なんとかかんとか復活しつつあるのかデイゴも咲くうりずんの頃(55) [石垣島だより]

THE BOOMの「島唄」の歌詞で、初めて知ったという人も多いのだろう。デイゴは、沖縄県の県の花になっている。本土のサクラと対称されることも多いが、当然ながらまったく違う。
このデイゴの花が、近年非常に花付きが悪くなっていた。害虫のせいである。その害虫は、台湾などから飛んで来て住み着いてしまったデイゴヒメコバチで、その被害は拡大する一方であった。この虫がつくと、デイゴの葉や幹に産卵するので、虫こぶをつくったり花がつかなくなる。最悪の場合は木を弱らせて枯らすこともあるという。
とくに台湾に近い石垣島では深刻な事態になっていて、薬を打ったり散布したり捕獲かごをつけたり、さまざまな対策がとられてきた。

何年かそういう努力を続けてきた効果が、やっと出始めた…ということなのだろうか。
今年は、あちこちで花が咲いているのを見かけた。

真栄里のゴルフコースにも、何本ものデイゴがある。そのうち数本にはまだ弱々しいながら、一生懸命花を咲かせている。
なかなか派手な花だが、花びらは半月形二つ折りが房状に集まっている。マメ科の植物だと聞けば、なにか花もマメの花に似ているような…。色も深紅なので、これが木いっぱいに咲くと、それはそれは見事なものである。

いつだったか、それこそ那覇のハーバービューに泊まって首里城に行ったときに、城壁の下で満開のデイゴの大木を見て感激した。
だが、デイゴはサクラと違って、ずいぶん神経質そうなのだ。
サクラはどこでもどの木でも、咲く時期になるとまず必ず咲いてくれるが、デイゴはそうはいかない。
木によって、咲いたり咲かなかったりする。年によって咲いたり咲かなかったりする。

そういえば、同じ時期でも木によって、葉っぱが多いのやら少ないのやら、まるでないのやら、まったく同じ種類の木とも思えないくらいまちまちなのだ。

これだと、いたるところ群れになってデイゴの満開などという風景は、あまり期待できないことになる。
沖縄では、立春から梅雨入りまでの間を「うりずん」という。“潤い始める”という意味らしい。おなじみのハイビスカスやブーゲンビリアなどは、冬でも咲いているが、とにかく本土ではみたことがない名前もわからない花々が、デイゴだけでなくさまざまな花が咲き乱れる。
だが、連休に入る前に石垣島は大雨に襲われたらしいので、もう梅雨の気配なのか…。





島いちばんの高級ホテルはANAインターコンチネンタルホテルで…(54)(シーズン3) [石垣島だより]

マエサトビーチからモンパノキの帯を越えたところにある白亜の階段状の建物が、ANAインターコンチネンタルホテルである。ここにもこれまで何度か泊まっているので、今回はその隣り(といっても建物と建物の間は300メートル以上も離れている)にある安いホテルにした。

お茶でもと思って、久し振りに中に入ってみたら、だいぶ中の様子が変わっているような気がした。レストランの名前は変わっていないようだが、ディナーだけで、カフェは午後2時からだし、ランチがとれるところもひとつのみになっている。ロビーも落ち着けるところがない。
このホテルは、石垣島ではまず一番高級なホテルであるが、名前も微妙に変わってきているので、ホテルの経営なども外見からはわからないいろいろがあるのだろうと推察できる。

インターコンチネンタルホテルは世界各地にあるようだし、東京にも数か所あるが、「ANA」がついているのは少ない。那覇のハーバービューにも泊まったことがあるが、そこも最近の名前は「ANAクラウンプラザホテル沖縄ハーバービュー」となっている。
なかなかややこしそうだが、ここ石垣島では「ANAインターコンチネンタル石垣リゾート」と「リゾート」がついている。広い内庭にはプールも結婚式用の教会もある。ちょうど、式を終えたらしいカップルが、ビーチで記念撮影などしていた。温泉ではないが大浴場スパの施設もあって、これがなかなかうまくできていた。
ANAというだけあって、いかにもパイロットという格好をした人が大きな荷物といっしょにロビーで待っていた。JALのほうは別に日航ホテルがある。
新空港と離島桟橋のあいだを結んで、路線バスが二系統走っているが、そのうちのひとつの路線が、このホテルの玄関前を停留所のひとつとしている。が、路線バスでここに出入りする人は少ないようだ。

確か、記憶ではタワーウイングの西に隣接しているコーラルウイングは、昔はサンコーストという別のホテルだったのを、糾合したような感じだった。料金もいくらか差がある。
料金といえば、こうした高級ホテルの料金には、ずいぶんふしぎな感覚があるもので、生活感が狂ってしまうのだ。

ただひとつ開いていたところで、飲み物を入れると3,000円に近いビーフカレーをいただいてきた。ビュッフェスタイルのほうが安いくらいだったが、この頃はなんでもどこでもバイキング形式なので飽きているし、自分で取りに行くのがめんどくさいので…。
さすがにお肉はおいしかったけど、

思えば、ここに泊まっていた時分は、それなりバブルであった。
もう、ここには泊まれんよなあ、という正直な感想を新たにしつつ、また隣のゴルフコースの端へ。やっぱり、ぼんやりするにはここがいちばんだな。





