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1533 赤松鼻=たつの市御津町室津(兵庫県)赤松氏の地元でその歴史のいったんをなぞってみる [岬めぐり]

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 弁天の鼻の西南西ほぼ正面にあるのが、赤松鼻という名がついた岬。赤松といえば、とくにこの播磨地域ではあの赤松円心(則村)がすぐに思い起こされる。
 この地域に強い勢力を持っていた赤松氏は、千種川流域を押さえると同時に外港を求めてこの室津一帯に進出している。港の東の標高60メートルほどの室山に室山城(室津城)を築いたのが、1321~24年の元亨年間とされる。赤松円心の本拠地は、現在の赤穂郡上郡町で、室津からは北西におよそ20キロ離れた白旗城を中心とする地域であったらしい。
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 『太平記』という講談調とは言いながら一応の記録なども多くあるためか、この時代の情報はネット上にも多いうえに、時代が南北朝の動乱の最中であることもあって、登場人物の評価も極端であったりする。
 「円心くんキャラ」までつくっている赤穂郡上郡町のサイトでは「足利幕府誕生のキーマン 赤松円心」として、非常にうまくまとめられているので、少し長くなるがそこから引用させてもらうことにしたい。

 赤松円心は、鎌倉幕府の領する荘園・播磨国佐用荘(現在の兵庫県佐用町・宍粟市・上郡町の一部)の有力武士で、幕府御家人とも考えられる宇野氏の一族・赤松家に生まれました。宇野氏は、佐用荘東の宇野荘(佐用町東部)出身で、領主の公家・久我家にあやかって村上源氏末裔と名乗っていたとみられます。
 鎌倉時代の円心を含む宇野氏一族は、京の幕府出先機関の六派羅(ろくはら)探題と関りをもっていたといわれています。円心の住む赤松村は佐用荘の南端に位置し、山陽道に近い地の利を活かしながら、円心はいつしか一族全体を統率する力を蓄えていったとおもわれます。
 当時の朝廷は持明院統と大覚寺統に分かれていましたが、大覚寺統の後醍醐天皇が皇統の独占を図り、両統迭立を支持する鎌倉幕府打倒の兵を挙げると、後醍醐天皇の皇子・護良親王の令旨に応え、苔縄城(上郡町苔縄)で挙兵しました。船坂山、高田(上郡町内)において幕府方の軍勢を破りながら山陽道を東上し、摂津・山城で六派羅勢と激戦を繰り広げたことが、『太平記』に詳しく描かれています。そして、幕府方から寝返った足利尊氏勢とともに京を攻略し、建武政権の樹立に大功を挙げました。
 その後、政権内部の対立から護良親王派として失脚、佐用荘に帰郷しますが、政権に反旗をひるがえした足利尊氏に味方して戦い、『梅松論』によると、窮地に立つ尊氏に大覚寺統と対立する持明院統の光厳上皇の院宣をもらうよう進言したといわれています。
 院宣をもって九州で尊氏が兵を集めている間、新田義貞率いる建武政権の軍勢を、白旗城(上郡町赤松)に籠って約50日余り防ぎ止めました。やがて東上した尊氏勢とともに湊川の合戦で新田・楠勢を破り入京し、足利尊氏を征夷大将軍とする室町幕府の誕生にも大きく関わることとなりました。

 つまり、円心くんは護良親王に従って後醍醐天皇による建武の新政の道を開くうえで足利高氏(尊氏)と協力して活躍したにもかかわらず、その後では護良親王派であった円心くんは、後醍醐天皇とはうまくいかなかったようだ。播磨の守護はおろか、作用庄の地頭という低い評価に怒って播磨へ帰ってしまったとする情報もある。
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 建武の新政権のなかでもいろいろあって、結局足利尊氏が後醍醐天皇と対立し、尊氏追討の宣旨を受けた新田義貞の軍に追われて京から落ち延びるときには、赤松氏は足利尊氏の側についていた。室津の港から西へ落ちる尊氏を送った後、その赤松氏の赤松範資が守っていた室山城は、1336(建武3)年、新田軍に攻められて激戦の末に落城してしまう。このとき、多数の犠牲を出した赤松軍の将兵の供養塔が、赤松鼻にはあるのだという。
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 当然、新田軍の攻撃は赤松円心が篭城する山城の白旗城にも加えられていたが、よく持ちこたえ、新田軍は大軍をもってしてもこれを落とすことができないまま日が経ってしまう。その間に、足利尊氏が九州から巻き返しを図り、大勢力となって瀬戸内海を東進していく。
 撤退を始めた新田軍に、勢いを得た赤松軍が追撃し、新田軍は寝返りや投降者を出しながら敗走する形になる。そこで義貞は、兵庫まで兵を退いて楠木正成の軍と合流し、立て直しを図ろうとした。そして、ついに摂津国湊川で足利軍と新田・楠木連合軍の両軍が激突する。
 この後、和睦した後醍醐天皇は三種の神器を光明天皇に譲与し、室町幕府が成立するのだが、後醍醐の吉野への脱出によって、いよいよ南北朝時代に入る。室町幕府創業の功臣となった赤松円心は、備前・美作・播磨の守護となる。
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 その子孫一族は、曾孫の満祐の時代に嘉吉の変で一時断絶したものの、再興して播磨各地に根をおろし、応仁の乱を生き抜き、別所氏や小寺氏と名を変え戦国時代を迎えることになる。
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 赤松鼻の南西2キロのところで出っ張っているのは金ヶ崎。前に書いた金ヶ崎の項では尾根の上までは行ったのだが、その上からでは岬の先端がまったく見えなかった。
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 その先にある小さい島が君島で、これを結んでたつの市と相生市の境界線がある。その間にある少し大きい島は、金ヶ崎と釜崎の中間の沖にある蔓島。

