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番外:仏ヶ浦=下北郡佐井村大字長後(青森県)呆れ果て驚き果てて仏ウタ念仏申すほかなかりけり… [番外]

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 仏ヶ浦へ行く方法は、車で行くのと船で行くのとふたつがある。
 車なら北の佐井からでも南の脇野沢からでも、まず国道338号線で山に登って150メートルくらいの高いルートを仏ヶ浦の上から駐車場へ降りる。そこに車を停めて、あとは110メートルの山坂を延々と下って、仏ヶ浦の磯に降りることができる。帰りはまた、そこを上ってくることになる。山道の急斜面の登り降りくらいなんでもないよ、という人と、罰当たりな展望台から仏ヶ浦を見下ろしたいという人限定のコースになる。
 船で行くらくちんコースを選びたい場合は、これも北からでも南からでも、とりあえずは牛滝港まで行き、そこで小型の遊覧船に乗り換えることになる(ほかに佐井や脇野沢から出る遊覧船もあるのかもしれない)。遊覧船には二種類あってひとつはグラスボートを標榜しているが、これは期待しないほうがよい。その遊覧船で仏ヶ浦の船着場に上陸し、周辺を散策することができる。現地には、地蔵堂と管理事務所とトイレくらいしかない。
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 二種類の遊覧船は、それぞれ時間やポーラスターとの接続方法などが異なるようなので、事前によく調べて予め予約などの確認が必要だろう。
 でんでんむしは前にその遊覧船で行っているので、今回は仏ヶ浦の沖を通るポーラスターから眺めるのみ。実は、遊覧船で行って帰りは脇野沢で大湊方面に行くバスに接続できないかも検討してみたのだが、数少ないバスが出てしまった2分後に脇野沢に帰ってくるようになっていた。2分くらいどうにかして、バスに接続できないのかとむつ市に問い合わせてみたが、それはまったく考えていなかったらしい。つまり、遊覧船は、ポーラスター接続しか考えていない。
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 往路のポーラスターが牛滝港に入ると、小さな港なのにやたら長い堤防(これは地理院地図にはまだ表示されていない)と、何の工事だかよくわからないがこれまた長い構築物を港につくっていた。そこで同乗者はみんな降りて遊覧船に乗り換えて行ったので、船室はそして誰もいなくなった状態。
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 船が牛滝港を出て北の仏ヶ浦へ向かうとき、大細間沢という谷を通過する。遊覧船より大きいポーラスターは、仏ヶ浦を通るときは、極力海岸近くを徐行する。船からの写真ではどうしても平板になるのと、大きさのイメージがつかない。前項でもふれた前の031 福浦崎の項も合わせて見ていただきたいが、地蔵堂の建物と岩の間に浮かんでいる遊覧船を見ると、その岩の大きさがわかる。人間は豆粒のようにしか見えない。
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 地蔵堂の前から、背後の山の上の国道につながる駐車場と登り降りする道がある。岩にはそれぞれ仏などの名前が付けられているが、それはまあどうでもいいというか…。どうでもいいが、当初ここを見た人が仏の世界と連想を広げ、昔はここが「佛宇陀」と呼ばれたのは、なるほどと思わせる。「宇陀(うた・うだ)はアイヌ語で「浜」という意味なのだが、それに佛をくっつけ、その読みが転訛して仏ヶ浦になったものだろうか。
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 ポーラスターの船内放送でも、ガイドのアナウンスが流れる。往復同じものを聞かされたが、そこでもやたら引用されていたのが、大町桂月だった。地理院地図で地蔵堂の下の岩磯に石碑の記号があるが、これも大町桂月の歌碑なのだ。
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 ここだけでなく、とくに東北ではどこへ行っても大町桂月の名がでてくることは多い。誰も行かないようなところへでも、積極的に出かけているからだろう。そうした各地の歌碑などの紹介には「文豪」としているものが多く、ここでも遊覧船のページでは「文豪」となっていた。
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 へそまがりでんでんむしは、前からこれに苦言を呈していてどこかで書いてきた。代表作の名前ひとつ誰も知らない「文豪」はあり得んだろう。美文調の紀行文は当時広く読まれたらしいが、確かに仏ヶ浦に関して言えば、この地を世間に広く紹介したのは彼の功績といえるのだろう。桂月がここを訪れたのは、1922(大正11)年のことで、亡くなる3年前だった。
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 仏ヶ浦の景観をつくっている緑色凝灰岩(グリーンタフ)は、海底に堆積した後に隆起し、それが長い間の風雨波浪の影響によって侵食され、現在見るようなさまざまな形をした巨岩が残った、と考えられている。
 前項で緑色凝灰岩の形成背景については触れていたが、このグリーンタフの仲間のひとつである石は、われわれのごく身近にあって(とくに関東では)、誰もが見たり触ったりしているはずだ。それは大谷石という名で、石垣などに広く使われているからだ。復路のポーラスターは、一路南へ向かい脇野沢港を目指していく。
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▼国土地理院 「地理院地図」
41度18分39.31秒 140度48分14.71秒
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dendenmushi.gif東北地方(2017/09/05 訪問)
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1497 福浦崎2=下北郡佐井村大字長後(青森県)白い崖を眺めて思う2000万年前からできはじめた列島のことなど [岬めぐり]

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 福浦崎については、2006年に仏ヶ浦を訪れたときに、そこから見た岬を項目にしていたが、実はその内容はほとんど仏ヶ浦の写真ばかりで、とりあえずあげておいたという感じでお茶を濁していた。

