(上り便)らしい。
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◎平野線 1日に三本だけ
 島の東海岸を、平久保半島先端の平野まで行く。朝の便がなく一番がお昼前、最後の便は夕方なので、使い方がむずかしい。しかし、なにしろ島の最北端平久保灯台へ行くのはこれしかないので、他の路線と組み合わせてうまく利用すること。
 そのほか川原線というのもあるが、これはほとんど使えないので、ざっとこんなところが、石垣島の路線バス。
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 便利とはとてもいいがたいが、これでも新空港のお陰で路線とダイヤが大幅に変わった結果で、島を一周りできなかった従来とは大違いなのである。
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dendenmushi.gif沖縄地方(2014/04 記)

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また石垣島に戻ってきて今度は石垣島の情報についてのあれやこれやから(41) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]

 与那国島から、またRAC機で石垣島に戻ってきた。石垣と与那国の間はフェリーも運行しているのだが、これだと片道4時間以上かかるうえに週2便の運航。だから、たいていの場合、毎日3往復飛んでいる飛行機を使うことになる。ネット情報には案外古い情報がそのまま残っていることが多い。JTA(日本トランスオーシャン航空)も飛んでいると書いてあるものもまだ散見されるが、その路線はすでにないので、RACのみである。RACは石垣便よりも座席数の多い与那国から那覇の路線も一日1往復ある。
 でんでんむしがまずは石垣島まで戻ってきたのは、このあと宮古島へ移動する予定だからなのだが、その前に今度は石垣島の落ち穂ひろいも…。
 八重山の玄関口の役目を果たしている石垣島では、観光情報が非常に充実している。これは、本土のどんな観光地よりも優れていると思うくらいである。
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 フリー(無料)の観光情報誌が4誌もあって、それらが空港、船やバスのターミナル、ホテル、飲食店などに置いてあるのだ。
 もちろん、フリーペーパーだから広告主の情報が主にはなるが、これを入手してチェックしておけば、たいてい困ることはない。インターネットもいらないくらいである。4誌競合する部分もあるが、マリンレジャー情報に重きをおいているもの、飲食店や土産物店がメインのものなど、多少は特色もあるようだ。
 実は、玄関ではあっても、いわゆる観光ポイントには乏しい感のあった石垣島では、近年マリンレジャー基地としての性格を強くしているのだ。
 石垣島と表紙に記してあるものも、石垣だけでなく八重山の各島々の情報をネットしている。石垣でこれらの情報を検討して、みんなそれぞれ島めぐりのプランを考えるのが、なかなか楽しい。
 でんでんむし流は、この情報誌の必要な地図だけ切り取って、それとバスや連絡船のダイヤ(これらもターミナルで手に入る)をたたんでポケットに入れて出かける。それだけあれば、iPad mini さえも必要でない。
 ついでに言うと、宮古島にも同様の情報誌がひとつあるが、こちらのほうはきれいなおねえさん方の写真もたくさん入った夜の盛り場情報が充実している。この違いはなんだろう。おもしろいねえ。
 テレビは、NHKのほか東京のキー局系列の民放が3つか4つあるが、見るべきものが何もないという点で、本土と変わらない。沖縄独自の放送は少ないようだ。でんでんむしが毎日音を消してつけてチェックしていたのは、CSのお天気チャンネルだけ。
 毎日飛行機が飛んでいるおかげで、離島でも新聞が一日遅れということはない。だが、沖縄では本土の全国紙の影も薄くなる。その代わりに幅を聞かせているのが、那覇から飛んでくる「琉球新報」と「沖縄タイムス」。
 この新聞も特徴的で、政治的主張が鮮明で先鋭的である。よくネトウヨのみなさんがしきりに叩いている「朝日新聞」どころではないような気がする。沖縄という地域の特殊な政治性、変わりつつもあるようだが、それをちゃんと残しているのがこれらの新聞ということなのか。
 ちょうど、沖縄県知事が辺野古容認を表明した後で、それを批判する見出しが、数面を費やして踊っていた。
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 八重山にも地元の地方紙があって、それが「八重山毎日新聞」と「八重山日報」。でんでんむしが石垣滞在中によく見ていたのは、6ページ建ての「八重山日報」だった。その理由は単純で、この新聞は毎朝ホテルのフロン前においてあるのが、“ご自由にお持ちください”になっていたからである。
 柳田国男の歌を創刊号に載せた「八重山新報」と、関連があるのかどうかは不明だが、「八重山日報」は“右派”の立場を鮮明にしていて、紙面にもそれが明確に表れている。ときには那覇の新聞をも批判し、「八重山毎日新聞」ともどうやら対立しているところがあるらしい。
 八重山の教科書問題の資料はないかと、石垣市立図書館で調べてみたところ、本としては一冊だけあったのが、「八重山日報」が石垣市の中山市長や玉津教育長を支持する立場から出した本だった。
 あ、そうそう。「琉球新報」「沖縄タイムス」と「八重山毎日新聞」と「八重山日報」全部見たいときには、ユーグレナモールの石垣公設市場北東側にある無料休憩所「ゆんたく家」に行くとよいでしょう。
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dendenmushi.gif沖縄地方(2014/03 記)

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思ひやる八重の汐々…石垣島の柳田国男の歌碑は三度目の正直でやっと“発見”(40) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]

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 写真はイメージです(^-^;。場所は白保からは20キロ北へ行った明石の海岸で、ヤシの実はその砂浜にあった本物ですが、海寄りに移動させています。
 柳田国男(これも“國”が正しいのだろうが、これまで国できたので)が石垣島に滞在していたのは、1921(大正10)年の1月末の一週間程度でしかない。それは、長い官僚生活から足を洗い、朝日新聞の客員として九州南部から南西諸島や沖縄をめぐった一連の旅の終わりであった。
 そのとき、朝日新聞に連載した旅の記録が後に『海南小記』にまとめられて発表される。そのなかでも、石垣島についての記述はそう多くはないが、それから40年後、没年の直前年になって発表したのが、日本人と稲作の渡来に他界の考察で彼の名を不動にしたといってもいい『海上の道』(1961(昭36)年)なのだ。
 それ以前に、まだ学生だった1898年(明治31)年の夏休みに、滞在した伊良湖岬の恋路ヶ浜 で拾った椰子の実の話を、同行できなかった友人島崎藤村にしている。藤村がその話から詩人らしい想像の翼を広げてつくったのが、それから3年後に発表したかの有名な『椰子の実』である。このエピソードは、『海上の道』の冒頭部分を飾ってもいるが、ヤシの実から海上の道に至るまで63年かかっている。実に息の長いあたためかただ。
 その経緯と展開については、前の「石垣島だより」の「白保のサンゴ礁は有名だが見つからない柳田国男の歌碑も海上の道に没したのか(27)」 でも多少触れた。
 問題は、そのときにも白保で発見できなかった柳田国男の歌碑のことだ。それが気になっていたのは、そのふたつの著作でも旅のメモをときおこした資料にも、石垣島の白保での歌のことなど、どこにも出てこないので、どこでどうしてその歌が詠まれたのか、どんなことで歌碑ができたのかも、さっぱりわからないからだ。誰に聞いてみても、知っているという人や情報にもまったく出会わない。
 今回もまた、確かにあることだけは確認したので、しつこく白保の海岸を行ったり来たりしてみた。そして、白保訪問二日目にして、やっと海岸で知っている地元の人に出会うことができ、ついにそれを“発見”することができた。
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 珊瑚の白い砂浜が急な傾斜で盛りがった先に、アダンやトベラやモンパノキなどが密生するところに、わかりにくい踏跡がある。そこを入って行くと意外に大きな石組みの台座に、ごっつい石の歌碑が鎮座していた。台座の周囲だけは木が茂らないよう空間ができていたが、回りを大きく木々が覆っているので、浜辺からはまったく見えないのだ。
 これじゃ何度行ったり来たりしても、なかなかわからないわけだ。
 しかし、歌碑はあったが、歌の生まれた経緯や白保での行動などが明らかになったわけではない。
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 歌碑の裏にある説明によると、これができたのはそう昔のことでもなく2001(平成13)年の暮で、「柳田國男歌碑建立既成会」とあるだけでその実態も想像しがたい。石碑の脇には白い杭が立てかけてあるが、それは愛知県渥美町(現:田原市)観光協会が平成14年に行なったらしい、“やしの実投流記念”のものだとわかるくらいだった。
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  あらたまの まさごにまじる たから貝
      むなしき名さへ なほうもれつつ

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 この歌は、柳田が石垣島を去った翌日2月1日の地元紙『八重山新報』の記念すべき第1号に掲載されたところまではわかっているが、どういう形でどういう発表がされたかなど、それ以上のことは不明。歌碑は確かに見つかったが、あいかわらずうやむやの世界であった。
 タカラガイは、主に宮古島北部の八重干瀬(やえびし)あたりで大量に産していたという。でんでんむしも、白保や明石の海岸で光沢の見事なこの貝をいくつか拾って帰ったが、これを貨幣にしたところは多く、中国でも始皇帝の銅貨鋳造までは珍重されていた。大陸から流れ着いて来た人が、このおたからに惹かれる形で家族と稲作の種籾と技術をたずさえてきて、定住したという仮説はたいへんおもしろく、また説得力もある。
 『海上の道』のなかで、柳田はこのように書いている。

