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1523 破崎=横須賀市走水二丁目(神奈川県)水走る水源地と突堤と海にいちばん近い学校と… [岬めぐり]

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 東京湾で対岸との距離がいちばん狭くなっているところとしては、観音崎と千葉の海岸といういいかげんな情報もあるようだが、観音崎から最短の千葉は磯根崎で、その間9.4キロある。観音崎より北西寄りの走水港にある旗山崎と千葉の細長くとんがっている富津岬との間は7キロほどで、ここが東京湾がいちばん狭くなっているところだ。
 054 観音崎=横須賀市鴨居(神奈川県)あの頃キミは若かった
 073 富津岬=富津市富津(千葉県)死んだ筈だよお富さん
 074 磯根崎=富津市小久保(千葉県)色即是空あると思えばない東京湾観音
 この狭い海域を、たくさんのいろいろな船舶が往来する。その数は1日におよそ約600隻といわれる。見ているとなかなかおもしろいのだが、通り過ぎるまで時間がかかるので、よほど暇をもてあましていないと楽しめない。また、それを楽しむ場所としては、はやり航路がより近い観音崎のほうが適している。
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 富津岬の西には、第一海堡・第二海堡という明治期に東京湾要塞計画でつくられた人工島の砲台跡があり、神奈川寄りには同じく要塞化が進められた猿島がある。hazaki-4.jpg
 破崎の西には伊勢町と呼ばれる漁業集落があり、そこから長い突堤が築かれて、船溜まりを沖に囲むようになっている。破崎は、そこから眺めるのがいちばんよさそうだ。
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 ここまでやってくるには、まず京浜急行本線の馬堀海岸駅で電車を降りた。馬堀海岸駅の次は、終点の浦賀駅である。あれっ? それじゃ浦賀へ行くのは、各駅停車しか走らない浦賀線で、それは本線じゃないのでは…? 本線は久里浜・三崎口のほうへ行くのではないか?
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 そう思ってしまうが、これが本線で、堀ノ内駅から分かれた久里浜・三崎口へ向かう線は、久里浜線ということになっている。
 これも浦賀が造船所などで栄えていた頃の名残りで、各停が走るこちらがもともと本線であったことに間違いないのだろう。特急・快速が走る久里浜線は、ずっと後から三浦半島に住宅がどんどん増え始めてからできた線なのだ。
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 馬堀海岸駅の周辺は、比較的新しく住宅地が開けた地域で、これもおそらくは埋め立てでできた整然とした住宅地が広がる。ヤシの並木があるところなど、いささかの主張があるのだろう。その東の丘の上が防衛大学校のあるところで、その丘が急斜面で北の海岸に落ちたところが破崎と突堤のある走水一丁目になる。
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 岬に隠れるようにしている建物は、「日本で一番海に近い学校」を謳う横須賀市立走水小学校の校舎の一部だろう。
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 破崎の東にある走水港の東西を扼する旗山崎と伊勢山崎については、
 072 旗山崎・伊勢山崎=横須賀市走水二丁目(神奈川県)さがむのおぬに
としてかなり早い段階で取りあげていた。そこでは、「“走り水”というからには、その海流も早瀬を巻いて流れているのだろう。」と書いていたのだが、そうやらそれは違っていたらしいことが、破崎を訪ねてわかった。
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  伊勢町の海岸には、横須賀市の水源地があり、今も湧き水が豊富に湧出している。その水を横浜製鉄所まで水道を敷設して引いたのも、ヴェルニーさんの功績で、湧き水にもその名がつけられている。だが、ここの湧き水はそれ以前から有名で、船に積み込んで売りに行っていたとも言う。となると、「走水」の名は海流の速さではなく、ほとばしる湧き水のことだったのだろうか。
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 日本武尊と弟橘姫の伝説もあるこの走水の岬には、御所ケ崎という名をうたうこともあるが、その名は地理院地図にはない。伝説については072項で触れたが、読み返してみるともうひとつ重要な証言がそこではなされていた。

 「岬」というものは、都会にはないものらしい。旗山崎から先は、横須賀・横浜・川崎・東京・千葉と東京湾岸をぐるりと360度回ってみても、そこ走水の前に見えている富津岬まで次に連なる岬はないのである。

 と、そこで書いていたのだ。それを書いたのは2007年だが、破崎とその前の大地ノ鼻、大山崎は、その時点では地理院地図にはなかったことが、これで確かに証明される。また、

 真鶴岬からここまで、神奈川県の岬はこの再訪シリーズですべて収録してある。いちおう地元なので、せめてここくらいは地図にある岬と名のつく(「崎」「鼻」を含む)ところはすべて網羅しておこうと考えた。もっとも、これから先も海岸線をもつ全県について、それを実行するのは無理な相談というものであろうが…。2007/01/13再訪)

 とも書いているので、この後にやっとつまみ食いではなく全岬・崎・鼻をめぐるという基本方針が定まったと言える。
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 ハナから無理な相談と弱気だが、確かに生きて元気なうちに全部終えるのはむずかしいかもしれない。ここまできてもなかなか道は半ば。近畿から以東の東日本はだいたい終わったが、まだ西日本が歯抜け状態で残っている。
 ここらで一休みしながら、いつどこで行き倒れるかもしれないので、これまでのデータ整理にも取り組むことにしようか。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度15分55.13秒 139度43分41.59秒
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dendenmushi.gif関東地方(2017/11/06 訪問)
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タグ:神奈川県
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1522 大地ノ鼻=横須賀市箱崎町(神奈川県)米海軍基地になる前までは横須賀鎮守府が置かれた帝国海軍の拠点だった [岬めぐり]