▼国土地理院 「地理院地図」
34度45分59.12秒 134度29分28.42秒
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1532 弁天が鼻=たつの市御津町室津(兵庫県)室津の遊女伝説には数々あるらしいがここに友君橋あり [岬めぐり]

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 『播磨風土記』には、「此の泊 風を防ぐこと 室の如し 故に因りて名を為す」とあるそうだが、賀茂神社の小山と藻振鼻の出っ張りが、長く折れ曲がった入江を抱え込み、北には嫦娥山が落ちてくる室津は、いわゆる天然の良港というものだったのだろう。
 嫦娥山の南西の端も、小さな丸い尾根が大浦の湾に突き出していて、参勤交代の行列も室津街道を通るときにはそこを越えて行ったものだろう。弁天が鼻は、元々はその丸い尾根の先端につけられていた名前かもしれないが、現在ではその下が広く北西へ伸びる港湾施設として埋め立てられているので、その岸壁の端に名がついているような格好になっている。
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 室津から西へは、瀬戸内海のでこぼこと小島や半島が多い。でこぼこが多いということは、陸路も決して楽ではなかったはずで、となるとここまで海路でやってくるのはうなづける。
 ここで船を降りたら、七曲りを越える道はなかったため、室津街道の小さいとはいえ山越えの道に入ることになる。船からいきなり山道というのは、ちょっと酷なような気もする。だが、室津街道を北へ正條宿まで行き、揖保川を渡しで渡って、そこから内陸の街道を東へ向かうということは、当時はまだ現在は埋め立てられている海岸線の一帯は砂浜で船はつけられず、道路もなかったからだろう。
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 この室津を海と陸の中継点とするルートは、かなり古くからあったらしく、万葉集にもこの付近を歌う歌があるという。大名行列や通信使ばかりでなく、当然廻船ルートもあったわけだが、そうした多くの船や人や物の出入りする港の繁栄から、遊女発祥の地と言われるようになったのだろう。
 前項ではカッコ書きで(一説によると、)と書いていたのだが、室津の遊女は実は古くからあり、確かに由緒正しいものだったらしい。室津の「遊女発祥の地」を確固たるものにしたのは井原西鶴で、その『好色一代男』では「本朝遊女のはじまり、江州の朝妻、播州の室津より事起こりて、いま国々になりぬ」としている。
 蕪村が「ひねもすのたりのたりかな」と春の海をよんだときには、四国讃岐への旅の途中で、室津でも「梅咲いて帯び買ふ室の遊女かな」という句を残した。
 その遊女に関わる伝説もこの地にはいくつかあって、それらを題材にした文豪の作品(谷崎の『乱菊物語』)もあるそうだが、そんな話のひとつを弁天が鼻の上を通る橋の名から知ることができる。
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 ヘアピンカーブで港の岸壁から弁天が鼻の上まで一気に登って行くようになっている橋は、現在では港に出入りするための主要道路で、その名が友君橋となっている。国道から橋へ入るところの橋柱には、大きな石に彫り込まれた絵がその遊女にまつわるひとつの話を物語っている。
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 でんでんむしもそんな話をはじめから知っていたわけではなく、ここへきてこの橋を見て、初めてその名前を知り、いったいこの絵はなんだろうと思って調べてみただけだ。
 それでわかったことは、目鼻のない人型の布貼り絵のような絵で表わされた人物は、法然上人と室津の遊女であった友君、ということだった。友君は、木曾義仲の愛妾だった山吹御前であるという。この人は派手な巴御前と違って常に日陰の道を歩んできた人らしく、義仲の死後の行方にも諸説があって、そのひとつが室津の遊女説なのだ。
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 橋の石柱に彫られた絵は、讃岐に船で流刑になって行く途中の法然上人の船を、彼女が小舟を出して教えを請うため訪ねている場面で、それに対して上人は念仏の功徳を説いて歌を送った。
 4年後に法然上人が許されて、その帰路に室津に寄ったときには、彼女は遊女をやめて仏道に入り念仏往生した後だった。その墓も今も室津の寺にあるという。
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▼国土地理院 「地理院地図」
34度46分8.92秒 134度30分4.98秒
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1531 藻振鼻=たつの市御津町室津(兵庫県)西国大名の参勤交代ルートの重要拠点だった室津 [岬めぐり]