 031 福浦崎=下北郡佐井村大字長後(青森県)仏ケ浦は有名でもその北に大きくある岬を意識する人はいない

 そこで、今回は「福浦崎2」となる。…といって、格別たくさん書くことがあるわけもないが、前回はひとつだけしかなかった福浦崎の写真を、福浦港からぐるりと回りこんでみた眺めも補足しておきたい。
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 福浦の港からは、左手に長い岸壁の先にあるのが福浦崎で、北側の下ノ崎よりも港からは遠く離れている。45度に角度のついた岬の上は、八柄間山という313メートルのピークがあり、写真では丸くその頂きが岬のスロープと共に映り込む。
 このピークの70メートルくらい下のところを、国道338号線が巻いている。その南側は、恐れ多くも仏の磯をその遥か上から見下ろすことができるという、まことにバチあたりな展望台になっているようだ。
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 福浦崎の先端は、港から延びる岩の崖が丸くなっているが、その岩が変化に富んでいて、複雑な岩の節理がいろいろな造形を見せている。岩棚の上では鬼の洗濯板状態になる節理が、崖の縁では細かいギザギザの鋸の刃のようになっている。
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 港から見る福浦崎の遠くに見えているのは津軽半島で、ちょうど今別から北へ新幹線のトンネルが海峡に向かって下り、あるいは海峡から上がってくる傾斜になって通るところにあたる。
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 船で岬の北側と南側を見比べてみると、光線の加減もあるかもしれないが、南側の崖は白さが一段と際立って見える。あるいは南と北では岬をつくっている岩石の種類が異なるのかもしれない。
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 福浦崎南面の崖は、はっきりと白い。どうかすると薄い緑がかかっているようにも見える。
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 これはこの南に続く、仏ヶ浦の構成岩石と同じ、緑色凝灰岩(グリーンタフ)なのであろう。
 緑色凝灰岩というのは、実はその生成過程がわれわれの日本列島の成立と深く関わっている岩石のひとつで、現在の日本で北海道東部から東北日本海側にかけて、広く縦長い帯状に分布している。
 日本列島が今のような形に落ち着くまでには、地殻大変動を伴う長い長い時間が必要だったが、ざっくり言えばおよそ2000万~1500万年前に、ユーラシア大陸の東の端っこにあった地塊が、活発な火山活動と陥没によって離れ、間に縁海(日本海)をつくり、それがさらに大陸と列島を引き離していく。このとき、列島は真ん中付近からふたつに折れ曲がるような動きをしている。グリーンタフの分布は、まさしく日本海の拡大で押し出された列島の、ふたつに折れた北側の縁の部分を描いているようでもある。
 この日本海ができる過程で、海底火山の活発な活動が続き、大量の火山灰が海底に堆積し、マグマの熱や地中の圧力によって緑色凝灰岩という火山岩の巨大な帯となっていく、というわけだ。
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 今見ている福浦崎の白い崖も、そんなことを思いながら眺めると、また一段と味わい深い、と思うのですがいかがでしょうかね。

▼国土地理院 「地理院地図」
41度19分19.93秒 140度47分59.10秒
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1496 下ノ崎=下北郡佐井村大字長後(青森県)前には素通りしていたので今回は福浦港に降りてみた [岬めぐり]

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 下北半島のマサカリの刃に当たる部分は、仏ヶ浦に代表されるような断崖の海岸線が大間崎から北海岬まで南北47キロに渡って続くが、厳密に言うとその切れ味の鋭そうなところは南半分、福浦の下ノ崎から北海岬までの22キロくらいと言ってよいだろう。
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 西の津軽海峡に向いた刃の、ちょうど中間にある福浦港で、ポーラスターを下船したのもそのためだ。が、前述のとおり同乗の他の客はみんなその一つ前の牛滝港で降りていて、それは仏ヶ浦観光の遊覧船に乗り換えるためだった。
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 みなさんが用のない福浦までやってきたのは、下ノ崎と福浦崎チェックのためで、当方は前に行ったことがある仏ヶ浦には今回は用がないので、ポーラスターで往復通り過ぎる。
 下ノ崎から北には、佐井村と大間町の境界にある津鼻崎まで岬がなく、その間北北東に17キロもある。
shimonosaki-2.jpg 下ノ崎と福浦崎に挟まれた狭い入江の奥にある福浦港には、ほんのわずかな隙間を縫うようにして、船は岸壁に着く。操船技術もかなりの慣れが必要だろうと素人にもわかるくらいだ。船を迎えに出ていた係の人に聞くと、少し風や波があると、福浦港には寄らずに行ってしまうことも多いという。
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 でんでんむしが降りたので、誰も乗客がいなくなったポーラスターは、また狭い水路を抜けて佐井港へ向かっていった。その船が次の便で折り返してくるまで、この福浦で待つことになるが、自転車で港までやってきていた係の人にくっついて、民宿兼シーラインの切符売り場まで行き、帰りの乗船券を買っておく。
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 谷間の小さな集落は、付近の隣接集落とも遠く隔てられていて、国道338号線がかろうじて陸のルートを維持しているが、それも冬場には通れなくなることも多いという。だから、いちおう小中学校はあるが、郵便局は北へ5キロ以上離れた長後集落まで行かないとない。
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 そんな福浦の港の北にあるのが下ノ崎で、イカやコンブが少しばかり干してある港の北の端までは少し歩けばすぐ着く。
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 岬の付け根部分の斜面に、小さな赤い鳥居と祠があるのがなにやら微笑ましく思えるのも、この好天気のせいかもしれない。空も海も青く澄んでいて、これといってなにひとつ見せ場のない港を明るく映えさせてくれる。
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 下ノ崎の先端の向こう、遠くに霞んで見えるのは、津軽半島北部の高野崎龍飛崎。そして津軽海峡を挟んで右手に薄く見えるのは北海道の南端部で、その先端は白神岬となる。
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 この間の海の下は、深いところでは水深140メートルあり、その海底からさらに100メートル下の地中を青函トンネルが通っているわけだ。ここからいちばん近いところで39キロ先の海面下にあるトンネルの全長は約54キロ近くあるが、そのうち海の下になるのは23キロちょっと。そんな海の底なんかにトンネルを掘ったりしたら、底が割れて海水が浸入してくるのではないかという素人の心配も、あながち杞憂ではない。海底から100メートル下というのは、そういうリスクも計算されたうえでの深さであるらしい。その海底トンネルを、現在では北海道新幹線が1日に13往復していることになる。
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 でんでんむしも何度かそこを通り抜けたが、そんなときに東40キロにある海岸のことなど、まったく思いも浮かばない。見えないということは、そういうことなのだ。
 下ノ崎から遠く見える海の下を想像してみるが、これひとつとってみても人間のやることには限りない驚異を覚える。その割には、その同じ人間がつくる国の政治や社会などでは、何度選挙をやってみてもまったく進歩もなく、相変わらずのように思える。
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▼国土地理院 「地理院地図」
41度19分42.78秒 140度48分8.07秒
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タグ:青森県
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1495 夏泊崎2=東津軽郡平内町大字東田沢(青森県)見えてはいるけれどもなかなか遠い夏泊崎は今回もまた遠望止まりに [岬めぐり]