モンパノキやアダンなど亜熱帯の植物が海岸線を長く緑の帯で縁取る(53)(シーズン3) [石垣島だより]

石垣島の海岸の砂は、多くはサンゴの死骸が細かく砕かれてできたものである。砕かれ具合も場所によってかなり違い、白保などの海岸では砂というよりサンゴの塊の石で埋まっている。

真栄里では人工砂浜以外のところでも、細か目の砂が多く、そこにはハマヒルガオのような小さな朝顔状の花をつけた植物が蔓を伸ばし、砂に根を張ろうとしている。砂浜も上のほうにはこうした植物がいろいろ砂とせめぎ合っている。

その上は、密集した植生が緑の堤防のようになって、海岸と陸地の境界線をつくっている。この緑の帯はさまざまな植物が繁茂していて、簡単にそのなかに分け入っていくことはできない。

そのなかで、いちばん幅を利かせている植物は、どうやらモンパノキやアダンなどの亜熱帯の植物のようである。
モンパノキは、沖縄ではどの島でも普通にそこらじゅうでよく見られる木であるが、風や潮にも強いので海岸線によく自生している。防風林として植えられることもあるようだ。大きいのになると高木になるが、そこらの海岸にあるのは風のためか低く茂っている。

多肉質の葉っぱに特徴があり、表裏に細かい毛が密生している。この葉っぱを天ぷらにして食べるという人もあるらしいが、あまり食習慣として広がっていないところをみると、さほどおいしいものではなさそうだ。
木の葉の手触りの感触から、その名がついた。漢字で書くと「紋羽の木」となるが、「紋羽」はビロードだという説明がネットでは多く使われているが、本当だろうか。どうもそれも、決めつけるだけの材料は乏しいのであやしいのではないか。ビロード、コールテン、ベルベット、別珍…。実は区別がよくわからない。
国語辞典では、紋羽二重(もんはぶたえ)というのがあって、高級生地の羽二重に紋を浮かせた一級品の生地であるとか、ネルのように柔らかく起毛させた綿織物のことをいうとしている。紋羽は足袋裏や肌着などに用いられたというし、地質が粗いというので、ビロードとはちょっと違うような…。
ともかく、その葉からついた名のほかに、ハマムラサキノキ(浜紫の木)という別名もある。
海岸を歩いていると、とにかく暑い。日陰が恋しくなって、このモンパノキの下にもぐり込んで一休みすると、こんな感じ。

だいたいにねじ曲がった枝振りになるので、高木でもあまり建材向きではないようだが、軽くて柔らかい木質なので加工しやすく、もともと材木が少ない沖縄地方では貴重な木材になってきたようだ。
それで思い出したぞ。
初めてやってきた八重山で、初めて訪問した波照間島で、「モンパの木」という店に立ちよった。そこで、この木を組み合わせて作った枕(のようなもの)を買ってきたんだった。
あれは、どこへいったのだろう? もう、とっくに片付けられてしまったのだろうか。
そうそう。最近ではこの木の小さいのを観葉植物として通販などで売っているらしい。
それでもうひとつ思い出したのは、でんでんむしも、最初にきたときに、やはりそこらに生えていたクワズイモを見て、これを鉢植えにして銀座のインテリアショップで売れば売れるだろうと思った。モンテスラなどによく似ているし…。





マエサトビーチは人工の砂浜で干潟もほとんど生物がいないのでちょっと淋しい…(52)(シーズン3) [石垣島だより]

「珊瑚礁」という響きには、深い憧れがある。多くの人がそうではないだろうか。石垣島はそのぐるりをほとんど全部、珊瑚礁で取り巻かれている。
だが、通常はそれは遠くの水平線の手前のリーフに砕ける波が白い帯となって見えているだけで、そこへ行くには船でもチャーターしないと行くことはできない。

島には、砂浜のきれいなビーチがあちこちにたくさんあるが、海水浴場など観光行楽施設としてあげられるところは、川平や底地、フサキや米原など数か所があるだけだ。
マエサトビーチもそのひとつなのだが、ほかと違ってここはどうやら人工の砂浜らしい。ANAのホテルができるときに、あわせて整備されたのかもしれないが、ホテルのビーチ施設がある。

公の海岸なので、ホテルが独占するわけでもなく、ただ一本のビーチへの入口からは誰でも自由に出入りすることができる。ホテルの宿泊者用にはパラソルやビーチタオルなどの便宜も図られているが、宿泊者でなくとも料金さえ払えばすべてのサービスを利用できる。

木陰のない砂浜では、ビーチパラソルが必需品だ。直接日が当たらなくても日に焼ける。いちおう日焼け止めは塗っていたが、足に塗るのを忘れていたので、足の皮はむけてしまった。

このビーチは、珊瑚礁の内側海岸の一部を二本の石積み堤防で囲い、そのなかの岩を除いて砂を入れたものだろう。

その石積み堤防の外側は、ビーチ造成前の真栄里の海岸であった、その昔のままの様子を示している。珊瑚礁のなかはラグーン(礁湖)と呼ばれる。石垣島の周囲を取り巻くラグーンは、見た目にはいわゆるエメラルドグリーンの浅い海面が広がっている。

