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61 (追加)月島再開発=その2。月島一丁目で進む新たな再開発。あの祠は帰ってくるのだろうか [月島界隈]

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 月島を離れてもう9か月になるのだが、なじみの理髪店にはわざわざ通っている。そうしてたまに月島界隈を歩こうと思ったのだが、いつも地下鉄の駅と理髪店の往復だけで終わっていた。
 11月末にきた「ブログレポート/10月分≪後編≫」では、「過去3カ月間でアクセス数の多い記事ベスト3」の“1位”が、意外にもなんと「14 月島の大規模再開発。昔「東京エースレーン」というボウリング場があったところが…」(2011-01-21 記)であった。
 この項もそうだが、「月島界隈」は全部が個人的な備忘録のようなもので、なにも重要なことや話題性があるような内容ではまったくない。
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 それとベスト3には入っていなかったが、これと同様にやはり前々から「なんでアクセス数が多いんだろう?」と疑問に思っていたのが、「31 月島一丁目でまた再開発。じわじわと消えていく運命にある月島の長屋と路地は」(2011-02-07 記)の項である。
 この項については、11月の9日に、路じうら小僧さんからいただいたコメントで、月島一丁目でここに書いたのとは別の再開発プロジェクトが動き出したことを知った。
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 路じうら小僧さんもそうであったように、この新しい一丁目再開発計画について知りたい人が、検索でこの二つの項目に辿り着いた、そのためにアクセス数が多くなっていたのだろう。
 そうだとすると、これらの二項目はそれ以前に書いたものなので、探してきてみたけど内容はなにも知りたいことには応えていなかったことになり、申し訳ないことだった。
 理髪店の主人とのとりとめのない(しかしあまり立ち入らない)ご近所話…。
 ところで、晴海大橋の袂に、新しい高層マンションができ、石川某という若いプロゴルファーがその宣伝をしているよね。あそこ辺だと日常の買い物はどうすんでしょうね、晴海トリトンでは間に合わないから豊洲まで行くのかなあ。いや、勝どきのツインタワーのように、マルエツでも入るんじゃないですか。広域避難場所に開放するようにはなっているのかねえ。
 そういえば、月島機械さんが佃をたたんで晴海に移転すると、近所の町内会なんかにはご挨拶があったそうですよ。へー、あそこは四丁目にも分室があったけど、あれはどうすんでしょうね。月島機械が佃機械になって、今度は晴海機械かあ。最初は、この月島第一小学校のところにあったんですよ。
 へー、そうだったのか。それは、知っていたような知らなかったような。書いたような書かなかったような…。
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 そうそう、一丁目で新しい開発が始まったんですか。もう取り壊し終わってますよ。サマリア病院のとこだけまだ残っていますけどね。あそこも取り壊して、なんでも53階かなにかの高層と中低層の二棟できるらしいですよ。病院はそっちのほうに入るんでしょうかね。
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 じゃ、同じ一丁目でもフジマートの裏のとこはどうなったんですか。あそこは、立ち退きがまだ遅れているのか、あのままのようですよ。エースレーンの跡地もそのままですし…。
 帰りに、ひさしぶりに有楽町線の月島駅まで歩いて行くと、大きく広い白い壁が、タイルの歩道からきっちりとめぐらされていた。「清水建設」とデベロッパーの名が記されている。
 中央サマリア病院の前後、現在の塀の写真(横位置)と、昔の写真(縦位置)を並べてみたが、とくに場所を限定して対比しているわけではない。
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 ちょうどこの再開発区域の南端の角には、めし屋があって、その角に小さなお稲荷さんかなにかの祠があった。このめし屋の外壁も祠も、何年か前に新しく模様替えしたはずであるが、そのどちらももうない。
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 祠のあった角だけ、緑のテープを巻いた柱があってちょっと囲いが残してあるようなのだが、高層マンションができても、あの祠はまたもっと立派になって帰ってくるのだろうか。この信号のところには、よく移動式の八百屋さんが車の荷台に野菜や果物の箱を積んで店開きをしていたが、この日も同じように店開きをしていた。
 祠の角から南の、フジマートやお風呂屋さんか旅館だったようなどこかの宗教の教会のあるブロックは、この開発からは外れている。清水建設は、まだここにどういうものができるのか、その姿を見えるように示してはいないようだが、いずれ販売業者が入るとこの白い塀に情報が示されるのだろう。晴海通りにまた新たな高層マンションができると、月島のイメージは随分変わっていくだろう。
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 路じうら小僧さんのコメントにもあったが、アイマークタワーのいくらかは、ここに新しく立つ高層マンションによって日陰になってしまう可能性もある。月島で最初(だったと思う)の高層マンションができるときにも、その北西側に隣接して日陰になる保育園のこどもたちの保護者などによる反対運動があった。どういう配慮がされたのか知らないが、とにかくアイマークタワーはできた。そして、今度はその住人が日照権だとかいって文句をつける。
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 そういうことを、何度も何度も繰り返しながら、月島もいつかはマンハッタンのようになっていくのだろうか。
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dendenmushi.gif(2011/11/30 記)

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タグ:月島
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番外:【月島界隈】01〜60■Link List [月島界隈]

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 2011/01から05まで、短期集中連載が完了しました。カテゴリや検索で探すのは、一覧性がなくて不便につき、リンクボタンつき全項目リストを掲載しました。