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 大浦行きのハスを降りたのは、室津西口というバス停。25メートルくらいの高さのところを走る国道250号線から急な坂道を階段で降りて、さほど大きくはない港を取り巻いている室津の町中に入って行く頃から、ポツポツと雨が落ちはじめた。
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 藻振鼻は、この室津の港のさらに南に伸びる尾根が、西に突き出しているところにある。港の南の小山の上に、賀茂神社があるので、そこに登って藻振鼻を見るのが一番いいのではないかと、石段をあがってみたが、展望がな誘うなうえに工事をやっていたので早々に降り、その下の小学校の裏に出てそこから見ている。
 なにやら思わせぶりな名前だが、いたって小さな岩場が飛び出した上に植生が茂っているだけの岬のようだ。朝はもう8時なのに、まだ夜が明けきらないかのように暗い。
 藻振鼻の南、1.5キロから2.5キロの海上に3つの島が並んでいる。
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 地ノ唐荷島、中ノ唐荷島、沖ノ唐荷島という名前がついているところをみると、貿易船が出入りしていたようでもある。難破した唐船の荷物が流れ着いたので、その名があるという。
 今は静かな漁港だが、実は室津の港はかつては大変に殷賑を極めた港であったらしい。(一説によると、遊女の発祥の地でもあるというのだが…。)
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 その名残りは、今も町の通りを歩けばあちこちに残っている。港のそばから古い造りの建物が軒を連ねていて、ところどころには石標が立っている。そこは本陣の跡だったことを示していて、それらの道案内をする石柱もある。なんでも室津の本陣は6軒を数え、その数は箱根に並ぶほどのものだったという。
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 本陣というのだから、大名や公家、身分のある幕府役人などが宿泊した公的な旅宿で、それがここに何軒もあったということは、室津が参勤交代などの際には重要な宿場であったことを示している。多くの西国大名が、参勤交代で往来するときに、ここが船に乗り、また船を降りるときに使われたことだろう。
 姫路藩御茶屋跡という石標がある建物は、たつの市の室津出張所になっている。一瞬、姫路藩はここを通らないだろうと思ったが、その横にある説明の石板で納得がいった。そこは姫路藩が設けた朝鮮通信使のための宿舎があったというのだ。
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 そこには屏風絵の一部が彫り込まれていて、「宝暦14年(1764)第11次通信使一行が江戸への途次、室津に入港したときの様子」と説明がある。
 通信使一行も西国大名の参勤交代の行列も、江戸へ向かうときにはここまで船でやってきたわけだ。では、彼らはどこから船に乗ってここまできたのだろう。ここから先へは、陸路で行ったのだろうか、それともまた船に乗って兵庫、大坂まで行ったのだろうか。
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 もちろん、いろいろなケースやコースもあっただろうが、まだ明石海峡の安全性が確立されない当時の一般的なルートとしては、室津から山越えで揖保川の正條宿へ向かう室津街道があったらしい。また、西へは牛窓や鞆の浦など瀬戸内海の浦々をつないで渡海することも多かったのだろう。
 藻振鼻は、その室津の港を抱え込むようにして、西に向くかぎのようになって出っ張っている。
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▼国土地理院 「地理院地図」
34度45分43.57秒 134度30分7.74秒
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1530 鷲崎=たつの市御津町岩見(兵庫県)神戸和田岬から西へ続く次の岬は61キロ離れたこの岬までない [岬めぐり]

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 神戸は三ノ宮バスセンターから始まった淡路島西海岸の岬めぐりが終わり、また橋を渡って戻ってきたところは舞子だが、この付近の本州側の海岸にはまったく岬がない。ここから東への岬は、三ノ宮の沖合に出っ張っている和田岬で、ここは2008年に訪問している。
 その項では、以下のように書いていた。

 この和田岬は、大阪湾では一番西のとっかかりで、これより大阪よりにはもう岬はない。大阪を過ぎてぐるっと南海線にそって南に回り込む海岸線にも岬はなく、次に現れる岬は、もう和歌山との県境に近い、その名も大阪府泉南郡岬町の淡輪にあるみさき公園の長崎である。
 湾をつくる端は岬になることが多いが、その内接湾内には岬はない。大阪湾でも、やはり湾の内側の岬はないのである。ひとつには、河口の埋め立てなどが進んで、あったはずの岬が陸地に取り込まれてしまった、ということもあるのかも知れない。

 では、海岸線を西へ辿ってみるとどうだろうか。
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 和田岬から西へ次の岬は、このたつの市の鷲崎になる。その距離は直線で61キロも離れている。神戸から西へは、明石市、加古郡播磨町、加古川市、高砂市、姫路市そしてたつの市と続くが、その海岸線はほとんどが埋め立てられ、播磨工業地帯の四角に仕切られた護岸と堤防ばかりが続き、自然地形の海岸は小赤壁など一部を除いてはまったくと言っていいほど残っていない。
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 鷲崎へは、山陽電鉄の姫路駅から飾磨で乗り換えて、山陽網干駅まで行き、そこで大浦行きの神姫バスに乗ることになる。バスが早い便の一本しかないので姫路駅北口のホテルに一泊し、早朝から起き出してきた。
 山陽電鉄も初めて乗るような気がするが、夢前川を渡り広畑付近では新日鐵住金の大きな工場施設が続く。山陽網干からはバスで揖保川と西に分流する中川を渡ってたつの市に入る。
 問題は、このバスだった。神姫バスのサイトでもはっきりした情報がなかったのは、この路線がウエスト神姫という別会社の路線になっていたからだろう。ネット情報でみると、山陽網干から大浦へ行く便は、早朝と夕方の1往復しかない。しかも、休日だけしか運行しないという便もある。行くのはいいが、帰る方法が夕方まで待たないとない。
 休日も絡んでなかなか複雑そうで、よくわからない。バス会社に電話して聞いてみると、平日の帰りの便はたつの市のデマンドタクシーを利用してくれという。それには予約しておかなければならないが、それでどうにか帰る方法は確保できる目処がついた。
 山陽網干からの早朝07:13発の一本きりのバスは、意外にも発車前には超満員になった。これから出勤という若い人が多い。途中で降りる人もいたが、その大半は山陽網干の駅からは南西に2.5キロほどのところにある日本触媒の工場の前で降りて行った。引き返してまた西へ向かうそれから先は、いつもの通り、乗客はでんでんむし一人だけになってしまった。
 このウエスト神姫の大浦線は、姫路市最西端にある工場地帯へ通う人のためにあったのだ。だから朝行って夕方帰る1往復だけでも、とりあえず支障がないのか。でもそれだけなら大浦まで走らせなくてもいいわけだが、それでも一応路線が継続してあるということが、たとえ乗客は少なくとも、バス会社にとってもきっと重要な何か理由や事情があるのだろうか。
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 御津町の田園地帯を西へ進むバスが、山と山の間をすり抜けたところで小さな湾が展開している。岩見港という港がある町を見下ろしながらバスは走るが、鷲崎はその港を仕切る防波堤の先にある。鷲崎と港の間の斜面には、大きく崩れ落ちた跡が生々しく残っている。
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 鷲崎の1キロ足らず先には、お椀を伏せたような出っ張りが目立ってあるが、そこには岬の名はついていない。その先に小さな島が浮かんでいるが、それには四十四島というもっともらしい名がついている。その名が家島諸島の別名としてもあるらしいことは後でわかった。
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 東に鷲崎と四十四島を眺めながら、バスは七曲りと呼ばれるでこぼことカーブの多い海岸を降って行く。右手には嫦娥山という266メートルほどの山が張り出しており、その向こう側がバスの終点である大浦なのだが、岬めぐりは大浦まで行かない。
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 東の空には太陽があるところだけ少し赤くなっている。昨日は歩いていると暑いくらいの好天だったが、今日はお天気がよくなさそうだ。
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▼国土地理院 「地理院地図」
34度46分33.03秒 134度31分57.78秒
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1529 雁子岬=南あわじ市津井(兵庫県)見えない淡路瓦は想像し遠くに見える風車とそばで見上げる風車も回してみる [岬めぐり]