 籾種ばかりを只ひょいと手渡しされたところで、第一食べて見ることすらできない。単に栽培者が自ら携えてきたという以上に、父祖伝来の経験が集積調和して、これを教訓の形をもって引き継がれなかったら、この作物の次々の改良はさておき、外部の色々の障碍にすらも、対抗することができなかったろう。
すなわち最初から、少なくともある程度の技術とともに、あるいはそれ以外に米というものの重要性の認識とともに、自ら種実を携えて、渡ってきたのが日本人であったと、考えずにはおられぬ理由である。

 確かに、たとえ稲の籾だけが渡ってきたとしても、それが稲作にすぐに結びつく可能性は極めて低い。池をつくって水を溜め水を引く灌漑技術と、水田で稲作を営む技術をもった指導者がいなければ、とうてい成り立たなかっただろう。
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 そして、そう考えると、八重山に伝わるさまざまな祭りや祭祀の意味もまた、無理なく理解できるのだろう。
 「私の導師は柳田国男と折口信夫であった」という谷川健一は、その著書『柳田國男の民俗学』(岩波新書 2001)のなかで、次のように書いている。
 
 江戸時代の国学者の他界観の研究は、常民を視野に入れることがなかったために、発展を望むことができなかった。それが可能になったのは、国学を継承して新国学を提唱した柳田と折口が、南島民の生きた世界観にもとづいて日本人の他界観念を考察したからである。しかしこの二巨人のあと民俗学者がそれを深化させたかといえば、そうでもない。南方熊楠や宮本常一も日本固有の他界観に何ら触れるところがない。これは、彼らが南島民の世界観に触れて啓発されることがなかったためと思われる。ここにおいて今さらながら沖縄を知ることの重要さを痛感する。
 
 南島民は、遠くに白い礁線を描くところまでを、自分たちの生活する日常空間と捉え、その白い線から先は海神(わたつみ)の支配する他界、非日常空間として理解していたという。
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▼国土地理院 「地理院地図」
24.357682, 124.247785
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dendenmushi.gif沖縄地方(2014/02 記)

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大浜信泉記念館から亀甲墓まで飛び飛びながらつながっていくように(39) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]

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 “しんせん”しんせんと勝手に読んでいたが、正しくは“のぶもと”という。苗字の方も“大浜”で通っているがこれも厳密には“大濱”らしい。大浜信泉は石垣島の登野城に生まれ、早稲田大学の総長を14年も勤めあげた。1954年に総長在任中から故郷沖縄の本土復帰運動に力を注ぐ。
 東大の茅誠司・大河内一男という総長ラインで「沖縄問題を話し合う会」を結成し、これが発展した沖縄問題解決促進協議会では代表委員を努めた。いわば、率先して沖縄の本土復帰に尽力した人である。その結果が、いわゆる「核抜き本土並み」の沖縄返還であった。
 この人の記念館が、離島桟橋にも近い登野城漁港のそばにある。前から気になっていたけど行く機会がなかったので、今回は散歩がてら訪ねてみた。
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 いろんな記念館にも行ったことはあるが、この記念館は展示内容も極めて個人的な記念品的なものばかりで、取り立ててどうということもないものばかりだ。この記念館がどういう経緯で、どこからお金が出てできたのかもよくわからなかったが、早稲田の塔を模したという時計塔がついた建物は、その一部屋が記念館になっているだけで、あとはいろいろな催しや会合に使われる会議室などが主で、教育研究所という看板もある。
 隣に広がる庭には銅像があって、その台座には「人の価値は、生まれた場所によって決まるものではない。いかに努力し、自分を磨くかによってきまるものである。」というこの人が後生に残したという言葉の一部が刻まれていた。
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 記念館そのものと展示物には、格別の感銘をもよおすようなものはなかったし、わざわざ訪れる人も稀なようで、記名帳には一か月も記帳がない。だが、ここを訪問して思ったのは、沖縄の八重山の人々の郷土愛というか、そんな気持ちの強さであった。これも、ちょっと形は違うが、それを発展させていけば先輩や年寄りや先祖を思う心などに、十分無理なくつながっていくように思われた。
 石垣島で個人の名を冠した記念館といえば、あとは新川にある具志堅用高記念館くらいだろう。チャンピオンベルトをした彼の黄金色の立像は、離島ターミナルの桟橋にも立っているくらいで、これも郷土の誇りなのだろう。
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 八重山(沖縄)では、なにも有名人でなくとも、年寄りや先祖を大事にする。それは、核家族ばかりの都会ではおよそ想像がつかないほどである。家族の老人の数え年61歳の還暦祝い、73歳の古希祝い、85歳の八十五祝い、88歳の米寿・トーカチ祝い、95歳のカジマヤーなどには、一家眷属集い盛大なお祝いの宴を開くという慣わしがある。余裕のある家では、島で一番高級なホテルとされるANAインターコンチネンタル石垣リゾートの宴会場に盛装して集い、派手な祝宴を開くのである。最初、そこでその現場に遭遇したときには、ちょっとびっくりしたものだ。
 これには、年寄りでなくとも、生まれた干支の年を祝う生年祝い(トゥシビー)というのがあることも関係する。数え年での13歳(十三祝い)から始まるが、年を取るごとにその行事も重みを増すようだ。
 それはとりもなおさず、単なる敬老の枠を越えて個人の歴史をも大切にすることにつながるので、その蓄積は家の歴史や伝統を守り重んじることにもなっていく。それがまた、先祖の祀りや地域のさまざまな祭祀にも脈々と受け継がれていると思える。
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 石垣市の市街地の北寄りには、二列くらいの墓地の帯がある。そのうちの内側の一列については、もうすっかり住宅街のなかに取り込まれてしまって、ところどころに残っているだけになっている。
 沖縄の墓地は独特で、元々は大きな亀の甲羅のような形をした亀甲墓だったものが、長い間に徐々に変形しながら、今に至っているようだ。亀甲墓そのものは、与那国には多く残っているが、石垣ではだんだん少なくなるようで、最近の墓は屋根の上に本土の墓石を載せたようなものが多い。
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 共通しているのは、墓前にちょっと広い空き地が設けられていることで、宮古島ではここに軒や屋根があるのが特徴である。清明(シーミー)と旧盆、旧正月の先祖供養には、ここでまず掃除をして、シートなどを広げてみんなが座れる場所をつくり、用意してきたお供え物を供え、重箱料理を広げるのが慣わしである。
 先祖供養をする料理の内容にも、ちゃんと決まりがあって、なんでもいいわけではない。かまぼこ、揚げ豆腐、天ぷら、田芋、昆布、ごぼう、こんにゃく、皮付き三枚肉の9品を奇数だけと決まっているのだという。シーミーでは、年配者は必ずお墓に入っている先祖の話をして聞かせる。そうして、先祖から受け継いだ命を大事にしなければならないこと、家族親族一族のつながりと結びつきを再確認させる。 
 なんか、うらやましいような、めんどくさいような…。いやいや、やっぱりおおいにうらやましいです。
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dendenmushi.gif沖縄地方(2014/02 記)

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市役所や図書館や離島ターミナルのある埋立地には市民会館もあって(38) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]

