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番外:奥入瀬川=十和田市奥瀬(青森県)川は太平洋まで注いでいるが焼山から子ノ口までがいわゆる奥入瀬の渓谷 [番外]

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 観光客が殺到する紅葉の時期にはだいぶ遠くシーズンからはずれていたが、それでも石ヶ戸の休憩所付近には多くの人があふれ、道の脇の渓谷中唯一の駐車場はたくさんの車で埋まっていた。
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 奥入瀬川は、焼山=子ノ口の全区間道路が並行して走っており、車に乗ったまま通っても、いくらかはその風光は感じられるが、やはり渓谷の水の流れのすぐそばを並んで流れている道を歩かなければ、奥入瀬川に行ったとも言えない。石ヶ戸休憩所と駐車場付近が人と車でいっぱいになるわけもそこにあろう。
 おやおや、ここにもまた大町桂月(番外:仏ヶ浦)が…。
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 でんでんむしもその大勢の観光客の一人にまぎれて、初めての渓谷を歩いてきた。往きは十和田からの十和田観光鉄道バスに乗って焼山まで行き、そこでJRバスに乗り換えて川に沿って渓谷を遡る。子ノ口でJRバスを降りて、今度は遊覧船で十和田湖を渡って休屋まで行った。復路は休屋からまたJRバスに乗り、奥入瀬渓谷の途中で降りて、雲井の流れから石ヶ戸まで歩いてきた。
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 いったいどれだけ多くの人がこの渓流を訪れ、自然の豊かさを感じさせる森と水の語らいに耳を傾けたことだろうか。柄にもなく詩的になりそうなので、それは即やめて、いつものペースに戻さなければならない。
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 コトバンクによると、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典では、奥入瀬川について以下のように記述している。

青森県,十和田湖の東岸子ノ口 (ねのくち) に端を発し,東流して太平洋に注ぐ川。全長 67km。十和田湖から流出する唯一の川で,多くの渓谷を刻みながら焼山までの約 14kmは北流,東転してからは,三本木原の台地を刻み,両岸に河岸段丘をつくっている。子ノ口-焼山間は十和田八幡平国立公園に属し,日本一の渓流美を誇り,奥入瀬渓流 (特別名勝・天然記念物) として親しまれている。渓流の両側は山地が迫る急斜面で,火山岩や砕屑岩を切って雲井,白布などの名瀑や馬門岩,屏風岩などの奇岩が続き,ヒバ,ブナ,カエデ,トチ,ナラなどの原生林におおわれる。河水は,焼山の発電所や,中・下流域の灌漑用水に利用される。

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 河岸段丘左岸上の三本木原は、十和田湖の水が流れる奥入瀬川が運んできた土砂や、八甲田山の噴火による火山灰などが堆積してできた台地と考えられる。
 前項(「番外:十和田中央」)では、その台地の上に十和田の街をつくった人工河川の稲生川について述べたが、最初に奥入瀬川から水を引き込んだ地点は、法量というところだったらしい。そこは十和田からのバスの終点である焼山・渓流館から13キロほど下流にあたる。狭い谷が若干広くなったところで、その北側の山に導水管を掘った。
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 いきなりトンネルから始まったのだが、当時の土木工事技術からみてもたいへんなものだったろう。まっすぐに長いトンネルを掘る技術はなかったからか、あるいはトンネル南側の山腹が開けているという条件を利用してか、まず山腹から何箇所も横穴を掘り、それから左右に広げて左右のトンネル同士を結合していくという工法が取られたという。
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 潰れかかかった旅館やホテルを高級リゾートに再生するという手品みたいな商法で、全国に手を広げている会社のホテルが焼山にもあって、旧施設なのかなんなのか三沢の系列ホテルの名もあちこちに残るチグハグさ。
 焼山からJRバスに乗り換えるのは、この奥入瀬川から十和田湖に出入りするバス路線は、JRバスの独占になっているからだ。青森から八甲田の南を越えて蔦温泉から焼山にくるのと、新幹線八戸から十二里温泉経由で焼山にくるのと、ふたつの路線がここから奥入瀬川を遡って行く。
 十和田湖遊覧船ももっている十和田観光電鉄(バスと船しかないがまだ「電鉄」を名乗っている)も、なぜかこの奥入瀬区間だけはJRに委ねている。このへんもなにか理由があるのだろう。
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 と思っていたら、石ヶ戸のバス停でJRバスの標識と並んで、十和田観光電鉄の標識があった。ただし、予定時刻表の部分の表示は剥がしてあった。ということは、かつては十和田観光電鉄のバスもここを走っていたのを撤退したわけだ。撤退の理由は、まずひとつしか考えられない。
 奥入瀬初体験のでんでんむしの第一印象は、思っていたほど水が青く透き通るような清流というわけでない、といういささか残念なものだった。十和田湖という巨大な池の溜り水を子ノ口から流しているだけだから、淵や淀みではいくらか乳白色に濁っているように見えるのもやむを得ないのだろう。
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 普通、渓谷沿いに道路が並行していると、えぐられて深くなった渓谷と道路の間にかなりの高度差があるものだが、ここではほとんどその差がなく、川の流れと道がほぼ近い。バスの車窓からでも渓谷の眺めがある程度楽しめるのは、そのためだろう。
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 上流ではこうだが、三本木原台地の南では、流れと台地の高度差は30メートルにもなる。
 車道とは別に歩行者のための遊歩道も、川により近いところを左右に細く通っているが、一部では車道脇を歩くことになる部分もある。
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 確かに、緑の渓谷もいいけれど、ここを歩いていると、また紅葉の季節にも歩いてみたいような気になってくる。

▼国土地理院 「地理院地図」
40度31分35.13秒 140度58分26.97秒
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タグ:青森県
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番外:十和田中央=十和田市稲生町(青森県)なんにも知らなくってちょっと驚いたけど十和田はこんなところだった [番外]

