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1458 赤羽根崎=三浦市三崎町城ヶ島(神奈川県)洞門がぽっかり空いた馬の背の岩尾根が南に延びる城ヶ島中央 [岬めぐり]

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 赤羽根崎も馬の背洞門も、地理院地図にもMapionにもまったく表記がないが、これも三崎口駅に置いてあるパンフレットには記載されている。城ヶ島のほぼ中央で南の相模湾に向かって、三角に飛び出ている岬の付近には、「赤羽根」という字名がもともとあったらしい。その痕跡は、Mapionに岬の東側の湾内に「赤羽根ビーチ」として記載があるので知れるが、そうするとこの岬に赤羽根崎と名があってもおかしくない。
 このように、地理院地図などには表記がなくても、地元の案内板やパンフレットなどにはちゃんと名前が記されていることは結構ある。当岬めぐりではいちおうの指針が必要なので、地理院地図に記名があるものを拾うことを原則にしているが、地元情報でその名が確認できるものは、極力それも項目にあげるようにしている。
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 馬の背洞門というのは、赤羽根崎の先端部の岩場で、馬の背のように痩せた尾根に大きな穴が開いているところだ。崖もとんがって張り出しているが、その下で洞門をもつ岩尾根が、南の海に向かって伸びている。この赤羽根崎の崖も絶え間なく押し寄せる波浪が、島を削ってできた海食崖であろう。
 崖だけでなく、海岸に広がる平らな岩場も、同じ作用が働いて、岩が均されたようになっている、海食台と呼ばれる場所だ。三浦半島の南端は、まさしく海と台地の攻防、いや攻めているのは海ばかりで台地のほうは守勢一方だから“攻防”は適当ではないのだろう。荒波の侵食をなんとかここで食い止めようと頑張っている最前線の特徴が、如実に表れている場所のひとつなのだ。形勢不利な陸側は、波浪の攻撃に土手っ腹に穴まで空けられてしまう。こういうのを、海食洞穴という。崖に台に穴。海食3セットが揃っている。
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 その最上部はほんの人一人がやっと渡れるというくらいの幅で、かろうじて橋のように残っているが、今にも崩れ落ちるのではないかと心配するほどに危うい。
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 当然、そこには入るな渡るなという標識があって柵もしてある。
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 なかなかの奇観でもあるので、島の名所のひとつになっている。この洞門は島めぐりのコース案内では重要ポイントになっていて、標識や道案内がつくられている。だが、そういう標識や案内板の類では、馬の背洞門はあっても赤羽根崎は存在しないかのようだ。まあ、同じ場所にふたつも名前はいらないということだろうし、見せ物としても岬よりは洞門のほうが印象に残るだろう。
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 今回のコースは、灘ヶ崎から長津呂崎を経て、海岸の岩と砂の間をぬって東へ進み、馬の背洞門の赤羽根崎までやってきた。ここに三浦市が建てた看板には、「明治の文豪、大町桂月…」とあるのだが、文豪とはいえんだろう。どうひいき目に見ても…。今でいう、エッセイストのようなもので、酒と旅を愛して全国各地を訪れては歌を詠み詩を書くという結構なご身分である。美文家と当時は呼ばれたようだが、文豪らしい作品はなにひとつないかわり、たくさんの碑石を日本各地に残している。
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 “馬の背”とは、「馬の背のように両側が深い谷となって落ち込んでいる山の尾根伝いの道(大辞林)」ということだが、“馬の背を分ける(越す)”ということばもすぐ連想で浮かんでくる。分水嶺のようなイメージで理解していたら、これがどうも違うらしい。おなじく大辞林の解説では「馬の背の片方に雨が降り、もう片方には降らないの意で、夕立などがごく近い地域で降る降らないの差ができる状態をいう。」というのだ。まるでフェーン現象だな、こりゃ。しかし、馬の背の左右でお天気が変わるというということがあるわけもないので、これはちょっと疑問だが…。今はちょっとそれに突っ込んでいる余裕がない。