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 雁子岬までは、都志からだと12.5キロも離れている。同じく南西方向に3.7キロ離れている仏崎をその間に挟んでいる。
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 だから、肉眼では特に薄い影となって見えているに過ぎないが、ズームで撮った写真を見ると、岬の上の尾根には、風力発電の鉄塔のようなものが数本並んでいるのがわかる。
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 10キロ以上離れているのだから、これ以上はどうしようもないのだが、地理院地図をみると、この鉄塔のある尾根と雁子岬の間は、実は2キロも離れている。岬の内側には50メートルほどの高さがある細長い出っ張りが、津井港を西風から守っている。遠望からではそれはわからず、距離感はないのっぺりした一枚の絵のようにしか見えない。それでも、写真を拡大してみると、尾根の手前に横たわる丘陵の色が若干濃く見える。
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 風車がいくつも並び立つ尾根のところは、南あわじ市阿那賀西路といい、この奥の尾根にもまだまだ風車の列が続いている。これらはCEF南あわじウインドファーム株式会社という風力発電会社のもので、もともとは北海道根室市から初めて全国各地で発電事業を展開している会社のようだ。
 これも写真ではわからないが、雁子岬の東には慶野松原が続き、三原川が少し広い平地をつくっている。その津井付近が淡路瓦の発祥地であり、現在も淡路島内には100軒近い瓦製造業者があるというその中心であるらしい。というのは、淡路瓦工業組合もそこにあるからだ。
 三州瓦、 石州瓦と並んで日本三大瓦の一つに数えられる淡路瓦は、淡路島で生産される粘土瓦で400年もの歴史をもつという。津志の嘉兵衛がまだ若い頃、この淡路瓦を運ぶ瓦船に乗っていたということは前にも書いた。
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 都志港の西にも一基の風車が立っていて、それが五斗崎を眺めながら南へ下るバスの車窓から見えていたわけだが、こちらのほうは洲本市の第三セクター株式会社クリーンエネルギー五色の風力発電施設だという。ここでは、風車の大きさはタワーの高さ約65メートル、羽根の回転直径約70メートル、羽根の最高到達点は地上約100メートルになり、1,500キロワットの出力をもつという。この一基で得られる年間発電量は約300万キロワットで、一般家庭約900世帯の電力を賄うことができるという。
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 そう聞くと、えらいもんだとも思うが、風力にしろ太陽光にしろ、こうした自然エネルギーも電力会社や国のエネルギー政策ががっちりと旧来と変わらぬ網の目に絡め取られている現状では、必ずしも順風を受けて回っているわけではなさそうだ。
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 南あわじ市のも洲本市のも、どちらも播磨灘から吹いてくる強い西風を受けて、風車を回そうとしている。そしてその西風こそが、これまではこの地域の人々の暮らしにとっては厄介なものだった。
 とくに冬場になると吹き付ける強烈な西風は、漁師は船を出すこともならない。そこでそういう時期の仕事として、線香づくりも始まったわけだろう。
 その漁業さえも順風とは言えず、漁獲量は減少し、採算効率が悪いうえに、後継者もいないという状況だという。そこで…というわけではないだろうが、この海域では洋上風力発電の施設を設置するという検討も始まっている。新たなエネルギーの創出を図りながら、漁業全体の活性化にもつなげていきたいとの思惑がにじむ。
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 いずれにしても、この問題は国の基本的なエネルギー政策の思想と熱意が常に試されているように思え、そしてそれは常に期待とはかけ離れているように素人目には映るのが悲しい。
 仏崎も雁子岬も、都志からの遠望で済ませて、また洲本市の五色出張所の建物の裏から出るバスで、再び明石海峡大橋を渡り、舞子から姫路に向かうことにする。
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▼国土地理院 「地理院地図」
34度19分50.09秒 134度41分14.85秒
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1528 仏崎=洲本市五色町鳥飼浦(兵庫県)高田屋嘉兵衛の故郷都志から3.7キロ先の岬を遠望する [岬めぐり]

