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    <title>でんでんむしの岬めぐり</title>
    <link>http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/</link>
    <language>ja</language>

    <pubDate>Fri, 18 May 2012 00:00:00 +0900</pubDate>  
    <description><![CDATA[ただいま和歌山県の岬めぐり進行中。自称『岬評論家』でんでんむしの日本全国津々浦々突端出っ張りコレクション。電車とバスときどきタクシーとレンタサイクルでというのがスゴくない…？]]></description>
    
        <item>
      <title>794 クレ崎＝東牟婁郡串本町潮岬（和歌山県）海の難所は今は昔の話だけどリアル本州最南端はここだよ</title>
      <link>http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2012-05-07</link>
      <category>岬めぐり</category>
      <pubDate>Fri, 18 May 2012 00:00:00 +0900</pubDate>
      <guid isPermaLink="false">http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2012-05-07</guid>  
      <description><![CDATA[<img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/kurezaki03-5bd1b.jpg" border="0" alt="kurezaki03.jpg" width="510" height="384" /><br />　“潮岬が本州最南端の地である”ことには、誰も疑いを挟めないだろう。だが、厳密に言うと「潮岬」という名の「岬」そのものはないこと、串本から南にぶら下がった、できかけの蜂の巣のような台地全体の西側を潮岬という字名で呼び習わしていること、潮岬灯台の北側の「潮ノ御崎」から「潮岬」になったらしいこと、などについては、これまで述べてきたとおりである。<br />　では、実際の正確なリアル本州最南端はどこか。<br />　それは、クレ崎の先端である。<br />　北緯 33度 25分 59秒 ：東経 135度 45分 45秒。<br />　串本駅前から乗ってきた、潮岬行きのバスの終点は、“潮岬観光タワー”の横になる。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/kurezaki04-dee93.jpg" border="0" alt="kurezaki04.jpg" width="510" height="383" /><br />　そこは、上野、向地、芝古地と、南に向かってのびてきた集落の家並みが途切れるところで、周回道路がある標高40メートルくらいのところから、緑の芝地がゆっくりと広く海に降りていく。<br />　その先にある白く横長で平べったい建物は展望台であろうか。そこから大きな黒い岩の塊が盛り上がり、すぐに海に落ちている。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/kurezaki05-aeeb0.jpg" border="0" alt="kurezaki05.jpg" width="510" height="382" /><br />　今回初めて登った、“潮岬観光タワー”の上は、ほかに誰も人がいない。そこから、そんなクレ崎の風景を、のほほんと眺めている。<br />　クレ崎も、この方向から見ると、単なる岩のようにしか見えないので、前回の写真のなかから、灯台下から東を見た写真も合わせて並べてみた。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/kurezaki06-de5d2.jpg" border="0" alt="kurezaki06.jpg" width="510" height="384" /><br />　水平線は、わずかに丸みを帯び、ちょうどその中央に、黒い船影が浮かんでいる。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/kurezaki01.jpg" border="0" alt="kurezaki01.jpg" width="510" height="386" /><br />　思えば、でんでんむしが初めて潮岬を見たのは、半世紀も前のことで、沖を航行するセメントタンカーの船上からだった。そのことは、前793項でもリンクをつけた 053 潮岬の項に書いていた。その頃には、まだタワーはなかったはずだが、白い灯台を載せた島のように見えた潮岬の風景は、何十年経ってもあせることがなく、はっきりと記憶に焼きついている。<br />　今また、それとはまったく逆に、岬のタワーから、水平線を行く船を見ている…。いつかはきっとやってくる…。<br />　そのときのタンカーの航路は、風景の記憶からすると、水平線よりももっと陸地に近いところだったように思う。タンカーより小さな船は、さらにもっと沿岸寄りを盛んに行き交っている。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/kurezaki02-8977a.jpg" border="0" alt="kurezaki02.jpg" width="510" height="385" /><br />　岩礁と潮流で、岬の沖が海の難所とされてきたのは、もはや昔のこと。その当時の船と航海術による航行が、いかに危険に満ちたスリリングなものであったかは、いまや想像の外である。<br />　『紀伊続風土記』には、上野浦の項にこんなことも書いてある。<br /><br /><font color="#FF0000">●また『続日本紀』に「天平勝宝６年に吉備朝臣真備の船が益久ノ島より進発して、紀伊国の牟漏ノ崎に漂流して着く」とある。奥熊野太地村に牟漏崎の名があるので、すなわちその地であろう。しかしながらここは南海に突き出ているので、南海に漂流する者は多くここに着く。今もなお異国船が時々この地に漂着することがあるので吉備公が漂着したのも、あるいはこの地であるかもしれず姑疑を存すという。このことは詳らかに太地村の条下に出ている。（KEY SPOT『紀伊続風土記』現代語訳　牟婁郡潮埼荘上野浦）</font><br /><br />　ちょっと笑えるくらいおかしいのは、吉備真備が紀伊国の牟漏ノ崎に漂着したのは、太地村ではなくて、ここではなかったかと、疑義をはさんでいることである。<br />　「牟漏ノ崎」というのは、太地の現在の名で言うと燈明崎のことらしいのだが、『続日本紀』の記述を認めつつも、太地よりも南海に突き出ている潮岬のほうが漂着する率が高いので、吉備真備の遭難漂着も「あるいはこの地であるかもしれず姑疑を存す」と、かなりこだわっている。こういうところを読むと、この地誌の筆者に、奇妙な親近感を覚えてしまうが…。<br />　そのくらい、この周辺では船の遭難が多かった、ということなのだろう。<br />　それを見張るという意味もあったはずの、“遠見番所”も、「村の南五町ばかりの出崎にある」とされているので、その番所もクレ崎だったとみられる。
<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/kurezakiM-5009e.jpg" border="0" alt="kurezakiM.jpg" width="510" height="371" /><br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/dendenmushi-b978e.gif" border="0" alt="dendenmushi.gif" width="60" height="17" />近畿地方（2011/10/06訪問）<br /><br />
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      <author>dendenmushi</author>
          </item>
        <item>
      <title>793 御崎＝東牟婁郡串本町潮岬（和歌山県）“万国の東南の極”は聖なる御埼でなにかと話題も豊富</title>
      <link>http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2012-05-06</link>
      <category>岬めぐり</category>
      <pubDate>Wed, 16 May 2012 00:00:00 +0900</pubDate>
      <guid isPermaLink="false">http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2012-05-06</guid>  
      <description><![CDATA[<img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/misaki202-65a4d.jpg" border="0" alt="misaki202.jpg" width="510" height="392" /><br />　「潮岬」は串本町の字地名として広い範囲をカバーしているものの、「潮岬」という名の岬はどこにもないのである。こういう例もまれにあるのだが、ここの場合、灯台名は「潮岬灯台」で、その北側にある出っ張りの名は「御崎」。<br />　以前には、やはり日本でも最も知られている岬のひとつに数えられる潮岬をはずすわけにはいくまいと、灯台を中心に古いデータの整理分として、<a href="href=&quot;http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2006-12-10">「053 潮岬＝東牟婁郡串本町潮岬（和歌山県）いつかはきっとやってくる…」</a>の項目をつくっていた。そこで、今回は御崎として改めて項目を立てることにする。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/misaki203-afcf8.jpg" border="0" alt="misaki203.jpg" width="510" height="394" /><br />　これまでにも述べてきたように、この一帯は「潮ノ御崎（埼）」と称していたのが、後に「潮岬」と呼ばれるようになったものである。御崎は、御埼大明神社のある聖なる岬である。読みは「オン」か「ミ」だが、ここは「ミサキ＝御埼＝御崎＝岬」であろう。<br />　うっそうたる原生林は聖域として犯すものがなく、太古の息吹を伝えているようだが、今回は灯台には登らず、前回行かなかった潮岬タワーのほうからの眺めになった。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/misaki204-f4a52.jpg" border="0" alt="misaki204.jpg" width="510" height="391" /><br />　すると、神社はすっぽりとその原生林のなかに埋まってしまい、タワーからではどこに神社があるのかわからない。（神社のある写真は、053項のデータを前項に再録した。）<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/misaki201.jpg" border="0" alt="misaki201.jpg" width="510" height="392" /><br />　御埼大明神社の祭神は、少名彦命（すくなひこのみこと）で、この神様は大国主命の協力者として、国づくりに多方面に渡り多彩な活躍をする。「日本書紀」には「熊野の御崎に至りて遂に常世郷に適でましぬ」とあるが、熊野では具合が悪いので、出雲だとする説もある。ここの神主は、塩崎（潮崎）氏であるという。<br />　『紀伊続風土記』は、ちゃんと岬そのものについても項目を設けて詳述している。<br />　<br /><font color="#FF0000">○潮御埼<br />　当浦居の西南八町ばかり、御埼明神がある所の辺りを広くいう名である。また潮埼浦ともいう。ここは本国の極南の出崎で、西の方は天気明朗の時は阿波土佐の島を雲中にかすかに見ることができる。南の方は大□に対してその際涯を見る。『万国輿地図』を閲すると我が国の南はただ大□で国があることを書いていない。そうであるならばすなわちこの地はただ皇国の極南のみならず万国の東南の極ということができる。<font color="#000000">（□は判読不明の意であろうが、ここでは「海」と読んで差し支えあるまい。）</font><br />　その西南の海岸は波濤による衝撃で石巌はことごとく破壊され、残っているもの、異態怪状磊々落々としているものはみな巌骨である。波濤が少し起こると、汹湧滂□沸騰奔激の勢いが精神をすり減らし、魂を削って長く見ることはできない。（KEY SPOT『紀伊続風土記』現代語訳　牟婁郡周潮埼荘上野浦）<br /></font>　<br />　これによると、この頃は四国は土佐の島影まで見えたらしいが、“本国（本州）の極南の出崎”であるという認識をしていた。また、ヨーロッパから伝わった『万国輿地図』（世界地図）に照らして、御崎が“皇国の極南のみならず万国の東南の極ということができる”としているのが、なかなか興味深い。<br />　つまり、極東（Far East）の意識も、日本の東南海は太平洋で、島も国もないという認識も定着していたわけだ。<br />　続けて、『紀伊続風土記』はこう書いている。<br />　<br /><font color="#FF0000">　御埼の下に一ノ島、外道島、鈴島、米粒島などいうのがある。みな大巌の海畔にあるのをいうのだ。米粒島の辺の海底の深さは測ることができない。ここを大鰐の淵藪とする。常に数十頭が群をなす。みな船を呑むものである。漁師が魚を多く得たときはこれを呑もうとして追って来ることがある。この難を免れる方法は、得た魚を二匹ずつ尾を縛り合わせ、船を矢の速さで走らせ、その得た魚を海中に投げ入れては走り、また投げ、数十匹を投げ入れる間にようやく浦辺に近くなるのでこの難を逃れるという。（KEY SPOT『紀伊続風土記』現代語訳　牟婁郡周潮埼荘上野浦）</font><br />　<br />　おもしろそうな話だが、“大鰐”とはワニではなく、因幡の白兎伝説と同じく、サメのことであろうか。こういった話は、地誌の編纂者が地元の言い伝えをおもしろがって採用した、といったところだろうか。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/misaki205-a9dd1.jpg" border="0" alt="misaki205.jpg" width="510" height="383" /><br />　米粒島は、灯台下から伸びる岩礁のいちばん先端に、現在の国土地理院の地図にもその名を残しているが、他の名は見当たらない。<br />　791 アンドノ鼻の項でもふれたのだが、この本州最南端の岬では、海も好天だと平穏に見えているが、潮流が激しくこの岬を回るだけでもかなりの難所であったはずである。<br />　黒潮の大きな流れとその影響のことは、土佐の足摺岬と日高郡比井御崎とここ潮の御崎を結ぶ三角海域で、和深の三石を境に上り潮・下り潮があると意識されていたようだ。<br />　関連して、こんな記述もある。<br /><br /><font color="#FF0000">　●また口和深村の三石の条に書いた海潮上り下がりのことは、この御埼がその勢いが最盛で廻船の者はこれを恐れ、常に潮間を窺って通行するという。潮の上下について一つの異事がある。下り潮のとき、御埼の辺で海中で溺れ死んだ者があれば潮が留まって往かない。このとき土地の人が御埼明神で湯立をして神に祈るとたちまち元のように下り潮になる。このことは常々あって、その霊応は著しい。上り潮のときはこのことはないという。これもまた一つの奇事である。（KEY SPOT『紀伊続風土記』現代語訳　牟婁郡周潮埼荘上野浦）<br /></font><br />　こういった、土地に伝わる話題、“ホンマでっか！？”というような異事や奇事を言い伝え、また書き残し、また流布していくことも、当時としては重要な情報リテラシーそのものであったのだろう。<br />　『紀伊続風土記』、この潮埼荘上野浦の項は、なぜかこういった話がほかにもいくつかあって多く、饒舌である。
<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/misaki2M.jpg" border="0" alt="misaki2M.jpg" width="510" height="370" /><br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/dendenmushi-b978e.gif" border="0" alt="dendenmushi.gif" width="60" height="17" />近畿地方（2011/10/06訪問）<br /><br />
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      <author>dendenmushi</author>
          </item>
        <item>
      <title>792 住崎＝東牟婁郡串本町潮岬（和歌山県）どうみてもひょうたんのようにはみえないのだけれども…</title>
      <link>http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2012-05-05</link>
      <category>岬めぐり</category>
      <pubDate>Mon, 14 May 2012 05:00:00 +0900</pubDate>
      <guid isPermaLink="false">http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2012-05-05</guid>  