 十和田という街は、まずたいていの人にとっては、盲点になってしまっているのではなかろうか。湖のほうは知らない人はないくらい有名だが、現在は市になっている十和田についてはどうだろうか。もちろん、でんでんむしにとっても、そうであった。地図でだいたいこのへんにあるはずといった程度の、ごく漠然としたイメージしかなかった。
 実際には、1910(明治43)年以来町制を施行し、三本木町と称していた。それが十和田市に改称するのは1956(昭和31)年で、その後2005(平成17)年に十和田市と上北郡十和田湖町が新設合併し、そこで初めて湖の東半分までその市域に取り込んで、現在の十和田市になっている。
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  現在の地理院地図でみても、奥入瀬川の表示はあるが、十和田の文字がどこにもない…。
 これは縮尺と表示の関係で、たまたまそうなっただけか、市名の表示位置が中心部からずれているからではあろうが、十和田の中心部を中央にしてみてもこんな感じなのでは、はなはだ存在感が希薄である…というと申し訳ないが。
 この地図でいうと、国道102号線がカギに折れている辺りが市の中心部なのだが…。ついでに気がついた。国道4号線は、十和田の中心部を避けて迂回している。これはいったいどうしてだろう。どうも見た感じでは、台地の上の市街地を横断するのは避けたようだ。
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  この地図をもう一段階拡大してみると、こんな感じ。だが、街の中に入って行くその前に、逆に少し戻ってもっとロングに引いて、この街までのアプローチから見直してみよう。この地理院地図で三段階引いてみると、やっと十和田の文字が表われた。十和田湖から流れ出る奥入瀬川の中流域で、川の北側に位置していて、三沢・八戸と湖の中間くらいにある。
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 新幹線は八戸を通っているが、市の中心部からは西にかなりずれたところにある。三沢には青い森鉄道が通っているが、その駅も市の中心からは南に大きく外れた場所にある。盲点といえば、三沢の北にある小川原湖もそうで、開発地の名称としてよく出てくる名前ではあるが、なかなか縁がない。今回も、そこへ寄ることも考えてはみたものの、交通が著しく不便で、計画が立たなかった。
 昔から計画だけはしていて、結局長い間行けずにいた十和田湖なので、そのアプローチとしては、三沢から電車で十和田に行き、そこからバスで湖に行くというルートくらいは記憶にあった。
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 そう、以前はここでは十和田観光電鉄という電車が走っていたはずだが、それももうなくなっている(なんと、電車がなくなったのはつい5年前だった)。東北新幹線には「七戸十和田」という駅があるが、そこは上北郡七戸町ではあっても十和田市ではないし、湖からはさらに遠い。そこからのバスは存在証明程度にあるだけなので、あまり役に立たない。現在、十和田湖へ行くときの一般的なルートとしては、青森からまたは新幹線八戸駅からバスというのが主流のようだ。この長いバス路線がJRバスなんですね。
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 今回の十和田湖行きに際しては、むつ市からの流れで行くことになったので、そのどちらでもない三沢→十和田から入るルートにした。長いことバスに揺られるよりは、やっぱりこっちから行くのがいいかな…というのもあったけれど、昔からのルートをなぞってみようと考えた。
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 そんなわけで、大湊からの直通快速で、夜の真っ暗な青い森鉄道の三沢駅に降りた。写真は帰りの日の朝、三沢高校など通学の高校生が行き交う明るい時間に撮ったものだが、もうすぐ三沢恒例行事の航空祭もあるらしい。飛行機の標識もある三沢駅前のそばにあるのが、2012(平成24)年に廃線になった十和田観光電鉄線の三沢駅だったところで、ここから十和田中央行きのバスに乗ってやっと十和田の街に入る。看板にはまだ「電車」の二文字が残っている。
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 泊まったホテルがあるところは、バスの終点十和田中央と同じ稲生町。大きな通りとアーケードがまっすぐに走っているここが中心街。では、市街地の地図を拡大して眺めてみよう。
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 すると、まず街が都市計画でもあったかのように格子状(正方形の区画は少ないのであえて碁盤目状とは書かない)に仕切られているのが目につく。さては城下町かと思って城か城跡を探すも、それらしきものはない。市役所や美術館などが集まった地域があるので、ひょっとしたらそこらにあった城は何らかの理由で城は廃却されたのかもしれない。そういえば、ここは今は青森県だけれども、元々は南部藩領だった(青森県はなぜ青森県かを考えてみる:参照)ところだが…。
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 そんな勝手な妄想は全部的外れで、城下町などではなかった。それどころか、南部藩でもずっとはずれのほとんど人が住めない荒野だったのだ。十和田市のサイトでは、その歴史の始まりをこう記している。

十和田市は安政6年(1859年)に新渡戸傳翁によって拓かれた「若いまち」で、青森県東南部、秀峰八甲田の裾野に拓けた緑の三本木原台地の中央部に位置し、国立公園「十和田湖」の東玄関として知られています。

 十和田湖の東、奥入瀬川の流れ下る八甲田の裾野が広がっていた台地は、三本木原と呼ばれていた荒れ地だったのだが、南部藩士だった新渡戸傳(つとう・つたう)が、藩にも家にもいろいろな事情があって後、この荒野の開拓に取り組んだ。市のサイトで言う安政6年というのは、台地の北側に奥入瀬川を堰き止めて引き込んだ稲生川の第一次引水に成功した年で、それこそが街を拓く基礎となったというのであろう。
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 実際の関連工事が始められたのは、1855(安政2)年からで、水のない荒野は奥入瀬の流れからははるかに高かったので、それを上流で堰き止めて台地の北に通水することから始まった。人工河川と堰堤とトンネルで引きこまれた奥入瀬の水は台地を潤し、耕地も可能になる。引水が成功すると、藩主自ら盛岡からやってきて、その川を稲生川と名づけた。当時の人々にも荒野が沃野に変わる期待とイメージが明確だったのだろう。今も街の北側を一直線に流れる稲生川沿いには桜が植えられ、橋の袂には命名の碑もあるという。
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 その後、街づくりは傅の長男である新渡戸十次郎にみごとにその意志が伝えられ引き継がれ、1855(安政2)年には格子状の都市計画が立案され実現されていった。札幌での開拓使による近代都市計画の実現は、1869(明治2)年だから、それより14年も早い日本で初めてとなるものだった。
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 その一端は、稲生町のアーケード通りを挟んで、東一番町・西一番町から順に六番町までが並行して並び、その外側には今度は東十一番町・西十一番町から十六番町まで並ぶ現在までそのまま生きている住所表示が示している。
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 そして、なんとなんと! この街を拓いた新渡戸傳の孫にして十次郎の子が、新渡戸稲造(そんな人知らないなあという人は5000円札を見てねと書いてから気がついたが、もう一葉さんに変わってる!! それじゃ1000円札でお釣りがくる『武士道』でも買って読んでね!!!)だったのだ。その名も三本木原開拓地域から収穫された初穂を祝ってつけられた名(幼名稲之助)をもつ稲造は、父祖の功績を伝えるため、新渡戸記念館をこの市街地の台地の先に建てて残している。(三本木原開拓などに関しては、この新渡戸記念館のサイトに詳しく公開されている。)
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▼国土地理院 「地理院地図」
40度36分50.64秒 141度12分50.37秒
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タグ:青森県
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番外:仏ヶ浦=下北郡佐井村大字長後(青森県)呆れ果て驚き果てて仏ウタ念仏申すほかなかりけり… [番外]