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 赤羽根崎のそばの海には、小舟が一艘浮いている。誰もいない? いますよ。船尾のモーターの横で身体を海面にくっつけるように屈みこんでいる。これは、三浦半島のあちこちで見られる“みづき漁”だろう。後ろに長く細く伸びた竿を使って、海中メガネで海を覗きながら、獲物を突く漁法なのだ。
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 ここからは岬の上に階段と手すりが付けられている道を登って、道なりに北東方向へ進む。すると、県指定天然記念物ウミウやヒメウ、それにクロサギの生息地となっている断崖が見える展望台がある。 
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 半月形に湾曲した小湾を、ぐるりと断崖が囲んでいる。これもまたみごとな海食崖の見本のようだ。
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 Mapionの「赤羽根ビーチ」表記には、遊泳マークまでついているのだが、これはいささか問題であろう。確かにわずかに浜といえばそれらしきものもあるにはあるが、そこへ行くには道はなく、船で行くしか方法はないように思われる。あるいは地図にも案内板にもない秘密の通路があるのかもしれないが、そこは自然保護区域のはずだから、むやみに入って泳いでいいというものではないと思われる。
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 この辺りまでくると、道はきれいに整備された広い遊歩道で、道の縁にはスイセンの株がズラリと並んでいる。
 この道を抜けると、広い自動車道に出て、右に行けば城ヶ島公園、左に行って坂を下れば、城ヶ島大橋への登り口でもある白秋碑前のバス停と広い駐車場に出る。

▼国土地理院 「地理院地図」
35度7分51.44秒 139度37分5.02秒
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タグ:神奈川県
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1457 灘ヶ崎=三浦市三崎町城ヶ島(神奈川県)前にはなかった岬名がいつからかちゃんと明記されるようになった岬 [岬めぐり]

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 城ヶ島も何度か行っているので、この道もあの景色も見覚えのあるものばかりだ。ここ前にも通ったよねとか思いながら、京浜急行の三崎口駅前2番乗り場から乗ったバスの終点から、家の裏の間の細道を抜けて行く灘ヶ崎も初めてではない。
 それなのに、これまでの三浦半島の岬めぐりでここを項目にあげていなかったのは、当時の地理院地図にはその名の記載がなかったからだ。今では、地理院地図もMapionなど他の地図でもちゃんと載せている。そこで、こりゃちゃんと補足しなければ…と改めてやってきた。
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 灘ヶ崎はほぼ東西に横長の城ヶ島では、北東の端にあたる。北側はすぐマグロの水揚げで有名な三崎漁港で、その西の入口を守る長い防波堤が、岬の端から伸びている。遠目に見るとほとんど両者はつながっているようにも見えるが、灘ヶ崎の先端でいったん切れ、その先から防波堤が始まっている。
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 大きな岩が尾根のようになって、西の富士山に向かって伸びていく。この日は、前日は雪が薄く積もったが、もうすでに溶けて、めずらしいくらいの秋晴れのお天気になった。
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 楫(かじ)の三郎山という、いかにもなにかありそうな(三浦市の建てた説明板を読んでも不得要領)小山が、バス停終点の先にあるが、この山の北側には道がない。南側をすり抜けていくと小山の上に祠があり、そこから眺める灘ヶ崎が最高だ。
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 この城ヶ島の西端では、ここから南の長津呂崎にかけて、またここから東の城ヶ島一帯では、同じような何十枚もの板を重ねたものを斜めに傾けたような岩の層が、一帯に連続している。大小さまざまな、板棒きれを並べ突き出したような景観が続いている。
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 ここらではそれが崖ではなく、低い岩のでこぼこになって、海に向かって広がっている。これが三崎層で、城ヶ島付近ではその露頭が目立っているのだ。