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 2009年の平内町訪問では、東海岸の「496 鼻繰崎」までしかバスが行かなかったので、夏泊崎の手前止まりになっていた。
 2010年にはむつ湾フェリーからの遠望で、「636 夏泊崎ほか」として備忘的な項目を設けていた。なかなか行けない、遠い夏泊崎だったが、現在では、町民バスの東田沢線は大島まで行くようになってはいるようだ。大島というのは、夏泊崎の先にある島のことだが、大島のバス停が島まで行っているわけではなさそうだ。
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 しかし、それで行ってもすぐに折り返しになってバスは帰ってしまうので、岬まで行こうとすると3時間後の次の便を待たなければならない。やはり、夏泊崎へ行くのはそれだけで午後いっぱいが必要な半日仕事であるらしい。
 今回は、西海岸から稲生へ行き、10分の間に油目崎の切れ目を越えるところまで行けば、比較的近くからの夏泊崎を眺めることができるだろう…とそういう目論見だった。
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 その目論見が外れてしまったので、今回もまた海を渡る船の上からの遠望になってしまった。だが、前よりはずっと近くで、岬の先端と大島もはきりと見える。
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 夏泊崎という岬名表記は、半島の先端細い出っ張りについていて、そこからは橋のような線で道が大島の山越え一本道になって伸びている。細い橋は50メートルちょっとくらいしかなく、それが半島と島をつないでいるのだが、それぞれ橋に至るアプローチも低く長いので、遠目に見ていると、半島と島の間はずいぶん離れているように見える。
 この間の道の両側には、岩礁がつながっているように地理院地図では描かれているので、大島も陸継島に限りなく近づいているその過程の途上にあるのだろうか。
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 大島の先端には、地図では灯台があることになっているのだが、やはりそれがわからないくらいには充分遠い。
 そのあるはずの大島の灯台から北北西に進路を取ると、下北半島最南端の牛ノ首岬までは13.5キロほど。ポーラスターは牛ノ首岬の東奥の脇野沢港を目指していくので、船の進路は北北東になる。
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 脇野沢で降りる人もあるだろうから、窓の少しはきれいな前の座席に移動できるだろう。岬チェックのためには、この航路では行きは進行方向右手に席を取らなければならない。そう思っていたら、脇野沢ではほとんど誰も降りないで、逆に乗ってくる人もいた。
 結局、途中で日差しを気にした女性客が左手の席に移動してくれたので、その後へ座ることができたが、ほとんどの乗客は脇野沢の次の寄港地である牛滝で降りて行った。
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 そう、ポーラスターに乗る人が目指していたのは、仏ヶ浦だったのだ。牛滝からは、仏ヶ浦観光の遊覧船が出ているので、みんなそれに乗り換えるのだ。
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 でんでんむしはひとり、さらに次の寄港地である福浦まで乗って行き、下ノ崎から順に南下しながら、下北半島西海岸の岬めぐりを続けようと思う。

▼国土地理院 「地理院地図」
41度0分46.57秒 140度52分25.45秒
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タグ:青森県
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1494 観音崎・油目崎=東津軽郡平内町大字茂浦・大字稲生(青森県)町民バスに乗りそこねた結果船からの遠望になってしまった [岬めぐり]