「珊瑚礁」のなかの広くて平らな浅瀬は、そのほとんどが琉球石灰岩の岩だなで覆われている。干潟には緑の海藻があり、浅いポンド(潮だまり)もたくさんあるが、一般的に想像される干潟の楽しさは、残念ながらここにはない。
なぜか、生物・生命というものがほとんど眼につかないからである。

瀬戸内海で過ごした人にはよくわかるだろうが、普通干潟や潮だまりといえば何種類もの小魚や貝類や海藻類や、ヒトデや海鼠やウミウシなどなど、たくさんの生物であふれかえっている。
場所にもよるのだろうから、いちがいに決めつけることはできないだろう。あるいはまた、珊瑚礁のリーフ近くまで行けば、もっと事情は変わるのであろう。が、瀬戸内海や三浦半島のそれから比べると、石垣島の海岸の干潟は淋しい。

ちょうど引き潮の磯でわずかに見つけた生物は、体中に藻のようなものをくっつけた小さなカニと、三本の長い角を出しているイソギンチャクの仲間のようなものくらいであった。

ビーチの西は八島の港湾に続き、東には原発をもたない唯一の電力会社沖縄電力の塔があり、その先は大浜の海岸につながっている。





南北に10キロも続く真栄里という地域の南の端っこに日陰を求め(51)(シーズン3) [石垣島だより]

初めて石垣島へやってきて、10日ほどかけて八重山の島々をめぐったのは、1992〜3年のことだった。ちょうど30数年勤めた会社を辞めて、初めてまとまった時間が自由になったときで、さあどこへ行こう、というときに迷わず選んだのが八重山だった。
以来、八重山とはふしぎな縁ができて、何度か行っているが、八重山の岬めぐりもひととおり終わっているので、今回は短期滞在。
旧空港に近くても何のメリットもないが、まだ泊まったことがない真栄里(まえさと)のホテルにした。
真栄里というのは、石垣島の地域名のひとつで、島の南端部にその中心がある。もう古い話になった甲子園出場で話題になった八重山商工がある付近から、珊瑚礁の海岸に沿って東に、マックスバリューもサンエーもしまむらもメイクマンもと、大型ショッピングセンターが集まるところやゴルフ場やANAのホテルがある地域である。
ここにはマックやミスドもあるし、TSUTAYAもある。その並びには沖縄県庁の八重山支所や刑務所まであるのだ。だが、マックにミスドがあっても、本土の地方都市にあるような街並みを想像してくると、その印象はずいぶん違うだろう。
そこから北へ行くと、旧空港跡地が広がり、そこから北はほとんど牧場と田畑、あるいは未利用地ばかりとなる。途中には三和(みわ)や於茂登(おもと)といった集落を細くなってつなぎながら、真栄里はついに於茂登岳まで達するのである。
標高526メートルの於茂登岳は、石垣島の最高点であるばかりでなく、沖縄県の最高峰でもあるが、そのてっぺんに近いところまで、真栄里という地域は広がっている。

あんまりふしぎでおもしろいので、前にも書いた記憶があるが、石垣島の地域分けはこの於茂登岳から放射状に広がっている。それは全部ではなく、於茂登岳の山頂付近(これがまたおもしろいのだが、その頂点は山頂より北東に500メートルほどずれている)に集まってくるのは、真栄里のほか、時計回りに平得(ひらえ)、登野城(とのしろ)、名蔵(なぐら)、川平(かびら)、桴海(ふかい)の6地域だけなのだ。

その様子は、地図でなければわからないが、国土地理院ではだめなので、こういう場合はMapionのほうが役に立つ。なにしろその線引きときたら、「真栄里をなにがなんでも於茂登岳まで引っ張っていくぞ!」という、明確な意思がなければとうていできないような線の引き方をやっている。

これら6地域はどれもみな海岸線をかかえているので、於茂登岳から海岸までを取り込む境界線で仕切られている。その線引きは複雑にでこぼこしているが、各境界線が集まる山頂付近では、はっきりした直線で放射状なのだ。
このような線引きができた理由としては、入会権などが想像できる。だが、まだこれの原因や歴史的ないきさつについては調べていない。調べようと思いながらそのままになっていた。
だが、今回はもっぱらこの真栄里の海岸近くで、だらだらとすることにしていた。ほかの島へもどこへも行かない。島内もうろうろしない。真栄里だけで、それも海岸の付近だけ…。

4月の石垣島は、もう本土の真夏である。
Tシャツ一枚に長目の半パンツにゾウリ、というスタイルでも、背中から照りつける太陽が焼き付くような感じがある。なので、あまりうろうろもできない。

もっぱら、ゴルフ場の端にある数本のデイゴなどの樹木がつくる日陰の、草の上に座り込んで、文庫本を読んで過ごす。こういうときも、やはり電子書籍よりは紙の本でしょう…。そう思うのは、もうでんでんむしも古い時代の人間になったから、だろうか。

真栄里といっても長く広いので、山頂付近からここ海岸までは10キロ以上も離れている。したがって、於茂登岳も遠くその頭を覗かせているだけである。





短期集中連載『石垣島だより』 (シーズン2)項目リンクリスト(2014/01/20〜2012/02/18) [石垣島だより]