 三崎層は1200万年前から400万年くらい前までの間に、大洋の海底に堆積した岩で、火山由来の噴出物である灰や岩滓が、積もり重なり固まった岩の互層になっている。
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 おおまかに言えば、白と黒が互い違いになっているが、白いのが火山灰が泥(シルト・粘土)となって固まった岩石で、黒いのが火山噴出の岩滓(スコリア)を含む凝灰岩の層になっている。それがかなり広範囲な露頭として大規模に展開している。三崎層は、三浦半島でも東は雨崎と剣崎の間から、西は油壺の南の浜諸磯を結ぶ線から以南と荒崎と佐島の一部に限られる。ほとんど半島南端を中心として分布している。
 互層になっているということは、1200万年前から400万年前という期間には、交互に違う噴出物を吐き出す大規模噴火が、間を置きながら何度も何度も繰り返されてきた、ということになるのだろうか。
 それも想像してみると、かなり不思議なことのように思え、いったいどのようにしてそういう現象が起こったのか疑問に思える。しかし、専門家はそういうことにはあまり疑問を感じないらしく、どのようにすればこういう互層になるのか、そのことについてあまり明快には教えてくれない。
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 あるサイトのページには「プレートの沈み込みに伴う付加体に特徴的な逆断層によって、同じ地層が繰り返し出現しています」という三崎層に関する説明があったのだが、悲しいかななぜ“逆断層が特徴になるのか、それによって同じ地層が繰り返し出現”することになるのかがわからない。
 まったく、ドがつくシロウトはどうしょうもなく困ったものだし、説明の下手な専門家にも困ったものだ。もちろん、専門家の仕事のメインがシロウトのご機嫌をとりむすぶことにはないことも充分に理解しているつもりだ。が、それは両者の意識と知識と疑問のもちかたに、大きな断層があるからなのであって…。
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 それでも、地質学の研修フィールドにもなっているらしいこの半島の地質については、それぞれ専門の方々によるいろいろなサイトやページがあり、教わることが多くておおいに感謝しています。
 そんな情報のなかには、見慣れない用語がたくさん出てくるので、シロウトはその意味から調べて理解しなければならない。
 灘ヶ崎の南すぐ、城ヶ島灯台の下には、城ヶ島京急ホテルがある。その横の崖には、黒いスコリア質凝灰岩の層が、まことに奇妙な形にねじ曲がり、のた打ち回ったような跡がそのまま固まってしまったようにして固まっている。
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 それはスランプ構造というものらしい。海底に堆積したものがまだ固まらないうちに斜面を滑り落ちる(海底地すべり)などして、このような形になったのだという。なるほどねえ。それはなんとなく想像ができます。ただ、ここの写真があまりうまくなかったので、それはまた後で…。
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 そして、その大洋の海底が、1年に数センチずつ西へ西へと動き、それを日本列島のプレートの端まで運んできて、その下に潜り込んでいくときにその一部がこすり付いた。
 城ヶ島で見ている三崎層は、そういうものだったと知ると、なんか楽しくなってくる。ねえ、そう思いませんか。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度8分13.84秒 139度36分38.43秒
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1456 長井松ヶ崎=横須賀市長井三丁目(神奈川県)岡崎の岬が松ヶ崎とはこれいかに火山豆石もわからんとはこれいかに [岬めぐり]

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 荒崎も公園からのコース順路に従えば、だいたいはどんどんびきという狭い入江を右に見て、佃荒崎のほうに進むことになるのだが、その北西側にも大きく岩場と丘が張り出している。その丘は城山とも呼ばれていて、実際に城塞のようなものがあったらしい。海に出っ張っているとはいっても、さほど戦略的に重要なポイントになっていたわけでもなさそうだ。この荒崎城には、三浦介義明の次男である三浦義澄が居城として住まいしていたという。