01 月島川の朝。今朝もまたいつもの朝と同じようにして 2011/01//08
02 月島川緑の散歩道(南東側)。運河の岸に沿って細長い遊歩道がある
03 清澄通り。月島の中心を貫く4車線の広い道を初めて歩いたのはもうかれこれ…
04 月島橋。清澄通りが渡るこの下を都営地下鉄大江戸線が走っている
05 大震災の慰霊碑。橋の袂でひっそりと「横死」の二文字がとくに胸を打つ
06 月島川。北西の隅田川と南東の朝潮運河を結ぶ運河はサクラの季節もいい
07 遊歩道の南西側。月島橋から西寄りには両岸に散歩道があり親水護岸になっている
08 千羽丸。毎日お仕事に出かけて行く船たちは中央区土木部と関係があるのだろうか
09 月島の歴史=その1。月島一号地ができる前はここら一帯は浅瀬の広がる海でした
10 月島の歴史=その2。月島の築島はこうして始まりこうしてできたが初めのうちは…
11 西仲橋。月島と勝どきを結ぶもうひとつの橋はもんじゃ通りの南の端の橋
12 ご存知屋形船。月島川には金子丸・あら川丸・佃折本などと屋形船の乗り場もある
13 月島川水門。ここで隅田川とつながっている狭き門のところまでが「月島一号地」
14 月島の大規模再開発。昔「東京エースレーン」というボウリング場があったところが…
15 わたし児童遊園。「わたし、あなた」じゃなくて「月島の渡し」があったところ
16 隅田川。月島が造成されたことで隅田川も下流に向かって延長されていったわけで
17 月島の歴史=その3。渡しから橋へ月島がつながるのは明治36年の相生橋が最初
18 サンシティ銀座EAST 。これがあの“エアロール”なのか“高齢者マンション”という名の…
19 月島第一小学校前バス停。清澄通りの南交差点にできた手拭い屋さんの佇まい
20 月島第一小学校。100年を超える歴史をもつこの小学校では6年生より1年生のほうがだいぶ多い
21 晴月橋。晴海と月島を結ぶ橋だから晴月(せいげつ)橋というわけだが船はいなくなった
22 月島四丁目バス停。狭い一方通行の通りの周囲は比較的古いマンションが多くて
23 朝潮橋。月島と晴海を結ぶもうひとつの橋を渡ると幼稚園から老人ホームまでが揃っている
24 朝潮橋西詰にあるお堂。神社でもなくお寺でもなく名もなくいわれや由緒を知る人もない
25 再び月島四丁目バス停。でんでんむしがバスにこだわるにはワケがあるといっても格別なことじゃない
26 月島第一公園。なんとなく違和感のぬぐい切れない公園の典型のような気もする
27 月島区民センターにある月島図書館。ここは石田衣良の“ご当地小説”の舞台でもある
28 月島の中心と三丁目バス停。月島に縁のあった人や月島を書いた人を「探見」したページを発見
29 地下鉄月島駅地下通路。L字型地下道の10番出入口は駅からいちばん遠く離れて
30 マテバシイの並木とフジマート。短いけどめずらしい並木の横の食品スーパーは日曜日大人気
31 月島一丁目でまた再開発。じわじわと消えていく運命にある月島の長屋と路地は
32 旧月島警察署西仲通交番。現在は地域安全センターだが、平成19年頃までは「日本最古の交番」だった
33 西仲通り商店街(もんじゃ通り)。三角屋根?アーケード通りは月島のシンボル
34 月島もんじゃ焼き屋。こどもの駄菓子から始まって今や東京のメイブツになったとはいえ…
35 月島三丁目児童遊園。1−1は公園として残した知恵は今思うとなかなか偉大であった
36 月島の隅田川テラス。スーパー堤防ではないようだが高い堤防が月島を守っている
37 月島の「川向こう」。堤防を階段で越えると正面に見える隅田川右岸は江戸の出島だった
38 今日の東京マラソンも月島を通る。だがもう引っ越ししたので見物できない
39 佃大橋。東京オリンピックのときに大急ぎでつくったが斜めになっているのはそのせいではない
40 旭倉庫と月島機械と。佃大橋の工事で佃の南西の堀は埋められてしまったので
41 初見橋とはどこのこと。地下鉄月島駅の上にあるムーンアイランドタワーは月島一高い
42 佃小橋。昔の四角い佃島を取り巻く堀に架かる小さな赤い橋とその下に注目
43 佃天台子育地蔵尊。なぜこんなところにこんな不可思議な空間が生まれたのだろう
44 佃煮と佃島と。そのそもそもの由来にははっきりしないことも多いのだが
45 月島の歴史=その4 佃の祭りの前に震災や空襲のこともちょっとだけ書いておかないと
46 住吉神社。全国に600もある住吉神社のひとつだが佃のはちょっとめずらしいこともある
47 住吉神社例大祭。ことしは3年に一度の祭りにあたるがあの大幟がみられるのかどうか
48 石川島と佃公園。人足寄場があった石川島は明治以降は造船基地だったがいまはその名もほとんど残っていない
49 中央大橋。レインボーブリッジと同じ日にひっそり(?)と開通したへそまがり大橋
50 佃・月島の北端の岬。隅田川を分ける先っちょから永代橋を望むと
51 消えてしまった石川島。いうなれば佃島に庇を貸して母屋をとられたかわいそうな島なの?
52 相生橋。…といえばどうしても広島を想ってしまうのだが元来はおめでたい名前なので
53 「海水館跡」って。一部では有名らしいここもかつては景勝地であったというがその面影も何もない
54 朝潮大橋と月島二丁目。日本ユニシス本社への通勤路は水門を見ながら朝潮運河を越える
55 豊洲。23区でいちばん新しい街がどんどん成長していくのを眺めるのもおもしろい
56 晴海大橋。「大橋」にもいろいろあるがこれは確かに大きいしまずほとんど人がいない場所
57 晴海トリトンスクエア。たくさんの思い出も残してくれた場所だが近年停滞気味で気になる
58 勝どき。大江戸線が90度にカーブして方向転換する上では新しい高層マンションも続々と
59 勝鬨橋。この橋を渡るときいつも頭をよぎることはたとえば1940年のこんなことなんかで…
60 月島展望。東京都中央区(2003)聖路加タワー展望室からみた月島界隈

dendenmushi.gif(2011/06/01 記)

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60 月島展望。東京都中央区(2003)聖路加タワー展望室からみた月島界隈 [月島界隈]