石垣島の中央運動公園で千葉ロッテマリーンズがキャンプイン(32) [石垣島だより]
赤い瓦の屋根と白いしっくいが妙にしっくりする八重山の家(33) [石垣島だより]
八重山の赤い寄棟屋根にはゴツゴツの石を野面積みした石垣が似合う(34) [石垣島だより]
ミサキの神の美崎御嶽をはじめ石垣島にもたくさんのうたきがそこらじゅうに(35) .. [石垣島だより]
石敢當とは直進してくる魔モノ除けの装置だが似たようなモノが…(36) [石垣島だより]
島では街路樹が道の風情をかもしだし学校の校門花壇もすばらしいよ(37) [石垣島だより]
市役所や図書館や離島ターミナルのある埋立地には市民会館もあって(38) [石垣島だより]
大浜信泉記念館から亀甲墓まで飛び飛びながらつながっていくように(39) [石垣島だより]
思ひやる八重の汐々…石垣島の柳田国男の歌碑は三度目の正直でやっと“発見”..(40) [石垣島だより]
また石垣島に戻ってきて今度は石垣島の情報についてのあれやこれやから(41) [石垣島だより]
「わ印」の人には関係ないが石垣島のバス路線でとりあえず島内を周回できる..(42) [石垣島だより]
名蔵アンパルは石垣島の自然のゆりかごラムサール条約指定の湿地で国指定の鳥..(43) [石垣島だより]
石垣島の鍾乳洞は二つあるのかどうかを究明に現地へ行ってみたら(44) [石垣島だより]
本土ではみんなが忘れている戦争の記憶を伝える沖縄でも異色の八重山平和祈..(45) [石垣島だより]
戦争の記憶を伝える八重山戦争遺跡のひとつは石垣島測候所の壁で(46) [石垣島だより]
島の北西側にある川平湾は島を代表する観光地とはいうものの…(49) [石垣島だより]
なぜか気になる日本の最西南端八重山の歴史そのポイントを改めて整理してみる(50) [石垣島だより]
なぜか気になる日本の最西南端八重山の歴史そのポイントを改めて整理してみる(50) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]












島の北西側にある川平湾は島を代表する観光地とはいうものの…(49) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]


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▼国土地理院 「地理院地図」
24.452487, 124.14478




宮良殿内と桃林寺と権現堂からかいまみえるものは八重山の歴史のポイント(48) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]





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▼国土地理院 「地理院地図」
24.341217, 124.159844




国際用語になっている“TSUNAMI”の力を伝える石垣島大浜の大津波石(47) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]



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戦争の記憶を伝える八重山戦争遺跡のひとつは石垣島測候所の壁で(46) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]





本土ではみんなが忘れている戦争の記憶を伝える沖縄でも異色の八重山平和祈念館(45) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]






▼国土地理院 「地理院地図」
24.397522, 124.148185

こういうとき、なんも表記に愛想がない地理院地図はものたりない。市街地の地図はやはりZENRINソースのMapionに負けているのは残念だ。

石垣島の鍾乳洞は二つあるのかどうかを究明に現地へ行ってみたら(44) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]

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▼国土地理院 「地理院地図」
24.397522, 124.148185




名蔵アンパルは石垣島の自然のゆりかごラムサール条約指定の湿地で国指定の鳥獣保護区で(43) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]







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▼国土地理院 「地理院地図」
24.397522, 124.148185




「わ印」の人には関係ないが石垣島のバス路線でとりあえず島内を周回できるようになった(42) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]




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また石垣島に戻ってきて今度は石垣島の情報についてのあれやこれやから(41) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]






思ひやる八重の汐々…石垣島の柳田国男の歌碑は三度目の正直でやっと“発見”(40) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]





籾種ばかりを只ひょいと手渡しされたところで、第一食べて見ることすらできない。単に栽培者が自ら携えてきたという以上に、父祖伝来の経験が集積調和して、これを教訓の形をもって引き継がれなかったら、この作物の次々の改良はさておき、外部の色々の障碍にすらも、対抗することができなかったろう。 すなわち最初から、少なくともある程度の技術とともに、あるいはそれ以外に米というものの重要性の認識とともに、自ら種実を携えて、渡ってきたのが日本人であったと、考えずにはおられぬ理由である。
確かに、たとえ稲の籾だけが渡ってきたとしても、それが稲作にすぐに結びつく可能性は極めて低い。池をつくって水を溜め水を引く灌漑技術と、水田で稲作を営む技術をもった指導者がいなければ、とうてい成り立たなかっただろう。


▼国土地理院 「地理院地図」
24.357682, 124.247785




大浜信泉記念館から亀甲墓まで飛び飛びながらつながっていくように(39) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]










市役所や図書館や離島ターミナルのある埋立地には市民会館もあって(38) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]


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島では街路樹が道の風情をかもしだし学校の校門花壇もすばらしいよ(37) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]

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石敢當とは直進してくる魔モノ除けの装置だが似たようなモノが…(36) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]


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ミサキの神の美崎御嶽をはじめ石垣島にもたくさんのうたきがそこらじゅうに(35) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]