      <description><![CDATA[<img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/sumisaki01.jpg" border="0" alt="sumisaki01.jpg" width="510" height="388" /><br />　現在の住所表示では、その東側半分以上を一律に「潮岬」、東側を「出雲」としている、串本市街地の南に垂れ下がっているような一帯は、それぞれ別の名をもつ三つ四つの集落に分かれていた。西の一帯は、上野（うわの）とか向地という、結構大きな集落がある。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/sumisaki07-2ed8a.jpg" border="0" alt="sumisaki07.jpg" width="510" height="390" /><br /><br /><font color="#FF0000">　串本浦の未の方（※南西微南※）に三十二町にある。民家は所々に散在する。村から御崎まで八町。この地は串本浦より坂道を登り四町ばかり。それから御崎までは土地が平坦で高い所にあるので上野の名がある。<br />　ここは本国の極南で、上野の地は別に南の方に一里余り海面に出る。和深浦、江住浦の辺からこれを望むと、海中に長堤を築いたかのようである。村の東に当たって出雲浦の東に張り出てだいたい東西の広さも一里近い。串本浦より坂道の登る所の広さはわずかに三〜四町、形は瓢箪の約あるがごとし奇形といえる。<br />　その四方の海に望む所はみな絶巌を削ったかのようである。南溟に臨んでいる地なので、風も強いが、南方陽和の方なので地勢は平温和柔で、北方の猛烈の風とは違う。<br />　ただし土地が高く平らなので水が乏しく、村民は井戸を掘って水を得ることは難しく、小谷から注ぎ出る水を汲んで朝夕に供すという。<br />　（KEY SPOT『紀伊続風土記』現代語訳　牟婁郡潮埼荘上野浦）</font><br />　<br />　串本は海すれすれの平地だが、ここはいちばん高いところで70メートルを超えるので、坂道を登ってくる。遠くから見ると、細長い台地が大きく長堤のように延びている。<br />　串本の付け根部分が狭いのに、台地の東西は一里ほどもあるので、その形はひょうたんのような奇形だと言っている。実際はひょうたんとはおおいに違うのだが、高いところから地形を俯瞰する術のなかった時代には、現代の人間が地図を見て簡単に理解することも、なかなか把握できないでいた、ということであろう。<br />　岬の出っ張りは、ぐるりと周回する道路があるが、バスが通るのはこの上野の集落の中の細い道で、観光バスやタクシーは西海岸を通る。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/sumisaki02-45123.jpg" border="0" alt="sumisaki02.jpg" width="510" height="383" /><br />　住崎は西の端に飛び出した出っ張りなのだが、車で通ってもその姿はまったくわからない。路線バスはその内側の集落の中を走るので、これまた遠い。<br />　この岬は、アンドノ鼻の側からか、潮岬の灯台の上から眺めるのがよかろう。串本の細くなった付け根の西海岸の砂浜から、少し角度を変えて見ると、住崎の向うに御崎も顔を出す。まるで、相似形のように…。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/sumisaki05-bf5f6.jpg" border="0" alt="sumisaki05.jpg" width="510" height="383" /><br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/sumisaki06-23e65.jpg" border="0" alt="sumisaki06.jpg" width="510" height="383" /><br />　今回は、灯台には登らなかったので、前に来たときに撮っていた灯台の上からの御崎と住崎のツーショットも、あわせて掲げておくことにしよう。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/sumisaki08-f7581.jpg" border="0" alt="sumisaki08.jpg" width="510" height="389" /><br />　でも、これは次の御崎の項に入れたほうがよかったかも。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/sumisaki03-6fe46.jpg" border="0" alt="sumisaki03.jpg" width="510" height="386" /><br />　「住崎」の名の由来も不明だが、海の神である「住吉神社」と関係があるのではないかとも考えた。しかし、ここには神社もなにもない。地形からいうと神様を祀るのには適した岬のようにも思えるが、それがないのは、すぐ隣の御崎に遠慮して、避けたのかも知れない。
<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/sumisakiM-de67e.jpg" border="0" alt="sumisakiM.jpg" width="510" height="371" /><br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/dendenmushi-b978e.gif" border="0" alt="dendenmushi.gif" width="60" height="17" />近畿地方（2011/10/06訪問）<br /><br />
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      <author>dendenmushi</author>
          </item>
        <item>
      <title>791 アンドノ鼻＝東牟婁郡串本町串本・潮岬（和歌山県）“御崎に越す本”からクシモトの地名になったと…</title>
      <link>http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2012-05-04</link>
      <category>岬めぐり</category>
      <pubDate>Sat, 12 May 2012 05:00:00 +0900</pubDate>
      <guid isPermaLink="false">http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2012-05-04</guid>  
      <description><![CDATA[<img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/andonohana02-4e41e.jpg" border="0" alt="andonohana02.jpg" width="510" height="386" /><br />　家数が350軒で、人数1,442人というから、『紀伊続風土記』の時代から串本は田辺より南の近郷近在では、いちばん栄えていた賑やかな浦だったのであろう。おもしろいのは、「串本」の由来が、ここで“御崎に越す本→こすもと→くしもと”であるとしていること、“潮ノ御崎→潮岬”ということだ。<br /><br /><font color="#FF0000">　二色村の巽（※東南※）二十五町にある。二色村にの小名袋と海湾を界とする。東は海を堺にして大島に向かう。この浦より坤（※西南※）五十町ばかりに差し出ているのを潮ノ御崎という。浦の名前は、御崎に越す本という意味である。土地が広くて家数が多く、漁事を専らとする。東西両面に海を受けているので漁事の利が多くて漁者に福家の者が少なくない。潮風がはなはだ烈しい土地なので、戸々に寒竹を植えて各一□をしめ、家居は普通の漁村と異なる。（KEY SPOT『紀伊続風土記』現代語訳　牟婁郡潮埼荘串本浦）　</font><br /><br />　“東西両面に海を受けている”というように、串本の地形的な特徴は、細く南に向かって突き出した狭い平地の先に、まるでツツジの花をひとつ逆さにしたのを横からみたように御崎部分がくっついたようで、さらにその東には大島が大きく浮かんでいる。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/andonohana01.jpg" border="0" alt="andonohana01.jpg" width="510" height="386" /><br />　現在の串本町の市街地は、東の紀伊大島に向いて広がっていて、JRの串本駅も紀勢本線が出っ張りの付け根でヘアピンカーブで方向転換したところで、紀伊大島に向いてある。東西の海の間のいちばん狭いところは、市街地で500メートルくらいしかない。<br />　もちろん、今では『紀伊続風土記』が言うような、“戸々に寒竹を植え”たりはしていないし、他の漁港の町と変わるところはないように思える。<br />　串本駅から潮岬行きのバスに乗ると、漁港のところからこのいちばん狭いところを横断して、西海岸を回って行く。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/andonohana04-c1122.jpg" border="0" alt="andonohana04.jpg" width="510" height="390" /><br />　アンドノ鼻は、串本町の字地名が串本と潮岬に分かれるところで、その道の途中にある小さなコブのようにわずかに出っ張っている。わずかな出っ張りでも、海岸に降りて横から眺めると、その先の住崎とかぶりながらも、いちおうは岬らしく見える。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/andonohana06-bf8ba.jpg" border="0" alt="andonohana06.jpg" width="510" height="390" />　コブの上付近に、駐車場と公園のようなスペースがつくられているのは、ここから枯木灘を遠望できるように、という配慮か。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/andonohana05-165a2.jpg" border="0" alt="andonohana05.jpg" width="510" height="382" /><br />　霞んでしまう海の遠望は、どこがどうといえるほど定かではないが、とにかく遠くいちばん端になっているのは、椿のハタ崎か仏崎付近とするのが、まず無難であろうか。白浜の瀬戸崎というのも、美浜の日ノ御埼までひっぱってしまうのは、やはりムリというものであろう。案外に、肉眼の遠目は利かないものだから…。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/andonohana03-89413.jpg" border="0" alt="andonohana03.jpg" width="510" height="386" /><br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/andonohana07-c9d2d.jpg" border="0" alt="andonohana07.jpg" width="510" height="385" /><br />　ところで、この岬の名前はなんだろう？　なにを表わしているのだろう。<br />　考えてもわからないし、資料もないので、頬被りして通り過ぎようとしたとき、ふと思いついた。<br />　潮岬を回って、袋の串本港に入ろうとする船が、住崎を越えたところで、強い風や波や潮の影響からも解放されて、ホッと安堵の息をつくことができる…そんなことからアンドノ鼻に…。
<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/andonohanaM-3e98d.jpg" border="0" alt="andonohanaM.jpg" width="510" height="369" /><br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/dendenmushi-b978e.gif" border="0" alt="dendenmushi.gif" width="60" height="17" />近畿地方（2011/10/06訪問）<br /><br />
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      <author>dendenmushi</author>
          </item>
        <item>
      <title>790 砥崎＝東牟婁郡串本町二色（和歌山県）潮埼荘の潮崎氏は断絶して紀伊半島最南端の岬に名残りを留めるのみ</title>
      <link>http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2012-05-01-1</link>
      <category>岬めぐり</category>
      <pubDate>Thu, 10 May 2012 05:00:00 +0900</pubDate>
      <guid isPermaLink="false">http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2012-05-01-1</guid>  
      <description><![CDATA[<img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/toisizaki01.jpg" border="0" alt="toisizaki01.jpg" width="510" height="399" /><br />　潮崎氏について、『紀伊続風土記』は「その支配する地の広さは詳らかにしがたい。小山氏また塩埼氏と隣好厚く婚を通して一族となり、共にその境界を守り、軍を出すときは互いに人衆を出して互いに助けたと見える。」、「両家が相並んでこの地を支配するので、その境界の広狭大小はいま詳らかにしがたい。」とも書いている。<br />　これから推測するに、塩崎氏がなぜ断絶したか。その背景には、その後の支配を受け継ぐ小山氏との関係があったはずだ。『紀伊続風土記』の表現からは、だんだんと、小山氏に吸収同化されていったようにも思える。<br />　紀伊半島最南端の潮岬は、全国的にも有名な岬のひとつに数えられるが、実は国土地理院の地図では、潮岬という岬はない。「御崎」なのである。これを辿れば、そこにある神社とも関連があろうが、昔「潮御埼」と呼ばれた名残りであり、それが潮崎氏＝潮埼荘に関係するものであることは、疑う余地がない。<br />　この場合も、当地へ来た塩崎氏の名も、土地の地名をもって氏としたわけだろうと推測はつく。ところが、前項に紹介したように、「潮埼荘」の名は塩崎氏からついたと、『紀伊続風土記』はいうのだ。<br />　こうなるとどっちがどっちの名を残したのかは、どうでもよくなる。<br />　では、そもそも「潮崎氏」とは、どこからやってきたなにものなのか。その疑問には、『紀伊続風土記』は、こう答える。<br />　<br /><font color="#FF0000">　潮崎氏は平相公清盛の弟、池大納言頼盛卿の孫、河内守保業の子、保定の裔である。承久三年北条泰時が京都に乱入のとき、保業を京方であるとして罪を負わせて紀州に流した。よってこの地に住まう。その子、保定が地名の潮埼をもって氏とする。後村上帝の御時、当国の目代佐々木伊勢守貞綱が潮崎氏と婚を結んで一族となったという。潮崎氏がこの荘を全て支配するようになったのはこの時代のことであろうか。</font><br />　<br />　この地域の支配者であった潮崎氏が、平清盛の弟である平頼盛の末裔であるというのも、なかなかである。頼盛は、忠盛の正室（低視聴率で話題のNHK大河ドラマでは和久井映見が演じる池ノ禅尼）の子で一人だけ残り、一門では清盛に次ぐNo.2であった。<br />　その頼盛の孫が、源氏による鎌倉幕府成立後、北条執権の時代にも永らえておられたというのが、むしろ意外でもある。だが、これにはちゃんと納得がいく理由がある。<br />　平家に捕らえられ、風前の灯だった頼朝の助命を計ったのが池ノ禅尼だったのだ。その恩を忘れなかった頼朝は、源氏の世になっても頼盛一族だけは優遇したのだろう。<br />　それも、後代になると後鳥羽上皇に組みしたと見られて追放されたところがここだった、というわけだ。<br />　こうしてみると、塩崎氏の盛衰は、因果は巡り、その因果によって歴史は編まれていくことが、実によくわかる例なのである。<br />　<br /><font color="#FF0000">　潮崎氏はいま断絶して記録、文書、家系の類はひとつも伝わるところがないので、いずれのときに亡んだのか、そのことを知ることはできない。しかしながら正平以後は小山氏が日に盛んで潮崎氏は衰え、後世ついに潮埼荘は小山氏が支配する所となったのであろうか。これらのことはいま詳らかにするにも根拠となるものがない。</font><br />　<br />　でんでんむしが「記録が重要」ということにこだわる所以は、こういうところにもある。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/toisizaki02-9c621.jpg" border="0" alt="toisizaki02.jpg" width="510" height="384" /><br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/toisizaki04-8b22e.jpg" border="0" alt="toisizaki04.jpg" width="510" height="383" /><br />　<br /><font color="#FF0000">　二部村の東三町余りにある。村居は海浜の谷にある。小名袋は本村の巽（※東南※）四町にある。村居は本村に勝っている。村の西は錦崎が突き出して海に入ること二十町ばかり。村の南は串本浦に接してこの間の距離は十町ばかり。長さ三十町ばかりの間じつに袋の形をなして難風のときも波がなく船繋りがよい。袋はまた二色の袋とも呼んでいる。村名の二色の二は二部の二と同じく丹の意味であろう。（KEY SPOT『紀伊続風土記』現代語訳　東牟婁郡潮崎荘二色村）</font><br /><br />　家数40軒、人数181人と記す二色村は、袋と呼ばれる湾によって良港が保たれてきた。枯木灘の難所が、この港を西に出たところから始まることは、前にも書いた通りである。ここにいう「錦崎」というのが、今は名前が変わって砥崎となったらしい。「錦崎」の由来も書いてはいないが、これは「二色→錦」であることは、明らかだ。長く突き出た砥崎が、その袋をつくっている。ここも、車窓からは一瞬で、稲村崎と同じく植松区からの眺めになる。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/toisizaki05-936f7.jpg" border="0" alt="toisizaki05.jpg" width="510" height="386" /><br />　「二」が「丹」であろうと推測しているが、風土記が編纂された時代には、すでに丹の産出も遠い推測の彼方にあったわけだ。<br />　砥崎という同名の岬は、高知県にもあった。その名前についてのゴタクは、<a href="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2010-05-08"> 545 砥崎＝土佐清水市三崎（高知県）ギザギザかツルツルか それが問題だ </a> で書いているので、ここでは省略。