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 夏泊半島の岬めぐりは、東海岸は前に2009年に行っているので、今回は残っている西海岸を行くつもりで計画していた。平内町の町民バスも、東と西で路線が分かれており、西は稲生線が稲生まで行っているが、先端の夏泊崎までは届いていない。
 それと、町民バスのダイヤが、東西ほぼ同時間帯に動いているので、東を済ませてから西へ乗り換えるということができない。つまり1日に乗れるのは、東西のどちらかひとつということになるのだ。
 町民のためのバスだから、なかなかよそ者の旅行者向けにはできていない不便なバスだが、それでもこの地域ただひとつのバスなので、これに頼るしかないのだが、その町民バスに浅虫温泉で乗り換えるのに間に合わなかった、という話は前にしたとおりだ。
 本来ならば、そのバスに乗れていれば、平内中野で稲生線に乗り継いで、茂浦から夏泊ほたて海道トンネルを抜けて観音崎を過ぎ、浦田から海岸線を走るバスから油目崎を眺めながら稲生まで行くはずだった。
 それがダメになってしまったわけだが、翌日の便でまたというわけにはいかないので、これは青森湾内を航行するポーラスターの上から見るしかない。
 ところが、うまくいかないときはどうしようもないもので、窓が汚いときた。そこで出入口のドアの窓や汚れがさほどでないらしい前方の座席越しに眺めるという、はなはだ不本意な結果となった。
 それに、これも何度か書いているが、岬をその沖の海上から正面向きに見ても、あまりぱっとしないのだ。凸凹感が非常に薄れてしまい、のっぺりと平板になってちっとも岬らしく見えない。見栄えしないことおびただしい。
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 それをいちおう念頭においたうえで、まずはバッコノ崎から板ノ崎付近の、船上からの眺めはこんな具合になる。
 茂浦島も、半島に溶け込んであまり判然としないが、茂浦の北、進行方向左手に大きく見えてくる出っ張りがある。これが、夏泊ほたて海道トンネルがその付け根を貫通している小さな無名の半島で、その先端にもどういうわけか命名がされていない。
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 実は、観音崎はこの無名岬の陰に隠れていて見えない。そこは、漁港の出入口を扼するほんの小さな飛び出しなので、見えたとしてもこの遠さではさっぱりわからない。
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 小さな観音崎を完全に隠している出っ張りは、もう小さな半島と言ってもいいくらいの規模なのだが無名だ。これは断崖と岩に囲まれたもう立派な岬で、ふたつに分かれた北側の先端には双子島という岩島がある。
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 このほうがずっと岬らしいが、油目崎はこれよりも六回りも小ぶりで、その左手(北北東)4.2キロのところで目立たぬようにちょこんと飛び出している。
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 陸継島のような地形で、小山も90メートルと控え目だが、油目といういかにもなにか曰くのありそうな名がついている。
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 無名の双子島のある岬と、好対照なのだが、大きくていかにも岬らしいほうに名前がなくて、油目崎のほうにちゃんと名がついているそのわけはわからない。おそらくは、稲生の集落の人々にとって、その港と集落を、北風から遮る岬は、その規模以上に重要だったのだろう。
aburamefutagoM-3.jpg 町民バスに乗りそこねた影響は、もうひとつあって、稲生から帰ると、こんどはまたバスを乗り換えて、青い森鉄道の清水川駅と狩場沢駅の間にある大崎という岬にも行けなかった。大崎というのもまた名が体を表していないのだが、その付近が小湊のハクチョウ渡来地とされているところだ。
 ここも計画のたびにこぼれてしまう公共交通機関で行こうとすると、いわくつきのやっかいな岬で、今回もまたこぼれてしまった。
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▼国土地理院 「地理院地図」
40度57分31.11秒 140度51分44.05秒 40度59分4.31秒 140度51分53.94秒
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タグ:青森県
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番外:ポーラスター=青森港・陸奥湾(青森県)逆マサカリ形の陸奥湾を南北140キロにわたって縦断する航路 [番外]

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 青森県の岬が多いのは、ひとえに陸奥湾が海岸線を長くしているからと言える。その陸奥湾は、津軽海峡から大間崎と竜飛崎を東西の湾口として、南に広がっているが、夏泊半島がその中央で北に向いて突き出ているので、その東を野辺地湾、西を青森湾と分けて呼ぶこともある。青森湾は半島より深く南に食い込んでおり、野辺地湾の北は大湊湾として北に凹んでいる。
 よく、下北半島がマサカリのような形と言われるが、「ルビンの壺」を見るときのように眼を変えて見ると、陸奥湾もまた下北半島と同じような形で対をなす、逆マサカリになっていることに気づく。
 逆マサカリの柄の部分が、青森港から下北半島と津軽半島の間を抜けて海峡に達する航路にもなっている。一般定期航路としては、陸奥湾を下北の脇野沢と津軽の蟹田の間で横断するむつ湾フェリーがあり、もうひとつ青森港と下北の佐井を結ぶシィラインがある。むつ湾フェリーには前にも乗っているので、今回はシィラインの「ポーラスター」(北極星を意味する名)に乗って、陸奥湾を縦断することにした。
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 朝早く、浅虫温泉駅を出て青森駅に降りる。ここから北へ向いて歩いて行くと、黄色と白の船体が岸壁に横付けされた、かつての青函連絡船「八甲田丸」を横目になおも行くと、青森港の客船ターミナルがある。乗船名簿に記入して脇野沢経由で福浦までの乗船券を買う。福浦までは3,460円也。
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 ここからポーラスターで、陸奥湾を北上すると、終点は佐井まで行くのだが、福浦と佐井の間は25キロと長いうえに岬がひとつもないので、その区間はカットした。実は、佐井からの船は、前にも団体ツアーで乗って仏ヶ浦に行ったことがあるのだ。
 で、青森から脇野沢までが55キロ、脇野沢から牛滝までが45キロ、牛滝から福浦までは15キロ。帰りも、福浦から脇野沢までこの船に乗る予定。
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 高速船のポーラスターは、フェリーや連絡船のようにデッキに出たりできない。航行中は客室に閉じ込められる。したがって、船からの岬めぐりも船室の窓越しに、ということになる。
 それなのに、座った後部座席の窓が、飛沫がかかるせいなのか恐ろしく汚い。前部のほうはさほどでもないらしいが、もう窓側の座席は全部ふさがっている。残念! 
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 シィラインのサイトには、下北半島と青森市とを結ぶこの航路について、「生活航路、観光航路、併せて下北半島が原子力半島であることから防災航路としての役割を担ってい」ると書いている。
 防災航路というのは、初めて眼にする。下北が「原子力半島である」というのは、かつては原子力船「むつ」の母港拠点だったことからの歴史を踏まえてのことだろうが、電源開発株式会社Jパワーの大間原子力発電所の工事も行なわれている。ただ、こちらのほうは函館市の工事凍結の訴えを起こしていることに加えて、震災の影響もあって当初2014年としていた運転開始予定は、大幅にズレこんで工事は長期化している。
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 1日2往復のこの航路は、どうやら仏ヶ浦観光の客がメインのようで、生活航路としての利用客は少ないようだ。生活航路としては、やはり車ごと移動できる脇野沢=蟹田のむつ湾フェリー(1,470円)のほうが、利用客は多いのだろう。
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 「八甲田丸」を見ながら港内をくるっと回って向きを変えると、バッコノ崎を横目に、船は北への進路をとる。
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▼国土地理院 「地理院地図」
40度49分57.52秒 140度44分14.47秒 41度19分36.17秒 140度48分23.67秒
mutuwanM-1.jpg
dendenmushi.gif東北地方(2017/09/05 訪問)
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タグ:青森県
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1493 板ノ崎=東津軽郡平内町大字土屋(青森県)実は浅虫温泉駅前からの平内町民バスに乗り遅れてしまいまして… [岬めぐり]