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 月島から隅田川をはさんで対岸に聳える、聖路加タワーの47階に、南に向いた無料の展望室があった。このタワーには、東京電力の豪華保養所もあると、どこかで読んだような気もするが、ここの広くて高い窓越しに、月島界隈が見事に一望できる。
 2003年にここから撮った写真があったので、これと現在の写真を比較して並べて見て、この短期集中連載の締めくくりにする計画であった。ここ数年の間に、たくさんの大きな建物が建っているので、おもしろい比較になるはずであった。
 ところが、なんとこの展望室が閉鎖になっていて、現在の展望写真が撮れなくなってしまった。地震とは関係がなく、去年の秋から閉鎖しているのだという。
 残念なことだ。閉鎖の理由が、落書きやいたずらやゴミなどを散らかして行く不心得者があとを経たないからだという。よけいにますます残念だ。
 ここは、もとはレストランの入り口も兼ねていたので、そんな様子はまったくなかったのだが、そういえば最近そのレストランにも行っていない。あるいはレストランがなくなって、荒廃することになったのだろうか、と思ってみるとレストランはやめたわけではなかった。
 以前のことを考えると、その閉鎖の理由は表向きで、もっと別のところにあるのではなかろうかと、思ってしまう。
 いずれにしろ、少数の不届き者のために、この世の中は簡単に後戻りしてしまう。それにしても、残念だ。
 窓の向きから、佃方面が映らないが、月島界隈で取り上げた場所は、だいたいこの範囲である。しかたがないので、2003年の写真だけで…。現在では、このエリアだけでも、ここに写っていないタワーが、8本ぐらいは増えているはずである。
 月島の南端から始めて、月島、佃、豊洲、晴海、勝どき…と回って、勝鬨橋が最後の「月島界隈」も、これでいちおう終わりです。
 このあと、番外をはさんで、また本題の『岬めぐり』に復帰します。 tukishimaT01.jpg

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dendenmushi.gif(2011/05/27 記)

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59 勝鬨橋。この橋を渡るときいつも頭をよぎることはたとえば1940年のこんなことなんかで… [月島界隈]

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 1940(昭和15)年という年は、その後たくさん観た西部劇の原形ともいえるジョン・フォードの『駅馬車』が日本公開された年であり、隅田川の最下流に架かる可動橋「勝鬨橋」が開通した年であり、でんでんむしが生まれた年ということにもなっている。
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 この翌年の暮には、いよいよ太平洋戦争に追い込まれていくわけだが、その3年前から当時は“支那事変”と呼んでいた戦争は始まっていた。“事変”といっていたのは、宣戦布告がないままに拡大したからだが、今では言葉で真実を誤魔化そうとしていたともとれる日中戦争は、もはや抜き差しならぬところまではまり込んでいた。
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 だが、そんななかでこの年の紀元2600年のお祭り騒ぎは、国を挙げて全国各地でさまざまな行事が盛大に繰り広げられていた。その年に生まれたのに、“キゲンハニセンロッピャクネン~”という奉祝歌を、そのサビの部分だけだが幼年の頃口ずさんでいたという記憶があるのは、それくらいこの歌が広く歌われたということであろう。全国民が提灯行列をして練り歩いたのは、これから国を覆う暗雲が拡大するのを無意識のうちに予感して、派手に騒げばそれを振り払えるとでも思いたいための、空騒ぎだったのかもしれない。
 当時は“神話が史実”であったから、誰しもその実在を疑っていなかった(疑うことなど許されなかった)神武天皇が即位し、国を開いてから2600年の節目に当たるというので、そのための盛大なイベントがいろいろ計画されていた。
 世界的なイベントといえば、当時からやはりオリンピックと万国博覧会であった。ナチスドイツも、ベルリン・オリンピックをプロパガンダのためにおおいに利用したという先例があったばかりだった。
 ついでにいうと、映画史に残るリーフェンシュタールによってつくられたその記録映画『民族の祭典』が公開され、キネマ旬報の外国映画ベストテンの第一位となったのも1940年。
 大日本帝国もナチスに倣って、この祭りにオリンピックと万博をあわせて、国威発揚に努めたいという思惑があったのだろう。オリンピックと万博を一緒にやろうというのは、盆と正月が一緒に来るようなもので、今風にいえば「あり得ない」ような計画であった。
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 結論から言えば、戦争の雲行きが怪しくなってきて、さすがの軍部もそれどころではあるまいと反対に回ったため、2年前になって計画は中止となり、盆も正月も両方こなくなってしまう。
 その万博の会場として予定されていたのが、当時の“月島四号地”、つまり晴海地区で、実はこの勝鬨橋は、万博会場への実質的メインゲートとして計画・架橋されたものであった。
 そのため、設計から施工まで外国に頼らず、すべて日本人の手によってつくることでその技術力を世界に誇示すべく、新興国日本の風格と格式を表わすものでなければならなかった。だが、架橋は一時のお祭り騒ぎのためにのみ計画されたわけではない。石川島造船所をはじめとして、多数の工場なども多く集って住民も増えていた月島地区との交通路が、相生橋一本では足りなくなっていたので、実用的な要請のほうが強かった。そのため、万博は中止になっても、橋の建設だけは続けられ完成した。
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 この橋ができる前には、ここには「かちどきの渡し」という渡し船が往来していた。なぜ「勝鬨」なのかといえば、その渡し自体が、1905(明治38)年に“旅順陥落祝勝記念”としてできたものだからである。なんと、日露戦争の“かちどき”だったのである。
 「東洋一の可動橋」と呼ばれ、橋桁の中央部が「ハ」の字型に開くようなしくみになっていたのは、当時の隅田川の海運が盛んだったことを示している。橋には路面電車用レールが敷設されていたが、実際に電車が走ったのは1947年から1968年までの間で、でんでんむしも一度くらいは都電で橋を渡ったはずである。一日三回開いていた跳ね橋も、船の航行が減る一方では車の通行が増大し、1970(昭和45)年に試験的に開いたのを最後に、開かずの跳ね橋になっている。今も、中央部の塔屋には信号機が残っている。
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 橋の袂にあるささやかな資料館を見学すると、この橋のしくみもよくわかる。跳ね橋の錘が格納されている真ん中の橋脚の中に入ることができる見学ツアーもやっていたが、結局これには参加できないで終わった。
 橋の歩道と車道を分けるアーチの下部には、勝鬨橋が開くときの様子を時系列に示す鉄製の飾り(透かし彫りのような)がはめ込まれている。bkachidoki13.jpg
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 資料館の反対側対岸にある「デニーズ」に行くと、勝鬨橋を再び開くようにしようという運動をしている団体の機関紙のようなものが置いてあったりする。だが、跳ね橋を開くのは、もう電源も喪失(この表現が馴染むようになってしまった)しているので、ムリであろう。
 「デニーズ」で思い出したのは、ディズニーがつくった世界最初の長編漫画映画『白雪姫』のことである。アニメという言葉はまだ使われていなかったが、これも映画史に残る傑作であった。この映画は1940年ではないが、日本の軍隊が大陸に突き進んでいく頃にはすでに完成していた。ところが、アメリカと戦争をする日本とドイツでは、すぐに公開されることはなかった。日本人とドイツ人が『白雪姫』を見ることができたのは、それから13年も経った1950年になってからだった。
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 「デニーズ」のあるイヌイの建物は、昔は屋上にイヌイ倉庫のマークをつけていたのだが、今では伊達政宗の兜の月ほど細くはない三日月をのっけている。イヌイ倉庫のホームページには、勝鬨橋周辺の変遷がわかる古い写真などもある。だが、この月のモニュメントの説明はなかった。
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 晴海通りの南側もイヌイ倉庫のビルで、高層の賃貸マンションが工事中の頃の写真もあわせて見ると、月島第二小学校の時計台は、少し前までは勝鬨橋とセットで写り込んでいた。
 隅田川の河口からほぼ1キロほどの位置にある勝鬨橋の右岸南には、築地市場が展開していて、ここにもランチでときどき行ったものだ。
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 また、“幻の晴海万博”に戻るが、これも計画倒れで終わったというようなものではなく、かなり本気でやるつもりだった。6年前に「月島図書館だより“MONJA”」で知って、「へぇー」と驚いたことがあった。それは、この万博の前売り券をなんと“100万冊”も売ったということ、その80%は払い戻しで回収されたということ。そしてさらに、1970(昭和45)年の大阪万博でこの券が有効であったこと、そしてまた、実際に大阪万博の優待券と引き換えられた(券には交付印が押されて持ち主に返却された)ものが3,077件もあったということである。
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 空襲なんかもあったのに、みんなよく大事にとっているもんだ。
 そんなこんなの勝鬨橋は、でんでんむしと同い年。跳ね橋部分は大きなトラックが通るとガタピシ揺れるので少し不安だけれど、花崗岩の欄干やしっかりした石組みの橋は、まだまだそれなりの貫録を示している。
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dendenmushi.gif(2011/05/24 記)