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 仏ヶ浦へ行く方法は、車で行くのと船で行くのとふたつがある。
 車なら北の佐井からでも南の脇野沢からでも、まず国道338号線で山に登って150メートルくらいの高いルートを仏ヶ浦の上から駐車場へ降りる。そこに車を停めて、あとは110メートルの山坂を延々と下って、仏ヶ浦の磯に降りることができる。帰りはまた、そこを上ってくることになる。山道の急斜面の登り降りくらいなんでもないよ、という人と、罰当たりな展望台から仏ヶ浦を見下ろしたいという人限定のコースになる。
 船で行くらくちんコースを選びたい場合は、これも北からでも南からでも、とりあえずは牛滝港まで行き、そこで小型の遊覧船に乗り換えることになる(ほかに佐井や脇野沢から出る遊覧船もあるのかもしれない)。遊覧船には二種類あってひとつはグラスボートを標榜しているが、これは期待しないほうがよい。その遊覧船で仏ヶ浦の船着場に上陸し、周辺を散策することができる。現地には、地蔵堂と管理事務所とトイレくらいしかない。
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 二種類の遊覧船は、それぞれ時間やポーラスターとの接続方法などが異なるようなので、事前によく調べて予め予約などの確認が必要だろう。
 でんでんむしは前にその遊覧船で行っているので、今回は仏ヶ浦の沖を通るポーラスターから眺めるのみ。実は、遊覧船で行って帰りは脇野沢で大湊方面に行くバスに接続できないかも検討してみたのだが、数少ないバスが出てしまった2分後に脇野沢に帰ってくるようになっていた。2分くらいどうにかして、バスに接続できないのかとむつ市に問い合わせてみたが、それはまったく考えていなかったらしい。つまり、遊覧船は、ポーラスター接続しか考えていない。
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 往路のポーラスターが牛滝港に入ると、小さな港なのにやたら長い堤防(これは地理院地図にはまだ表示されていない)と、何の工事だかよくわからないがこれまた長い構築物を港につくっていた。そこで同乗者はみんな降りて遊覧船に乗り換えて行ったので、船室はそして誰もいなくなった状態。
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 船が牛滝港を出て北の仏ヶ浦へ向かうとき、大細間沢という谷を通過する。遊覧船より大きいポーラスターは、仏ヶ浦を通るときは、極力海岸近くを徐行する。船からの写真ではどうしても平板になるのと、大きさのイメージがつかない。前項でもふれた前の031 福浦崎の項も合わせて見ていただきたいが、地蔵堂の建物と岩の間に浮かんでいる遊覧船を見ると、その岩の大きさがわかる。人間は豆粒のようにしか見えない。
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 地蔵堂の前から、背後の山の上の国道につながる駐車場と登り降りする道がある。岩にはそれぞれ仏などの名前が付けられているが、それはまあどうでもいいというか…。どうでもいいが、当初ここを見た人が仏の世界と連想を広げ、昔はここが「佛宇陀」と呼ばれたのは、なるほどと思わせる。「宇陀(うた・うだ)はアイヌ語で「浜」という意味なのだが、それに佛をくっつけ、その読みが転訛して仏ヶ浦になったものだろうか。
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 ポーラスターの船内放送でも、ガイドのアナウンスが流れる。往復同じものを聞かされたが、そこでもやたら引用されていたのが、大町桂月だった。地理院地図で地蔵堂の下の岩磯に石碑の記号があるが、これも大町桂月の歌碑なのだ。
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 ここだけでなく、とくに東北ではどこへ行っても大町桂月の名がでてくることは多い。誰も行かないようなところへでも、積極的に出かけているからだろう。そうした各地の歌碑などの紹介には「文豪」としているものが多く、ここでも遊覧船のページでは「文豪」となっていた。
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 へそまがりでんでんむしは、前からこれに苦言を呈していてどこかで書いてきた。代表作の名前ひとつ誰も知らない「文豪」はあり得んだろう。美文調の紀行文は当時広く読まれたらしいが、確かに仏ヶ浦に関して言えば、この地を世間に広く紹介したのは彼の功績といえるのだろう。桂月がここを訪れたのは、1922(大正11)年のことで、亡くなる3年前だった。
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 仏ヶ浦の景観をつくっている緑色凝灰岩(グリーンタフ)は、海底に堆積した後に隆起し、それが長い間の風雨波浪の影響によって侵食され、現在見るようなさまざまな形をした巨岩が残った、と考えられている。
 前項で緑色凝灰岩の形成背景については触れていたが、このグリーンタフの仲間のひとつである石は、われわれのごく身近にあって(とくに関東では)、誰もが見たり触ったりしているはずだ。それは大谷石という名で、石垣などに広く使われているからだ。復路のポーラスターは、一路南へ向かい脇野沢港を目指していく。
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▼国土地理院 「地理院地図」
41度18分39.31秒 140度48分14.71秒
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番外:ポーラスター=青森港・陸奥湾(青森県)逆マサカリ形の陸奥湾を南北140キロにわたって縦断する航路 [番外]

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 青森県の岬が多いのは、ひとえに陸奥湾が海岸線を長くしているからと言える。その陸奥湾は、津軽海峡から大間崎と竜飛崎を東西の湾口として、南に広がっているが、夏泊半島がその中央で北に向いて突き出ているので、その東を野辺地湾、西を青森湾と分けて呼ぶこともある。青森湾は半島より深く南に食い込んでおり、野辺地湾の北は大湊湾として北に凹んでいる。
 よく、下北半島がマサカリのような形と言われるが、「ルビンの壺」を見るときのように眼を変えて見ると、陸奥湾もまた下北半島と同じような形で対をなす、逆マサカリになっていることに気づく。
 逆マサカリの柄の部分が、青森港から下北半島と津軽半島の間を抜けて海峡に達する航路にもなっている。一般定期航路としては、陸奥湾を下北の脇野沢と津軽の蟹田の間で横断するむつ湾フェリーがあり、もうひとつ青森港と下北の佐井を結ぶシィラインがある。むつ湾フェリーには前にも乗っているので、今回はシィラインの「ポーラスター」(北極星を意味する名)に乗って、陸奥湾を縦断することにした。
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 朝早く、浅虫温泉駅を出て青森駅に降りる。ここから北へ向いて歩いて行くと、黄色と白の船体が岸壁に横付けされた、かつての青函連絡船「八甲田丸」を横目になおも行くと、青森港の客船ターミナルがある。乗船名簿に記入して脇野沢経由で福浦までの乗船券を買う。福浦までは3,460円也。
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 ここからポーラスターで、陸奥湾を北上すると、終点は佐井まで行くのだが、福浦と佐井の間は25キロと長いうえに岬がひとつもないので、その区間はカットした。実は、佐井からの船は、前にも団体ツアーで乗って仏ヶ浦に行ったことがあるのだ。
 で、青森から脇野沢までが55キロ、脇野沢から牛滝までが45キロ、牛滝から福浦までは15キロ。帰りも、福浦から脇野沢までこの船に乗る予定。
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 高速船のポーラスターは、フェリーや連絡船のようにデッキに出たりできない。航行中は客室に閉じ込められる。したがって、船からの岬めぐりも船室の窓越しに、ということになる。
 それなのに、座った後部座席の窓が、飛沫がかかるせいなのか恐ろしく汚い。前部のほうはさほどでもないらしいが、もう窓側の座席は全部ふさがっている。残念! 
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 シィラインのサイトには、下北半島と青森市とを結ぶこの航路について、「生活航路、観光航路、併せて下北半島が原子力半島であることから防災航路としての役割を担ってい」ると書いている。
 防災航路というのは、初めて眼にする。下北が「原子力半島である」というのは、かつては原子力船「むつ」の母港拠点だったことからの歴史を踏まえてのことだろうが、電源開発株式会社Jパワーの大間原子力発電所の工事も行なわれている。ただ、こちらのほうは函館市の工事凍結の訴えを起こしていることに加えて、震災の影響もあって当初2014年としていた運転開始予定は、大幅にズレこんで工事は長期化している。
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 1日2往復のこの航路は、どうやら仏ヶ浦観光の客がメインのようで、生活航路としての利用客は少ないようだ。生活航路としては、やはり車ごと移動できる脇野沢=蟹田のむつ湾フェリー(1,470円)のほうが、利用客は多いのだろう。
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 「八甲田丸」を見ながら港内をくるっと回って向きを変えると、バッコノ崎を横目に、船は北への進路をとる。
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▼国土地理院 「地理院地図」
40度49分57.52秒 140度44分14.47秒 41度19分36.17秒 140度48分23.67秒
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タグ:青森県
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番外:浅虫温泉=青森市大字浅虫(青森県)アサムシってどんな虫って思った人必読そんなん知ってらぁの人はムシしてよし [番外]