<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/tozakiM-f93dc.jpg" border="0" alt="tozakiM.jpg" width="510" height="371" /><br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/dendenmushi-b978e.gif" border="0" alt="dendenmushi.gif" width="60" height="17" />近畿地方（2011/10/06訪問）<br /><br />
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      <author>dendenmushi</author>
          </item>
        <item>
      <title>789 稲村崎＝東牟婁郡串本町有田（和歌山県）ここも線路は海から遠く車窓からは確認できない岬</title>
      <link>http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2012-05-01</link>
      <category>岬めぐり</category>
      <pubDate>Tue, 08 May 2012 05:00:00 +0900</pubDate>
      <guid isPermaLink="false">http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2012-05-01</guid>  
      <description><![CDATA[　785 御待崎の項では、どうやらJRの車窓からのチェックに失敗したようだ。海からはそんなに遠いというのでもないのに、ロケーションにどうも恵まれなかったらしい。この稲村崎では、線路はさらに海から遠く、奥まったところを通り、トンネルもいくつかあって、車窓からの確認が苦しい。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/inamuragasaki01.jpg" border="0" alt="inamuragasaki01.jpg" width="510" height="382" /><br />　有田といえば、和歌山にはミカンで有名な有田市があるが、ここ紀伊有田の市街地が固まっているところからは、有田川（これも有田市の有田川と同じ名前）を数百メートルも上流に遡って紀伊有田の駅がある。駅からは、入江の奥にある有田漁港の南にせりだした尾根と、その反対側の山が見える。稲村崎はこの左手の尾根のもっと先にあるのだ。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/inamuragasaki02-986f8.jpg" border="0" alt="inamuragasaki02.jpg" width="510" height="383" /><br />　紀伊有田駅を出ると、またトンネルに入ってしまうので、次に稲村崎付近が眺められるのは、串本町の市街地の細くなっているところの西海岸、植松区の海岸からになってしまう。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/inamuragasaki03-ad814.jpg" border="0" alt="inamuragasaki03.jpg" width="510" height="383" /><br />　岬が重なりあって、わかりにくいが、付け根に白い串本海中公園センター水族館の建物がある。その左手が稲村崎となる。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/inamuragasaki04-ac0eb.jpg" border="0" alt="inamuragasaki04.jpg" width="510" height="384" /><br />　串本町は、昔の潮埼荘と重なるようだ。潮埼荘については『紀伊続風土記』（KEY SPOT『紀伊続風土記』現代語訳　牟婁郡潮埼荘）の記述も詳しいので、次項に続いてしばらく引用が多くなる。<br /><br /><font color="#FF0000">　潮埼荘全十八ヶ村。西は周参見荘と界し、北は佐本荘および三前郷と界し、巽（※東南※）は海に面し、串本浦以下の諸村はみな大島と海を隔てて東西相対する。その広さは東西七里半、南北一里。潮御埼は別に南に一里余り出ている。</font><br />　<br />　「潮岬」は「潮御埼」と書かれている。潮埼荘の名は、当地を支配していた豪族“潮崎氏”の名に起源があることがわかって、興味深い。その潮崎氏の支配も、そう長くは続いていなかったようで、断絶してしまう。<br />　<br /><font color="#FF0000">　この地は古の三前郷の内である。中世、那智山の管内となり、潮崎氏が支配したので潮埼荘の名が起った。潮と塩、訓が同じなので、塩埼とも書く。この荘はだいたい一側に海岸に並んで村をなすので、漁を専らとして農を兼ねている。漁事は時に従って色々あるが、春夏の間は鰹を取って鰹節を作り、秋冬は細魚（サヨリ）を取って諸国に売り、その一方で魚燈を製するのを専らとする。</font><br />　<br />　兼農漁業を営む住人の生計の柱となる産物は、いろいろあるといいながらサヨリをあげているのがおもしろい。魚油や鰹節がこの当時いかに貴重であったかを示している。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/inamuragasaki05-badfd.jpg" border="0" alt="inamuragasaki05.jpg" width="510" height="406" /><br /><br /><font color="#FF0000">　浦々はみな同じこの地熊野にあって最南に突き出て、且つ荘中の諸村はみな山を北に負って南の方は海に面するので、最暖の地である。住民の多くが袷（※あわせ：裏地のある和服※）で冬を渉る。貧しい者は単（※ひとえ：裏地のない和服※）を着て寒さを凌ぐことができるという。</font><br />　<br />　冬でも袷ひとつで過ごせるほど、温暖であるということは、ありがたいことである。また、村々が山を背にして南が海という地形が、この地を豊かにしてきたことも偲ばれる。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/inamuragasaki06-7a754.jpg" border="0" alt="inamuragasaki06.jpg" width="510" height="386" /><br />　前にここに来たときもそうだったが、そんな明るい陽光の中、紀勢本線の列車はいよいよ串本駅に近づいていく。
<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/inamuragasakiM-7a820.jpg" border="0" alt="inamuragasakiM.jpg" width="510" height="370" /><br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/dendenmushi-b978e.gif" border="0" alt="dendenmushi.gif" width="60" height="17" />近畿地方（2011/10/06訪問）<br /><br />
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      <author>dendenmushi</author>
          </item>
        <item>
      <title>788 田の崎＝東牟婁郡串本町田並（和歌山県）世にふる道をふみたがへみたがへまどひつたよふ</title>
      <link>http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-28</link>
      <category>岬めぐり</category>
      <pubDate>Sun, 06 May 2012 05:28:58 +0900</pubDate>
      <guid isPermaLink="false">http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-28</guid>  
      <description><![CDATA[<img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/tanosaki01.jpg" border="0" alt="tanosaki01.jpg" width="510" height="386" /><br />　和歌山県牟婁郡も、すさみ町までが西牟婁郡で串本町からは東牟婁郡になる。すさみ町も里野までで、和深からは串本町。あれっ、また和深!?　和深が串本町にもあることは、すさみ町の和深崎の項で述べた通りだ。和深崎の和深村については、たまたま、2012/05/05に、お父さんが和深の生まれでお祖母さんが村長だったという「防大58期」さんからコメントがあった。人間誰でも故郷があり、父祖の地、ルーツの縁地があることは、なんとうれしいことだろうか。<br />　ここは串本の和深だが、串本の和深集落の東南、田子に近いところに和深山という山があるらしい。“らしい”というのは、現在の地図ではその山の表記がないうえ、実際にはこの付近にはいくつもの峰があって、どれがそうなのかが特定できない。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/tanosaki02-765df.jpg" border="0" alt="tanosaki02.jpg" width="510" height="397" /><br />　この山を歌った古歌があると、『紀伊続風土記』にもいう。<br /><font color="#FF0000"><br />　　わぶか山世にふる道をふみたがへみたがへ　まどひつたよふ身をいかにせん　（俊頼朝臣）<br /><br />　　身のうさをおもふ涙はわぶか山　なげきにかゝる時雨なりけり（無名）</font><br /><br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/tanosaki03-1f756.jpg" border="0" alt="tanosaki03.jpg" width="510" height="383" /><br />　つまり、和深から田子・江田・田並・有田と続くこの道が、熊野詣での大辺地ルートであり、多くの人がここを行き交ったという証しのひとつなのかも知れない。<br />　京の貴族の間で熊野詣が盛んになるのは、1090（寛治4）年に白河上皇の熊野行幸あたりからと言われているが、後白河上皇などは33回も行っているというくらいで、ブーム的様相を呈していたらしい。<br />　当然、旅で詠まれた歌は数知れずあって、こんなところの、今では地図にも名がないような山まで、歌の対象になっていたわけだ。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/tanosaki04-97e99.jpg" border="0" alt="tanosaki04.jpg" width="510" height="388" /><br />　田の崎がある小さい半島の西には、その付け根に漁港をもつ。その港越しに田の崎を眺めると、先端に突堤のような堤防のような石組みのようなものが、長々と突き出している。地図では、突堤でも堤防でもなく、かといって自然の砂洲でもないような、奇妙な堤のようなものがあると示されている。半島には道もあるようなので、こういう場所には、また改めて行きたいものだ。<br />　<br /><font color="#FF0000">　和深浦の東三十一町にある。田子川が三前郷の南谷村との界の山から流れ出て坤（※西南※）に走る。村はその河口より谷奥十七〜十八町ばかりの間に散在する。田子の意味は詳らかでない。これ以降の江田・田並・有田の諸村がみな田をもって村名とするのは、だいたい田地の形によって呼名とするのであろうが、その意味はみな考えることができない。（KEY SPOT『紀伊続風土記』現代語訳　牟婁郡潮埼荘田子浦）</font><br />　<br />　地形を見ても、山と海が岩磯の海岸を挟んでせめぎ合っているようなこの付近では、平地も谷筋にわずかにある程度だ。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/tanosaki05-747c3.jpg" border="0" alt="tanosaki05.jpg" width="510" height="382" /><br />　でんでんむしも、このあたりなんで“田”のつく地名が多いのだろうと、疑問だったのだが、『紀伊続風土記』の筆者も同様に疑問を呈している。しかし、この時点（文化年間＝1800年代初頭）では、既にその意味もわからなくなっていて、疑問を疑問として記すことしかできなかったのだ。<br />　田の崎…そう、岬の名まで“田”なのだ。<br />　これは、なんらかの理由や背景があってのことで、単なる偶然などではないはずなのだが…。<br />　田の崎は江須崎と同じように、付け根の部分が細く、島か半島かというような形で海に延びている。田並の集落は、岬の奥の狭い海岸に固まっており、JRの線路と田並駅は、そのさらに奥まったところにある
。<br />　そこから海は望めず、手前の小山とその向うに頭を出している田の崎のわずかな隙間に入江がある。ここには、漁港はなく、漁業者は田の崎の西にある漁港まで“通勤”しているのだろうか。<img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/tanosaki06-145d5.jpg" border="0" alt="tanosaki06.jpg" width="510" height="382" /><br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/tanosakiM-a69a5.jpg" border="0" alt="tanosakiM.jpg" width="510" height="370" /><br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/dendenmushi-b978e.gif" border="0" alt="dendenmushi.gif" width="60" height="17" />近畿地方（2011/10/06訪問）<br /><br />
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      <author>dendenmushi</author>
          </item>
        <item>
      <title>787 三崎＝西牟婁郡すさみ町里野（和歌山県）“紀州サーガ”から枯木灘の残照は安芸の宮島まで届く</title>
      <link>http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-24</link>
      <category>岬めぐり</category>
      <pubDate>Fri, 04 May 2012 05:00:00 +0900</pubDate>
      <guid isPermaLink="false">http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-24</guid>  