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 ほたて大橋の真北、1.7キロのところにあるのが板ノ崎。岬の山は80メートル足らずの小山で、岬の南斜面は崖崩れの跡のような赤土が露出している。夏泊半島の西海岸のまさしく付け根にあたるので、ほたて大橋からさらに北東に伸びる国道4号線の土屋バイパスも、この岬の手前から、大きく東へ向きを変える。
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 そして、少し行くとこの先で国道は奥州街道と合流し、半島の付け根を横断して平内町役場もある小湊を経由して、東の野辺地湾岸を通って狩場沢の上北郡野辺地町との境界線に至る。
 旧東北本線だった青い森鉄道の線路も、国道と並行していて、平内町町内には、西平内、小湊、清水川、狩場沢と4つの駅がある。町の住民もほとんどはこの沿線に集中していて、半島の沿岸には飛び飛びに集落が点在する。
 1889(明治22)年に村制が施行され、東・中・西の3つの平内村ができ、そのうちの中平内村が昭和になっての町制施行で小湊町になり、1955(昭和30)年にこれら3つの町村が合併して平内町になっている。
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 この経緯をみてもわかるように、平内町の範囲と黒石藩飛び地の領域は、合併ばやりの時代をくぐり抜けて、ほぼここ数百年もの間変わらず維持されてきている。
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 津軽と南部の境界にあるという地政学的な条件が、そうさせたとも言えるようだが、人口1万人ちょっとのこの町はなんとなく結束も固いような感じもする。
 平内町もご多聞にもれぬ人口減少で、公共交通機関の縮小に対応するため、2004(平成16)年から下北交通と提携して平内町民バスとして自治体バス5系統を運行させている。でんでんむしが前回平内町を訪れたのは2009年で、このときは夏泊半島東海岸を走る町民バスに乗って、

 495 安井崎=東津軽郡平内町大字東滝(青森県)取り残されて…夏泊半島
 496 鼻繰崎=東津軽郡平内町大字東田沢(青森県)ホタテとツバキの夏泊半島の東側

とふたつの岬は数えていたが、この当時のバスは夏泊崎までも行かずそれ以上は行けなかった。安井崎の東、清水川と狩場沢の間にはハクチョウが飛んでくる大崎という岬もある。そして西海岸にはてっぺんの夏泊崎、油目崎、観音崎、そしてこの板ノ崎を数えることができる。
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 今回は平内町の残りの岬も東西二路線のバスに乗って全部カバーするつもりで、計画は組んでいた。
 ところが、なんということでしょう…!
 浅虫温泉駅前で青森市営バスを降りて、接続するはずだった平内町民バスに、乗り遅れてしまったのだ。それで、実は車窓から眺めるつもりだった白根崎も、板ノ崎も、こうしててくてく歩きながら訪問している。
 乗り遅れた原因を、青森市営バスが遅れたせいにもできないし、その青森市営バスのサイトでダイヤを調べようにも発時刻しかわからず到着時刻不明のまま乗ってきたことにすべてを帰すこともできない。
 また、乗り換えるべき平内町民バスの乗り場が、青森市に遠慮したのか浅虫温泉駅前にはなくて、そこからまた数百メートル北に外れた遠いところにあったせいにもできない。
 要は計画の詰めが甘くずさんだったせいだが、平内中野から稲生線に乗り換えて、油目崎の稲生まで行き、帰りは清水川の先の口広まで乗って大崎も訪問できる計画が、すべてご破算になってしまった、という次第。
 こういうこともありますよ。でもね、でんでんむしの岬めぐりでは予計画で定していたバスに、乗り遅れたというのはあまり記憶にないかな。
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 板ノ崎の西には茂浦島が浮かび、そこから北東の奥には茂浦の集落があるはずだ。茂浦島の向こうに伸びる半島の先端には、岩島があるのがわかる。これは地図で見ると双子島となっているが、岬の名はない。
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 板ノ崎の東側(右手奥)には、バイパスが緩く登りながら東へカーブしているのがわかる。計画ではここをバスで通るはずだった。
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 板ノ崎の所在は字土屋となっていて、白根崎と同じだ。このカーブの辺りは平内町大字中野となっている。けれどもそのすぐ隣は浪打になり、少しずれるとまた土屋になったりする。この付近の字地名はかなり複雑に入り組んでいるようだが、海岸はずっと板ノ崎まで大字土屋が占めている。ずっと旧藩の領域を踏襲してきた平内町町内で、なぜにこのような複雑な区分けと命名が必要だったのだろうか。
 Mapionの字区分けをみると、字名のない場所も広くあるようだ。 地理院地図では字境界の表示がないので、ポイントで探ってここは中野だとわかるようになっている。また、板ノ崎付近でも大字地名にない小字?地名が深沢、家ノ下、大石平、淀川などとあるが、大字名とそうでない地名との表記原則がどうもよくわからない。とにかく、字地名は、その地域を知るうえで、極めて重要なものなので、ついでながら、地図にもこれは小字も含めてできるだけ多く、きちんと押さえてほしいと願う。