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 東北本線時代に何度か「浅虫温泉」駅を通り過ぎ、アサムシってどんな虫なんだろうと漠然と思っていた。今回は初めて青森市営バスでやってきて、帰りは青い森鉄道で青森に引き返した。
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  ここへきて初めて知ったのだが、浅虫はムシではなかった。ムシではなくて、「アサをムス」ことから転じて「麻蒸」→「浅虫」となった名であった。では、なぜ「麻を蒸す」のかといえば、麻の繊維を取り出すためで、それには長時間水につけて発酵させるか、熱を加えるかして、皮を剥ぎ取る必要があったからだ。
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 その筋からしっかり目をつけまわされて、今ではすっかりワルモノ扱いになっている感がある大麻も、もともとは日本人の、とくに木綿が手に入らなかった北の人々にとって、貴重な衣料原料であったから、戦前までは広く栽培していたのだ。ここでは、麻の木から繊維を取り出すための工程に温泉の熱と水を利用していたというわけだが、そもそもそれはいつ頃のことだろうか。
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 いちおう876(貞観18)年に、円仁がこの温泉を発見した、ということになっている。慈覚大師円仁が、開山・再興したと伝わる寺はやたら多くて、関東で209寺、東北ではなんと331寺余もあるとされている。そのうちには、山形の立石寺、松島の瑞巌寺などの有名ドコロもあるのだが、徒歩で一日約40キロを踏破した人だというから、拡大解釈やあやかり組が多いとしても、あながち事実無根とは言えないかもしれない。
 最後の遣唐使船で唐に留学し、苦労して帰国した円仁が旅の記録を残した日記は、日本で最初の旅行記だったとされる。その足跡は北海道にも及ぶというから、浅虫で温泉を発見するなどは朝蒸前…いや朝飯前だったのかもしれん。
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 しかし、Wikipedia がいう浅虫温泉の歴史によると、円仁の発見にも触れているが、麻を蒸したという話をその理由には触れないままに続いて、「1190年にこの地を訪れた法然が温泉への入浴を広めてから、入浴用途にも使われるようになった」としている。ということは、この温泉は発見されてから300年間にわたって、その用途がもっぱら麻を蒸すためにのみ使われてきたということになるが、これはかなり怪しく思える。
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 実は、この温泉の歴史は、浅虫温泉公式ページにもまったく同じことが、しかも念入りに「布を織る麻を蒸すためだけに使われていました」と明記されているので、そういう伝承があることは事実なのだろう。
 だとしても、発見から300年以上もの間、この温泉では入浴が行なわれることなく、もっぱら蒸していたのは人ではなく麻だったことになるのは、いささか腑に落ちない。そう思うのは、でんでんむしだけなのだろうか。せめてもうちょっと、根拠のある史料が示されるとか「なるほど」と思うような説明をしてくれるといいんだけど…。
 日本の入浴習慣は、6世紀にもたらされた仏教の沐浴からとされているので、始めは蒸し風呂だった。これを寺で僧侶たちが修行の一環として、また七病除七福得という利益として広めたといえる。
 したがって、円仁の時代9世紀にはかなり広まっていたはずで、彼がそれを知らなかったとは考えにくい。だから、それからさらに300年経ってやっと法然がやってきて入浴を奨めたというのは、いかに東北の端っことはいえいささか間が抜け過ぎている。
 それに、1190年といえば法然上人(1133〜1212)57歳の頃で、この頃の法然は、対抗する南都各宗派を意識した浄土三部経の講説や問答などで忙しくしており、とても津軽の地まで足を運ぶことはできなかっただろうし、浄土宗のサイトを見てもそういう記録もない。
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 かつては東北の熱海と言われるほどの繁栄期があったことは、Wikipediaでは、「浅虫温泉駅を中心に、大型ホテルや旅館などの宿泊施設約40軒が営業している」としていることからも想像できるが、40軒というのはいったいいつのことだろう。現在の観光協会と旅館組合のサイトによると11軒が登録されているだけだ。
 駅から歩いて海岸に行く間にも、廃業して閉めたままのホテルの建物があった。歓楽街型温泉地としては、もはや立ちゆかなくなり、近年になって急速に衰退したのだろうか。
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 今、浅虫温泉といえば、水族館と道の駅(兼立ち寄り湯)が二大看板である。それでも、温泉の人を呼ぶ魅力は侮れない。団体御一行様用の大型旅館ホテルは、何軒かその威容を示しているし、その広い駐車場には観光バスが何台か停まっている。それを横目に、でんでんむしが選んだ浅虫の宿は、そうした大型旅館に挟まれるようにして、母娘が営む川縁に細長い小さな旅館だった。
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 棟方志功の絵を飾り、千鳥をシンボルにした旅館の横の小川には、いろんな種類の鳥がやってくるのだという。たまたま宿泊客はほかになく、のんびり悠々と個室しつらえの温泉に浸かってくることができた。
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 浅虫温泉が水族館と道の駅のほかにもうひとつ力を入れているのは、海岸の人工砂浜による海水浴場や海釣り公園の整備だったらしい。湯ノ島を中心として、南には善知鳥崎と鼻繰崎、北には裸島という岩島と八大龍王を祀る小山がある海岸は、なかなかきれいだ。
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 験潮場と青森県名産のヒバの木を使ったモニュメントがある海岸のプロムナードをほたて大橋にむかって北へ行くと、青森市から平内(ひらない)町に入る。
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▼国土地理院 「地理院地図」
40度53分37.77秒 140度51分34.82秒
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dendenmushi.gif東北地方(2017/09/04 訪問)
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番外:羽幌ユースホステル=苫前郡羽幌町(北海道)炭鉱があったことは知っていたがアンモナイトは知らなかったよ [番外]