      <description><![CDATA[<img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/misaki03-4ab22.jpg" border="0" alt="misaki03.jpg" width="510" height="384" /><br />　「三崎」は「御崎」であり、「岬」でもある。ここらまでくると、潮岬方面の影もうっすらと見えてくる。<br />　読まなくても、一通り本の背中くらいはみてきたので、『枯木灘』といえば中上健次であり、芥川賞をとった作品の題名が『岬』であることくらいは知っている。<br />　前にもどこかで書いたが、でんでんむしはいわゆる“純文学”というのが、大の苦手なのである。中学に入った頃によくある“将来どんな人になりたいか”という課題に、うっかり「夏目漱石になりたい」と書いてしまったことを、いまだにほろ苦い後悔として記憶しているが、高校生の頃に日本文学全集を読んで、それ以来この分野はほとんどストップしたままで、今日に至っている。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/misaki01-d154c.jpg" border="0" alt="misaki01.jpg" width="510" height="397" /><br />　“岬が取り持つ縁”で、読んでみようかと手に取ったこともあったが、どうにも読む気が起こらない。それはなにも、初の戦後生まれの芥川賞作家がどうとか被差別問題がどうとかではなく、なべて芥川賞のようなものがすべてダメなのだ。<br />　読まずにこれ以上書くこともできないが、ひとつだけ、作者の作品群について言われる“紀州サーガ”のようなものには、いくらか興味があった。もっとも、それは中上作品固有の内容のいかにもめんどくさそうな重苦しさではなく、手法というか形態についてだけなのだが…。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/misaki06-ca3e3.jpg" border="0" alt="misaki06.jpg" width="510" height="385" /><br />　その思いは、松岡正剛が『千夜千冊』の第七百五十五夜のなかで、中上健次の『枯木灘』について、“しかも作品そのものが、主人公の青年の父親がつくりあげたらしい「架空の起源の物語」によって覆い被さっている。そこが二重というのか、物語として多重になっている。つまりは「物語の物語」なのである。”と書いているのを読んでから、いささか強くなってはいる。<br />　でも、やはりなんだかめんどくさそうだなぁ…。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/misaki04-e632b.jpg" border="0" alt="misaki04.jpg" width="510" height="382" /><br />　都はるみの『枯木灘残照』は、ご当地ソングの一種なのか。歌手と親交のある和歌山県生まれの歌人が作詞したというこの歌は、残念ながらあまりヒットしたという記憶がない。<br />　どうも詞も曲も、一度聞いたら耳に心に残るというポイントがない。平板で地味な印象ばかりが目立つ歌である。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/misaki08-18623.jpg" border="0" alt="misaki08.jpg" width="510" height="383" /><br />　「子午線を越えて吹き来る潮騒よ」といったところが、枯木灘らしいところなのだろうか。この“子午線”というのは、豊後水道を縦断する日本標準時の東経135度の線だが、確かにこの線は水道入口のすさみ町寄りである。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/misaki02-dfcb3.jpg" border="0" alt="misaki02.jpg" width="510" height="383" /><br />　ご当地ソングも、そのイメージが聞く人にうまく伝わらないと、なかなかヒットしないのだろう。“女王”水森かおりの歌でも、当たり外れがある。<br />　鳥取の砂丘を歌ってヒットしても、安芸の宮島ではさっぱりだった。歌もなかなかむずかしいモンである。<br />　安芸の宮島といえば、NHK大河ドラマ『平清盛』が、最初にどこぞの市長だか県知事だかが「汚い」と言って以来、ずっと低視聴率に喘いでいる、ワースト記録だと、ネットのニュースがうれしそうに囃したてている。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/misaki05-3531c.jpg" border="0" alt="misaki05.jpg" width="510" height="382" /><br />　4月22日の放送で、清盛が安芸守に任じられ、初めて安芸の宮島も物語の背景として登場する。だが、ここで非常に気になることがあった。<br />　海岸の波打ち際がバックになる場面があるのだが、これはどうみても瀬戸内の海岸ではない。瀬戸内海では、とくに宮島のような場所では、嵐の時とか沖を大きな船が通りすぎたとき以外は、そんなに大きく波が打ち寄せるようなことはない。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/misaki07-acf3f.jpg" border="0" alt="misaki07.jpg" width="510" height="384" /><br />　タイトルには“協力”とかいってロケ地の名前が出るのだが、なんとそこには「和歌山県串本町」とあった。串本の海岸なら、もっと大きな波もあって当然だ。時代考証とかにうるさく言うつもりもないが、こういうわかりやすいところで手を抜かれると、ますます嘘っぽく見えてしまい、気分の納め方に一苦労する。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/misaki10-16ea5.jpg" border="0" alt="misaki10.jpg" width="510" height="383" /><br />　なるほど、新聞のTV視聴率ランキングとかいうのにも、確かに『平清盛』は入っていないので、よほど人気がないのだろう。だが、でんでんむしは、さすがに世間大勢の逆をいくへそまがりである。TV視聴率ランキングに並ぶ番組も、自慢じゃないが（つまり自慢だが）ひとつも観てない。この、一般に不評だという大河ドラマ『平清盛』も、なかなかおもしろく観ている。「汚い」といわれる画面も、むしろこのほうが当時の状況としては普通であったろうと納得できる。<br />　おもしろいもので、こう評判が悪いとなると、投書欄は逆にこれを支持する意見を載せたがったりするようだ。ま、NHKは視聴率など気にせず、堂々とよいと思う路線を追求すればよかろう。<br />　枯木灘の海岸の写真を開きながら見ているうちに、そんなことまで考えてしまった。脱線ばかりのようだが、実際に串本町も、平氏とまんざら関係がないわけではない。いやいや、おおいに関係があり、これはまたもうひとつのサーガ（歴史物語）になるのでその伏線として…。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/misaki09-c4a4d.jpg" border="0" alt="misaki09.jpg" width="510" height="382" /><br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/misakiM-3e921.jpg" border="0" alt="misakiM.jpg" width="510" height="371" /><br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/dendenmushi-b978e.gif" border="0" alt="dendenmushi.gif" width="60" height="17" />近畿地方（2011/10/06訪問）<br /><br />
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      <author>dendenmushi</author>
          </item>
        <item>
      <title>786 ほり崎＝西牟婁郡すさみ町里野（和歌山県）岩磯だらけだけれどもあえてネほりハほりの枯木灘</title>
      <link>http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-23</link>
      <category>岬めぐり</category>
      <pubDate>Wed, 02 May 2012 05:00:00 +0900</pubDate>
      <guid isPermaLink="false">http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-23</guid>  
      <description><![CDATA[<img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/horiaki02-68f3f.jpg" border="0" alt="horiaki02.jpg" width="510" height="384" /><br />　ほり崎と三崎のある里野は、すさみ町の東端にあたる。その東隣は、いよいよ紀伊半島南端の串本町になる。<br />　『紀伊続風土記』では、里野浦については「江住浦の東二十四町にあって、荒磯である。」と本文一行の記述しかなく、まことにそっけない。だが、「荒磯である」との数文字が、この地域をみごとに表現しているとも言える。<br />　岩礁の磯が続き、ところどころに岩島が海中に頭を出し、細かいでこぼこの海岸線が連続する。ほり崎は、そのいちばん西の岬で、ここはまだ江住に近い三角形の出っ張りになっている。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/horiaki01.jpg" border="0" alt="horiaki01.jpg" width="510" height="383" /><br />　こうした岩磯は、直線でも20キロになんなんとする、すさみ町の海岸線すべてに共通する。これが「枯木灘」である。<br />　<a href="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-16">782 和深崎 の項</a> でも、「枯木灘」については若干ふれているが、どういうわけかこのキーワード単独では、“海底ポスト”などの関連項目まで拾ってくるウイキペディアにも該当する情報がない。中上健次の小説や都はるみの歌もあるくらいで、それほど一般に知られていないなじみのない名前ではないはずだろうに…。<br />　それではと、改めて「枯木灘」の正しい解釈と意味を、すさみ町商工会のページにあった『すさみ町誌』から探してきたので、まずその記述から引用してみよう。<br />　<br /><font color="#FF00FF">　「枯木灘」とは荒涼感を放つ美しい地名ではないか。<br />　陸上の旅行者が炎暑をさけ、木陰でしばしの憩いをとり、汗をぬぐい、手足をのばす。ところが、並木がことごとく枯れてしまっては休息をする場所がない。これを海上に置き換えてみると、和歌山県串本袋港を出た船は、すさみ町周参見港までの間には、難をさけて船を休ませるべき港がない。すなわち、串本袋港と周参見港という木陰以外は、みな「枯れ木」であるという意味である。古くから紀州の海を航海する船乗りの間では、この地方を『枯木灘』と呼んでいたらしい。（『すさみ町誌』すさみ町商工会のページによる）</font><br />　<br />　『紀伊続風土記』にはその記述もないので、どのくらい“古くから”ある名称かは不明なままだが、先に782項で紹介した明治期の編纂になる『周参見村郷土誌』では、「周参見港より以南二色の袋港に至るの海上数十里一帯」を枯木灘としていた。“二色の袋港”というのは、串本の西の浦にあるので、串本の西の袋港から周参見港まで、およそ40キロ近くというのが、そもそもの範囲であったことになる。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/horiaki03-28471.jpg" border="0" alt="horiaki03.jpg" width="510" height="382" /><br />　『すさみ町誌』によれば、1953（昭28）年に和歌山県が初めて制定した県立公園条例では、「枯木灘海岸」の名称で、周参見町と江住村の境界から、串本町有田の錆浦までの間を県立公園として指定している。この範囲は、上記40キロよりもさらに限定された狭い範囲である。どうやら、両端の港は木陰部分だからそれは“枯木”には含めないで、その港のない間を枯木灘とする、律義な定義による区分であったらしい。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/horiaki04-18109.jpg" border="0" alt="horiaki04.jpg" width="510" height="383" /><br />　枯木灘の名を公式に残すのは、ほぼこの公園の名称だけだろうが、その名付け親は当時の小野和歌山県知事であったという。彼の生家は、串本町田並で海運業を営む旧家で、幼少の頃から知っていた呼称を公園名に提案したようだ。<br />　その後、1968（昭43）年には、「熊野枯木灘海岸県立自然公園」という名称になるとともに、白浜から串本町潮岬西までの、海岸線約70キロと、その範囲は大きく広がっている。<br />　中上健次の生まれ育った新宮市は、和歌山でもいちばん東の端で、実はこの定義による「枯木灘」の範囲外である。<br />
<img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/horiaki05-3f979.jpg" border="0" alt="horiaki05.jpg" width="510" height="388" /><br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/horizakiM.jpg" border="0" alt="horizakiM.jpg" width="510" height="371" /><br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/dendenmushi-b978e.gif" border="0" alt="dendenmushi.gif" width="60" height="17" />近畿地方（2011/10/06訪問）<br /><br />
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      <author>dendenmushi</author>
          </item>
        <item>
      <title>785 御待崎＝西牟婁郡すさみ町江住（和歌山県）電子国土ポータル表記について国土交通省や国土地理院の人にお願い</title>
      <link>http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-22</link>
      <category>岬めぐり</category>
      <pubDate>Mon, 30 Apr 2012 05:00:00 +0900</pubDate>
      <guid isPermaLink="false">http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-22</guid>  
      <description><![CDATA[　江須ノ川と江住川は東西に2キロほど離れていて、その中間に飛び出しているのが御待崎で、西津浦の小さな漁港の向うに眺められる。30メートルに満たない低い丘が張り出しているが、これは横から見ただけではわからないほど幅がある。丘の上には、たくさんの建物などもあるようなのだが、それもよくわからない。（おまけに、白状すると、ここに掲げた写真が、ホントウに御待崎なのかも、手持ちの写真とタイムスタンプデータからではよくわからない。いちおうは、最もそれらしいのを調べあげてみたけれど、どうも違うようにも思えるのだ。「ちょっとお待ち！」と言われそうだが、ま、その解明は、またの宿題ということにして…。）<br />　というのも、紀勢本線はこの岬の付け根の山を、地図には名前もついていないトンネルで抜けていくからだ。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/omachizaki02-e2964.jpg" border="0" alt="omachizaki02.jpg" width="510" height="383" /><br />　そこで、最近、気になっていたことがあったので、このさい指摘しておきたい。電子国土ポータルの地図が模様替えして以降のことだと思われるが、大きな欠陥が生じている。<br />　トンネルの表記がないのである。信じられないような事実だが、どうしてこういうことになったのだろうか。<br />　鉄道の線路は、以前は伝統的に白黒のだんだらの線で表してきたのだが、これでは実際の線路よりかなり大きく太くなり、地図上でのバランスが悪いという欠点もあった。<br />　そのためだろう。鉄道の線は細い実線で示されるようになっていた。また、トンネルは出入り口に　）（　の表記をつけ、点線で示されていたのだが、2012年4月からは、実線はより細く目立たないようになってしまったうえ、このトンネル表記が一切無視されてしまったようだ。線路の線も、もう少しは太くしないと…。<br />　縮尺を4500分の1くらいにしてみると、無視したわけではないという言い訳ができるようにしているらしいことがやっとわかる。線の太さが微妙にトンネル部分だけ細く変えてあるのだ。<br />　だが、これは、ちょっとひどいですよ。<br />　近頃、地図記号の一部改正が行なわれたという新聞記事もあって、それによれば風車などの記号を入れる一方では、記念碑（石碑）などの表示が消えるという。また、電線と鉄塔を一時期消していたのを、登山者などの目印にもなっているので、復活するという話もあった。<br />　でんでんむしとしては、記念碑のマークはぜひ残してほしいと思うのだが、それはそれとしても、その陰でこんなことがあってはならない。あるいは、この和歌山県だけまだ直していないとか…？<br />　この「でんでんむしの岬めぐり」ブログは、国土交通省や国土地理院の人にもたまに見ていただいているようなので、ぜひとも情報を共有のうえ、善処していただくよう、ここでお願いしておきたい。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/omachizaki04-9c4fd.jpg" border="0" alt="omachizaki04.jpg" width="510" height="383" /><br />　前項では「その土地その谷にしがみついて一生を終えるが、その子孫もまた代々生き様を踏襲してきた。」と書いていたのだが、それを絵にしたような光景が、御待崎をトンネルで東に抜け出たところの谷筋にあった。<br />　42号線と紀勢本線が、橋でわたっているその下の斜面に、墓地が広がっている。こんな光景は、めずらしいことではなく、日本中どこにでもあるが、こういう風景を見ると、ふとその意味を今さらのように考えてしまうのだが…。<br />　列車は、すぐに江住駅に到着する。『紀伊続風土記』では、江住浦を「見老津浦の巽（※東南※）、小名を経て二十七町にある。東の方は里野浦に至って大辺路街道で海に浜す。」としているが、ここから東へしばらくは、里野、和深、田子、江田、田並と、旧大辺路の街道と現在の42号線と紀勢本線が、ほぼ並行して海岸線を東西に走っている。<br />　おそらく、この付近の海岸が最も「枯木灘」らしいところ、と言えるのではないだろうか。<br />
<img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/kuroshima08-89676.jpg" border="0" alt="kuroshima08.jpg" width="510" height="383" /><br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/omachizakiMM-052f8.jpg" border="0" alt="omachizakiMM.jpg" width="808" height="591" /><br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/dendenmushi-b978e.gif" border="0" alt="dendenmushi.gif" width="60" height="17" />近畿地方（2011/10/06訪問）<br /><br />