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 クラシックもオールディーズも好きだけど、演歌も聴くでんでんむしは、NHK-BSの『BS 日本のうた』を観ることも多いが、地方へ行っても各地にそれぞれ立派な大ホールがあることに驚かされる。各自治体が競って進めてきたハコモノ行政の成果ということもできそうだが、われらが石垣市にもあまり立派とはいえないにしても、『BS日本のうた』が来るとしたら、やはりここしかないという会館がある。
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 市役所通りから西側にある美崎町、新栄町、浜崎町の一角は、港湾施設のほか石垣市役所や竹富町役場、市立図書館、農協、広い公園、ホテル、バスターミナル、それに市民会館などが集まっている埋立地である。地図で三角に見えるところが、最初の埋立地だと思われるが、市民会館はその西にあって、ピアノやバレエの発表会をはじめ、あらゆる催しの場となっている。
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 2014年2月初めの土曜日には、八重山地区学校音楽発表会が開催された。八重山の小中学校の各学校が次々と登場して、合唱や演奏をする。児童生徒も出番が済んだら客席に戻り、わが子の出演が目当ての父母は出番が済んだらさっさと引き上げるので客席も入れ替わりが激しい。
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 もしかしたら、俵万智さんも見にきているかもしれないと思ったが、むろん知り合いではないしすれ違ってもわからない。俵万智さんとこの学校もそうだが、八重山では、児童生徒の数が少ない学校も多い。うちの孫の小学校も、全校で14人しかいない。
 統廃合の話は前からあるが、やはり学校がなくなるのは困るという地元の意見が強く、実現はむずかしいらしい。八重山地区音楽教育研究会が主催し石垣市・竹富町・与那国町の教育委員会が共催するこの音楽発表会、これが60回というのが驚きである。それはすごい。しかし、石垣島以外の離島から毎年参加するのは負担なので、どうやら回り持ちらしい。今回は小浜島の小中学校がやってきた。
 でんでんむしは、午前の小学校の部が終わったあと、午後の中学校の部まで全部見て聞いてしまったが、こどもたちがいきいきと歌い演奏する姿は見ていて気持ちがいいものだった。
 こどもたちと父母もたくさん集まってくるこの日、市民会館の周辺は大賑わいだった。
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 その翌週の夜には、陸上自衛隊中央音楽隊のやいま特別演奏会が、同じ市民会館で開かれたので、それも聴きに行った。
 自衛隊が石垣島で演奏会を開くのは、これが初めてで、会場は後ろには立ち見が出るという大盛況、市民会館が満席になるのはめずらしいという。無料だが整理券は入手しておかなければならない。わざわざ地方事務所まで貰いに行った。
 開場前には長い列ができ、後ろのほうで大阪のおばちゃんのノリで、あらそういうのが要るの、タダだから来たんだけど、まあ入れてくれるよね、とか言っている声が聞こえた。入れたかどうか見てやろうと思っていたのに、入場のときに忘れていた。
 モギリからなにから、会場の空席案内まですべて制服の自衛隊員がやっていて、こども向けにシールなどを配ったりしている。
 演奏はさすがに日本一と言われるだけあって、たいしたものだった。二部のほうは沖縄向けサービスの選曲で、最後にはアンコールで隊員も通路にまで出てきて踊り、客席からもステージに上って踊りだすおばちゃんもいたりして、これもさすが沖縄。
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 海自の歌姫はすっかり有名になったが、陸自のこのやいま特別演奏会では、沖縄の第15音楽隊からボーカル男女三人も帯同してきていた。
 折から、与那国では自衛隊通信部隊の配備をめぐって、用地でもめているところだ。おっ、それもあっての自衛隊PRなのか。なるほど。あとで、与那国島に行ってみてわかったのだが、その前の日曜日にちゃんと与那国島でも中学校の体育館で演奏会を開いていて、その後石垣にやってきたようだ。
 それも、自公が後押しする右寄りの市長になったからこそ、できたことかもしれない。730交差点の角のビルが自民党の支部になっていて、その市長の名前と日本を取り戻すおじさんの顔がでかく迫っている。そのうちに、通り向きの壁に「日本一幸せあふれるまち石垣市」という大きな垂れ幕がかかった。市長の周りに集まっている人は別にしても、石垣では働く人の多くがワーキングプアというのが現実だと聞いた。
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 それからというもの、やけに街が騒々しい。その騒音源のひとつ、スピーカーでうるさく走り回る車も、そのそばの空き地(この島いちばんの一等地も来るたびにずっと何年も空き地のままだ)に止めてある。市長選挙が近い石垣市では、前市長も今度は市民党だとかで対抗して立つ予定だとか、公示前からもう選挙戦まっただなかなのである。
 この角から山手に向かって桟橋通りが伸びていく、これが730交差点でやいま大通り(通称:市役所通り)とクロスしている。中国(おそらく台湾だろう)からの観光客が台の上のシーサーと並んで写真を撮ったりしている交差点の記念碑の向かいは、なぜか来るたびに工事をしている。期末が近いので、石垣島でも島じゅう至る所を掘り返している。
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 市民会館の隣にある立派な市立図書館は、前にもリサイクル本をもらってきたりしていた。今回は、図書館にも近い市役所通りにあるホテルに滞在しているでんでんむしも、ご近所なのでよく利用させてもらった。
 市役所通りと730交差点の道から西の埋立てが始まる以前の写真を、ホテル近くの喫茶店「海坊主」で発見した。石垣佳彦さんという人が撮った、昭和28年頃の石垣中心部の写真を何枚か大きなパネルにして、店内の壁に飾ってある。
 モノクロだが、かつてここに軒を連ねていた寄棟の赤い瓦屋根(柳田国男が旅のメモにヘタクソなスケッチを残しているように、曲がり家風になっている屋根もはっきりわかる)の風景が、まざまざと蘇ってくる。店の人に断って写真の写真を撮らせてもらったが、室内照明の関係もあって、それにもちろん撮影技術の問題もあって、あまりうまく撮れなかった。
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 それでも、昔の海岸線(それが市役所通り)に沿って赤屋根の家が並び、かつての港と長い桟橋と海にはサバニ(写真に印刷された文字はハーリー)らしきものがちゃんとあり、白い道を数人の人が歩いている光景がよくわかる。
 もう一枚は、石垣の市街から新川方面、遠くに前勢岳(現在では石垣島天文台がある山)をとらえた写真。
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 その頃、中学生だったでんでんむしは、石垣のことなど頭にもなかったはずなのに、妙に懐かしく暖かく感じられる。なんとなくだが、取り戻すべきは、インフラも不充分でみんな貧しかったはずの、この頃の人々の素朴な笑顔だったのかもしれないと思ったりするが、そういうのを単なる感傷というのだろう。

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島では街路樹が道の風情をかもしだし学校の校門花壇もすばらしいよ(37) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]

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 石垣市は、街路樹の設置になかなか積極的なようで、だいたいにおいて島じゅうどこへ行っても道路脇に並木がある。県道は沖縄県の役目なのかどうか、またたった一本だけある国道も担当は市ではないのかどうか、それは知らないが、とにかく美しい街路樹が多い島と言ってもいいだろう。
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 同じ八重山では、西表島も集落のあるところの一部ではがんばっているようだが、そのほかの島では、そもそもあまりそれが必要でない。宮古島でもそれなりに街路樹はあるが、やはり石垣島のほうに一日の長がある。
 その町の木というものがあって、それが植えられることもめずらしくはない。地方都市では、ひとつの町にその町の木がたくさん揃って植えられているのも、悪くはない。けれども、そこまで統一してしまうと、かえってうるおいがなくなってしまうかもという弊害もある。
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 石垣市の街路樹は、場所ごとにたくさんの違う種類の木が植えられていて、それもがまたよい。樹木の名前もできれば知りたいところだが、知ったからどうというものでもないし、知らないから困るということもない。
 ただ、ホームページなどでも、知りたい人にはそれがわかるようにしておけば、もっといいのではないか。
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 市役所の前には、修景街路樹の説明がある。こういう情報があると、市がどんなことを考えてまちづくりをしようとしているかがよくわかる。こういうのも含めて、もっと情報提供すればいいのにと思うが、市の公式ホームページは広告はたくさん入っているが、市の木についてもわからず、いまひとつアピール力がない。
 市街地の修景に街路樹を植えるのは、どこの町でもやっていることだが、石垣市の場合は、市街地だけではない。郊外にも主な道路沿いにはすべて、できるだけ木を植えていこうとしているように感じられる。
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 こんな周囲は山で人家もなく、緑はもういっぱいあるじゃないか、というような場所や、畑のなかの道にまで街路樹が植えてある。これがなかなかすばらしい。
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 道の表情が街路樹の並木があるのとないのとでは、まったく違うようだ。道を歩いたり走ったりするにも、気分が違う。
 街路樹がせっかくあっても、管理が不十分で枯れたり抜けたり倒れたりすると、そのあとが歯抜けになってしまう。そういう場合も、そのままにほおっておかれることが多いが、これは情けない景色になってしまう。ここでも、そういうところもあるにはあるが、さほど目立ってはいない。
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 街路樹もなにも両脇に揃っていなくてもいいわけで、この島では片側だけのも多い。それでも、街路樹があるということはどういうことかというと、歩道があるということであり、あるいはグリーンベルトで車と人の分離ができているということである。
 こういうところは、首都圏ではなかなか少ない。それをガードレールでごまかしている。あの、ガードレールというヤツ、あれがあると安全かというとそうでもないうえに、あれがあると歩道部分がえらく狭くなって歩きにくい。
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 そういえば、石垣島ではガードレールというものをあまりみない。どこにあったかな。730交差点にあったかな。730交差点でもフラワーベースがその代わりをしていたし…。
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 それともうひとつ、沖縄電力は東京電力のように電柱や電線が威張っていない。これがあると街路樹も形無しになるが、電柱を街路樹から離して立てているところが多い。
 ま、土地に余裕がある日本の果てだからできること、と言ってしまえばそうなんだろうけどね。
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 でも、コスモスが今咲いている石垣の街を歩いていると、それだけではない、なにかやさしい気持ちも感じることがある。
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 道端に花が咲いていたり、学校の前を通ると必ず鉢やフラワーポットが並べられて、きれいに花が咲いている。先生やあるいは業者が入って管理しているところもあるのかもしれないが、やはりこどたちで「いきものがかり」が世話をしているのだろう。
 中心市街の住宅地域にある石垣小学校では、通りがかったときこどもたちが一生懸命になにやらそのなかで作業をやっていた。写真は、帰りに誰もいなくなった時に撮った。(この頃は、こども写真はうかつに撮れない。)
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 学校の校門付近を花で埋めようという申し合わせでもあるのか、どの学校でも同じようで、竹富町でも竹富小・中学校の校門はみごとだった。
 漁港に近い新川小学校などは花もたいへん美しいが、校門の上にハーリー舟が飾ってあったのにはちょっと驚いた。地域の伝統を学習し、誇りをもってこどもたちが、それを受け継ぎ守っていってくれるのは、とても喜ばしいことだ。後で考えたのだが、この校門のハーリー舟は、櫓が組んであったのでどうも祭りかイベント用のためだったらしいが、ちゃんと中央花壇のなかにも本物の舟が置いてある。
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追記:ハマコウさんから、コメントをいただきました。学校花壇の写真は小さくまとめてしまったので、先生のために改めて大きくしてご紹介します。
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 石垣小学校と新川小学校は、いずれも住宅街と市街地のなかにあります。
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 これは竹富の小中学校の校門です。