八重山の赤い寄棟屋根にはゴツゴツの石を野面積みした石垣が似合う(34) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]





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2月6日、当地ではSo-netブログの更新アップや閲覧が、なんどやってもうまくいかなかった。
▼国土地理院 「地理院地図」沖縄地方(2014/01 訪問)
赤い瓦の屋根と白いしっくいが妙にしっくりする八重山の家(33) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]
内地からやってくるないちゃーが、いかにも沖縄にやってきたなあという感を強くするのは、気温のほかにはハイビスカスやブーゲンビリアなどの色鮮やかな南国の花々と、赤い瓦を載せた独特の民家の屋根を見るときだろう。だが、空港に着陸態勢に入った飛行機の窓から見ても、その赤い屋根が極端に多いとも言えない。
とくに、戦火から復興した本島では、市街地でも住宅地でも、白やグレーの四角い箱のような家が主流であるようだ。初めて本島を訪れたときには、それが強く印象に残っていた。それに比べるとより小さな町である石垣市では、町のなかを歩くと、やはり四角い箱のような家がほとんどだが、その間にまじってそこここに赤い屋根の家がある。
それを、まだたくさん残っているというのか、はたまたどんどん減ってきたというのか、よくわからない。
しかし、赤い屋根の家は、古い家ばかりに残っているだけかといえばそうではなく、新しい家でも赤屋根の家も多い。石垣の住宅街のなかに、赤瓦を焼いている瓦屋さんがちゃんとあるのを発見した。
当然ながら地元八重山の人々には、赤屋根に対するこだわりと執着は、根強いものがあるようだ。赤い屋根は消え行く郷愁のシンボルではなくて、今現在も生き続ける地域の重要なお化粧なのだ。
その証拠というのも変だが、まず行政にその意識がはっきりとあるようで、公共施設の建物などには、赤い屋根がどこかに使われている。なかには、ビルなのに赤屋根を一部にくっつける例も多いし、単なる板金の屋根を、赤く塗っているのもあったりする。
町の中にできるだけ赤屋根を増やそうという運動とか、助成があるのかどうかは知らないが、その努力は感じられる。道の狭い町中では限られるが、ベンチやバス停などの屋根も赤屋根にするのが広がっている。これはまず観光客の多いところから始まったようだが、島の郊外では休憩所や展望台などは必ず赤屋根でつくられている。
石垣に限らず八重山の各島に共通して、島の中の人にとっても島の外の人にとっても、この赤い屋根は八重山のシンボルであることには間違いない。
いやいや、赤い屋根なんてどこにでもというか、ほかにもあちこちあるんじゃないですか。そう、ありますね。でんでんむしの故郷広島でも東広島市の赤瓦は山陽新幹線からも見えるので、印象が強いようだ。ほかにも地方ではあちこちにあるだろう。
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よく見ると、この漆喰の使い方にもいろいろあって、ほんとに継ぎ目にしか使わないであまり目立たないのと、大盛りのてんこ盛りにして瓦の赤よりも白い漆喰のほうが目立っているようなのもある。また、色も白だが微妙にクリーム色っぽいものや経年変化で白くなくなったのもある。
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この赤瓦の風習は、どこからきたのだろう。沖縄本島での赤瓦は18世紀頃の首里から始まって、それは権力と身分の象徴として使われたらしい。そもそも色もさることながら、瓦自体が首里の王府や士族や高官以外にはその使用は認められなかった、というのだ。ということは、普通は板葺きか藁葺きだったわけだ。
明治も半ば頃になってからその規制が撤廃されて、一般に誰もが瓦が使えるようになったとき、王府を真似て誰もがこぞって赤瓦を使うようになっていったのは、よくわかるような気がする。



石垣島の中央運動公園で千葉ロッテマリーンズがキャンプイン(32) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]









▼国土地理院 「地理院地図」
24.345028, 124.171268




石垣島の新しい空港はカーラ岳の南側で白保の海に近い盛山に(31)(石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]









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▼国土地理院 「地理院地図」
24.390401, 124.24569