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      <author>dendenmushi</author>
          </item>
        <item>
      <title>784 江須崎＝西牟婁郡すさみ町江住（和歌山県）鐘木のようなほとんど島になっている岬に神のおりやどりて…</title>
      <link>http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-20</link>
      <category>岬めぐり</category>
      <pubDate>Sat, 28 Apr 2012 05:00:00 +0900</pubDate>
      <guid isPermaLink="false">http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-20</guid>  
      <description><![CDATA[<img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/esusaki01.jpg" border="0" alt="esusaki01.jpg" width="510" height="390" /><br />　見老津を出てすぐに、紀勢本線また見老津トンネルに入る。そのトンネルを抜けると割りと大きな谷を越える。この谷を流れているのが江須之川で、両岸に集落があり、それが河口から岬の付け根まで広がる。谷を渡るとやがて海中に長々と延びている江須崎が現われる。だが、その全貌は少し離れたところからでなければ確認できない。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/esusaki02-5bc11.jpg" border="0" alt="esusaki02.jpg" width="510" height="390" /><br />　江須崎は、細長い出っ張りとその先にいったん途切れて、またイモのような島がつながっている地形であるが、横から眺めると単に長い岬のように見える。だから“鐘木山”という名もあったのだろう。<br />　<br /><font color="#FF0000">○江洲崎島<br />　江須ノ川の地方から八町ばかり離れた所にある。一名鐘木山という。島周十六町半ばかり。一円に椎の木が鬱蒼と茂っている。ゆえにこの辺りの婦女は農隙に椎の実を拾って浪花へ売る。多い年は二十石、少ない年は五〜六石ばかりを拾うという。（KEY SPOT『紀伊続風土記』現代語訳　牟婁郡周参見荘江住浦）</font><br /><br />　『紀伊続風土記』では、このようにはっきりと“島”として記しているのだが、現在ではどこにも島の表記はない。あるいは道と橋で地続きになったのは、その後のことであろうか。<br />　椎の木が鬱蒼と茂っているので、婦女は農隙にその実を拾って浪花に売ったというのが、なんとも切ない。<br />　そのシイの木を始め、現代に受け継がれてきた自然の植生は、この付近の周参見の稲積島、沖ノ黒島などと並ぶ紀南地域を代表する天然林で、江須崎にも暖地性植物群落として∴マークがついている。<br />　40メートル弱の頂をもつ島の回りは、岩磯で取り巻かれているが、岬の付け根にはなぜか“日本童謡の園”とか、“すさみ海立エビとカニの水族館”といった施設もあって、江住海岸公園となっているらしい。島も周回できる細い道もつけられているようだ。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/esusaki03-3b798.jpg" border="0" alt="esusaki03.jpg" width="510" height="382" /><br />　先端部の灯台は、あまり大きなものではないせいか、車窓からではわかりにくいが、岬の立岩に続く断崖の上にちょこんと乗っかっている。<br />　島の灯台とは反対側には江須崎明神を祭っていて、「江須」の名はこれより起こった、と『紀伊続風土記』はいう。<br />　その江須崎明神の「江須」が、どこからきたものかにはふれていないが、この周辺にたくさん広がって存在する「江須」「江住」の名称が、元々はこの島の明神の名から起こっているというのはおもしろい。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/esusaki04-93e54.jpg" border="0" alt="esusaki04.jpg" width="510" height="383" /><br />　やっぱり、神様のほうが先なのである。その神様を産み出したのは、実は人間なのであって、彼らもまたその土地その谷にしがみついて一生を終えるが、その子孫もまた代々生き様を踏襲してきた。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/esusaki05-e98f7.jpg" border="0" alt="esusaki05.jpg" width="510" height="386" /><br />　本来ならば、見老津駅か江住駅辺りで列車を降りて、歩いて見たいところであったが、なにぶんにも3時間に一本しかないという周参見以南の紀勢本線では、思うに委せぬところが多い。
<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/esusakiM-28b99.jpg" border="0" alt="esusakiM.jpg" width="510" height="370" /><br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/dendenmushi-b978e.gif" border="0" alt="dendenmushi.gif" width="60" height="17" />近畿地方（2011/10/06訪問）<br /><br />
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      <author>dendenmushi</author>
          </item>
        <item>
      <title>783 黒崎・黒島（恋人岬）＝西牟婁郡すさみ町口和深・見老津（和歌山県）見えない岬はまた今度ね</title>
      <link>http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-17</link>
      <category>岬めぐり</category>
      <pubDate>Thu, 26 Apr 2012 05:00:00 +0900</pubDate>
      <guid isPermaLink="false">http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-17</guid>  
      <description><![CDATA[　JRきのくに線（紀勢本線）の車窓から、和深崎が見えるのはほんのわずかで、すぐに列車は山の中に入って行く。また、トンネルを抜けて和深川に沿ってしばらく谷間を走るが、そこが旧和深川村である。谷の南、海側には、双子山という300メートルに満たない二こぶの山塊が連なっている。だから、海寄りの道が開けたのは後のことと思われ、旧道の時代にはこの谷の旧和深川村を詰め、川沿いの道もなくなるその奥からは、山道に入っていった。<br />　その道は、電子国土ポータルでは「熊野参詣道（大辺路）」として点線で示されている。和深川の渓谷の南、山の稜線を辿り、途中で長井坂を越えると、山道は南に向きを変え、今度は長井川の西を下って行く。<br />　下り切って海岸に出たところが、見老津（みろづ）である。<br /><br /><font color="#FF0000">　和深川村の巽（※東南※）一里半十町にある。長柄坂の峠を堺とする。大辺路の街道にある。海に浜して村居する。村名は古くは見路津と書いた（江住浦氏神天正年中の棟札）。その意味は詳らかでない。（KEY SPOT 『紀伊続風土記』現代語訳　見老津浦）</font><br />　<br />　JRの線路も、古道に歩調をあわせるように、参詣道が山に入るほぼ同じところから双子山トンネルに入り、途中切れ切れながらトンネルをいくつかくぐり抜けて、やっと海岸に出たところが見老津駅になる。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/kuroshima01.jpg" border="0" alt="kuroshima01.jpg" width="510" height="397" /><br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/kuroshima03-15ed3.jpg" border="0" alt="kuroshima03.jpg" width="510" height="386" /><br />　そこで、問題は岬である。和深崎の南東3キロ弱くらいのところに、ちょこんと飛び出している黒崎があるのだが、これは和深からも見老津からも見えない。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/kuroshima05-b9ae0.jpg" border="0" alt="kuroshima05.jpg" width="510" height="385" /><br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/kuroshima06-e1550.jpg" border="0" alt="kuroshima06.jpg" width="510" height="390" /><br />　黒崎の東には、すさみ町が売出し中の“イノブタ”をテーマにした観光施設があり、そのまた東には黒島が続いている。沖ノ黒島と陸ノ黒島という岩の島に向かい合う緩い出っ張りには、レストランなどもあるドライバーの眼を引きつけるビューポイントになっているらしい。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/kuroshima09-6f160.jpg" border="0" alt="kuroshima09.jpg" width="510" height="383" /><br />　ピークは３つあるが、島は二つである。JR線がトンネルを出たところから、それは見える。<br />　一般の地図には載っていないのだが、「熊野枯木灘海岸県立自然公園」の案内マップには、そこになんと「恋人岬」という名前がつけられている。おいおい、またまた、“恋人岬”かよ…と思わないでもないが…。<br /><br /><font color="#FF6600">　潮風が強く、樹木の生育が悪いことから枯木灘と呼ばれる海岸は、白浜町から串本町まで延長約70ｋｍに及び、三段壁や千畳敷、恋人岬など雄大な南紀の海景が広がります。</font><br />　<br />　和歌山県のホームページの、環境生活部環境政策局環境生活総務課自然環境室（長いねこれも）のページでは、このような紹介とともに三段壁と並んで恋人岬の写真も載せている。<br />　その写真を見ると、潮の関係で陸ノ黒島との間の浅瀬に東西両側から波が打ち寄せるような景観が生まれているようだ。<br />　黒崎といい黒島といい、その名はやはりここらでは黒い岩が露出して、岬や島をつくっているようだにみえる。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/kuroshima08-e1611.jpg" border="0" alt="kuroshima08.jpg" width="510" height="383" /><br />　42号線はかろうじて通っている口和深から見老津にかけての海岸線は、どうも交通機関がないらしかったので、今回はJR線で山側を回って通り過ぎてしまわざるを得なかった。また改めて歩いてみる必要がありそうだが、一応備忘的に項目を設けておく。
<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/kurosimaMM-38037.jpg" border="0" alt="kurosimaMM.jpg" width="510" height="368" /><br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/dendenmushi-b978e.gif" border="0" alt="dendenmushi.gif" width="60" height="17" />近畿地方（2011/10/06訪問）<br /><br />
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      <author>dendenmushi</author>
          </item>
        <item>
      <title>782 和深崎＝西牟婁郡すさみ町口和深（和歌山県）良港無きを以て其海上を枯木と称し船人警戒するところなり</title>
      <link>http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-16</link>
      <category>岬めぐり</category>
      <pubDate>Tue, 24 Apr 2012 05:00:00 +0900</pubDate>
      <guid isPermaLink="false">http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-16</guid>  
      <description><![CDATA[<img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/wabukazaki01.jpg" border="0" alt="wabukazaki01.jpg" width="510" height="390" /><br />　泊まったすさみ温泉の国民宿舎の名が、「枯木灘すさみ」というのだが、枯木灘とはいわゆる地名ではない。“熊野枯木灘海岸県立自然公園”という長ったらしい公園の名前として、和歌山県のかなり広い範囲の海岸線を指しているだけである。<br />　したがって、『紀伊続風土記』にも、その名は出てこない。和深崎のある口和深村は、その家数28軒、人数106人としたうえで、次のように説明する。<br /><br /><font color="#FF0000">　周参見浦の巽（※東南※）三十四町にある。和深川は見老津浦の堺の山より流れ出て和深川村を経て当村にて海に入る。人家はその海口にある。和深は湾が深いという意味である。口というのは潮崎荘に同名があるので分けて呼ぶのだ。古くは口の和深と称したとか。</font><font color="#FF0000">（KEY SPOT　『紀伊続風土記』（現代語訳）　牟婁郡口和深村）</font><br /><br />　「口」というのは、潮崎荘（串本町）に同名があるので、それと区別するためだというが、口の意味も出入り口の「口」と同じような意味で、ここでは谷の和深川村に対して、海への出入り口である和深を口和深と称したものと考えられる。<br />　現在の和深崎の北の谷を流れてきた和深川を遡行するのが、昔の熊野街道であったらしく、海辺の和深村に対して上流山間の和深川村があり、今でも字地名は分かれている。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/wabukazaki04-0e5eb.jpg" border="0" alt="wabukazaki04.jpg" width="510" height="383" /><br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/wabukazaki05-e05c5.jpg" border="0" alt="wabukazaki05.jpg" width="510" height="383" /><br />　周参見の駅を出た列車は、朝も比較的早い時間とあって、しかも串本方面へ向かう便は、ほとんど乗客の姿を見ない。二つのトンネルを抜けると、すぐに朝の逆光のなかに、和深崎が姿を現わす。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/wabukazaki07-1df39.jpg" border="0" alt="wabukazaki07.jpg" width="510" height="383" /><br />　空と海の色と、黒々と横たわる和深崎の印象は、なるほどいかにも海は深そうで、なんとはなしに枯木灘の名にふさわしいようにも思える。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/wabukazaki03-b3a19.jpg" border="0" alt="wabukazaki03.jpg" width="510" height="387" /><br />　だが、元々の枯木灘というのは風雅なだけの意味ではなく、風の吹きすさぶ厳しい海辺で、潮風の影響で木も成育が悪く枯木が目立つままの淋しい状況を示している。<br />　明治期に編纂された『周参見村郷土誌』には、「周参見港より以南二色の袋港に至るの海上数十里一帯を枯木灘と称し、古来東牟婁郡大島港出港の上り船は、周参見港湾に寄港して風を避くるの外他に良港無きを以て、其海上を枯木と称し船人警戒するところなり。」としている。これがどうやら「枯木灘」の初出かどうかは不明なれども、古い記録らしい。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/wabukazaki02-4d5a4.jpg" border="0" alt="wabukazaki02.jpg" width="510" height="390" /><br />　その厳しい風を避けるにも、周参見から串本の間では、適当な港さえもなかった、いわば海の難所であった、というわけだ。<br />　となると、このように好天で、空も海も青々として、風もないような穏やかな光景を「枯木灘の名にふさわしい」と思うのは、イメージするにしても間違っているのだ。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/wabukazaki06-bcf56.jpg" border="0" alt="wabukazaki06.jpg" width="510" height="401" /><br />　すさみ町は、紀伊半島の南端にあたる串本町の西に並んで位置しているので、太平洋に面している。波及する黒潮のうねりは、モロに枯木灘に押し寄せる、ともいえる。ここから豊後水道を真っすぐ西に突き当たるところは、高知県の県境に近い徳島県の海陽町付近である。<br />　平地が少なく、町域の93％が山林というすさみ町では、南北というよりも東西に伸びる海岸線は比較的長く、20キロくらいはありそうだ。<br />　現在ではそのリアス式の海岸線の各浦々に漁港があり、漁業も盛んなようなので、良港がないというのは昔の話だろう。<br />　和深崎は、前日に雨の小石ノ鼻から戻る途中のタクシーからも見えていた。<br />