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石敢當とは直進してくる魔モノ除けの装置だが似たようなモノが…(36) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]

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 八重山の街を歩くと、街角や道路脇や壁、石垣など、いろんなところで「石敢當」(いしがんどう、いしがんとう、せっかんとう)と書いたり彫ったりした石やプレートが目につく。それも、かなりの数であちこちに出現する。
 これは、元もとは中国南部の福建省あたりが発祥の風習が、海を渡って沖縄に伝わったものとされている。その石を立てる目的はなにかと言えば、「魔除け」である。
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 それが置かれる場所は、本来は、丁字路や三叉路などの突き当たりの置かれる。なぜかというと、この地域で市中を徘徊する魔モノがいて、その名を「マジムン」という。なんかマムシみたいだが、どうやら関係はないようだ。その魔モノは、まっすぐに直進するという行動パターンを持っているらしい。
 だから、道をやってきたマジムンは、丁字路や三叉路などで突き当たりにぶつかると、その正面の向かいの家に入ってきてしまうのだ。そりゃ困る、うちには来てくれるなというわけで、この石を立てておく。
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 これだけたくさんの使用例があるところをみると、それなりのご利益はあるのだろう。
 三叉路や丁字路ばかりではなく、道路に面した壁に埋め込まれたものとか、敷地の角に置くとか、設置場所もどんどん拡大しているようだ。
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 これは沖縄だけでなく、本土にも広がっているようで、鹿児島など九州や数はまだ少ないが関東にまで進出しているらしい。本土に渡った沖縄出身者が、その故郷の習わしを持ち込んだりするからなのだろう。
 その由来については、石敢當という人物がいたとするなど、諸説があって定まらないところもあるようだが、こういうことが中国南部から沖縄にそして八重山に伝えられ、現代にそれが定着しているのが大変おもしろい。
 八重山の神や御嶽や祭りなどを、日常生活のなかにちゃんと組み入れてきた沖縄の人々の精神世界には、マジムンもその防御法とセットで容易に受け入れられたのだろう。
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 柳田国男によれば、この“石敢當”の文字があるのは、比較的新しいもので、元は字などない“ピジュル”と呼称された古いものだろうという。文字のないものも、石垣島と西表島で見つけた。
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 石敢當とよく似たものも、形を変えてある。それは、石垣のところでは書いていなかったが、それが切れる入口のところにある。『ちゅらさん』の家で覚えている人もあるかもしれないが、赤い屋根に石垣の昔ながらの八重山の家では、門にあたる石垣の切れる入口を入ると、すぐ正面に通せんぼをするように石壁(たいていは石垣と同じ材質が用いられている)が立ててある。
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 これは「ピーフン」という。ビーフンじゃないので食べられないが、これがやはり魔モノに襲われて食べられないようにするためのものだ。別名では「前グスク」ともいう。グスクが「城」の意味をもつので、いわば出城のようなものを表していると考えられる。魔モノに本丸に入られないように、外郭で防御するという装置でありシンボルなのだ。
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 そういえば、石敢當に比べると圧倒的に少数だが、家の塀の四隅に四天王の名前を書いた木の札を貼り付けている家も、いくつか見つけた。
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 若いころ、中村直勝先生の本を読みながら、京都奈良の寺院めぐりをしたことがある。その中村先生の独特の語りの文章が、心にしみるような気がしたものだが、その本で四天王の位置と順番の覚え方を教えてもらった。
 先生曰く、「じぞうこうた」と覚えなさい…と。
 仏法を守護する四天王は、須弥山の四洲をそれぞれ受け持っていて、まず東勝神洲を持国天、次いで南瞻部洲を守護するのが増長天、西牛貨洲の担当は広目天、そして北倶廬洲を守るのが多聞天、というわけだ。
 持・増・広・多の四天王像で、最も有名なのが東大寺戒壇院のもので、その当時の戒壇院の周囲は、ほとんど訪れる人もまれなくらい、静かであった。今でも、奈良の風景といえば、それが蘇ってくる。
 その四天王の札を貼り付けている家を、八重山で見るのは、まことに奇妙な感じもしたが、これだってなにも“やまとはくにのまほろば”のほうから伝わってきたものではあるまい。中国にも四天王像を祀る寺はある。文化大革命とやらで壊されていなければ…。
 八重山の四天王は、これもやはりそっちのほうからきたと考えるほうが自然なように思われるのだが…。
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 おいおい! 魔除けっていいながら長々くだらんことばかり書きゃがって! 肝心な俺様を忘れちゃいませんかってんだ!
 ハハッ、もうしわけござりませぬ。あなたさまはもうチョ~有名でいらっしゃいますので、ええそれでもってですね…(しどろもどろ)。

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ミサキの神の美崎御嶽をはじめ石垣島にもたくさんのうたきがそこらじゅうに(35) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]

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 石垣市の官庁街というほどではないが、登野城の石垣税務署と那覇地方裁判所・検察庁の間に美崎御嶽(みさきうたき)はある。石垣牛の店と民宿と鍵屋とコンビニと学習塾とアパートと民家と合同庁舎の建物に囲まれている敷地は、かなり広い。しかも、島では一等地である。
 登野城のこの辺りは、昔は海から見るとやはり山のように見える場所だったのだろう。美崎山と呼ばれていたここに、大美崎トウハの神に航海の安全を祈願する御嶽ができたのは、琉球王朝尚真王(1477年〜1527年の50年にわたり在位)の頃だというから、ちょうど1500(明応9)年のオヤケアカハチの乱を平定して、八重山諸島を王朝の版図に組み入れた時期にあたる。
 したがって、その由来も琉球政府軍の船の航海安全を、神女が祈ったところから始まり、王府から派遣されてくる役人の離着任時や公の農耕儀礼の場所でおおいに政策的な公儀の意味をもっていた。それが、時代が下るにつれて、字大川の村の拝所となっていく。
 県指定の史跡と重要文化財になったことを記念して建てられたらしい、県と市の教育委員会の石碑が語っていないことには、週刊誌的、ニュースショウ的な興味では無視できないことがある。
 オヤケアカハチに対抗していた長田大主には、二人の妹があった。下の妹の名が真乙姥(まいっぱ)、上の妹の名を古乙姥(こいっぱ)といった。この美崎御嶽で王府軍の船のために申し出て祈った神女というのは、その下の妹のほうであった。ところがその姉のほうがアカハチに嫁いでいたので、夫と共に誅せられてしまう。
 そのため、王府軍は真乙姥の心からの申し出を信用せず疑ってかかる。そこで、「兵船が一艘たりとも遅れたりすることあらば曲事たるべし」とかえって嫌味な条件をつける。真乙姥は、この後に八重山初代の大阿母になる多田屋オナリなどの助力と神徳を得て、無事に兵船は帰着することができた。琉球王朝は真乙姥を八重山の大阿母(聞得大君きこえのおおきみ=最高位の司)に命じようとするが、真乙姥はこれを固辞して神職につく。これ以降八重山の神も聞得大君の神道に統一されていくことになる。
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 御嶽は“うたき”のほか、“うがん”、“おん”などとも呼ばれ、その周囲は低い石垣で囲まれている。その中には拝殿に当たる神棚を備えた吹き抜けの小屋があり、その奥にまた石垣で囲まれ、石門で区切られた中心部はウブと呼ばれ、神を招く場所である。そこには神女や霊力をもつ司と呼ばれる女性でなければ入ることができない。
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 本来は、集落の者以外は外側の石垣から中へ入れないとされていたくらいで、神聖にして侵すべからざる場所なのだ。でんでんむしも最初に御嶽を訪ねたときは恐る恐るという体で遠慮をしていたが、だんだんと市街化が進むと公園と一体化したり一部が駐車場になったりする例もでているようだ。
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 周囲には大木が枝を茂らせ、幽邃な雰囲気を醸し出している。美崎御嶽の向かって右側の大木は、根が板根になっているので、サキシマスオウノキなのだろうか。それが、こんなところに…?。(後でわかったが、板根になるのはサキシマスオウノキだけではないようだ。)
 こうした御嶽は八重山でも同じような形式でもっと古くからあり、村々よりももっと小さな単位でつくられたものと思われる。それぞれに由来があるらしいが、美崎御嶽のように神女の司が神に祈った場所が御嶽になるというのがどうも一般的らしい。
 石垣市の市街地を歩くだけでも、規模や様式もさまざまだが、至る所とはいえないまでもそこここにそれはある。
 ここでは、石垣の長田御嶽、新川(あらかわ)の長崎御嶽、それに白保の波照間御嶽の写真を紹介しておこう。
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 町中の長田御嶽はホテルと保険会社のビルの間に挟まって、肩身の狭い思いをしながらそれでも消えることはない。
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 周囲の大木が見事な長崎御嶽だが、この木が石垣市の木クロキなのだろうか。なんとなくそんな気がする。
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 波照間御嶽では、拝殿にウブを覗く丸い窓が開けられているが、これも代表的様式である。
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 なんで白保に波照間御嶽が? これにも実はふかーいわけがある。“明和の大津波”で、全村ことごとく流されて人も尽きたとき、村の復興と存続のために波照間島から住民が移動してきた。白保の先祖は波照間にあったからだ。
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 どの御嶽でも、まず鳥居が目につくのだが、御嶽は神社とは似て非なるものというべきだろう。でんでんむしは、これは戦時中の皇民化教育と国家神道の威勢によるもので、もともとは門のような何かはあったろうが、こういう神社そのものの鳥居は後からくっつけたものだろうと思っているのだが、どうなんだろう。
 では、琉球弧の神はいったいなにかというと、これがなかなかよくわからない。天にも海にも山にもいて、名前もひとつではないからあらゆるものを超越した存在として拝むもの祈るものであろうか。
 古い資料では、やはり天地開闢(かいびゃく)説がある。キリスト教の生誕神話や天地創造、古事記の国生み神話とまったく似たものなので、これもそういうものから脚色された可能性が大である。ここでも男女二神から始まるがお互いに離れて住み、風によって孕むという処女受胎まであるのだ。
 もともとは久米島の風水師が大陸からこういう様式を持ち込んで、琉球弧の各島に広まったとされる御嶽だが、これを中心として島に今も盛んなさまざま行事や祭りや習俗が伝えられてきた。エイサーもペーロンも奇妙なお面をつけて踊る祭りや綱引きなども、春と秋の二回の穂利(ブーリ)豊年祈願にからんできたものだろう。
 農地も少なく、痩せた土地が多い島で、ひたすら農作にからむというのも一見すると変だが、だからこそなのだという説がある。貧しく辛い暮らしだからこそ、海の彼方の世(ユー)に憧れ、弥勒世(ミルクユー)の到来を島が渇望し、その願望がいろいろに祭式化されてきたのだという。
 なるほど、そうかもしれない。
 でんでんむしは、それに加えて先祖崇拝と地域共同体意識が大きな中心になって、それらが渾然一体となって島々の伝統行事と風習を育んできたのだろうと思う。だが、女系で引き継がれる司の伝統も、女性が嫁すればその役目を負う家は変わる。御嶽を守るべき司が絶えてしまったものか、美崎御嶽から遠からぬ海岸寄りにはこんな御嶽もあった。
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dendenmushi.gif沖縄地方(2014/01〜2 訪問)