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 長浦湾を挟んで、大山崎の東530メートルのところにあるのが、大地ノ鼻。長浦湾の奥は主に海上自衛隊の基地になっているが、大山崎の出っ張りと、大地ノ鼻のある島はすべて米海軍の基地となる。この島が、長浦湾と東の横須賀本港の間を仕切っていて、本港の東の大きな出っ張りのほとんど全部が米海軍基地である。
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 横須賀本港の奥は、海上自衛隊、JR横須賀駅やそこから東へ続くヴェルニー公園やショッピングセンターなどがあるので、そこを歩けば目の前に米軍基地のドックが並んでいて、潜水艦や艦船が係留されているのが間近に見える。
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 だが、見えるのはそこまでで、その先の広大な基地には入ることも見ることもできない。(特定の開放日という例外はあるが)
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 大地ノ鼻のある四角くでこぼこした島は、地図で見る限り補給基地か何かのようで、基地の中心は本港東の出っ張りにある。地理院地図では、そのどちらにも「米軍施設」という表記があるだけで、日本の町の名前が明記されていない。
 だが、経度緯度を探ってみれば住所表示も出てくる。それによると、島のほうは横須賀市箱崎町、その3倍も大きな出っ張りのほうは横須賀市泊町であるという。なるほど、箱崎町か。その箱のような島の先が大地ノ鼻なのだが、その北側でも埋め立てが進んだようなので、この岬も先端ではなく横っ腹にくっついているようにみえる。
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 しかし、地理院地図が米軍施設と表示する一方で、町名をいっさい表記しないのはどうしてだろうか。日米地位協定など諸々の事柄を忖度した結果なのだろうか。
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 この基地では、米海軍の軍人、軍属、またはそれらの家族などを合わせると常時2万人近い人々が、基地内とその周辺で暮らしている。基地内は各種店舗、学校、病院はもちろん、娯楽施設など生活に必要なありとあらゆるものが整備されているという。
 基地内だけでは手狭だろうと、逗子市にあった旧海軍の池子弾薬庫の森を切り開いて米軍家族住宅にするというので、大もめにモメたこともあったが、今では思いやり予算で京浜急行逗子線神武寺駅には特別に、住宅敷地内から直接ホームに出られる専用の改札口も設けられ、電車には家族づれの姿が多く見られるようになっている。毎日、家族住宅のゲートからは、黄色い大型のスクールバスが出入りし、基地との間を往復している。
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 考えてみると、本国から遠く離れたこの地まで、黄色いスクールバスにいたるまではるばる運んでくるという彼らの情熱というか執念に、改めて驚かされる。だって、バスなんか日本にだってたくさんあるんだから…。
 横須賀は、米海軍にとってハワイより西で最も重要な基地なのだ。その維持のためには、細大漏らさずアメリカ本国と変わらない生活をするつもりなのだ。
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 そもそも横須賀に最初に眼をつけたのは、幕府の勘定奉行小栗上野介忠順とフランス公使のレオン・ロッシュであったとされる。1864(元治元)年に製鉄所建設の適地を求めて横須賀にやってきた二人は、横須賀湾の地形立地が気に入った。当時、幕府はフランスの後ろ盾を当てにしていたので、ロッシュの主導によりフランス海軍の技術師であったヴェルニーを任命して、製鉄所の建設に乗り出すことになる。
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 基地の南部のドックを見渡す(ただし空母のドックは見えない)、バラの花咲くヴェルニー公園は、その彼の名を冠しているが、公園の片隅には、ヴェルニーと並んで、幕末の激動のなかで非業の最期をとげた小栗上野介の銅像もある。(横須賀鎮守府に所属していた軍艦長門碑や、反対側の駅の近くには戦艦武蔵の大砲もある)
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 横須賀製鉄所は、完成後に明治新政府に引き継がれ、横須賀造船所、海軍造船所、横須賀海軍工廠と名称を変えつつ、横須賀鎮守府が置かれて海軍の重要拠点化が急速に進む。1889(明治22)年には、もっぱら軍港のために東海道線から分岐して横須賀線も開通している。
 戦争中は、よく知られていた軍港だけに、何度も米空軍の爆撃を受けている。敗戦直後の1945年9月そうそうに占領軍の米海軍によって接収されて、そのまま現在に至る、という考えてみればまことに不思議な命運を辿っている。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度18分14.49秒 139度38分52.38秒
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dendenmushi.gif関東地方(2017/11/03 訪問)
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タグ:神奈川県
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1521 大山崎=横須賀市浦郷町一丁目(神奈川県)この付近一帯はかつては津々浦々を凝縮したような地域だったのか [岬めぐり]