▼国土地理院 「地理院地図」
40度55分12.69秒 140度51分56.33秒
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タグ:地図 青森県
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1492 白根崎=東津軽郡平内町大字土屋(青森県)そんなこたあシラネヒラナイなんて言わないで青森県はなぜ青森県かを考えてみる [岬めぐり]

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 真ん中で北に向かって三角に飛び出している夏泊半島は、野辺地湾と青森湾とに陸奥湾をさらに東西に分けている。この半島の出っ張りと付け根に食い込んだ山地を含めて、丸ごと一帯が東津軽郡平内町(ひらないまち)となっている。東津軽郡はこの一町のみで、浅虫の善知鳥崎が津軽と南部の境界だったとする「吾妻鏡」の時代はともかく、ここまでが津軽の領域だったという証拠にもなっている。
 平内は、アイヌ語の「ピラ・ナイ」からで、ピラは崖を意味し、ナイは川を意味するので、峡谷を流れる川という意味の名であるという。川というのは、半島付け根の東に流れ込む小湊川・盛田川と清水川のことであろう。とくに清水川は、町内最南部の三角岳753メートルの山ひだのなかに源流を発し、確かに長い渓谷を刻んでいる。
 清水川の河口と、半島付け根の反対西側には、白鳥の渡来地として天然記念物に指定されている。
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 青森市の裸島から東へ500メートルしか離れていない白根崎は、ぎりぎり平内町という境界線近くに位置していて、その沖にある鴎島(ごめじま=ここのゴメは、ちゃんと「鴎」だ)の付近も「∴ 小湊のハクチョウおよびその渡来地」として地図に特別天然記念物の表記がある。
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 浅虫からまっすぐ国道を通って、平内町に入り、ほたて大橋の袂までやってきた。平内町内バスが、浅虫温泉駅前にバス停を設けることができず、ずっと離れた北側にあるのは、この境界線を南に越えて、青森市の領域に食い込むことを避けた(遠慮した)、あるいはそうせざるをえないなにか理由があったのだろう。だが、ここからは堂々と平内町の領域に入る。
 白根崎は漁港の外れで建物が密集しているところだが、国道からは下に降りることができない。土屋番所や港のほうに行くためには、八大龍王の交差点まで戻ってから、東の脇道に入って降りていかなければならないらしい。
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 白根崎は、この橋の上からでないと、このようには見えない。それでも建物で半分隠れてしまう。
 「ほたて大橋」というのも、そのものずばりの名だが、橋の下の向こうには「ほたて広場」もあるらしい。なぜ、そんな名がここにあるのかというと、平内町こそが今では有名な陸奥湾におけるホタテ養殖の発祥地だから、ということらしい。すると、白根崎の港の岸壁に積み上げてあった青い網もホタテ養殖用なのだろうか。
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 浅い入江の上をかすめる「ほたて大橋」も、そのとっかかりだけで渡らず、「ほたて広場」にも歩を踏み入れないが、白根崎はその記念すべき小さな漁港を西に張り出して守っている。「ほたて広場」のサイトを見ると、そこにはほたて観音やほたて供養塔まであるらしい。それらの記述と並んで、実際に番所跡に立っている案内板を写した「土屋御番所由来」という記述があった。
 それによると、1656(明暦2)年、ここ平内領域の西口に当たる場所に領地境界警備のため番所を設けたのは、黒石藩初代藩主であるという。黒石藩というのは、津軽氏の弘前藩(津軽藩)の支藩で同じ津軽一族の支配下にあったが、八甲田の西南西にある黒石藩領とは地続きではなく、飛び地になっていたことになる。飛び地ならではの番所の重要性もあったのだろう。
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 この土屋番所も、明治の廃藩置県で廃止されたが、狭い谷間を抜ける道は、番所を置くには適した場所だ。
 明治4年の廃藩置県では弘前県とともに黒石県もあったが、2か月ちょっとで青森県になっている。弘前にあった県庁も、旧藩の影響の強い弘前から海辺の青森に移された。この青森県の成立の背景は、なかなか複雑だがおもしろい。
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 津軽と南部は仲が悪いという話は前にもしたが、その仲の悪い弘前藩と盛岡藩は戊辰戦争に際しては、ともに奥羽列藩同盟に属し官軍に対抗していた。ところが、戦争の途中から弘前藩は官軍に寝返ったのだ。このため戦後の処遇も弘前藩にはお咎めなしで廃藩置県までほぼ藩体制をそのまま維持したが、盛岡藩のほうは大変なことになった。石高は大幅に減らされたうえ、会津藩仕置で領地を斗南藩に割かれ、おまけに明治元年には弘前藩と盛岡藩・八戸藩が争う野辺地戦争で消耗するなど、踏んだり蹴ったりで、仲の悪さに拍車をかける事態が相次いだ。
 青森県の成立は、この両者の領域(旧津軽氏領の弘前藩・黒石藩と、旧南部氏領の七戸県・八戸県)と因縁の斗南藩をまとめて、一つの県に統合したことになり、しかもこの後全国で進む旧藩を統合しつつ新たな県にするという新政府の政策実現の第一号にもなっている。
 こうしてみると、単に陸奥湾に飛び出た出っ張りにすぎないと思っていた夏泊半島と、それを中心とする平内町の位置付けと意味付けも、少しばかり見えてくる。
 国道から土屋番所跡のほうに降りる階段くらいはあるだろうと思って、ほたて大橋まで歩いてきたが、それがまったくないのは誤算だった。
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▼国土地理院 「地理院地図」
40度54分14.78秒 140度51分34.39秒
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タグ:歴史 青森県
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番外:浅虫温泉=青森市大字浅虫(青森県)アサムシってどんな虫って思った人必読そんなん知ってらぁの人はムシしてよし [番外]