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 和田義盛の居城もその点では同じことだが、三浦にしろ和田にしろ、この時代の鎌倉武士は、土着の勢力圏、あるいは自分で切りとった勢力圏に住まうという、土着の武士団を形成していたので、最初から戦略的な眼で居城を選定していたわけではなかろう。
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 幕末には、彦根藩が荒崎の西に台場を築いたとされるが、彦根藩も幕命にしたがってここでその任についただけで、三浦や和田の時代とは武士もまったく性格をことにしていたわけだ。
 荒崎も何度か行っていて、昔は今よりももっとバスの便が悪かったような気がする。そこで、長井から荒崎まで延々歩いたことも記憶にある。そのときには小田和湾に沿って海岸線を歩こうと決めていて、道のないところはコンクリート護岸の上を歩いてぐるりと荒崎まで回った。途中、港のそばの護岸いっぱいに建物が建っているところもあって、結局海岸線を全部回り切ることは、無理だとわかった。
 そのコースの途中には、仮屋ヶ崎というバス停もあるのだが、そこには全然岬らしいものはなかった。また岡崎というところも同じだが、その先端まで行ったので、ここも前に来ている。しかし、ここも地図にはない岬なので、そのときには岬という意識がまったくないまま歩いて通りすぎていた。
 井上成美旧邸跡から下ってくる道と合流する付近には、熊野神社や住吉神社があり、それぞれ古い昔の漁村を守ってきた。そこからさらに北へくねくねする海岸を2.5キロも歩くと、長井漁港の北に張り出た岡崎に着く。
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 長井岡崎公園から西には、結構大きな団地がある。県営らしいが、棟と棟の間もせせこましくなく広く開いている。その間を抜けると、目の前に岩礁地帯が現れる。そこが長井松ヶ崎。
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 ただ、字地名は岡崎なのに、岬名は松ヶ崎だからねえ。地図にもないとなればこれはわからなかった。たまたま三浦半島の地質情報を集めたサイトでその名を知ったので、めでたく一項目追加。
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 そのサイトとは、トップページに海外町のスランプ構造をあしらった「三浦半島の地層・地質」というもので、いろいろ教えてもらい参考にさせていただいた。
 長井松ヶ崎として、この地質サイトが取りあげていたのは、ここには火山豆石があるからのようだった。“火山豆石”というのも、あまり聞き慣れない名前だ。
 その説明によると、「火山灰でできた丸い変わりアメ玉のようなもので、中心部は火山砂や小さな礫でできていて、大きさは直径数mm〜数cmの小さな丸い石」ということらしい。
 どうしてこのようなものができるかというと、火山が水蒸気爆発を起こしたとき、噴出物の粒子が核になって水分が細かい火山灰を引き寄せてくっつけ、空中を飛んでいる間にどんどん灰が固まって膨らんでいき、このような火山豆石となるのだという。
 へえー、ですね。まったく自然の現象とは…。
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 けれども、その自然現象がどこにあるのか、松ヶ崎の岩礁を歩いてみても、これか?というようなものになかなか出くわさない。シロウトの悲しさか、岩の上に小さな点々がたくさんあるので最初はそれかと思ったが、単なる貝だった。やっぱりなにか案内があるといいのだが…。
 そういう自然現象は、まだ人類が知らない太古に起こったものばかりとはいえない。三浦半島では、1923(大正12)年の関東大地震によって、陸地が1.5メートル近く隆起したのだというのだから…。
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 1.5メートルというと、この長井松ヶ崎の岩場も、荒崎や城ヶ島の海食台も、三浦半島の岩場はみんな関東大震災によって初めて陸上に出てきた…ということになりますねえ。
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 自販機を並べた横に、“駄菓子・文房具・ゲーセン”とこども三題噺のような小さな看板を出している家が、岡崎のバス停前にあって、なんかおかしかった。

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▼国土地理院 「地理院地図」