<img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/wabukazaki08-a4f46.jpg" border="0" alt="wabukazaki08.jpg" width="510" height="383" /><br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/wabukaM-345f3.jpg" border="0" alt="wabukaM.jpg" width="510" height="373" /><br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/dendenmushi-b978e.gif" border="0" alt="dendenmushi.gif" width="60" height="17" />近畿地方（2011/10/06訪問）<br /><br />
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      <author>dendenmushi</author>
          </item>
        <item>
      <title>781 オン崎＝西牟婁郡すさみ町周参見（和歌山県）「風吹きすさぶ」すさみはひらかな町名のハシリか？</title>
      <link>http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-14</link>
      <category>岬めぐり</category>
      <pubDate>Sun, 22 Apr 2012 05:00:00 +0900</pubDate>
      <guid isPermaLink="false">http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-14</guid>  
      <description><![CDATA[<img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/onzaki01.jpg" border="0" alt="onzaki01.jpg" width="510" height="384" /><br />　市町村名を仮名書き表示にする例は、全国で50くらいある。1955（昭和30）年に、周参見町・佐本村・大都河村が合併して誕生した“西牟婁郡すさみ町”は、そのなかでも早いほう（あるいはいちばん？）であろう。市では1960（昭和35）年の“むつ市”が、日本初のひらがな名の市となっているが、それより5年も早い。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/onzaki02-9cb11.jpg" border="0" alt="onzaki02.jpg" width="510" height="386" /><br />　1959年には東隣の江住村を編入して、現在のすさみ町になっているが、仮名書き表示には、賛否が分かれてたまに問題になる。すさみ町の場合には、漢字にしたのでは旧周参見町と同じになるので、あえてかなにして“新設”を強調した、というところだろうか。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/onzaki05-0866d.jpg" border="0" alt="onzaki05.jpg" width="510" height="390" /><br />　オン崎もカタカナだが、その意味がよくわからない。おそらくは、“御崎”からきた表記だろう。<br />　すさみ町は、古くは6世紀頃から、紀伊半島南西部の中心となる拠点であったらしい。周参見の町から西に見えるオン崎の出っ張りの上では、上ミ山（かみやま）古墳が1940（昭和45）年に発掘されている。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/onzaki03-5d87d.jpg" border="0" alt="onzaki03.jpg" width="510" height="386" /><br />　遠目には当然古墳は見えず、それよりも白い大きなホテルの建物ばかりが目立っている。<br />　前日、周参見駅に降り、そこからタクシーで西の岬を目指したときには、雨が降る暗い夕方で、岬もさっぱり映えなかったが、翌日は打って変わっての快晴で、岬の景色もすっきり。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/onzaki07-a6163.jpg" border="0" alt="onzaki07.jpg" width="510" height="383" /><br />　泊まったのは、「国民宿舎枯木灘すさみ」で、周参見の漁港と湾と穂積島を目の前に望む、いちおう温泉である。<br />　例によって、『紀伊続風土記』によって周参見荘と周参見浦の記述を見てみよう。<br />　<br /><font color="#FF0000">　周参見浦は口郡の郡府がここにあるので戸数も多く家立もよいが、川は小さく船便はなく、海は湊形があるが、船掛かりがないので人民は富をなすべき元手がない。当荘より巽（※東南※）口熊野の地を尽くして古の三前郷の地である。後世、周参見氏が当荘八ヶ村を支配する（周参見浦の王子権現条下、江住浦の春日明神条下にそのことが見える）。よってこれを周参見荘とする。（KEY SPOT　『紀伊続風土記』（現代語訳）　牟婁郡周参見荘）<br /></font><br />　川は小さくて水運は発達せず、港も湾になっているが砂浜で、経済的な基盤が弱かったといっているわけだが、それに加えて枯木灘の風のこともあっただろう。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/onzaki04-56968.jpg" border="0" alt="onzaki04.jpg" width="510" height="383" /><br /><font color="#FF0000"><br />　周参見の名前の意味を考えると、古歌に「風すさぶ」「吹きすさぶ」というのと同じ意味で、この地は波風が烈しい海なので須佐備宇美を略して須佐美と称するのであろう。<br />○稲積島<br />　本村の正面の海の中にある。周九町。樹木が繁茂し、四季で色を変えない。島の中はみな山王王子社の境内である。この島の東端地方の出崎からの距離はわずかに二町ばかり。もしここを埋めて陸続きにさせられれば、この浦は舟掛りがよく廻船が泊まることができて繁昌の地となるであろうという。（KEY SPOT　『紀伊続風土記』（現代語訳）　牟婁郡周参見荘周参見浦）<br /><br /></font><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/onzaki08-061cc.jpg" border="0" alt="onzaki08.jpg" width="510" height="383" />　<br />　現在では、町の西側、周参見川右岸の河口オン崎の付け根に、漁港が開かれている。また、『紀伊続風土記』のいうように、稲積島と町の南の出っ張りを長い堤防で仕切って、船溜まりとしている。<br />　町の産業は漁業・林業・農業及び観光業で、とくに漁港が整備されたおかげか、カツオやブリなど黒潮に乗ってくる魚の水揚げが多いようだ。林業は衰退気味で、町内に多くあった製材所も、近年は閉鎖が相次いでいるらしい。<br />　「樹木が繁茂し、四季で色を変えない」という稲積島は、「暖地性植物群落」として、∴マークがつけられている。<br />
<img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/onzaki06-adc86.jpg" border="0" alt="onzaki06.jpg" width="510" height="382" /><br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/onzakiM-29415.jpg" border="0" alt="onzakiM.jpg" width="510" height="374" /><br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/dendenmushi-b978e.gif" border="0" alt="dendenmushi.gif" width="60" height="17" />近畿地方（2011/10/06訪問）<br /><br />
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      <author>dendenmushi</author>
          </item>
        <item>
      <title>780 小石ノ鼻＝西牟婁郡白浜町塩野・すさみ町周参見（和歌山県）安宅から東へ礫浦の岬は小石の岬</title>
      <link>http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-12</link>
      <category>岬めぐり</category>
      <pubDate>Fri, 20 Apr 2012 05:00:00 +0900</pubDate>
      <guid isPermaLink="false">http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-12</guid>  
      <description><![CDATA[<img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/koishinohana01.jpg" border="0" alt="koishinohana01.jpg" width="510" height="386" /><br />　安宅崎の「安宅」は「あたぎ」であって、「あたか」ではない。『紀伊続風土記』の安宅荘の説明では、このようにいう。<br />　<br /><font color="#FF0000">　…西南は一面海に浜して日置浦・塩野村がここにある。東西長さ五里余り、南北の広さはおしならし二里半ばかり。荘の中に安宅川があって船運の便がよいが、寺山村より上流は渓間が狭く耕田が少ないので、城川荘・市鹿野荘のようではないが、民産が乏しいのを苦しむ。安居村より下流は広くて耕田がやや多いので民産は優れている。日置浦は海口にあるので山中の諸貨がここに集まり、四方に船運の大船が多く、また漁の利があって、この辺の富村である。（KEY SPOT『紀伊続風土記』現代語訳　牟婁郡安宅荘）</font><br /><br />　寺山というのは、紀伊日置駅から上流わずか4キロ程度のところである。そこから上流へは、羊腸のように曲がりくねりながら果無山脈という奈良との県境に至るまで、深い熊野の山が続く。一方、河口で熊野水軍の安宅氏が開いたであろう日置の港は、その後商業港として重要な位置を占めてきたようだが、「安宅」の名の由来は、やはりよくわからないらしい。<br /><font color="#FF0000"><br />　…後世、安宅河内守が安宅村に城を築いてこの地を領したときから荘名となったのだ。その名の意味は詳らかでない。本国神名帳に載せるところの安宅比咩神社がこの地に鎮座するのをもって遂に地名となったのか、またこの地に古くから安宅の名があってこの御神がその地に鎮座したのでそれを神名としたか。今、地名を考えると、この荘中の村名に久木村・宇津木村などがあるので安宅もこれらと同じに木の名から起こった称であろうか。（KEY SPOT『紀伊続風土記』現代語訳　牟婁郡安宅荘）</font><br /><br />　つまり、「あたぎ」の「ぎ」は、「木」からきたものであろう、というのだ。久木・宇津木のほかにも、安宅崎と小石ノ鼻の間には伊古木という集落がある。木の国だからそれもふしぎはないが、古来日置川が熊野の山からの運搬集積に果たしてきた役割を、はからずもここで考察しているように読めるが、その考え方がでんでんむしがよくやるレベルであるのがおもしろい。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/koishinohana03-ca7c7.jpg" border="0" alt="koishinohana03.jpg" width="510" height="383" /><br />　安宅崎では、空はどんよりとして雨が落ち始めていたが、そのすぐ東に位置する小石ノ鼻では、もう一気に雨足が激しくなってきた。日置から歩いていたら、途中からはこの雨の中を歩かなければならないところだった。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/koishinohana04-25e61.jpg" border="0" alt="koishinohana04.jpg" width="510" height="383" /><br />　前項の『紀伊続風土記』の紹介のなかにも、「安宅川の海口で海上南は礫浦（つぶてがうら）を周参見荘との堺とし」とあったが、安宅崎の西隣の小石ノ鼻という名の小さな出っ張りが、白浜町とすさみ町の町境である。<br />　小石ノ鼻は、道路からぴょこんと飛び出したような、岩の岬なので、それよりも大きくて堂々とした安宅崎のほうが町境になっていないのが不審に思えるほどだ。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/koishinohana02-3bbcc.jpg" border="0" alt="koishinohana02.jpg" width="510" height="386" /><br />　しかし、その岬に続く陸地側の山波を辿っていくと、やはり小石ノ鼻こそが自然地形のつくる町境としてよりふさわしく、当然であることにすぐに気がつく。町境の山を42号線が越えるのは朝来トンネルで、周参見側には朝来と朝来谷という記名もある。ここの「来」も、椿の旧村地名とは異なる「木」なのだろうか。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/koishinohana05-f8ad0.jpg" border="0" alt="koishinohana05.jpg" width="510" height="394" /><br />　また、『紀伊続風土記』には、市江の説明のなかに「またこの浦から碁石を産す」との記述があったので、“小石ノ鼻＝碁石ノ鼻”という連想も成り立つ。けれども、ここは風土記が「礫浦」というように、“碁石”ではなく単なる“小石”なのであろう。<br />　田辺から白浜に向かうときのバス停も礫坂だったが、“礫＝小石”という関連地名では、東京の“小石川”もそうで、元は“礫川”という川が、神田川に流れていたものである。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/koishinohana06-9d9c3.jpg" border="0" alt="koishinohana06.jpg" width="510" height="383" /><br />　タクシーは、安宅崎の手前で折り返し、またきた道を周参見へ戻る。山が海に落ちる途中に、切り込みを入れたようについていて、山側は急傾斜を防護壁が支えている。その道を通って、この日の宿である、周参見の“国民宿舎枯木灘すさみ”に向かう。<br />
<img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/koishinohana07-316f3.jpg" border="0" alt="koishinohana07.jpg" width="510" height="383" /><br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/koishinohanaM-c9683.jpg" border="0" alt="koishinohanaM.jpg" width="510" height="371" /><br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/dendenmushi-b978e.gif" border="0" alt="dendenmushi.gif" width="60" height="17" />近畿地方（2011/10/05訪問）<br /><br />
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      <author>dendenmushi</author>
          </item>
        <item>
      <title>779 安宅崎＝西牟婁郡白浜町塩野（和歌山県）ここにもあったつぶれた関西電力の原発新設計画と日置と安宅</title>
      <link>http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-10</link>
      <category>岬めぐり</category>
      <pubDate>Wed, 18 Apr 2012 05:00:00 +0900</pubDate>
      <guid isPermaLink="false">http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-10</guid>  