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 神奈川県横須賀市は、三浦半島の北東部にその中心部がある。市域は半島の東側を占め、北西側は逗子市と葉山町に隣接し、南端部は三浦市に譲っているが、その中間部では半島西海岸にまで及んでいる。この横須賀市の岬めぐりも全部終わったはずと思っていたら、地理院地図には確かにそれまでなかったはずの岬が、3つほど追加されているのを発見した。
 これはちゃんとフォローしておかないといけないと、さっそく出かけてきた。
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 もともと軍港の街としての長い歴史をもつ横須賀では、市の北東部の海岸線には、自然地形はまったく残っていない。日露戦争のときの日本海海戦で旗艦をつとめた戦艦「三笠」も、岸壁に固定されたままでいる横須賀新港も東にあるが、そこから北東にかけての一帯はすべて米海軍の広大な基地になっている。
 また、それに続いては、海上自衛隊の港湾施設があり、わずかに残された基地以外の岸壁の内側には、工場地帯がある。横須賀市の北の端に当たる直線の岸壁で囲まれた出っ張りの一帯は夏島町と呼ばれ、そこには日産自動車の追浜工場が広い面積を占めている。
 貝塚遺跡もある夏島というこの町の名前も、実際にかつてはここが名実ともに島であったことを示すものだろう。日産の北西には平潟湾につながる水路があって、この水路の岸が横須賀市と北隣りの横浜市との境界線になっている。通常市境などは水路の場合はその中央で線引されるものだが、日産工場敷地では横須賀側の岸が境界になっている。それは日産か横須賀市が欲どおしく、境界線いっぱいまで埋め立てを進めたからではないかという想像もできる。
 野島、八景島という島も横浜市側にあるが、埋め立てや護岸工事が進んで、多くは島と島や島と陸地がつながったり、水路と海水面はだんだん狭くなっていったものだろう。
 この付近には、そうした痕跡がたくさん残されている。汐入、長浦、田浦、深浦、浦郷、追浜、六浦、平潟、福浦といった地名を拾うだけでも、海水面が広く広がり、陸地の間に複雑に入り込んでいた姿を想像することができる。
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 京浜急行電鉄本線の追浜駅で電車を降り、いかにも地方の商店街といった風情のアーケードの通りを東へ歩いて行く。
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 アーケードはやがて切れるが、駅から1キロちょっと歩くと左手に日産自動車の工場や研究所などの施設に行き当たる。そこから右折して、今度は浦郷町の工場地帯を南に進むと、岸壁に出る。
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 そこは深浦湾という細長い入江で、周囲はぐるりと浦郷町。湾の北側は工場地帯で、南側は住宅が丘を上っている。
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 船舶修理の船台などがズラリと並んでいる入江の、出入口にあたる端の湾の南口にあるのが大山崎だ。
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 60メートルほどの小山から南東に向けて張り出した尾根の先がそうなのだが、そこへは行くことができない。この尾根の周辺がすべて米軍施設となっているからだ。したがって、浦郷町の工場地帯の南端岸壁が、大山崎をいちばん近くで見ることができる場所になる。
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 大山崎の米軍施設の西には、海上自衛隊自衛艦隊司令部という厳めしい表記が地理院地図には続き、その先が船越町という住宅が建て込む町になっている。
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 船越町を西に詰めていくと、標高50メートルくらいの峠があり、トンネルを西へ抜けると横須賀市から逗子市に入る。
 「船越」という地名は、全国各地に多い。だいたいそういう場所には低い峠があって、かつてはそこを船(舟)で越した(一部は船を曳いたり担いだりしなければならない)、ということから付いた名前であると思われる。
 船越にはもうひとつ意味がありそうで、船が峠を越すのではなく、島や陸を隔てる水路を船で越す、ということも考えられる。
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 横須賀市の船越町は、京急田浦駅から西へ、谷間を詰めて峠を越え、逗子の沼間の水路につなげるという意味の「船越」だったのではなかろうかと、でんでんむしは勝手に思い込んでいるが、実際のところはどうなのだろう。
 そう考える理由は、もしここを船が越えることができれば、今でいう東京湾から相模湾へ最短距離で抜けることが可能で、それは三浦半島をぐるりと遠回りするよりは経済的メリットがあったと思われるからだ。
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 この地域では、低い山の尾根筋に延びる谷間のことを谷戸(やと)と呼ぶ。ひだのように複雑な凸凹は浦々をつくり、その谷戸の奥のほうまで水路が広がっていた時代もあっただろう。それを考えると船越から沼間(これもいかにもの名前だが、もとは「沼浜」だったとされる)へ抜けることは、現在考えるよりは容易で現実的だったのではなかろうか。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度18分15.62秒 139度38分31.21秒
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きた!みた!印(33)  コメント(0) 
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1520 十和田湖の岬まとめ=十和田市・小坂町(青森県・秋田県)ふたつの画像とリストで… [岬めぐり]

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 「十和田湖」の語源も、実は「トーワタラ」というアイヌ語であるという。その意味は「絶壁だらけの湖」なんだって。なるほど、地図で見るとその通りではあるね。
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 展望台などから見ると、もっとはっきり実感できるのだろうか。湖の周囲はぐるりと山に囲まれている。しかも、その山が切り立っていて、まるで屏風をめぐらせたかのような景観を示している…はずなのだが。湖岸で眺める景色では、山もそう高く切り上がっているようには見えない。それよりも、地図でみてその周辺の見えない部分も含めて想像するほうが、その実態はつかみやすいかな、と考えていた。
 するとたまたま、Batholithさんという人がスペースシャトルの地形データを使用してカシミールでレンダリングした図をパブリックドメインとして公開しているのを見つけた。さっそくそれを使わせてもらおう。(表記の文字はでんでんむしが加えた。)
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 これで、十和田湖全体が大きな火口湖である様子がよくわかる。では、その火口をつくった火山爆発というのは、いつ頃のことだったのか、もういちどおさらいしてみると、約2万5,000年前(大不動噴火)の噴火と約1万3,000年前(八戸噴火)の陥没によると考えられているという。
 そこでまず、十和田湖の原型となる外縁がつくられ、第一カルデラを形成する。そしてその後、約1万年前にその大一カルデラの東南部で大噴火が起こる。カルデラ内部に別の新しい五色岩火山が形成された。爆発的噴火が多発しそれが火口を拡大し大きな山体を成長させていった。
 そして、約6,200年前の噴火でカルデラ内部に第二のカルデラをつくるが、火口壁が崩壊して第一カルデラの湖水が火口に流入した。これにより第一カルデラと第二カルデラがひとつになり、中湖ができた…ということになるのか。
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 「1513 鴨ヶ崎」の項では「最初のカルデラ湖ができたのは5万5,000年~1万5,000年前」で、「中湖ができたのは約4,000年前頃」と書いていたのだが、参考にする資料が異なると数字まで変わってしまう。それくらい、はっきりとはわからない、ということだ。
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 また、同じ項目で中湖については「1,100年前という説もあり」とも書いていたが、これは少し事情が違うようだ。915年(延喜15)年の大噴火というのがあったらしい。その噴火は、日本国内で過去2000年間に起きた最大規模の噴火であった、というのだ。それが御倉山溶岩ドームをつくったのだが、その記録がどうやら現地情報としてはっきり残っていないらしい。
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 カシミールの3D地形図は、カルデラ壁を想像するのに役立つが、湖の中はわからない。「1515 千鶴崎」の項では、湖底にも眼を向けて断面図を描いてみようとしてめんどうだからやめた、と書いていた。そんなことはしなくても、十和田ビジターセンターで、ちゃんとその立体模型がメインで展示されていた。この写真を使えばいいのだ。湖水面の下から湖底まで「絶壁だらけの湖」だったことがよくわかる。
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 これで、両々相俟って、十和田湖の全容を想像し、認識することができるだろう。
 「1512 日暮崎」から「1519 寺子ノ岬」まで、8つの岬のまとめを兼ねて、湖の全体像を俯瞰しておきたい。
 1512 日暮崎=十和田市奥瀬(青森県)御倉半島西側の岬は一日の終りに幕を引く岬なのか
 1513 鴨ヶ崎=十和田市奥瀬(青森県)この岬の下から千丈幕は湖の中にも何段か階段をつくっているような…
 1514 猿子崎=十和田市奥瀬(青森県)屏風のような崖と山で囲まれている十和田湖は巨大な雨水桶なのか
 1515 千鶴崎=十和田市奥瀬(青森県)湖底に目を向けて見えないところも想像してみると…
 1516 中山崎=十和田市奥瀬(青森県)中湖と西湖を分けるここで青森県の岬はおしまいに
 1517 猿鼻岬=鹿角郡小坂町十和田湖(秋田県)廃藩置県以来137年目にしてやっと確定した十和田湖の境界線は6:4で線引
 1518 よどの岬=鹿角郡小坂町十和田湖(秋田県)鉛沢と鉛山と鉛山峠を越えた向こうにあるもの
 1519 寺子ノ岬=鹿角郡小坂町十和田湖(秋田県)その昔教科書で初めて知った十和田湖のこと