35度12分33.45秒 139度36分35.09秒
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番外:井上茂美旧邸跡=横須賀市長井六丁目(神奈川県)わざわざ探して行かなかったその場所に今度は行ってみた [番外]

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 環境省と神奈川県が建てた荒崎の案内看板には、城山からの眺めは「眼下に松の青と砕ける波の白さが調和し、遠く相模・伊豆の連山や富士の容姿がすばらしい」と形容している。
 絵葉書的な説明はともかく、“調和している”という点では、三浦半島自体がある種の調和を保っているような気がするのは、単なる身びいきであろう。けれども、高くて大きな山も長い川もない半島では、どこまでも似たような台地がでこぼこと続き、崖も浜もある海岸線は、だいたいぐるりと周回することができる。そのため人が暮らす集落も海に近く、視界は常に広く開けている。
 こういうところに住むのもいいなあと思う人も多く、ちゃんとそれを実現している人も何人か知っている。が、ちょっと都会から世間から離れて、それでいてあまり隔絶された感じはないところは、通勤マイホームというよりは、半分隠居のような理想の隠遁生活に向いているような気がしていた。
 それに憧れる気持ちも強かったが、東京へ通勤するという現実が切り離せなかったでんでんむしは、中途半端に半島の付け根にかれこれ数十年も居を置いてきた。そこへやってきたときには、まだ京浜急行も三崎口まで延伸していなかったのだが、そんなときに見た地方版の小さな新聞記事で、井上茂美(しげよし 1975(昭和50)年に没)の消息を知った。
 そのことは、2007年初めのブログで、
として書いていた。
 それから数えて10年も経つので、今回また再再訪し、中途半端だった荒崎についても「荒崎2」を加え、まだ探さないままになっていた井上茂美の家があった場所も確かめておきたいと、これを書いている。
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 でんでんむしがこの人に興味をもつ理由は、“最後の海軍大将”であったからでもなく、海軍内でも少ない開戦反対派だったからでもない。
 ただ、元高位の海軍軍人としての敗戦後の日本における身の処し方、という点においてのみ。
 旧軍幹部や戦争指導の関係者が続々と自衛隊などに復帰し、大企業からの誘いに応じて戦後社会にうってでるのを、苦々しく思っていたらしい井上自身は、いっさいの誘いを断り、近所の子供に英語を教えて過ごし、この海を望む台地の上からあまり出なかったといわれる。
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 “一億総懺悔”などというお題目にごまかされて、戦争責任をあいまいなままにしてきた結果、戦前の思想や体制が復古するがごとき現象がちらちらとそこかしこに目につき、それを公然と主張する勢力や団体が政権を支援し動かしているような光景がだんだん増え、いや大手を振ってまかり通っている。そんな現在を、井上は想像していただろうか。
 そのすばらしい教育方針に感銘を受け夫もそうだという首相夫人が、名誉校長を引き受けた(疑惑が発覚してから辞任)という、幼いこどもに教育勅語を暗唱させる私学の要求に応じて、政治家や官庁と役人がせっせと便宜をはかるようになってしまっている。結局、この騒動も「適切に処理」されて、うやむやなあなあでごまかして逃げ切り可能にしてしまう。この政権になってから続く、もろもろのことにも、大多数は怒ることもなく、暗黙のうちに了解させられている。そうしていく先に、われわれは何を失っていくのだろうか。
 少なくとも、あるべき国のかたちをどう考えるかについては、われわれは戦後からずっと調和を欠いたままの混沌のなかでもがいていて、その答えをみつけられずにいる。そうこうしているうちに、いつの間にか過去の亡霊がゾンビのように蘇って、すでに政権に影響を与えている、いや政権を支えている、いやいやそれらが政権をつくっているというべきだ。「日本をとりもどそう」というのは、そういう意味だったのだ。それでも、世論調査では半数前後の支持率を維持しているというのも、実に不思議なことだ。
 話がそれた。もっとも、井上は自身の生き方や考え方について、自分で語ることはなかったらしいので、その戦後の去就についても、他の情報の断片から伺うだけ。かなり上っ面だけの、数十年前と同じ個人的な感想の範囲に留まり続けていて、進歩も発展もない。(それでも、その間にずいぶん昔仕事で新宿御苑前の雑居ビルを訪れたとき、その一室に井上の伝記刊行会かなにか、そんな表札を掲げてあったのをみたという偶然もあった。)