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タグ:月島 勝どき
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58 勝どき。大江戸線が90度にカーブして方向転換する上では新しい高層マンションも続々と [月島界隈]

 一丁目から六丁目まである「勝どき」が、元々は「月島」だったことの痕跡は、歩いているといくらも見つかる。前にも書いたように、月島第二小学校も、銀行の月島支店も、月島消防署も、月島警察署も、月島アパートも、月島倉庫も、これらはみんな勝ちどきにある。
 もう、昔の話、銀座から勝鬨橋を渡って晴海通りを走っていた都電は、「月島□丁目」行きだったはずである。□が5だったか6だったかまでは覚えていない。また、門前仲町から清澄通りを走ってきた電車も同じく「月島□丁目」行きで、ここが終点だった。
 そんな時代には、この交差点は場末のかなり淋しいところだったように思える。月島川と新月島川の間の四角い埋立地と、新月島川と月島埠頭までのブロックは、冷蔵倉庫などが集まる豊海の延長で、倉庫会社がたくさんあり、その間にちらちら都営住宅などがあるくらいだった。
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 今、勝どきと名を変えたその地域の中心となる交差点の周辺は、マンションが建ち並び、それだけでは足りず高層マンションまでが、何棟も建ってすっかり大都会の風情を漂わせている。
  晴海通りと清澄通りが交差する北角には、サンスクエアという再開発ビルがあるだけだったが、西角にはURの高層マンションができて、周囲の風景を一変させた。
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 勝どき地区には、隅田川沿いにも高層のビルがあるが、やはり六丁目にタワーができたときには、ちょっと驚いた。59階のタワーが、しかも二本同時にできた。それは、どこからもよく目立っていたが、間もなく周辺にも同じような高層の建物が増えて、すでにさほどには突出した感じではなくなっている。
 このタワーの設計デザインの一部は、晴海トリトンと同じ人であるらしい。というのも、こちらも計画の途中から住友商事が絡むことになったので、うなずける。なるほど、歩いてみると、トリトンと同じような雰囲氣がある。
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 全体にカーブのラインが目立つ。それが風をはらむセールをイメージしたものだと後から聞いたが、それまでまったくそんなことまで想像していなかった。黎明橋のトリトンブリッジのガラス越しに見ると、なんとなくそんな気にもなってくる。
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 老都知事の執念のために、膨大な税金を使った東京オリンピックの招致活動中、候補地をめぐるIOCの視察団が東京にやってくるという数日前から、彼らが通るであろうコースの要所要所に、こんな花壇ボックスが置かれた。メインスタジアム予定地や選手村予定地への入口にもあたる黎明橋の上にも、それは置かれていた。
kachidoki11.jpgkachidoki12.jpg ちょうどその頃、黎明橋から250メートルほど離れた勝どき交差点の高層ビルは基礎工事も終わり、上へと伸び始めていたのであった。工事現場の隣にある月島第二小学校のシンボルであるレトロな時計台が、間もなく高いビルの谷間に沈もうとしていた。
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 都内中心部を6の字を描くようにして走る大江戸線は、勝どき付近がちょうど6の字の底部にあたる。ここが開業したのは、2000(平成12)年の全線開通時で、築地方面からの地下トンネルは築地市場の下から隅田川を渡り、新月島川の下で90度向きを変えてすぐ勝どき駅となる。
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 この“東京23区でいちばん最後に開通した地下鉄”は、いちばん深いところを走っているのでも有名だが、この付近では“はじめての地下鉄”だったので、そんなに深くはなくてもよかったが、やはり隅田川の河口付近をもぐるので…。
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 晴海トリトンに通う通勤客も増え、朝のラッシュ時は、駅も大勢の人で大混雑している。最初3つあった出入り口も、今では5つに増えたが、狭いホームは、身動きならないほどのときもある。高層マンションの住人が、さらに増えるので、勝どき駅の混雑は、ますますひどくなろう。
 大江戸線でいちばん混雑がひどいのは、ラッシュ時の東西線からの乗り換え客を詰め込んだ「門前仲町→月島」間で、180%近いという。だが、月島でいくらかこの値が減っても、ほぼこのすし詰め状態は勝どきまで続いている。勝どき駅で、晴海トリトンへ通勤する人々がドッと降りてやっとピークが解消する。
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 駅の出口の前に古くからある不動産屋は、昨年か一昨年ぐらいだったか個人名だった店の名を変え「勝どき不動産」を名乗るようになった。近隣の新しいマンションの間取り図がウインドウに掲げられ、若いカップルなどがよくのぞき込んだりしている。そこから少し離れた月島橋の袂には、カタカナ名の新しい不動産屋も開店した。
 「銀座まで何分」という、古典的なキャッチフレーズが、今も有効に使える勝どき周辺は、まだしばらく人気で、もう一軒ぐらい不動産屋も増えるかも知れない。
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 高層ビルは、長い日陰をつくりだす。道路拡幅工事も終わって、明るいサザンカの道になっていた晴海通りの勝鬨橋寄りは、いつの間にか陰の道になってしまい、ビルの切れ目の隙間にだけ日が当る。
 その先に、勝鬨橋が見えてくる。
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dendenmushi.gif(2011/05/21 記)