短期集中連載『石垣島だより』 (シーズン1)項目リンクリスト(2011/12/22〜2012/01/31) [石垣島だより]
■めずらしく快晴になったけれども石垣島は冬場はいつもあまり天気がよくない(01) [石垣島だより]
■石垣市の中心街は島の南西部海岸沿いの比較的平坦な地域に限られている(02) [石垣島だより]
■目的はあるようなないようなないようなあるような石垣島滞在中(03) [石垣島だより]
■ライト兄弟から108年、初めてここに降りたときから18年、もうあと2年だけがんばる石垣空港(04) [石垣島だより]
■八重山(やいま)の島々へは石垣港離島ターミナルから出る連絡船で(05) [石垣島だより]
■もうひとつのターミナルは東運輸のバスターミナルで主要幹線は30分毎(06) [石垣島だより]
■石垣市立図書館のリサイクルコーナーから古い歴史全集の本をもらってきた(07) [石垣島だより]
■左から右へ揺れ動く民意のなかで混迷する八重山の教科書採択問題(08) [石垣島だより]
■ここは「右から左になった日」を記念しているんだけどそれは車の走行ルールの話(09) [石垣島だより]
■ここが商店街では初の命名権委譲が行なわれた“最南端の商店街”ですが(10) [石垣島だより]
■やいま大通り(市役所通り)いそがずあせらずなんくるないさー(11) [石垣島だより]
■家々の玄関のうえには日の丸のついた正月飾りがあるのを見ると…(12) [石垣島だより]
■日本最南端・最西端の八重山の重要港湾である石垣港は国境の港でもある(13) [石垣島だより]
■はるか南の海からやってきた人を思う海人の祭りハーリー会場の新川漁港(14) [石垣島だより]
■島の最多人名は“宮良さん”で地域名の境界線の区切り方がとてもおもしろい(15) [石垣島だより]
■とぅばらーま記念碑とアコウの大木がある「なかどー みちぃ(仲道路)」(16) [石垣島だより]
■マックスバリューとサンエーとかねひでとココストアとさしみ店ときいやま商店と…(17) [石垣島だより]
■宮良殿内や桃林寺のある中心市街地をちょっと外れるととたんに田園風景になる島の観光は…(18) [石垣島だより]
■石垣島の農業は開拓とともに苦難の連続で畜産は地域ブランド「石垣牛」を産む(19) [石垣島だより]
■ここから水平線の上に南十字星が見えるらしい大浜の海岸とその続きの海岸はこんな感じ(20) [石垣島だより]
■八重山の英雄オヤケアカハチの拠点があった大浜には御嶽(うたき・おん)もいくつもある(21) [石垣島だより]
■石垣島は駅伝もマラソンもトライアスロンも自主トレもキャンプも…(22) [石垣島だより]
■ここがオヤケアカハチの居城跡なのか?フルスト原遺跡で先島諸島の先史時代に思いをはせる(23) [石垣島だより]
■石垣のマングローブはやっぱり西表には負けてるけどおかげさんで「西表石垣国立公園」になった(24) [石垣島だより]
■先島諸島の無土器文化の位置づけは不思議だがいったいどういうものだったのだろうか(25) [石垣島だより]
■やっと探し当てた明和大津波遭難者慰霊碑はもう記録からも記憶からも遠くなって(26) [石垣島だより]
■白保のサンゴ礁は有名だが見つからない柳田国男の歌碑も海上の道に没したのか(27) [石垣島だより]
■サンゴ礁の島はサンゴの岩石と琉球石灰岩でできていて貴重な建材となってきた(28) [石垣島だより]
■ブーゲンビリアにハイビスカスにミニサンダンカなどが冬でも咲いているがこの春デイゴの花は咲くか(29) [石垣島だより]
■捨て石とマラリアと強制移住は八重山の歴史を知るうえで重要なキーワードになっている(30) [石垣島だより]
「石垣島だより」(シーズン 2)へ…沖縄地方(2011/12/19〜2012/01/24 訪問〜01/31 記)
捨て石とマラリアと強制移住は八重山の歴史を知るうえで重要なキーワードになっている(30) [石垣島だより]
オヤケアカハチとその勢力を殺いだ琉球王朝の第3代尚真王は、その後を宮古島の仲宗根に委ね、先島諸島の経営を始めるが、2年後には王府の直接統治へと移行する。琉球王朝の黄金期といわれる時代を迎え、奄美諸島から先島諸島までを支配下に治める。
先島のスクの時代からの貿易によるメリットもそっくり手にして、東南アジア貿易の中継地としての繁栄もしばらくは続く。中国から持ち込まれた藩薯芋(後にこれが薩摩藩を経て本土に伝わり、サツマイモと呼ばれる)のおかげで、食糧事情は好転し、飢饉餓死者も減少した。
しかし、宮古を含む先島は、琉球にしてみれば遠く離れた占領地に過ぎなかった。琉球化とその支配はどんどん強化され、その圧力は苛烈な人頭税の実施につながっていく。先島の人頭税は米納と上布代納で、15歳から50歳までの住民に対し、その担税能力には関係なく一律に負担を強要するものであった。
その重税が産んだ悲劇は、数多くの歌や伝説になって伝えられているが、琉球がこうした強引な政策をとらざるを得なかったのは、1500年代末期頃から琉球を通じて明と貿易することを画策する薩摩藩が琉球になにかと介入を始め圧力を強めたためだ、とする説もある。
だから、それが許されるというようなものではなかったこの税制は、居住の自由をも奪っていた。人口の少し多い島から、未開拓の島へ住民の移植を行なう強制移住によって新しく村を開かせる開拓政策を伴っていた。また、米で納税することを強制され、稲作ができる地を求めて未開地へ移住することもあった。ところが、そうした村のほとんどは、マラリアによって全滅するという悲惨なことになった。
薩摩の圧力は、朝鮮出兵から江戸時代を通じて琉球を介した明との間接貿易を有利に進めるために永く続き、ついには幕府が薩摩の琉球侵攻を容認する事態になっていく。
1609年、琉球に攻め込んだ歴戦強兵の薩摩軍は、たちまちにして首里城を陥れる。その後は琉球王は江戸へ連れて行かれ、江戸幕府の将軍に使節を派遣する義務を負うかたちで従属させられ、また琉球と清との朝貢貿易の実権は薩摩藩が握り、琉球はいわばその隠れみのに使われるようになる。
明治新政府になっても、いわゆる琉球処分によって、強権的に琉球は日本の一部に位置づけられる。廃藩置県によって、約500年間続いた琉球王国は滅びる。
この間、明和の大津波被災のうえに重税だけは続くという八重山の過酷な状態は、誰からも省みられることはなく、放ったらかしにされたままであった。驚いたことに、人頭税が廃止されるのは、1903(明治36)年になってからであった。
石垣島の南西の端にあたる富崎には、「唐人墓」というものがある。西回り周回道路の側なので、観光バスも立ち寄るポイントだが、ここはこの島が世界史の端っこに関わった、ある事件を記録するものである。
1852(嘉永5)年に、中国人のクーリー(労働者だが、ほとんど奴隷に近いと思われる)400人を西海岸へ運ぶ途中のアメリカ船で、船員の非道な扱いに決起した中国人が、船長らを殺害した後に石垣島沖で座礁、中国人のほとんどが島に上陸するという事件が起こる。
琉球王朝と島の人々は、これを人道的見地から小屋を建て、食料や水を供給したが、米英の海軍が三回にわたって来島、砲撃のうえ上陸して島に逃げ込んだ中国人を捜索し、そのほとんどは殺された。自殺者や病没者も続出したので、半数にも満たない生き残った者は中国に送還することになったが、このときの犠牲者を祀ったのが唐人墓なのだ。
そうかと思うと、1880(明治13)年には、日本政府が清国との交渉の過程で、宮古・八重山の先島諸島を清国へ割譲するという提案をし、条約の仮調印までしていたという事実もあった。
これも驚くべき話なのだが、この当時の日本人、政府のこの地域への関心の低さを物語る以外のなにものでもない。やはり、琉球にとって八重山は搾取の対象でしかなく、代わって支配した日本にとっても八重山は捨て石に過ぎなかった。日本の琉球処分に反発した清国との間で、日清修好条規に最恵国待遇条項を追加させる見返りに提案したと思われるが、幸いにも李鴻章の反対によって正式妥結にはいたらないまま、日清戦争になだれ込んでいく。
日清戦争に勝った日本は、清国から台湾を割譲させ、同時に改めて琉球に対する日本の主権を認めさせた。この時点で、中国側の尖閣諸島を含む琉球諸島は日本領として正式に承認し認識することになり、両国間では領土問題には一応の決着がついていた。
太平洋戦争では、飛び石作戦のアメリカ軍も、戦略的に重要でないとみた先島諸島を素通りして、沖縄本島を取り囲む。そのため、八重山では艦砲射撃を受けたくらいで上陸はなく直接アメリカ軍との間での戦闘はなかったが、駐屯した日本軍の命で西表島などに強制避難させられた住民の多くが、マラリアによって死亡した。その犠牲者は、戦没者よりもはるかに多かったという。
こうして大急ぎの駆け足で眺めみると、八重山の歴史は、ほとんど忘れさられた捨て石、それにマラリアと強制移住(開拓)が、大きなキーワードになっているようにも思える。
「なんくるないさー」と島の老人たちがいうとき、それがこうした歴史を生き抜いてきた先祖をもつ子孫のことばだと思うと、また別の重みが感じられるのである。
「石垣島だより」(シーズン1)は、これにて一段落とし、また通常ペースに戻ります。
短期集中連載『石垣島だより』 (シーズン1)項目リンクリスト(2011/12/22〜2012/01/31)
追加参照:本土ではみんなが忘れている戦争の記憶を伝える沖縄でも異色の八重山平和祈念館(45)(石垣島だより シーズン2)
ブーゲンビリアにハイビスカスにミニサンダンカなどが冬でも咲いているがこの春デイゴの花は咲くか(29) [石垣島だより]