 したがって、書くこともあまりないのだが、前にはなんとなくそっとしておいてあげたほうがいいのではないかと、わざわざ探して行くことをしなかった。その後、この場所にも変化があったらしい。
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 縁者があとをついで、一度は“井上茂美記念館”もオープンしたともいうが、今は閉館状態になったままのようだ。もともとの住居だった建物は、もう取り壊されてないようだが、わずかに古い門柱がその跡を示すものとして残っているだけだ。
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 勝手に入ってきてうろうろする人間も多いらしい。そこで、“私有地立入禁止”と“記念館は閉館”の張り紙がぶら下がることになったのだろう。個人の記念館など、維持するのも大変だろうと想像はつくが、なにかこのままでも気の毒なような気も…。(阿川さん印税の一部でも…^_~。) 
 そう思いながらも、荒崎の上の台地から海を眺めてみる。
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 この海が、広く太平洋へと続いている。千島、ミッドウエイ、ハワイ、硫黄島、サイパン、グアム、フィリピン、ニューギニア、パラオ、そしてでんでんむしの父親も眠るソロモンとガダルカナルの海へも。
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 毎日、それを海軍の拠点であった横須賀のここから眺め暮らしながら、なにを思っていただろうか。
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 もし、彼がここに立っていれば、いまどきの芸も能もないお馬鹿なインタビュアーなら、マイクを向けて「今のお気持ちは…?」と空疎な決まり文句を言いそうなところだが、でんでんむしにはそんなことを聞くのは無用で失礼だろうと思える。
 それは戦後の伝え聞くその生き方を知れば、それだけで充分、それがすべてなように思えるからだ。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度11分44.15秒 139度36分24.78秒
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1455 お仙ヶ鼻=横須賀市長井六丁目(神奈川県)尾を引いているモノもちがいい横須賀市の説明看板と“お仙”って誰? [岬めぐり]

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 この横須賀市の案内板の説明文で、「黒くて硬い凝灰岩と、白くて軟らかい砂岩・泥岩」というのはわかりやすくてよい説明だ。そのふたつの層が洗濯板のようにでこぼこしているのは、侵食作用だけではないと踏み込んだ説明、「水分を吸収して膨張収縮しやすい砂岩・泥岩層が、水分を吸いにくい凝灰岩層との間で長い年月をかけて変化してきたためと考えられています。」というのもよい。たいていの人は、これでなるほどとうなづけることだろう。
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 だが、残念ながらそれだけでは、肝心のプレートの移動で海底の堆積物が削り取られてきたという説明が抜けてしまう。確かに堆積ではあるのだが、三浦半島が海にあった頃に堆積したというわけではない。やさしく説明するというのは、むずかしいものだ。
 また、堆積したというだけでは、この付近の海岸の岩の層が陸に向かって斜めに傾きながら飛び出しているのをみれば、なかなかすんなりとは腑に落ちないであろう。
 堆積するときは上下に順に堆積していたはずだが、その堆積層がプレートに押し出され押し付けられて、陸地側に乗り上げるように重なっていった…そう考えるとなんとなく「そうかあ」という気にもなるのだが…。ところが、たいていの本の付加体の説明図では、陸側が沈み海側が持ち上がるように描かれ、これと逆向きの傾斜で示されている。その矛盾を説明した本はない。
 とにかく、それだけではなく、もっと激しく複雑な力がさまざまに交錯していたことだろう。想像もつかないようなエネルギーが働いて、変成し変形した。そのことはこの岬の地層にもうかがえる。
 幾重にも折り重なる砂岩と泥岩の互層を眺めていると、想像はとうてい及ばないながら、不思議な気持ちになる。
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 …あれっ。ちょっと待てよ。横須賀市がこれを建てたのは…昭和52年?