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タグ:月島 勝どき
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57 晴海トリトンスクエア。たくさんの思い出も残してくれた場所だが近年停滞気味で気になる [月島界隈]

 月島に仕事場を移したときには、晴海トリトンスクエアもすでにあり、都営大江戸線も開通していたので、毎朝「勝どき」駅から晴海通りの歩道を歩く大勢の通勤の人々の群れが、南西へ向かって帯のように流れていくのを眺めていた。
 少し年配の人も混じってはいるが、大半は若い人たちで、しかも女性の比率が非常に高い。高齢化とか言われているが、ビジネスの現場は、やはり若い人の世界である。
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 正式には「晴海アイランドトリトンスクエア」というが、ここは三棟の高層オフィスビルが立ち並び、北の端には都営住宅らしいマンションもくっついている複合商業施設である。住友グループの資本が入った再開発によるものらしく、店子も住友商事などがメインのようである。
 中小企業ばかりで大企業の経験がなく、自分でつくった会社は超零細。いわゆる“エリート”とは、ほど遠い世界を生きてきたでんでんむしには、多少は「あの人たちのように、IDカードをぶら下げてケータイをもち、社食でお得ランチを…」といった今風の、恵まれたビジネスマン、ウーマンへの若干の羨望がなかったとはいえない。
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 ちょうどその頃、NHKが『ロッカーのハナコさん』というオフィスものテレビドラマを放映していたのだが、これがこのトリトンスクエアでロケをやっていて、吹石一恵が、ともさかりえが自分がいつも歩いている場所で、今日はどこが映るのか…というおもしろさがあった。
 大きなくりっとした眼がチャームポイントの吹石一恵という女優が少し気になったのは、彼女の父親が近鉄の選手だったからである。テレビにかじりついて、江夏の投球の一球一球に祈る気持ちで手に汗を握っていた、あの時のことは、忘れられない記憶として刻まれていた。
 古葉監督率いるわが広島カープが西本監督の近鉄バッファローズと争った1979(昭和51)年の大阪球場での日本シリーズ第7戦、有名な伝説となった広島1点リードの9回裏、無死満塁の二塁走者が、吹石徳一選手だったのである。
 翌年、文藝春秋から創刊された『Sports Graphic Number』に、山際淳司の『江夏の21球』が掲載されると知って、発売日に書店に駆けつけたものだった。
 余談になるが…というのも、すべてが余談の積み重ねのようなこのブログではわざとらしい。この作品がマンガの原作によるということを、観ていたときにはまったく意識していなかったのだが、『JIN-仁-』の例を持ち出すまでもなく、最近のテレビドラマの多くが、自分で苦労しないでマンガから栄養分を吸収することでなりたっていることを、改めて確認したときにこれもそうだったのだとついでに気がついた。
 マンガ原作なら飛びついても、もし同じものがオリジナル・シナリオで持ち込まれたときには、テレビは目もくれないのではないか、おそらく…。
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 高層オフィスタワーは、X棟、Y棟、Z棟の3棟がトライアングルを構成している。三本の柱のその中央に、避難場所にも使えそうな広いスペースがとってある。その北側にもうひとつ中層のW棟があるので、この4つで「スクエア」と名付けたという説明がウイキペディアにはあったが、それはどーだろう。いささか苦しい、こじつけのようにしか思えない。XYZに異質なWを加えてムリヤリ線を引いてみても、いびつな変な形の四角にしかならない。それよりも、ここは素直に“広場”という意味で理解しておくほうが、どう考えてみても自然である。
 また余談だが、平日は毎日午前11時30分頃から、この広場の一角に、お弁当の販売ワゴンが並んでいた。トリトン内の飲食店がそれぞれ自慢?のお弁当を積んで集ってくるのだ。オフィスビルから出てきたたくさんの人たちが、自分の好みのワゴンの前に立って、袋をぶら下げて仕事場へ帰って行く光景が、なんともおもしろかった。社食がある会社ばかりではないのである。どうせ、どこかの誰かが横槍を入れたのだろう。昨年から、広場のお弁当ワゴンはなくなり、オフィスビルから遠いはずれに押し込められている。これでは、弁当の販売にも影響が出よう。
 W棟には、慈恵医大晴海トリトンクリニックがあるので、よくお世話になった。加藤先生、お元気でしょうか。また、広場の上には、第一生命ホールがあって、何度か演奏会にも行ったが、咳がひどくなってからは遠慮してきた。土日になると、楽器ケースを抱えた人たちが、大江戸線などで集ってくるのを、よく見かけた。 
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 オフィスタワーのほうは、無用の者が立ち入るわけにもいかないが、商業施設内の食べ物屋にもよく行った。ここに行き始めた頃には、「クイーンアリス」というフレンチには石鍋裕、「トゥーランドット」という中華の店には脇屋友詞と名物シェフがいた。それぞれが競い合って、施設全体を盛り上げていた。その頃の、晴海トリトンスクエアは、よそから来たお客さんを連れて行っても充分喜んでもらえるような場所だった。
 だが、こういう繁華街でもなく集客力があるわけでもない、後背地が広く肥えているわけでもない場所で、家賃を払って飲食店やその他の店をやっていくのはいかに大変なことか。素人が考えても、充分推測ができるのである。
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 残念ながら、数年したところで石鍋シェフも脇屋シェフも、店ごと引き連れて他の場所へ移って行ってしまった。
 施設運営会社も苦心をしているようだが、次々と出店者が入れ替わる。いつも利用していた人間の目から見ても、“60のショップ&レストラン”は、だんだんと魅力がなくなっているような気がして、まことに淋しい。
 建物の上にかなりな規模の緑地をつくって、四季折々の花や樹木が楽しめるのもよかった。これらの設計というかデザインというかも、なかなか凝ってはいるが、このデザインでは北の端の商店にまで、ただでさえそう多くない客を誘導するのはむつかしいな、と思っていた。案の定、今では何度も飲食店が入れ替わった後が、住友グループの保育所になったり、100円ショップになったりしている。