本土の人間が沖縄を訪れたとき、最初に「南国へやって来た!」と感じるのは、那覇空港に降りて、季節を問わず通路にずらり並んだ色とりどりのランの花々が出迎えてくれるときであろう。
石垣島でも、冬でも咲く花が多いので道を歩いていても、道路際や並木の植え込みや、民家の庭や門口に、華やかな色彩が溢れている。もちろん、本土と同じ花もあるけれど、やはりいかにも沖縄らしいブーゲンビリアやハイビスカスやミニサンダンカやトックリキワダの花、それに並木のヤシにたわわに実った実が赤く色づいているさまは、冬でも20度の温度をさらに上げているようでもある。
島では「アカバナ」と称されているハイビスカスは、なかでももっとも代表的なもので、どこの家の庭にも垣根にも、よく見かける。元来のアカバナはその名の通りまっ赤な花で、葉まで赤みを帯びている。
同じような形をしている花でも、色違いのものがいろいろたくさんあって、それらは栽培種なのか、葉も別種のように異なっている。
街路のフラワースペースなどでよく見かけるノボタンは、本土でも園芸品種として人気があるが、ここではこれが在来種だという。
石垣屋へ行ったとき、中庭に大きな木があって、花をつけていた。これがトックリキワダで、ここでは開店のときに移植したのだが、12周年の今年になって、初めて花をつけたのだそうである。それくらい、気むずかしい花らしいので、市では港周辺の公園や街路に植えているが、そうどこにもあるというものでもない。
これが初夏や夏や秋には、どうなるのだろうか。多くは変わらず、年中咲いているのだろうが、実は夏の石垣島にはまだ来たことがないので、実感としては未体験。
今回は、ちょっとシーズンにはまだ早かったのだが、本土のサクラに相当するのがデイゴといわれている。沖縄県の県の花であり、琉球大学の合格電報の文面が「デイゴ咲く」だとか、一時期大流行したTHE BOOMの「島唄」の歌詞で「デイゴの花が咲き〜」というのがあるので、見たことがない人でも知っている人は多い。
実際は、サクラとはまったく違う風情のまっ赤で大きくて華やかな花だが、これがまたトックリキワダに似て毎年花が咲くという保証はないらしい。それでも、ここ数年の石垣島ではデイゴの花がほとんど咲かないという事態は、普通ではない。異常な春が続いている。
主にデイゴヒメコバチというムシが広める病虫害被害によるもので、デイゴの葉や幹にこのハチが産卵しムシこぶをつくって木を弱らせてしまい、枯らしてしまうこともあるという。台湾方面から飛来してきたムシらしいのだが、島では対策プロジェクトを進めるNPOなどの活動を支援するなどしてきた。が、それも今年度でその当初の計画期限が到来する。
しかし、まだデイゴの完全復活には遠いようである。島では、引き続き対策を進める必要があるという声が強いが、海を越えて飛んできてデイゴを咲かなくしてしまう外敵に、これを防御駆除する決定的な方策も、まだみつかっていないようだ。 果たして、この春はデイゴの花は咲くことができるのだろうか。