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八重山の赤い寄棟屋根にはゴツゴツの石を野面積みした石垣が似合う(34) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]

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 赤瓦の屋根に、似合うのが石垣である。近頃では石垣市内でもブロック塀などのほうが多いようだし、新しく石垣を築くことも少ないように思われるが、やはり赤い屋根には石垣がいちばんよく似合う。こうした古い様式を備えた家は、さすがに市街地では少なくなってしまったが、やいま村などにはそういう家を移築して保存している。
 次の写真のような屋根が石垣には多いと、柳田国男は南島旅行のメモに記しているが、これもやいま村に移築されているもので、現在では少ない。
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 そういえば、ここは石垣島で、島一つがまるごと石垣市。石垣市のなかでは、石垣市役所の北側から細くなったり太くなったりしながらバンナ岳の半分から名蔵のマングローブ林までが石垣市石垣。そしてこの島に住んでいる人の苗字では、石垣さんというのが結構多い。このことも柳田メモにはあるが、とくに関心を引かなかったようだ。
 石垣さんがいるから石垣島なのか、石垣島だから石垣という姓を名乗ったのか。地名と人名と、どっちが先だったのだろうか。いずれにしても「石垣」とは文字通り石で囲った垣根のことを指しているのに違いはあるまい。それ以外には考えられないほど、そのことは明白である。
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 石垣島の石垣は、琉球石灰岩か珊瑚の石や溶岩性らしいゴツゴツで凸凹の多い黒い石などが使われている。こういう場合、遠くからそのための資材を買って運んでくるということはまずしないのが普通だろう。だがら、石垣の素材はそこらにいくらでもゴロゴロしているもの、掘れば出てくるものを活用したはずである。
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 石垣は他の素材に比べて幅がいる。琉球石灰岩の石垣ではきれいに表面を削り磨きあげたものもあるが、これは少数派である。ほとんどはゴツゴツの石を加工せずそのまま積み重ねた野面積み(のづらづみ)で、高さにも高いの低いのいろいろある。竹富島や西表島の石垣は一般に低いのが多いが、石垣島のはもともとは人の背丈ほどはあるのが普通だったろう。
 八重山の赤屋根の形は、四方に傾斜をもつ寄棟造りで、しかも平屋が普通というか原型である。低い赤屋根の軒下と背丈ほどの石垣がほぼ近くなり、強い台風の風がどの方向から吹いてもうまく逃すことができる。
 台風の通り道にふさわしい対策が、自然に積み重ねされてきた結果といってよいのだろう。そして、さらにはその石垣の内側には、フクギなどを植えて防風の役割を強化した。
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 石垣もフクギも、これから新しくできる家の設計に組み込まれることは少なくなる一方だろう。
 石垣市街の古くからの住宅地を歩いてみると、細い路地が整然と細かく走っていて、その道沿いには今でもたくさんの石垣を見ることができる。
 なかには新しい家に石垣もあるが、それらは古くからある石垣をそのまま利用しているようだ。また、低くなった石垣の跡か、あるいは低いままの石垣だけは残り、その内側には家がなくなっているところもある。
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 市街地に残る石垣は、かつてはここを軒並み埋め尽くしていた赤屋根の家の名残でもある。
 石垣は赤い屋根とセットでなければ、やはり淋しいのだが、そういった民家の原型を留めるような家もある。
 国土地理院の地図でも∴史跡マークで示されている宮良殿内(どんち)庭園と同じく∴印の石垣氏庭園というのが表示されている。これらはそうした民家のモデルとなった古い原型とも考えられる。
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 宮良殿内のほうは島いちばんの繁華街にも近いので観光客もよく訪れるところで、200円の料金を払えば中に入れるが、石垣氏庭園のほうは石垣さんが今も住んでいる家なので、入ることはできない。だが、その石垣は双方ともに立派なもので、当然一般庶民の家と石垣とはちょっと別格なのだ。
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 2月6日、当地ではSo-netブログの更新アップや閲覧が、なんどやってもうまくいかなかった。

 
▼国土地理院 「地理院地図」
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赤い瓦の屋根と白いしっくいが妙にしっくりする八重山の家(33) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]

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 内地からやってくるないちゃーが、いかにも沖縄にやってきたなあという感を強くするのは、気温のほかにはハイビスカスやブーゲンビリアなどの色鮮やかな南国の花々と、赤い瓦を載せた独特の民家の屋根を見るときだろう。だが、空港に着陸態勢に入った飛行機の窓から見ても、その赤い屋根が極端に多いとも言えない。
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 とくに、戦火から復興した本島では、市街地でも住宅地でも、白やグレーの四角い箱のような家が主流であるようだ。初めて本島を訪れたときには、それが強く印象に残っていた。それに比べるとより小さな町である石垣市では、町のなかを歩くと、やはり四角い箱のような家がほとんどだが、その間にまじってそこここに赤い屋根の家がある。
 それを、まだたくさん残っているというのか、はたまたどんどん減ってきたというのか、よくわからない。
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 しかし、赤い屋根の家は、古い家ばかりに残っているだけかといえばそうではなく、新しい家でも赤屋根の家も多い。石垣の住宅街のなかに、赤瓦を焼いている瓦屋さんがちゃんとあるのを発見した。
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 当然ながら地元八重山の人々には、赤屋根に対するこだわりと執着は、根強いものがあるようだ。赤い屋根は消え行く郷愁のシンボルではなくて、今現在も生き続ける地域の重要なお化粧なのだ。
 その証拠というのも変だが、まず行政にその意識がはっきりとあるようで、公共施設の建物などには、赤い屋根がどこかに使われている。なかには、ビルなのに赤屋根を一部にくっつける例も多いし、単なる板金の屋根を、赤く塗っているのもあったりする。
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 町の中にできるだけ赤屋根を増やそうという運動とか、助成があるのかどうかは知らないが、その努力は感じられる。道の狭い町中では限られるが、ベンチやバス停などの屋根も赤屋根にするのが広がっている。これはまず観光客の多いところから始まったようだが、島の郊外では休憩所や展望台などは必ず赤屋根でつくられている。
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 石垣に限らず八重山の各島に共通して、島の中の人にとっても島の外の人にとっても、この赤い屋根は八重山のシンボルであることには間違いない。
 いやいや、赤い屋根なんてどこにでもというか、ほかにもあちこちあるんじゃないですか。そう、ありますね。でんでんむしの故郷広島でも東広島市の赤瓦は山陽新幹線からも見えるので、印象が強いようだ。ほかにも地方ではあちこちにあるだろう。