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 「番外:沿岸バス」の項でふれたように、増毛郡増毛町から北へは10の市町村を走って豊富・幌延まで続くバス路線は、天塩・遠別までが海岸線で、その長い沿線のなかでは、羽幌がいちおう真ん中付近でもあり、中心的な存在だとみていいのだろう。沿岸バスの本社も羽幌にあって、本社の建物の1Fもバスターミナルになっている。羽幌にはもうひとつ街の東寄りに「番外:沿岸バス」で紹介したもうひとつのターミナルがある。
 そこが旧羽幌駅のあったところで、ここからは羽幌炭鉱が活況を呈していた頃には炭鉱のための鉄道が、築別川・羽幌川の上流の山に分け入っていた。名前だけは知っていた羽幌炭鉱は、1935(昭和10)年に操業を開始し、良質な石炭を産出することで知られ、町も空前の賑わいをみせていたようだ。それが閉山して鉄道も廃止されたのが1970(昭和45)年で、わずか35年限りの繁栄だった。
 鉱山鉄道に続いて羽幌線も廃止されたが、羽幌港からは焼尻・天売のふたつの島を往復する航路があるので、交通的には今もなお重要なポイントになる。羽幌に泊まって、翌日にこの島へ行く計画だ。
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 初山別の金比羅岬から引き返して、沿岸バスを本社ターミナルで降り、この日の宿である羽幌ユースホステルまで、街をぶらぶら歩く。繁華なところは本社ターミナルの周辺だけで、そこを外れると静かな町並みが続く。
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 歩いていて気がついたが、車道と歩道の縁石がみな削り取られたような跡が痛々しい。横断歩道の白い印もそうだが、これらは冬場に出動する除雪車の活動の跡だ。夏の道で冬の厳しさを思い知らされる。
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 市街地の南の外れに、広い羽幌公園があり、さまざまなスポーツ施設も集まっているようだ。(スポーツといえば、羽幌炭鉱が盛んだった頃には実業団チームもいろいろ活躍していたという。)
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 緑の公園のなかで黄色く目立っているユースホステルは、アンモナイトでも一部には知られていたらしい。羽幌は、石炭ばかりか、日本でも有数のアンモナイトの産出地で、その調査研究のために国内外からたくさんの研究者がやってくるという。そうした人たちの定宿としても有名になったユースホステルの主人は、門前の小僧よろしくアンモナイトに興味をもつようになり、自分で採取した化石が、ケースに陳列してあった。
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 でんでんむしも、らせんつながりで当然それに興味はあり、神保町の書店のフェアなどで買ってきた化石をいくつか持っている。国内のものは規制もあり販売できないので、買えるのは外国産のものだけ。昔に買ったモロッコ産のはゴロンと大きな石の塊だったが、最近小田原の神奈川県立生命の星・地球博物館のミュージアムショップで買ってきたマダガスカル産のは、薄くスライスした石片だった。興味はあるのだが、とてもそのアンモナイトの山までは行けないし、今回は深く追求できない。
 ユースホステル体験は、能登についで二度目だが、今回は相部屋だった。作り付けの頑丈で広めの二段ベッドが二並びあって、ひとつの下段にはどうやら年寄り同士をくっつけたという感じの先客がいたので、こちらはもう一方の上段のベッドを選択する。上段でも座って頭がつかえない高さはあるので、さほど窮屈でもない。昔よく乗った広島=東京間を一晩かけて走っていた「急行安芸号」のB寝台にくらべればはるかに上等。
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 漫画本(いやコミック?ですか)が棚にずらりと並んだ談話室の片側の壁には、手書きまっぷがずらりとつなげて掲示してある。(下に飛び出しているのは天売・焼尻。)
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 これをつくっているのは、留萌駅の建物の中にあったFM局が拠点の留萌観光連盟で、この場合の留萌は留萌市ではなく留萌振興局管内の意味になるらしい。どこの市町村でも自分のところで制作した観光パンフレットもあるが、羽幌町のサイトではこの手書きのオロロンマップもサイトに載せている。その羽幌のマップでは、右上にユースホステルが描かれている。
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 これは、留萌の駅で発見していたのだが、なかなかの特筆モノなのだ。折りたたんで並んでいる青い部分が海を表している。
 なにが特筆モノかというと、えてしてこういうものは各自治体でバラバラにやるので、あったりなかったり、統一はまったくとれていない。このオロロンマップは天塩から増毛までの8つの沿岸市町村を、同一のスタイルでつなぐように設計されている。どのブロックも広げるとA3判の手書きマップをピンク色の国道232号線が横切っている。このユースホステルの談話室の壁では、それをちゃんとつなげて設計通り実現して、幅3メートルの留萌振興局管内のマップを表示していた。
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 無料で配布しているので、どうして成り立っているのかも気になる。広告はとっていないが、飲食店などからの掲載料収入くらいはあるのだろうか、それとも留萌観光連盟の事業費から予算措置がとられているのだろうか。よそのフトコロを気にしてどうする、というところだがこれだけのものでも調べて書いて描いてつくるとなると、たいへんな労力と装置と技術が必要なこともよくわかっているので、つい心配してしまう。
 これだけ広範囲な地域を、これだけちゃんとカバーしたオロロンマップのようなものは、北海道のほかの管内でもあったのだろうか。それともこの留萌管内だけなのだろうか。
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 車でフェリー乗場まで送ってもらい、ふたつの島へ向かう。
(留萌観光連盟制作の各市町村のまっぷは、留萌観光連盟ホームページからダウンロードできます。)

▼国土地理院 「地理院地図」
44度21分6.02秒 141度42分3.97秒
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番外:沿岸バス=苫前郡初山別村字豊岬(北海道)オロロンラインを走る沿岸バスで留萌=豊岬間に乗り帰りは羽幌経由で [番外]