 これで十和田湖の岬めぐりは終了。towadako-6.jpg
 帰りは、休屋からJRバス東北のバスで焼山まで降りて、そこからまたバスで三沢まで戻った。
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 三沢からは青い森鉄道で八戸まで行き、IGRいわて銀河鉄道に乗り換えて、岩手山を見ながら盛岡へ出た。青い森鉄道もいわて銀河鉄道も、元JR東北本線の在来線の一部を、第三セクター方式で引き継いだもので、相互に乗り入れもしている。そのお互いの境界駅が目時になっているのは、青森県と岩手県の県境のためでもある。
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 いつも、新幹線で長いトンネルで走り抜けるところなので、こういう機会にのんびりと別の風景を楽しむのもいい。
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▼国土地理院 「地理院地図」
40度26分26.11秒 140度51分40.92秒
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dendenmushi.gif東北地方(2017/09/06 訪問)
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きた!みた!印(27)  コメント(2) 
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1519 寺子ノ岬=鹿角郡小坂町十和田湖(秋田県)その昔教科書で初めて知った十和田湖のこと [岬めぐり]

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 でんでんむしが十和田湖のことを初めて知ったのは、こどもの頃に学校で習った教科書でであった。それは、和井内貞行という人が、その山の上の湖でヒメマスの養殖にひたすら苦心するという話だった。
 以来、何十年経っても十和田湖もヒメマスも見ることもなく、まったく縁がなかった。そこへやっとやってきて、和井内貞行の養魚場などがあったと思しき辺りを遠くぼんやり眺めている。
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 しかし、見渡す限り山と湖面が続くばかりで、なにがどこにあるのか、さっぱりわからない。
 大川岱という大川沢の裾が大きく丸く広がる平地があり、十和田湖プリンスホテルもそのへんにあるらしいが、それもはっきりわからない。寺子ノ岬もその北に位置するが、これまたほんの少し湖岸が膨らんでいるだけだから、どこがそうだかわからない。わからないだらけだが、十和田湖プリンスホテルに泊まるとかしなければ、その岬に近づいて確かめることもできない。
 地図ではホテルと岬の中間に「和井内神社」という表記がある。すると、その付近が和井内貞行夫妻の活動の中心地であったのだろう。
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 休屋には十和田ビジターセンターという、環境庁か何かの立派な施設があって、そこには十和田湖のさまざまが展示紹介されている。もちろん和井内貞行についてもちゃんとコーナーがあって、そこにある写真が養魚場で、遠景に写っているのが寺子ノ岬であるような感じもするが、それも確かではない。というのも養魚場は何か所か時期によって移動しているからだ。
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 寺子ノ岬の北側には銀山沢と銀山という字地名もあり、そこで旅館「観湖楼」を営業し、人工孵化場もつくったとされている。彼は、養殖だけでなく、十和田湖観光の基礎づくりにも努力したという、もう一面もある。
 彼は生まれたのは、小坂鉱山(前項参照)の南にあたる毛馬内村(現・鹿角市)で、南部藩毛馬内陣屋城代の筆頭家老職を務めていた家であった。ちょうど、井伊直弼が不平等条約である日米修好通商条約を結んだ1858(安政5)年で、成長する間に世の中は大きく変わる。
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 教科書には出てこなかった、その時代を生きた彼の姿を追ってみると、まず毛馬内時代には、戊辰戦争で南部と秋田の戦争があった。もめた末に奥羽列藩同盟に残った南部盛岡藩は、奥羽越列藩同盟を離脱して新政府軍に参加した久保田藩(秋田)と戦争するハメになったうえ、盛岡藩が負けるという混乱に直面したはずだ。その敗戦のために南部盛岡藩領だった十和田湖西部一帯も秋田のテリトリーに入ってしまう。
 維新後、助教員を経て24歳のときに工部省小坂鉱山の十輪田鉱山に勤務するようになる。それからしばらくして、鉱山は藤田組に払い下げられ、吏員から社員に身分が代わる27歳頃から、貞行は養殖漁業に強い関心を示し行動を起こすようになる。その直接的な動機については、はっきりふれたものが見当たらないが、当初は鉱山で働く人々のため食糧調達を図る目的で始まったようだ。
 当時の十和田湖は、長年にわたって魚が一匹もいなかった。いまどきのように、車でやってきて外来種を捨てていく不心得者もいなかったので、ずっと生命のない湖だったわけだ。湖の神様が魚を嫌ったからだと信じている者も多かったらしいが、奥入瀬渓谷銚子の滝の落差が、魚類の遡上を許さなかったから、というのが原因だろう。
 目の前に十和田湖があるのだから、ここで魚が穫れるようになれば、と考えるのは自然だったのだろう。それでは、というので魚類の放流を始めたのは貞行が最初ではなく、何人かの人が試みていた。当初は、鉱山のための食糧調達という大義名分があったためか、上司の許可と支援も得て、漁業権の設定を行ない、コイの稚魚を放流することから始めた。ところが、貞行のいた十輪田鉱山のほうが休止に追い込まれ、小坂への転属が言い渡されるに及んで、藤田組を依願退社して養殖漁業に専念することを決心する。
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 1900(明治33)年、43歳の頃、サクラマスやビワマスの卵を買い入れ、それを孵化させた稚魚を放流するようになるが、成果は上がらず借金だけが膨らむ。そのうちたまたま、アイヌ語でカバチェッポという支笏湖の回帰性のマスの情報を得るが、これこそが後にヒメマスと呼ばれるようになる魚だった。苦しい生活のなかで、なんとか資金を調達し、青森水産試験場の支援を受けて、50,000粒の卵を買い入れ、その孵化に成功して稚魚30,000尾を放流したのが1903(明治36)年で、このときに自分の名を放流したヒメマスにつけた。
 しかし、それが成功したかどうかは、成魚となったヒメマスが放流地点の桟橋付近まで回帰したことが、確認できて初めてわかる。貞行の養魚事業にかける思いが尋常でなかったのは、回帰を待つ不安な日々のなかでもへこたれず、ただ待つだけでなく日露戦争勝利を記念して新しい孵化場の建築を始めていることでもわかる。その場所は、休屋に近い生出の湖岸であった。
 ヒメマスの群れが戻ってきたのは、1905(明治38)年の秋であったという。
 教科書ではそのあたりのことを感動的に書いていたのだろうが、細かいことまではもう覚えていない。
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▼国土地理院 「地理院地図」
40度28分3.66秒 140度50分7.57秒
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タグ:歴史 秋田県
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1518 よどの岬=鹿角郡小坂町十和田湖(秋田県)鉛沢と鉛山と鉛山峠を越えた向こうにあるもの [岬めぐり]