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 淡路島は、北の淡路市と南の南あわじ市、その間に位置する洲本市の3つの市でできている。洲本市は東海岸に中心街があり、島の中央を南北に山地があり、高速道路もこの山地の東側を通っている。この山地から西の海岸まではすべて五色町で、その名がつく領域は洲本市域の3分の1を超えるのではないかと思えるほど広い。
 五斗崎を過ぎたところから洲本市五色町都志米山が始まり、南の五色町鳥飼浦で南あわじ市と接するまでには、直線距離にしておよそ9.5キロほどの海岸線が続く。この間に、地形的な出っ張りは都志と仏崎の二か所あるのだが、都志(つし)のほうは港の造成工事で消えてしまったものか、岬の名が残っていない。つまり、洲本市の西海岸の岬は、仏崎一つだけとなる。
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 この仏崎も、都志の港の西側から南西方向に3.7キロも離れての遠望となる。次項の雁子岬までは12.5キロもの遠さになるのだが、どちらも都志からの遠望でお茶を濁す。
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 その理由は、すでにこれまでに何度か触れたように、バスの便がうまくなくてまったく用をなしてくれないためだ。
 北の淡路市の西海岸は、三ノ宮から神姫バスで五色バスセンターまでなんとかやってきた。そのバスは五色バスセンターから少しだけ山側に入って高田屋嘉兵衛記念公園までは行くが、そこが終点で都志止まり。ここから南へはどうやってみてもバスで行くことができない。南あわじ市にはコミュニティバスが走っているが、そこまで行けない。
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 では、この洲本市の西海岸にはバスがまったく走っていないかといえば、そんなことはなく、都志線と鳥飼線という淡路交通の2路線が「へ」の字を二つ重ねたような格好であるにはある。ただ、そのダイヤが本数が少ないうえに不可解なほど不便にできているので、都志でそれに乗り換えて仏崎、さらには雁子岬へということは不可能なのだ。
 そこで、もうこの二つはすっぱりと諦めて、都志からの遠望でOKとすることにした。そう割り切れば、一応淡路島西海岸にもケリをつけることができる。
 仏崎まではここもまた西海岸で特徴的な直線の海岸線と、その途中で飛び出している出っ張りという地形が続く。実際は仏崎の手前に港とそれを抱え込む出っ張りもあるのだが、それを遠く逆光で横から見ることになると、単に横に長い黒い塊が横たわっているだけになる。
 はなはだ不本意ではあるが、ここはやむを得ないと大目に見てもらうことにしよう。
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 五色町の都志は、西浦一帯では江井に次ぐ大きな港があるが、線香のついでにくっついてきて仕入れた廻船ルートという情報が、どうも気になってこだわっている。実際に、ここ西浦では廻船というものが機能していた時期が、果たして実際にあったのだろうか。西浦を北から順に南下して都志の港まできてみると、どうもそれはマユツバものの情報のように思えてきた。
 先に、「1525 江井崎2」では、ついその情報に引きづられて、
「淡路島の西浦一帯の港は、廻船業が盛んでその基地となっていた。その代表船主が、「菜の花の沖」の高田屋嘉兵衛だった。」
とまで書いていたが、これはつい思い込みとその勢いで筆が先走って書いてしまったもので、撤回と修正が必要だった、と思うようになった。
 つまり、西浦に廻船業の基地と言えるほどのものはなかったし、高田屋嘉兵衛は確かに廻船の船頭であり船主となったが彼とこの地域をつなぐものはただ単に故郷であったということだけ、だったのではないか。
 物資を船いっぱいに積み込んで、寄港する港々で積荷を上げ下ろしする菱垣廻船、樽廻船、北前船などといった廻船は、当然ながら港の後背地に大きな消費地や生産地、あるいは輸送ルートが控えていなければならないが、ここ淡路島の西浦ではそれはない。だから、地廻の船が寄航することはあっても、廻船と呼ばれるような大規模なものはなかったのではないか。
 そう考え直すに至って、念のために司馬遼太郎の『菜の花の沖』の最初の方を読み返してみると、その物語の中では嘉兵衛は故郷の都志では淡路瓦を運ぶ船に乗り組んだりや漁船の手伝いなどはしているが、ほどなくして追われるようにして出奔せざるを得なくなる。そして兵庫に出て、廻船の道に踏み込んでやがて自身が船頭になり自分の船を持つまでになるのだが、次に都志に帰ってくるのは、故郷との和解と自分の船のお披露目と乗組員リクルートのデモンストレーションのためであった。
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 都志川が集落を二分するように流れ、その右岸が嘉兵衛の生まれた本村で現在は五色町都志、左岸が港のある新在家となっている。新在家という地名は、神戸や姫路にもあるのだが、新開地のような意味なのだろうか。
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 都志川の橋の橋柱は、高田屋の帆をあげた船を型どった石柱になっていて、橋の欄干の部分には高田屋の船が波濤を越えていくさまがレリーフになって掲げられている。
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 高田屋嘉兵衛が活躍する『菜の花の沖』は、淡路島の沖ではなくてそこからさらにずっと海でつながっている北の最果てにあった。
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▼国土地理院 「地理院地図」
34度23分6.78秒 134度45分19.14秒
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dendenmushi.gif近畿地方(2018/10/09 訪問)

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1527 五斗崎=淡路市深草(兵庫県)港も集落もなんにもないがいろいろな想像をかきたててくれる岬 [岬めぐり]