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 沿岸バスのバス停は、要所要所ではビルの一角を借りたり、あるいはそれ以外のところでもいちおう屋根付きベンチ付きの待合所を設けている。
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 留萌の十字街も留萌駅前(といっても駅から少し離れた国道沿い)の停留所も、ビルの一角で、ベンチとトイレと自販機が備えられている。これから80キロ近くも(あるいはそれ以上)バスに乗って行くとなれば、これはありがたいというか、必須でもあるのだろう。
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 そもそもこの沿岸バスは、廃止された鉄道の代替交通機関としてできたものなので、その路線もレールのあったところをなぞっているらしい。
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 留萌を出た沿岸バスが、北へ向かって日本海の北沿岸を走り始めると、ほぼ真っ直ぐに海岸そばの道路がしばらく続く。15キロも走ると大椴川を渡るが、ここまでがこの沿岸に最初に線路が通った区間になる。留萠本線から北へ分岐して、留萠=大椴間が開通したのは、1927(昭和2)年のことであった。以来、この鉄路は、羽幌までそして幌延・天塩・遠別と延びつながっていき、1935〜36(昭和10〜11)年には宗谷本線と接続していた。
 そうして、半世紀を超える歴史を刻んできた羽幌線も、1987(昭和62)年それも国鉄分割民営化直前に廃止されている。露骨というかなんというか、まるで路線廃止の見本かなにかのように、民営化の直前に国鉄の線路として最後の廃止路線となったのが、かつては急行「るもい」や「はぼろ」が走ったこの羽幌線だった。
 こうして留萠=幌延間141.1キロは、沿岸バスのバス路線に転換され、この南北に長い路線バスが走ることになった。
 増毛から北へ、この路線バスが走り抜ける沿岸市町村は、増毛郡増毛町・留萌市・留萌郡小平(おびら)町・苫前郡苫前町・苫前郡羽幌町・苫前郡初山別(しょさんべつ)村・天塩郡遠別町・天塩郡天塩(てしお)町・天塩郡幌延町・天塩郡豊富(とよとみ)町とちょうど10を数える。いずれも、道民にはともかく本土の大半の人にとってはあまり馴染みのない地名ばかりだろうと思われるが、幌延という地名はそのうちみんなに知られるようになるかもしれない。なにしろ、そこは放射性廃棄物の地層処分の実践研究が進められているから…。
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 国道232号線と239号線は、別名オロロンラインの長い北への道中は続く。この沿岸は道路が海岸のそばを走っているが、山側が崖で迫ってくることはなく、明るく開けていてトンネルもない。
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 鬼鹿豊岡を過ぎなおも小平町が続くが、やがて苫前町に入ると、霧がいっそう濃くなってきた。苫前は大きな地図でもちょっとした出っ張りが目立つ場所もあって、港と灯台のある丘があるのだが、そこには岬がない。沿岸の岬は、羽幌町にもないので、次は初山別村の金毘羅岬までない。金比羅岬の先にもない。
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 往路では霧で何も見えなかったが、復路のバスからは苫前のグリーンヒルウインドパークという風力発電の風車が立ち並ぶところや鵜が羽根をやすめるロウソク岩がある。
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 今回の岬めぐりのポイントのひとつでもあった、天売・焼尻の島から帰ってきたときに、立ち寄ったのが沿岸バスの羽幌ターミナル。ここは旧国鉄の羽幌駅と鉱山鉄道の駅があった場所らしく、広い敷地をゆったりと使っている。その昔は羽幌の炭鉱から石炭を積み出す貨車がひしめいていたであろう旧構内は広い公園になっていた。
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 羽幌駅のあったことを示す、草花に埋もれた歌碑は「数多き 思い出乗せし 羽幌線 昭和とともに名残り惜しまむ」?と読める。昭和2年から昭和62年だから、確かに昭和とともあった鉄道だった。
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 帰りに、初山別から羽幌まで、羽幌から留萌まで乗った沿岸バスは、来るときの観光バスタイプではなく、普通のバスで途中で乗り降りする人も多かったので、長距離移動のためでなく生活路線としても充分に機能しているらしい。それでも経営は楽という訳にはいかないので、先に「番外:増毛」の項で紹介したようなお願いになるのだろう。
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▼国土地理院 「地理院地図」
44度33分48.46秒 141度46分26.30秒
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番外:増毛=増毛郡増毛町弁天町(北海道)鉄路も連絡船もなくなった街では次にどんな風を待つのか [番外]

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 高速バスを含めると札幌から幌延・豊富という長距離をカバーしている沿岸バスには、これからの西海岸の岬めぐりではずっとお世話にならなければならない。その手始めにまず、留萌=雄冬間の留萌別苅線に乗っている。そのサイトのトップページでは、シンボル・キャラクターらしい萌えっ子イラストとともに、以下のような文言が並んでいる。

鉄路は無くなったけど私たちは元気です。また遊びに来てくださいね。
【お願い】
 全国には、存続が危ぶまれるなか、自社努力や国や都道府県、沿線自治体等からの公的な補助、お客様の温かい支援等をもって維持する公共交通が数多くあります。身近な鉄道や路線バス、船(フェリー)を将来にわたって維持するために、積極的なご利用をお願い申し上げます。
 
 公共交通機関網を、なんとか守るためには、結局みんながたくさんひんぱんに利用するしかない。一度だけやってきて一度だけしか乗らない通りすがりでは、たいしたことにはらないが、沿岸バスで小雨の増毛を二度通過した。
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 テレビCMでもよく見かけるこの二文字。それとはまったく関係のない「増毛」もアイヌ語源で「かもめの多いところ」という意味の「マシュキニ」「マシュケ」が転じたもの、と町のサイトでは言う。
 なぜどのくらいカモメが多いのか。別に野鳥の会のように目視で数えて実態調査をしたわけではなく、ニシン漁が盛んだった頃のイメージからなのであろう。
 1706(宝永3)年に松前藩士が知行したところから、和人の記録に表れるこの地は、それから約50年後に増毛場所ができて、本格的な和人の定着が始まっている。
 ニシン漁のもたらす繁栄を基礎に、幕末には沿岸警備の要衝として、明治期には交通網の整備が急速に進んで、鉄道と港湾とを結ぶ拠点として重きをなした。
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 つい先頃廃線になったばかりの留萌=増毛間の鉄道の名残りは、この岬めぐりの計画を立てる段階では、まだMapionには、堂々と白黒の鉄道軌道の記号線がしっかりと描かれたまま残っていたくらいだった。
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 その線路は、留萌からずっと海岸沿いを走っていたらしいが、波型に凹凸が曲線を描く海岸の、凹の湾岸を辿って港の北寄りに終点の増毛駅があった。線路の陸側は40メートルくらいの小高い丘が北に伸びており、その丘の北と西側に町が広がっている。
 凸の部分の町並みのつくる海岸線も特徴があって、こういう海岸線はなにか八方破れの無防備なような感じがしておもしろい。
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 国道から外れてバスが市街に入って行くと、なにやら歴史を感じさせる建物もある。町では、鉄道がなくなった後、主に往時の繁栄を偲ばせる大正期の町並みを復元させて売り出そうとしているようだと、後で運転手さんが教えてくれた。
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 増毛駅の建物もなくなっているが、それも復元する計画もあるらしい。留萌からのバスには、数人の乗客もいたが、みんなここで降りてしまった。観光目的で来る人も、それなりにあるらしい。こちらはバスから降りないで、通り過ぎるだけだから、たいして書くこともないし、写真もほとんどない。
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 だが、誰もがこの街から連想で思い浮かぶのは、『駅  STATION』ではなかろうか。
 1981年に製作されたこの映画は、個人的にはみんなが絶賛するほどの名作とも思えないのだが、いくつか印象に残るシーンがあって、それで忘れない映画のひとつである。
 円谷選手の手紙のナレーションとか、大晦日の夜居酒屋で紅白の「舟唄」が流れる場面とか、小さな駅の改札口と雪の町の間を出入りする人々とか、駅前の角に建つ食堂の佇まいとか、増毛から雄冬へ向かう連絡船が欠航だと言う場面などが、断片的に記憶に残っている。
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 そのロケに使われた食堂は残っていて、今も角に建ち観光協会が使っているというが、なんか映画の印象とは雰囲気が違う。「風待食堂」という同じ看板も掲げているが、なんだか、すごく違う。
 ナニが違うと感じる要因なのか。もちろん、周囲の建物や、道路などがきれいに新しくなっているのは当然だが、それだけではない。
 写真をネットで探してきて比較してみて気がついたのは、角に電柱があるかないか、その違いだった。
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▼国土地理院 「地理院地図」
43度51分21.35秒 141度31分29.46秒
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番外:岩見沢から留萌へ=岩見沢市五条西 留萌市栄町(北海道)函館から数えると留萌までは約450キロJR北海道 [番外]