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 晴海トリトンの北西側、朝潮運河に沿った「さくらの散歩道」は、自動車は通らない広い道である。東京都中央区にとってこの道兼広場は、さまざまなイベントも行なわれる貴重なスペースになっている。
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 ここにレクサスのマークをつけたトヨタの販売店があるのは、一見不思議に思える。だが、晴海の見本市会場から帰る途上での昔の記憶を思い起こしてみると、トリトンのある場所には確かに都営住宅もあり、その脇にトヨタの店があった…。
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 晴海通りが朝潮運河を渡るのは黎明橋だが、そのそばにはトリトンブリッジという動く歩道の橋がある。こういう橋もめずらしいのではないだろうか。これは中央区の「区道」であるという。市道があれば区道があってもおかしくない。区道があることは、ここで初めて知った。
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 都会の中のこういうスペースは大変貴重で、街づくり、地域の魅力ポイントとして、今後も重視されるべきで、晴海トリトンはそのテストケースになろう。
dendenmushi.gif(2011/05/18 記)

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56 晴海大橋。「大橋」にもいろいろあるがこれは確かに大きいしまずほとんど人がいない場所 [月島界隈]

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 晴海運河は、木場の貯木場の名残りもある相生橋から南側の水域から始まり、アーバンドックの南西からは幅の広い水域がレインボーブリッジの東京湾につながっている。その中間で晴海と豊洲を結ぶのが、晴海大橋である。遠目に見るとその傾斜もさほどには思えないが、橋の袂に寄ってみると、これはもう山かと思うくらいの登り坂になっている。
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 2006(平成18)年に開通して、日比谷・銀座・築地・勝どき・晴海ときて、さらに豊洲・有明へとほぼ真っすぐに延びる道路がつながった。これで晴海通りが真っすぐ延伸するのかと思いきや、そうではなく首都高速10号晴海線という計画道路の一部になるらしい。晴海通りは、これまでどおり晴海三丁目から北へ折れ曲がり、春海橋から豊洲を経由して東雲までのようだ。
 車を運転しないでんでんむしは、道路にはあまり関心はないのだが、それでも都市計画道路というものが、どういう構想によってプランニングされているのか気になることもある。
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 ゆりかもめの「新豊洲」駅の周辺は、丸い変電所の建物のほか、まだ空地が広がっている。それはその南隣の「市場前」駅の周辺までずっと同じである。この付近が、東京都では築地市場の移転先として予定したものの、有害物質がでてきて大もめにもめている、問題の場所である。
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 問題が加熱する以前、東京ガスがあった付近を豊洲埠頭の南端まで歩いてみようとしたことがあった。その頃は、厳重な柵もなく、イケイケでブルトーザーやダンプが活動した跡らしい荒地を歩いていたのだが、遠くのプレハブの仮小屋のようなところから人が現われて、それ以上の進入を拒否されて引き返したことがあった。
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 ゆりかもめの「市場前」駅は、ここ数年毎年1日平均乗車人数は二十数人であるという。さもありなん。…っていうか、むしろ平均で毎日二十何人もいるというのが、ふしぎというべきか?
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 「新」をつけたいかにも安易な名称がいただけない「新豊洲」から、晴海トリトンスクエアのある三本ビルに加えて高層マンションも増えた晴海の間に架かる巨大な架け橋は、実に橋長は580メートル、最高地点での海面までの高さは24.2メートル。橋の端から端まで、歩いて10分以上かかる。その全貌は、なかなか写真にも収まりきらない。
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 おまけに橋は、南行き車線と北行き車線が完全に分離しており、二本の橋が並んでいるようで、その間にはなにやらコンクリートの大きな構造物がある。どうやら、これが首都高速10号晴海線につなげる計画のためであるらしい。
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 晴海大橋の南側には、豊洲大橋もほぼできているが、その後工事は中断したままで開通はしていない。これとつながる予定の環状第2号線のメドがたたないままの開通には、交通混雑と混乱が増幅されるだけだとして、開通凍結を求める請願が、月島連合町会など三つの地元団体から出されている。これも、築地市場の移転問題と、微妙な関連がありそうだ。
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 環状第2号線や首都高速10号晴海線がつながるときには、この晴海大橋はまたさらに姿を変えていることだろう。
 豊洲大橋の向うには、レインボーブリッジが延び、はるか西には季節にもよるがお天気に恵まれると富士山がよく見える。なにしろ橋が高いので、かなりの登り坂になる。都内各地にある「富士見坂」では、ビルが増えて見えなくなってしまったところも多いが、ここには新しい「富士見坂」ができている。(また、例によって富士山の見える写真が見当たらない。)
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 観覧車お台場方面の写真はあったが、このときは羽田空港の新滑走路ができる前で、“羽田ターン”のコースをとって飛行機が飛んでいる。
 この橋をジョギング・ウォーキングコースにしている人や、自転車で渡ろうとしている人もたまにある。車がいるのはしかたがないが、だいたいは行き交う人もいない。どこも人で溢れている都内では、まずめずらしい場所。
 それが、この晴海大橋なのです。
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dendenmushi.gif(2011/05/15 記)