 続いては、明神崎の出っ張りからは、南南西方向に2.5キロほど下ったところにあるのが五斗崎である。
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 五斗崎は、海岸を走る道路がそこだけ急に折れ曲がっているところで、江井崎も明神崎も、西浦の港と集落がある場所ではどれも同じような地形になっている。ただ、規模はだんだんと小さくなっていき、五斗崎ではほんの小さな出っ張りであるために、その内側に港や集落を抱えるだけの十分な凹みができていない。
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 そのため、五斗崎にはただ岩の出っ張りと、そこを15メートルの高さで、カーブしながら回り込んで走る道路しかない。道端に地蔵さんか何かのような祠があるのが見えたが、地図には神社マークはない。それから想像されるところでは、事故の現場につくられた交通安全の願いが、形になって残されているものではないだろうか。
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 海岸も段丘のように崖が立っているので、深草の集落は海岸には発達せず、内陸に引っ込んでいる。
 淡路市の領域は、細くなった淡路島が明石海峡に面した北側の東西を占めているが、西側はここ深草までで、その境界線は五斗崎のすぐ南に引かれるている。その南側は洲本市五色町になる。
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 岬が境界線に使われることは、極めて一般的なことでめずらしくもなんともないのだが、ここではめずらしいことに岬の出っ張りの上を境界線が走って二分していない。つまり、五斗崎の出っ張りそのものは、まだ丸々淡路市の領域になっている。
 淡路市と洲本市の境界線は、五斗崎の頂点からは南に80メートルもずれたところに引かれている。
 これは、地図を見るとその理由が推測できる。市境界線はため池の間を縫って東から西にくだってくる、低くて細長い尾根の上に引かれている。その尾根の先端は、10メートルくらいの高さの崖に押しつぶされたようになって、そのまま西の播磨灘へ落ちている。五斗崎の出っ張りは、大きく捉えて見ると、その境界の尾根の北の端にあたる。
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 境界線が北の五斗崎には向かわないで、西の海に真っ直ぐに落ちているのは、それなりの理由があったものだろう。
 地図から想像できることは、この海岸の斜面を削って、そこに道路が敷設される前には、境界をまっすぐ西の海に引っ張っていくような地形が、ちゃんと存在していたのではなかろうか、ということだ。
 それが、この付近の海岸線を直線のようにしてしまう作用が働いて、消されてしまったのではないか。それで、五斗崎と呼ばれるようになる出っ張りだけが残って目立つようになった。
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 そんなふうにも考えられる。
 岬を回り込んで南に向かうバスのフロントガラス越しには、都志の港と集落が見えてくる。都志港の目印のように、大きく立っている風力発電の風車があるが、それはもう五斗崎を目にするようになったところからずっと見えていた。
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▼国土地理院 「地理院地図」
34度25分40.00秒 134度47分17.55秒
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dendenmushi.gif近畿地方(2018/10/09 訪問)

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1526 明神崎=淡路市明神(兵庫県)西浦沿岸に点々と刻まれたギザギザの出っ張りの陰に港と集落が続く [岬めぐり]

 江井崎の出っ張りから、西南方向に3キロほど下ったところに、明神崎はある。
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 淡路市明神の周囲には「草香」という地名がある。なんとなく線香を連想してしまうが、除虫菊の蚊取り線香と違って、普通の線香ではタブなどの木が主な原料になるようだ。だから、草と線香は直接結びつくわけでもないので、きっと関係ないのだろう。
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 名前の通りこの小島のような岬の出っ張りの上には鳥居のマークがあるので、車窓からは見えないが、明神さんの祠が鎮座しているのだろう。岬のわずかな出っ張りがつくる凹みには、風を避けるようにして港があり、集落がそれに面してある。ここの港は山田港と地理院地図には表記してある。だが、山田という地名は付近のどこにも見当たらず、なぜ山田港なのかは不明である。
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 そう大きな港ではないが、ここも江井港、都志港などと並ぶ、西浦(播磨灘に面した淡路島の西海岸)の廻船ルートの一翼を担っていたのだろうか。それにしては、ここは集落も港も小規模過ぎるような気がする。線香づくりがこの地域で始まった背景として、廻船のことはちょっとだけふれた情報があったので、それが存在していたことは確かなのだろうが…。
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 この淡路島西岸西浦一帯は、北西からの季節風をまともに受ける位置にあるため、冬季には農業も漁業も成り立たない。そのために、暮らしを支える手段として、杜氏などとして出稼ぎに出ていたという。
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 そういう地域での廻船の規模や意味がどういうものであったのかは、ちょっと撫でて調べようとしたくらいではよくわからない。けれども、ここの沿岸にいくつもの港が発達した理由は、地図を見れば想像がつく。播磨灘と大阪を結ぶには、渦潮で潮流の急な鳴門海峡は避け、明石海峡を通るのが一般的だったろう。そうすると途中の寄港地として西浦の存在がクローズアップされるのかもしれない。
 瀬戸内の航路といえば、香川県東かがわ市の引田を訪れた時のことが思い出される。
 そこには大きな港と街があって、かつては主に大坂との船の行き来が盛んであった時代があったことを示していた。
 播磨灘に面した淡路島の西海岸の地図を眺めると、北から野島、富島、育波、江井、そしてこの明神、さらに南には都志、岡田、津井と、いずれもちょこんと突き出した出っ張りが8つくらい、ギザギザと飛び飛びに並んでいる。それぞれその陰に隠れるようにして、集落と港が点在しているのだ。岬の名前がついているのは、そのうちのいくつか。
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 そして、ギザギザの出っ張りと出っ張りの間は、長い直線の海岸線と並行する道路が真っ直ぐに走っている。そんな地形が、連続しているのがおもしろい。ここらも、帰り道の車窓から眺めると、その様子がよくわかる。
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 今ではその面影も記憶も、偲び辿るよすがもなさそうなこの地域の、往時の姿を想像してみるには、昔読んだ司馬遼太郎の『菜の花の沖』をもう一度読み返してみるのがよいのかもしれない。
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▼国土地理院 「地理院地図」
34度26分55.33秒 134度47分53.78秒
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dendenmushi.gif近畿地方(2018/10/09 訪問)