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 島牧村の岬をいちおうバスで行けるところまで行って、また寿都に引き返してきた。前述のとおりここで時間があったので、湯別の温泉施設で休憩し、最終のバスで黒松内に戻り、函館本線で三度長万部駅に帰ってきた。
 何度にも分けて、4回(このうち鵜泊線の1回は前に済んでいたので、今回分は3回)も行き止まりのバス路線に乗って行ってはまた終点で折り返し…ということを重ねて、とにかく、これでやっと檜山の岬めぐりは完了となった。
 日も暮れて夜になったが、この日のうちに少しでも北上しておこうと、長万部から室蘭本線(と千歳線)で札幌まで行き、札幌から函館本線に乗り換えて、岩見沢の駅前近くのホテルに着いたのはもう23時を回っていた。
 当初計画では、札幌で一泊と考えていたが、この日は土曜日の夜だったためか、どこもホテルが満室でとれない。おまけに、外国人観光客も多いため、バブル状態になっているのだろうか。札幌駅周辺のホテルはやたらに高いので、あまり泊まりたくもない。
 それなら、札幌は素通りしてもっとできるだけ北上しておこうと、岩見沢までやってきた。今や札幌のベッドタウンとなったらしい岩見沢方面へ行く土曜の夜の最終電車は、途中の江別を過ぎるまで超満員状態だった。旭川方面へ行く途中で通過することはあっても、ここで降りるのは初めてだ。
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 石狩平野の北東に位置する岩見沢は、北海道開拓の初期の段階から道路ができ宿ができ鉄道が通って駅ができ開拓者が定住して…そうして発展してきた街という点では、まるでアメリカの西部開拓史を地でいくような道筋を辿ってきたようだとも言える。
 それらすべてが、1878(明治11)年から5〜6年くらいの間に起こっている。開拓の中心となったのは、本土各地からやってきた旧士族とその家族であったという。
 未開の地にまっすぐな道路をつくり、まっすぐな線路を敷き、条里制の街をつくってきた岩見沢の名は、めずらしくアイヌ語源ではない。なんでも、開拓者が休泊所で浴(ゆあみ)をした、というところから転訛して定着した名だという。
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 ばんえい競馬のソリを引く馬ばんばがホームにいる岩見沢駅は、駅舎も近代的な建物でエスカレーターで橋上改札へ行き来するという、最近流行りというか、あちこちでよくある方式で、駅前もきれいに整備されている。それは、2000年の火災で旧駅舎が全焼し、その後に再建して間もあまり経っていないからなのだろう。なんとなく、規模はより大きいが旭川とも雰囲気が似ているような印象を受けた。
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 美唄などの炭鉱が近くにあったこともあって、岩見沢は鉄道輸送の中心地ともなっていた時期もある。室蘭本線が苫小牧から千歳線と分かれて、岩見沢につながっているのは、その名残りとも言える。
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 翌日は、始発に乗って深川まで行き、そこで留萌本線に乗り換える。
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 ここを走る函館本線の普通電車は、3つドアで車両の中央部の出入口に車内ドアがある。冬の防寒対策なのだろう。線路が走る西側は、石狩川が蛇行しながらいくつもの三日月湖や沼池をつくり、南北に流れる一帯は水田と低湿地帯が広がる。石狩川の右岸には、札沼線という鉄路も走るが、これが滝川の手前で突然終わる。
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 滝川から東へは、根室本線と空知川が分かれていき、函館本線が旭川に向かって方向を変える深川から、留萌本線が北西の山を越えていく。
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 雨竜郡沼田町字恵比島から、100メトールほどの恵比島峠をトンネルで越えると、留萌市大字留萌村の峠下に降りる。
 ここから留萌本線は、国道233号線と留萌川とともに下っていくが、いくつかの無人駅を通りながらのこの付近の趣も格別のものがある。終点留萌駅のひとつ手前の大和田駅でも、こんな感じ。
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 1910(明治43)年に深川=留萌間が開業した国鉄留萠本線は、1921(大正10)年には留萠=増毛間が延伸されてきたが、その16.7キロ区間が2016(平成28)年暮れに廃止されたばかりだ。これで、50.1キロとなった留萌本線は、日本一短い「本線」となった。
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 昨夜の長万部から、途中岩見沢で一泊して、留萌までやってきた。函館北斗から数えると、札幌までは約300キロ、106.6キロ、それに留萠本線の50キロを足して、計JR北海道内450キロになるので、これだけ乗れば、まあ「JR北海道フリーパス」の意味もあっただろうか。
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 留萌という地名は、随分昔から聞いていて、いちおうはその位置関係とともにインプットはされていたのは、昔の職場の先輩に留萌出身という人がいたからだ。だが、実際に降り立ったのは、今回が初めて。
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 留萌に着いた時から、雨が降り出してきた。そこでまた、まず黄金岬へ行く予定だった計画を変更して、まずは雄冬方面へ行くことにした。
 ここから南の雄冬までと、ここから北の羽幌・初山別へと続く岬めぐりは、行動順ではなく、南から北への順で掲載となる。そのほうが、位置関係が混乱しないだろう。