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 だが、沖縄の赤瓦は独特である。見た目ですぐにわかる特徴は白い漆喰で瓦の隙間を埋めるところだろう。これは、隙間からの雨漏りを防ぐのと、瓦が飛ばされたりするのを防ぐためである。台風の進路に当たるこの地方では、当然のことなのだろう。
 よく見ると、この漆喰の使い方にもいろいろあって、ほんとに継ぎ目にしか使わないであまり目立たないのと、大盛りのてんこ盛りにして瓦の赤よりも白い漆喰のほうが目立っているようなのもある。また、色も白だが微妙にクリーム色っぽいものや経年変化で白くなくなったのもある。
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 釉薬を塗らない赤い琉球瓦の色素がなにかはわからないが、これはシーサーなどと同じようだ。本土で一般的な平瓦ではなく丸瓦が目立つ。実は、平瓦も使われていて、その継ぎ目の部分に丸瓦が並べてある。沖縄の呼び方では丸瓦は男瓦(ウーガーラ)、平瓦は女瓦(ミーガーラ)というそうで、その名がついたように、屋根を葺いた後での見た目は平瓦は幅は狭く、対して比較的丸瓦は大きく見え、どうかすると丸瓦だけで葺いているように見えたりする。
 この赤瓦の風習は、どこからきたのだろう。沖縄本島での赤瓦は18世紀頃の首里から始まって、それは権力と身分の象徴として使われたらしい。そもそも色もさることながら、瓦自体が首里の王府や士族や高官以外にはその使用は認められなかった、というのだ。ということは、普通は板葺きか藁葺きだったわけだ。
 明治も半ば頃になってからその規制が撤廃されて、一般に誰もが瓦が使えるようになったとき、王府を真似て誰もがこぞって赤瓦を使うようになっていったのは、よくわかるような気がする。

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石垣島の中央運動公園で千葉ロッテマリーンズがキャンプイン(32) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]

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 昨日(02/01)は、石垣島でキャンプをはる千葉ロッテマリーンズの“仕事始め”だった。これから2週間以上にわたって続く石垣キャンプのオープニングセレモニーがあったのだ。去年と違って、今年は一軍と二軍の合同キャンプだという。
 野次馬根性でどんなものか、中央運動公園までノコノコと出かけて見てきた。もちろんマリーンズのファンだからというわけではない。でんでんむしは広島カープ一筋で、もともとパ・リーグにはあまり興味もなかった。
 ところが、交流戦というものが始まってから、カープ対パの試合もスカパーで見るようになった。これはなかなかいい企画だったと思う。“人気のセ・実力のパ”と言われて、交流戦の戦績はそれを裏付けてもいるようだが、長い間どちらかというとセに比べて陽があたらない感じもあったパにとってもよかった。
 もっとも、ここ近年ではそういう対セ・コンプレックスも薄らいできたのではないかと思うが…。
 広島カープの日南キャンプは、一度だけ見に行ったことがあるが、まあキャンプ自体はわざに見に行っても、超熱心なファンを除いてはさほどおもしろいものではない。ロッテのキャンプも、たまたま石垣島でやるところに遭遇したので、ちょっとセレモニーだけをのぞいてきた。
 石垣市の中央運動公園は、野球場が二面、陸上競技場が一面、雨天に使える体育館一棟、それにサブグラウンドや多目的広場などを備えている。
 その場所は、石垣市の中心市街地から北に少し外れたところで、新川川のそばにある。新川川より北に行くと、とたんに人家がなくなり、牧場や牧草地やさとうきび畑などが入り混じる田園地帯のバンナ岳南麓斜面が続く。
 キャンプ地に、別に風光明媚な場所は必要ではないのだろう。日南の広島のキャンプ地である天福球場も、町外れの山寄りにあった。景色よりも、温暖であること、ある程度の施設や受け入れ態勢が整っていることが重要なのだろう。その点、冬でも24度くらいは普通の石垣島は、ホテルなどもたくさんあるので、まあ合格なのだろう。
 それに、千葉ロッテには石垣島出身の選手もいるじゃないですか。それにしてはスタンドのファンは少ないな。
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 ちょうど、球場に着いたところで、選手を乗せたバスがやってきてみんなが降りてくる。東(あずま)運輸のバスにも、こんな立派なバスがあったのだ。われわれがいつも乗る路線バスは、どこかから中古車をかき集めてきたのではないかというくらいのシロモノだが、さすがに差別待遇である。
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 グラウンドには、選手が到着する前からセレモニーの関係者がズラリと一列に並んで待ちかねている。後でわかったのだが、これらは歓迎委員会と選手たちにさまざまな贈呈品を提供するスポンサーのお歴々。その列のいちばん端にいるのは、新空港のマスコットでカンムリワシのゆるキャラである。
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 市長の適当に長い歓迎の挨拶があって、その後に適当に短い伊東監督の挨拶があって、それから贈呈があるが、これはいちいち渡していると時間がかかる。代表でJA関係から野菜やらなんやらが贈られる。
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 そんな儀式があって、いたって簡単にセレモニーは終わり、選手たちはレフト側に集結。それをまたカメラマンたちが取り囲む。最初のミーティングかなにかなのだろうか。
 これから体操とかランニングなどが始まるのだろうが、それを見ていてもしかたがない。ぼつぼつ次の予定に移るとしよう。
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 千葉ロッテマリーンズもがんばれ! 
 これを見ながらでんでんむしの思いは宮崎県日南市の天福球場に飛んでいる。そのカープも後で沖縄本島のコザでのキャンプもある。
 キャンプは、野球ファンに期待にあふれた春の訪れが始まっていることを知らせている。
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▼国土地理院 「地理院地図」
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石垣島の新しい空港はカーラ岳の南側で白保の海に近い盛山に(31)(石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]

 ANA 091便のB767-300が石垣島に近づくと、右の窓からは最初に見えてくるのは川平湾の北に飛び出た半島で、その先端は川平石崎である。その北海岸にはクラブメッドの赤い屋根の建物が見え、崎枝湾を過ぎ、御神崎、屋良部崎、大崎から名蔵湾を越え、前勢岳、バンナ岳上空から東から北向きに向きを変えていき、やがて石垣島空港の滑走路に降り立った。(このコースは便によってか天候によってか、変わる。白保を右手に見ながら右旋回するコースもある。)
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 タラップを降りなくても、通路がドアに横づけされる。
 2013年3月に開港した石垣島の新しい空港は、最近の流行りにならって「南ぬ島石垣空港」(ぱいぬしまいしがきくうこう)という名がある。
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 最近の地方空港と同じく、1Fが到着、2Fが出発で、エスカレーターもついている。従来狭苦しかった待合室も広い。外観も沖縄らしさを演出しようとしているようだが、これは中途半端で、宮古空港のようにはうまく成功していない。
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 展望デッキというのが3Fになっているが、くるりと一回りすればおしまいで高さもあまりない。そこから四方を眺めると、北にはカーラ岳と玉取崎やトムル崎のほうが遠くに見える。この空港の場所は石垣市盛山というところなのだが、カーラ岳をみていると盛山の地名がなにか合っているように思えてくる。ishigakiAP06.jpg
 東には埋め立てられなくて済んだ白保の海が広がり、南の白保の集落は隠れて見えない。ishigakiAP02.jpg
 空港の南側には、たくさんのレンタカーが密集して、客が来るのを待っている。
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 於茂登岳を望む西側には滑走路をつくるために丘を削った後のような斜面がある。ishigakiAP05.jpg
 新空港には、大手航空会社のほかにもピーチやスカイマークも飛んでくる。国際線も一丁前にあって、“いちばん近い外国”台湾からの路線がある。
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 これは30年もの間、さまざまな紆余曲折を経てきた結果である。
 旧飛行場は戦時中に海軍飛行場を誘致したのが始まりで、1956(昭和31)年から民間機が飛び始めた。でんでんむしが初めて八重山にやってきたのは1993(平成5)年だから、もう20年も前のことになる。そのときは、那覇空港でターミナルの外れの方までバスで運ばれて南西航空の飛行機に乗り換え、青い海の上を飛んで石垣に着いた。石垣空港ではタラップを降りて小さなビルとも呼べないターミナルの建物まで炎天下を歩いて行った。そのときのエプロンの照り返しと初体験の南国の日差しが暑く眩しく感じたことを思い出す。(旧石垣空港はシーズン1ライト兄弟から108年、初めてここに降りたときから18年、もうあと2年だけがんばる石垣空港(04) 参照)
 このときには滑走路は1500メートルに延伸されていたが、それでも中型のジェット機が飛ぶにはちょっと足りない。そこは特別に暫定ジェット化空港ということで飛ばしていたのだが、やはりパイロットにとってはヒヤヒヤものだったらしい。現にオーバーランする事故も起きていた。
 そこで、ジェット時代にふさわしい新空港をという話は、随分昔からあった。また、こういう話になると、必ずいろいろな思惑や利権や利害がからみ合って、魑魅魍魎が蠢きなかなかすっきりとはいかないのが常である。
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 新石垣空港の計画も三転四転した末に、30年もかかってやっと開港になったのは、このさほど大きくない島のどこに新空港をつくるかで、まず大もめにもめたからだ。
 1979(昭和54)年に最初に沖縄県が主導して決めたのは、白保の沖合に2500メートルの海上空港をつくる案だったが、これが地元の頭越しであったうえ漁業への影響が大きいというので、白保ではほとんどが反対。ところが、島の中では建設支持の空気が強かった。それを追い風に、県は“粛々と”(なんか人を小馬鹿にしたイヤな政治家官僚ことば)手続きを進めていた。
 白保の地元に限られていた反対運動が、東京そして全国に波紋を広げ、自然保護という大義名分を錦の御旗にすることによって、事態は大きく急展開することになる。白保のサンゴ礁は貴重な生態系を維持していることが、だんだんに知られるようになり、世論を喚起する。やがてその運動は、世界にも舞台を求めていく。
 当時、石垣島でも赤土の海への流失が、大きな問題となり始めていた。でんでんむしが最初に見た石垣島の風景は、川から赤く濁った水が、層をなして海に広がる光景だったのだ。
 世界的に自然環境保護の流れが進行するなかで、サンゴ礁をつぶして空港をつくろうというのは、いかにもいかにもである。ついにこの白保埋め立て案は1989(平成1)年に撤回される。
 だが、これがそもそものボタンの掛け違いの始まりでケチのつき始め。
 旧空港の滑走路延伸という案もあったが、南は住宅地商業地の市街地で騒音問題も抱えていたし、北へはフルスト原遺跡(ここがオヤケアカハチの居城跡なのか?フルスト原遺跡で先島諸島の先史時代に思いをはせる(23)シーズン1)があるので、これもむずかしい。その後も、白保海岸案、宮良の牧場農地案(公式の報告書などでは“白保牧中”)とあちこち候補地は揺れ動き、そのたびに島中を騒動に巻き込んでいくが、稲嶺沖縄県知事となってから空港立地の選定は地元に委ね、そのかわり地元の100%同意を要するという基本方針を示す。結局、これによって、海への影響が少ないカーラ岳の南を立地とする案でまとまり始めるのは、2000(平成12)年からだった。
 成田闘争を思わせる反対派の一坪地主運動だとか、ないちゃーの支援者が主導して先鋭化する運動で白保公民館も二分(島では公民館活動が地域の中心)するとか、促進運動をしていたJC(青年会議所)のリーダーが市長に当選するとか、さまざまな影響を残した。そのなかでも、教訓として自然保護ないしは環境影響が無視できないということがあったが、その結果コウモリのために大金をかけて専用の洞窟マンションをつくるとか、カエルやワシもと次々問題があった。
 こうした一連の関連騒動のなかでも、最も興味を引かれたのは、現場の洞窟で見つかったという約2万年前の人骨の件である。それまでは測定による国内最古の人骨は、浜松市浜北区で発見された浜北人の約1万4000年前であるから、大幅に記録を更新した。
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 新空港もできてしまえば、こうしたすべての経緯が、あたかもなかったかのように素知らぬ顔をするのは、あまり利口な態度とは思えないのだが…。
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▼国土地理院 「地理院地図」
24.390401, 124.24569
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短期集中連載『石垣島だより』 (シーズン1)項目リンクリスト(2011/12/22〜2012/01/31) [石垣島だより]