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 前述の2009年の「広報とわだ」の記事には、青森県と秋田県の十和田湖上の境界線の設定が図で示されている。線一本だってそう簡単ではない。なかなかお役所のやることは細かくて念が入っているが、こと自分たちの縄張りを決める境界線となれば、なおのことだろう。
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 なにしろ自治体の面積は、交付金の額などにも直接影響してくるらしい。
 湖の水面上の境界線は直線で示されているが、神田川の河口から北西にまっすぐ伸びた線は、よどの岬の沖合で、急に向きを北北東に変え、そのまま今度は湖の北の御鼻部山を目指している。
 その転回点が、ちょうど南の猿鼻岬と北のよどの岬を結ぶ正三角形の頂点に当たっているように見えた。厳密には三辺の距離は均等ではないので、正三角形ではないがほぼそれに近い。
 猿鼻岬とよどの岬は、境界線の位置決めのときには、なんらか役割を果たしたのかもしれない。
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 十和田湖西岸の岬へは、国道454号線を北へ辿れば、それぞれ行くことはできるのだが、なにせ交通手段がない。西岸にある十和田ホテルとか、十和田プリンスホテルに泊まることにすれば、ホテルの送迎車で運んでもらうことができる。それも考えてはみたのだが、結局今回の計画ではそううまくいかなかった。したがって、以下もすべて船または休屋方面からの遠望のみになる。
 それらのホテルも営業は11月半ばまでで、春は4月も終わる頃でないと再開しない。冬季は長い休業期間に入っている。バスも遊覧船も止まっている今時分は、湖岸も雪にうめつくされ白い世界になっているのだろう。
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 よどの岬の南側、緑の山の中に赤い屋根がみえるところがある。これが十和田ホテルであろう。その後ろには、山腹に崖が巻いているちょっと凸凹した山容が存在感を示している、標高900メートルほどの鉛山がある。
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 ホテルの奥には、谷と沢が続いているはずだが、遠目ではさっぱりわからない。その鉛沢という沢を詰めて行くと鉛山峠を越えて、十和田湖の西側の盆地に広がる秋田県鹿角(かづの)郡小坂町(こさかまち)の中心に出ることができる。その山道は、昔の主要なルートであったが、現在ではもっと南の発荷峠から分岐する樹海ラインという自動車道が通っている。十和田湖と小坂の街への往来は、そのルートだけのようだ。
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 十和田湖畔に鉛山や鉛沢があるのも、この一帯には広く鉱床が分布していた小坂鉱山の一部だった時期があり、残された山や峠や谷や沢の地名はそのことをわれわれに伝えようとしているのだろう。Googleマップによると十和田ホテルの近くには、現役で営業中の鉛山鉱業という会社もあるようだ。
 小坂は、江戸時代から南部盛岡藩が鉱山を経営していたくらいで、40年くらい前までは小坂鉱山といえば結構羽振りがよかったらしい。なにしろ、明治末期から大正初期にかけては、日本最大規模の鉱山だったというのだ。ここを「銅山」としている情報もあるようだが、ことはそう単純簡単ではない。
 緑色凝灰岩(グリーンタフ)については、前にもふれているが、この地帯に産する鉱床に黒鉱(くろこう)がある。黒鉱は銅や鉛、亜鉛、金、銀などの多くの有用金属が含まれている黒い鉱石で、高品質のうえ採算性にもすぐれていて、日本では非常に貴重な鉱床とされてきた。黒鉱は日本独自のものとされていた時期もあったようで、kurokoは世界で通用する用語だという。
 一説には、日本の銅、鉛、亜鉛の約半分が黒鉱鉱床から生産されたといわれるほどだが、その三大黒鉱鉱床が、大館など秋田県北部の十和田湖南西側に集まっている。小坂鉱山は、そのひとつだったのだ。
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 しかし、それも昔の話、1994(平成6)年を最後に国内の黒鉱鉱床はすべて閉山してしまっている。小坂鉱山がまだ活動していた1980(昭和55)年には、黒鉱鉱床から産出した銅の生産量は3万4000トンで、国内総生産のうちの67%を占めていた。同様に鉛は3万トンで50%を占めていたから、銅と鉛については半分が黒鉱からというのは事実である。その頃、一度閉山した後で新鉱床が発見された小坂鉱山では、1980年の粗鉱採掘量は約68万トンあって、従事者も約1300人を数えたという。今は重要文化財として残るその鉱山の関連施設の建物などにかつての面影をみるくらいだろうが、精錬所やリサイクル事業は現在も続いているらしい。
 黒鉱と小坂鉱山の関係、久原房之助と製錬技術のことなど、もっともっと書くべきことはありそうだが、岬めぐりではあまり深入りしないで、適当なところで切り上げておくのがコツ…。
 なにしろ、山を眺めてその向こうを想像しているだけなんだから。