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 東北本線時代に何度か「浅虫温泉」駅を通り過ぎ、アサムシってどんな虫なんだろうと漠然と思っていた。今回は初めて青森市営バスでやってきて、帰りは青い森鉄道で青森に引き返した。
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  ここへきて初めて知ったのだが、浅虫はムシではなかった。ムシではなくて、「アサをムス」ことから転じて「麻蒸」→「浅虫」となった名であった。では、なぜ「麻を蒸す」のかといえば、麻の繊維を取り出すためで、それには長時間水につけて発酵させるか、熱を加えるかして、皮を剥ぎ取る必要があったからだ。
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 その筋からしっかり目をつけまわされて、今ではすっかりワルモノ扱いになっている感がある大麻も、もともとは日本人の、とくに木綿が手に入らなかった北の人々にとって、貴重な衣料原料であったから、戦前までは広く栽培していたのだ。ここでは、麻の木から繊維を取り出すための工程に温泉の熱と水を利用していたというわけだが、そもそもそれはいつ頃のことだろうか。
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 いちおう876(貞観18)年に、円仁がこの温泉を発見した、ということになっている。慈覚大師円仁が、開山・再興したと伝わる寺はやたら多くて、関東で209寺、東北ではなんと331寺余もあるとされている。そのうちには、山形の立石寺、松島の瑞巌寺などの有名ドコロもあるのだが、徒歩で一日約40キロを踏破した人だというから、拡大解釈やあやかり組が多いとしても、あながち事実無根とは言えないかもしれない。
 最後の遣唐使船で唐に留学し、苦労して帰国した円仁が旅の記録を残した日記は、日本で最初の旅行記だったとされる。その足跡は北海道にも及ぶというから、浅虫で温泉を発見するなどは朝蒸前…いや朝飯前だったのかもしれん。
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 しかし、Wikipedia がいう浅虫温泉の歴史によると、円仁の発見にも触れているが、麻を蒸したという話をその理由には触れないままに続いて、「1190年にこの地を訪れた法然が温泉への入浴を広めてから、入浴用途にも使われるようになった」としている。ということは、この温泉は発見されてから300年間にわたって、その用途がもっぱら麻を蒸すためにのみ使われてきたということになるが、これはかなり怪しく思える。
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 実は、この温泉の歴史は、浅虫温泉公式ページにもまったく同じことが、しかも念入りに「布を織る麻を蒸すためだけに使われていました」と明記されているので、そういう伝承があることは事実なのだろう。
 だとしても、発見から300年以上もの間、この温泉では入浴が行なわれることなく、もっぱら蒸していたのは人ではなく麻だったことになるのは、いささか腑に落ちない。そう思うのは、でんでんむしだけなのだろうか。せめてもうちょっと、根拠のある史料が示されるとか「なるほど」と思うような説明をしてくれるといいんだけど…。
 日本の入浴習慣は、6世紀にもたらされた仏教の沐浴からとされているので、始めは蒸し風呂だった。これを寺で僧侶たちが修行の一環として、また七病除七福得という利益として広めたといえる。
 したがって、円仁の時代9世紀にはかなり広まっていたはずで、彼がそれを知らなかったとは考えにくい。だから、それからさらに300年経ってやっと法然がやってきて入浴を奨めたというのは、いかに東北の端っことはいえいささか間が抜け過ぎている。
 それに、1190年といえば法然上人(1133〜1212)57歳の頃で、この頃の法然は、対抗する南都各宗派を意識した浄土三部経の講説や問答などで忙しくしており、とても津軽の地まで足を運ぶことはできなかっただろうし、浄土宗のサイトを見てもそういう記録もない。
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 かつては東北の熱海と言われるほどの繁栄期があったことは、Wikipediaでは、「浅虫温泉駅を中心に、大型ホテルや旅館などの宿泊施設約40軒が営業している」としていることからも想像できるが、40軒というのはいったいいつのことだろう。現在の観光協会と旅館組合のサイトによると11軒が登録されているだけだ。
 駅から歩いて海岸に行く間にも、廃業して閉めたままのホテルの建物があった。歓楽街型温泉地としては、もはや立ちゆかなくなり、近年になって急速に衰退したのだろうか。
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 今、浅虫温泉といえば、水族館と道の駅(兼立ち寄り湯)が二大看板である。それでも、温泉の人を呼ぶ魅力は侮れない。団体御一行様用の大型旅館ホテルは、何軒かその威容を示しているし、その広い駐車場には観光バスが何台か停まっている。それを横目に、でんでんむしが選んだ浅虫の宿は、そうした大型旅館に挟まれるようにして、母娘が営む川縁に細長い小さな旅館だった。
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 棟方志功の絵を飾り、千鳥をシンボルにした旅館の横の小川には、いろんな種類の鳥がやってくるのだという。たまたま宿泊客はほかになく、のんびり悠々と個室しつらえの温泉に浸かってくることができた。
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 浅虫温泉が水族館と道の駅のほかにもうひとつ力を入れているのは、海岸の人工砂浜による海水浴場や海釣り公園の整備だったらしい。湯ノ島を中心として、南には善知鳥崎と鼻繰崎、北には裸島という岩島と八大龍王を祀る小山がある海岸は、なかなかきれいだ。
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 験潮場と青森県名産のヒバの木を使ったモニュメントがある海岸のプロムナードをほたて大橋にむかって北へ行くと、青森市から平内(ひらない)町に入る。
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▼国土地理院 「地理院地図」
40度53分37.77秒 140度51分34.82秒
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タグ:青森県
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1491 善知鳥崎2=青森市大字浅虫(青森県)「157 善知鳥崎」の写真は善知鳥崎ではなく鼻繰崎ので善知鳥崎はこっち [岬めぐり]