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タグ:晴海 月島 豊洲
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55 豊洲。23区でいちばん新しい街がどんどん成長していくのを眺めるのもおもしろい [月島界隈]

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 石川島造船所が石川島から豊洲に越してきたのは、でんでんむしが生まれる少し前くらいの頃であったが、今の豊洲はその造船所の跡地を中心にして大規模再開発が進んでいる。
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 1960年代の始め頃の東京と、60年代終り以降からの東京を知っているでんでんむしとしては、どの街も長い間に当然に大きく変わってきて、その現地もいくらかはみてきた。
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 そのなかでも、ある程度大規模に様変わりしてきたのが湾岸地区であろう。お台場周辺についで、東京23区内で最も新しくできて急成長している街といえば、まずこの豊洲があげられるのではないだろうか。
 60年代頃の豊洲は、倉庫と工場と造船所など大きなブロックがつながり、その間を広くてほこりっぽい道路を、大型のトラックが黒い煙を吐き出しながら轟音をあげて走り回っていた。
 申し訳のような歩道と歩道橋はあったが、どこまで見渡しても店はおろか人影もまったく見えない、殺風景を絵に描けばちょうどこんな感じか…そんな印象が豊洲にはあったものだった。
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 今の豊洲には、かつての造船所のモニュメントをシンボルにした、新しい街ができている。“アーバン・ドック”という名もあるパブリック・スペースには、ドックつながりというわけか“ドッグ・ラン”までもあるところが今風である。複合ショッピング・センターには、近年流行のシネマコンプレックスもあれば、紀伊国屋書店や東急ハンズもあるというので、オープンの日にはさっそく見物に出かけたりしたものだった。
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 今では、それに隣接して中高層マンションなどが並ぶ。一方では、オフィスビルも新しくにょきにょき建ち始め、新しい街はさらに成長を続けている。古い街もいいけれど、こういう新しい街もおもしろい。いったい、だれがどこで、どんなことをして、こういうことになるのだろうか…。
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 運河沿いのテラスも、でんでんむしとしては隅田川テラスに続く格好の散歩コースになる。まだ全通はしていないが、広い晴海運河をめぐる新ルートは、この新しい街に寄り道をしたりするので、隅田川コースよりも時間がかかる。朝潮運河から廃線になった東京都港湾局の専用線が赤錆びて残る鉄橋に並ぶ春海橋を経て、日本ユニシス本社前から豊洲をぐるっと回って、「ゆりかもめ」に沿って晴海大橋を渡って晴海トリトン経由で月島へ…というコースは、もちろん逆回りも可である。
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dendenmushi.gif(2011/05/12 記)

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54 朝潮大橋と月島二丁目。日本ユニシス本社への通勤路は水門を見ながら朝潮運河を越える [月島界隈]