▼国土地理院 「地理院地図」
40度26分34.78秒 140度50分42.17秒
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1517 猿鼻岬=鹿角郡小坂町十和田湖(秋田県)廃藩置県以来137年目にしてやっと確定した十和田湖の境界線は6:4で線引 [岬めぐり]

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 何本も枝分かれした長い支流を持つ宇樽部川は、十和田湖に水を流し込んでいる最大の河川だが、休屋港を中心とする休屋の集落の南側を流れている神田川は、それに次ぐものと言ってよいのだろうか。この神田川が、青森県と秋田県の県境を流れている。この川の名は東京の神田川とは関係なくて、流域に神田という字地名があるからだろう。
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 港の桟橋で遊覧船を降り、400メートルも歩くと、この川に行きあたる。川とは言っても、水量はわずかしかないし、幅も広くなく、ほんの溝のような川だが、なにしろ県境の川だ。ちゃんとそれを示す標識看板も立っている。
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 青森県側の神田川右岸は、ビジターセンターやバスのりばもある広い園地になっていて、秋田県側の左岸は、数軒のホテルや旅館のような建物が集まっている。園地に架かる橋には、両国橋という名が付けられている。
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 陸奥国と出羽国のふたつの国にまたがるという、大きな名をもった小さな橋というつもりなのか…。
 いやいや、この両国橋の名は近年になって青森と秋田の境だからと、洒落センスで付けられたものだろう。道が遊歩道であること、橋の大きさやその佇まいからみても、昔からの道路ではない。もし、そうでなければ、後世の人間の思い込みによるもので、ずっと昔からはこの場所でそういうふたつの国という認識はなかっただろう。その点で、武蔵国と下総国を結ぶ橋だったところからついた隅田川の両国橋とは、大きさだけでなくかなり違うのではないかと思われる。

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 なぜならば、江戸時代の藩幕体制下では十和田湖の一帯全部が南部(盛岡)藩の所領となっていたのだから…(とは言えその境界区分も明確ではなかったはず)。1871(明治4)年の廃藩置県のときに、南部藩の一部が津軽藩とともに青森県になったことは、前にもふれたところだが、このときに十和田湖の東側は青森県で西側は秋田県という大雑把な線引がされ、湖水面の境界についてはちゃんと決めていなかったらしい。
 それが2008(平成20)年に青森県と秋田県、青森県十和田市と秋田県小坂町の間で、湖面の線引が行なわれて正式に確定している。なんと廃藩置県以来、137年目にして、やっとはっきりしたというわけだ。
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 現在の地図で、明確に直っすぐな線で引かれた境界線は、かつて青森県十和田湖町と秋田県小坂町の間で行なわれていた交渉の経緯も引き継いで、中山半島は十和田市とし、双方が主張する境界の中間線をとることで決着することになったその結果であるようだ。そのため、全湖面の面積比では青森6、秋田4の割合になった。
 …と書いてみたのは、そのほう(線引の結果湖面の割合が決まるというほう)が一見合理的と思われたからだったが、よく調べてみるとどうやらそうではなかったらしい。
 2009(平成21)年の「広報とわだ」によると、6:4というお互いの領有比率のほうが先にあって、それに合わせて線引をしたというのが真相らしい。(このあたりがネット情報にある新聞記事などでは、曖昧な書き方がしてあるので、ついそう誤解してしまった。)
 2003(平成15)年の十和田町と小坂町の議会による「十和田湖境界に関する特別委員会」の合意内容に「湖面部分は、青森県(十和田湖町)6割、秋田県(小坂町)4割の比率で分割する」という文言が入っていたので、それを踏襲したようなのだ。
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 6:4の理由はふれていないのでよくわからないが、十和田町側には宇樽部や休屋といった街もあり、十和田観光の出入りルートと拠点があるのに対し、小坂町の中心は湖の近くにはなく、秋田県側の湖畔は、どこも山が取り巻いていて、集落もあまりない。
 神田川を通る県境は、細い流れを湖に注いでいるが、河口の先、対岸が猿鼻岬になる。この岬の所在地は、秋田県鹿角郡小坂町となる。
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▼国土地理院 「地理院地図」
40度25分55.98秒 140度51分6.12秒
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1516 中山崎=十和田市奥瀬(青森県)中湖と西湖を分けるここで青森県の岬はおしまいに [岬めぐり]