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1525 江井崎2=淡路市江井(兵庫県)国生み神話ゆかりの地は線香づくりの地でもあった [岬めぐり]

 一年ぶりの岬めぐり復活となった今回のコースは、淡路島、たつの市、家島諸島、小豆島、豊島(てしま)、直島と、瀬戸内海の東部地域(というより海域か)をめぐる。
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 まずは、新幹線を新神戸で降り、地下鉄ひと駅で三ノ宮に出る。三ノ宮のガード下にある神姫バスのバスターミナルから、高田屋嘉兵衛公園行きのバスに乗る。そのルートは、高速道路で新舞子から明石海峡大橋を渡り、神戸淡路鳴門自動車道(国道28号線)を北淡 ICで降りて、淡路島の西海岸を南下して五色バスセンターまで行く。
 所要時間1時間半、運賃1,650円のバス旅は、例によっていちばん前の席に陣取り、バスのフロントから淡路島西海岸の岬を拾っていこうと目論む。バスのいちばん前の席に陣取るというのは、それはそれでそれなりの工夫と努力が必要なことなのだが、時間が少し遅目だったこともあってか乗客は少なかった。
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 明石海峡大橋も何度か渡っているが、北側から見る淡路島は北端の島が細く狭まったところを見ている。このため、東の鵜崎と西の松帆の浦が一目に収まるほどで、一見小さな島のように写る。しかし、淡路島はとても大きな島で、そのために岬めぐりにもひと苦労する。
 前にも書いたように、バスの便が悪くて島を周回する路線もない。特に西海岸は、江井崎の南側の明神崎、五斗崎、仏崎、雁子岬が、これまでの淡路島訪問でもいつも取り残されてきた。そこで今回は、西海岸だけをカバーしようと、このルートを選んだのだが、江井崎については
の項で取りあげていた。その時は少し遠くの高いところを走る国道28号線からの遠望で、今回は海岸線の県道31号線を南下しながら江井崎を見ている。
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 江井崎のあるところは淡路市江井で、町に入ってしまうともう岬は見えなくなる。県道から岬が見えているところは、少し北側の郡家付近からになる。車窓からは見えないが、地図で見るとこの付近には大小たくさんの溜池がある。
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 郡家から少し南の山側に入ったところには伊弉諾(いざなぎ)神宮があって、バスはそこにも寄って行く。
 そういえば、淡路島は神話の国生みの島だった。伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)が交わって、まず最初に産み落としたのがこの淡路島なのだ。官幣大社の一宮だったので、その地名もあったが、今ではその名は中学校に残っている。
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 岬の写真としては、南下しながらでは逆光になるので、黒い影のようにしか見えない。場合によっては、このままですませてしまわざるを得ないことも多いのだが、ここでは同じ道をまた引き返すので、帰り道から見れば順光になる。
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 江井崎の上には、白い大きな建物が目立って建っている。愛想のない地理院地図では、その建物の表記はあっても記名がない。Mapionでわかるかと思えばこれにも表記がなく、正体不明だった。表記がないということは公共施設でもないと思われるので、残る可能性はどこか民間企業の施設で宣伝の必要がないもの(どちらかといえば人知れずひっそりとありたいもの)、つまり保養所や研修所のようなものかもしれない。
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 淡路島観光協会がつくっている淡路島観光ガイド・あわじナビというサイトでは、江井崎についても一項目を設けて、次のように記している。

播磨灘に突き出し、眼下に岩場を見下ろす絶景の江井崎は、天然の造形美を誇る奇岩が並ぶ岬である。
江井崎は、別名「乙女崎」とも呼ばれ、ここより南にある明神崎(別名「男岬」)とは対をなす景勝の岬として、古くから地域の人々に愛されている。
また2つの岬は、観光ルート「夫婦めぐり」(伊弉諾神宮と夫婦神をモチーフにした一宮周遊コース)の中にも組みこまれている。

 いかにもむりやりにとってつけたような乙女崎と男岬に思えるのだが、「古くから」というのは、いったいいつ頃からのことなのだろうか。それも知りたくなってしまう。
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 江井の付近を走るバスの車窓には、「線香」の文字も見える。もともと淡路島の西浦一帯の港は、廻船業が盛んでその基地となっていた。その代表船主が、「菜の花の沖」の高田屋嘉兵衛だった。(要訂正:1528 仏崎の項において訂正しています)船持ちでもない一般の住民は西風で港が閉ざされる冬場は、出稼ぎなどに頼る者も多かった。江井浦の線香作りは、冬枯れの手仕事として始まったもので、170年ほどの歴史を持つというのだが、それも知らなかった。知っていたのはテレビでCMを流している大手の線香屋の名前くらいだったが、その会社の工場も淡路島にある。また、銀座の鳩居堂は路線価でも知られているが、ここも元はといえば線香屋から始まっている。
 淡路島の線香づくりが地場産業として定着し、日本国内生産の70%を占めるまでになったのは、戦争で被災した工場が、淡路島へ生産拠点を移したことなどが、大きく影響しているらしい。そう聞けば、何やら他にもそんなことがあったような気もしてくる。