 1977年だなあ。プレートテクトニクス理論が発表されてから10年近く経っている頃だけど、まだそれが広く浸透していたとは言い難いから…。これが書かれたとき、どの程度それを踏まえたのか踏まえてないのか、よくわからない微妙なところだ。というのは、日本の学会がプレートテクトニクスの受容でまとまるまでには、10年以上の歳月を必要としたからだ。
 首都圏から至近距離にあり、各大学の地質学研究室の実地研修なども盛んに行なわれている場所を抱えながら、とにかく40年前の説明をそのまま使っている横須賀市は、実におおらかでのんびりしているというか鈍いというか。
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 荒崎の弁天島をさらに東へ行くと、小さな浜と急にびっくりして飛び出たような小さな岬がある。ここがお仙ヶ鼻なのだが、その名は地理院地図には載っていない。載っていないが、ネット情報では釣り情報などたくさんの項目が拾い出されるくらい、よく知られている岬らしいので、項目を追加することにした。
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 お仙ヶ鼻は植生に覆われていて、三崎層の崖の周囲は歩けないので、これを石段で乗り越えなければならない。小さな岬と書いたのは、地図を見ての印象で、実際にそばに寄ってみるとなかなか大きい。ちょうど先端部の岩棚に立っていた釣り人を見てそれが実感できる。
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 その東に出ると栗谷浜(くればま)漁港があり、特養老人ホームのでかい建物が目立っているが、この上がソレイユの丘で、その下の先が佃嵐崎(つくたらしざき)となる。
 このあたり、項目の順序は、地図上の順にはなっていないで、行ったり来たりしている。実際の行動も、北から順に南へとか、きれいに計画的に動けなかった。何日かに分けて、あっちへ行ったりこっちへ来たりしているのは、近場だからとぶらり散歩のつもりで飛び出して、バスの都合その他で細切れになったからである。
 また、歩いているうちにおやこんな岬もあった…。じゃせっかくだから、ついでに入れておこうと、ずいぶんラフで無計画な出たとこ勝負になっている。
 お仙ヶ鼻もそんななかで“発見”してしまった岬なのだが、この名前の由来もあまりはっきりしない。“お仙”さんという女性にまつわるな何らかの話があるのだろうとは想像できるが、その確かな情報がどこにもないらしい。
 このテでよくあるのは、その女性がこの場所で不慮(あるいは覚悟の)の死を遂げた…という話だから、ここももしあるとすればそんなところだろう。が、そういう話の多くは事実に基づくものというより、誰かが思いつきで喋ったのが、だんだん尾ひれハヒレが付いて、もっともらしくなっていってしまう。…というのもある。
 地図には載っていない名前が、ネット情報などではどんどん広がって膨らんでいくというのも、なにかおもしろいのを通り越して、ちょっと気味が悪く思えたりする。
 そんなん感じもしながらお仙ヶ鼻のネット情報をみていると、釣り情報などに混じっていた、「nagainokaze」という人が書いているページに目が止まった。その人は、このお仙伝説は、房総の“おせんころがし”の話を伝え聞いた、ただその「背景は移植されないまま」の連想から生まれたのではないか、というのだ。
 なるほど。それはあり得る。案外、そんなところが正解だったりして…。
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 この岬の西には、昔の“火サス”に出てきそうな白亜の豪邸(いかにもいわくありげな)とその敷地が広がっている。その敷地とお仙ヶ鼻の境にあるツワブキか何かの黄色い花も咲く細い階段を登って…。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度11分38.57秒 139度36分29.62秒
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dendenmushi.gif関東地方(2016/11/29 訪問)

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