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 潮の干満がないこと、極端な波浪の影響を受けにくいことなどから、海岸線の岬とはずいぶんその趣を異にしているのが湖の岬だろう。水面と岬の接線がほとんどくっついていて、水の上にすぐ木々がかぶさっていて、水鏡はそのさまを写しとっている。そんな風景が見られるのは湖ならではで、それがまた独特の美しさを醸し出しているようだ。
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 とくに中山崎のように、単独でしっかりと長く飛び出している岬は、いっそうその感が強く、さらに言えば高く大きな山がないことも、一幅の絵のようにフレームの中に適当にハマりやすい。
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 中山半島もこの中山崎で終わり、同時に中湖の深い穴も、この岬の東で終わり、断崖が湖底をせり上がっている。中山崎の先端を回り込むと、そこは水深60〜70メートルしかない西湖に入る。
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 船が南へ下って行く半島の西岸ではほかに岬はないが、錦ヶ浦、九重浦、御前ヶ浜と続くなかに、大小いくつかの島が点在する。その南東側奥が休屋。西の対岸は、青森県ではなく秋田県。
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 遊覧船が発着する休屋港もある休屋の街の北にある御前ヶ浜までは、徒歩遊歩コースになっているらしい。観光地十和田湖の中心は、東湖の宇樽部ではなく、また湖岸のアプローチがない中湖でもなく、西湖の休屋地区が中心になっているようだ。
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 観光地十和田湖のシンボルになってもいる「乙女の像」も、御前ヶ浜にある。像といえば日本最深度の田沢湖では「たつこ像」がシンボル、では二番目に深い支笏湖にはあるのか? 乙女の像やたつこ像のようなものはないが、そこでは毎冬の氷濤まつりでつくられる氷像がある。
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 どうやら、観光地というものは、自然の風景だけでは成り立たないもので、なにかしらポイントやイベントが必要になるらしい。
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 あ、それとお土産物屋さんに食べ物屋さんは必須ね。岬は決して必須アイテムでも何でもない。
 では田沢湖と支笏湖にも、十和田湖のように岬はあるのか。
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 実は、それがあったんですね。当初に調べていたところでも、田沢湖と支笏湖には地理院地図でも岬名表記はあったはずだが、どうやらこれまで忘れていたというか、計画に入ってこなかった。最近、データ整理のため、全項目の洗いなおしをやっていて、発見したのだが、これまではなかった岬名が新たに追加されているケースもあるようだ。
 あったものがなくなっているというのは、いまのところまだ明確に確認できていないが、追加はぽつぽつとあるようだ。どうやら、地理院地図も洗いなおしをやっている可能性もある。でんでんむしお膝元の小さな三浦半島でも、同様に横須賀付近で以前にはなかった岬名の追加が3件確認されている。これは、行くのは大変ではないので、すぐに行ってきた。
 こうなると、全岬総数も増えるので、またカウントし直し修正しなければならない。覚悟を決めて、今年の仕事にするか。
 田沢湖では大森鼻、支笏湖ではオコタン崎と大崎という岬が、リストにあるので、またこれらの落ち穂拾いもしなければならない。田沢湖も支笏湖も、これまでにすでに訪れていたのだが、そのときには岬の心配をしていなかった。そのためにまた、わざわざ出かけて行くというのも大変だなあ。

▼国土地理院 「地理院地図」
40度27分25.28秒 140度54分11.82秒
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タグ:青森県
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1515 千鶴崎=十和田市奥瀬(青森県)湖底に目を向けて見えないところも想像してみると… [岬めぐり]

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 「番外:奥入瀬川」の項以降、これまでの各項の所在地は「十和田市奥瀬」と表記してきた。実はこれは地理院地図での表記ではなく、Mapionの表記に寄っている。国土地理院準拠の原則を崩してまで、あえて地理院地図での表記を採用していなかったのは、それだと「十和田市-」とすることになるからだった。
 「十和田市-」の「-」とは何かがわからないので、そのまま表記するのがなんとなくためらわれた。「-」は「一(いち)」ではなく、横棒であるから、どうやらここは字地名地番もないよという意味にもとれる。
 青森県十和田市の「-」は、奥入瀬川流域から山に入ってずっと続き、湖の周辺に及んでいる。ただし、焼山、子ノ口や宇樽部、休屋などのように平地で人家がある開けた場所は「-」ではない。
 地理院地図では、それらの地域の住所表示は「十和田市大字奥瀬」となっているのだ。その範囲はやたら広く、同様に「-」も広大な地域を占めている。
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 十和田湖の東湖と中湖を分けているのは、前方後円墳のような、あるいは鍵穴のような形(もうこんな鍵穴は古い南京錠くらいしかないか)をした御倉半島だったが、中湖と西湖を区切るのは中山半島という。
 最も広く幅のあるところでも800メートルに満たず、狭く細い凸凹に富んだ痩せた半島の名は、その北端にある中山崎によるのだろう。いやいや、半島の名のほうが先で、その先端だから中山崎になったのか、卵と鶏でどっちがどうだかわからない。
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 細くて凸凹の半島は、上のほうも凸凹していて、標高500メートル前後の山がいくつもぽこぽことある。しかし、湖水面自体が標高400メートルなのだから、われわれが風景として見ているぶんには、100メートル前後の凸凹が並んだ半島ということになる。
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 この半島の先端に近い、中湖の西岸にとんがって突き出しているのが千鶴崎で、その周辺にも業平岩、小町岩、蝋燭岩などの表記が、地理院地図ではある。業平に小町とくれば、これはもういかにもなにかストーリーがありそうな命名だが…。
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 植生に覆われているが、千鶴崎も崖のようなところもあり、その尖っている形状からも、半島のぽこぽこした山とともに、カルデラをつくることになった火山活動の影響を示したものだろう。それは水面下の湖底にもずっと続いていて、千鶴崎が向いている北の方向へは、急激な断崖が300メートルの深さまで一気に落ち込んでいる。
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 そして、千鶴崎の先端から東北東490メートルの地点で垂直に湖底に降りたところが、十和田湖の最深部「・327」ポイントなのだ。
 東湖の東岸から、御倉半島の鴨ヶ崎へ、そして中山半島の千鶴崎へ、さらに西湖の西岸の猿鼻岬まで、まっすぐ引いた線を断面図として作図をしてみようかと手を付けかけたのだが、縮尺をできるだけ正確に表現しようとすると、結構めんどくさくなってやめた。断面図はなくとも、せいぜい想像してみたい。
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 湖面上に出ている千鶴崎だけを眺めていると、確かに紅葉のシーズンにはきれいだろうなと、なにやら平和でのんびりとした感じしかしないが、湖水の中に隠れている急崖を想像すると、この地形と風景をつくるに至った、荒々しい巨大なエネルギーにも思いが及ぶ。
 金子みすゞさんの詩のように、「見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ」ということになろうか。
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 千鶴崎を回ると、その先には千鳥ヶ浦に続く中山崎が大きくなる。