▼国土地理院 「地理院地図」
34度28分8.24秒 134度49分8.77秒
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dendenmushi.gif近畿地方(2018/10/09 訪問)

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1524 大崎2=逗子市小坪四丁目(神奈川県)「毎日新聞」朝刊に掲載のフォローと記録を兼ねて [岬めぐり]

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 逗子海岸の西に見える大崎については、すでに
「063 大崎=逗子市小坪四丁目(神奈川県)これは2006年最後の夕日」
の項で早くに取りあげているのだが、もう一度ここで項目を設けたのには理由がある。でんでんむしとその岬めぐりについて「毎日新聞」の取材を受け、2018/09/26付の朝刊に、大崎の写真も使われているその記事が掲載された。記者からメールで依頼があり、どこか近場で岬の見えるところで取材をという希望だったので、迷わず地元の大崎を指定させていただいた。
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 誰もが知っているだろう観音崎よりも、おそらく誰も知らないであろう大崎のほうが、当岬めぐりの精神と実態を象徴するのにふさわしいと思った。
 朝、新聞を見たら、東尋坊の写真として英虞崎の写真が使われている。写真の入れ間違いがありますよと記者にメールしたら、さっそく読者からも同じ指摘があったそうで、翌日の紙面で訂正するとの返事だった。ちゃんと見て気がつく人もいるものだ。
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 全国紙で、それも小さくない紙面だが、反応はといえば掲載日当日のブログの来訪者とページビューが、通常の2〜3倍あったことくらいだろう。それも、URLが記事中に記載してあるわけではないので、わざわざ「でんでんむしの岬めぐり」で検索して見にきてくれたのだろう。
 ところが、肝心の個々の岬めぐりは現在も長いお休みの最中で、前の岬の記事を見るには、ずっと遡るかサイドバーのリンクリストからクリックしてもらわないと番号付きのメイン記事は出てこない。
 そこで、それのフォローと記録を兼ねて「大崎2」として、遅ればせながらアップしておきたいと考えた。
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 大崎という名の岬は、日本全国で40もあり、黒崎に次いで二番目に多い名前なので所在地と合わせて特定しないと混乱しそうなのだが、ここで取りあげているのは逗子市の大崎である。この岬は、逗子海岸と一体となっており、海岸のどこからでも西寄りに眺められ、目立っている岬と言える。しかし、海岸で遊ぶ人のほとんどは、あの出っ張りがそういう名前だとは知らないし、おそらく岬だという意識もないことだろう。
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 ここは、披露山という100メートルに満たない低い山塊が、鎌倉との境界をつくっているところで、北寄りには鎌倉七切通しのひとつである名越切通しもある。幕府を置く鎌倉の立地は、外部からの攻撃に備える防御に適していることが主な理由で選ばれたとされるが、大崎は鎌倉の東の海岸線の防御線であり、西の海岸線の防御線は、大崎の向こうに遠く見える稲村ガ崎であった。
 晴れた日に逗子海岸から西を望むと、江の島と富士山と大崎がワンショットで捉えられる。ゆるく湾曲した海岸の波打ち際は、1キロの長さがあるが、逗子市や観光協会のキャッチフレーズは、実際の長さを少し縮めて「ハーフマイル」として売り出している。
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 取材の日も雨模様で、江の島も霞んでいて薄い影のようにしか見えなかったが、海水浴シーズンが終わった後には、ボードやシーカヤックなどで遊ぶ人や練習するが増えてくる。こういう海の遊びにも流行があるようで、一時期はボードの上に一枚の三角帆を立てて帆走するウィンドサーフィンが主流だったが、近頃では帆のないボードの上に立ってパドルを操作するサップ(SUP)という新顔が人気のようだ。
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 海岸の砂浜のそばには、湘南道路が延長する国道134号線が走っている。その南詰の渚橋は、夏のシーズンではいつもラジオの渋滞情報で有名なところだが、道路ができる前はこの海岸線には大きな松の林が帯のように続いていたという。徳冨蘆花がここで「自然と人生」を残したことや、海岸も舞台になる「千年も万年も生きたいわ」のベストセラー小説「不如帰」など、とうの昔に誰も滅多に思い出すこともない歴史の一コマになっているにすぎない。
 海岸北側、大崎と砂浜の間には、海中の平らな岩場にそそり立つ不如帰の碑(これはただの文学碑とも言えないほどの巨大さである)や浪子不動のお堂もあるのだが、今やそれが何かを気にする人もいない。
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 大崎の上は公園になっているが、その下を国道はトンネルで抜けて行く。このように道が岬を回り込めないで、トンネル(ないしは山を開削して切通し)で抜けていくという構図は、日本の岬の一つの典型的な形だと言える。もう一つの典型は、岬の出っ張りをぐるりと周回する道路がある場合だろう。どちらが多いのか、具体的に数えたことはないので多さで比較はできないが、周回道路よりもトンネル(切通し)のほうが多いのではないか、という想像はできる。
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 海岸の南側では、逗子市内を流れる田越川が流れ込み、その左岸端にあった小さな荒磯の出っ張りは終末処理場によって潰されている。そこには鐙摺(あぶずり)という地名が残っているが、かつてこの付近を鎧甲冑をつけ騎馬に乗って往来した坂東武者の名残だろう。鐙摺の鼻といった名前もあったのかもしれないが、今は名は残っていない。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度17分32.01秒 139度33分29.46秒
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