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 東北新幹線が青森を走るようになって、それまでの東北本線は青森=八戸=目時が青い森鉄道に移管されることになった。JRは新幹線だけで、八戸から青森を結ぶことになったのだが、この線が八甲田山寄りの山中を通るのでトンネルばかりでさっぱりおもしろくない。
 旧東北本線の一部を引き継いだ青い森鉄道は、途中で夏泊半島の付け根を横切り、青森湾と野辺地湾の海岸を通る。昔の奥州街道も県道9号線となって並行して走り、その一部は国道4号線のバイパスとして合流している。
 ちょうど久栗坂から北の青森市内では、国道と県道がひとつになっている区間で、善知鳥(うとうまい)崎は、そのなかにある。
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 244メートルの小松山から西へ流れ下る尾根が、幅のある塊となって青森湾(むつ湾)へ落ちていく。その先っぽが小さなコブとなって、海に突き出ているので、国道・県道も、そこだけはトンネルで通ることになる。旧東北本線の青い森鉄道は、浅虫トンネルで深くその内側を通っている。(トンネルのある崖の向こうにある丸いのは、浅虫温泉の湯ノ島)
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 青森県をうろうろしているときにも、何度かここは通過していて、2007年には「今回のように往復ここを通過するとなると、なんとかひとつくらい岬をゲットして記録に残しておきたい。そんなこともあって、浅虫温泉の南側に、東北本線の走る車窓から、ちらりと映る善知鳥崎(うとうまいざき)だけむりやり…」というわけで、

 157 善知鳥崎=青森市大字浅虫(青森県)ワタシハマッカナリンゴデス

として項目を設けていた。
 したがって、ここは「善知鳥崎2」となる。けれども、157項では通過する岬の代表としてあげてはみたものの、そこで掲げている写真を見ると、それは善知鳥崎ではなく鼻繰崎のものだった。
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 そんなわけで、ここは前の修正を兼ねての「善知鳥崎2」となる。今回は、浅虫温泉駅前からタクシーでトンネルを抜けた南側まで連れてきてもらったので、南から見た写真が中心になる。浅虫温泉の海岸からも見えるのだが、鼻繰崎と完全にかぶってしまうので、あまりパッとしない。
 この湾岸を通る奥州街道が唯一の道だった時代は、このコブを回りこんで通り抜けるのもなかなか大変な難所だったらしく、親知らず子知らずに相当するような記録もあるらしい。
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 現在の地理院地図をみても、浅虫トンネルから海岸に至る山の上には、複雑な破線の山道が描かれている。これも、難所の海岸を避けて、登り降りは多少きつくても、確実で安全なルートとして使われたのではないか。山の上の破線は、そんなことを想像させてくれる。
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 一方、山の下でも、よく見ると国道の内側にもう一本の線があり、そこにもかつては旧道トンネルがあったことを偲ばせている。右手に黒く見えるのがその旧道のトンネル跡。
 さらには、国道トンネルの外側、海寄りにも、もうひとつの旧道があったことを、地図は示している。
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 浅虫トンネルの開通は1967(昭和42)年で、それ以前は鉄道も海岸の現在の国道付近を走っていたのだろう。
 東北本線の盛岡=青森間の開通は、1891(明治24)年のことだが、明治の鉄道敷設は、築堤を築いて線路を敷くという工法も多かったと思われる。最初に開通した新橋=横浜間の鉄道も、錦絵などでは海の中を走っているように描かれたものがある。おそらく浜松町付近などは、用地買収も要らない築堤方式が使われていたのだろう。
 この善知鳥崎付近でも、古い地図では鉄道がゆるく凹んでいる入江の外側をまっすぐ走っているのを見たことがある。また、海岸では古い石積みの跡も見つかっているという情報もあったので、あれこれ総合すると、これはほぼ間違いないだろう。
 明治天皇もやってきたとかいうのも、全国に延びる鉄道のシンボルのようになった場所だったのかもしれない。ここは古戦場でもあったという。いったいいつの戦いかというと、1189(文治5)年頃のことで、奥州藤原氏が源頼朝の幕府軍に滅ぼされるが、その残党が最後の戦いを挑んだところとされている。
 また、ここが東の南部と西の津軽の境界であったという記録が「吾妻鏡」にあるともいう。別な情報では、南部と津軽の境は、野辺地町の馬門(まかど)と平内町の狩場沢の間に藩境塚があるとする。夏泊半島の東と西でだいぶ差がある。どちらが正しいのか、調べてみようとしたが、よくわからない。
 ただ、「吾妻鏡」よりずっと後の情報では、南部弁と津軽弁の境などからすると、馬門・狩場沢ラインに分があるようだ。昔から仲が悪いとされてきた南部と津軽のことだけに、通りすがりの部外者がよけいなことを書くわけにもいくまい。

▼国土地理院 「地理院地図」
40度53分0.04秒 140度51分1.91秒
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