▼国土地理院 「地理院地図」
43度12分8.72秒 141度46分2.66秒 43度56分31.66秒 141度39分7.77秒
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番外:せたな町から島牧村へ=黒松内町字熱郛(北海道)再び長万部へ戻って今度は黒松内・寿都経由で島牧の海岸線を行く [番外]

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 第二富磯から折り返すバスに乗って、北檜山まで戻り、そこで長万部行きの函館バスに乗り換える。きた道を引き返すわけだが、18:40発のそのバスが最終バスとなる。
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 このバスには、檜山北高校からたくさんの生徒が乗ってきて、バスは満員状態になった。金曜日の放課後の部活を終えて帰る生徒たちを、学校の構内に設けられているバス停まで、先生が3人も見送りに出ていた。それでも「さよなら」の挨拶もなく、黙ってバスに乗り込んでいくのも今風なのだろう。それとも、個々に挨拶を交わすのはめんどくさいというので、バスが来る前にまとめて挨拶は済ませているのだろうか。
 多くは今金で降りるが、もうあたりがすっかり暗くなる国縫で降りた子がひとり、最後の長万部駅前まで降りない野球部の子もひとりいた。これを毎日通うのは大変だろう。
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 ひととおり懸案だった毛無山沿岸と、三本杉から茂津多岬にかけての間は、なんとかこれで終了。
 長万部で温泉に浸かって、翌朝また早朝の長万部駅まで。毛ガニと東京理科大がセットになった柱が立つ駅前は、いっそう静かでまだタクシーもきていない。その脇に置いたような白い箱は、この北海道あちこちで見かけたキャンピングカー。いかにも、団塊世代とおぼしき夫婦が、駅前のトイレに用があって停めているらしい。
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 前日はこの駅前で、温泉街へ行くのに、長万部町と長万部観光協会が立てたこの案内看板のおかげで、ちょっと混乱した。出入り口がひとつしかない長万部駅の正面は南東方向に向いていて、出て正面が海に向かっている。ところが、駅前にこれひとつしかない案内板は、海が下のほうに描かれている。地図は北が上という原則論は、こういう観光案内図の類で振り回す必要はないと思うのだが、この図だと、駅の方を向いて広場を背にして見るのが適当で、設置場所を間違えている。
 せめて、看板を見ながら立っている人の、視線に合わせるくらいの配慮はしてほしいものだ。こういうことは、看板を描くつくる人も描かせつくらせる人もまったく、その目的を理解していないようなもので、こういうことが平気でまかり通るのも、まだまだ世の中に意外に多いものだが、町と観光協会がこのありさまではね。
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 函館本線の始発で長万部からまず黒松内まで行く。始発電車は06:00発の小樽行きなので、宿で朝食をとる時間もない。なにしろ、この次の便ときたら13:18発の倶知安行きまでないのだから、しかたがない。こういうダイヤだから、函館「本線」なんてのは明らかに名前負けしている。
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  長万部からは直接、黒松内・寿都へ行くバスも、あることはあるのだが、午前と午後の日に2本しかない。だが、黒松内まで行けば、そこから出る寿都行きが 朝・昼・夕と3本あり、寿都へ行くにはこれに乗るしかないのだ。そして、島牧村へ入るには、まず寿都まで行かなければならない。今度は、もう函館バスではなくて、ニセコバスになる。
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 長万部から黒松内までは、一両のワンマンカーで30分もかからない。途中なかなか深い森を抜けるのだが、黒松内はブナの北限としても知られている。その北限が北へ移動しているということも、前に書いたような気がする。前回もこの駅にはやってきていて、駅前を突き当たったところにある小間旅館に泊まった。
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 その時にもそして今回も、なんとかそのブナ林のそばくらいまで行けないかと、あれこれ努力はしてみたのだが、結局車の利用者以外は来るな、と言われているようで果たせない。
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 このルートは、渡島半島の付け根あたりを南北に縦断するもので、ここにも昔には鉄道があった。
 わが国でも、国鉄が全国を制覇する前には、各地で民営の鉄道が多く走っていたもので、多くは乗合馬車が走っていたところが、鉄道に変わった。函館本線の黒松内駅から寿都町の寿都駅まで、16.5キロの営業路線があった寿都鉄道もそのひとつであった。
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 北檜山と国縫の間の線路は、国鉄からJRへの移行と同時期に廃線になっていたが、ここを走っていた寿都(すっつ)鉄道は民営の鉄道で、瀬棚線に先立つこと10年余前に廃線になっている。開通したのは、寿都鉄道のほうが9年ほど早いから、どちらの線路も10年ずれながらほぼ同じ長さの期間だけ、境界線を描く狩場山山塊を挟んで北と南でそれぞれ走っていたことになる。
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 なぜ、ここに(こんなところに…と言っては失礼だが)鉄道があったのだろうか。
 それは、寿都には最初には金銀も採掘した銅や亜鉛などを産出した鉱山が、1893(明治26)年から1962(昭和37)年まで稼働していたことと、ニシン景気に沸いた町でもあったからだろう。
 そして、同様に鉱山とニシン景気で栄えていた鉄道が、もう1本寿都鉄道の北で半島を15キロの線路を敷いて、やはり函館本線に接続していた。それが岩内と共和町小沢の間を、1912(大正元)年から1985(昭和60)年まで走っていた国鉄の岩内線である。寿都鉄道もなんとかこのなかでは先輩格の岩内線に接続連絡することで存続を夢見ていたようだが、それは果たせず、1968年朱太川の氾濫で線路が流され、ついに運行休止に追い込まれた。
 瀬棚線、寿都鉄道、岩内線と、渡島半島北部で同じように函館本線から西の日本海と結ぼうという鉄道が3本もあり、南の江差線と合わせて計4路線も走っていたわけだ。
 そのうちでは、いちばん長く、いちばん遅くまで走っていたのが1913年開業の江差線で、民営化後の2014年に廃止され、とうとう半島を東西に結ぶ鉄道はまったくなくなってしまった。思えば、江差線だけは廃止のだいぶ前、2007年に乗っていたのでこれも貴重な体験となった。

 156 相泊岬=檜山郡江差町字柏町(北海道)あれからニシンはどこへいったやら〜
 
 岩内線と寿都鉄道の後を受け継いだのが、ニセコバスなのだ。こうして、鉄道の夢の跡を辿るニセコバスは、一路黒松内から北の寿都へ向かって走り、寿都のバスターミナルからは、島牧線に乗り換えて島牧村の海岸線を西へ進んで行く予定だ。
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▼国土地理院 「地理院地図」
42度41分15.85秒 140度18分16.85秒
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dendenmushi.gif北海道地方(2017/06/30 訪問)

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