サンゴ礁の島はサンゴの岩石と琉球石灰岩でできていて貴重な建材となってきた(28) [石垣島だより]



今さらだが、沖縄や先島の島々は、サンゴ礁にぐるりを取り囲まれている。というより、専門的にはともかく、素人的にはサンゴ礁が隆起してできた島々と考えてもいいのだろう。
八重山の島々は、1億7400万年前に隆起と沈降を何度も繰り返しながら、徐々に石灰岩の低くて平らな島ができあがり、それが大陸からは切り離されて残ったものと考えられている。
島の浜辺には、サンゴの破片や塊などがごろごろしており、砂は少ない。一見砂のようにみえるものも、やはりサンゴが小さく砕かれたものだったり、一部では“星砂”と呼ばれるプランクトンの死骸だったりする。
石垣島のサンゴ礁は白保だけではなく、島全体を取り巻いているのだが、風や波の当たり具合が成育に影響するので、とくに東海岸で発達しているといわれている。
今から14〜15年くらい前だったと思うが、サンゴの白化が問題となったことがある。サンゴが大量に死滅し、その死骸は白くなってしまう。ちょうど、その頃だったのだろう。川平のグラスボートに乗ってみたときには、サンゴ礁には白いものが目立っていた。
淡水が混じると、サンゴの成長が阻害されるので、川の流れ込むところなどには切れ目ができる。そこが舟の通路になる。大浜や宮良には切れ目があるが、白保にはなかった。だから溝を掘る必要があったのだろう。
真栄里から延びるサンゴ礁は、石垣港の南側を大きく迂回して竹富島につながっている。石垣港付近はサンゴ礁はなく(取り除かれて)、竹富東港へ入る船はサンゴ礁の切れ目を示す標識の間を通っていく。
水深が深いところでは、サンゴ礁も問題にはならない。小浜島とその周辺の小島は、ひとつのサンゴ礁で囲まれており、西表島はまた別のサンゴ環が取り巻いていて、そのサンゴ礁とサンゴ礁の間が、マンタの通るヨナラ水道である。
このように、この地域では、地図でもサンゴ礁の表記は欠かせないはずなのだが、もちろんZENRINソースのネット地図では、まったくこれも無視している。
島の基盤は、いわゆる琉球石灰岩と呼ばれるサンゴ礁がつくりだした岩盤でできていて、それが露出した道もある。岩盤の上にかぶさっている薄い表土は、大陸から分かれるときくっついてもってきた古い地層とみられる。



こういう島だから、少し掘れば、岩や石がごろごろ出てくる。それらを取り除いて重ねていくと、石垣は自然にできてしまう。その名も“石垣島”という名は、この島の様子を端的に示す表現であったのだろう。
また、鍬が入る土の下には、岩盤に行き当たる。それを切り出した石材は、島では貴重な建材になり、歩道の敷石や壁など、広く活用されている。
この琉球石灰岩は、古いサンゴ礁が隆起してできたもので、有孔虫や小さな貝類などさまざまな生物の化石とその隙間を泥や砂が埋めて固まった岩である。見たところ、本土の岩に比べれば、比較的加工はしやすい石材のように思われる。八重山の島々の海岸では、裾が大きくえぐり取られた、壷を逆さにしたような岩や小島を見ることが多いが、これは波の作用で岩が削られたものであろう。
こういう本土から遠く離れた島へ、石などをわざわざ運んでくることは、滅多にあるまい。琉球石灰岩やサンゴ礁の岩塊は、“地産地消”の代表のようなものではないか。