      <description><![CDATA[<img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/atakazaki01.jpg" border="0" alt="atakazaki01.jpg" width="510" height="390" /><br />　旧日置川町が白浜町の一部になったのは、2006（平成18）年のことで、これ以降白浜町の町域は、大きく広がった。しかし、日置（ひき）の地名は、白浜町のなかの旧日置川町地区の、南西側海岸の一部に残るだけでになってしまった。同じ字面の鹿児島県の薩摩半島にある日置市（ひおきし）の情報はたくさんあるのに、白浜町の日置についてはあまり語られることもなくなってしまったようである。<br />　椿から乗った明光バスは、市江口を過ぎ志原に出ると、日置川に沿ってたちまち上流に向かって海からは離れていく。この海岸には、市江崎ともうひとつ大崎という岬もあるのだが、どうも車窓からではうまくキャッチできなかった。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/atakazaki06-4502a.jpg" border="0" alt="atakazaki06.jpg" width="510" height="383" /><br />　バスの終点は、日置川の河口から3キロ以上も上流にある、JR紀勢本線の紀伊日置駅。ここから、JRで一駅だが山の中を迂回して次の周参見駅に着く。そして、駅前からタクシーに乗って、海岸を西に戻ると安宅崎。つまり、日置にある安宅崎へは、ぐるりと大回りして周参見から寄ってみた。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/atakazaki07-51fbf.jpg" border="0" alt="atakazaki07.jpg" width="510" height="383" /><br />　日置から海岸を周参見に向かうルートは、交通機関がないのである。後から考えてみれば、ここは駅まで行かずに日置大橋でバスを降りて、周参見まで歩いてもよかったかも…。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/atakazaki05-a264c.jpg" border="0" alt="atakazaki05.jpg" width="510" height="383" /><br />　そういうわけで、日置川の左岸河口からさらに南にある安宅崎は、東からの眺めのみになった。<br />　安宅崎の字名は塩野だが、岬の名は北隣の安宅の字名がついている。日置川の左岸に、室町の頃城を構えていた安宅（あたぎ）河内守は、熊野水軍を率いていたという。<br />　<br /><font color="#FF0000">　富田荘の朝来帰村の南、二里二十八町にある。村居は坤（※西南※）に向かって海に浜す。安宅川の海口で海上南は礫浦（つぶてがうら）を周参見荘との堺とし、北は小名箕輪を富田荘の朝来帰村との堺とし、南北全三里半を日置浦という。村の南十七〜十八町ばかりで海上に突出してるのを安宅崎という。（KEY SPOT『紀伊続風土記』現代語訳　牟婁郡安宅荘日置浦）</font><br /><br />　この後に、「その南一里ばかりに海上に突出してるのを市江崎という。」とあるのだが、これは完全に“北一里”（正確には北西）の間違いであろう。<br />　日置川と安宅崎のあるその河口の港は、紀州の山から切り出した木材や薪炭などの運搬ルートと集積・積出し地であったようだ。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/atakazaki02-95a38.jpg" border="0" alt="atakazaki02.jpg" width="510" height="383" /><br />　海賊や材木の次に日置を賑わしたのは、“原発”だった。<br />　関西電力が、原発建設用地を日置川町内に取得したのは、1976（昭和51）年のことで、これ以降町は補助金で財政を立て直そうとする原発推進派と、その危険性を重視する原発反対派に二分されて対立し、大騒ぎになったという。<br />　結果的には、その年に行なわれた町長選挙では、反対派が当選する。ところが、その町長が後に推進派に寝返ってしまい、1988（昭和63）年の町長選挙では、再び反対派が当選し、町は原発誘致の長期計画を修正し、その後の町長にもそれが受け継がれてきた。このため、関電も日置原発をあきらめ、経済産業省は日置川町の電源開発促進重要地点指定を解除した。そんなことはまったく記憶にもないし、全国的に知られていないはずだが、およそそんな経緯があったらしい。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/atakazaki03-499da.jpg" border="0" alt="atakazaki03.jpg" width="510" height="383" /><br />　関電が目をつけた日置川町の原発立地とは、どこだったのだろう。<br />　『紀伊続風土記』のいう「南北全三里半」の日置浦のどこかには違いないのだが、そう思って改めて地図を見れば、日置川の北西の志原付近か、安宅崎の周辺くらいしか適地らしい場所はない。<br />　住民の強い意思表示がなかったら、この安宅崎は原発の岬になっていたのかもしれない。<br />　関西電力の原子力発電所は和歌山県にはないが、三か所11基あり、その全部が福井県の狭い範囲に固まっている。現在は、そのすべてが停まっているわけだ。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/atakazaki04-9d67b.jpg" border="0" alt="atakazaki04.jpg" width="510" height="383" /><br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/atakazakiM-d41e9.jpg" border="0" alt="atakazakiM.jpg" width="510" height="369" /><br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/dendenmushi-b978e.gif" border="0" alt="dendenmushi.gif" width="60" height="17" />近畿地方（2011/10/05訪問）<br /><br />
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      <author>dendenmushi</author>
          </item>
        <item>
      <title>778 仏崎＝西牟婁郡白浜町椿（和歌山県）“木の国”では人里からも道からも遠い岬が続いていく</title>
      <link>http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-07</link>
      <category>岬めぐり</category>
      <pubDate>Mon, 16 Apr 2012 05:00:00 +0900</pubDate>
      <guid isPermaLink="false">http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-07</guid>  
      <description><![CDATA[<img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/hotokezaki02-320a3.jpg" border="0" alt="hotokezaki02.jpg" width="510" height="384" /><br />　紀の国は“木の国”であるとよくいわれるが、白浜町も富田川から南では、ますますその感を深くする。<br />　重層する山また山が幾重にも襞をなし、数え切れないほどの谷と流れをつくり出し、何本もの尾根が競うようにして海に向かって流れ下る。平地はほとんどなく、人が暮すのは川や海に沿ったわずかな隙間だけで、岩に縁取られた海岸には砂浜もほんのわずかしかない。<br />　尾根と尾根の間は複雑な入江になっていて、海岸線を辿る道すらできないので、海岸からは遠く奥まった山中を縫って通る…。<br />　そんな状況が、ここ仏崎を望む白浜町椿の伊勢ヶ谷以南では連続している。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/hotokezaki01-4d317.jpg" border="0" alt="hotokezaki01.jpg" width="510" height="383" /><br />　仏崎は、白浜町は椿地区の最南端で、日置（ひき）地区との境界をなす岬だが、そこへ行く道もないので、二軒の大きな旅館がある椿温泉の番所崎付近から、伊勢ヶ谷を隔てて眺めるしかない。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/hotokezaki06-3ed74.jpg" border="0" alt="hotokezaki06.jpg" width="510" height="383" /><br />　ところが、道なりのこの付近では、海岸を眺められる場所が限られていて、道からは海が望めない。少しでも展望の利く場所を探して、別荘だか旅館などに勤める人の住宅だかが点在する斜面を歩いて行く。<br />　犬に吠えられたりしながら、やっと見つけたちょっとした高台から、仏崎が頭を出しているのがどうにか見えた。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/hotokezaki05-4351c.jpg" border="0" alt="hotokezaki05.jpg" width="510" height="382" /><br />　その南隣の向う側には、ハタ崎という岬があり、さらに南に行くと市江崎がある。<br />　道は、42号線が道の駅“椿はなの湯”から東へ進み、山の間をトンネルをまじえながら南に向かう。この道が“熊野街道（大辺路）”と、電子国土ポータルでは記している。<br />　だが、それはいわゆる熊野古道の大辺路（おおへち）ルートとは異なるようだ。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/hotokezaki07-72cd0.jpg" border="0" alt="hotokezaki07.jpg" width="510" height="384" /><br />　なぜなら、熊野古道の有数の難所ともされる富田坂には、富田川から分かれて取りつくルートがあり、日置川に出てまたすぐ仏坂（この坂はここの仏崎とは別の場所で関係はない）が続くことになっているはずだからだ。そして、この道も同じ電子国土の地図では「旧熊野街道」として一部が表記されている。<br />　近頃では“JRきのくに線”とも呼ぶらしい紀勢本線は、42号線からさらに2キロ以上山側で高瀬山の下を長い烏賊坂トンネルで抜けているが、旧熊野街道のルートは、紀勢本線よりもさらにまた数キロも山寄りになる。一般に“大辺路は海辺の道”といわれることもあるが、いちがいにそうとも言えないらしい。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/hotokezaki08.jpg" border="0" alt="hotokezaki08.jpg" width="510" height="309" /><br />　毎度おなじみになりつつある『紀伊続風土記』の日置浦の項では「北は小名箕輪を富田荘の朝来帰村との堺とし…」とあるのだが、“箕輪”という字地名は、現在の地図から探すことはできない。<br />　地域振興の期待を込めてつくられた道の駅まで、きた道を引き返し、預けてあった荷物をもって、“椿温泉”から“椿”に表記が変えられたらしいバス停に引き返す。<br />　ここで、日置行きの明光バスを待って、いくつものトンネルを抜けて行くが、日置まではまだ白浜町が続く。次の集落は市江崎のある市江なのだが、ここは道路が海まで降りて行くことができない。それくらい谷は狭く、入江は細く、道は狭い。そこでバスは、400メートルくらい山に入った市江口を過ぎて行くことになる。<br />
<img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/hotokezaki09-d3658.jpg" border="0" alt="hotokezaki09.jpg" width="510" height="383" /><br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/hotokezakiM-ae3dc.jpg" border="0" alt="hotokezakiM.jpg" width="510" height="365" /><br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/dendenmushi-b978e.gif" border="0" alt="dendenmushi.gif" width="60" height="17" />近畿地方（2011/10/05訪問）<br /><br />
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      <author>dendenmushi</author>
          </item>
        <item>
      <title>777 番所崎＝西牟婁郡白浜町椿（和歌山県）プレートも移動しているが椿温泉も南へ移動している</title>
      <link>http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-06</link>
      <category>岬めぐり</category>
      <pubDate>Sat, 14 Apr 2012 05:00:00 +0900</pubDate>
      <guid isPermaLink="false">http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-06</guid>  
      <description><![CDATA[<img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/bansyozaki01.jpg" border="0" alt="bansyozaki01.jpg" width="510" height="384" /><br />　『紀伊続風土記』にも当然ながら温泉の記述はあるが、さほど力の入ったものでもなく、さらりと「村の南八町、椿谷にある。湯は小温で水は清く柔らかい。浴すると体に油を濯いだかのようである」と記している。<br />　現在でも“美肌の湯”として、客を呼ぼうとしている椿温泉だが、椿谷とはいったいどの辺りだろう。<br />　一町は約109.09メートルだから、八町といえば約873メートルほど。朝来帰の集落からは1キロ弱南に離れたこの付近の南には、確かに谷のようになった地形があり、小さな入江の端を道路橋で渡っている。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/bansyozaki06-757c5.jpg" border="0" alt="bansyozaki06.jpg" width="510" height="383" /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/noroshinohana11.jpg" border="0" alt="noroshinohana11.jpg" width="510" height="384" /><br />　海辺の椿薬師堂と山寄りの椿大師堂のあるこの谷には、なんとなく見覚えがある。この谷から北が、確か椿温泉の中心であったはずである。大昔に泊まった宿から、その景色も見たような記憶がある。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/bansyozaki07-1df59.jpg" border="0" alt="bansyozaki07.jpg" width="510" height="392" /><br />　その道路橋の手前が椿温泉のバス停だが、この標識の停留所名に注目。明らかに後の二文字が消されているでしょう？　バス停の目の前には大きな温泉旅館がある。といっても、ドアは閉ざされカーテンが引かれたままでもはや営業はしていない。とっくに閉鎖されたかつての温泉旅館の建物が、いくつかあちこちに取り壊されるでもなく、そのまま残っているのもよけい哀れでもの悲しい。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/bansyozaki08-ae56f.jpg" border="0" alt="bansyozaki08.jpg" width="510" height="383" /><br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/bansyozaki10-1cbd8.jpg" border="0" alt="bansyozaki10.jpg" width="510" height="386" /><br />　この椿谷を橋で越えた南側には、昔はなかった平地が開かれ整備されていて、そこに道の駅“椿はなの湯”ができている。<br />　お風呂に入る時間もなかったが、そこで昼食をとり事務所に荷物を預かってもらって、椿谷の南に大きく弧を描いて続く山塊の西を回る。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/bansyozaki09-ccb20.jpg" border="0" alt="bansyozaki09.jpg" width="510" height="384" /><br />　実は、今では椿温泉の温泉旅館は、椿谷の北側42号線沿いでは、リゾートマンションが増えるのに反比例してだんだんと姿を消していて、椿谷の南側の大きな出っ張りのほうに移動しているらしい。どうもそんなふうに感じられるのだ。<br />　現に、電子国土ポータルの地図では、「椿温泉」の表示と温泉マークは、椿谷でもなくこの丸い出っ張りのほうにつけられている。縮尺を変えると恣意的に消えてしまうので、地図としては（とくに海岸線は）あてにならないZENRINソースのYahoo!地図では「椿温泉」の表示と温泉マークは椿谷にあり、あてにならないことでは同じくZENRINソースのMapionでは温泉マークは椿谷と南側の両方にあって、「椿温泉」の表示は南側についている。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/bansyozaki04-3d9c2.jpg" border="0" alt="bansyozaki04.jpg" width="510" height="383" /><br />　南の出っ張りには、確かに二軒ほど大きな温泉旅館があるが、どちらかというと個人の家や別荘のような建物が多い。とはいえ、なにもない静かな場所で、その海岸に出っ張っている岩の岬が番所崎なのである。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/bansyozaki05-1c74d.jpg" border="0" alt="bansyozaki05.jpg" width="510" height="392" /><br />　番所崎の岩は、烽火ノ鼻からもわずかに見えていた。