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めずらしく快晴になったけれども石垣島は冬場はいつもあまり天気がよくない(01) [石垣島だより]
石垣市の中心街は島の南西部海岸沿いの比較的平坦な地域に限られている(02) [石垣島だより]
目的はあるようなないようなないようなあるような石垣島滞在中(03) [石垣島だより]
ライト兄弟から108年、初めてここに降りたときから18年、もうあと2年だけがんばる石垣空港(04) [石垣島だより]
八重山(やいま)の島々へは石垣港離島ターミナルから出る連絡船で(05) [石垣島だより]
もうひとつのターミナルは東運輸のバスターミナルで主要幹線は30分毎(06) [石垣島だより]
石垣市立図書館のリサイクルコーナーから古い歴史全集の本をもらってきた(07) [石垣島だより]
左から右へ揺れ動く民意のなかで混迷する八重山の教科書採択問題(08) [石垣島だより]
ここは「右から左になった日」を記念しているんだけどそれは車の走行ルールの話(09) [石垣島だより]
ここが商店街では初の命名権委譲が行なわれた“最南端の商店街”ですが(10) [石垣島だより]
やいま大通り(市役所通り)いそがずあせらずなんくるないさー(11) [石垣島だより]
家々の玄関のうえには日の丸のついた正月飾りがあるのを見ると…(12) [石垣島だより]
日本最南端・最西端の八重山の重要港湾である石垣港は国境の港でもある(13) [石垣島だより]
はるか南の海からやってきた人を思う海人の祭りハーリー会場の新川漁港(14) [石垣島だより]
島の最多人名は“宮良さん”で地域名の境界線の区切り方がとてもおもしろい(15) [石垣島だより]
とぅばらーま記念碑とアコウの大木がある「なかどー みちぃ(仲道路)」(16) [石垣島だより]
マックスバリューとサンエーとかねひでとココストアとさしみ店ときいやま商店と…(17) [石垣島だより]
宮良殿内や桃林寺のある中心市街地をちょっと外れるととたんに田園風景になる島の観光は…(18) [石垣島だより]
石垣島の農業は開拓とともに苦難の連続で畜産は地域ブランド「石垣牛」を産む(19) [石垣島だより]
ここから水平線の上に南十字星が見えるらしい大浜の海岸とその続きの海岸はこんな感じ(20) [石垣島だより]
八重山の英雄オヤケアカハチの拠点があった大浜には御嶽(うたき・おん)もいくつもある(21) [石垣島だより]
石垣島は駅伝もマラソンもトライアスロンも自主トレもキャンプも…(22) [石垣島だより]
ここがオヤケアカハチの居城跡なのか?フルスト原遺跡で先島諸島の先史時代に思いをはせる(23) [石垣島だより]
石垣のマングローブはやっぱり西表には負けてるけどおかげさんで「西表石垣国立公園」になった(24) [石垣島だより]
先島諸島の無土器文化の位置づけは不思議だがいったいどういうものだったのだろうか(25) [石垣島だより]
やっと探し当てた明和大津波遭難者慰霊碑はもう記録からも記憶からも遠くなって(26) [石垣島だより]
白保のサンゴ礁は有名だが見つからない柳田国男の歌碑も海上の道に没したのか(27) [石垣島だより]
サンゴ礁の島はサンゴの岩石と琉球石灰岩でできていて貴重な建材となってきた(28) [石垣島だより]
ブーゲンビリアにハイビスカスにミニサンダンカなどが冬でも咲いているがこの春デイゴの花は咲くか(29) [石垣島だより]
捨て石とマラリアと強制移住は八重山の歴史を知るうえで重要なキーワードになっている(30) [石垣島だより]

「石垣島だより」(シーズン 2)へ…

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dendenmushi.gif沖縄地方(2011/12/19〜2012/01/24 訪問〜01/31 記)

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捨て石とマラリアと強制移住は八重山の歴史を知るうえで重要なキーワードになっている(30) [石垣島だより]

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 オヤケアカハチとその勢力を殺いだ琉球王朝の第3代尚真王は、その後を宮古島の仲宗根に委ね、先島諸島の経営を始めるが、2年後には王府の直接統治へと移行する。琉球王朝の黄金期といわれる時代を迎え、奄美諸島から先島諸島までを支配下に治める。
 先島のスクの時代からの貿易によるメリットもそっくり手にして、東南アジア貿易の中継地としての繁栄もしばらくは続く。中国から持ち込まれた藩薯芋(後にこれが薩摩藩を経て本土に伝わり、サツマイモと呼ばれる)のおかげで、食糧事情は好転し、飢饉餓死者も減少した。
 しかし、宮古を含む先島は、琉球にしてみれば遠く離れた占領地に過ぎなかった。琉球化とその支配はどんどん強化され、その圧力は苛烈な人頭税の実施につながっていく。先島の人頭税は米納と上布代納で、15歳から50歳までの住民に対し、その担税能力には関係なく一律に負担を強要するものであった。
 その重税が産んだ悲劇は、数多くの歌や伝説になって伝えられているが、琉球がこうした強引な政策をとらざるを得なかったのは、1500年代末期頃から琉球を通じて明と貿易することを画策する薩摩藩が琉球になにかと介入を始め圧力を強めたためだ、とする説もある。
 だから、それが許されるというようなものではなかったこの税制は、居住の自由をも奪っていた。人口の少し多い島から、未開拓の島へ住民の移植を行なう強制移住によって新しく村を開かせる開拓政策を伴っていた。また、米で納税することを強制され、稲作ができる地を求めて未開地へ移住することもあった。ところが、そうした村のほとんどは、マラリアによって全滅するという悲惨なことになった。
 薩摩の圧力は、朝鮮出兵から江戸時代を通じて琉球を介した明との間接貿易を有利に進めるために永く続き、ついには幕府が薩摩の琉球侵攻を容認する事態になっていく。
 1609年、琉球に攻め込んだ歴戦強兵の薩摩軍は、たちまちにして首里城を陥れる。その後は琉球王は江戸へ連れて行かれ、江戸幕府の将軍に使節を派遣する義務を負うかたちで従属させられ、また琉球と清との朝貢貿易の実権は薩摩藩が握り、琉球はいわばその隠れみのに使われるようになる。
 明治新政府になっても、いわゆる琉球処分によって、強権的に琉球は日本の一部に位置づけられる。廃藩置県によって、約500年間続いた琉球王国は滅びる。
 この間、明和の大津波被災のうえに重税だけは続くという八重山の過酷な状態は、誰からも省みられることはなく、放ったらかしにされたままであった。驚いたことに、人頭税が廃止されるのは、1903(明治36)年になってからであった。 
 石垣島の南西の端にあたる富崎には、「唐人墓」というものがある。西回り周回道路の側なので、観光バスも立ち寄るポイントだが、ここはこの島が世界史の端っこに関わった、ある事件を記録するものである。
 1852(嘉永5)年に、中国人のクーリー(労働者だが、ほとんど奴隷に近いと思われる)400人を西海岸へ運ぶ途中のアメリカ船で、船員の非道な扱いに決起した中国人が、船長らを殺害した後に石垣島沖で座礁、中国人のほとんどが島に上陸するという事件が起こる。
 琉球王朝と島の人々は、これを人道的見地から小屋を建て、食料や水を供給したが、米英の海軍が三回にわたって来島、砲撃のうえ上陸して島に逃げ込んだ中国人を捜索し、そのほとんどは殺された。自殺者や病没者も続出したので、半数にも満たない生き残った者は中国に送還することになったが、このときの犠牲者を祀ったのが唐人墓なのだ。
 そうかと思うと、1880(明治13)年には、日本政府が清国との交渉の過程で、宮古・八重山の先島諸島を清国へ割譲するという提案をし、条約の仮調印までしていたという事実もあった。
 これも驚くべき話なのだが、この当時の日本人、政府のこの地域への関心の低さを物語る以外のなにものでもない。やはり、琉球にとって八重山は搾取の対象でしかなく、代わって支配した日本にとっても八重山は捨て石に過ぎなかった。日本の琉球処分に反発した清国との間で、日清修好条規に最恵国待遇条項を追加させる見返りに提案したと思われるが、幸いにも李鴻章の反対によって正式妥結にはいたらないまま、日清戦争になだれ込んでいく。
 日清戦争に勝った日本は、清国から台湾を割譲させ、同時に改めて琉球に対する日本の主権を認めさせた。この時点で、中国側の尖閣諸島を含む琉球諸島は日本領として正式に承認し認識することになり、両国間では領土問題には一応の決着がついていた。
 太平洋戦争では、飛び石作戦のアメリカ軍も、戦略的に重要でないとみた先島諸島を素通りして、沖縄本島を取り囲む。そのため、八重山では艦砲射撃を受けたくらいで上陸はなく直接アメリカ軍との間での戦闘はなかったが、駐屯した日本軍の命で西表島などに強制避難させられた住民の多くが、マラリアによって死亡した。その犠牲者は、戦没者よりもはるかに多かったという。
 こうして大急ぎの駆け足で眺めみると、八重山の歴史は、ほとんど忘れさられた捨て石、それにマラリアと強制移住(開拓)が、大きなキーワードになっているようにも思える。
 「なんくるないさー」と島の老人たちがいうとき、それがこうした歴史を生き抜いてきた先祖をもつ子孫のことばだと思うと、また別の重みが感じられるのである。
 「石垣島だより」(シーズン1)は、これにて一段落とし、また通常ペースに戻ります。
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 短期集中連載『石垣島だより』 (シーズン1)項目リンクリスト(2011/12/22〜2012/01/31)
 追加参照:本土ではみんなが忘れている戦争の記憶を伝える沖縄でも異色の八重山平和祈念館(45)(石垣島だより シーズン2)