▼国土地理院 「地理院地図」
40度26分46.66秒 140度53分5.55秒
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タグ:青森県
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1514 猿子崎=十和田市奥瀬(青森県)屏風のような崖と山で囲まれている十和田湖は巨大な雨水桶なのか [岬めぐり]

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 よく例えられている話では、十和田湖の大きさは山手線の内側にほぼ近く、その深さは東京タワーがすっぽり収まるほど、というのがある。その最深部の深さは、日本の湖では三番目に深い。
 では、一番深いのはどこかというと、田沢湖で最大水深は423.4メートル。二番目に深い湖は、支笏湖で最大水深は360.1メートルとなっている。田沢湖も支笏湖も、平均深度では270〜280メートルくらいなので、これらと比べても平均深度が71メートルしかない十和田湖の特徴が際立ってくる。(ところで、「平均深度」だが、いったいどのようにして測定するのだろう?というシロウトの疑問はある。自分で調べればわかるのだろうけど、そこまでする必要もないような…。)
 ついでに、十和田湖に続くのは鹿児島は指宿の池田湖(233メートル)、霧の摩周湖(211メートル)などで、これらの深い湖はすべてカルデラ湖である。やはり深い穴ができるのは火山の爆発、それも火口のようなところの跡でないと、そんな穴はできないだろう。その火山には不自由していない日本では、関東では榛名湖や芦ノ湖もそうで、全国に数はけっこうあるようだが、二重になっているというのはやっぱりここと青ヶ島くらいらしい。
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 鴨ヶ崎からさらに中湖の岸を時計回りにめぐっていくと、南東の奥に猿子崎がある。ところが、この湖はほんのわずかに湖岸が膨らんでいる程度なので、なかなか特定がしにくい。横からではなく正面から見ているので、よけいわかりにくい。おまけに写真も前方は窓越しになって、そのガラスが汚れているし、逆光でうまく取れていない。しかたがないので、まあこの辺かなとごまかしておく。
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 猿子崎の上は150メートルもある急傾斜の岸になっていて、千丈幕からの続きの崖ではないかと思われる崖もあるが、それも遠目でしかも正面からではよくわからない。
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 乗っている遊覧船は子ノ口から休屋へ行く航路で、中湖もくるっと回ってはいるが、そんなに奥深く岸近くに寄っていくわけでもない。だが、もうひとつ別の十和田湖遊覧コースもあって、これは西湖の休屋から出て、中山半島を回り込み、中湖を一周してまた休屋へ帰るという航路である。ちょうど、湖岸寄りを走ってきた別の遊覧船とすれ違ったが、これがそうだろうか。
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 地理院地図で見ると、鴨ヶ崎から南へは、五色岩、烏帽子岩、屏風岩、剣岩、千本松といった表記が、猿子崎までの間に並んでいる。
 休屋からの遊覧コースでは、これらがそれぞれ岩と紅葉のポイントとなるのかもしれない。
 四方をぐるりと屏風のような山々で取り囲まれている十和田湖では、周囲から流れ込んでくる河川は、宇樽部川くらい。あと休屋に流れる神田川のほかは、ほとんど秋田県側の沢から流れ出る細流で数もそう多くない。奥入瀬川の水源として水を供給する一方だが、湖底から湧き水が沸きあがっているわけでもなさそうだ。なので、十和田湖の水は、そのほとんどが雨水が溜まったものと考えてよいのだろう。
 「番外:奥入瀬川」の項で、思っていたよりも水が白濁しているような印象があったことを書いていたが、十和田湖が巨大な雨水の水溜りだとすると、唯一の水はけ口である奥入瀬川の流れに、勝手な「清流」のイメージを当てはめるのは、いささか間違っているような気もしてきた。
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 またしても、シロウトっぽい感想だが、そうなると雨が降らない晴天の日が続くと、奥入瀬川の流水量はすぐ減ってしまい、もっとすると水が流れなくなってしまうのでは…と心配してしまう。だが、これまで一度もそういうことが問題になったことはなさそうだ。
 そうなると、水質も気になってくるが、昭和初期には透明度が20メートルもあったといわれていたのが、一時期かなり悪化していた。そこで、青森県と秋田県は共同で水質と生態系を守る取り組みを行なってきた。その結果、2015年度には透明度が12.1メートルとなり、1985年度以来なんと30年ぶりに目標値の12メートルをクリアしたという。
 水質の基準ではCOD(化学的酸素要求量)という指標もある。CODの数値が高いほど、その水域には有機物量が多い、つまり汚れていることになるのだが、こちらのほうは定められた環境基準値にはまだ届いていないという。(いずれも青森県のサイトによる)
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▼国土地理院 「地理院地図」
40度27分25.28秒 140度54分11.82秒
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タグ:青森県
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