この付近の海岸の岩の層は、黒崎でもはっきりしていたが、岩の板が海に向かって傾斜している。いわゆる“鬼の洗濯板”の様相を呈している番所崎の岩場も、そうである。これを見ていると、思い起こされるのが「地向斜」のことである。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/noroshinohana12-50625.jpg" border="0" alt="noroshinohana12.jpg" width="510" height="383" /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/noroshinohana13-6af5d.jpg" border="0" alt="noroshinohana13.jpg" width="510" height="383" /><br />　シロウトなのに興味だけはあったので、地学関連の専門書を読み噛ったことがある。だが、その程度の知識と生兵法では、勝手に思い込んだり想像したりして、それが誤った知識として固定してしまうことがある。そういう、シロウトにわかるような説明をしてくれて、誤解をといてくれる専門書や専門家はいない。<br />　「地向斜」というのは、長らく地学界の中心となっていた堆積と隆起を説明する理論であったはずである。いまだに説明を読んでも理解しにくいのだが、近所の三浦半島の付け根にもその痕跡があると本で読んで知って、それを確かめに行った。終末処理場ができて、潰されてしまった鐙摺（逗子と葉山の境界付近）の海岸に、それはあった。「鐙摺（あぶずり）の不整合」として、現在ではもっぱら崖の露頭に神奈川県の史跡として、記録を残すのみである。<br />　その岩の層は、海から陸地のほうに向いて傾斜していた。“なるほど、これが地向斜か！”と納得してしまったのだが、どうやらそれはシロウトの早飲み込みで、関係なかったらしい。<br />　ではその名前は、いったいナニ！？、文字がもつ意味はナニ！？と言いたくなる。専門家や専門書は、そういうことにまるで無頓着で用語をを使ってきたということなのだろうか。<br />　しかし、今では地震の度にその一部がニュースでも説明されるほど一般的になったプレートテクトニクス理論が、1960年代後半に華々しく登場してからは、地向斜は見向きもされなくなってしまう。<br />　でんでんむしが、初めてまとまった情報としてプレートテクトニクスについて知ったのは、1971（昭和47）に新刊で出て読んだときで記憶に残っている、岩波新書の『新しい地球観』（上田誠也：著）であったろう。それまで、ガセ扱いされてきたウェゲナーの大陸移動説と、見事につながったので、彼のために喜んだものだ。<img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/bansyozaki03-2c18c.jpg" border="0" alt="bansyozaki03.jpg" width="510" height="384" /><br />　それにしても、付加体でできた日本列島の海岸線をつくる岩場の傾斜の向きは、ところによって異なり、海に向いて傾斜したり陸に向いて傾斜したりするだけ、なのだろうか。そう考えてよいのだろうか。<br /><br />　<font color="#FF6600">●「付加体」</font>などについては高知県の岬めぐりのあちこちでふれていた。<br />　
<a href="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2010-03-21-15">518 松崎・城ヶ鼻・岩ヶ崎＝須崎市浦ノ内下中山（高知県）動くプレートの縁に溜まったごみの上で</a><br />　
<a href="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2010-03-21-16">519 大崎＝須崎市浦ノ内今川内（高知県）とほうもない地質年代の時間を想像してみる</a><br />　
<a href="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2010-03-29">527 大長岬＝須崎市野見（高知県）言い伝えが受け継がれてきた海に沈んだ里の話</a><br /><br />
<img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/bansyozakiM.jpg" border="0" alt="bansyozakiM.jpg" width="510" height="365" /><br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/dendenmushi-b978e.gif" border="0" alt="dendenmushi.gif" width="60" height="17" />近畿地方（2011/10/05訪問）<br /><br />
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      <author>dendenmushi</author>
          </item>
        <item>
      <title>776 烽火ノ鼻＝西牟婁郡白浜町椿（和歌山県）ノロシの代わりにリゾートマンション群が建つ岩の岬は様変わりに</title>
      <link>http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-05</link>
      <category>岬めぐり</category>
      <pubDate>Thu, 12 Apr 2012 05:00:00 +0900</pubDate>
      <guid isPermaLink="false">http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-05</guid>  
      <description><![CDATA[<p><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/noroshinohana06-37ef4.jpg" border="0" alt="noroshinohana06.jpg" width="510" height="386" /><br />　椿の朝来帰の前の小さな湾に向かって左手、ちょうど黒崎とは反対側に大きく張り出しているところが、烽火ノ鼻である。<br />　その名の如く、昔の狼煙場があったところで、そのことは『紀伊続風土記』にも、遠見番所として「朝来帰の出崎にある」と記している。<br />　この岬には、山ともいえないが小さな丘があって、とにかく辺り全体に林立しているのはリゾートマンション群である。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/noroshinohana01.jpg" border="0" alt="noroshinohana01.jpg" width="510" height="390" /><br />　烽火ノ鼻の上に建っているのは、遠見番所ではなくて、丸い赤いとんがり屋根の“ヴィラ椿3号館”の建物である。なぜ、今では関東に住むでんでんむしがそんな名前まで知っているかといえば、インターネットでこの付近にたくさんあるマンションの不動産情報を検索したことがあったからだ。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/noroshinohana02-24441.jpg" border="0" alt="noroshinohana02.jpg" width="510" height="384" /><br />　では、なぜそんなことをしたのか。<br />　岬めぐりをしていると、日本中のどこかの海辺に、「ここに住んでみるのはどうだろうか」とか、「ここなら残りの人生を暮らすのにふさわしいのではないか」などと、思考がふらふらとさまよい出ることがある。お金を始めとするさまざまな現実的条件や実現可能性は、とりあえずヌキにして…の遊び事に過ぎないのだが。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/noroshinohana04-afafd.jpg" border="0" alt="noroshinohana04.jpg" width="510" height="384" /><br />　なにしろ、車の運転ができないうえに、無類の寒がりなので、どうしても箱根から西に限られるかな、などと漠然と思っていたのだが、先々週のニュースに大きく出た日本列島の太平洋側沿岸は、南海トラフの地震による津波可能性を示す赤く高い壁で、すべて覆われていた。もはや、日本中太平洋側で津波のこない海辺など、どこにもないのである。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/noroshinohana07-1a3d9.jpg" border="0" alt="noroshinohana07.jpg" width="510" height="383" /><br />　椿の不動産情報は、どのくらい信頼できるのかが疑わしくなるほど、数百万円で買えるという物件が、たくさんあったので覚えていた。大きなリゾートマンションは、海辺の岩場と岸壁のすぐから何棟も立ち上がっているが、周辺の町にうまく溶け込めるのだろうか。今さら津波の心配をしても始まらないとしても、はたしてここで暮らせるだろうか。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/noroshinohana12.jpg" border="0" alt="noroshinohana12.jpg" width="510" height="386" /><br />　烽火ノ鼻の先には岩島があり、その向う遠くに突き出しているのは、瀬戸崎である。　<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/noroshinohana08-8f0a8.jpg" border="0" alt="noroshinohana08.jpg" width="510" height="386" /><br />　でんでんむしがいだいていた椿温泉の印象は、もはや大昔のことで、記憶も定かでないが、それでも昔の風景とは様変わりのように思えた。烽火ノ鼻があるところのバス停が椿口で、その次の停留所が椿温泉。その付近を見渡しても、名前も覚えていない昔に泊まった温泉旅館らしいものは見当たらず、記憶が刺激され呼び覚まされることもない。<br />　確か、海のそばで、部屋の窓の下には同行の相方が滑って傷をつくった岩場が広がっていたはずだが…。そんな何十年も前の旅館が、現在まで引き続いて盛業を続けることができるほど、この業界も甘くはない。<br />　昔泊まったはずの宿は、この烽火ノ鼻の南で張り出している岩場の上にあったはずだが、そこにはやはり大きなリゾートマンションが建っていた。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/noroshinohana09-377ce.jpg" border="0" alt="noroshinohana09.jpg" width="510" height="399" /><br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/norosinohanaM-bb607.jpg" border="0" alt="norosinohanaM.jpg" width="510" height="370" /><br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/dendenmushi-b978e.gif" border="0" alt="dendenmushi.gif" width="60" height="17" />近畿地方（2011/10/05訪問）<br /><br />
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      <author>dendenmushi</author>
          </item>
        <item>
      <title>775 黒崎＝西牟婁郡白浜町椿（和歌山県）“椿”もわるくはないけれど“朝来帰”も捨てがたいいい地名じゃないか</title>
      <link>http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-04</link>
      <category>岬めぐり</category>
      <pubDate>Tue, 10 Apr 2012 05:00:00 +0900</pubDate>
      <guid isPermaLink="false">http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-04</guid>  
      <description><![CDATA[<img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/kurosaki06-81284.jpg" border="0" alt="kurosaki06.jpg" width="510" height="383" /><br />　「朝来帰」の名は、バス停以外にも朝来帰川や42号線の交差点についているから、まるでなくなったわけではない。見草からバスでさらに南下していくと、大赤島という岩島をともなう出っ張りを過ぎて、小さなこぶをカーブで越える。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/kurosaki01-6cc43.jpg" border="0" alt="kurosaki01.jpg" width="510" height="386" /><br />　これまで、なんども通ってきたと同じような風景だが、それに続く出っ張りの向うに、この付近では突出して大きな建物がいくつも見えてくる。このカーブが黒崎の上で、建物は小さな湾の向こうにある白浜町椿の町で、椿が昔の朝来帰村なのである。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/kurosaki04-9d5a4.jpg" border="0" alt="kurosaki04.jpg" width="510" height="386" />　椿と名を変えた湾に沿って展開する町の中を、一本の川が蛇行している。これが朝来帰川で、上流に1キロちょっとくらい遡って行ったところに、JR紀勢本線の椿駅がある。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/kurosaki05-d2eab.jpg" border="0" alt="kurosaki05.jpg" width="510" height="382" /><br />　黒崎は、小湾の北側に出っ張って漁港の波除けにはなっているらしい岩の岬だが、そんなに高くも大きくもない。ただ、南側から見るとその海に向かって傾斜している岩の層が印象的である。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/kurosaki02-22f9c.jpg" border="0" alt="kurosaki02.jpg" width="510" height="386" /><br />　『紀伊続風土記』の朝来帰（あさらぎ）村の記述は、前述の見草の説明以外は、以下のようである。<br /><br /><font color="#FF0000">　芝村の南一町半にある。高瀬村の小名袋より礒山を越えて当村の小名見草に至りまた礒山を越えて本村に至る。この地は荘の南端で人家は海湾にある。東南は安宅荘の日置浦の小名市江と礒山を堺にする。この崎が最南端に突き出るので市江崎といい、海路を渉る者が難所とする。朝来帰の名の意味は詳らかでない。中古、富田荘十二ヶ村の称があって朝来帰の村名はその内に漏れている。その地は山間海礒の狭地なので、その頃は一村の姿はなかったのであろう。（KEY SPOT 『紀伊続風土記』現代語訳による）</font><br /><br />　つまり、現在の白浜町椿地区は、昔は朝来帰村といっていたわけで、その名の由来はよくわからないとしながら、結構広い富田荘の南端で、人家は湾に面してあるという。<br />　「家数79軒　人数　409人」という記録も併せて記しているが、それが現代の基準で多いのか少ないのかよくかわらない。他の村と比べて、特別少ないというほどではない。<br />　ただし、“富田荘十二ヶ村”のなかに漏れているので、“一村の姿”をなしていない時期もあったのだろうと推測している。また、安宅荘の日置浦の市江崎まで言及していて、境界と難所との表現から、昔から富田荘の外れとの認識はあったようだ。<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/kurosaki07-e6167.jpg" border="0" alt="kurosaki07.jpg" width="510" height="383" /><br />　現在では、朝来帰地区のJR紀勢本線の駅名は椿駅だが、上富田町には朝来駅（あっそえき）という駅がある。その場所は、白浜駅よりも北側に位置している。白浜駅から二駅も南にある椿駅が最寄りとなる朝来帰とは随分離れているし、「帰」の字がなくなって読み方も変化している。<br />　もともと別の相互に関係のない地名とするには、いささか特異過ぎるように思えるので、おそらくは富田荘がその後の新しい行政区域に分割されるときに、なんらかのいきさつがあって残ったものだろう。
<br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/kurosakiM-bae99.jpg" border="0" alt="kurosakiM.jpg" width="510" height="367" /><br /><img src="http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_4bf/dendenmushimushi/dendenmushi-b978e.gif" border="0" alt="dendenmushi.gif" width="60" height="17" />近畿地方（2011/10/05訪問）<br /><br />
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      <author>dendenmushi</author>
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