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ブーゲンビリアにハイビスカスにミニサンダンカなどが冬でも咲いているがこの春デイゴの花は咲くか(29) [石垣島だより]

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 本土の人間が沖縄を訪れたとき、最初に「南国へやって来た!」と感じるのは、那覇空港に降りて、季節を問わず通路にずらり並んだ色とりどりのランの花々が出迎えてくれるときであろう。
 石垣島でも、冬でも咲く花が多いので道を歩いていても、道路際や並木の植え込みや、民家の庭や門口に、華やかな色彩が溢れている。もちろん、本土と同じ花もあるけれど、やはりいかにも沖縄らしいブーゲンビリアやハイビスカスやミニサンダンカやトックリキワダの花、それに並木のヤシにたわわに実った実が赤く色づいているさまは、冬でも20度の温度をさらに上げているようでもある。
 島では「アカバナ」と称されているハイビスカスは、なかでももっとも代表的なもので、どこの家の庭にも垣根にも、よく見かける。元来のアカバナはその名の通りまっ赤な花で、葉まで赤みを帯びている。
 同じような形をしている花でも、色違いのものがいろいろたくさんあって、それらは栽培種なのか、葉も別種のように異なっている。
 街路のフラワースペースなどでよく見かけるノボタンは、本土でも園芸品種として人気があるが、ここではこれが在来種だという。
 石垣屋へ行ったとき、中庭に大きな木があって、花をつけていた。これがトックリキワダで、ここでは開店のときに移植したのだが、12周年の今年になって、初めて花をつけたのだそうである。それくらい、気むずかしい花らしいので、市では港周辺の公園や街路に植えているが、そうどこにもあるというものでもない。
 これが初夏や夏や秋には、どうなるのだろうか。多くは変わらず、年中咲いているのだろうが、実は夏の石垣島にはまだ来たことがないので、実感としては未体験。
 今回は、ちょっとシーズンにはまだ早かったのだが、本土のサクラに相当するのがデイゴといわれている。沖縄県の県の花であり、琉球大学の合格電報の文面が「デイゴ咲く」だとか、一時期大流行したTHE BOOMの「島唄」の歌詞で「デイゴの花が咲き〜」というのがあるので、見たことがない人でも知っている人は多い。
 実際は、サクラとはまったく違う風情のまっ赤で大きくて華やかな花だが、これがまたトックリキワダに似て毎年花が咲くという保証はないらしい。それでも、ここ数年の石垣島ではデイゴの花がほとんど咲かないという事態は、普通ではない。異常な春が続いている。
 主にデイゴヒメコバチというムシが広める病虫害被害によるもので、デイゴの葉や幹にこのハチが産卵しムシこぶをつくって木を弱らせてしまい、枯らしてしまうこともあるという。台湾方面から飛来してきたムシらしいのだが、島では対策プロジェクトを進めるNPOなどの活動を支援するなどしてきた。が、それも今年度でその当初の計画期限が到来する。
 しかし、まだデイゴの完全復活には遠いようである。島では、引き続き対策を進める必要があるという声が強いが、海を越えて飛んできてデイゴを咲かなくしてしまう外敵に、これを防御駆除する決定的な方策も、まだみつかっていないようだ。 果たして、この春はデイゴの花は咲くことができるのだろうか。
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サンゴ礁の島はサンゴの岩石と琉球石灰岩でできていて貴重な建材となってきた(28) [石垣島だより]

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 今さらだが、沖縄や先島の島々は、サンゴ礁にぐるりを取り囲まれている。というより、専門的にはともかく、素人的にはサンゴ礁が隆起してできた島々と考えてもいいのだろう。
 八重山の島々は、1億7400万年前に隆起と沈降を何度も繰り返しながら、徐々に石灰岩の低くて平らな島ができあがり、それが大陸からは切り離されて残ったものと考えられている。
 島の浜辺には、サンゴの破片や塊などがごろごろしており、砂は少ない。一見砂のようにみえるものも、やはりサンゴが小さく砕かれたものだったり、一部では“星砂”と呼ばれるプランクトンの死骸だったりする。
 石垣島のサンゴ礁は白保だけではなく、島全体を取り巻いているのだが、風や波の当たり具合が成育に影響するので、とくに東海岸で発達しているといわれている。
 今から14〜15年くらい前だったと思うが、サンゴの白化が問題となったことがある。サンゴが大量に死滅し、その死骸は白くなってしまう。ちょうど、その頃だったのだろう。川平のグラスボートに乗ってみたときには、サンゴ礁には白いものが目立っていた。
 淡水が混じると、サンゴの成長が阻害されるので、川の流れ込むところなどには切れ目ができる。そこが舟の通路になる。大浜や宮良には切れ目があるが、白保にはなかった。だから溝を掘る必要があったのだろう。
 真栄里から延びるサンゴ礁は、石垣港の南側を大きく迂回して竹富島につながっている。石垣港付近はサンゴ礁はなく(取り除かれて)、竹富東港へ入る船はサンゴ礁の切れ目を示す標識の間を通っていく。
 水深が深いところでは、サンゴ礁も問題にはならない。小浜島とその周辺の小島は、ひとつのサンゴ礁で囲まれており、西表島はまた別のサンゴ環が取り巻いていて、そのサンゴ礁とサンゴ礁の間が、マンタの通るヨナラ水道である。
 このように、この地域では、地図でもサンゴ礁の表記は欠かせないはずなのだが、もちろんZENRINソースのネット地図では、まったくこれも無視している。
 島の基盤は、いわゆる琉球石灰岩と呼ばれるサンゴ礁がつくりだした岩盤でできていて、それが露出した道もある。岩盤の上にかぶさっている薄い表土は、大陸から分かれるときくっついてもってきた古い地層とみられる。
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 こういう島だから、少し掘れば、岩や石がごろごろ出てくる。それらを取り除いて重ねていくと、石垣は自然にできてしまう。その名も“石垣島”という名は、この島の様子を端的に示す表現であったのだろう。
 また、鍬が入る土の下には、岩盤に行き当たる。それを切り出した石材は、島では貴重な建材になり、歩道の敷石や壁など、広く活用されている。
 この琉球石灰岩は、古いサンゴ礁が隆起してできたもので、有孔虫や小さな貝類などさまざまな生物の化石とその隙間を泥や砂が埋めて固まった岩である。見たところ、本土の岩に比べれば、比較的加工はしやすい石材のように思われる。八重山の島々の海岸では、裾が大きくえぐり取られた、壷を逆さにしたような岩や小島を見ることが多いが、これは波の作用で岩が削られたものであろう。
 こういう本土から遠く離れた島へ、石などをわざわざ運んでくることは、滅多にあるまい。琉球石灰岩やサンゴ礁の岩塊は、“地産地消”の代表のようなものではないか。
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