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 湯島から月島へ移ってきたときに、よく参考にさせてもらった月島の店情報のページがあった。月島は、もんじゃ以外ではほとんど数えるほどしかランチにも夜にも適当な店はないのだが、それだけに貴重な情報だったので、そこにあげてある店には軒並み行ってみたりしていた。そのページをつくっていたのは、豊洲一丁目の日本ユニシス本社の人たちであった。
 ユニシスといえば、TDLのパレードのスポンサー?としても有名だが、月島との関係が、当初はピンとこなかった。当時は、まだ豊洲にもあまり大きなビルは少なく、日本ユニシスのビルはよく目立っていたが、通勤にはあまり便利とは言えず、東京駅八重洲南口からの都バスか、地下鉄の豊洲駅か月島駅から歩くしかない。
 月島駅からは、豊洲駅からよりちょっと遠いし、歩く道もかなり淋しい。それでも、朝の散歩のときに、朝潮大橋の広い歩道のスロープを三々五々豊洲方向へ歩いて通勤に向かう人をよく見かけた。その人たちが、夜にちょっと寄り道するとなれば、それはやはり月島以外にはなかったのだろう。
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 「東京都道473号・新富晴海線」という名前があるらしい、隅田川を佃大橋で渡り、朝潮運河を朝潮大橋で渡る2キロちょっとの高架道路は、前にも書いたように東京オリンピックのときにできた。豊洲から晴海通りを経て東雲、辰巳あるいはお台場方面につながる道でもある。
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 朝潮大橋と並んで佃水門があり、晴海運河と朝潮運河をつないでいる。橋は広く長いが、東京都のポンプ場が佃三丁目に三角にせりだしているのでちょうど工事中の水門は狭くなっている。水門にも管理人が必要で、豊洲側には官舎のようなものもある。
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 朝潮大橋の晴海側には、橋へ上がる階段があるが、月島側から渡るには、初見橋から始まるスロープに入らなければ、道なりに来ても行き止まりになってしまう。
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 朝潮大橋の晴海側の袂にあった空地には、老人ホームができている。その南には晴海総合高校と首都大学東京晴海キャンパスが続き、そのさらに南にも区立の老人ホームがある。
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 23 朝潮橋の項でもふれていたのだが、晴海地区の土地利用とその推移には、なかなか他の地域にはあまりない独特のものがある。老都知事が執念を燃やして失敗した二度目の東京オリンピック誘致計画では、メインスタジアムまで晴海につくるつもりだった。
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 橋の月島側は、晴海とは対照的な土地利用の月島二丁目。まだ古い建物が残るが、近年それを利用したらしいこんなステーキハウスもできている。「山ぐち」という看板を掲げた店は、いまニュースを賑わしているあの焼き肉屋の変な店構えとは、大違い。夜しかやっていないので、行ったことはなかったのだが、なんとネット情報によれば「小栗旬ゴヒイキの店」なんだって。月島二丁目のイメージチェンジになるのかしらん。あ、ユニシスの月島ページ、最近見ていないけど、こういう月島にはめずらしい高級店も取り上げたのかなあ。
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dendenmushi.gif(2011/05/09 記)

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タグ: 月島
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53 「海水館跡」って。一部では有名らしいここもかつては景勝地であったというがその面影も何もない [月島界隈]

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 その名も「相生の里」という高齢者施設が、相生橋の袂にできて、南へ向かうテラスが少し延びた。同時に、堤防の下の道が整備されて、橋から行き止まりの小さな三角定規のような公園まで、通行できるようになったのは、比較的最近のことである。
 でんでんむしは散歩のとき、以前は小公園と相生橋の間の堤防下は、途中で民家の間の路地に降りて、清澄通りに戻らなければなければならなかった。おまけに、周辺の家々の菜園やら花壇やら盆栽棚やら果樹園やらが、堂々と占拠していた。いつもむりやり通り抜けていたが、およそ通路などではなかった。東京都中央区も、気がつかなかったわけではないだろうから、長い間公有地の私的占拠状態を黙認していたのだろう。堤防下はコンクリートで固めてあるので、それらの植物は鉢物や発砲スチロールやプラスチックの容器に土を入れて、育てられていた。その頃の写真もあったはずなのだが、見当たらない。
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 「相生の里」の川寄りのオープンスペースから、堤防下へ降りる階段もできていて、通行の邪魔になるものは撤去されてきれいになっていた。レッドカーペットのような道の脇、堤防の支えになっている桁の間には、少なくとも通行の妨げにはならないスペースがある。菜園や花壇や盆栽は、そこにきれいにまとめられていた。
 この通路を行くと、三角形の小さな公園で行き止まりになるのだが、その手前に道に降りる場所があり、そこが「海水館跡」なのである。
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 情報量の少ない今のネット地図では、当然のごとく無視されているが、かつて愛用していた東京の地図には、ちゃんとそれが表示されていた。そこで湯島から月島へシマを変えてやって来たときに、さっそく「いったいこれはなんだろう」と思って、佃三丁目の道が直角に曲がる曲がり角にあたる現地を訪ねた。その後も、散歩のコースによっては、よくこの周辺も歩いてきた。
 文学散歩マニアの間では、それなりに注目されてもいたようで、そこには明治学院大学の藤村研究部が建てたという堂々たる記念碑が、わずかなスペースをブロック塀に囲まれて立っていた。どうやら、母校の先輩を顕彰するものらしい。
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 ここに、明治38年から関東大震災で焼失するまで、「海水館」という旅館兼下宿屋があり、多くの文人なども訪れたというのだ。なかでも、島崎藤村、小山内薫、吉井勇、三木露風などは、ここに滞在して創作活動をしたと伝わっている。東京都中央区のネットでの説明には、「月島の 広き草原風吹きて 東の風の 涼しかりけり」という露風の歌が紹介されているが、吉井勇の歌にも、「冬の海 見ればかなしや新佃 海水館は わび住みにして」というのがある。佃島の延長埋立地は、“新佃”と呼ばれていた。
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 今、「海水館の記」という碑が立つ場所は、住宅の切れ目ですぐ堤防が迫っている。人の背丈よりも高い堤防なので、川が眺められるわけでもない。堤防の下で背伸びしても、豊洲のビルの頭が見えるだけで、どこをどうみてもそんなにありがたいような場所ではない。
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 ところが、「海水館」があった頃には、東京湾に面した新佃の海岸には松林が続き、晴れた日には遠く房総の山々を眺める風光明媚の地であったらしい。海に向かってせり出すような二階建ての建物からは、釣りもできたし、温泉こそなかったが一日中風呂が沸いていた、というのである。
 そこで、思い出していただきたいのは「月島」の名は“月の名所”だったからということである。41の初見橋の項で、大江戸線の改札口にある月をモチーフにした壁面も紹介している。「月島」の名は「築地」と同じく「築島」から転じたという説もあるが、両方正しいのであって、どちらか一方だけということではあるまい。
 おそらくは、その月の名所の観月スポットとしても、「海水館」は人気があったのだろう。
 藤村がここで書いたのは、『春』という作品である。ブンガクが苦手なでんでんむしも、藤村の代表作のいくつかは読んでいるが、これは読んでいない。『桜の実の熟する時』はまだよかったが、その続編のようなモデル小説であるらしいから、これから先も読むことはないだろう。
dendenmushi.gif(2011/05/06記)

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タグ: 月島
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